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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数694件
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光文社が鮎川哲也氏を選者として一般公募した作品で編まれた本格ミステリ短編集『本格推理』シリーズの11巻で石持浅海氏は見事応募作品が選出され、デビューを飾った。そしてその一般公募者から選り抜かれた新人作家がKAPPA ONEというシリーズ叢書でデビューを飾る。その中の1人が石持氏で本書こそがその1冊であった。
そして氏が選んだ舞台はなんとアイルランド、しかも扱う題材はアイルランドの武装勢力NCFが殺し屋に依頼するある幹部の暗殺劇。このどうにもエスピオナージュ色濃い設定で本格ミステリを成立させるという異色な意欲作だ。 上に書いた物語のシチュエーションから本書が本格ミステリのいわゆる「嵐の山荘物」だと誰が想像するだろうか? 石持氏はこの本格ミステリの典型とも云える、警察が介入できず、しかも外部との連絡が絶たれた状況の密室状況を、あくまで現実的で起こりうるだろう状況で実現させるためにアイルランドの武装勢力NCFの一味が宿泊先で何者かに殺害され、警察への介入を許さないというこれまでにない特異なアイデアで設定した。 アイルランドはスライゴーにある有名な湖畔に立つペンション(本書ではB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)と呼ばれている)に集まったアメリカ人、日本人、アイルランド人、オーストラリア人ら観光客に交じって武装勢力NCFの幹部たちが集う。しかもNCFは和平反対派である幹部の一人を自然死に見せかけて暗殺するため、刺客を差し向けている。その中で起こるターゲットの殺人。しかしそれは当初NCFが望んだ形ではない明らかに殺人と思える不審死だったというもの。誰が幹部の一人を殺したのか、そして滞在客に紛れている刺客は一体誰かという2つの謎が読者に提供される。 また舞台がアイルランド、そして名のみこそ聞くがあまり馴染みのないIRA、NCFといった武装勢力を題材に扱っているため、その成り立ちや北アイルランドの今に至る歴史的背景が語られる。 話が横に逸れるが、私は本格ミステリ、社会派、ハードボイルド、冒険小説、スパイ小説にエスピオナージュといわゆるミステリ、エンタテインメントと称される小説のジャンルは広く読むのだが、ミステリ系のオフ会に参加した時は本格ミステリ、しかも新本格の作品からミステリに触れ、そればかりを読んでいる人が多いことに驚くことがしばしばある。またミステリ系感想サイトでもいわゆるハードボイルド系、プライヴェート・アイ小説、冒険小説にエスピオナージュの感想に対して、ミステリではないからそのようなサイトで感想を挙げること自体に違和感を覚える読者がいて、びっくりしたりもする。 私は本書を読むことで本格ミステリしか読まない方々が世界の情勢について触れ、また関連した小説に読書の範囲を広げる一助になるのではないかと思った。 が、逆にカタカナばかりの登場人物でなかなか読書にのめり込めなかったという感想があれば結局本書で試みたエスピオナージュの題材で本格ミステリを書くという斬新な試みが理解されない懸念もあるのだが。 そして舞台の特殊性に加えて本書には他の本格ミステリには見られない特異性がある。それは物語の状況が政治的に大事な交渉を控えていることから、NCFが納得のいく事件の解決しなければならないのだが、それは真犯人が違っていても構わないから論理的に誰もが納得のいく解答を見つけさえすればよいというものだ。 これは実は本格ミステリが抱えるある問題について作者が自覚的でもあることを示している。 謎が現場の手がかりをもとに論理的にきれいに解かれるのが本格ミステリであり、醍醐味であるが、それは一番納得のいく解答が示されただけで犯人による誤導であり、実は別の真相がある可能性がある問題だ。つまり後期クイーン作品によく見られる操りのトリックであり、真犯人がある特定の人物にたどり着くように故意に手がかりをばらまき、誤導する、もしくは実行犯を仕立てあげ、実際には手を下さずに目的を果たすといったものだ。 つまり本書では本格ミステリ作家がいつか直面するこの本格ミステリのジレンマをなんとデビュー作の時点ですでに取り入れているのだ。とても新人とは思えない達観した考えを持った作家である。 ただ石持作品に対して書評家の方々が口を揃えて述べている欠点として、登場人物の心情が理解できないという特徴があるのだが、それは私も本書を読んで感じたことだった。 特にそれが顕著なのは2人目の犠牲者としてペンションのコックであるフレッドが庇から転落して首の骨を折って即死してしまうのだが、そのすぐ後に探偵役のフジが陰鬱な雰囲気を紛らわせようと死んだコックの代わりに滞在客みんなで料理に興じるという場面だ。 目の前で人が亡くなっているのに、料理をしようという意欲が出るのだろうか?ましてや心的ショックから食欲など湧かないのではないだろうか?しかもみな嬉々として料理を楽しむのである。これにはさすがに違和感を覚えずにはいられなかった。 さてタイトルにある薔薇だが、それはイエイツが自身の詩でアイルランドの自由を薔薇の木に例えていることに由来する。つまり南北アイルランド統一が薔薇ならば和平交渉成立はその礎となるのだ。つまりアイルランドに薔薇を咲かせるために謎は解かれなければならないという意味だ。 この辺のセンスからも他の本格ミステリ作家とは違ったものを感じる。 本格ミステリのコードに淫するあまり、本格ミステリ作家の多くが特殊な因習や人里離れた奇怪な人物が主を務める館といった、日本と思しき「ここではないどこか」を構築し、その自ら作った箱庭の中で登場人物を駒のように動かし、パズラーという知的ゲームを披露するのに対し、石持氏は本格ミステリのコードをいかに現実レベルで成立させるか、我々が新聞で目にする事件や会社生活で目の当たりにする異常事態を巧みに題材にしてさもありなんとばかりに読者に腑に落ちさせてくれるのが実に特徴的だ。 逆になぜこのようなシチュエーションが今までありそうでなかったのかと思わされるぐらい、実に自然な状況なのだ。 また他の本格ミステリ作家が本格ミステリを知的ゲームの最高峰として心酔しているように創作しているのに対し、デビュー作の時点から論理的解決の万能性に懐疑的であることから他の本格ミステリ作家とは一歩引いた視座で本格ミステリを捉えているようにも思える。これこそ氏の本格ミステリ作家としての強みであろう。 当時KAPPA ONE1期生としてデビューしながら唯一『このミス』常連作家となっていることが本書を読むことで実に納得できる。 本格ミステリに新しい角度から光を当てた石持氏。次はどんなシチュエーションを見せてくれるのか、非常に楽しみだ。 |
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今回服部氏が選んだのは一大メディア企業の買収劇。一頃日本でも話題になったM&Aがテーマとなっている。
その劇には2つの主役がある。 一つは世界中で有名なアニメキャラクター「くまのデニー」を抱え、そこから映画部門を創設して世界にテーマパークを持つまでになったハリス・ブラザーズ社。 これはまんまディズニーそのものだ。特に作中で描写される「くまのデニー」の風貌はミッキー・マウスそのままのようだ。 もう一つはコンピューター・ビジネスの巨大企業『マジコム』社。天才的カリスマ会長兼CEOのビル・ブロックはビル・ゲイツを髣髴させる。 こちらは恐らくマイクロソフト社がモデルだろう。つまりアメリカきっての二大大型企業、ディズニーとマイクロソフトの仮想一騎打ち買収対決が本書であると云えよう。 しかもハリス・ブラザーズ社の最高執行責任者(COO)のノックス・ブレイガーとビル・ブロックがかつての学友でライバル関係であり、しかもノックスの前妻が今のビルの妻であるという2人の天才同士の仮想対決でもある。 そんな2人によって繰り広げられる仕手戦はやがてある情報によって一気に流れが変わる。それはハリス・ブラザーズ社に隠れた財産があるという事実。 その正体が創設者ジェイク・ハリスが遺した新キャラのデザインだった。数十年前の記念行事で埋められたタイムカプセルにそれは封印されている。 さてこれが現実のディズニーに擬えるとどうだろうか?確かにこれは魅力的ではないだろうか?今なお生まれる新キャラクターたちが世紀を超えた我々をなぜか夢中にする魔力。例えば日本オリジナルのキャラクター、ダッフィーが世界中に波及して人気を博す、こんな不思議な力がディズニーと云うブランドには宿っている。この現実を考えるとこの隠し財産の威力は実にリアルな秘密であると云えよう。 そしてこの秘密のデザインを暴こうとするシェリルと反、そして特撮技師のレイモンド・スプーンが描いた作戦がなかなかに面白い。 緻密に企てた作戦は特撮技師と云う特殊技能を持つレイモンドの存在がなければ成り立たない計画だ。この辺は実に映像的でしかもサプライズもあり、これが本書のクライマックスとしてもいいくらいの出来栄えだ。 そしてこの秘密のデザインを手に入れたことで『マジコム』側は隠し財産の途轍もない価値に気付き、一気に買い上げ価格を吊上げ、攻勢に出る。 しかし宿敵ブレイガーはそんな窮地に陥っても、ウィンストンの隠し子を手に入れることで泰然自若としている。このウィンストンの隠し子、チャイニーズ・マフィアのデイヴィッド・ウーに何が隠されているのか、Xデイに向けて緊張感は募っていく。 服部氏が凄いのはこの買収劇にアメリカのある法律を絡ませていることだ。 以前、某企業が発明した権利は会社の物か発明者の物かという問題が起きたが、本書の問題もそれに近い。 「くまのデニー」の作者であるジェイク・ハリスによって生まれたハリス・ブラザーズ社。当然ながらその権利は会社に帰属すると思われるが、会社が設立する前に得た権利であるがゆえにそれは作者に帰属するのだ。 これは今の出版社でもあり得る話ではないだろうか。これは天才によって創立された会社が抱える盲点であり、その歴史が古ければ古いほど起こり得る事態ではないだろうか? しかしながら服部氏の広範な知識と緻密な取材力には全く以て脱帽だ。何しろアメリカを舞台にアメリカの法律下で買収戦争を描き、さらにそこにアクションシーンも盛り込んでキチッとエンタテインメントしているのだから畏れ入る。 600ページを超える大著だが、そのページ数が必要なだけの情報量、いやそれ以上の情報量を含みながらアメリカの法律に疎い我々一般読者に噛み砕いて淀みなく物語を進行させる筆の巧みさ。作品を重ねるごとにこの著者の作品はますますクオリティの冴えを見せてくれている。 しかし今回は主人公である反健斗の親を知らないという暗い出自と自身が日本人なのかアメリカ人なのかというアイデンティティの揺らぎがあまり物語に寄与していないのが気になった。逆に例え精子提供者と人工授精児という間柄であっても親子の絆の深さが何物にも代えがたい貴重な物であることが単なる復讐劇の駒として見ていなかったノックスに引導を渡す誤算に繋がった点が印象に残った。 しかしそのデイヴィッド・ウーでさえ薄くしか物語に介入していないのだから、中国人であるという設定だけでその心理を悟らせるというのはちょっと乱暴だったように感じてしまった。 とはいえそれは瑕疵に過ぎないだろう。とにもかくにも数ある企業小説、金融エンタテインメント小説とは明らかに一線を画して面白いことは間違いない。 我々の知らない世界を次作でも見せてくれることを大いに期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズ第4作目。
前作『泥棒は詩を口ずさむ』から引き続きバーニイは古書店店主を営み、友人の犬の美容師キャロリンは前作の事件がもとで彼の泥棒稼業のパートナーとなって一緒に盗みを働いている。 そして泥棒に入った家でまたもや殺人事件が起き、バーニイは容疑者になってしまうが、今回は逮捕されず任意同行と云う形で警察署に引っ張られるものの、生き残った被害者への面通しで別人だとされるのが今までとは違うところ。 つまり今までは警察に捕まりそうになったところを寸でのところで逃げ出し、世間から隠れながら事件を解決するという手法だったのだが、本作では証拠不十分として釈放され、警察からの嫌疑を受けながらもいつも通りの古書店主としての生活をして犯人探しをしているのがミソ。これが今まで行動の不自由さゆえに物語が停滞しがちだったこのシリーズの欠点を見事に補っており、通常よりも物語に躍動感があるように思えた。 今回バーニイが巻き込まれる事件は時価20万ドルはすると云われている「リバティ・ヘッド・ニッケル貨」で発行がされていないはずの1913年付のたった5枚しか現存していないとされる幻の硬貨を巡る殺人だ。バーニイが入る前にすでにターゲットのコルキャノン邸には泥棒が入っていたが、硬貨が隠されていた壁金庫は開放されておらず、彼はまんまと効果をせしめ、買い手が付いたら山分けと云う条件で故買屋に渡してその場を去るが、コルキャノン邸には強盗による暴力で妻が死に、さらに故買屋は何者かに殺され、バーニイの許には硬貨を引き渡すよう謎の人物から脅迫を受けることになる。 とまあ、通常であればバーニイは非常に危ない橋を渡っているのだが、なぜかそこには陰鬱なトーンはなく、バーニイの語り口でムードは快活軽妙なのだ。 2人もの死人を出しながらも一人の死を巡ってそれぞれの関係者に隠された暗い過去や事実を探るマット・スカダーシリーズの語り口よりも明るいというのが非常に面白い。毎度のことだが、本当に1人の作家が両方書いているのかと信じられない思いを抱いてしまう。 また作中やたらとロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズを揶揄しているのが目に付いた。自身の生み出したアル中探偵マット・スカダーと健康的で現代的な探偵スペンサーとを比較しているのだろう。どちらもネオ・ハードボイルドとして新たな探偵像を描きながらも、スペンサーシリーズの方が当時は売り上げも高かったことに対する作者のやっかみのようにも取れる。こんな健全な探偵が活躍する物語のどこが面白いのかねぇ、とバーニイが代弁しているかのようだ。 さて事件は一つの館に一夜でなんと3組の強盗が入っていることが判明する。 一番目の強盗は部屋を荒らして金目の物を獲っていき、二番目の強盗はバーニイとキャロリンの二人組で金庫を開けて幻の金貨を手に入れる。そして三番目の強盗が帰宅したコルキャノン夫妻と出くわし、二人を昏倒させ、それが元でコルキャノン夫人が亡くなってしまう。 正直この事件の真相は早々に解ってしまった。 だが二番目の殺人、故買屋エイベル・クロウの殺害事件の真相は見抜けなかった。 しかしこのバーニイ・ローデンバーシリーズだが、作者ブロックは意識的に昔の本格ミステリの形式を踏襲して書いているようだ。今回の謎解きは殺害されたエイベルの告別式で事件の関係者を一堂に集めてバーニイが謎解きを開陳するという古式ゆかしきスタイルなのだから。 話は変わるが、故買屋エイベル・クロウがダッハウ収容所から生還したという設定には驚いた。ついこの前に読んだのがバー=ゾウハーの『ダッハウから来たスパイ』でまさにこの地獄の収容所について書かれたノンフィクションだったからだ。またもや本が本を引き寄せるという奇妙な体験をしてしまった。 さて前作に続いてバーニイのパートナーを務めたレズの犬美容師キャロリン・カイザーが前作で恋人だったランディと別れ、なんと犬猿の仲だったバーニイの女友達デニーズと懇意になってしまうという意外な展開。そしてさらにバーニイは今後も泥棒稼業を続けていく意欲を見せて物語は終わる。 次回もまたバーニイは古本屋稼業を続けて本に纏わる小気味良いエピソードを交えながら、泥棒もして奇妙な事件に巻き込まれることだろう。そしてその時のバーニイを取り巻く人々の状況はどんな風になっているのか、楽しみである。 これぞまさにシリーズの醍醐味ではないだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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第1作では極寒の海、第2作目ではカリブ海に浮かぶ難攻不落の要塞と戦時下での男たちの戦いを描いてきた作者が第3作目に選んだのは日本軍が包囲する東南アジアの海からの脱出行だ。
とにかく先の読めない展開ばかりだ。 日本軍が北オーストラリアに進攻する計画書のフィルムを携えたイギリス軍の准将をオーストラリアに送るために、モグリの商船にて脱出しようとするが、あえなく撃沈され、通りがかったイギリスの大型タンカーによって拾われる。そこから大型タンカーによる決死の脱出行になるかと思えば、そのタンカーもゼロ戦によって撃沈され、准将を含んだ残された乗組員は救命ボートにて逃走するが、さらに潜水艦に追われて、機転を利かせて迎撃し、島に上陸するという展開。さらにそこで追ってきた日本軍との攻防が繰り広げられ、ボートを沈めるという奇策で日本軍を欺き、ダーウィンへと死の航海へ旅立つ、そして再び日本軍に捕えられそうになったところで、一人の男の死と引き換えに逃亡に成功し、辿り着いた島で再度日本軍と相見える、とこのように場面展開は実に目まぐるしいのだ。 そして相変わらずキャラクターが立っている。 日本軍のオーストラリア襲撃の計画書のフィルムを持つ退役准将フォスター・ファーンハイムは身分を偽るために酔いどれの飲んだくれを演じる狡猾さを持ち、さらに一級の射撃の腕前を発揮して乗組員たちの窮地を救う。 遭難した彼ら一行を救う英国大型タンカー、ヴィローマ号の船長フィンドホーンは何事にも動じない落ち着きを常に持ち、その片腕の一等航海士であるジョン・ニコルソンは冷静な判断力と海を熟知した航海術を備え、そして船長同様、動揺という言葉の対極に位置する人物だ。 しかし何よりも最も印象の残るのは看護婦のドラクマンだ。欧亜混血の澄み渡るような青い眼と烏の濡羽色のような美しい黒髪を持つ彼女は、常にその目に力強い意志を備えている。そしてその美しい顔の左側には日本軍の銃剣によってこめかみから顎に亘って長くつけられた切り傷があるのだが、それを彼女は動じることなく公然と曝す。その描写だけで彼女の為人を読者に知らしめるマクリーンの上手さに思わず感嘆してしまった。 日本軍が極秘裏に計画している北オーストラリア襲撃の計画書を日本軍が攻め込む前にオーストラリアに渡さなければならないとするスパイ小説から始まり、そこから海洋冒険小説に、軍事小説、さらには島での日本軍との戦いという冒険アクション小説と、あの手この手と色んな手札を惜しげもなく導入するマクリーンのサーヴィス精神旺盛さが本書でもいかんなく発揮されている。 しかし本書では日本軍がこの上なく残虐な軍隊であると書かれており、前述のドラクマンの美しい顔に傷を負わすのは勿論の事、じわじわと真綿を締めるような拷問、捕虜に対する非人道的な行為が語られており、本当にそこまで酷かったのかと首を傾げてしまうくらいだ。特に中国での大虐殺を引き合いに出して、その残虐性を仄めかしていたが、これは今なお史実としては疑問視されている話だ。 これは当時の欧米人が日本のみならずアジアの国の軍隊をひどく恐ろしく思っていたことによるのだろう。だから映画『ランボー』シリーズでもいずこのアジアの兵士による拷問が非人道的に描写されているのかもしれない。 また今回はどんでん返しが非常に目立った。赤道直下の地の戦時下でのエスピオナージュが主軸にあったためか、仲間と思っていた人物が不可解な行動で裏切り、さらに最後でも裏切りが発覚したりと、スパイ小説特有の裏切りの連続が書かれているが、あくまでそれは設定であり、中身は熱帯の地での冒険小説と云った方が正しいだろう。 これほどまでに先の読めなかった作品が、結末が非常に淡泊なのはちょっと残念ではあった。 さて3作続けて戦時下での人間の極限状態に迫った冒険小説を著したマクリーンは次回はどこの地を舞台に迫真の冒険物語を繰り広げてくれるのだろうか。 |
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これは数奇な運命を経た、あるスパイの人生を描いたノンフィクション作品だ。
ナチス人強制収容所ダッハウの囚人26336号はその日、何の仕事もあてがわれず、病院に行くよう命ぜられた。そこで彼は数日前から発症した首筋の潰瘍の治療を受け、そして数日後、突然釈放された。そして彼はそのまま参事官に連れられ、列車に乗ってベルギーのブリュッセルまで行くことになる。車内で彼は自分の名前がその日以来パウル・ファッケンハイムからパウル・コッホと名乗る事を命じられ、身分証明書を渡される。 それは彼が今後数奇な運命を辿る始まりだった。 ドイツ系ユダヤ人のドイツ人パウル・エルンスト・ファッケンハイムは入った者は生きて出られない地獄とまで呼ばれたユダヤ人強制収容所ダッハウに収容されていたが、ドイツ陸軍の秘密情報機関国防軍防諜部より目を付けられ突然釈放される。そして彼はパレスチナに潜入し、ロンメル将軍を助けるためにユダヤ人スパイとなってイギリス軍を混乱に陥れ、彼の地にドイツ軍の勝利をもたらすよう、命じられる。 しかし奇妙なのはこのドイツ陸軍の秘密情報機関国防軍防諜部(アプヴェール)の作戦を邪魔しようとしているのがなんとナチス・ドイツの諸機関であることだ。つまりアプヴェールは反ナチ派であり、ユダヤ人を忌み嫌うナチスは逆にパウルがスパイであることを敵国英国に伝え、作戦を失敗させようと画策する。そんな只中に放り込まれた一介のユダヤ人パウル・ファッケンハイム。彼の存在は当時の歪んだドイツ政府の構造が生んだ仇花と云えるだろう。 パウル・コッホという偽りの身分を与えられたファッケンハイムはパレスチナに潜入することがナチスのSSの工作によって知られることになり、アプヴェールの思惑とは違い、すぐさま英国軍に囚われの身になる。そこで待ち受けていたのは運命の悪戯としか云いようのない皮肉だった。 まずコッホというSSの高官が実在した事。英国情報部がアプヴェールにパウラ・コッホなる女性工作員がいることを知っており、パウルはその関係者でパウラ同様、危険なスパイとみなされていた事。 さらに姿を消し、行方知れずとされたスパイ、ファルケンハイム大佐なる人物が存在した事。偽名のみならず実名さえも非常によく似たナチス軍人がいたことがファッケンハイムにとっての最大の不運の始まりだった。これを皮肉と云わずして何と云おう。 ところでパウル・ファッケンハイムと云う男はユダヤ人という特性なのか、とにかく行き先々でコネクションを作るのが非常に上手く、それは発展途上国である東南アジアでもその地に溶け込み、料理人として生計を立てられるほど器用でもあるのだ。 そして驚くべきことに彼はかなりモテるのだ。なぜか彼の周りには女性が1人だけでなく複数おり、しかも美人であるというモテぶり。付された写真を見る限り、いわゆるイケメンとは思えないのだが、これも上に書いたような社交的な性格が醸し出す人間的魅力によるところが大きいのだろう。しかし奇妙なことになぜか結婚生活は上手く行かないのだ。 色男にはよくある話だが、彼の風貌はそんな地に足がついていないような生活を送っている風には見えない。 そしてこの彼の社交性が彼の窮地を最後に救う。頼みの綱の父親でさえ、彼の素性を証明する事を拒否した彼を救ったのは過去に自身が開いた料理学校の生徒で恋慕を抱いていた女性の母親だった。彼女が彼がナチスの高官であるという誤解の産物である軍事裁判にて証言台に立ち、彼の素性を証言するのだ。 この決定的な証言によって無罪の判決が下されるシーンは圧巻。こんなドラマティックなことがあるのかと感嘆した。『奇跡体験!アンビリバボー』を観ているかのような錯覚を覚えた。 かようにバー=ゾウハーが描く実在したスパイのノンフィクションは一級の小説のように語られる。その内容は全て実話だという事を忘れてしまうほど、濃度が高く、読み物として実に面白い。 そしてよくもこのような題材を見つけた物だと感心した。結局、ダッハウ強制収容所の囚人からユダヤ人のスパイに抜擢されたファッケンハイムはパレスチナに降下した後、すぐに捕まってしまい、その後は収容所での尋問と軍事裁判に明け暮れる日々が綴られる。つまり彼はスパイとしては全くの役立たずだったわけだ。寧ろファッケンハイムの後に新たに送られたユダヤ人スパイ、ヨーン・エブラーこそが語られるべきスパイだったのだろう。しかし逆にバー=ゾウハーはスパイとしては何の成果も挙げられなかったファッケンハイムが実に数奇な運命を辿ったことを発見したのだ。 名も知られずに隠密裏に葬り去られた星の数ほどの諜報員たち、ファッケンハイムもその中の1人になり得た1人であり、しかも歴史の翳に埋もれていたスパイだ。そんな彼に日を当てた本書はナチスが自我崩壊していく様と、ナチスの狂気に翻弄された数多くの人々への鎮魂歌として読まれるべきだ。 現在バー=ゾウハーのノンフィクションは『ミュンヘン』が現在でも版を重ね、手に入れることが出来るが、本書も誰もが読めるよう復刊させてほしいものである。 |
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刊行を心待ちにしているある特定の作家の作品、もしくはシリーズ作品というのが誰しもあるだろうが、人類学者“スケルトン探偵”ギデオン・オリヴァーシリーズは私にとってそんな作品群の1つであり、刊行予定に『~の骨』のタイトルを見た私は思わず快哉を挙げてしまった。
なんと前作から3年ぶりの刊行である。これは『洞窟の骨』から『骨の島』までの4年ぶりに続くブランクの長さであり、しかも『骨の島』以降ほぼ1年に1作のペースで刊行されていただけに、作者エルキンズの年齢も考えると―なんと78歳!―シリーズは終了してしまったものだと思っていたので本当に本作の刊行は喜びもひとしおなのだ。 と、長々とこのシリーズをいかに私が待ち侘びていたかをつらつらと書いてしまったが、そろそろ本書の感想に入ろう。 物語の舞台はイタリアはフィレンツェ。しかし物語の中心はそこから車で約40分ばかり離れたワイナリー<ヴィラ・アンティカ>で、そこでワイナリーを経営するクビデュ一族が事件の容疑者たちとなる。 今回も例によってギデオンの骨鑑定から事件の謎が明らかになる。いや実際はイタリア憲兵隊によって処理された事案がシンポジウムの講師として招かれたギデオンの骨鑑定によって逆に謎が深まるのだ。 山奥で発見された二体の白骨死体は1年前から行方不明になっていたクビデュ夫妻の物だった。60mもの高さから落ちたであろう遺体の骨の損傷は激しかったが、遺体には両方とも銃で頭部を撃ち抜かれた形跡があった。夫の遺骨が妻の遺骨に覆いかぶさるようになっていたことから、夫が妻を殺害した後、自分も自殺して頭を撃ちぬいた衝撃で崖から転落したと事件は処理されていたのだが、ギデオンの鑑定でまず妻の死因は崖から落ちたことであり、頭を撃ち抜かれたのは転落後の事であった。つまり犯人と目される夫は妻を崖から突き落とした後、崖を駆け下り、銃にて止めを刺した後、もう一度60mもの高さの崖をよじ登って、崖の上で自分の頭を撃ち抜いて転落するという、なんとも珍妙な状況が推測されるのだ。 しかし火葬されて荼毘に付されたとされていた夫の遺骨があることを知り、その骨を鑑定することでさらに新たな事実が判明する。 即ち夫は妻が死ぬ前に死んでおり、更に死んでから数週間経った後、崖から転落した、更にはその際に何者かによってジャケットを着せられた可能性がある、と。つまりここで2人を何者かが殺した可能性が高まるのだが、なぜ夫の死体は数週間も放置されて崖に落とされたのかというこれまた理解不能な状況が生まれるのだ。 3年間の沈黙の末に刊行された本書はそれだけにギデオンの骨の鑑定を存分に振るっている。特に今回は2体の崖下の白骨死体をギデオンが鑑定することで二転三転事実が覆されるといった充実ぶり。 特に事実が覆る2回目の鑑定ではまたもや興味深い骨に関する知識が披露される。 即ち骨も樹木と同じように枯れ木と若木の状態では損傷の仕方が違うということ。生きている人間の骨が折れるのは体液と脂肪が染み込んで湿った組織に覆われている為、枯れ木のようにポキンとは折れず、弾力があって折れ曲がってしまい、折れる時も片側が裂ける、つまりポキンと折れるのは死んでしまった人間の骨だそうだ。 これは外科医の先生は常識的に知っているのかもしれないが、今回初めて知った。そしてこれにより2体それぞれの白骨体の損傷から遺体の時間差が解るのだ。 またこの骨の弾力性ゆえに、生きている人間の頭蓋骨は頭部が何か硬い物に押し当てられた状態で銃で撃たれても、それによって骨が支えられて外側に射出せずに角のように突出した形で留まることもあるらしい。 また高い所から落ちた時に足から着地すると衝撃で下半身の骨が砕け、背骨が頭蓋骨にめり込んで脳髄まで達する、といったような新たな骨の知識を今回も得てしまった。 さらに物語の最終局面になって二つ目の殺人事件が起きる。勘当されていた継子のチェザーレが過剰薬物摂取による死亡と思しき状態で発見されるのだ。 正直この事件は物語に変化をつけるための蛇足かと思ったが、後にこの事件で犯人が絞られることが判明する。いやあエルキンズの小説は実に無駄がない。 またエルキンズのストーリーテラーぶりは健在。 冒頭の1章でいきなり昔ながらのワイナリーを経営するクビデュ一族の家族会議によって読者は陽光眩しいイタリアの地に招かれることになる。そしてそんな家族のやり取りを通じてクビデュ家それぞれの人となりがするっと頭に入ってくる。この1章で既に読者の頭の中にはこの憎めないイタリアのワイナリー一家が住み込んでしまうのだ。 家長でありワイナリーの経営者である父ピエトロはこよなくワインを愛する男であり、彼には3人の息子がいる。 長男のフランコはワイナリーの実質的な経営を担っており、父の後継ぎとしてワインの勉強に努力を惜しまず、新しい手法や設備を導入してワイナリーの発展に力を尽くすが知識一辺倒の性格で効率主義者であり、ワインを“自社”商品としてしか見れない。 次男のルカは父親のピエトロと同じようにワインをこよなく愛し、昔ながらの製法にこだわり伝統を守ろうとしていたが、ワイナリーを継げないことを悟ると身を引いて第二の人生として妻とレストランを経営しようと計画している。 三男のニッコロはワインは好きだが、知識や愛情は持っていない。しかし持ち前の人の良さとその二枚目ぶりから凄腕のバイヤーとして経営を支えている。 そしてピエトロの妻ノーラの連れ子としてチェザーレがいたが、ライバルワイナリーに勤めることになったことで勘当されている。 と、まあこんな個性的な面々がたった20ページ足らずの1章で実に生き生きと描かれるのだ。 そんな素晴らしき血肉を得た登場人物たちの中に真犯人がいるのは何とも切ない限り。 しかし今回はそれでも物語としては冗長に過ぎたという感は否めない。 この二体の崖下の白骨体を二度の鑑定で事実を二転三転させる趣向は買う物の、とにかくギデオンの語り口によってじらしにじらされたように思えてならない。ギデオンってこんなに回りくどかったっけ?などと思ったくらいだ。 加えて観光小説の一面も持つこのシリーズだが、今回はそれが特に顕著。特にイタリア語が今回はまんべんなく散りばめられており、読むのにつっかることしきりで、更にはこれが特にページ数を膨らましているように感じた。 取材の成果を存分に発揮したかったのだろうが、これではイタリア旅行の費用をとことん経費で落とそうとしているようにも勘ぐってしまうではないか。 とまあ、下衆の勘ぐりはさておき、今回もギデオンの骨の鑑定を愉しませてもらった。 昨今ではジェフリー・ディーヴァーのリンカーン・ライムシリーズやドラマ『CSI』シリーズなど、鑑定が活躍するシリーズが活況を呈しているが、古くからあるこのスケルトン探偵による骨の鑑定はそれらブームとは一線を画した面白味があり、エルキンズの健在ぶりを堪能した。 さて作者の年齢を考えると次回作が気になるが、ここは素直に一ファンとして次のギデオンの活躍を心待ちにしておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『女王陛下のユリシーズ号』と並んでマクリーンの代表作とされる本書。私は映画でこの作品の存在を知っていたが、大方の人も同様ではないだろうか。
そしてつい最近まで入手可能なマクリーンの作品は『女王陛下のユリシーズ号』のみだったが、一昨年に27年ぶりに行われた週刊文春によるオールタイムベスト100の選出でデビュー作が再びランクインしたことの影響を受けてかは解らないが、昨年冒険小説フェアの1冊として復刊された。 ドイツ軍が誇る難攻不落の要塞にあらゆる攻撃を掛けては苦渋と辛酸を舐めらされたイギリス軍が最後の手段として取った方法がゲリラ攻略。世界的に有名な登山家キース・マロリー大尉をリーダーとして潜入不可能と云われるナヴァロン島に侵入し、要塞が誇る巨砲を撃破せよというのがストーリーの概要だ。 『女王陛下のユリシーズ号』でもそうだったが、マクリーンのキャラクター造形の深みには堪らない物がある。 世界的登山家と云う勇名を馳せたチームの指揮官キース・マロリー大尉は陸軍にいてもなお、冷静沈着かつ慎重な注意力を持ちながらも、決断の速さで電光石火の如く、目の前に立ち塞がる難題に立ち向かう。 そして彼の片腕であるギリシア人のアンドレアは無類なき怪力を誇る大男ながら、俊敏な動きで敵に対処し、容赦なく命を奪う。しかし自らの殺戮を後悔しないことはない。さらにマロリーとは長年苦楽を共にしてきた鏡のような男なのだ。 フケツのミラーと仇名されるアメリカ人はだらしない風貌ながら破壊工作のエキスパートで爆弾の扱いはピカイチの腕を誇る。 ケイシー・ブラウンはメカのプロでどんなに老朽化した装置や乗り物でも豊富なメカの知識と粘り強さでチームの後方支援を行う。 唯一マロリーと初めて仕事をするの若き大尉アンディー・スティーヴンズは一流の登山家であることで選ばれた。しかしその登山技術は有名な探検家であり登山家であった父親と運動神経抜群の2人の兄に対するコンプレックスから生まれた賜物であり、常に何らかの恐怖心を持ち、それを克服することで勝ち得たものだった。つまりチームの中での不確定要素的存在だ。 本書で私が最も印象に残ったキャラクターはこのアンディー・スティーヴンズ大尉だ。恐怖心を常に持ち、それを克服することで自らの地位を固めてきた彼が他のメンバーに自分の弱さを見せたことを悔い、さらに深手を負ってメンバーの足手まといになることを潔しと思わない男が最後に辿り着く恐怖心が雲散霧消した心理で仲間の為に楯になって戦う姿は物語で終始謝り続け、満身創痍の中で苦難していた者が最後に自分らしく生きることを見出した清々しさを感じた。『女王陛下のユリシーズ号』の水雷兵ラルストンを想起させる。 この愛すべき精鋭たちを迎え撃つのはナヴァロンの要塞のみならず、配備されたドイツ軍はもとより限られた時間と自然の猛威、そして進攻を妨げる地形だ。 航行中にドイツ軍の機帆船による臨検を乗り越え、自船の機械トラブルに、更にはドイツ軍がイギリス軍が駐屯するケロス島襲撃のリミットが一日早まるに至る。そして島に上陸するにも突如発生した暴風雨で船舶が上下左右に揺さぶられ、断崖に叩き付けられながら沈没寸前で断崖絶壁に取りつく、そしてそのために食糧や燃料を落としてしまうなど、ありきたりな表現だが、スリルとサスペンスの連続なのだ。 第1作でもそうだったが、マクリーンはとにかく主人公たちにこの上ない負荷をかける。人間の精神と肉体の限界、いやそれ以上の力を試し、もしくは骨の髄まで疲労困憊させ、最後の一滴まで搾り取るかの如く、これでもかこれでもかと危難や難題を突き付ける、いや叩き付ける。 これら主人公一行に襲いかかる敵や障害をいかに乗り越えていくかという機転や卓越した技術へのスーパーヒーローの戦いぶりにあるのではなく、困難な目標に向かって苦闘する人々が織りなす人間ドラマに読みどころがある。 何度も挫折しそうとなりながらも仲間たちを鼓舞するリーダーシップやそれに減らず口を叩きながらも応えていく部下たち、そして島を侵略された住民からの協力者たちが秘める敵への憎しみ、それらが折り重なって極限状態の主人公たちが諦めずに幾度も立上る行動原理を語っているからこそ、ハリウッドが好き好んで描くアクション映画の典型のようなシンプルな筋書を持つこの作品が今なお冒険小説の金字塔として称賛されるのだろう。 マクリーンは『女王陛下のユリシーズ号』と本書を以て冒険小説の巨匠として名を残し、70年代以降の作品は読むべきものはないと云われているが、正直この作品は私の中では面白いとは思うが歴史に残るほどの作品とは思わなかった。 シャーロック・ホームズシリーズでも『バスカヴィル家の犬』よりも『恐怖の谷』を評価する私なので今後の作品に私なりの傑作を見つけていこう。 |
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泥棒探偵バーニー・ローデンバーシリーズ3作目。
そう、3作目なのだ。 2作目は絶版ゆえにいまだに手に入っていない。そしていきなり本書ではバーニーは古書店主として真っ当な暮らしをしている風景から始まる。 2作目の時に何が起こったのか?非常に気になるではないか。 さて古書店主となったバーニー・ローデンバーの日常には本が溢れており、自然物語は本についての薀蓄なりが付いてくるのだが、これがやはり読者、特にミステリ読者には思わずニヤニヤしてしまう話が散りばめられている。 警官が現れ、「そんな本を読むよりもジョゼフ・ウォンボーやエド・マクベインの方が面白いぞ」とか、刑務所では識字率の低い者でさえ、悪党パーカーシリーズを読み漁っていたとか、ベルを2回鳴らして下さいと云われれば、郵便配達のように?と訊いてみたりと、妙にミステリ興趣をくすぐられるウィットが読んでいて非常に面白い。 古書店主になって泥棒稼業からは足を洗ったのかと思いきや、バーニーにとって泥棒はもはや習慣病のようになっているようで、今回は自分の店に現れたJ・ラドヤード・ウェルキンなる紳士からこの世に1冊しかないキプリングの自家製本を所有者の貿易商から盗み出してほしいと頼まれるところから始まる。そしてバーニーは見事盗み出し、ウェルキン氏に連絡を取って指定の場所へ赴くものの、そこで殺人に巻き込まれてしまうのが今回の事件。 さて今回バーニーが出くわす謎は主に次の4つになるだろう。 バーニーにキプリングの稀覯本の盗みを依頼したウェルキンの代わりに本を奪おうとしたマドリン・ポーロックとは何者なのか? そしてそのマドリンを殺したのは誰なのか? ラドヤード・ウェルキンはなぜ約束の時間に約束の場所に現れなかったのか? バーニーの店に押し入り、キプリングの本を強盗したシーク教徒は何者なのか? この謎の解答は実はかなり複雑。 軽妙なミステリにこのプロットはあまりにアンバランスと感じ、それが私にとってのマイナス要因となった。 さてまだ2作しか読んでいないが泥棒バーニーシリーズは一定のパターンが決まっているようだ。 盗みに入ったことがきっかけで殺人事件に巻き込まれ、無実の罪を着せられるが、数ある友人の助けを借りて軟禁生活の中で事件の真相と真犯人を推理する、というのが通例らしい。しかしそのマンネリが逆に読者の期待する方向通りに展開して飽きが来ないのだろう。 また本格ミステリとしての伏線の妙が実に魅力的だ。さりげない描写が伏線となっており、また事件解決の手がかりも実に自然に物語に溶け合って、思わずアッと気付かされる。 しかし本当にこの軽妙な読み物はマット・スカダーシリーズの作者の手による物だろうか? ローレンス・ブロックは2人いると云われても全然驚かないぐらい作風が全く違う。本当に器用な作家だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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軽井沢と云えば皇后家ゆかりの地。ここにはやくざはおらず、その手の取り締まりも厳しいそうだ。
そんな金持ちの別荘地である軽井沢が戦場と化す。馳版『マルタの鷹』ともいうべき本作では5億円をやくざから持ち逃げした投資ファンドの男を追って、東京から極道が、中国系マフィアが大挙してくる。馳氏に掛かると閑静な富裕層たちの避暑地も血で血を洗う修羅場となるのだ。 物語はかつて20年前に新宿で大暴れした四人の男を軸に回る。田口健二、城野和幸、山岸聡、徳丸尚久。 田口健二は“五人殺しの健”と異名を持つ伝説のやくざ。かつて5人の中国人を相手に立ち回り、それらを殺害した武勇伝を持つ。しかしある日突然姿を消し、軽井沢で別荘の管理サービスを個人で営み、生計を立てている。 城野和幸は田口を兄と慕い、そのまま所属している東明会に残り、同系列の井出組の若頭となっている。組の金を持ち逃げした鈴木という男を追って軽井沢に乗り込み、かつて新宿に来て暴れた名を馳せた地元のやくざ遠山と組んで鈴木を捜し出そうとしている。 山岸聡は極道から足を洗い、しがない場末のスナックを営んでいるが、経営難に陥り、5億円持ち逃げの情報を聞きつけ、軽井沢に駆けつける。 徳丸尚久はつい最近死に、その息子達也が田口を訪ね、一緒に組んで5億円を手中にしようと持ちかけるが一蹴されてしまう。 そんな4人を中心に、いや極道から足を洗いながらもその伝説的な強さゆえに放っておけない輩が田口を訪れ、否応なく抗争に巻き込まれていく。 かつて田口の伝説に挑みながらも、果たせず長野に舞い戻った田舎やくざ遠山は田口とどちらかが強いのかを20年経った今でも心に燻らせている。 長野県警捜査二課の暴力団担当の安田と本田は遠山の不穏の動きから周囲をかぎまわり、田口に至り、田口を種に周囲にけしかける。 この4人+2人が殺戮の渦にある者は自ら身を投げ、ある者は中心となって、またある者は否応なく、そしてある者はそれと知らないうちに巻き込まれていく。 そんなヴァイオレンス色濃いプロットの殺戮の幕が開くのは実はかなり早い。600ページ弱の物語で1/3を過ぎたあたりで田口の心に火が着く。 自身の写真集作成のために軽井沢を訪れていたフォトグラファー馬場紀子が拉致されることが田口の中の獣を目覚めさせる。正直馬場紀子は登場時点からフラグが立っていることは明白だったのだが。 そして物語のちょうど2/3の辺りで田口の中の獣が狂獣となって立ち塞がる者すべてに牙を剥き出すようになる。それは田口が紀子を人質に5億円を横取りしようとした達也を殺害した後で、達也が実は田口がかつて愛した女性との間に生まれた子だったことを知らされ、図らずも田口は子殺しという忌まわしい存在になったことを悟ってしまうのだ。 この田口健二というキャラクターは今までの馳作品の中でも最強ではないだろうか。 今までのキャラクターには悪人でありながらも対抗勢力に対しての恐怖心、自分と云う存在が消されることへの怖れ、また守るべき物、大切にしている物、よすがとなっている物を持ち、良心が感じられたが、田口はそんな一切の弱みはなく、痛みや脅しが一切通用しない。また人を殺すセンスに溢れ、殺人に対する躊躇いが全くない。 とにかく自分の前に立ち塞がる者を、それがやくざであろうが警察であろうが、全て殺すのみ。しかも一切の手心を加えずに、再起不能となるまで、いや既に死んでいるように見えても、更に死者を嬲り殺すように徹底的に破壊する。冷酷な殺人マシーンと書くだけ以上の怖さがある。 馳作品の特徴は疾走感を持ちながらも複数の登場人物が錯綜し、それぞれが有機的に絡み合って破滅と云う名の交響曲を奏でるという実に複雑なプロットが持ち味であるのだが、本書はそんな複雑な構図は鳴りを潜め、単純明快に物語は疾走していく。 本来であれば作品に最後まで関わっていくであろう配役たちが早々に退場していく。それは田口と遠山と云う二人の獣の一騎打ちという非常にシンプルな結末に向けて次々と現れる障害物を薙ぎ倒していくかのようだ。 今までの馳作品は上に書いたような複雑な構図を持ちながらも、結局最後はとち狂った主人公による大量殺戮で敵味方関係なくぶち殺されていくというプロットの破綻とも云うべき流れだったのに対し、本書は逆に明確に目指す所に向かっていくというシンプルなところがいい方向に出ているように感じた。 そんなかつての馳氏を髣髴させる血沸き肉躍るヴァイオレンス巨編だが、細部や設定の甘さに少々失望したのは否めない。 例えば馬場紀子が自身の職業をカメラマンと述べているのには違和感を覚えた。フォトグラファーと自称するくらいの性格付けはしてほしかった。またカメラマンと云ってもヴィデオグラファーやシネマグラファーなどその対象によって様々な呼称がある。 上にも書いたようにこれでは単純に田口が獣に目覚めるためだけにあてがった生贄に少し肉付けしたにしか過ぎないではないか。馳氏の作品は人が簡単に死ぬだけに単なる物語を動かす駒にしか過ぎないように思え、人物描写や造形に詰めが甘いのが残念だ。 また達也が実は田口の息子だったという設定には正直辟易した。馳氏の作品には血の繋がりがもたらす業の深さや運命の皮肉、因果応報が色濃く出ているが、達也については紀子同様、登場時からフラグが立ちまくっている。紀子への凌辱、達也を殺害することで子殺しの親という忌まわしい過ちという二段階の奈落を設定することで田口が過去の殺戮者に戻るためのスイッチとしたことは解るが、これでは明らかに読者に見え見えである。 本書の疾走感はそれまでの馳作品の中でも随一であることは認めよう。 しかしそれだけに最後の田口と遠山との一騎打ちがなかなか始まらなかったのは、物語を意図的に引き延ばそうとしていたようにしか思えなかった。どういった意図によるのか解らないが、駆け抜けていくのであれば、とことん最後まで休まずに全力疾走してほしかった。 物語はシンプルなものほど面白いというのが私の持論なのだが、本書ではそれがもたらすカタルシスにもう一歩届かなかった。 ただ田口は今までの馳作品の中で最も印象の残った男だったことは正直に認めよう。これが本書を最後に馳作品と別れる私にとって最大の収穫だった。 |
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マット・スカダー3作目の本書では亡くなった強請屋から預かった封筒に記された3人のうち、強請屋を殺した犯人を探り出すという、フーダニット趣向の物語。
しかしそんな趣向とは裏腹にその語り口はほろ苦さと哀切を湛えて、心に染み込むしっとりとした文体。 マットは警官時代に付き合いのあった情報屋のために警察でさえまともに捜査しない殺人事件に、自分を餌にして挑む。 ブロックの人物造形の素晴らしさは定評があるが、本書ではスカダーに強請のネタが入った封筒を預ける強請屋スピナーの造形が秀逸。その名は会話する時に一ドル銀貨を回しながら、話し相手を見ずにその回転するコインを見て話する事に由来する。この登場人物一覧表にも名前がない小男の悪党がなぜか印象に残る。 また捜査の過程で挿入されるスカダーの独白が実に心地よい。 殺された強請屋の的となっていた3人に出逢い、実際にその目で観察する人となり。いずれもが社会的に成功した人物であり、内面に強さを秘めていながらも、強請の種があり、それに屈して大金を払う弱さがあるはずだと観察する。 また自らを生贄とすることで犯人を炙り出そうとするスカダーが別れた妻の許にいる息子たちと会話した後、ふと自分も強請屋のように殺され、二度と息子たちと話せないのではないかという思いに駆られたりもする。 孤独だと思っていたからこそ自分を生贄に捧げようとしたのが、まだ自分には愛する者が残っていたことを思い出し、恐怖に駆られる、そんな心の襞を描くのが実に上手い。 しかし本書のスカダーの捜査は第三者の目から見て実は余計なお節介であり、善か悪かと問われれば悪の側としか云えないだろう。 強請られる3人は1人は建築コンサルタントとして資金繰りに四苦八苦している経営者であり、娘の平穏を大事に考える男。 1人はポルノ女優の過去を持ち、若い頃、荒んだ生活を繰り返しながらも現在は富豪の妻としてセレブリティの1人として生きる女性。 最後の一人は若い頃に事業に成功し、その資金を元手にニューヨーク州知事選に臨もうとする若き政治家。しかし彼には少年性愛という忌まわしい趣味があった。 誰しも隠したい、忘れ去りたい過去はあるものだ。人間、なんらかの失敗をせずに生きることなど不可能に等しい。 強請屋とはすなわち誰しもが陥る過去の過ちをほじくり返し、眼前に突付け、弱みに付け入り、半永久的に金をせびる、下衆の生業だ。 しかしマットはそんな仕事よりも彼が警官時代に築いた強請屋との関係を大事にし、また人殺しを嫌うがゆえに彼ら彼女らの人生に分け入り、真相を明らかにしようとする。 つまりマットは強請屋との腐れ縁の為に社会的に成功した人々たちと逢い、人殺しをした犯人を捜そうとするのだ。 これは人生の落伍者同士が持つ同族意識なのか。 いや違う。殺人と云う犯罪をもっとも忌み嫌うマットにとって町のダニとも云える強請屋の死さえも自分の身の周りにいた人間が殺されたことが許せないのだろう。警官さえも見向きもしない社会の底辺で生きる者たちへの義憤が、相手が社会の成功者であり、その安定した生活を壊すことになろうとしても敢えて火中の栗を拾おうとするのだろう。 このシリーズ3作のどれもがほろ苦い結末をもたらす。マットの側で書かれるがゆえにマットの正義に同調する趣があるが、今までの物語はそっとしておけばいいことをわざわざ掘り返して相手の生活を、将来を壊していくことばかりだ。 このマット・スカダーという男がそこまでして殺人という行為を嫌悪する思いの強さは単に自分が不慮の事故で少女を殺してしまったことによる罪悪感だけではないように思える。 まっとうな商売では生きられない人々には優しく、自身の安寧の為に殺人を犯した、もしくは犯さざるを得なかった巷間の人々に厳しい眼差しを向ける、この落ちぶれた元警官の無免許探偵をもっと理解するために今後の彼の生き様を見ていこうと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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裏表紙の本書の紹介にはスピルバーグによって映画にもなったミュンヘン・オリンピックでのイスラエル選手団惨殺事件の背景を描いた事がメインのように書かれているが、実はそうではない。通称“血まみれの王子”と呼ばれたパレスチナ・ゲリラ“黒い九月”のリーダー、アリ・ハサン・サラメの生涯を70年代に繰り広げられたアラブとイスラエルの対立の時代から詳細に綴ったドキュメントである。
また本書の原題は“The Quest For The Red Prince”、つまり『血まみれ王子の追跡』であり、題名のミュンヘンでの事件は彼の人生における断片にしか過ぎない。明らかにこれは版元である早川書房の、映画に便乗した商業戦略が加味された題名である。 中学・高校と歴史を習ってきたが、なぜか第二次大戦以後の歴史は概要をなぞるだけで詳細に教えられた記憶がない。従って本書で語られる70年代のパレスチナ問題に関しては単純にその単語を知るだけで、どのような物だったのかは今まで知らないままだった。私にとって歴史の空白部分であるその時代を知るのに本書はいい教科書となった。 これは報復の時代に生まれた人間の血の物語だ。 血とは流血も指すが、それ以上にテロリストの息子として生まれた男が引き継ぐ血筋をも指す。 住み慣れた領地の奪い合いがイスラムとユダヤの宗教間の争いのみならず、アラブ人・ユダヤ人の民族間の争い、更には国を跨っての戦争にまで発展していく。そしてそれを利用して己の領土を拡張しようと企むものまで出てくる。 特に驚いたのは第二次大戦においてパレスチナ・ゲリラがドイツ軍と手を組んでいたことだ。確かに双方ユダヤ人を憎んでいたのだから利害は一致する。そして逆にイギリス軍がユダヤ人を利用して軍隊を組織しようとしていた事も今の今まで知らなかった。 これら歴史の暗部とも云うべきイスラエルとパレスチナの血を血で洗う暗闘の日々を詳らかにしていく。 本書の主人公とも云うべきアリ・ハサン・サラメは父親ハサン・サラメの遺志を継いでテロリストとなる。忘れてならないのは父サラメは元々貧困層の出身で彼が成り上がっていくために選んだ手段が暴力だったという事だ。これが発展途上国が抱える闇だろう。 私がいたフィリピンでも銃は簡単に手に入り、たった4,000円の報酬で人を殺す輩が大勢いる。 そんな事実に輪を掛けて驚くのはカリスマ性を持った指導者がいれば、アラブ人は国民全てが残虐の徒と化し、一般市民でも即席の兵士となってユダヤ人を殺すことを全く厭わないということだ。これは文化的な暮らしをしている欧米、日本では全く考えられない事だ。 彼らが憎むユダヤ人のバスが通りかかるとそれを襲撃し、平気で乗客や運転手を八つ裂きにするのだ。なんとも恐ろしい種族ではないか。 中東が危ない危ないと云われているが、それは犯罪者が蔓延っているのと、テロやクーデターのような事件がいきなり起こること、イスラム過激派がのさばっている事などを想像していたが、実は普通に歩いている人々が一瞬にしてみな人殺し集団と化すというのが危険の根源だと悟った。 そして彼らの民族は復讐こそが絶対だという倫理観に捉われているようだ。このほぼ1世紀にも渡る民族間の闘争で犠牲になった一般市民の多いこと。しかもこの闘争の火種は中東だけに留まらず、ヨーロッパまで飛び火し、無垢な命が数多く奪われた。 暴力には暴力を、という非文化的な行動原理、思想が何も生み出さないことをなかなか解らない。単なる動物的な闘争本能で彼らは行動しているだけに見える。唯一無二神という幻想に抱かれ、殺戮を繰り返す狂信的民族、そういう風にしか私には見えなかった。 本書で残念なところはイスラエルとパレスチナを始め、レバノンやエジプトなど中東諸国の当時テロに関わった人間が数多く登場するが、彼らムスリム系の名前はどれもが似たり寄ったりで、どちらがイスラエル側でどちらがパレスチナ側なのか混乱する事が多かった。恐らくムスリム系の名前にはさほどヴァリエーションがないのだろう。数多くのアブーやらムハンマドやらが敵味方の区別なく登場するので、非常に理解に困った。多分半分ほど誤解している部分があるだろう。 前世紀に中東で起こったシオニズム運動に端を発した民族間抗争を総括するのに本書は優れた書物であるといえよう。本書の末尾でも語られているように、第2の“血まみれ王子”は既に生まれている。 オサマ・ビンラディンという新たな恐怖の王にいかにして世界は対抗していくのか。いや、それだけではなく、なぜビンラディンを差し出す人間が現れないのか。 この本を読めばその理由がはっきりと解るだろう。世界の正義は必ずしも1つではないことが。 |
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ローレンス・ブロックのシリーズ物は数あれど、アル中探偵マット・スカダーシリーズと泥棒バーニイ・ローデンバーシリーズこそが2大シリーズキャラクターと云えるだろう。本書は後者の第1作目だ。
まず驚くのはその軽快な筆致。とてもマット・スカダーシリーズと同じ作家が書いたとは思えないほど、軽妙でユニークだ。 特に絶妙なのは会話だ。突然話があらぬ方向に向かうバーニイと、彼を取り巻く人物たちのやり取りは洒落た漫才のようで実に面白い。しかもジョークを持ち味にするキャラクター―例えばネルソン・デミル作品のジョン・コーリー―にありがちな嫌味が全くなく、逆にバーニイの人柄の良さが滲み出てくる。 初登場作である本書でバーニイが出くわす事件とは、謎の小男からある部屋に忍び込んで革張りの小箱を盗んできてほしいという物だった。しかし仕事中になぜか巡回中の警察官が部屋に入ってき、しまいには家の主の死体がベッドに転がっていて、バーニイは危うく殺人犯にさせられそうになるという物。 バーニイの小気味良い会話はもちろんながら彼を取り巻く面々もなかなかに面白い。 まず何といってもいきなり潜伏中のバーニイの許に突如現れる美女ルース・ハイタワーことエリー・クリストファーが実にいい。 とにかく指名手配中で外出ができないバーニイの代わりに捜査を買って出て、しかも謎の依頼人探しにあらゆる方面から手を尽くして情報を手に入れる凄腕。しかし何かを隠してバーニイに協力しているところがあって、それが事件の真相に繋がっている。 またバーニイのへらず口として語られる彼の過去の失敗談や逃亡中に間借りする知り合いの俳優についての解説が巧みに事件の要素として関わってくるのは驚いた。単なるエピソードとして読み過ごしていると読者は何のことだっけ?と呆気に取られてしまうだろう。 これは謎の依頼人がハリウッド映画によく出てくる名もない脇役を務める俳優だったことも関係しているのかもしれない。 数ある映画を観ていて見過ごしがちな存在ながらも、ある人やある場面では特定の意味を持った存在となるというのは、この単なるエピソードも事件の重要な情報になり得る、つまり不要な物などはないのだということを暗示しているように私は感じた。 正直第1作目の本書は最初の導入部が実に面白かったせいもあり、途中バーニイが身動きとれずにいる辺りは中だるみを感じてしまったのは否めない。が、さりげない手がかりや伏線と云った意外に本格ミステリな趣向が凝らされており、最後の真相には感心してしまった。 陰鬱で重厚なマット・スカダーシリーズとは対極にあるような軽妙で洒脱なミステリ。この後のシリーズの展開が非常に愉しみ。 しかしなぜこれも現在絶版なのか?どうにかしてほしいものだ、早川書房。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書のテーマはアメリカ大統領選挙戦である。
アメリカの石油不足と年々高騰する原油価格という負のスパイラルを打破すべく、OPECに軍事的介入を辞さないと主張する新進気鋭の議員とOPECと友好関係にある現副大統領との一騎打ちにOPECの議長がその地位の安泰とOPECの地歩を盤石にすべく、アメリカの石油会社の社長と共に新進の議員の失墜を画策するという政治的紛争を描いた作品だ。 そして本書でもナチスが関わってくる。特に本書ではOPECによる石油生産抑制にて価格高騰に苦しむアメリカを背景にした次期大統領選挙戦で次々と相手方のスキャンダルとお互いの政治的活動を引金した種々の事件を引き合いに足の引っ張り合いを繰り広げる精神の削り合いのような攻防と合わせて、かつての栄光を再びと再起を図るノンフィクションライターのクリント・クレイグが次回作の題材にとナチスの元帥ゲーリングの死と彼が指揮したファントム作戦なる、ドイツの各地に隠匿し、今なおその大半が見つからない略奪された欧州各国の財宝や美術品の行方を探る物語が並行して語られるが、クリントのゲーリングに関する取材の内容はこれだけで1冊のノンフィクションが物に出来るような実に深く、しかも面白い読み物となっているのが凄い。 さらにこのゲーリングの謎が本筋である怒涛の攻勢を見せる次期大統領候補の隠された過去に関わってくるのが実に心憎い。アメリカ大統領選挙とOPECとアメリカの争い、そこにナチスの昏い翳を投げかける。 バー=ゾウハーにとって果たしてナチスとはどれほど根深いテーマなのだろうか? しかし1980年に発表された当時ではまだ第二次大戦がそれほど遠い過去ではなく、あの大戦で何らかの任務に携わった人々が当時それぞれの道で功を遂げている、または政界へ乗り出そうとしていること、つまり1980年現在と地続きであったことが知らされ、隔世の感を覚えてしまった。 バー=ゾウハー作品初期のソーンダースシリーズは少ないページ数の中でとにかく場面展開が目まぐるしく、危機また危機の連続で謎が明らかになるごとにさらに別の謎が深まり、実に複雑な事件の構図が最後になって明らかになるというスピード感と国際謀略の奥深さを思い知る内容だったが、本書ではそれらの作品の約1.5倍の分量がありながらも事件の構図は明確で、逆にその目的に向かってタイムリミットが迫るというサスペンスが盛り込まれている。しかも当時の石油問題やアラブ諸国の特異な勢力争いと思想、さらにゲーリングの自殺に纏わる数々のエピソードが盛り込まれ、単純な活劇ではなく、情報小説としての読み応えが実にある。 その中で最もなぜか忘れられないエピソードが本書で初めて知った男性のみならず女性にも割礼の儀式があるアラブの風習。男性のそれと比べて女性へのそれは永遠にオルガスムスへの歓びを剥奪し、姦通に走らないようにするためだと思われるが、しかしあまりに非人道的すぎる。 またOPECが蹴落とそうとする次期大統領候補の1人ジェファーソンがゲーリング殺害に関わっていた疑惑がじわりじわりと濃厚になっていくのが実にスリリングだ。 またジェファーソンの人物像が自信家であり、典型的なアメリカン・エリートの肖像を持っていることも、読者に共感を得るキャラクターとなっていないことで逆にクリントにジェファーソンが悪人であることを証明してほしいという思いにさせられる演出が上手い。それを決定づけるような342ページの1行もまた印象的だ。全くバー=ゾウハーの小説作劇は何とも読者の興趣をそそらされるのだ。 彼に加え、主人公のノンフィクション作家クリント・クレイグ、彼に偶然を装って近づきながら父親ジェファーソンの間者となりながらもクリントに惹かれるという複雑な立場に苦悩するジリアン・ホバースなど本書の数ある登場人物の中で最もミステリアスなのは敵役であるOPEC議長アリ・シャズリだ。OPEC議長と云う現在の地位を固執するために勢いのある次期大統領候補ジェファーソンを目の敵にして蹴落とそうとしながらも、OPEC内部の政治抗争に勝つための手段としてその作戦を利用し、更に目的が果たせないことが分るや、その懐の深さでジェファーソンを取り込み、煙に巻く。さらにアラブ人でありながら民族衣装を身に纏わず、高級スーツに袖を通し、常に身ぎれいに洗練された西洋人然として佇むその造形はどこか作者であるバー=ゾウハー自身を思わせる。 さてカタカナ名詞に二字熟語を重ねた題名はもはやこの頃のバー=ゾウハー作品の代名詞ともなっているが、本書のファントムとは第二次大戦中にナチスのゲーリング元帥が指揮した各国の財宝・美術品の隠匿作戦が<ファントム作戦>と呼ばれていたことに由来する。主人公のクリントが未だにその大半がその在処が不明となっているナチス時代の財宝・美術品の謎を探るノンフィクションを著すためにその痕跡を辿る、まさに邦題は作品のテーマを実に的確に表している。これは訳者の仕事を素直に褒めたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ディーヴァーのシリーズキャラクターと云えば、リンカーン・ライムだが、そのシリーズから派生した、相手の仕草や言動から嘘を見抜く、“人間噓発見器”、キネシクス分析の名手キャサリン・ダンスシリーズの第2作が本書。
このシリーズもライム作品同様、日本のミステリ読者に好評を以て受け入れられ、その年の『このミス』でも9位に選ばれた。 今回のテーマは年々過熱するSNSの書き込みに対する誹謗中傷だ。 ネット炎上という言葉が一般的になって久しいが、匿名性ゆえの舌に衣を着せない、読むに堪えない悪意の塊のような批判がその人の人生を狂わせることも珍しくなくなってきた。 本書でも2ちゃんねるを思わせるチルトン・レポートなるブログが数々のスレッドを立ち上げ、そこから不特定多数の人間が、ある人のご近所で起きた事件について自由気ままに語り、対象者を槍玉に挙げる。さらにそこから更なる中傷が生まれ、拡散していく。そんな騒動の渦中にいつの間にか担ぎ出された人は現実世界でも周囲から嫌がらせを受け、日々の生活に昏い翳を落とすようになる。 まさにネットが生んだ現代的なイジメだ。しかもその範囲が自分の居住圏という限られたコミュニティではなく、世界中に広がっていくのがこの上なく恐ろしい。 またディーヴァー作品に特有の薀蓄は今回も健在。特に『青き虚空』や『ソウル・コレクター』以来、ウェブ社会の現在を反映したような、電脳世界での犯罪を主題にしているが、今回もこの世界での新語について薀蓄が語られる。 ブログ日記を書く人々を“escribitionist”、ブログに書いたことがばれて会社を解雇されることを“dooce”、就職面接で以前の上司についてブログに書いたことがある云々を訊かれる事を“predoocing”と云ったりと様々だ。 しかし2009年に発表された本書で書かれたこれらの言葉が4年後の現代でも生きているかどうかは定かではないので使用については注意が必要なのだが。 また今回はさらに踏み込んでオンラインゲームの世界にもダンスは介入する。容疑者であるトラヴィスが現実の学校生活では冴えないオタクの青年だとみなされているが、ネットの世界、本作に登場するオンラインゲーム『ディメンション・クエスト』では神と呼ばれるほどの有名人であることが判明する。 昨今ではネトゲ廃人なる言語も生まれたように、日がな一日中ゲームの世界に浸って世俗との交流を絶つ者や、ウェブマネーを巡ってのトラブルなど、決してポジティヴに捉えられることのないオンラインゲームだが、ディーヴァーの筆致は決して否定的でなく、寧ろそういう世界の存在を認めている節がある。 しかしまさかゲームの登場人物の戦い方をキネシクスで判断して、性格を把握するとは思わなかったが。 このシリーズの前作『スリーピング・ドール』の感想に私は「物質のライム、精神のダンス」と2つのシリーズの特徴について述べたが、本書では図らずもそれを裏付ける記述があった。 ライムの鑑識能力は物証による推測であるが、ダンスのキネシクスは話す相手がいないと発揮できないのだ。ライムが人物よりも物証を最大に重視するのに対し、ダンスは人を、話す相手を最大に重視する。それぞれのシリーズの特徴が実によく表れている。 しかし前作でも思ったが“人間噓発見器”の異名を引っ提げて『ウォッチメイカー』で登場したダンスの前では誰もが嘘を付けないと思わされていたが、彼女のシリーズになるとなぜかその万能性が損なわれる。特に今回の事件の引き金となっているブログ、チルトン・レポートの主、ジェームズ・チルトンの前で説得を試みるも、逆に云いように操られて逆上するダンスがいて、思わず驚いてしまった。 特にこのシリーズではダンスの過去や生活に筆を割いており、それが逆にダンスを尋問の天才という偶像から、どこにでもいる再婚をどこかで願っている二児の母であることが強調されている。 つまりダンスも冷徹な人間ではなく、間違いもする人なのだということを再認識させてくれるのだ。 本書ではまたもう1つの事件が語られる。それは前作『スリーピング・ドール』の事件で殉職した刑事を安楽死させた容疑でダンスの母イーディが逮捕されるというものだ。この家族に起こった突然の災禍がロードサイド・クロス事件を追うキャサリンの人間性を揺るがす。 そう、今回のダンスはいつにも増して人間臭いのだ。マシーンのような敏腕ぶりを発揮するのではなく、素人にも見透かされ、切り返されるようなミスを犯す。 さらに未亡人である一人の女性として2人の男性に心を揺さぶられる。1人は長年仕事のパートナーとなってお互いを知り尽くしている保安官事務所刑事のマイケル・オニール、そしてもう1人は今回の事件をサポートするために捜査に協力することになったコンピューターの専門家であるカリフォルニア大学教授のジョン・ボーリング。 ダンスが女性であることが、2人の子供を抱えて働く女性であることが父親不在の不安に心惑わされて、それが捜査にも影響を与えていくようにもなる。 しかしライムが感情的になってさえも冷静な頭で数々の証拠物件から犯人を割り出すのに対し、ダンスは感情に突っ走るきらいがあり、それが時に冷静な判断を誤らせているのも確か。特に不意な一報に弱く、常に最悪のケースを想定し、心泡立たせて、焦燥感を駆り立てて、妙な先入観を抱いていらぬ心配をしたり、ヒステリックに怒鳴ったりする。 この辺のギャップに実に戸惑ってしまうのだ。 『ウォッチメイカー』の時の彼女とシリーズに登場する彼女にはその有能ぶりという面ではかなりの格差を感じる。シリーズではダンスは決して万能ではなく、キネシクスの専門家という看板を持ちながらも自身の振る舞いが相手に自分の感情を悟られないように自制しているわけでもなく、また妙な先入観で判断を鈍らせることも一度だけではない。その欠点を補うのが先述のオニールであり、TJやレイ・カラネオなのだ。 さてもはや専売特許ともなったどんでん返しだが、本書でもそれはあった。 最初にこの件を読んだ時は、どんでん返しを強烈にするためのあざとさを感じ、正直ガッカリしたが、読み進むにつれてその妥当性が理解でき、今ではまたもやディーヴァーにしてやられたという思いでいっぱいだ。 ディーヴァー作品の大黒柱的存在であるライムシリーズの犯罪が個人ではなく、もはや不特定多数を標的にしたテロ事件へと次第にスケールが大きくなっているのに対し、ダンスのこのシリーズはまだ2作目と云う事もあるせいか、1人の人間がある個人に対して行った犯罪と、限られた範囲での物語であることが同じ殺人事件を扱いながらも種類の異なる特色になるだろう。 恐らくダンスのシリーズも回を重ねるうちに殺人事件から無差別テロへ発展していくかもしれないが、そうであったとしても物証解析のライム、精神解析のダンスという区分けがある限り、その深みは増すに違いない。 さて今回はウェブ社会がもたらした誰もが情報発信者となり、評論家となり、またはご意見番となるこのご時世に起こる情報による冤罪や苛めについて手痛い警告が成されている。それは悪意をもって誹謗中傷し、騒動を煽るようなことをしてはならないという数億人のブロガーに対する警鐘であると同時に、個人の主観で語られるがゆえに記事を読む人々は決してそれを鵜呑みにせず、自分の頭で判断し、考えることが必要だということをも強く促している。 こうやって読んだ本の感想をウェブで挙げている我々も同じような過ちを犯さぬよう、感想を挙げる時は感情的にならずに、また他者の感想はあくまで参考程度に読むなど、気を付けていきたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アル中の無免許探偵マット・スカダーシリーズ第2作。殺された娼婦と警官の悪行を検察官に売ろうとした悪徳警官のために警官たちの反感を買いながら真相を探る。
誰もが憎む相手の無実を証明しようと奮闘する探偵と云えば、最近ではドン・ウィンズロウの『紳士の黙約』が思い浮かぶ。しかし本書では同書よりも四面楚歌ではない。 ウィンズロウ作品では主人公の許を仲間が一旦離れ、しかも親友が敵となる絶妙な設定だったが、本書では嫌われているのは依頼者であり、主人公ではないため、それほど阻害されているような印象は受けない。 ただとにかくこの本を読むのが今の私には実にマッチしていた。色んな人に捜査を辞めるよう諭されながらも真実を知りたいという一心で妨害に抗い捜査を進めるマットの心情が今の私の心情に重なったのだ。周囲に理解されずとも己の信ずる道を歩むスカダーの姿に今の私を写したように感じた。 またマットが依頼人ブロードフィールドの妻ダイアナと逢瀬を重ねるのが実に興味深い。恋とか愛とかを期待することの無くなった男が一時の迷いから留置場に夫を入れられ、怯える女性にほだされてしまう。それはお互いが孤独を怖れたからだ。 マットは長い孤独に嫌気が差しており、ダイアナは子供を抱えてこれからどうすればいいのか不安に駆られている。そんな状況で生まれた恋情はしかしマットに余計な犠牲者を増やすという過ちを犯させてしまう。酒に溺れるだけでなく、今回は女に溺れることで有力な手がかりを持つであろう男を喪うマットはこのように有能でないからこそ、実存性をリアルに感じさせる。 さらにマットが娼婦エレインと今のような関係になった経緯についても語られている。 元警官が娼婦と懇意になる、このことは確かに悪意ある取引を連想させるが、この2人はそんな下世話な部分とはかけ離れた、純粋に人間同士の付き合いという美しさと潔さを感じていたが、やはりそうだった。 時に一人の客とその相手として、時にそれぞれ一人の男と女として、そして時に友人同士として協力し合う関係。彼ら2人の関係はことさらドラマチックな化学反応があったわけではないのだが、それが逆に私達読者が持つ人間関係の始まりと実に似通っていて、腑に落ちるのだった。 真相と真犯人は実に意外だ。というよりもこの真相を読者は当てることが出来ないのではないか。それほどそぐわないように感じた。 今回はこの素晴らしい邦題を褒めたい。この物語にはこの題名しかないとしか思えない絶妙な仕事だ。 原題は“In The Midst Of Death”、『死の真っただ中に』とでもなるだろうか。これが“Deaths”と複数形ならば今回出てくる3つの死人の中心にある物という意味になるのだろうが、恐らくはそれが正解なのだろう。しかしやはり本書では冒頭マットと出逢い、すぐに死んでいくポーシャ・カーが印象的だからだ。1章の最後でふとこぼれる台詞が非常に強く印象に残るからだ。そしてマットもまた冬を怖れる理由を探る。この実に詩的な謎が本書に深みをもたらしている。 短いながらもこんな風に大人の心の機微を考えさせられる作品だ。そしていまだに私は彼女が怖れた冬とは何だったのかと考えに耽っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書の謎は2つ。
まずは犯罪方法としての物だ。それは衆人環視下における凶器のすり替えはいかにして成されたか? もう1つは催眠術下にある人物は殺人を教唆されたら術者の云う通りに実行するのかという物だ。 まずは後者の謎は本編を彩るガジェットとして使われている。催眠術といういかがわしい代物に懐疑的な人々はその存在をなかなか認めようとはしない。それでは百聞は一見にしかず(なおこれが本書の原題となっている)とばかりに実演してみせることになる。 その内容は催眠術で人に殺人を犯させることは可能かと云うかなり過激な物だ。現代ではそれは不可能とされているが、それと悟られないように指示することで殺人も自殺も可能とされている(宮部みゆきの『魔術はささやく』がそんな話だった)。 カーが巧みなのは、この前段に夫が浮気の末に若い娘を殺害したことを妻が知らされていることが冒頭で読者に知らされていることだ。果たして不貞を働いた夫を妻は許せるのかと云うバックグラウンドを盛り込んで、この催眠術による殺人教唆のスリルを盛り立てている。 その設定から一転、明らかに人を殺せない凶器がいつの間に本物にすり替わって、被験者が皆の目の前で殺人を犯してしまうというショッキングな謎にすり替わるのだ。この辺の謎から謎への移り変わりの巧みさはまさにカーならではだろう。 さて本書のメインとなるこの不可能犯罪、一室に集められた人々の目の前に置いてある凶器がすり替えられたという謎だが、殺人の目撃者が一様に凶器が目の前にあり、誰もそれに触れた者はいないと証言しているとさらに不可能性を強化させていく。そんな実にシンプルかつ難しい謎にどんなトリックがあるのかと実に興味深く読んだ。 そして本書の原題“Seeing Is Believing”は邦訳では前述のとおり、「百聞は一見にしかず」という意味だが、本来ならば最後に“?”が付くことが本書における意味を最も示しているように思う。 見ていることが必ずしも真実ではないのだと、カーは本書に仕掛けられたミスディレクションの数々で示しているように思えてならない。 さてこのシリーズではいつもH・M卿の奇妙な振る舞いがアクセントとしてユーモアを醸し出しているが、本書では口述による自叙伝の内容が実に面白かった。いつもながらH・M卿のドタバタぶりには笑わせてもらえるが、本書も幼年時代の破天荒ぶりには心底笑わせてもらった。 H・M卿を描くカーの筆はいつも躍動感があって実に楽しい。 こんなに楽しい名探偵が活躍する作品群が、そしてこんな本格ミステリの巨匠の作品が数多く絶版だった状況は非常に好ましくない。 カー作品を後世に伝えるためにも今後の永続的な新訳・復刊を望みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は一種変わったクライム小説だ。救急救命士という真っ当な職業に就く人物が主人公であると変化球を見せれば、新宿に蔓延る中国マフィア連中によって翻弄されるいつものパターンもある。そして最後には都知事爆破を企むというクライムノヴェルの様相を呈していく。
しかし根っこにあるのは家族を喪った心に獣を飼う男と貧しくも逞しく生きる、東京に親を剥奪された子供達との適わなかった幸せだ。 この救急救命士の織田と云う主人公は暗黒小説の雄である馳氏の作品とは思えないほど、クリーンだ。昔消防士だった頃に地下鉄サリン事件で妻と子を亡くしたという苦い過去を持つ男だ。 彼は今までの馳作品の主人公のようにドス黒い憎悪の塊や業深き欲望のような負の要素を持たない男でもある。未成年で、しかも日本国籍のないファッションヘルスで働く儚げな美少女笑加を前にしても性的欲求が頭をもたげずに通常通り振舞う。 こんな普通な主人公は初めてではないだろうか? しかしそこは馳氏。作風転換と見せかけてやはり織田は他の馳作品のようにドス黒い感情を孕んだ人物であることが明かされる。 地下鉄サリン事件を契機に日常がいかに危ういバランスの上で成り立っているかを思い知り、疑心暗鬼に陥り、自分の身を守るために武器をまとうようになった。 殺る前に殺る。心に獣を飼いながらそれを押し隠して救命士の職を務めていたが、笑加たちとの出逢いで彼らの不遇とこの世の理不尽さに、鎖で繋いでいた獣を解き放とうとする経過が刻々と語られる。 とはいえ、この織田の情念は今までの主人公たちに比べれば常識人でもあり、我々一般人が一種理解し難い狂気ではないことが特徴的だ。 云いたいことが云えない世の中で誰もが抱えるストレスに近い物を感じ、織田がいつキレるのかを待ち受ける読者はどこか自分を重ねて見ることが出来るようなキャラクターのように思える。 その証拠に織田は道を踏み外そうと決意し、中国人の暗黒街のボス李威の下で犯罪に手を染める手助けをさせられるが、自分がどんな犯罪に加担しているのか知ろうとし、また李威によって利用され食い物にされる人々と接するごとに罪悪感に苛まれる。なかなか悪の道に踏み入ることが出来ない善人なのだ。 これも馳作品では異色のキャラクターと云えよう。 特に織田の人生が破綻していく動機が他者のためであるのが特徴的だ。 今までの馳作品の主人公は己のエゴや黒い欲望のために他人を出し抜き、一攫千金を夢見て、のし上がる、もしくは理想の楽園へ逃れようと実に利己的な動機だったのに対し、織田は親を祖国へ強制送還され、自分たちだけの力で生きていかざるをえなかった明たち不法就労者の残留児たちの生活を守るために、悪事に手を染め、安定した救急救命士という職を擲ち、窮地に陥っていくのだ。 彼が求めたのはかつて持っていた家庭と云う温もりと長きに亘った孤独への別離。明や笑加を筆頭にしたたかにも逞しく生きる子供らとの生活が長く続くことを願ってやまなかったことだ。 従って本書ではそれら壊れやすい貴重な宝石のような物が次第に失われていくような儚さがある。危ういバランスの上で成り立っていた疑似家族と云う幸せという薄氷、その象徴が再生不良性貧血という重病で弱っていく笑加の存在だ。 たった15歳で風俗に身を落とし、生活費の大半を稼いで彼らを養っている母親役の少女。しかしそんな気丈なところがあるようには思えないほどその存在感は儚げなのだ。 彼女の容態の推移が本書の抗えずに向かう悲劇へのカウントダウンとなっている。 さらに文体もまたかつての馳作品とは全く違う。抑制の効いた文章で新宿界隈の忌まわしい事件を語る。その抑えた筆致が逆に新宿の荒廃感を醸し出している。 そこにはラップのようなリズムもなく、刻むような体言止めも存在しない。淡々と事実を、風景を、織田の心情を語る文章があるだけだ。 そしてさらには呪詛の羅列のような唾棄すべき内容の文章だったのが、ここでは織田と笑加、明たち少年たちの交流を瑞々しく描いている点だ。 彼らは生き抜くために犯罪に手を染め、大人を出し抜き、更には自分たちの不遇を呪って都庁爆破と云うテロを企てているという、いわばとんでもないアウトローの集団なのだが、実の素顔は日々不安を抱えて生きている少年少女であり、それが子供と妻を地下鉄サリン事件で亡くした織田にとっては何物にも代えがたい宝石となっているのだ。 その心温まる交流が随所に挿入され、テロを計画するという陰謀とは裏腹に家族愛を感じさせるのが皮肉だ。 まさにこれは馳流大家族ドラマとも云えよう。 そしてその家族愛と双璧を成すのが新宿都庁爆破と云うテロ計画だ。 本書では新宿都庁のセキュリティの甘さが衝撃的に描かれている。展望室へ至るエレヴェーターが実は全ての階に停まり、容易に各階へ侵入できることが書かれている。そしてこれが地下鉄サリン事件を経験し、アメリカの9・11を目の当たりにした国の中枢のセキュリティなのかと警告を発している。 私が件の場所を訪れたのは2011年だったが、その時は本書のような状態ではなく、エレヴェーターにはきちんと案内人が乗っていたように記憶しているが、もしかしたら本書がきっかけで改善されたのかもしれない。 つまり本書は日本のセキュリティの甘さを痛烈に批判する警告の書という側面もあるのだ。 また地下鉄サリン事件という未曽有の都市型テロで家族を喪った織田が、明たちと共に都庁爆破と云うテロに手を染めていくとはなんと皮肉なことだろうか。 テロの仇はテロで返す、そんな不毛な原理主義が実に虚しく響く。 これは家族を守ろうとする一人の男の愛の強さを描いた物語だ。しかし馳氏の手に掛るとその愛の強さはテロをも生むのだ。安定した生活を擲って家族のために犯罪に手を染めていく不器用で愚直な織田に、どこか昭和の男の香りを感じてしまった。 |
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19世紀末から20世紀初頭にかけて一世を風靡した二大奇術師の対決の物語。
しかしそこはプリースト、単純な話にはならず、得体のしれない双子の存在が物語の物陰から見え隠れする。それはまたプリースト特有の、自身の存在、そして住まう世界が揺らぐ感覚でもある。 今回は死んだと思われていた子供が成人して生きていた。さらには世界のどこかにまだ見ぬ双子の兄弟がいるという感覚に付き纏われるという、どこが地に足がつかない感覚が物語を包み込む。 更には稀代の奇術師たちが挑んだ瞬間移動奇術の謎とその因縁が主人公たち2人の男女の現在に纏わるという重層的な構造を持っている。 しかし物語の大半を占めるのはこの2人の奇術師アルフレッド・ボーデンが生前遺した自伝とルパート・エンジャの日記という手記だ。その中心にあるのはそれぞれが発案した瞬間移動奇術の正体だ。 アルフレッドの「新・瞬間移動」は完璧な奇術であり、まずはルパートがその謎を探るべく、彼の許に自分の愛する女性を助手として送り込む。しかしアルフレッド側に寝返った助手の女性から偽の情報を渡されたルパートはそこに書かれたアメリカの発明家ニコラ・テスラの許を訪れ、アルフレッドから全く違う方法で瞬間移動奇術「閃光の中で」を編み出す。 ここからがファンタジーの領域になっていく。 そしてそこから物語は双子、いや二通りのもう一人の自分の存在について語られる。 瞬間移動奇術の謎を解く話がいつの間にか一人の人物の存在というものへの疑問へと変わっていく。 瞬間移動奇術を通じてアルフレッド・ボーデン、ルパート・エンジャという名前を持つ存在は一人の男だけの物なのかを問う物語、というのは大袈裟な表現だろうか。 さらに物語は混迷を極めていく。それはプリースト独特の語り口故に。 語り手は「わたし」という一人称叙述に変わり、これがどの「わたし」を指しているのか解らなくなってくる。さらにはこの「わたし」は自分の死を語り、生者なのか死者なのかも不透明になっていく。 ここで思うのは名前という物の重要性だ。しかし名前という確定要素さえもプリーストにかかれば存在意義を揺るがすものとして扱う。 貴方の名前は誰の物?本当に貴方だけの物だろうか? 貴方の名前を名乗って貴方の人生を生きる存在がいる、などという人は皆無に等しいだろうが、同姓同名の人と出逢って、妙な違和感を抱いた経験がある人はいるだろう。その時に感じる自分の名前を横取りされたような感覚。本書のテーマはその違和感が肥大した物なのかもしれない。 なぜこのように感じるのか? それは2人の奇術師の手記で構成された内容でさえ、作中の登場人物によって改竄させられたものだからだ。 そして驚愕の真相が明かされるのは最終章。 正直この真相は分かりにくい。なぜなら上に書いたようにこの顛末を語るのは誰なのか解らない「わたし」だからだ。 この私はルパートなのか、それともアンドルーなのか最後まで解らないからだ。 プリーストの、存在という基盤が揺らぐ書き方はさらに曖昧になってきている。読者もその理解力を試される作家だと云えよう。 二度目に読むとき、違和感を覚えた記述の意味が解る、二度愉しめる作品の書き手でもある。 しかしこれほど頭を揺さぶられる読書も久しぶりだ。次は読みやすい本でも手にしよう。 後日、本書を原作にした映画『プレステージ』を観たが、複雑なストーリーが換骨奪胎されており、実に解りやすく、かつ傑作だった。本書の場合は最初に映画を観てから読むことをお勧めする。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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スキャンダル専門のカメラマン、いわゆるパパラッチの栃尾を主人公にした連作短編集。
最初の「DRIVE UP」では落ち目の女性タレント古谷とすでに忘れられたアイドル歌手佐竹が神妙な面持ちで多国籍料理店で話しているというネタを手にする。 まずは軽いジャブと云った作品。この連作の設定である金貸しの吉井とパパラッチの栃尾の主従関係が形成される導入部的作品。 以後、物語は吉井が取り立てに応じない厄介な客の弱みを掴むために栃尾を利用するという構成が続く。 「DRIVE OUT」では政治の大物重久洋一の孫娘岡本洋子を、「POLICE ON MY BACK」では新宿署の悪徳警官の浅田正次が、「GOING UNDERGROUND」では亡くなった銀行の支店長森脇誠から、。「PRIVATE HELL」では政財界の大物たちが顧客の占い師遠藤和江から借金を取り返すために秘密を探り、そして最後の「SHOULD I STAY OR SHOULD I GO?」では吉井秀人から逃れるために彼の秘密を探る。 吉井の依頼を通じて栃尾が探るこれら顧客の秘密は週刊誌記事で高額で取引される淫靡なスキャンダルの数々だ。 そして標的も落ち目の芸能人と忘れられたアイドル歌手や大物政治家、暴力団を食い物にする悪徳警官、ホモの銀行支店長に、少女買春をする政財界の大物と次第にスケールが大きくなっていく。 判明する事実も行き場の無くなった芸能人たちの醜い争いだったり、近親相姦、ホモのまぐわい、少女買春、更には親殺しと見るも聞くもおぞましい醜悪の極みだ。 また各編の題名は最初の2編以外は主人公栃尾が愛聴するバンドの曲名から取られている。 「POLICE ON MY BACK」はザ・クラッシュの、「GOING UNDERGROUND」はポール・ウェラーの、「PRIVATE HELL」はザ・ジャムの、最後の「SHOULD I STAY OR SHOULD I GO?」は再びザ・クラッシュの曲から取られている。 それらが物語のBGMとしてグルーヴ感を高めている。いや各編に挿入される“Driiiive!”というマンガ的効果音のような単語が物語をシフトチェンジさせ、栃尾の狂気を、出歯亀根性を加速させる。 いや、寧ろ馳氏は物語にロックの持つ躍動感とパンクの放つ破壊的欲望や煽情性を織り込むために積極的に取り込んだのだろう(ただ本書のどこにも著作権使用の断りがないのが気になるが)。 そして面白いのは栃尾がエクスタシーに達するが如く、その覗き見趣味の好奇心が増せば増すほど、吉井への憎悪が募れば募るほど、“Driiiive!”の“i”の数が増えていく。第1編目では4つだったのに対し、2~4編目は6つに、5、6編目は7つに増えていく。 “i”はすなわち“I”、つまり「私」だ。この“i”の数が主人公栃尾の自我が覚醒し、増大するエゴのバロメータを表しているようだ。 本書の中心人物は3人。 スキャンダルこそが自分にエクスタシーをもたらすという覗き見ジャンキーのパパラッチ栃尾と金を取り返すためには他人をとことん利用し、人生を破滅させることも厭わない冷血漢吉井。 この2人は『不夜城』シリーズの主人公劉健一を二分したようなキャラクター造形である。 劉健一は『不夜城』では台湾マフィアのボス楊偉民に云いようにこき使われていたしがない故買屋だったが、その後の『鎮魂歌』、『長恨歌』では影の存在となって人を使い、翻弄する。これはまさに栃尾であり、吉井でもあるのだ。 そしてそこに加わるのが高木舞。3話目の「POLICE ON MY BACK」の標的となる悪徳警官の浅田正次の娘だ。彼女はなんと浅田が親子ドンブリをするために育てられた美少女で、父親に処女を奪われる前に栃尾に体を捧げ、それ以降栃尾の情婦となって付き纏う淫乱女子高生だ。 このように吉井の借金取り立ての相手となる者たちもまともでなければ、主人公たちもとち狂って壊れている。 そんな彼らの関係は近親憎悪とでも云おうか。お互いが忌み嫌っているのに、なくてはならない存在となって依存している。特に吉井と栃尾は先に述べたように劉健一を二分したかのようなキャラクターゆえにお互いが貶めようとしているのに最後はさらに関係は深まって手を組むのだ。 そして彼らは再び秘密を探るため、ポルシェで夜を疾走する。 しかし本書の時代はバブル全盛期。崩壊後の彼らは一体どうなったのか? なんだかんだでこの今でもしたたかに生きているに違いない。 |
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『野蛮なやつら』が還ってきた!
前作で華々しい最期を遂げた彼らの続編はその事件の前日譚。流石に前作に見られたあの鬼気迫る短文と固有名詞の乱れうちのような文体は鳴りを潜めているが、それでも彼ら3人を語るオフビートテイストな、ちょっと特異な文章と短い章で刻んでいくストーリー運びは健在。ちなみに第1章が一行で始まるのもまた同じだ。 その第1章が前作では「ざけんな!」であったのに対し、今回が「あたしとしてよ」だったのには思わずニヤリとしてしまった。 日本語では解らないが、これは前作が“Fuck you!”であり、今回が“Fuck me.”と対語になっているのだ。もうこの1章から一気に彼らの世界に引き戻されてしまった。 今回は二つの軸で物語が展開する。1つは現代の(物語の世界では2005年)ベンとチョンとOの物語が、もう1つは1967年、フラワー・ムーヴメント華やかな時代でのサーファー、ドクが相棒のジョン・マカリスターと共にスタンとダイアン夫妻を交えラグーナに後に“連合”と呼ばれることになる一大麻薬コネクションを作っていくオフビートなビルドゥングス・ロマンが繰り広げられる。 この2つの時代を行き来する物語の仕掛けが解ってくるのは物語の半ばを過ぎてから。ドク、ジョン・マカリスター、スタンとダイアン夫妻、そしてトレーラー生活からその類稀なる美貌でのし上がってきたキムたちが実はベンとチョンとOに密接に関わってくるのが見えてくる。 いわゆる一般市場では市場競争が原則であり、他社の製品よりもシェアを拡大するために品質の追及を行うのが通常だが、麻薬市場は自分たちのシェアを拡大するために常に裏切りと買収、そして自分の地位を脅かす者の排除と非常にネガティヴだ。 これが麻薬が非合法の品物であることに起因しているのならば、オランダのように合法化すればこのような警察と麻薬カルテルとの永遠のイタチごっこは、同業者たちの殺戮の連鎖はもしかしたら終わるのかもしれない。 さてウィンズロウ読者には嬉しいサーヴィスが。 なんとボビーZとフランキー・マシーンが客演するのだ。ボビーZはまだ伝説を作る前の姿でドクの“連合”の一員として、フランキーはドクが組もうとしたメキシコ・マフィアの用心棒として、そしてジョンにドクを殺す方法を教える教師として。 しかし最近のウィンズロウは麻薬をテーマにした作品が多い。しかもそれらは常に血みどろの惨劇になる。また麻薬は関係ないかと思われた作品でも麻薬が絡むことで昏い翳を落とす。『犬の力』を構想中に得た麻薬業界の知識と麻薬捜査の現状の虚しさが作者に怒りを与え、もはやライフワークの感がある。 ファンの1人としてはあまり麻薬に固執せずに物語のアクセントとしてこれからも面白い物語を紡いでほしいと願うのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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