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闇の奥
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闇の奥の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.94pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全58件 1~20 1/3ページ
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タイトル通り | ||||
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再読。やはり面白い。 | ||||
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真に、名作は古くならない。 著者がウクライナ人であること。 また、最後の訳の真意は、 女性の名前は。 あなたの名前を呼んでいました。 「イッツアホラー」であること。 だと思いますよ。 | ||||
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古典らしく読みづらい部分もあるが 大変面白く読めました。 意外と話は短い。 しかしとても濃厚で泥のようで重い。 展開は違えど、映画はこの原作の感触を うまく映像に変化させていた。 また映画を見たいと思う。 解説も細かく面白く、大変ありがたかった。 ちなみにhorrorは地獄と訳されていました。 ホラー。 | ||||
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アフリカ支援で有名な原寛太氏のお勧めなので読んでみた。 19世紀末、船乗りマーロウは象牙収集に天才的な手腕を発揮する貿易会社のクルツと面談するため、コンゴ奥地に向けて川を遡る。苦難の旅の果て、マーロウが見たものは。 文章の密度と迫力に圧倒される。熱帯ジャングルのうっそうとした仄暗さと熱気を肌に感じるようだ。蛮族の襲撃は陰にこもって凄惨である。胸躍る冒険譚とは正反対の極みだ。現地人の置かれた状況の悲惨さが胸を抉る。こういう文章を読まされると、低評価にはできない。かと言って絶賛する気になれないのは、白人の植民地政策が背景にあり、かつそのことを批判する視点が欠損しているからだ。時代を考えると無理もないのだが、どんな肌色でも人間には変わりないという良識を持つ現代人には、違和感を覚えずにいられない。 創作の9年前に作者はベルギーの会社に雇われてコンゴ奥地に出かけている。その体験が元になっている。世界最悪のコンゴ支配は、ベルギー国王が責任者だ。イギリス国籍でポーランド系移民である作者に直接関係は無いが、それにしても同じ穴の白人である。 なにが「地獄だ、地獄だ」だ。嫌ならさっさと国に帰れ。植民地に乗り込んだ毛唐がどんな目に合おうと、同情する気にはなれない。政治的意見は切り離して純粋に文学として評価すべきなのかもしれないが、私にはそれは無理だ。 ドラマの迫真性と描写の秀逸さを評価して、星四個。 | ||||
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渾身の名著にして名訳。訳者の解説に一つだけ付け加えさせて頂きたい。16世紀から19世紀半ばくらいまで、欧米の徒弟制度は国家管理され、徒弟候補者と徒弟は売買の対象だった。そして水夫についてもこれは特に真実で、かれらは強制徴募さえされた。音楽家もそうで、バッハは施設育ちだ、いわば切り捨て御免、無権利無保障の状態にあった。コンラッドもユゴーも、そのために海に生きる人びとを書いた。かれらには「海にしか祖国はない」。 | ||||
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古典を読まなくなって何年にもなる。十代、二十代の頃は、向学心も強かったためか古典ばかり読んでいたのに、今は新作の追っかけに四苦八苦してそれで済ませている自分がいる。でも古典は、今も時に気になる。未読の古典はずっと心の片隅で消化されることなく遺り、燻り続ける熾火である。 本作は多くの方とおそらく同様に映画『地獄の黙示録』を契機に知ることになったものだ。コンラッドという作家は冒険小説作家の起源みたいなものである。ぼくはパソコン通信時代<冒険小説フォーラム>に入りびたり、ついにはSYSOP(システム・オペレーターの略でフォーラム運営者を言う)にもなりゆき上なってしまったが、恥ずかしながら冒険小説の古典であるコンラッドの作品に目を通したのは今回が初めてだ。パソコン通信とそのフォーラムがなくなってしまったのは30年前くらいで、その後は情報交換手段はインターネットに移行。さらにパソコンからスマホへと多くのツールやソフトがアプリとなって移ってゆく。 そんな時の流れの早さの中で、今もなお生き残り続けるのがコンラッド的世界であると、ぼくはこの作品を読んで確信した。フランシス・フォード・コッポラの映画『地獄の黙示録』を観ている方には、本書がその原作となっているということで馴染みやすいと思う。しかし本書は正直言ってお世辞にも馴染みやすくなどはないと思う。一世紀以上の時を隔てた物語なのだから。さらに進化に置き去られたような場所が舞台なのだから。 本書は、主人公のマーロウが川船で進んでゆく密林と、その最奥部に棲むという謎めいた男クルツ。一言でいえば語り手のマーロウのクルツとの出会いをクライマックスに描いた冒険物語なのだが、さらに驚くことは、コンラッド自身が、未開のコンゴを舞台にした川船行その他の冒険を実際に果たしてきた人間であることだ。 作品の大分は、テムズ河口でマーロウが問わず語りに話し出す一人称により描かれる。作者自身がマーロウのモデルでもあり、それを聴く側の船乗りたちでもあるのだろう。そんな不思議な情景に本書はスタートする。コンラッド自身の過去や体験がこの物語を語っているようにも見えてならない。 紙の上に文字を書くだけではなく、実際に船で世界の辺境を巡る人物が、本書の作家でもある。そんな重層構造。しかも彼の生きた時代。彼がこの小説を書いたのは現在より122年前のことである。その時期においてさえ、コンゴという国の深奥部は、あまりにプリミティブであった。人喰いの習慣のある現地人、野生のままの生活の中に入ってゆく象牙収集会社、クルツのように個人で王国を築く者の存在。 あらゆる人間の原初的なものと、文化の進出を阻む野性、そして思うがままに持続してきた未開の文化。それらが作者の歴史観を根底から破壊してしまった。そんな痕跡が散見されるような表現で綴られる黙示録なのである。 段落替えの少ない圧倒的な語り口で綴られた何か月にもわたる遡行の旅と、その結末。未開の地で行使される暴力は避けられず、神の不在を感じる作者の体験。それらは、後世には『地獄の黙示録』という映画のエネルギーとなり多くの人々に目撃されることになる。ヴェトナム戦争の現代へ、アジアの密林に舞台を変えて。 本書は堂々、高見浩氏による新訳である。冒険小説という忘れかけていた言葉が蘇るような力作であるとともに、人間の感ずべき真の恐怖、その恐怖との闘いについて、言葉でしか綴ることのできないメッセージが否応なく感じられる本書。生き残ってきた古典の迫力と、語り口の強さと、描かれた題材の独自さを、改めてまざまざと感じさせる、確かな古典傑作である。 | ||||
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自分の好きなジャンルではなかった | ||||
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いい。この訳、読みやすいじゃないか…と思ったら、『八月の光』で大絶賛した訳者、黒原敏行氏だった!!!ああほんと光文社古典新訳文庫は外れがない!!!! これは『地獄の黙示録』の原作に当たるものだが、映画はベトナムで、原作はコンゴ。映画はタイトルしか知らないのでなんとも言えないが、当時社会問題を提起する問題作だった模様。でもこれ読んでみたら、社会問題とか歴史的な国の事情は完全に置いといて、人間の心をどこまでも深く見て行く話なんだと思う。象牙をとる会社の人間がコンゴの山奥の出張所にいる象牙を山ほどとってきて会社の人間が危険視するほどすごい人間がいる。彼が病気らしいと現場を確認に行くのだが・・・。 なんの予備知識もなく情景を思い浮かべて原住民といる「命が危険だ」という宙ぶらりんな状態をビリッと感じてほしい。そして成功する、崇拝される、あらゆる満足が緊張感の中で満たされていること。人間存在って、他者によって証されると思うけど、意思疎通困難な原住民たちに崇拝されるという証はどういうものなんだろう。自分が価値があると思っている文化外ということになる。リスクの伴う支配欲か。 なんとなく知らない世界に飛び込みたいという勢いで来たマーロウ、コンゴの山奥で象牙を集め続けるクルツ、最後に出てくるクルツの婚約者。 現地の人を支配するクルツにはどんな恍惚感があっただろう。それは恐怖と紙一重なのかもしれない。そういう闇を感じながら読むのだ。 黒人に対する差別的感情、表現はたっぷりある。でもそれは、社会的に「反省」するのではなくて、自分の中の差別するこころを炙り出すものなのだ。これはいい、悪い、自分はそう思わないを判断しないで受けとめてみることだと思う。 訳者あとがきにもあったが、この作品自体はコンラッドの体験を中心に書かれており、自分の中に起ったあるがままを書かずにいられずに書いており、きっと社会問題提起というような目的はなかったはずと。と思うと、わたしは映画をベトナムで撮ったというのはなんか違うかな~とも思うのだ。 『八月の光』がアメリカ文化の中での黒人差別であるとすると、『闇の奥』は原住民差別・黒人差別にあたることだが、生命の危機を感じる大自然の中で生きていく白人の視点から生きている黒人への感情を書いている。同じ文化の中じゃないってことだな。現にマーロウは操舵手をしてくれていた青年とある種の共有する感情が芽生えていた。彼が自分の隣で死んでいくのを見つめる中で起っていくこころの流れも生々しい。きれい事ではない。 ひとことでいうと、客観的に黒人を低く見ている差別からさらに奥の人間のこころを見るという感じ。生々しい闇。 訳がすごいというのはわかった。 | ||||
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熱帯の重苦しい空気、真っ暗闇に浮かぶ白い目玉、汗で光る黒い肌、 闇を作り出す巨大な原生林の雰囲気がすさまじい描写の連続で迫ってくる小説でした。 息苦しさを覚える文体に圧倒されながらの読書でしたが、 正直なところいま何が起きているのか、一体何の話をしているのか、 さっぱりな場面がほとんどでした。 ただこの本を読んでいるとセリーヌやフォークナーの作り出す世界の描写が 鮮やかに頭に浮かび上がります。様々な後世の重要な作家にコンラッドが 色濃く影響を与えているのが非常に伝わってくる作品でした。 | ||||
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クルツ氏の居所に着いてからは拍子抜けな展開とも言えるが、ありきたりな冒険譚ではないということだろうか wikiによれば人間の心の闇を書いた作品らしい、言われてみればそんな気もする マーロウの淡々とした語り口調、「闇」へ進んでいく雰囲気、海やジャングルの描写が良かった クルツ氏は密林の中で自分を見失ったのだろうか 何が「恐ろしい」のか考えられるなら考えるべきだろう | ||||
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ジョウゼフ・コンラッド(1857‐1924)のこの『闇の奥』(1899年)は、フランシス・フォード・コッポラが映画『地獄の黙示録』製作のさい参考にした作品ということで広く知られるようになった小説です。それにくわえ、この作品はコンラッドの小説のなかでは中篇ということもあり、作品としていちばん入りやすく読みやすく、コンラッドの代表作のように見なされているところがあります。 こうしてひとはコンラッド入門のつもりでこの中篇を読みはじめるのですが、まあじつはコンラッドの小説はどれもそうなのですが、思った以上に読みすすめるのに難儀するのではないかと思われます。 評者は、この小説をずいぶん前に中野好夫訳の岩波文庫で読んだことがあります。 今回、この新訳のほうで久しぶりに読みかえしてみました。 物語のだいたいの流れのほか、道化服を着たロシア人とか何かが杭に刺さっている柵とか最後のクルツの婚約者との面会などが記憶に残っていましたが、とにかく今回の新訳は読みやすく、さほどつっかえるところがなかったことをまず記しておきます。 この小説については、西洋各国がアフリカやアジアで推し進めた帝国主義・植民地主義による侵略や搾取・収奪、そしてその際の白人至上主義やレイシズム、そういった観点からの読みなおしがあるようですが、さてどうなのでしょうか。 物語はアフリカ中央のコンゴの奥地が舞台になっているとされています。 しかし地名などの固有名はいっさい言及されません。また、語り手マーロウが船長として乗る蒸気船がクルツのいる場所へと大きな河を遡行してゆくさいも、その周辺の風景は精細なリアリズムをもってする具体的な描写というよりどこまでも多くは象徴的・暗示的な描写になっています。 つまり当時アフリカ大陸の多くの土地はまだ世界地図の空白地帯のままでしたが、もとより小説家は、クルツそして語り手マーロウが(そしてコンラッド自身も)深く分け入っていったアフリカという土地、その地理・地形や自然あるいは現地の住民を具体的に描くことにほとんど関心をもっていないということです。 どれでもコンラッドの作品を読めばわかるように、ここでも、小説家の関心はアフリカの「闇の奥」よりも明らかに人間の「闇の奥」のほうにあったと思われます。 問題はしかし、クルツのその心の「闇の奥」は語り手マーロウによって重く荘厳化され語られているけれども、それを語る言葉は、評者にはただおおげさなだけで、読者をして「怖ろしい、怖ろしい」(中野好夫訳では「地獄だ、地獄だ」)と納得させるだけの衝迫の強度に欠ける気味があるように思えることです。 コンラッドは一作ごとに作品のあるいは小説創造のステージがあがっていった作家だと評者は考えているのですが、この『闇の奥』はまだなお習作っぽい印象があります。 ただ、本書の最後には、作品をその外部へとさまざまな参照枠を用いて紐づけている、日本のコンラッド研究者による解説が添えられていて、これを読むと、けっして出来がよくない(!)作品でも、ポスト・コロニアル批評をはじめとする最新の批評理論を華麗に駆使すれば、無理矢理(!)にでも一見するとものすごい問題性を秘めた一大傑作に仕立てられるのだなあとちょっと啞然としてしまったところがあります。 | ||||
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中学生くらいのときに、地獄の黙示録の原作を読みたくて300円で買った本。懐かしい駸々堂のブックカバーのまま、40年寝かせて今頃読んだ。 主人公マーローが、アフリカの奥地にいるクルツを連れ戻すように会社に命令され、地獄のような光景を見ながらコンゴー川を遡って行く。 地獄の黙示録が好きな人ならきっと気にいると思う。 | ||||
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後書きによると、この本は難解な作品とされていたようだが、本質を汲み取った新訳で、非常に面白く読めた。 | ||||
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光文社古典新訳文庫版「闇の奥」のレビュアーさんのレビューを拝見していたら、本作を別の出版社の文庫で読んで挫折したのは私だけではないことを知り心強かったです。 さっそく購入したのはいいけど、今日まで多分5年以上〈積ん読〉状態でした。 中編ということもあるけど、書評にたがわず読みだすとけっこうスイスイ読めて数時間で読み終えました。 もともと、秘境アマゾンやアフリカ奥地を探検する冒険小説は大好きな私ですが、本作はずいぶん昔に岩波文庫(中野好夫訳)で読んで途中で挫折してから、何となく敬遠していました。難解な作品という世評もあったし。 そんな私のような過去に挫折した読者にとって〈光文社古典新訳文庫〉は確かに救世主ですね。 何しろズンズン読める現代的な訳文がありがたいです。しかも特に前半はズバリ私好みの秘境冒険物語、いやいや、秘境のさらに上を行く〈魔境〉冒険物語です。 最初の方はロンドンはテムズ川の河口における遊覧ヨットの話から説き起こされていて、岩波文庫版で挫折したのも、たぶん「秘境冒険と違うじゃん」と感じて、早々と読みやめたのかも知れません。つまり中野好夫さんの翻訳のせいではなかった可能性があります。そうは言っても1958年刊の中野訳よりも2009年刊の黒原敏行訳のほうが読みやすいのは確かだと思います。じつに半世紀の隔たりがありますからね。 主人公 (話者) のマーロウが、謎のカリスマ象牙商人クルツを救出するためにコンゴ河を遡り始める前から、現地の黒人たちの悲惨と白人たちの横暴は目を覆いたくなるほどですが、いよいよ蒸気船で河を遡り〈魔境〉ふかく潜入していくところは、並みの秘境冒険小説よりも引き込まれました。 もうじきクルツのいる出張所にたどり着ける手前まで来たところで、河岸から濃い霧越しに黒い原住民たちの槍が雨のように船に降り注いで死者まで出るシーンは秘境冒険小説の傑作「ソロモン王の洞窟」をもしのぐド迫力です。 しかし、後半はコンゴ河に深く潜入すればするほど〈魔境〉の色合いが深まっていくと同時に文学的・思弁的な色合いも深まりを見せ、コンラッドの描写力と多彩な比喩のもとに、密林の奥で白人によって営まれる徹底した植民地主義の惨状というか、どんな人間の胸奥にも潜む原初的衝動や悪魔的物欲の地獄絵図が白日のもとに暴かれてゆく。そして、その地獄絵図の首謀者クルツは病魔の果てに「怖ろしい! 怖ろしい!」という謎めいた有名な言葉を残して死んでゆく・・・。 本作の末尾で、墓のような都市(ベルギーの首都ブリュッセル)でクルツの婚約者に会ったマーロウが、美しい婚約者からクルツの最期の言葉を聞かれて、「怖ろしい! 怖ろしい!」というあの悲惨な言葉ではなく、「彼が最期に口にした言葉は--あなたのお名前でした」と答えたところでは、思わずグッときました。マーロウは紳士です。 難解と思われた英文学の傑作中編を、この機会にぜひ読みやすい新訳でどうぞ。 | ||||
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『闇の奥』(ジョゼフ・コンラッド著、黒原敏行訳、光文社古典新訳文庫)は難解な小説とされているが、巻末の武田ちあきの解説が理解を大いに助けてくれました。 ちっぽけな煤まみれの蒸気船の若き船長・マーロウが、象牙交易で絶大な権力を振るうクルツという人物救出のため、アフリカ奥地へとコンゴ河を遡る旅に出ます。白人に虐げられる黒人たち、底知れぬ闇のような密林、森に隠れて不気味に蠢く黒人たちなど、マーロウにとっては驚きの世界が次から次へと眼前に展開されていきます。その道中、いろいろな人からクルツの噂を聞かされ、マーロウは好奇心を掻き立てられます。 「うしろでチャラ、チャラと小さな音がしたので、振り返ってみた。六人の黒人が縦一列に並び、苦しそうに小道をのぼってきた。背中をまっすぐ起こして、ゆっくりと、頭の上には土をいっぱい入れた小さな籠を載せている。チャラ、チャラという音は足の運びと拍子が合っていた。腰に巻いた黒いぼろ切れの、うしろに垂れた部分が尻尾のように揺れた。あばら骨がくっきり浮き出し、手足の関節はロープの結び目みたいだ。どの男も鉄の首輪をはめられ、全部が一本の鎖でつながれている」。 「人も、物も、建物も、埃にまみれたがに股の黒人たちがぞろぞろやってきてはまた去っていく。粗末な綿製品や硝子玉や真鍮の針金といった加工製品が闇の深みへ持っていかれ、それと引き換えに貴重な象牙が少しずつ運ばれてくる」。 「会計士は、ペンを置いて、ゆっくりと、『あの人は大変な人物です』と付け加えた。いろいろ訊いてみると、クルツ氏はある出張所の責任者だが、そこはとても重要な出張所で、まさに象牙の国ともいうべき地域にあるとのことだ、『その一番奥にありましてね。ほかの出張所を全部合わせたよりも多くの象牙を送ってくるのです・・・』」。 「俺はその五キロほど先で、額に銃弾の穴があいた黒人の中年男の死体にまともに躓いてしまったが、そうやって死体にするのは永久に効果の続く蛮人の教化法とみなされているのかもしれなかった」。 「何キロも何十キロも果てしなく静寂が続く――こうして俺たちはじりじりとクルツのほうへ近づいていった」。 「(クルツの邸を取り囲む杭の一本一本に串刺しにされた)首は黒くて、干からびていて、頬や眼がへこんで、瞼を閉じている――杭の先で眠っているようだが、唇が乾いて縮み、白い歯の列が細く覗いているせいで、笑っているようにも見え、永遠の眠りの中で何か滑稽な夢を果てしなく見ているかのように、ずっと笑みを浮かべつづけていた。・・・あの首はみんな謀反人の首なんです、と(クルツの最後の弟子である)青年は言った」。 「魔境に魅入られる前のもともとのクルツの幽霊が、空疎な紛いものの枕もとに頻繁に現われた。紛いもののほうはもうすぐ原始の大地に葬られる運命にあった。クルツが深く分け入った神秘への悪魔的な愛と、すさまじい嫌悪が、クルツの魂の争奪戦を繰り広げた。原始的な感情を飽きるほど味わい、偽物の名声やまやかしの栄誉をむさぼろうとし、成功と権力の持つあらゆる見かけを貪婪に求めたクルツの魂を奪い合ったのだ」。 クルツの死後、クルツから託された書類の束を持ってロンドンに戻ったマーロウは、クルツの婚約者に会いに行きます。そこで、マーロウは嘘をついてしまいます。「『あの人の最期の言葉を――生きる支えにしたいのです』。彼女は小声で言った。『わかってくださるでしょう。私はあの人を愛していた――愛していたのです!』。俺はようやく気持ちを立て直してゆっくりと言った。『彼が最期に口にした言葉は――あなたのお名前でした』」。クルツが実際に発した最期の言葉は、「怖ろしい! 怖ろしい!」だったのに。因みに、中野好夫は「地獄だ! 地獄だ!」と訳しています(岩波文庫版)。 多くの識者たちが本書をいろいろと評しているが、コンラッドは、帝国主義・植民地主義を告発するといった考えではなく、闇の深い異世界、文字どおり魔境で、若かった自分が体験した驚きを文学という形で表現したかっただけだろうと、私には思えてなりません。 | ||||
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文明社会としての西洋と非文明社会としてのその他という二項対立が当然のものとして受け入れられていた帝国主義の時代に、イギリス人が「未開」の地であるコンゴを遡行していく際の体験が赤裸々に記されています。人の手の加わっていない原生林や熱帯の気候、そこで目にする奇怪な人々、欲にとりつかれた白人、最奥地で目にした光景といった衝撃を当時の人間の視点や感性で語っています。 現代の私たちがこの作品を読むことによって、単にアフリカにおける植民地主義の悲惨さを知るというだけではなく、差別がはびこっていた時代の人間ーーその中でも比較的先進的で高い見識を持っていたと思われるーーが未知の光景を目の当たりにした時にどう感じるのかということを垣間見ることができ、コンゴの探検が当時の人にとってどのようなものだったのかということを知ることができます。その意味で本作品は人類学的、歴史学的に非常に価値の高い作品だと思います。 この作品に対する批判として、「この作品自体が差別で満ちている」、「筆者、語り手のマーロウ自身が強い差別意識(白人至上主義)を持っている」というものが時々見受けられます。しかし、この作品が発表されたのは帝国主義時代の只中であり、自分たちとは異質なアフリカはまさに「闇」で差別の対象だったはずです。むしろ、上述したようにそのような時代の人々が目にする生のアフリカがどのように映ったのかということに注目すべきでしょう。また、こうした当時の感覚というのは現代の私たちにとっては異質なものです。発表当時は社会に対して衝撃を与えたとされる本作品も、現代の視点からすれば差別的な感性や表現で溢れているのは当然のことです。しかし、かつての社会状況や常識を考慮にせずにこうした現在とは異質な感性を単に「差別的だから」と切り捨ててしまうのは、異質なアフリカを差別し植民地化してきた当時の人々と結局は同じことをしているということに気づいた方が良いと感じます。 | ||||
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"なにか眼のあたり幻でも見ているように、彼は低声に叫んだ、ー二度叫んだ。といっても、それはもはや声のない気息にすぎなかったが。『“地獄だ!地獄だ!"』。著者の実体験をもとに西洋文化の暗い側面を描写し『地獄の黙示録』に翻案された事でも知られる本書は人間性を強く問いかけてくる。 個人的には、好きな作品【グレート・ギャッピー】や【1984年】ほか、特撮やアニメ作品など、様々な作品に影響を及ぼしたとの事で興味があったのですが、今回ようやく手にとりました。 最初の印象としては、読みはじめてすぐにすっと(それこそ、闇の奥に招かれる様に)作中に入り込まされる割に、しかしなかなかに読みにくい感覚。ただクルツという謎めいた人物を救出するまでの【悪夢のパノラマ】を見せられている様な幻想的な展開が続く本書は中盤から後に関してはグイグイと引き込まれました。 また、著者自身が船員としてコンゴ掠奪を体験し"コンゴ以前、僕は単なる動物に過ぎなかった"と大きな衝撃を受けた直後に書いたとの事ですが。当時の【非人間的に終始扱われる黒人】の描写、【白人の傲慢さを強く感じさせられる】帝国主義の様子に、著者の心境にも思いを馳せたり。 自然と文明の関係や、人間性の荒廃について考えたい誰かに、また没入感をもってアフリカの植民地政策を追体験したい誰かにオススメ。 | ||||
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地獄の黙示録を見た時に「は?」となった。 この本を読んでても「は?」となった。 迫力というか気迫が有る、闇をこうも表現できるか。 著者はさぞかしタフな人生を送られたんだろう。 | ||||
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30数年振りの再読。御多分にもれず「地獄の黙示録」から立花隆さんを経由して手に取った口ですが、背伸びして観た「地獄の黙示録」が中学生には難しかったせいか、本書もその数年後の当時の自分には楽しみどころの掴めない作品であった記憶があります。 今回、読み直してまず気付かされたのは、たとえば冒頭の「背後の暗澹たる雲の下」が、ラストの「一面の雲空の下を黒々と流れ、末は遠く巨大な闇の奥までつづいているように思えた。」に繋がっていることであったり、「この沈黙を支配するのが俺たちか?それとも逆に、沈黙に操られているのが俺たちか?」(53ページ)や「荒野はすでに早くからそれを見抜いていた」(120ページ)、「老いの日まで、この森林に生活している僕自身の姿を想像してみたりもした。」(135ページ)や「あの人を一番よく知っている人間、それは私でございますわ。」(156ページ)等のふたつの存在が分かち難く不可分に接合するイメージであったりの、布石といいますか、伏線といいますかを越えたところにある人間の内奥の魑魅魍魎でした。 | ||||
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