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インディヴィジュアル・プロジェクション
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インディヴィジュアル・プロジェクションの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.65pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全23件 1~20 1/2ページ
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スリリングな作品である。だが最もスリルを味わったのは阿部和重氏自身では無いだろうか。 | ||||
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第10回三島賞候補作。 阿部和重が小説家として乗りに乗っていた最盛期に書いた(と私が考える)、「阿部和重節」あふれるキレッキレの純文学作品。 阿部作品に頻出の暴力、のっぴきならない状況、苦境からの脱出劇、といったものが好きな方には楽しめると思う。主人公の自我がゆらいでいく過程の描き方がやはり阿部らしくて良い。 | ||||
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山形県東根市出身の芥川賞作家。individual projection 各個の投影。この英語の意味を確かめずに読みだして、むしろ楽しめた。タイトルは一種のネタばらしだ。といっても、相当読み進まないとこのタイトルの意味は分からないだろう。 スニーカーや銃や服のファッションなど詳しくして、わたしはなどそこでもはや着いていけなくなりそうだが、そこは分かったふりをして進む。 フリオ・イグレシアスという歌手が好きたということで、歌詞の鑑賞が入る。フリオはかろうじて私の青春期に引っ掛かっていた歌手なので抵抗はない。むしろ作中の若者が好きだということに引っ掛かってしまった。 フリオが33歳の時に書いたという「33歳」という歌詞の解釈によると、33歳という年齢は青年と中年の境にあり、なにか決心を迫られる年齢らしい。「きのうという時」という語句は不吉な響きがあるらしい。 小説を最後まで読み進んでいくと、この「きのうという時」は、ただの感傷的な表現、過ぎ去る青春などというものではなく、とんでもないドラマの回想であることに気づかされる。 日記形式で書き進められるドラマは、過去を整理するものであったり、過去の影響で現在起きている事件を分析したりしているが、最後の最後は、執筆者オヌキのレポートへの高踏塾々長マサキの感想が添えられているということで、これまで営々と読みながら構築してきた自分なりの解釈が一瞬で覆されることになる。 高踏塾とは、山形県東根市と思しき場所に設置されたスパイ養成塾で、映画学校の生徒たちが卒業作品を制作するべくその地にやってきてハマってしまったものだ。 スパイ養成塾とはいっても、たとえばニンジャ塾のように、ゴッコを少々本気でやる、そんな類のものではなかった。若者たちは、だんだんと本気度が進んで行ったのか、相当ヤバイところま深まっていく。グループなので、登場人物が多い。 主人公のオヌキは、潜むように逃げるように渋谷のヤバい場所にある映画館の映写技師になるが、JK(女子高校生)とのつきあいもあり、その関係でヤクザ殺害現場に巻き込まれたり、と発展していく。映画館の関係者たちもこうして登場し、さらに登場人物たちが増える。 だが・・・、ひょっとして彼って統合失調症? と思えるような錯覚のような間違いをしでかす。イノウエのアパートに侵入したつもりが、自分のアパートであり、イノウエは自分だったかということになる。それがどこまでも進むので、あれほどたくさんいた登場人物たちのほとんどが統合失調症の幻視、あるいは多重人格的分身か、とドラマの終わりが見えてきたころはそう思わせられるようになる。それが、最後の「感想」つまり日記形式のレポートへの感想を見ると、やっぱりみんな実在していたのか、と思い返されるが、その感想を書いたマサキもまたオヌキの分身かも、という疑惑もぬぐいきれない、という塩梅なのだ。 ここまで曖昧だと心理劇のような感じもするが、スパイ養成ということではまるでアクション映画を見ているような感じでもある。例えばマット・デイモンの「ボーン」シリーズなどを彷彿とさせられた。ジェイソン・ボーンは心因性健忘で架空の元CIA暗殺者という役どころである。そのように、日記は主人公のオヌキの心因性による幻視なのか、リアルなのか、読者にほとんど確信を与えないスゴワザ小説だ。 | ||||
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印象として、なんだかヌルヌルしている。 それは血であり、精液であり、とにかく肌触りとしてヌルヌルしている気味悪さがある。 気味悪さの要因としてもう一つ、物語も挙げられる。 日記体で書かれる語り手がまず信用できない。つまり、正常には到底思えない。 では描かれる世界、出来事は信用できるかと言えば、まるで信用できない。 一体何が起きて、何が起きなかったのか、さっぱり分からない。 事実が一つとして無い気すらする。謎が謎のまま。 ただ悪い印象を受けているかと言えば、そうじゃない。4点つけてますしね。 阿部和重が通っていた映画学校の一年後輩で、漫画家の榎本俊二。 彼を阿部の作品と結びつけるのは強引かもしれないが、 コントグループ・ラーメンズの小林賢太郎が榎本に 「美しき説明不足」という言葉を送っていました。 美しいとまで言ってしまうのは、さすがに無理あるかなーと思いつつ 説明不足であることが、良い方向に向いている気がする。 あと文芸評論家が超好みそう(というか当時実際、嬉々として取り上げてました) | ||||
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なぜかは訊くな! 俺はこの「±$1文庫本」を 大阪に行く時チカテツとかで拾い読む。 読むほどにオモシロをかし// セリフ日記styleだからか? たぶんそういわれて悪い気はしない。 | ||||
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もう昔の話だ。 僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのインディヴィジュアル・プロジェクション」と呼んだ。 ――『インディヴィジュアル・プロジェクション』 最近の”小説”はどんなものかと思い、マルグリット・デュラスとパラレルで読み始めたのが、阿部和重のこれ。 なぜタイトルを英字表記しないのかが不思議である。――”Individual Projection”――その方が僕たちにとってはむしろ読みやすいし、また格好もよかろうに。 《人が暴力的なことに惹かれるメカニズムは、とりあえずぼくにはこんなふうに想像できる。問題解決へのより明解な手段として認識されていたその行為が、反復されてゆくなかで生じた美的なイメージの効果や快へと転ずる刺激の波及によって当初の志向から外れてゆき、暴力的なことそのものの目的化が起こる。つまりオマケの独り歩きにぼくらは魅せられているというわけだ。もっとも、こうした仕組みはなにも暴力的なことのみに妥当するわけではないのだから、再び当初の問いへとひき戻されてしまう。》 〜本文より引用〜 この作品に仕掛けられているのは”性”と”暴力”と”サスペンス”といったところだ。それはそれで一向に構わないのだが、イスラエルやら中東や、諜報機関といったKeyワードの出現をオープニングで見い出した瞬間、”いかにも”といった印象を拭い去ることができず、ちょっとダメかなとも思った。 それでもこのスピード感ある文体と、適度に今時の”若者言葉”が散りばめられているが嫌味という程のものでもなく、文章自体も以外にも癖がなく非常に読み易いということにおいて、ある一定の評価を与えたい。十分に楽しみ、読了するにも多くの時間を要しない。この作品は”Interesting”的面白さというよりも、むしろ”Amusing”的面白さ、ということで間違いない。 その意味では、最近読んだこの類の作品として青山真治の『ホテル・クロニクルズ』を僕は個人的に推したいのだが、文章のまとまりさ加減において阿部和重に軍配を上げざるを得ないだろう。 若手というには微妙な40代。それでも阿部和重が力量のある書き手であることには変わりはない。・・・ただ、カバーが若干エロいんだな。満員電車の中でも読んだりするので、仕方なしに文庫本カバーでカモフラージュしている。 | ||||
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東北の山形県出身なので、同じ東北の田舎町の人間としては、特に思い入れは強いのかもしれませんが、彼の処女作「アメリカの夜」が凄くて、そしてこれが来ましたよね。間違いなく、本物だと思いましたね。見事な傑作です。また、当時は渋谷系J文学とポップに言われてましたけど、新しい文学の潮流を確かに作ったエポックメイキングな作品でもあるでしょう。その後、ある意味で、天才の伊坂幸太郎さんに押されちゃいますが、そのエンターテインメント性から言えば・・。彼は、別な方向性へ向かって行ったわけです。明らかに、ダブル村上世代から、脱した一冊ですね。まず、表紙だけで買い、ですよね。良い写真ですが、内容とは全く違います。「美丘」の表紙も、つい買いたくなる表紙ですけど(笑)でも、石田衣良さんの「池袋ウエストゲートパーク」シリーズより、面白いですよ。衣良さんよりは、池袋少年ギャング闘争を描いた井上三太さんの漫画の方がずっと面白いですね、僕には。この本はもちろん、それ以上ですよ。絶対に。東北人、阿部さん、冲方さん、清野さん、伊坂さん、宮藤官九郎さん、「掏り」を書いた作家・・、みんながんばってまんがな。井上ひさしさんの功績も土井晩翠さんの功績も大きいのかな? | ||||
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渋谷の古ぼけた映画館で映写技師として働くオヌマは25歳。バイトの同僚の売った ケンカではやたら強いということがわかった彼の過去にはいったいなにがあったのか。 彼の日記がそれを次第に明らかにしていく・・・。 阿部和重といえば、この常盤響がつとめる本作の表紙がもっとも有名だと思うが、彼 の代表的著作の一つ。 彼の小説には「とにかく胡散臭い人」がよくよく顔を出す。本作でも、主人公の地元と で謎の私塾を開いているマサキの胡散臭さは、特筆すべきものがある。その目的の わからなさや、スケールは大きいがたまらなく嘘っぽいこととやそれに見合うちんけな 末路にしろ、決してお金は貸したりなどして関わりたくはないが(十中八九迷惑をかけ られるから)、人づてにずっとその動向を探っていたいと思わせる。本作はあくまでオヌ マの回想に登場するのみであり、あくまでストーリーに絡んでくることはないが、一際 魅力を放っている。 もうひとつ、阿部作品の中で妖しい魅力を放っているのは、後の『ニッポニア・ニッポン』 にも通ずるような誇大妄想気味の主人公の存在である。日記の中で自分の思考の過 程を、まさに漏らすことなく筆記し続けている彼であるが、実はこのオヌマも決してまとも だといはいえず、読者はこれが彼の日記を盗み見るという体さいであることを忘れかけて いたころに、ある「錯誤」を彼がしているということを知り、足場を急に外されたかのような 薄ら寒い思いをすることになるだろう。そう、この小説は地の文もうかうか読んでられない のだ。 | ||||
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著者の魅力が出ている。 J文学と呼ばれてはいるが、そういったことばでカテゴライズしたくない作品でもある。 手紙形式という、割と古い手法をちょっとひねって、最後の最後に実はそれが、スパイ養成塾のレポートであるというのは、なかなかよいと思った。 大小の伏線もあり、不可解な部分、倒錯する部分ありで、楽しめる。 この作品は、たぶん読む人によって受け取り方に非常に巾が出る作品。 | ||||
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日記形式で書かれた小説に限らず、誰かの視点でその小説が書かれている場合その視点や思考は主観に過ぎず、そこにおける客観性というものを読者は「他者の言動」のみからしか判断することができない。では、その他者が真実を述べていなかったらどうなるのか。自分を騙そうとしているとしたらどうなのか。あるいは。……。 膨大な伏線とほとんど解決されないまま終わるそれら(かなり集中して読んでいたせいで少し泣けた)、もしくは無数の解釈が可能なそれら。そしてラスト。 読み終わった瞬間は消化不良な想いがじわじわと湧くけれど、東浩紀の解説によってその想い以上に驚嘆が広がる。阿部和重が好きならオススメ。自分が理解できていないのに言うのはなんだけど、芥川賞受賞作の「グランド・フィナーレ」よりはこちらの方を強く勧めます。 | ||||
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ただ、この作品が 面白いのか、面白くないのか、それだけを気にしているあなたに僕が言うとするならば、この作品は 面白い。がしかし、阿部和重の本をまだ読んだことがない人にとっては、内容はともかくとして、書き方がハードな文体である為に、読みにくいかもしれない、ということは頭に入れておいてほしい。 もう少し、この作品の詳細を言うあなたに。この作品は旧友との間での心理戦が繰り広げられ、スリルのある作品だと僕は思っている。だが阿部和重は、書き方が固く厳しく、その分、読むスピードが落ちる。そう言った意味で、展開が遅い(逆に阿部ワールドを体感できる)。その中で、こういったスリルのある作品を書ける阿部にはかなり感動させられてしまった。シメも阿部らしい終わりで、この作品を読めば、阿部和重を知ることが出来ると僕は思う。 かなり詳細を知りたいあなたに僕がレビューを書くとするなら、少し話の内容を説明することになる。それに加え、阿部和重の他の作品を読まないと僕が記述する内容が分からなくなってしまいかねない。 文体はあくまでも"阿部和重"なわけだが、このインディヴィジュアル・プロジェクションの以後に発刊された、『シンセミア』、『グランド・フィナーレ』、『プラスティック・ソウル』と比較すると、ストーリーのプロットの組み方がかなり異なってくる。 インディビジュアル・プロジェクションやニッポンニアニッポンといった作品は『一つの目的』を通してストーリーが発展していくのだ。それに比べると、グランド・フィナーレ等はコレといった目的もなく、ストーリーの展開も地味で(しかし面白い)、リアリティが追及されている様に見える。 そこが、阿部和重の前後の作品の違いだと思われる。 この作品の素晴らしいところは、一つの目的(心理戦をこなしていく)へ向かう過程での面白みが存分に書かれていて、ストーリーが巡るに巡る。グランド・フィナーレ等を先に読んだ方々には、こういう"阿部和重"があることを是非とも知ってほしい。 | ||||
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はじめて読んだのは大学3回生。 「スリラーとノワールが融合した扇情的な語り口調だな」と思っていた。 社会人になって再読してみると、ポストモダンをモデル化するために「小説」というツールを用いたのではないか、 と疑いたくなる表現が散見されて面白かった。 阿部和重作品はフレームワークを理解できないひと(あるいは現代思想に興味のないひと?)を拒絶する傾向が強い気がする。『IP』はそのなかでも「ヘンテコなハードボイルド小説」として異彩を放っている。 | ||||
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映画学校の通っていた塾生達が、行きがかり上関わっていくヤクザとの抗争。乱れ錯綜する記憶、人物。主人公の混乱ぶりにこちらまで巻き込まれて、真実の境目がわからなくなっていく。日記調の文体に乗るようにサクサク読める。スピード感がある。一番関心したのが、映画学校生徒だった主人公達が抗争に巻き込まれていくまで裏社会に染まっていくきっかけ部分。マサキという怪しげなオヤジからスパイの指導を受けるのがきっかけなのだけれど、そのオヤジも最初からスパイに精通していたのではなく、最初はただの武道を教えるおっさんだったのが、映画学校の取材を受けるうちに次第次第に気が大きくなっていき、そこに取材する側も巻き込まれ、引き込まれていつからかスパイの指導を受けることに・・・って部分。共同体が知らずに生む狂気のようなリアリティがあった。後半の錯乱もそのリアリティがあればこそ引っ張れたのではないかとすら思った。「渋谷」「暴力」みたいなステレオタイプな展開に最初はどこか冷めた思いがあったが、読むうちに引き込まれる。普通におもしろい。 | ||||
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友人がこの本を読んだというので感想を聞くと、この一言。「B級小説だね」最初、ムッとしたのだけれど、しばらく後に「言いえて妙である」と腑に落ちた。そう、この作品はまぎれもなくB級なテイストを思う存分漂わせた小説である。スリリングにストーリーは展開してゆきながら、最終的には文学たりえているのだ。その鍵はもしかしたら、文中に登場する「フリオ・イグレシアス」にあるのかもしれない。冒頭と最後で象徴的に登場するフリオ。なぜ、フリオっ? てところが文学。そして、表紙も当時は大胆で奇抜で新しかった。「インディヴィジュアル・プロジェクション」というタイトルが英語なのも、今までにほとんど例がなかったらしい。阿部和重の輝かしい出世作。J文学はここから始まった。時代が回転する小説がコレだ! | ||||
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阿部和重。芥川賞受賞の報に友人が「やっと、っていう感じ」と言いながら紹介してくれた作家である。本書の主人公・オヌマ。彼はこの世界に生きていながら(生きざるを得ないのに、というべきか)、どこかこの世界と結びついていない。現実に足がついていない、という言葉で言い表せるような、そういう結びつきのなさではなく、どこにも存在していないかのような存在の希薄さ。彼はまた感情も希薄だ。それは主人公に限らず、登場人物全員に共通している。感情を持った人間としてではなく、カタカナでのみ表記された、記号化されている人物たち。その感じが作品の底辺に流れ、この独特な醒めた世界を形成している。乾いたモノクロの世界。こうした主人公が世界を結びつくためには、一人の自分だけでは不可能だったということか。錯綜する自己と他者。み・ん・な/じ・ぶ・ん。そして、この、自分が他者でもあったのかもしれないという混乱の中で、初めて彼は自分の感情=混乱をあらわにする。その主人公の混乱に巻き込まれ、読者であるわれわれも混乱の中に入り込む。しかし、その混乱はあっけないほど簡単に収束し、その混乱の収束と同時に、いったんはスピードをあげたかのようにみえた物語もまたガクンとスピードを落とす。この存在の希薄さ(世界との結びつきのなさも、自分=他者というのも、自己が希薄だからに他ならない)こそ、現代という時代の特徴なのかもしれない。その意味で阿部和重は、現代を描く文学者の一人であると思う。最後に。本書はアヤコと主人公が話している場面で終わるのだが、この場面はHが高校生に襲われる場面と重なるように感じるのは私だけだろうか。だとしたら、この物語はまた初めに戻り、永遠に抜け出すことのできない迷宮の世界でもあるのだ。 | ||||
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芥川賞作家になったわけですが、小説という表現形態で新境地に挑戦していく力は凄みを感じるほどです。インディヴィジュアル・プロジェクションは読み物としてもストーリーを追いやすく、楽しい。そしてもちろん、よく考えて読むと、深い、と私は感じた。どんどん話が展開するが、それをどうまとめて考えていくか、あるいは考えないか、それは読者次第。 | ||||
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自分は、誰でもあり、誰でもない。個人のアイデンティティの喪失を鮮やかに描ききった傑作。私設スパイ養成学校で過ごした過去を持つ映写技師の主人公の妄想は、他の誰かのリアリティかもしれない。そして、他の誰かの妄想が自分のリアリティかもしれない・・・・。変転する関係の中で自分を掴むことすら出来ない。現代人の乾いた孤独の在り方を見事に表している。とっくに芥川賞をとっていてもおかしくなかった。今回の「グランド・フィナーレ」での遅すぎる受賞には心からおめでとうをいいたい。それにしても、選考委員である石原氏の「安っぽい」発言には渋面を作らざるを得ない。そういう発言そのものが「安っぽい」のに気がつかないのだろうか・・・・。 | ||||
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渋谷で映写技師のバイトをしている主人公オヌマが日記に自分の過去(スパイ養成塾の体験)と現在(塾生に纏わる話、たとえば塾生の事故死)を綴っていく形式で物語が語られてゆく。 驚嘆させられるのは情報量の多さだ。スパイ、やくざ、恋愛、事故、映画、塾、プロトニウム、マックシェイク、フリオイグネシアス、女子高校生、右翼、喫茶店、コンビニ…。まさに情報社会の中に生きる僕らの世界が書かれているわけだ。そして暴力。暴力的な会話が魅力的だ。「クソッタレのクズやろうばかりだから、戦争したくて仕方がないんだ/こらオヌマ、馬鹿にすんなよ、おれはべつにあんたが好きだから奢ってやってんじゃねえんだぞ!」などなど。だが情報社会、暴力といった主題にも関わらず、オヌマは思考を凝らす。というか小説の半分くらいはオヌマの思考内容だ(さらに言えば日記を書く行為自体が思考だし)。オヌマはすごく内省的な性格なのだ。暴力的なのに内省的ってとこが僕は好きだ。 ちなみにめっちゃ読みやすい。あまり読書しない友人三人に勧めてもみんなおもしろいって言ってた。初心者は「グランドフィナーレ」よりこっち読んだほうがいいよ。 | ||||
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小説を読んで「考えさせられる」ことは多いと思うが、この作品ではその考えさせるポイントが非常に「著者」に近いところにある。「著者」⇒「作品」⇒「読者」というより「著者(作品)」⇒「読者」って感じ。読んでいるときは、「作品(著者)」⇒「読者」の感じなんだけど。まずは「作品」にどっぷり使って読んでいくのが楽しい。「え!なんなの」って。人によっては最初が難関かもしれないけど、途中からグイグイくるので我慢。「インディビジュアル」とか「プロジェクション」とか「この終わり方ってなんなの」とか、後で考えてみるのがまた面白い。「正解」を探そうとすると悩んじゃうけど。 | ||||
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渋谷系文学とか言われて、あの時代の渋谷のイメージを作り上げた作品。この成功を受けて、粗悪なデッドコピー小説もたくさん出回った。コギャルマゴギャルヤマンバギャルの巣窟だった渋谷。お前らファミコンウォーズかと言わんばかりにカラーギャングが抗争していた渋谷。そうした渋谷をリアルに描いてるとは到底思えないが、あのころの空気はすごく伝わってくる。ところで、表紙、内容と関係なくない?ちんかめ? | ||||
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