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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数688件
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クイーン中期において重要な位置づけとされるライツヴィルシリーズ。本書はその3作目にあたる。
戦争後遺症で神経を病み、ついに妻をその手にかける寸前にまでなったライツヴィルの英雄デイヴィー・フォックスの、自らを“生まれながらの殺人者”という烙印を無くすため、過去に起きたデイヴィーの父親の妻殺しの罪を晴らすのが今回のエラリイ・クイーンの謎解き。 しかしそのことは当時の事件に隠された真実を解き明かすことになり、フォックス家の忌まわしい過去を掘り起こすことになる。 さらにベイアードの冤罪を晴らそうと躍起になるエラリイだが、調べれば調べるほど被告側に不利になることばかり。 ベイアードの妻ジェシカが服毒したジギタリスは彼が供したグレープ・ジュースの中に入っており、それに触った物は彼以外いないのだ。エラリイは水道の蛇口、製氷皿に至るまで毒を盛った可能性を追求するがそれらは全て過去の捜査で立証されたものばかり。すなわち全ての状況がベイアードを犯人と示している。 これはなかなかに手強い謎だと痛感した。ものすごくハードルを挙げている。 読みながらこんな堅牢無比な謎をカタルシスを伴って解決してくれるのかと期待と不安が入り混じった気持ちを持っていた。 いやあ後半の二転三転する展開の読み応えといったら、数あるクイーン作品の中でもトップクラスではないか。地味な展開なのに読ませる。 エラリイが捜査を進めるたびに出くわす新たな証拠、それが逆にベイアードを有罪へと追い詰める物になったり、はたまた関係ないと既に証拠から除外されていた物がベイアードの運命のカギを握っていたり、実に読ませる。 そして二転三転する捜査の末、明らかになる真相とはなんとも云えない後味を残す。 世の中には知らなくてもよい真相もある。本書の真相はまさにそうだし、またこれはクイーン自身の手によるあの名作の変奏曲でもあると解釈できる。 さらに当初の問題であったデイヴィーの戦争後遺症が解消されるかどうかもまた不明である。色々なことが解決せずに残った作品だと云えよう。 帰還兵の戦争後遺症を扱った、クイーン作品の中でも珍しく社会的テーマを扱った作品だ。戦争後遺症は特にヴェトナム戦争でその問題が明るみに出たが、本書は同戦争が起こる前の1945年の作品(ヴェトナム戦争は1960年から1975年)。第二次世界大戦終結の年に発表されている。 従ってここで語られる戦争とはすなわち第二次大戦を指す。 この社会問題に本格ミステリを融合させる、つまり人間描写が欠点だった本格ミステリに人物像へ深みを持たせるために用いたファクターがこの戦争後遺症であったわけだが、それをさらにフォックス家という一家庭への悲劇へと昇華させる。 ライツヴィルシリーズは『災厄の町』でライト家の悲劇を、『靴に棲む老婆』ではポッツ家の悲劇を扱い、今回はフォックス家。この後の『十日間の不思議』ではヴァン・ホーン家の悲劇(悪夢と云った方が正解か)をと、一家庭をクローズアップした事件が特徴的だ。 しかし家庭内の悲劇というテーマはロスマク一連の作品を想起させる。しかしロス・マクドナルドが第1長編の『暗いトンネル』を書いたのが1944年、リュウ・アーチャーシリーズ第1作『動く標的』を著したのが1949年。全然クイーンの方が先なのだ。 どちらかと云えばチャンドラーの影響の方があったのかもしれない。つまりそれは街を描き、人を描くということだ。 読中しばしば感じたのは作中に現れるライツヴィルの住人達の面々と彼ら彼女らへ挨拶をし、思いを馳せるエラリイの姿。その快活な筆致はこれこそ作者クイーンが書きたかったことなのだろうと感じた。 そんな中でも今回悪辣ぶりが目立ったベイアードのお目付け役であるハウイー刑事とアルヴィン・ケインという薬剤師。 前者は事あるごとにエラリイの捜査を無駄なことを鼻で笑い、ベイアードに聞くに堪えない悪態、罵詈雑言の限りを吐き、更には自身の自由時間を確保するためにベイアードをベッドに手錠で縛りつけるという所業を行う。ベイアードを罪人として蔑み、エラリイを余計なことをしに来た余所者として面倒がる。 クイーン作品の中でもこれほどひどい刑事は見たことがない。何かこの頃クイーンの身辺で警察にまつわる不愉快事があったのだろうか? そして後者は女たらしで自分こそがライツヴィル一のプレイボーイでダンディだと勘違いしている輩。人妻リンダを手籠めにするために旦那デイヴィーと別れさせるために偽の証拠をでっち上げることまでする卑劣漢。本書ではことさらこの2人の卑怯ぶりが目立った。 しかし問題はこの作品が絶版で手に入らないことだ。これほど読ませる作品なのに。戦争後遺症に冤罪といった社会的テーマに、人間ドラマが加わり、更には本格ミステリとしてのロジックの面白さも味わえるという作品。ライツヴィルシリーズにおける家庭内悲劇を扱った作品としてぜひとも外せない作品だと思った。 今回偶々、市の図書館にあったので読むことができたが自分の手元に置いておきたい作品だ。近い将来の復刊を期待してこの感想を終えることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1984年発表のマレルの手によるこの作品は義兄弟である二人のCIA工作員ソールとクリスがその育ての親のある陰謀により、罠にはめられ、世界の諜報部員たちのお尋ね者になる物語である。
しかし物語の構造はスパイ小説の例に漏れず複雑で、単純な復讐劇にはならず、彼ら2人の能力の高さを買って利用しようとするKGB高官なども加わってくる。 そしてこの物語にはもう1つ特徴がある。それはアベラール・サンクションなる施設の設定だ。 このアベラール・サンクションとは、第二次世界大戦前の1938年にヨーロッパ各国が抱える諜報機関の要人が極秘裏に集まって定められた、各国のスパイのための不可侵状態の避難所のことを指す。このアベラールとは1118年に弟子を孕ませた廉で追い出され、その後避難所を設立したノートルダム大聖堂の参事会員ピエール・アベラールの名に因んでいる。 アベラールの避難所は世界に7か所あるが、その上級施設が安息の家と呼ばれる物。これは引退したスパイたちが行き着く場所でもあり、もしくは政治的に抹殺され、行き場の無くなった官僚たちの隠れ家でもあった。 そこは不可侵であり、娯楽、女性、美食と望む物は金さえあれば全て手に入る楽園なのだが、唯一ないのが自由。安息の家はその実求められない自由に絶望した者たちが自ら命を絶つ墓場でもあった。しかしその事実は歴代の所長は隠し通しておかねばならない。 アベラール・サンクションはスパイたちの安息の地を提供しながら、そこを一歩出ると再び命を狙われる修羅場と化す。つまりアベラール・サンクションはスパイたちにゲームオーヴァーを告げるシステムと云える。何とも皮肉な話だ。 こういった背景を踏まえて描かれるマレルのスパイ小説はアクション重視の、映像化を意識したかのような作品である。短い章立てで構成され、実にテンポよく物語が進む。 現在の、例えばフリーマントルとかは1章当たりの分量が20ページくらいか。対してこの『ブラック・プリンス』は平均10ページ未満と実に短い。そういえばバー=ゾウハーも短かったように記憶している。昔のスパイ小説は情報過多に陥らず端的な描写に終始して、スピード感を重視し、それがまたある種の緊張感を生み出しているように感じる。対してフリーマントルは権力者たちがいかに優位に立つかに腐心しており、お互いの権威を保つためのディベートで構成されているから1章当たりの分量が否が応でも増すのだろう。同じスパイ小説でも書き手によればこれほどまでに書き方が違うのか。 上下巻に及ぶこの物語には孤児院に育てられたソールとクリスがどのように腕利きの工作員として育てられたかも語られる。その中で強い印象を残すのは彼らに武道を指導する元柔道世界チャンピオン、石黒ユキオの存在だ。 彼は二人に武道の心得、すなわち武士の魂を説く。恥をかくならばいっそ死を選べという高潔なる精神をソールとクリスに教え込む。切腹などを教える辺りはおよそ新渡戸稲造の『武士道』からの引用だと推察され、いささか時代錯誤の感も無きにしも非ずだが、この石黒ユキオとの交流の件はトレヴェニアンの『シブミ』を連想させられた。 『シブミ』の発表が1979年。本書が1984年だから、この頃はもしかして日本の武士、侍、忍者のブームがアメリカでは興っていたのかもしれない。 さていささか陳腐な題名に感じられる題名『ブラック・プリンス』は薔薇の名前を指す。CIA高官テッド・エリオットは手塩に育てた弟子、CIA工作員に薔薇の名前を準えて呼んでいる。クリスとソールの二人は黒に限りなく近い深紅の花びらを咲かせる品種<ブラック・プリンス>に因んでいる。 しかし原題は“Black Prince”ではなく、“The Brotherhood Of The Rose”、すなわち直訳すれば『薔薇の兄弟』となる。つまり原題も邦題も同じモチーフで語られているのだが、もし『薔薇の兄弟』ならば少女マンガ風と捉えられるか、もしくは同性愛専門誌『薔薇族』に因んで、BL小説風に捉えられるかと、妙な誤解を生むという懸念があったのではないだろうか? 例えば中間を取って『ローズ・ブラザー』とすればちょっとはマシになったのではないだろうか。いや五十歩百歩か(この感想は解説やあとがきを読む前に書いているのだが、訳者があとがきで同じことを書いているのには思わず笑ってしまった)。 閑話休題。 しかしこのような昔のスパイ小説を読むことは案外収穫がある。なんせ冷戦時代の教科書では習わない各国の暗闘が知識として得られるからだ。 今回はMI-6の高官であり、さらにCIAの創立に手を貸しながら、その実ソ連のスパイだったキム・フィルビーの一連の事件が本書の登場人物に深く関わりがあり、それがこの物語の最も深い謎として語られる。 恥ずかしい話だが、このキム・フィルビーという人物は本書を読むまで全く知らず、調べてみるとかなり有名な人物で、そして彼の亡命は当時かなりセンセーショナルな事件だったことを初めて知った。 まさにこれは収穫以外何物でもない。教科書では教えられてない歴史の勉強とはまさにこのことだ。 しかしこのクリスとソールの奇妙な友情は義兄弟という生死を共に分かち合った者たちしか解らない世界なのだろうが、今ならば一種BL小説のテイストもあると云えるだろう。今復刊すると意外な方面から反響があるのではないだろうか。 育ての親エリオットへの憎悪が単なる憎しみと嫌悪から成り立たないソールとエリオットの関係性は、スパイ育成がその人物の人生の根幹まで深く入り込んでいく行為だと知らされ戦慄を覚える。幼き頃に刷り込まれた恩情はなかなか憎しみだけで乗り越えられるものではない。最後のエリオットの対決が大いに心理戦であったのは実に興味深く感じた。 しかし前時代的ではあるが全然今読んでも遜色ない。しばらくマレルの作品を読んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ディーヴァーのノンシリーズ作品。2年前くらいから訳出されると云われていた作品がようやく日の目を見た。
物語は唐突に始まる。 いきなり弁護士夫妻の別荘を二人組の強盗が襲撃し、あっという間に二人は殺されてしまう。そこに居合わせた弁護士をしている夫人の事務所で秘書として働いている本業女優のミシェルと、通報を受けて非番の身でありながら現場に一番近い所にいたことで駆り出された女性保安官補ブリン。特にブリンは頬を弾丸に打ち抜かれるという重傷を負う。 かつてこれほどまでに深手を負ったヒロインがいただろうか?しかも女性の命ともいえる顔にいきなり重傷を負うのである。しかしこれでブリンという女性保安官補のタフさが読者の脳裏に焼き付くのだから、やはりディーヴァーの創作作法はすごい。 追う者と追われる者の物語。しかしディーヴァーならではのサスペンス豊かな状況でありながら何とも奇妙な味わいを見せる。 それは追う側も追われる側もお互いのパートナーに奇妙な友情が芽生えてくるのだ。 逃げる側のブリンとミシェル。前者はタフで生きる術、そして相手を出し抜く術を知った女性だ。後者のミシェルは都会暮らしで女優の端くれでスタイル抜群で身に着けている服も高級品ばかり。およそ山歩きとは無縁の女性だが、いわゆる吊り橋効果が作用して同族意識が生まれてくる。 また追う側のハートとルイス。片や職人と仇名されるプロの殺し屋で片や軽薄な人殺しをゲームの一環だと思っている男。最初ハートはルイスの考えの甘さを見下していたが次第にルイスのサバイバル知識の豊富さに感心し、対等のパートナーとして意識するようになる。 特に二人の交流シーンは男の友情が次第に芽生えてくる読み応えがあり、とても殺し屋二人とは思えない。むしろ狩りを楽しむ男二人のようだ。何とも奇妙な味わいをディーヴァーは演出したものだ。 そして逃げる側のブリンは立ち止まることを自らに禁ずる。その心情を表すエピソードにかつてブリンが高速で捕まえた容疑者の台詞にこんなのがあった。 「そりゃ動いているかぎり、おれは自由の身なんでね」 追われる者の拠り所になる台詞なのだが、これに似た台詞をディーヴァーの作品で私は読んでいる。それはリンカーン・ライムシリーズ第1作の『ボーン・コレクター』だ。アメリア・サックス初登場の場面でアメリアは次のように独りごちる。 走ってさえいれば振り切れる。 とにかく前へ。これがアメリアの信条。この台詞が前述の台詞に重なる。ブリンはアメリアに似た性格の持ち主なのだ。 そして敵役のハートの造形もまた魅力的だ。その筋の界隈の者たちから“職人”の異名で呼ばれる凄腕の殺し屋ハートは自分の痕跡を一切残さずに任務を遂行する。しかしそれはライムシリーズに出てくるような病的なまでに神経質な性格ではなく、プロ意識から生まれる注意深さと、あくまで沈着冷静で相手の心理を読み、二手三手先を読みながら追い詰める、ゲームの達人ともいうべき凄みがある。そしてハートは次第にブリンのサバイバル術に感心し、恋心にも似た関心を抱くようになる。 (以下ネタバレへ) ▼以下、ネタバレ感想 |
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『どちらかが彼女を殺した』に続く、結末を書かずに読者に推理を強要するミステリの第2弾である。
前作が容疑者2人だったのに対し、今回は3人。しかもその三人とも自身が手を下したと確信している。 新進気鋭の詩人神林美和子と婚約した落ち目の文化人穂高誠。彼に対してある特別な感情を抱いている3人。元恋人の雪笹香織、マネージャーでほのかに恋心を抱いていた女性を穂高に盗られた駿河直之、兄弟愛を超えた愛情を注ぐ妹を今まさに穂高誠に取られようとする神林貴弘。この3人が今回の事件の容疑者だ。 本書のメインの事件の被害者穂高誠という脚本家はこれまでの東野作品の中でも一、二を争う卑劣漢だ。 女癖が悪く、気に入った女性に次々に手をだし、関係がこじれるとマネージャーの駿河に尻拭いをさせ、罪悪感一つ抱かずにまた新しい女性へ手を出す。そして婚約者神林美和子との結婚も脚本や小説では成功したものの、ヒットをいまだに生み出していない映画で話題となっている美和子の詩を題材に映画を作ることで寵児となろうとしている、非常に打算的な理由からだ。 この穂高誠の設定を読んで思い出したのは『悪意』に出てくる小説家日高邦彦だ。しかし日高がいわば作られた偶像だったのに対し、穂高は真性の自己中心男である。 つまり読者の共感を覚えるのには極北に位置する人物であり、私も含め読者の大半は彼が殺されたことに快哉を挙げたことだろう。そんな死んで当然の男を殺したのは誰かというのが今回の謎だ。 しかし唾棄すべき人間が被害者ならば、それを殺した犯人に同情を覚えるのが読者というもの。読者の側とすればどうにか捕まらずにいてほしいと奇妙な共犯意識が芽生えるのも事実。こんな状況で犯人捜しを読者に強いる東野氏の演出がなんとも憎らしい。 さて肝心の謎解きの部分だが、前回よりもレベルが上がっているというのが正直な感想だ。最初に読み通した時は全く解らなかった。『どちらかが彼女を殺した』の方は加賀が仄めかすヒントについて記述されていた箇所が解ったものの、今回の事件は加賀が謎解きの手掛かりとしたポイントがどこのことを指すのか、全く覚えがなかった。 う~ん、これでは東野氏の云うただ単純に字面を追っているだけの読者に過ぎないではないか。 この感想は文庫巻末に添えられた袋綴じ解説「推理の手引き」を読んだ後で書いているのだが、それを読んでも全く分からなかった。というよりもこの手引きでさらに新たな手がかりが提示され困惑しているといった次第だ。むむぅ、この謎は難しすぎる。 ところで加賀刑事の尋問方法は刑事コロンボのようだ。一旦引き揚げると見せかけてまた戻って質問を投げかける。しかも直前の会話とは脈絡のないことを唐突に。 それは恐らく刑事の尋問で張りつめた緊張の糸が、刑事が去ることで緩められる、いわば無防備な心に付け入って動揺を誘うためだろう。本当に怪しい人物、つまり容疑者ならば不意の質問に動揺し、理論武装の殻が破れるだろうからだ。 私は逆に加賀刑事の尋問方法からコロンボのそれの意義を知らされた。 また今回複数の刑事が事件に携わるが、やはりその中でも加賀は異色の存在だったことが解る。本書は容疑者3人の視点で語られる一人称叙述なのだが、彼らの目に映るのは加賀の動じない性格に決して臆さない、ある意味無粋なまでに容疑者に介入してくる態度だ。そして彼らをして加賀を他の刑事とは一癖も二癖もある刑事であると思わせている。 これはやはり容疑者側の視点で書かれた『どちらかが彼女を殺した』、『悪意』、そして本作で加賀が今までの東野作品で一歩抜きんでた存在の刑事であることを読者に悟らせることに成功しているだろう。それはつまりノンシリーズ物を多く書いた東野氏が当時唯一加賀恭一郎をシリーズキャラクターにするために肉付けしなければならなかった部分に違いない。 この辺はセイヤーズがピーター卿をハリエット・ヴェインと結婚させるためにあえてシリーズを重ねて人間臭く描いていった創作意図を想起させた。 といった横道感想を経て、私はウェブ上で開陳されるネット名探偵たちの真相解明に目を通した。 ・・・今回も惨敗。 ただし今回の真相はウェブ上の推理を読んでもいささか歯切れが悪い所があるようだ。本当の真相は作者のみぞ知るのだろうが、これを是とするか否とするかは読者次第なのだろう。 謎は解かれるからこそミステリと考える読者はもやもや感が残るだろうし、逆に謎は謎のままだからこそまたいいのだと考える読者は是とするだろう。 私は『秘密』の後に書かれた(発表された)作品として本書を捉えると真相は一つでなくてもいいのではないかという作者の声を感じてしまう。 『秘密』の感想で私は結局藻奈美は藻奈美だったのか、それとも直子だったのかはそれこそ作者が読者に仕掛けた秘密ではないかと述べたが、本書もまたその延長線上にあるように思える。 単純にミステリとして作品にちりばめられた手がかりと伏線を拾えば、犯人は駿河と行き当たるだろうが、そこに残る「何故」もまた本書で書かなかった部分なのだ。謎が犯人に、そして真相に収束するのが本格ミステリだが、拡散するのもまたミステリだというのがこの頃の東野氏のミステリ観だったのかもしれない。 いやあ、今回は完敗でした。 またいつかこのような作品を書いてくれることを臨む。なぜならこの趣向が一番本格ミステリの愉しさを味わえるのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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性欲に対する人間の異常なまでの欲望と情動をテーマに描いた短編集。
まず最初の「眩暈」の主人公は外資系のコンピュータ・メイカーで働く35歳の男の妄想を描いている。 電話回線を使ってのインターネット利用や、会社のインターネットを不正利用してエロ画像をダウンロードする、などとおよそ現代の会社のITセキュリティーの観点からは一昔前の感が否めないが、もちろん本書の本質はそこにはなく、35歳の、営業の激務に晒され、おまけに家に帰れば赤ん坊の夜泣きのために寝不足になり、かつて美しかった妻はその輝きを失いつつあるという倦怠期にある男の肥大していく、義妹への妄想にある。 果たして奈緒は隠れた痴女だったのか?そこを敢えて明かさないところが上手い。 続く「人形」は実に馳氏らしい、どろどろの因縁話だ。 なんともやるせなさが残る作品。ハッピーエンドなど望むべくもない陰鬱な設定と話だった。実に作者らしい。 馳作品と云えばやくざだが、「声」ではとうとうやくざが登場する。 主婦のちょっぴり危険な秘め事が、やくざと出逢ったことで転落の人生の第一歩を辿る。犯され、蹂躙され、女として人妻としての人格を否定され、堕ちていく聡子とやくざ俵の関係と、苛められていると疑いのある息子将人の友人との関係が最後にリンクするところに上手さを感じた。しかし、ホント救いのない話だなぁ。 そして締めの短編は表題作「M」。MとはもちろんSMのMのことだ。 話は単純に風俗、それもSMクラブに嵌った男がどんどん自分の貯金をすり減らし、ドツボに嵌ってしまうという、よくある話なのだが、これを馳氏は主人公稔に父親殺し、そして夜な夜な繰り広げられる夫婦のSM、鑑別所を出所した後に引き取られた叔母との性交の日々などを絡め、性と暴力の物語に仕上げていく。 まゆみへの愛に狂い、衝動的に人を刺していく稔の末路までを描かず、報われなさを描くことで稔をどん底に引き落とす。 全4編で構成された短編集。全てセックスに関する人間の情動を描いた作品だ。そして全てバッドエンドなのがこの作者らしい。 ネットに蔓延するエロ画像、秘密の出会い系クラブ、伝言ダイヤルを使った主婦売春、SMクラブとここに挙げられているのは誰もが街中で目にする光景だ。 電話ボックスのチラシや街中で配られるポケットティッシュの広告に書かれたそれらの情報に興味を持った方もいるだろう。好奇心に押されてちょっと勇気を出して踏み出すことで、いつもと違うディープな世界に迷い込む、そんな性の扉たちだ。 つまりは人間の、少しだけモラルを踏み外したいと思った時に、一番手っ取り早い方法が、これらセックス産業だと云える。本作の主人公たちはその陥穽に嵌り、人生を転落していく人々。ちょっと踏み外しただけで運命の歯車に巻き取られ、堕ち行くしかない状況へ追いやられる。それまでの長編で見せた転落人生劇場がこの約80ページの短編でも繰り広げられる。 馳氏のそれまでの作品は忌まわしい過去や血の絆に縛られた主人公がどんどん暴力的衝動を肥大させて、退廃への末路を辿るストーリーばかりだが、作品を重ねるにしたがってそれらの描写や行為もエスカレートしてきた。そして特に生々しいまでに描写が増えたのはハードSM、凌辱ポルノと云った感じの激しいまでの性描写。本書はその激しいまでの性への衝動が前面に押し出されている。 そして今までの作品と違い、主人公は他の民族の混血児などではなく、純然たる日本人。ただ彼ら彼女らは隣にいるようでいない人物でもある。 1話目「眩暈」の主人公はできちゃった結婚した35歳のサラリーマンで営業の激務に苛まれながらも帰宅後は妻の愚痴の相手に赤ん坊の夜泣きと疲労が募って仕方がない男。 2話目の「人形」は家族ぐるみで付き合いのあった隣人との間には両親同士が浮気をして性交を重ね、また娘、息子たちもまた性交を重ねていたという過去を持つ女性。 3話目の「声」では暇つぶしに始めた主婦売春が病み付きになり、やがてやくざに嵌められ、売春を強要される主婦。 4話目の「M」では両親が夜な夜なSMプレイを愉しみ、そんな父親を憎んで衝動的に殺害した青年。 こう並べると4話中半分は誰もが経験しそうな話でもあり、また片方は異常な家庭環境にいた者たちが壊れていく話である。 性と暴力、抑えられぬ情欲と衝動。お決まりの馳氏のカードばかりだ。ただ本書の主人公たちはいつもの作品と違って我々の身近にいそうな人々。 そう、ノワールは我々のすぐそばに潜んでいるのだというのだろうか?セックスという生物誰しもが持つ性欲をキーに馳氏は4つのノワールの扉を用意した。ここに書かれているのはいずれも救いのない話。同じように堕ちていくか、そうならぬようぬ踏みとどまるか?貴方ならどうする?と問いかけられているようにも思える。 今までの馳作品の中でも最も薄い作品だが、中に書かれた人間の激情はいささかも薄まっていない。これを単なるポルノ小説と捉えるか、暗黒小説と捉えるか。私はやはり何を書いても馳氏は馳氏だとその思いを強くした。 セックスとは男女を問わず獣になる瞬間であり、そこに本性が生々しく表せるからだ。やはりセックスもまた馳氏のノワールには欠かせない要素なのだ。 馳氏の、人間の心の闇への探究はまだまだ続きそうだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リー・オフステッドシリーズ3作目。
わずか10か月足らずでもう3作も訳出されたことに驚く。案外人気があるのだろうか? それはさておき、今回は海難救助サービスの仲介業者の役員研修に参加したリーが誘拐未遂事件と殺人事件に巻き込まれるというもの。その背景にはその会社が大きく発展するに至った1971年のある海難事故があった、というお話。 今まで妻シャーロットのロマンスミステリ風味が強かったが、本作では過去の因縁話が現代の事件に翳を落とすというアーロンの特色が色濃く出ている。 ロマンスの相手グレアムは警備コンサルタントの仕事が忙しく、世界中を駆けずり回っている身であり、物語の中盤に出てくるのみで大きく事件には関与しない。したがってロマンス色は薄目であり、逆に被害者である会社社長スチュアート・チャペルが、過去に同僚であるアンディ・ゴットリーブを見放した事件が意外な形で現代に因果を残していることが物語が進むにつれて明らかになってくる(とはいえ、終盤グレアムは大いに物語に関与し、また二人の関係に大いなる前進があるのだが、まあ、それはアーロン・エルキンズのスケルトン探偵シリーズでも見られる程度のロマンスだと云えるだろう)。 ところでこのスチュアートが危うく遭難しそうになって仲間のライフラインを切断したという行為は何かを想起させないだろうか? そう、少し前に巷で話題となったハーバード大学のマイケル・サンデル教授の正義についての講義の内容だ。 急変した気候のために船は岩礁にぶつかりそうになっている。そんな中、海に潜った同僚は合図を送るも一向に浮上してくる気配がない。このような窮状で果たしてどのように行動するのか?つまり二人の命を救うために一人の人間の命を犠牲にできるかという命題が示されている。 本書はなんとまだ前世紀の1997年の書。この手の話はミステリではよく取り上げられるといえばそれまでだが、22年も前の作品が現在話題になっている大学教授の講義とリンクすることに奇妙な縁を感じる。 そしてやはりエルキンズのキャラクター創作力とユーモアのセンスは素晴らしい。例えばこんな一節がある。 「角でばったり犬と顔をあわせた猫の反応を想像できる?」ペグはそう訊いた。「それがジニーよ」 この一瞬意味不明な比喩でなかなか頭にそんな猫が浮かばないのだが、エルキンズはまさに云いえて妙の人物を拵えてくる。どんな人物なのか?と知りたい方は本書にあたって確かめてほしい。 これほど面白く読みやすいコージーミステリなのだが、本格ミステリ要素が濃いのもエルキンズ作品の特徴。 以前からエルキンズの作品を私は素晴らしきマンネリと呼んでいるが本書もその例に漏れない。本書には時間が止まるような驚きや謎解きによって得られるカタルシスなんてものはないが、作品世界に浸ることで得られる読書の愉悦が確実にある。面白さ保証のエルキンズの次作を楽しみにして待つことにしよう。 ところで本書の邦題はあまり内容とは関係がないような…。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作は一度1979年に出版されたが改稿と短縮を余儀なくされたものであり、それを1994年にリライトされた完全版である。
一作目がヴァイオレンス・アクション小説ならば二作目の本書はパニック・ホラー小説と趣をがらりと変えている。 かつて鉱山町として栄えた人口二万人ほどの町、そこにはかつてヒッピーたちと村人との間に死者が出るという忌まわしい過去があった。そして町の人々から信頼を得ている警察署長、そんな町に起こった雄牛が血の一滴も残すことないまま切り裂かれる怪事が起こる。やがて同種の被害が住民たちの間にも起こっていく。 とまあ、典型的なハリウッド映画的パニック物語である。 デビュー作『一人だけの軍隊』も実際に『ランボー』として映画化されたが、マレルという作家は実に映画向きの題材を扱う。 狂犬病と思しき症状を呈した犬が見つかり、そして野獣のようになった少年が現れ、それを皮切りに襲われた人々が同じような病に侵され、徐々に恐怖が町全体を覆っていく。奮闘するのはデトロイトから来た警察署長ネイサン・スローター。 そこに絡むのが編集長の命令で過去を回顧する記事を題材を訪ねに来たしがないアル中の雑誌記者ゴードン・ダンラップ。 そしてポッターフィールドを長く統治する市長パーソンズ。 街の治安を守ろうと孤軍奮闘する者と、落ちぶれた雑誌記者から何かスクープを手に入れて再起を図るジャーナリストと1970年代に起きたヒッピーとの抗争という忌まわしき過去を吹っ切り、安定を維持しようとする者。 それぞれがそれぞれの事情を抱えながら、彼ら3人を中心に物語は進行する。 そんな物語にサブストーリーとして加わるのが1960年代のフラワームーヴメント。ヒッピーのリーダー、クイラーが1970年にポッターフィールドの山奥に50エーカーもの広大な土地を購入して理想郷を築く。 彼らはしかし村人たちに厭われ、次第に忘れられていく。このサブストーリーが物語の終盤に大きくかかわっていく。 さてフラワームーヴメントに翳を落とすのはやはりヴェトナム戦争だ。デビュー作『一人だけの軍隊』もまたヴェトナム戦争帰りの軍人の物語。マレルはヴェトナム戦争を自身の小説のテーマとしているようだ。 この辺は彼の作品を読み進むうちにおいおい判ってくることだろう。 さて元々1979年発表の作品だが、その頃の小説の特徴なのか物語の合間合間に挿入されるエピソードが実に色濃い。 それは端役にしか過ぎない登場人物がポッターフィールドという田舎町に住むようになった経緯の話だったり、その町の歴史だったり、町にある文化財にまつわる逸話、狂犬病に関する知識だったりと様々だ。しかもその内容が箸休め程度ではなく、突然に延々と10ページも割かれたり、はたまた1章を費やしたりとやたらに長い。しかしそれでも内容は濃いため、実に読ませる。まるでサーガを読んでいるような気分になる。 改稿と短縮を余儀なくされたのはこの辺のエピソードの数々だったのかもしれない。 特に作者の創作であろうポッターフィールドの成り立ちが非常に読ませる。恐らくどこにでも存在するアメリカの僻地の旧鉱山町がモデルになっているのだろうが、マレルはその歴史を克明に描く。恰も実在の町であるかのごとく詳細に書く。 そういえば『一人だけの軍隊』の舞台もアメリカのマディソン郡にある片田舎の閉鎖的な町が舞台だった。そんな排他的な土地に紛れ込んだヒッピーという得体のしれない存在は何も危害を加えなくとも住民たちにとっては脅威だった。 そんな相互理解が及ばない状況だったからこそ起きた殺戮の幕開け。つまりマレルは閉鎖的な町も物語の主要因として考えているのだろう。だからこそできる限り詳細に描くのか。 本作で印象的なのは主人公の警察署長スローターだ。“屠殺者”という意味のラストネームで、大柄な体躯を持ち、デトロイト警察を引退して牧場を開こうとポッターフィールドに引っ越し、結局警察職に復帰した男。射撃の腕前は一流で、部下の信頼も厚い。いわゆる理想の上司なのだが、彼が臆病であることをひたすら隠しているところに興味を惹かれた。 彼はある事件(コンビニ強盗を働いた少年に散弾銃で撃たれ、瀕死の重傷を負った)で恐怖心を抱き、実は警察稼業を辞めて山奥で牧場でもやろうかと逃げてきた男だったのだ。しかし警察官しかしたことのない男には畜産業は無理で、周囲に求められるがままに警官に復帰したのだった。そんな彼の本当の姿を知られずに今までタフで理解ある、部下からの信望の厚い警察署長を務めてきたのだった。 つまりこのようなパニック小説で主役を張る人物が全て万能ではないのだということをマレルなりに皮肉っているのかもしれない。 さて町を恐怖のどん底に陥れた未知の狂犬病。その発祥の源はヒッピーのリーダー、クイラーが築いた理想郷のさらに奥、昔鉱山町だった跡地にあった。一念発起した住民たちはそこを一掃しようと乗り出していく。さらに途中にリーダーシップを放っていたスローターは市長パーソンズの策略で留置場に入れられてしまう、となかなか面白い展開を見せる。 (以下ネタバレへ) ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーン後期の作品だが、ダイイングメッセージと意外な犯人、と少しも本格スピリッツは衰えていないことを示した佳作。
複数の女性を浮名を流す、石田○一のようなジゴロ、カーロス・アーマンドがいかにして前妻グローリーを殺したか?というのが今回の事件。 このカーロスがものすごい女たらしであり、さらには何故かほとんどの女性は彼の手に落ちてしまうという凄腕テクニックの持ち主。そして彼の殺人計画の片棒を担いだのがすみれ色のヴェールを被った謎の女。クイーンと相棒のスコットランド人の私立探偵ハリー・バークは事件のカギを握るこの「幻の女」を探し出そうと躍起になる。 つまり本書はいつもと趣向が変わっている。主犯が明らかになっているのだが、実行犯である共犯者を探し出すという物語なのだ。しかしこの趣向は物語が終わってから気付かされるのであり、今までのクイーン作品を読んだ読者ならば犯人捜しがメインだと思わされるのだ。 例えば『災厄の町』などの諸作に見られる価値観の転換という手法をクイーンはよく取る。従って今回も早々に判明する夫の妻殺害計画もまたこの価値観の転換により覆るのではないかと思わされるからだ。往年の読者でさえも自らの作品傾向を利用してミスディレクションする、というのは穿ちすぎだろうか? さらに今回は今までの作品で見られた趣向が織り交ぜられているにも気づかされる。トリックに関してもそうだが、それは他の作品を読んでない読者の興を削ぐのでやめておくが、特に近似性を感じたのが『ドラゴンの歯』。今回タッグを組むハリー・バークは『ドラゴン~』で相棒を務めたボー・ランメルだ。 両者が事件の関係者と恋に落ちるところなどもそうだが、更によく読めば今回の登場人物の名前の一部が『ドラゴン~』でも出てくるところなんかもそうだ―容疑者“カーロス”・アーマンドと執事のエドマンド・デ・“カーロス”―。 さらには被害者グローリー・ギルドの姪ロレット・スパニアが公演をするローマン劇場は第一作『ローマ帽子の謎』の舞台ローマ劇場と思われるし、物語の終盤に登場するJ・J・マッキューは初期クイーン作品で語り手を務めたJ・J・マックであろう。つまりこれは原点回帰の作品ともいえる。 『盤面の敵』(これは純粋にはシオドア・スタージョンとフレデリック・ダネイの合作だが)と本作と晩年のクイーンはいわゆる後期クイーン問題を経て、改めて原点に戻ったパズラー志向を目指したようだ。それには初期の荒唐無稽さはなりを潜め、中期から後期にかけて人の心の謎を織り交ぜ、地味ながらもあくまでロジックで事件を解き明かすことを追求している。この頃、ようやく自分の足元を見つめて自らの書きたい作品を書くことを再認識したのではないだろうか? しかし、とはいえ今回の真相には首を傾げざるを得ない。 またクイーンはダイイングメッセージが好きでよく作品で使われているが、本作のメッセージは実にシンプル。なんせ“face(顔)”の一語。しかもなんともありふれた単語だ。このメッセージに込められた意味はしかし実に深い。 この謎解きを読んだ時に、いくらなんでも死の間際にここまで機転を利かせたメッセージを残せるだろうかとはなはだ疑問だったが、ここで物語の初期に登場する同じ単語が浮かび上がる日記の白紙のページに浮かび上がる“face”の文字という伏線が生きてくる。 さて今回やたらと当時の風俗を忍ばせる固有名詞が頻出する。NASAやビートルズ、ジョーン・バエズ、プレイボーイにポップ・アート、etc。 もしかしたら今までもこのような固有名詞は出てきていたのかもしれないが、自分が知っている、いや地続き感を覚える固有名詞は初めてである。それまではるか昔の作家だと思っていたが、ここにきてようやく私の時代に繋がった、そんな思いがした。 しかし余談だがかつてのクイーン作品で女性のバストに注目した小説はあっただろうか?いやに出てくる驚くべき胸のふくらみという描写。これも当時活況を呈したグラヴィアの流行なのだろうか。前述の固有名詞の頻出と云い、今まで以上に現代風味に溢れた内容になっている。 シンプルな謎、そしてたった一つの殺人事件ながらも謎解きは複雑で、おまけにアイリッシュを髣髴させる「幻の女」探しと、晩年の作品ながらもミステリ趣向溢れる作品なのだが、ネタバレに書いた理由により、肝心の真相に納得がいかなかった。 本書巻末に添えられた著作リストによればクイーン作品はあと4作。そこに私が感じるミステリがあるのか。期待してみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今までは東京の裏社会に暗躍する外国人の世界を舞台にしていたが、今回は逆に異国の街の暗黒世界に身を置く男を描き、生き抜くために喘ぐ姿を活写する。
それまでに発表されていた作品と180°設定と舞台を変えたのが本書である。 そして扱う世界はなんと台湾野球界。しかしそこは馳氏、ただのスポーツ小説を書くはずがない。 彼がテーマに選んだのは台湾野球にはびこる八百長。野球賭博を牛耳る黒道というマフィアが野球選手のみならず球団関係者をも買収して八百長―放水というらしい―を取り仕切っているのが台湾プロ野球界の現状らしい。 そしてその八百長の元締めを務めるのが日本人投手加倉。かつて鳴り物入りでプロ野球チームに入団し、ノーヒットノーランも達成したが、肩を故障してから調子を崩し、引退後会社を興すも倒産し、莫大な借金を抱えて誘われるまま台湾野球に逃げ込んだ男だ。 その加倉がどんどん人殺しの螺旋に堕ちていくのが今回の話。 加倉は頑なに自分が八百長に加担していないと主張するが、次第にそれが通じなくなっていく。どうにか自分が潔白の身であることを信じ込ませるために足掻くが足掻けば足掻くほど泥沼に陥り、一人、また一人と自分の立場を危うくする人を殺さざるを得なくなる。 しかし加倉が落ちぶれていながらも、そして実際に八百長に加担していながらも世間向けには無実である姿を死守しようとするのは何故だろうか? それは台湾にいる日本人野球選手で八百長に加担している者がいないからだ。日本人選手は台湾野球界の実状に絶望し、帰国してしまう。加倉は唯一台湾野球界の暗部にどっぷり浸かった人間なのだ。 そんな加倉が潔白の身であろうとするのはひとえに日本野球界の名誉を汚さずにおこうとする意地なのだろう。かつて大型投手として期待されながら故障によって日本球界を去らざるを得なかった加倉の心に最後に残った一握りのプライド。それは彼が日本人の野球選手だということなのだろう。 その本人さえも気付かなかった思いがずしりとのしかかるのは所属チームの社長から解雇通告を受けた時だ。水商売の経営、八百長の元締め、そして殺しと野球以外での活動が忙しかった加倉が解雇通告を受けて激しく動揺する。 自分から野球を取ったら何も残らない、と。野球こそ彼の拠り所であり、全てであった。だから自らプロ野球を汚しておきながらもどこかで大切な守るべき部分であったことに気付かされるのだ。 ただ刑事の王が加倉を手下として使うことになった理由について納得がいかない。刑事の王は物語半ばで加倉が生き別れた弟邦彦だったことが解り、王東谷は加倉の元母親の再婚相手だったことが判明する。 それ自体は特に驚きがない。王の執拗な加倉への憎悪は過去に大きな禍根を残したことによるものだろうと推察できたし、かつて元黒道だった王東谷が献身的に加倉の助けになるのも恐らく過去に加倉にまつわる何かがあっただろうことは容易に推察できたからだ。 しかしその後王が加倉の話を全部聞いた上でをスパイにして徐の情報を手に入れようとするのが解らない。理由として王は逮捕した犯人が実は兄だったと判明することで自分の刑事生命も危うくなるからだと述べているが、初めて加倉に逢った時から王自身はそれを知っていたはずである。その上で加倉が八百長に関わり、また俊郎を殺した犯人であると疑い、逮捕への執念を燃やしていたのはどうにも矛盾を感じる。 この辺については物語の終盤で何か説明があるのかと思っていたが、特に明確な答えには行き着かなかった。せいぜい憎悪する徐を始末せんがために利用したというぐらいしか語られなかった。 今回最も印象に残るキャラクターは加倉の通訳であり、良き理解者でありながら元黒道だった王東谷だろう。平時は善人ながらも窮地に陥った時は落ち着いた態度で迅速に対処する。そして自分が元黒道だった過去を忌まわしく思いながらもその過去に振り回される。 かつて山村輝夫という名だった在日台湾人の彼は加倉を支え、また加倉を助けるのに協力を惜しまない。その理由は物語半ばで判明するが、何よりも彼が植民地時代に受けた日本人教育の影響で日本人の精神をこの上なく尊敬しているのが彼の最たる特徴だろう。大和撫子と結婚し、陛下のために益丈夫を育てることが夢だったとまで述べている。 小林よしのりのゴーマニズム宣言シリーズの『台湾論』に詳しく述べられていたが、台湾人は日本の植民地時代に当時台湾に住んでいた日本人に生活を豊かにしてもらった経験があり、新日派が多い。その後中国からの侵略を受け、台湾には中国からの移民組、外省人と生粋の台湾人、本省人の対立は根深い。王は本省人でしかも日本人の精神を学び、自らを天皇の民、皇民と誇りを持って自称する。そんな人物がかつては黒道という台湾やくざの一味であったというギャップ。 それは彼の純粋さ故だ。日本人を尊敬し、日本人でありたいと願うばかりにいざ結婚した日本人妻が子供の産めない身体だったと知ると烈火のごとく怒り狂い、暴力も辞さない。 題名となった夜光虫とはつまり台湾の闇に蠢く加倉、王東谷、王國邦、徐栄一ら手を赤く染めた人たちを指しているのだろう。しかしそれはいつもの物語設定であり、この物語だけに当て嵌まる題名ではない。 登場人物、舞台設定などはリアルであるのに語られる物語がいつも同じというのは非常に勿体ない。馳氏の新しい物語を期待する。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ハリウッドアクション大作『ランボー』の原作である。
同映画が公開されたのがまだ小学生だった頃。当時ワクワクしながら観たのを覚えている。とにかくアクションがすごいというだけで観たため、詳細なストーリーや設定は頭に入っていなかった気がする。 さてその原作がマレルの手によるものだというのは知っていた。発表されたのは映画より10年も前の1972年。なんと私の生まれた年である。 映画化から37年経って読んだ原作。なんだか感慨深いものがある。 一読して驚いたのはランボーの敵役の警察署長ティーズルがいわゆる田舎町を牛耳る悪徳署長などではないことだ。 ランボーを町から追い出そうとしたのも身元不明で怪しい身なりの人物が町をうろつくことで住民が不安を覚え、治安が乱れるのを防ぐためだし、またランボーを追うことになったのも彼が目の前で自分の部下を殺したからだ。また彼は朝鮮戦争を経験した後に警察署長としてマディソンに戻ってき、警察機構として機能していなかった署の改善に尽力してきた人物でもある。 つまり至極まっとうな人物なのだ。 片やランボーはヴェトナム戦争で捕虜になり、そこから生還した元グリーンベレー。名誉勲章も得たが捕虜になった時の経験で心が壊れた状態になっている。 従って署に運ばれた時に髪を切り、ひげを剃られる時に捕虜で受けた拷問を思い出し、とうとう耐え切れなくなり警官から剃刀を奪って殺害し、逃亡してしまうのだ。 そこからはグリーンベレー時代のことを思い出し、人を殺すことへの罪悪感も薄らぎ、逆に追ってくるティーズルら一味を皆殺しにすることを決意する。 そう、通常の物語構造から云えばランボーは元グリーンベレーでヴェトナム戦争の時に抱えたトラウマでおかしくなった殺戮マシーンであり、それを追い出そうとする警察署長ティーズルらは彼のターゲットとなり、善と悪で云えばティーズルが善、ランボーが悪なのだ。 これは映画の構造と全く逆で驚いた。まさに価値観の転換である。 そして単なる一人対多勢の戦闘小説に終始しない。ランボーが生き抜くためのサヴァイバル小説でもあり、はたまた冒険小説の要素も兼ね備えた内容になっている。 そして読中、しきりに頭を過ったのはレンデルの『ロウフィールド家の惨劇』だ。この全く色合いの違う作品だが、物事の発端は全く以て同じだ。 先にも書いたが、ティーズルは不審者である男を尋問し、町から出るよう警告したのだが、相手が何者であるかを知らなかった。というよりも理解しようとしなかった。 だから彼は通常犯罪者に行うように裸にして、洗浄したり、個室に入れて取り調べをしようとした。しかしランボーはヴェトナム戦争で捕虜としてひどい扱いを受け、閉所に対して深いトラウマを持っていたため、それが彼の生存本能を引き起こしてしまった。 片やランボーは署長の警告を無視した。彼はそれまで何度も行く先々で同じような仕打ちを受けており、うんざりしていた。彼は戦争の英雄であり、ティーズルのような小物に指図されるような男ではないと思っていた。そして彼は逃げ出した時に元来持っていた闘争本能が目覚め、自分がどれほど強い男なのかを知らしめようと思ってしまったのだ。 お互いがそれぞれの思惑を通そうとしたが故のボタンの掛け違え。それが大量殺戮を生み、1つの町を殲滅する寸前の大事にまで発展してしまうのだ。 最終的にこの小説はあらぬ疑いを受け、いわれのない虐待を受けた戦争帰りの男の復讐譚ではなく、町の治安を守るために不安要素を排除しようとした町の署長が一人の男によってそれまで築き上げてきた地位や安定、全てを失う物語であり、ヴェトナム戦争で捕虜となって奇跡的に生還した男が再び闘争心を甦らせ、無敵の戦士になる物語であるのだ。 そう、これはランボーとティーズル2人の物語なのだ。あまりにも有名になってしまった映画のためにこの作品の本質は多くの人間が誤解を招いてしまっているように感じる。斯くいう私もまたその一人なのだ。 しかし映画と小説は別物だという主張もある。ハリウッドはこの作品の設定を借りて映画史に残るアクションムーヴィーを作り、成功した。 作者の意図や希望がそれに合致したかどうかは寡聞にして知らないが、それもまた良作故の功罪か。 『ジュラシック・パーク』がクライトンの作品から一人歩きをしたように、この作品にもまたそのような道を辿ったのかもしれない。 とはいえ、続くシリーズ2作、3作もマレルによって書かれているのだから上のような判断は早計というようなもの。果たしてマレルの真意はどこにあったのか。 これについてはそれらも読んで判断していこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ガリレオこと帝都大学理工学部物理学科第十三研究室助教授湯川学が活躍する探偵ガリレオシリーズ。
福山雅治が主役でドラマを演じ、一世を風靡し、その後現在に至るまでの東野ブームを作った『容疑者Xの献身』へと続く加賀恭一郎と並ぶ東野圭吾のシリーズキャラクターだ。これはその湯川の初登場作となった短編集。 まず冒頭の「燃える」はいきなり発火して焼死した男の謎を湯川学が解き明かす。 トリックは比較的単純でミステリを読み慣れた者ならばすぐに解るに違いない。しかし犯人については非常に上手いミスディレクションがなされている。冒頭と途中に挟まれるエピソードが叙述トリックになっているのが憎い。 また町工場に置かれた製作機械について湯川が色々と会話するシーンは久しぶりに元エンジニア東野氏の面目躍如といったところか。 次の事件「転写(うつ)る」ではリアルなデスマスクが中学の文化祭で発見され、それが失踪した歯科医の物だと判明する。 これは半分当たり、半分外れたといったところか。 結末はオカルトチックにまとめられていてなかなか面白い。 続く「壊死(くさ)る」では風呂場で怪死した事件を扱っている。 物語は倒叙物として描かれる。同居を迫るスーパーの社長を嫌悪するホステスが自分に惚れる男の話に乗って殺人を犯す。しかしその犯行方法が解らないのが通常の倒叙物とは違っている。 さて次の「爆ぜる」はいきなり海水浴場の沖合でビーチマットに乗った女性が爆死するという衝撃的なエピソードから始まる。 この事件の構造は複雑。まず最初の犠牲者は湘南海岸の沖合で爆死する。次に一人暮らしの男性の変死体がアパートで見つかる。第2の被害者は帝都大学のOBで就職していた会社を辞め、斡旋した教授や大学に只ならぬ感情を抱いていた。 この2つの事件が意外な糸で結びつくのだが、これは最初の被害者の女性が帝都大学で事務をしていたことが終盤になって解るのはアンフェアだろう。 最後のエピソードは「離脱(ぬけ)る」。幽体離脱した少年がたまたま殺人事件の被疑者になった男が停めていた車を見たという不思議な現象を扱っている。 これも科学の実験で証明される。正直この作品が一番どうやって解決するのかが解らなかった。そしてその種明かしも知らない現象だった。しかし本作はそれにとどまらず、フリーライターを生業にしている父親が息子の現象を利用してひと山当てようと画策する卑しい心がテーマとなっている。 天下一大五郎シリーズ『名探偵の掟』、『名探偵の呪縛』の後に刊行されたのが本書。その内容はバリバリの理系本格ミステリ。前述の作品で本格ミステリへの訣別宣言とも取れる文章を書きながら、直後に発表された。 さて本書の中で最も古いのはオール読物1996年11月号に発表された物。片や『名探偵の掟』収録作品で最も新しいのは1995年に書かれており、『名探偵の呪縛』は1995年10月に書き下ろしで発表されている。 ん? ということは訣別宣言の後に書かれていることになる。つまり『~呪縛』で書かれた作者自身と思われる主人公の発言は本格ミステリからの訣別ではなく、もう1段上を目指した本格ミステリを書くという宣言だったのかもしれない。 さてそんな東野氏が目指した本格ミステリ連作短編とはいかなるものか。 それは科学の現象を利用した犯罪を暴くという物。 事件の不可思議さの反面、それぞれの犯行の動機は実に普通の他愛もない。これらは人の心の謎へミステリの要素をシフトしていった当時の東野氏にしてはびっくりするほど普通のミステリである。 しかし本書の狙いはそれらの動機ではなく、理工学系の大学教授を探偵に配して科学の知識を利用した犯行方法を解き明かすことに焦点を当てている。つまりHowdunitを追求した作品集なのだ。 さて本作はこの後続く湯川学シリーズ、いやガリレオシリーズの第1作目。いわばお披露目用の短編集といった趣。従って読み心地も軽く、ミステリとしては佳作といった内容だろう。 しかし奇妙だったのはガリレオの由来が明確に書かれていないことだ。突然最終話の「離脱る」で草薙刑事の同僚、上司がガリレオ先生と綽名をつけて呼んでいることが判明する。 当時はあまり深く考えていなかったのかもしれないが、上述したようにガリレオシリーズは東野作品を代表する柱の1つになっているから、この呼び名の由来はきちんと補完してほしい。 さて傑作『容疑者Xの献身』に向けてガリレオシリーズを読んで同作をもっと深く楽しめるために次の『予知夢』も読んでおこう。 最後に全くの蛇足だが、本書の解説は佐野史郎氏。彼の文章によれば主人公の湯川はなんと佐野氏がモデルだったとのこと。 現在では福山雅治がガリレオ像を作ってしまったが―不思議と私は読書中脳内変換されなかったが―、当時ドラマ化されたときの佐野氏の心境はいかなものだったのか? それは触れると野暮というものであろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のカー作品。しかもハヤカワ・ミステリでしか刊行されていなかったバンコラン物の作品で、さらに新訳と来ている。
海外ミステリ不況が叫ばれる今、このような慈善文化事業めいた出版がなされようとは思わなかった。東京創元社の志の高さを褒め称えたい。 本作はまだカーの2大シリーズ探偵HM卿とフェル博士が出る前の1932年の作品と、最初期のものだが、物語は実に深く練られている。 まず冒頭の半人半獣サテュロス(上半身が人間の男性で下半身が山羊という牧神パーンに似た風貌)の蠟人形に抱かれるように死んだ女性の遺体の発見というカー得意の怪奇的演出から始まり、その蠟人形館が身分の高い紳士淑女たちの密会クラブへ通ずる秘密の進入口へとなっていることが判明することで淫靡な趣を呈し、さらにはその経営者の一人である暗黒街の大物エティエンヌ・ギャランへつながっていく。 このギャランがかつてバンコランに痛めつけられ自慢の容姿を台無しにされた因縁の相手であり、ライバルの登場と物語の展開がドラマチックで淀みがない。 また語り手のジェフが仮面を被って秘密クラブへ潜入するというサスペンスも加味され、なんとサーヴィス精神旺盛な作品かと感嘆した。 特にバンコランが蠟人形館の館主オーギュスタンを呼び出したがために蠟人形館がいつもより早く閉まってしまい、そのためにいつも蠟人形館からクラブへ出入りしていたジーナが入れなくなって躊躇することになり、彼女が蠟人形館に入り込むことで事件を複雑化していく。 まさにシチュエーションの妙。 後の『帽子収集狂事件』、『皇帝のかぎ煙草入れ』などの傑作に通ずる偶然ゆえに起こった不可解時がこの時すでに確立されている。 事件の発端となったオデット・デュシェーヌ殺しは早い段階で事の真相が明らかにされる。 そしてクローディーヌ殺しの真犯人は実に意外だった。 そしてこの真相を知った後でバンコラン達がマルテル大佐邸を訪れた第9章を読み返すと実に全ての内容が腑に落ちることになっている。 これを推理の材料として繋げるのは至難の業だが、カーはあくまでフェアであったことが解る。 仲良し三人組と思われた関係には実は陰湿な感情が蠢いていたこと、名家のお嬢様クローディーヌが家の風習を嫌悪し、自由な放蕩生活を手に入れたがゆえに同じく名家の出であるオデットが名家の規律を重んじ、人好きのするお嬢様であることに対する嫌悪、一方で名家を重んじる厳格な血筋の持ち主、そして富裕層の密会クラブである色つき仮面クラブへの秘密の出入り口の役割を蠟人形館が担っていたこと、そしてその蠟人形館にはあまりにリアルな蠟人形が数多く展示され、その中には恐怖の回廊と呼ばれる古今の有名な犯罪事件の1シーンが展示されていたこと、そういった要素が複雑に絡み合い、今回の事件に至る。 振り返るとなんと重層的なプロットだったことかと改めてカーの才能に感嘆する。 しかしとはいえ、主人公のバンコランにはどうも好感が持てない。 元々メフィストフェレスのような風貌をした冷血な予審判事という触れ込みで登場しているが、無断で家宅捜索したり、盗聴器を仕掛けたり、更には警察に嘘の情報を流して誤導したりとやっていることは現在ならば不当捜査として捜査は無効になり、逆に告発されるほど滅茶苦茶である。 悪漢判事もここに極まれり。どちらが犯罪者か解りやしない。これが今回の評価に大いにマイナスになった。 さて東京創元社は以前からカー作品の新訳改訂版の文庫刊行を進めていたがこれはまだ続くようだ。本当に素晴らしい。 これからもカーのみならずクイーンやウールリッチ、ロスマクなど、このまま絶版で埋もれるにはまことに惜しい巨匠たちの名作を続々と新訳で出してほしいものだ。 頑張れ、東京創元社! ▼以下、ネタバレ感想 |
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『ウォッチメイカー』で初登場した尋問の天才キャサリン・ダンスが主役を務めるスピンオフ作品。とはいえこの後彼女が主人公の『ロードサイド・クロス』も刊行されているから、新シリーズの幕開けといった方が正解だろう。
新シリーズの主人公をあらかじめ他のシリーズ作品にゲストとして登場させる、このディーヴァーの目論見は当たっていると思う。他のノンシリーズの作品に比べてはるかに物語に移入しやすい。 ダンス以外は全くの初対面の人物ばかりだがダンスがいるだけでライムシリーズの延長のような錯覚に陥り、すんなり物語世界に入っていけた。 今回ダンスが相手をするのはダニエル・ペル。10年前にIT企業家一家を殺害した事件で捕まったカルト集団のボスだ。このダニエル・ペルは人の心を読み、コントロールする能力に長けている。その場の状況、相手によって自分の境遇や過去を偽り、共通点を見出させ、共感を覚えさせ、同族意識を植え付けるのだ。服役中も看視員をその手法で取り込み、囚人に禁じられているインターネットの閲覧なども秘密裏に許可させたりもする男だ。従って彼の尊敬する人物もヒトラー、ラスプーチン、スヴェンガリといったカリスマ性を持った人心掌握術に長けた人物ばかりだ。彼は人の心をコントロールすることに喜びを覚えているため、彼の支配下に置けない人物は“排除”しようとする。 ダンスは最初の尋問で逆に彼の心をコントロールしたため、逆に脅威となってしまう。しかしそんなダンスでも彼の真の目的が解らないのだ。 『ウォッチメイカー』で颯爽と登場したキャサリン・ダンスから受ける印象はどの読者も、“すべての嘘を見破る歩く噓発見器”と思っていたに違いないが、本書ではキネシクスのエキスパートであっても見抜くのが困難な嘘つきもいることが述べられている。それは情報を出さずに真実を回避する者や嘘を真実とみなせる狂信者などだ。 当初、味方であった人物が敵だったり、そのまた逆であったりといったディーヴァーお得意のどんでん返しが起こった時になぜ彼ら彼女らが行う芝居、嘘を見抜けなかったのかと懐疑的になったがどうもキネシクスも万能ではないようだと気付かされ、それで納得がいった。 またこのダンスのキネシクスを生かした尋問方法は諸刃の剣であることが解る。それは彼女は嘘を見抜くがゆえにそれぞれの人間の立場を守ろうとする嘘まで見抜き、丸裸にしてしまうからだ。それは彼・彼女らにとってはキャリアの終焉を意味する。もちろんダンス自身もそれは承知しており、時に苦い思いを抱く。知らなくてもよい真実が見えてしまうこともまたキネシクスの特徴なのだ。 さてライムシリーズが現場に残された物的証拠から推理して犯人の行動を読み取るのに対し、尋問の天才キャサリン・ダンスはキネシクスを駆使して動作や身振りからその人の本当の心理状況を見抜き、また関係者から得た犯人の情報から推理して犯人の行動を読み取る、云わばプロファイリングに似た手法を取る。 物質のライムに精神のダンス。ディーヴァーはまさに魅力的な二巨頭のシリーズキャラクターを創造したわけだ。 そしてやはり読者の期待通り、アメリアとライムのカメオ出演があった。その役割は実に他愛のない物で直接にキャサリンの事件の手助けになったわけではないが、やはりこういうサービスはシリーズ読者には嬉しいものだ。 恐らくディーヴァーは敢えて彼らに重要な役回りをさせないようにしたに違いない。これはあくまでキャサリンの事件であるからだ。しかし「ウォッチメイカー事件」のその後も語られ、まだ彼が暗躍しているのが解ったのも収穫だ。 さて今回の題名は敵役ダニエル・ペルが投獄されることになったIT企業家一家惨殺事件の唯一の生き残り、当時9歳だったテレサ・クロイトンに付けられた呼び名に由来する。事件当日、玩具の山に埋もれるように寝ていたため事件に巻き込まれることがなかったのだ。 しかしこのスリーピング・ドールという題名は読後の今、実は当時ペルに与した仲間の女性たちのことを指していることが解る。 ペルという人の心を操るのに長けた人物によって人生を狂わされたリンダ、レベッカ、サマンサ、そして共犯者であるジェニー。この4人の女性こそがペルの呪縛によって眠らされていたスリーピング・ドールだったのだ。そしてその呪縛が解けた後のそれぞれの生き様が四者四様であるのが興味深い。特にサマンサとジェニーの変わり様が印象に残った。 余談だがペルが襲撃していた際に眠っていたとされるテレサがその実起きていたというのが実に面白い。彼女はペルの一家惨殺事件の被害者でありながら、実は彼女自身には何の心的外傷を得ていなかったのだ。従ってやはりスリーピング・ドールとはテレサのことではなく、彼女ら4人のことだったと解釈するのは妥当だろう。 しかもその文脈で考えるとこの題名自体もミスディレクションであると云えよう。 物語の核であるペルの脅威が収まるのは下巻の340ページ辺り。まだ約100ページが残っている。 哀しいかな、書物という物はこの後の残りページ数でこれで事件が解決したものと思わないように物理的に教えられる。これが映画館で観る映画ならこんなことはないのだが。 従って読者は残りのページで起こるであろうどんでん返しを想像することになり、驚愕の結末もこれでは薄れてしまうであろうから困ったものだ。 さて最後になったがやはりこのシリーズに登場した人物たちにも触れておこう。 キャサリンの仕事上の好パートナーであり、私生活でもパートナーとなるのではと思わされたモンテレー郡保安官代理のマイケル・オニールはダンスのよき理解者であり、またよき相談相手である。しかし妻帯者である彼とダンスの今後の関係はどのように変化していくのか、非常に気になるところだ。 そしてダンスの有能な部下TJ・スキャンロンはCBI捜査官らしからぬカジュアルな服装とどこでも思わずついて出る軽口が特徴の人物。しかしその働きは有能でダンスの痒い所に手が届く捜査をしてくれる。 最後にチャールズ・オーヴァービー。新任のCBI支局長であり、ダンスの上司だが、早く功績を立てて出世したがっており、その種の人物同様、保身のために部下を売ろうとすることも考えている。一見無能な人物と見せながら物語の最後には意外な決断を下すという実に読めない人物。 とこのように有能な人材で構成されるライムチームとは違った個性的な人物を配してディーヴァーはまたまた面白い物語を紡いでくれるようだ。 本書はまだ軽いジャブといったところ。今後のキャサリン・ダンスの活躍に大いに期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『名探偵の掟』の名探偵天下一が再登場する長編。しかし作者東野氏自身と思われる作家が図書館に迷い込むうちに自分が天下一になってしまうというファンタジーな設定になっている。そのためか実に内容はメタフィクショナルだ。
常に読者の目を意識した天下一の言動は前作『~の掟』を踏襲した本格ミステリの約束事を意識的に揶揄したものだし、またその言葉は作者東野圭吾氏の生の声でもある。 そのために本格ミステリの特異性を際立たせるために本格ミステリのない世界を設定したのが素晴らしい。つまりそこでは本格ミステリの約束事がそのまま普通に暮らす人々にとっては訳の解らない思考であることが逐一書かれる。 例えば最初に出てくる事件では初めて密室殺人事件に遭遇した登場人物たちは殺人を犯すのになぜ密室を作る必要があるのかが全く理解できない。 さらに当たり前すぎる動機では読者に罵倒されると思わず漏らす主人公などなぜ普通の理由で、普通の方法で人を殺していけないのかが改めて問われる。この辺のやり取りは実に面白かった。 そして読み進むにつれ、これは東野氏の本格ミステリからの訣別宣言を表した書だということが解る。かつて江戸川乱歩賞でデビューした作者はその後もトリックを駆使した密室殺人をいくつも著していたが、もはやそんな物に興味を失ってしまったと吐露する。しかしそれが完全なる訣別ではなく、またいずれは帰ってくる場所であることも書かれている。 以前から書いているが『宿命』を契機に誰が殺したとかどうやって殺したといった推理クイズのような楽しさよりも人間の心情の謎について書くことに興味が移ってしまった東野氏だが、その後も探偵ガリレオシリーズなども書き継いでいることから、初期作品からブラッシュアップされた本格ミステリを書くことを心掛けているのが解る。 訣別しようと思いながらも本格ミステリが持つ独特の魔力に抗えない、そんな心情を東野氏はこの作品で見事に表している。つまり本書は小説の形を借りながら東野氏の本格ミステリへの思いを綴ったエッセイであると云えるだろう。 さて本書が刊行されたのは1996年。つまりもう23年も前の作品であるのだが、そのため今読むと興味深い記述も見られる。 特に冒頭の図書館のシーンで自分の作品を発見し、貸し出し状況を見ようと思ったがその結果が怖くて結局見ないことにしたという一節があるが、今の東野フィーバーの状況を考えると隔世の感がある。確かにこの頃はミステリ読者からは好評は得ていたものの、売れていたとは決して云えない状況だったのだ。 そんな観点で読むとまた当時の東野氏の作家としての立ち位置なども垣間見え、最近ファンになった人々も興味深く読めるのではないだろうか。 ただやはり本書はある程度本格ミステリを読んでからにしてほしい。そうでないと解らない面白味に溢れているのだから。 |
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馳星周氏のデビュー作『不夜城』の続編。この後『長恨歌』が書かれ、新宿の中国系マフィアの暗闘を描いたこのシリーズは三部作として幕を閉じられる。
前作の主人公劉健一は新宿の一角にカリビアンという会員制のバーを開いて故買屋稼業をしながら新宿の中国系マフィアの情報を仕入れているという存在。 前作はほぼ彼の一人称という形だったのでその心情が色濃く書かれていたが、本書ではあくまで第三者という立場で得体のしれない存在感を醸し出している。常に何かを知り、のし上がる好機を窺っているような、獲物を見張っている豹のような存在とでもいおうか。 彼の存在は物語の終盤で如実に増してくるのだがそれはここでは敢えて触れない。 物語の主軸は楊偉民の子飼の凶手、郭秋生と元刑事で北京マフィアの頭目崔虎の下で糊口を凌いでいる滝沢誠の2人だ。 郭秋生はかつて義姉と義父を殺し、その2人の死体のそばで横たわって半死半生の状態だったところを楊に拾われて、台湾の海軍に預けられ格闘術と武器の扱いといった殺人の技術を習得した凶手。殺した義姉真紀に想いを寄せ、それがトラウマになっている。 一方の滝沢はかつて新宿署防犯課に所属しており、相棒の鈴木と共に歌舞伎町に巣食う売春婦、やくざ、売人を食い物にしていた悪漢警官だったのを2年前の劉健一がもとで起こった中国系マフィア同士の抗争に巻き込まれて刑事の職を辞することになった男。ただその性癖はいわゆる変態で暴力の衝動に駆られ、相手を痛みつけることにこの上ない快感を覚える男だ。 この滝沢、秋生、そして秋生がボディガードを務める上海マフィアのボスの情婦楽家麗、そこに劉健一が絡み、誰かが死ななければならない状況まで差し迫っていく。 混沌とした中国系マフィアの勢力争い。新宿歌舞伎町というごくごく狭い繁華街に上海、北京のマフィアが勢力を伸ばし、そのバランスを保とうと台湾のマフィアの長が策を施す。そんな絵図を俯瞰し、いつか彼らの喉笛に食らいつこうと虎視眈々とその時を窺う劉健一。そんな中国人だらけの街を取り戻そうと蠢く日本のやくざ。 誰もが他者を出し抜こうとし、誰もが他者を貶めようとする。 権力という安定を求め、仲間を作るが、その仲間さえも敵と天秤にかけ、平気で寝返る。 敵が味方になり、追う者は追われる者になる。 窮地に陥った人間が窮鼠猫を噛むが如く、ぎりぎりのところで口八丁手八丁の逆転をし、どうにか生きながらえる。 しかしそんな付け焼刃の云い逃れも上手くいくわけもなく、どんどん死の淵へと追いやられていく。 これは新宿歌舞伎町という日本一の繁華街を舞台にした人生劇場。いや明日をも知れぬ地獄絵図を描く者たちの鎮魂歌とでも云おうか。 私が歩いていた新宿の少し筋を外れたところでこんな人が簡単に人の命を奪う生き死にの戦いが繰り広げられているのか。そう思わされるほどこの物語はリアルである。 それは我々普通の生活をしている者にとっては想像もつかないような世界。誰もがプライドが高く、ギラギラした目を持ち、底なしの欲望にまみれて、犯罪を犯すことを厭わない。碌でもない男女たちばかりが登場する。 ふと思ったのはこれまでの馳作品の主人公にはある共通項があることだ。それは『不夜城』の劉、『漂流街』のマーリオ、本書の郭とも混血児であることだ。劉は台湾人と日本人の、マーリオはブラジル人と日本人の、郭は中国人と台湾人の混血。 彼らに共通するのは心に深い闇、憎悪といっていい感情を持っていることだ。馳氏は暴力的衝動、心に暗黒を宿すファクターとして混血児というモチーフを用いているようだ。 さて物語は前作『不夜城』で最愛の者を殺さざるを得なかった劉健一が新宿界隈の中国人コミュニティを牛耳る楊偉民に対する壮大な復讐劇だったことが判明する。楊の権力を殺ぎ、自身が新宿界隈の中国人コミュニティのボスに成り代わって楊を抹殺すること。その目的のために凶手郭、元刑事の滝沢は駒の1つであり、劉の掌上で踊らされていたにすぎないことが判明する。 通常このような権力争いの勢力を己の画策でぶつけ合わせて破滅させる、というハメットの『赤い収穫』のような物語は画策する人物の視点で書かれることが多かったが、馳氏はこれを駒となる人物たちの視点で描くことで画策した人物の恐ろしさを上手く表現している。これはまさにアイデアの勝利だろう。 ただやはり結局馳氏の作品はどの人物も死んでいく運命にあり、主要たる人物も最終的には屍の山の一角に過ぎなくなる。これがなんとも読んでいて残念なのである。 この辺は大いに好みの問題なのだろうが、生死の瀬戸際ギリギリで足掻く人物たちが結局死んでしまうことが解っているので何とも途中で白けてしまうのだ。 本書でも滝沢の変態性、郭が恋い慕う楽の扱いなど凌辱系ポルノビデオのような内容でこれ以上の物を書くとどんどんエスカレートしてこちらの感覚が麻痺していくように思えてならない。 どこまで突き進んでいくんだ、馳星周は? |
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『不夜城』で衝撃のデビューを果たした元書評家坂東齢人氏こと馳星周氏。本書は彼の4作目に当たる作品。
今回も主人公のマーリオは日系3世のブラジル人で純粋な日本人ではない。鹿児島から移住してきた祖父太一の許で育てられ、厳しい教育と家督制度を叩き込まれ、そして激情家の太一の血を色濃く受け継いだ彼は日本人ともブラジル人ともどっちつかずの風貌、そして時折卑下したかのように呼ばれる“あいのこ”という言葉にどす黒い憎悪を抱き、押え切れない暴力的衝動を常に抱えている。 彼が行く所には屍の山が築かれ、そして彼に関わった人間は押しなべて不幸になる。胸に抱えたどす黒い憎悪、欲望が次第に肥大し、理性で押え切れなくなっていく。 彼の憎悪の根源は日本人なのに日本人として認められない血の呪いと彼を育てた日本人移民の祖父太一の存在だ。 彼の祖父佐伯太一は鹿児島からブラジルに移り、昔ながらの厳格な家長制度を重んじる男。彼が家族の全てであり、彼に従わない者は家族ではないという性格の持ち主。だから彼に歯向かう者には容赦はしない。そうやってマーリオの母と父は死に至った。 暴力は暴力を生む。これは昨今定説になっているがマーリオは祖父を憎むがゆえ、また彼もまた祖父と同じ性格になっていった。マーリオの行き着く先は闇。これはそんな真っ黒な物語。 そのマーリオが地獄への道行きを辿るきっかけが大金とヤク。それが本書のメインストーリー。 鬱屈した日常に嫌気が差したマーリオがひょんなことから漏れ聞いた関西のやくざと中国マフィアとのデカい取引の金を強奪し、あらゆる追手から逃げるというものなのだが、この強奪に至るまでが非常に長い。取引の情報を手に入れるのが49ページとストーリーの中でも非常に早い段階なのにもかかわらず、実際に実行に至るのは470ページあたりなのだ。 この間色んなしがらみに拘束されるマーリオの日常が描かれる。とにかく長い。 マーリオが犯罪に至るまでの心理を描くためなのかもしれないが、ストーリーには必要のない殺人やブラジルが日本に負けた腹いせに六本木のバーで勝利に浮かれる日本人サポーターたちを襲撃するシーンがあったりととにかく寄り道が多い。 しかしそれが退屈かと云われれば、そうではないと認めざるを得ない。文庫本にして770ページ弱の厚みを一気に読ませる求心力を持っている。 とにかく全編に亘って語られる内容は金とドラッグ、セックスと暴力の連続。憎悪と怒りの応酬だ。誰もがギラギラしており、誰かを利用しようと手ぐすね引いて待っている。 残忍かつ凶暴な性格で兄貴分すらコケにして憚らない伏見。恨みは絶対に忘れない中国人マフィアのコウ。その体と美貌を武器にして世間を上手く渡り、マーリオを虜にしていくデリヘル嬢のケイ。マーリオと同じブラジル移民であり、東京に住む外国人と強固なネットワークを持つリカルド。元極道で銃の密売でしのぎを削っている山田。荒んでいるマーリオの心や外国人たちの心を安らがせる歌声を持つ盲目の少女カーラ。他にもデリヘルクラブの社長有坂、極上のプロポーションを持つコロンビア娼婦のルシアなど一癖も二癖もある人物が己の欲望のため、または他者の企みに巻き込まれて翻弄され、入り乱れる。 この暗黒の群像劇を描く馳氏の筆致はものすごい熱量で読者の眼前に言葉を畳み掛け、叩き付ける。 いつの間にか時間を忘れ、ふと顔を挙げると大きく息を吐く自分に気付く。掌は汗をかいているのに指先は冷たくなっている。そんな魔力を秘めている。 だからこそ最後の物語の収束の仕方に不満が残る。 全てが上手くいくと見せかけ、やはり世の中そんなに甘くはないと思い知らせることがノワールなのか? “あいのこ”と呼ばれることを嫌悪し、そのたびに心にどす黒い憎悪をもたげさせながらもどうにか自制し、生きてきたマーリオの最期に全く美学がない。 こういうと「美学を求めるなら他の小説を読んでくれ。こちとらそんな小説は書きたくないんでね」と恐らく馳氏はそう嘯くことだろう。しかしやはりそこまでの物語と心をつかんで離さない文章があるだけに勿体なさを感じるのだ。 しかしこれもまた物語。しかし私が『不夜城』を読んだ時の違和感や不快感は本書でもまだ解消されなかった。 果たして私は馳氏のよき読者になれるのか。今後彼の作品を読むことで試してみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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女子プロゴルファー、リー・オフステッドシリーズ第2弾。前作第1作の9月の刊行から早々と2冊目が刊行された。
前作では“アーロン”エルキンズの作品という先入観があったため、妻のシャーロットのロマンス小説風味付けの濃さに戸惑った感があったが、今回は免疫が出来ていたこともあって、前作よりも物語の世界にすっと入ることができた。 今回の事件は憎まれ、殺したいと周囲に思われた人物が落雷に遭って事故死するが、実はそれは巧妙に仕組まれた殺人だったという物。そして第2の殺人として衆人環視の下で毒殺が行われる。 いずれも本格ミステリ的不可能趣味に溢れている謎なのだが、このシリーズの特色はそこにはない。 アーロン・エルキンズ作品の特徴である、特定の人物で形成されるコミュニティの中で嫌われ者である人物が事故に見せかけて殺される、もしくは明らかに何者かによって殺される状況が生まれ、関係者の誰もが一応の動機を持っている手法が本書でも採られている。 そして忘れてならないエルキンズの長所が魅力あるキャラクター。今回も前作から引き続いて登場のペグを筆頭にコットンウッド・クリーク・ゴルフコース理事の面々の個性的なこと。相変わらず実に読んでいて心地よいコージー・ミステリだ。 そんなミステリだからトリック云々を議論するよりもコミュニティの中で誰が一番動機を持ち、また機会があったかについてリーとグレアムの議論は費やされる。ここら辺は堅苦しいロジックのやり取りではなく、まさに好奇心旺盛なカップルが事件についてあれやこれや話し合うといったようなトークの趣があり、和やかだ。 特に第2の殺人については不特定多数の人がいる中でどうやって被害者だけに毒を飲ますことができたか?などということは一切語られず、誰が被害者を殺す動機があったかについてしか語られない。これがエルキンズの作風なのだと初めて本書を手にした本格ミステリファンは理解しなければならないことをここでは述べておこう。 2作目にして地方の警察官であったグレアムとツアープロであるリーの恋が成就するには困難なシチュエーションだったのが一気に解消される。この辺は実にご都合主義的な感じがするが、ロマンスミステリなんてものはこんなものだろう。 こういう風に書いているが、たまにはこんな夢物語的なミステリも読みたいのだ。 ただ主人公リー・オフステッドの風変わりな経歴―元米国陸軍所属―が単に奇抜さだけでしかなく、十分に活かされていないのが難だが、これもシリーズを重ねるにつれて持ち味が出てくることを期待している。 エルキンズのスケルトン探偵ギデオン・オリヴァー物の最新作を読みたいのが本音ではあるが、しばらくはこの夫妻の手によるこのシリーズでその渇きを癒すことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野氏のダークな笑いが炸裂するユーモア短編集第2弾。今回もその筆の勢いは止まらない。
まず最初の作品は「誘拐天国」。 孫と遊ぶために狂言誘拐を計画する、という着想の妙も東野氏らしいが、さらう側の老人たちが大会社の元経営者で隠居の身というのがミソ。 身代金の1億円がはした金にしか見えないくらいの大富豪ぞろいで、ハイテクを駆使した誘拐騒動の顛末を徹底的にマンガチックに東野氏は語っていく。 次の「エンジェル」では核実験が盛んに行われた南太平洋の島で見つかった新種の生物エンジェルのお話。 一読星新一氏の作品のような味わいを残す。新生物の発見から社会に浸透しやがて起こる新たな社会問題に、最後の皮肉な結末とまさに星テイスト。 こんなのも書けるのが東野氏の芸達者なところだ。 「手作りマダム」は思わず「あるある!」と声を出したくなるような作品だ。 Yahoo!知恵袋の相談にも出てくるような話だ。 いわゆる社宅族たちの抱える問題。会社で地位のある方の奥さんが無類の世話好きだったというもの。善意と思ってやっているからこれがまた性質が悪い。人によっては他人事とは思えない話だろうなぁ。 「マニュアル警察」は題名から察せられるようにマニュアル化した警察のお話。 星新一の作品になんかこういうのがあったなぁ。これは題名からネタも解ってしまうし、実に東野氏らしい皮肉に満ちた内容。 確かこの頃マニュアル社会とかサラリーマン教師とか色々云われていたっけ。 「ホームアローンじいさん」もB級ネタで笑わせてくれる。 東野氏のB級路線が色濃く出た作品。そりゃあ教職に就いていた爺さんだってAVは見たいだろう。メカ音痴であるのがここではミソだろう。そしてそこへ空き巣の侵入を絡ませるあたりが上手い。 しかし男の哀しい性よのお。 マザコンというのが注目されたのがもしかしたらこの頃だったのか。「花婿人形」は全てを母親に仕切られて生きてきた男が結婚を迎える話。 極端な過保護で育てられた男が結婚式の段に母親に聞きたかったこととは?この謎で引っ張るのだが、これがホントしょうもないこと。 「女流作家」は思いもかけない展開を見せる。 妊娠になった女流作家が休筆するという当たり前な導入からSF的な展開になるのがミソ。 「殺意取扱説明書」も一風変わったお話。 殺人計画立案が書かれているわけでなく、殺意の醸成の仕方、殺人行為に至るまでの心構えなどを解説している取説という設定が面白い。 いざ殺る段になって躊躇する心理なども扱われていたりとケーススタディが事細かに書かれているあたりが理系作家東野氏の遊び心だといえよう。もう少し結末にパンチがあればよかったが。 「~笑小説」と書かれているが全てがユーモアの話ではない。中にはジーンとくる作品もある。次の「つぐない」がそれだ。 意外な導入部、ピアノレッスンの生徒が50のオッサンというギャグのような冒頭から最後はジーンとなる結末に持っていく東野氏の上手さが光る1編。 「栄光の証言」は会社でも冴えない男が殺人現場を目撃して、それを証言したがためにいきなり会社はもちろんご近所からも注目されるというお話。 普段誰からも注目されない男が一躍注目の的になるというのは気分がいいもの。ここに書かれているしつこく何度も同じ話を繰り返されることや、いつもしゃべることでどんどん肉付けがなされていき、いつの間にか想像のことを恰も見たかのように話してしまうというのもよくある。 最後のオチのしょうもなさといい、ショートフィルムに使われそうな作品だ。 「本格推理関連グッズ鑑定ショー」はその名から想像されるように「なんでも鑑定団」をパロッた作品。 東野氏の悪ふざけが横溢した作品。というよりもこの頃1996年から「なんでも鑑定団」ってやっていたのだなぁと感心してしまった。 単に番組のパロディに終始するわけではなく、逆にそれを素材にして意外な真相を導き出すというのがアクセントになっているがミステリとしてはあまり出来がよくないので、やはりこれはパロディを愉しむのが吉だろう。 しかし番組司会者の名前が黒田研二というのは何か意図があったのだろうか?また鑑定品が天下一大五郎の事件ゆかりの物というのが面白い。天下一大五郎は東野ワールドの影のシリーズキャラになりそうだ。 最後の「誘拐電話網」も実に東野氏らしい作品。 他人の誘拐児の身代金を要求されるというアイデアと学校や会社で使われる連絡網を組み合わせることで実に皮肉に満ちた作品になった。 東野氏の裏ライフワークと呼ばれている(?)ブラックユーモア短編集『~笑小説』シリーズの第2弾。 発表されたのは1996年。その頃の世相を反映していることもあってかネタ的には古さを感じる物もあった。 子供の「お受験」対策の過熱化する多くの習い事や社宅族にある上司の奥さんとの付き合いやマニュアル社会や母親の過保護のせいでロボット化するマザコン息子など。テーマとなった社会現象や当時のドラマが目に浮かぶようだ。 女流作家が題材となった作品は宮部みゆき氏や髙村薫氏ら女性作家の台頭や海外の女性ミステリ作家、いわゆる4Fブームが反映されているのだろうか。 『あの頃ぼくらはアホでした』で吹っ切れたかのようにお笑い路線でも才能を発揮した1作目の『怪笑小説』からさらにその路線はエスカレートし、なんだか子供じみたネタまで躊躇せずに開陳するところがすごい。 日常でありそうな事象を実に皮肉に、時に淡々と語る筆致はB級ギャグの応酬ともいえる。特にAVを観るために留守番を買って出るおじいさんなどは話としては脚色されているが、実際こんなジイサンいそうだな。かように慎ましく生きている庶民に訪れたある変化を面白おかしく綴っている。 ここで注意したいのはこれらお笑い小説を書きながらも手法はミステリのそれであること。シチュエーション・コメディやSF的な設定においても最後のオチにつながるのは意外な結末である。「 女流作家」や「つぐない」などはある謎が最後に明かされる(「花婿人形」もそれに当たる)。さらには「誘拐天国」や「誘拐電話網」など犯罪そのものの作品もその過程を愉しむことができる。 いわばお笑いのオチとはミステリの謎解きにつながるものがあるのだ。 余談だが、この短編集は誘拐で始まり、誘拐で終わっている。ミステリ読者を笑いの世界へさらっていき、最後にまた笑いの世界からさらわれたという隠喩と考えるのは…さすがに穿ちすぎか。 特に国民的ベストセラー作家になった今でも『歪笑小説』と最新作を出すのだから作者の芯は全くぶれていないと云っていいだろう。それは全ての作品が絶版されていないことからも窺える。 ふつうここまで売れっ子になると過去の出来の悪い作品などは封印してしまうのだが、東野氏は全ての作品に全力投球していると公言しているからそういうことは全くしない。素晴らしいことだ。 東野作品を読む方はその作者の心意気をきちんと汲み取るべきだろう。 とはいえあまり難しいことを考えて読むのもまた作者の意図には反するだろう。本書はその名の通り毒のある笑いを何も考えずに愉しむことが正しい読み方だろう。 決して名作とか傑作とか評されることのない短編集だが、こういうのがあってもいいではないか。これもやはり東野圭吾氏なのだから。 次の『黒笑小説』も楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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創元推理文庫から訥々と刊行されていたドイル短編集もこれで5冊目。どうやら本書で最後になるようだ。
まず冒頭は表題作から。 産業革命喧しい19世紀末に書かれた似非化学を材に採り、もっともらしい錬金方法を発明した無尽蔵の富を誇る男を巡ってそれまで貧しいながらも慎ましく暮らし、いつか生活が良くなるだろうと夢を抱いていた片田舎の人々が彼の登場で狂っていく。その様子をマッキンタイア家を物語の軸として描いたペシミスティックな結末が印象的な作品。 画家で大成することを目指していたロバート・マッキンタイアはその誠実さを買われながらもラッフルズの富を目の当りにして自分の人生に次第に意味を失っていくし、ラッフルズに見初められたロバートの妹ローラは婚約者がいるのにも関らずラッフルズの富に目が眩み、婚約破棄をしようとし、彼らの父は事業に失敗していたが今なお再起を狙っており、ラッフルズの富をその足がかりにしようと虎視眈々と狙っている。 これは恐らく産業革命で爆発的な富を得た人と逆に失った人が実際にいたことから生まれた作品なのだろう。物語としてはファンタジーだが、ここには当時の“狂気の19世紀”という誰もが一山当てようと躍起になっていた世情が鮮明に描かれている。 続く「体外遊離実験」は今でもよく題材として使われる人格交換物の一編。 幽体離脱した霊魂が戻った先は逆の肉体だったという今ではよくある話だが、発表当時の1885年ではかなりぶっ飛んだ話だったのではないだろうか?もしかしたら人格すり替わり物の原型だったのかも? この話の面白味はそれぞれ霊魂がすり替わったことに気付かずにお互いの生活をするところ。しかし実験が終わった時点で相手を見て気づきそうなものだけれど、そこは目を瞑るべきなんだろうな。 「ロスアミゴスの大失策」は電気による処刑を実施したところ、死刑囚は死なずに逆に不死身の肉体を得てしまうという似非科学物。 当時まだ電気による死刑方法がそれほど知られてなかったからこその1編か。おそらく着想の素になったのはメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』からではないだろうか?電気ショックによって甦った死体から作られた不死身の人造人間が不死の肉体を持つ死刑囚と非常に設定が近似している。この短編が1892年の作品で『フランケンシュタイン』が1818年の作品だから年代的にも合う。ただしシェリーがホラーなのに対し、コミカルな作品にしているのがドイルの味付けの上手さだろう。 「ブラウン・ペリコード発動機」は新発明を巡る技術者二人の争いを描いたもの。 これも産業革命で発明が盛んになっている当時の世相を表した作品と云えるだろう。共同開発者のうちのどちらかが功績を我が物にしようと相手を出し抜いて特許出願するなんてことは日常茶飯事だったのかもしれない。 「昇降機」は奇妙な味わいを残す。 人間というものはその思考が環境に左右されることは今ではよく知られているが、これも昇降機のメンテナンスをすることで高所へ行き来するうちに地上の人間がちっぽけな存在に見え、自分を神と近い者、神の言葉の代弁者だと思い込んでしまった男が起こす狂った所業を扱っている。 おそらくはこの作品には高さを競い合うように高層の建造物を建てている当時の流行を見て、ドイルが神への冒瀆ではないかと警鐘を鳴らしているのが裏のテーマかもしれない。 女の嫉妬も怖いが、男の嫉妬もかなり怖いと思わされるのがこの「シニョール・ランベルトの引退」だ。 黙々と発声法に関する論文を読み、医者に質問し、浮気相手を前に医療器具を出していくスパーターの様子が不気味で話としては単純だが印象に残る。 「新発見の地下墓地」は仲の良い2名の考古学者が一方が発見した新しい地下墓地を見に行くことになるのだが…というお話。 特に何気ない冒頭の会話が復讐者が自身で発見した地下墓地に友人の考古学者を案内するという動機に繋がっていたのが判明するところにカタルシスを感じた。結末の皮肉さといい、短いながらも上手さが光る好編。 最後の「危険!」はヨーロッパの小国がいかにしてイギリスの艦隊を破ったかを語った話。その作戦の中心人物ジョン・シリアス大佐の秘策とはイギリスに航行する食糧貨物船をことごとく潜水艦にて撃沈させることだった。つまりはイギリス国内を兵糧攻めにして内部から疲弊させてしまおうという作戦なのだ。 しかしこの作戦の内容は早いうちから明かされており、あとは延々とその戦いと終戦までの顛末が語られる。馴れない海洋小説ということもあって特に興趣をそそられなかったのが残念だ。 一読した印象は古き懐かしい古典の名品ともいうべき短編集だ。 本書では科学や学問をテーマにした作品が多いのが特徴だ。錬金術に心霊学、電気工学に機械工学、考古学など。学問そのものをテーマにしたものもあれば、学問を巡る人物たちの浅ましさを描いたものもある。 学問そのものをテーマにしたものは押しなべてコミカルなファースになっており、学問を巡る人々を描いた作品は悲劇やホラーといった負の味付けがなされているのが興味深い。 前者でいえば幽体離脱した霊魂がすり替わることで起こる様々なアクシデントを描いた「体外遊離実験」、強大な電気ショックを与えることで不死身の肉体を得た死刑囚を描いた「ロスアミゴスの大失策」などが該当し、後者でいえば無尽蔵の富を生み出す錬金術を目の当たりにした街の人々が堕落していく様を描いた表題作を筆頭に新発明の特許を奪い合う2人の技術者の話である「ブラウン・ペリコード発動機」、昇降機のメンテナンスを請け負っていた男がいつしか万能神と自らを思い込むようになった男の狂気を描いた「昇降機」、そして「新発見の地下墓地」では親友同士の考古学者が片割れが持つ密やかな復讐心が語られる。 これらはやはり産業革命によって劇的に変化した当時の社会情勢が人心へ招いた異様な熱気と狂気がこの作品群には込められているように思えてならない。アイデア一つで誰しもが一攫千金を手にできた時代。だからこそ誰しもが相手を出し抜こうと躍起になっていた。 そんな科学がもたらした社会の歪みを時には滑稽に、時には皮肉なまでに、そして時には陰湿に描いたのがこれらの作品群ではないだろうか? しかしドイルは実に幅広い作風を持った作家であることか。これまでに刊行されたドイル傑作集も今回で5冊目を数えるが、ドイルがホームズシリーズだけの作家でないことを知るのに実に充実したラインナップだったように思う。特に新潮文庫でも編まれたホームズシリーズ外の短編集に未収録の作品を多く読めたのが収穫であり、ホームズシリーズでは気付かなかったドイルの作家としての姿勢や彼のジョン・ブル魂、騎士道精神などが行間から窺えたのが大きな収穫だった。 本書でこのシリーズが最後だというのは非常に残念でならない。選者であった北原尚彦氏、西崎憲氏、そして影の編者藤原義也氏のきめ細やかな選出に拍手を贈りたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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再びのウェクスフォード主任警部シリーズ。縁あって神保町の古本屋で購入した3冊のレンデル作品のうち、2作がこのシリーズの作品となった。
しかし本書はこの前読んだ6作目『もはや死は存在しない』からずいぶん経った作品で11作目となる。この両作品との間には10年の隔たりがあり(『もはや死は存在しない』が1971年発表で本書は1981年の作品)、そのため作中時間の経過が見られる。 『もはや死は存在しない』のラストで亡き妻の妹グレースと結婚を匂わせる幕引きを見せたバーデンだったが本書で判明する再婚相手はジェニーという女性。 『もはや~』から本書に至るまでシリーズ作のうち『ひとたび人を殺さば』と『指に傷のある女』は既読なのだが、全く覚えてなく、どこで彼が再婚したか判らない。グレースとの関係がどうなったのか、『もはや~』の次作である『ひとたび~』で確認する必要があるな。 またウェクスフォードの娘シーラが女優として活躍しており、本書では彼女の結婚式のシーンが盛り込まれている。この娘が有名人という設定が前面に出されているせいか、本書に登場する主要人物はやたらと有名人が多い。 まず被害者のマニュエル・カマルグは有名なフルート奏者であり、莫大な遺産の持主。彼の友人フィリップ・コーリーもまた有名な作曲家であり、さらにその息子ブレーズは人気番組の司会者でもある。 イギリスの片田舎の町キングスマーカムに斯くも芸能人やら文化人が住んでいるというのも実に面白い話ではある。 さて本書のテーマは相続人の前に突如現れた音信不通だった近親者は果たして本人か否かという物。この手の話は古くからあり、例えばカーの『曲がった蝶番』とかがそうだろう。また財産目当ての悪女物となればカトリーヌ・アルレーの『わらの女』が有名だ。 あれが当事者の側から描いたものとすれば、これは捜査側から描いた悪女物と云えるだろう。 そして物語の展開として意外なのは高名なフルート奏者の遺した莫大な遺産をせしめようと周囲を騙し通そうとしたナタリーの素性からどんな手を使ってでも遺産を手中に入れるという悪女ぶりととっかえひっかえ男を換えては誑し込み、恐らく自分の望みを適える手伝いをすらさせていた当の本人が第2の被害者として見つかるところだ。 この辺のストーリーの切返し方は実に上手い。 そして本物か偽者かという二者択一でしか有り得ないシンプルな謎の真相が実に意外で、また実に納得の出来る物であることに驚きを感じた。 こういう状況って確かにあるよなぁと思わせ、それを謎に結びつけるレンデルの上手さ。恐らく作者は友人や知人らと交わす会話の中に同種のエピソードを聞くに及んでこのプロットを生んだのではないだろうか。 単に笑い話に終始しそうな話を膨らませて1冊のミステリを作ってしまうレンデル。さすが英国女流ミステリの女王だ。 今回はある種の先入観を持って聞き込みをすることの危うさを説いている。それは刑事の聞き込みだけではなく、我々日常生活においても同様だということだ。 あの人はあんな感じだからああではないかと思うと自分の見込みに都合のいい情報ばかりを選び、齟齬を感じる情報は例外や何かの間違いだと思いがちだ。実に腑に落ちる形で我々読者に投げかけてくれる。 レンデルの作品は必ずしもページを繰る手が止まらないほどのエンタテインメント性・サスペンス性を備えているとは云えない。寧ろ単純な謎に対するアプローチが長く、やきもきする方もあるだろう。 しかしやはり最後の真相を聞くとそれまでのモヤモヤが雲散霧消する爽快感が得られる。だからレンデルは止められない。 絶版した作品や未文庫化の作品が多いのはなんとも残念なこと。さらに未訳作品も多いのはなんとも嘆かわしい。海外ミステリの出版状況が厳しいのは判るが、版元は最後まで責任を持って出版してほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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