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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数694件
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【ネタバレかも!?】
(3件の連絡あり)[?]
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小学生の頃、そのアクションに胸躍らせた映画『ランボー/怒りの脱出』の原作本。
冒頭、作者のマレルはランボーは前作で死に、本書では映画のランボーであると述べる。つまり作者自らが映画の反響によって書かれた作品だと認めているのだ。なんという潔さだろう。 それを裏付けるかのように本書のランボーは確かに違う。前作では誰かと話すことさえ億劫なヴェトナム帰還兵だったが、本書では現地で落ち合ったヴェトナム女性のCIA連絡員コーとよく会話を交わすのだ。 前作では憎悪の権化でしかない殺戮マシーンだったが、女性ゆえかも知らないが、その2人のやり取りではランボーは案外気の利いた男性であり、そこがまず違う。 また本書ではランボーの性格付けに筆をよく割いている。ランボーがいつでも泰然自若と冷静さを保ち、恐怖心を抱かないのは本書では“禅”の精神こそがランボーを無の境地に、全ての恐怖を感じない心境に達する秘訣だと述べている。 ちょっと時代は遡るがフリーランサーの殺し屋が登場する『シブミ』も殺し屋ニコライ・ヘルの絶対的な精神基盤を日本の精神シブミを体得したと設定している。武士道とか忍者とか当時は日本ブームだったのだろうか? しかしそれでも第1作のランボーの性格付けは踏襲している。過剰な拷問を受けることで彼の中に眠る獣性が目覚め、狂戦士の如く再び殺戮マシーンへと変身する。ワンマンアーミー、ランボーの復活である。 この辺の心理描写はまさに小説ならではの物。恐らく映画では火事場の馬鹿力で苦難から逃れるランボーに辟易したのではなかろうか?つまりそれこそがデウス・エクス・マキナと感じ、失望した観客も多かっただろう。 しかし本書ではその火事場の馬鹿力について丹念に説明を施している。この辺りは映画の欠点を小説で補っているようで好感が持てた。 上に書いたことからも解るように解説によれば本書はノヴェライゼーションらしい。従って実に映画に忠実で、小学校に観た映画というのに各シーンが瞼に甦ってくるような思いがした。 しかしノヴェライゼーションというのは通常売れない作家や専門の作家がやるものだが、本書では映画『ランボー』の原作『一人だけの軍隊』を著したマレル自らが書いたことが実に珍しい。邪推に過ぎるかもしれないが映画による版権と小説による印税の二兎を追ったのか? それはさておきマレルの諸作は物語の運び方やプロットの複雑さは一流作家の腕を見せるものの、キャラクターという点ではいささか弱さを感じるのは否めなかった。 そんな中、この映画化もされたランボーの造形は一つ抜きん出ている感がある。いやこれも映画化ゆえに他の作品の登場人物と等しく比べられていないのかもしれない。スタローンの個性の強さによる効果なのかもしれないが。 しかし本書を読んでホッとしたのはマレル自身がハリウッドアクション大作というドル箱作品を物にしたことで本来の作品の芯を失っていなかったことである。前作から引き続いて語るべきはランボーによる、ランボーのための、ランボーの戦争であることだ。このトリガーを弾く要素がそれぞれの作品では違うのだろう。 しかしヴェトナム戦争とはアメリカの中で本当に忌まわしい過去だというのが解る。戦争は敗北した側が被る損害がかなり大きい物だというのが解り、それゆえに人道的な行為さえもないがしろにされてしまう。 ヴェトナムに捕虜がいると解ったことでアメリカは救助隊を派遣しなければならなくなるが、それには膨大な費用と人員と時間が割かれる。さらには救助しても精神に異常を来し、真っ当な社会生活でさえ送れない人物もいる。そんな彼らの補償を政府は彼と家族に対して一生涯していかなければならない。 確かにこれは難しい問題だ。つまりマレルは本書で改めてヴェトナム戦争とはいったいなんだったのかを、ノヴェライゼーションでありながら訴えているのだ。 単に有名なアクション映画の小説化作品と捉えずに、一度手に取って読んでほしい。但し今では絶版状態なのだが…。 |
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エイブラハム・デイヴィッドソンによって書かれたとされる本書はクイーン作品でも異色の光彩を放つ。閉じられた世界での物語といえば『シャム双子の謎』や『帝王死す』などそれまでにもあったが、本書は世界観から創っているところが違う。
微妙に英語と異なる独自の言葉と宗教を持つコミュニティ。50年前に一度横領罪があったきり、その後半世紀に亘って犯罪の起きていない共同体クイーナン。そこは200人余りの住民で構成され、それぞれが役割を持って自給自足、地産地消の生活を送っている。 ひょんな偶然からそこに招かれることになったエラリイは来たるべき災厄の救世主として迎えられる。それは前もって予言されていたことなのだと教師と自称する統治者ウイリーは述べる。 そしてウイリーが予見していた大きなトラブルとは殺人。ウイリーの従者であった雑品係のストリカイ。そしていまだかつて嘘をついたことのないとされるウイリー相手にエラリイは捜査を進める。 ピーター・ディキンスンを髣髴とさせる異様な手触りを放つ作品。 閉じられた共同体であるクイーナンはアメリカにありながらアメリカではない。全ての物は村人の物であるという共産主義的社会。美術、音楽、文学、科学さえも存在しない。教典とされるのはMk'h(ムクー)の書と呼ばれる存在すらも危ういまだ見ぬ聖書。 犯罪そのものを知らない人々に対して指紋がどんなものかから教えるエラリイ。 そんな中で起きた殺人事件の真相は実はさほど意外なものでもない。限られた世界の中に限られた登場人物。推理をすれば真犯人が解る読者も少なくないだろう。私もその一人だった。動機もまた納得できる。 しかし本書はそれだけではない。この圧倒的に奇妙な世界は何が起因して創られたのか、本来の謎はそこにある。 そしてその正体を理解するには前知識が必要なようだ。そして残念ながら私にはそれがなかった。 エラリイが最後に目にするMk'h(ムクー)の書の正体を知っても衝撃は走らず、その内容がクイーナンの世界とウイリーが述べる予言にマッチする内容が書かれているのか解らないからだ。 しかし本書の真価は最後の最後に現れる本当の救世主になりうる男マニュエル・アクイーナの登場にあるのだろう。 この結末はエラリイの存在、到来自体を否定するものだ。 つまり本書はエラリイのための事件ではなかったということだ。 つまりは探偵の存在を否定する探偵小説。本書の本質とはまさにこれに尽きるのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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都会を舞台にマフィアややくざの世界を描いてきた馳氏が選んだのはなんと北海道の根室。
都会の喧騒もなく、ネオンもなく、はたまた民族が入り組んだ抗争もない。ただ北海道という地特有の事情、ロシア人を相手に利鞘を得る人々がいるという現実。一見大人しそうな街ながら裏ではお互いがお金を奪おうと虎視眈々と狙っている、陰湿な社会だ。 そんな町を舞台にした物語は至ってシンプル。東京のやくざの金を持ち逃げしたロシア女性のヒモをかつて根室で相当のワルと評されていた男が追ってくるという話。 その男山口裕司は自分の思い通りにならないと気が済まないタイプ。そして買った恨みは死ぬまで忘れない。子供の頃に受けた侮辱でさえも、大人になってまでもそれをネタに強請り、たかる男だ。 それを可能にするのは圧倒的なまでの暴力。威嚇ではなく、後先考えずに欲望のままに振るわれるから、誰もが恐れて止まない。それ故、裕司は街にとって災厄の元凶なのだ。 一方その片割れとされていた内林幸司はお互いの境遇が似ていた裕司と幼き頃に知り合ったのが間違いの始まりだった。一方が露助船頭の息子と蔑まれ、他方はアル中やくざの息子と忌み嫌われていた。幸司は裕司の暴力を恐れ、嘘をついて逃れていた。お互いがお互いを憎む間柄ながらなぜか離れられない奇縁を持つ二人。 と読んでて思ったのはこれはいわゆる成長したジャイアンとスネ夫の物語ではないか! クライマックスの極限状態の中、幸司はある心理に辿り着く。忌み嫌う二人はこの上なく似ており、それ故忌み嫌う。裕司は幸司で、幸司は裕司だ。 裕司の物は俺の物。俺の物は裕司の物。ここまで読むとまさにこの見方が正しかったことに気付く。 しかし基本的な物語の構造は一緒だ。どんづまりの現状から逃げ出すために汚い大金を手に入れようともがく底辺の男たちの物語。『漂流街』のマーリオ然り、『夜光虫』の加倉然り。舞台が根室に、登場人物らが変わっただけで描く物語は同じ。この辺に馳氏の作家としての物語創造力に首を傾げてしまう。 そしてクライマックスの壮絶な殺し合いも一緒。 一人、また一人とやくざであろうが庶民であろうが、議員であろうが、はたまた警官であろうがばったばったと撃たれ、死んでいく。生き残った人間は結局一人呪詛に憑りつかれたかのように憎むべき相手を探し求める。あれほど執着した大金など見向きもせずに。 ここまで書いてようやく私は作者の真意が解ったような気がした。あまりに不毛な物語の結末にいつものように白けてしまったのだが、つまり根室という閉鎖された町に突如現れた大金を手にするのは、狂った人間以外にありえないのだ。そして勝利者は狂者ゆえに本来の目的を忘れてしまうのだ。 しかしよくもまあこれだけ狂える人間を、執着心の強い人間を生み出せるものだ。特に裕司の造形は凄まじいものがある。幸司の物を欲するがために、幸司が恋した自らの妹でさえ凌辱するとは…。 また馳氏の特徴の一つが街を描くこと。それぞれの街が持つ雰囲気がそこに住まう、もしくはそこで生業を行う人間たちを形成し、またそれらの人間たちによって街もまた性格を持ち、変化し続ける。 今回の舞台根室もまた日本経済の歪みが特異性を生み出すことになった。ロシア人を相手に商売しなければもはや生き残る糧を得られない街。従ってそこの住民にとって北方領土問題の解決なんてものは逆に彼らの生きる糧を奪う行為に過ぎないのだ。その場所その場所に住まう人々にとって正論では割り切れない事情があることを知らされる。 そんな背景を馳氏は巧みに物語に取り入れるのが上手い。 そんなわけで馳氏の物語の熱といい、描く内容というのは買っているのだ。あとはあまりにステレオタイプすぎるプロットから脱却して唸らせるような新たな物語を見せてほしい。 |
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待ちに待った『王者のゲーム』の続編がようやく出版され、そして無事訳出されることになった。これを愉しみにしていたわが身にとってなんと嬉しい出来事だろう。
しかし前作は上下ともに700ページを超える大著であったが、続編の本書は上下巻それぞれ400~440ページぐらい。さらには活字は大きくなり、これを前作の文字組で構成すれば一冊には纏まったぐらいのヴォリューム。そんな装丁でありながら、本体価格は各905円。ちなみに前作は各1219円…。 前作が出版されたのが2001年11月だから10年以上の隔たりがあるわけだが、コストパフォーマンス的にどうなのだろうかという疑問はある。 とはいえ、まあ、昨今の出版不況を考えるとこれも致し方なしか。出版に踏み切ってくれた講談社に素直に感謝の意を表そう。 刊行は10年後だが物語の中の時間で云えば、前回の事件から3年後、そして9.11からは1年半以上経った頃の話だ。つまりようやくグランド・ゼロを整備し始めながらも、まだテロへの恐怖が冷めやらぬ時期の頃だ。そんな中、アサド・ハリールはアメリカへ上陸する。 とにかくアサド・ハリールが絡むと物語も加速する。早くも前作取り逃がした獲物チップ・ウィギンズも開始100ページの辺りで早々に屍と化す―しかも至極凄惨な殺され方で!―。 そして引き続いて150ページ辺りですぐさまハリールはケイトを毒牙にかける。いやあ、デミルの筆は最初からフルスロットルだ。 そしてわずか9・11から1年半しか経っていないにもかかわらず、アメリカのセキュリティの甘さが作中では指摘される。特に小さな地方空港や個人で経営している航空会社でのチャーター便では身分証明のチェックがなく、しかも荷物検査もなく通されること―なんとハリールは銃をカバンにしまったまま搭乗するのだ!―。 私は2002年の2月にハワイへ旅行に行った際、その時のセキュリティチェックの厳しさには辟易したが、実際はこのようなものであったらしい。 さて前作は巻措く能わずのリーダビリティがあったが、今回は中盤のコーリーのパートで間延びしてしまった感があったのが残念だ。組織内のそれぞれの立場の人間の保身と手柄の取り合いといった政治的ゲームが物語の疾走感にブレーキを掛けたように感じてしまった。 後半ハリールが再度登場してからはアクションシーンの連続で緊張感が再び甦っただけに、この中だるみが勿体ない。 また最後の仕掛けも9・11にこだわるデミルらしいものだが、果たしてあの場にコーリーが行く必要があったのか疑問が残る。作中作者もコーリーに何故その場に向かっているのか自問自答を何度も繰り返させているが、それがコーリーという男なんだというのが最適な理由なのだろう。 前作を私が読んだのが2005年だから6年待たされた続編は私の期待に応えてはくれたが、期待以上だったかと云えばそうではない。やはりハリールの行動に焦点を当て、アクション重視で物語を運ぶべきではなかったか。 巻末の解説によればコーリーシリーズは今後も続くとのこと。本作以上のスリルとサスペンスを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今まで『夜光虫』以外は新宿界隈を舞台に物語を繰り広げてきた馳氏が選んだ地が若者の町渋谷。そのため、登場する人物も高校生と二十歳の男と非常に若い。
そして新宿、台湾では外国人マフィアが物語に複雑に絡んできたが、今回は純然たる日本人同士の抗争。渡辺栄司という高校生にして女子高生売春の元締めである男とそれを疎ましく思うやくざ。その中間に新田隆弘というやくざの下っ端が関わる。 一見普通の優男の高校生でありながら、周囲に恐れられている渡辺栄司と伝説のチーム金狼で火の玉小僧と恐れられていた暴力の権化新田隆弘。 彼の肉体と激しいまでの暴力を以ても栄司の恐怖に縛られた彼の仲間を屈することはできない。隆弘は今まで自分が暴力を振るえば回りが屈していただけにいくら殴っても屈さずに笑顔を絶やさない栄司の存在に恐怖を感じる。まさに精神が肉体を凌駕するとでも云おうか、異様な雰囲気を身に纏っている。 栄司の言葉には魔法が宿る。彼が囁くだけで関わる人々は心の奥底に潜む弱い部分を曝け出し、その弱点を克服しようと荒ぶる魂を表出させる。栄司の唇から出る囁きは甘美な毒なのだ。 その栄司に心の中を見透かされ、恐怖と共に栄司の言葉の魔法に取り込まれ、どんどん自我が崩壊していくのが栄司の彼女桜井希生の教師橋本潤子。 幼い頃に支配的な母親に抑制された生活を強いられ、自分の意見を持たなく、周囲の人間の言葉に流されるままの人生を送ってきた女。さらには最初の恋人に強姦同様のセックスを強いられ、男性不信から女性を、生徒に欲情を抱くようになった女。 物語は隆弘、潤子が栄司が持つ、ブラックホールの如き虚無に囚われて転落していく様が描かれる。 よくよく考えると馳作品の主人公は決して暴力が強い人間ではないことに気付かされる。不夜城シリーズの劉健一しかり『漂流街』のマーリオしかり『夜光虫』の加倉しかり。 今回の渡辺栄司という高校生はその最たるもので、喧嘩が強いわけでもない、腕っぷしが強いわけでもない。ただただ非常に頭が良かった。そしてなによりも恐怖を感じない。人間として大事な愛とか情と云った感情を欠落した人物なのだ。自分の欲望のために人を利用し、人を傷つけることを厭わない空虚な心を持つ男。 しかしなんというか高校生で女子高生の売春を取り仕切る渡辺栄司というキャラクター造形がマンガの域を脱していないというか、むしろマンガの原作を読まされているような気がした。 馳氏特有の路地の小便臭さまでが行間から匂い立つようなリアルさと熱が本書では感じられず、むしろ作り物めいた感じが拭えなかった。なんだか飲み屋で交わした会話のままに作ってしまったお話のような手触りがあった。 例えばこのように… “一番怖い奴ってどんな奴だと思う” “やっぱりどんな奴にも負けない喧嘩のプロ” “いや、おれは違うね。恐怖心を持たない奴が一番強いと思う” “お、それで小説1本書けそうだな” といった具合だ。 さてこの結末はこの作品がこれから始まる新たな物語の序章だということだろうか?高校生の若さで人の心の弱さに付け入り、どんな男でも女でも籠絡させる渡辺栄司。 この平成のメフィストフェレスは今後も人の心を操り、王として君臨するのか? 今まで馳氏が主役に選んだのは戸籍上日本人の外国人との混血児、もしくは中国系マフィアに翻弄される日本人だった。彼らへの強力な対抗馬として創造したのが渡辺栄司なのか? 今後の作品に注目したい。 ・・・しかしやくざがヴァイヴに怯えるかねぇ(苦笑)。 |
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クイーン中期において重要な位置づけとされるライツヴィルシリーズ。本書はその3作目にあたる。
戦争後遺症で神経を病み、ついに妻をその手にかける寸前にまでなったライツヴィルの英雄デイヴィー・フォックスの、自らを“生まれながらの殺人者”という烙印を無くすため、過去に起きたデイヴィーの父親の妻殺しの罪を晴らすのが今回のエラリイ・クイーンの謎解き。 しかしそのことは当時の事件に隠された真実を解き明かすことになり、フォックス家の忌まわしい過去を掘り起こすことになる。 さらにベイアードの冤罪を晴らそうと躍起になるエラリイだが、調べれば調べるほど被告側に不利になることばかり。 ベイアードの妻ジェシカが服毒したジギタリスは彼が供したグレープ・ジュースの中に入っており、それに触った物は彼以外いないのだ。エラリイは水道の蛇口、製氷皿に至るまで毒を盛った可能性を追求するがそれらは全て過去の捜査で立証されたものばかり。すなわち全ての状況がベイアードを犯人と示している。 これはなかなかに手強い謎だと痛感した。ものすごくハードルを挙げている。 読みながらこんな堅牢無比な謎をカタルシスを伴って解決してくれるのかと期待と不安が入り混じった気持ちを持っていた。 いやあ後半の二転三転する展開の読み応えといったら、数あるクイーン作品の中でもトップクラスではないか。地味な展開なのに読ませる。 エラリイが捜査を進めるたびに出くわす新たな証拠、それが逆にベイアードを有罪へと追い詰める物になったり、はたまた関係ないと既に証拠から除外されていた物がベイアードの運命のカギを握っていたり、実に読ませる。 そして二転三転する捜査の末、明らかになる真相とはなんとも云えない後味を残す。 世の中には知らなくてもよい真相もある。本書の真相はまさにそうだし、またこれはクイーン自身の手によるあの名作の変奏曲でもあると解釈できる。 さらに当初の問題であったデイヴィーの戦争後遺症が解消されるかどうかもまた不明である。色々なことが解決せずに残った作品だと云えよう。 帰還兵の戦争後遺症を扱った、クイーン作品の中でも珍しく社会的テーマを扱った作品だ。戦争後遺症は特にヴェトナム戦争でその問題が明るみに出たが、本書は同戦争が起こる前の1945年の作品(ヴェトナム戦争は1960年から1975年)。第二次世界大戦終結の年に発表されている。 従ってここで語られる戦争とはすなわち第二次大戦を指す。 この社会問題に本格ミステリを融合させる、つまり人間描写が欠点だった本格ミステリに人物像へ深みを持たせるために用いたファクターがこの戦争後遺症であったわけだが、それをさらにフォックス家という一家庭への悲劇へと昇華させる。 ライツヴィルシリーズは『災厄の町』でライト家の悲劇を、『靴に棲む老婆』ではポッツ家の悲劇を扱い、今回はフォックス家。この後の『十日間の不思議』ではヴァン・ホーン家の悲劇(悪夢と云った方が正解か)をと、一家庭をクローズアップした事件が特徴的だ。 しかし家庭内の悲劇というテーマはロスマク一連の作品を想起させる。しかしロス・マクドナルドが第1長編の『暗いトンネル』を書いたのが1944年、リュウ・アーチャーシリーズ第1作『動く標的』を著したのが1949年。全然クイーンの方が先なのだ。 どちらかと云えばチャンドラーの影響の方があったのかもしれない。つまりそれは街を描き、人を描くということだ。 読中しばしば感じたのは作中に現れるライツヴィルの住人達の面々と彼ら彼女らへ挨拶をし、思いを馳せるエラリイの姿。その快活な筆致はこれこそ作者クイーンが書きたかったことなのだろうと感じた。 そんな中でも今回悪辣ぶりが目立ったベイアードのお目付け役であるハウイー刑事とアルヴィン・ケインという薬剤師。 前者は事あるごとにエラリイの捜査を無駄なことを鼻で笑い、ベイアードに聞くに堪えない悪態、罵詈雑言の限りを吐き、更には自身の自由時間を確保するためにベイアードをベッドに手錠で縛りつけるという所業を行う。ベイアードを罪人として蔑み、エラリイを余計なことをしに来た余所者として面倒がる。 クイーン作品の中でもこれほどひどい刑事は見たことがない。何かこの頃クイーンの身辺で警察にまつわる不愉快事があったのだろうか? そして後者は女たらしで自分こそがライツヴィル一のプレイボーイでダンディだと勘違いしている輩。人妻リンダを手籠めにするために旦那デイヴィーと別れさせるために偽の証拠をでっち上げることまでする卑劣漢。本書ではことさらこの2人の卑怯ぶりが目立った。 しかし問題はこの作品が絶版で手に入らないことだ。これほど読ませる作品なのに。戦争後遺症に冤罪といった社会的テーマに、人間ドラマが加わり、更には本格ミステリとしてのロジックの面白さも味わえるという作品。ライツヴィルシリーズにおける家庭内悲劇を扱った作品としてぜひとも外せない作品だと思った。 今回偶々、市の図書館にあったので読むことができたが自分の手元に置いておきたい作品だ。近い将来の復刊を期待してこの感想を終えることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1984年発表のマレルの手によるこの作品は義兄弟である二人のCIA工作員ソールとクリスがその育ての親のある陰謀により、罠にはめられ、世界の諜報部員たちのお尋ね者になる物語である。
しかし物語の構造はスパイ小説の例に漏れず複雑で、単純な復讐劇にはならず、彼ら2人の能力の高さを買って利用しようとするKGB高官なども加わってくる。 そしてこの物語にはもう1つ特徴がある。それはアベラール・サンクションなる施設の設定だ。 このアベラール・サンクションとは、第二次世界大戦前の1938年にヨーロッパ各国が抱える諜報機関の要人が極秘裏に集まって定められた、各国のスパイのための不可侵状態の避難所のことを指す。このアベラールとは1118年に弟子を孕ませた廉で追い出され、その後避難所を設立したノートルダム大聖堂の参事会員ピエール・アベラールの名に因んでいる。 アベラールの避難所は世界に7か所あるが、その上級施設が安息の家と呼ばれる物。これは引退したスパイたちが行き着く場所でもあり、もしくは政治的に抹殺され、行き場の無くなった官僚たちの隠れ家でもあった。 そこは不可侵であり、娯楽、女性、美食と望む物は金さえあれば全て手に入る楽園なのだが、唯一ないのが自由。安息の家はその実求められない自由に絶望した者たちが自ら命を絶つ墓場でもあった。しかしその事実は歴代の所長は隠し通しておかねばならない。 アベラール・サンクションはスパイたちの安息の地を提供しながら、そこを一歩出ると再び命を狙われる修羅場と化す。つまりアベラール・サンクションはスパイたちにゲームオーヴァーを告げるシステムと云える。何とも皮肉な話だ。 こういった背景を踏まえて描かれるマレルのスパイ小説はアクション重視の、映像化を意識したかのような作品である。短い章立てで構成され、実にテンポよく物語が進む。 現在の、例えばフリーマントルとかは1章当たりの分量が20ページくらいか。対してこの『ブラック・プリンス』は平均10ページ未満と実に短い。そういえばバー=ゾウハーも短かったように記憶している。昔のスパイ小説は情報過多に陥らず端的な描写に終始して、スピード感を重視し、それがまたある種の緊張感を生み出しているように感じる。対してフリーマントルは権力者たちがいかに優位に立つかに腐心しており、お互いの権威を保つためのディベートで構成されているから1章当たりの分量が否が応でも増すのだろう。同じスパイ小説でも書き手によればこれほどまでに書き方が違うのか。 上下巻に及ぶこの物語には孤児院に育てられたソールとクリスがどのように腕利きの工作員として育てられたかも語られる。その中で強い印象を残すのは彼らに武道を指導する元柔道世界チャンピオン、石黒ユキオの存在だ。 彼は二人に武道の心得、すなわち武士の魂を説く。恥をかくならばいっそ死を選べという高潔なる精神をソールとクリスに教え込む。切腹などを教える辺りはおよそ新渡戸稲造の『武士道』からの引用だと推察され、いささか時代錯誤の感も無きにしも非ずだが、この石黒ユキオとの交流の件はトレヴェニアンの『シブミ』を連想させられた。 『シブミ』の発表が1979年。本書が1984年だから、この頃はもしかして日本の武士、侍、忍者のブームがアメリカでは興っていたのかもしれない。 さていささか陳腐な題名に感じられる題名『ブラック・プリンス』は薔薇の名前を指す。CIA高官テッド・エリオットは手塩に育てた弟子、CIA工作員に薔薇の名前を準えて呼んでいる。クリスとソールの二人は黒に限りなく近い深紅の花びらを咲かせる品種<ブラック・プリンス>に因んでいる。 しかし原題は“Black Prince”ではなく、“The Brotherhood Of The Rose”、すなわち直訳すれば『薔薇の兄弟』となる。つまり原題も邦題も同じモチーフで語られているのだが、もし『薔薇の兄弟』ならば少女マンガ風と捉えられるか、もしくは同性愛専門誌『薔薇族』に因んで、BL小説風に捉えられるかと、妙な誤解を生むという懸念があったのではないだろうか? 例えば中間を取って『ローズ・ブラザー』とすればちょっとはマシになったのではないだろうか。いや五十歩百歩か(この感想は解説やあとがきを読む前に書いているのだが、訳者があとがきで同じことを書いているのには思わず笑ってしまった)。 閑話休題。 しかしこのような昔のスパイ小説を読むことは案外収穫がある。なんせ冷戦時代の教科書では習わない各国の暗闘が知識として得られるからだ。 今回はMI-6の高官であり、さらにCIAの創立に手を貸しながら、その実ソ連のスパイだったキム・フィルビーの一連の事件が本書の登場人物に深く関わりがあり、それがこの物語の最も深い謎として語られる。 恥ずかしい話だが、このキム・フィルビーという人物は本書を読むまで全く知らず、調べてみるとかなり有名な人物で、そして彼の亡命は当時かなりセンセーショナルな事件だったことを初めて知った。 まさにこれは収穫以外何物でもない。教科書では教えられてない歴史の勉強とはまさにこのことだ。 しかしこのクリスとソールの奇妙な友情は義兄弟という生死を共に分かち合った者たちしか解らない世界なのだろうが、今ならば一種BL小説のテイストもあると云えるだろう。今復刊すると意外な方面から反響があるのではないだろうか。 育ての親エリオットへの憎悪が単なる憎しみと嫌悪から成り立たないソールとエリオットの関係性は、スパイ育成がその人物の人生の根幹まで深く入り込んでいく行為だと知らされ戦慄を覚える。幼き頃に刷り込まれた恩情はなかなか憎しみだけで乗り越えられるものではない。最後のエリオットの対決が大いに心理戦であったのは実に興味深く感じた。 しかし前時代的ではあるが全然今読んでも遜色ない。しばらくマレルの作品を読んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ディーヴァーのノンシリーズ作品。2年前くらいから訳出されると云われていた作品がようやく日の目を見た。
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『どちらかが彼女を殺した』に続く、結末を書かずに読者に推理を強要するミステリの第2弾である。
前作が容疑者2人だったのに対し、今回は3人。しかもその三人とも自身が手を下したと確信している。 新進気鋭の詩人神林美和子と婚約した落ち目の文化人穂高誠。彼に対してある特別な感情を抱いている3人。元恋人の雪笹香織、マネージャーでほのかに恋心を抱いていた女性を穂高に盗られた駿河直之、兄弟愛を超えた愛情を注ぐ妹を今まさに穂高誠に取られようとする神林貴弘。この3人が今回の事件の容疑者だ。 本書のメインの事件の被害者穂高誠という脚本家はこれまでの東野作品の中でも一、二を争う卑劣漢だ。 女癖が悪く、気に入った女性に次々に手をだし、関係がこじれるとマネージャーの駿河に尻拭いをさせ、罪悪感一つ抱かずにまた新しい女性へ手を出す。そして婚約者神林美和子との結婚も脚本や小説では成功したものの、ヒットをいまだに生み出していない映画で話題となっている美和子の詩を題材に映画を作ることで寵児となろうとしている、非常に打算的な理由からだ。 この穂高誠の設定を読んで思い出したのは『悪意』に出てくる小説家日高邦彦だ。しかし日高がいわば作られた偶像だったのに対し、穂高は真性の自己中心男である。 つまり読者の共感を覚えるのには極北に位置する人物であり、私も含め読者の大半は彼が殺されたことに快哉を挙げたことだろう。そんな死んで当然の男を殺したのは誰かというのが今回の謎だ。 しかし唾棄すべき人間が被害者ならば、それを殺した犯人に同情を覚えるのが読者というもの。読者の側とすればどうにか捕まらずにいてほしいと奇妙な共犯意識が芽生えるのも事実。こんな状況で犯人捜しを読者に強いる東野氏の演出がなんとも憎らしい。 さて肝心の謎解きの部分だが、前回よりもレベルが上がっているというのが正直な感想だ。最初に読み通した時は全く解らなかった。『どちらかが彼女を殺した』の方は加賀が仄めかすヒントについて記述されていた箇所が解ったものの、今回の事件は加賀が謎解きの手掛かりとしたポイントがどこのことを指すのか、全く覚えがなかった。 う~ん、これでは東野氏の云うただ単純に字面を追っているだけの読者に過ぎないではないか。 この感想は文庫巻末に添えられた袋綴じ解説「推理の手引き」を読んだ後で書いているのだが、それを読んでも全く分からなかった。というよりもこの手引きでさらに新たな手がかりが提示され困惑しているといった次第だ。むむぅ、この謎は難しすぎる。 ところで加賀刑事の尋問方法は刑事コロンボのようだ。一旦引き揚げると見せかけてまた戻って質問を投げかける。しかも直前の会話とは脈絡のないことを唐突に。 それは恐らく刑事の尋問で張りつめた緊張の糸が、刑事が去ることで緩められる、いわば無防備な心に付け入って動揺を誘うためだろう。本当に怪しい人物、つまり容疑者ならば不意の質問に動揺し、理論武装の殻が破れるだろうからだ。 私は逆に加賀刑事の尋問方法からコロンボのそれの意義を知らされた。 また今回複数の刑事が事件に携わるが、やはりその中でも加賀は異色の存在だったことが解る。本書は容疑者3人の視点で語られる一人称叙述なのだが、彼らの目に映るのは加賀の動じない性格に決して臆さない、ある意味無粋なまでに容疑者に介入してくる態度だ。そして彼らをして加賀を他の刑事とは一癖も二癖もある刑事であると思わせている。 これはやはり容疑者側の視点で書かれた『どちらかが彼女を殺した』、『悪意』、そして本作で加賀が今までの東野作品で一歩抜きんでた存在の刑事であることを読者に悟らせることに成功しているだろう。それはつまりノンシリーズ物を多く書いた東野氏が当時唯一加賀恭一郎をシリーズキャラクターにするために肉付けしなければならなかった部分に違いない。 この辺はセイヤーズがピーター卿をハリエット・ヴェインと結婚させるためにあえてシリーズを重ねて人間臭く描いていった創作意図を想起させた。 といった横道感想を経て、私はウェブ上で開陳されるネット名探偵たちの真相解明に目を通した。 ・・・今回も惨敗。 ただし今回の真相はウェブ上の推理を読んでもいささか歯切れが悪い所があるようだ。本当の真相は作者のみぞ知るのだろうが、これを是とするか否とするかは読者次第なのだろう。 謎は解かれるからこそミステリと考える読者はもやもや感が残るだろうし、逆に謎は謎のままだからこそまたいいのだと考える読者は是とするだろう。 私は『秘密』の後に書かれた(発表された)作品として本書を捉えると真相は一つでなくてもいいのではないかという作者の声を感じてしまう。 『秘密』の感想で私は結局藻奈美は藻奈美だったのか、それとも直子だったのかはそれこそ作者が読者に仕掛けた秘密ではないかと述べたが、本書もまたその延長線上にあるように思える。 単純にミステリとして作品にちりばめられた手がかりと伏線を拾えば、犯人は駿河と行き当たるだろうが、そこに残る「何故」もまた本書で書かなかった部分なのだ。謎が犯人に、そして真相に収束するのが本格ミステリだが、拡散するのもまたミステリだというのがこの頃の東野氏のミステリ観だったのかもしれない。 いやあ、今回は完敗でした。 またいつかこのような作品を書いてくれることを臨む。なぜならこの趣向が一番本格ミステリの愉しさを味わえるのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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性欲に対する人間の異常なまでの欲望と情動をテーマに描いた短編集。
まず最初の「眩暈」の主人公は外資系のコンピュータ・メイカーで働く35歳の男の妄想を描いている。 電話回線を使ってのインターネット利用や、会社のインターネットを不正利用してエロ画像をダウンロードする、などとおよそ現代の会社のITセキュリティーの観点からは一昔前の感が否めないが、もちろん本書の本質はそこにはなく、35歳の、営業の激務に晒され、おまけに家に帰れば赤ん坊の夜泣きのために寝不足になり、かつて美しかった妻はその輝きを失いつつあるという倦怠期にある男の肥大していく、義妹への妄想にある。 果たして奈緒は隠れた痴女だったのか?そこを敢えて明かさないところが上手い。 続く「人形」は実に馳氏らしい、どろどろの因縁話だ。 なんともやるせなさが残る作品。ハッピーエンドなど望むべくもない陰鬱な設定と話だった。実に作者らしい。 馳作品と云えばやくざだが、「声」ではとうとうやくざが登場する。 主婦のちょっぴり危険な秘め事が、やくざと出逢ったことで転落の人生の第一歩を辿る。犯され、蹂躙され、女として人妻としての人格を否定され、堕ちていく聡子とやくざ俵の関係と、苛められていると疑いのある息子将人の友人との関係が最後にリンクするところに上手さを感じた。しかし、ホント救いのない話だなぁ。 そして締めの短編は表題作「M」。MとはもちろんSMのMのことだ。 話は単純に風俗、それもSMクラブに嵌った男がどんどん自分の貯金をすり減らし、ドツボに嵌ってしまうという、よくある話なのだが、これを馳氏は主人公稔に父親殺し、そして夜な夜な繰り広げられる夫婦のSM、鑑別所を出所した後に引き取られた叔母との性交の日々などを絡め、性と暴力の物語に仕上げていく。 まゆみへの愛に狂い、衝動的に人を刺していく稔の末路までを描かず、報われなさを描くことで稔をどん底に引き落とす。 全4編で構成された短編集。全てセックスに関する人間の情動を描いた作品だ。そして全てバッドエンドなのがこの作者らしい。 ネットに蔓延するエロ画像、秘密の出会い系クラブ、伝言ダイヤルを使った主婦売春、SMクラブとここに挙げられているのは誰もが街中で目にする光景だ。 電話ボックスのチラシや街中で配られるポケットティッシュの広告に書かれたそれらの情報に興味を持った方もいるだろう。好奇心に押されてちょっと勇気を出して踏み出すことで、いつもと違うディープな世界に迷い込む、そんな性の扉たちだ。 つまりは人間の、少しだけモラルを踏み外したいと思った時に、一番手っ取り早い方法が、これらセックス産業だと云える。本作の主人公たちはその陥穽に嵌り、人生を転落していく人々。ちょっと踏み外しただけで運命の歯車に巻き取られ、堕ち行くしかない状況へ追いやられる。それまでの長編で見せた転落人生劇場がこの約80ページの短編でも繰り広げられる。 馳氏のそれまでの作品は忌まわしい過去や血の絆に縛られた主人公がどんどん暴力的衝動を肥大させて、退廃への末路を辿るストーリーばかりだが、作品を重ねるにしたがってそれらの描写や行為もエスカレートしてきた。そして特に生々しいまでに描写が増えたのはハードSM、凌辱ポルノと云った感じの激しいまでの性描写。本書はその激しいまでの性への衝動が前面に押し出されている。 そして今までの作品と違い、主人公は他の民族の混血児などではなく、純然たる日本人。ただ彼ら彼女らは隣にいるようでいない人物でもある。 1話目「眩暈」の主人公はできちゃった結婚した35歳のサラリーマンで営業の激務に苛まれながらも帰宅後は妻の愚痴の相手に赤ん坊の夜泣きと疲労が募って仕方がない男。 2話目の「人形」は家族ぐるみで付き合いのあった隣人との間には両親同士が浮気をして性交を重ね、また娘、息子たちもまた性交を重ねていたという過去を持つ女性。 3話目の「声」では暇つぶしに始めた主婦売春が病み付きになり、やがてやくざに嵌められ、売春を強要される主婦。 4話目の「M」では両親が夜な夜なSMプレイを愉しみ、そんな父親を憎んで衝動的に殺害した青年。 こう並べると4話中半分は誰もが経験しそうな話でもあり、また片方は異常な家庭環境にいた者たちが壊れていく話である。 性と暴力、抑えられぬ情欲と衝動。お決まりの馳氏のカードばかりだ。ただ本書の主人公たちはいつもの作品と違って我々の身近にいそうな人々。 そう、ノワールは我々のすぐそばに潜んでいるのだというのだろうか?セックスという生物誰しもが持つ性欲をキーに馳氏は4つのノワールの扉を用意した。ここに書かれているのはいずれも救いのない話。同じように堕ちていくか、そうならぬようぬ踏みとどまるか?貴方ならどうする?と問いかけられているようにも思える。 今までの馳作品の中でも最も薄い作品だが、中に書かれた人間の激情はいささかも薄まっていない。これを単なるポルノ小説と捉えるか、暗黒小説と捉えるか。私はやはり何を書いても馳氏は馳氏だとその思いを強くした。 セックスとは男女を問わず獣になる瞬間であり、そこに本性が生々しく表せるからだ。やはりセックスもまた馳氏のノワールには欠かせない要素なのだ。 馳氏の、人間の心の闇への探究はまだまだ続きそうだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リー・オフステッドシリーズ3作目。
わずか10か月足らずでもう3作も訳出されたことに驚く。案外人気があるのだろうか? それはさておき、今回は海難救助サービスの仲介業者の役員研修に参加したリーが誘拐未遂事件と殺人事件に巻き込まれるというもの。その背景にはその会社が大きく発展するに至った1971年のある海難事故があった、というお話。 今まで妻シャーロットのロマンスミステリ風味が強かったが、本作では過去の因縁話が現代の事件に翳を落とすというアーロンの特色が色濃く出ている。 ロマンスの相手グレアムは警備コンサルタントの仕事が忙しく、世界中を駆けずり回っている身であり、物語の中盤に出てくるのみで大きく事件には関与しない。したがってロマンス色は薄目であり、逆に被害者である会社社長スチュアート・チャペルが、過去に同僚であるアンディ・ゴットリーブを見放した事件が意外な形で現代に因果を残していることが物語が進むにつれて明らかになってくる(とはいえ、終盤グレアムは大いに物語に関与し、また二人の関係に大いなる前進があるのだが、まあ、それはアーロン・エルキンズのスケルトン探偵シリーズでも見られる程度のロマンスだと云えるだろう)。 ところでこのスチュアートが危うく遭難しそうになって仲間のライフラインを切断したという行為は何かを想起させないだろうか? そう、少し前に巷で話題となったハーバード大学のマイケル・サンデル教授の正義についての講義の内容だ。 急変した気候のために船は岩礁にぶつかりそうになっている。そんな中、海に潜った同僚は合図を送るも一向に浮上してくる気配がない。このような窮状で果たしてどのように行動するのか?つまり二人の命を救うために一人の人間の命を犠牲にできるかという命題が示されている。 本書はなんとまだ前世紀の1997年の書。この手の話はミステリではよく取り上げられるといえばそれまでだが、22年も前の作品が現在話題になっている大学教授の講義とリンクすることに奇妙な縁を感じる。 そしてやはりエルキンズのキャラクター創作力とユーモアのセンスは素晴らしい。例えばこんな一節がある。 「角でばったり犬と顔をあわせた猫の反応を想像できる?」ペグはそう訊いた。「それがジニーよ」 この一瞬意味不明な比喩でなかなか頭にそんな猫が浮かばないのだが、エルキンズはまさに云いえて妙の人物を拵えてくる。どんな人物なのか?と知りたい方は本書にあたって確かめてほしい。 これほど面白く読みやすいコージーミステリなのだが、本格ミステリ要素が濃いのもエルキンズ作品の特徴。 以前からエルキンズの作品を私は素晴らしきマンネリと呼んでいるが本書もその例に漏れない。本書には時間が止まるような驚きや謎解きによって得られるカタルシスなんてものはないが、作品世界に浸ることで得られる読書の愉悦が確実にある。面白さ保証のエルキンズの次作を楽しみにして待つことにしよう。 ところで本書の邦題はあまり内容とは関係がないような…。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作は一度1979年に出版されたが改稿と短縮を余儀なくされたものであり、それを1994年にリライトされた完全版である。
一作目がヴァイオレンス・アクション小説ならば二作目の本書はパニック・ホラー小説と趣をがらりと変えている。 かつて鉱山町として栄えた人口二万人ほどの町、そこにはかつてヒッピーたちと村人との間に死者が出るという忌まわしい過去があった。そして町の人々から信頼を得ている警察署長、そんな町に起こった雄牛が血の一滴も残すことないまま切り裂かれる怪事が起こる。やがて同種の被害が住民たちの間にも起こっていく。 とまあ、典型的なハリウッド映画的パニック物語である。 デビュー作『一人だけの軍隊』も実際に『ランボー』として映画化されたが、マレルという作家は実に映画向きの題材を扱う。 狂犬病と思しき症状を呈した犬が見つかり、そして野獣のようになった少年が現れ、それを皮切りに襲われた人々が同じような病に侵され、徐々に恐怖が町全体を覆っていく。奮闘するのはデトロイトから来た警察署長ネイサン・スローター。 そこに絡むのが編集長の命令で過去を回顧する記事を題材を訪ねに来たしがないアル中の雑誌記者ゴードン・ダンラップ。 そしてポッターフィールドを長く統治する市長パーソンズ。 街の治安を守ろうと孤軍奮闘する者と、落ちぶれた雑誌記者から何かスクープを手に入れて再起を図るジャーナリストと1970年代に起きたヒッピーとの抗争という忌まわしき過去を吹っ切り、安定を維持しようとする者。 それぞれがそれぞれの事情を抱えながら、彼ら3人を中心に物語は進行する。 そんな物語にサブストーリーとして加わるのが1960年代のフラワームーヴメント。ヒッピーのリーダー、クイラーが1970年にポッターフィールドの山奥に50エーカーもの広大な土地を購入して理想郷を築く。 彼らはしかし村人たちに厭われ、次第に忘れられていく。このサブストーリーが物語の終盤に大きくかかわっていく。 さてフラワームーヴメントに翳を落とすのはやはりヴェトナム戦争だ。デビュー作『一人だけの軍隊』もまたヴェトナム戦争帰りの軍人の物語。マレルはヴェトナム戦争を自身の小説のテーマとしているようだ。 この辺は彼の作品を読み進むうちにおいおい判ってくることだろう。 さて元々1979年発表の作品だが、その頃の小説の特徴なのか物語の合間合間に挿入されるエピソードが実に色濃い。 それは端役にしか過ぎない登場人物がポッターフィールドという田舎町に住むようになった経緯の話だったり、その町の歴史だったり、町にある文化財にまつわる逸話、狂犬病に関する知識だったりと様々だ。しかもその内容が箸休め程度ではなく、突然に延々と10ページも割かれたり、はたまた1章を費やしたりとやたらに長い。しかしそれでも内容は濃いため、実に読ませる。まるでサーガを読んでいるような気分になる。 改稿と短縮を余儀なくされたのはこの辺のエピソードの数々だったのかもしれない。 特に作者の創作であろうポッターフィールドの成り立ちが非常に読ませる。恐らくどこにでも存在するアメリカの僻地の旧鉱山町がモデルになっているのだろうが、マレルはその歴史を克明に描く。恰も実在の町であるかのごとく詳細に書く。 そういえば『一人だけの軍隊』の舞台もアメリカのマディソン郡にある片田舎の閉鎖的な町が舞台だった。そんな排他的な土地に紛れ込んだヒッピーという得体のしれない存在は何も危害を加えなくとも住民たちにとっては脅威だった。 そんな相互理解が及ばない状況だったからこそ起きた殺戮の幕開け。つまりマレルは閉鎖的な町も物語の主要因として考えているのだろう。だからこそできる限り詳細に描くのか。 本作で印象的なのは主人公の警察署長スローターだ。“屠殺者”という意味のラストネームで、大柄な体躯を持ち、デトロイト警察を引退して牧場を開こうとポッターフィールドに引っ越し、結局警察職に復帰した男。射撃の腕前は一流で、部下の信頼も厚い。いわゆる理想の上司なのだが、彼が臆病であることをひたすら隠しているところに興味を惹かれた。 彼はある事件(コンビニ強盗を働いた少年に散弾銃で撃たれ、瀕死の重傷を負った)で恐怖心を抱き、実は警察稼業を辞めて山奥で牧場でもやろうかと逃げてきた男だったのだ。しかし警察官しかしたことのない男には畜産業は無理で、周囲に求められるがままに警官に復帰したのだった。そんな彼の本当の姿を知られずに今までタフで理解ある、部下からの信望の厚い警察署長を務めてきたのだった。 つまりこのようなパニック小説で主役を張る人物が全て万能ではないのだということをマレルなりに皮肉っているのかもしれない。 さて町を恐怖のどん底に陥れた未知の狂犬病。その発祥の源はヒッピーのリーダー、クイラーが築いた理想郷のさらに奥、昔鉱山町だった跡地にあった。一念発起した住民たちはそこを一掃しようと乗り出していく。さらに途中にリーダーシップを放っていたスローターは市長パーソンズの策略で留置場に入れられてしまう、となかなか面白い展開を見せる。 (以下ネタバレへ) ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーン後期の作品だが、ダイイングメッセージと意外な犯人、と少しも本格スピリッツは衰えていないことを示した佳作。
複数の女性を浮名を流す、石田○一のようなジゴロ、カーロス・アーマンドがいかにして前妻グローリーを殺したか?というのが今回の事件。 このカーロスがものすごい女たらしであり、さらには何故かほとんどの女性は彼の手に落ちてしまうという凄腕テクニックの持ち主。そして彼の殺人計画の片棒を担いだのがすみれ色のヴェールを被った謎の女。クイーンと相棒のスコットランド人の私立探偵ハリー・バークは事件のカギを握るこの「幻の女」を探し出そうと躍起になる。 つまり本書はいつもと趣向が変わっている。主犯が明らかになっているのだが、実行犯である共犯者を探し出すという物語なのだ。しかしこの趣向は物語が終わってから気付かされるのであり、今までのクイーン作品を読んだ読者ならば犯人捜しがメインだと思わされるのだ。 例えば『災厄の町』などの諸作に見られる価値観の転換という手法をクイーンはよく取る。従って今回も早々に判明する夫の妻殺害計画もまたこの価値観の転換により覆るのではないかと思わされるからだ。往年の読者でさえも自らの作品傾向を利用してミスディレクションする、というのは穿ちすぎだろうか? さらに今回は今までの作品で見られた趣向が織り交ぜられているにも気づかされる。トリックに関してもそうだが、それは他の作品を読んでない読者の興を削ぐのでやめておくが、特に近似性を感じたのが『ドラゴンの歯』。今回タッグを組むハリー・バークは『ドラゴン~』で相棒を務めたボー・ランメルだ。 両者が事件の関係者と恋に落ちるところなどもそうだが、更によく読めば今回の登場人物の名前の一部が『ドラゴン~』でも出てくるところなんかもそうだ―容疑者“カーロス”・アーマンドと執事のエドマンド・デ・“カーロス”―。 さらには被害者グローリー・ギルドの姪ロレット・スパニアが公演をするローマン劇場は第一作『ローマ帽子の謎』の舞台ローマ劇場と思われるし、物語の終盤に登場するJ・J・マッキューは初期クイーン作品で語り手を務めたJ・J・マックであろう。つまりこれは原点回帰の作品ともいえる。 『盤面の敵』(これは純粋にはシオドア・スタージョンとフレデリック・ダネイの合作だが)と本作と晩年のクイーンはいわゆる後期クイーン問題を経て、改めて原点に戻ったパズラー志向を目指したようだ。それには初期の荒唐無稽さはなりを潜め、中期から後期にかけて人の心の謎を織り交ぜ、地味ながらもあくまでロジックで事件を解き明かすことを追求している。この頃、ようやく自分の足元を見つめて自らの書きたい作品を書くことを再認識したのではないだろうか? しかし、とはいえ今回の真相には首を傾げざるを得ない。 またクイーンはダイイングメッセージが好きでよく作品で使われているが、本作のメッセージは実にシンプル。なんせ“face(顔)”の一語。しかもなんともありふれた単語だ。このメッセージに込められた意味はしかし実に深い。 この謎解きを読んだ時に、いくらなんでも死の間際にここまで機転を利かせたメッセージを残せるだろうかとはなはだ疑問だったが、ここで物語の初期に登場する同じ単語が浮かび上がる日記の白紙のページに浮かび上がる“face”の文字という伏線が生きてくる。 さて今回やたらと当時の風俗を忍ばせる固有名詞が頻出する。NASAやビートルズ、ジョーン・バエズ、プレイボーイにポップ・アート、etc。 もしかしたら今までもこのような固有名詞は出てきていたのかもしれないが、自分が知っている、いや地続き感を覚える固有名詞は初めてである。それまではるか昔の作家だと思っていたが、ここにきてようやく私の時代に繋がった、そんな思いがした。 しかし余談だがかつてのクイーン作品で女性のバストに注目した小説はあっただろうか?いやに出てくる驚くべき胸のふくらみという描写。これも当時活況を呈したグラヴィアの流行なのだろうか。前述の固有名詞の頻出と云い、今まで以上に現代風味に溢れた内容になっている。 シンプルな謎、そしてたった一つの殺人事件ながらも謎解きは複雑で、おまけにアイリッシュを髣髴させる「幻の女」探しと、晩年の作品ながらもミステリ趣向溢れる作品なのだが、ネタバレに書いた理由により、肝心の真相に納得がいかなかった。 本書巻末に添えられた著作リストによればクイーン作品はあと4作。そこに私が感じるミステリがあるのか。期待してみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今までは東京の裏社会に暗躍する外国人の世界を舞台にしていたが、今回は逆に異国の街の暗黒世界に身を置く男を描き、生き抜くために喘ぐ姿を活写する。
それまでに発表されていた作品と180°設定と舞台を変えたのが本書である。 そして扱う世界はなんと台湾野球界。しかしそこは馳氏、ただのスポーツ小説を書くはずがない。 彼がテーマに選んだのは台湾野球にはびこる八百長。野球賭博を牛耳る黒道というマフィアが野球選手のみならず球団関係者をも買収して八百長―放水というらしい―を取り仕切っているのが台湾プロ野球界の現状らしい。 そしてその八百長の元締めを務めるのが日本人投手加倉。かつて鳴り物入りでプロ野球チームに入団し、ノーヒットノーランも達成したが、肩を故障してから調子を崩し、引退後会社を興すも倒産し、莫大な借金を抱えて誘われるまま台湾野球に逃げ込んだ男だ。 その加倉がどんどん人殺しの螺旋に堕ちていくのが今回の話。 加倉は頑なに自分が八百長に加担していないと主張するが、次第にそれが通じなくなっていく。どうにか自分が潔白の身であることを信じ込ませるために足掻くが足掻けば足掻くほど泥沼に陥り、一人、また一人と自分の立場を危うくする人を殺さざるを得なくなる。 しかし加倉が落ちぶれていながらも、そして実際に八百長に加担していながらも世間向けには無実である姿を死守しようとするのは何故だろうか? それは台湾にいる日本人野球選手で八百長に加担している者がいないからだ。日本人選手は台湾野球界の実状に絶望し、帰国してしまう。加倉は唯一台湾野球界の暗部にどっぷり浸かった人間なのだ。 そんな加倉が潔白の身であろうとするのはひとえに日本野球界の名誉を汚さずにおこうとする意地なのだろう。かつて大型投手として期待されながら故障によって日本球界を去らざるを得なかった加倉の心に最後に残った一握りのプライド。それは彼が日本人の野球選手だということなのだろう。 その本人さえも気付かなかった思いがずしりとのしかかるのは所属チームの社長から解雇通告を受けた時だ。水商売の経営、八百長の元締め、そして殺しと野球以外での活動が忙しかった加倉が解雇通告を受けて激しく動揺する。 自分から野球を取ったら何も残らない、と。野球こそ彼の拠り所であり、全てであった。だから自らプロ野球を汚しておきながらもどこかで大切な守るべき部分であったことに気付かされるのだ。 ただ刑事の王が加倉を手下として使うことになった理由について納得がいかない。刑事の王は物語半ばで加倉が生き別れた弟邦彦だったことが解り、王東谷は加倉の元母親の再婚相手だったことが判明する。 それ自体は特に驚きがない。王の執拗な加倉への憎悪は過去に大きな禍根を残したことによるものだろうと推察できたし、かつて元黒道だった王東谷が献身的に加倉の助けになるのも恐らく過去に加倉にまつわる何かがあっただろうことは容易に推察できたからだ。 しかしその後王が加倉の話を全部聞いた上でをスパイにして徐の情報を手に入れようとするのが解らない。理由として王は逮捕した犯人が実は兄だったと判明することで自分の刑事生命も危うくなるからだと述べているが、初めて加倉に逢った時から王自身はそれを知っていたはずである。その上で加倉が八百長に関わり、また俊郎を殺した犯人であると疑い、逮捕への執念を燃やしていたのはどうにも矛盾を感じる。 この辺については物語の終盤で何か説明があるのかと思っていたが、特に明確な答えには行き着かなかった。せいぜい憎悪する徐を始末せんがために利用したというぐらいしか語られなかった。 今回最も印象に残るキャラクターは加倉の通訳であり、良き理解者でありながら元黒道だった王東谷だろう。平時は善人ながらも窮地に陥った時は落ち着いた態度で迅速に対処する。そして自分が元黒道だった過去を忌まわしく思いながらもその過去に振り回される。 かつて山村輝夫という名だった在日台湾人の彼は加倉を支え、また加倉を助けるのに協力を惜しまない。その理由は物語半ばで判明するが、何よりも彼が植民地時代に受けた日本人教育の影響で日本人の精神をこの上なく尊敬しているのが彼の最たる特徴だろう。大和撫子と結婚し、陛下のために益丈夫を育てることが夢だったとまで述べている。 小林よしのりのゴーマニズム宣言シリーズの『台湾論』に詳しく述べられていたが、台湾人は日本の植民地時代に当時台湾に住んでいた日本人に生活を豊かにしてもらった経験があり、新日派が多い。その後中国からの侵略を受け、台湾には中国からの移民組、外省人と生粋の台湾人、本省人の対立は根深い。王は本省人でしかも日本人の精神を学び、自らを天皇の民、皇民と誇りを持って自称する。そんな人物がかつては黒道という台湾やくざの一味であったというギャップ。 それは彼の純粋さ故だ。日本人を尊敬し、日本人でありたいと願うばかりにいざ結婚した日本人妻が子供の産めない身体だったと知ると烈火のごとく怒り狂い、暴力も辞さない。 題名となった夜光虫とはつまり台湾の闇に蠢く加倉、王東谷、王國邦、徐栄一ら手を赤く染めた人たちを指しているのだろう。しかしそれはいつもの物語設定であり、この物語だけに当て嵌まる題名ではない。 登場人物、舞台設定などはリアルであるのに語られる物語がいつも同じというのは非常に勿体ない。馳氏の新しい物語を期待する。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ハリウッドアクション大作『ランボー』の原作である。
同映画が公開されたのがまだ小学生だった頃。当時ワクワクしながら観たのを覚えている。とにかくアクションがすごいというだけで観たため、詳細なストーリーや設定は頭に入っていなかった気がする。 さてその原作がマレルの手によるものだというのは知っていた。発表されたのは映画より10年も前の1972年。なんと私の生まれた年である。 映画化から37年経って読んだ原作。なんだか感慨深いものがある。 一読して驚いたのはランボーの敵役の警察署長ティーズルがいわゆる田舎町を牛耳る悪徳署長などではないことだ。 ランボーを町から追い出そうとしたのも身元不明で怪しい身なりの人物が町をうろつくことで住民が不安を覚え、治安が乱れるのを防ぐためだし、またランボーを追うことになったのも彼が目の前で自分の部下を殺したからだ。また彼は朝鮮戦争を経験した後に警察署長としてマディソンに戻ってき、警察機構として機能していなかった署の改善に尽力してきた人物でもある。 つまり至極まっとうな人物なのだ。 片やランボーはヴェトナム戦争で捕虜になり、そこから生還した元グリーンベレー。名誉勲章も得たが捕虜になった時の経験で心が壊れた状態になっている。 従って署に運ばれた時に髪を切り、ひげを剃られる時に捕虜で受けた拷問を思い出し、とうとう耐え切れなくなり警官から剃刀を奪って殺害し、逃亡してしまうのだ。 そこからはグリーンベレー時代のことを思い出し、人を殺すことへの罪悪感も薄らぎ、逆に追ってくるティーズルら一味を皆殺しにすることを決意する。 そう、通常の物語構造から云えばランボーは元グリーンベレーでヴェトナム戦争の時に抱えたトラウマでおかしくなった殺戮マシーンであり、それを追い出そうとする警察署長ティーズルらは彼のターゲットとなり、善と悪で云えばティーズルが善、ランボーが悪なのだ。 これは映画の構造と全く逆で驚いた。まさに価値観の転換である。 そして単なる一人対多勢の戦闘小説に終始しない。ランボーが生き抜くためのサヴァイバル小説でもあり、はたまた冒険小説の要素も兼ね備えた内容になっている。 そして読中、しきりに頭を過ったのはレンデルの『ロウフィールド家の惨劇』だ。この全く色合いの違う作品だが、物事の発端は全く以て同じだ。 先にも書いたが、ティーズルは不審者である男を尋問し、町から出るよう警告したのだが、相手が何者であるかを知らなかった。というよりも理解しようとしなかった。 だから彼は通常犯罪者に行うように裸にして、洗浄したり、個室に入れて取り調べをしようとした。しかしランボーはヴェトナム戦争で捕虜としてひどい扱いを受け、閉所に対して深いトラウマを持っていたため、それが彼の生存本能を引き起こしてしまった。 片やランボーは署長の警告を無視した。彼はそれまで何度も行く先々で同じような仕打ちを受けており、うんざりしていた。彼は戦争の英雄であり、ティーズルのような小物に指図されるような男ではないと思っていた。そして彼は逃げ出した時に元来持っていた闘争本能が目覚め、自分がどれほど強い男なのかを知らしめようと思ってしまったのだ。 お互いがそれぞれの思惑を通そうとしたが故のボタンの掛け違え。それが大量殺戮を生み、1つの町を殲滅する寸前の大事にまで発展してしまうのだ。 最終的にこの小説はあらぬ疑いを受け、いわれのない虐待を受けた戦争帰りの男の復讐譚ではなく、町の治安を守るために不安要素を排除しようとした町の署長が一人の男によってそれまで築き上げてきた地位や安定、全てを失う物語であり、ヴェトナム戦争で捕虜となって奇跡的に生還した男が再び闘争心を甦らせ、無敵の戦士になる物語であるのだ。 そう、これはランボーとティーズル2人の物語なのだ。あまりにも有名になってしまった映画のためにこの作品の本質は多くの人間が誤解を招いてしまっているように感じる。斯くいう私もまたその一人なのだ。 しかし映画と小説は別物だという主張もある。ハリウッドはこの作品の設定を借りて映画史に残るアクションムーヴィーを作り、成功した。 作者の意図や希望がそれに合致したかどうかは寡聞にして知らないが、それもまた良作故の功罪か。 『ジュラシック・パーク』がクライトンの作品から一人歩きをしたように、この作品にもまたそのような道を辿ったのかもしれない。 とはいえ、続くシリーズ2作、3作もマレルによって書かれているのだから上のような判断は早計というようなもの。果たしてマレルの真意はどこにあったのか。 これについてはそれらも読んで判断していこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ガリレオこと帝都大学理工学部物理学科第十三研究室助教授湯川学が活躍する探偵ガリレオシリーズ。
福山雅治が主役でドラマを演じ、一世を風靡し、その後現在に至るまでの東野ブームを作った『容疑者Xの献身』へと続く加賀恭一郎と並ぶ東野圭吾のシリーズキャラクターだ。これはその湯川の初登場作となった短編集。 まず冒頭の「燃える」はいきなり発火して焼死した男の謎を湯川学が解き明かす。 トリックは比較的単純でミステリを読み慣れた者ならばすぐに解るに違いない。しかし犯人については非常に上手いミスディレクションがなされている。冒頭と途中に挟まれるエピソードが叙述トリックになっているのが憎い。 また町工場に置かれた製作機械について湯川が色々と会話するシーンは久しぶりに元エンジニア東野氏の面目躍如といったところか。 次の事件「転写(うつ)る」ではリアルなデスマスクが中学の文化祭で発見され、それが失踪した歯科医の物だと判明する。 これは半分当たり、半分外れたといったところか。 結末はオカルトチックにまとめられていてなかなか面白い。 続く「壊死(くさ)る」では風呂場で怪死した事件を扱っている。 物語は倒叙物として描かれる。同居を迫るスーパーの社長を嫌悪するホステスが自分に惚れる男の話に乗って殺人を犯す。しかしその犯行方法が解らないのが通常の倒叙物とは違っている。 さて次の「爆ぜる」はいきなり海水浴場の沖合でビーチマットに乗った女性が爆死するという衝撃的なエピソードから始まる。 この事件の構造は複雑。まず最初の犠牲者は湘南海岸の沖合で爆死する。次に一人暮らしの男性の変死体がアパートで見つかる。第2の被害者は帝都大学のOBで就職していた会社を辞め、斡旋した教授や大学に只ならぬ感情を抱いていた。 この2つの事件が意外な糸で結びつくのだが、これは最初の被害者の女性が帝都大学で事務をしていたことが終盤になって解るのはアンフェアだろう。 最後のエピソードは「離脱(ぬけ)る」。幽体離脱した少年がたまたま殺人事件の被疑者になった男が停めていた車を見たという不思議な現象を扱っている。 これも科学の実験で証明される。正直この作品が一番どうやって解決するのかが解らなかった。そしてその種明かしも知らない現象だった。しかし本作はそれにとどまらず、フリーライターを生業にしている父親が息子の現象を利用してひと山当てようと画策する卑しい心がテーマとなっている。 天下一大五郎シリーズ『名探偵の掟』、『名探偵の呪縛』の後に刊行されたのが本書。その内容はバリバリの理系本格ミステリ。前述の作品で本格ミステリへの訣別宣言とも取れる文章を書きながら、直後に発表された。 さて本書の中で最も古いのはオール読物1996年11月号に発表された物。片や『名探偵の掟』収録作品で最も新しいのは1995年に書かれており、『名探偵の呪縛』は1995年10月に書き下ろしで発表されている。 ん? ということは訣別宣言の後に書かれていることになる。つまり『~呪縛』で書かれた作者自身と思われる主人公の発言は本格ミステリからの訣別ではなく、もう1段上を目指した本格ミステリを書くという宣言だったのかもしれない。 さてそんな東野氏が目指した本格ミステリ連作短編とはいかなるものか。 それは科学の現象を利用した犯罪を暴くという物。 事件の不可思議さの反面、それぞれの犯行の動機は実に普通の他愛もない。これらは人の心の謎へミステリの要素をシフトしていった当時の東野氏にしてはびっくりするほど普通のミステリである。 しかし本書の狙いはそれらの動機ではなく、理工学系の大学教授を探偵に配して科学の知識を利用した犯行方法を解き明かすことに焦点を当てている。つまりHowdunitを追求した作品集なのだ。 さて本作はこの後続く湯川学シリーズ、いやガリレオシリーズの第1作目。いわばお披露目用の短編集といった趣。従って読み心地も軽く、ミステリとしては佳作といった内容だろう。 しかし奇妙だったのはガリレオの由来が明確に書かれていないことだ。突然最終話の「離脱る」で草薙刑事の同僚、上司がガリレオ先生と綽名をつけて呼んでいることが判明する。 当時はあまり深く考えていなかったのかもしれないが、上述したようにガリレオシリーズは東野作品を代表する柱の1つになっているから、この呼び名の由来はきちんと補完してほしい。 さて傑作『容疑者Xの献身』に向けてガリレオシリーズを読んで同作をもっと深く楽しめるために次の『予知夢』も読んでおこう。 最後に全くの蛇足だが、本書の解説は佐野史郎氏。彼の文章によれば主人公の湯川はなんと佐野氏がモデルだったとのこと。 現在では福山雅治がガリレオ像を作ってしまったが―不思議と私は読書中脳内変換されなかったが―、当時ドラマ化されたときの佐野氏の心境はいかなものだったのか? それは触れると野暮というものであろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のカー作品。しかもハヤカワ・ミステリでしか刊行されていなかったバンコラン物の作品で、さらに新訳と来ている。
海外ミステリ不況が叫ばれる今、このような慈善文化事業めいた出版がなされようとは思わなかった。東京創元社の志の高さを褒め称えたい。 本作はまだカーの2大シリーズ探偵HM卿とフェル博士が出る前の1932年の作品と、最初期のものだが、物語は実に深く練られている。 まず冒頭の半人半獣サテュロス(上半身が人間の男性で下半身が山羊という牧神パーンに似た風貌)の蠟人形に抱かれるように死んだ女性の遺体の発見というカー得意の怪奇的演出から始まり、その蠟人形館が身分の高い紳士淑女たちの密会クラブへ通ずる秘密の進入口へとなっていることが判明することで淫靡な趣を呈し、さらにはその経営者の一人である暗黒街の大物エティエンヌ・ギャランへつながっていく。 このギャランがかつてバンコランに痛めつけられ自慢の容姿を台無しにされた因縁の相手であり、ライバルの登場と物語の展開がドラマチックで淀みがない。 また語り手のジェフが仮面を被って秘密クラブへ潜入するというサスペンスも加味され、なんとサーヴィス精神旺盛な作品かと感嘆した。 特にバンコランが蠟人形館の館主オーギュスタンを呼び出したがために蠟人形館がいつもより早く閉まってしまい、そのためにいつも蠟人形館からクラブへ出入りしていたジーナが入れなくなって躊躇することになり、彼女が蠟人形館に入り込むことで事件を複雑化していく。 まさにシチュエーションの妙。 後の『帽子収集狂事件』、『皇帝のかぎ煙草入れ』などの傑作に通ずる偶然ゆえに起こった不可解時がこの時すでに確立されている。 事件の発端となったオデット・デュシェーヌ殺しは早い段階で事の真相が明らかにされる。 そしてクローディーヌ殺しの真犯人は実に意外だった。 そしてこの真相を知った後でバンコラン達がマルテル大佐邸を訪れた第9章を読み返すと実に全ての内容が腑に落ちることになっている。 これを推理の材料として繋げるのは至難の業だが、カーはあくまでフェアであったことが解る。 仲良し三人組と思われた関係には実は陰湿な感情が蠢いていたこと、名家のお嬢様クローディーヌが家の風習を嫌悪し、自由な放蕩生活を手に入れたがゆえに同じく名家の出であるオデットが名家の規律を重んじ、人好きのするお嬢様であることに対する嫌悪、一方で名家を重んじる厳格な血筋の持ち主、そして富裕層の密会クラブである色つき仮面クラブへの秘密の出入り口の役割を蠟人形館が担っていたこと、そしてその蠟人形館にはあまりにリアルな蠟人形が数多く展示され、その中には恐怖の回廊と呼ばれる古今の有名な犯罪事件の1シーンが展示されていたこと、そういった要素が複雑に絡み合い、今回の事件に至る。 振り返るとなんと重層的なプロットだったことかと改めてカーの才能に感嘆する。 しかしとはいえ、主人公のバンコランにはどうも好感が持てない。 元々メフィストフェレスのような風貌をした冷血な予審判事という触れ込みで登場しているが、無断で家宅捜索したり、盗聴器を仕掛けたり、更には警察に嘘の情報を流して誤導したりとやっていることは現在ならば不当捜査として捜査は無効になり、逆に告発されるほど滅茶苦茶である。 悪漢判事もここに極まれり。どちらが犯罪者か解りやしない。これが今回の評価に大いにマイナスになった。 さて東京創元社は以前からカー作品の新訳改訂版の文庫刊行を進めていたがこれはまだ続くようだ。本当に素晴らしい。 これからもカーのみならずクイーンやウールリッチ、ロスマクなど、このまま絶版で埋もれるにはまことに惜しい巨匠たちの名作を続々と新訳で出してほしいものだ。 頑張れ、東京創元社! ▼以下、ネタバレ感想 |
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『ウォッチメイカー』で初登場した尋問の天才キャサリン・ダンスが主役を務めるスピンオフ作品。とはいえこの後彼女が主人公の『ロードサイド・クロス』も刊行されているから、新シリーズの幕開けといった方が正解だろう。
新シリーズの主人公をあらかじめ他のシリーズ作品にゲストとして登場させる、このディーヴァーの目論見は当たっていると思う。他のノンシリーズの作品に比べてはるかに物語に移入しやすい。 ダンス以外は全くの初対面の人物ばかりだがダンスがいるだけでライムシリーズの延長のような錯覚に陥り、すんなり物語世界に入っていけた。 今回ダンスが相手をするのはダニエル・ペル。10年前にIT企業家一家を殺害した事件で捕まったカルト集団のボスだ。このダニエル・ペルは人の心を読み、コントロールする能力に長けている。その場の状況、相手によって自分の境遇や過去を偽り、共通点を見出させ、共感を覚えさせ、同族意識を植え付けるのだ。服役中も看視員をその手法で取り込み、囚人に禁じられているインターネットの閲覧なども秘密裏に許可させたりもする男だ。従って彼の尊敬する人物もヒトラー、ラスプーチン、スヴェンガリといったカリスマ性を持った人心掌握術に長けた人物ばかりだ。彼は人の心をコントロールすることに喜びを覚えているため、彼の支配下に置けない人物は“排除”しようとする。 ダンスは最初の尋問で逆に彼の心をコントロールしたため、逆に脅威となってしまう。しかしそんなダンスでも彼の真の目的が解らないのだ。 『ウォッチメイカー』で颯爽と登場したキャサリン・ダンスから受ける印象はどの読者も、“すべての嘘を見破る歩く噓発見器”と思っていたに違いないが、本書ではキネシクスのエキスパートであっても見抜くのが困難な嘘つきもいることが述べられている。それは情報を出さずに真実を回避する者や嘘を真実とみなせる狂信者などだ。 当初、味方であった人物が敵だったり、そのまた逆であったりといったディーヴァーお得意のどんでん返しが起こった時になぜ彼ら彼女らが行う芝居、嘘を見抜けなかったのかと懐疑的になったがどうもキネシクスも万能ではないようだと気付かされ、それで納得がいった。 またこのダンスのキネシクスを生かした尋問方法は諸刃の剣であることが解る。それは彼女は嘘を見抜くがゆえにそれぞれの人間の立場を守ろうとする嘘まで見抜き、丸裸にしてしまうからだ。それは彼・彼女らにとってはキャリアの終焉を意味する。もちろんダンス自身もそれは承知しており、時に苦い思いを抱く。知らなくてもよい真実が見えてしまうこともまたキネシクスの特徴なのだ。 さてライムシリーズが現場に残された物的証拠から推理して犯人の行動を読み取るのに対し、尋問の天才キャサリン・ダンスはキネシクスを駆使して動作や身振りからその人の本当の心理状況を見抜き、また関係者から得た犯人の情報から推理して犯人の行動を読み取る、云わばプロファイリングに似た手法を取る。 物質のライムに精神のダンス。ディーヴァーはまさに魅力的な二巨頭のシリーズキャラクターを創造したわけだ。 そしてやはり読者の期待通り、アメリアとライムのカメオ出演があった。その役割は実に他愛のない物で直接にキャサリンの事件の手助けになったわけではないが、やはりこういうサービスはシリーズ読者には嬉しいものだ。 恐らくディーヴァーは敢えて彼らに重要な役回りをさせないようにしたに違いない。これはあくまでキャサリンの事件であるからだ。しかし「ウォッチメイカー事件」のその後も語られ、まだ彼が暗躍しているのが解ったのも収穫だ。 さて今回の題名は敵役ダニエル・ペルが投獄されることになったIT企業家一家惨殺事件の唯一の生き残り、当時9歳だったテレサ・クロイトンに付けられた呼び名に由来する。事件当日、玩具の山に埋もれるように寝ていたため事件に巻き込まれることがなかったのだ。 しかしこのスリーピング・ドールという題名は読後の今、実は当時ペルに与した仲間の女性たちのことを指していることが解る。 ペルという人の心を操るのに長けた人物によって人生を狂わされたリンダ、レベッカ、サマンサ、そして共犯者であるジェニー。この4人の女性こそがペルの呪縛によって眠らされていたスリーピング・ドールだったのだ。そしてその呪縛が解けた後のそれぞれの生き様が四者四様であるのが興味深い。特にサマンサとジェニーの変わり様が印象に残った。 余談だがペルが襲撃していた際に眠っていたとされるテレサがその実起きていたというのが実に面白い。彼女はペルの一家惨殺事件の被害者でありながら、実は彼女自身には何の心的外傷を得ていなかったのだ。従ってやはりスリーピング・ドールとはテレサのことではなく、彼女ら4人のことだったと解釈するのは妥当だろう。 しかもその文脈で考えるとこの題名自体もミスディレクションであると云えよう。 物語の核であるペルの脅威が収まるのは下巻の340ページ辺り。まだ約100ページが残っている。 哀しいかな、書物という物はこの後の残りページ数でこれで事件が解決したものと思わないように物理的に教えられる。これが映画館で観る映画ならこんなことはないのだが。 従って読者は残りのページで起こるであろうどんでん返しを想像することになり、驚愕の結末もこれでは薄れてしまうであろうから困ったものだ。 さて最後になったがやはりこのシリーズに登場した人物たちにも触れておこう。 キャサリンの仕事上の好パートナーであり、私生活でもパートナーとなるのではと思わされたモンテレー郡保安官代理のマイケル・オニールはダンスのよき理解者であり、またよき相談相手である。しかし妻帯者である彼とダンスの今後の関係はどのように変化していくのか、非常に気になるところだ。 そしてダンスの有能な部下TJ・スキャンロンはCBI捜査官らしからぬカジュアルな服装とどこでも思わずついて出る軽口が特徴の人物。しかしその働きは有能でダンスの痒い所に手が届く捜査をしてくれる。 最後にチャールズ・オーヴァービー。新任のCBI支局長であり、ダンスの上司だが、早く功績を立てて出世したがっており、その種の人物同様、保身のために部下を売ろうとすることも考えている。一見無能な人物と見せながら物語の最後には意外な決断を下すという実に読めない人物。 とこのように有能な人材で構成されるライムチームとは違った個性的な人物を配してディーヴァーはまたまた面白い物語を紡いでくれるようだ。 本書はまだ軽いジャブといったところ。今後のキャサリン・ダンスの活躍に大いに期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『名探偵の掟』の名探偵天下一が再登場する長編。しかし作者東野氏自身と思われる作家が図書館に迷い込むうちに自分が天下一になってしまうというファンタジーな設定になっている。そのためか実に内容はメタフィクショナルだ。
常に読者の目を意識した天下一の言動は前作『~の掟』を踏襲した本格ミステリの約束事を意識的に揶揄したものだし、またその言葉は作者東野圭吾氏の生の声でもある。 そのために本格ミステリの特異性を際立たせるために本格ミステリのない世界を設定したのが素晴らしい。つまりそこでは本格ミステリの約束事がそのまま普通に暮らす人々にとっては訳の解らない思考であることが逐一書かれる。 例えば最初に出てくる事件では初めて密室殺人事件に遭遇した登場人物たちは殺人を犯すのになぜ密室を作る必要があるのかが全く理解できない。 さらに当たり前すぎる動機では読者に罵倒されると思わず漏らす主人公などなぜ普通の理由で、普通の方法で人を殺していけないのかが改めて問われる。この辺のやり取りは実に面白かった。 そして読み進むにつれ、これは東野氏の本格ミステリからの訣別宣言を表した書だということが解る。かつて江戸川乱歩賞でデビューした作者はその後もトリックを駆使した密室殺人をいくつも著していたが、もはやそんな物に興味を失ってしまったと吐露する。しかしそれが完全なる訣別ではなく、またいずれは帰ってくる場所であることも書かれている。 以前から書いているが『宿命』を契機に誰が殺したとかどうやって殺したといった推理クイズのような楽しさよりも人間の心情の謎について書くことに興味が移ってしまった東野氏だが、その後も探偵ガリレオシリーズなども書き継いでいることから、初期作品からブラッシュアップされた本格ミステリを書くことを心掛けているのが解る。 訣別しようと思いながらも本格ミステリが持つ独特の魔力に抗えない、そんな心情を東野氏はこの作品で見事に表している。つまり本書は小説の形を借りながら東野氏の本格ミステリへの思いを綴ったエッセイであると云えるだろう。 さて本書が刊行されたのは1996年。つまりもう23年も前の作品であるのだが、そのため今読むと興味深い記述も見られる。 特に冒頭の図書館のシーンで自分の作品を発見し、貸し出し状況を見ようと思ったがその結果が怖くて結局見ないことにしたという一節があるが、今の東野フィーバーの状況を考えると隔世の感がある。確かにこの頃はミステリ読者からは好評は得ていたものの、売れていたとは決して云えない状況だったのだ。 そんな観点で読むとまた当時の東野氏の作家としての立ち位置なども垣間見え、最近ファンになった人々も興味深く読めるのではないだろうか。 ただやはり本書はある程度本格ミステリを読んでからにしてほしい。そうでないと解らない面白味に溢れているのだから。 |
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