■スポンサードリンク


ザ・スタンド



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!

ザ・スタンドの評価: 8.50/10点 レビュー 2件。 Sランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点8.50pt

■スポンサードリンク


サイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
全1件 1~1 1/1ページ
No.1:1人の方が「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

コロナ禍の今こそ読まれるべき大作

全5巻。総ページ2,400ページ弱を誇る超大作である本書は1978年に発表されたが、当時約400ページもの分量を削られた形で刊行された。
そしてキングは再び1990年に拡大版として当時削られた分を復刻させ、発表したのが本書である。その際にカットされた全てを加えたものではなく、内容を吟味して加味したとのこと。しかし内容にはほとんど手を加えていないというのがキングの弁。
但し内容を見ると1990年を舞台にしている辺り、時代に関しては修正が加えられているようだ。しかしほとんど発表当時に書かれた物であることから、今回読むことにした。

まず1巻目を読んだときに思ったのは本書が軍によって開発された新種のインフルエンザがある事故によって外部に流出し、それがアメリカ全土を死の国に変えていくというパンデミック・ホラーだということだ。

軍が開発した新型インフルエンザ<キャプテン・トリップス>。それは感染率99.4%を誇る死の病でそれまで存在しなかった病原体だけに人間に抗体がない。そして万が一、抗体を生み出してもウィルス自身が変異し、人間を蝕んでいく、無敵の病原菌だ。

しかしそんな最凶最悪のウィルスが蔓延しながらも感染しない人物たちが登場する。
ステュー・レッドマン、ニック・アンドレス、ラリー・アンダーウッド、フラニー・ゴールドスミス、ロイド・ヘンリード、ランドル・フラッグ、ドナルド・マーウィン・エルバート。
彼らそして彼女に共通するのはなぜか唐突に一面に広がる玉蜀黍畑が現れ、自分が何かを探しているが、そこには何か恐ろしいものが潜んでいるという奇妙な夢を見ることだ。

彼らそして彼女はそれぞれの場所で同じくウィルスに感染しなかった道連れを伴い、旅に出る。
ここでいわゆるパンデミック・ホラーと思っていた物語が転調する。通常ならば被害が拡大していくところに一筋の光のように病原体の正体とそれへの対抗策が生まれ、人類は救われるというのが一般的なのに対し、本書ではそこからアメリカが死の国になってしまうのだ。

つまり約500ページを費やされて描かれた恐ろしき無敵のウィルスがアメリカ全土に蔓延り、ほとんどの人々が死滅していく1巻はこの後に続く壮大な物語の序章に過ぎない。
そして2巻目はそんな荒廃したアメリカを舞台にしたディストピア小説になる。
騒動を鎮圧するために派遣された軍がやがて武器を振り回して小さな国の王になろうとし、殺戮を始める。メディアを使って公開死刑をし出す。略奪を繰り返し、本能の赴くままに行動する。その中にはウィルスに侵されて死を待つだけの者もいる。そんな無秩序な世界が繰り広げられる。

通常このようなディストピア小説ならば、全てが死滅した後の世界を舞台にし、なぜ世界が滅び、荒廃したかは単にエピソードとしてしか紡がれない。しかしキングは敢えてその経過までを詳細に書いた。なぜならそこにもドラマがあるからだ。
普通の生活をしていた国民が突然新種のインフルエンザに見舞われ、次々と死んでいく理不尽さ。これをたった数ページの昔語りで済ませることをキングは拒んだのだろう。
今日もまた昨日のように日常が続き、そして明日が訪れると信じて疑わなかった人々が、実はその人生に幕を引かなければならなかった突然の災禍。誰もがただの悪質な風邪に罹っただけだと信じて疑わなかったという我々の日常の延長線上に繋がるようなごくごく普通の現象がカタストロフィーへの序章だったというリアルさを鮮明に、そして手を抜くことなく描くことが本作を著す意義。これこそがキングが込めた思いだった。だからこそどうしても1978年発表当時の無念を晴らすことが必要だったのだ。

しかしデビュー6作目にしてこれほどの分量の物語を書くという心意気が凄い。本当に物語が次から次へと迸っていたことがその筆の勢いからも解る。

神は細部に宿るという言葉がある。
本来はドイツの建築家ミース・ファンデル・ローエが云った言葉で、何事も細部まで心を込めて作れという意味であるが、それを実践するかの如く、物語の創造主であるキングもまたディテールを積み重ねていく。キングは作家もまた神であることを自覚し、本書の登場人物たちを丹念に描く。

これだけの分量を誇るだけあって込められた物語は5作分以上の内容が込められている。
両親を亡くし愛する妻をも結婚18か月で亡くした孤独な男。
しがないギタリストがひょんなことから自分の作った曲が全米でヒットしていき、人生を狂わせつつある男。
町でも男たちが振り返るほどの美人の娘が妊娠してしまい、母親との軋轢に悩む。
聾唖の青年がアメリカの放浪の旅の途中で助けられた保安官によって保安官代理を務める。
マフィアのヤクを奪い、逃走中のチンピラが立ち寄ったガソリンスタンドで反撃に遭い、ブタ箱に押し込められる。
色んな犯罪に名を変えて関わってきた“闇の男”。

1冊の本が書けるほどの個性的な登場人物たちが軍が開発したウィルスによって崩壊したアメリカを舞台に会する。

人々が死別した町で奇跡的に生き残った人たちが何をするか。これが非常に俗っぽくて逆にリアリティを作品に与えている。
ある者はヤンキースタジアムに行って裸でグラウンドに寝っ転がるのだと息巻く。
人から嫌われていた社会学者はようやくやりたくもない人付き合いから解放され、自分の好きなことに没頭できると喜ぶ。
人がいなくなった世界を存分に楽しむ者も出てくるのだ。

その他感染せずに生き長らえた人々の人生の点描をキングは書く。
病気を乗り越えたからといって人は死なないわけではない。九死に一生を得た後で自転車事故や感電事故、銃の暴発などで死ぬ人々。それは人生が喜劇であり皮肉で満ちていることをキングは謳っているかのようだ。

更に物語は変転する。各地の生存者たちは約束の地を目指すかの如くその町を離れる。そしてその道行でそれぞれに道連れが出来る。
サヴァイヴァル小説、もしくはロードノヴェルの様相を呈してくるのだ。

この第2部から1章当たりの分量が増大するのも大きな特徴だ。
社会に蔓延したウィルスによってもたらされた大量死により個の物語に特化してきた第1部が第2部になって生存者たちがそれぞれ邂逅し、新たなグループを形成しだす。それは即ち小集団の社会を生んでいく。大なり小なりの社会が生まれていく様子を大部のページを割いてキングは語っていく。

小説とは大きな話の中でどこかにクローズアップして語る物語だ。従ってたった1日の出来事を数百ページに亘って書く物もあれば、人の一生を語る物、百年、いや数百年の歴史を語る物、それぞれだ。何巻、何十巻と費やして書かれる大河小説もあれば、1冊に収まる小説もある。それらはどこかに省略があり、メインの、作者が語りたい部分を浮き彫りにして描かれるが、本書は全てが同じ比重で描かれている。だからこそこれほどまで長い物語になっているわけだが、キングはやはり書きたかったのだろう、全てを。頭に住まう人々のことを余すところなく描きたかったのだろう。

ステュー・レッドマンはオガンクィットからストーヴィントンの疫病センターを目指すフラニーとハロルドたちと合流する。

聾唖の青年ニック・アンドレスは知的障害の青年トム・カレンと旅程を共にする。

ミュージシャンラリー・アンダーウッドは女性教師のナディーン・クロスと彼女が拾った口の聞けない少年ジョーと出逢い、旅に出る。

それぞれが出逢いと別れを繰り返し、仲間を増やし、また仲間を喪いながら、ある目的地、ネブラスカにいるマザー・アバゲイルの許へと向かう。

皆が一同に会する安住の地はコロラド州ボールダー。そこを彼らは<フリーゾーン>と呼び、コミュニティが形成されていく。無法地帯と化したアメリカの再生の地、そして彼らを付け狙う<闇の男>に対抗する力を持つべく、彼らは町を復興させ、そして主たるメンバーで委員会を発足させ、秩序を、社会を再構成しようとする。

最終巻5巻はラスヴェガスで次第に闇の男の勢力が弱まっていく様が語られる。
善と悪。
この表裏一体の存在は一方が弱まると他方もまた同様に衰退していく、そんな不可解な原理が働くようだ。そして物語は善と悪との直接対決へと向かう。

キングは本書でもたらしたのは複雑化してしまい、もはや何が悪で善なのか解らない世界を一旦壊してしまうことで人々が善と悪に分かれて戦う、この単純な二項対立の図式だ。
そう、これは世紀末を目前にした人類による創世記なのだ。善対悪、天使対悪魔の全面戦争の現代版なのだ。

善の側の中心人物がネブラスカに住む108歳の老女マザー・アバゲイルことアビー・フリーマントル。彼女は“かがやき(シャイニング)”と呼ばれる特殊能力、予知能力を有する女性だ。そう、『シャイニング』で少年ダニー・トランスが持っていた同じ能力だ。

一方悪の側の中心人物はランドル・フラッグ。闇の男の異名を持ち、生存者の夢に現れては恐怖を与え、時に目を付けた人物の悪意を唆す。従って善の側にいる人々の中にも新たに生まれたコミュニティ生活の人間関係に苦しみ、また憎悪が芽生え、その心の隙間にランドルは囁きかける。
フラニーに惚れて共に行動しながら同行者となったステューに嫉妬するハロルド・ローダーとラリーを欲しいと願いながらも純潔を守り通そうとする屈折した感情を抱く元教師ナディーン・スミスがランドルの標的となっている。

この2人だけが超越した人間として書かれている。2人に共通するのは生存者たちの夢の中に出現することが出来ることだ。しかしランドル・フラッグは実に謎めいている。
マザー・アバゲイルが“かがやき”を備えていることが説明されているのに対し、ランドル・フラッグは特殊な“目”を持ち、千里眼の如く遥か彼方の出来事を見通すことが出来、さらに各地へ飛ぶことが出来るという説明があるだけだ。“かがやき”が善なる力ならば彼の能力は悪の力でまだ名前がないだけなのかもしれない。
しかし彼はどこにでも行けると思わせながらもマザー・アバゲイルたちが住む<フリーゾーン>へは赴かない。いや誘惑したナディーンたちの前に現れてはいるが実体化しているかどうかは解らない。彼の行動範囲には限りがあるということなのか。彼の領域があり、その中で自由自在に動けるということなのかもしれない。

人は未曽有の災害を生んで、ほとんどが亡くなり、また大いなる悪に打ち勝ってもまた同じことを繰り返すのだ。
人間社会はその繰り返しである。本書の言葉を借りれば、まさに回転する車輪の如きもので、歴史は常に繰り返される。それは即ち過ちをも。

また興味深いのはスパイとして潜入したデイナが闇の男が統治するラスヴェガスの方が規則正しい生活が成されていることに気付き、驚きを感じるシーン。
それは闇の男の機嫌を損ねぬように生きているからこそ、つまり恐怖が規律を育てているという皮肉。これは現代社会の規律を皮肉っているようにも取れる。
我々は何かを恐れているがゆえにシステムに固執し、それを守ることでうまく機能を社会にもたらせている、そんな風にキングは指摘しているように感じた。

色んな人生を読んだ。そして彼ら彼女らはいつしか自分を変えていった。

その中で私が最も印象に残ったキャラクターはトム・カレンとハロルド・ローダーだ。

トム・カレン。本書では言及されていないが彼もまた“かがやき”を備えた知的障害者だ。ニック・アンドレスと出逢う前の彼はパンデミックで人々が亡くなる前は両親とともに暮らすただ障碍者で、災厄の後では一人町に取り残された弱者に過ぎなかった。しかし彼は自分が何者かを知っていた。だから誰も彼を馬鹿にしなかった。彼がただ他の人よりもちょっと足らないだけだ。従って彼は愚直なまでに命令に忠実だ。その愚直さが実に微笑ましく、また感動を誘う。
そして彼はトランス状態に陥ると“かがやき”を備えたかのように先を見通せるようになる。最後まで底の見えない好人物だった。

ハロルド・ローダー。
美人で優等生の姉と常に比較され、劣等感を抱えて生きてきた彼は知識を蓄えることで自らをヒエラルキーの頂点に持っていこうとするが、持っていた劣等感ゆえに尊大さが目立ち、人を見下すようになる。パンデミック後も町でたった2人で生き残った憧れの君フラニーと親しくなることを期待するもすげなく断られ、道中で一緒になったステューに彼氏の座を奪われる。そこから憎悪がねじ曲がり、表向きは快活な笑顔を振る舞って協力的な態度を示しながらも<元帳>と書かれた日記には自分の憎悪の丈をぶつけ、日々復讐心を募らせる。

彼は常に人に認められたいと願った男だった。しかしいつも誰かと比較され、そして貶められていた。そのことがどうしても我慢ならなかった。しかし彼は自分が認められる道を見つけたのだ。嘘でも笑顔で振る舞い、皆の注目と関心を得るために嫌な仕事も率先してやることでとうとう欲しかった信頼、仲間を得たのだ。
しかしその頃にはもうすでに彼の心は病んでしまっていたのだ。彼はもうその安住の地に留まることを潔しとせず、初心貫徹とばかりに自らの憎悪に固執してしまったのだ。
人は変われるのに敢えて変わることを選ばなかった男、それがハロルドだ。彼の許を訪れ、情婦となったナディーンがいなかったらハロルドはそのまま<フリーゾーン>に留まっただろうか?
私はそうは思わない。彼が抱えた闇は簡単には晴れなかった、そして彼は自分の性分に正直に生きた、それだけだ。

ところで題名『ザ・スタンド』の意味するものとはいったい何なのだろうか?
本書では最後に闇の男が甦った際に「拠って立つところ」とされている。
なるほど、全てが喪われた世界でそれぞれがどんな拠り所を、己の立ち位置を見つける物語という意味なのか。善に立つか悪に立つか。しかし私は立ち上がる人々、即ち蜂起する人々という意味も加えたい。
最終巻、いや最終の第3部に至って挿入される引用文の1つにあの有名なベン・E・キングの歌“Stand By Me”の歌詞が引用されている。貴方が傍にいるから怖くない、と。だから私も立つのだ。

しかしキングはよほどこの歌が好きなようだ。ご存知のようにこの歌の題名をそのまま使い、映画化もされて大ヒットした短編を後に書いてもいる。歌い手の名が同じ苗字を冠していることもその一因なのだろうか。

こんな長い物語を読み終えた今、胸に去来するのはようやく読み終わったという思いではなく、とうとう終わってしまったという別れ難い思いだ。

2,400ページ弱の物語が長くなかったかと云えば噓になるが、それでもいつしか彼らは私の胸の中に住み、人生という旅を、戦いを行っていた。

通常これだけの大長編を書いた後では虚脱状態になってしばらくは何も書けない状態になるのではないだろうか。読み終わった私でさえ、半ばそのような状態である。
洋の東西問わずそのような事例の作家が少なからず思い浮かぶが、キングはその後でも精力的に大部の物語を紡ぎ続けているところだ。彼の創作意欲は留まるところを知らない。
キングの頭の中には今なお外に出たくてひしめき合っているキャラクターが潜んでいるのだろう。天才という言葉を軽々しく使いたくないが、現在まで年末のランキングに名を連ねる彼はまさしく小説を書くために生まれてきた正真正銘の天才だ。

また本書ほど読む時期で印象が変わる物語もないだろう。
上に書いたように2,400ページ弱を誇る大部の物語はキングの色んな要素を内包している。本書が1978年に発表された当時にカットされた分を付け足した1990年に刊行された増補改訂版であるのは冒頭に述べた通りだが、この作品を1978年当時の作品として読むか、1990年発表の作品として読むかで変わってくる。
前者であればその後のキングの諸作のエッセンスが詰まっている、いわばキング作品の幹を成す作品と捉えるだろう。しかし後者ならばそれまでに発表された『IT』を凌ぐキングの集大成的作品として捉えた事だろう。
解説の風間氏がいうように私は前者の立場で読んだ。従って私の中ではキングはまだ始まったばかり。本書がこの後紡ぎ出した数々の作品にどのように作用しているのかを読むことが出来るのだ。

実はまだまだ語りたいことが沢山ある。なにせ色々な物が包含され、またそのままの状態で終わった物語であるからだ。
ナディーン・クロスに寄り添っていたジョー、即ちリオ・ロックウェイのこと、本書で登場する玉蜀黍畑は短編「トウモロコシ畑の子供たち」でも意志ある存在として不気味なモチーフで使われていたが、アメリカ人、いやキングにとって玉蜀黍畑とは何か特別な意味を持っているのだろうか、等々。

しかしそれはおいおい解ってくるのかもしれない。今後の壮大なキングの物語世界に浸ることでそれらの答えを見つけていこう。


▼以下、ネタバレ感想

※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[]ログインはこちら

Tetchy
WHOKS60S

スポンサードリンク

  



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!