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トマシーナ
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トマシーナの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.57pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全20件 1~20 1/1ページ
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最初の導入から引かれていきました 一体この物語はどうなるんだろうと考えながら読みました 面白いし気持ちが洗われる | ||||
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ポールギャリネコの作品は、お友達に勧められて購入。愛猫をこよなく愛する者ものとして楽しみです。 | ||||
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この本が来た時、わくわくしましたが、読み始めて暗い気分になってきました。獣医師が冷たい性格で、病院にやってくる甘やかされた犬や猫を見下していて、簡単に殺してしまうからです。 娘の愛猫トマシーナまで、ろくに治療もしないで安楽死させ、娘は落胆から重病になってしまいます。街はずれに住む魔女と呼ばれる女性が、たまたま薬が少なくて死に切らなかったトマシーナを見つけて介抱し治します。 トマシーナが帰ってきたので、娘は元気が出て病気は快復して行きます。しばらくやもめだった父の獣医師は、偏見を捨てて、魔女さんを新しい妻に迎え、ハッピーエンドで締めくくられて、ほっとします。 | ||||
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表紙絵も装丁も内容も(図書館で大昔に既読済み)、本の状態もお値段もリーズナブルだったので、素晴らしかったです。文庫本が主流の世の中ですが、このような素敵なハードカヴァー本は、是非再販して多くの図書館で、配架して頂きたいです。「さすらいのジェニー」とセットの装丁です。並べると素敵。 | ||||
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素敵に小説です。トマシーナの大ファンになりました。猫の世界ですが、悲しくも人間味あふれるものでした。 | ||||
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長い間探していたのですが、絶版。 古書店にもなくてネットでも見つけられませんでした。 こちらで見つけたときに即、注文しました。 とてもきれいで、感謝。 | ||||
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昔新刊で買って読んで面白かったので友人に貸したところ戻って来なかった。 あれから長い年月が経ち、また読みたいと思ったら、すでに廃刊になっていたがAmazonで中古が買えた。 しかしこんな良い本が文庫にもならず廃刊になるなんて。 世にくだらない本は溢れかえっているのにな。 | ||||
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幼い頃、祖母と見に行った唯一の映画が「トマシーナ」でした。今頃になってふと思い出し、原作本があることを知り購入しました。 映画での記憶は女の子の「トマシーナーーー!」と叫ぶ声のみだったのですが、原作本を読み、最後のほうのトマシーナがメアリの住む家へ向かって走っているシーンを思い出しました。今は亡き祖母はこの映画が気に入ったのか、しきりにトマシーナかわいいかったねと話していたのが思い出されます。 ポール ギャリコの本は初めてでしたが、情景描写が素晴らしく本の中にどっぷり浸れる感じで、しかも物語の展開が面白くて一気に読みました。人に対する思いやりや、何かを信じる心とかいろいろと考えながら。 こんなに素敵なお話だったとは!もっと早く読めば良かった! | ||||
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…田舎町の獣医マクデューイは、動物を愛する気持ちを解さない冷酷な男。 かつて傲慢な父親によって、志していた医師の道を閉ざされた彼は、 人命を救う医者になれなかった苛立ちと憎しみを、周囲に撒き散らしている。 7歳になるメアリ・ルーは、猫のトマシーナが立てなくなったのに気付き、 父を信じて治療室に運ぶが、マクデューイは碌な診察もせず安楽死させる。 その時からメアリ・ルーは、父を見ず、言葉も聞かず、話もしなくなった。 半身であるトマシーナを奪われた少女は、復讐に心中で父を抹殺したのだ… この物語は“ペット”と呼ぶには余りにも愛しく大きな存在について ―メアリ・ルーにとってトマシーナが親友であり母代りであり分身であるように― 語り部としての役割を人にも猫にも持たせることで、命を平等に描いています。 『あたし、あたし、このあたしが、死にたくないのに死を迎えようとしているだなんて。 あたしは生きたい、生きたい、生きたい、病気だろうと、身体がきかなくなろうと、 捨てられようと、ずっと生きていたいのに―』p101 トマシーナの悲痛な叫びに、 人間の身勝手、想像力の無さ、他の命への軽視を思い、涙が出ました。 子どもの宝物を理解できない(またはできなくなった)大人は少なくありません。 大切な棒や小石はガラクタ扱いされ、それには時に小さな命も含まれます。 トマシーナの子猫も『みんな連れていかれて、溺れさせられてしまいました』p30。 大人が子どもだった頃の記憶を無くした時、我が子の魂を傷付けてしまうのです。 子どもが、魂の欠けた大人に傷付けられ、大人になり、また子どもを傷付ける。 父親に傷付けられたマクデューイが、何よりも愛するはずの娘を傷付けたように。 傷付くことが大人になること、という考え方もあるとは思います。 しかし何に傷付いたかを憶えていれば、哀しみの連鎖は防げるでしょう。 父娘の未来を左右するのが、語り部の一人であるエジプトの猫の女神バスト・ラーと、 町はずれに住む癒し手の持ち主“赤毛の魔女”と呼ばれるローリです。 読み始めたらどんどん引き込まれる作品です。 本好きにも猫好きにもお薦めします。 | ||||
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猫に対する気持ちに共感、。わが愛猫もようみがえってほしい気持ちと呼応し、また父子の気持ちの行き違いにも涙しながら一気に読み切った。 | ||||
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体にぴったりした赤い服を着て、抱きしめる猫にすがりつくような風情の少女の姿。どこか不安を感じさせる表紙の絵です。少女の名前はメアリ・ルーダ。ルーダは彼女のシンボル・カラーを意味するようです。 深い欠落感を抱えて生きる人々が、猫に起きたことをきっかけにその欠落と対決せざるをえなくなり、自分自身との渾身の取っ組み合いがあちこちで繰り広げられます。 自分を見つめなおしたいときにお勧めです。 猫って不思議です。 | ||||
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トマシーナはこの物語の語り手となる猫の名前。 トマシーナの周囲の出来事と人々の心の動きを描いた、心温まる物語です。 獣医であるマクデューイ氏は、獣医でありながら動物に愛情を抱きません。 愛娘が大事にしていたトマシーナが病気になったときも、 彼は安楽死させてしまい、娘は心を閉ざして次第に衰弱していってしまいます。 突然訪れた悲劇に悩む彼は、動物たちと暮らす赤毛の魔女との出会いをきっかけに 変わっていき、物語もハッピーエンドに導かれていきます。 猫が大冒険するような物語ではありませんが、 猫自身はもちろん、猫に接する人々の描写は猫好きには楽しいです。 | ||||
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解説の河合隼雄先生の言葉を引用させていただければ、「『愛情いっぱい』に子どもに接しながら子どもの『たましい』を深く傷つけている人は多い」という。 7歳の娘メアリ・ルーは、亡くなった母の代わりともいえる猫のトマシーナを獣医である父によって安楽死させられてしまう。それはメアリ・ルーにとっては単に猫を失うだけではなく、父をも失ってしまうことに他ならなかった。わずか7歳にして「全て」を失い、「絶望」≒「死に至る病」にまで追い詰められていくメアリ・ルー。現実であれば「たかが猫くらいで」と片付けられてしまいそうな問題が「物語のなかに存在することで」激しく生命をもって訴えかけてくる。メアリ・ルーの絶望も、孤独なマクデューイ氏(自分勝手ではあるけれども、もちろん悪意があるわけでもなく、実に深く娘を愛している)の苦悩も。 しかも作者は娘にその絶望をもたらした張本人である父マクデューイ氏をも救うことでタマシーナも娘も救うことに成功している。すごいとしか言いようがない。 個人的には、まるで今まで言葉にならなかった何かをかわりに物語ってもらったような不思議な感覚。世界の全てのメアリ・ルーと全てのマクデューイ氏に読んで欲しいと切に願う。 | ||||
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トマシーナの語りで進んでゆく最初の辺りはこの調子でずっと続くのだろうか、と少し不安に思った。同じギャリコの「猫語の教科書」のように進んでいくのかと。ところがトマシーナが死んでしまった辺りから話は重苦しい雰囲気に変わっていく。心を閉ざしてしまう少女、自分中心の獣医の怒りや不機嫌さが前面に出て来始めると、これはどうなっていくのだろう・・と読み進まずにはいられなかった。 特に子供が苦しんでいる姿は胸が痛む。体に何も悪い所がなくても心が体まで衰弱させてしまうと言うことが、悲しいほどに伝わってきた。 父親である獣医は長い間それに気づかない。娘の衰弱によってほんの少し自分以外のそして娘以外の人々にも関心が向き始めるのだが・・・。 いったいどんな形でこの話が終わるのだろうと、まったく予想が付かなくなり、ページもなくなる、と言うところまで暗い雰囲気がつづく。神に祈り、途中知り合った魔女と呼ばれる女性の力も届かずに終わるか、と思った頃急に光が差し込み、大団円を迎えるのだ。 事が解決した時本当に心からほっとし、よかったねと本の中の人々に言いたくなった。最近読んだ本でここまで話に引き込まれ、やきもきさせられたものはない。人々の会話の端々にも考えさせられるものがあり、読んでよかった、と思わせるもの。 | ||||
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獣医のマクデューイは愛妻をオウム病で亡くして以来、一人娘のメアリ・ルー、そしてメアリ・ルーの愛猫トマシーナと故郷へ戻り開業する。 自意識が強いマクデューイは、愛娘の愛猫にジェラシーを感じ、家政婦にでさえ嫉妬しメアリ・ルーを抱くことを許さない。 獣医でありながら動物にも偏見があり、甘やかされたペットの類を憎み、家畜や牧羊犬のような動物こそが動物のあるべき姿だと思っている。 ある日、様子がおかしいトマシーナをマクデューイは安楽死させてしまう。 トマシーナを助けてくれるものと信頼し、父にトマシーナを託したメアリ・ルーは大きなショックを受け、自分の殻に閉じこもるばかりか体調も日ごとに悪くなり、ついには重篤な症状に陥ってしまう。 噂は町を駆け抜け、もともと不遜な獣医の評判は落ちる一方だった。 そんな折り、赤毛の魔女、いかれたローリーとあだ名される女が獣医の資格もなしに動物の手当をしていると聞きつけた獣医は法律違反だと注意すべくローリーを訪れるが… 大人の童話と評されるポール・ギャリコの作品だが、描写やストーリー展開は容赦なく真に迫り、甘いメルヘンの世界とは異なる。 けれど確かにメルヘンなのだ。 物語中ローリーを訪れた獣医はその優しさと献身的に動物に尽くすローリーの純粋さを目の当たりにして深い悲しみに襲われる。 自分が幼い頃の夢の中になくしてきてしまったものの尊さを思い知らされたのだ。 神や奇跡が本当にあるか? 。ローリーのように清く正しく生きなければ人を癒す事は出来ないのか? 読みながら獣医と共に自分の過去を振り返り切なくなってしまう。 しかしローリーはシンプルに動物を癒し、人を愛する。 それを見ていると人は愛を表現するために生きているのだと実感する。抱きしめ、温かな食事を与え清潔な寝床で家族を休ませ、一日の無事を祈る… そんな積み重ねが神から奇跡をいただく一歩であることをこの物語は語ってくれた。 | ||||
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『トマシーナ』それは、この本の主人公(?)の猫の名前。 この猫が「語り手」となって物語が進んでいくのが、なんとも面白い。 しかし、この猫、あろうことか、途中であっさりと死んでしまう。 そして突然、別の猫が「語り手」となって物語が続いていくのだが...正直言って私は、この主人公の猫ちゃんが死ぬ場面までは、 『あ~ 退屈な本』と思った。しかし、猫の死後あたりから、グイグイと物語に引き込まれていく。 読者は、まんまと、原作者ギャリコの手法にのせられてしまうだろう。ちょっと『かったるい言いまわし』や『クドクドと続く表現』が 知らず知らずのうちに、快感にさえ変わっていく。 そして、読み終わった後は、『あ~ いい話だった』と、快い気分に ひたれる事になるだろう。医者になる夢を絶たれ、妻を亡くした獣医マクデューイは 神をも信じられず、動物への愛情も持てない。 そのひとり娘のメアリー・ルーは、母を亡くした寂しさから 飼い猫のトマシーナを何よりも可愛がっていた。 が、父は愛猫を安楽死させてしまう。 愛猫を殺されたことで 心を閉ざしてしまう娘は、気の病で次第に衰弱していく...この状況を、救ってくれるものは誰か? そして物語は、父と娘と、その取り巻きの人々の心の動きを 細やかに綴りながら、ハッピーエンドへと向かっていく。ポール・ギャリコの傑作である。 (猫好きの方には、猫の気持やしぐさの描写が、たまらなく愉快だろう) | ||||
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久しぶりに再読して、今まで抱いていた作品の印象が変わりました。これまでは、トマシーナという猫が魅力的に描かれた物語と、そのイメージが強くありました。そういう側面もあるのですが、本書の核となるテーマはもっと別のところにあるんじゃないか、これは心に傷を負った男と、彼がこの世で何よりも愛する娘が、愛の奇跡によって救われる物語なんじゃないか、そう思ったんですね。マクデューイ氏という動物嫌いの獣医が、娘の愛を失って苦悩する姿、彼がひとりの女性と出会うことで人間としての温かさを取り戻していく姿、そんな彼の姿が切迫した調子で描き出されていたところ、そこに本書の一番の読みごたえを感じたのです。愛するトマシーナが父親の手によって殺された時、「トマシーナァァァァァ!」と絶叫するメアリ・ルー。それ以後、父親を心の中で抹殺したメアリ・ルー。彼女が深く傷つき、この世の中の出来事から心を閉ざすようになっていく姿は、見ていてどうにも痛ましく、やり切れない気持ちにさせられました。親友のアンドリュー・マクデューイを救おうと、彼の心にそれとなく働きかけていくアンガス・ペディ牧師。《赤毛の魔女》《変人ローリ》と呼ばれる女性とともに、彼の存在が大きかったこと、その人となりが魅力的だったのも心に残ります。山田蘭さんの訳文、なかなか見事だと思いました。特に、トマシーナが語る章での生き生きとした調子の文章と人称代名詞の用い方に、訳者のセンスの良さ、細やかな気遣いを感じました。原題は、Thomasina 1957年の作品。猫の名前がついた物語では、同じ著者の『ジェニィ』(新潮文庫 ※私が読んだのは、矢川澄子訳の『さすらいのジェニー』大和書房)とともに、深く心に残る、忘れがたい名作です。 | ||||
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内容紹介が付いていないようなので、蛇足ながら…スコットランドの片田舎に暮らすマクデューイ氏は、獣医をつとめるにもかかわらず、動物に対して愛情を抱かない、孤独で冷淡な寡夫。ある日、娘が可愛がっていた猫トマシーナが病気になった際、彼は見込みがないと判断し、安楽死を強行してしまう。森の奥で動物を癒しながら慎ましく生きる「赤毛の魔女」。古代エジプトの猫神バスト・ラー。マクデューイ氏の旧友である温厚な牧師。完全に決裂したかに見える親子の関係が、少しずつ変わっていく。かつてディズニーで映画化されたこともある作品。旧訳版はすでに絶版で手に入らなかったので、新訳で出版されたことが嬉しいです。マクデューイ氏の仕打ちや頑なさに腹を立てたり、拒絶された父としての苦悩に共感したり、その叫びにホロリとさせられたり、あるいは軽快でユーモラスな、ギャリコらしい筆致に笑わされたりしながら読みふけりました。ギャリコの小説はどれも、人や生き物ひいては世界に対する、惜しみない賛美と愛情にあふれています。わけてもこの「トマシーナ」は物語の完成度が高い上、読後感もすばらしく、「ジェニイ」がお気に召した方はもちろん、ギャリコを知る最初の本としても相応しいと思います。 | ||||
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文句無しに感動しました。クライマックスのあたりでは涙がとまりませんでした。ギャリコの作品は、皆とてもやさしさに満ちています。この作品でも、心に深い傷を負った人々の癒される過程が、ていねいに感動的に描かれていて、いっきに読んでしまいました。中でも、登場人物の一人で牧師さんがいるのですが、まるでギャリコの分身のような彼の言葉の数々は、何度も読み返してしまいました。信仰の本質を言い表した文章のなかではこれまでに読んだ中で最高だと思いました。 | ||||
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おそらくこの物語を読もうという方は、既に「ジェニー」や「猫語の教科書」「雪のひとひら」等、ギャリコのファンタジーに触れられたのではないかと推察します。この物語も、同様に猫の口から語られる、所謂ファンタジーと言えるでしょう。しかし、彼のファンタジーが素晴らしいのは、ファンタジーという世界で、人生の本質を大いに見せてくれる点にあるのではないでしょうか。 この物語は、生活・家族・愛を含む”生き方そのもの”の自然回帰が如何に大切であるかを、一人の少女が傷つき、真に癒されるまでの物語として描いた作品です。最後に、彼にとって猫とは、人間の本質的な部分の”映し身”ではないでしょうか?つまりギャリコは、猫に見る人間の本質的部分を愛しているということなのでしょう!。だから彼の物語は何時もどこか暖かいのかもしれません。 | ||||
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