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薔薇の名前
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薔薇の名前の評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.19pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全92件 41~60 3/5ページ
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| 浅学な私にとっては、皮肉と破滅の伝奇ミステリの良作。 著者が昔入手した中世の写本に書かれていた事件というプロローグから引き込まれます。 イタリアにあった特殊な建築の大図書館を舞台にした連続殺人、真相は禁断の古書にまつわる、というのが、本好きにはたまりません。 探偵、推理や事件解決の行為を嘲笑ってるかのよう。 事件の真相も、エーコ氏がよく笑う人というエピソードを読んで納得。 映画版は、原作の面白さがロクにないので、そもそも観る意味がないかと。 原作は、現実的に、迷宮は迷いやすいようにどう作られてるか描かれています。 | ||||
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| 映画は、10年以上前にビデオを借りて見たことがあるのですが、やっと原作に手を出しました。 今までも読みたいと思いつつ、図書館で手にとってはやめ、本屋さんでも、やっぱり分厚い・・・とめげていました。 知り合いのフランス人によると、「ダヴィンチコードと似てるけれど、もっと宗教的で、もっと深くて、もっと知的だ」と。 ただ、あまりに宗教色が濃いので、日本人にはちょっとなじみがなくて読みづらいかもしれない、とのことでした。 そう思って読み始めたら、意外と読みやすかったですが、宗教色が強いことと、ちょっと読むのに時間をかけすぎて 内容を忘れたところもあり、話がわからなくなってしまったりしました。 結局、誰が死んで、なぜそうならなければならなかったのか? など、ピンとこない、というか、わかったのですが、もう一度読み直した方がいいかも、という感じです。 面白いけれども、日本の作家の本しか読まない人にはちょっと勧め難いかなと思いました。 ただの娯楽では済まされないようで。 | ||||
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| 本書の時代背景はルネサンス後のイタリアです。 キリスト教には全くと言っていいほど興味のなかった私ですが、 発売当時世界各国の賞を総なめにしていたという評判に裏切らない、 重厚な内容に圧倒されました。 入院中に読んでいた本ですが、おかげで単調な生活が楽しかったです。 | ||||
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| 本書は、イタリアの時代小説のような一面もあり、ある程度歴史的文脈を押さえておかないと分かりにくいと思いますので、この場をおかりして、簡単にその文脈の説明をさせていただきたいと思います。ネタバレはありません。おそらくイタリアの方にとってさえ、一部の歴史の愛好家、専門家をのぞくと、このような説明は必要なのでは、と失礼ながら思ってしまいます。ウベルティーノ・ダ・カザーレやベルナール・ギーという名前を聞いて、あああの人か!というくらいの知識を持っている方が主要な読者として想定されていると思います。ウィリアム・オッカムって誰?というような方には、すいませんが、かなりしんどいと思います。ですから、この本が、訳注も全くありませんし、日本でベストセラーになったのはちょっと不思議な感じがします。 舞台は1320年くらいですが、まず、その前の1200年代まで遡る必要があります。その頃、神聖ローマ皇帝、シュタウフェン朝のフリードリヒ2世と、ローマ教皇の対立が激化していました。フリードリヒ2世は、ドイツと南イタリアを領地として持っていました。要するに、北イタリアとローマを中心とするバチカンの領土を挟み込んだ広大な領土をもっていたわけです。それ以前から長い時代、神聖ローマ皇帝とバチカンは激しい覇権争いをしていましたから、フリードリヒ2世はこの機会に北イタリアとバチカンの領土をも併合し、今のドイツとイタリアを合わせたような大帝国を作ろうとします。長年の教皇とローマ皇帝の対立に永遠の終結をもたらそうとしたわけです。自前の軍隊を持たないバチカンにとってはとてつもない危機的状況です。 しかしこの争いになんとバチカンは勝利します。どうやって?ドイツ系のシュタウフェン朝と対立していたフランス王権を味方につけたのです。そこでご褒美として、南イタリア、シチリアは、フランスのアンジュー家の領地になり、シュタウフェン家は断絶し、神聖ローマ皇帝位は空位時代に入ります。 ところが、だからといって、バチカンに我が世の春が訪れたわけではありません。その結果フランス王権が、バチカンを脅かすほど、強くなってしまったのです。今度はフランス王権が、バチカンを配下にしてしまおうとします。バチカンの持つ世俗権力を奪い、教皇をフランス王家直属の司教のようなものにしようとします。とうとうその圧力の結果、バチカンは、長年の本拠地ローマを離れ、フランスのアヴィニョンに移らざるえなくなってしまいます(14 世紀初頭)。 そして、バチカンにとって泣きっ面にハチの状況ですが、空位だった神聖ローマ皇帝位に新たな後継者が決まり、新たにバチカンとの対立関係にはいります。皇帝は今回は、神学の側面からもバチカンに攻撃を与えます。それ以前からそれなりの影響力を持っていた、異端か異端でないか微妙な立ち位置の、宗教運動(清貧派)の応援をしたのです。それは、フランシスコ会という修道会の一派なのですが、この一派は、簡単にいうと、バチカンでさえ何も所有してはいけない、という主張をするのです。キリストや使徒が何も所有していなかった、ということがその根拠です。これは多くの財産を抱えて膨れ上がっていた当時のバチカンの在り方への間接的な批判を含んでいます。この主張が正当となれば、莫大な富を有しているバチカンは間違っていることになり、ひいてはバチカンは世俗権力を失うことになり、挙句の果てに、ローマ教皇は、フランス王家の望みどおり、フランス王家直属の司教のような地位に落ちぶれざるえなくなってしまいます。このような宗派は複数存在していて、本文中で、フラティチェッリとかドルチーノ派と呼ばれているのも、それに含まれます。ドルチーノというのは一個人の名で、そのような主張を掲げて、いわば壮大な一揆のようなものを起こして有名になりました。このようなグループは、膨大な富をもつバチカンの腐敗を苦々しく思う人々の支持を暗にえていて、それなりの支持を広げていたのです。 ここまで読んでいくとバチカン側は袋叩きにあってるような感じですが、当時の教皇ヨハネス22世はかなりのやり手で、この危機的な状況にもかかわらず、バチカンの勢力を拡大していました。先述の清貧派には、異端宣告を下し、その勢いに歯止めをかけようとします。ただ、この清貧派は、それなりに民衆的な支持を得ており、これに異端宣告を下すことは、バチカンの指導的な地位を、不安定化するという側面もあるわけです。この辺りの論争は「清貧派論争」などと呼ばれています。 この状況の中、清貧派が属していたフランシスコ会と、バチカンの間にも、緊張が走ります。同派が異端宣告を受ける少し前に、フランシスコ会は総会でその異端とされた思想を肯定するような決議を採択していたのです。ということで、バチカンは、そのフランシスコ会の総長に、アヴィニョンの教皇庁へ来るよう呼び出しをかけます。「お前はあの異端たちをどう思っているのか?」と問い正すためでしょう。「異端です」と答えると、巨大なフランシスコ会そのものが、分裂し崩壊してしまう恐れがあります。この異端とされた清貧派の主張は、あの有名なアッシジの聖フランチェスコの教えに最も忠実であることは、誰も否定できないからです。この異端を完全否定しては、フランシスコ会はそのアイデンティティーそのものを否定することになってしまうのです。しかしだからといって、総長が「異端ではない」と答えて、バチカンと正面から対立すると、フランシスコ会そのものが異端扱いされかねません。その他、そもそも、そのような試問さえ行われず、招待された総長が、どさくさにまぎれて、アヴィニョンで殺されてしまうのでは、という危惧さえあったのです。 さてここからはフィクションとしての『薔薇の名前』の中の話に入ります。ということで、それに先立って、バチカンの代表と、フランシスコ会の代表たちが、中立的な修道院で事前協議のようなものを行うことになりました。その修道院が、『薔薇の名前』の舞台となっている修道院です。その修道院の宗派(ベネディクト会系のクリュニー派)が、各勢力から適度な距離を保っていたからでしょう。また、その修道院には、先の世俗の富を否定する思想の最大の理論家ウベルティーノ・ダ・カザーレ(歴史上、実在した人物)がおり、このウベルティーノは、その高い人徳から、バチカンも一目置かざるえない大人物でしたが、そのような状況も、この修道院が調停の場を選ばれた理由でしょう。 しかし、そのような修道院で、その事前協議の直前になって、謎の自殺?殺人?が起こります。どこかの勢力が圧力を事前にかけたのでしょうか?バチカン?フランス王?皇帝?それ以外のどこか? しかし事件の真相はまったく分かりません。これは困ったということで、歴史上の哲学者ウィリアム・オッカムの学友でもある高い知性の持ち主の修道士ウィリアムが、事件の解決のために、その修道院に招かれます。そしてその修道士の付き人である、修道士見習いアドソが、この『薔薇の名前』の主人公で、彼の手記が『薔薇の名前』本文ということになっています。これくらいのことを抑えておけば十分です。後はみなさんでお楽しみください。 | ||||
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| キリスト教を信仰している方や、聖書の知識・キリスト教史の知識がある方は問題ないかもしれませんが、その辺りの内容が分かりづらいです。 しかし、とても面白かった。 その時代に思いをはせながら、じっくり腰を据えて読みた1冊です。 | ||||
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| 私には上下巻で長かった物語でした。 描かれている世界観、僧院の風景等、いろいろとイマジネーションがわく作品でした。 映像化されているので、そちらを見てみたくなりました。 | ||||
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| この小説の背景がキリスト教神学と修道院でありとても難解且つ複雑であったが、当時の社会情勢も懇切丁寧に 描かれており良かった。 | ||||
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| 上巻の感想と同様であったが、DVDを見れば理解し易いと思う。 | ||||
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| ”全宇宙とは、神の指でかかれた一巻の書物である・・” ウンベルト・エーコが、古書店で見つけた書物(メルクのアドソの手記を、ある修道院長が書き写したもの)をイタリア語に翻訳したもの、という体裁である。手記の内容は、年老いたメルクのアドソが、見習い修道士だった頃に、北イタリアの修道院で起こった事件、名も知らぬ農家の娘との一夜などを回想するものとなっている。 物語は中世。日本の南北朝時代に、朝廷が南朝と北朝に分裂したように、ヨーロッパでも、カトリック教会が分裂した時代があった。ローマとアヴィニヨンで別々の教皇が立てられ(その後。3人に教皇が増えたりするが、1417年マルティヌス5世の選出で終息する)、異端審問や魔女狩り、宗派論争で混沌とした時代があった。それらを超克して、ヨーロッパはようやくルネサンスを迎えるが、物語は、分裂以前の疑心暗鬼な時代を描いている。 パスカヴィルのウィリアム(フランチェスコ会修道士)とメルクのアドソ(ベネディクト会の見習い修道士)は、ホームズとワトソンの役柄である。ローマ教皇庁と皇帝派は、かねて世俗の権利をめぐって争っていた。教会の清貧を説くフランチェスコ会は、皇帝側の支持を得ており、教皇から危険な存在と思われる一方で、同じカトリック宗派として、ローマ教皇庁との関係悪化を避けたいとも考えていた。アヴィニヨンのローマ教皇庁で、フランチェスコ会の総長ミケーレと教皇側との会談が組まれることになったが、アヴィニヨンでのミケーレの身の安全を確認する(最悪の場合、そのままミケーレは捕縛され、異端者として処刑される危険があった)ために、両派に中立な場所にて、予備会談をする必要があった。北イタリアのベネディクト会修道院が選ばれ、フランチェスコ会総長ミケーレとベルトランド枢機卿が会談をすることになった。その準備として、フランチェスコ会からパスカヴィルのウィリアムが派遣されたのだが、到着の前日に、修道院では修道士が死亡していた。何しろ大事な時期である。その死亡事故の調査を、修道院長から依頼され、ウィリアムは引き受けることになったが、事件は止まらず、修道士の怪死が続く。 やがて、修道院に教皇側の一行が到着。枢機卿のほか、冷酷な異端審問で名をはせたドミニコ会修道士ベルナール・ギー、枢機卿の護衛と称して、精強なフランスの弓兵隊などを連ねていた。予備会談の最中にも事件が起こる。異端者の発覚と”告白”、修道士の怪死が結びつき、フランチェスコ会と教皇との調停は失敗する。ついにミケーレの身の安全は保証されなかった。教皇側一行が修道院を去った後、ウィリアムは殺人事件の調査に本腰をいれていく。迷宮構造となっている文書室の秘密の部屋。キリスト教世界では到底受けいられないような内容が記された書物をめぐり、事件が繰り返されていく。謎解きは、記号だらけ。 映画版よりも当然、活字の方が内容は濃い。特に、異端審問で裁かれる側は哀れである。多くの平信徒は、異端と正統の区別が付かない。苦しい日々をなんとか過ごしている人の素朴な信仰と、教会の財産や権威は、どこかで対立するものなのだ。その対立軸において、「笑い」がひとつの鍵である。写字室での、ホルヘとウィリアムの会話が、その後の展開(というか、もっと言えば、中世の暗黒から、ルネサンスへの道筋)を暗示している気がした。異端審問がそうであるように、「恐怖」を煽り、支配するためのツールとして利用する。一方、「笑い」の背景にあるものは、もっと自由な批評精神である。権威とかではなくて、社会風刺のような「笑い」にこそ、開かれた人間の進歩がある。ウィリアムは、文書を読むために老眼鏡を利用している。迷信だらけの世の中で、とてもユーモアがあり、科学的である。世の中が暗く感じるときに、「恐怖」からは何も解決はされず、むしろ、その状況を「笑い」で克服することが、大切なのだ。「笑い」とは科学的手法の源泉なのかも。物語の後半クライマックス。<アフリカノ果テ>で、一連の怪死事件の黒幕と対峙した際の会話シーンで、なぜかマイケル・ムーアのドキュメンタリー映画『華氏911』や『シッコ』などを思い出した。ドキュメンタリーとはいえ、かなり風刺が効いている。(映画の内容はホントだとしたら、)悲惨な現実を跳ね返すには、「笑い」は強力なツールになる。そして、為政者が、いかに国民に「恐怖」を植え付けるのかが描かれる。現代も、中世と構造は変わらないのだなぁと感じた。スターリン時代然り、北朝鮮然り。それと比べれば、アメリカ合衆国や日本は、ルネサンスである。多様な意見が、堂々と言え、自由な勉学が可能なのだから。とはいえ、自由すぎるのも苦痛だ。命がけで、貪るように知識を得ようとした、14世紀のカトリックの修道士たちが、今日の、情報の氾濫を目にしたら、どう感じるだろうか。 | ||||
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| 映画はずいぶん前に見ていたのですが、本は難解そうで敬遠してました。 知り合いのイタリア人が「絶対読むべき本、エーコは読者を選ぼうとして最初の数ページはわざと難解に書いている」と聞き、挑戦しました。 これを聞いてなかったら、最初の数ページで本当に振り落とされそうに。 でもそれをこれをのり超えると、これでもかというほどの、知的な会話が展開されもう夢中になりました。 それは禅問答にもつうじるものがあります。 読んでいるというよりは、ウイリアムの傍らで聞いている・・自分も参加している臨場感! 中世ヨーロッパや宗教論に興味がなくとも充分楽しめます。 読んでる途中から、再読したくなる本、一度目はこの会話を楽しみ、次は実際に議論されてることを学びたい気持ちに。 借りるのではなく、蔵書したい本です。 | ||||
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| 本を読む楽しみをこれほどまでに、味わえる書はざらにないだろう。しかも、サブテーマとなっているのも、書に対する愛である。恐れ入りました。しかし、いかんせん、この作者は作家としての活動が短すぎた。惜しまれる。 | ||||
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| 私も含めて日本人はあまり深く知り得ない時代背景がとても楽しいです。 「磁力と重力の発見」の全3冊の中の2巻にルネサンス初動期の話もあわせてお勧めします。 この物語の背景になっている、ヨーロッパでは失われアラブ世界で保存されていた アリストテレスのなどギリシヤ哲学の知とアラブ世界の技術的な知などを いっきに吸収しはじめた、まさに知の変革期です。 この事件の起きた理由、時代に反発する黒い影が何故そんなに抵抗したのかも納得できます。 物語の主人公の師ウィリアムはシャーロックホームズばりの 実証的な捜査方法を取りますがこれは、この時代に初めてあらわれた実験で 物事を検証しようという科学的な姿勢と深くかかわってます。 何がいいたいかと言うと、時代背景がわかると何十倍もおもしろく エーコがまさに「私はこの時代で描いた」と言った意味もズシンとくると思います。 手始めに「磁力と重力の発見」山本義隆著はものすごくお勧めですっ | ||||
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| オリジナルは1980年リリース。邦訳はかなり遅くて1990年1月25日リリース。ミステリーの世界で孤高の存在である本作は、ミステリー読破を目指す者にとっては百名山の如く、踏破せずには死ねない一冊とされ、読了後、その思いはますます深まった。作者ウンベルト・エーコは、イタリアの記号論哲学者、小説家、中世研究者として有名だが、もういくつか加えて説明しておくと、エーコの卒業論文は『聖トマスの美的問題』であって、この作品の時代である1327年というのは彼の最も専門とするところである。そしてもう一つ、『三人の記号 デュパン、ホームズ、パース』という本をトマス・シービオクと共著していて生粋のシャーロキアンでもある。 何と言っても圧巻なのはその構造だと思う。生粋のシャーロキアンらしく、主人公に『バスカヴィル』のウイリアムとその弟子(助手)アドソを配しているが、誰しも連想するのはシャーロック・ホームズとワトソン博士だろう。そして長老には、『幻獣辞典』等で有名なホルヘ・ルイス・ボルヘスから取ったと思える盲目の師ブルゴスのホルヘを設定している。また、実在の人物である有名な異端審問官ベルナール・ギー(ドミニコ会士)やフランシスコ会士カサーレのウベルティーノを登場させてくる。原書はラテン語・ギリシア語・中高ドイツ語の原語のセンテンスやフレーズがその原語の表記のまま使われていて、その上に中世キリスト教の在様が重畳的に組み合わされる。正に知の迷宮とも言えそうなストーリーである。 ストーリーについては未読の方のために触れないが、強く感じるのはウンベルト・エーコの『本』に対する愛情だ。中世修道院のスクリプトリウムの文書館3階の構造などは正にエーコの想像した『本の宇宙』のようですらある。その本の宇宙を彷徨うウイリアムとアドソはまるでその宇宙を彷徨うのを楽しんでいるかのような感じすらする。『キリストの清貧』や『キリストにおける笑い』そして『薔薇の名前』の意味における謎など、仕掛けられた知の迷宮の素晴らしさに『恐るべしウンベルト・エーコ!』と唸ってしまう。やはり読まねば死ねない一冊である。 | ||||
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| 読んでよかった! 八重洲の丸善(オアゾ)には、松丸本舗という、書店内書店がありまして、松岡正剛氏がプロデュースしているわけですけど、ときどき、ここへ行くと、めまいに襲われることがあります。まさに、知の迷宮といった様相です。 「薔薇の名前」に登場する迷宮とも、通じるような気がしました。 で、「薔薇の名前」。 書き手が名も無き女性と寝てしまう(修道士なのに!)というところから俄然、おもしろくなります(読み手が下世話だから……)。この本は宗教、善と悪の問題、富と貧困の問題、さらに男と女、そして性の問題を扱っています。その点で、「ダ・ヴィンチ・コード」も、基本は男と女、性の問題と宗教をからめたテーマだったと思い出しました。同じようなテーマだけど書き方はまったく違います。 例えが悪いですが、「ダ・ヴィンチ・コード」をダ・ヴィンチの時代の人が書く、という設定にすれば、「薔薇の名前」みたいになるだろうと思います。 面倒な「清貧論争」の部分であるとか、宗教と「笑い」の議論なども出てきて、読者はあっちこっちに振り回されます。 中世は暗黒時代というよりも、宗教と国政、階級と自由のせめぎあいが行われていたんだなあ、と感じます。異教徒と戦う以前に、同じキリスト教内での覇権争いが激しく、そこに国王(兵士を要している)との関係がからむからややこしい。 国王は法律を作り、民をおさめ、軍事力を増強し、商業を活発にします。一方、宗教は人々を安定させ、一つにさせる一方で、異端者を排除しようとします。でも、異端者を排除する一方で、異端者の力を借りて国力を増強させようと考える王もいたでしょう。そこで、宗教レベルの戦いと国レベルの戦いが、人々を巻き込んでいくわけです。 ここに登場する名も無き薔薇、つまり村の女性のように生きることに必死で無学な人々に対して宗教は開かれた存在ではなく、そうした人たちを飛び越えて、教義は、国法の上に位置していることになります。 司法が裁く前に宗教が裁くのです。「そんなことは知らない」と言っても、どうにもならない。ひどい話です。 その後、近代国家になるときに、私たちは諦めたんですね。宗教と現実を統合するわけにはいかない、と。 で、この割り切りによって、法律を中心とした法治国家が主となっていき、やがてはその法律をも人々の手によって民主的に作ることが可能になっていった。権力を国王だけに集めず(当然、宗教だけにも集めず)、分散しようとした。同時に人々は教育の重要性に気付き、幅広い教養を身につけるようになっていく……。 「わたしは記号の真実性を疑ったことはないよ、アドソ。人間がこの世界で自分の位置を定めるための手掛かりは、これしかないのだから」(下巻 P371) と、バスカヴィルのウィリアム(フランチェスコ会修道士)は言います。これは著者の言葉でもあるのでしょう。 たまたま、清貧論争にも興味があったので、この本には当時の宗教と政治の関係が、いろいろ綴られていて、そこもおもしろかったですね。1300年代にもなると「キリストは財布を持っていた」とか「キリストは笑わなかった」といったテーマで、深刻な議論が起こっていたと本書はのべています。 このあとに、ルネサンスが起こるんですね。 しかしながら、日本では私も含めて、面食らうような宗教観、歴史観によって作られた舞台で起こるミステリーですから、最初はなかなかとっつきにくいかもしれませんが、刺激的な作品です。 なお、この作品中でしばしばウィリアムが言及するロジャー・ベーコン(または、ロジャー・ベイコン、Roger Bacon)の本は、日本語ではズバリという翻訳書がなさそうです。どういう文脈で飛行機などを予言したのか、確認したいところですが……。 | ||||
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| 1990年初版のロングセラーである本書ですが、気になる点が一つ。 相前後して上下巻を購入したのに、 上巻には【38版】、下巻には【30版】との奥付が。 8版の差が何部なのかは分かりませんが、 上巻だけで読むのを断念した方の数字が含まれていることは間違いなさそう。 だとすれば残念な話で、できれば上下巻読破してもらいたいもの。 そんなことを念頭に、本レビューを綴りました。 【やはり事前準備は必要なのでは…】 1327年にイタリアにある僧院で起きた、 奇怪な連続殺人事件の謎を巡る本書ですが、 小説の記述には、注釈はなく、 当時の政治的・宗教的な背景をある程度知っていることが 前提に書かれているように思えます。 ネット検索でも結構ですので、 軽く下調べをしてから読むことをオススメします (もちろん紙ベースの資料を当たっていただいても結構です)。 ちなみに、本書の文体そのものはそれほど難解ではないと思いました。 学術論文ではなく、あくまで「小説」として書かれていますから。 【映画を観てから読むのも一興】 本作品は映画化され、1987年に日本公開されています。 原作が翻訳されていなかった当時、私は劇場に足を運びました。 私は映画を観たうえで、小説を読んだわけですが、 映画で物語の結末を知っていても、 原作小説の面白さが損なわれるということはなかったと思います。 むしろ私は、犯人や犯行の手口は記憶していても、 肝心の「動機」を忘れてしまっていたため、 原作小説でその深い意味合いを読むことができて良かったと思います。 この「動機」、宗教的な理由に基づくものなのですが、 映像ではうまく伝わりにくかったのでは。 −−というのは、自分の記憶力の悪さを棚に上げた意見かもしれませんが。 (下巻に続く) | ||||
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| (上巻からの続きです) 【ある意味で膨大な無駄のある小説だが…】 本書は、下調べをしてから読んだ方がよい、と先述しましたが、 じつはこの小説、ミステリとしての筋立てを追うだけなら、 物語の社会背景など知らなくても読むことができます。 何やら難しげな宗教論争の場面を斜め読みしても、 どんな事件が起き、犯人は誰で、といった ミステリとしての骨格は読み取ることができるでしょう。 でも、それではこの作品を楽しむことはできないのではないかと思います。 歴史的には短編として誕生した推理小説ですが、 近年書かれるようになった本書のような大長編推理小説は、 ミステリとしてのストーリーとは別に、 物語の世界を構築するために、 作者が大量の言葉を尽くして記述するという傾向があるように思います。 それは、ミステリの本筋だけを楽しみたい読者にとっては 無駄な記述に映るでしょうが、 こうした作品はミステリの骨格に纏わされたかなり厚手の衣 −−作者が構築した作品世界に身をゆだねながら、 謎解きを楽しむという読み方ができると思いますし、 それも推理小説の楽しみ方の一つといえるのではないでしょうか。 日本の作家では京極夏彦の京極堂シリーズがそうした傾向の作品だと思います。 【薔薇の名前という題名について】 なぜ本作品の題名は、「薔薇の名前」なのか。 その表層的な意味(登場人物の誰かを指している)は、 すぐに理解できるところですが、 それ意外にも深い意味が隠されているようです。 その点は、「普遍論争」をキーワードに調べてみると より一層本作品を楽しめるのではないかと思います。 | ||||
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| 教皇とフランチェスコ会の教義をめぐる対立、会内部での暗闘。さらには皇帝を後ろ盾としたフランチェスコ会は、教皇側と、有数の文書庫で名高い修道院において、会談を持とうとする。フランチェスコ会の使節団の一人として、修道院に到着したパスカヴィルのウィリアムは、そこで一連の殺人事件に出会うことになる。 通常のミステリーならば、読み始めればたちまちのうちに、以上の事情をたやすく察するだろう。だが本書の場合には、読者はその事実を把握するためには、溢れかえる当時の著名人士の名、ヨーロッパ史いや中世教会史上に著名な事件の連呼、列挙される異端の網の目等々、の間を泳ぎまわらなければならない。相当注意して読んでいても、改めて前のページを読み返さざるを得ないことが何度もあった。 一言で言って、大変読みにくい。だが、幹から横に伸びた枝の形は美しい、鋭い。細い枝に咲いた花は香しい。 懺悔とはどのようなものとして感じられるか。修道士にとって、女とは、どのようなものとしてありえたのか。そんなことに触れた個所がある。異端とはどのような形で生じるのか。庶民にとっては、どんな形で異端と出会うことになったのか。異端であるとは当時にあってどのようなことであったか。異端審問とはどんなものであったか。人は弱さにどのように対処したかが、恐怖に支配された時どうなるのかが述べられる。会派が、修道院がどのように相争うかが考察される。 確かに殺人事件は解決される。だが読み終わって感じるのは、一つの修道院の殺人事件の記述が、キリスト教の諸相の複合的な記述に重なっているということである。キリスト教の諸相とは、ヨーロッパの精神そのものであり、目をとめた文章の端々から、(キリスト教的)人間の全体が立ち上がってくる。どのページを開いても、興趣が尽きない本である。 | ||||
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| かなり量のある文章、上巻のみで挫折する人も多いようです。 中世のヨーロッパ、僧院、それを取り巻く景色をイメージできないと 読み進めることは難しいでしょう。 しかし読み終えた後には、中世の世界をのぞいた満足感が得られると思います。 | ||||
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| 「それを決める明確な基準はない」 「なしうる最大のことは、もっとよく見つめることだ」 「わたしたちの精神が想像する秩序・・・手に入れたあとでは、梯子は投げ棄てなければいけない。 なぜなら、役には立ったものの、それが無意味であったことを発見するからだ。 ・・・昇りきった梯子は、すぐに棄てなければいけない」 「見せかけの秩序を追いながら、 本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思い知るべきであった」 「可能性を全面的に織りこんだ必然的存在・・・ 神の絶対的全能とその選択の絶対的自由とを肯定するのは、神が存在しないことを証明するのに等しい」 「過ギニシ薔薇(=神)ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ」 | ||||
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| 「それを決める明確な基準はない」 「なしうる最大のことは、もっとよく見つめることだ」 「わたしたちの精神が想像する秩序・・・手に入れたあとでは、梯子は投げ棄てなければいけない。 なぜなら、役には立ったものの、それが無意味であったことを発見するからだ。 ・・・昇りきった梯子は、すぐに棄てなければいけない」 「見せかけの秩序を追いながら、 本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思い知るべきであった」 「可能性を全面的に織りこんだ必然的存在・・・ 神の絶対的全能とその選択の絶対的自由とを肯定するのは、神が存在しないことを証明するのに等しい」 「過ギニシ薔薇(=神)ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ」 | ||||
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