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ヘヴン
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ヘヴンの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全87件 41~60 3/5ページ
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・・・・とかいう宣伝文句につられて読むと、意表を突かれるかも。 確かにまあ一応はその通りではあるんだけど、一見わかりやすそうで、実はなかなか奥の深い純文学作品。 なんというか、一読しただけではわからない、作者の狙いや思いが、話の展開の行間や、ちょっとした細部なんかに織り込まれた傑作。 理念や観念を支えに生きることの美しさと危うさ、生の実存的苦しみと出口の模索、生と俗との対比、等を通じながら、苦しみを受けた存在である我々にとって、「ヘヴン」はどこにあるのか、を作家は問うているように思える。 そして自分が読んで感じたところでは、それは他でもないこの世界の中にしかないし、この世界の中にあることを見いだせと、作家は訴えているように思われた。 読書会のメンバーの考えはとても一致にはほど遠かったけど(笑) とはいえ、簡単に意見の一致などさせないところが、作品が純文学である証だともいえるわけで・・・・ このような作品と巡り会えた僥倖に感謝したいと思う。 | ||||
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知りました。したいからする。というのが本音? では、いじめってもうDNAに組み込まれたひとつの装置なのかもと思います。 そんな理不尽なものに立ち向かうのは割が合わない。ある意味、負の感情にのっとられた化け物を相手に人間ができることって相手を殺すしかないんじゃないかと。ほんとうに殺してしまっては、同じ犯罪者におちるだけ。さっさと断ち切って、自分の人生から退場してもらう=逃げだすのが正しいと思う。 負のDNAに犯されたビョウキのやつらなんか相手にするだけ自分が傷つくだけ。相手は自分がビョウキなんて知らないんだから。あげくに、自分を殺してしまったり、相手を殺してしまうくらいなら、積極的に逃げ出してほしいと思う。 苛められる側に、殺したい衝動があっても、その暴力を実行できる人と、できない人がいる。そこをちゃんと書いてくれていたことで、わたしはこの作品を評価します。 | ||||
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イジメに意味を見出し、受動的にやられるのでなく、自ら引き受けることで強くなろうとするコジマ。 イジメをすることに意味などなく、たまたまその時の欲求が一致しただけだと吐き捨てる百瀬。 その間を揺れ動く主人公。 イジメの描写は凄惨で見ていて辛いが、物語としては面白い。結末に流れてゆくまでの怒涛の展開に圧巻。 小説として面白いだけでなく、「善」や「悪」と言った当たり前のことについても考えるキッカケを与えてくれる読み物としても面白いです。 オススメです。 | ||||
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弱者、異端、異物を排除しようとする力。それは弱く、正しくないものだ。 だけど、それは存在する。 私たちが、弱者としてそういう正しくない力の受け皿にならなくてはいけない。 それは正しく、世界でいちばん大切な強さなんだ。 というコジマの思想。 この世界に善悪など存在しない。 あるのは、世界中の人々の欲求だけだ。 天国や地獄というものがあるとしたら、それはこの世界のことだ。 そして、そこに意味などない。 という百瀬の思想。 コジマの形而上の思想か。 百瀬の現実の哲学か。 そして“僕”は。 物語の最後。 すべてを受け入れた「コジマが百瀬に手をのばしかけたとき」 現実の力にはばまれた。 “ヘヴン”は“現実”を捕まえることができなかった。 それは、相容れることができないものだから。 そして、“僕”は人生を変える決断をする。 “ヘヴン”を見ることはできなかった。 けれども、僕の見たものはただ美しい世界だった。 誰かに伝えることもない、ただの美しさだった。 これは、単なるいじめ問題を小説にしただけの作品ではないと思う。 作者の哲学。この世界に対する答え。そういうものが凝縮されていた。 そして、読者に考えさせる意味深なシーン。 たとえば、コジマが“僕”の髪を切るところや、百瀬と美しい女子生徒(おそらく妹)とのシーン。 再読に耐えうる文学作品だと思います。 | ||||
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まず最初に、本作はいじめを否定するありがちな作品ではない。 かといって肯定もしていない。 いじめという要素を扱ってはいるが、メインテーマは「生きる」こと、そして生きているこの「世の中」だ。 様々な登場人物の発言があるが、その一つ一つに深みがあり考えさせられる。 誰の意見が正しいとか正しくないとかいうものではない。 いじめを受ける主人公を中心とした人間たちとその関係、周囲の環境から「生きる」ということについて考える機会を与えてもらった。 また、文章表現には目を見張るものがあり、その繊細さと表現力には終始ハッとさせられた。 決して難しい言葉、技術は用いていない。 とにかく「伝わってくる」文章なのだ。 これだけのクオリティを一貫して保てる力は素晴らしいと思う。 是非手にとって、そして何かを感じ、それについて考えて欲しい。 読み手が何を考えたかによって評価が大きく別れる作品だろう。 あまりレビューの良し悪しに影響されないでもらいたい。 | ||||
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いじめから生まれるそれぞれの主張。 それぞれが導き出す生きるための哲学。 それは正義か束縛か…はたまた無関心か? アニメーション的な世界観ではあるけれど 現実に落とす影は確かに感じられる。 自分が導き出す正義は結局の所、 他人とは分かり合えないのだろうか… 正解も返答もこの小説には何もない。 しかし、ラストに主人公が見た光、 それは必ず日々日常に溢れていると思いたい。 | ||||
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「したら罪悪感が芽生えるからか?じゃあなんで君には罪悪感がうまれて、僕には罪悪感がうまれない?どっちがまっとうなんだろう?」 この作品の百瀬というキャラクターはすこぶる格好いい。 他の方も書いているがそれこそ『カラマーゾフの兄弟』のイワンのような《理論こそ全て》といったような態度は「お前、絶対中学生じゃねえだろ」とツッコミをいれたくなること必至。だが、こんな風に世の中を達観している百瀬はおそらく《死》を常に傍らにあるものとして生きているのだろう。故に、体育に出れず、常に咳をしていて、体を激しく動かすようなことはできない。 「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ。そんなことにはなんの意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」 本音かどうかは兎も角として、彼のこの思想は《ヘヴン》を信じるコジマの考え方と真っ向から対立する。 弱肉強食の原理で動いている社会で生き残るためには強くなければいけない。 そこに善悪の概念など必要ない、むしろ邪魔なものだ。 だから、強くなればいいんだよ、というのが百瀬の考え方。 しかし、コジマは弱肉強食の原理だからこそ、弱いものが絶対に生まれるシステムだからこそ、誰かの代わりに率先して自分が弱いものになることが現世での《試練》であり、それを乗り越えることで自分の大好きな絵のような人と人が完全に判り合い、愛し合える世界、《ヘヴン》に行けると考えている。 だから、同じ《試練》を乗り越える仲間であった“僕”が「斜視を治すことができる」という話をした時、悲嘆し非難する。 「わかっていたんじゃなかったんだね」と。 まぁ、それはそうだ。 コジマは実は金持ちの子どもであり、体を清潔にしさえすれば、身なりをきちんとしさえすれば、いつでも弱者から脱出することはできたのだから。 「あえて」弱者でいたコジマと「望まないのに」弱者でいた“僕”は決定的に違ったのだ。 僕の人生は「一万五千円」で変わることになる。 コジマとの絆、母との絆を立ち切って、目の前に広がる景色はただただ美しいものだった。 百瀬の言うとおり、世界は残酷で、“僕”もそのシステムに飲まれ、斜視を治し、学校をやめて、弱者ではない生活を送ることになるだろう。 罪悪感もなく。 故に、二度とコジマとも会わないし、会えない。 悲しいラストは、“僕”にとっては幸せなラストでもある。 それがまた、悲しいのだ。 | ||||
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何ども読みたい小説は何冊かあるけど、2回連続で読んだのは今回が初めてでした。それほど興味深かった。 川上さんが普通の文体で、いじめをテーマに小説を書いたというのに興味が沸いて、今回読んだことで作家の熱というものをはっきりと感じる、そんな作品でした。そこには作家独特のひやりとした諦観があり、表現者としての少し熱すぎるくらいの思いを感じることができました。そういった意味でも、久しぶりに小説を読むことのすばらしさを感じました。 百瀬の存在は理性を揺さぶるし、だからこそもっと知りたくなりますね。個人的には百瀬の選択は首を振りたくなるけど、百瀬の考えには納得する。百瀬が自分を凌駕するものと対立したときの姿を見てみたい。 最後の主人公の選択にはホッとしました。意味は意味でしかないということもまたひとつなんだって、いつかコジマも受け入れてほしい。 | ||||
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「いぢめ」を素材に、「理不尽」「不条理」という人生につきものの根源的な問いを扱った、かなり深い小説。ほとんどの人は自分の人生や世界に登場する「不合理」や「不条理」を<受け容れられず>、それにすじみちを付け、納得し、理解したいと、もがいて一生を終る。<もがく>こと、それ自体が人生なのだ。そして<もがく>ことでしか見えてこない、辿り着けない境地が確実にある。それは何か?「合理」は即ち「人知」の範囲内であり、「不合理」や「不条理」こそ、「人知」を超えた「神慮」の世界であること、そのことが見えてくるのだ。まさに埴谷雄高の言うように「不合理ゆえに吾信ず」の境地に辿り着く。「不条理」「不合理」な事態にこそ、実はその人にとっての今生における最大のテーマが隠されているのであり、豊饒な実りはその中にこそある、そのことに気づくのだ。その時、その人の世界は一変するだろう。今生の地獄が天国へと変貌するのである。 | ||||
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百瀬の語るいじめる側の論理と、コジマの語るいじめられる側の論理。それらが交わるはずもなく、つまりは「関係ないんだよ」の百瀬が言い負かす形で、物語は最後の破綻へと向かう。 いじめる側の中学生が百瀬のような怜悧な自己分析をできるわけもなく、実際には善悪とは何かという川上未映子の考察を代弁させる形で百瀬は存在し、この議論がこの小説の核となるわけだが、この核の部分に抜き去られて結局は打ち負かされるコジマの哀れが、最後に切なすぎる。 憎むべき「いじめ」という構造が、まったく憎むべき「百瀬の論理」に収斂されてしまう敗北感。最後に手術をして世界の見え方が変わった「僕」が、壊れたコジマのあとに滑稽にさえ見える。 「あの」文体を捨ててしまった川上未映子。しかしコジマが「僕」の髪を切るシーンのぞくぞくする美しさなど、ネイティブ言語でなくても書けてしまうあたり、やっぱり凄いと思った。 凄い、と、この小説が好きかどうか、は別の話ではある。 この小説を凄いとは思うが、好きかどうかは、ちょっとわからない。が、このコジマという少女を、多分僕は10年経っても忘れられないでいると思う。 | ||||
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佐藤泰正先生と石原千明さんの公開講座を二年前の夏に受けました。そこで本作が俎上に載せられて、佐藤先生が頻りに「わたしは支持する」とおっしゃっていたので、ずっと気にはなっていたのですが、二年たってようやく読みました。佐藤先生があえて「支持」を表明するくらいなので、まぁ察しはつきましたが、読む前に数人の友人からも「期待はずれ」の感想を聞いていました。「乳と卵」の文体と比較すればそれも「已む無し」という気持ちにもなりますが、そもそも「乳と卵」にしても、文体という表皮の下には、非常にオーソドックスな「物語」がありましたし、そういった視点で見れば、意外と地続きの作品であるように思います。知る範囲では、これ以降取り立て大きな作品はものされていないようなので、この作品を経ての作品にいやがうえにも期待が高まります。この人には、凡百(といったら、失礼にすぎますが、あえて)の若手の女性作家にはない、作家としての「骨太さ」があるように思うので、短い文章でさえ読むたび長くその作品を追いたい気持ちにさせられます。 | ||||
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最初の数ページで、いやおうなく主人公に共鳴させられた。 じぶんが虐めを受ける疑似体験をする読書だった。 それは最初のページから始まり、最後の最後まで続いた。 現実にはこれ以上のひどい虐めが行われているのだと思う。 ときどき、ふっと、他人から不当に扱われた経験がフラッシュバックして、本を閉じた。 おそらくこの物語を読むと、誰もが似たような経験をするのではないか、と思う。 作者は、主人公と別に虐められる登場人物を置き、性別による虐めの違いや、 虐めの当事者どうしの共感と断絶を描き、 また、虐める側の人間の、ほんとうに身勝手で理不尽で残酷な心理を白状させる。 内容は重いが、文章は軽めで読みやすい。 渾身の力作。 | ||||
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コジマは自分のしるしと彼の目がある限り二人は仲間であり続けられると思っていて、そして二人が仲間のままでお互いの苛めを乗り越えた時にヘヴンの絵の二人のように自分たちもなれると信じていた。でも本当は僕の目はコジマのしるしのように自分の意思でそこにあるものではなくて、仕方ないと割り切られていたものだった。だからこそ彼の目の手術の話を受け入れられなかったし、手術の話が出ただけであんなに取り乱したんじゃないだろうか。 コジマの心の内は語られないので想像するしかないのですが、結局、僕を苛めていた百瀬たちも自分のヘヴンを求めたコジマも似ていると終盤あたりから思いはじめました。たまたまそこにいたから苛める、と、自分と同じ境遇で一緒にヘヴンに行けそうな人が(たまたま)いるから繋がりを求めるというところとか。どちらもたまたまで、相手の気持ちはあまり考慮されない。だから最後に百瀬とコジマが重なって見えたシーンはなんとなく納得というか。二人が重なって見えるのはそれだけが理由じゃないんだろうけど。 善悪の根源を問う作品かどうかは私にはいまいち分かりませんでした。 そしてこれは本の構成のことなんですが、回収されない複線が多い。作者の意思でよりリアルを求めるためにそうなっているんでしょうか。しかし読み手としては「あれ?」みたいな。新しいといえば新しいのかもしれないですね。 | ||||
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いじめられっ子で自らの汚れやぼくの斜視を「しるし」と呼びそれを大事にするコジマと、いじめっ子で現実的な百瀬のそれぞれの考え方は全く違うものだが、どちらが正しいとか間違っているわけではない 結局自分がどうしたいかということなのだ。それを考えさせてくれた 最初はどうしたいか全く見えてこない主人公も最後は自分で選んだ道を進むようになる その「ヘヴン」に、あるいは「ヘヴン」への第一歩に行き着くまでの話がこの作品である 個人的には百瀬の掘り下げがもう少しだけ欲しかったかな | ||||
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今作はとにかく重く、考えさせられた。 「いじめ」を題材とし、人間の自他 を根こそぎ掘り起こし、活字に表現した 秀作。 僕・コジマ・百瀬に代弁させた、 自意識・価値観・善悪・強弱。 当たり前にある齟齬に決着を つけたいのか。 いわゆる「常識」というものは、 「常識」ではなく、あくまで 「人間の思想価値の平均値」としただけの ものなのか。 そして、「本当の強さ」とは、 攻撃・反撃・復讐することではなく、 「受け入れる」ことなのか。 終盤でのコジマの人間の尊厳とも いえるほどの「強さ」、コジマと 百瀬が重なるように感じる、僕が コントロールできない「自意識」。 そして、いろいろなことを暗示している コジマの「それから」。 最後に血のつながらない継母に 救われる僕の行く末。 とにかく、「哲学的」という表現 では軽く、それこそ読者によって、 「自他」の乖離をいろいろ考えることに 価値を見出す、衝撃作である。 「ヘヴン」を果たして、僕は見に行ったのか。 生まれ変わった僕は、それ自体、 思いの淵から消し去る強さを身につけたのか。 そういった余韻や疑問を、あえて残したまま、 作者は、読者へテーマを暴力的に突きつけて、 我々に強烈なインパクトを与えて作品は終わる。 いじめに苦しむ主人公二人の会話。 「花瓶は見た目が傷ついても、心は傷つかない。 でも、人間は見た目が何ともなくても、心が 傷つく。」 「痛みのない世界があったらいいのに。」 「痛み」のない世界こそ、「喜び」 や「楽しみ」のない世界になってしまう ことを、彼らはわかっていたのか。 わかっているけど、逃避したい衝動を 抑えることが逆に「快感」につながって しまっていたのか。 「痛み」のない世界に旅立つという、 安易な結末を選択しないことが、 本当の「強さ」であるという、 ありきたりなテーマではない、 深い人間小説を、ありがとう。 | ||||
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苦しい内容だったけど、2時間くらいでいっきに読みました。読むのをやめられませんでした。 いじめを受けている中学生の斜視の男の子。同じ教室で同じようにいじめを受けている女の子。いじめを中心的におこなっているグループの中の一人。 やがてそれぞれのもつ気持ち、理論、主張があきらかになってくる。 それぞれがあまりにすれ違っていて、驚愕しつつ、苦しくなってくる。 とにかく自分の常識が揺さぶられる感じでした。 子を持つ親として、いじめという真実は目をそらすことができない。他人事とはおもえない。そんな方には是非読んでもらいたいです。 | ||||
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傑作である。 いじめという現象をこれだけ深く、人間のひだを感じさせるほど書きこんだ小説は読んだことがない。 何となく生きているというのは、罪なのであろうか。 いじめられている人間こそ、人間の真理をつかんでいるのだろうか。 なぜ、人間は周囲の雰囲気に同調してしまうのか。 中学生のうちにこの本を読んで、じっくり議論してもらいたい。 先生にも力量が求められる。 ともあれ、文学の力を感じることができる作品だ。 | ||||
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いじめ問題、善悪の論理の齟齬・・・。 わたしには本書は、まったく、そこが主眼とは読めませんでした。 確かに「百瀬と主人公の善悪対決対話」、「公園でのコジマの昇天」は 映画にするなら白眉、名場面でしょう。 しかし、私が本書に心から胸を打たれたのは、 最後の最後のたった4行の衝撃です。 ああ、そうだったのか。 セリーヌの引用も、そういう意味だったのか。 いかに奥行きのある世界を得ても、それは「ただ美しいだけの世界」で、 それをわかちあいたい「生涯の友を喪失した悲しみ」に変わりはない。 3Dの視界を得ても、それは眼をつぶるのと大差ないのだ。 そのように私には理解が、はた、と落ちてきました。誤読かもしれません。 陳腐な言葉ですがこれは稀有な「友情」の物語だと思います。 友情の芽生え、発展、変化、破綻、別れ・・・ レイモンド・チャンドラーの不朽の名作「長いお別れ」 の男と女版だと思います。 ごつい、哀しみを描いた名作だと思います。 例えば、ラノベ「1Q84」の天吾と青豆の関係のうそ臭さに比べ、 これは本格派です。 ちなみに、コジマが「ヘヴン」と名づけたシャガールの 絵のタイトルは「誕生日」。ニューヨーク近代美術館所蔵。 | ||||
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いじめに関する登場人物の台詞や表現はもちろん、その他の部分でも思わずどきっとするような言葉が何回も出てくる。 作者の言葉選びに驚きながら読み終えて、読んで良かったと思いました。哲学するのは三回目以降にしようかなという感じで気楽に(笑) ひとつの台詞やひとつの言葉だけで、好きになれる小説だと思います | ||||
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物事の正しいとか正しくないとかいう話と、道徳の善悪との対比みたいなものがあって、 なかなか考えさせられて、おもしろかったです。 正しいとか正しくないというのは、突き詰めると主観で決めるわけですけど、 道徳(いじめの問題)というのは社会的なものなので、 まあそれだけ社会よりも個人の方が強くなっているんですかね… (と、意外にもいじめる側の論理に納得してしまう…) あと、コジマ(主人公にからむ主要人物)の内面は描かれていないので、 本当に悟りを開いた聖人君子なのか、ただ単に自分より弱い人間を探している狂人なのか とか考えちゃう… はっきりいって感動はしませんでしたけど、いろいろと考えさせられる構図でしたので、 一読の価値はあると思います。 | ||||
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