■スポンサードリンク
宰相A
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
宰相Aの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点2.92pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全11件 1~11 1/1ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
新刊でなくても特に問題なし。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
多くの作家が通るジャンル(パニック系小説など)の一つだと思いますが、設定が良いと思いました。 男性原理(父性)/女性原理(母性)などの対立項の軸が分かり易く、後書きに参考文献の紹介があり良かったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
田中文学としては初の試みである、かなりSF色の濃い作品。日本が戦争に負けてアメリカの植民地になっていたとしたら、という仮定からここまでの小説を書けるのは、さすがの想像力といえるだろう。Tが繁々と繰り返す母からの言葉が、筋の良さとはまた別にスピード感を出すことにも成功している。そこまで全面に出てくるわけではない宰相Aをあえてタイトルに持ってきたというところまで含めて、凄い小説だと思った。結末には少しの恐怖さえ覚えた。ちなみに単行本刊行当時のインタビューで作者が「この小説を笑えなかったらやばいですよ」みたいなことを言っていた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
安倍政権賛美で一緒くたの日本でよく書いたものだ これはイデオロギーや政治思想を超えたところにある勇気への賞賛である ここのレビュー欄も案の定低評価が多い だが重要なのは彼もこれを予想した上で本書を上梓したであろうということである | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
母の墓を訪れる為電車に乗った小説家は気がつくと戦後アメリカに占領されたままのような日本というパラレルワールドに迷い込んでいた。 当然ながら以下、私の主観的解釈。 安部首相である宰相Aと彼がつくるであろう国を描く小説かと思わせておいて、実は主役はそこではない。そういった自由なき国の不毛に合わせて、それに抗う人々(これはリベラルな人々も愛国心を持った人々両面あると思う)も不毛なものとして主人公の小説家は感じている。そしてただひたすらに紙と鉛筆にこだわる主人公もまた不毛である。 ニヒリズム的な内容だが、今のこの時期の日本に冷水をぶっかけたような感覚がして、何となく今の自分が感じている違和感を言い当てられたような気持ちになった。 「宰相A」のタイトルから読むと裏切られたと思うだろう。でもそういう人にこそ読んでもらいたい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「宰相A]とは現首相アベ氏の事であると誰もが知っている。それを無視して読むなどなんの意味もない行為であり、「思考停止」という今の日本を蝕む病理の根底でもあるだろう。チャンプリンの映画「独裁者」をナチス・ヒトラー抜きにして語るに等しい愚かな行為である。 Aの肥大化したモノは病的な国粋主義に浸りきった今の日本人の姿を現している。彼らの醜いレイシズム・排外主義・「愛国」という名でデコレーションした幼稚なエゴ、そのものである。 普通に見れば醜悪そのものであるそれを平気で皆の前にさらす異常さ。それこそが、自分自身の身体を蝕む原因であるにも関わらず「誇りに思う」とのたまう姿は哀れさすら漂う。まさに「井の中の蛙」になった己の姿を恥じない今の日本人そのものではないか。 本書の中で「戦争主義的世界的平和主義」が現実の世界で「積極的平和主義」の名で進行中である。 この本が「予言の書」とならないことを祈るばかりである。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
時機にふさわしい小説です。本質を突いた日米関係、安倍のこっけいな役割を、巧みな文章で描写しており、拍手喝采。出版した勇気に敬意。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
全体主義国家でありながら米国のポチとして白人の足を舐めて生きる一つの日本、米国からもエスタブリッシュメントからも排除され貧しく愚かなまるで北朝鮮のように這いつくばる一つの日本。そして、その両者のはざまに闖入した私たちの日本にいた男T。 本書は、カフカの「城」がたびたび引用されるなど、不条理劇や昔の安倍公房を彷彿とさせる作風。 どうしてもレビューや関心の方向が、安倍総理を揶揄したAという名の宰相(とは名ばかりで、米国の傀儡として死にそうなのに首相をやらされている)にばかり向きがちだが、本書を読んでみれば、そのパートは「なくてもいい」くらいにしか思わなかった。 本書においては、現代また過去における日本と日本人が、あるときはストレートに、あるときはとても婉曲的に描かれている。 このため、読者は、自身の持つ知識や日本人観のレベルの範囲でしか、本書を読み解けない。 三島由紀夫の名前も出ているとおり、昭和の時代に、日本と米国の距離感、あるいは戦前と戦後の隔絶に、多くの小説の題材を得た作家達の作品と並べてみると、また違った本書の感想も生まれると思う。 とりあえず、AはAという記号で読み飛ばして、自分なりに味わえばよい本だと思った。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
少々ネタバレがあるので未読の方は気をつけてください。 SFのような導入部で読者を一気にひきつけ、中盤からは 日本の暗部と現政権のダブルスピークを暴いていく。 そして再びオーウェルのSF『1984』へのオマージュを思わせる 結末で締め。 2015年の現政権に論理以前の拒否感や嫌悪感を持っている人は 多いのだろうが、うっかり口を滑らせると「反日」だの「在日」だのと 時代錯誤な誹謗中傷を受け、その執拗さに辟易するのがオチだ。 それを恐れずに自分のフィールドで拒否感を告白した田中氏を 心から尊敬する。 相手は私人ではない。今の日本の最高権力者であり、時代の空気 そのものなのだ。本来なら、反対の立場にいる人間からこれくらいのレジスタンスは あって然るべきなのに、黙してしまっている人の何と多いことか。 芸術家も黙せず語れ、表現せよ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この小説にパラレルワールドでの冒険譚を期待してはいけないでしょうね。ストーリーを展開させるにはページ数が少なすぎます。もしそれを期待するなら他の本を手に取ることをお薦めします。 フィクションの世界から覚めて、でもまだフィクションで、だけど主人公の独白で述べていることと書いている小説の中身は合致しない。作者の野心的な仕掛けといっていいかもしれませんが、この仕掛けがこの小説の最大の目的であったかはわかりません。 グロテスク。 われらの宰相の最大の特徴を的確にとらえていると思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
田中慎弥さんの新刊「宰相A」が問題作として話題になっている。「週刊現代(2015年4月4日号)」に田中慎弥さんのインタビューが掲載されていたので、その記事と「宰相A」の一部を引用させて頂きながら「宰相A」の魅力に迫りたい。(「」は「週刊現代」からの引用。『』は「宰相A」からの引用) 田中慎弥さんは新潮新人賞を受賞してデビューし、その後川端康成文学賞、三島由紀夫賞、芥川賞を受賞するという純文学の王道を歩んできた小説家だ。そんな田中さんが「いわゆる純文学と呼ばれるものを書いてきましたが、作家として変わらなければいけないという意識が強くあって、これまで書いてこなかったある種ファンタジックなストーリーを広げた」のがこの作品だ。 田中さんの必要とする変化とは何だろう?この発言からは純文学というジャンルを冒険的に逸脱し、他ジャンルの手法なども取り入れた新しい小説を目指したとも解釈できるが、本当のところはどうなのか?実際この小説は、これまで封印してきたであろうエンタメ要素が強化された小説になっている。作家Tが、母の墓参りに向かう途中、不思議な世界に迷い込む。そこは深緑色の制服を着たアングロサクソンが日本人としてモンゴロイドの旧日本人を支配し、世界中で戦争をしているもう一つの日本だった。もう一つの日本には次のような制度がある。 『日本国民には出生と同時に漏れなく国から、ナショナル・パス(N・P)が発行される。これにはN・Nが記載、入力されている』。『N・Pを持たないのは国家に、つまり民主主義に反逆する意図があると疑われる』。 『旧日本人として、政府が設定した特別な居住区に暮らしている。外側の、日本人と同じ社会での生活は許されていない』。 『民主的な日本に害を及ぼすものはなんであれ正義と民主主義の敵であるのだから、その敵を排除するために使用される武器、攻撃力はまさに民主主義の根幹であり、子ども達にアンケートを取れば、将来就きたい仕事として軍人は常にトップとなる』。 以上のようなシステムにより、もう一つの日本は『完全民主主義国家』を実現している。まるで村上龍の「5分後の世界」のようでもある。村上龍も「愛と幻想のファシズム」以降、政治を積極的に小説に取り入れてきたが、田中さんも本作で「明らかに今の政治状況を取り込んで」いる。そして現実の問題を反映させるため、村上龍が5分後の世界を舞台にしたように、田中さんも迷い込んだ異世界を舞台にしている。そこは絶望と不安に満ちたカフカの「城」の世界も彷彿とさせる。 宰相Aは明らかにあの人をモデルとしているのだが、田中さんは「もちろん、Aは安倍晋三総理であり、アドルフ・ヒトラーでもあります」とあっさり認める。しかし安倍=ヒトラーとはどういう意味だろうか?田中さんは安倍総理について「日米関係を継続させつつ戦後レジームから脱却するという理屈には、どこかで必ず矛盾が出てくる」と安倍総理の「わからなさ」を日本そのものの「わからなさ」に重ねて見ている。 次の発言がおそらく「安倍=アドルフ・ヒトラー」をモデルとしているということなのだろう。「安倍さん自身は悪い人でもないし、独裁者になるつもりもないでしょう。だけど、そういう弱い部分が逆に怖い気もするんです。無理を重ねて、エキセントリックなところまで行ってしまうのではないかと」。 宰相Aは演説する。『我々は戦争の中にこそ平和を見出せるのであります。最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります』 旧日本人の中に、かつてJという英雄がいた。主人公のTは彼と瓜二つだったことから「Jの再来」とされる。このアイデアのきっかけは、08年に秋葉原で起きた無差別殺傷事件だ。「取り押さえられた加藤智大の横顔を見て」、田中さんは「私に似ている」と思った。それがずっと気になっていたという。 だから事件から7年が経過して、ようやく小説に使用したということだ。7年という短くはない歳月にはどんな意味があるのだろうか?2013年のTBS「情熱大陸」に出演した時に、田中さんが秋葉原を取材する姿がカメラに収められていたが、その時すでに本作のイメージの予兆のようなものはあったのだろうか。そして加藤智大と田中慎弥が似ているとはどういうことなのか?田中さんは自分が加藤と同じことをしていた可能性があると思ったのか。 Jは加藤智大だ。加藤は英雄なのか?そしてJはTだ。加藤は田中さんだ。Jの怒りはTの怒りだ。加藤の怒りは田中さんの怒りだ。Tは政府にとっては危険物。そしてTは救世主となる。 Tは「紙と鉛筆をくれ」と繰り返す。旧日本人たちは「小説なんてなんの役にもたたない」と無視する。田中慎弥さんも、今でも必ず毎日紙に鉛筆で小説を書いている。「紙と鉛筆をくれ」というのは田中慎弥さんの叫びでもある。 本書の舞台であるもう一つの日本では、『日本のように極めて成熟、完成された民主国家において、例えば作家などの芸術家が国の認可なく表現活動を行うことは許されない、というより必要とされない」のだ。田中さんは、今の日本は自由に表現することが憚られるような、「何かイヤな空気が漂っている」気がするという。「小説を書くことの力は小さいが、ただ書きたい。わがままな欲求だけで書くのが小説」というものだと信じている。 2013年7月東京国際ブックフェアの田中慎弥さんと平野啓一郎さんと柴崎友香さんの鼎談に出席したのだが、その時に「読書との出会い」に関して、田中さんが「子供の頃に母親に布団の中で読んでもらったジャックと豆の木」と話していたことが印象に残っている。実際に田中さんは物心つく前に父親を亡くし、母親の手だけで育てられた。 本書でも主人公Tは母親しか知らず、母親は息子に次のように語りかける。そこには田中さんの原風景があり、小説を書くことへの思いが凝縮されている。そしてJが英雄になったのも母親がきっかけだった。 『さ、いくらでも書けばいいの。ただし途中でやめちゃ駄目。ずっとずっと、たとえどんなに大変なことがあっても惨めな目に遭っても書き続けなさい。残念だけどあなたは主人公じゃない。あなたは言葉を身につけて言葉で闘いなさい。言葉で逃げなさい。逃げながらでもいいから、お話を作り続けなさい。』 田中さんもこれまでどんなに大変なことがあっても、惨めな目に遭っても、書き続けてきた。田中さんは勉強もスポーツも出来なかった。そんな田中さんが出来ることは、本を読むことと小説を書くことだけだった。高校卒業後、一度も就職せず、アルバイトさえしなかった。部屋に引きこもり、ひたすら小説を読み、30歳を超えて運良くデビューするまで、たった一人で小説を書き続けた。そして今も文字通り田中さんは言葉で闘い続けている。 小説とは作家が読者に何かを伝えるために書かれる。今回田中さんが伝えたかったのは、「私には今の世の中がこんな風に見えることもあるんだけど、皆さんはいかがですか?」ということだ。今の世の中は何だか不愉快で気持ち悪い。嫌な予感しかしない。『諦め。壮絶な諦め。立派な諦め。鯨並みに圧倒的な諦め』『私は頭に来てる。それ以上にうんざりだ』。 いずれにしても非常に意欲的で、野心的で、挑発的な作品に仕上げたとの強い自負がうかがえるし、実際にそのような作品になっている。この小説にはそれだけの価値がある。この作品では文学が文学の役目をしっかり果たしている。救済のために絶対に必要なのは「紙と鉛筆」だけなのだ。 『母さん、これでいいね?なんてったって言葉より大事なものなんか、言葉を並べ替えて出来る面白いものより大事なものなんか、あるわけないよね?』 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!