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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数142件
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本作の趣向は、狂人の仕業としか思えない奇妙な状況をいかに論理的な説明をつけるかということにあると思う。
しかしそれにしても作者はとんでもない冒険に出たものである。なんせ死体の衣類はもとより、部屋の家具・調度類全ても逆さまにされているというのだから。これにどんな合理的説明が付くのか。本作の焦点は正にそこにあると思う。 こんな手間暇をかけた殺人事件は今までに私も読んだ事がなく、かなり頭を絞った。色んな手掛かり、特に死体の上着の下を潜らせて足先から首まで通してある槍の意味や消えたネクタイの謎、などなど。 私の推理と真相についてはネタバレに語ることとして、ただ本作をこのロジックとトリックだけに注目すると陳腐だと云わざるを得ないが、クイーンの物語の味付けについても語っておこう。 本作は今までの国名シリーズにもましてモチーフとなった国に関するガジェットがふんだんに盛り込まれている。食べられたチャイナ橙の謎から、中国文化に詳しい女性による中国人の奇妙な風習についてのあれこれ、中国の稀少な地方切手の話などなど。特に中国の文化があべこべの文化であるというのはなかなか面白い着眼点だ。 曰く、中国人は人と逢ったときに相手と握手せず、自分と握手する、暑い日には冷たい物を飲まず、熱いお茶を飲む、他所の家でご馳走になるときはわざと大きな音を立てて、げっぷをする、入り口に低い塀―衝立のことだろう―を立てて、悪霊の侵入を防ぐ、云々。 中には首を傾げるような物もあったが、なるほどと思った。 そして本作の事件の底流にあるのは切手収集の世界である。『ドルリイ・レーン最後の事件』では稀覯本が事件の主眼であったが、本作では稀少な切手、それに纏わる収集家の話が散りばめられてあり、またそれが事件に大いに関与している。 特に最後に題名の真の意味が解るのにもこの趣向が大いに関わっており、作者のミスディレクションにニヤリとしてしまった。 と、こんな風に一概に明かされる事件の真相のみで評価するには勿体無い作品ではあるのだが、この謎に対して読者への挑戦状を挿入するクイーンも無茶な事をやるなぁと思わずにはいられない。特に本作では冒頭の謎が格段に奇妙であったため、期待が高くなり、それだけに落差が大きかった。 クイーンの信望者である作家法月綸太郎のデビュー作『密閉教室』に、担任の教師が本作を非難するシーンがある。確か、有名な作品ということで読んでみたが、一体あれは何なんだ、バカバカしいといった感じの非難だった。 読書中、幾度となくそのシーンが想い出されたが、それがそのまま私の言葉になってしまった。 更に本作はアメリカではクイーンの最高傑作と出版当時評されたそうである。なんともアメリカという国の懐の深さを感じるとでもいうか、こういうトンデモない話をユーモアとして解する国民性ゆえの賞賛といおうか、いやはやなんとも理解しがたい話だ。 しかし、クイーンは『ドルリイ・レーン最後の事件』以降の質の低下が気になる。『アメリカ銃の謎』からこの3作は手放しで賞賛できない物ばかりだ。 しかし第2期にまだ名作が残っているとの話。クイーンはまだ終わっていないはずだ。これからもまだ見ぬ傑作との出逢いを信じて、読んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作は『神の子の密室』がイエス・キリストの復活の真相を探るミステリであったように、ロシアの神秘思想家ゲオルギイ・グルジェフの正体と彼と親交の深かった哲学者ピョートル・ウスペンスキーの関係を探る歴史ミステリである。
双方の作品に共通するのは現代から文献や資料を当って調査・推理するのではなく、その時代を舞台に当時生きていた人物、しかも実在の人物を主人公にして謎を探る趣向になっていることだ。 ただ本作は『神の子の密室』に比べるとかなりエンタテインメント性を排しており、かなり困難を強いる読書になった。 本作で取り上げられているウスペンスキーとグルジェフの2人はイエス・キリストよりも馴染みの薄い人物である事がそれに拍車を駆けていると云えよう。更にはそれを読者に理解させるために、ウスペンスキーがその著書『ターシャム・オルガスム』で提唱した高次元論から、グルジェフの思想である「三の法則」、「七の法則」、それを図象的に表した「エニアグラム」という考え方などなどの哲学の分野の専門知識が作中に横溢しており、小説というよりも小論文に近いものがあるがために、読者の側もそれ相応の知識と理解力を求められている事になっている。 特に16章などは単に時系列的に物事を列挙しただけで小説の体さえ成していない。 上記に述べた本書の内容から鑑みると、小森氏のミステリ創作姿勢はどうも他のミステリ作家と比べるといささか異なっているように感じられる。 概ねのミステリ作家は、あくまで根幹がミステリであることを前提にして、作品の肉付けとなる題材―それはしばしば作者が個人的に興味のある対象である事もあるが―を取材し、ミステリを創作するに対し、どうも小森氏は自身が教授でもあるせいか、自らの研究題材を調べていくうちにこれはミステリとしても創作できるのではないかという、自身の研究からミステリ作品を派生させているような節が感じられる。 したがって作品の主体は自身の研究発表の場のようで、ミステリは付属的なものとして捉えているようだ。 それを裏付けるように本作と趣向が似ているとして例を挙げた『神の子の密室』もそうであったし、本作においてミステリ的趣向である殺人事件はようやく物語も終盤になって起こる。 特に本作における事件は『神の子の密室』と比してもさらに添え物の感が際立っている。 山中の小屋で起きる発砲事に巻き込まれたかのようなある人物の死。しかしちょうどその時を目撃していた主人公オルロフは彼が撃たれたときには窓ガラスが割れていなかったことを気付いていたが、今ではその窓ガラスが割れ、恰も流れ弾に当って死んだかのように偽装されている。そこに居合わせた9人の人物はそれぞれ別の場所にいたという証言があるものの確たるアリバイがない。 この謎をグルジェフのエニアグラムで解き明かすという趣向でこの事件が本作に密接に関わり合いがあるかのように見せているが、本当にそれが元で真相を解明されたなら、かなり乱暴な謎解きだと思った。 が、作者もそれは感じていたようで、一応の論理的解決は成される。しかしそれは推理クイズの問題程度のレベルを脱しえず、本書のメインには全く成りえていない。 とどのつまり、本作におけるミステリとしての主眼は上述のように当時親交の深かった二大思想家ウスペンスキーとグルジェフがなぜ途中で袂を別ったかという謎を小森氏独自の調査で解き明かすところにある。 しかしなんとも観念的な話である。興味のない者については全くどうでもいいような話である。 さらに驚くのは本作は文藝春秋の「本格ミステリーマスターズ」叢書の1冊として刊行されたことである。これほどまでにエンタテインメント性を排した作品をこのシリーズで刊行した同社の担当者は商業性やシリーズの特性を全く無視して刊行したのではないかと勘ぐらざるを得ない。 また小森氏に関して云えば、自らの知的探求の愉悦に浸るがために作品を重ねるごとに読者を突き放す方向に突き進んでいるようにしか見えないのが気にかかる事だ。 とはいえ、それがこの作者の目指す道であり、ワン・アンド・オンリーとしてその道を更に深く追求するのならばあえて何も云うまい。ただ私は彼の作品から手を引くだけだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は前書きにも書かれているように小森氏が調査に携わっている1945年にエジプトのナグ・ハマディで見つかった古文書群のうち、イエス・キリストについて書かれた雑記を基に物語形式にされたものだ。小森氏によれば、他の記録に関しては公表されているのに、このイエスに関する記録については50年経った今(1997年当時)も公開される模様がないので彼はミステリという体裁を取って公表しようとしたのが本書に当るとのことだ。
したがって本作は厳密な意味ではミステリではないだろう。 前の『ネヌウェンラーの密室』でも書いたが“ミステリ”というよりは“ミステリー”に近い。すなわちキリスト復活という非常に有名な奇跡の謎について書かれたものだ。 本作で語り手を務めるエジプトの通商隊の通訳兼雑用係の私はそのまま件の古文書の記録者であるらしく、この物語で書かれた彼がイエスについて様々な人々から聴取した内容は事実であるらしい。 その内容は商売の理解者、東方思想の伝達者、医者、弱者の味方、神に愛される者という賛美の意見から、手品師、臆病者、夢見人、詐欺師と卑下する意見がほぼ同数であり、それぞれの属する立場による己の規範での評価で見方が変わる人物像であったようだ。 そして物語の主眼は磔刑によって死刑にイエスがどのように復活したのかに移っていく。これが本書の謎のメインなのだが、これがどうも魅力的とは映らなかった。 キリストの復活とは西暦の始まり頃の話である。この悠久の時を超えて明かされる謎にしてはいささかチープな印象を受けるのだ。 確かに書かれている内容は当時の各宗教の習慣や常識が詳細に記され、それに基づいた考察がなされ、理論的であり興味深いのだが、それが逆に仇にもなっているように感じてならない。 そして物語はその後、移送されたイエスが閉じ込められた安置所から如何にして消え失せたのかという謎へ移る。これこそ本書の題名となっている密室の謎なのだが、これも解ってしまえばなんともチープ。 さて小森氏が冒頭で述べたいつまでも公表されないイエスの復活についての記述だが、私はこれは関係者同様、公表は控えた方がいいと思う。謎は謎である方が魅力的だというが、まさしくこのイエスの復活の謎についてはそれが当てはまる。もしこれが事実だとして世界に公表されれば、世界中のキリスト教徒の猛反発を受けるのではないか。 明るいところで観るお化け屋敷ほど陳腐なものはない。まさしくこの謎はそっとすべき謎だと私は云いたい。 学者は歴史の謎を明らかにするのが仕事なのは解るが、その逆もまた学者の仕事なのではないか。小森氏が崇高なる使命感で小説という形で発表したこの謎は、その意気込みとは全く逆に、蛇足を連ねただけのように感じてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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さて乱歩賞史上最年少である16歳で最終選考に残ったという本作。結末まで読んだ今となっては、よく当時の選考員たちが最終選考まで残したなぁと、その暴挙にも似た英断に感嘆というよりも戸惑いを感じずにはいられない。
特に当時最終審査員だった多岐川恭氏が本作をして、「その発想の若さに羨望を感じる」めいた感想を述べていたとの記事を読み、その度量というか、懐の広さにただ感心する次第だ。 なぜならば、これは一種の壁本だからだ。最後の結末を読むにあたり、この真相の是非を問うて、是と答える人はそうはいないだろう。 私の見解では本作を乱歩賞として刊行した場合、絶賛をするのは一部の物好き―普通のミステリに飽いた人々―であり、大方の読者ならば非難を浴びせ、もし当時、現在のようにインターネットが普及していれば例えば2ちゃんなどで喧々諤々とした論議が繰り広げられていただろう。それは乱歩賞が普段ミステリを読まない方々も手に取るほどのネームヴァリューを備えた賞の性質上、当然起こるべくして起こる現象だろう。 本作の内容に触れると、本作の特異な点は主人公の二人が少女漫画の世界に入り込んで、そのストーリーの登場人物となり、そこで起きる殺人事件に巻き込まれるというメタミステリである。 しかし本作で語られる少女漫画の内容というのが中世ヨーロッパを思わせる古城での宮廷生活、王子を巡る2人の花嫁の戦い、さらにもう1人の花嫁の因縁めいた血筋によって起こる騒動が延々と語られ、それはミステリを読んでいるというよりも、『ベルサイユのバラ』のような漫画、厳密に云えば作中で漫画とは云え、表現は文字のみでされているから、『ベルサイユのバラ』のノヴェライズ版を読んでいるような錯覚を覚える。実際本作でメインとなる密室殺人が起きるのは400ページ中260ページ辺りと実にストーリーの5/8を費やした辺りである。ミステリを期待する者にしては冗漫さを感じるだろう。 私にしてみれば、実はこの辺は苦痛でもなく、例えるならば、カーの歴史ミステリに見られるような舞台装飾の面白さを感じた。もしこれを16歳の人物が書いたままならば、驚くほど成熟した筆致・文体なのだが、恐らくこれはその後齢を経た作者の手による改稿版であろうから、そういう外側の部分にはあまり目が行かなかった。 で、本作の目玉、ミステリ界史上の問題作と云われるほどのこの真相、私は少女漫画の中の世界という特異な設定を前提にした驚愕の真相という前情報を得ていた事もあり、実は看破してしまった。というよりも「これだ!」という天啓にも似た閃きといったものではなく、「まさか、こういう真相ではないだろうな」と軽く思っていたのがそのものズバリだったという、なんとも拍子抜けした感慨だった。 こういうメタミステリは非常に読者の理解を得られにくいだろう。それを逆手にとって誰もが発想しない作品を紡ぐ作家も世界中にいるだろうが、本作がそれらと比肩するに値しないのは、真相のアイデアが誰もが思いつくだろうけど、敢えてしないだろうというレベルでしかないこと、これに尽きる。そのアイデアを得意満面に史上初の試みで自家薬籠中の物として長編本格推理小説として世に問うてしまったところにこの作者の若さがあったのだ。実際16歳だから本当に若い。 読後の今となっては、本作は作家小森健太朗氏の若気の至りとして末代まで記録される作品としか思えない。作者が今後どのような活躍を展開するか解らないが、もし大家になった場合、本作はその経歴に傷をつけかねない汚点になると思うので、早々に絶版にする方がいいんではないかというのが私の個人的な心配である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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さて最近ミステリ作家というよりもミステリ評論家としての活動の方が忙しい小森健太朗氏の作品を初めて読んだ。
曰くつきの作品『ローウェル城の密室』で史上最年少16歳での乱歩賞ノミネートのこの作家がどんな作品を書くのか、非常に興味があったわけだが、本作は私が呼ぶところのキヨスクミステリであり、出張中の車内で読み終わるような軽い内容である。 主人公は作者と同姓の小森で女性名を使った覆面ミステリ作家(?)である。その彼が出版社のパーティーでミステリアスな雰囲気を持った探偵星野君江と出逢い、溝畑という編集者に原稿の督促を受け、それがもとで殺人事件に巻き込まれるという物。 本作で扱われているバビロンの空中庭園から消失した王女の謎だが、これはこれで歴史上のミステリの真相を探る面白みがあるわけで、これに現代で起きた同様の事件を絡ませた着想は買えるが、やはり最後に明かされる作者の推理は読者の期待を裏切るほど小粒な内容だったと正直云わざるを得ない。 舞台を出版業界、大学(当時東大教育学部博士課程に在籍中とある)と、作者の周辺の環境を扱った内容であり、また本作のテーマとなっているバビロンの空中庭園及びセミラミス王女の消失事件も作者自身の趣味で調べている内容であろうことから、なんともやっつけ仕事のような気がせんでもない。作中、主人公の言葉を借りて書下ろしと雑誌連載では原稿料も違い、連載の方がはるかに実入りがいいとの記述があるが、これなぞ本作が書下ろし作品である事からも作者が自分が元々知っている内容とトリックのストックを1つ使って1本仕上げました、そんなお手軽感が拭えないのだ。 御大島田荘司氏も云っていたが、やはり作家という物は押並べて文筆業一本で生計を立てられているわけではなく、裕福な暮らしをしているのはほんの一握りの作家に過ぎなく、売れるためには量産を強いられるのは止むを得ない。島田氏も路線を変更して吉敷シリーズといった日頃ミステリを読まない人が手に取りやすいトラベルミステリにも手を出したわけだが、それでも彼の作品には単なる謎解きパズル小説に終わらないケレン味があり、登場人物たちには血肉が通っていたように思う。だからこそ吉敷竹史という主人公は御手洗潔と双璧を成すキャラクターになったのだと思う。 まあ、ともあれこれ1作で小森氏の作家としての本質を判断するのは早計であると私も認める。これから彼の諸作を読むことで見極めていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人生における闘いをテーマにした、肉体派作家鈴木氏の精神基盤そのものともいえる作品である。
闘い。それは各々の人生に直面した苦難との闘いである。 まず文字通り、格闘技という世界に身を置き、肉体と肉体がぶつかり合う闘いを生業とすることで己を見出す者、それが主人公の1人、真島一馬だ。 そしてもう1人の主人公、社会的地位のある親元で育ち、その後一流大学を卒業して、一流出版社に入社し、そこの編集者という、絵に描いた順風満帆な人生を歩む梅村靖子。彼女の闘いは後で述べるとしよう。 ノンフィクション作家山極恵子は正に生まれた時からが人生との闘いの始まりだった。出産直後、父親に誘拐され、全国を転々とする暮らしを余儀なくされ、終いには父親は仕事上のトラブルで逆上し、取引先の子供を誘拐したかどで地元ヤクザにリンチに遭い、殺されてしまう。 その後母親の許で成長するが、不倫をして子供を宿し、しかも不倫相手は癌で余命幾許もなく、人生を悲観し、自殺。頼る者もないまま、出産を決意し、仕事と家庭の両立で孤軍奮闘。しかも更に数年後同じ過ちを犯し、不倫の子を産み落としてしまう。更には癌にも侵され、仕事と家庭に加え、闘病生活という三重苦に苛まれるという、書こうと思えばこの人物を主人公にするだけで1冊の長編になるのではないかと思われるほど濃密な闘いの人生だ。 これら三人が物語の主軸となるのだが、実は前述で棚上げした靖子のみが闘いに直面していない。 まず彼女にとっての初めの闘いとなったのは、恵子が癌の再発により、入院生活を強いられる段に至り、担当編集者として恵子の息子の世話をする、具体的には高校のお弁当を作ることになったことがそれに当るだろう。 キャリアウーマンである恵子は息子らを溺愛するあまり、子供に家庭の手伝いをさせず、何でも自分でやってしまい、その結果、挨拶といった基本的な礼儀すらも出来ない息子に育ててしまう。靖子はその息子、亮をどうにか自立させようと、お弁当を作りにいくのではなく、自分で作らせる習慣を付けさせようと奮闘する。結果的にはそれは思ったよりも早い段階で成就する。それは亮が真島一馬の熱烈なファンである事を察し、彼の連載記事を担当することでその後、何度となく個人的にも付き合うことになった靖子はそれを糸口に、亮が尊敬する一馬というカリスマを利用して、亮に物事の動機付けを植え付ける。 読んだ時はちょっと安直な流れだなぁとは思ったが、これはこれでまあ、いいだろう。というよりも、子供との会話がない、子供とどう接したらいいか悩んでいる親御さん達には1つのモデルとして参考になる事例でもある。 しかし、その後の靖子はいただけない。 夫と疎遠になり、もはや何の魅力も感じなくなった理由として、夫が彼の人生において常に勝負を避けて言い訳することで逃れてきたことを挙げる。しかし私にしてみれば一流広告会社のエリートサラリーマンとして、高給を取る彼は、社会的にはむしろそれだけの地位を獲得してきたように思えるのだが。靖子はその夫にそういう危難を乗越え、打ち克ってきたことがないから、経験に裏打ちされた言葉というのを持っていない、それが欠点であると指摘する。 しかし、その反面、靖子は離婚を決意しても、夫と直接話し合い、説得することなく、スペインへの出張に旅立つ際、自分の名前を署名し、捺印した離婚届をテーブルに置くだけで、夫が自分の欄を埋めることを期待するのである。 闘いをテーマにしている小説なのに、主人公が闘いを避けていることが、読書中、どうにも腑に落ちなかった。 しかし次第に読み進めると靖子は自分に足りない闘いに向かう覚悟を一馬から得ようとしているのが解る。あまりに他力本願なのだが、まあそれはよしとしよう。 しかし、一度一馬は難敵であるブラジルの柔術家に打ち克っているのだ。そして靖子はそれを聞いて力を得ているのだけれど、結局何も変えようとしない。 終いにはあの結末。 あれを読んだとき、何じゃこりゃ?と思った。 働く女性の立場、格闘家という闘争に身を置く者の話を8年もの歳月を語り、築き上げてきた物語をフイにする結末である。 一瞬壁に打ちつけようかとも思った。 鈴木光司はやはり作家として終わったのだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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薬師寺涼子シリーズも6作目。最近はパリ、香港、バンクーバーと海外を舞台に活躍する話が多かったが、今回はお膝元の東京を舞台に活躍する。
そのせいか、どうもコレといった売りがないような気がした。登場人物も泉田&涼子コンビを取り巻く室町由紀子、岸本、マリアンヌにリュシアンヌと定番キャラクターが全て登場するが、それに加えて何かという物がない。 今回の敵役である黒林道義も断片的に登場する物の、前作『黒蜘蛛島』に出てきたグレゴリー・キャノン二世のような特徴というか外連味がない。東京都内で起こる人喰いボタル、ネズミ、ムカデの大量発生に関する真相も単純に黒林氏の研究成果によるもので終わっており、展開としては非常にストレートである。捻りがあるとすれば、ゼンドーレンで起きた防衛大臣誘拐事件の真相ぐらいか。 今回はスケールダウンしたと云わざるを得ない。そして前作の感想にも書いたが、やはり涼子が無敵すぎ、クライマックスが派手なだけで、スリルがない。シリーズも6作を数えるようになったからには、そろそろ涼子を苦しめるライバルの登場が必要ではないだろうか? あと泉田と涼子の間の進展を見せるなど、シリーズの転換を次回は期待したい。 |
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現在も続くススキノ探偵シリーズの第1弾。そしてこれが作家東直己氏のデビュー作である。
一読後の率直な感想としては若書きの三文芝居のようだというのが本音。 まず主人公が28歳という設定に微妙なずれを感じた。私の28歳像はようやく社会の仕組という物が解り始めたばかりの青二才である。大学を中退し、早くから飲み屋街を根城に、色んなトラブルを片付ける便利屋稼業で糧を得ている俺が、いくら世間の風にすでに揉まれていたとしても、ヤクザにも一目置かれるような存在になるとは思えない。 確かに時代はまだソープランドがトルコ風呂という名前だった昭和50年代後半か昭和60年あたりだろうか。確かにその頃の若者は今の平成の世のそれと違い、精神年齢も高く、成熟していたかもしれないが、ちょっと想像つかない。 それは作中に語られる妙に時代がかった風俗描写も、私が作品世界から隔絶されているように感じたからかもしれない。 ヤクザの着る物について、ゴルフ・ウェア、白ベルト、ローファー、ファスナーで締める厚手のカーディガン。スケタン、ナハナハナハという笑い声。今ではもう想像できる人がいるか解らないファッションや、流行語・俗語が古き良き時代のハードボイルドというよりも、その時代でしか楽しめない風俗小説といった色合いを濃く感じさせ、古びた感じを抱かせる。 そして確かに主人公<俺>は若い。一人称描写で初めから終わりまで語られる文章に織り込まれる<俺>の皮肉や自嘲めいた台詞が、非常に青臭く感じた。時にマンガで行われるような表現を文章で行う事もあり(例えば頭の中でふざけた俺と冷静な俺、さらに熱血な俺が出てきて言い争いをするシーン)、なんか勘違いしていないか?と思うことが多々あった。 タイトル『探偵はバーにいる』がまずいけなかったのだと思う。このタイトルだと主人公は、酒を片手に周囲の友人や街の弱者のトラブルを片付ける、酸いも甘いも知った30代後半の男を想像してしまう。 しかし東氏が設定した主人公は最近大学を中退したアル中の男で、やっていることは単なるチンピラの小遣い稼ぎと変りはしないという物。おまけに常に斜に構える、減らず口を叩くのだけは一人前。夜の街を徘徊するから友達には事欠かない、といったちょっと相容れない人物なのだ。 単純に云って、私と<俺>は合わないのだ。 あと文体。ススキノの夜を一生懸命に生きる底辺層の人々を描きつつ、時折、<俺>の社会の落伍者に同情する感傷を挟むことで男のペシミズムを語りながら、なおかつ軽妙洒脱さを狙ったのだろう。 小説には極上の旨みを感じさせる美文、しっとりとした質感などの綺麗な文章も大事だが、やはり外連味も必要である。しかし、この小説は外連味しかない。だから非常に俗っぽくて情緒が感じられなかった。なんだか風俗ルポを読んでいるような気がした。これもハードボイルドを読むと期待しただけに一層居心地の悪さを感じた。 北海道最大の繁華街ススキノ。そこを舞台にし、その街とそこに住む人を描こうとした趣向は買うが、ちょっと変に力が入りすぎたようだ。 そして肝心の事件だが、大学の後輩の失踪した恋人捜しから、ラブホテルで起きた殺人事件の犯人捜し、そしてススキノの夜の天使の捜索へと移りいく。これらのプロットはそれぞれがきちんと関連しており、淀みは無い。ただもうちょっと何か欲しかった。サプライズもそうだが、心に響く何かが・・・。軽めの文章だっただけに印象も軽くなってしまった。 とまあ、第1作の印象は非常に悪く、正直このまま読むのを躊躇ってしまいそうだ。しかし現在も続くこのシリーズ、人気があるのだろうから、その後何かが変ったのかもしれない。ちょっと間を置いて、第2作も読んでみるか。 |
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奥田哲也作品3作目。意外にオーソドックスだったというのが正直な感想。1年前に起こった殺人事件と現代に起きた殺人事件の犯人探しが美術学院職員という狭い人間関係の中で300ページ強に渡って展開されていく。
奥田氏の提示する謎は不可能趣味ではなく、セイヤーズの作品のように、事件はシンプルだが、なんだかおかしい、その奇妙な違和感を解き明かす類いの、トリックよりもロジック志向型になるだろう。しかし、セイヤーズがシンプルな謎であるのにも関わらず、最後の解決に鮮烈なイメージを与えて物語を閉じるのに対し、奥田氏の謎は、ああそういうことだったのねと単純に納得するだけに終わっている。 それは真相を解明する“殺し文句”とでも云うべき衝撃の事実がないからだろう。 セイヤーズはシンプルな謎に隠されたバックグラウンドを物語の進行に合わせて一つずつ丁寧に解き明かし、最後どうしても残る違和感がたったの一言でばっと眼の前の霧が晴れていくように解決される心地よさがあるのだが、奥田氏の作品においては最後の最後においても複数の謎が残ったまま、しかし探偵役は全ての謎が解けているという趣向であり、終わりの方の章で延々と数学の証明問題を解くかのような長い解説が行われる。 これが私にとってはあまり面白くない。こういうのはメインの謎が解けた後、その他残る細かな謎を逐一説明するために行えばいいのであって、メインの謎解きに適用するべきではないだろう。 今回も最後の25章から28章にかけて刑事と探偵役の主人公との問答によって謎が解かれていく。三章に渡って解かれていくその謎は淡々としており、“最後の一撃”らしきものもなく、ようやく辻褄が合った程度の物であり、カタルシスも感じなかった。 あとこの作者、意外に言葉に対して意識的かつ無自覚である。 まず文章をなぜかスムーズに読み進む事が出来ない。読み進もうとすると袖口を引っ張られるような引っ掛かりを覚える。 では文章が特殊なのかといえば、全然そうではなく、むしろ平板。『三重殺』で見られた斜に構えたような文体はなく、普通の人々の会話と私生活がごく普通に語られるようなのだが、なぜかふと立ち止まる事が多い。 なぜこうなるか、ちょっと考えてみると、まず場面転換の唐突さが1つ特徴としてあるだろう。 主人公の内面をまず語る形で場面の転換がなされるのだが、作者の癖なのだろうか、前のストーリーの流れからは飛躍した内容で文章が始まり、5,6行進んだあたりで、主人公が今どこにいる、もしくは奇妙な夢を見た、そんな事実が語られるのである。 それは謎解き部分でのロジック展開でも出ており、戸惑ってしまった。 ネタバレにならない程度に書くが、今回の第1の殺人での謎の1つにタイムカードの紛失というのがある。これが第2の殺人の真相解明の問答において何の脈絡もなく出てきて面食らってしまった。思わず何ページも遡って読み直してみたが、やはりそれまでの論理展開にはタイムカードには触れてなく、しかも第2の被害者がタイムカードを所持しているなんて事も書いていない。その事は5ページ後に出てきて、ここに来てようやく事件の脈絡が繋がるわけだが、この5ページの間は何を登場人物は語っているのかさっぱりだった。 あと妙に凝った文章表現が文章のリズムを壊しているように感じた。恐らく作者の意図としては無味に流れていく文章にアクセントをつけるために選んだ言葉だろうが、ちょっと大袈裟すぎる。 それは各章題にも現れており、何となく鼻につくきらいが無いでもない。いきなり第1章の章題は「呑気な蜘蛛」である。これは何かというと、サブキャラの刑事の風体の比喩であり、この章における主題でもなんでもないのである。その他にも「魂を塗りこめた男」、「水槽のなか」といった章題なんかも単純にその章に用いた比喩をそのまま章題として使っており、何か居心地の悪さを感じた。素人がちょっと普通の人よりもヴォキャブラリーが多いということを見せつける、文章表現の引き出しが多いことを自慢しているかのようだ。 かなりきつい物言いになるが、作者が自らこの文章を一度読み直したのか、気になるところだ。 あといやに中身が淡白なのだ。タイトルの『絵の中の殺人』は、もう全く以って的外れである。本作の謎を象徴する印象的な絵が出てくるわけでもなく、また絵がトリックに活用されるわけでもない(絵ではなく額縁が活用されるがあれはかなり無理を感じる)。また絵画の世界、業界をモチーフにするならばもっとそれに関するエピソードがほしいところだ。登場人物の学院の職員達は絵を描くという設定で、その中には筆を折った者もいたが、絵画という芸術の世界に片足でも突っ込んでいる人物達にしてはごく普通であり、単純にどこかの会社、学校の事務員と変らない。物語を彩るガジェットに欠けているのだ。 それは人物設定もまた然り。主人公に元プロ野球選手を持ってきた割にはそれを活かした活躍シーンが何も無い。元プロ野球選手だからこそ出来ることがあるのに、ただの男になっている。 P.D.ジェイムズやレンデル、真保裕一など、作品ごとに色んな職種を題材に扱う作家は物語の餡子を包む皮も美味しいからこそ、読んで満足を得られる。この辺をもう少し意識してほしい。 本を読む側としては内容に入る前にタイトル、表紙を見て、どんな物語が展開されるのか想像を巡らすのだから。 |
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「嘘の上塗り」という言葉があるが、この小説の真相が正にその言葉がぴったりだと思った。
二重に仕掛けられた本作のトリック、作者の中では結構自信があったのだろうが、私に云わせれば、無理を通すために道理を引っ込めさせ、強引に驚愕の真相へ持って行ったという感じしかしなかった。 作中で探偵役の一尺屋が持論を確立させるために何度も真相を云い直しているのも気になる。曰く、 「君を見た瞬間、それは叔父さんは驚いたのだろうね。弟に息子がいたなんて知らなかったんだから。そのショックで心臓が止まっても仕方が無い」 「信号音は君が叔父にナイフでも突きつけて聞きだしたのだろう。・・・殺される!という恐怖が叔父を死に至らしめたのかもしれない」 といった具合だ。 この間、1ページも無いのである。 しかも逢ったことのない叔父の家の間取りやら数々の企み、そしてそれらを成功させる数々の仕掛けを遠方で母親の話を聞いただけや関連の書物を読んだだけ、はたまた何度か由布院に訪れただけで解るだろうか? 人間なんて新しい環境に慣れるのでさえ、2ヶ月は最低必要である。東京でフリーターをして日銭を稼いでいる若者に果たしてこれだけの事が出来るのか?現実味の無い話である。 こういった辻褄併せのような論理の積み重ねが読書の興趣をそそるどころか、ああ、無理をしているなぁという苦労が作品の裏側から透けて見え、なんとも痛々しい。 そして、この作家特有の類型的な人物像の乱立。どこに小説としての面白みがあろうか?相変わらず、島田氏の提唱する本格推理小説作法に則っているのだが、なんとも味気ない。心動かされる何かがない。 料理本の云うとおりに料理を作れば、確かにそれなりの物は出来、食べられる代物にもなる。しかし、人に提供して金を取るだけの商品にはならない。そこに料理人としての独特の味付けをしないことには単なる素人の手遊びである。 毎度毎度苦言を呈して申し訳ないが、6作を通じて得た感想はこういった類いの痛罵しか思い浮かばなかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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一尺屋遙シリーズ第4作目。正直、私はこの一尺屋遙という探偵に全く魅力を感じていない。長髪の、ブランド物の服を好んで着る、大分の田舎の農家の息子で花売りのトラックが愛車の、無類の日本茶好き・・・。特徴を持たせようとして、あまりに作りすぎたキャラクターだと思ってしまい、なんだか出来の悪いマンガを読まされているような感じがいつもする。
で、内容はというと、いやあ、これもまた作り物の世界だなぁと悪い意味で思わざるを得ない事件だった。例えば、島田氏の御手洗シリーズはその発想の奇抜さ―奇想―ゆえ、確かに作り物の世界だと思うのだが、その作り物を形成する物語の面白さが読者を惹きつけ、退屈させない。だからこそ、驚天動地の大トリックを披露されても、歓喜こそすれ、落胆する事はないのだ。 しかし、司作品にはその作り物の世界に面白みがないのだ。不可能趣味を形成する諸々の事象が、物語に無理を感じさせるだけになっているのだ。 なぜ、犯人は朱鷺絵に化けなければならないのか?本書の肝と云える水槽密室の、密室にしなければならない意味は? 冒頭の幻想味、事件の奇抜さ、これらを補完する真相があまりに陳腐で、物語の魅力を支えきれていない。推理小説の真相というのは、「なんだ、そんな事か」と思わせるものではなく、「うおっ、そういうことだったのか!」と読者を唸らせるものでなくてはならないのに、謎の特異性のみに腐心して、肝心の真相が腰砕けになっている。これが非常に残念でならない。 そして今回の物語の骨子を支えるのはやはり穂波朱鷺絵という謎めいた女性の存在だろう。事件の全てはこの女性を中心に回っており、作者の意図も、この朱鷺絵という人物に隠されたある特異な性格が本作で訴えたかったテーマだったに違いない。 しかしそれが全く成功していないのだ。 こういった小説作法に関する無頓着さが、私をして司氏の評価を貶めさせているのだ。 そして文章の問題。 前作の『屍蝶の沼』では三人称叙述だったが、このシリーズではワトソン役による一人称叙述に徹するらしく、そのスタイルは変わっていない。で、前作で感じた文章力の向上だが、今作では確かに前3作よりはある程度の味が出てきたものの、やはり物足りない。根本的にこの作家は一人称叙述に向いていないのではないかと思う。 しかもこの作品は純粋な意味で一人称叙述ではない(今までの作品もそうだったが)。登場人物が章ごとに代わるにつれて、三人称になったりもする―そしてその三人称叙述も“神の目”の視点なのに、登場人物の主観的描写が多く、根本的な間違いが多いのだが―。 多分物語の面白さに没頭していれば、こういう粗も全然気にならないのだろう。しかし、ところどころにこの作者の、小説の書き方、物語の語り方に納得がいかないところがあるがために、どうしても瑕として目に付いてしまう。 かなり厳しい事を今まで述べてきたが、やはり金を払って本を買った身としては代価に見合った娯楽は確実に得たい。 もっと精進して欲しい、この作家には。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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名探偵一尺屋遙シリーズの本書、オランジュ城館というフランスの城館を舞台にし、見取り図まで付け、しかも冒頭から壁を通り抜けて落下した死体、天を舞う蛇といった島田荘司氏ばりの奇想から幕開け、その後も白髪の狂った老女の登場、飄々とした探偵の登場といった横溝正史の金田一シリーズを髣髴させる幕の開け方、そして城主影平氏の、家電の買い込みと小型トラック1台分の殺虫剤を購入し、庭のあちこちに埋めるといった理解しがたい行動、等々、作者の本作に賭ける並々ならぬ意欲がひしひしと伝わり、正直、「これは!?」といった期待感があったのだが・・・。
真相を読むとどうもアンフェアのオンパレードだという印象が拭えない。 そして最初に起こる殺人事件の真相も実に呆気なく、最終章を迎える前に容易に探偵が種明しをしてしまう。 いや、これはこれでも構わないのだ。その後に起こる事件にもっと魅力があれば。しかし、次に起こる事件は過去に起こった事件と全く同じ物で、読者側にしてみれば同じトリックの使い回しのような感じを受けてしまう。 そして結末は作者の心酔する島田氏の作品に倣うかのように、またもや関係者の手記で幕を閉じる。 もしこの同じ設定を活かして島田氏が書けばどうなるだろうと想像してみる。恐らく、評価は少なくとも星1つは多くなるだろう。私が思うに、この作者には「推理」小説は書けるが推理「小説」は書けないのではないだろうか?つまり、この作者には物語が持つ「熱」を感じないのだ。「熱」とは、物語を読んで、読者が抱く悲哀感、爽快感、高揚感といった物である。これらが一切感じられない。 確かに物語を色濃くするために戦争のどさくさで日本軍が密かに行った物資横流し事件など、単純なパズルゲーム小説には終始していない。それは認めよう。しかし、それが単なる飾りにしかなっていないのだ。島田氏ならば、それ自体が非常に面白い読み物として提供してくれるだろう。ここに作者の力量の差が歴然と出てくるのだ。 奇想を作る才能は感じた。あとはそれに見合う物語力を求める。私は小説を読んでいるのだから。 最後にもう一点。題名の『蛇遣い座の殺人』、最初に出版された時は『蛇つかいの悦楽』という題名だったが、これが全く物語に寄与していない。蛇遣い座は作中では単なるエピソードとしてギリシャ神話の中での成り立ちが語られるだけである。当初、天を舞う大蛇をそのモチーフとして使う意図だったように推測するが、それはほんの末節に過ぎない。こういうところにも小説としてのバランスの悪さを感じてしまうのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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カール・スタンフェウスことスリム・マッケンジーは「薄明眼(トワイライト・アイズ)」という不思議な眼を持っていた。彼は人間に化けたゴブリンの正体を見破る事が出来るのだ。
彼は14歳の時に村で次々と村人を殺していた伯父に化けたゴブリンを殺害し、それ以来ゴブリンを退治する旅を続けていた。やがて彼は旅の途中で見つけたカーニバルに潜り込み、そこの従業員となる。カーニバルの見世物のオーナーの一人である美少女ライアの許で働く事になった彼だが、カーニバルはやがて移動のときを迎える。 次なる街はヨンツダウン。そこはゴブリンが市長、警察本部長を勤めるゴブリンの巣窟だった。ゴブリンどもがカーニバル一行の殺戮をたくらむのを肌身に感じたスリムはゴブリンを一匹、また一匹と殺し、カーニバルを守ろうとするのだが。 4年前に上巻のみ手に入れて、ずっと本棚に眠っていた本作品。このたびようやく絶版となっていた下巻を手に入れて喜び勇んで読んだのだが、4年も待った甲斐が全く無い駄作だった。 物語はゴブリンを見分ける特殊な眼を持つ主人公スリムの一人称で語られるのだが、これが17歳の言葉とは思えないほど、格式張っており、しかも回りくどい表現が多くて、かなり疲れた。作者としてはイメージ喚起を促したつもりだろうが、読み手の方としては感情移入を許さない文体だなと思うことしばしばで、なかなかのめりこめなかった。 ゴブリンが人間に化けて人間を殺していくエピソードの数々はなかなか面白いのだが、これがやはり文体のせいでなかなかのめり込めない。 ゴブリンが戦争時代の生物兵器であるという設定はファンタジーだと思っていた矢先のSFへ転換でおっと思ったが、しかしそれまで。 カーニバルの三つ目の巨人ジョエル・タックを始めとしたフリークスたち、カーニバルの総支配人ジェリイ・ジョーダン、ヨンツダウンに住む老人ホートン・ブルイットなど魅力的な人物が出てくるのだが、物語にどうも活かしきれていない。 しかしこのような結末を迎えるのなら、あえて2部構成にする必要はないのではないか。1部のみで十二分にゴブリンとスリム含めたカーニバル一行との全面戦争を語ることに専念すれば、中途半端な物語にならなかったように思うのだが。 しかし、この内容を是として出版したクーンツもすごいと思うが、版元もすごいと思うわ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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結婚式を明日に控えたケン・ブレイクは突然H・Mの要請により、隠密活動を頼まれる。予てより情報部が追いかけていた国際的ブローカー“L”の居場所を現在イギリスに滞在中の元ドイツ・スパイ、ホウゲナウアが知っており、二千ポンドでその情報を売ろうとしているので、その前にホウゲナウアの家に忍び込み、それらの情報を手に入れて欲しいというのだ。
ホウゲナウアの住む町モートン・アボットへ向かい、手違いから現地の警察に追われる身になったケンは苦労の末、ホウゲナウアの住む<カラマツ荘>に辿り着く。しかしその中で観たのは顔に微笑を湛えたまま、息を引き取ったホウゲナウアの姿だった。 道化役を演じたケンの東奔西走する姿が描かれる前半は今までのカー作品と違うドタバタスパイ劇のようで、読者はH・M卿の意図が解らぬまま、ケンと一緒に迷走させられる。やがて物語は大規模な偽札事件へと発展していくのだが、この辺の話は複雑すぎて頭に入りにくかった。 題名の「パンチとジュディ」はドタバタ喜劇の人形劇の名前に由来する。 もう一度読めば、それぞれの事柄について犯人の作為を思い浮かべながら読めるかもしれないが、それは遠慮したい。 ところで18章にて登場人物にさせられる犯人当てはもしかしたらカーなりの“読者への挑戦状”だったのかもしれない。その挑戦に私は敗れてしまったが、果たしてこの犯人を当てられる読者はいるのだろうか?恐らくカーは見破られない自信があったからこそ、今回あえてこのような挑戦状を盛り込んだのはないだろうか。だとしたら、かなりの負けず嫌いだなぁ、カーは。 しかしホウゲナウアとケッペルの殺人事件の真相はちょっとがっかりした。遠距離で起きた2つの同種殺人(どちらもストリキニーネによる毒殺)の謎が非常に魅力的だっただけに残念だった。 この二つの殺人は本作のもっとも際立つ場面であるのに、真相が明かされたら実は単なる物語の末節に過ぎなかったというのが驚いた。これがカーのケレン味なのか?いやはや・・・。 しかし本作で災難なのはケンとイヴリンの二人である。親戚とはいえ、結婚式の前日にこんな困難な仕事を頼むかね~、普通? ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『屍泥棒』で活躍したユーロポールの心理分析官(プロファイラー)クローディーン・カーターを主役に据えた初の長編。
ヨーロッパ各地で起こる連続バラバラ殺人事件。この事件を解決すべくユーロポールは心理分析官クローディーン・カーターを特捜班の一員として抜擢する。特捜班にはフランスのプラール、ドイツのジーメン、卓越たるコンピューターの技術を持つフォルカーとで結成された。 主任担当官であるアングリエは自らの名声を高めるべく、これら特捜班の功績を利用とするのだが、クローディーンの才能が自らの制御力を凌駕している事を認めざるを得ず、忸怩たる思いをしていた。内外ともに敵を作りながらも、それと気付かないクローディーンは着々と事件を解決へと導いていく。 率直に云えば、可もなく不可もない作品。職業作家としてのフリーマントルの職人技で作られた作品という印象が強い。それはこの小説で語られる事象が、ヨーロッパ各地で起こる凄惨な事件と平行して、自殺した夫に関するインサイダー取引疑惑、サングリエのユーロポールにおける自らの優位性を高めるための権謀術数など、色んな要素が絡み合っていることによる。現代の小説では1つの事件について集中的に語り、解決まで至るのはお得感もなく、また単調とみなされがちで、評価も低いだろうが、今回はかえって事件への視点がぶれ、散漫な感じを強く受けた。 あと加えて傲岸不遜なクローディーンのキャラクターがどうしても共感を得ず、辟易してしまった。つまり、主人公に魅力を感じなかったのだ。 それでは小説としての愉悦はないかといえばそうではなくて、特に時折挿入されるクローディーンの母親モニクのエピソード、クローディーンの亡父でインターポールの捜査員だったウィリアムの話などは面白く読めた。 が、ここでクローディーンが気付かされる大人の慎み深さ、謙虚さなどが稚拙すぎた。仲が悪いと思っていた父母の隠された絆の深さ、父親が家族を守るためにどんなに気高かったのか、それらを気付かされるにはクローディーンは歳をとり過ぎているのだ。 というのも心理分析官たるクローディーンがこと父母のことになると彼らの視点で物事を考えられないというアンバランスさが納得いかないのだ(もしかしたらこれが作者の狙いかもしれないが)。 バラバラ殺人事件の真相、アングリエが仕掛けるクローディーンへの罠、クローディーンの母モニクの癌闘病記、亡き父の生き様。 これらこの小説を彩る内容は小説として非常に贅沢な感じを思わせるが、一読者としてはこのうちのどれか一つに黄金が隠されていればその小説の評価は高くなる。しかし冒頭にも述べたように、フリーマントルはこれらについてあまりに職人的すぎた。感銘を受けるには内容が薄いと感じた。 次回以降は、逆に小説巧者としてのフリーマントルの旨みを感じさせて欲しいものだ。 |
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イングランドに点在する数少ない古城。弓弦城もその1つだった。
その主、レイル卿が甲冑が数多く並ぶ甲冑室で殺される。しかも出入り口には城を訪れた複数の客が見守っており、裏口は卿自らが当日釘を打ちつけ、開かないようになっていた。 さらに女中のドリスが部屋から転落死するという事件が起き、終いにはレイル卿夫人も自身の部屋で銃殺されてしまう。偶々旅行で近くに訪れていた希代の犯罪学者ゴーント氏がこの連続殺人事件の謎に挑む。 う~ん、冗長すぎるなぁ。まず物語がイメージとして頭に入り込まない。これは作中でも出てくる城の見取り図がこの小説で示されないことによるところ大きく、大いに問題だ。謎解きもこの見取り図がなければ、作者が語るがままに頷くしかなく、全くカタルシスが得られない。 捜査も回り道が多く、一向に進まない。特に狂言回しとして設定されていた城主の息子フランシスが物語を迷走させ、進行を大いに妨げ、忸怩たる思いがした。 カー作品でもかなり初期の本作。唯一の救いは初期の作品からして、カー独特の語り口と物語設定とオカルト趣味が垣間見えたことか。しかし、それも単に物語を冗長にしているのに過ぎなく、切れを無くしていると思えて仕方がないのだが。 今回のカーの狙いはうだつの上がらない人物が実は極悪非道な人物だったという人間の裏面を見せたことか。しかし、物語の引力が弱いのは否めないなぁ。 |
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ギデオン・フェル博士となんと短編集『不可能犯罪捜査課』のマーチ警部の共演作。しかしカーの有する名探偵2人の出演は、結局狂言回しに終わってしまったようだ。
出版社を経営するスタンディッシュ大佐の屋敷、グレーンジ荘はポルターガイストが起こる幽霊屋敷と云われていた。そこで休暇を過ごしているマプラム主教、ヒュー・ドノヴァン・シニアが奇行の数々を行っている、その主教が語るにはある夜、隣家のゲストハウスに住んでいるデッピングという老人の下に有名な犯罪者が逃げ込むのを見た、ぜひとも警察と話したいということだった。警視監よりその役目を仰せつかったハドリーは自分の下に訪れたスタンディッシュ大佐と面会する直前、デッピングが頭を撃たれて殺されたとの知らせを聞く。ハドリーはたまたま自分のオフィスに来ていたフェル博士と当地に向かう。 本作はカーの初期の作品―なんとあの名作『帽子収集狂事件』の次に出版されている!―であるのに、本格推理物ではない。フェル博士は終始、推理が空回り、マーチ警部も容疑者スピネリに翻弄されて東奔西走しているだけの無能振りである。 そして象徴的なのが、いやに探偵役が多い事だ。 フェル博士とマーチ警部という二大巨頭に加え、マプラム主教であるヒュー・ドノヴァン・シニアは元犯罪研究家だし、その息子は大学で犯罪学を専攻している刑事の卵、それに加え、スタンディッシュ大佐の出版社お抱えの推理小説作家ヘンリー・モーガン(イニシャルがH. Mというのがまた面白い)まで登場とてんこ盛りである。 ここにいたって気付くのはカーなりに「船頭多ければ船、山登る」を体現したかったのだろうか。大本命であるフェル博士でさえ、真犯人に気付きはするが、仕掛けは失敗している。ごく初期の作品である本書で、既に本格推理小説を皮肉っていたのか? しかし、とにかく回り道が多く、バランスの悪い作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前回の事件の活躍で名探偵として知られるようになった学生大垣洋司の下に依頼人が訪れる。それは政界の黒幕と云われる高槻貞一郎の秘書である新津省吾という男で、高槻氏の下に脅迫状が届いた、それは4人の人間の殺人を示唆する内容だったので未然に防いで欲しいという依頼だった。大垣は先輩で名探偵である陣内とともに大槻邸を訪れる。そこは直径約200メートルの芝生の真ん中にゆっくりと回転する御堂が設えられ、その四方に館が4つ点在する奇妙な場所だった。そこで高槻の依頼を受けた1時間後、高槻が絞殺死体となって発見される。それは奇妙な事に脅迫状の文言と一致していた。早すぎる死。しかしこれは連続殺人の幕開けに過ぎなかった。
う~、ダメだったわ、これ。あまりに素人じみた文体と本格推理小説の定型を破ろうと努力する痛々しさが行間から立ち上ってきて見苦しさを感じた。 依頼人が会って1時間後に殺される、360ページ強の内容において80ページあたりで早々と挿入される読者への挑戦状(文中では宿題)、探偵の事件放棄など目新しさを狙った努力は解るが、それらがあまりにもぎこちなく感じて物語の腰を折っている感じがした。 登場人物それぞれに魅力がないのも痛いし、なによりも小説を読む物語の醍醐味というものが皆無だ。先日読んだ有栖川作品と比べると雲泥の差が歴然と解る。あまりに登場人物を駒として動かしすぎである。だから感情移入さえもできないのだ。 また犯人は思ったとおりの人物だったし、下世話なライトノベル調文体が妙に鼻につくし、苦痛を強いられた読書だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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大脳生理学者須堂の研究室に助手、牧場典子より「恐怖の問題」という巷で話題になっている都市伝説が持ち込まれる。それは男女もしくは隣人があまりの面白さに狂気に駈られる問題を取り合いになって墓地で取っ組み合いの殺人事件になるという話だった。そんな中、静岡で大地震が起き、崩れた墓場の近くから男女のものと見られる白骨死体が発見される。果たして都市伝説「恐怖の問題」は実話なのか?またその頃、詰将棋を勉強していた須堂の元に親しい藍原教授から詰将棋の盗作の話が持ち込まれるのだった。
竹本健治氏の独特の云い回しにははっきりいって疲れた。雰囲気重視の作家なだけに使用する単語にこだわりが強いのも解るが、独り善がりが過ぎる。この手の幻想小説風味が当方に合わないのも一因だが、読み取りにくい上に、モジュラー型の本格推理小説の形式であるから、なおさら理解しにくい。多分二度目に読むと各章が何を指しているのか解るだろうが、あいにくこちらはそんなに暇じゃない。 真相は大脳生理学者の須堂が解き明かすに相応しいテーマであり、発表された当時'81年の作品としては極めて斬新であった事だろう。しかしただその1点のみ評価が出来るだけで、それ以外は付き合いきれないなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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なんとも評し難い作品だ。
ジャンルとしてはやはり夢枕獏氏のような伝奇に物になるのだろうか。 大学生と小学生の美少女という取合せがストーリーに潤いを与えるのならまだしも、どう考えてもロリコン大学生とありえないほど純粋な小学生との信頼関係には無理を感じる。魔力を備えたアイドル歌手やその父親が政財界のドンでしかも魔人というベタな設定に加え、ひょんなことから異世界に行き、その世界で出遭うのは二本足で歩く獣人や巨大カタツムリだったりと物語のベクトルが無秩序で理解に苦しむ。 主人公が守る美少女は熾天使の化身だという設定はまだ許せるものの、パラレルワールドにも行ってしまうという闇鍋のような設定にはノレなかった。菊池秀行氏のようにいっそ異世界に設定して物語を進める方がこちらもスイッチを切り換えて物語世界に埋没できるのだが。 作者が何を読者に仕掛けたいのか、読み取れなかった。 |
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