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ガラスの街
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ガラスの街の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.12pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全34件 1~20 1/2ページ
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「4321]を除いて、この作家名の翻訳本を読む最後の一冊が彼のデビュー作でした。探偵小説からのデビューだったのですね。デビュー当時から既に完成された作風で、その後も一貫して変わらないように思えます。この本の中で主人公に言わせています。「ミステリー書物について彼が好んだのは、その無駄のない、隅々まで意味が詰まっている感覚だった。」彼の小説そのものだと思いました。この探偵小説では、主人公、依頼人とその対象者のすべてが謎のように消えてしまい不思議な筋立てです。いつか再読したら何か読み落としているものを拾えるかもしれません。 食事に関して「採るべき以上を摂取すれば、次の食事への食欲は増し、満足を得るためにはより多くの食料が必要となってしまう。」と。禅、哲学的でもありました。 | ||||
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書籍を紹介するテレビ番組でこの作家が好評価だったので早速買って読んでみたが今まで読んできたこの類いの本とストーリー展開が全く違い違和感を感じた。とは言えその違和感は不愉快な感じではなかったのでまたこの作家の本を良っ読んでみたいと思いました。 | ||||
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この小説のタイトルが「ガラスの街」となっている事について、あれこれ想像を膨らませた。 辿り着いた答えとして、この小説の主人公は、物語の舞台であるニューヨークという都市空間そのものだったのではないか?という結論に至る。 最も印象的な場面として、ダニエル・クインが作中の作家ポール・オースターとその家族と出会う場面が心に響く。 ダニエル・クイン、作中のポール・オースター、作者のポール・オースターの三者が一体となる、この不思議な場面に、作者の自画像が見るような思いがした。 | ||||
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この作品はどこの出版社も最初は一顧だにしなかったらしいが出版社というのは売れる売れないという頭ありきだからそれもわかる。探偵小説のようだが本質は全く違って村上春樹の作品に近い実に現代的な奥の深い小説で仏教観に近いものさえ感じる。読後の後味は「朗読者」や「オン ザ ロード」に似たやるせない気持ちが残る。二つとも映画になったから案外この作品も映画化したら面白いかもしれないが文中のことばの深淵さと情景描写の美しさは秀逸である。探偵小説ならばこれら作中のことばのなかに真相への隠されたイースターエッグがあるのだがこの作品にはおそらくないだろう。でも読み返したくなる作品で読むたびに新しいすばらしい気づきがあるはずだ。 | ||||
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いわゆる娯楽小説を読みたい人は避けたほうが無難です。評価されている作家のようですが、私にはまったく合いませんでした。 | ||||
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1981年、レーガンは福音主義右派と選挙協力協定を結び、大統領選にやっと勝利した。その頃から欧米文学報道関係の人々が、米本土へのムスリム過激派の攻撃と、いつまたどこで核兵器が使われるかについて議論を始めた。本作はその議論から生まれた最初の記念碑的作品である。最初の予想は9.11貿易センタービルの爆破で現実のものとなった。二つ目の予想も的中するかもしれない。 たとえば、この作品は東京に人民解放軍のGHQが設置され、東京都庁舎に毛沢東の肖像がライトアップされるSF程の衝撃を、かれらに与えた。タイトルのガラスは鏡との複意味。 | ||||
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ニューヨークに住むダニエル・クインは、かつては探偵小説で腕を鳴らした名作家。しかし現在はというと、世間をあっといわせるような作品を書こうといった野望もなく、匿名で細々とミステリーを執筆しながらの生活をする状況です。そんなクインのもとにある日、彼に助けを求める電話がかかってきました。電話の内容は「探偵のポール・オースター氏に事件を解決してほしい」というもの。 しかし、ポール・オースターという人物にさっぱり心当たりのないクイン。間違い電話と考え、その場では電話を切ってしまいます。ところが、助けを求める電話はその後も日を置いてかかってくるため、やむなくクインはポール・オースターなる探偵のふりをして電話の主に会うことにしたのでした。 指定の場所でクインを待っていたのは、ヴァージニアと名乗る女性。彼女は依頼人のピーター・スティルマンの妻だと言います。依頼人のスティルマンはというと、幼少期に外の世界から隔絶され、長年の間暗い部屋に閉じ込められて過ごした過去を持つ人物ということでした。そんなスティルマンを暗闇から救い出したのは、彼の父親であるスティルマン氏。しかし現在、スティルマン氏は精神に異常をきたしており病院に収容されているとのこと。闇の中で長年過ごし他者との交流もままならなかったスティルマンの話は要領を得ないため、クインは代わりに妻のヴァージニアから依頼を受けることになります。ヴァージニアの依頼とは、間もなく退院する父親から夫を守って欲しいというものでした。 「そもそものはじまりは間違い電話だった」という書き出しから始まる本書は、いかにもミステリー仕立てという感じで、レイモンド・チャンドラーのようなハードボイルドな探偵小説の雰囲気を漂わせています。しかしそれも最初のうちだけで、探偵小説やミステリーの趣からは徐々に離れ始めます。というのも、ミステリー作家であるクインが、自分のペンネームの「ウィリアム・ウィルソン」と、小説に登場する探偵「マックス・ワーク」について思弁し、やたらと2人の人物を引き合いに出すことが増えてきて、雲行きがだんだん怪しくなってくるからです。クインにとってのウィリアム・ウィルソンはあくまで小説を出す時に名を借りる抽象的な人物であり、これに対しあくまで小説の登場人物に過ぎない探偵のワークが、なぜか実体を持っているかのように生き生きと存在感を増してくるわけです。ウィルソンがまるで人形遣いで、クイン自身は人形、そしてワークは次第にこの物語に目的をかのような生気に満ちた役回りを与えられるのです。 小説が進むにつれ、クインとウィルソンそしてワークという3人の人物によって、次第に錯綜し始める物語。このことから私は、自分自身や他者との継続的に変化し続ける対話のプロセスによって個人のアイデンティティは定義されるという、ミシェル・フーコー的なものを感じました。加えて、スティルマンに迫る父親が宗教学の権威の元大学教授というのも本書のディテールにまた彩りを加えます。スティルマン教授は自身の著書『楽園と塔』の中で、第二のエデンの園を来るべき新世界のビジョンとして描き、バベルの塔の崩壊の原因となった人々の言語の混乱を堕落したアダムと重ね合わせて論じます。そして、真の言語の復活により世界は新たな楽園として再臨すると綴り、息子への仕打ちは、エデンの園で人間が堕落する前の神の言語を発見するための実験であったという事が示唆され始めるのですが。 旧約聖書の引用からのビジョンを多分に含む本書は、象徴に富んでおり、ディック作品にみられるアイデンティティーの揺さぶりとも相まって、今までに味わったことのない不思議な雰囲気をもつ一冊と言えます。故にミステリや探偵小説を期待するとかなり面食らうことになり、決して読みやすい内容とは言えません。しかし、読んでいくうちにどんどん錯綜していくテーマだとか、主人公のアイデンティティが喪失していく(ネタバレになっちゃうのでこれ以上は書けない)展開を期待する人にとってはまたとない一冊になると思います。 | ||||
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春樹っぽい | ||||
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以下、感想と考察です。 ●語り手の構造 この物語の構成は クイン、オースター、オースターの友人である私という三人から構成される。 これはクインの作品 ワーク、ウィルソン、クインという三位一体の構造と相似をなしていると言える。 すなわち、ワーク=クイン、ウィルソン=オースター、クイン=私という対応関係が成り立つ クインの作品において筆者であるウィルソンはクイン自身であることから、この相似関係に当てはめるとオースター=私であることが予想がつく。 つまり、あえてオースターという登場人物を出すことで、ドン・キホーテのように物語に信憑性を持たせているのではなかろうか。 ●言語について 楽園を追放された人々は用いる言語の名前とそれが表すものが呼応しなくなった いま私達が使っている楽園から追放された言語はソシュールの恣意的な言語を指していると思われる 物語ではソシュールの恣意的な言語の対義語としてピーターJr.が習得させられた無垢な言語が登場する。 両者の違いとして恣意的な言葉とはそれ自身に根拠がないことから別の記号、言葉に置き換え可能である特徴を持ち、一方で無垢な言語とは対象自身を直接指し示すものであるため交換不可能であるという特徴を持つ。 そのため恣意的な言葉で生きる私達の周りは交換可能な言葉で溢れるため無秩序に混沌としているとスティルマン父は考える このことはオースターの小説の特徴に見られる登場人物が交換可能ということにも現れている 彼の作品では見られるもの、見るもの、他者と自己との区別とその境界が曖昧になる。それによって登場人物は混沌を極め、ついには入れ替わり、交換可能な状態となってしまう。このことはソシュールの言う恣意的な言語で描かれる物語である以上、登場人物に物語上は常に交換可能であるという彼の文学的見地の表れなのではないだろうか ●偶然と運命 そもそものはじまりは間違い電話だった この偶発的な出来事から物語が始まる しかし、この間違いが実は必然性、即ち運命によって引き起こされたことをクインは最後に理解する。 このことは、突き詰めると運命=偶然は交換可能でありそれを捉えた人物により恣意的に語られる言葉であることを示唆しているのではないだろうか ●本書に残る謎 以上のことから筆者は恣意的に語ることができないリアルを描こうとする。実際にフィクションではあるものの、物語中で筆者は事実だけを紡いで物語を構成するよう努力する。 だからこそ、客観的立場をとれる第三者という遠回しなやり方で物語を語るという形式がとられているのではないだろうか なぜスティルマン氏は自殺したのか なぜスティルマン氏はセントラル駅で分裂したのか なぜ小切手は不渡りだったのか スティルマン夫妻はどこへいったのか クインはどうなったのか それらは事実のみが述べられており、意味や理由は描かれていない。きっとそれこそがこの小説がとるべき態度なのだろう。 | ||||
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著者の別の作品を読んで面白かったので、この作品を手に取ったのですが、支離滅裂ぶりが自分には合いませんでした。しかし、最後まで読み終わったので、文章の魅力はあったのかもしれません。 | ||||
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個人の「存在の確かさ」などは無いんだということを、初めから終わりまで主張している小説と読んだ。話は実に面白く、そんな解釈なしでも十分楽しめるストーリー展開だとも読んだ。著者ポール・オースターが「ポストモダン」作家の名を高かしめている証左だ。 主筋は、神の言葉を知るために息子を9年間暗室に閉じ込めた老教授を巡る話である。彼は旧約の「バベルの塔」の崩壊以来、人々が勝手な言葉で話すようになって世界はバラバラになってしまったと信じ、息子をそんな世間から隔離して育てれば真正な神の言葉を話すようになると考えている。9年後彼はその実験が成功しなかったことを知り、書斎で膨大な書類を燃やしているうちに火事となる。駆け付けた消防隊によって息子は救助され、父親は精神病院に収容されるが、近じかに退院し、自分の理論を実証し得なかった我が子を殺しに来るという。 冒頭、父親からの救助を「ポール・オースター探偵事務所」に依頼する電話が、誤って三晩続けて作家のダニエル・クインにつながる。そこから混乱が始まるのだが、そもそもクインなる人物の存在が希薄なのである。 ダニエル・クイン35歳。一時は詩や評論、翻訳などを手掛け、通り相場な野心に溢れていたが、五年前に妻子を失い、同時に現実を失った。今はウイリアム・ウイルソンのペンネームで、私立探偵マックス・ダークが活躍する探偵小説を半年かけて執筆し、後の半年は、リアルな世界の方はその探偵に任せ、彼の背中に隠れるようにして気ままに暮らしている。そのウイリアム・ウイルソンも、元をただせばファンであり、常敗のNYメッツの二塁手ムーキー・ウイルソンから無断借用したもの。そんな彼が今度は間違い電話の相手先であるポール・オースターを騙って依頼を引き受ける。 依頼主ピーター・スチィルマン24歳は、神の言葉も人間の言葉もまともに話せない発育不良児で、言語治療士で妻のヴァージニアのお蔭でどうにか暮らしている。彼の父親の名もピーター・スチィルマン。クインのなくなった息子の名もピーターという。 本物のポール・オースターも登場する。電話帳で調べてクインが訪ねてみると、探偵ではなく「ドン・キ・ホーテ論」を執筆中の作家だった。その息子の名がダニエル。クインと同名だ。 ついでにあげれば、言語学者のスティルマンが、自書〚幸福と搭―初期の新世界像〛ででっち上げたボストンの聖職者ヘンリー・ダークはクインの探偵マックス・ダークと名字が一致する。Darkが意味するものも意味深である。こうして各人物の存在の不確かさが、名前を持って象徴される。 こうしてクインは依頼を受けて尾行するスティルマン父や、本物オースターと接触してゆくのだが、二人とのブッキッシュな会話も、作者の並々ならぬ蘊蓄を示していて楽しい。オースターは、〚ドン・キ・ホーテ〛はセルバンテスがアラビア語で書かれた原稿を見つけて翻訳し、それを実際に演じて見せて、サンチョ・パンサに書き直させたというし、スティルマン父もヘンリー・ダークはハンプティ・ダンプティをもじった人物だという。ダークは火事で死に。著作は失われたが、彼の本ではスティルマンが残りの一冊を偶然に発見したことになっている。こうなると人物だけでなく著作までが、その真偽が怪しくなってくる。 その後、存在の不確かさを実証するように作家のオースターを除く全員が街の風景の中に消えてしまう。クインはスティルマン父の尾行を記した赤いノートだけを残して……。物語は結局世界に類を見ない「ガラスの街」ニューヨークという魔都市を書きたかったのだ、という思いも湧くほど、作者はこの街の住所番地をしつこく書いている。 そして最後にこれまたのどんでん返し。この本の語り手はクイン(の代理人)だと思っていたのが、最終段で、彼とは違う語り手が登場し、私が描いたこの物語の半分はクインが残した赤いノートから採ったと書いている。この本全体を信用してはならないとするメタフィクション仕立てなのである。 結局作家のオースターが言うように「とにかく人が本に求めるのはそれにつきます―愉しませてくれるところ」。その通りでとにかく楽しかった。 | ||||
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【ニューヨーク三部作 その1】 作中にも登場するが 『ドン・キホーテ』 を思わせる複雑な構造の探偵(?)小説。探偵小説のスタイルではあるが、これといった筋らしい筋もないので、色々に読めそうである。ただ一冊のノートを残しただけで、人間の存在が完全に消滅してしまう様子が描かれているように読めたので、とても不思議な雰囲気とともに、ゾッとするような寒気も感じられた作品であった。この不思議な雰囲気は 『幽霊たち』 とも共通していて、だから「ニューヨーク三部作」なのかなと思う。 妙に気になったのは、主人公クインが愛用している赤いノート。灰色のニューヨークの街に、この赤色がとても鮮烈なイメージを残す。 尚、個人的には文庫ではなくハードカバーの装丁の方が好み。とても美しい出来栄えだと思う。 | ||||
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自分の輪郭を浮き上がらせるのは他者で、また他者の輪郭を浮き上がらせるのは自分である。 世界は人の数だけあって、世界の数だけの自分がいる。迷路のような街や、そこに溢れかえる人々はまるでそんなことを象徴するかのよう。 駅に降り立った、まったく対照的な身なりをした二人の同じ人物が、それぞれ右と左の反対方向へ歩き出す場面は、なんとなくパラレルワールドを連想させられました。 この作品をミステリー小説として捉えるなら、物語のストーリーを追い、謎を解こうとすることには何の意味もないように思います。 なぜなら、本当のミステリーは、読み終えた読者の心のみを起点にして動き出すからです。 | ||||
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妻と息子を亡くした探偵小説作家クインのもとに、ある日不思議な間違い電話が入り、奇妙な依頼を受けて彼自身が探偵となりニューヨークの街を彷徨うことに。彼は次第に世界とのつながりを失い始め、最後は姿を消してしまう話です。物語全体が透明な孤独感に満ち、浮浪者となりニューヨークの街に溶けて消えてしまうクインの姿は、そこに悲惨さはまったく感じられず、むしろ快感らしきものを感じ取ってしまいました。オースターのどの作品にも流れる、社会とのつながりを失った孤独さ(=社会的に何者でもない)の中にある幸せ、という不思議な感覚をこの作品でも憶えました。 | ||||
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既成を打破しようという試行とその成果の萌芽が見られるが、大好きな素晴らしい「ブルックリン・フォーリーズ」を読んだ後なので、あまり好きになれなかった。 | ||||
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現代アメリカ文学の旗手といわれるP・オースターのニューヨーク三部作「鍵のかかった部屋」「幽霊たち」とつづいて本著「ガラスの街」と読みすすめていくと、どうやらこの本の方が先に執筆されたことが分った。つまり、ぼくは逆の順を辿るように読んでいたことなるらしい。だが、オースター自身が「鍵のかかった部屋」で書いているようにこれらは究極的にはみな同じようなものだという。あきらかに物語はちがっているのに同じとはどういう意味なのか。 おそらく、オースターの関心はゼロから小説を書くことのプロセスにあったというほかない。つまり、物語を書くという行為とともに書かれた物語とはそもそもどういうものであるか、また書物という形式(制度)において自分との関係性をむしろ意識していたのではないか。ニューヨーク《ガラスの街》はそのことを意味するメタファーとして捉えていい、ぼくはそう思う。ポストモダンといわれる所以でもある。 換言すれば、客体化された物語とそれを書いた主体としての身体性を著作という形式においていかに意識化できるかということなのかもしれない。 「そもそものはじまりは間違い電話だった。」とはじまるこの小説「ガラスの街」でもそのことを象徴するようにある布石が施されている。 ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並みや通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。街のなかで迷子になったというだけでなく、自分のなかでも迷子になったような思いがしたのである。散歩に行くたび、あたかも自分自身を置いていくような気分になった。(p6) P・オースターという私立探偵と間違われ電話を受け取ったウィリアム・ウィルソンの名をもつ詩人でミステリー作家クインはオースターに成りすましてスティルマン夫人(ヴァージニア)の依頼を受けることになる。その依頼とは精神疾患をもつ息子(ピーター)に危害が及ぶのを恐れ、息子の父スティルマン(コロンビア大学宗教学教授)を監視し定期的に報告してほしいということだった。そう、ほかの二作もそうだったが唐突にも依頼を受けるのだ。その後、物語は名門スティルマン家のことや幼いピーターが9年間も父によって監禁されたこと、スティルマン自身の著作やそのほかの研究論文などにふれる。 やがてクインはついに老教授スティルマンを探しだし探偵(?)として追跡し監視をつづけながらそのことを“赤いノート”に記すことと報告をすることになる。物語はクインの想像の中で謎解きされるように繰り広げられるがついに彼はスティルマンと遭遇しさらに言葉を交わすようになる。だが、老人はクインと会うたびに「どなたでしたか」と聞き返すのだった。探偵クインはその都度、スティルマンの著作にあるヘンリー・ダークや息子のピーター・スティルマンなどと名乗りスティルマン老人の心意と謎を探るように物語は展開するのだが突如として姿を見失う。クインはそのことをヴァージニア・スティルマンに報告しニューヨークをさまようことになる。 スティルマンはいなくなってしまった。老人は街の一部と化した。ひとつのしみ、句読点、はてしなく続く煉瓦壁のなかの一個の煉瓦となった。クインが死ぬまで毎日この街を歩きつづけたところで見つかるまい。いやすべては偶然に帰され、数と確立の悪夢に堕してしまった。何の鍵も、手がかりもなく、打つべき手もひとつとしてなかった。(p166) このことは物語の常として起点をゼロに置き不確かな試行のくり返しの中で物語を書きながら作家自身の存在論的な意味を相対化する生き方を想起させる。 クインは間違われた本人であるはずの優秀な探偵P・オースターに何もかも白状して助けを求めようと電話帳でオースター探偵事務所を調べるがそんな事務所は載っていなかった。だが、個人名の方にはその名があった。そして、クインはP・オースターに連絡しマンハッタンの自宅を訪ねるが、P・オースターは探偵ではなく作家だった。かつて、ウィリアム・ウィルソンの名で出版したクインの詩集のことを覚えていたオースターは、クインの説明を聞き入れ依頼金の受け取りに協力してくれる約束をする。「何か私にできることがあったら、いつでもお電話ください」とオースターは言った。 クインはもうどこにもいなかった。何もなく、何も知らず、何も知らないことだけは知っていた。はじまりに送りかえされたばかりか、いまやはじまりよりももっと前にいた。(p189) 奈落の底に突き落とされるように資金も底をつき、途方に暮れたクインは何度もヴァージニア・スティルマンに電話するがついに繋がることはなかった。なす術(すべ)のないクインは事件のことを忘れてふだんの暮らしに戻りたいと思ったが、それが認められないということなのだろうかと自問する。無一文となった生活の中でクインは一人ニューヨークをさまよい、街のようすや自身の運命や事のはじまりについて様々な思いにふける。 残った金を引っ張り出してクインはオースターに電話する。そして、小切手が不渡りだったこと、スティルマンがブルックリン橋から飛びおりて自殺したことなど、オースターから何もかもを知らされる。 自分がどういう気持ちなのか、クインにはよくわからなかった。はじめしばらくは、何も感じていないような、何もかもが無に帰したような気がした。(p222) 107丁目の自分のアパートに帰るとそこはすでに他の人が住んでいてすべてを失ったクインは、放心したように東69丁目のスティルマン家のアパートへ行くと死んだように深い眠りにつく。夢とも現実ともいえない最後の描写ではいつの間にか本著「ガラスの街」を思わせる“赤いノート”を書いているが、クインなのか著者P・オースターなのか不思議な仕掛けとなっている。 まさしく意表をつく鮮やかな展開、この作品で一躍脚光を浴びたとされるP・オースターの記念すべき小説第一作。翻訳は柴田元幸さん(アメリカ文学、東大名誉教授)。どうぞ、お楽しみください。 | ||||
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作品の根幹にあるはずの、なぜ老スティルマンが出所して息子を殺しに来るのか理由が分らない。クインに尾行されたスティルマンが自殺する必然性が見えた来ない。探偵小説と純文学の境界のギリギリのところを意識的に描かれる世界だが、雑然としていて、小説として未完成なのではないか。スティルマン夫人がいきなりクインにキスするなど不自然で無意味。世界文学の知識かふんだんに盛り込まれているが、物語に血肉化させていない。クインはゴミ箱で垂れ流しの見張りをするが、描写にリアリティがない。興味深い記述や挿話かいくつもあるのに未消化ではないか。訳文も、英文である以上、日本語化されずらい面もあるはず、例えば名前それぞれに複雑な意味がある。特にスティルマンには象徴的な意味があるはず。感動したのは鏡の国のアリスからの引用、ハンプティ・ダンブティ、この物語で一番印象的。ドン・キホーテの挿話は、著者が深く理解していると思えない。深層にあるはずのオースターが小市民的で小説の品位を落としていないか。この小説の原稿をいくつもの出版社から断られたそうだか、断った理由が理解できる。 | ||||
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ガラスの街、ニューヨーク。 高層アパートの窓ガラスの数々の、無数のガラス。 無数のガラス窓からあふれる光で、ガラスの街の外は真っ暗闇。星一つない。 四角い窓ガラスの一つ一つの中に、それぞれ別の人間が住んでいる。 それぞれ名前を持って。それぞれ別の人生がある。 ときどき同じ名前もあって間違えられることもあるけれど、 自分と他人が、違うような違わないような、似たような似ていないような、 意味があるような、ないような、別々の人生をおくっている。 そんな窓ガラスと窓ガラスの間に囲まれていると、 自分がどの窓ガラスの中に住んでいるのかさえ見失い、 自分の存在を確認する、名前とか、なにもかも見失ってしまいそう。 誰かを探している私は、誰か、自分の名前さえ確かでなくなって、 他人探しが、自分探しになってしまいそうで。 ニューヨークは、そんな迷路のような街。 整然とした迷路。碁盤の目のような四角い道路が無限に繰り返す、合わせ鏡の迷路。 角をひとつ曲がっただけで、方角さえわからなくなる迷路。 どこもかしこもみんなおんなじ。同じ四角い街並みが繰り返される迷路。 ニューヨークを散歩するとき、永遠に迷子になったような気がする。 どこにいるのか、わからなくなるし、自分までも見失う街。それが快感? ヤーヤーヤー。 子どもの叫び声のような、地下鉄の轟音のような、意味不明な単調な繰り返しの街。 合わせ鏡の中に立っているような気分になる街。 この小説は、著者のオースターさん本人の言葉では、 探偵小説ではない、探偵小説の「形を利用しただけなんだけどなあ」、とのこと (柴田元幸さんの個人的情報より)。 「スティルマン事件」(198頁)は、失踪事件の探偵小説のようでいて、探偵小説ではない。 面白がるにもほどがありますが、なんという、わけわからずの面白さでしょう。 「結局のところ、人が本に求めるのはそれに尽きます――愉しませてくれること」(166頁) わけわかんなくても、面白ければいいのかな? ピーター・スティルマンの「ナンセンスな言葉の連射」(88頁) 「ブーフー。ウィリニリ。ニンコンプープ」(26頁) 「僕はときどきすごく愉快なんです。 ウィンブル・クリック・クランブルチョー・ビルー。クラック・クラック・ビドラック。ナム・ノイズ、フラックルマッチ、チューマナ。ヤーヤーヤー」(27頁) 「バババ、と彼は言いました。そして、ダダダ。そして、ワワワ」(28頁) 「ウィンブル・クリック・クランブルチョー・ビルー。美しいでしょう?」(29頁) 愉快で、美しい言葉? ここはオースターのいたずら心でしょう。 ピーターは言います。 「これは僕には面白い言葉です。神(GOD)を逆さにしたら犬(DOG)になります。でも犬はあんまり神みたいじゃないでしょう? ウーウー。ワンワン。こういうのが犬の言葉です。美しい言葉ですよね。すごくきれいで、本物で。僕の作る言葉みたいに」(33頁) 「ウーウー。ワンワン」が美しい? すごくきれいで、本物だって? うーむ。ピーターさんは狂ってるかも? あるいは神をちゃかしている? 冒涜している? ピーター・スティルマンという名前にも、著者のいたずら心が入っているのでは? スティルマンって、静かな男ですよね。名前と挙動が矛盾する、相反するみたいです。 主人公の名前「ダニエル・クイン」(64頁)のイニシャルD・Qは、 ドン・キホーテのイニシャルD・Qと同じです。 「ある意味で、ドン・キホーテはセルバンテス自身の代役にすぎなかったんじゃないでしょうか」(162頁) この本の中のクインはオースター自身の代役にすぎなかった、と思いました。 そして、クインはペーター・オースターの息子や父親(老人)に変装して、 この本の中に登場していたのかも。 変装して別の人間になるためには、 クインは自分の家では裸になる必要があったのでしょう。 いったん裸になったうえで、「それぞれ思い思いの変装をして」(164頁) 役を演じていたのでしょう。 クインのように、「あれほど変装の術に長(た)けた男にとって」(165頁)、 繰り人形や老人の格好をするくらい訳なかったはずです。 ピーター・スティルマンは、「まだ自分が繰り人形だということはわかっています」(36頁) 「ウィリアム・ウィルソン」という名前も、 メッツのセンター「ムーキー・ウィルソン」の本名だなんて、 「何とも興味深い事実ではないか」(209頁) 文学好きの読者にとって、「ウィリアム・ウィルソン」という名前は、 ミステリー作家としてのクインの筆名「ウィリアム・ウィルソン」(4頁)であってほしい。 野球選手の名前からの着想ではなく。 ウィリアム・ウィルソン著のマックス・ワークシリーズの第一作の本 “Deceit” のタイトルを、 柴田元幸さんは『スクイズプレー』(85頁)と和訳されたようです。 『スクイズプレー』って、野球用語のあの「スクイズ」ですよね。違和感。 探偵小説らしく<詐欺>とかなんとかって訳していただきたかったです。 この『ガラスの街』という小説は、形だけですが探偵小説の形に変装しているんですから。 <付記> オースターには、Paul Benjamin 名義で書いた "Squeeze Play" という小説があるらしい。 | ||||
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やっぱりトシなのかなぁ。病院での付き添い中ときて長編はムリなのかも 中断ばかりしていたせいか、内容がさっぱり、柴田元幸氏の訳はとても 読みやすいのにピンとこなくて、オースターの良さがわかりませんでした。 いつになるかわからないけど、もう一度ゆっくり読んでのレビューにしたいと 今はおもいます。あいすみませんです。 | ||||
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全ての場所は”自分と等価”になり、自分が街に溶け込む事で、自分が何処にも存在しない”無垢な存在”であると感じることが出来る。彷徨という行為が唯一それを可能にする。彷徨うことで無垢という真理を極めようとする偉人は後を絶たない。全てに絶対的であろうとするアメリカに対し、”ゼロになる事の快感”を実に優雅に描く作品だ。 答えがないのが本当の答えであり、答えというものは絶対的なものでなく抽象的なものであることを前提にした、この奇怪にも思える”推理小説”は、一貫性のない理不尽な展開に落ちていく。お陰で、著者がスターダムにのし上がるきっかけを作った傑作も、当初は17の出版社に断られたという。しかし、主人公である推理作家のクインが、自らが描いた作品の主人公を演じる事で墓穴を掘り、堕ちていく様は異常に興味深く、奇妙なまでに面白い。まさに、オースターが描く推理小説は”かくも奇なり”である。 ”無用な一貫性重視”によって成される大半の安直な大衆受けする”探偵モノ”とは異なり、その”透明感溢れる文章”とアメリカ文学の”伝統を違った形で蘇生させるバリエーション”それに、”端正な音楽的文章”とそれを内から破壊する残酷な要素が絡み合い、より鮮明で透明度の高い作品に仕上ってる。まさに、翻訳者の柴田氏が感心するほどに、オースターは”上質”の作品を産み出し続ける稀有の作家である。 NY三部作の第一作として、オースターの作家人生を決定的なものにする生涯の逸作になるのだが、彼の現在の妻と出会って人生の様相が一変した当時の自分を思い出しながら描いた感動の力作だ。 中長編に属するボリュームだが、まさに読者も本書と共に彷徨し、1つ1つのシーンに溶け込むように一気に読みふけてしまった。クインはどうなるのか、クインを悩ますスティルマンは何者なのか、クインが密かに想いを寄せるバージニアは、その諸々が全てがどうでもよくなっていく。全ては無垢に、そしてゼロに落ち着くのだ。 この作品は、”無垢”というテーマが前提になってるから、非常に透明度が高く、目の前に現れる景色の先の先まで見通せる気分になる。余りに爽快な心持ちになるから、物語の展開とか著者の意図とか殆ど気にならなくなる。一方で、内側から抉るような破滅的な展開の組合せがこの作品のもう一つの魅力と言っていい。 柴田氏は、この作品を一言で”ゼロになる事の快感”としてるが、”無垢になる事の快楽”と言い換えても失礼には当たらないだろう。この本を読み終えた時、長年、心の奥深くに幽閉された諸々の沈殿物がキレイに払拭されたような気分になった。しかし、いい意味でアメリカ文学の伝統を打ち破る形となった作品だが、そもそも”無垢”という言葉は、シンプル・イズ・ベストを地で行くアメリカのもう一つの誇り高き伝統なのだ。翻訳者の柴田氏と同様、この作品を手にした読者はつくづく幸せ者だと思う。まさに、無垢は偉大なりである。 | ||||
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