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太陽を曳く馬の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.72pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全47件 21~40 2/3ページ
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動きのある小説ではない。どこまで行くんだというくらいの独白、思考の文章化。 これはどういうジャンルの小説なのだろうか。 哀しいことにほとんど頭に残らず、理解できずにそれでもがんばって読了した。 がんばって読んだというマラソン的な観念を残し、振り返れば上下巻で読むのに一カ月かかってしまった。 高村薫は嫌いではない、だが自分には合わない気がする。 | ||||
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さすがの合田も泣いて、投げ捨ててしまう程、形のない精神世界に対抗、又は理解すべく立ち向かったが、手段を持ちえず、自らを異常の 状況へと追いつめてしまった。 そう言う事で宜しいのでしょうか? 造形に関わる者として、上巻のアーティストが呑み込まれる錯乱は理解できますが、宗教家の持つ精神世界は読んでいて、理解不能な催眠状態に引き込まれてしまいました。私は自身の心の神は信じますが、組織化された宗教集団が持つ「人々への救済」には疑問を持っています。 薫様も非情なお人ですね!早くいつもの?合田に戻してください・・・ | ||||
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現代絵画に対する作者の見方がとても参考になります。 小説としては難解で読むのに力が要ります。状態はとても綺麗です。 | ||||
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高村薫さんの小説を読むにはとても体力が要ります。 今回も格闘しています。 | ||||
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薫様のストーカー?です・・。 期待値はパンパン。 いつも裏切らない貴方は、なた豆歯磨きの様に癖になります。 しかし、いつもの合田氏とは違うのです。 そして私のジャンルであるアートの世界が背景にあるので、ちびりそうです。 | ||||
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上下巻を図書館から借にて読み、熟慮の結果、上巻は不用、下巻のみ購入した。 上下とも、動機不明の殺人では共通しているが、下巻は内容が、オーム真理教と曹洞宗の違いを主人公の口を借りて詳細に記述している。筆者に消化不良なところがあると見えて、尻切れトンボに終わった感もあるが、難解なオームの教義と禅の奥義に取り組んだ姿勢には敬意を表する。上巻は必要ない。 | ||||
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装飾過多な文章が続きます。例えば、「おまえはまだ二十八で、私生活の失敗を失敗と認めるにも若すぎ、自信喪失する代わりにひたすら仏頂面に磨きをかけていた、あの八十七年の十二月初め、当時勤務していた北沢署管内の、世田谷区羽根木の立て込んだ住宅地の木造アパートで、餓死した中年女性の腐乱死体が見つかったのがきっかけだった、と。」 また、「一回り以上下の世代には、木造アパートのすえた四畳半の畳や、ATGやマンガ雑誌のじめじめした性の匂いと、反時代や若者文化を語る饒舌と安っぽさの印象しかない、ある時代のある空気へおまえの頭は一瞬飛んでいったが、しかし眼前の男の印象とはやはり重なるものはなく、布団から起き上がるのを忘れて餓死したというのも、なんだか滝田ゆうの世界をもう一段薄ぐらくしたような話だと感じただけだった。否…」などなどです。 そうして話は進んで行く感じが私にはせず、「これは何かの文章の遊びか?」と思ってしまいます。 衣が大き過ぎてちょっとだけエビが入っている天ぷらとか、小麦粉で延ばしに延ばして、そば粉は1割くらいしか入ってないそばみたいないたずらの様です。 ビクトル・ユゴー原作の「レ・ミゼラブル」も最初1200ページあり、その装飾の多さに当初敬遠されたらしいですが、この高村作品でそんな事を連想しました。 少なくとも今の私には、この様な心象風景(?)の連続よりも、物語が進行してくれる方がいいです。読売文学賞を取った作品ですが、私にはよく分かりません。 | ||||
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重厚な社会派小説を描くのが高村薫だと思っていましたが、本作ではオウム真理教などのカオスな要素を中途半端に取り入れてしまい、合田雄一郎はより寡黙になり(?)観念的な思考のみを重ねてしまう。坊さんの旧かな使いの長い手紙の部分などは、しんどくてナナメ読みで飛ばしてしまった。マークスの山のような迫力もないし、現在的なアイテムを使って書こうとしているメッセージも解らない。低いモチベーションで書かれてるのを感じる。著者に期待しているので、あえて辛口。 | ||||
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一言で言って密教と顕教の違い、主に身体性についての比較論はかなり難解で、私はその1/3も理解できなかった。オウムは宗教か?という点、「空」の捉え方など、まあよくもこんだけ論じることができたなと思った。これが読売文学賞を受賞したということは、この内容をすっかり理解される方々がいるのだなあと感心しました。ただ、「秋道君へ」と書かれた手紙に中でこれまた延々と語られる「円」に対するイメージと美術論は妙に魅力的で、それこそ頭の中にすっかり暗くて複雑な赤をバックにした歪な黒い円が描かれた抽象画が出来上がり、しばらくはこのイメージに合った、抽象画を見てみたいとネットで探しました。 「言葉」というのは人間の栄光でもあり、呪詛でもあると思う。理性がそうであるように。頭の中に氾濫する言葉をどこまで突き詰めれば、どこまでつなぎ合わせれば自分の感じているリアリティに届くか、決して届くわけではない、そのギリギリまでを追い詰めようとした、そんな本だと思いました。そんなわけで、「気に入った」わけではないが☆4つ。 | ||||
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作者の美術論、宗教論、精神論がこれでもかと披露されていてもうおなか一杯。 その割には2つの事件のありようが不鮮明でよく分からなかった。 むしろ、「オウム考」とかの論文にしたほうがよかったのでは?そしたら絶対買わなかったのに。 当分高村薫はもういいやってかんじ | ||||
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最高傑作になりそびれた作品といえる。欠陥がある、といえばそうなのだ。だが、その欠落部分=亀裂は作品の主題が必然的に要請したもの(対象aのごとき)ともいえる。どっちつかず、どっちでもいい、といいたいのではない。テーゼとジン・テーゼが共犯したような、抜き差しならない関係性がたしかにあるのだ。たとえば運命という物語を圧倒的な持続感で照柿に染めあげた最高傑作『照柿』には、かような生きられた隘路はない。だから『太陽を曳く馬』を新たな最高傑作といっていい。なりそびれた、というのが賛辞であるならば。とまれ、最新作『冷血』を読みおえたいまとなっては、ひとまずあえてこの作品を最高傑作とよばねばならない、そうおもう。 それは、かの時点の最高傑作『マークスの山』での、宿命の連続殺人犯マークスではなく、狡知なる教唆の弁護士林原に孕まれていたものだ。またあの時の最高傑作『照柿』における、合田の幼馴染の殺人者野田ではなく、殺人容疑者にとどまる博奕狂いの労務者土井がはなっていた謎と通じている。解明不可能な、了解不可能な、さらにいえば思念も知覚も頓挫する、そんな臨界への誘いである。それをどう描けばよいのか、描いてしまっては嘘になるそれを。 不思量底如何思量。『太陽を曳く馬』でこの問答が引かれている。坐禅においてなにを思念するのか。思念しないことだ。思念しないことを(認識に歪まぬあるがまま)をこの身でどう思念したかは、思量=不思量がどう可能かは、只管打坐の坐相(如何)にしかない。正しき坐禅にただただうちこむのみ。 てんかんの発作をもち元オウム信者であった末永は、その坐禅にうちこんだ。正確にいえば、それを越えようとした。坐禅が如何思量という往還を約したものであったのを、ひたすら不思量底をめざした。歩くアラヤ識と自称し、意識の奈落を、身をもって見ようとした。 そのトラックとの衝突死の真相を、捜査一課第二特殊犯捜査第4係長合田は命じられる。捜査は末永が属した、政界や財界とつながって赤坂の一等地を占める宗教法人永劫寺の、別院僧堂の錯綜とした人間関係を解き、宗旨の坐禅の精神と、さらにオウム真理教の思想と、末永一個のそれとの差異、深浅を詳らかにし、かつ末永の精神状態を探るものとなる。それらを総合して法的にどう判断するか。だが尋問(言語化)してゆくなかで、言語化しえないものにどうむきあうのかという難問につきあたる。そのとき物理的な衝突死は、どうじに意識の奈落への墜落死のごときものと変じる。 かように職務を越えた行為になぜ合田は踏みだしたのか。なぜかれは「否!」「如何」と問いつづけたのか。 冒頭から合田は宙づりの実存的感覚、正確にいえば墜落途上の感覚にとらえられている。たえず虚空を仰ぎ、足下を見る。冒頭が高層ビルの場面であるのが象徴していよう。落下する雨粒になぶられるのが、さらに何度も傘をなくすのが示唆していよう。その冒頭で伝えられるのが、福澤秋道の絞首刑という二・四メートルの墜落死であった。さらにその想起のむこうにあるのが、想像を絶して了解不可能な、了解することを意志もち拒絶しているような、アモラルな、もうひとつの四百メートルの墜落死。 「如何」は刑事合田を貫き、「おまえ」への実存的問いとなって迫るのだ。(下巻レビューへ) | ||||
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(上巻レビューの続き) 作品はこの合田の行動に従い、想念に寄り添いつつすすむのだが、ふたつの過去が想起されている。そのひとつが第四強行犯捜査9係長とうじに専従した、二者殺人と生産児死体遺棄致死事件の顛末である。その犯人が吊るされた福澤秋道、かれはとめどなく感受されるものを描きつくそうとした、その衝動のみに誠実な素人画家であった。それは光という描きえぬものを描くかのような錯乱であった。心神耗弱を危惧さる容疑者に、合田は動機の解明を諦めた。動機を付与しては嘘になる。その解明不可能さに誠実であろうとした。検察がもとめる法的な辻褄合わせには与せなかった。いま、その男の刑死をもって閉ざされた不可解さが、末永の衝突死の謎の解明を課せられた「おまえ」に反復強迫してくることになる。 末永の衝突死とはなんだったのか。てんかん発作による不慮の事故死か。だれかの誘導と自殺念慮の果ての死か。あるいは意志ある自殺、いやその自由意志とは、意識の奈落をのぞきこもうとする男において、いかなるものだというのか。生まれ落ちた赤ん坊の自発した声のごとき、自律神経のいち反応の音のごときものと、どうちがうというのか。 合田と永劫寺住職明円との問答対決は、追突死の深層をこれ以上なく明かす。というより、これ以上明かしえないという臨界を明かす。自発的に意識の奈落をめざして、てんかんの処方薬の服用をみずからやめた末永がおり、寺院から外へ自由にでるために、合鍵を確信(思想)してあたえた明円がいた。その脈絡の果てにあるひとつの死であった。それは明滅するような、じゆういしのじゆうなしと記すほかない事態であった。自由無し=自由な死。 乱歩はかつて谷崎の初期短編『途上』の不可能犯罪譚を、蓋然性のトリックとして世界に類例ないと絶賛した。不可能犯罪という様相において、高村はこれを(無名)不作為の犯罪として形而上学的に解いたのだといえる。類例ないという語の強度は、この謎の構成と(不)解明ぶりにもふさわしいとおもう。 だが疑義がひとつあるのだ。どういう意識状態であったかはべつにして、末永は合鍵をもって門扉をで(その直前に非常階段のべつな施錠で拒まれている)、トラックとの衝突をむかえた。だがその鍵はいったいどこへいったのか。死体は所持していなかったのか。現場に遺留していなかったのか。あるいは末永がみずからどこかへ捨てたのか(それにより事件の様が変わる)。過去の事件とはいえ、その物証にたいする検証のなさ、物にたいするこの不感症は、刑事合田のなにがしかを語っている。 それはまた、合田が捜査の現場指揮した秋道の事件での、「耳栓」の不在に直結する。秋道の供述にそっていえば、耳栓がなかったことが、三つの死を引き起こしたことになる。耳栓があれば、かれは描きえぬことを描きつづける身にひきこもることができたのだ。 だが、みずから買ったと述べた耳栓はいったいどこへいったのか。室内に遺留していなかった。だとしたら、殺された女が隠した、捨てたのか。だが、なぜ代替のものを使おうとしなかったのか。以前そうしていたように、なぜ部屋をでて出産の耳障りな音を避けなかったのか(以前はそうした)。いやそもそも耳栓は存在したのか(よくなくなった、ともいっている)。それはどんな様態、メーカーのものであったのか。その行動範囲からして近隣コンビニであろうが、どこで買ったのか。なぜふたたび、買いにいかなかったのか。こんな問いが、刑事合田に欠落しているのだ。 とまれ、耳栓の不在は秋道を出産の場へ導いた。女の頭を玄翁で一撃した。産道をでた直後であろう生産児を、秋道は目撃しなかったという。嬰児は自発呼吸をしたのち、心不全で死亡した。その弱々しい世界への第一声を聴いたのか否か、それもわからない。その産声こそが、かれを出生の場へと赴かせたのかもしれないではないか。 つまり、耳栓の不在を補償するかのように、嬰児が出現したのだ(嬰児の父は不明)。耳に対する耳栓は、産道に対する嬰児と類比できる。この生誕死の現場でかれは新たな着想をえ、かつて専心した描線を、殺害でみた血に煽られたごとく、バーミリオンで塗りこめるという作業に没入(ひきこもり)することになる。 嬰児は世界の耳栓。耳栓が泣き叫ぶ。下手なダダ詩人の詩句をまねてそういってみる。「しわの寄った時間」「鋭角ピラミッド状に高速度で立ち昇る煙が叫ぶレコード」そんなでたらめな修辞(因果律)が秋道の頭(言語機能)を支配していた。それに従ったといえば、秋道の行為には道理を越えた「じゆうないし」があったのだ。ダダイズムは芸術のレベルで虚無を根底にあらゆる規範の破壊を意志したのだ。なにより末永の死に、死に裏打ちされた自由の、「光しずまる」かのような照射をうけた合田においては、秋道の犯罪行為に「じゆうないし」をみることができただろう。絞首刑とはしたがって「じゆうなし」(自由無し=自由な死)でもありえただろう。 そして「否!」「如何」と問いつづけた合田がゆきついたのも、ナンセンスな嗚咽であった。末永の死を明円による傷害致死とでっちあげようとする検察、政治権力のあからさまな思惑への違和、抗議、嘲笑、自嘲をもこめたそれは、「か、か、か」という表出となる。「呵、呵、呵」呵責を呼ぶと同時に、それを呵々大笑する表明だ。呵、呵、呵、喝! 自由はある。厳然とある。渾身口に似て虚空に掛れり、と。 そうしてそんな「呵」はもうひとつの過去を突きさすことになろう。ジェット機の激突をうけた貿易センタービルが煙をあげ、破砕物とともに無数の人の粒が降りそそぐ、とまるでダダの詩篇を実現したかのようなアモラルな世界を、かつて合田はテレビ画面で茫然とみるしかなかった。妻だった女もそんなふうに墜落していっただろう。それはわが身の崩壊感覚となり、合田に時折おとずれることになったのだ。であるがゆえにいまだに落下しつづけているかのような、了解不能な不慮の、無残、偶発的な一個の死に、末永、秋道の墜落死をとおして感受された、ひととしてあるかぎり付与されてあろう「じゆう」の、なにか恩寵のごときものとして光り輝く、いや光しずまるものを、人間合田は見たであろうか、か、か、か、可。 | ||||
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これはおそらく、読書人生がかなり長い人にしても 難解さベスト10に入るのではないの? というぐらいに難解極まりない本です。 読んでいるうちに文章が暗号化してきて 挙句文字化け…そういう本ははじめて読みました。 ただし、この文章が一種の魔力でもあり ものすごく難解なのではありますが 読む手は止まらないのです。 おそらく宗教を取り扱っているがために そう感じるのでしょう。 ただしこの本は 強烈に何回としつこく言います。 読み終えた後の脳の疲労度はダントツ。 ほかの本に行く気力すら奪われますので。 お世辞にも薦めるわけにはいかない本です。 重厚な作品になれていないひとは 手にとってはいけません。 | ||||
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こんなに1冊の本を読むのに疲労感を覚えた作品はございません。 内容が濃い、文章を読み砕くのに時間がかかる そして狂気に満ち満ちている… 読みづらさを覚えるあらゆる要素がこの本には詰まっております。 これはうかつに手を出していい作品ではありません。 ただし、この本を今読むと 非常にタイムリーなネタを読んでいる気がします。 そう、最近逮捕された人の所属していた教団が そこらこちらで表現として出てくるので… 宗教という要素が絡む異色作。 そこでの事故で死んだ一人の青年。 そしてその前に起きた住職の男の息子が起こした まさに狂気としか言えない事件。 まだ点と線ではつながりません。 が、なにかがあるのでしょう。 旧字体が頻出するので 苦手な人は絶対に読んではいけません。 | ||||
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「マークスの山」「照柿」「レディ・ジョーカー」に続く合田雄一郎刑事シリーズを期待していましたが、想像していた警察小説ではありませんでした。高村薫さんの小説は単なる警察小説ではなく、文学作品というべきかもしれません。「太陽を曳く馬(上)」はそれなりについていけたのですが、「太陽を曳く馬(下)」は非常に難解すぎて、犯人がどうとかいう警察小説ではありませんでした。適切な言い方ではありませんが「仏教」の思想に興味を持たれている方には面白い内容とも思われますが、自分の理解能力が低いために低い評価になったとご理解ください。 | ||||
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晴子情歌、新リア王につづく長編三部作。 僧侶の父とその息子の物語を軸としているが、息子のおこした殺人事件と、僧侶の下で修行していた雲水の死と、オウムの教義、そして人間には生きる自由と死ね自由がある、という四つテーマについて書かれている。しかしこの四つがうまく関連づけられていないため、前作、前々作にくらべて完成度が低い。 作者はもともと細部にこだわって全体のバランスを欠く作風だ。本作も執拗で細かすぎる記述が連続し、辟易させられる章もある。重いテーマを扱った意欲作だが、読みすすむのはたいへんで、一般的な人はほとんど読了できないだろう。ただ読書人なら読む価値のある一冊だと思う。 | ||||
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1ページに1語や2語、下手をすると10語近く、読めない又は意味が解らない単語が出てくる。 特にアートと仏教を延々語る章は本当に読み進めるのに時間がかかり、雄一郎さんに鼻で笑われそうだけど、手元にスマホを用意していちいち漢字や人名、絵も調べたりしてなんとかかんとか読了しました。おまけに3部作と知らず、まだ晴子情歌もリア王も読んでいなかったので最後は、嗚呼失敗したと思いながら、それでもページを捲りました。 もー、難しい! でも途中で投げ出すのは嫌だ! それの繰り返し。 きっと半分も理解できていなくて、でも読んだことで自分の中に何か溜っていけばいいな、というかきっと何か溜ったな。と思える本でありました。 検事の台詞がいちいち面白くて、そこだけはゲラゲラと笑える。 良い人も悪い人も出てこない。時折胸が熱くなる。よくわからない涙がちょろっと流れたりもする。 ・・・感想を書くのも難しい。 | ||||
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「晴子」も「リア王」も、馴染めませんでした。 「照柿」の頃が懐かしいと何度、思ったことか・・・ そして「太陽を曳く馬」は題材に惹かれながらも、手に取る勇気がなかったのですが、 定期購読をしているサンガジャパン(なんと、小説のまんなかにあるサンガです)という雑誌で2度にわたって紹介され、 やっと「この連休で読み干そう!」と思い立ち、恐る恐る上巻だけ買うことにしました。 現代芸術はさっぱりわかりませんが、上巻の後半で繰り広げられる、合田を相手にした二人の僧侶の言葉はとても興味深かったです。 サンガの一員だった青年が元オウム信者か?というところで、上巻が終了。 よし、これは下巻へ行けるぞ!と確信。 そして、この勢いで「晴子」と「リア王」にも戻ってみようかな、と思うこのごろです。 | ||||
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ストーリーについては、既に紹介されているので、重要な登場人物の末永和哉に関連して少々。 彼は精神疾患を患っているためか、周りの僧が経験出来ない所まで禅の観が進んでしまい、それを取り巻く議論が(マーク・ロスコ風絵画論にも絡んでくるのですが)、いまひとつピンと来なかったのです。 先日たまたま ted.com で、Jill Bolte Taylorと言うハーバードの精神科研究者が自らの脳内出血に起因する、脳の左右が一時的に分離する脳機能障害の経験を(その後8年かけて回復)、あれは涅槃であったと、表現するのをみて、ひょっとして末永が観たのはこれに近い経験であったのではないかと思いました。このTaylor女史の話を聞いて読み直すと、少々長い下巻の議論が、リアリティを増して読めました。 高村薫の本は、10年ほど前に友達からお前と同じ大学だろうとレディージョーカーを貸してもらったのが最初です。3学年高村さんが上ですので知っているはずは無いのですが、その後新聞で高村さんの写真を見て、一瞬で思い出しました。人気のない、照明がまだ灯いていなく薄暗い学生会館の暖炉の傍に一人で座っていた三つあみ、緑のセーターの学生の強い視線が何故か網膜に焼き付いていました。 | ||||
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上巻は、交通事故死した永劫寺サンガの青年雲水末永が元オウムだと判明した時点で終った。上巻では秋道の犯した特異な事件と彰之の観念的な認識論の絶望的乖離が圧倒的だったが、下巻も、オウムを素材にしながら、精神世界がより深く掘り下げられる。合田の孤独・隔絶感も益々高まっているようである。部下との言語感覚・信仰概念の相違が冒頭から露呈されている。言葉が持つ意味の齟齬感は作者自身のものかも知れない。 サンガの修行僧は元オウムの末永に異質を観て驚いたのか、同質を観て驚いたのか ? 仏教の本質を理解していない私の様な者にとっては、又しても「不可知」を論じている様に思える。しかし何れにせよ、末永は集団から排除されたとも考え得る。また、住職明円が末永を唱して展開するアラヤ識論は素粒子論にも似て、作者が末永をこの病種に設定した理由付けにもなっている。現世利益からインド的神話世界まで禍々しく包含した「宗教」。登場人物の言葉ではないが、現在「宗教」と真っ向から対峙出来る作家は作者くらいだろう。また、道元に関する明円と合田の会話、「不可逆の因果があるから言葉の論理が可能になる」は作者の執筆原理と取れる。そして、突然のサンガの解散。「正法眼蔵」も「バガヴァッド・ギーター」も読んでいない私には理解し得ない宗教論議が延々と続く。くどい様だが、作者は自身が紡ぎ出す言葉の力に賭けていると思う。オウムに対する分析も微細を極めるが、本質は我々の心性・認識原理の徹底解剖とその言語化であろう。<空>かも知れない<私>論を、飽くまで言語活動として展開する最終章も印象的。 小説としての成否は兎も角、「宗教」を軸として現代人の心性の問題にここまで踏み込める作家は作者を置いて他にはあるまい。「不可知」なモノを言葉で表現する壮大な試みを行なった圧倒的な作品。「晴子」の物語は完結したのであろうか...。 | ||||
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