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書楼弔堂 破暁
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書楼弔堂 破暁の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.23pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全34件 1~20 1/2ページ
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百鬼夜行シリーズから京極さんの大ファンですが、その理由は「面白いから」というのはもちろん大前提で、この作家さんの物語は読み手に力を与え、同時に力の抜きどころを教えてくれるからです。 登場人物の生き様やふとしたひと言、その中に押し付けがましくも教訓めいてもいない救いがさり気なく散りばめられていて、読む度に救われます。 私は小説というフィクションの世界をフィクションと思えない質なせいか、登場人物の言動に落ち込んだり傷付くことがよくあるのですが、京極さんの小説ではそういったことがまずありません。京極さんの書く物語が「無難」から程遠いものであるにも拘らずです。これは自分としては驚くべきことです。 早く結果を出さなきゃと焦り、今後の自分の人生の選択に悩み、このまま中途半端に人生が終わったらどうしようと恐怖し、ノイローゼ気味になっていたときに本作の最終話「未完」を読み、とても心が楽になるのを感じました。ああ、そうすればいいんだ、それでいいんだ、と。 京極さんの物語にはいつも救いをもらっています。いつかご本人にお礼を言えたらいいなと思う。 悩みを抱えている人は、この本を開いて弔堂を訪ねてみてください。今よりはずっと心が落ち着くはずです。 | ||||
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京極堂には はまる と知っていて、あえて読まない様にしていたが うーむ。 | ||||
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京極堂シリーズをメインとすると、近作はパターンだけで小説としては明らかにダメなのが多かったが、客の欲しい本が必ずある本屋という設定はかなり京極先生に向いてると思う。明治30年代なので、メインシリーズに繋げていけそうだし、ミステリに戻るためのリハビリとして書いてもらいたい。 | ||||
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美しい文章表現と知識教養が身に付き、読むとかしこくなります。 | ||||
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訪れる客、書物、印刷物、刷り物、迎え入れる小童、そして主人、と噺の筋を次から次へと追う形式で、話の中心に引き込まれていきます。 それはそれで楽しい経験となり、さらに客が語る身の上話、客の印刷物への執着、主人による解題、とこれはまた別の筋です。 トリッキーなつくりです。それが延々と各話成立するのは、著者に既にストックと語り始めればやってのけることが叶うという経験に裏打ちされた自信とがあるからではないでしょうか。 面白いシリーズの開幕です。 | ||||
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マニアには、たまらない。謎めいた脇役、誰が主人公がわからなくなる謎めいた物語、たまりませんでした。 | ||||
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明治20年代半ば、まだ田舎の風情を残した東京の郊外で、病み上がりでぶらぶらしている元お武家出身の高遠が弔堂という不思議な本屋を知ります。ぽつんと建っている燈台のような窓のない建物には”弔”(とむらい)と書かれた半紙が。 店主は元僧侶だという白装束の着物を着た物静かな男性。「本は墓のようなものであるから弔っています。それをお客様に買っていただいて生かしてもらうのがこの店の役目」だと述べます。 高遠が狂言回しの役になり、弔堂を通して歴史上でも知られた様々な人物と出会い、自分の人生を振り返ることになります。 登場するお客さんたちは、最後の浮世絵師月岡芳年、青年時代の泉鏡花、勝海舟と東洋大の創立者であり妖怪博士と呼ばれた井上圓了、ジョン萬次郎と土佐勤王党で人斬り以蔵として知られる岡田以蔵、日本の児童文学の父と言われた巖谷小波、そして最後の一編にはなつかしいあの人のご先祖らしき人が。 個人的には、泉鏡花、井上圓了、巖谷小波に興味があり、読後に調べてみましたがちゃんと実際の出来事に沿って書かれていることがわかり、彼らの人生の一時期を伝記のように知ることができました。 他のレビューアさんたちもおっしゃっているように、店主には京極堂と共通したものを感じます。が、京極堂がもっと癖が強く行動的でもあるのに対して、この店主は常に薄暗い書楼の帳場に座って淡々と客の要望する本を選び、意義を説くあたり、いかにも元僧侶という感じがします。 客が自然と自分の抱えている問題を吐露することになり、それが亭主の話によって自然に解けてゆくあたりは、京極堂の”憑物落とし”とも似ていますし、現代でいうカウンセリングの役割を果たしているように思えます。 ミステリ色はほとんどなく、天窓から入る光と蝋燭のともし火の中で、ゆったりと時間が流れていきます。 正直、最初は読んでいて眠くなりました(苦笑)。衒学的で理屈っぽいのは京極氏の小説に共通していますから、独特のこの雰囲気がしんどい人はダメだと思います。が、読んでいくうちにそのリズムがだんだんと気持ちよくなり、半ばあたりでは早く次が読みたくなっていました。 京極氏の小説にはめずらしく、お店でうなぎをうまそうに食べる場面があり、なんだか池波正太郎のような。また、猫が登場するので猫好きの方にもいいかも。 ガス燈が灯り、蒸気鉄道が走り、まだ緑深かった明治の東京がレトロでなつかしく風情があります。心安らぐ連作集です。 | ||||
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活動シーンは少なく、散歩程度、一度駆け足、くらいで、だいたいは書題の古本屋さんの店内での問答が主の小説ですが、気持的には波乱万丈で、途轍もなく面白い。だいたい京極堂さんの本は、動きが少なく、会話、対話、口舌が主ですが。 あるとき、主人公が弔堂まで客を案内し、小童番頭(少年使用人頭 使用人は一人しかいないが)撓(しほる)に指図され、彼が主を呼びに行っている間に主人公が椅子を出すのですが、出てきた弔堂の主から、「おい撓(しほる)、そんな半端なところに椅子をお出ししたのじゃあお客様が座り難いだろう。もっと帳場のほうに寄せて」と言われ、撓(しほる)が、椅子を出した主人公を「一度冷ややかな目で見た後、椅子を移動して」というくだり。こういう描写にハマる。情景が彷彿とする。面白い。 | ||||
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文字だからこそ表現できる「語り得るもの」、これに魅せられてまた次の本を手にとってしまうのですね。 | ||||
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この世に「本」が存在する意義と読むことの意味を考える重要な機会を与えてくれる。本が売れず、また本を読まない人が増えた現代だからこそ読んでほしい。 またPISAの結果が芳しくなかったとニュースになった。特に読解力が落ちているのだそうだ。当然だろう。日本人が本を読まなくなったからだ。今から数十年前、私が高校生だったころ。通学電車の車内には、宿題をやる高校生か本または新聞を読むサラリーマンがたくさんいた。それが、現在車内の人々(高校生・サラリーマン・OLを含めて)はほとんどがスマホに見入っている。ゲームかYou tubeか。またはイヤホンをさして音楽を聴いている。本を読む人はごく少数だ。 視覚や聴覚に直接働きかけるメディアは、刺激が強すぎてどうしても「受ける」ことにエネルギーをとられ、考える余裕がなくなる。さらに、短時間で「理解」した気になるが、すぐに忘れてしまう。そして新しい刺激を求めて動画を際限なく検索する結果となる。これでは考える暇はない。 本は文字情報であるから、考えないと内容を理解できない。相当に知的な体力を必要とする。鍛えられていない人はついていけなくなる。だから読まなくなる。 けれども、私たちが生きるためには考えることが必要だ。何を考えることが重要なのかを押してくれるのが本ではないか。書楼弔堂は、自分に必要な本を売ってくれる。そうした本に巡り会えた人は幸福である。 | ||||
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この本は長く価格落ちしなかったので、仕方なく?ではないが思い切って買いました。本の状態は問題なし、本の内容も問題なしで買って満足です。 | ||||
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歴史の授業で出てきた人物が、京極さんの書き方で読めるので、そこがとても面白かったと思います。 命とか行き方とか、いろいろ考えさせられる本でした。 | ||||
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悩みを抱える人が、吸い込まれるように訪ねる書楼。そのひとにあう本を提供。 | ||||
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注:ネタバレあり! 著名な文学者の在りし日の姿を覗き見たような感覚になり、何だか得した気分なりました。 もちろん これは小説なのですが、教科書にのっているような人物が生き生きと動き話す姿は「さすが京極夏彦先生!」と思いました。 最後の話で「中禅寺」なる人物が出てきます。そう!あの百鬼夜行シリーズの京極堂の祖父にあたる人物のようです! まさか、こんなところで中禅寺秋彦の過去が出てくるとは。。 嬉しい展開でした(^o^) あと最後にしほるが最高にカワイイです❤️❤️❤️ | ||||
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ほんの少しの難ありとの記載がありましたが、全く気にならない程度で、細かい商品詳細を載せている事に好感が持てました。 | ||||
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京極堂シリーズに比べると文章が若干現代よりになって、すっと読めた。 実在した人物や書物が出てきたが、本を読む前にそれらに触れていると感慨深いものがあった。 そうだっらいいなぁ、みたいな、現実が小説に紛れ込んだような楽しい感覚だった。 続きがあるので、そちらも読んで見たいと思った。この本に書かれている書物や、人物の本も。 | ||||
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妖怪小説、「百鬼夜行(京極堂)シリーズ」で著名な著者の新シリーズが、この「書楼弔堂シリーズ」。 本書、「破暁」はその第1弾となります。 弔堂とは、舞台となる古本屋の屋号。 時代は、明治20年代半ば。 武家に生まれながらも、元服前に明治維新を迎え、武士らしい生活をしたことのない、高遠は、病気療養を理由に仕事を辞めたまま、無為に日々を過ごす、30代の男性。 彼は、東京郊外に街燈台のような不思議な建物を発見する。 それが、古今東西の書物の揃った古本屋、弔堂であった…。 「書物と申しますものは、それを記した人の生み出した、まやかしの現世、現世の屍なのでございますよ」 弔堂の主人は、こう述べ、訪れる客に、その人物に相応しい一冊を勧める ──これが「探書」と本作品で呼称される行為であり、本書には、この「探書」を表題に持つ、6つの短編が収められています。 高遠は、この探書の手助けをするのですが、この書店には、明治を生きた著名な人物が訪れ、各短編のゲストのような役割を果たしています。 そして、勧められた書物を知ると、その著名な人物の生涯が象徴的に浮かび上がってくる…という構成が心憎いばかりの出来栄えとなっています。 また、お得意の妖怪や、お化け、幽霊などに関することも登場人物たちの会話に折り込まれ、別の形の百鬼夜行シリーズとも言えるのではないでしょうか。 弔堂の主人が、その人のこれぞという本を勧める姿も、京極堂の憑き物落としに通ずるものがあります。 登場人物たちの会話には、この江戸から明治への大変革期を生きた人々の戸惑いと、新しい世界観や人生観を模索しようという心意気が感じられ、そういったこれからの時代での生き方の意味を探るという試みは、現代人も忘れてはならないのだ、という著者のメッセージのようにも受け取ることができます。 この探書という行為の中には、ミステリ的な要素も入っているので、娯楽作品として読むことも可能な小説になっています。 主人公の弔堂の主人の言葉どおり、本はそれぞれの人間の読み方次第で、その意味するところも変わってくるのだな、ということを実感できました。 本が好きな著者が、本の好きな人のために書いた、まさに読書に人生の多くの時間を費やしている人のための作品だと思います。 読書が趣味、と自覚している方に、大いにオススメしたい一冊です。 このレビュー執筆時(2017年3月)、既に第2弾が刊行されており、いずれ読んでみるつもりです。 | ||||
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『書楼弔堂 破暁』(京極夏彦著、集英社文庫)は、京極夏彦の妖力全開の一冊です。 明治20年代、帝都の内ではあるが、雑木林と荒れ地ばかりの鄙びた所に、三階建ての何とも変な本屋がありました。「立ち止まって眺めるに、慥かに奇妙な建物である。櫓と云うか何と云うか、最近では見掛けなくなった街燈台に似ている。ただ、燈台よりもっと大きい。・・・しかし到底、本屋には見えない。それ以前に、店舗とは思えない。板戸はきっちりと閉じられており、軒には簾が下がっている。その簾には半紙が一枚貼られている。近寄れば一文字、弔――。と、墨痕鮮やかに記されていた」。 「本は墓のようなものですと(書楼弔堂の)主は云った。『墓――ですか』。『ええ。そうですね。人は死にます。物は壊れます。時は移ろい、凡ては滅ぶ。乾坤悉く移り変わり、万物は普く常ならぬが世の習い。しかしそれは現世でのこと』」。 主は、こういうことも言っています。「『言葉は普く呪文。文字が記された紙は呪符。凡ての本は、移ろい行く過去を封じ込めた、呪物でございます』」。 「『書き記してあるいんふぉるめーしょんにだけ価値があると思うなら、本など要りはしないのです。何方か詳しくご存じの方に話を聞けば、それで済んでしまう話でございましょう。墓は石塊、その下にあるのは骨片。そんなものに意味も価値もございますまい。石塊や骨片に何かを見出すのは、墓に参る人なのでございます。本も同じです。本は内容に価値があるのではなく、読むと云う行いに因って、読む人の中に何かが立ち上がる――そちらの方に価値があるのでございます」。 「『本は、幾らあっても良いもの。読んだ分だけ世間は広くなる。読んだ数だけ世界が生まれましょう。でも、実のところはたった一冊でも良いのでございますよ。ただ一冊、大切な大切な本を見付けられれば、その方は仕合わせでございます』。だから人は本を探すのですと亭主は云った。『本当に大切な本は、現世の一生を生きるのと同じ程の別の生を与えてくれるのでございますよ。ですから、その大切な本に巡り合うまで、人は探し続けるのです』」。 「『その一冊に巡り合えずに、求め求めて溜まった本がこの楼にございます。どの本も掛け替えのない喜びを私に与えてくれた大切な大切な本でございます。一冊として読んで無駄な本などございません』。世に無駄な本などございませんよと主は云った。『本を無駄にする者がいるだけです』」。 本書は、各章で、最後の浮世絵師・月岡芳年、泉鏡花、勝海舟、妖怪研究の井上圓了、ジョン萬次郎こと中濵萬次郎、人斬り以蔵として知られる岡田以蔵、児童文学者・巖谷小波が書楼弔堂を訪れるという凝った作りになっています。京極の面目躍如であります。 妖しさがぷんぷんにおう小説ですが、同時に、読み応えのある書籍論・読書論になっているという、本当に不思議な本なのです。 | ||||
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期待どおりの内容でした。起承転結が素晴らしく、特に結の部分は、、、 | ||||
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時は明治二十代半ば、またもや古書店店主が主人公である。 ただし「京極堂」シリーズとは違い、事件は起きない。 しかし主の口上はどことなく京極堂を彷彿させる。 読まれぬ本は「死んでいる」のだそうだ。読む人の所に届けて、 その本は「成仏する」。 いわゆる事件は起きないのだが、迷える者、悩める者弔堂を訪れる。 弔堂は、その者を導き、自分のための「1冊」を見つけ出してくれる。 その1冊というのが、また作者ならではのセレクションなのだ。 客はというと、最晩年の月岡芳年、書生時代の泉鏡花、若き日の 井上圓了等々、そうそうたる顔振りだ。圓了には『畫圖百鬼夜行』を 売っているのが嬉しい このシリーズでもそうだが、時代背景、人物設定は素晴らしい。 全部で6編の短編集だから、初めは物足りないかもしれないが どんどん引き込まれ、次は誰が客なのかが楽しみになってくる。 「京極堂」シリーズがなくなって寂しく思ってる人には、嬉しい最終章が 待っている。 | ||||
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