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楽園への道
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楽園への道の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.81pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全26件 1~20 1/2ページ
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sukunootomo joseenitootewa kore juuyooni machigoonaiga dansee ga mitemo kanari hatjoodekir system ni naatornyaroona novel shoosakka wa futuujanainokamo shirehen kanari yuudooshitekur noovelshoowa bab dhiran mo seyana | ||||
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非常によいと記載がありましたが、極度の色あせ、汚れ多数。返品手続きもアナウンスが悪く時間がかかる。 | ||||
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ゴーギャンと、その祖母の闘いが交互に語られ、ページをめくる手が止まりませんでした。価値観を揺さぶられる大作です! | ||||
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著者についてアルベルト・フジモリ氏がペルーの大統領に選ばれた時の対立候補だったぐらいの認識しかなかったが、画家ゴーギャンとその祖母である革命(思想)家フローラという帯が目に止まって本屋で購入。実は夏休みの家族旅行に携行してあまり読まないうちに機内におき忘れて再購入した。時間ができて読み始めたら引き込まれて一気に読んでしまった。 本作は祖母と孫という関係にある二人の人物の「楽園を目指す最後の旅」から、それぞれの「楽園への道」をたどった生涯を描いている。主人公のモノローグ〜主観描写が妙に心地よい。筆者は翻訳小説を苦手と感じるが、抵抗なく読めてしまったのは訳者の力量のおかげだろう。ゴーギャンの臨終への描写などは特にそうだが、そのあたりでの日本への言及がジャポニスム的過剰な買いかぶりで、読んでいて小恥ずかしかった。 まずフローラ・トリスタンという人のことは知らなかったが、こういうすごい人物がいたのかと感心。最後の方にマルクスが出てくるのもご愛嬌だが、実は「空想から科学へ」を他に先駆けて実践していた人なのではないか?そして彼女がまだ知られていないということは、女性への抑圧が依然としてある証拠ではないか。 またゴーギャンについてはゴッホの脇役と思っていたのだけれど、本作でのその絵画作品への描写を読んで、図版などで作品を目にして初めて、そのすごさの片鱗を理解できたように感じた。 ある意味、20世紀(とそれにつながる現在の)の社会・思想・芸術を準備するターニングポイントにこの二人がいたのではないかと思えてしまう。 とりあえずゴーギャンが死んだヒバ・オア島(Hiva Oa)に行きたくなった。 | ||||
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画家ポール・ゴーギャンと、その祖母で革命家のトリスタン・フローラを描いた歴史小説。 リョサがなぜフランス人を書くのだろうと疑問に思ったが、2人はペルーに血縁があり、時代は異なるがそれぞれ滞在していた時期もあった。さらに巻末の解説によれば、リョサは大学時代にフローラの著書「ある女賎民(パリア)の遍歴」を読み、ゴーギャンよりも、歴史からほとんど忘れ去られたフローラを書きたいと構想を練っていたそうだ。 小説は1844年4月、パリを皮切りにヨーロッパで革命運動を始めたフローラの章と、1892年4月、ヨーロッパを捨ててタヒチに流れ着いたゴーギャンの章が交互に配置されている。この配置はリョサの得意とする構成とは異なり、決して絡まり合ったり一体になったりすることはなく、2人の死で小説が完結するまで保たれる。それでも祖母と孫をひとつの小説におさめたのは、2人がともに反逆者だったからだろう。 語り口は三人称と、リョサと思しき語り手が2人を「おまえ」と呼びかける二人称が混在し、物語が終盤に向かうほど二人称が強くなる。とりわけフローラを呼びかける「おまえ」にぬくもりが感じられるのは、リョサの思い入れの表れだろうか。 フローラの章では、彼女が旅をしながら労働者の集会を開く場面に、様々な回想が織り込まれている。その回想の中でも、彼女がペルーを旅する場面はなんとも魅力的だ。僕はフローラの章を読みながら、「ある女賎民の遍歴」を購入して一緒に読み、彼女の美貌と奔放な生き方に惹きこまれた。 ゴーギャンについてはサマセット・モームの「月と六ペンス」で予備知識はあったが、「マナオ・トゥパパウ」や「ネヴァーモア」など、タヒチでものした傑作を描く場面が素晴らしく、作品画像をネットで何度も眺めてはしばしば頁を繰る手を止めた。もちろん、「気の狂ったオランダ人」を始めとする回想も実に魅力的だった。 リョサの読者なら、本書が「世界終末戦争」や「チボの狂宴」などの系譜に属する歴史小説だとすぐにわかるが、重厚長大で魔術的な「世界〜」の迫力や、独裁者の暗殺というスリルに満ちた「チボ〜」に比べると、そのトーンは実におとなしい。けれどもリョサの最大の魅力である物語る力はやはり強く、翻訳の文章の読みやすさと相まって、600頁を夢中になって読ませる。 | ||||
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私はもともと、音楽と文学にはたいへん深い興味を持っており、いろいろな作品を鑑賞してきましたが、 絵画にはあまり食指が動かず、本書の主人公のひとりであるゴーギャンのことも、その名前と、晩年タヒチへ行ったこと、 それから数点の作品(『われわれはどこから来たのか…』『タヒチの女』など)を知るばかりでした。 また、恥ずかしながら、もうひとりの主人公でありゴーギャンの祖母でもある、フローラ・トリスタンのことは名前すら知っておりませんでした。 しかし、この作品を読み進めていくうちに、ゴーギャンとフローラという似ても似つかない、それでいてどこか共通した 精神を内に燃やしたような人物に惹かれていき、久しぶりに読み終わるのが惜しい読書体験となりました。 人は誰しも、自分の心のなかに想像上の楽園をもっていて、それがこの地上のどこかに実在してほしいと願っているものですが、 それを単なる「想像」におしとどめることを潔しとせず、「信念」にまで昇華させたことが、 ゴーギャンとフローラの偉大さのゆえんなのではないかなと思いました。 これが並の人間であれば、挫折と絶望を幾度もくりかえす内に、もはや「想像」は「想像」にすぎないのだとして諦めてしまい、 楽園とはほど遠いような環境のなかで人生を浪費していってしまうものです。 しかし、ゴーギャンとフローラは何度「ここは楽園ではない」と現実をつきつけられても、 それでも「きっと次の角には……」と信じて邁進し続けたのです。 そしてたとえ最後まで楽園が見つからなかったとしても、その勇猛果敢な姿に私は心からの感動を覚えました。 私にも、私以外のこの作品の読者の方にも、そして今このレビューを読んでくださっているみなさんにも、きっと心のなかに描く自分だけの楽園があるはずです。 重要なのは、その楽園から目を背けないこと、そして、それがきっとどこかに実在するのだと信じて追い求め続けることではないでしょうか。 それは大変なことかもしれない。ゴーギャンやフローラのように、最後まで見つからずに終わってしまうかもしれない。 それでも、次の角に楽園があるかどうかは、自分の目で見てみるまではわからないのです。 | ||||
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この小説を読み終えた時、私の胸の鼓動が以前よりも強く脈打っているように感じました。フローラとポールの生き方は、信念に忠実で、自由な感性に純粋で、私の心もこの小説を読み進める中で、少しずつ強く、純粋なものに近づいた気がするほどでした。 この小説を読んでいる間、困難にぶつかるごとに人生に立ち向かっていく強さはどこからくるのか、をずっと考えていました。フローラもポールも、困難にくじける事なく、逆境に打ち負けることなく、そこから学び考え、人生の糧とする強さがありました。「大切なのは逆境と失望だよ。お前を打ち砕くどころか、もっと強くしてくれるよ」と筆者は、語りかけます(私は、この語りかけが好きでした。筆者の暖かさと主人公への理解と愛情が感じられるからです)。 きっと、そうした強さの根本は、偏見のない率直で豊かな感受性からくるのでしょう。目の前にあるものを、偏見や宗教、人の言に左右されずに、自分の感性で見聞きし判断する。これが、フローラとポールが共通して持つ素晴らしい性質だと思いました。 そうして、自分の経験から感じ、思考し、得た信念だからこそ、まっすぐに信じる強さを持つことができたのではないでしょうか。「自分の知らないことは変革できない」と、フローラは何事も自分で見聞きしています。自分自身の過酷な困難をも糧としてフローラは前へと進みます。「私は使命を持たなければならないと思っています。…いつも自分の信念にしたがって真っ直ぐに行動するように心がけていますの」という言葉は、それまでの経緯から文中から飛び出して来そうなほど力強く感じました。 ゴーギャンも同じです。原始文化への情熱を信じ、常にその理想を追い求めて闘った。タヒチに行って理想が砕かれても、彼の信念が折れることはなく、さらなる探求へと突き進む強さがありました。彼らにとって、困難は新しい段階へ上がるために必要不可欠のものであるようにも思えます。 裕福な生活や宗教に逃げることなく、現実に向き合い、自由な感性を発揮し、信念を持って生きた二人の人生。自分の見聞きしたものから考え、信念を持ち、行動し、すべての責任は自ら取るのだと、彼らの生き様から教えられます。安易な道を選びがちな自分には、とても痛烈なものでした。まだ、私が若いのが救いでしょうか。これから年を経て読んだ時に、私を勇気づけてくれる本になっているといいな、そういう選択をしていきたいな、と思いました。 彼らの生き方は、なかなか真似できるものではないですが、彼らのような使命を胸の内に強く持つことができた人間は、困難に満ちた人生でも、楽園を見ずに死を迎えたとしても幸せだろう、と思いました。 堅苦しくなってしまいましたが、自由な感性を持つ二人の自由な発想や気の利いた対話、真っ直ぐな行動など面白おかしく読める部分が沢山あります。筆者の語りかけや人生を振り返る二人の回想と相まって、中盤以降からグイグイ引き込まれる作品でした。 | ||||
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フローラ・トリスタン。不幸な結婚生活の体験が、全女性の隷属状態からの解放を志し、弱者の団結の観点から、労働組合の必要性を説くに至った女性運動家。もし彼女が男であったなら、マルクスの代わりに歴史に長くその名を留めたであろうに。 本書では、1844年4月12日に始まるフランス南部での労働組合設立のための講演旅行を追いながら、ペルー、パリ、ロンドンでの回想を交えつつ、19世紀の女闘志の半生が描かれる。 搾取され続ける労働者のため、精力的に権力と闘う彼女。特筆すべきは、闘いが非暴力によるものであり、労働者に革命ではなく連帯を訴える点だ。 だが自助を惜しむ者には「搾取と貧困が人を愚かにする」「疲れの余り知性の欠片もないような顔つきをした男たち」(p94)「偏狭な信仰心が強く、無知であらゆる知的好奇心に欠け、利他精神の欠片もなければ社会的自発性もない」(p134)と容赦がない。 ポール・ゴーギャン。「野蛮人になること」を夢に、ブルジョア生活を捨て、家族を捨て、「人前では口にするのが憚られる病気」に悩まされながらも独りで未開の新世界=芸術の新境地に足を踏み入れた男。 ヨーロッパで忌避された存在、第三の性を有する「男-女のマフー」に原罪、否、西洋芸術の超越を見いだす。その木樵の少年、ジョテファとの"行為"に及ぶ描写(p71)には目を背けたくなるが、異教文明ならではの自然を望むポールにとっては、悦楽の高揚に満たされた様子だ。 このような"常軌を逸した"行為を公然と成す彼は、後世に数多あらわれるボヘミアンの先駆けなのか。そうではあるまい。たとえば、タヒチで中国人経営のアヘン窟に潜り込んだものの、活発な創作活動に取り憑かれている彼にとって、麻薬の幻覚的快楽はあまりに受け身なもの(p22)であったように、内発的なものにこそ生きる価値を見いだしていたのだから。真の芸術家たる所以。 随所に出てくる「楽園遊び」が、なるほど、本作のキーワードでもあるのか。 エコノミスト誌かニューズウィーク誌だったか、数ヶ月前、フィリップスが中国のラジオ組立工場を閉鎖するとの記事を読んだ。殺伐とした雰囲気の、昔ながらの姿で働く数百人の労働者の写真も印象的だ。まさに人海戦術。で、整理解雇されて途方に暮れるcoolie 苦力に代わるは、本国オランダの最新工場で24時間稼働し続ける先進的な無人操業ロボット群だ。米国のテスラ工場も同じだったと思う。 世界の工場、中国は終わりだな、ざまあみろ、と言えない事態が世界中で進行中だ。 無人化は世界の趨勢とはいえ、近代の熟練労働者から知的労働者を基盤とする、都市中間層の縮小が加速されることになる。 常に新しいシステムを構築しつづける上級技術者と資本提供者のグループと、与えられた環境でその日暮らしを強いられる下層労働者のグループに二分化されるのは確実だな。 あるいは、ゴーギャンのように芸術を極めんとする者、あるいは厳しい現実に背を向け、気ままにボヘミアン的な人生を選択する者も出てこよう。 2003年のペルー文学作品が、19世紀の過酷な労働者の世界が21世紀中葉にも現出しそうな予感を与えてくれるとは。そしてフローラ・トリスタンをはじめ、社会改良主義の先駆者の行動が、社会改善に向けて先手を打つべきことの指針を、成すべき行動を示唆してくれるとの、実のある読後感を得た。 | ||||
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とかく1年の収穫を語ってはすぐに忘れてしまう日本人、日本文化。最近ではその速度がインターネットなどによってますます加速され、目先の小さな変化に大騒ぎしては忘れていくということを繰り返している。 この小説は、『ノア・ノア』の画家、ゴーギャン、彼の祖母、女性と労働者のための活動に生涯を捧げたフローラ・トリスタン、それぞれの晩年に焦点をあてて、それぞれの過去をフラッシュバックで甦らせながら、交互に章を裂きつつ、入念な調査によって書き抜いていくという趣向。フローラが生まれた19世紀初頭からゴーギャンが客死する20世紀初頭まで、時代を浮き彫りにしながら、2人を活写している。2人のアバンチュールについては作家の想像で生み出された物語も組み込まれているようだ。それにしても、ともに時代に世界に反逆した者の持つパワー、意志、行動力がすごい。酸欠気味の想像力に勇気を与えてくれる。 長いレンジで考えたい、深呼吸しながら想像力を活性化したい。そんな思いに読み終わるのが惜しく感じられました。 | ||||
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ゴーギャン、フローラ、作者…、 それぞれの視点から 物語が展開していく。 特に作者の視点は、 冷静でありながら、確かに慈しみの情感を 含ませつつ、語りかけるように 物語の展開を導いていく。 特徴的な文体も、 ほどなく慣れ始め、 すぐに不思議な一体感を強く感じさせてくれた。 人生の前半を棒に振り、 棒に振ったことを感じ始めたところから、 ゴーギャンとフローラは、 反逆ののろしを上げていく。 人の人生が、他者によって生かされる ところから始まることを考えれば、 主人公たちの蹉跌は、 人間だれしもが多かれ少なかれ 思いを同じくするところであり、 普遍的なテーマになりうる問題だと思う。 ただ、普通は与えられた生に反逆せず、 流れに沿って生きることもよくあることで、 むしろ、反逆と言えるほどあがく人間は少ない。 さて二人のあがきの結末はいかようであったか。 幸と見るか不幸と見るか、 果たして楽園は見えたのか…。 いずれにしろ、読んだ後 人生の厳しさ、面白さに 慄然とするのは請け合いである。 | ||||
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「理想」にこだわり続ければ「現実」からは拒絶され、「現実」と妥協すれば「理想」には手が届かない。結局、人生は、自分ではどうすることもできないまま、その両極の狭間を翻弄されながら生きるしかないのか・・・・? どこまでも自分の信じるユートピアの実現にこだわり、その結果、あまりにも過酷な人生を送らざるを得なかったフローラとゴーギャン二人の人生の軌跡。著者は、狂気とも言うべき彼らのユートピアへのこだわりも、彼らを厳しく拒絶する現実のどちらに対しても否定も肯定もせず、われわれを、そうした人生そのものに対する根源的な思いに誘う。二人の著名な歴史的人物の人生を描きながら、人生そのものを描き切った名作。 | ||||
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画家ポール・ゴーギャンとその祖母で社会革命家フローラ・トリスタンの物語。 フローラの死後ポールが生まれているため2人の接点はないが、 生き様が似ており、2つの物語は時を超えてシンクロしているようだ。 特筆すべきは、ポールとフローラへの語りかけ。2人称の文体だ。 「この頃のおまえは本当に苦しかったね。でも決してあきらめなかったね…」 まるで子へ向けられた親のまなざしのようである。 ともに古い「西洋」を捨てて次の角にある(はずの)「楽園」を目指した。 決して賢明とは言えない生き方を選び、ついに「楽園」を見ることなく、 志半ばで若くして病に倒れこの世を去ってしまった。 この上なく優しいリョサの彼らへの語りかけを聞いていると、 本書は2人に贈る鎮魂の書でもあるのだろうかと思えてくる。 情緒的あるいは抒情的な描写はほとんどない。 命をかけて生き抜いた2人の人生そのままにスピード感を持って最後の最後まで物語は失速しなかった。 最後の、ゴーギャンの死に際の記述など、淡々と書かれているのだがその想像力は圧巻であり、 決して涙など流さず最後までペンを離さず書き切ったと言わんばかりの迫力を感じた。 とにかくスケールの大きさを感じる。偉大な2人の主人公に劣らない巨匠の傑作。 | ||||
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著者のノーベル賞受賞のニュースを見て、すぐに本書を注文した。 本書は、画家であるポール・ゴーギャンとその祖母であったフローラ・トリスタンの波乱に満ちた物語が交互する形で展開される。 ゴーギャンといえば最後の楽園タヒチで描いた作品が有名で、 モームの「月と六ペンス」のモデルにもなっている。 「月と六ペンス」と比べると、ずっと人間臭く親しみやすいゴーギャンとして描かれている様に感じたが、 決して画家としての天才性や型破りなキャラクターが損なわれることはない。 ゴーギャンの代表作とされる絵画についての記述が実に的確で、 実物を見ているかのように活き活きと伝わって来るのはさすが。 最後の方で、「時々、日本にいる自分を彼は想像していた」とあり、 「おまえは月並みなポリネシアではなくて、あの国へ楽園を探しに行くべきだったのだよ」 と著者はゴーギャンに語りかけている。 もしゴーギャンが日本に滞在していたら、 どんな傑作を描いていただろうかと想像せずにはいられない。 社会主義活動家の祖母フローラの物語もとても興味深く、 ゴーギャンの物語とあまりシンクロする訳ではないが、 フローラのDNAがゴーギャンに確実に受け継がれていると感じさせる所もあって面白かった。 | ||||
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その絵をよく知っていても、ゴーギャンの生涯については、ブルジョワで比較的恵まれた画家であるという印象があるくらいだった。ポスト印象派の展覧会でゴーギャンの有名な自画像を見てなにか感じるものがあった。とらえがたいという印象。 池澤夏樹さん個人編集で珠玉の作品ぞろいで気に入ったこの文学全集のうちの一冊を読んでいて、この本を知って早速注文した。ゴーギャンとその祖母であるスカートをはいた革命家フローラとの生涯が交互に章ごとに描かれている。最初は、文中にある呼びかけがだれのものであるのかが気になったが、あとで著者であることを知ってその技法の独創性に驚いた。 この本ほど読み終わったあとに茫然自失となる経験は私にはめずらしかった。 ゴーギャンもその祖母も当然お互いに会ったことがないにもかかわらず、その生涯を通底しているものに共通点がある。その意志の強靭さ、自由な精神、孤独、肉体を蝕むものとの闘い、みずからを燃焼させた人生。 ゴッホが出てくる箇所もある。その純粋さ、その理想の高さ、その狂おしいまでの誠実さに涙が出た。 生とはこれほど鮮烈で残酷なものでありうるのだ。 見事な小説家の手になる芸術家の生涯を読むと絵を見るときの理解度が増すことを痛いほど知らされたということもある。 著者がノーベル文学賞を受けたことを知り、とてもうれしく思ったのは言うまでもない。 | ||||
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画家のポール・ゴーギャンとその祖母であるフローラ・トリスタンの生涯がパラレルで描かれる。結構厚い本で、しかも最近忙しくて、なかなか読みきることができなかったけど、読後感がとてもいい。 二人の反逆者の人生の終わりがこの小説の終わりでもあるんだけど、読ませる。 | ||||
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19世紀前半のフランスでは、女性はまだ男性の従属的・隷属的 存在であり、そこから逸脱してはならず、自由はなかった。 そんな時代に生きたフローラ・トリスタンは、男女平等、 労働者層の立場の改善を求めて立ち上がる。DV夫を見捨てて、 子供を結果放置して。 ポール・ゴーギャンは船乗り、海兵としてマッチョな生き方をしていたが、 一方でブルジョワな生活を夢見ていた。 ブルジョワ階級に成り上がるため、母を愛人としていた人物に紹介されて、 株式仲買人となって成功を収め、ブルジョワになるけれど、 それまで無縁だった絵画の世界に(きっかけは同じ職場の絵画を 趣味としていた友人とマネの『オランピア』)足を踏み入れていく。 そうして、19世紀の西洋美術(文化)の頽廃ぶりに違和感を 覚えたゴーギャンは、フランス各地(ゴッホと共同生活をしたアルルとか)、 果てはタヒチ、マルキーズ諸島まで行き、原始的芸術を追求する。 フローラの物語を奇数章で、ゴーギャン(フローラの孫)の物語を偶数章で、 3人称主体、時に2人称交じりで語る並列構造。 二人は不完全な現実世界を改め、完全なる世界(楽園)を 求めているのだけれど、女性解放を望むフローラ、タヒチの 原住民たちの文化・価値観(10代前半で結婚し子供を産んだり、 学校教育に対する無関心ぶり)を尊重し、そこに西洋の文化・価値観を 持ち込むことに抵抗を感じるフローラの孫ゴーギャン、 と色んなところで対比構造になっていて、読む者の価値観、 生き方をガンガンに揺さぶりかけてくる。 歴史で解明されていない、二人の人生の謎の部分を埋めたリョサの想像力と 筆致に脱帽。 ところで、ペルー大統領に立候補したこともあるバルガス・リョサは、 フローラ・トリスタンとポール・ゴーギャンの亡くなった年齢を 超えているわけだけれど、書きながら、何を思ったのか・・・・・・ なんて想像してみるのも楽しいかもしれない | ||||
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印象派の画家ポールゴーギャンとその祖母「スカートをはいた煽動者」=空想的社会主義者で、組合を作ろう!と、単身フランス中を旅して行く=フローラ、60年を隔てて強烈な個性を持つ二人の人生が交互に語られる。フローラの現在の「旅」が語られながら彼女の過去に遡り、ページが進むにつれてだんだん二人の人生がシンクロしていくようだ。思いついて家系図を作って読んでみた。超越者のような「語り」の視点が興味深い。おもしろい。読んで後悔はしませんよ! | ||||
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バルガス・リョサの作品自体は非常に面白く、翻訳も読みやすくて秀逸です。しかし文学全集としては少々安直な作り。最後に訳者による簡単な解説と年譜等が載っているのみで、図版もほとんどなく、注も一切なし。これなら本の値段の方をもう少し考慮して欲しかったな、河出さん。 | ||||
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バルガス=リョサはペルー生まれの作家。 本書は、池上夏樹が個人編集した世界文学全集の2冊目に選ばれている。 パリをはなれ、楽園をもとめてはるかタヒチへ移り住んだ画家、ポール・ゴーギャン。 その祖母で、今でいう社会主義者の先駆となったフローラ・トリスタン。 ふたりの人生のクライマックスが、いくつかの章にわかれ、交互に語られる。 ゴーギャンはタヒチへ渡り、パリに戻り、ふたたび海を渡ってさらに奥地のマルキーズ諸島へ。 フローラは何かにとりつかれたようにフランスの町から町へ、労働組合の必要を説く演説をして回る。 並行する語りが交わることはないけれど、ふたつの物語は思わぬ地点で呼びかけあい、響きあい、次第にあるひとつのリズムを刻みはじめる。 その「リズム」に大きく影響しているのが、独特の文体。 いま、日本や欧米で書かれる小説のほとんどは、一人称もしくは三人称で語られるけれど、「楽園への道」は二人称、作家がゴーギャンやフローラに語りかけるかたちをとっている。 解説によると、著者は騎士道小説(「ドン・キホーテ」はそのパロディで有名)に影響を受けてこの文体を選択しているらしい。 ともあれ二人称の文体で、説教がましくならず小説を最後まで引っ張っていくには、高度な技術とセンスを要する。日本語でも、スペイン語でも同じだろう。 その上、最後まで途切れないすさまじい吸引力と、全体性。綿密で根気づよい取材にもとづく、圧倒的なリアリティ。 この作家にとって小説はただの娯楽でなく、政治であり、命がけの事業なのだろう。 | ||||
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打ちのめされました。 うたい文句の「ポール・ゴーギャンと彼の祖母のたたかい」に何の疑いもなく読んでゆきました。南の島に渡ったポール、そしてフランスで戦う祖母。 彼らは強い。たぶん、我々日本人が彼らのメンタリティに敵うかどうかすらわからないほどに強い。 本書が21世紀になってから書かれた本だと知ったときはもっと打ちのめされた。こんな素晴らしい小説が60代のバルガス=リョサが書いたなんて。 タイトルこそ「楽園への道」(原題の直訳ではありません。念のため)ですが、果たして主人公二人に「楽園」はやってくるのか、まったくわからない。それだけならまだいい。フローラ・トリスタン(ゴーギャンの祖母)は、「楽園」もくそもなく、戦いながら若くして死んでしまった。ポール・ゴーギャンには、ひょっとしたら、「楽園」を感じられたかもしれないが。 私は、フローラ・トリスタンの報われない戦いと虚しい死に、徹底的に打ちのめされた。まさしく「正直者は馬鹿をみる」(フランスにこのようなことわざがあるかどうかはわかりませんが)がごとき死。 マリオ・バルガス=リョサはどこまでもクールだ。ゴーギャンの南の島での生活も、フローラの犬死がごとき生涯も、クールな視線で描いている。それがゆえ、私は徹底的に打ちのめされた。ペルー生まれの(60代の)バルガス=リョサにとっては、彼自身が経験したであろう、厳しい現実を、ただ書いただけなのである。 19世紀のフランスでも、やはり女性差別はあった。それを上っ面だけ書くのではなく、個人のたたかいとして、バルガス=リョサは書ききった。まるで19世紀のフランスに転生して、フローラにのりうつったがごとく。素晴らしい。 ゴーギャンの生涯だってそうだ。ゴーギャンは本を残したが、ただそれを読んだだけ、とは思えないほど、緻密な描写である。 絶対に購入して読んで、損をすることはない。そして打ちのめされて欲しい。かつて、クラッシュのヴォーカル、ジョー・ストラマーが言ったように、「今ある自由は、これまで人々が戦って得た自由なんだ。それを知らない奴が多すぎる」と、感じて欲しい。 蛇足:嘆かわしいことに、バルガス=リョサの傑作「都会と犬ども」は品切れ状態。面白いのになあ。本書を楽しめた方にならお勧め。図書館で借りてきて読みましょう。 | ||||
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