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ヘヴン
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ヘヴンの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全87件 21~40 2/5ページ
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世の中は喜んだり怒ったりする人たちで成り立っている。読んでいると辛くなる部分もあるが、いじめる人といじめられる人、それぞれに色んな考え方や価値観がある。世界は美しいと思えるような心の余裕が、人間を前向きにさせてくれる。そんなことを考えさせられる本だった。 | ||||
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いじめる側の驚くべき価値観といじめられる側のよりどころとする価値観の完全なるすれ違いの描写がすばらしく、解決できないことがわかったときの無力感、絶望感の描写が胸に迫る。 | ||||
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有名な作品らしいので読みました。川上さんの小説は芥川賞作『乳と卵』以外でははじめてです。 ストーリーは、斜視で苛められている中学生の少年の元に、同じく「汚い」という理由で苛められているクラスメイトの少女からの手紙が届くという場面からはじまります。 その後、少女・コジマに「あなたの斜視の目は、あなたそのもの」という意味のことを言われ、「その目は美しい」と褒められる。 はじめて目のことを美しいと言われた主人公は、コジマに以前にまして好意を抱くようになるものの、たまたま病院の待合で会ったクラスのいじめっ子の百瀬に、イジメについて、身も蓋もないことを言われ、さらに医者からは、斜視の治る可能性を告げられる・・・というものです。 以下は個人的な感想になります。 自分としては、読みやすかったので〈いじめ〉をテーマにしたエンタメ小説としてなら☆4つ。 逆に文学としては☆は3つかな、と思いました。 理由は、エンタメとして手に取ると、文章も読みやすく登場人物も個性的なので、酷いイジメの描写はあるものの、〈深いテーマ〉のあるキャラクター小説として読めるからです。 逆の理由は、自分はこの小説のテーマを、 『倫理(善悪)』・『宗教の本質』・『近代的主体』の三つかと思ったのですが、読んでいくと、それらのテーマ(問題提起)に対して〈回答〉が与えられているのは『近代的主体』だけだったので、 文学ではよくある、ある意味ありがちな三つのテーマに対して、そのうち二つの答えがないのは文学としては不足感を感じたからです。 (近代的主体のテーマに対しては、スティグマ(作中でいう「しるし」)である斜視を捨てることで主体=自分の意味付を変えられるという、現代的な回答が与えられています) 残り二つのうち『宗教の本質』においては、恐らく川上さんはコジマに〈神話化される前のキリスト〉のイメージ、つまり「生きる意味」と「弱いものに共感する人間」のイメージを与えていますがそれ以上の言及はないので、 さすがにドストエフスキーや遠藤周作の没している現代でもう一度このテーマを真剣に取り上げるからには、川上さんのオリジナルな回答が必要なのではないかと感じました。 (ちなみに、偶然というべきか『ヘヴン』の単行本の発売年と中村文則さんの傑作で現代のヨブ記のような『掏摸』の発売年は同じです) もう一つの『倫理(善悪)』のテーマでは、苛める側の百瀬はイジメを善悪とも思っておらず、今っぽくいうと〈リバタリアン〉という感じ、あるいはニック・ランドやバットマンのジョーカーという感じだったのですが、 ほとんどの人が宗教を信じておらず、最終的には警察や法律を頼る現代日本が舞台なので、どうしても19世紀のドストエフスキー文学に描かれる〈キリスト教の倫理に対抗する悪の哲学〉ほどインパクトはなく、 結果的に百瀬のイジメ哲学も、さすがにニーチェ・ドストエフスキーほどの破壊力はないのではないかと思いました。 もっとも、デビュー2年目で上梓した作品のようで、新人でこんな重いテーマなのに読みやすい小説をかけたのは川上さんの才能だろうと思いました。 くり返しになりますが、テーマの深いエンタメとして読むとおもしろいです。 あと、個人的に良いと思ったのは、主人公がコジマに自分の髪の毛を切らせるシーンでした。髪を切るだけなのにあのエロティックな雰囲気を出せるのはやはり、芥川賞作家の実力ですね。 それと、コジマが主人公に〈ヘヴン〉と名付けた絵を見せようとして、その後あえて見せずに、別の絵の持つ「困難を乗り越えたあとの2人の幸福さ」をコジマに言わせた後、このハサミで髪を切るくだりを持ってくることで「ヘヴン」を描くうまさも、やはり芥川賞や谷崎潤一郎賞を取るだけの作家だなと思わされました。 もう一ついうと、醜い〈僕とコジマ〉に対比させて、美しい〈百瀬と妹〉を出すところも徹底していていいですね。 (教室で百瀬と一緒に居た前髪パッツンの美少女、たぶんあの娘が彼の妹) 全体としては読みやすくて良かったです。 ゴリゴリの純文学は嫌だけど、読みやすくてテーマの深い小説が読みたい、あるいは純文学って何が読みやすいの思っているひとに良いかもしれません。 『ヘヴン』が気に入ったら、遠藤周作さんの『沈黙』やドストエフスキーの『悪霊』も読んでみてください。きっと気に入ると思いますよ。 | ||||
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…「いじめ」を主題にした作品です。いじめられるほうの内面の動き、いじめるほうの心理、傍観者のふるまいも含め、これほど細やかな描写をできるのがすごいなと思う。 いたって平易な文章で書かれていますが、その奥深さに吸いこまれます。著者の力量にうならされます。 こうした社会的な題材は扱うのは非常にむずかしい。実際に起きるいじめにこんな精神論的なことを言ってもいのちは救われないという意見もあるかもしれない。 しかしこれは小説だ。人の心に灯るひとつの希望のありかたとして、この主人公の二人のような態度もあっていい。 つまり、コジマの言うように、いじめをする彼らはほんとうは弱者なのだ、と。それを受け入れる私たちは真の意味で強いのだと。彼女は、いじめっこたちの要求を受け入れ続けるけども、最終的に彼らに魂でぶつかって勝ちます。ガンジーであれマザーテレサであれ、実際の人たちはそんなきれいにはいかず、汚れたぶぶんもあったけど。 もう一人の主人公〈僕〉(こっちがメイン)は、コジマと交流することでなにを得られたのだろうか。〈僕〉はどちらかというと、自分自身の主張はあまりない。コジマや、いじめっこたちの言うことを延々と考え続け、葛藤し続ける。 そして、主人公とコジマのあいだに深い絆が生まれたものの、コジマはいなくなる。いじめっこたちに魂の対決をして力尽きたのを最後に彼の前からは消えてしまう。 読後には圧倒された気分が残りつつ、気になったのは「ヘヴン」について。題名の「ヘヴン」は、コジマが自分の好きな絵に勝手につけた名前です。コジマはいつか〈僕〉と「ヘヴン」を共有するはずだった。それが果たせずに終わっている。 〈僕〉はさいご救われて終わるけど、コジマと「ヘヴン」を共有する未来があるとしたら、物語はどんなふうに展開していくのだろう。そんなことを思いました。 | ||||
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2009年に出版されたものだが、いまになってはじめて川上未映子の作品『ヘヴン』を読了する。だが、いま読みおえても10年間の隔たりはまったく感じられないことがわかる。 本著はきわめて衝撃的な作品とはいえ物語の構図はきわめてシンプルといえる。つまり、苛める側とそれを受ける側のはっきりした二極化で構成され描かれているのだ。だが、この作品がおもしろいのは苛めの対象となった二人が接近しコミュニケーションをとりながら過酷な状況をのりこえようとするところだろう。 生々しい苛めの描写だけでなく読者をひきつける力強さと緊張感その筆力はきわだっていて説得力もある。それゆえに作品のインパクトは衝撃的でさえある。 ひと言で苛めといっても現代社会が抱える特異な病理現象のようにみられがちだが、ある意味で私たち人間が抱える普遍的な命題とも考えられるのである。 ここでは周囲の人とは少しちがう些細なことから苛めの対象とされたコジマとロンパリとよばれるぼくが設定される。つまり、ぼくは斜視でコジマは汚れた容姿をもつだけで一方的に苛められ抵抗さえできない状況にあるのだ。しかもその過酷な状況はクラスの全員で共有されていて“外”には決して洩れ伝わることも家族に知られることもない。二人は手紙を通じて互いに言葉を交わし、ときどき会って話すようになっていくが二人への苛めはますますエスカレートする。二人の関係は手紙のやりとりで少しずつ心の支えともとれる存在に変わっていく。 コジマは自分の家族について離婚した父と母の暮らしと目茶苦茶になっていく家族の関係について感情をぶつけるように語る。別の人と再婚して裕福な暮らしを自分と母はしているけれど、靴も作業着も汚れたままひとりで暮らす父への思いについて熱く話すのだった。 「・・・わたしがこんなふうに汚くしているのは、お父さんを忘れないようにってだけのことなんだもの。お父さんと一緒に暮らしたってことのしるしのようなものなんだもの。・・・」(p94) 「わたしは君の目がすき」とコジマは言った。 「まえにも言ったけど、大事なしるしだもの。その目は、君そのものなんだよ」とコジマは言った。(p139) さらに、コジマは弱いからされるままになっているのじゃなく、状況を受け入れることによって意味のあることをしているという。やや自虐的なロジックに聞こえるけれどそれなりに説得力はある。 苛めの状況はさらにエスカレートしていく中でぼくはある日、二宮とともに苛める側にいる百瀬と激しく言い合うことになるが物語は思いがけない展開をみせる。病院の医師から斜視の手術のことをすすめられそのことをコジマに打ち明けるがコジマは大きく動揺し混乱する。 最終章の雨の日のくじら公園でのできごと、斜視(しるし)の手術をすることへの決断、物語はいよいよクライマックスを向かえていく。 本著は表面的には権力、暴力、欲望、支配というおよそ人間の理性とは対極にある行動原理のあやまちと正当性について問いかける作品ともいえそうだが、最近のトレンドでいえば反知性主義とでもいったところか。 なるほど、この圧倒する筆力と読者をひきつける凄まじい展開は衝撃的であり見事というほかない。川上未映子、並々ならぬ才能とすぐれた言語感覚を持ちあわせた作家であることはまちがいない。 | ||||
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主人公の「僕」は斜視で、それが原因で二ノ宮とその取り巻きたちからイジメを受けている。そしてクラスメートのコジマという女子も、女子グループから「汚い、臭い、貧乏」ということでイジメを受けている。 イジメの内容についての描写はかなりあるが、イジメそのものを扱った小説ではないと思う。 コジマは「私と君は仲間だと思う」ということで手紙を書いてきて、二人の交流が始まる。 世界をどのように見るのか。その状況や自分の行動に対して意味を見出していくのか、それとも単一の意味などは存在せず、欲求のみが存在するという見方をするのか。 例えば、イジメという自分に降りかかってきた理不尽な状況をどのように受け止めるか。 コジマは「僕」と立場を同一視するが、微妙な違いがあり、その違いによって物語は展開する。 コジマは実の父親との繋がりを自分の人生の中に位置付けて確認するために、「あえて」汚く貧しく臭い格好をしている。それを理由にしてイジメを受けても彼女は不抵抗であることを決める。このスタイルは自分が選びとっている。抵抗したり、逃げ出したり、その格好を止めることは、彼らの正しさを認めることであり、それは負けることであると。そしてこの非抵抗によってイジメに立ち向かうことは、いずれ必ず大きな意味を持つことになると。意味をもたずに空気だけでイジメに加担している子達よりも、意味を理解しながらその状況を受け入れていくことは「強いこと」であると、ひどいイジメを受けた後の「僕」に諭す。そこには神が人となっても神の子であるというアイデンティティは失わない、受肉の優しさと強さも感じさせる。 「僕」がイジメられる理由は、斜視にある。彼は幼い頃に手術を受けるが失敗し、一生治らないものと思って、そのイジメを受け入れていく。「私は君のその斜視の目が好きだ」とコジマから言われ、自分のこの斜視には意味があるという言葉に励まされるが、同じように不抵抗で状況を受け入れることに次第に限界を感じていく。 そして、医者から斜視は簡単な手術で治るもので、費用も一万五千円ほどであることを知る。斜視であることにアイデンティティを見出そうとしていた「僕」はコジマに相談するが、コジマは拒絶し、そのように逃げる者は自分の仲間ではないとして関係を絶たれてしまう。 斜視の相談と前後して、「僕」は二ノ宮のグループの百瀬と話す。なぜ自分をいじめるのか、そこにどんな意味を見出しているのか、という質問に対して、そんなのに意味なんか感じていないしそんなことはどうでもいい、たまたまその状況にあるだけで、欲求に従っているだけだ、君も嫌なら不登校なり周りに訴えるなり仕返しをするなりすればいいのだ、それをしないということは、意味の存在しないこの世界にあっては欲求に従える人間と従うことのできない人間がいるというだけの話だ、と平然と言ってのける。意味を見出そうとするのは、意味がないという真実に耐えられない弱い人間がすることであって、この世界には意味ではなくただ欲求のみが存在するのだと。 物語のクライマックス、「僕」とコジマは二ノ宮のグループに囲まれ、ここで二人でセックスしろと求められる。それだけは許してくれと懇願し以前コジマが言っていた意味で「屈する」一方で、手に入れた石で反撃をするチャンスがあっても百瀬に指摘されたようにそれをすることができない「僕」。コジマは不抵抗を貫き、彼女は自らと全裸となってその状況を受け入れて見せ、笑いながらその囲んでいる者たちの顔を撫で始める。その「強さ」にほぼ全員が逃げ出し、二ノ宮と百瀬は立ち尽くす。しかし我に帰った二ノ宮は全裸のコジマを倒すが、その時通りがかりの人に目撃されてイジメが発覚することで、物語の展開は終わる。その後、コジマや二ノ宮グループがどうなったかは描かれない。 エピローグ、「僕」は母親と相談して斜視の手術を受けることに決める。アイデンティティのように大切な者であるなら、それはなにをしても意識の中に残るし、そうでないなら残らない。どちらにせよ、解決できることは解決した方が良いと勧められ、手術を受ける。手術後、斜視でなくなった「僕」はよく見える世界の美しさに感動して、物語は終わる。 自分の目の前の出来事には、自分の選択には意味があるのかないのか。ただの欲求の総集に過ぎないのか。外から意味を教えられても自分のものとして受け取ることはできないこと。納得できない状況を解決できるならば、それまでの問いが意外に小さいことであったという実存的な雰囲気も感じられる作品。 | ||||
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確か自分自身の事をフェミニストといい、その手の話題になると感情的になることから若干マイナスのイメージで読み始めたのですが、正直読みやすく、どちらかと言えば面白かったです。ただ自分としてはもう少し違った結末、展開を期待したし、性的な表現もちょっと違うかな、と。 | ||||
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しばらく前に読んだ作品です。稚拙な独りよがりの可能性もありますので、他のレビューと相照らして読んでください。 「完全な善と完全な悪の対峙」というのがテーマの一つとして挙げられますが、それだけでは内容が薄いでしょう。(倫理や哲学では昔から議論されてきたテーマだと思います。私はその分野に詳しいわけではないですが) いじめの中身も一方的で、凄惨なものですが、決していじめの評論のような作品にしようと思って書いた訳でもないでしょう。(いじめを取り出すのであれば、加害者側の心理描写や周囲の環境なども書くはず) では、この本の”本流となるテーマ”はなんなのでしょうか?正直私にも分かりません。 ただ、そのヒントは、コジマと主人公の間にありそうです。つまり、この二人の関係性、あるいは主人公の言動や思考の中にこの作品の核心があるとみて良いでしょう。そして、その核心が姿を表す描写は最後に集中しています。主人公は、最後の方でコジマを思い浮かべながらマスターベーションをします。(女性には少し理解しがたい場面かもしれません)この描写が大きな意味を持つように私は考えました。なぜなら、主人公のコジマに対する捉え方、つまり、自分から見たコジマの立ち位置がその時に変化したものだと推測できるからです。主人公はいままで、コジマを思い浮かべながらマスターベーションしたことはなかったと言っています。また、公園に呼び出された後の一連の描写とも関係性があると思います。 最後、主人公は斜視を直して銀杏並木を見るところで終わります。陳腐な考え方をすれば、前の方でコジマが「あかし」を持っていたのと同様に斜視こそが彼の「あかし」であり、その「あかし」から逃れることにより世界をまっすぐに見ることができた、という解釈になりますが、なんか腑に落ちない…考えると深みにはまります。 ちなみに、ストイックというタイトルは、描写の苛烈さ、この作品を書いた川上さんの苦痛(私の想像)からつけたものです。 | ||||
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消化不良気味に終わってしまうので「なんでやねん?」って、大阪弁風味いっぱいの気にもさせるけど、「ま、これでええかも!」っていう気にもさせる佳作品。大阪弁を離れたのも、いじめのメッカともいえる標準語使用地域が舞台だから!っていうことなのかどうかは、さておき、ここでも「ま、ええか!」っていうことなのか。 デビュー2作品は立て続けに読んでしまったけれども、テーマがテーマだけに、今まで積んどく状態だったこの御本。 へヴンてなんやねん? コジマはどうなったん?二ノ宮は?百瀬は?って、気にもなるけど、継母は継母であってもそれなりに母親!っていうことが、最後にわかるところがいいここでも佳作品。 | ||||
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途中までは良かったけど、後半以降読むのがキツくなってきました。 救われないとか、そういう感情的な部分を抜きとして 段々、非現実的に感じ始めたからです。 | ||||
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どなかたかも書いてますが、ドストエフスキーを感じました。カラマーゾフ。 百瀬が語る場面が大審問官に相当するんでしょうね。 川上未映子は「いじめ」というテーマを情緒で処理するのを嫌った。 小説でありながら論理でいじめの構造に迫ったという印象です。意欲作。 | ||||
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とても生々しい小説です。 イジメられる若者と苛める若者の本音がぶつかり合います。 何が彼らをそうさせるのか?それを考えさせられる一冊です。 | ||||
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いじめられる主人公、いじめる二ノ宮や百瀬、そこに登場するマイペースな不思議っこコジマ、この関係は次第に強烈さをまし、くじら公園での事件に発展するのだが、そこには金色の雨が降るといったような不思議さが漂っている。コジマという少女には最後まで現実感がないけれど、これはまあ狂言廻しということだろう。しかし中学二年という設定は、百瀬と主人公の対話部分のレベルをみるとちょっと無理がある。あんな話ができるのは高校生くらいでしょう。 ともかく、主人公はくじら公園での事件以降、コジマには会っていないという。そこで終わるのは何だなあ、と思っていたら、最終章があった。要するにサロートの言葉のように彼はコジマの呪縛を超えたのだろう。目の手術をして「開眼経験」を持てるようになったのとともに目を閉じた、ともいえる。実際にはコジマは脊椎損傷で寝たきりになってしまったのかもしれないし、二ノ宮たちは補導されて施設に入れられてしまったのかもしれない。ともかく学校とは縁を切った主人公は斜視の手術とともに清々しい明るさを持てるようになる。結構、結構。 というわけで、物語作者としてのベテランが本領を発揮した作品といえる。 | ||||
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正直、いじめの描写は、見たくない読みたくないテーマで、読んでいてつらく、目を覆いたくなりました。 が、文章力でぐいぐい引き込まれ、一気にラストまで読んでしまいました。 いじめられる側の、弱さを受け入れることの「意味」に、いじめる側(それを看過する側)の論理である、人間の欲望における「無意味」さを対峙させて、主人公の中に相克を引き起こす構成はスリリングで、読み応えがありました。個人的には、コジマの手紙やせりふの細部、描写の的確さが素晴らしいと思いました。自意識過剰になりがちなテーマでありながら、最後まで、人物との距離を保って描き切っているのは、著者の力量と思います。また、登場人物が、主人公から見て非常に浅く描かれているのも、そこが狙いであると思いました。いっしょに住んでいるのに、表面的な会話だけの継母(ある日いきなり家にやって来た)。たまにしか会わない父親。表面的な心配しかしない教師や医師。その救いのなさが、現代社会のリアルだと私は感じました。 本来であれば、5つ星ですが、途中で出てきた、二ノ宮のトイレのシーン、百瀬の妹のシーン、百瀬と二ノ宮の関係性など、伏線かと思わせる部分が回収されていなかったことと、ラストシーンが無駄に美しいことの意味がいまいち腑に落ちなかったので、マイナス1です。でも、読む価値は十分ありです。 | ||||
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(物語の筋や結末などに触れています。) この本の前に読んだのは 中原昌也 マリ&フィフィの虐殺ソングブック 芥川龍之介 地獄変・偸盗(短編集) 阿部和重 グランド・フィナーレ イジメについての小説というよりも、(根底では通じてるだろうけれど)倫理的問題、作中では複数の主張、主に僕、コジマ、百瀬(母さんや外科医もか)の三点を対立させてる。観念的な小説とも言える。また、作中で触れられるけれど、子供に関して、学校・金銭(労働)・離婚は、社会的に重要な意義を持つだろう。 「僕」の主張は、相互性の原理を基にした善悪の価値判断。 コジマは、実利ではない曖昧で観念的な目的の為に苦難の受容を説く。恐らく、その目的が達成されたかどうかは、誰にも判断できない。 百瀬は、偶然性に基づく状況にあって、自らに利するよう個々人が自らの行為を決定すると言う。 社会にあって、三つの主張はそれぞれそれなりに有用だろう。 「僕」のものは、作中にもあるように道徳のひとつとして教えられ、また、相互性の原理は、交換(貿易・労使)を支える原理として機能する。全く同じものを与えるわけではないけれど、それに準ずることとして、与えることの同質性を重視する。(与えるという行為の点では同じだが、与えるもの・ことが異なる点で交換は成立する。) コジマのものは、観念的な目標、例えば、より良い社会・理想的な教育環境といった言説を支える。平等や権利といった理念の達成といったものも観念的目標であるが、それを目標とすることができるということは、歴史的成果とも言えるだろう。 百瀬のものは、個人主義を支え、そのときの状況により協力したり、敵対したりする。これは、競争をも支える。(作中でははっきりとは書かれないけれど、恐らく、二ノ宮と百瀬はゲイだろう。この偶然と成立は、百瀬のニヒリズムを強化し、二ノ宮を混乱させた。)(斜視もそうだけれど、親の離婚を子供が止めることは難しい。というよりも離婚は、子供に無力感を与えるだろう。これは、作中のイジメの受容とも対応する。また、人間は世界に文句を言い続けていると言える。天災をさけ、独裁者を退けたりもする。) 三者の配置としては、常識的な「僕」を間に挟み、超越的な目的を孤独に目指すコジマ、実践的なニヒリストの百瀬という構図だろう。(コジマの名はコジマ・ワーグナーからか) 三者のいわば止揚として、母さんと外科医が置かれる。彼らは思想など語らず、学校に行かなくてもいいと言い、手術を勧める。 イジメの問題に実践的に対処するなら、「逃げてはいけない」「言ってはいけない」この二つの抑圧から開放することが、重要だ。(最近は変わってきたかもしれないが)学校はイジメを認めたがらず、転校や休学は簡単には受け入れられない(地域にもよるだろうが、粘り強く交渉しなければならない)。事件が起これば対処するが、残念ながら、報告・連絡・相談は、学校や警察などの官僚的組織ではなかなか有効でない。逃げ場があることと、言えることを子供に実感させねばならない。日本の子供達はアルコール依存も不倫もしない(外国ではわからない、あるかもしれない)。また、イジメが発覚したとしても、加害者の生徒を罰することは、公教育制度上でも法制度上でも困難だろう。 イジメが社会問題であるなら、当事者を語るより、学校や省庁や刑法の未成年者への扱いの改善を検討すべきだろう。人員を増やすなど公教育により金をかけるべきかもしれない。英語やバソコンよりも、いじめや不登校への対処、具体的には問題の認知、転校・休学などの対応を積極的にとるべきだ。 共同体・組織などへの帰属に関しても、より流動性が保たれたほうが望ましいと思う。倫理に於いても、効率に於いても。 | ||||
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最初から最後まで止まらない。人間の矛盾を深い考えさせる作品です | ||||
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初めての川上未映子作品体験は、「思っていたよりも読みやすい」です。 他の作品を読んだことがないので、たまたまこの本が読みやすかっただけかもしれませんが。 内容については、私はけっこう面白く読めました。 いじめにあっている主人公の「僕」と、同じくいじめにあっている「コジマ」との二人の関係が、いつ切れるともわからないような細い糸のようで切なかった。実際、主人公の斜視を治す手術のことで、二人の関係は切れてしまう。 手術することで美しい世界を手に入れた主人公だが、その斜視が好きだと言ってくれたコジマを失ってしまう。皮肉な話だ。 コジマは、弱さという強さを手に入れたかった。それを共に乗り越えてくれる主人公を必要としていた。 しかし、そのしるしである斜視を治してしまっては、意味がないのだと彼女は言う。 主人公は治すべきではなかったのだろうか。共にひたすらいじめに耐え抜くべきだったのだろうか。 私は、斜視を治す選択をした主人公が間違っているとは思えない。いじめられていた事を継母に告白し、学校をやめることにしたことも間違っているとは思わない。つらい環境に留まっているよりも、新しい世界を生きることが可能ならば、それは選択のひとつだ。 そのために温かな友情を失ってしまうのは辛いだろうが、それも一つのステップである。 喪失は、必ず誰にも訪れる通過儀礼だから。 しかし、いじめの描写がグロテスクで、本当にここまでするのだろうかと怖くなる。 事実は小説より奇なりだから、もっとすごいいじめもあるのだろう。 そしていじめは、おそらく人間社会でなくなることはないのだろう。 誰かをいじめることで、自分より弱い人間がいるという安心を得ようとするのも人間の性なのだろう。 ふりかえれば、自分はいじめられたこともあるし、いじめを傍観してしまったこともある。 いじめたことはないが、それを止めるだけの力はなかった。 ある程度の集団ができれば、必ずそこにいじめは生まれてしまう。 そのいじめにあってしまったのなら、戦う勇気も必要だろうし、他の集団に逃げ出す勇気も必要だろう。 そして、できればいじめがなくなるような世界にしたい。無理は承知で言うが。 ひとつの結論として、この小説の選択はありだと思う。 そして、コジマの選択もまたありなのだろう。 美しい世界とは、果たして自分にとってなんなのだろうか、そう考えさせられた。 | ||||
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クラスの数人のグループから日常酷いいじめを受けている中学生の少年、斜視であり、身体も小さい。物語はこの少年の「僕」という一人称の語りで進む。「僕」の具体的な名前は最後まで出てこない。それはもちろん意図的だろう。そしてもう一人の主人公、コジマ。コジマは同じクラスの女生徒で、痩せて汚れて臭い。それには理由があることであるが彼女も同じようにいじめを受けている。そのコジマから「僕」にある日、手紙がくる。学校の机のなかメモ紙が貼り付けてられるという形で。シャーペンで書かれたそれには<私たちは仲間です>と書かれてあった。 いじめるグループは、容姿、能力など優れた位置にある子をリーダーとした子達である。彼らは「僕」を日常的に「ロンパリ」あと嘲り、無意味に殴ったり蹴ったり、またゲームと称してチョークを食べさせたり、体育館でバレーボールのぬけがらを頭にかぶせて、サッカーボール代わりにしたりする。コジマも具体的には書かれないが同様の扱いを受けている。 その間二人の「文通」が続く。このことがいつかいじめグループにばれて、酷い目に遭うのではないかと、読んでてひりひりする思いだった(最後にそうなるが)。ある日二人は一緒に小さな旅に出る。この出来事は物語り上重要な場面であるが、そこで交わす会話や佇まいなど、どちらかといえば醜い子供なのにとても美しい描写である。まるで神の子のように。 そしてコジマは、いじめられることは自分たちの「宿命」のように「僕」にいう。「僕」が斜視であることもコジマ自身が汚いことも、自分自身であることのしるしであると。だから斜視を手術で直せると「僕」が話したときコジマは強く反発し、通信が途絶える。 「僕」をいじめているグループの中に百瀬という子がいる。百瀬は、二ノ宮率いるグループの中では超然としていて独特であるから、いつか「僕」を助ける存在なのかなと思っていたがそうではなかった。「僕」の、何故いじめるかという問いに、彼なりの論理、いじめるもいじめられるもそれをどうにかしようと思うこともそれぞれの勝手である、というようなことを答える。それを「僕」は否定しきれない。 そしてある日二人が待ち合わせた公園に二ノ宮、百瀬他が現れ、ここでセックスしろと迫る。雨の中パンツ一枚にされてかじかむ「僕」。そしてコジマは自ら全裸になり雨の中、笑いながら二ノ宮達に向かい合う。それはもうコジマではなく何者かになったかのようである。 そのあといじめグループが処罰されたという描写も、コジマがどうなったかという描写もない。ただ「僕」は斜視の手術をしそれは成功し、初めて見る美しい世界に感動し、またそこで「僕」の何かが終わったことを知るのである。予定調和の全くない筋書きで、久しぶりに好いものを読ませてもらったと思った。そして、これはいわば殉教の物語のようだとも思った。 | ||||
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この作家のほかの作品(とくに初期の短・中篇作品)は詩人気質の強い才気走った印象が強く、好き嫌いがわかれると思いますが、この作品はとても読みやすい。平易な文章でつくられています。 長篇ということももちろんありますが、作家としてより広く読者に向かおうとした飛躍作なのだと思います。 題材もふくめて凡庸な箇所も多いかもしれないけれど、きっとその凡庸さこそがこの作家の飛躍であったのだと思います。 ほかの川上作品が読みづらかったというひとは、是非読んでみてください。オススメしたいです。 | ||||
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いじめる側、いじめられる側の構造・論理を、独自の解釈で描いた意欲作です。ラストの展開を含め違和感を覚える場面も、著者が真摯に作品に向き合った苦悩の痕跡だとプラスに受け取ることができました。文脈を彩る文学的な表現はさすが!嫌味なく胸に響きます。 | ||||
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