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回転木馬のデッド・ヒート
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回転木馬のデッド・ヒートの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.37pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全52件 1~20 1/3ページ
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特に、 タクシーに乗った男 はたして本当に小説として書いたものではないのかどうかはわからないが、摩訶不思議でついていくのが楽ではない彼の小説に比べて、とてもまともな書き物だと思う。 | ||||
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奇妙な出来事やいろんな人たちの生活や考え。 村上春樹の文章に引き込まれて、いろんな人の人生を辿る感覚 | ||||
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これは面白かった!村上春樹が小説にしきれなかった、他者から聞いたことまるごとそのままお届け!みたな小品。 世の中って、説明できることばかりじゃない。だから他人の話も全部が理解できて納得できることばかりじゃない。納得できない話を他人にするのは勇気が要る。小説家の村上氏だからといいたくてたまらないけど誰にも言えないことをつたえたのだろうな。 スッキリする話じゃないけど、人間の液体的な生々しさみたいなものを最後まで感じさせる短編集。 | ||||
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比喩がうまい | ||||
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「BMWの窓ガラスの形をした純粋な意味での消耗についての考察」が未収録なのが残念。 他人の話を聞いているという体(てい)で書かれていることで、とても風通しの良い印象の秀作揃い。 作風が統一されているという点で、「カンガルー日和」と双璧の絶品短編集。この頃はマジで神だった。 | ||||
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冒頭の一編で著者は「ここに収められた文章は原則的に事実に即している。」「聞いたままの話を、なるべくその雰囲気を壊さないように文章にうつしかえた」と書いている。 そして、その文章を「<スケッチ>と呼ぶのは、それが小説でもノン・フィクションでもないから」とも。 読むほうのわたしは、文章の面白さ、そこから伝わり心に残る何かに気を置いているので、本書に収められた数編が事実か否かは気にならない。 著者が聞いた話を文章化する際に、たぶん落としたものと残したものがあり、残したものの中でもそのままのものと磨いたものがあるのだろうと思う。 そこにこのスケッチ集の面白さがあるのではないか。 何を残し、どう磨いたか、それはどうしてか。 『ねじまき鳥』にはそれまでの作品にはなかった現実性みたいなものを感じたけれど、こういったスケッチ作業が(意識的にかどうかは別として)反映されているのかなあと思った。 | ||||
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我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッドヒートをくりひろげているように見える。これは村上春樹さんにしか書き得ない文章表現でありキャッチコピーだと思いますよね。さまざまな人々の語る人生の物語には安易な答はないのでしょう。だから最後まで読んでも意味がわからなくても決してガッカリせずに唯々ラストの一文に漂う余韻を噛み締めて味わうべきなのでしょう。本書には所々に男女のセックスが描かれますが嫌らしくもエロティックでもなく淡々とした筆致です。これらの物語は読み手の年齢によって感想に違いがありそうですね。 『レーダーホーゼン』ドイツ旅行の妻に半ズボンを土産に頼んだ事が夫の一生の不覚。人生は誠に不可解ですね。『タクシーに乗った男』女の離婚の原因はやはり絵に描かれた見知らぬ男に魅せられた為でしょうね。『プールサイド』人生の折り返し点を過ぎた男の憂鬱。ビリー・ジョエル「アレンタウン」&「グッドナイト・サイゴン」『今は亡き王女のための』運命のすれ違い。『嘔吐1979』嘔吐と謎の電話。『雨やどり』さだの歌とは無関係な金で男と寝る女の話。『野球場』覗き男の罪悪感。『ハンティング・ナイフ』男の夢判断の結果を知るのが怖い。 | ||||
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この時期の村上春樹の表現には力がある。読む価値のある短編集。 若い読者向けの年寄りの老婆心を述べたい。 気をつけないと「回転木馬地獄」に落ちてしまう。ご注意を。 生きていると順風満帆で物事が進み,世界が自分を中心に回っているような感覚にとらわれることや,全てが裏目に出て,自分は世界に独りぼっちのような感覚にとらわれることもある。 3歩進んで2歩下がるどころか,3歩も4歩も下がることもあり,なんだか迷路に入り込んで同じところをぐるぐる回っているような気がしてくる。 そんなときに,本作「回転木馬のデッド・ヒート」を読むと,一言一言が自分では表現できない曖昧模糊とした思いを具体化してくれているように思える。 そして,序文にあるように, --(引用ここから)------------------------------- 『他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉えられていくことになる。おりとはその無力感のことである。我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。』 --(引用ここまで)------------------------------- なるほど「 我々はどこにも行けない 」のかと,変に納得してしまう。 そして,宇宙を漂っていたチリが太陽などの重量にとらわれて,太陽の周りをぐるぐると周り始めるように,読者も村上春樹の言葉にとらわれていくことになる。村上春樹マジックにとらわれてしまって,抜け出せなくなる。 つまり,無力感をかかえつつ,同じ所を回っているだけかもしれないが,仮想の敵に向かって,仮想の目標に向かってデッド・ヒートを繰り広げていくことを無自覚にではなく,自覚して無力感とともに行い始める。 私はこれを「回転木馬地獄」と便宜上呼ぶことにする。 私は既に本作のなかの「プールサイド」の人生の折り返し地点という概念を当てはめると,折り返し地点を過ぎたと考えることが現実的な年齢となっている。 そのせいか,折り返し地点以前に本作を読んだときにはかかってしまった村上春樹マジックは,今の私にはかからなくなっているし, 「回転木馬地獄」に落ちることもない。 「我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。 」と序文にあるが,私には自分なりの運行システムが確立しているし,その運行システムに自分自身が規定されすぎないように気をつけているからだ。 だから,回転木馬から降りて,外から眺めることもできるし,必要なときがあれば乗ることもできる。乗っていてもどうせ同じところをぐるぐる回っているのだから,馬鹿馬鹿しくてデッド・ヒートはくりひろげない。 ただ,「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損々」という気分になってデッド・ヒートをくりひろげたくなることがあるのも事実だ。 馬鹿馬鹿しいのは分かっているが。 村上春樹,とくに本作を読んで,一言一言が自分では表現できない曖昧模糊とした思いを具体化してくれているように思え,曖昧模糊とした感情を無力感にとらわれているんだと思っている人(「回転木馬地獄」に落ちた人)は,そこから抜け出すのは難しい。 他人の作った運行システムに上書きされてしまったようなものなので,いろいろな経験,読書を通して自分なりの運行システムを作っていく必要がある。そうすれば,降りることも乗りかえることもできる。 頑張って欲しい。自分が変われば世界も変わる。自分のルールで自分が苦しくならないように緩やかなシステムとすることにも留意して欲しい。 | ||||
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読んだ後イマイチ満足出来ないことの多い著者の作品の中で、本作は例外といえるものだった。第一に序文がよかった。人の生はメリーゴーランドのようなものであり、特定の位置で、特定の速度で前進することしか出来ないという、その中の一文は、示唆に富んでいて、説得力があり、確かにその通りかも知れないと、わたしはしみじみ共感してしまった。村上春樹は案外、人生に関する教訓的なものを書くことが出来るのだなぁ。 ところで本作は、純粋な小説とは言えないもののようだ。というのは、本作に収まっているストーリーの全ては、著者が他人に聴いた話の「写し」的なものであるためである。要するに、若干の加工はあるにせよ、話そのものは虚構でなく、現実のものなのである。そのため、各話に作為的でない、自然なリアリティがあるのは当然のことなのかも知れない。 しかし、リアルであると同時に、ミステリアスでもあった。どうしてだろう? 登場する人物達は皆、(恐らく)普通の、ありふれた、身近な、従ってリアルな一般人である。ところが、練達した腕で文章となった彼等の生活、その中での彼等の挙動、態度は、人物のリアリティに反して、不可解だったり奇怪だったりする部分を持っていて、わたし達読者の頭に疑問符を浮かばせる。 思うに、著者は本作を著すことで、リアルな人間というのはミステリアスなものであるというメッセージを、意図してか否かは判然としないが、わたし達読者に伝えてくれたのではなかろうか。 奇妙な謎を孕んだ、お友達との議論の種としてはもってこいのものだと思います。 御一読、お勧め出来ます。 | ||||
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別途、全集付録の著作自身による解説を読むことをオススメします。新たな発見があります。 | ||||
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1984年の『蛍・納屋を焼く』の後に書かれた、1985年発表の短編集である。この後には「パン屋再襲撃」が1986年に発表されるので、この頃の村上氏は短編集に注力していたと言ってもいいだろう。そしてこれら短編集が、現在まで書かれている村上氏の長編小説にも大きな影響、好ま言い方ではないかもしれないが、短編を基にして長編に発展させたと言っていいのではないだろうか。 「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」は前書きで、この短編集に収録された作品がすべて実際にあったことであると述べている。「レーダー・ホーゼン」は、結婚後何十年も経って妻が夫に対して離婚を申し入れる話なのだが、その契機になったのが夫に頼まれたドイツのズボンだったという話である。「タクシーに乗った男」は、雑誌の編集者である主人公が、ある画廊のオーナーである女性から聞いた話である。そのオーナーがニューヨークに住んでいた当時、チェコ人の男から120ドルで買った絵とは……。「プールサイド」には、自分が年老いている、と感じた30代の男が主人公に小説にしてほしいと言って語った話である。途中で出てくるBrucknerの長大な交響曲について、あ、この小説のこの場面で出てきたのだっけ、とBrucknerに対する見事な扱い方に改めて感心した。「今は亡き王女のための」は、学生時代には鋭かった女性が、結婚して恵まれた子供を失ってから、変わってしまったと言う話なのだが、村上氏の大好きなFitzgeraldの「Winter Dream」を思い出してしまう。「雨やどり」は、村上氏にインタヴューしたことのある雑誌編集者の話である。「野球場」は、才能に恵まれてはいないけれども魅力的な字を書く小説家志望の銀行員の話である。蟹を食べる時には、読まない方がいいかもしれない。 気になった作品に触れただけでも、こんな量になってしまった。この日本のバブルの直前に書かれた3冊の短編集は、いずれもすぐれている。 | ||||
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回転木馬の競争をデッド・ヒートと感じるのは、子どもだけ。 手綱をしっかりと握り、前のめりで馬を蹴る。 その頃がなつかしい。 サラリーマンの今も、毎日、回転木馬の競争、メリー・ゴー・アラウンド。 決まったルートを、ただ行き、帰る、痛勤しているだけなのに、 毎日がデッド・ヒートの競争のように感じて、心がすり減っていく。 時計の針たちのよう。 勤勉に定まった場所を、それぞれの針の役割に則って、定まった速度で 巡回しているだけ。勝ちもないが、負けもない。価値がない競争。 秒針は一番早く巡回し、分針や時針を軽々と抜き去る。 確かに早い。だけど、繰り返しにすぎず、ただそれだけのこと。 同じことの繰り返し。 そう見えても、時間だけは、確実に失われ、二度と戻らない。 恋人が死んで、妻が突然いなくなって、ただ喪失する空白。 この作品を読んで、こんなふうに失われた時間を感じました。 たまらないむなしさを感じさせる短篇集でした。 村上さんに言わせれば、 「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、 その発生と同時に失われてしまっているのに、 我々はそれを認めることができず、 その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらす」 歪んじまった。 村上さんは、これらの短篇を<スケッチ>とか「おり」と呼ぶ。 いつの日か、この<スケッチ>が名画に変わる。 そんな可能性を予感させる短篇ばかりです。 発生と同時になぜか失われなかった、意志の残骸。 頭の中にたまる「おり」のような8編の短編でした。 他のどの長編の中に、どのように組み込まれたのか、 それとも、ただ時間の闇の中に消え去っていった短篇なのか。 村上作品の愉しみはつきません。 | ||||
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作者の「デタッチメントの時代」と呼ばれた頃の短編集です。 市井の人々の生活を舞台に、心の内側に向けた思索が描かれています。 【回転木馬のデッド・ヒート】 我々はどこにも行きつくことない回転木馬の上で、熾烈なデッド・ヒートをくりひろげている。 時に奇妙で不自然な点を見出すとしたら、それは本質を越えた何かが通り過ぎていく姿かもしれない。 【レーダーホーゼン】 ドイツの店先でレーダーホーゼンの採寸を楽しんでいる男を見ているうちに、 不貞を繰り返してきた夫のことをどれほど激しく自分が憎んでいたのか知るに至った。 この出来事以来、彼女は良き妻・良き母という仮面(ペルソナ)を脱ぎ捨てた・・・。 【タクシーに乗った男】 アテネを訪れた彼女は、「タクシーに乗った男」と偶然隣り合わせる。 日常に姿を現したメタファーによって、彼女の中の失われた人生への心残りが消えた。 【プールサイド】 35歳になった朝、自分の中に把握不能の何かが潜んでいることを感じる。 人生の正午に訪れた危機。沈み始める太陽と共に彼は新たな道を歩み始める。 【今は亡き王女のための】 他人の気持ちを傷つけることが天才的に上手い美少女。 彼女の中に光と影の側面を見いだした僕は神秘的な想いに引き込まれる。 【嘔吐1979】 40日間ものあいだ嘔吐といたずら電話に苦しめられた謎。 陰謀・罪悪感・虫の知らせ・白昼夢・統合失調・共時性・・・。 問題はどの仮説をとるかだ。そしてそこから何を学ぶかだ。 【雨やどり】 バタイユ曰く、かつてのエロティシズムは聖なる領域の祝祭でもありました。 聖域から追われた現代のそれは、経済と結び付いて堕落へと進んで行きます。 【野球場】 のぞき見した望遠レンズの中で、彼女の体と行為が二つに分かれるのを目撃した。 無理矢理に拡大されたフレームが人間存在をグロテスクなものに変える。 【ハンティング・ナイフ】 太ったアメリカ人女性と車いすの日本人青年。日米の戦後を投影したような二人。 箱庭のようなリゾートで歴史のひずみが心象風景となって僕をとりかこむ。 やがて少しずつ消え失せて、あとにはナイフ(が象徴する暴力)の影だけが残った。 誰もが経験するであろう具体的な課題が本作で提示されました。 人生に対する不確かで不安な印象を残しながらも、不思議な充足感も感じる読後感でした。 | ||||
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作中に出てくる語り手の「村上さん」は、有名作家として描かれている。 初期も終わり頃の短編集なんだな、と思う。 わたせせいぞう氏の作品を連想する。 ただ、それよりも多少、昏い感じがする。 文章は端正で、加えて若い力も感じられる。 そう思うのは、読者の側が年をとったせいかもしれない。 数日前、新作長編のタイトルが『騎士団長殺し』だとか、新聞に出ていた。 旺盛な筆力には感嘆する。 | ||||
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物語を読んで、固く脳の記憶素子に刻まれて、なにか機会あるごとに、簡単に、記憶の前面に出てくるものがある。 そんな作品の代表的なもののひとつが村上の「レーダーホーゼン」 です。 話の筋をここに書いてもこれからこの作品に触れるひとに何がしかの障害(不利益)を及ぼすことは殆ど心配する必要は無いと思う。とにかく「摩訶不思議なお話し」なのです。 ひとりでのドイツ旅行を思い立った中年婦人が、日本にいる夫に頼まれた 「レーダーホーゼン」 を買う。その際に、夫に似た体形の人を連れて行かなくてはならないという店舗側の条件がつき、婦人の努力も有り、無事夫と類似の体系の男と共に店に行き 「レーダーホーゼン」 を注文する (無事注文できた)・・・・・そして婦人は夫と離婚する決意を持ってしまった。 「レーダー・ホーゼン」 は日本人の様な体型のひとが着ると、ただの 「マヌケ」 にしか見えない (私の偏見)。 そんなものを、わざわざ身につけようと思う夫の感性 (精神性) に許すことのできない苛立ちを感じてしまった。 それと同時に、「ああ!? 実は、自分は夫を愛していなかったんだわ・・・・」 という心のトリガー・スイッチも100%オン (off はありえない) になってしまった。 男女双方にありうるが、どちらかというと男にとって、より怖いお話し? 女性の感情 「嫌い、気持ち悪い!!」 が訂正されることは絶対ありません。 【類例】 レーダーホーゼンではないが、TVでの映像で、白いキャップの半ズボン姿で、あろうことか仲良く首元にタオルを巻き、ゴルフに興じている中高年の男性を見かけることがあるが、あれをみて奥様が 「あら、うちの主人って意外とカッコよかったのね」 と惚れ直す人がどれくらいいるだろうか・・・・・・その逆は沢山いると思いますが。 お笑いの勝俣州和さん、トレンディー・エンジェルの斉藤さんでない背の低い方、少なくとも良いイメージではない半ズボン映像として脳にいつまでも残ります。 | ||||
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自分よりも一回りくらい若い人のすすめで読む。読者が作家とともに年をとることなく、どんどん世代交代していくところが村上春樹のすごいところだと思う。何人かで話をしているときその青年が「35歳問題」について語ったのが印象的で、あとから聞いたら村上春樹の「プールサイド」という短編小説があって……と教えてくれた。短編集の3番目に収録されているその小説は「35歳になった春、彼は自分が既に人生の折り返し点を曲がってしまったことを確認した」という一文で始まる。ぜんぶで8編おさめられているが、「レーダーホーゼン」「タクシーに乗った男」「野球場」あたりがよかった。どれも人生の思いもかけない時点で「つきものが落ちる」話のように読めた。人生のフェースが変わるその瞬間はときにドラマチックであるが、往々にしてそうではない。 ――10分後に妻がアイロンがけを終えて彼のそばにやってきた時、彼はもう泣き止んでいた。(プールサイド) ――三十分ほどでその作業が終ったとき、母は父親と離婚することを決心していた。(レーダーホーゼン) ――彼女の中のその揺れが収まった時、彼女の中の何かが永遠に消えた。(タクシーに乗った男) ――まるでつきものが落ちるみたいに、そういう欲求がなくなってしまったんです。(野球場) でもこれで終わりではなく、主人公たちはまた思いもかけないときに別のフェーズに入っていくのだろう。でも実際のところどこにも行かない。そのことを村上は「定まった場所を定まった速度で巡回しているだけの」メリーゴーランドに喩えている。このタイトルは何かの映画のタイトルだとも聞いたが。 読みながら自分にも「つきものが落ちる」瞬間があったなあと思い出したが、やはりそれは何か特別なことがあったからというわけではなく、ある人が何気なく発した一言だった。それはその人がいつも言っているなんということもないことだったのに、そのときだけ「あれっ」と思った。たったそれだけのことだった。怒りや悲しみといった強い感情はなく違和感だけがあった。それからしばらくして(35歳よりずっと上の)節目の誕生日を前にしたあるときから、悲しみがぺっとりと貼りついたような心境になった。一人でいても人と会っていてもそのぺっとりと貼りついた悲しみが去らない。このフェーズからふと抜ける日が来るのだろうか。来ても来なくても降りるわけにはいかない回転木馬。 『回転木馬のデッドヒート』は単行本として出たのが1985年。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と同じ年だ。その2年後に『ノルウェイの森』が出版される。村上は「はじめに」で、どうしても小説に使いきれない「おりのようなもの」をこの短編集におさめたと書いている。本書から約30年後、2014年刊の短編集『女のいない男たち』は作家「村上さん」はかなり後ろにひっこんでいるが、やはり彼の感性の網にひっかかった「おりのようなもの」で書かれているように思う。なんとなく似てくるのは同じ網だからなんだろう。同じような話でも、読書体験自体が心地いいのはその「おり」の純度を高める言葉の技術をこの人が持っているからなのだと思う。 | ||||
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本書の「はじめに・回転木馬のデッド・ヒート」の中で、作者は語る。 「それ(メリー・ゴーラウンド)は定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことだ」 時計の針たちも、似たようなもんだと思います。 定まった場所を、それぞれの針に定まった速度で巡回しているだけだからです。 秒針は一番早く巡回し、分針や時針を軽々と抜き去っていきます。 しかし、また約1分後いつの間にか背後に戻ってきて、また分針や時針を抜き去っていきます。 確かに早いが、同じことの繰り返しにすぎないように見えます。ただそれだけのことのように。 しかし、見た目には、同じことの繰り返しにすぎないように見えますが、時間だけは、確実に 失われてしまっていて、二度と繰り返されません。 村上春樹の作品を読むと、この「時間の喪失感」を感じます。 恋人が死んでしまったり、妻が突然いなくなったりして、喪失の空白感がたまらなくむなしい。 作者は続けます。 「我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われ てしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に 奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ」 この短編集をくくると、そういうことのようです。 作者自身は、本書の中のこれらの短篇を<スケッチ>とか「おり」と呼んでいます。 いつの日か、この<スケッチ>から名画が生まれる可能性を予告しています。 しかし、発生と同時になぜか失われなかった、意志の残骸(作者の体の中にたまっていく 「おり」)は、1985年には本書の中に収められた8編の短編でした。 それらが、現在の2016年には、どの作品の中に組み込まれたのか、あるいは 組み込まれずに闇の中に消え去っていったのか。 このようなことを考えながら、村上春樹の作品を読んでいくと、愉しみは尽きません。 | ||||
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「はじめに」の中のデッド・ヒートにおいて、 「のだ」とか「である」調の断定文が多い。これが興味深い、のである。 理由: べらんめー調の「べん」ににて、にてもやいてもくさくてくえんからである。 いまわデッド・レビューを書いてるボクは「である」調はでえきらいである。 であるのではないか、ならゆるす。あるのかないのかわからんから、である。 好きだ、好きだ、っていやあすむのに、好きなのであるとか、好きなのだ、 とかふわふわしたへりくつをぬかすやつは、くつをぬがしてやつざきにして やる。これはボクのやつめうなぎの八つ当たりなのである。いつもの。 吾輩は猫である、とかいっても猫にひっかかれないですむのは 夏目せんせえのように、えれーひとだけである。 ボクなんかえらそうになんか言っても「勝手に猫をなのるなよ、なめんなよ、 ふん」と猫からそっぽむかれることひっし、なのである。 「である」なんてえのは、ながやでは、しようきんしのことばである。 うっかりくちをすべらそうもんなら、猫にひっかかれるわ、犬にしょうべん ひっかけられるわ、猿には・・・るわ、とてえへんなもんきー、である。 しぬまぎわにはどう考えているのかしらん、のである。 少なくともいまわのボクはそう考えている、のである。 | ||||
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村上さんの、初期の短編集です。 長編を読む時間がない人は、まずは気になる 村上さんの短編集でも読んでみたらいいかがですか。 | ||||
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この作品は「レーダーホーゼン」「タクシーに乗った男」「プールサイド」「今は亡き王女のための」「嘔吐1979」「雨やどり」「野球場」「ハンティングナイフ」の8篇からなる短編集である。 冒頭、著者は「はじめに・回転木馬のデッドヒート」として、これらの短編の考え方と経緯について詳しく説明をしている。ここに収められたものは他人から聞いた話であって、まったくの事実とはいかないけれど話の大筋は事実である。このような文章を小説と呼ぶにはいささかの抵抗があるし、小説と区別して〈スケッチ〉と呼ぶことにするとも・・・ また、小説の材料として今後このようなスタイルにしたものを無意識にその断片を選びとることがあるかもしれないけれど、ここにある〈スケッチ〉には同じ共通項があって、それらはいずれも「話してもらいたがっている」ものだとしている。 なるほど、この作品を読んでみるとそのことはよく分かるし納得できる。 ここで村上春樹は「他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていく。」として大変興味深い指摘をしている。どういうことかといえば、「我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリーゴーラウンドに似ている。」というのだ。 誰が云ったか忘れてしまったけれど、「人間みんなチョボチョボや!」ということかもしれない。だからという訳でもないのだが、僕は全篇を読み終えて共通の密度といえばいいのか個々の〈スケッチ〉についてある種の均質な空間を感じてしまった気がする。それは村上春樹ご自身がいうように紛れもなくこのテキストが小説だからなのだと思う。 〈スケッチ〉におけるマテリアルが事実であろうがなかろうが、楽しみ方はいろいろあっていいのだとも思う。まして小説として云々なんてナンセンスのきわみという他ない。僕はそう思う。何はともあれ、本著『回転木馬のデッドヒート』は不思議な話でいっぱいだ。どうぞ、お楽しみください。 | ||||
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