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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数694

全694件 1~20 1/35ページ

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(7pt)

アメリカの黒歴史の罪深さと差別の根強さと

本書は妻を突然死で亡くしたベストセラー作家マイクル・ヌーナンが主人公の物語なのだが、その内容は実に流動的だ。

本書の大筋は妻を亡くしたことでライターズ・ブロックになった、つまり書けなくなった作家マイクル・ヌーナンが悶々とする日々を送る中、毎夜夢に登場するTRという正式名称もない町で買ったダークスコア湖の湖畔に建つ別荘へしばらく滞在し、そこで幽霊や生前の妻が取っていた奇妙な行動に出くわすという話だ。

しかしそれに加え、別荘のある町TRで彼は若き未亡人マッティー・デヴォアと知り合いになり、彼女が自分の娘の監護権を巡って争っている隠居したコンピュータ産業王マックス・デヴォアとの裁判に一役買うことになり、それが原因で彼は嫌がらせを受けることになる。

一方でマイクルは亡き妻ジョアンナが自分には内緒で死ぬ数年前にTRを何度か訪れ、調べ物をしていたことを知らされる。しかも彼以外の男性と親しく談笑していたこともマッティーの話で知るのだ。

ジョアンナの生前の不審な行動に心騒めかせられながらも、マッティーの娘を巡る監護権の争いは例え大富豪といえども老い先短い相手よりも立場は優位なため、裁判の結果は火を見るよりも明らかだったが、なんとその車椅子に乗った老人マックス・デヴォアからマイクルは執拗な攻撃を受けるのだ。

なんと湖の近くでマックスと出くわしたマイクルは彼に突き飛ばされて湖に落ち、そして彼の付き添いの秘書ロゲット・ホイットモアの投石で湖から上がることが出来ず、パニックに陥って死にそうになるのだ。

いやあ、この老いてなお自分の思い通りにならないと気が済まない欲望の権化マックス・デヴォアの醜悪さはキング作品でも一、二を争う悪役だ。

この執念深さに監護権争いの勝利目前にしてマイクルは絶望感を抱くのだが、突然それは好転する。マックスがいきなり自殺するからだ。

しかしこれもまだ続く悲劇の序章に過ぎないことがクライマックスで判明する。それについては後に述べよう。

ところで今回作家を主人公にしているせいか、ジョージ・スタークのような虚構のみならず実在する作家の名前が頻出するのもまた一興だ。

それら実在する作家を例に出しながら小説家であることの意義やメリットについても作家であるマイクル・ヌーナンの独白の形で語られる。

例えばミュージシャンは途轍もないヒットを生み出す代わりに飽きられると消えてなくなるが、作家は年を取っても新作を書き、またベストセラーを出せると説く。アーサー・ヘイリーやトマス・ハリスが『ハンニバル』を出してベストセラーになったことを引き合いに出し、ミュージシャンの例ではヴァニラ・アイスが挙がっているのは傑作だった。

また出せば50万部、100万部の売り上げが約束される作家は1年に1冊は出すことが求められ、愛好者の多いシリーズキャラクターを持つ―キンジー・ミルホーンやケイ・スカーペッタが例に上げられている―と家族と再会したような効果があるので奨励されるなど。
一方あまり出し過ぎると読者はつまらなく感じたりもするとも書かれている。

また日本では年末のランキングを意識して秋に小説の刊行が活発になるが、アメリカでも秋や新年に出版ラッシュがあるようで、本書でもクーンツが例年1月に新作を出すとかそれぞれの作家が出す作品がどのような類のもので、例えばケン・フォレットは過去の傑作『針の眼』に匹敵する新作を出すと云った情報交換がなされること、更には自分と同じ作風やジャンルの作家と出版時期が被ることでニーズを食いつぶすので避けることなど動向を気にしている様が語られる。

ところで実在する作家名と云えば、キング作品ではジョン・D・マクドナルドがやたらと登場する。今回もマイクル・ヌーナンが〈セーラ・ラフス〉での別荘生活を始めるにあたり、ジョン・D・マクドナルドの小説を23冊も持ってきたと述べる。
この作家、かつては日本でも訳出されていたがかなり以前からそれは途絶えていた。しかし本国アメリカでは評価が高く、作家の中にもファンが多い。
これほどまでにキングに取り上げられるだけにヘレン・マクロイなどのように日本でも再燃しないだろうか。東京創元社あたりが訳出してくれるといいのだが。

マックス・デヴォアの自殺でマッティーとの間の障壁が無くなったマイクルはマッティーへの思いを強める。
一方で彼女の監護権を争う弁護を請け負ったジョン・ストロウもまた彼女の魅力にほだされ、裁判が終了した暁には彼女へ交際を申し込もうと決断する。

それほどまでに会う男性が魅了されるマッティーだが、彼女が選んだのはマイクル・ヌーナンで、彼女はもう何も気にするものはないとマイクルに猛烈にアプローチを掛ける。なんと公然とキスを交わし、夜になって娘のカイラが寝た時間になったら会いに来て、抱いてと家の鍵を隠している場所まで教える。

まさに相思相愛で双方同意の下で熱い愛を交わせる間柄になったのだが、その夜マイクルは彼女の許を訪れず、代わりに奇妙な夢を見る。それはセーラ・ティドウェルがまだ存命で、町の老人たちが若かりし頃の時代に舞い戻りながらも、なぜか現代的な服装を着ている―ちなみにセーラが着ているのはマッティーがいつも着ている服なのだ―、夢ならではの不条理感に満ちた世界の中でなんとマイクルはマッティーの娘カイラと遭遇し、危機や楽しい時間を共有する。

そのことでマイクルはマッティーよりも幼い娘カイラに深い絆を感じるのだ。

これは自分と照らし合わせてすごく腑に落ちる思いだ。
夢で出逢う人は途轍もなく深い愛情を感じるのだ。
いや寧ろ夢で逢うことで自分がそれまで気付かなかった想いに気付かされるのだ。潜在的に行為を抱いていたこと、いや愛情を抱いていたことに。二度それを私は経験したことがあるのだが、その時の想いはいまだに色褪せない。

一方で彼は亡き妻ジョアンナへの想いも絶やさない。従って彼に知らせずに彼女が単独でTRに訪れ、しかも自分ではない年配の男性に腰に手を回されても嫌な顔をせず、寧ろこの上なく親しげに談笑する姿を見かけられた話を聞かされて穏やかではない。

しかしそのジョアンナの謎の行動は決して夫マイクルに対する裏切りではないことが判明する。
その男とはジョアンナの実の兄フランクだったのだ。その事実を知ることでマイクルは安堵と共にジョアンナへの愛情を再認識するのだ。

このようにキングは不安と安堵といった心の振幅を操作するのが実に上手い。そしてそれにも増して幸福と悲劇の振り幅が実に大きいのだ。

この上下巻1,180ページ強で語られる〈セーラ・ラフス〉とその別荘のあるTRを取り巻く不穏な空気、かつてそこに住んでいた今は亡き黒人女性シンガー、セーラ・ティドウェルと彼女の周囲の人間たちが幽霊として存在を仄めかしながら復活へと向かう雰囲気、そして主人公マイクル・ヌーナンが一目惚れした未亡人マッティー・デヴォアと彼女を疎外する大富豪マックス・デヴォアの脅威がひしひしと迫りくる不穏さをじっくりと700ページ以上に亘って描きながら、一気にマックス・デヴォアの自殺によって好転するのは前に述べた通り。
そして監護権はおろか、なんと8千万ドルもの遺産を条件付きで相続するというどん底からのV字回復を見せる。

そこからマイクル・ヌーナンとデヴォアとの監護権を巡る戦いに関与した弁護士ジョン・ストロウ、ロミオ・ビッソネットと彼の相棒の探偵のジョージ・ケネディを加えた4人で祝賀会をマッティーの家で挙げるのだが、そのシーンは本書でも幸福感が溢れたシーンでもある。
そしてそこからの悲劇。まさに天国から地獄へと突き落とされる途轍もない落差を見せるのだ。

これがクライマックスへ反転する悲劇なのだが、これは『ペット・セマタリー』(傑作!)でもあった展開だ。
最上の幸せからの悲劇への反転。これがキング流の揺さぶり方なのだ。

そしてマッティーが見せる死に行く母親が見せる母性の強さは短編「マンハッタンの奇譚クラブ」で見せたシングルマザー、サンドラ・スタンフィールドの深い愛を感じさせる。

さて本書のメインプロットはシンプルに云えば不当に虐げられて殺害された、浮かばれない亡霊の復讐譚であるのだが、その背景にあるのはいわば記録に残らない、だがそのことを知る住民によって語り継がれる街の黒歴史の物語であることだ。

主人公マイクル・ヌーナンが所有する<セーラ・ラフス>のある正式な名もない、TRと呼ばれるその町にはかつて名を馳せ、今なお彼女によって歌われた歌が現役歌手によってカバーされる黒人歌手セーラ・ティドウェルが住んでいた。
そう、マイクルの所有する別荘〈セーラ・ラフス〉こそ彼女が住んでいた家であり、その名の由来は彼女がかつて全米を魅了した特徴ある、顔を大きくのけぞらせて、髪の毛を腰のあたりにまで垂らしながら底抜けに明るい大きな笑い声をあげる魅力的な笑顔に由来している―なお作中でマイクルがこの名前をホール&オーツが歌っていたバラードの曲名みたいな名前だと述べるが、それは即ち“サラ・スマイル”のことだろう―。

しかし全米をその笑顔で魅了した有名人であった彼女でさえ、アメリカ社会に深く根差している黒人差別からは逃れられなかった。

この21世紀も20年が過ぎた今なお社会問題となって国中を、いや全世界を巻き込んだブラック・ライヴズ・マターが本書でも実に目を覆いたくなるような悲惨さで語られるのだ。
この差別の問題の根深さを思い知らされると共に、20年以上経っても変わらないアメリカの教育や意識変化の無さに憤りと共に呆れてしまった。

そしてもう1つ、町の黒歴史として忘れてはならないのが本書で初めてキングが創造した架空の町キャッスルロックの歴史も披露される。しかもそれは町が公式に編んだ町史という形でなく、在野の好事家マリー・ヒンガーマンという女性の自主出版書である。つまりこれもまた非公認のいわば黒歴史なのだ。

それは世紀の変わり目ごろに40人もの黒人が住み着き、その連中がセーラ・ティドウェルとレッドトップ・ボーイズというミュージシャン集団の一員で彼らが土地を買い入れ、住み始めたこと、そして当初有色人種が乗り込むことで反対運動が起きるが、それも沈静化し彼女とその仲間たちは迎い入れられたが、いつしかこの地を後にした。その判明していなかった黒人たちの撤収の本当の理由がセーラ・ティドウェルの悲劇であったのだ。

また本書で語られる差別はそれだけではない。マイクルが出会った実に魅力的なシングルマザー、マッティー・デヴォアに対する周囲の蔑みもそうだ。

シングルマザーへの侮蔑、そして有力な高額納税者の意に沿わないことで受ける閉鎖的な村社会特有の村八分状態。これらもまた差別の一種だ。

そして最後母親を喪ったカイラを引き取ることを決意したマイクル・ヌーナンだったが、弁護士ジョン・ストロウ曰く、それも時間が掛かると云われる。独身の男が女の子の親候補の場合、性虐待の恐れがあるという理由で。これもまた性差別である。

さてキングと云えば他作品とのリンクだが、本書も例外ではない。

本書の舞台はキングが創った架空の町デリー。そして『ニードフル・シングス』で崩壊したキャッスルロックもまた登場する。それだけではなく、他作品の登場人物もまた登場する。

『ダーク・ハーフ』の主人公サド・ボーモントはその作品のクライマックスで彼のダーク・ハーフ、ジョージ・スタークと共同で書いていた『鋼鉄のマシーン』を出版したとき、本書の主人公マイクル・ヌーナンが2作目の『赤いシャツを着た男』を書いたころであり、そのサド・ボーモントも既に鬼籍に入ったと書かれている。そして『不眠症』で主人公を務めた老人ラルフ・ロバーツも登場する。

そして最後事件の収拾に来たのはキャッスルロックで保安官助手をしていたリッジウィック保安官だ。そして彼から前保安官アラン・バングボーンはニューハンプシャーに移ったことが判明する。
また<セーラ・ラフス>のあるダークスコア湖は『ジェラルドのゲーム』の舞台でもある。

ところで本書の舞台TRの生き字引ロイス・メリルは、メリル姓から「スタンド・バイ・ミー」の最悪の不良エース・メリルの血縁であると思われる。

この何とも不思議な題名、骨の袋。それはトマス・ハーディの言葉に由来している。
それはどんなに精彩豊かに描かれた人物であっても、所詮小説の中の人物は実在するくだらない人間には到底及ばない骨の袋に過ぎないという自己否定とも謙遜とも取れる言葉から来ている。つまりは小説内人物はどんなに魅力的であっても血肉を持つ実在する人間の存在感には到底敵わないと述べているようだ。

しかし物語が進むにつれて本当に骨の袋が登場する。それは〈セーラ・ラフス〉に取り憑くセーラ・ティドウェルとその息子キートの白骨化した亡骸を入れた骨の袋だ。これこそがセーラの怨霊の素であった。

スティーヴン・キングはまだ筆を折らない。世紀を超え、今なお精力的な創作活動を続けている。
ここで私は思うのはマイクル・ヌーナンはリチャード・バックマンに代わるキングの作家人生における人身御供だったのではないかと。キングも数々の作品を紡ぐにあたり、作家としては虚しさを覚えるこのトマス・ハーディの言葉は痛烈に響き、そして考えさせられたのではないだろうか。

しかし彼の頭の中にはマイクル・ヌーナンが述べていたようにまだまだ頭の中に始終聞こえてくる色々な声があり、湧き出るアイデアがあるのだ。このトマス・ハーディの言葉でさえ、題材と扱うほどに。

正直本書は数あるキング作品の中でも特段評価の高い本ではなく、キングと云えばコレ!というような作品ではない。
しかしキングの創作に対する考えやブラック・ライヴズ・マターや妻を亡くした男が目の前に掴めた幸せを奪われた哀しい作品として妙に印象に残ってしまうのだった。


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骨の袋〈上〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キング骨の袋 についてのレビュー
No.693: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

イギリスの闇歴史を楽しみつつ、完結

ヴィクトリア朝怪奇冒険譚3部作最終作。
田中氏のシリーズ物は完結に数十年費やすことがざらなのだが、幸いにしてこのシリーズについては僅か10年で完結することになった。しかし3部作であっても10年も掛かるのが田中氏である。

さて1作目では月蝕島というスコットランド沖の孤島、2作目ではイギリス北部のノーサンバランドにある髑髏城と国外に出ないまでも日帰りするには遠く、その地に行くまでもが冒険となる場所であったのに対し、今回の舞台水晶宮は元々ロンドンのハイドパーク南にあったがロンドン東南郊外のシドナムに移築された建築物である。
そう、最終作の舞台はロンドンに住むニーダムとメープルたちが日帰りできる安近短な冒険舞台なのである。

それだけではなく、1作目の月蝕島、2作目の髑髏城が作者の創作であったのに対し、今回の舞台、水晶宮はかつて実在した建物である。この実在した建物の地下に広大な遺跡が存在し、そこを根城にする死神と名乗る仮面の男が今回の敵だ。

この<死神(デス)>と自らを名乗る仮面の男の正体はヴァネヴァー・ダグラス・コンプトンバーグという自身をメトセラの子孫だと名乗る67歳の医師だが、その容姿は都市不相応の若い美男子であり、バラクラーヴァの激戦を生き抜いた31歳のニーダムを凌駕する膂力を誇る。ちなみにメトセラとは旧約聖書に登場する有名な「ノアの箱舟」のノアの祖父で969年間生きたと云われている人物だ。

このコンプトンバーグは水晶宮の古代遺跡に遺された古書を参考にニワトリヘビや赤帽子(レッド・キャップ)といった怪物たちを生み出すマッドサイエンティストで、ニーダムとメイプル、ウィッチャー警部、そしてディケンズらはこれらの怪物たちとの戦いを余儀なくされるのだ。ちなみにニワトリヘビとはその名の通り、頭がニワトリの大蛇で捜索に来た警官隊たちを丸呑みにする。また赤帽子は血で赤く染めた帽子を被った妖精でこれもまた人を襲うのだ。

さてこれまでのシリーズでは19世紀に実在した人物たちが大いに物語に絡み、それら偉人たちの伝記では書かれていない蘊蓄が読みどころであったが本書でもチャールズ・ラトウィッジ・ドジスンが登場する。と云われてもピンとこないだろうが、実はこれは『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルの本名なのだ。今回登場時はまだ同作を発表していない時期で売れてない作家の1人である。

彼が世界で最も早い時期のアマチュア写真家の1人であったこと、12歳以上の女性が嫌いな性格―女性恐怖症なのか、幼児性愛者なのかははっきりとしない―であることなど意外な情報が明かされる。

個人的には1,2作に登場したウィルキー・コリンズがいよいよ満を持してニーダムとメープルの冒険に参加するのかと思ったら、最終作の本書ではその影さえもなかった。その不足を補うかのように今回はディケンズが参加し、ステッキを用いて登場する怪物たちとの立ち回りを演じる。

蘊蓄といえば歴史好きの田中氏の趣味が横溢しているのも特徴で、例えば15世紀にはスコットランドの南西部、ギャロウェイ地方で25年に亘って旅人を襲っては食べていたソニー・ビーン一族という食人族がいたこと、昔、墓泥棒が盛んだったのは医学の発展のために死体解剖をするために医者がなかなか手に入らない死体を欲したから、等々。いわば教科書では習わないイギリスの闇歴史が語られ、それがまた実に当時のイギリスの風習や風俗を偲ばされ、不謹慎ながらこのシリーズを愉しみにしている一面である。

これまでのこのシリーズではあまり耳にしたことのない怪物が出てくるが、本書に登場する赤帽子は調べてみればよく見る醜悪な妖精で、ニワトリヘビはコカトリスを彷彿とさせる。ただ睨まれても石にはならないが。

最終巻である本書で気付かされたが、これら3部作が全て1857年にニーダムたちが経験した冒険であることだ。つまりある意味この年は彼とメープルの人生のターニングポイントであったと思える。

本書に登場する若干13歳の天才少年ジェームズ・モリアーティが今回最大のゲストだ。そうもちろんこの人物こそ後のシャーロック・ホームズのライバル、モリアーティ教授である。彼がライヘンバッハの滝に落ちて行方不明となったところまで語られるが、それが「最後の事件」のようにシャーロック・ホームズと共に落ちたことまでは語られない。ひたすら彼の天才性とその早すぎる死を惜しむニーダムとメープルの姿が語られるのみ。
作中の中での彼は物事を俯瞰してシニカルに見るひねたガキだが、メープルの言葉にのみ従うところを見ると少し年上の女性にほのかな恋心を抱くところを見せて、それまでにないモリアーティ像を描いている。

作者の田中氏がなぜ1857年という年を選んだのかも定かではない。歴史を繙くと有名な事件ではセポイの乱があったりアメリカで世界恐慌が起きたりしているが、本シリーズにはあまり関与はしなかった。

とにもかくにも作者はヴィクトリア朝時代を舞台にその時代を生きた偉人や著名人たちを自らの筆で描きたかったのだろう。歴史や風俗、そしてその時代に生きた人々の意外な側面が見れて個人的には楽しかった。

作者ももう御年72歳。
最近永らく中断していたシリーズに決着をつけているのは人生の後片付けをしているかのようだが、年上のスティーヴン・キングがまだまだ健筆を奮っているのだから、まだまだ衰えず、読者の留飲を下げるかつての田中氏の躍動感ある物語をこれからも紡いでほしいものだ。

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水晶宮の死神
田中芳樹水晶宮の死神 についてのレビュー
No.692: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

2人の恋はハリケーン

〈暗黒の塔〉シリーズ4作目の本書の中心はガンスリンガー、ローランド・デスチェイン若き日の物語が語られる。それは彼が愛した女性スーザン・デルガドとの出会いの物語だ。

しかしその前に物語は前巻のクライマックス、自殺願望のある超高速モノレール、ブレインとのなぞなぞ対決から幕を開ける。

世界中のなぞなぞを知り尽くしているブレインは悉くローランド達が繰り出す問題に答え、後が無くなっていくが、この状況を打破するのがエディ・ディーンだ。彼がいかにして博覧強記のなぞなぞ解答マシーン、ブレインに打ち克ったのかは読んでのお楽しみ。

そして彼らがブレインとの勝負に打ち勝ち、降り立ったカンサス州のトピーカで、彼らはその世界が“キャプテン・トリップス”の感染爆発後の世界だと知る。そう、この現実世界で猛威を奮っている新型コロナウイルスを彷彿とさせる超インフルエンザはキングの大作『ザ・スタンド』で登場したウイルスである。
つまりこの〈暗黒の塔〉の世界と『ザ・スタンド』の世界がリンクしたのだ。
しかも本書でこの感染症がレーガン政権の時期であることが判明する。ちなみにレーガンと当時の副大統領ブッシュは感染から免れるため、地下の避難所に逃げ込んだと書かれている。

さて本書のメインは若かりし頃のローランドの恋バナである。彼が父親のガンスリンガー、スティーヴンとその仲間の父親達によってとある理由で安全と思われていた場所に追いやられたのだが、そこでたまたま彼らの宿敵であるジョン・ファースンと繋がっている敵と出くわすことになる。

彼らはローランドの父親がガンスリンガーであることがバレないようにウィル・ディアボーンと名を偽って〈連合〉の遣いの計数者としてメジス郡の<男爵領>ハンブリーに来たことにしている。計数者とは〈連合〉で生活必需品や人手が不足する事態になった場合、遠隔地であるこの地から提供してもらうことになるため、馬や牛、更には漁に使う投網まで調べる職業らしい。

そしてこのローランドと同行するのが彼の親友たち2人、カスバート・オールグッドとアラン・ジョンズだ。彼らは銃を携行するもののローランドと異なりまだ見習いのガンスリンガーという身分だ。しかしこの2人の腕前もかなりのもので、銃以外にもカスバートはパチンコの名手であり、アランはナイフの達人でもある。

この時ローランド14歳。そしてその任務で彼は訪れたハンブリーの行政長官ハートウェル・ソリンの愛人となったスーザン・デルガドと出遭い、恋に落ちるのである。

スーザンはソリンの子、それも男の子を産むために宛がわれた処女であった。
一方ローランド・デスチェインは〈連合〉から遣わされた計数者という身で、しかも〈内世界〉から来たいわば首都圏からの役人といった身分だ。
しかし彼らはまだ弱冠14歳。それでも既にガンスリンガーとなっている彼はその身分を隠しながらも成人男性並みの落ち着きを持っている。

つまり町中に知られた権力者の愛人が調査に訪れた美男子の役人と道ならぬ恋に落ちる図式である。しかし元々スーザン自身もいわば愛人という情婦という立場なのだが、相手が町の権力者ならばそんな立場でも一目置かれる存在となっている。

そんな若い愛人を目の当たりにし、パーティーにも同席しながらも嫉妬に駆られないハートウェル・ソリンの妻オリーヴが実に素晴らしい人格者なのだ。彼女についてはまた後程触れよう。

このキング版『ロミオとジュリエット』とも云える二人の恋路はまず始まりまでが実にじれったい。

ローランドはスーザンの魔女リーアの許を訪れた後の家路でばったりと遭うのだが、彼はスーザンが愛人となる行政長官のパーティーに招かれ、そこで初めて会ったように振舞うように請われ、それに従うが彼女が自分をすげなく扱い、更に行政長官の愛人だと知ると素っ気なくあしらう。既にローランドに対していい感情を持っていたスーザンはそんな態度を取った彼に憎悪する。

しかし自分がスーザンに惹かれているのに気付いたローランドが謝罪の手紙を渡して二人きりで会うと彼らはお互いが惹かれ合っているのに気付く。しかしスーザンは自分が町の有力者の愛人である身分からローランドと逢うのは得策ではないとローランドの誘いを断る。しかしそれでも逢いたい気持ちが勝り、待ち合わせの約束をし、とうとう彼らは出会い、そして愛を重ねるのだ。
ここに至るのが中巻の240ページ。物語の約半分だから、まあ、何ともじれったい二人である。一昔前のラブロマンスのようだ。

しかしそこからはもう二人の思いは止まらず、秘密の待ち合わせ場所を選んではセックスに耽る。まあ、10代2人のセックスだからなんとお盛んなことか。そしてその若さゆえにもう止まらないのだ。
ローランドは自分が身分を偽って父親から重大な任務を授かっていることをどうでもいいと思い、スーザンもまた彼女が行政長官と褥を重ねるまで純潔を守らなければならないことなど他愛もないことだと思うほどに、2人の欲望は若さの勢いのまま、迸るのだ。
2人の恋はハリケーンなのだ。

この〈暗黒の塔〉シリーズはやたらとこのセックスシーンが登場するのが特徴だ。その行為が新しい何かの誕生を象徴しているからだろうか。

しかしこの2人の恋がローランド達3人組の絆に亀裂を入れるようになる。
ローランドをリーダーとして認めていた2人は彼の恋患いに腹を立て、特にカスバートはスーザンに憎悪を向けつつも、美しい彼女が自分ではなくローランドを選んだことを残念に思うと複雑な気持ちを抱き、その感情の乱れが行動に現れ、ローランドを殴りつけたりもするのだ。

この過去の話によってそれまでの様々な因縁が明らかになる。
ローランドの宿敵、魔術師マーテン・ブロードクロックは彼の父親の相談役であり、彼の母親を寝取った男であった。ローランドはマーテンによって成人の儀式に挑むよう仕向けられ、彼の武器の師匠コートをタカのデイヴィッドを使って打ち破り、師の武器の棍棒を奪い取ったのだ。その結果、マーテンを敵に回すようになったのだった。

このマーテンの復讐から逃れさせるため、ローランド達の父親はまだ未成年の彼らをニュー・カナーンより遠方の地、つまり最果てに近いメジスまで追いやることにしたのだった。

しかし息子たちの身を護るために使わせた最果ての地で偶然にも彼らは〈連合〉に歯向かう〈主人(グッド・マン)〉の仲間ジョン・ファースンのシンパたちと出くわす。
彼らが訪れたメジスにはシトゴという油井から原油を掘り出す機械がまだ稼働しており、元ガンスリンガーでローランドの師コートの父親によって追放されたエルドレッド・ジョナス率いるロイ・ディペープ、クレイ・レイノルズの〈名うての棺狩人たち〉と呼ばれる3人はジョン・ファースンに原油とそれを燃料にする武器を与えて、反乱を起こそうとしていることが判明する。

更にそこに住む魔女リーアが持つ水晶球がローランドの父スティーヴンが云っていた〈魔導師の虹〉であることも発覚し、それを奪還しようとする。図らずも彼らは戦いの渦中に身を投じていくのだ。この〈魔導師の虹〉についてはまた後ほど触れよう。

さてこのローランド・デスチェインとスーザン・デルガドの恋は彼がエディ達に悲痛な面持ちで語ることから、結末は推して量るべしである。

さてこのダークタワーの世界では我々の現代社会とのリンクが見られるが、今回も色々登場する。

例えば最初のブレインとのなぞなぞ対決ではマリリン・モンローの名が出たり、74年のアメリカのTVドラマ“All in the Family”のキャラクター、イーディス・バンカーなんてのも登場する―これがブレイン攻略の糸口になるわけだが―。

またクリムゾン・キングも登場する。もちろんこれはプログレバンド、キング・クリムゾンであり彼らのデビューアルバム『クリムゾン・キングの迷宮』に登場する真紅の王である。

などと書いていたらこのローランド達の住まう世界が我々の未来であることが判明する。つまり何らかの理由で現在の文明が失われた世界なのだ。その何らかの理由が最後になってキングのある作品と繋がることで朧気に見えてくる。これについては後で述べよう。

しかし今回でさらにキャラが立ってきたように思える。特にブレインとの決戦で自分の知能レベルまでブレインを誘い込み、日常の下卑たジョークをなぞなぞにして撃破したエディは意外性の男として認知させられた感がある。他の3人が難しいなぞなぞを思いついたり、思い出したり、案出したりして対決して敗れていくが、彼は何物に囚われず、自分のフィールドに持ち込んで勝負ができる男なのだ。作中の表現で云えば彼は自分の世界にぶっ飛ぶと悪魔さえ燃え上がらせることができるのだ。

また端役とはいえ、オリーヴ・ソリンもまた印象深い人物だ。町の権力者ハートウェル・ソリンの妻でありながら、公的に息子を産むためとして生娘のスーザンを愛人として宛がわれ、パーティーにも出席させられて並みいるゲストたちの相手を笑顔で迎えるホステス役をさせられる。

しかしそれでも彼女は夫を愛していた。そしてその夫が<連合>の反逆者の間者である〈名うての棺狩人たち〉の策略で暗殺されたことを悟り、監禁されたスーザンを救出しもする。なんと高潔で優しき女性であることか。

そしてローランドが愛した女性スーザン・デルガド。彼女は元々最高の家畜商人と云われたパット・デルガドの娘だったが、父親が不慮の事故で亡くなってしまい、メジスの行政長官ハートウェル・ソリンの愛人となることになったのだ。

しかし更にも増して存在感を醸し出したのがガンスリンガー、ローランド・デスチェインだ。彼の過去が語られることで彼の造形が深まった。
いやあ、まさか初対面の女性がときめくほどの美男子だったとは。そして彼の家族も忌まわしい過去を纏っていることが判明した。しかも最後の最後には彼が自分の母親を誤って撃ち殺したことも判明するのだ。

さて今回判明したのはローランドの住むこの〈暗黒の塔〉の世界には〈内世界〉と〈中間世界〉、〈終焉世界〉があることだ。そして〈終焉世界〉には希薄があり、それが不快な音を立てているようだ。ローランドは〈内世界〉の住民でニュー・カナーンという〈連合〉の中心の出身であることが判明する。

これが未来の我々の世界であるわけだが、外側に行くほど希薄という世界の境に近づく。その希薄は人間の神経を不快にさせるような音が鳴り、そして人の邪な心を肥大させるような声が頭の中で囁かれる。そしてそれに取り込まれると得体の知れない液体から伸びる手に捕まれ、肉が溶け、鼻を引きちぎられ、骸骨へと変貌を遂げて苦悶の悲鳴を上げながら死んでしまう。
そう、これはキングの中編「霧」を彷彿とさせる。

さらに魔導師マーリンの魔力が秘められている〈魔導師の虹〉なる13の水晶球があることも判明する。それらは〈十二の守護者たち〉が所有し、最後の1つが〈暗黒の塔〉にあることが明かされる。
そして今回そのうちの1つが今回ローランド達が訪れたハンブリーに住む魔女リーアがジョン・ファースンより借りた薄桃色の水晶球だった。つまりローランド達の〈連合〉の反逆者ジョン・ファースンが〈十二の守護者たち〉の1人なのだ。しかもこの水晶球は見つめる者を魅了し、我が物にしたくなる。そしてそれを見つめる者は精気を吸い取られ、どんどん老いていく。14歳のローランドさえしばらく覗いていただけで一部白髪になるほどだ。

そのような事実が判明しつつも本書はこれで終わらない。ローランドの昔語りが終わると今度彼らは〈暗黒の塔〉を目指す旅を再開する。

色々な憶測が出来る巻であった。そしてそれはこれまでキング作品を読んできた者だからこそ解るリンクでもある。キングは自身の読者を愉しませる術を心得ている。彼の膨大な著作を読む甲斐や意義を感じさせてくれる作家である。

やはり次巻を読むのは敢えて急ぐまい。次巻が刊行されるまでに著された作品群を読むことでこの〈暗黒の塔〉シリーズに内包されたキング・ワールドの断片やリンクが十全に理解できるだろうから。遠回りになるが、その遠回りに報いる読書の愉悦が得られるに違いない。

キング・ワールドの中核をなすと云われているこのシリーズの全貌がようやく見えてきた感があるが、まだまだサプライズを期待できそうだ。

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ダーク・タワー〈4〉魔道師と水晶球〈上〉 (新潮文庫)
No.691:
(7pt)

父に背中を押されたような作品群

ジョー・ヒルの今回は短編集。しかも父親スティーヴン・キングとの共作も収録されている。

まず開巻最初に収録されている「スロットル」が早速そのキングとの共作に当たる。

本書のモチーフは映画監督スピルバーグのデビュー作『激突!』である。6万ドルをだまし取られたバイク集団<トライブ>が詐欺を働いた男とその彼女を殺害し、金を取り戻すためにその男の姉の許を訪ねる道中でいきなりタンクローリーに襲われるという物語である。

スピルバーグの『激突!』では1人の男が運転する車が執拗に絡まれ、襲われるというものだったが、本作ではバイク集団という複数の人物が虫けらのように吹き飛ばされ、もしくはゴミのように踏みつぶされ、道路の消炭のように死んでいく。この辺の残虐性はキングならではだろう。

そして本家が襲ってくる理由が不明なままで終わるのに対し、本作では理由が判明するのが異なる点だ。


次の「闇のメリーゴーラウンド」は若い頃の過ちを描いた作品だ。

短気な兄が恋人のお金をメリーゴーラウンドのスタッフが盗んだと思い込んで報復に向かった後、彼らが出くわすのはなんとメリーゴーラウンドの木馬たちからの復讐だったというホラーだ。

若き日の度が過ぎた犯罪めいた悪戯や往々にして大人になってからの思い出話や武勇伝になり得るが、本作ではいつまでも覚めやらぬ悪夢となって今後の人生にも付きまとわされる、取り返しのつかない過ちとして描かれているのが印象的だ。


続く「ウルヴァートン駅」はコーヒーチェーンの経営層の人間が出くわした怪奇の物語だ。

本作の題名となっているウルヴァートンはイギリスに実在する都市で駅も実在する。ヒルはその狼の名を冠した都市を異世界へと変えた。

そのトワイライト・ゾーンに迷い込むのはジミ・コーヒーの経営者の1人で海外進出を任されており、敢えてコーヒー店があるところに出店して地元の喫茶店含めて次々と潰れさせて独占する、“木こり”と異名をとる人物だ。
若い頃の放浪生活でどこに行こうが人は誰しもマクドナルドなどの一流チェーン店の物を欲すると云う真理を悟ってバーガーキングやダンキンドーナツを経てジミ・コーヒーに引き抜かれた男だ。彼の行くところにジミ・コーヒー以外草木も残らないというやり方ゆえに彼はありとあらゆる抗議を受けているのでスーツを着た狼を見ても彼に対する嫌がらせだろうと思っていたのだが・・・。


「シャンプレーン湖の銀色の水辺で」もまたとある作家の名作をモチーフにした作品だ。

調べてみるとシャンプレーン湖は実在する湖でアメリカのバーモント州にある。ウィキペディアでも出てくるほど有名な湖らしく、しかもそこにはチャンプというUMAがいるとも伝えられている。
そう、本作はこのUMAの死体が現れる物語だ。

この湖畔に住むロンドン一家は両親と4人姉妹の賑やかな家族で主人公のゲイルは多感な女の子。二日酔いに苦しむ両親を起こそうと深鍋を被ってロボットに扮するお茶目な女の子だ。他の姉妹もそれぞれ個性的だが、ゲイルはその中でも最たるものらしい。そして姉妹よりも近所に住むクウォレル家のジョエルと遊ぶのを好んでいた。

そんな2人が発見するのが首長竜と思しき怪物の死体。この一大発見を早く大人たちに知らせたいのだがお互いの両親は昨晩のパーティでかなりアルコールを摂取したらしく、一向に起きる気配がない。

ジョエルは弟を使ってロンドン一家の母親を連れてこようとするが、母親はそんなことよりも早く朝ご飯を食べなさいと他の姉妹にゲイルを連れ戻させる。

この幻想味ある事件と日常生活の対比が本書では面白い。

しかし物語の結末は何とも残酷だ。


「フォーン」は狩猟好き誰しもが憧れる秘密の扉のお話だ。

金持ちの道楽である動物狩猟。大金を払ってアフリカなどへ行き、ライオンやサイなどを撃ち殺して剥製にすることを趣味にする、我々一般人とはちょっと次元の異なる世界だ。従って極力銃傷を残さずに仕留めるのが大事らしい。

そんな金持ちの道楽の究極はやはり珍しい動物を仕留めること。やってはいけない天然記念物を仕留めるのは禁断の果実だが本作では架空の獣、半人半獣のパーンのようなフォーンやキュプロクスが住まう狩猟区でそれらを仕留めることが出来る異世界への扉を紹介される。

しかしここからが意外な展開だがネタバレになるので止めておこう。


誰しも借りたままになって返していない物はあるだろう。「遅れた返却者」は借りっぱなしになっていた図書館の本を返す人々に訪れる奇跡の物語だ。

いやあ、なんと素敵な物語だ。
永らく延滞していた本を返したい人がいるが、事情により図書館に行けず、そのまま返せずに亡くなった人たちと過去に遡って出会い、延滞した本を返却してもらう代わりに、まだその人たちがいる時代には存在しない本を貸せ、そしてそれがその人のその後の人生を変える。

1冊の本がその人の人生を変えたといよく云うが、その運命の分岐点を演出するのが両親の死によって長距離トラックの運転手の職をクビになって、両親が前世紀から借りていた本を―物語の舞台は2019年だから少なくとも20年以上借りっぱなしだ!―返却しに来たことで移動図書館の運転手として雇われることになった青年というのも本が繋ぐ縁を感じさせる。

しかも例えばハインラインの『ルナ・ゲートの彼方』を返しに来た老人が渡される本が『ハンガー・ゲーム』だったり、ミュンヘン・オリンピックでイスラエル選手へのテロの報復を心配している女性が来れば、その女性がリーガル・サスペンスが好きだと聞いて20年後に出版される予定のスコット・トゥローの本を貸したりする。

そしてそれがその人にとって読むに相応しい本であるというのが素晴らしい。
そこに〈ハリー・ポッター〉シリーズがあろうが、〈ナルニア国〉シリーズがあろうが、その人にとって読むに値しなければそれは現代に存在する本としてでしかあり得なくて過去から来た返却者には目にも触れないのだ。つまりその本に“呼ばれない”のだ。いや、その人にとって必要とされる本だけを渡すことが出来るのだ。

但し、その人にとってふさわしい本ならばその後の人生が変わる。印象的だったのは『ハリー・ポッターと謎のプリンス』を返しに来た少女が、次の最終巻が出るころには自分がガンで死んでいるだろう、それが心残りだと云ったのに対して、まだ出ていない『ハリー・ポッターと死の秘宝』を貸してやったというエピソードだ。

そんな素敵を演出できる移動図書館の運転手となった主人公が実に羨ましいではないか。

素敵な思惑と余韻を残して物語は閉じられる。傑作。


「遅れた返却者」が過去に遡る話なら一転して「きみだけに尽くす」は近未来が舞台だ。

結末まで読んで改めて題名を見ると何とも胸が痛む物語だ。
クロックワークと呼ばれる時間制限付きアンドロイドと事故によって寝たきりの身になった父親のために人生が一変した少女の一夜限りの夢のような誕生日を過ごす物語と典型的なシンデレラストーリー。1時間だけの、何でも叶えてくれる友人を得たアイリスは望んでいた〈スポーク〉という超高層タワーに上り、そこで星の出を見ることとスパークフロスという飲むと花火を発する飲み物を飲み、〈バブル〉という球場の乗り物に乗って〈スポーク〉から降りるというやりたかったことを全て叶える。

そしてタイムリミットが迫る中、彼女は最後驚くべき行動に出る。
現代のシンデレラは友達よりもお金なのだ。現実的なのだ。


ガラッと打って変わって「親指の指紋」は退役した元女性兵士の話だ。

ビンラディンによる同時多発テロによってアメリカはイラクにビンラディンがいると当時のブッシュ大統領が宣言し、アメリカはイラクに大量の兵士を派遣した。本作の主人公はその中の1人の元女性兵士でビンラディンのシンパと思われる人物たちの尋問と拷問の補助を行っていた。

時間軸としては退役して実家に戻った彼女が地元の酒場で働きながら生活を送っている風景が描かれるが、イラクでの尋問・拷問の日々でささくれだった心は地元に残った友人たちに対して、例えば酔っ払って前後不覚になった友人を介抱するのではなく、なんと戒めとでもいわんばかりに結婚指輪を盗むことまでする。それは全く彼女にとって不要な物であり、単なる出来心であったが、そういうことを罪悪感抱かずに行うほど心が死んでいるのが解る。

そんな中、彼女の許に何者かによって親指の指紋が付けられた手紙が送り付けられる。その親指の指紋の手紙は全て異なる人物の物だったが、おかれている場所が郵便受け、玄関、車のワイパーと次第にプライベート・ゾーンに近づいていき、最後は寝室の化粧台の鏡に貼り付けられる。

物語は何とも云えない余韻を残して終わる。

印象に残ったのは戦争とは国を守るために敵を倒しに行くことだが、彼女がそれを他人の身になにかをやれと求められることだと気付いたという件だ。戦うこととは敵を殺し、または傷つけることだ。そして戦争に出陣することはそれを強いられることだと気付かされる。お国のためにという大義名分の陰にはその後の人生を変えてしまう暗い現実が横たわっていることを思い知らされる部分である。


横書きでしかも三角形を基調とした変わった文字組みで語られる「階段の悪魔」の舞台はスッレ・スカーレというイタリアの片田舎だ。

赤い門に閉ざされた地獄へと繋がる階段と言い伝えられているイタリアの片田舎で主人公の少年はいとこに恋をしていたが、サラセン人の金持ち息子に彼女を盗られて激情のあまり殺害し、逃げ延びるためにその階段を下りていく。
そこで出会ったのは美しい顔の少年。

ただなぜヒルがこの作品を独特な文字組みで書いたのか解らない。
険しい山を行き来して暮らす主人公の心情を表したものだったのか。
恐らく三角形で組まれた文章は赤い門の奥にあるつづら折りになった地獄への階段を模しているのだろう。読者も共に地獄へ堕ちていく感覚を与えるためだったか。

内容は田舎町での恋愛が絡んだ殺人事件。しかしヒルは第2次大戦にイタリアも参加するようになったことを示唆することで奇妙な読み応えを残した作品となった。


次の「死者のサーカスよりツイッターにて実況中継」はタイトルそのままの作品だ。

死者のサーカスというゾンビによるサーカスの模様をツイッター形式で語った小説。どこにでも今どきの反抗期の女の子のつぶやきで終始語られる。

そして彼らが立ち寄った死者のサーカスではチケット売り場の売り子からは死臭が漂い、竹馬に乗ったリングミストレスが必死にゾンビから逃げ惑うショーで幕を開ける。彼女はもう6週間も囚われの身で観客に助けを求めるがそれもショーの演出だと思って取り合わない。

更にゾンビの大砲ショーは客席に向けて放たれ、ゾンビの破片がそこら中に散らばる。さらにライオンとの格闘ショーもあり、最初はライオンがゾンビを食い殺すが、次々と投入されるゾンビに終いにはライオンが餌食になる。

火吹き男は口の中に松明を押し込められてハロウィンのカボチャのように燃え盛り、絶命する。

そしていつの間にか家族の一員が磔になって手斧投げのショーの標的となって首の横に命中して退場。

そして再度登場した弟は手斧が首に刺さったまま登場し、舞台中央でリングミストレスを押し倒して食らいつく。

それまでは数々の演目をトリックだと云って解説していた父親もさすがにこれがリアルなゾンビの殺戮ショーだと気付くが最後はゾンビたちが客席に襲い掛かる。

翌朝の9時過ぎに主人公のツイッターが更新され、全てが彼女の演出であったかのように呟かれて閉じられる。

色んな意味合いを含んだ話だ。通常ならば語り手が出来事が終わった後に当時を振り返って物語を綴るが、ツイッター形式をとることでリアルタイムで物語が進行し、展開が見えないのがミソ。

特撮やCGやSNSとデジタル技術が進歩した現代の虚と実の境界線の希薄さを巧みに利用した作品だ。


次の「菊(マム)」は奇妙な作品だ。

何とも評し難い作品だ。
父親の許から逃げ出そうとしていた母親は夫が爆発物をこっそり製造しているのを知り、曾曾曾おばあさんの許に息子と共に逃げ出そうとするが、夫に見つかって食い止められ、発覚を恐れて殺されてしまう。この時点でこの家族が異様だというのが解る。

母の死後、息子は老女から菊の種を買うがそれを母の墓地に植えるとなんと母親の頭がいくつも根付き、彼女から父親が爆発物製造という罪を犯しているのを知らされる。恐らく彼はテロリストなのだろう。

この悪夢のような展開は夜驚症を患っている息子の視点で語られるため、彼の妄想なのかリアルなのか境界が曖昧のまま進行する。


父キングとの2作目の共作である「イン・ザ・トール・グラス」は明るい基調から一転して不穏な空気に包まれる作品だ。

背の高い草原と云えばキング作品ではおなじみのトウモロコシ畑を想起させる。本作はジョー・ヒル版「トウモロコシ畑の子供たち」と云いたいところだが、キングが共作に加わっていることから21世紀版と称するのが正確か。

1年7カ月しか年の離れていないツーカーの仲の兄妹という陽気な2人が迷い込むのは一度入ると抜けられない背高い草の生えた野原。しかしそこから抜け出すには禍々しい黒い岩に触れなければならない。

私は本作を読んで日本でも有名な妖怪譚「隠れ里」を想起した。しかし後半の展開は最近読んだキングの『デスペレーション』を連想した。キングの想像力の陰惨さは全然衰えを見せない。いやこれは息子の設定だろうか。とにかく気持ちの悪い作品だ。


最後の「解放」はある特殊な状況に陥った人々それぞれの点景を綴った作品だ。

飛行機に乗っている時、もし世界戦争が起きたら人々はどう思い、どう行動するだろうか。本作はそんな状況に陥った乗客と飛行機のスタッフの心の変化をそれぞれの登場人物に焦点を当てて描いた作品である。

アメリカ空軍の空襲のために空路を開けざるを得なくなり、最寄りの空港に着陸することを指示された機長が当該空港が核攻撃地点であることからカナダの空港へ進路を変える。少しでも生き延びるために。

隣り合わせた男女は人生最後の恐怖を和らげるように抱き合い、口づけを交わす。

いがみ合っていた乗客はやがて罵倒されても笑い飛ばせるようになる。

そんな悲喜こもごもの物語だ。そしてタイトルの「解放」“You Are Released”はまた何かのメタファーであると思える。それについては後で語ろう。


ジョー・ヒルも父親キング同様、物語が長大化しており、前作『怪奇日和』は1作がページ前後の中編集だったが、本書は好評を以て迎えられ、一躍ジョー・ヒルの名を知らしめた『20世紀の幽霊たち』と同様の30~70ページ前後の短編集であり、しかも父親キングとの共作も含んでいるとあれば期待も高まるものである。

『20世紀の幽霊たち』でもそうだったが、ジョー・ヒルの短編の舞台は何ともヴァラエティに富んでいる。

アメリカの路上にとある遊園地にあるメリーゴーラウンドやロンドンのウルヴァートン駅、そしてバーモント州のシャプレーン湖にアフリカの狩猟区から異世界の狩猟区、移動図書館、近未来の世界、ニューヨーク州のハメット、イタリアの片田舎スッレ・スカーレ、アリゾナのサーカス、どこかのアメリカの片田舎、カンザス州の背高い草原、ボストン行きの飛行機の中ととにかく同じところが一つもない。

そして内容もまた同様だ。

アメリカの路上を横断するバイカーたちを襲うタンクローリーの話に曰くあるメリーゴーラウンドの木馬たちに突如襲われる闇夜の悪夢、そして出張先のロンドンの列車内で遭遇する狼人間たちの群れ、そして湖に棲むと云われていた怪物との遭遇に空想上の動物たちがいる狩猟区での狩りで見舞われる意外な展開、過去に遡って延滞した本を返却してもらう代わりに運命を変える本を貸す移動図書館、人生のどん底にいる少女の前に現れた友達ロボットとの素敵な一夜、退役した元女性兵士が出くわす見えない脅迫者、片思いの幼馴染を盗られた嫉妬に駆られてその恋人を殺害した男が逃げ込んだ異世界、旅行中の一家が迷い込んだゾンビたちのサーカス、アメリカの片田舎でとある家族の不和と不思議な菊の話、妊娠した妹と共に親戚の家に行く途中で出くわした高い草原に迷い込んだ親子を救おうとしたことで自分たちも脱け出せなくなる兄妹の話、フライト中に核戦争が勃発した乗客と乗組員たちの心模様と扱うジャンルも様々である。

またそれぞれの物語で語られるエピソードや設定が何とも瑞々しい。

例えば「闇のメリーゴーラウンド」ではイケてる美男美女の兄妹が登場するが、主人公はそのイケてる妹の恋人だが、ごく普通の青年。そしてその兄も恋人は読書好きの大きな眼鏡をした胸の小さな女性でどう見ても性格も違い、見た目も不釣り合いなのだが、この兄妹にとってそれぞれの恋人がパズルのようにピタッとハマる存在であることや、その妹が主人公に平気でちょっとエロいジョークを云って困惑させるが、それが数年後かには喜ばしい思い出に変わるなどと云ったことなど、読者の心をくすぐる設定や文章がある。
私が特に気に入ったのは「シャプレーン湖の銀色の水辺で」の主人公の少女ゲイルとその3姉妹だ。これについてはまた後程述べよう。

あと気になったのは「ウルヴァートン駅」に登場するやり手の経営者ソーンダースの必勝法だ。この作品には実在するチェーン店が実名でいくつか登場するが、例えば彼がダンキンドーナツに移った時にスターバックスよりも売上が上回った時の撃退法などが書かれているがこれは本当だろうか。

本書の目玉はなんといっても父親スティーヴン・キングとの共作だろう。
そのキングとの共作は2編あるが、1編目が最初に収録された「スロットル」である。これはスピルバーグの『激突!』の本歌取りのような作品だが、タンクローリーに襲われるバイク集団の中心人物が親子であるというのが心憎い。いつも人を馬鹿にしたような態度を取る息子が恐怖に向き合った時にひたすら逃げるだけの態度を取る息子の姿に失望をしながらも、ただ一人ローリーに追われる身になった息子を思うときに蘇るのは幼き頃の肖像。

この父と子の物語を2人はどんな思いで書いたのか、興味がそそられるではないか。

もう1つの「イン・ザ・トール・グラス」は背高い草原に迷い込む兄妹の話だが、2人を導くのは子供の助けを呼ぶ声。つまりモチーフとしてはキング自身の短編「トウモロコシ畑の子供たち」を想起させるのだが、ある意味これはキングから息子へのバトン渡しを示しているのではないか。

ジョー・ヒルは作品はあとがきにも書いているが、過去の色んな名作から本歌取りをして作品を紡ぐことが多いようで、その中には父キングの作品も入っており、特に『ファイアマン』はもろ『ザ・スタンド』と設定が被っている。
それは一方で読者にやはり父親キングを超えることは叶わないのかと物足りなさを感じさせたが、本作を共作とすることでキングは父親から自身の作品の衣鉢を継いで伸び伸びと創作してほしいとメッセージを込めたのではないか。

そういう意味では「スロットル」もまた大型のタンクローリーが襲い掛かる恐怖はキングが昔から扱った“生ある機械の報復”のテーマを感じさせる。やはり本書で父は息子へバトンを託したのだ。

それは最後の収録作が「解放」、原題“You Are Released”であることが象徴的だ。
この物語はしっかりした結末が付けられているわけではない。着陸前にロシアとアメリカの核戦争の開戦に出くわしたボストン行きの飛行機に乗り合わせた乗客と乗組員それぞれのエピソードが語られるだけである。そして機長は管制塔から指示されたアメリカの都市ファーゴが第一核攻撃地点だと判断して北のカナダに進路を取る。

私はこの作品が題名と云い、情況と云い、今後のジョー・ヒルの作家活動を暗示しているように思えるのだ。

ジョー・ヒルがカナダに活躍の場を移すというのではない。上の父キングとの2作の共演を終えて、彼は本歌取りをしても、自身なりの物語を生み出せばいい、そして父キングからそれは今まで自分の数多ある題材から取っても構わないと背中を押された、文字通りリリースされたように感じた。もちろん上に書いたように最近の作者は開き直って堂々と父親の作品の設定を似せて作品を書いてきたが、どこかしこりがあったのではないだろうか。
しかし今回ようやくそれが父に正式に認められ、重荷から解放されたように感じられるのだ。世間や書評家、そして読者はどうしてもジョー・ヒルを語るとき“スティーヴン・キングの息子”と付けてしまうだろう。それを彼は嫌がって自身の著者名にキングの名を付けなかったのだが、逆に彼は父があまりに偉大であるから、敢えてその看板を背負おうと決心したのであはないか。ただ彼は父の過去作の亜流であれ、自分の好きなものを書くと決意し、ある種憑き物を落としたかのように思えるのだ。

さてそんな本書のベスト作を挙げるとすれば「遅れた返却者」だ。これは本を愛する者全てに読んでほしい物語だ。

私はよく“本に呼ばれる”感覚に陥る。
それは特に何の意図もなく選んだ本たちの内容が何らからの関係性を持って数珠つなぎのようにリンクし、心にテーマが刻まれるような不思議な縁を感じることを云うのだが、本作もまさにそのようなもので、延滞した本を返しに来た、既にこの世にいない「遅れた返却者」が本来なら読む事の適わない21世紀の本を渡されることでその後の運命が変わるという設定が素晴らしい。まさに本がもたらす人生のワンダーである。
「読まずに死ねるか!」と云ったは内藤陳氏だが、もしそんな自分の死後に出版される自分好みの本を読むことが出来たなら、読書好きにとって本望に違いない。これはそんな読書家の夢を描いた作品だ。

次点では「シャンプレーン湖の銀色の水辺で」と「きみだけに尽くす」の2作を挙げよう。

前者はレイ・ブラッドベリの名作「霧笛」の本歌取りとも云うべき作品だが、舞台をチャンプと呼ばれるUMAがいると云われている実在の湖シャンプレーン湖を舞台にし、首長竜らしき怪物の死体が打ち上げられているのを大発見だと近所に住む娘が叫ぶが両親は前夜のパーティーの二日酔いで寝てばかりで他の3人の姉妹は自分のことで取り合わない。この主人公のゲイルという女の子がお鍋を被ってロボットに扮するなど自分の世界を持った不思議少女であり、近所に住む兄弟の兄が好きで将来結婚を誓っているというのがまた私の心をくすぐった。特に2人が怪物の死体の発見した記念として歯を抜き取ろうとするシーンも郷愁を誘われる。

後者は未来を舞台にしたシンデレラストーリーで、題名は主人公に尽くすアンドロイドの献身を表している。主人公の未成年の女性は父親が突然仕事で再起不能となったため、予定していた友人との誕生日パーティーを取りやめざるを得なくなった。彼女が誕生日に行きたかったタワーに街角に立っていたコイン・フレンドというアンドロイドは有料で1時間彼女の友達になる。そのアンドロイドは116年前に作られたもので彼女をいつも街角で見ていたのだ。彼女は彼のサポートで憧れのタワーに上り、飲みたかった不思議な飲み物を飲み、乗りたかった乗り物に乗って、夢のような一夜を過ごす。不遇の若い女性に夢を与える典型的なシンデレラストーリーなのだが、最後の結末は何とも現実的で驚かされた。

この766ページにも亘る大著となった短編集をもしキングが著者ならば二分冊か三分冊で出版されただろう。
これはつまりはジョー・ヒルの版権料が父には及ばないからだろうか。それとも分冊刊行して売れるほどまだ知名度が低いからか。
いずれにせよ、原書と同様に一冊で出版したのは嬉しいことではある。

しかしこんなことを考えていること自体、やはり私も彼を一作家と見なしていなく、“キングの息子”というレッテルを貼っている事に過ぎないのだから、下衆の勘繰りと云われても仕方のないつまらない詮索だ。

そして私はやはりジョー・ヒルは長編よりも中編・短編向きの作家だと再認識した。上に書いたように本書の題材や舞台は実にヴァラエティに富んでいる。つまり彼の中にも父同様、沢山の物語が詰まっているのだ。しかしそれを長編化するとかなりのヴォリュームになることが最近の長編で解っているので、やはりエッセンスを凝縮した短・中編としてどんどん内なる物語を開放してほしい。そしてそれを父が読み、またキングも触発されて素晴らしい作品を紡ぐ相乗効果を期待したい。

しかしキングも既に御年73歳だ。それでもなおまだ新作を発表しているのだから畏れ入る。
しかしそろそろ次のキングが出てもいい頃だ。それがジョー・ヒルであることを期待しよう。
解放された彼が次からどんな作品を我々に見せるのかを私はこれからも彼の作品を追って行き、確かめていきたいと思う。

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怪奇疾走 (ハーパーBOOKS)
ジョー・ヒル怪奇疾走 についてのレビュー
No.690: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

生まれ変わりは本当にある?

恩田陸氏の3作目となる本書は生まれ変わりをテーマにした物語だ。
25年前に夭折した画家高槻倫子の遺作展の会場を訪れた主人公古橋万由子は未発表の彼女の作品を見て妙な既視感を覚えることから自分が高槻倫子の生まれ変わりではないかと思われる。古橋万由子はデパートに勤める6歳上の姉万佐子と2人暮らしをしており、これまで一切絵を描いたことのないごく普通の女性である。2人は母親を早くに亡くし、父親に育てられた2人は神経質な子供だったとされている。

そんな平凡な日々を送っていた彼女が遺作展で「ハサミが…」とつぶやきながら気を喪ったことが高槻倫子の生まれ変わりではと倫子の息子秒に思われてしまい、彼に頼まれ、倫子が4人の人物のために描いた作品を渡す手伝いをする。そしてその過程で万由子は自身が高槻倫子から授かったと思われる、サイコメトリー、つまり物に触れたり、その人と会うことで過去の記憶を観ることが出来る能力を活かして高槻倫子の死の真相に迫るようになる。

その4人の受け取り方は四者四様だ。
初めて高槻倫子の作品を扱った画廊のオーナー、伊藤澪子は「犬を連れた女」という海岸の波打ち際を犬を連れて歩く女性を描いた作品を見て憤怒の表情を浮かべ、そんな絵はいらないから持って帰ってくれとすごい剣幕で怒りを露わにする。

当時世間を賑わせた青年実業家で高槻倫子の名を知らしめるきっかけを作った矢作英之進は「曇り空」というどんよりとした曇り空の海を描いた作品を見て安堵の表情を浮かべる。

高槻倫子の学生時代の友人で今は女子校の校長先生をしている十和田景子には「黄昏」という枯れた薔薇を持った2人の少女を描いた絵を見て、自分が倫子に憎まれていたと悟る。良きライバルであり、一緒にいることも多かったが親友と呼べるほど仲がいいとは云えなかった2人だけが解る関係性を持っていた彼女がいい意味で倫子の真意を知り、微笑む。

最後は高槻倫子が別荘にいた時に必ず訪れていた喫茶店経営者手塚正明は「晩夏」という片隅に1羽の青い鳥の入った小さな鳥籠のある夕暮れの浜辺を描いた絵を見て、素っ気なく受け取るだけだ。

また万由子もまた高槻倫子に関わることで身辺に不審なことが起きる。これ以上関わると碌なことにならないと告げる脅迫電話、遺作展最終日に会場が火事になる焼失未遂事件に自宅にばら撒かれたたくさんの魚の死骸とその上に撒かれた真っ赤なペンキ、そして不審な侵入者。

さて生まれ変わりが物語の中心だが、それ以外にも上に書いたように古橋万由子のサイコメトリーや近未来を幻視する能力だったり、臨死体験や幽体離脱などいわゆるオカルティックな内容が色々盛り込まれている。

ナイル川に対するピラミッドの配置が天の川に対するオリオン座を模しているという仮説や母親が出産の際に子供の苦痛を和らげるために分泌するホルモンが前世の記憶を消し去る作用がある、等々、オカルト雑誌「ムー」の記事のようなエピソードが語られ、またそれらは私も好きなものだから久々に楽しんだ。

本書で最も最たる特徴を持つのは高槻倫子という美しい夭折した画家に尽きる。

その美貌を誇り、他人の夫であっても自分に振り向かせようとする女性高槻倫子は世の男たちを魅了する一方、世の女性たちを敵に回す女性だった。彼女の生い立ちの報われなさと類稀なる美しさが彼女の歪んだ性格を生んでしまったのは何とも皮肉なことだ。

本書は上述のように恩田作品としては3作目にあたるが、自身のそれまでの発表作まで本書においてトリックに寄与していることに気付かされる。

本書を以て恩田氏が作品ごとにジャンルを変える作家であることがさらに強調された。
それはつまりポスト宮部みゆきとして周囲も見たのではなかろうか。

今なお旺盛な創作力で既成概念に囚われない自由な作風と設定の作品を次々と生み出している恩田氏のダイバーシティを認知させる意味でも、案外知られていないが本書の位置付けは重要な作品であると云えるだろう。


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不安な童話 (新潮文庫)
恩田陸不安な童話 についてのレビュー
No.689: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

バックマン、最後の煌めき

本書は先の『デスペレーション』の姉妹編である。しかし本書は1985年にガンで死亡したとされるリチャード・バックマンが遺した原稿を1994年、彼の妻が見つけ、それを基に手直しを加えて―という設定で―発刊された作品である。

姉妹編と云うのはキング名義で発表された『デスペレーション』と同じキャラクターが登場するからだが、キャラは同じでも役どころが異なっているのだ。

例えばタックという悪霊に取り憑かれた悪徳警官コリー・エントラジアンは元警官として登場する。但し彼は悪徳警官ではなくドラッグとは全く関わり合いのない生活を送りながらも麻薬検査で陽性反応が出たことで馘首させられたのだった。

『デスペレーション』でタックと対抗できる不思議な能力を持った少年デヴィッド・カーヴァーは本書では親子と子供の名前が入れ替わっている。職業は郵便局員と同じだが、両親がデヴィッド・カーヴァーとカーステン夫妻であり、子供たちがラルフとエレンである。そしてこの一家は本書では特別な存在ではなく、単なる災禍に見舞われた一家に過ぎない。

またピーター・ジャクソンとメアリ夫妻も、ピーターが『デスペレーション』では文学部助教授だったのに対し、本書では英語教師と教育に携わる面では同じだが、微妙に職業が異なっている。

『デスペレーション』ではマリンヴィルの付き人だったスティーヴ・エイムズは大学でエンジニアを選択しながらもドラッグや酒とギャンブルで身持ちを崩し、退学になった後はギタリストやDJやプロモーターなどの音楽稼業に身をやつす流れ者的存在として、知人を訪ねに西海岸に向かう途中にポプラストリートに迷い込んだヒッピー風の男として描かれる。
そして『デスペレーション』でもそうであったように彼はシンシア・スミスとそこで知り合う。ちなみにシンシアは通りにあるコンビニエンスストア、《E-Zストップ24》の店員という役回りである。

そして『デスペレーション』ではタックに憑りつかれる女性地質学者として登場したオードリィ・ワイラーはギャングによる仕業と思われる銃撃で亡くなった兄夫婦一家の生き残り、自閉症のセス・ガーリンを引き取る女性として登場。実は彼女の甥セスこそがこの摩訶不思議な物語の鍵を握る登場人物でもある。

ただし全ての登場人物が別設定というわけではなく、中には同じ役柄のキャラクターもいる。作家のジョン・マリンヴィルと元獣医のトム・ビリングスリーの老人コンビがそうだ。

そして新キャラクターも数多く登場する。
上に書いたセス・ガーリンやストリート唯一の黒人夫婦ブラッドとベリンダのジョセフソン夫妻。
ジムとデイヴの双子の息子を持つキャミー・リードにそのジムと付き合っている娘スージーを持つ母親キム・ゲラーとボヘミアン夫婦のゲアリとマリエルのソダーソン夫妻。
また第一の犠牲者の新聞配達少年ケアリ・リプトンに彼が一目で魅かれる赤毛の娘でスージーの友人デビー・ロス。
さらに既にポプラストリートから引っ越ししていないホバート親子に亡くなったオードリィの夫ハーブ。

ただ彼・彼女たちはもしかしたら鉱山町デスペレーションで名のみ、もしくは登場人物表に載っていない端役として登場したキャラクターかもしれないが。

さらに『デスペレーション』と異なるのは所々に色んな形態の文章や資料が挿入されていることだ。
手書きのポプラストリートの地図にウィリアム・ガーリンからオードリィ・ワイラーに送った絵葉書。そのガーリン一家が銃撃で殺される新聞記事、〈モトコップス 2200〉のキャラ商品雑誌記事、『モトコップス 2200』の台本、オードリィ・ワイラーのノートに書かれたセス・ガーリンによる絵とそのオードリィ・ワイラーの日記にデスペレーションの地質鉱山技師アレン・シムズの手記とヴァリエーションが様々だ。

本書のタイトル『レギュレイターズ』はタックに憑りつかれたセス・ガーリンが繰り返し観ている1958年公開のB級西部劇のタイトルで、映画評や台本まで挿入されるこの映画はしかし調べてみるとどうもこれはキングの創作らしい。

また物語の舞台ももちろん鉱山町デスペレーションではなく、オハイオ州のウェントワース近郊のポプラストリートである。南北に走るその通りを挟んで東西に建っている家の住民たちが彼らたちなのだ。

ただ物語が進むにつれて、鉱山町デスペレーションが物語に関わってくることが判ってくる。

そんな舞台と人物像を、いや配役を変えて繰り広げられる物語は6台のワゴンの乗った奇妙なキャラクターたちによる殺戮劇だ。6台の色違いのワゴンに乗っているのは発光する幽霊に軍服を着たエイリアンに灰色の肌をした無精ひげのバックスキンの猟師服を着た男、ナチの制服を着た顔が暗闇の男などなど。

モトコップスのキャラ達が使う銃は凄まじい破壊力を誇り、次々とポプラストリートの家々を廃墟に変えていく。なぜなら彼らの使う銃弾は通常のそれではなく長さ7インチほどの黒い円錐状のものだ。こんなものをマシンガンで大量にぶっ放すのだから一撃一撃の衝撃は通常の銃弾の数倍になるだろう。これも恐らくはモトコップスがアニメで使う銃弾なのだろう。

また敵はこのモトコップスだけではない。ハゲワシやコヨーテにクーガー。しかもそれらはかろうじてそれと解る不格好な見たことのない動物たちなのだ。なぜならそれらは幼きセス・ガーリンの画力によって生み出された獣たちだからだ。

なおこのコヨーテやハゲワシやクーガーは『デスペレーション』でもキャン・タックが使役する動物だった。

そしていつしかポプラストリート自体が鉱山町デスペレーションの街角へと変わっていく。

こんなアニメや戯画的な怪物たちが登場するポプラストリートの人々が迷い込んでしまった世界は今でいうなら『アヴェンジャーズ』の世界に紛れ込んだようなものだろう。娯楽映画として観ている分なら痛快だが、いざあの危地の只中に放り込まれたなら、右往左往してどうしようもない絶望感に浸ってしまうことだろう。

それを裏付けるかのようにポプラストリートの人々は極限状態の中、次第に本性を現していく。

ただ本書は荒廃感が漂う『デスペレーション』とは違い、最後に救いがある。

だからこそ私としては両者を比べた場合に本書に軍配が上がるのだ。
それはつまりスティーヴン・キングとリチャード・バックマンの対決でもある。最後の最後にしてバックマンはキングに勝ったのだと思うことにしよう。
キングの“ダーク・ハーフ”であったバックマンが“死後”ようやく日の目を見た、そんな風に感じた作品だった。

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レギュレイターズ 上巻 (新潮文庫 キ 3-51)
スティーヴン・キングレギュレイターズ についてのレビュー

No.688:

ZOKUDAM (光文社文庫)

ZOKUDAM

森博嗣

No.688: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

巨大ロボットを巡る日常

あのお騒がせ集団ZOKUが還ってきた。しかしどうも時制は前作よりも遡るらしい。なぜなら前作のメンバー、ロミ・品川とケン・十河、そしてバーブ・斉藤が初対面であるからだ。

そして組織の名前はZOKUではなく今回はZOKUDAM。そう、あの国民的巨大ロボットアニメを彷彿させるように本書では巨大ロボットが登場する。

ロミ・品川とケン・十河、バーブ・斉藤と黒古葉博士が一堂に会するのが第1話「For fair against despair 絶望にあっても美のために」で、これはイントロダクション的な話だ。
舞台設定的なお話であり、まだZOKUDAMとTAIGONの直接的な対峙はないが、いわゆるキャラ設定がこの話で充分確立している。

続く第2話「Hardship incident to justice 苦難は正義のために」はタイトルは非常に立派だが、何のことはない、大雨で地下にあるZOKUDAMの基地が雨漏りにより水浸しになっていくのをロミ・品川とケン・十河が悪戦苦闘とするお話である。
しかし本作で判明するのは正義を行う側がZOKUDAMであり、木曽川大安博士が率いるTAIGON側が世界征服を建前に彼らのできる範囲で社会混乱を巻き起こそうと企む悪側の組織であることだ。つまり前作『ZOKU』とは設定が180°変わっているのだ。
また本作は雨漏りに対処するエピソードの中に様々な巨大ロボット物やヒーロー物の話を現実レベルに落とした場合に生じる不都合や疑問などが数々挙がって興味深い。これらについてはまた後ほど触れることにしよう。

第3話「Running into trouble expected 想定される困難のために」はさらに輪をかけて何も起きないのだから驚きだ。
しかしこの退屈を脱力的に1つの短編に仕上げる森氏の筆力には逆に感心してしまう。

第4話「Shaking off the temptation 誘惑に打ち勝つために」ではとうとうZOKUDAMの2人とTAIGONの2人が直接対峙する。
いやはやようやくライバル同士の巨大ロボット対決かと思いきや、なんとロボコンでの対決へと縮小される。しかもロミの冴えない玩具屋の倅の同級生宇多川まで組織に加入してロボコン優勝を目指すという、何か別の物語の展開へと発展していく。
そして初めて本書でロミ・品川とケン・十河のZOKUDAMコンビと永良野乃と揖斐純弥のTAIGONコンビが相まみえる。ロボコンの前夜祭のパーティ会場で女同士の戦いが繰り広げられるのだ。
ZOKUDAMの2人のチームワークを乱すためにロリータファッションでケン・十河の気を惹く永良野乃は作戦が的中し、ロミ・品川の嫉妬心を駆り立てるが、なんとその後は女の欲望が再燃したロミ・品川がケン・十河に必死にモーションを掛けるのだ。
理系男子に惚れた女性の切なさが沁みる話である。

そして最終話「Consciousness is half the battle 自覚があれば勝ったも同然」ではいよいよZOKUDAMとTAIGONの巨大ロボットの直接対決に至る。
このZOKUDAMとTAIGONの対決が幼馴染で有力者の2人、黒古葉博士と木曽川博士の巨額を掛けた壮大なお遊びであるのは1作目の『ZOKU』と同様。
しかしその終止符を打つためにお互いのロボットを完成させ、そして操縦士も訓練させ、最終決戦をしてから畳むことにしたのは潔い。
そしてそれまで決戦の時が来たと何度も云われ、そのたびに訓練とロボットの修正を繰り返す日々にうんざりしていたロミ・品川とケン・十河―彼はロミほどではないが―が目的が明確になったことでそれまでの煩悩から解き放たれ、巨大ロボット操縦士、いわば戦士としての意識に目覚め、感覚と風貌が研ぎ澄まされていく。その姿は実に尊く美しいのだ。
ケン・十河は巨大ロボットの訓練とその都度生じる不具合の修正について行われる技術者たちとのコンファレンスでそれまで単純に巨大ロボットの操縦に憧れていたマニアから戦闘そのものが人間たちにとって究極のアミューズメントであり、それを現実的に行うとすれば周辺住民への危害を最小限度に抑えるために飛び道具や火器の使用は控えるべきだ、そして行き着くところは大きな図体して二足歩行というバランスの悪い人間型ロボットよりも戦闘機や戦車のように武器をそのまま取り込んだものが最もバランスがいいのだとそれまでの考えを覆すような境地に至る。
一方ロミ・品川もそれまでマニュアルばかり読まされ、実機訓練でも事あるごとに不具合が生じて修正作業ばかりを繰り返してた日常にうんざりしていたのが屋外での実戦練習で感覚が研ぎ澄まされ、自分が求められて巨大ロボットの操縦士になり、そして澄み渡った空気と自然と満天の星空の下、仲間たちと一つの目標に向かって進んでいくことに充実感を覚え、戦士としての自覚が生まれるのだ。
そんな2人が悟りの境地に至って迎える最終決戦は、実に森氏らしい結末だ、とだけここでは評しておこう。


『ZOKU』の続編(実にややこしい表現だが)である本書は上にも書いたように前作の前日譚に当たる作品のようだ。

いやしかしどうも読み進めると同じ設定と人物を使った別の世界の作品のようにも思えてくる。なぜなら前作が森博嗣版『ヤッターマン』的な風合いをした善と悪の対決物であったが、ZOKUがいわゆるドロンボーサイドでTAIがヤッターマンサイドであったのに対し、本作ではTAIGONの方が悪で、ZOKUDAMの方が善と設定が入れ替わっているからだ。これは即ち3人組の悪党たちと2人組の男女の正義の味方という設定だけを踏襲したタツノコプロアニメと同様、人物設定だけを同一にした全く別の話だと思うのが正しいようだ。

そして今回巨大ロボット戦闘物の本書は物語が進むにつれて次第に設定がぶれていく。

例えば当初は怪獣を倒すためにZOKUDAMは2機の巨大ロボットを開発したことになっており、そしてその怪獣の1匹がTAIGONが敵情偵察のために送り込んだ捨て犬のブラッキーだと第1話では仄めかしているのだが、結局この犬は途中退場し、TAIGONのロボットとの対決という図式に切り替わるのだ。

しかしその後巨大ロボットと怪獣が戦う設定のロボット物と思わせながら、実は怪獣との戦闘シーンはおろか、TAIGONとZOKUDAMそれぞれの巨大ロボット同士の戦いも出てこない。描かれるのは巨大ロボットに乗って操縦することを任命された2人のサラリーマンが出くわす不満と日常風景である。つまり本書は巨大ロボット物の設定の下で描かれる日常小説なのだ。

そしてそんな特殊状況下にある2人が直面する問題や日常風景が妙にリアルで面白い。

例えば巨大ロボットアニメでは普通主人公がいきなりロボットを操縦して敵を次々と他倒していくが、実際12メートルもの巨大なロボットはその機構自体が複雑であるため、マニュアルが存在するのは想像に難くない。そして本書ではまず操縦士の2人はその膨大なマニュアルを読んで理解することから強いられるのだ。
まず1000ページ弱の初級マニュアルから始まり、次に2冊のインストール編、そして4冊のカスタマイズ編に3冊のメインテナンス編、2冊のトラブル編と次から次へと読むべきマニュアルが渡されるのだ。まあ、多少(?)の悪ふざけが入っているだろうが、これが現実と云えよう。

また秘密基地で雨漏りが起きてもその場所が秘密であるために容易に修理屋を呼べないというのも妙にリアルだ。

そしてロボットが安定して二足歩行するためのバランス装置についても詳細に述べられていたり、電極を身体中に貼って操縦士の身体の動きを感知してロボットが動くと云うシステムも頭を掻いたり、目にゴミが入って思わず掻いたりすると自身で損傷してしまわないかとか、ロボットが自分で自分のことを殴ってしまわないように自己接触防止機能があるのなら、2体の仲間がそれぞれの機体を殴ろうとしているのも止められるようにするとどうなるのかを真剣に検討したりと変に細かなところでリアルなのだ。

あと特撮ヒーロー物に対する考察も面白い。
例えば世界征服を謳いながらも辺鄙な場所にしか現れず、しかも外国だと同時多発的に攻撃を仕掛けるのに対し、日本では一気に敵を多数送りださず、いつも1体のみであるのはやはり武士道的一騎打ちの精神が残っているからだとか、今まで考えもしなかったことを真面目に考察していて興味深い。

またTAIGONの2人、永良野乃と揖斐純弥は典型的な森作品の男女キャラと云えよう。理系男子に少し心惹かれる女子という設定はデビュー作のS&Mシリーズと全く変わっていない。少女漫画を自作していた作者にとってこの男子のツンデレ設定は王道なのだろう。

そしてZOKUDAM側が操縦者が搭乗して巨大ロボットを操るのに対し、TAIGON側は遠隔操作で操るタイプである。

また揖斐純弥は敵のロミ・品川とケン・十河の結束にヒビを入れるため、永良野乃にケン・十河の興味を引き付ける作戦に出るが、それがロリータ的メイド服のようなものを着せて思いっきり趣味に走る。

そして最終話に至っていよいよ決戦の火蓋が落とされる。それまで状況に翻弄され、何が悲しくてOLをしていた自分が巨大ロボットに乗って敵と戦わなければならないのかと環境の犠牲者とばかりに嘆いていたロミ・品川も決戦の日が近づくにつれ、訓練の充実度が増し、そしてケン・十河に抱いていた悶々とした欲望やバーブ・斉藤たちに抱いていた嫌悪感などが次第に雲散霧消していき、敵と戦うちいう1つの目標に心身が純化していくところは実に清々しい。

もはや悟りの境地にまで達した2人にとって戦いの結果などはもうどうでもいいのだろう。したがって 最後の連載打ち切り感的な結末も敢えて狙ったものだろう。私はこの結末に対して残念感や嫌悪感を抱かなかった。寧ろこれでよかったと純粋に納得してしまった。

最後まで読むと本書は結婚適齢期を逃し、会社の人事に翻弄されたロミ・品川という女性の物語だったことに気付く。だからこそ彼女がそれまで抱え込んでいた人生の鬱屈や煩悩が消え去り、純化されたことでこの物語は終わりなのだ。

我々ヤッターマン世代はヤッターマン2号のアイちゃんよりもドロンジョ様の方が好きなのだ。従って実はロミ・品川の方を応援したくなるのは必定だろう。

案外私は森作品の中でもこのシリーズが一番好きなのかもしれない。次の『ZOKURANGER』も愉しみだ。
もうタイトルからして今度はアレのパロディなのだろうから、またもや世代ど真ん中なのである。

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ZOKUDAM (光文社文庫)
森博嗣ZOKUDAM についてのレビュー
No.687:
(7pt)

日本中を巡る羽原円華による再生の物語

『ラプラスの魔女』に登場した羽原円華の前日譚とも云える本書は連作短編集とも云うべき構成で彼女のその驚異的な能力を活かした物語と『ラプラスの魔女』で彼女と関わり合いを持つ泰鵬大学准教授青江修介の名刺代わりの事件が繰り広げられる。また『ラプラスの魔女』で雇われるボディガード役の武尾徹とお目付け役の桐宮玲も登場する。

今回羽原円華の不思議な能力の一端に直面するのは鍼灸師の工藤ナユタ。彼は80歳を迎える師匠が抱える顧客の依頼を受けると日本全国出張して鍼を打っているのだが、その行く先々で羽原円華と出くわす。

工藤ナユタが体験する羽原円華とのエピソードは以下の通りだ。

ピークを過ぎ、引退を控えたスキージャンプ選手の見事な復活劇。

現代の魔球ナックルボールを投げる投手の球を受ける後継者候補の捕手が抱えるイップスを治す方法。

高校の恩師が川での遭難事故で植物人間になった息子に向き合うために行う事故の検証。

パートナーを喪った原因が自分がカミングアウトしたことだと自責の念に囚われるゲイの作曲家の再起を促すために探るパートナーが亡くなった登山中の事故の真相。

そして工藤ナユタが中学生の時に出演した映画で抱えたトラウマの克服。

それら4つのエピソードに加えて最後は『ラプラスの魔女』へと繋がっていく。

これら上に書いたエピソードを読んで思い出してほしいのはこれらはかつて東野氏自身が初期の作品でテーマとして扱った題材であるということだ。

スキージャンプは『鳥人計画』、ナックルボールを投げる投手と捕手の物語は『魔球』、植物人間となった息子に対する両親の思いを描いたのは『人魚の眠る家』、性同一性障害を描いた作曲家のエピソードは『片思い』をそれぞれ想起させる。

ただそれらが二番煎じになっていないところに東野氏のストーリーテラーとして卓越ぶりを感じさせる。

例えば扱っている題材の専門的な知識やアプローチが真に迫っていることだ。

1章の往年のスキージャンパーの不調ぶりを映像解析するシーンでは好調期と不調期のジャンプを映像で見比べて円華がほんのわずかな差異に気付いて「上体の突っ込みが早い」と指摘して、右足を怪我して全体的にバランスが悪くなっていると語れば、2章のナックルボールについては回転していないボールが不規則に揺れて落ちていくメカニズムを詳細に語る。

またそのナックルボールの取り方についても仔細に語られる。ナックルボールは急いで捕りに行こうとせずにじっくり球筋を見て捕球する必要があるが、一方で捕球まで時間がかかるので盗塁しやすくなる。そして捕手は盗塁を抑えようと早くナックルボールを捕りに行こうとして落球してしまい、それがためにミスがかさんでいつしか普通の球も捕れなくなる、捕手イップスに陥る。

特にナックルボールについては私もこれまでその仕組みに興味を持っていたことから、今回非常に専門的な内容を東野氏が実に素人にも解りやすい平易な文章で語ってくれているので深く理解することが出来た。
回転していないボールがわずかに盛り上がっているボールの縫い目に風の抵抗を受けることで回転し、それによって再び他の方向から風の抵抗を受けてボールが不規則に揺れて、予測不能の方向へと落ちていく。さらに揺れずに回転しないまま進むナックルボールもあるらしく、それは初めて聞いた。

また面白いのは流体の流れを正確に把握する羽原円華がそれぞれのエピソードでスーパーコンピュータ並みに計算して解き明かす一方で、最終的にそれぞれの登場人物の問題を解決するのはそんな数式やロジックではなく、各々の心に発破をかけて思いの力で克服させる、いわば論理よりも感情に働きかけていることだ。

スキージャンパーに妻と息子へ自身の最高のジャンプを見せるために円華はジャンパーの妻にジャンプの合図をさせれば、最盛期のようなジャンプができるだろうと確信してその役割を託す。

引退を控えた捕手の後継者がナックルボールを捕ることが出来ないことからイップスになってしまったのを、若い娘である自分でも青痣作るほど猛練習すれば捕れるようになるのに逃げてばかりで情けないと叱咤する。

川に落ちて溺れて一命を取り留めるも植物人間になってしまった息子をすぐさま泳ぎの得意な妻が飛び込めばもしかしたら助かったかもしれないと悔恨の日々を送る父親をくよくよ考えても仕方がないと諫める。

自分の決断の遅さで植物人間となった息子が妻と同様に自分を恨んでいるだろうと思い込む父親に息子と自分が遊んでいた時の音声を流すと脳が反応することを示して薄子が会いたがっていると教える。

大学の非常勤講師をしていたパートナーが登山の事故で亡くなったことが自殺であると悲嘆に暮れていたゲイの音楽家にそれが彼が受けた依頼のドキュメント番組のテーマソングを作るための素材収集としてその山特有の地形によって生み出される大地の息吹のような風音を録音するために訪れたことであることを証明する。

それらは結局物事と云うのは論理や計算などでなく、困難を克服しようとする人の心の持ちようなのだと、いや人の心の力は論理や計算を凌駕する力を持っているというのが円華からのメッセージなのだ。

円華は自分が他の人にはない能力を持っているからこそ、それぞれのエピソードに登場する人物のタレントを状況のせいにして容易に諦めることが我慢ならないのだと思う。

最盛期を過ぎたベテランスキージャンパーが小さい息子が往年の活躍を知らないため、ピザの宅配が仕事だと思われており、このまま怪我のせいにして本領を発揮できないまま、その勘違いを抱かせたまま、選手生命を終えることに腹を立てる。

今まで誰もなしえなかったナックルボーラーを自分の球が捕れるキャッチャーがいないからという理由で引退しようとするピッチャーにキャッチャーの後継者候補を一緒に育てようと鼓舞する。

聴く人が胸を打つ音楽を次々と生み出す作曲家が自分のせいでパートナーガ自殺したと思い込んで創作意欲を無くすことを勿体ないと思い、真相を明らかにする。

このように連作短編集のような構成になっている本書だが、一応全体を貫く縦軸の物語はある。それは羽原円華が自身の母親を巨大竜巻の事故で亡くした苦い過去から竜巻のみならず、ダウンバーストなどの異常気象のメカニズムを解き明かすために乱流の謎を解き明かすため、北稜大学の流体工学の准教授筒井利之の許を訪れていることと、『ラプラスの魔女』へのつなぎ役となっていることが判明する工藤ナユタの再生だ。

そして青江修介登場のエピソードとも云える最終章「魔力の胎動」は温泉地で硫化水素中毒死した家族の死の真相を彼が解き明かす話だ。

硫化水素濃度が濃いため、立入禁止区域となっていたエリアになぜ温泉旅行に来ていた家族はわざわざ立入り、そして中毒死したのか?

そして調査に来た青江達に何かと絡んでくる会社経営者の初老の夫婦は事件のせいでキャンセルが多いこの温泉街にわざわざ来たのか?

上記の2つの謎のうち、1つ目は子供想いの家族たちがボタンの掛け違いで起きてしまった哀しい事件だったことが判明する。家族旅行した親子が子供のために仕組んだ宝探しの地図に描かれた宝の在処を示した×印があろうことか立入禁止を示した簡素な×印とを勘違いしてしまったために起きた何とも云いようのない真相だった。

また会社経営者の男は以前からこの温泉街を訪れており、火山ガスが有害であることを知っていた。そして彼の経営する会社の業績が悪化しており、自分に掛けた生命保険金を家族や周囲の人間たちのために残そうと事故と見せかけて自殺しようとしたのだった。
しかし直前になってその温泉で一家心中のような事故が起きたため、今度は知り合いのホステスに頼んで自殺志願者を演じてもらい、彼女を助けるために誤って死んでしまったように見せかけようとしたのだった。

連作短編集のような本書を読んだ感想はこの羽原円華の特殊能力を活かした物語をシリーズ化するのは五分五分と云ったところだろうか。彼女の自然現象を論理的に解析して予測する能力を活かしたエピソードが本書では5つのエピソードのうち2編のみであることを考えると、ヴァリエーションはいくつか出来るものの、シリーズ化となると流石に厳しいのではと思ってしまった。

しかしもっと成立条件に制約のあるマスカレードシリーズについては東野氏は光明が見えたと述べているから、もしかしたらこの羽原円華の物語もシリーズ化するかもしれない。

万物の理を見切る特殊能力者を主人公に据えた東野作品としては珍しい設定であり、彼女に関わる人間の心を動かす、情理の両輪を両立させた物語だけに新たな作品がどんなものになるのか、大いに期待したい。

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魔力の胎動 (角川文庫)
東野圭吾魔力の胎動 についてのレビュー
No.686:
(7pt)

鉱山会社に勤める身には響くものがあるのだが・・・。

今度のスティーヴン・キングが舞台にしたのはネヴァダ州の砂漠にある小さな鉱山町デスペレーション。チャイナ・ピットと呼ばれるアメリカ最大の露天掘りの銅鉱山の町だ。
そこにいる狂える警官によって狩られる旅行者たちの物語だ。

そう、本書はキングのもはや一ジャンルとなったサイキック・バッテリー物である。但し『シャイニング』や『ペット・セマタリー』のようなホテルや家ではなく、町そのものである。

物語はしかし最初は田舎の町を独裁する警察官の横暴の数々が描かれるため、悪徳警官小説だと思われた。

よく田舎の町ほど恐ろしいところはないという。なぜなら田舎には町を牛耳る権力者がいれば、その者こそがその町の秩序であり、法となり全てを思いのままに支配することが出来るからだ。つまりいわゆる世間一般の常識が通用しなくなる。

そしてこのデスペレーションでは警官コリー・エントラジアンこそが法である。彼は自分の好きなように旅行者に絡んで職務質問をしたかと思うと有罪となる証拠を見つけ―もしくはでっち上げ―ると痛めつけた後、自身が統治するデスペレーション警察に連れて行き、牢屋に監禁する。彼は決して彼ら彼女らを殺さず、じわじわと嬲って愉しむ。

しかし物語が進むにつれてこの巨漢の悪徳警官が次第にこの世ならざる者、即ち異形の者であることが判明していく。

その予兆はまずその警官が放つ意味不明な言葉から始まる。彼は旅行者を尋問する際に時折「タック!」という言葉を放つ。尋問された旅行者はその意味不明な言葉に戸惑い、被害者の1人マリンヴェルは思わず意味を問うが、コリーはそれは自分が云ったのではなく、貴方が云ったのだとまともな返答をしない。

やがてそれは「タック・オー・ラ!」や「タック・オー・ウォン!」、「ミ・ヒム」、「エン・タウ!」などの理解不能な言葉が出てくるにつれ、コヨーテやハゲタカ、隠者蜘蛛やガラガラ蛇、クーガーなどを使役する呪文の類だと思わされる。

物語の半ばで判明するのは鉱山町デスペレーションのある黒歴史だ。銅鉱だけでなく、金や銀も取れていた時代にさらに深く坑道を掘り進めるために緩い岩盤の中を掘っていくのを恐れた白人の鉱夫たちの代わりに雇った中国人労働者たちが落盤事故のために生き埋めになってしまったのだった。その数は白人の現場監督と工程主任を入れた57人。そして鉱山技術者とオーナーたちは救出のために落盤事故を誘発するのを恐れ、結局発破をかけて坑道を閉じてしまったのだった。そう、チャイナ・ピットの名は数多くの中国人の犠牲者が出たことに由来しているのだ。

その後2人の中国人たちが酒場に乱入して7人を撃ち殺すという事件が起きた。犠牲者の1人は坑道を塞ぐことを決めた鉱山技師だった。そしてその中国人たちは捕まった時に中国語で喚いていたが、なぜか周囲の人たちには生き埋めにされた中国人たちが復讐しに戻ってくると云っているのが判ったという。

しかしそれは後ほど捻じ曲げられた言い伝えであることが判明する。呪われた坑道から命からがら逃げ延びたチャンとシンのルーシャン兄弟がキャン・タによって狂ってお互いに殺し合う中国人たち―その中には兄弟の婚約者もいた!―を自身でツルハシを使って落盤を起こさせ、事故として報告したのだった。しかし結局彼らもキャン・タに取り憑かれてしまい、悲惨な末路を辿ることになる。

そしてこの得体のしれない悪と戦う囚われの旅行者たちの中で切り札となるのがデヴィッド・カーヴァーという少年だ。彼は家族旅行でラスヴェガスとタホー湖を訪れた道中でコリー・エントラジアンが仕掛けたハイウェイ・カーペットによって車のタイヤを全てパンクさせられてパトカーに乗せられてデスペレーションまで連れられたカーヴァー家の長男だ。

彼は前年の11月に親友が登校中に車に轢かれて重体に陥るという災禍に見舞われた。デヴィッドはその日たまたまウィルス性疾患に罹って休んでおり、友ブライアン・ロスのみが悲劇に見舞われたのだった。ブライアンは頭が変形するほどの重傷で意識不明の状態でもはや助かる可能性はゼロに近いと思われたが、デヴィッドは神に祈ることでブライアンが奇跡的に意識を取り戻して一命を取り留め、普通の生活を取り戻すまでになる。

それ以来彼はカトリックのマーティン師の許に通って信仰を深め、神に祈りを捧げることを日課とする。やがてそれは神との対話を実現することになる。そして彼が神と繋がった人物であることを示すように囚われの身となった仲間たちを救う導き手となる。

つまり本書は善なる神と邪悪な神との戦いへと変貌していくのだが、それはキング作品ではこれまで見られなかったほど、伝奇的色合いが濃くなっていく。鉱山という特殊な舞台ゆえか田舎町に残る言い伝えや呪いの類が本書の恐怖の根源となっている。恐らくは世界各地にある鉱山に纏わる逸話なども盛り込まれているのだろう。

昔の鉱業は死と隣り合わせの危険な仕事だった。いつ崩れるか判らない岩盤をツルハシやハンマーとノミなどで砕きながら掘進し、少しでも多くの鉱石を昼夜問わず、まとも立つこともできないような坑道の中で長時間、熱気と不自由な姿勢を強いられながら掘っていく鉱夫たち。やがて坑道の大きさが小さくなるにつれて体格の大きいアメリカ人たちにはもはや掘り進める作業には耐え切れず、呼び寄せた大量の中国人労働者が変わってどんどん休みなく掘り続ける。そして彼らは知らずに脆い岩盤の下に達し、落盤事故に遭ってある者は死に、またある者は生き埋め状態になってしまう。しかし経営者たちにとって当時は変わりはいくらでもおり、寧ろ救出しに行って二次災害とこの鉱山がもはや危険であるとの判断から救出せずに無駄死にすることを望む。

そんな忌まわしい歴史が今再び花開くことになったのは採掘再開をして忌まわしい石像たちが並んだ空洞を発見してしまったことだった。これこそが全ての元凶である。

この呪いの象徴として登場する小さな石像は様々な形状があり、奇妙にねじれた頭部と飛び出た目を持つ狼像や舌が蛇になっている狼像、その他蛇に片方の翼が欠けたハゲワシ、後ろ足で立ち上がったネズミなど、そんな醜悪な形をしている。そんな石像がチャイナ・ピットと呼ばれる露天掘りの坑道から出てきたことで人々は狂い始める。

そして今回の悲劇の発端が廃鉱になったと思われていたチャイナ・ピットの採鉱再開を計画し、そしてそれに見合う利益をもたらす鉱石を発見した鉱山会社に全てが集約されるだろう。

パンドラの箱を開けてしまった鉱山会社の愚行の産物。しかし同じ鉱山会社に勤める身としてはこの鉱山会社には同情を禁じ得ない。
世界各国の有望な鉱山がどんどん採掘権を取られ、寡占化している事に危機感を覚えるからだ。そして資金力のない鉱山会社にとって新たな鉱山開発は想定よりも鉱石が出なかった場合は、莫大な借金を抱えることになり、倒産の憂き目に遭ってしまう。私の勤める会社もそれまでは採算性の悪さから処分していた低品位の鉱石からメタルを取り出していることを考えると、他人事とは思えなくなってくる。

さて本書のテーマとして合言葉のように交わされるのは「神は残酷だ」のセリフ。
祈ることで奇跡を起こしたデイヴィッドは一方で神が全てを叶える訳ではないことを悟る。彼は神と繋がることで逆に神の意志を知り、神が誰かを助けるために犠牲を強いることを知る。全ての救いは等価交換であることを知るのだ。

彼は生き残りの仲間の最年少だが、神と繋がる能力のためにリーダーシップを発揮する。しかしその代償として最も犠牲を強いられた者でもある。

デイヴィッドはその都度神に問いかける。なぜそんなことを自分に強いるのかと。

そして小説家マリンヴェルは自身がデイヴィッドと同様に特別な存在であると悟りながらもその運命に逆らおうとする。それは自身にとってハッピーエンドにならないことが朧気に見えているからだ。

全ては神が仕組んだものだったのか。それは正直判らない。
ただ最後デスペレーションを去るデイヴィッドが手にした早退許可証の紙片は彼がオハイオの学校で去年の秋に木に打ち込んだ釘に突き刺したものだ。なぜそれがマリンヴェルの手に渡ったのかは判らない。
しかしそこにはマリンヴェルの、〈神は愛なり〉という聖書の言葉を信じて生きていけという激励のメッセージが添えられていた。
残酷な神の仕打ちによってその人生の幕を閉じた小説家がどうやってこの少年に紙片を渡したのかは判らないが、最後に彼が手向けたのは神を信じろという言葉だったのは深い。

実は鉱山業と神は縁が深い。
山には山の神がいると信じられ、今なお山の神に家族と事業の無事を祈る儀式が行われている。それは採掘作業が死と隣り合わせであり、一度崩れた岩盤から閉じ込められた人々を救い出すのが実に困難であるからだ。
そういう意味で云えばタックは邪な山の神なのではないか。鉱石という自然の物を山の身を削って掘り出そうとする人間たちに呪いをかける邪神、それがキャン・タックであったのではないだろうか。そんな不遜な人間から山を護るために彼はコヨーテやハゲタカ、隠者蜘蛛やガラガラ蛇、クーガーを操り、締め出そうと威嚇し、また時に殺戮を行ったのではないだろうか。つまり人間が踏み込んではいけなかった領域こそがキャン・タックの住処だったように思える。そこが〈絶望〉という名の町なのは皮肉というよりも必然であったように思える。

今思えば色んな暗喩に満ちた作品だったように思える。
環境破壊の元凶とも云われる鉱山業の人々に鉄槌を下すキャン・タックは山の神の怒りであるように思える。

しかし正直この最後の結末を含めて私は本書を十分理解できなかったように思える。さて次は本書の姉妹編であるリチャード・バックマン名義の『レギュレイターズ』を読んで本書で腑に落ちなかった部分を補完してみよう。


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デスペレーション〈上〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キングデスペレーション についてのレビュー
No.685:
(7pt)

名作は名作のままであってほしかった・・・

クーンツ自身が大の犬好きであるためか、彼の作品ではしばしば犬が登場し、重要な役目を果たす物が多くあるが、その中でも最も評価が高いのは高いIQを持つ犬アインシュタインとアウトサイダーの戦いを描いた『ウォッチャーズ』だろう。

そしてそのアインシュタインを彷彿とさせる人語を解する知能の高い犬が再び登場するのが本書である。しかもそれは1匹だけでなく、何頭も登場する。ごく僅かな人間しか知られていない高度な頭脳を有する犬たち、すなわちミステリアムが存在する世界を描いている。

作中、ミステリアムの1匹キップを飼っていたドロシーがこの犬たちについて遺伝子工学の産物ではないかと話すシーンがある。彼女は画期的な実験で生み出された犬が研究所から逃げ出したのではないかと述べる。
『ウォッチャーズ』は知性ある犬アインシュタインの子供たちが生まれ、主人公がそれら遠くへ巣立っていき、そしてアインシュタインの子孫が広がっていくと述べて閉じられることから、このミステリアム達の存在はアインシュタインの子孫たちと思って間違いないだろう。従って本書は『ウォッチャーズ』から33年を経て書かれた続編と捉えることが出来よう。
クーンツはもしかしたらキングが『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』が36年後に書かれたことに触発されて本書を著したのかもしれない。クーンツはいつもキングを意識しているように思えるので。

さて本書は高度自閉症の少年ウッディことウッドロウ・ブックマンとその母メーガン、そしてミステリアムのキップと成り行きでこの犬をブックマン家に連れて行くことになった元海軍特殊部隊隊員ベン・ホーキンスと、以前の飼い主で資産家のドロシー・ハメルから彼女の全財産と共にキップの飼い主の座を譲り受けた住み込みの看護師ローザ・レオンらが導かれるようにブックマン家で一堂に会して、一種のチームとなる。そんな彼女たちを、自身の会社の研究所で培養していた古細菌を体内に取り込んで人獣化しつつある元CEOでメーガン・ブックマンの元恋人のリー・シャケットと、父親のヘリコプター墜落事故死が彼の上司で巨大コングロマリット、パラブル社のCEOドリアン・パーセルによる陰謀だったのではないかと彼のアカウントをハッキングしていたウッディを見つけて抹殺しようとする殺し屋集団〈アトロポス&カンパニー〉が抹殺しようと襲撃する。
この善と悪の戦いの物語なのだ。

善の側の登場人物の中心はなんといってもウッドロウ・ブックマンことウッディだろう。自閉症で生れ、11年間生きてきてこれまで一度も言葉を発したことがない。生まれて2,3年は泣き声を挙げていたがそれ以降はそれさえも無くなったと母メーガンの独白にはある。そして彼はIQ186を持つ天才少年で4歳で本を読み始め、7歳の時にはもう大学レベルの本を読んでいた。そして彼は天才ハッカーでもあり、自分の父親ジェイソンの死を上司による策略と疑って、2年近くに亘って書き溜めた『息子による復讐―忠実に編纂された怪物的巨悪の検証』を書きあげる。

そして彼こそはミステリアムと人間を結び付ける鍵となる。キップ達ミステリアムは〈ワイアー〉と呼ぶ独自の遠隔通信能力で会話をし、仲間たちと連絡を取ることが出来る。幕間に彼らの情報発信の中心犬であるベラが全米で発見されたミステリアムの仲間たちについて常に発信している〈M通信〉が挿入される。そしてウッディはこの〈ワイヤー〉を使ってミステリアムと通信できる能力を持った人物なのだ。
これによってミステリアムのキップは引き寄せられ、途中で知り合った元海軍特殊部隊隊員のベン・ホーキンズを連れてウッディ達ブックマン親子と合流することになるのだ。

また彼の母親メーガンも自立した強い女性として描かれる。
3年前に巨大IT会社パラブル社に勤めていた夫を事故で亡くした後は大学後からも続けていた絵描きの才能を磨いて、絵を売って生計を立てている。しかも彼女の絵は評価が高く、ニューヨーク、ボストン、シアトル、ロサンゼルスに支店を持つ大手画廊と契約を結んでいるのだ。
また彼女は言葉を発しないウッディにこの上ない愛情を注ぐ。母親として何か声を掛けてもらいたい気持ちを抑え、100パーセント気持ちを分かち合えないことに胸を痛めながらも、息子が時折見せる笑顔を癒しとして生きる女性だ。そのため、ウッディが初めて言葉を発したときの彼女の感動が目に浮かぶようだ。
ただその言葉が「ちがうよ、キップっていう名前なんだ」と突如現れた犬に関する説明だったことは少しばかり母親としては残念だったのではないだろうか。しかしその後ウッディは母親にずっと感謝していたこと、愛していたことを矢継ぎ早に告白するのだ。その時の万感の思いが推し量られるというものだ。

ちなみに本書の原題は“Devoted”つまり「献身」だ。つまりこのメーガンの献身こそが本書のメインテーマなのだろう。

さらに彼女は悪玉のリー・シャケットが寄りを戻したくなるほど、また捜査を担当する保安官ヘイデン・エックマンが顔を思い浮かべて部下でもある自分の恋人のリタ・キャリックトンとセックスに興じるほど、そしてキップを連れてきたベン・ホーキンスが惹かれるほどの美貌を持った女性でもある。
一方でその美貌ゆえに同性からあらぬ憎しみを受けることもあるようで、リタ・キャリックトンはメーガンが男を手玉に取る女だと決めつけたりもする。

一方敵方リー・シャケットはクーンツ作品ではおなじみのいつもエゴと自尊心が肥大した登場人物で、困ったほどに俺リスペクトの性格が増長している。メーガンと過去に付き合って、ちょっと気に入らないことがあったので気を惹くために他の女性と付き合っている最中に有人のジェイソン・ブックマンに取られたことを根に持ちながら、今でもメーガンが自分のことを好きであると信じて疑わない男だ。それはジェイソンとメーガンとの間に生まれた子が自閉症の少年であったことで彼は彼女がジェイソンとの結婚を後悔していると決めつけているからだった。

彼は自分の会社リファイン社のスプリングヴィルの研究所が親会社のCEOドリアン・パーセルの命令によって行っていた古細菌を適用する不老不死の研究によって起きた火災事故から一人逃亡した人物だ。92人の社員を犠牲にして一人逃げ出した彼はその際に古細菌を吸い込み、逃亡資金として1億ドルを持ってメーガンと共にコスタリカに高跳びしようと彼女の許に向かう。それは夫を喪った彼女ならかつて自分と付き合っていた自分と一緒になりたいと思うだろうし、またコスタリカに自分が行きたいから彼女も従うだろうと何とも身勝手な理由ばかりを並べて行動なのだ。

また彼の上司ドリアン・パーセルもIT界の寵児で世界を制する者と称されながら社交的な活動は一切せずに冷凍ピザや冷凍ワッフルにアイスクリームなどを好み、数多くのゲーム機器を備え持ち、1000枚近いハードコアポルノのDVDを所有するという思春期真っただ中の大人になり切れない大人である。

クーンツは昨今のIT業界のトップは子供のまま大きくなった大人ばかりだと揶揄しているようだ。

しかし何とも呆気ない幕切れである。

またもやクーンツの悪い癖が出てしまったように感じる。

しかし今後クーンツはこのミステリアムの連中が活躍する物語は書かないのだろうか?
例えばキップが述べている最高に賢いソロモンとブランディという犬のカップルも登場せぬままである。『ウォッチャーズ』の世界観を再起動させた本書によってクーンツはもしかしたら続編を書くかもしれない。

しかしやっぱりクーンツはとことんハッピーエンドの作家であると再認識した。
以前熱心な読者だった私はスティーヴン・キング作品を一つも読んでいなかったのでクーンツ作品を存分に楽しめたが、キング作品を読んでいる今ではクーンツ作品の粗さがどうしても目立ってしまう。
上に書いた纏め方もそうだ。ハッピーエンドに拘りすぎて、あまりに拙速、あまりに強引すぎるのだ。深みや余韻を感じられないのだ。

例えばメーガンがリー・シャケットに魅かれず、ベン・ホーキンスに興味を持ち、結婚するに至るが、これもリーが頭もよく、気も効くが感受性に乏しく、彼女の自閉症の息子が足枷になっているとしか思えなく、また彼女の描く絵も理解できないのに対し、ベン・ホーキンスが彼女の絵を見て感動し、そして彼女の美しさよりもこのような美しい絵が描ける内面の美しさに惚れる違いが描写されるが、これに準えるならばリー・シャケットがクーンツ作品であり、ベン・ホーキンスがキング作品とでも云おうか。

この差が今のキングとクーンツの訳出作品の数の差になっていると思うし、キングが何を書くか、どう描くかを熟考しているのに対し、クーンツはテーマやモチーフを変えて単に読者を愉しませるためだけの技巧とフォーマットに当てはめているだけのように感じてしまう。
それはこの前に読んだ田中氏の『髑髏城の花嫁』に登場する当時の人気作家ディケンズとサッカレーのエピソードと同じだ。そしてキングはディケンズに倣って分冊形式で『グリーン・マイル』を刊行したことを考えるとやはりこの2人は現代のディケンズとサッカレーの関係のように思える。
ただ2人が彼らほど仲が悪いかは不明だが。つまりキングが後に残る作家だとしたら恐らくクーンツ作品は後に残らないだろう。それはクーンツの既刊作のほとんどが絶版になっていることからも明らかである。

しかしこの作家は今後もこの道を進むのであろう。改めてクーンツ作品の読み方を認識させてくれた作品だ。
しかし今回は題材が良かっただけに本当に勿体ない。


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ミステリアム (ハーパーBOOKS)
ディーン・R・クーンツミステリアム についてのレビュー
No.684: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ミステリ読者はどうしてもタイトルに先入観を抱いてしまう・・・

田中芳樹氏の新シリーズ、ヴィクトリア朝怪奇冒険譚シリーズ第2作が本書。
田中氏のシリーズ物はなかなか完結しないので有名だが、本書においては三部作と決まっており、しかも最終巻も珍しく既に刊行済み。1作目の『月蝕島の魔物』が2007年、本書が2011年で最終巻の『水晶宮の死神』が2017年に刊行と本当に田中氏のシリーズ作品としては実にスピーディに完結しているのは奇跡に近い。

今回エドモンド・ニーダムとメープル・コンウェイが訪れるのはイギリス北部のノーザンバーランドに聳える髑髏城が舞台。但し1作目もそうだったようにこのシリーズは田中氏オリジナルの味付けがなされた怪物が登場するのが特徴で、本書も同様。

まず物語の発端として十字軍の遠征がプロローグとして語られるが、それが7回に亘って行われた十字軍の遠征のうち、歴史上「キリスト教史上の不名誉」とか「十字軍の恥さらし」と呼ばれている第4回十字軍のエピソードである。
本来聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣されているのに資金難のため、ベニスの商人に多額の借金をすることになり、地中海の商業権を独占しようと企む彼らに唆され、同じキリスト教徒である東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに攻め入った無様な軍なのだ。そしてコンスタンティノープルを陥落させた後、その悪行三昧が問題になり、北方の辺境への遠征を命じられ、あえなく撃沈することになった十字軍のたった1人の生き残りユースタス・ド・サンポールを、ダニューヴ河畔に聳える髑髏城の主、永遠の命を持つ絶世の美女ドラグリラ・ヴォルスングルが見初めたことがニーダムたちの敵となる新フェアファックス伯爵ライオネル・クレアモントに繋がる。

さて髑髏城と聞いて私はすぐにディクスン・カーの『髑髏城』を想起した。カーの髑髏城は本書のダニューヴ河畔ではなくライン河畔、本書ではかつての東ローマ帝国が舞台なのでルーマニアになろうか。そしてカーはドイツで微妙に位置は異なるがほぼ似たような地方である。
そして本書の髑髏城の主ドラグリラはワラキアの貴族であり、ワラキア公国と云えば、吸血鬼ドラキュラのモデルとなった串刺し公ヴラド・ツェペシュである。つまり吸血鬼の系譜であるのだが、敢えて田中氏はそう安直な方向に進まないという田中氏なりの矜持なのか。

さて本書ではシリーズ1作目の後での出来事であり、直接的には関係ないのだが、1作目のアンデルセンとディケンズの旅のその後も語られる。
なんとアンデルセンがディケンズの家に泊まりに行き、親切にしてくれたことを吹聴したことで小説家志望の人間やファンの連中がアンデルセンに紹介状を書いてもらってディケンズの家まで押しかけ、自分の原稿を読むことを強要したり、出版社への紹介や家に泊めてくれと頼んだりとかなり迷惑したことが書かれている。アンデルセンがディケンズの家に泊まりに行ったことが史実だったことを考えるとこれもまた史実なのだろう。

また1作目に続いてウィルキー・コリンズが幕間でしばしば登場する。彼も直接物語には関わらなく、当時彼は人気作家だったらしいが、よほど田中氏はこの作家を気に入っているのだろうか。

そして田中作品には歴史上の蘊蓄が語られるのが常だが本書も例外ではない。例えば、ディケンズとサッカレーが当時仲が悪かったのは有名な話のようで、彼ら2人がインドカレー店でお互いに激辛カレーの我慢比べをするシーンでそれが強調される。
これは上の2大作家が犬猿の仲で会ったことに加え、インドから戻ってきたイギリス人によってインドカレーがイギリスで親しまれ、広く食べられるようになったことを示している。

またインドに赴任した総督は当時のイギリス大臣の5倍の年俸をもらっていたようだ。私の海外勤務中は1.8~2倍でそれでも多いと思っていたが、まさかこれほど差があるとは。
ただやはり向こうの気候や風土に合わなくて赴任中や帰任して死去する総督も多くいたらしい。
侵略者の彼らが行った功績の1つに「サティーの禁止」がある。当時インドでは夫が妻より早く死ぬと妻は一緒に夫と共に生きていても火葬にされなければならなかったらしい。常々インド人は家長の権力が強すぎて、それに逆らう者は家族であっても命を奪う思想が今でも残っているらしいが、非人道的な物凄い風習である。

またダニューヴ河口に全世界の7割のペリカンが繁殖のために集結し、ペリカンは大きな口で一気に魚を食べてしまうから当地の漁師たちに嫌われているいわば害鳥でもあるらしい。
しかしよくよく考えると基本的に鳥が空を飛べるのは自身の身体が軽く、尚且つ空を飛ぶほどの翼を動かす筋肉が発達しているからだが、水も含めてそれだけの魚を口に含んでも空を飛べるペリカンの筋力は物凄いのではないだろうか?
つまりペリカンは案外食べると美味いのでは?

またニーダムと戦友のマイケル・ラッドがライオネル・クレアモントを髑髏城に送る道中のダニューヴ河で大ナマズに襲われ、格闘するシーンが登場するが、この河には本当にヨーロッパ大ナマズという体長2mを超すナマズが今でも生息しているらしく、しかも人間を襲うこともあるらしい。単に冒険活劇のために設えた生物ではないようだ。

また本書ではスコットランド・ヤードの創設者の1人でイギリスで最初の刑事でもあるウィッチャー警部も登場するのだが、私がかねてより思っていたロンドン警視庁がなぜスコットランド・ヤードと呼ばれているのかが本書で語られる。スコットランドがまだイングランドと別の国だった頃にスコットランド王室の御用邸があり、両国が統合され、御用邸が無くなった広大な跡地に警視庁が建てられたことが由来のようだ。

こういった教科書では習わないエピソードが私にとっては非常に興味深く、面白い。

ただ本書に登場する岩塩の山をくり貫いて髑髏の形に仕立て上げた髑髏城はさすがに作者の創作のようだ。上に書いたように吸血鬼伝説の色濃いルーマニアを舞台にしているからこそさもありなんと思わされるが。

東欧の歴史は私が世界史を専攻していなかったせいかもしれないが、さほど日本人には知られていないように思われ、今回1907年の東欧を舞台であることから彼の地が歴史上いかに混沌としているかが解ってくる。19世紀には次々と正体不明の人物が国王を名乗っていたとのことで、更に本書の敵フェアファックス伯爵はそれらを統合するヴラヒア国王になるとの野心を抱いている。

上述のようにフェアファックス伯爵ことライオネル・クレアモントは髑髏城の主ドラグリラ・ヴォルスングルとユースタス・ド・サンポールとの間に生まれた子であり、髑髏城の最初の主はイエス・キリストや仏陀やモーゼさえも生まれていない昔からスカンジナビアに住んでいたナムピーテスというバイキングの有力な一党の一族で、その中の1人ハルヴダーン・ナムピーテスであった。このナムピーテスという名前はナウビトゥルというスカンジナビアの古い言葉に由来し、その意味は「死者をついばむ者」である。
そしてこのナムピーテス族は勇猛かつ残酷で他のバイキングからも一目置かれていた。そして彼らが東ローマ帝国の都コンスタンティノープルに渡り、そこで産出される琥珀を運ぶ商隊の警護をして目覚ましい活躍を見せたのでヴラヒア国王の称号を授かったのだった。

ただ本書の物語の展開は唐突感が否めない。なんせニーダムとメープルはライオネル・クレアモントの依頼でノーザンバーランドの荘園屋敷に図書室や書斎を作るために訪れたのにいきなりそこで集めた血族たちを殲滅して富と権力を独占しようという大量虐殺に巻き込まれる展開が理解し難かった。
目的の異なる人物たちをなぜ一堂に集める必要があるのか。つまり手段と目的の辻褄が合わないのだ。
そんなちぐはぐな印象の中で一気に物語は荘園屋敷で殲滅作戦が行われ、それに巻き込まれたニーダムとメープルの2人が自身の生き残りを賭けて、ライオネルと対決するようになり、物語が一気に結末へと向かう。ここら辺はどうもやっつけ仕事のように感じてしまった。

あと今回登場するクリミア戦争時の戦友マイケル・ラッドの存在がほとんど生きてない。口が達者なお調子者のラッドはクリミア戦争が終わった後もスクタリ野戦病院でナイチンゲールの手伝いで戦傷者たちの世話をしていたが、衰弱したライオネルをダニューヴ河畔にある髑髏城に現地除隊証明書を渡すという条件で共に連れて行った仲である。ライオネルは無事髑髏城へ送ってくれた謝礼にそれぞれに2500ポンドを渡したが、ラッドはニーダムに金貨50枚を渡しただけで自身の分も含めて5000ポンドせしめた、何ともしたたかな男である。

またイギリス最初の刑事ウィッチャー警部も、ラッド同様にさしたる活躍も見せないままである。

とまあ、様々な役者が登場しながらも結末はいささか肩透かしを食らった感は否めない。
というよりも主人公のエドモンド・ニーダムはクリミア戦争のバラクラーヴァの激戦を生き残った銃の名手というキャラ付けがなされているものの、書中の挿画に描かれた穏やかな風貌の英国紳士というイメージが怪物たちと渡り合うタフなヒーローへ結びつかないのだ。そして好奇心旺盛なこよなく書物を愛する姪のメープル・コンウェイもまたその書物愛とジャーナリスト志望という芯の強さだけが特色で、苦境を乗り越える線の太さを感じない。

つまり一般人に少しばかり特徴づけられた主人公2人に対して、相対する出来事が怪物や人外の者との遭遇と戦いというスケールの大きさと釣り合わない違和感をどうしても覚えてしまう。

とはいえ、本書ではその辺のバランスの悪さにこだわるよりもやはり田中氏の博識に裏付けられた裏歴史のエピソードや次々と登場する歴史上の人物、しかもこれまたイギリス文壇の著名人やウィッチャー警部ら学校では習わない有名人たちとの織り成す物語に素直に浸る方がいいのだろう。

さて最終巻の2人の関係にも何か進展があるのだろうか。
しかし彼ら2人は小父と姪の関係であり、近親過ぎて結婚はできないはずだ。なので2人の間での色恋沙汰は期待できないだろう。

果たして田中氏はどんな結末を持ってくるのか。ただ単に後日談が語られるだけの味気ないものにならないよう祈りたい。


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髑髏城の花嫁 (Victorian Horror Adventures 2)
田中芳樹髑髏城の花嫁 についてのレビュー
No.683: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

「今思えば・・・」の発見が楽しめる逆行小説

ジェフリー・ディーヴァーの久々のノンシリーズ作品である本書は実に変わった構成の作品だ。なんと終章36章から始まるのだ。
そう、本書は物語を逆行して語られる。従ってなかなか物語の全容が見えにくい。

しかしこれがまたこれまでにない先入観をことごとく覆す展開になっていく。

いわば本書は時間を逆行することで物語の前提条件や人物設定が後から判明していき、先入観が覆される構成になっている。本書はそんな小技の効いたどんでん返しが数々散りばめられている。

しかしそれでもやはりこの作品は読みにくかった。時系列を逆行することで前章の結末から次章への繋がりがスムーズになされないからだ。
例えば30章が終わると次の29章の始まりはその30章へとつながる箇所の数分前とか1時間前に設定されているため、物語の展開が唐突すぎて頭に素直に入っていきにくいからだ。

このような最後の最後で計画の全容が判明する物語は数多あり、特にスパイ小説の類では複雑怪奇な構図が明かされるわけだが、その構成とほぼ同じである。
いわば本書は敢えて時系列を遡ることを想定して書かれた物語であると云えよう。

あと最後に付される目次に書かれた各章題を見ながら、各章の写真を見るとまた別の意味が立ち上ってくるのも憎らしい演出だ。特に第9章の馬の写真と章題「サラ」は1章を読んだ後だと笑えるし、第14章の骸骨が砂の中から出ている写真と章題「ダニエルの最初の仕事 一九九八年ごろ」を照らし合わせると228ページ3行目からのエピソードが別の意味を伴ってくる。

とこのように様々な仕掛けが読後に立ち上ってくる作品である。従って本書は読み終わった後に色んな読み方ができる作品だと云えよう。
例えば今度は1章から読むと感じ方も変わるだろうし、また同じように第36章から読み返すとさりげない伏線や描写の数々にほくそ笑むことだろう。
また目次の章題を照らし合わせながら読むとそれまで気付かなかった写真や文章の意味合いに気付かされることだろう。

ただやはり本書はアラフィフの自分には場面転換、時間軸の巻き戻しに頭を慣らすのが難しかった。機会があればもう一度読んでみると、上の評価もまた変わるのかもしれないが。

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オクトーバー・リスト (文春文庫 テ 11-43)
No.682: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

まさに昭和の献身の事件史

本書は御手洗潔シリーズの1冊であり、京大時代の若かりし御手洗が解き明かした11年前、昭和39年に起きた密室殺人事件の謎を解き明かすミステリである。

さて最近の島田氏は実在する企業をモデルにしている作品が多く、例えば『ゴーグル男の怪』では臨界事故を起こしたジェー・シー・オーを、『屋上』ではお菓子会社のグリコをモデルにしているが、その会社が関係する場所は前者が東海村であるのに対し、福生市にしていたり、後者が大阪道頓堀でありながら川崎にしていたりと微妙に細工を加えているのが特徴だが、本書の舞台は鳥居が両脇の建物の壁を突き破って突き刺さっている京都の錦天満宮そのものを事件現場として、しかも鳥居が突き刺さっている両方の建物を密室殺人事件の舞台としている。
実在する場所をピンポイントで殺人現場にしているのだから、きちんと許可を取っているのか気になるところではあるが。
一方でもう1つ宝ヶ池駅近くにある振り子時計が多く飾られている喫茶店「猿時計」は作者の創作らしい。

さてそんなリアルな場所で起こる出来事は3つ。

1つは昭和39年のクリスマスイヴに起こる妻殺害事件。密室状態の中で家主の半井肇の妻澄子が絞殺された事件だ。

もう1つは同じ日の同じ家の2階で寝ていた娘楓に初めてクリスマス・プレゼントがサンタクロースから届けられる出来事。しかもそれは当時8歳だった楓がほしかったものだが、誰にも話してなかったという。

そしてもう1つは半井肇の姉美子が経営する喫茶店「猿時計」の壁一面に飾られている振り子時計は全て止められているのだが、そのうちの1つ、ヘルムレ社の高級振り子時計のみがいつの間にか動き出すという怪事。しかも両親を亡くして引き取られた楓は夜中に小さな猿が入って動かしているというのだった。

さてこの密室殺人は正直解ってしまった。

しかしなんとも身悶えしてしまう事件である。いわばこれは献身の物語でもある。島田版『容疑者xの献身』ともいうべきか。

しかし本書の舞台を御手洗潔の若き日にしたことで、昭和という時代性が色濃く出ている。

つい先日テレビの番組で昭和時代の常識について触れることがあった。
それは例えば信じられないほどの満員電車での通勤風景だったり、また分煙化が成されていない時代での駅のホームの煙だらけの風景やオフィスの机に灰皿が堂々と置かれている状況だったり、はたまたテレビ番組中に出演者自身が煙草を吸いながら進行している映像だったりと今の常識とでは眉を顰めるような違和感が横行していた。
しかしそんな時代だったのだ、昭和は。

本書においてもいわば男尊女卑の意識が根強い家父長制度が横行しているそれぞれの家庭のことが書かれている。
夫が怒るからクリスマスプレゼントは上げられないと云った夫の暴力を恐れて自己催眠を掛ける妻の意識だったり、親の選んだ道を行くことを子供は望まれ、本当に進みたい道を選べなかったり、夫の稼ぎよりも自分の自営の仕事の方が収入がいいことを認めると夫が機嫌を悪くするので敢えて黙っていたり、もしくはそれを夫があてにして乱費するのを黙って我慢したりと女性は常に男に従って生きてきた、そんな時代だ。

それらは確かにこの令和の時代にも残っている考え方や風習だろう。しかしそれらが古臭く感じるのもまた事実なのだ。

特に私が心を痛めたのは国丸信二の母親のエピソードだ。
男に騙され、結局肉体労働の土工をせざるを得なくなり、女手一つで息子を育てるために、街歩く女性が距離を置くほど汗まみれ、泥まみれで働き、そして工務店のつてで東京オリンピックの開会式のチケットをもらうが無理が祟ってその後半年で死亡する。
そしてその貰ったチケットで入場しようとした国丸はそれがその時各地で出回っていた偽物のチケットであることを知らされる。貧乏人はとことん報われないと思わされるエピソードだ。

ただ本書では解き明かされない謎も存在する。

まずプロローグで語られる夜中に集団で跋扈する落ち武者の霊の群れや楓が榊夫婦にヘルムレ社の振り子がひとりでに動き出す現象について夜中に小さな猿が忍び込んで動かしていると云った事の真意についても解らぬままだ。

今までの御手洗シリーズ、いや島田作品では全ての些細な謎まで合理的な解答がなされていただけに、不明なままで終わるこの2つの謎については違和感が残ってしまった。

とはいえ齢70にしてまだ密室殺人事件を扱う作品を書く島田氏の本格スピリットには畏敬の念を抱かざるを得ない。
私でさえ年を取れば読書の傾向は変化していき、昔はガチガチの本格が好きだったのが、ハードボイルドや警察小説などトリックよりも人の心の綾が生み出す物語の妙にその嗜好は変わっていきつつあるが、島田氏は一貫して本格ミステリへの愛情が尽きていない。
そして私が彼の作品を今なお読み続けるのは彼が物語を重視するからだ。物語の復興こそ今必要なのだと単にトリックやロジックを重視しがちな本格ミステリ作家ではない存在感を示しているところに魅了されるからだ。

本書の構成もドイルのシャーロック・ホームズの長編の構成を踏襲している。事件を探偵が解き明かすパートと犯人側の事件に至った背景の物語が描かれている。率直に云えば事件解決のパートだけならば中編のボリュームだろうが、犯人側のパートを描くことで物語に厚みを与えているのだ。
そう、島田氏は本格ミステリを書いているのではなく、本格ミステリ小説を書いているのだ。このドイルから連綿と続く文化を継承しているからこそ、私は彼の作品を読まずにいられないのだろう。

島田氏が綴る市井の昭和年代史ともいうべき作品だ。私も昭和生まれだが、いつの間にか平成時代の方が長く生きていることになった。
そして今は新たな元号令和の時代だ。昭和は既に遠くなりつつある。
本書で京大時代に御手洗が知り合った予備校生サトル君は京大を落ち、同志社大学に合格して入学した。大学入学後にサトル君と御手洗との交流が続いているかは不明であり、今後ヤング御手洗の事件簿が書き継がれるかは不明だが、昭和という時代に生きた日本人の価値観を今後に語り継ぐ意味でも本書のような作品は書かれ、そしていつまでも読み継がれてほしいものだ。


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鳥居の密室: 世界にただ一人のサンタクロース
No.681: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

『アビス』×『マトリックス』×『ゴジラ』の超大作

寡作家で知られる梅原克文氏だが、発表される作品は実にスケールの大きな話で知られている。デビュー作の『二重螺旋の悪魔』はバイオテクノロジーによって生み出された生命体と超人間との戦いを描いた上下巻1,000ページを超えるSFエンタテインメント大作であった。

そのデビュー作はしかし巷間の話題にはさほど上らなかったが、一部の目利き読者に注目されることになり、その余波を受けて本書は96年版の『このミス』で8位にランクインした。

そして作風が実に派手派手しく、映像的、いやハリウッド的なのが特徴的である。デビュー作は改造手術を受けたいわゆるヒーロー物からサイバースペースに舞台を移す映画『マトリックス』を彷彿とさせたが、本書もまた同様である。そのことについては後に触れることにしよう。

さてデビュー作のタイトル「二重螺旋」の意味するところは即ちDNAのことでバイオハザードを扱ったものだが、本書の「ソリトン」とは海が舞台であるからギリシア神話に登場する海神トリトンのことを指しているかと私は思ったが、違っていた。
ソリトンとは粒子性を持つ孤立波のことである。減衰もせず、形も崩れない、そして粒子性であるがゆえにソリトン同士が衝突しても打ち消しあわずにそのまま通り抜ける、バランスの取れた半永久的に存在する波動である。そして今回主人公たちや東シナ海にある海洋建造物や油田採掘設備、潜水艦や軍用艦などと戦いを繰り広げる相手がこの波で出来たソリトン生命体なのだ。

作中にも書かれているが、地球の陸地面積は表面全体の29%に対し、海が71%を占める。また陸地の高さの平均は840メートルに対し、海の水深の平均値は3,800メートルと圧倒的に面積及び容積は海が勝っているのだ。

つまり海の全容はまだまだ謎が多く、未知の領域であることから考えると本書に登場するソリトン生命体のように地上の生物の尺度をはるかに超えた生物がいてもおかしくないのだ。
一応その成り立ちについても本書の中で述べているのはやはりこの作者が根っからのSF脳であるからだろう。

さて本書で主人公の倉瀬厚志らヘリオス石油に所属する海底油田基地の面々と海上自衛隊に所属する潜水艦〈はつしお〉の富岡艦長ら乗組員とそのチームから離脱した山田三佐と西たちが遭遇するソリトン生命体は全長約100メートルほどの巨大な平べったい蛇のような外形から通称〈蛇(サーペント)〉と呼ばれる物と直径200メートル、高さ100メートルもの冷水塊の表面を覆いつくすゲル状の生物タイタンボールが登場する。

そして今回の敵、即ちタイトルにもなっている「ソリトンの悪魔」となるのが〈蛇〉だ。
この敵はとにかく破壊によって生じる正弦波を食糧にして生きるため、海洋構造物である海底プラットフォームや潜水艦や潜水艇、軍用艦や海上支援船をマッハディスクという衝撃波を放って破壊しまくる。

さて先ほどから述べているが、本書の主要舞台となる石油採掘の海底プラットフォーム〈うみがめ200〉は2021年現在実現していない。本書でも述べられているが、石油採掘プラットフォームには海上型プラットフォームと浮遊型プラットフォーム、そして海底型プラットフォームの3種類に大きく分かれる。現在前記の2種類のみがあるが、それは海底型プラットフォームのコストが膨大であり、またリスクが高いことに起因するからだ。メリットとしては台風や嵐に全く左右されずに採掘できることだが、本書でも述べられているように非常にトラブルが多く、それを推奨した主人公の倉瀬厚志ですらその選択は誤りだったと認めるくらいだ。

また本書でもう1つ登場するのは海上に建造中の5km四方の規模を持つ海上都市〈オーシャンテクノポリス〉だ。
正直この構造物が多額の費用をかけてどれほどのメリットを日本にもたらすのか全く以て理解ができないが、当初この物語の主戦場となるだろうと思っていたこの巨大建造物が早々と〈蛇〉によって崩壊させられるのには度肝を抜かれた。昨今のハリウッド大作にはクライマックスに相当する派手派手しいシーンを冒頭に持ってきて観客の興味を鷲掴みする傾向にあるが、まさにこの〈オーシャンテクノポリス〉崩壊はその超大作的幕開けの供物として捧げられた感がある。

そして本書で欠かせないのは海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉が備える最新鋭のホロフォニクス・ソナー、略してホロソナーだ。ホロフォニクスとは立体的音響効果をもたらす音響技術―なお本書ではイタリアの神経生理学者ヒューゴ・ズッカレリ氏が発明したと書いてあるのに対し、Wikipediaによればアルゼンチンの技術者ウーゴ・スカレーリとあるが、彼がミラノ工科大在学中に発明したと書かれているから恐らく同一人物だろう。もしくは微妙に変えたのかもしれないが―だが、この技術を適用してコンピュータ処理した精密な立体音響像を人間の脳に送り込むハイテク機器とされている。本書ではヘルメット型でアイソナーと呼ばれるアイシールドを落とすことで海底内をまるで自分自身が泳いでいるかのように見ることが出来る代物となっている。
本書はこのソナー無くしては物語が成立しないほど重要な役割を果たす。

本書は海底を舞台にした作品であることからそれに関する知識や独特の常識がふんだんに盛り込まれているのが興味深い。

まずは水圧の違いだ。海底プラットフォームの〈うみがめ200〉は28気圧に保たれており、また潜水艦や潜水艇それぞれの気圧が異なることから単純に乗り移れないことが説明される。減圧して身体を慣らすのに1,2日単位の時間を要するなど、正直想像を絶する。

またHPNSという現象も面白い。ハイ・プレッシャー・ナーバス・シンドローム、即ち高圧神経症候群と呼ばれる超高気圧な場所に置かれた人間が被る幻覚症状だ。これがあるがために海底内で繰り広げられるソリトン生命体との遭遇やコンタクトなどを海上の人間に正直に話したとしても、彼らは先入観でHPNSに罹ったんだなと解釈して精神異常を起こしたとみなされてしまうことになる。従って〈うみがめ200〉のクルーは海上の助けを借りられずに自ら乗り越えることを余儀なくされるのだ。

それのみでなく海洋生物の生態についても詳しく述べられているのも実に興味深く読めた。

私が特に関心を持ったのがクジラの狩りの方法だ。
ザトウクジラは額から出す超音波ビームで餌となる魚の群れを探知して、複数のザトウクジラと連携し、ニシンの大群をクジラたちが描く円の中心へ追い込み、それをどんどん縮めてニシンの塊を作り、その塊の下に潜り込んで口をいっぱい開いてその群れに突っ込んで大量のニシンを食らうのだ。

一方マッコウクジラは強烈な超音波ビームを相手を気絶するために使ってダイオウイカといった大物を食糧とすると同じクジラでも狩りの仕方が全く異なるのだ。

さて本書の舞台は2016年の世界。そして本書が刊行されたのが1995年。そう、本書は近未来小説なのである。そして今更ながらに本書を読んだ私は既に2016年を5年も前に経験しており、哀しいかな、近未来小説にありがちな相違点に思わず苦笑せざるを得なかった。

まず台湾が地下鉄を作らずに光ケーブル・ネットワーク網を発展させ、国民のほとんどが在宅勤務を行っており、オフィスビルは空きがたくさんあり、朝の交通ラッシュもほとんど見られなくなっていると書かれている。これは日本人も同様らしいが、さすがにまだそこまで至っていないが、2020年のコロナ禍で日本の東京など大都市では在宅勤務が推奨され、実際に行われている事実があることを考えると実に先見的な話である。
そして日本では在宅勤務が定着して若い日本人がいわゆる3K仕事を選びたがらなくなっているとの記述はもしかしたらそう遠くない未来の日本の姿なのかもしれない。

また本書によれば2016年の時点では既に北朝鮮はとっくに無くなってしまっているらしい。

そして21世紀ではコンピュータの操作にはもはやマウスは使われず、多関節アームで固定された3Dペンを使って立体的映像の中で3次元的に操作しているとあるが、これもまだそこまでは行っていない。マウスはまだ健在である。

エイズ予防のCMが流れているのにも苦笑してしまった。

また台湾も反日派の中国から流れてきた国民党の台頭が21世紀になって世代交代によって勢力が衰えたとあるが、2021年の現在ではまだまだそんな平和は訪れていない。

但し、一方で作者の先見性や知識に驚くべき点はいくつかあり、例えば光ケーブルによるネットワーク網が発達していると書かれている点。
今では当たり前だが、1996年の時点ではまだADSLの前のIDSNが普及している時代である。ADSLが2000年に普及し、ブロードバンド元年と云われたそのまだ前にその次の光回線をこの時点で謳っていることがすごい。

更に軍用艦の内部のディスプレイにLEDが使われているとの記述だ。20世紀でLEDがディスプレイ照明の主流になっていると既に考えていることに驚嘆した。

また倉瀬厚志の娘美玲が8歳にしてオンラインでリカちゃん人形フルセットとデコレーションケーキを勝手に注文しているシーンが登場するが、これが今では、いや2016年の時点では全く以ておかしくない現代っ子あるあるであることに驚かされる。

さて私は梅原氏の作風が実にハリウッド映画的であると述べたが、このソリトン生命体のイメージをハリウッド映画『アビス』として想起した。
ポリウォーターと称される年度の高い水に変異するソリトン生命体は『アビス』に登場する不定形の未知の生命体のようだ。ちなみにこのポリウォーターは実際に旧ソ連の科学者ボリス・デルヤーギンが発表した新物質であるが、再現できなかったため現在では存在が否定されている。
つまりこの存在しないであろう物質を作品世界で再現した、当の科学者にとっては科学者冥利に尽きる設定である。

またこれら未知なる深海の生命体との戦いを描く海洋アクション小説である側面と、一方で未知なる生命体とのコンタクトに成功する映画『未知との遭遇』を彷彿とさせるようなハートウォーミングな側面を持っている。

また戦う敵は〈蛇〉で彼らが仲間に引き入れるのはタイタンボール。人類はタイタンボールを味方にして〈蛇〉と戦う。
そう、これはさながら『ゴジラ』シリーズを彷彿とさせる。
ただ変則的なのはタイタンボールには争うという概念がないため、実際に手を下すのは人間である。しかもコンピュータを介して精神をソリトン生命体に移送させた人間、主人公倉瀬厚志が戦うのである。これもまた映画『マトリックス』を彷彿とさせる。

そう、梅原氏は日本古来のエンタテインメントとハリウッドの大規模予算が投じられる超大作を結び付けるようなアイデアが得意なのだろう。

さてホロソナーはこの物語に重要な役割を果たしていると先述したが、このタイタンボールと人類がコンタクトするキーとなるのがホロソナーから発せられるリファレンス・トーンなのである。このソナーを介して最初はモールス信号でコミュニケーションを取り、やがて文字をディスプレイに映して文章で会話をするまでになる。

一方、今回の敵である〈蛇〉もまたホロソナーによって生み出されたことが判ってくる。実はこの敵は海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉が行ったホロソナーの高出力テストによって気が狂わされ、凶暴化したタイタンボールだったのだ。

ゴジラが人間の水爆実験で生み出された怪獣であるのと同様、〈蛇〉もまた人為的に生み出された怪物なのだ。

そして下巻になるとそれまで海底にいた〈蛇〉は海上へ浮上していく。ザトウクジラの群れを襲った〈蛇〉は海上へ逃げるザトウクジラによって崩された海の中に出来る水の層によって海上へ浮上するのだ。

そして今度は海上にいる軍用艦や支援船〈うみねこ130〉を襲い、その破壊行為によって生じる正弦波を餌にしだす。

一方それを成すすべなく、見ているしかない〈うみがめ200〉の人員はタイタンボールに自分たちの代わりに浮上して〈蛇〉を退治するよう提案するが、彼らはいわゆる争いという概念がないため、仲間同士で戦うことが出来ないといって拒否する。
この辺はゴジラとは異なり、単に味方につけた怪物同士が戦うといった構図にならないところがこの作品のアクセントだろう。

とまあ、次から次へと危機また危機を畳みかけながら、それに対してアイデアで難局を乗り越えていく、しかも何気ないエピソードが伏線となって機能するといった緻密な構成さえも感じさせるエンタメ要素満載の本書だが、登場人物それぞれにあまり好感が持てないのが難点だ。

まず海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉の富永艦長。彼は潜水艦に憧れて自衛隊に入った人物であり、通常海自では潜水艦乗りは早く卒業したいと思う部署だけに非常に珍しい人物である。そのため自分が愛する〈はつしお〉を降りること、即ち艦長の任を解かれることに恐れを抱き、そのためには任務遂行責任意識が高いとはいえ、自衛隊の最高機密であったホロフォニクス・ソナーと〈蛇〉の存在を知られることになった自分の部下の山田三佐や民間人の倉瀬達に対して演習と称して魚雷を放つ人非人である。

そして何よりも主人公倉瀬厚志とその別れた妻劉秋華の人物像はその最たるものだ。

倉瀬は直情型であり、また好奇心旺盛で自分が知らないでいることに耐え切れず、なんでも知りたがるタイプだ。

特に沈んだ潜水艇内にいる娘を助けるために海上自衛隊に援助してもらったにもかかわらず、彼らが禁じた事項に対して、納得がいかないためにガンガン扉を叩いて、ソリトン生命体の〈蛇〉をおびき寄せたり、軍の最高機密であるホロフォニクス・ソナーを無断で使用し、更にはそのことで〈蛇〉の存在を知ることで逆に海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉の富永艦長に情報漏洩防止として魚雷で命を狙われそうになれば、また最高機密を民間人に洩らしたことで援助のために派遣された副艦長の山田とその部下の西を辞職にまで追い込む。

いわばトラブルメイカーなのだ。
しかもそのトラブルは物語が進むにつれて単に個人の問題から他者の辞職問題まで発展させ、国家機密にまで及び、周囲の人々の命を脅かすだけでなく、甚大な自然破壊災害まで引き起こすという風にどんどんエスカレートしていく。
このような人物が企業の要職に就いている事が甚だ疑問だ。

更に元妻劉秋華も気の強い女性で事あるごとに別れた夫を罵倒し、余計な口を叩いては激昂させる。さらに思い通りにいかないと癇癪を起こし、自分に責任の一端があってもすぐに倉瀬のせいにしたりする。また倉瀬がソリトン生命体になる前も彼が娘を助けさせたくないという感情から自らソリトン生命体になろうとするが、精神が耐え切れずに挫折する。

つまりお互いが娘の親権を巡って常にマウンティングを取り合う、まさに夫婦としては最悪の2人なのである。

正直本書の評価はこの2人の主人公のパーソナリティに足を引っ張られたと云っていい。
彼と彼女が物語に没入し、そしてその活躍を応援したくなる好人物であったら本書は私にとって傑作となりえただろう。

作者梅原氏の科学に関する知識とそれを応用した未来像は魅力的であり、その想像力と創造力には素直に感心する。これで登場人物が魅力的であったらなぁとそればかりが残念でならない。

しかし本書はハリウッドのSF超大作に匹敵する、アイデアが豊富に溢れた一大エンタテイメント小説であるのに、今なお映像化の話が浮上しないのは残念でならない。現代技術で2016年ではなく、もっと未来の日本を舞台にしたこの作品の映像作品を見てみたいものだ。

▼以下、ネタバレ感想
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ソリトンの悪魔(上)ー日本推理作家協会賞受賞作全集(84) (双葉文庫) (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集)
梅原克文ソリトンの悪魔 についてのレビュー
No.680:
(7pt)

かつて日本ミステリが世界のクオリティに近づいた頃の短編集

日本人読者向けに編んだ『世界傑作推理12選&ONE』がよほど好調だったのか、続いて編まれたのが本書。但し前回の「&ONE」に当たる編者クイーン自身の短編は収録されておらず、代わりに日本人作家、当時日本を代表していた夏樹静子氏と松本清張氏からそれぞれ1編ずつ収録されているのが特徴的だ。

このアンソロジーの幕開けを担うのが執事ジーヴスシリーズが本書刊行20数年後に大ブレイクを果たしたP・G・ウッドハウスの「エクセルシオー荘の惨劇」だ。
イギリスの下宿屋で突然亡くなった船長の死因はコブラの毒によるものだった。21世紀の現代ならさほど珍しいとは思わないが本作が書かれた1914年はコブラのような毒蛇に噛まれると云う死因はあり得なかったのだろう。だからこそホームズの「まだらの紐」のトリックが当時は斬新であったがゆえに今なお語り継がれているのだろう。
被害者はその毒舌ぶりから決して周囲から好かれているわけではない船長だが、どうやってコブラの毒が彼に回ったのかは判らない。
正直事件の中身は小粒だが、事件を解き明かす意外な探偵役を立てた功績は大きい。

次は短編の名手エドワード・D・ホックの「三人レオポルド」。
流石短編の名手ホックである。上手い!そしてそつがない。
面白いのは通常ならば偽名を使った犯人を突き止めるというプロットになるのに、本作は逆に犯罪者が自分を逮捕しようとしている警官を突き止めようとする、しかもそれがシリーズキャラクターであるレオポルドであるところだ。しかしホックはミステリに求める水準をいつもクリアする安定した作家であると再認識した。

私は彼女は長編も書けるが短編もまた書ける作家だと思っていたが、それを証明してくれたのがルース・レンデルの「生まれついての犠牲者」だ。
いやあ、やはりレンデルは上手い!
いつもながら我々の周囲にいそうな「ちょっと困る人」をミステリのテーマに取り入れ、そして全てが犯罪に向かうように実に上手く物語を運ぶ。
本作では村に突如引っ越し来た発展的な都会派の女性ブレンダが実は自分の話とは異なり、それほど情事を重ねて訳でもなく、実は普通の女性だったことが発覚する。しかし妻に悪影響を与える前に最近起きた強盗殺人事件に見せかけて殺してしまおうと企む。
事件は上手く行くのだが、結末はいつものレンデルらしい皮肉を見せながら予想外の方向へ進む。
最後の運命の皮肉とも云うべきラストに読者が納得する形で結実するところがすごい。

やはりこの作家も選出されていた。EQMMの常連作家で短編の名手ヘンリー・スレッサーの「世界一親切な男」は本当に親切な男の話だ。
妻を過失とはいえ、死なせてしまった男たちに夫が仕組んだことは過剰なまでの恩返しだった。飲む・打つ・買うにそれぞれ執着する者たちに断酒をしようと決意すれば高級なお酒をしこたま送り付けて重度のアル中にし、女好きの男が自分にとって最高の女と結婚したかと思った矢先に、それをはるかに上回る美貌の女性を送り込んで、情事を起こさせ、妻を逆上させ、ギャンブル好きな男には定期的にギャンブル資金を送ってマフィアに借金までさせる。そう、それぞれが最も好む方法で人生を破綻させるのだ。

あまり知られていない作家だが、クイーンは別のアンソロジー『クイーンズ・コレクション』にも彼の作品を選出している。ハロルド・Q・マスアは当時現役の弁護士でもあった作家で「受難のメス」も裁判を扱ったミステリだ。
手術の失敗の訴訟から脱税容疑へと僅か30ページ足らずの作品なのに目まぐるしく展開が変わる本作は現役の弁護士の作品ともあって裁判や訴訟内容にリアルを感じさせ、実に読み応えがある。
本作で起きる殺人事件は半分以上も過ぎてであり、正直その犯人は見え見えのミスディレクションでミステリ読者なら容易に想像がつくだろうが、最後の一行は洒落ている。内容的にも小説としての面白みを感じる作品だ。

ジョイス・ポーターはシリーズキャラのドーヴァー警部が登場する「臭い名推理」が選出された。
正直云ってワンアイデア物である。確かにこの着眼点は面白いが、アンソロジーに選ぶほどの物かと云えば、ちょっと疑問だ。

パット・マガーことパトリシア・マガーはトリッキーな本格ミステリが特徴的だが、「完璧なアリバイ」はオーソドックスな題材のミステリだ。
上手い!起承転結がはっきりとし、しかも詰将棋の如く無駄なく妻殺しへと物語が収束していき、そしてツイストの利いた皮肉なラストへつながる。これぞミステリのお手本とも云うべき作品だ。

ビル・プロンジーニの「朝飯前の仕事」はシリーズ探偵“名無しのオプ”が登場する。
私は“名無しのオプ”シリーズの読者ではないので詳しいことは解らないが、てっきりハードボイルドもしくはサスペンス系の作風と思っていたら、本格ミステリで、しかも機械的トリックを使った非常に原理主義的など真ん中の内容であったことに驚いた。
しかし本書の読みどころは上流階級と下流階級の溝を扱っているところだろう。上流階級の者たちは下流階級を蔑み、また逆に下流階級は顎で使う上流階級を妬み、そんな2つの階級に横たわる断層を皮肉っている。

ドナルド・オルスンは初めて読む作家だが、その作品「汝の隣人の夫」は選ばれるだけの出来栄えだ。
これはウールリッチの有名作「裏窓」と編者クイーン自身の『中途の家』をうまくブレンドさせた佳作である。
月の半分も出張している夫エドワードとその間家を守る妻セシル。やがて隣に若夫婦が越してきて、しかも隣人の夫は若くてハンサムでいつも庭で筋トレをして逞しい身体を晒している。これが子供もいなくて不在がちな夫を持つ人妻の好奇心をそそらざるを得ない。
しかしそこで情事に至るのではなく、妻の妄想上の恋が日記に綴られていく。つまり実際に浮気は起きないのだが、いつも隣人夫との情事を想像しているがゆえにセシルは彼を意識して普通に接することができなくなる。
本作で書かれているのはミステリとしては実にありきたりなシチュエーションや動機なのだが、物語を一人家に籠りがちな妻の視点を中心に描き、彼女が書く妄想常時日記の内容に上手く読者を惹きつけることでサプライズを演出している。つまりそれほど奇抜な動機や登場人物の設定を案出しなくても書き方を工夫するだけで十分読み応えのあるミステリが書けるのだと証明した、良いお手本のような好編だ。

かつてはミステリランキングの常連作家だったピーター・ラヴゼイの「レドンホール街の怪」は捻りの効いた作品だ。
1979年に書かれた本作は前年に『マダム・タッソーがお待ちかね』でCWA賞を受賞し、まさに脂ののった時期に書かれた作品であり、たった20ページ強の作品なのにツイストを利かせた作品となっている。
素性の知らない紳士が間借人となっているが、彼を警察が訪ねて来て彼のことに疑惑が生じる。さらに追い打ちを掛けるように彼の借りている部屋は家具などが一切ないがらんどう状態。
家主は犯罪者に貸したのではないかと気を揉みながら警察が来たことを話すと、なんと1枚500ポンドから1,000ポンドほどの値がつく希少な切手ブラック・ペニイとブルー・タペンスを昔の間借人が壁紙代わりに一面に貼り付けたという逸話があり、彼はそれを手に入れるために部屋を借りたのだという。そしてそれは確かに存在し、自分はもう十分にお金を手に入れたので残りは全て家主に差し上げると述べる。
反転に次ぐ反転でしかも最後は詐欺なのか果たして真実なのかと疑問を投げかける抜群の結末を見せる。いやあ、まさに最上のミステリではないか。

クイーンの日本人推理作家のアンソロジーでは常連の1人である夏樹静子の「足の裏」は本当にありそうなお話である。
色々と考えさせられる話だ。人口3万5千人ほどの小さな市で起きた銀行強盗を端緒に由緒ある寺で昔から行われていたスキャンダルが暴かれることになる、まさに社会問題を扱ったミステリだ。
今でも行われているのか知らないが、本作ではお賽銭を寺の住職や僧や事務員たちも含めて山分けする慣習があるらしい。つまり新聞やニュースで報道されるお賽銭の金額は予め見積もられた金額であり、それよりオーバーした金額については関係者で山分けする習慣があるとのこと。タイトルはこの金銭を足の裏と呼ばれていることに由来する。
本作は昭和時代の作品だが、今にも通ずるテーマであり、令和の世でもあるのだろう。全く人間とは金銭に関しては成長していない動物なのだと思い知らされる。

さてアンソロジーの最後を飾るのはもはやクイーンにとってもお気に入りの作家となった感のある松本清張氏の「証言」だ。
愛人を囲うある会社の課長が逢瀬の時にたまたま家の近所の人間と出くわす。昭和のどこか淫靡な雰囲気漂うシチュエーションに、近所の人間が後日殺人事件の容疑者として逮捕され、自分の証言で無実になると究極の選択を迫られる。こんな時、あなたならどうすると読者自身の倫理観を問われるような作品だ。
今でも愛人報道は後を絶たず、ワイドショーの格好のネタとして大々的に報じられているが、昭和も平成も令和も男と女は変わらないことを思い知らされる。
そしてそんな窮地に陥っても主人公は逢っていないと自らの保身のために嘘をつきとおす。
本作の狙いは世の中嘘で凝り固まってできているという皮肉だ。それぞれが嘘で塗り固められた生活を送っていると警鐘を鳴らしているのだ。
これが冤罪の構図なのだろう。曖昧だった記憶が警察の執拗な事情聴取でやがて頭の中で事実にすり替わっていく。たとえそれが嘘であっても自分が信じたい方向へと脳が働きかけるからだ。
とにもかくにもついた嘘は自分に返ってくるという戒めの物語だ。


訪問すれば本格ミステリの巨匠として手厚くもてなされる日本人はクイーンにとっては実に愛すべき読者、ファンだったのだろう。日本人読者向けに『世界傑作推理12選&ONE』の続編として編まれたのが本書だ。
しかも収録作品はクイーンのアンソロジーに含まれた作品は―私の知る限りでは―ゼロであり、また前のアンソロジーとは異なって日本人作家の作品がたった12の席のうち2席をも占めるまでになったのは日本人読者に対するサーヴィス精神の表れだろう。

その中身は今回もまたヴァラエティに富んでいる。

殺人事件の犯人捜し、自分を逮捕する潜入捜査官探し、復讐譚に脱税、浮気相手との結婚を考えた妻殺し、窃盗、主婦の妄想恋愛、詐欺、そして冤罪。様々なヴァリエーションを駆使して質のいいミステリを提供している。

クイーンが日本人ミステリ読者のために向けて編んだアンソロジーだけあって実に粒揃いであるが、その中でベストを挙げるとすればルース・レンデルの「生まれついての犠牲者」とピーター・ラヴゼイの「レドンホール街の怪」、夏樹静子氏の「足の裏」になるか。

「生まれついての犠牲者」は名作『ロウフィールド家の惨劇』を彷彿とさせる、その事件の犯人が最初の一行目で解る導入部に始まり、登場人物全ての設定が最後の皮肉な結末へ結実する。
実に計算された作品だが、その人物設定が我々の周囲にいる誰かを彷彿とさせるため、じつにリアルに感じられるのだ。つまり情理のバランスが実に上手くとれている作品なのだ。

「レドンホール街の怪」が上手いのは最後のオチで真相の2パターンが想定されることだ。
しかもこの作品、たった24ページなのだ。う~ん、実に濃い内容だ。

「足の裏」は寺の住職たちの賽銭横領と云う社会問題を扱ったミステリ。とにかくこのスキャンダラスな真相が発覚するまでのプロセス、そしてそれを補強する物語の舞台設定が実に緻密なのである。
日本のどこかにありそうな全国で知られる有名な寺を観光資源として抱える小さな市という舞台設定とそこで起きた銀行強盗の事件という発端が最後の真相に寄与するきめの細かい物語運びに感嘆した。そして明かされる最後の真相については今でも行われているのではないかと考えさせられるものであった。

次点でドナルド・オルスンの「汝の隣人の夫」とを挙げる。前者の最後のオチはこの手の出張しがちな夫に対して最初に抱きやすい疑惑なのだが、それを妻の妄想を中心に描いたことで見事にミスディレクションに成功しているからだ。また本作はある意味、編者の『中途の家』の変奏曲な構成であるのも興味深い。

特に面白く感じたのはまだこの頃は機械的なトリックを扱った本格ミステリが書かれていたことだ。
また意外性を放つどんでん返しの作品、特に運命の皮肉めいた作品が多くあり、そしてそれらのアイデアは秀逸である。

クイーンは数多のアンソロジーを編んでいるが本書のようにEQMMに掲載した、自身が掲載検討した作品に基づくものが多々あったように思える。
しかし精選されたとはいえ、EQMMは月刊誌であり、現在も刊行が続いている雑誌である。従ってかなりの量の選から漏れた短編が蓄積されているはずだ。

隔月刊行されている早川書房のミステリマガジンでさえ、EQMMに掲載された短編は網羅されていないだろう。つまりかなりの数の埋もれた短編がEQMMにはあるはずなのだ。

エラリー・クイーン亡き後、それらが日の目を見ないのは悲しすぎる。やはりクイーンの衣鉢を継ぐアンソロジストの登場を望みたい。

本書収録作品は1976年から1980年と古典と呼ぶにはまだ早い時期の作品群が連ねているが、この頃はまだアイデアがそれぞれの作家で潤沢にあったのだろう。ほとんどの作家が鬼籍に入ったアンソロジーは、かつての名声を馳せた作家たちの最盛期の実力を知るにもってこいだった。

そして現代もまだこの流れは続いていると思いたい。短編集は売り上げが落ちると云われているが、これに懲りず、ミステリ好きな読者たちを唸らせる短編のアンソロジーを刊行する習慣は続けてほしいものだ。

しかしクイーンのアンソロジーに日本人作家の作品が2作も選ばれたことを考えると、日本のミステリも一旦は世界に認められ、世界に近づいたのだ。
しかし現代の日本人作家のミステリが劣るかと思えば、必ずしもそうではない。クイーンのような世界に発信する人物が欠如しているだけなのだ。

世界のどこかで本書のようなアンソロジーが編まれるとき、そこに日本人作家の作品が収録され、やがて日本人作家の作品ばかりで編まれたアンソロジーが世界で広まることを夢見て、本書の感想を終えよう。

▼以下、ネタバレ感想
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新 世界傑作推理12選 (光文社文庫)
エラリー・クイーン新 世界傑作推理12選 についてのレビュー
No.679:
(7pt)

温故知新とはまさにこのこと!

クイーンはいくつものアンソロジーを編んでおり、その中に『黄金の12』というものがあるが、本書はなんと日本読者のために編まれた新たな12編に自身の短編1編を加えたものだ。これだけで生前のクイーンがいかに親日家だったかが推し量れる。

そして恐らくは来日したときに交流した日本ミステリ界の関係者たちとの歓談から日本人読者が古今東西のミステリを満遍なく楽しむ気質であることを察したのであろう、本書は古典から編まれた1977年当時の現代ミステリまで、更にアメリカのみならず西欧のミステリも対象に幅広く短編が選出されている。

まず開巻一番の作品はエドナ・セント・ヴィンセント・ミレーの「『魚捕り猫』亭の殺人」だが、これは『犯罪文学傑作選』に選出された「『シャ・キ・ペーシュ』亭の殺人」という短編で、既読済みなので敢えてここでは触れないでおく。

その題名はこの作家よりも別の作家の雄名作を想起するのではないか。「世にも危険なゲーム」はギャビン・ライアルの長編ではなくリチャード・コンルの短編だ。
マンハント物は今でも数多く書かれており、様々な趣向が凝らされてはいるものの、だいたい生き残りを賭けた鬼気迫る戦いであったり、強者どもが一堂に会してバトルを繰り広げるゼロサムゲームであったりと概ね構成は似ている。本作も全く以てその域を出ていないが、なんと本作が書かれたのは1925年なのだ。前掲のライアルの近似題名作が刊行されたのが1963年となんと40年弱も先んじている。つまり本作はこのサバイバルゲーム物の源流なのだ。
まさに命を懸けたチェスゲームが繰り広げられる。その内容は長編ネタといっていいほど濃いもので短い話の中に凝縮されており実に面白い。
最後の結末も洒落ており、今なお鑑賞に値する傑作だ。

アガサ・クリスティは英国ミステリの女王だが、本書収録の「うぐいす荘」は本格ミステリではなく、サスペンス物だ。
クリスティによる青ひげ譚。
奇妙な余韻が残る作品だ。

次の2編は題名のみかなり前から知っていた作品だ。

今なお現代作家がその真相を解き明かそうと数々の著作が出されている切り裂きジャック事件をモチーフにしたのがトマス・バークの「オッターモール氏の手」だ。
これは明らかに切り裂きジャック事件をモチーフにしているというよりも作者なりの切り裂きジャック事件の犯人の推理の披露ではないか。今に通ずるサイコパスの怖さを思い知らされる1編だ。

そしてヒュー・ウォールポールの「銀の仮面」は1933年に書かれた古典ではあるが、その内容は現代に通ずる怖さを持っている。
そう、これはアカデミー賞を受賞したある有名な作品そのものだ。このモチーフは荒木飛呂彦氏もマンガで扱っていた。本当の悪党は微笑みながらやってくる。そして善人はいつの時代も悪人たちの餌食にされるのだということをまざまざと描く。

ドロシー・L・セイヤーズといえばピーター卿シリーズだが、本書収録の「疑惑」はノンシリーズの1編だ。
イギリスの古典には毒殺物が多い。それはかつて毒殺魔と呼ばれる稀代の殺人鬼、しかも医師だったり、婦人だったりと、とても殺人を犯しそうにない人物が行っていたセンセーションなギャップがよほどミステリ作家陣にも受けたのではないだろうか。
本作もまたその毒殺魔、いや毒殺婦の系譜に連なる作品になる。少ない登場人物で繰り広げられる疑惑劇だが、今ならば特に意外な展開ではないオーソドックスな作品だ。

一方ベン・ヘクトの「情熱なき犯罪」は完全犯罪がほんの些細なことで崩れるという典型的な話だが、こちらは捻りが実に効いている。
いやあ、完全犯罪がもろくも崩れ去る小説をこれまでいくつも読んできたが、最後にそれが自分を容疑のど真ん中に陥るという反転の鮮やかさは技巧の冴えを感じる。

次のウィルバー・D・スティールの「人殺しの青」は曰く付きの馬を手に入れた牧場一家に訪れた悲劇を扱った作品だ。
人を殺して手に入れた馬は実は人を襲う荒くれ馬だという反転からさらに作者はもう1つ反転を仕掛ける。田舎の閉鎖された空間では何でもないことが狂気を生み出すということだろうか。

まさかこの作品が読めようとは思わなかった。世評高いスタンリー・エリンの「特別料理」はいわゆる乱歩が称した「奇妙な味」の代表作だ。
実に上手い短編である。正直題名からどんな結末か解るような内容だが、エリンはそれを状況を仄めかせ、そして敢えて書かないことで読者に行間を読ませ、「特別料理」の正体がなんであるかを悟らせる。エリンはこの作品でエラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンのコンテストで最優秀処女作特別賞を獲ったとのことだが、まさにそれに相応しい1編だ。

シャーロット・アームストロングの「敵」は『黄金の13/現代篇』で既読済みなので感想は割愛する。

どちらかというと私立探偵小説作家の色合いが強いジョー・ゴアーズだが、クイーンのお眼鏡に適ったのが「ダール アイ ラブ ユ」だ。
1962年の作品のため、パソコン通信やインターネットがない時代であるため、情報のやり取りの手段はごく一部の機関にあったテレタイプであるが、本作の内容は現代に通ずるものだ。
突然夜中に一通の入電があり、それは彼のことを慕う女性からの物。思わず浮き立つチャーリーは相手の気を引こうとなんと上司を失脚させる暴挙に出る。
それが原因で上司が散弾銃で自殺すると彼女の居場所を必死になって突き止めるが・・・。
ある意味当時の時代を考えれば本作は意外な結末を持ったSFだろう。
う~ん、この内容はSNSや出会い系サイトなどが発展した今こそ実に身に染みる作品ではないだろうか。

『サイコ』で有名なロバート・ブロックの「ごらん、あの走りっぷりを」はある脚本家の手記で語られる作品だ。彼は統合失調症なのか被害妄想の気がある。彼は精神科医のカウンセリングを受けているが自分が不当に虐げられていると思ってやまない。また彼は女優の妻を持っているが、彼女のことも疑っている。脚本家とは結び付きそうもない奇妙な題名は彼が思い出した童謡『三匹のめくらねずみ』の中の歌詞の一節である。
今となっては特に珍しくない狂える男の末路である。

最後のエラリイ・クイーン自身の短編「三人の未亡人」は『クイーン検察局』所収の「三人の寡婦」で既読済みなのでここでは感想は省くことにする。


エラリー・クイーンが―というよりも既に片割れのマンフレッド・リーは鬼籍に入っていたため、正しくはフレデリック・ダネイだが―来日して日本のミステリ作家と交流を持ち、親日家になったことは有名で、その後3冊もの日本のミステリ作家の作品で傑作選を刊行するまでになった。
幸いにして私はそれを読むことが叶ったが、更に日本の読者のために海外ミステリ作家の12選を編んだことは偶然古本屋で見かけるまで知らなかった。調べてみると日本のために組んだ独自のアンソロジーは『日本文芸推理12選&ONE』と『新世界傑作推理12選』があるようだ。

パズラー作家のイメージがあるクイーンだが、本書では本格ミステリに拘泥せず、スリラー、ホラー、奇妙な味系と多種多彩な作品が収録されており、クイーンのアンソロジストとしての腕前を存分に披露する形となっている。

更に年代も幅広く、古くは1923年の物から新しいもので1973年と50年に亘る作品群の中からセレクトされている。

但しここに収録されている作家はどちらかと云えばクイーンの数あるアンソロジーでは常連ともいうべき作家が多く、クリスティ、セイヤーズ、ベン・ヘクト、エリン、アームストロング、ゴアーズ、ロバート・ブロックがそれに当たる。また全てが初選出作ではなく、3作が私にとって既読の作品であった。

但し、本書はこれまでのアンソロジーの中でもかなりレベルの高さを誇った。従ってベスト選出には実に迷わされた。

例えばベン・ヘクトの「情熱なき犯罪」は殺人犯がある特性を活かして、偽装工作を細密にしていくのが面白いし、その工作が自分のミスで逆に自分の犯行動機を裏付ける証拠になってしまう反転が見事だ。

また世評高いスタンリー・エリンの「特別料理」も噂に違わぬ傑作だ。
今まで食べたこともない極上の「特別料理」の正体は、さすがに似たような作品が流布している現代では容易に想像できるが、エリンの優れたところは敢えて核心に触れず、周囲の状況を主人公2人の会話で仄めかせ、徐々に読者に悟らせていくところにある。まさに引き算が絶妙になされた作品なのだ。

そんな傑作ぞろいの中で選んだベストは2つ。リチャード・コンルの「世にも危険なゲーム」だ。もはや数多書かれたマンハント物だが、実は1925年に書かれた本作がそれらの源流なのだろう。そして原点である本作は今なお読むに値するほど趣向が凝らされている。

普通の狩りでは満足しなくなった狩猟狂の将軍が人間を狩ることに快感を覚え、わざと獲物が自分が所有する島に迷い込むように暗闇の灯火を照らして島の岸壁に激突させ、島に流れ着いた船員たちを捕えて、獲物にする。しかもその方法は3時間先に逃げさせ、将軍が彼らを追って狩るというもの。3日間逃げおおせたら自由を与えるが、将軍は切羽詰まると犬を放って探すなど、決して獲物を逃がそうとはしない。

そんな殺人ゲームに巻き込まれた冒険家の1対1の戦いはわずか40ページ足らずの作品で語るには読み応えのある内容で短編であるのが勿体ないくらいだ。
最後に対峙する二人の決闘シーンの結末の付け方も実に上手い省略の仕方で逆に勝負の行方が際立ち、カタルシスを感じる。作者のコンルは本作含め2作しかミステリーを書いていないというから驚きだ。

もう1作はヒュー・ウォールポールの「銀の仮面」だ。
まさにアカデミー賞を受賞した映画と同じような侵略譚が繰り広げられる。その入り込み方が実に巧みでマダムの人の良さに上手く付け入り、あれよあれよと取り入って監禁にまで至る様は実に恐ろしい。昨今問題になった洗脳事件を彷彿とさせる。

今なお脈々と続くマンハント物、ゼロサムゲーム物の原典を生み出した偉大なる先達と現代社会に今なお蔓延る侵食する一家の恐ろしさを生み出した先達に敬意を払ってこれら2作品をベストとする。

現在エラリー・クイーン作品の再評価が始まっており、これまでの作品の新訳が精力的に進んでいる。
角川文庫の国名シリーズの新訳版が表紙を美男子化されたクイーンを配することで購買層が広がり、そして今は早川書房がライツヴィルシリーズまでが新訳刊行されており、この私も長らく絶版で手に入らなかった作品を新訳で入手できる恩恵に預かっている。

一方アンソロジーも東京創元社が復刊フェアで折に触れ復刊しており、これまた恩恵に預かっている。
しかしこの光文社文庫で刊行されたクイーンのアンソロジーはそのような兆候は全く見えない。

本格ミステリ作家としてのクイーンの再評価が高まる今、アンソロジストとしてのクイーンにもスポットライトを当て、復刊してはどうだろうか?

クイーン自身の評価ではなく、彼が紹介した今でも読むに堪えうる傑作がこのまま埋もれていくことは何とも惜しいのだ。

ミステリの遺産を、文化を継承していくためにも節目節目で復刊活動はされなければならないだろう。

しばらくクイーンのアンソロジーからは離れていたが、本書を読むことでまた再燃してしまった。次はもう1つの『新世界傑作推理12選』にも可能であれば手を伸ばしたいと思う。

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世界傑作推理12選&ONE (光文社文庫)
No.678: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

キングなのにホラー作品のないヴァラエティ豊かな短編集

4分冊で刊行された短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”も本書でとうとう4冊目を迎える。

最終巻の劈頭を飾るのは「第五の男」。
なんと開巻して始まるのはホラーでもファンタジーでもない、エルモア・レナードやドン・ウィンズロウを彷彿とさせるクライムノヴェルだ。
現金輸送車を襲い、大金を手に入れた強盗一味のうちの1人、友人を殺された男が彼らに復讐する物語だ。
実に真っ当なクライムノヴェル。これと云ってキングならではといった特色がないとも思えるが、主人公が服役していた刑務所がショーシャンクであったのが唯一のキングテイストか。

次の「ワトスン博士の事件」はその題名からも判るようにキングによるホームズ譚だ。
いやあ、まさかキングがホームズ物のパスティーシュを書いているとは思わなかった。本作はしかし作者がキングとは解らない、真っ当なパスティーシュである。
またホームズ譚であるだけでなく、これはキングによる本格ミステリでもある。しかも王道の密室殺人事件であるところも憎い。きちんと伏線とトリックが仕掛けられているところも堂に入っている。
家族の個性を活かしたトリックとホームズ物のアンソロジーに選出されても遜色ない出来栄えだ。
ホームズ譚の中にキング作品のメインモチーフである家庭内の支配的な存在として振舞う父親が盛り込まれており、さらに事件の真相はクリスティのある有名作品を彷彿とさせる。そういえば構造的には「メイプル・ストリートの家」と同じではないか。
しかし最も驚いたのは密室であることの必然性にも言及されていることだ。密室内で明らかに他殺と見える殺され方をした場合、実は関係者にとっては不利にしかならない。密室で死んだ場合、事故死もしくは自殺に見せかけることが自分たちを容疑の外へ置くことになるからだ。この密室が密室殺人に切り替えざるを得なかったというところもキングは本格ミステリの何たるかを理解していると云えよう。
このように本作は実に綿密に設定されたホームズ譚なのだ。やるなぁ、キング!

「アムニー最後の事件」はチャンドラー張りのハードボイルド物、と思いきや意外な展開を見せる。
今度はキング版フィリップ・マーロウの登場かと思いきや、やはり一筋縄ではいかない。
1939年頃のヒットラーの写真が新聞の一面を飾る時代、つまり第2次大戦時代を舞台設定にしたハードボイルド小説を10年間書いてきた作者サミュエル・D・ランドリは5冊のアムニーシリーズを著し、好評を得ていたが、5冊目を書いた後に現実世界では息子のダニーがブランコから落ちて頭を打って、大量の出血があったので輸血したところ、その血液の中にエイズウイルスが入っており、間もなく息子は亡くなってしまう。妻は息子の死で鬱病になり、1年後の息子の命日に自殺、作者自身は全身を侵す帯状疱疹に悩まされてしまう。
恐らくこの物語は長編ネタとして考えていたのではないか。物語は広がりを見せることも可能だったろう。しかしキングはこの物語にあっさりと決着をつけてしまう。
突飛な設定すぎて何とももやもやの残る作品となった。もっとうまく書きようがあっただろうに。

最後の「ヘッド・ダウン」はキングの息子オーウェンが所属するリトル・リーグの野球チーム、バンゴア・ウェストが18年ぶりに州選手権に出場し、勝ち上がってその年のメイン州のリトル・リーグ・チャンピオンになるまでを綴ったノンフィクションである。
これが何とも面白い。小さな町のまともなユニフォームさえもない一少年野球チームが個性を発揮し、3人のコーチの指導と采配の許で名うての強豪チームたちと立ち向かい、勝ち上がっていく展開はなんともドラマチックだ。
そして12歳の少年たちで構成されるリトル・リーグの少年たちのなんと瑞々しいことか。メンバー1人1人に個性があり、キングはそれを実に上手く描き分けている。
普段は普通の少年たちである彼らは時に四つ葉のクローバーを見つけてチームのムードを良くしたり、また週刊誌の乳癌検査の広告に出ている女性の乳房の写真に興奮するませたガキたちでもあるが、コーチの熱心な指導を従順に聞き、一心不乱に野球に打ち込む純粋さがある。
特にコーチの1人が話すエピソードが印象的だ。普通の学校生活を送っているだけならば知り合うこともなかった子供たちが裕福な家庭の者も、貧しい地区で育った者も隣り合って笑い合うことができる。それが同じチームで同じスポーツに励んで汗水流すことでそんな奇跡が起こるのだと。
丸いボールが丸いバットに当たることの奇跡とそれを実現することを許された者たちが起こす感動とその奇跡を現実のものにしようと子供たちに指導する熱心なコーチと抜きん出た才能と選手としての心を持つ少年たちがいることで成し得た勝利の数々。彼らは勝ちたいからこそ頑張っているだけだ。その姿と過程が親たちの、いや野球を愛する者たちの心を動かすのだ。
そして野球が、いやベースボールがアメリカ人にとってかけがえのないスポーツである様がバンゴア・ウェストが勝ち上がる顛末やそのチームに関わり、熱意を持って指導するコーチたちの姿から立ち上ってくる。
州のチャンピオンになった瞬間、少年たちの親たちが涙を流しながらフェンス越しにみな手を伸ばして、子供たちに触れて祝福してやりたくて仕方ない様は胸を打つ。
以前はベースボールがアメリカの国技だったが、今はアメフトとなっている。しかし私は本作を読んでベースボールはアメリカ人にとってソウル・スポーツ、即ち魂が求めてやまないスポーツではないかと感じた。

それは表題作「ブルックリンの八月」を読んでさらに強くなる。この作品はキングによる詩であり、内容は野球賛歌だ。56年6月のエベッツ・フィールドの1シーンを描いた詩である。

そして本書には最後にボーナストラックとともいうべき短編がキング自身による解説の後に収録されている。最後の短編「乞食とダイヤモンド」は童話だ。
さてこの話の教訓とは何なのだろうか。


冒頭でも述べたように本書は短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の最終巻である。
モダンホラーの帝王と評されるキングだが、本書はそれまででもホラー以外の様々なジャンルの短編が収録されていたが、最終巻の本書でもそれは変わらない。

クライムノヴェルあり、ホームズ物のパスティーシュ(!)あり、ハードボイルドあり、そしてノンフィクションあり、そして詩に童話とこれまでで一番ヴァラエティに富んだ作品集となった。
何しろキングの十八番であるホラーが1編もないのだ。
そしてそれらはまさにその道の作家が憑依したかのような出来栄えである。いやはやキングの才能の豊かさに驚かされるばかりだ。

特に本書では偉大なる先達たちのオマージュの作品が複数あるのが特徴的だ。

「第五の男」はレナードを彷彿させるクライムノヴェルだし、世界一有名な探偵ホームズに「アムニー最後の事件」では作中の人物がレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウシリーズのキャラクターから引用していると述べている。

さて本書のベストは「ヘッド・ダウン」を挙げたい。ホラーでもなく、フィクションでもない、作者自らがエッセイと述べているノンフィクション作品は自分の息子が所属していたリトル・リーグ・チーム、バンゴア・ウェストが勝ち上って1989年度のメイン州リトル・リーグ・チャンピオンになるまでの足取りを描いた作品だ。

時にスポーツはフィクションを超える感動をもたらすが、本作もそうで、まともなユニフォームさえもない地方の一少年野球チームがコーチ3人の指導の許、勝ち上がっていく様子が実に楽しい。

そしてこんな劇的な出来事を目の当たりにしたキングはこのことを書かずにはいられなかったのだろう。記憶に留めるだけではなく、記録に留め、そして親バカと云われようが、作家と云う特権を活かして読者に触れ回りたかったに違いない。
まさに親バカ少年野球日誌。
しかしそれがまた実に面白いのだから憎めない。

次点として「ワトスン博士の事件」を挙げる。キングによるホームズ物のパスティーシュである―おまけに密室殺人事件を扱った本格ミステリ!―という珍しさもあるが、実によく出来た内容で驚かされた。
ホームズ物のパスティーシュでは正典で書かれなかった理由もまた1つの趣向であるが、本作はそれもまたきちんと設定されており―まあ、ありきたりではあるが―、内容もなかなかに読ませる。キングの文体は情報量が多いのが特徴だが、それが逆に改行の少ない古典ミステリにマッチして違和感を覚えさせなかった

なぜキングが売れないとされている短編集を4分冊にて刊行されるほどの分量までに著すのかが解った気がする。
それはキングという作家のネームバリューで求められる作品以外の物語を彼が書きたいからだ。長編にするには短い話が彼の中にはまだまだたくさん潜んでおり、それを出してしまいたいからだ。

今回これほどまでにヴァラエティに富んだ短編群を読んでキングのどうにも止まらない創作意欲の熱をますます感じてしまった。そしてホラーやファンタジーだけのキングよりも私は短編群で見せた様々なジャンルの彼の作品が好きである。

やっぱりキングは短編もいいよなぁと思わされた。この後も短編集は分冊形式で訳出されているが、願わくばこの流れは決して止めないでいただきたい。

▼以下、ネタバレ感想
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ブルックリンの八月 (文春文庫)
No.677: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ある意味、男が憧れる癒やしのシチュエーション

何とも不思議な小説である。
毎回行くたびに場所が変わる店名のない料亭。そこは女将だけが応対し、1人が切り盛りしているように思える。そしてそこで毎回異なる女性と主人公が食事をする。
たったこれだけのシチュエーションの話が繰り返される。水戸黄門の方がもっとヴァリエーションあると思ってしまうほど毎回同じ展開なのだ。

しかしこれがなぜか面白い。そして読んでいる私もこんな料亭があれば行ってみたいと思わされるのである。

この名もなき料亭には次のルールがある。

決して誰かを連れて行ってはいけない。1人で訪れなければならない。

一緒に食事をする女性の名前や個人情報を尋ねてはいけない。但し向こうから話すのは問題ない。

一緒に食事する女性と別の機会に会う約束をしてはいけないし、連絡先を交換してはいけない。

そして不思議なことに大学の教官である主人公の小山が突然店に行きたいと云っても必ず空いている。
そして行くたびに場所は異なり、どこかの家だったり、ビルの地下にあるかつて料亭だった店舗だったり、小規模な旅館だったり、街中によくある1階がレストランになっているアパートを改装した1室だったり、郊外の奥まった森の中にある亡くなった芸術家の家だったり、廃校になった郊外の小学校でも営業したりする。そして鉄塔の足元にある大きな屋敷だったりもする。

またそこで出される料理は全て女将にお任せである。主に和食だが、洋食の時もある。味はいいのだが、それがよくある美食小説で繰り広げられるような読んでいるこちらが思わず食べたくなるような描写は特にない。

そしてその奇妙な料亭を切り盛りする女将も実に整った顔立ちをしているがあまり特徴的ではなく、すぐに忘れてしまい、街中であってもそのまま通り過ぎてしまうような印象だ。

そんな料亭での一番のご馳走であり、読みどころであるのは小山が毎回一緒に食事をする女性たちなのだ。

それは大学生のような普段着の女性だったり、眼鏡をかけた知的な若い女性だったり、30を越えた女性だったり、地味な女性だったり、異国風の女性だったりと様々だ。そしてその誰もが接客を仕事にしているような女性ではないように見えるのが共通している。

最初のうち、小山は現れる女性たちの食事をする美しい所作に見とれてしまう。いやそれもまたご馳走の一部として味わうのだ。

私が本書の中で一番印象に残ったのは「ほんの少し変わった子あります」の「ほんの少し変わった子」である黒いセータに黒いジーンズを履いた短めの髪型の長身のボーイッシュな女性だ。
20代前半と思われる彼女は本書で唯一小山と会話をしない女性だった。しかし彼女の食事をする所作はそれまでに出会った女性の中で最も美しく、優雅で洗練された動作で食事をする。言葉は交わさずともその仕草が小山にとってはご馳走であり、ただ淡々に食事をする静けさと相まって奇跡とも云える安らぎの空間を提供するのだ。その沈黙と究極までに美しい所作で能弁に会話をしているかのような濃密な空間がそこにある。そして小山は女性と一緒に食事をすることに意味があると見出す。

そしてまた最後が素晴らしい。

私は思わずため息が出た。なんて素晴らしいのかと。
この究極なまでに研ぎ澄まされた無駄を一切排除した能弁な沈黙と空間の濃密性に羨ましさを感じられずにはいられなかった。

ただそこにいるだけ。
ただ一緒に食事をしているだけ。
しかし相手が洗練され、無駄がなく優雅であるならばもうそれだけで胸がいっぱいになり、心は、魂は充足されるのである。
幻のようなあのひと時。
しかしそれは彼にとって永遠なのだ。こんな思いを久々に抱かせてくれたこの女性のエピソードに乾杯。

またこの通り一辺倒の物語で描かれるのは女将の店と女性だけではない。上に書いたようにほとんど会話がないのはまれでなにがしかの話が出てくる。

そしてそれらを聞いて小山は自分の考えに耽る。
いや実は女将の店に行くきっかけはいつも自分の生活や仕事に対する思索に耽り、ふと思いついたように店に行きたくなるのだ。
それは小山が一人考えることでその孤独を紛らわしたいからだ。
つまり孤独を愛しながらも実は誰かを必要としているのだ。
しかし作中で小山はあの店は「孤独増幅器」だと述べる。孤独を紛らわすために女性に逢いに行くがその女性はその時限りなのだ。そしてふと気づけば一人の自分がいる。つまり誰かと過ごす時間が濃密なほど孤独は助長されることに小山は気付く。

そして再びその孤独を紛らわすために彼は女将の店に行くのだ。

その都度彼は何かを得て、また何かを失うような思いを抱く。
私が印象に残っているのは過去を振り返った時に何を成しえたかと考えるとき、思い付くのはその代償として失ったものばかりだと述べる件だ。

50も過ぎた私もまた同じ思いを抱く。小山は50代にもうすぐ届きそうな年だと述べているからまさに少し前の私と同じくらいの年齢だろう。

私は折に触れ自分のこれまでの人生のそれぞれの場面が唐突に頭に浮かぶことがよくある。
それは実は自分の失敗したエピソードだったり、なぜあの時もっとこうすればよかったと後悔するシーンばかりだ。そんな時私は何ともやるせない気持ちに苛まれ身悶えしてしまう。あの日あの時それは今の自分ではない自分になれるチャンスだったのではないかと。

本書は森氏の思弁小説だろう。
小山と磯部と云う2人の大学の教官の口を通じてその時々の考えが述べられる。
そしてその考えに呼応するように女将の店で女性に遭い、2人で過ごした時間や聞いた話を思い出し、思索に耽るのだ。時にはあまりに色んな話を聞き過ぎてあれは幻だったのかと思ったりもする。多すぎる話は逆に印象に残らないということだろう。

実は私は女性と食事するのが大好きなのである。かつて若かりし頃は合コンをいくつも経験し、個人的に食事にも行ったりもした。
実は男同士で食事に行くよりも女性と食事する方が実りがあると思っている。

従ってこの小説のシチュエーションが実に面白かったのはまさに私の趣向にマッチしていたからだ。
様々な女性の様々な性格、様々な生き様や様々な事情。
それらを共有する時間のなんと愉しいことか。そして時に心揺さぶられることのなんと愉しいことか。

しかし最後に本書では女性の得体の知れなさを感じさせる。

本書に登場する女性の共通するキーワードは題名にもなっている「少し変わった子」であることだ。
男は実はこの少し変わった子に弱い。

女性と食事をすることの愉しさと怖さを知らされる小説だ。
できれば怖さは知らぬままにいたい。
そう、夢は夢のままが一番いい。


▼以下、ネタバレ感想
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少し変わった子あります (文春文庫)
森博嗣少し変わった子あります についてのレビュー
No.676:
(7pt)

通勤時間に読むにしては陰惨すぎる

芦辺拓氏の鮎川哲也賞受賞作『殺人喜劇の十三人』に登場した森江春策はその後シリーズキャラクターとなり、今なお書き継がれているが、本書はその2作目にあたる。
1作目では学生だった彼はその後新聞記者となったが脱サラし、司法試験を受けて弁護士資格を取り、刑事事件専門の弁護士となったが、有罪率99.9%の日本の裁判に勝つために自ら真犯人を突き止める探偵業も副業としているという設定だ。

この森江春策は芦辺作品のいわばメインキャラクターであり、現在では数々のシリーズ作品が書かれている。それは即ち数々の事件を解決してきた名探偵であるが、他の名探偵とは異なり、周囲からは頼りなく、また要領悪い弁護士のように見られ、元同僚の新聞記者来崎四郎の評によれば「冴えない学生だった森江春策はその後冴えない記者になり、そして今は冴えない弁護士となっている」とされている。私が抱いていた名探偵像からは乖離したキャラクターだ。

本書は1995年、つまり平成7年に刊行された作品だが、この題名『歴史街道殺人事件』とはなんとも古めかしく昭和のノベルス全盛期に刊行された推理小説群を彷彿させる。
本書も最初はトクマ・ノベルスの版型で刊行されたことから、恐らくはかつての島田荘司氏がそうであったように、当時新本格ブームで続々とデビューする新米作家たちに少しでも固定読者を付けようと敢えて俗っぽい『〇〇殺人事件』の名をつけ、そしてトラベルミステリ風に味付けしたものを版元が要求したように思われる。そしてあとがきではまさにそのことが書かれていた。このベタな題名が生んだ功罪についても。

本書は宝塚、天王山、奈良、伊勢でバラバラに切断された死体が発見されるショッキングな内容でこの殺人ルートを解明するミステリである。

それらを結ぶのが題名にもなっている歴史街道、本書では伊勢―飛鳥・斑鳩―奈良―京都―大阪―宝塚―神戸を結ぶルートでそれぞれ≪古代史ゾーン≫、≪奈良時代ゾーン≫、≪平安・宝町ゾーン≫、≪戦国・江戸時代ゾーン≫、≪近代ゾーン≫と区分けされており、このルートを辿ることで二千年の歴史を体感できるとされている。
この歴史街道は実際に歴史街道推進協議会によってPRされており、現在もホームページで情報が更新されている。関西に住んでいる身としては実に興味深い内容で個人的に巡ってみたいと思った次第である。

しかしこの歴史情緒溢れるルートを舞台に本書では死体がばら撒かれ、そして加えて2つの殺人事件が起こる。そしてその中心には森江の高校時代の友人、味原恭二がいて彼が最有力容疑者となる。

この味原恭二という男は本書では決して好感の持てる人物として書かれていない。主人公の森江をして「自分の興味あるものに他人を巻き込んで散々利用した後にすぐに他の物に興味が移って顧みもしない」男と評されている。森江自身も高校時代に彼に誘われて演劇グループに所属し、最後の公演に向けて準備に明け暮れていた矢先に既に演劇に興味を失った味原は受験生へと転身し、逆に森江達にまだそんなことをやっているのかと歯牙にもかけない仕打ちを受けていた。

それは大人になってからも続き、劇団≪ストゥーパ・コメッツ≫に所属するといつの間にか牛耳るようになり、そして有名した後は興味が尽きたのかデザイン企画会社に転身し、現在に至っている。そしてその資金は彼の恋人でバラバラ殺人事件の被害者である川越理奈の父親から出資してもらっているのだ。まさに他人の土俵で相撲を取っては後を濁してばかりいる男だ。

従って彼の周りにいた人物も次第に去っていき、その肉親や知り合いは味原に対して嫌悪もしくは憎悪に似た感情を抱いている。
共同事業者の稲荷克利と新規コンピューターソフトを一緒に作ろうと巻き込んだ新進気鋭のゲームクリエイター白崎潤が森江の捜査の過程で殺人事件の犠牲者となっていく。

本書にはいくつか物理的なトリックが登場するが令和の今では懐かしさを感じさせる。

しかしこの犯行の内容が意外にも凄惨だったことに驚いた。

いやはや読んでててこの件は何とも背筋が寒くなる思いがした。上に書いたように本書はサラリーマンが通勤中に読むようなノベルスで刊行された推理小説だが、この犯行内容は通勤中に読むにはショッキングすぎるではないか。

しかし事件の真相から立ち上るのは味原恭二、白崎潤、稲荷克利、本庄静夫という4人の男の中心にこの事件の最初の被害者川越理奈という女性がいたことだ。そして彼女は非の打ちどころのない、知り合えば魅了されてしまうほどの魅力を備えた女性だったということだ。

歴史街道を軸に1人の女性に魅せられた男たちと1人の男性の才能に魅せられた1人の女性の物語であったのだ。

しかしその周囲の男性を翻弄する女性の心を射止め、なおかつ1人の女性が心酔する才能を持つ男を引き込んだのが全く好感の持てない味原と云う男なのは人間関係の綾というか人の心の不可解さを感じさせる。そしてそういう人が実際に自分たちの周りにいるのだからまいってしまう。

ところで本書では事件解決の直前にあの阪神淡路大震災が発生する。しかしこの震災が事件に何か影響を及ぼすわけでもなく、単純にその時期にこの事件が起きたということだけのことで描写されるのだ。正直この件は必要だったのかと首を傾げざるを得ない。

本書には他にも死体をより集めて作られた絶世の美女を贈られた貴族、紀長谷雄のエピソードなども盛り込まれ、歴史街道で起きた殺人事件を彩る。その他にも様々な伏線が散りばめられ、それらが確実に事件の真相に結びつき、実に細やかな作りになっている。

多分刊行直後に読めば当時まだ20代だった私には単なる通勤時の時間つぶしに読むキヨスクミステリとして片付けていたであろうが年齢を重ね、史跡や歴史遺産に興味を抱いた今ならば歴史街道と云う魅力的なコンテンツがあることを知っただけでも本書を読んだ価値を感じてしまう。
日本の二千年の歴史を感じるこの街道にいつか必ず足を運んでみることにしよう。
ただその時は本書の陰惨な事件を忘れた状態で、だが。

▼以下、ネタバレ感想
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歴史街道殺人事件 (徳間文庫)
芦辺拓歴史街道殺人事件 についてのレビュー
No.675: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

色んなジャンルの詰合わせ

『ドランのキャデラック』、『いかしたバンドのいる街で』に続く短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の3冊目の訳書である。

「かわいい子馬」は祖父から孫への最後の訓示のような話だ。
題名の「かわいい子馬」はその祖父が時間を具現化したイメージであり、アドバイスを受けた孫同様に読者である私も正直云って腑に落ちるものではない。ただそこに書かれている時間に関するこの老人の話は実に興味深い。
かくれんぼで隠れそびれたのは鬼役の子が1分数えるのが早かったからだと云って老人は孫を慰める。それを証明するために自分の懐中時計を与え、かくれんぼ鬼と同じようなペースで60を数えたときに何秒経っているかを確認させて、実際には35秒しか経っていなかったことで決して孫がとろくさくて隠れそびれたわけではないと教える。
そして人間の生涯には3種類の時間があると説く。
子供の頃は時間は長く感じて、例えば新学期が始まった時は夏休みなんて永久に来ないんじゃないかと思い、夏休みが来たら新学期なんてはるか先のことだと思うだろうと。子供時代の時間は、一日は長くてワクワクに満ちている。
そして我々が現実の時間の長さを感じるのが14歳くらいから60歳くらいだと老人は云う。時間の感覚が身に付き、長さを正確に知って行動できる。そしてその現実の時間こそが「かわいい子馬」で仲良く付き合っていけと諭す。
そして年老いてくると時間は早く過ぎていく。朝かと思ったらすぐに昼になり、そして夜になる。それを意識しだすのは40歳くらいで人々は夏になったかと思えばお店ではハロウィンの準備をしだし、そしてすぐにクリスマスの準備をしだすと。
確かにこれはその通りだ。「かわいい子馬」という概念は別にしてもこの時間に対する感じ方はみな同様に抱いていた気持ちではないだろうか。
そして老人はその子に時間の概念を教えたかっただけでなく、今日みたいに友達から虐められるようなことが起きても自分がそばにいると勇気づけたかったのだろう。祖父祖母にとって孫とは何とも可愛くて愛おしい存在なのだから。

次の「電話はどこから……?」は珍しく脚本形式で書かれた作品である。
聞き覚えのある女性の泣き声が受話器から聞こえ、パニックになるが、その声の主が解らない。これはそんな物語だ。

「十時の人々」は奇妙な侵略物である。
一般的には私たちと同じ人間にしか見えないが、ある特定の条件下の人間だけがその蝙蝠人なる異形の怪物の真の姿を見ることができるという侵略者たちの脅威を描いた作品だが、キングはこの特定の条件を何とも細やかな設定にしている。そんな人々を主人公が〈十時の人々〉と呼んでおり、それが題名の由来である。

次の「クラウチ・エンド」もまた「十時の人々」同様、我々の世界と異形の物の住まう世界は隣り合わせだと警告している物語だ。
物語の舞台はキングにしては珍しくイギリスはロンドンの片田舎クラウチ・エンド。そこはしかし異次元との境が最も薄い地域であった。そしてたびたびそこでは異形の物たちが蔓延っては生贄を攫っていく。そこに住んでいる友人宅を訪れた旅行中のアメリカ人夫婦はその異界へと紛れ込んでしまう。そしてそんな体験をした女性は失踪したままの夫を残して帰国し、自殺未遂を図り、療養所で過ごした後、退院してもなおある奇行をしないと落ち着かない日々を送る。

最後の表題作はキングによく登場する家庭を制圧する父親に怯える子供たちが主人公だ。
これはキングらしからぬ痛快な物語だ。不思議な金属が現れ、侵食する話と云えばあの陰鬱な駄作(敢えて云おう)『トミー・ノッカーズ』を想起させるが、本作はあの作品のように迷走せず、実にシンプルに展開する。
自分たちの家の中に金属があり、それが日々広がっていく。訳が分からないまま、カウントダウンを続ける計器が見つかり、“その時”が来るのが判る。
一方で反りの合わない継父との生活に日々心身をすり減らしている母親と子供たちがいる。そんな現状打破のためにこのカウントダウンを利用する。
結末は実に痛快!
敢えて色々な説明を省いて“その時”までを描いたキングの技巧を素直を褒めたい。


キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”も本書で3冊目。その内容はさらにヴァラエティに富むようになった。

初頭を飾る「かわいい子馬」は純文学とまでは云わないが、普通小説である。

祖父はかくれんぼで遊んでいた孫が一人隠れそびれたのを参加していた友達に嘲笑われていたのを見て、彼に自分の懐中時計を託し、そして時間に関する話をする。その内容については既に上の感想で述べているので、ここでは別の話を書こう。

祖父から孫への最後の時間に関する話というテーマながら、作中で祖父が自嘲気味にすぐに横道にそれてしまいがちだと云うようにキング作品らしく、物語は色んなエピソードが含まれている。それは少年の無垢なる心では大人のやることが全て新鮮に見えたことやどこにでもあるアメリカの一般家庭の風景が断片的に挿入されており、何とも瑞々しい。

少年は祖父が親指の爪に擦り付けてマッチに点火するのをまるで手品を見ているかのように驚いて眺め、さらにその火が強風にも関わらず消えないのに、逆に振るだけでマッチが消えることを魔法だと感じる。

6歳年上の姉が男の人とは一生付き合わないと云った2カ月前に彼は姉がバスルームで1人全裸になって鏡で自分の姿を見ていて泣いていたことを彼は知っている。

また姉が悪戯で少年に“ちんちんつねり”をするのを彼は嫌っているが時々姉が愛犬にするように優しく撫でるときは寧ろ気持ちがいいことを黙っている。

父親が出張旅行に行っているとき、母親は病気の友達の見舞いに行くことがあって、少年はどうして父親の出張の時にいつも母さんの友達の病気が重くなるのか不思議がる。

そんなごく普通のアメリカ家庭でありながら、少年が祖母祖父の許で暮らしていることや断片的に語られる両親や姉のエピソードで、はっきりとは書いていないがその家族に何かあったであろうことを悟らせる。

次の「電話はどこから……?」はジャンル的にはホラーだが、なんと脚本形式で書かれている。

しかしなぜこの話を脚本形式で書いたのか?
それはワンアイデアの物語を依頼された枚数まで膨らますためにキングが編み出した一種の荒技だったのか。

「十時の人々」はキングの好きなモンスター小説かと思ったが、侵略物と考えるとSF小説に分類されるか。
人々の知らないうちに通称“蝙蝠人”と呼ばれる怪物たちが人間に化けて社会的地位の高い人間に成りすましていた。通常彼らの姿は人間としか見えないが、ある特定の条件を備えた人物だけが彼らの正体を見ることが出来る。
この設定はある協会に依頼されて書いたような設定が妙なおかしみを感じさせる。

しかしこの蝙蝠人の精緻かつ醜悪な描写はまさにキングの独壇場だ。蝙蝠人というネーミングながら、決して蝙蝠の頭をした人間として描かれているわけではなく、大きな目と牙を備え、頭部には肉塊が蠢いて膨張しては膿を噴き出し、1本の黒くて太い血管が脈打っていると想像するだに気持ちの悪い風貌だ。そして彼らの正体が見えない一般人は普通の人々に見えるので、そのグロテスクな肉塊に頬にキスを交わすという吐き気を催すような描写も出てくる。

「クラウチ・エンド」はキングにしては珍しくアメリカではなくロンドンの片田舎を舞台にした物語。
クラウチ・エンドとはその舞台となる町の名前でセイラムズ・ロットやキャッスルロック、デリーと云ったキングお得意の不穏な雰囲気を孕んだ街の話だが、驚くことにこのクラウチ・エンドは実在する街のようだ。キングの友人ピーター・ストラウヴが住んでいた町で一度訪れたことがあるようだ。

しかし「十時の人々」と「クラウチ・エンド」は表裏一体のような話だ。
前者は希望を残した終わり方だが、後者は諦観が込められている。

最後の表題作はキングの持ち味である高圧的な父親の支配という恐怖を描きながらも、最後はSF的結末に至る作品だが、これはとにかく主人公となる4人兄妹たちがいい。愛情の欠片も感じさせない継父を嫌悪しつつも恐れながら、日々神経を衰弱させる母親を気遣う子供たち。そんな中、自分たちの家の壁の中に金属が入っているのを見つけ、それが次第に広がっているのに気付く。しかもカウントダウンしている計器を発見するに至り、どうやら何かが起こることを察し、彼らはこの怪事を利用して継父を一掃しようと企むのだ。

この4人兄妹はキングの名作「スタンド・バイ・ミー」の少年たちを彷彿させる。

普通小説、ホラー、モンスター小説、侵略物のSF小説、ジュヴナイル。しかし各編は左に書いたジャンルを見事にミックスさせて一括りにできない作品に仕上げている。
いやだからといって全くストーリーは複雑ではない。寧ろシンプルだ。しかしシンプルなストーリーに複数のジャンルを放り込んでいるのだ。

さて本書におけるベストは表題作の「メイプル・ストリートの家」だ。なかなか懐けない継父との確執が募る4人の兄妹たちの鬱屈を、何とも豪快な結末に溜飲が下がった。

あとは「十時の人々」の発想の面白さを挙げたい。

同じ習慣を持つ人々がいつも同じ場所で顔合わせ、顔馴染みであるがお互い挨拶も交わさず、名前も知らない人たち。そんな人たちはみないるのではないか。
本書では休憩時間の10時と3時に一服をしに出てくる人たちだが、例えば同じ通勤電車の同じ車両で乗り合わせる人たちやいつも行く馴染みの店で出くわす人々などなど。
この作品が面白いのはそんな人たちがみな共通して特殊な能力を持っていたという設定だ。この発想が実に面白かった。

また「電話はどこから……?」も過去の過ちを自分が過去の自分に教えてやれたらよかったのにと、これまた誰もが抱く心理に基づいた作品だ。しかしそうは上手く行かないのがキングらしい。

とにかくキングはどんなジャンルの話も書けるのだという思いを強くした。この短編集では普通小説も収録されている。これは逆に他の作品も読める短編だからこそ著したのだろう。さすがにキングのビッグネームでもこの手の普通小説は長編では盛り上がりに欠けて売れ行きも芳しくならないだろう。

さて“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”もあと1冊。次はどんな悪夢が、どんな風景を見せてくれるのだろうか。

▼以下、ネタバレ感想
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メイプル・ストリートの家 (文春文庫 キ 2-29)