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4 3 2 1の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.71pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全7件 1~7 1/1ページ
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これまでオースターのほぼ全作品を読み、新作を楽しみにしていた私でも、本書を購入して読み始めるまでに、約二か月近くの期間があった。理由の一つは、本書の分量だ。2段組みで800ページ近くある。代表作の「ムーンパレス」単行本は1段組み360ページ程度。 二つ目は、本書の特徴的な構成だ。四つの並行世界を、同一の主人公で描いている。オースターらしく、偶然の出来事により、四つの世界は少しずつ、やがて大きくずれていくが、その変化を頭の中に入れながら、四つの世界を並行して読んでいかなくてはならない。ある程度、まとまった期間で集中的に読むほうがよい。(できれば十日間以内がいいだろう) 読み始めてみると、物語の内容よりも(オースターが亡くなったこともあり)、オースター独特の文体の魅力にどっぷりと浸かることのできる読書体験となった。「ガラスの街」から独特だったオースターの文体が、「4321」ではさらに際立っている。 オースターの文体の独特さとは何か? 小説の記述を大きく二つ、「場面」と「説明」と分けてみれば、オースターの小説がほぼ「説明」のみで書かれていることに驚く。多くの一般的な小説の文章は「場面」が中心だ。登場人物の会話と行動を伝えるシンプルな言葉で書かれ、読み進めるスピードで物語が今起こっているように読める。スティーブンキングの小説は、ほぼ「場面」であり、ドキドキハラハラしながらストーリー展開を楽しむことができる。 対してオースターの文体は「説明」が中心だ。語り手(登場人物や筆者本人)が、記憶をもとに読者に語り掛けてくるような記述。物語を大づかみに(要約的に)述べたり、場面描写に近い語りで詳しく述べたりするが、基本的には記憶をもとにした語りであり、そこでは時間が自由に伸びたり縮じんだりしている。「場面」に近いスピードの記述もあれば、3か月が1行で記述されることもある。 本書の中でも小説家を目指す主人公に「ひたすら説明的にどんどん語って、具体的に見せることはあまりしない。そういうのってよくないやり方だってみんな言いますけど、僕はあの、物語がぐんぐん進んでいく感じがいいと思うんです。すごく込み入ってますけど、と同時に、おとぎ話を読んでいるみたいな感触もあって。」と語らせている。 記憶が、語りの材料のすべてになっている点は、最初期の「記憶の書」と同じだ。文章の中に、複数の視点や時空間が縒り合されおり、いくつかの時空が重なり合いながら流れていく。 言語が世界を十全には表現できないという認識に立つと、重要なのは言葉持つ音楽的な側面なのではないか。その言葉の音楽的側の流れに、すっかり心身をゆだねると、自分の精神が穏やかに整えられていくのを感じる。「小説とは、心に一種の秩序を与える言葉の装置である」ことを実感した。それは、優れた音楽を集中して聞くときに得られ境地に近いように思う。 小説では、主人公の父方の親族「ファーガソン家」と、母方の親族「アドラー家」、母の再婚により「シュナイダーマン家」の親族、それに多くの友人や恋人が小説内に登場する。読み進めるにつれて同じ人物の境遇が四つの世界内で大きく異なっていく。私は人物相関図を作りながら読んでいったが、あまり深く考えず、ただただオースターの言葉のリズムを味わうだけでも十分に楽しめる。ひょっとしたら、その読み方が最もこの小説の本質に迫ることのできる読み方なのかもしれない。 また、「ガラスの街」「記憶の書」等の初期の文章に比べ、一つの文章の長さが際立って長くなっいる。それでも無理なく自然に読み進めることができるのは、柴田元幸さんの名訳があってこそだろう。柴田元幸さんを通してオースターに出会えたことに、感謝の念を強くした。最近のオースターの小説は(昔からそうかもしれないが)、暗い結末に滅入ることもあった。その点、結末がある意味でオープンエンドの本作は、とても好ましく感じるのだ。傑作。 | ||||
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繰り返し読むに堪える作品です。 | ||||
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好きな作家の新作は800ページの重い本だったのでアマゾンに注文したのですが、とても残念な事に 封筒にカバーの厚紙もなくはだかで送られてきました。表紙は 他の商品やダンボール箱で傷がついていました。 本はやはり、本屋さんで買わないといけないのかな。 | ||||
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どんな人生にも悲しみ、喜び、別れ、出会いがある。 まさに小説4冊分。たくさんの人に出会い、たくさんの場所を「4,3,2,1」ファーガソンとともに訪れ、数々の歴史的出来事を追体験する、大変贅沢な時間だった。 「どのファーガソンに共感するか議論」もやってみたら楽しそうである。 歴史に残る大作を遺したオースターに、これだけの分量を翻訳された柴田氏に、 そして大型年末年始連休前という絶妙なタイミングに発売した新潮社に拍手と感謝。 これは紙で読むのがよいと思います。重いけど。 相当の集中力と時間は要するので、★4つ。 | ||||
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ポール・オースターの新刊が出たということで本屋に行くと、分厚い・・・一旦断念しましたがやっぱり読みたい!という気持ちが勝り、手に取りました。800ページもあるので電子か単行本か迷いましたが、電子はなんせ前に戻って読み返しづらいので、単行本を買いました。ただ読んでいるとき当たり前ですが、重い・・・。持ち運びは不向きです。そしてある程度時間があるときに一気に読むことをお勧めします。 本作品は一人の少年の4つのバージョンの物語です。途中から辻褄が合わないような、、、と思っていたのですが、途中で構想に気付き、白紙な章があるのはそういうことね、と理解しました。 色々な政治的な背景(ベトナム戦争、人種差別、徴兵等)とともに、色々な人と出会いながら(恋愛含む)、様々な本や映画に触れながら、主人公は人生を進んでいきます。と言っても大学後くらいまでの話。私も違うパターンの人生があったらどういう風に想像できるだろうか。。。 読み進めていくと各人生で内容が微妙に違うので、あれ?これ誰だっけ? 前の章でどうなったんだっけ?と少し遡る必要があるかもです。が、それでも読み応えがありました。そしてこんな構想のものをどうやって(どういう順番で?)書いたのだろうと素人ながら疑問です。そしていつもながらに、柴田さんのスッと入ってくる翻訳もさすがです。800ページもあるので、あーやっと読み終わったという感じはあるものの、虚脱感よりも(もちろん長いなとは感じます)、むしろ心に沁みます。 ポール・オースターの作品がもう読めないという悲しい事実と、柴田さんの著者の翻訳が読めないことに本当に残念です。 Rest in peace, Paul Auster. | ||||
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*ここの電子書籍で購入しました。 あるユダヤ系の少年がアメリカで生まれ・・・という内容でした。 上記だけだと判りずらいので、本書の中から、著者自ら本書の内容を語っている(らしい)部分を抜き出すと、 「クリスマスの翌朝、ファーガソンはマクマナスのオフィスに呼ばれて、マクマナスがしばらく前から温めていたアイデアを聞かされた。六〇年代もほぼ終わった、あと一週間もしないうちに大きな区切りを迎える、と彼は切り出した。君、この十年がアメリカをどう変えたか、シリーズで書いてみる気はないか?時間軸に沿って出来事をたどるとか、大事件を年表にして並べるとかじゃなくて、もっと深く、いろんな重要事項を二千五百語ずつ使って論じるんだ。ベトナム戦争、市民権運動、カウンターカルチャー擡頭、美術・音楽・文学・映画の新しい流れ、宇宙計画、アイゼンハワー・ケネディ・ジョンソン・ニクソン政権それぞれの違い、重要人物暗殺の悪夢、人種間の対立とアメリカ諸都市で炎に包まれたゲットー、スポーツ、ファッション、テレビ、新左翼の躍進と衰退、共和党右翼と反動的怒りの衰退と躍進、ブラックパワー運動の進化とピル革命。とにかく政治、ロックンロール、アメリカの日常語、何から何まで変わった。激変に満ちた、マルコムXがいればジョージ・ウォレス(人種差別に反対したアラバマ知事)もいた、『サウンド・オブ・ミュージック』もあればジミ・ヘンドリックスもいた、ベリガン兄弟(過激な反戦運動を展開)もいればロナルド・レーガンもいた十年間のポートレーを描くんだ。普通のルポルタージュじゃなくて、ふり変えるんだ、自分たちが十年前どこにいていまどこにいるのかを読者たちの思い返させるために」 「三つの名を持つ一人の人間じゃないな、と彼はその日の午後に考えた。その日とは一九七〇年一月一日、一族の言い伝えを信じるなら祖父がアメリカに着いてからちょうどぴったり七十年後だ。ファーガソンにもならずロックフェラーにもならず、一九二三年にシカゴで撃ち殺された男。だが物語の目的に沿って、まず祖父とジョークの話から始めることにしよう。最初の段落でひとたびジョークが語られたら、祖父はもはや三つの可能な名を持つ一人の若者ではなく、Xでもロックフェラーでもないファーガソンという名を持つ人間になる。それから、両親が出会って結婚して彼自身も生まれる物語を(すべて長年のあいだに母親から聞かされたいろんな逸話に基づいて)語ったあとに、前提をひっくり返して、三つの名前を持つ一人の人物という発想を推し進める代わりに、自分自身の別バージョンを三つ捏造して、自分の物語と並行して語るのだ(ほぼ自分の物語と並行して、と言うべきかー彼自身も自分の一虚構バージョンになるだろうから)。四人の同一でかつ違った人物たち、名はみな同じ『ファーガソン』である人物たちをめぐる本を書くのだ」 となりました。長くてすいません。 個人的には一人のユダヤ系の人が生まれてから青年に達するまでを編年体で描いた作品に思えました。プロットによって時間や場所が錯綜する感じではないので、小説というよりも物語、という風に思えましたが、どうでしょうか。 オースターさんは亡くなって、これが最後から二番目になる作品ということで、P・K・ディックに「最後から二番目の真実」という作品がありますが、それとは関係ない感じの自伝的作品と読めましたが、上記の著者の説明からすると、異なるので誤読かも。 その他に、人の名前が色で表現されたり、過去の作品の名前が出てきたり、途中で突然語り手が現れたり、と過去の自分の作品に言及した感じの部分があり、やはりメタフィクション風でもありました。会話もかぎかっこを使わない独創的な手法がとられております。 白状すると、この人の作品で読んだ作品が、ポール・ベンジャミン名義の実質的デビュー作で、普通のハードボイルドっぽい「スクィズ・プレー」とその後の前衛推理小説幾つかだけで、なにも語る資格はないですが、気にはなっていたので、読みました。タイトルもよく判りませんので、この人の作品に詳しい方の文章などで教えて頂いてください。すいません。 あと印象に残った部分などを挙げると、 「ファーガソンの意見では、新聞とは人類有数の発明であり、字が読めるようになって以来彼はずっと新聞を愛してきた」 「新聞の魅力は本の魅力とはまったく違っていた。本は堅固で永続的だが新聞は薄っぺらではかなく、読み終えられた瞬間に捨てられ、明日朝にはまた代わりが来る。毎朝新しい一日のための出来立ての新聞がやって来るのだ。本は始めから終わりへ一直線に進んでいくが、新聞はつねに一度にいくつもの場所にいて、同時性と矛盾とのごたまぜであり、複数の物語が同じページに共存して、それぞれが世界の違った側面を明かし、それぞれがそのすぐ横で唱えられたのとは何の関係もない考えや事実を唱える。右では戦争、左ではスプーンレース、上は燃えさかるビル、下はガールスカウトの同窓会、大きいものも小さいものも一緒くたになって、一面は悲劇、四面は軽薄、冬の洪水と警察の捜査、科学上の発見とデザートのレシピ、死亡と誕生、恋愛相談とクロスワードパズル、タッチダウンパスと連邦議会での討論、大竜巻と交響曲、労働とストライキと大西洋横断気球旅行・・・朝刊はそれらを一つひとつ、にじんだ黒インクが作る段の中に否が応でも収めねばならない。ファーガソンは毎朝そうしたぐじゃぐじゃさに歓喜した。なぜなら世界はまさにそのようなものだと彼には思えたのだー沸きかえる巨大なぐじゃぐじゃ、何百万もの出来事が同時に起きている」 「学校は学校だってこと。楽しいとかそういうものじゃないよ。行かなきゃいけないから行くんだよ」 「賢者レニー・ミルスタインはバスケット人として一流であるにとどまらず人間としても一級であり、十四歳の少年たちを扱うすべを心得ていて、十四歳というのが人生のカレンダーで最悪の年齢でありゆえに十四歳の人間は混乱した壊れた生き物であってもはや一人として子供ではないもののまだ一人として大人ではなく頭もどこかまともではなく未完の体とも折り合いがついていないという事実を理解していた」 「それ以上に有意義だったのはー貴重で永久不変に根本的だったのはー小説や詩のあいだにはさまっていた、四十五セントのシグネット版『ウォールデン 市民的不服従』だった。ソローは小説家ではないけれど、崇高に明晰で精緻な、この上なく美しいセンテンスを組み立てる書き手であり、ファーガソンはその美しさを、あごへの殴打のごどく、脳を見舞う熱病のごとく受けとめた。完璧。一語一語がぴったりしかるべき場所に収まるように思え、センテンス一つひとつがそれ自体小さな作品に思えた。それぞれが呼吸して思考する独自のユニットであり、そういう文章を読む上でスリリングなのは、ひとつのセンテンスから次のセンテンスへ、ソローがどれくらい遠くまで飛ぶか全然わからないことだった。時にはほんの数インチ、時には数フィート、数ヤード、そして時には何マイルも。まったく予測がつかない。そうやって安定を揺すぶられることで、自分の書き方についても考えが変わっていった。ソローはどの段落でも、二つの相対立する、たがいに排除しあう衝動を組み合わせてみせる。ファーガソンはその二つを、制御への衝動、冒険への衝動と呼ぶようになった。これが秘密なんだな、そう感じた。制御ばかりだと、風通しが悪くなり、息が詰まってしまう。冒険一辺倒だと、混沌とした訳のわからないものになってしまう。けれど両者を合わせると、上手く行けば何かが生まれ、自分の頭の中で鳴っている音楽がページの上でも歌い出し、爆弾が炸裂し、建物が崩れ、世界は違った世界に見えてくるのだ」 「そしていま手元には本が一冊、ジョン・ケージ『サイレンス』のハードカバーがある。解散となり、みんなでアパートを出ると、ファーガソンはノアに、疲れたから祖父のアパートメントに帰ると言ったが、実は少しも疲れてなどおらず、ただとにかく一人になりたかったのだ。これまでに二度、ファーガソンは本によって丸ごとひっくり返され、自分という人間が変わる体験をしていた。世界をめぐる自分の思い込みを吹っ飛ばされ、世界のすべてがにわかに違って見える新たな地平に放り出され以後も自分が時間の中で生き世界の中で空間を占めつづける限り世界はずっと違ったままでいるにちがいなかった。ドストエフスキーの本は人間の魂の情念と矛盾をめぐる書物であり、ソローの本はいかに生きるかをめぐるマニュアルで、そしていまファーガソンは、まさにロンの言うとおりどうやって考えるかの本にであったのだった」 となりました。また長くてすいません。 最期から二番目の真実、かもしれない長大な作品。必読。 蛇足ですが、原書は800ページらしいですが、翻訳は電子書籍でも、1200ページを超えるので、読んでも、読んでも、終わらないという恐怖がありました。やっと読み終わったのもダウンロードしてから、1週間くらいかかり、最後のページまできたら、達成感や到達感よりも、虚脱感、脱力感の方がおおかったです。過去にもピンチョン先生の「重力の虹」やキング先生の「スタンド」「It」で似た感じの経験がありますが、それらよりも疲れました。 | ||||
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本書『4321』のタイトルは、奇妙です。 年号でもないし、何なのでしょう? 著者オースター自身が本書中に具体的に書いています。 「自分自身の別バージョンを三つ捏造して、自分の物語と並行して語るのだ」(787頁) 「そうして彼らが死んで、自分一人しかいない状態に戻る。最後に残った一人。 ゆえに、この本の題――4321」(788頁) 「ファーガソン1の死」(788頁) ファーガソン2も死ぬのでは? ファーガソン3は二十歳で「交通事故」(788頁)で死にます。 最後に生き残ったのは結局、ファーガソン4ひとり。 著者のオースター自身が亡くなった現在、 これ以上の追加説明を著者本人に求めるすべはありません。 あとは愛読者の勝手な理解にまかされています。 いろいろ考えられるように残してくれました。 例えば、野球のダイヤモンドを想像してみることも可能です。 「4」はホームベースで、「3」は三塁、「2」は二塁、「1」は一塁 を意味するのではないか、とか。 最後の最後までプレーを続け、ホームベースに到達できたのは、自分一人。 三塁、二塁、一塁にいた、自分の分身であるプレイヤーたちは皆、結局アウト。死。 そんな「ダブルスクイズ」(723頁)クラスの難プレイ状態の野球試合に重ねて、 自分の人生にたとえた本書タイトルとしたのでは、と読者は推測しました。 ポール・ベンジャミン名義で探偵小説『スクイズ・プレー』(1984年)を書いた、 野球が命だったオースターですもの。 だから本書のタイトルも、 54321と普通に5からカウントダウンとするのではなく、 中途半端な4からカウントダウンを始めたのではないでしょうか。 本書に目次はありません。 「1.0」(5頁)というバージョン番号みたいな数字の見出しで始まっています。 「1.1」(32頁)、「1.2」(49頁)、「1.3」(63頁)、「1.4」(79頁) 「2.1」(101頁)、「2.2」(139頁)、「2.3」(174頁)、「2.4」(217頁) 「3.1」(259頁) 「3.2」(290頁)は白紙です。 白紙になっているのは、印刷ミスではありません。 この白紙部分は奇妙です。何を意図しているのでしょう? オースターは白紙部分に何を書くつもりだったのでしょう。 「3.3」(291頁) 「4.1」(349頁)、「4.2」(377頁)白紙、「4.3」(378頁)、「4.4」(419頁) 「5.1」(463頁)、「5.2」(490頁)白紙。「5.3」(491頁)、「5.4」(525頁) 「6.1」(563頁)、「6.2」(607頁)白紙、「6.3」(608頁)、「6.4」(650頁) 「7.1」(699頁)、「7.2」(742頁)白紙、「7.3」(743頁)白紙、「7.4」(744頁) 本書は巻頭で、シリ・ハストヴェットに捧げられています。 他方、シリ・ハストヴェットのほうも彼女の長篇小説『目かくし』(1992年)を ポール・オースターに捧げています。 本書の最後の言葉は、「彼はハッピーという名の女性と結婚していた」(790頁) 合衆国副大統領のハッピー・エンドで終わっています。ユーモアですか? オースターはななぜ、本書をこんな形のハッピー・エンドにしたのでしょうか? 著者は本書で何を言いたかったのでしょうか、 本書をなぜシリに捧げたのか、今も考え続けています。 《備考》 A(アーチボルド、アーチー). I(アイザック). ファーガソンの年表 1900年1月1日 祖父イサーク・レズニコフ、アメリカに到着(5頁、786頁) 1923年3月7日 父方の祖父アイザック、シカゴの革製品倉庫で射殺される(5頁、651頁) 1944年4月6日 スタンリー、ローズ・アドラー21歳と結婚 1945年5月5日 アーチー叔父さん心臓発作で死去。49歳(26頁) 1947年3月3日 ファーガソン3(F3)、誕生 1954年 F1、7歳(44頁) 1954年1月 父親スタンリー、放火で焼け死ぬ(501頁) 1955年11月 倉庫泥棒 1956年2月 自動車事故 1956年 新しい家に引越(217頁) 1956年3月 父、テニスセンターを開業。息子(F4)、9歳 1960年 F4、13歳。8年生(217頁) 1961年 F2? 、死ぬ(788頁) 1964年3月3日 ファーガソン17歳になる(281頁) 1965年 F3、18歳(502頁) 1966年12月 F1の祖父、心臓発作で亡くなる(564頁) 1967年12月 F1の祖母、脳卒中で亡くなる(564頁) 1967年 F3、20歳。交通事故で死ぬ(788頁) 1970年1月1日 1971年9月8日 F1、火事で死ぬ(788頁) 1975年 F4、28歳。モンロー先生(446頁) 本書は、「激動の1960年代を扱っている」(792頁、訳者あとがき) 本書に、アーチーの分身は4人登場しますが、年齢は皆同じ。 一人の人間を前後左右の四面から描いた自叙伝。 なので、年号の記載のなかった出来事は、アーチーの年齢から逆算しました。 | ||||
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