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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 401~420 21/72ページ

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No.1026:
(7pt)

冒険小説の原点的作品ゆえか

『女王陛下のユリシーズ号』と並んでマクリーンの代表作とされる本書。私は映画でこの作品の存在を知っていたが、大方の人も同様ではないだろうか。
そしてつい最近まで入手可能なマクリーンの作品は『女王陛下のユリシーズ号』のみだったが、一昨年に27年ぶりに行われた週刊文春によるオールタイムベスト100の選出でデビュー作が再びランクインしたことの影響を受けてかは解らないが、昨年冒険小説フェアの1冊として復刊された。

ドイツ軍が誇る難攻不落の要塞にあらゆる攻撃を掛けては苦渋と辛酸を舐めらされたイギリス軍が最後の手段として取った方法がゲリラ攻略。世界的に有名な登山家キース・マロリー大尉をリーダーとして潜入不可能と云われるナヴァロン島に侵入し、要塞が誇る巨砲を撃破せよというのがストーリーの概要だ。

『女王陛下のユリシーズ号』でもそうだったが、マクリーンのキャラクター造形の深みには堪らない物がある。

世界的登山家と云う勇名を馳せたチームの指揮官キース・マロリー大尉は陸軍にいてもなお、冷静沈着かつ慎重な注意力を持ちながらも、決断の速さで電光石火の如く、目の前に立ち塞がる難題に立ち向かう。

そして彼の片腕であるギリシア人のアンドレアは無類なき怪力を誇る大男ながら、俊敏な動きで敵に対処し、容赦なく命を奪う。しかし自らの殺戮を後悔しないことはない。さらにマロリーとは長年苦楽を共にしてきた鏡のような男なのだ。

フケツのミラーと仇名されるアメリカ人はだらしない風貌ながら破壊工作のエキスパートで爆弾の扱いはピカイチの腕を誇る。

ケイシー・ブラウンはメカのプロでどんなに老朽化した装置や乗り物でも豊富なメカの知識と粘り強さでチームの後方支援を行う。

唯一マロリーと初めて仕事をするの若き大尉アンディー・スティーヴンズは一流の登山家であることで選ばれた。しかしその登山技術は有名な探検家であり登山家であった父親と運動神経抜群の2人の兄に対するコンプレックスから生まれた賜物であり、常に何らかの恐怖心を持ち、それを克服することで勝ち得たものだった。つまりチームの中での不確定要素的存在だ。
本書で私が最も印象に残ったキャラクターはこのアンディー・スティーヴンズ大尉だ。恐怖心を常に持ち、それを克服することで自らの地位を固めてきた彼が他のメンバーに自分の弱さを見せたことを悔い、さらに深手を負ってメンバーの足手まといになることを潔しと思わない男が最後に辿り着く恐怖心が雲散霧消した心理で仲間の為に楯になって戦う姿は物語で終始謝り続け、満身創痍の中で苦難していた者が最後に自分らしく生きることを見出した清々しさを感じた。『女王陛下のユリシーズ号』の水雷兵ラルストンを想起させる。

この愛すべき精鋭たちを迎え撃つのはナヴァロンの要塞のみならず、配備されたドイツ軍はもとより限られた時間と自然の猛威、そして進攻を妨げる地形だ。

航行中にドイツ軍の機帆船による臨検を乗り越え、自船の機械トラブルに、更にはドイツ軍がイギリス軍が駐屯するケロス島襲撃のリミットが一日早まるに至る。そして島に上陸するにも突如発生した暴風雨で船舶が上下左右に揺さぶられ、断崖に叩き付けられながら沈没寸前で断崖絶壁に取りつく、そしてそのために食糧や燃料を落としてしまうなど、ありきたりな表現だが、スリルとサスペンスの連続なのだ。

第1作でもそうだったが、マクリーンはとにかく主人公たちにこの上ない負荷をかける。人間の精神と肉体の限界、いやそれ以上の力を試し、もしくは骨の髄まで疲労困憊させ、最後の一滴まで搾り取るかの如く、これでもかこれでもかと危難や難題を突き付ける、いや叩き付ける。

これら主人公一行に襲いかかる敵や障害をいかに乗り越えていくかという機転や卓越した技術へのスーパーヒーローの戦いぶりにあるのではなく、困難な目標に向かって苦闘する人々が織りなす人間ドラマに読みどころがある。

何度も挫折しそうとなりながらも仲間たちを鼓舞するリーダーシップやそれに減らず口を叩きながらも応えていく部下たち、そして島を侵略された住民からの協力者たちが秘める敵への憎しみ、それらが折り重なって極限状態の主人公たちが諦めずに幾度も立上る行動原理を語っているからこそ、ハリウッドが好き好んで描くアクション映画の典型のようなシンプルな筋書を持つこの作品が今なお冒険小説の金字塔として称賛されるのだろう。

マクリーンは『女王陛下のユリシーズ号』と本書を以て冒険小説の巨匠として名を残し、70年代以降の作品は読むべきものはないと云われているが、正直この作品は私の中では面白いとは思うが歴史に残るほどの作品とは思わなかった。
シャーロック・ホームズシリーズでも『バスカヴィル家の犬』よりも『恐怖の谷』を評価する私なので今後の作品に私なりの傑作を見つけていこう。

ナヴァロンの要塞 (ハヤカワ文庫 NV 131)
No.1025:
(7pt)

ローレンス・ブロックは2人いる!?

泥棒探偵バーニー・ローデンバーシリーズ3作目。
そう、3作目なのだ。
2作目は絶版ゆえにいまだに手に入っていない。そしていきなり本書ではバーニーは古書店主として真っ当な暮らしをしている風景から始まる。
2作目の時に何が起こったのか?非常に気になるではないか。

さて古書店主となったバーニー・ローデンバーの日常には本が溢れており、自然物語は本についての薀蓄なりが付いてくるのだが、これがやはり読者、特にミステリ読者には思わずニヤニヤしてしまう話が散りばめられている。

警官が現れ、「そんな本を読むよりもジョゼフ・ウォンボーやエド・マクベインの方が面白いぞ」とか、刑務所では識字率の低い者でさえ、悪党パーカーシリーズを読み漁っていたとか、ベルを2回鳴らして下さいと云われれば、郵便配達のように?と訊いてみたりと、妙にミステリ興趣をくすぐられるウィットが読んでいて非常に面白い。

古書店主になって泥棒稼業からは足を洗ったのかと思いきや、バーニーにとって泥棒はもはや習慣病のようになっているようで、今回は自分の店に現れたJ・ラドヤード・ウェルキンなる紳士からこの世に1冊しかないキプリングの自家製本を所有者の貿易商から盗み出してほしいと頼まれるところから始まる。そしてバーニーは見事盗み出し、ウェルキン氏に連絡を取って指定の場所へ赴くものの、そこで殺人に巻き込まれてしまうのが今回の事件。

さて今回バーニーが出くわす謎は主に次の4つになるだろう。

バーニーにキプリングの稀覯本の盗みを依頼したウェルキンの代わりに本を奪おうとしたマドリン・ポーロックとは何者なのか?

そしてそのマドリンを殺したのは誰なのか?

ラドヤード・ウェルキンはなぜ約束の時間に約束の場所に現れなかったのか?

バーニーの店に押し入り、キプリングの本を強盗したシーク教徒は何者なのか?

この謎の解答は実はかなり複雑。
軽妙なミステリにこのプロットはあまりにアンバランスと感じ、それが私にとってのマイナス要因となった。

さてまだ2作しか読んでいないが泥棒バーニーシリーズは一定のパターンが決まっているようだ。
盗みに入ったことがきっかけで殺人事件に巻き込まれ、無実の罪を着せられるが、数ある友人の助けを借りて軟禁生活の中で事件の真相と真犯人を推理する、というのが通例らしい。しかしそのマンネリが逆に読者の期待する方向通りに展開して飽きが来ないのだろう。

また本格ミステリとしての伏線の妙が実に魅力的だ。さりげない描写が伏線となっており、また事件解決の手がかりも実に自然に物語に溶け合って、思わずアッと気付かされる。

しかし本当にこの軽妙な読み物はマット・スカダーシリーズの作者の手による物だろうか?
ローレンス・ブロックは2人いると云われても全然驚かないぐらい作風が全く違う。本当に器用な作家だ。


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泥棒は詩を口ずさむ (ハヤカワ・ミステリ 1369)

No.1024:

脳男 (講談社文庫)

脳男

首藤瓜於

No.1024: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

シンプルな名前であるからこそ

21世紀最後の年2000年に第46回江戸川乱歩賞を受賞した本書は5年前に同賞を受賞した藤原伊織氏の『テロリストのパラソル』以来の話題作となり、その年の週刊文春のミステリーベスト10で1位を獲得し、『このミス』でも16位にランクインした。

この『脳男』という異様なタイトルの本書の魅力はなんといっても鈴木一郎と云う男の奇怪さだろう。

弱冠29歳で物語の舞台となる愛宕市で小さな新聞社を経営している。しかし解っているのはそれだけで鈴木一郎と云う無個性な名前―世界的に有名な大リーガーの名前も同じだが―も偽名である。

彼の正体を探る手がかりは彼の精神鑑定の合間に挟まれる遠い過去の記憶にある。それは彼が重度の火傷を負って全身に手術を施されるシーンであったり、幼き頃に老人から哲学の書を読み聞かされるシーンであったり、断片的にフラッシュバックする事柄が後ほど鈴木一郎の正体を決定づける裏付けとなってくる。

とにかく主人公の精神科医鷲谷真梨子が鈴木一郎の過去を辿るうちに出くわす入陶大威という自閉症の少年の様子が非常に興味深い読み物となっている。
感情を持たない人間の行動とはこれほどまでに想像を超えるものなのかと専門分野の観点から語られる。特にこの大威という少年の特異性には目を見張るものがある。
何かの指示が出されるまで動こうとしないし、人間の三大欲である食欲さえも起こらない、睡眠欲も起こらなく、生理現象でさえ自らの意志で対処しようとしない。また情報の取捨選択をする認識がないため、見た物すべてを覚えてしまう。運動も指示一つで止めろというまで延々と続ける、等々。
まさにロボット人間そのものと云えよう。

本書の読み処は昨今研究が進んで明らかになった自閉症の仕組みを脳科学の分野で詳しく症例を交えて詳らかに語られている所にある。現在ではもはや自閉症という呼称はせずに発達障害という呼び方をするが、一口に自閉症と云っても色々な症状があることが知らされる。
その想像を超える現象の数々に私は思わず食い入るように読まされたのだが、そんな専門知識を見事に自家薬籠中の物として鈴木一郎と云うキャラクターを生み出した作者の手腕を讃えたい。

普段人間は必要なデータと不必要なデータを取捨選択して生活しており、そのためにすれ違う人の服装や通り過ぎる車の種類などを覚えることはしないが、自閉症である彼はその区別がつかなく、見る物全てを記憶してしまう。しかしそれらをデータとして蓄積するだけで活用する手段を知らない彼が、登山家とのトレーニングや彼の身に起きた事件をきっかけに自我に目覚め、究極の人間として生まれ変わる。それは自分の潜在能力をも十分に引き出して、常人を超える身体能力を持ち、自律神経を意識的に操作して一切の苦痛を感じずに戦い、犯罪者たちをこの世から葬る、いわば現代の仕置人、いやスーパーヒーローなのだ。

そんな荒唐無稽な物語をしかし作者は上に書いたように現代医学の当時の最先端の知識を導入してミステリアスに仕上げることに成功した。作品発表から19年経った今でもその新鮮さは色褪せていない。

しかしこのような作品が江戸川乱歩賞を受賞する事が非常に珍しいのではないか。
私も全ての乱歩賞受賞作を読んだわけではないので推測にすぎないのだが、本書のような一人の人間の謎を辿るミステリが受賞した作品は初めてではないだろうか?
事件が起き、それを主人公が犯人なり、動機なりを調べる、いわゆるミステリの定型に則りながらも一般人が通常知りえない主人公が属する業界の専門知識が盛り込まれる妙味が加わった作品が受賞するというのが乱歩賞の常だった。本書は特に脳医学の分野が専門的ながらも非常に解りやすく書かれており、人そのものが最大のミステリであることを示した作品である。

以前ある作家がミステリにおける特異な苗字が多いことに難を示し、「面白い作品であれば主人公の名前が佐藤とか鈴木とかありふれた名前でも全然構わない」といった類の話をしていたが、本書の主人公はごくごく平凡な名である鈴木一郎だ。
逆に他の登場人物の名前は非常に特殊なのに留意したい。鈴木一郎を逮捕した刑事は茶屋であり、鈴木一郎の精神鑑定をするのは鷲谷でその上司の名は苫米地といい、敵役である連続爆弾魔の名は緑川と普段あまり接する事のない名字だ。さらには緋紋家(ひもんや)や空身(うつみ)といった実在しない苗字まで登場し、鈴木一郎を取り巻く登場人物たちの苗字は非常に特色がある。
それがかえってシンプルな鈴木一郎と云う名前を浮き立たせているようにも感じた。しかしそんな演出以上に作者は見事この何の個性も感じない名を持つ主人公が上に書いたような超人として印象に強く残るのだ。つまり新人にして首藤氏は一般的な名を持つ人物こそ最も強い個性を放つという高いハードルを難なく越えてみせたのだ。

島田荘司氏が21世紀ミステリとして、現代科学の知識をふんだんに取り入れ、まだ見ぬ本格ミステリを21世紀になって提唱したが、本書はまさにそれに先駆けた当時最先端の科学を盛り込んだミステリとなっている。

しかし物語はそれだけではなく、鈴木一郎の正体を巡る謎から一転鷲谷真梨子と鈴木一郎がいる愛和会愛宕医療センターが爆弾魔緑川によって占拠され、広い大病院の各所で頻発する爆破事件というパニックサスペンス小説へと変貌する。一言で云い表せない一大エンタテインメント作品なのだ。

また連続爆弾魔緑川の一連の事件にもミッシングリンクがあったことが明かされる。

しかしそんな本格ミステリ趣味をも盛り込みながらもやはり鈴木一郎と云う男の謎には添え物に過ぎないように思われてしまう。
それほどこの“脳男”は鮮烈な印象を私に残した。

物語は続編が書かれるかのように幕を閉じるが、その続編『指し手の顔』は本書の後7年を経てようやく書かれた。
残念ながら本書ほどは話題にならなかったが、先入観を持たずにその作品も読むことを愉しみにしたい。


▼以下、ネタバレ感想
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脳男 (講談社文庫)
首藤瓜於脳男 についてのレビュー
No.1023:
(7pt)

馳作品最強の男登場

軽井沢と云えば皇后家ゆかりの地。ここにはやくざはおらず、その手の取り締まりも厳しいそうだ。
そんな金持ちの別荘地である軽井沢が戦場と化す。馳版『マルタの鷹』ともいうべき本作では5億円をやくざから持ち逃げした投資ファンドの男を追って、東京から極道が、中国系マフィアが大挙してくる。馳氏に掛かると閑静な富裕層たちの避暑地も血で血を洗う修羅場となるのだ。

物語はかつて20年前に新宿で大暴れした四人の男を軸に回る。田口健二、城野和幸、山岸聡、徳丸尚久。

田口健二は“五人殺しの健”と異名を持つ伝説のやくざ。かつて5人の中国人を相手に立ち回り、それらを殺害した武勇伝を持つ。しかしある日突然姿を消し、軽井沢で別荘の管理サービスを個人で営み、生計を立てている。

城野和幸は田口を兄と慕い、そのまま所属している東明会に残り、同系列の井出組の若頭となっている。組の金を持ち逃げした鈴木という男を追って軽井沢に乗り込み、かつて新宿に来て暴れた名を馳せた地元のやくざ遠山と組んで鈴木を捜し出そうとしている。

山岸聡は極道から足を洗い、しがない場末のスナックを営んでいるが、経営難に陥り、5億円持ち逃げの情報を聞きつけ、軽井沢に駆けつける。

徳丸尚久はつい最近死に、その息子達也が田口を訪ね、一緒に組んで5億円を手中にしようと持ちかけるが一蹴されてしまう。

そんな4人を中心に、いや極道から足を洗いながらもその伝説的な強さゆえに放っておけない輩が田口を訪れ、否応なく抗争に巻き込まれていく。

かつて田口の伝説に挑みながらも、果たせず長野に舞い戻った田舎やくざ遠山は田口とどちらかが強いのかを20年経った今でも心に燻らせている。

長野県警捜査二課の暴力団担当の安田と本田は遠山の不穏の動きから周囲をかぎまわり、田口に至り、田口を種に周囲にけしかける。

この4人+2人が殺戮の渦にある者は自ら身を投げ、ある者は中心となって、またある者は否応なく、そしてある者はそれと知らないうちに巻き込まれていく。

そんなヴァイオレンス色濃いプロットの殺戮の幕が開くのは実はかなり早い。600ページ弱の物語で1/3を過ぎたあたりで田口の心に火が着く。
自身の写真集作成のために軽井沢を訪れていたフォトグラファー馬場紀子が拉致されることが田口の中の獣を目覚めさせる。正直馬場紀子は登場時点からフラグが立っていることは明白だったのだが。

そして物語のちょうど2/3の辺りで田口の中の獣が狂獣となって立ち塞がる者すべてに牙を剥き出すようになる。それは田口が紀子を人質に5億円を横取りしようとした達也を殺害した後で、達也が実は田口がかつて愛した女性との間に生まれた子だったことを知らされ、図らずも田口は子殺しという忌まわしい存在になったことを悟ってしまうのだ。

この田口健二というキャラクターは今までの馳作品の中でも最強ではないだろうか。
今までのキャラクターには悪人でありながらも対抗勢力に対しての恐怖心、自分と云う存在が消されることへの怖れ、また守るべき物、大切にしている物、よすがとなっている物を持ち、良心が感じられたが、田口はそんな一切の弱みはなく、痛みや脅しが一切通用しない。また人を殺すセンスに溢れ、殺人に対する躊躇いが全くない。
とにかく自分の前に立ち塞がる者を、それがやくざであろうが警察であろうが、全て殺すのみ。しかも一切の手心を加えずに、再起不能となるまで、いや既に死んでいるように見えても、更に死者を嬲り殺すように徹底的に破壊する。冷酷な殺人マシーンと書くだけ以上の怖さがある。

馳作品の特徴は疾走感を持ちながらも複数の登場人物が錯綜し、それぞれが有機的に絡み合って破滅と云う名の交響曲を奏でるという実に複雑なプロットが持ち味であるのだが、本書はそんな複雑な構図は鳴りを潜め、単純明快に物語は疾走していく。
本来であれば作品に最後まで関わっていくであろう配役たちが早々に退場していく。それは田口と遠山と云う二人の獣の一騎打ちという非常にシンプルな結末に向けて次々と現れる障害物を薙ぎ倒していくかのようだ。
今までの馳作品は上に書いたような複雑な構図を持ちながらも、結局最後はとち狂った主人公による大量殺戮で敵味方関係なくぶち殺されていくというプロットの破綻とも云うべき流れだったのに対し、本書は逆に明確に目指す所に向かっていくというシンプルなところがいい方向に出ているように感じた。

そんなかつての馳氏を髣髴させる血沸き肉躍るヴァイオレンス巨編だが、細部や設定の甘さに少々失望したのは否めない。

例えば馬場紀子が自身の職業をカメラマンと述べているのには違和感を覚えた。フォトグラファーと自称するくらいの性格付けはしてほしかった。またカメラマンと云ってもヴィデオグラファーやシネマグラファーなどその対象によって様々な呼称がある。
上にも書いたようにこれでは単純に田口が獣に目覚めるためだけにあてがった生贄に少し肉付けしたにしか過ぎないではないか。馳氏の作品は人が簡単に死ぬだけに単なる物語を動かす駒にしか過ぎないように思え、人物描写や造形に詰めが甘いのが残念だ。

また達也が実は田口の息子だったという設定には正直辟易した。馳氏の作品には血の繋がりがもたらす業の深さや運命の皮肉、因果応報が色濃く出ているが、達也については紀子同様、登場時からフラグが立ちまくっている。紀子への凌辱、達也を殺害することで子殺しの親という忌まわしい過ちという二段階の奈落を設定することで田口が過去の殺戮者に戻るためのスイッチとしたことは解るが、これでは明らかに読者に見え見えである。

本書の疾走感はそれまでの馳作品の中でも随一であることは認めよう。
しかしそれだけに最後の田口と遠山との一騎打ちがなかなか始まらなかったのは、物語を意図的に引き延ばそうとしていたようにしか思えなかった。どういった意図によるのか解らないが、駆け抜けていくのであれば、とことん最後まで休まずに全力疾走してほしかった。
物語はシンプルなものほど面白いというのが私の持論なのだが、本書ではそれがもたらすカタルシスにもう一歩届かなかった。
ただ田口は今までの馳作品の中で最も印象の残った男だったことは正直に認めよう。これが本書を最後に馳作品と別れる私にとって最大の収穫だった。

沈黙の森 ((徳間文庫))
馳星周沈黙の森 についてのレビュー
No.1022:
(7pt)

正義を貫くゆえの犠牲

マット・スカダー3作目の本書では亡くなった強請屋から預かった封筒に記された3人のうち、強請屋を殺した犯人を探り出すという、フーダニット趣向の物語。

しかしそんな趣向とは裏腹にその語り口はほろ苦さと哀切を湛えて、心に染み込むしっとりとした文体。
マットは警官時代に付き合いのあった情報屋のために警察でさえまともに捜査しない殺人事件に、自分を餌にして挑む。

ブロックの人物造形の素晴らしさは定評があるが、本書ではスカダーに強請のネタが入った封筒を預ける強請屋スピナーの造形が秀逸。その名は会話する時に一ドル銀貨を回しながら、話し相手を見ずにその回転するコインを見て話する事に由来する。この登場人物一覧表にも名前がない小男の悪党がなぜか印象に残る。

また捜査の過程で挿入されるスカダーの独白が実に心地よい。
殺された強請屋の的となっていた3人に出逢い、実際にその目で観察する人となり。いずれもが社会的に成功した人物であり、内面に強さを秘めていながらも、強請の種があり、それに屈して大金を払う弱さがあるはずだと観察する。

また自らを生贄とすることで犯人を炙り出そうとするスカダーが別れた妻の許にいる息子たちと会話した後、ふと自分も強請屋のように殺され、二度と息子たちと話せないのではないかという思いに駆られたりもする。
孤独だと思っていたからこそ自分を生贄に捧げようとしたのが、まだ自分には愛する者が残っていたことを思い出し、恐怖に駆られる、そんな心の襞を描くのが実に上手い。

しかし本書のスカダーの捜査は第三者の目から見て実は余計なお節介であり、善か悪かと問われれば悪の側としか云えないだろう。

強請られる3人は1人は建築コンサルタントとして資金繰りに四苦八苦している経営者であり、娘の平穏を大事に考える男。
1人はポルノ女優の過去を持ち、若い頃、荒んだ生活を繰り返しながらも現在は富豪の妻としてセレブリティの1人として生きる女性。
最後の一人は若い頃に事業に成功し、その資金を元手にニューヨーク州知事選に臨もうとする若き政治家。しかし彼には少年性愛という忌まわしい趣味があった。

誰しも隠したい、忘れ去りたい過去はあるものだ。人間、なんらかの失敗をせずに生きることなど不可能に等しい。
強請屋とはすなわち誰しもが陥る過去の過ちをほじくり返し、眼前に突付け、弱みに付け入り、半永久的に金をせびる、下衆の生業だ。

しかしマットはそんな仕事よりも彼が警官時代に築いた強請屋との関係を大事にし、また人殺しを嫌うがゆえに彼ら彼女らの人生に分け入り、真相を明らかにしようとする。

つまりマットは強請屋との腐れ縁の為に社会的に成功した人々たちと逢い、人殺しをした犯人を捜そうとするのだ。

これは人生の落伍者同士が持つ同族意識なのか。
いや違う。殺人と云う犯罪をもっとも忌み嫌うマットにとって町のダニとも云える強請屋の死さえも自分の身の周りにいた人間が殺されたことが許せないのだろう。警官さえも見向きもしない社会の底辺で生きる者たちへの義憤が、相手が社会の成功者であり、その安定した生活を壊すことになろうとしても敢えて火中の栗を拾おうとするのだろう。

このシリーズ3作のどれもがほろ苦い結末をもたらす。マットの側で書かれるがゆえにマットの正義に同調する趣があるが、今までの物語はそっとしておけばいいことをわざわざ掘り返して相手の生活を、将来を壊していくことばかりだ。
このマット・スカダーという男がそこまでして殺人という行為を嫌悪する思いの強さは単に自分が不慮の事故で少女を殺してしまったことによる罪悪感だけではないように思える。

まっとうな商売では生きられない人々には優しく、自身の安寧の為に殺人を犯した、もしくは犯さざるを得なかった巷間の人々に厳しい眼差しを向ける、この落ちぶれた元警官の無免許探偵をもっと理解するために今後の彼の生き様を見ていこうと思う。


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1ドル銀貨の遺言 (二見文庫―ザ・ミステリコレクション)
ローレンス・ブロック一ドル銀貨の遺言 についてのレビュー
No.1021: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

さらに笑度が上がってます

東野圭吾のブラック・ユーモア作品集第3弾だが、本書ではそれまでの『~笑小説』シリーズとは趣向が変わっており、1作目の「もうひとりの助走」から続く「線香花火」、「過去の人」、「選考会」が連作短編集となっている。共通する舞台は灸英社なる出版社が関係する各種の文学賞の話である。

まず「もうひとりの助走」は作家歴30年のベテラン作家寒川心五郎の5度に亘る新日本小説家協会から送られる文学賞の選考結果を複数の出版社の担当者たちが待ち受けるひと時を描いた物。
実際直木賞や芥川賞など名誉ある文学賞の選考結果を待つ状況とはこういったものだろうなと思わせる、妙なぎこちなさや緊張感が伴った状況が面白おかしく語られる。特に受賞の見込みの薄い作家と選考結果の電話を待ち受ける状況は実に気まずい空気なのだろう。各出版社の本当の思惑も放つ言葉とは裏腹にかなりネガティヴなのが面白い。

続く「線香花火」は新人賞を受賞した素人作家が歩む過ちを描いた作品。
現在星の数ほどあるという新人賞。しかし在野の素人作家が横行する昨今、それでもいずれかの新人賞を受賞すれば作家への道が開けると日々研鑽を積む人々がいることだろう。この作品はそんな新人賞を受賞した素人が陥る勘違いと過ちを描いている。

次の「過去の人」は文学賞の授賞パーティを舞台にしたもの。
またもや勘違い新人作家熱海圭介登場。今度は授賞パーティに招かれ、前受賞者として新人賞受賞者に的外れなアドヴァイスをしたり、名刺を作って配ったりと更なる勘違いぶりを発揮。こういう新米作家は実際にいるのだろう。

「選考会」は東野氏らしい捻りが効いた作品。
ここでは「過去の人」で受賞作となった『虚無僧探偵ゾフィー』なるミステリの選考会の様子が描かれる。
なんとも痛烈な皮肉が効いており、これを読んでジョークだと思えない作家もいるのではないだろうか?

さてここからはノンシリーズ物。「巨乳妄想症候群」はある日突然丸みを帯びた物が巨乳に見えてしまう症状に罹った男の話。
いやあ、実に面白い。最初の一行、「冷蔵庫を開けたら巨乳が二つ並んでいた」からもう笑いが始まってしまった。
肉まんから始まり、カップラーメンの器、パソコンのマウスにはたまた管理人の禿げ頭まで―これが一番可笑しかった―が巨乳に見える症状に始まり、最後は全ての女性が巨乳に見えるという男にとっては何ともうらやましい症状に落ち着く。また作中に織り込まれた巨乳に関する歴史的考察も実に面白い。

下ネタ系が続く。
次の「インポグラ」は友人の科学者が発明したインポグラなるアンチバイアグラ、つまりインポになる薬。
一見役に立たないと思われる薬もアイデア一つで役に立つ。まずはレイプ班に飲ませて犯罪抑制に役立てるというアイデアに始まり、オナニーばかりして勉強に精が出ない受験対策として、遺産目当てで結婚した年の差夫婦の夜の生活防止を経由して最終的に夫の浮気防止薬としてヒットするという着想の流れが見事。この話を読んでポスト・イットの開発話を思い出した。


「みえすぎ」は世の中に蔓延する微粒子がある日突然見えることになった男の話。
これも塵埃が普通以上に見えるというワンアイデアからエピソードを膨らまして物語としている。ただ展開は普通かな。

「モテモテ・スプレー」は男性ならばぜひとも欲しい一品だ。
星新一+ドラえもんのような作品。最後はスプレーなどに頼らず、その一途な人柄でアユミのハートをゲットしたかと見せかけ、やはり友達で終わる皮肉なラストにさらにもう一捻り加えている。

「シンデレラ白夜行」はあの有名な童話「シンデレラ」の東野圭吾ヴァージョン。
美談として世に知られるシンデレラのお話も東野氏に手に掛れば実に計算高い女性の話に早変わり。タイトルにつけられた「白夜行」の文字が悪女の話だと暗示しているのはこの作者だけの武器か。

「ストーカー入門」は奇妙な味わいの作品。
女心は解らないというが、これは当事者では解らない話だろう。いきなり分かれて欲しいと持ち出され、数日後に別れて欲しくなかったら自分をストーカーしろ!という何とも理不尽な話。彼女がストーカーを強いることで何か主人公に不幸が訪れることを予想していたのだがこの結末は全く予想外だった。ただ正直主人公が私ならブチ切れてそのまま放置してますが。

子を持つ親なら一度は通るのが、TVヒーローのキャラクターグッズ購入。「臨界家族」はそんな日常を綴っている。
なんとも身に詰まされる話だ。わが身に近いことなので、単に感想以外の事も浮かんだがそれについては後述する事として、一見離婚の危機を迎えているような夫婦を指しているかのようなタイトルの意味が最後に解るが秀逸。これには唸らされた。
しかしとても他人事とは思えない話だ。

「笑わない男」は笑わない男を笑わそうという話。
お笑い芸人を主人公に持ってくることは実は小説としてはかなりハードルが高い。今まで読んだその手の小説ではどうしても作中に出てくるギャグやコント、ボケ、ツッコミが笑いを誘うところまでに至らないからだ。お笑いとはやはり同じ場の空気を共有して生まれる雰囲気ゆえが大いに作用しているのがその要因だと思うが、本作ではその高いハードルをしっかり越えていることが凄い。
東野氏が描く売れない2人の芸人の仕込みやボケ、ツッコミはなかなかに面白く、映像的でもあり、多分TVで観れば思わず笑ってしまうだろう。
それほどなのに笑わないボーイ。彼の存在がまた実に面白い。そして最後の一行が実に皮肉に効いている。いやあ、実に上手い。

最後の「奇跡の一枚」も誰しもあるであろう、妙に映りのいい写真の話だ。
なぜかいつもよりも妙に見栄えのする写真というのが撮れることがある。これはそんな誰しもあるような話から、これまたウェブでやり取りしていたメル友からある日どんな人か写真を見たいと申し出されるという云わば当然の流れが生じ、見栄を張ってその奇跡とも云える見栄えのいい写真を送って、ぜひ逢いたいとなってあたふたするというのもまた普通の展開だが、最後のオチはちょっとゾッとした。


東野氏の『~笑小説』シリーズ3作目の本書では前2作よりも作家と出版社との関係を抉ったブラックな内容が濃く出ている。

特に連作短編となっている冒頭の4作品では出版界の内幕が繰り広げられ、出版社の担当者の思惑や新人賞を受賞し、作家専業となった人間たちの過ちを滑稽に描いており、これからも出版社とのお付き合いをしていかなければならない東野氏が果たしてこんなことを書いていいのだろうかと笑いながらも心配してしまうほど、露骨に描いている。
まあ、これが他の作家が書かないであろうことまで書いてくれる東野氏のこの辺の思い切りの良さなのだが。

その4編以降はいつも通りのノンシリーズ短編が並ぶ。

それら各短編は基本的にワンアイデア物なのだが、それを実に上手く膨らましていて笑いに繋げている。

ある日突然色んな物が巨乳に見えたり、空気中に漂う塵埃の微粒子までもが見えたり、はたまたインポになる薬が発明されたり、女性にもてるスプレーが発明されたりとたった一言で説明できるものだ。そこから東野氏は巧みにエピソードを次々とつぎ込んで見事なオチに繋げている。それらはどこか星新一氏のショートショートに似て、作者からのリスペクトも感じる。

またそれら寓話的な題材ばかりではなく、我々の生活に非常に身近な事柄も作品になっている物もあり、ただのお話のように感じない物もある。
例えば「臨界家族」では某TV局の某アニメシリーズが目に浮かぶかのようで他人事とは思えない話。作中の台詞にあるように確かに現代では商品化も視野に入れてTVヒーローの武器は案出されており、話が進むにつれて新キャラクターやそれに伴う新しい武器や道具が登場し、その登場した回が終わるや否や次のCMでそのおもちゃが紹介されている。
幸いにしてわが子はそこまで耽溺していないため、出るたびに買わされることはないのだが玩具コーナーで品切れ状態の張り紙を見ると餌食になっている親がいるのだなぁと思ってしまう。

思わず自身の身の回りのことまで思いが及んでしまった。閑話休題。

個人的なベストは「巨乳妄想症候群」と「臨界家族」。次点で「笑わない男」。
「巨乳妄想症候群」は丸い物がある日突然巨乳に見て出すというそのあまりにもアホらしい、しかし実に面白い設定を買う。「臨界家族」は前述のようにとても他人事とは思えない話であり、オチが予想の斜め上を行っているところが見事だ。「笑わない男」は最後の一行の素晴らしさ。これぞブラック・ユーモア。

しかし「巨乳妄想症候群」と云い、「インポグラ」といい、いやあ、男ってホントしょうもない生き物だなぁと思ってしまう。

本書に収められた作品はいずれもが『世にも奇妙な物語』の一短編として実に面白い作品が出来そうな題材だ。恐らく未見のこの番組の中に既に映像化された物があるのかもしれない。

今までの『~笑小説』シリーズには正直笑劇ばかりが収められていたとは云えなく、中にはほろりと涙を誘う感動物もあったが、本書は全てがユーモアやスラップスティックとお笑いに徹している。
しかも笑いのエネルギーは衰えるどころかさらにその技巧が上がっており、笑顔どころか思わず笑い声を発する事が何度もあった。本書の冒頭の4作品のように、ある意味作家生命なんのそのと云わんばかりの冒険をしてまで笑いに徹するその姿勢を買いたい。

逆に現在出せばベストセラーという状況だからこそ、どんな所にも踏み込んで書ける知名度の高さを利用して、怯むことなくもっと我々を笑わせてくれることを心の底よりお願いするとしよう。


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黒笑小説 (集英社文庫)
東野圭吾黒笑小説 についてのレビュー
No.1020:
(8pt)

アラブ諸国とナチスの根深い闇

マイケル・バー=ゾウハー6作目の本書では前作『ファントム謀略ルート』に続いてアラブ諸国の問題について扱われている。後に作者自身が共著でノンフィクションとして著すことになるミュンヘン・オリンピックで起きたイスラエル選手団暗殺事件に端を発する復讐の連鎖の物語だ。

物語の冒頭でイスラエル選手団を虐殺したアラブのPLOの首謀者であるサラメハを長年の追跡の末、仕留めるところから始まる。そのニュースを聞いたドイツ人テロリスト、アルフレート・ミューラーなる人物がアラファトにある計画を持ち出す。それはサラメハ暗殺作戦の総責任者であるモサド長官エレミア・ペレドの暗殺のみならず、ユダヤ人に対する決定的な報復をなすことになるという謎めいた実に不気味な計画だった。

本書ではこのテロリスト、アルフレート・ミューラーが最も強烈に印象強いキャラクターだ。

骸骨のように痩せ、全身黒づくめの服装の酷薄な顔をした男。各国の要注意人物を掌握するモサドのファイルにも登録されていない謎のテロリストである彼はドイツ人でありながらアラファトと親しい関係にある。

友人であろうが自分の目的のためなら完膚なきまでに息の根を止めることも全く厭わない冷酷な性格の持ち主。その容貌が象徴するようにモサドに死をもたらす死神なのだ。

また本作でもナチスの影は物語に落ちてはいるものの、その色合いはそれまでのバー=ゾウハー作品に比べるとあまり濃くはない。本書の影の主役とも云うべきアルフレート・ミューラーの母親がナチスの婦人将校であったということぐらいだ。
これはナチスという過去の戦争の呪縛からオイルマネーで世界を牛耳り始めたアラブ諸国の紛争へとシフトしていったことになるだろう。第二次大戦から80年代当時の問題へと作者の視点が移行したことになるのかもしれない。

それは自身が従軍した第3、4次中東戦争の経験と執筆当時に連なる政治的問題が肥大していくにつれて作家として書くべきテーマを見出したように思える。

解説にもあるが、これまでの作品でCIAとKGBの攻防を、OPECとアメリカ次期大統領候補との丁々発止の駆け引きを、そして本書ではアラブのPLOとイスラエルのモサドとの復讐戦を描いてきた作者が次回どんな題材を見せてくれるのかが非常に楽しみだ。
さすがに政治家の経験もあるだけに国際情勢の複雑さを食材に謀略小説にする料理の腕前は一級品だ。そしてまた自身が子供だった70年代から80年代にかけての当時の世界情勢を振り返るのに格好の教材になっている。

しかしこれまでの作品でどれにもナチスが絡んでいるのは作者個人のナチスに対する個人的な怒りがあるのだろうか、もしくは自身の政治家経験で知りえた世界を語るうえでどうしても避けられない題材なのだろうか、その真意は解らないが、ここまで来るとこれからの作品に作者がナチスをどのように絡ませていくのか、興味は尽きない。


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復讐のダブル・クロス (ハヤカワ文庫 NV 322)
No.1019:
(7pt)

血に刻まれた殺戮の民族史

裏表紙の本書の紹介にはスピルバーグによって映画にもなったミュンヘン・オリンピックでのイスラエル選手団惨殺事件の背景を描いた事がメインのように書かれているが、実はそうではない。通称“血まみれの王子”と呼ばれたパレスチナ・ゲリラ“黒い九月”のリーダー、アリ・ハサン・サラメの生涯を70年代に繰り広げられたアラブとイスラエルの対立の時代から詳細に綴ったドキュメントである。
また本書の原題は“The Quest For The Red Prince”、つまり『血まみれ王子の追跡』であり、題名のミュンヘンでの事件は彼の人生における断片にしか過ぎない。明らかにこれは版元である早川書房の、映画に便乗した商業戦略が加味された題名である。

中学・高校と歴史を習ってきたが、なぜか第二次大戦以後の歴史は概要をなぞるだけで詳細に教えられた記憶がない。従って本書で語られる70年代のパレスチナ問題に関しては単純にその単語を知るだけで、どのような物だったのかは今まで知らないままだった。私にとって歴史の空白部分であるその時代を知るのに本書はいい教科書となった。

これは報復の時代に生まれた人間の血の物語だ。

血とは流血も指すが、それ以上にテロリストの息子として生まれた男が引き継ぐ血筋をも指す。

住み慣れた領地の奪い合いがイスラムとユダヤの宗教間の争いのみならず、アラブ人・ユダヤ人の民族間の争い、更には国を跨っての戦争にまで発展していく。そしてそれを利用して己の領土を拡張しようと企むものまで出てくる。

特に驚いたのは第二次大戦においてパレスチナ・ゲリラがドイツ軍と手を組んでいたことだ。確かに双方ユダヤ人を憎んでいたのだから利害は一致する。そして逆にイギリス軍がユダヤ人を利用して軍隊を組織しようとしていた事も今の今まで知らなかった。

これら歴史の暗部とも云うべきイスラエルとパレスチナの血を血で洗う暗闘の日々を詳らかにしていく。

本書の主人公とも云うべきアリ・ハサン・サラメは父親ハサン・サラメの遺志を継いでテロリストとなる。忘れてならないのは父サラメは元々貧困層の出身で彼が成り上がっていくために選んだ手段が暴力だったという事だ。これが発展途上国が抱える闇だろう。

私がいたフィリピンでも銃は簡単に手に入り、たった4,000円の報酬で人を殺す輩が大勢いる。

そんな事実に輪を掛けて驚くのはカリスマ性を持った指導者がいれば、アラブ人は国民全てが残虐の徒と化し、一般市民でも即席の兵士となってユダヤ人を殺すことを全く厭わないということだ。これは文化的な暮らしをしている欧米、日本では全く考えられない事だ。

彼らが憎むユダヤ人のバスが通りかかるとそれを襲撃し、平気で乗客や運転手を八つ裂きにするのだ。なんとも恐ろしい種族ではないか。
中東が危ない危ないと云われているが、それは犯罪者が蔓延っているのと、テロやクーデターのような事件がいきなり起こること、イスラム過激派がのさばっている事などを想像していたが、実は普通に歩いている人々が一瞬にしてみな人殺し集団と化すというのが危険の根源だと悟った。

そして彼らの民族は復讐こそが絶対だという倫理観に捉われているようだ。このほぼ1世紀にも渡る民族間の闘争で犠牲になった一般市民の多いこと。しかもこの闘争の火種は中東だけに留まらず、ヨーロッパまで飛び火し、無垢な命が数多く奪われた。
暴力には暴力を、という非文化的な行動原理、思想が何も生み出さないことをなかなか解らない。単なる動物的な闘争本能で彼らは行動しているだけに見える。唯一無二神という幻想に抱かれ、殺戮を繰り返す狂信的民族、そういう風にしか私には見えなかった。

本書で残念なところはイスラエルとパレスチナを始め、レバノンやエジプトなど中東諸国の当時テロに関わった人間が数多く登場するが、彼らムスリム系の名前はどれもが似たり寄ったりで、どちらがイスラエル側でどちらがパレスチナ側なのか混乱する事が多かった。恐らくムスリム系の名前にはさほどヴァリエーションがないのだろう。数多くのアブーやらムハンマドやらが敵味方の区別なく登場するので、非常に理解に困った。多分半分ほど誤解している部分があるだろう。

前世紀に中東で起こったシオニズム運動に端を発した民族間抗争を総括するのに本書は優れた書物であるといえよう。本書の末尾でも語られているように、第2の“血まみれ王子”は既に生まれている。
オサマ・ビンラディンという新たな恐怖の王にいかにして世界は対抗していくのか。いや、それだけではなく、なぜビンラディンを差し出す人間が現れないのか。
この本を読めばその理由がはっきりと解るだろう。世界の正義は必ずしも1つではないことが。

ミュンヘン―オリンピック・テロ事件の黒幕を追え (ハヤカワ文庫NF)
No.1018:
(4pt)

ルブランのSF

ルブランと云えばやはり怪盗紳士ルパンシリーズが最も有名だが、本書はノンシリーズ。しかもSF長編だ。

ある時突然発明家の研究室の壁に現れた3つの目のような三角円。まるで生身の目のように脈動するそれは歴史上の有名な出来事を映画のように映しだす。

この3つの目を巡って金儲けを企む輩が現れ、博士は殺害され、彼の代子の女性もさらわれてしまう。
この不思議な現象は博士の長年の太陽熱に関する研究の副産物でありながらも金を生む卵となりえたのだが、同時に悪党どもの群がる餌にもなってしまったことを考えると災いの種でしかないように思える。

この歴史上のシーンを再現する3つの目の正体はある若き技師の手によって暴かれる。
しかしこの荒唐無稽さも21世紀の今に照らし合わせてみるとあながち人智を超えた発想ではないことが分る。
こんな理論を1920年に想像していたルブランに驚愕せざるを得ない。そして本書が訳出された1987年当時でも本書の突飛な発想に読者や書評家は理解する頭を持っていなかったのではないだろうか?そんなことを考えると本書は実に早すぎた書なのだと云える。

本書の物語はこの3つの目を核にしてその秘密を乗っ取ろうとする悪党どもと発明した博士の代子である娘と主人公である東洋学者がせめぎ合う冒険活劇となっている。やはりルブランはルパンの手法をSFでも用いているのだ。

しかしだからいわゆる一般的なSFとはどこか味わいが違う。ルブラン作品には欠かせない主人公とヒロインの恋物語も盛り込まれており、それがバランスよく溶け合っていればいいのだが、どうもごった煮のような印象しか残らなかった。

この物語を語るにはどうしても奇異な3つの目に興味が行きがちだが、一方でその目が映し出す歴史上の出来事や過去の世紀に生きた人々の営みが実にリアルに、生き生きと活写されていることにも注目しておきたい。ルブランはSFの手法を用いて、歴史をリアルに映し出すことに挑戦しているのだ。

しかしドイルも数々のSF長短編を著しているが、ホームズシリーズに匹敵する人気を誇り、今なお読み継がれているルパンシリーズを著したルブランもまた同様にこのようなSF作品を残していたのは決して驚くべきことではないだろう。
しかしドイルのSF作品は未知なる存在との戦いや恐怖を描いた作品が多く、至極単純な構図であるのに対し、本書は上にも書いたようにルブランならではの創作手法を取り入れたことでもやもやとした読書感が残ってしまう。特に3つの目の謎を解き明かす手法として技師の研究論文という体裁で15ページも亘って説明しているのは小説としてのバランスの悪さを感じてしまう。

ルブランの描く物語は単純なジャンル小説に留まらず、恋あり冒険あり活劇ありと読者を愉しませる要素を惜しげもなく投入するところに魅力があるのだが、本書は逆にそれが仇になってしまったようだ。

しかし21世紀の今でこそ解るルブランの先見性も垣間見られ、なかなか捨て難い作品だ。


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三つの眼 (アルセーヌ・ルパン全集 (別巻 3))
モーリス・ルブラン三つの眼 についてのレビュー
No.1017:
(7pt)

意外と本格ミステリしてます

ローレンス・ブロックのシリーズ物は数あれど、アル中探偵マット・スカダーシリーズと泥棒バーニイ・ローデンバーシリーズこそが2大シリーズキャラクターと云えるだろう。本書は後者の第1作目だ。

まず驚くのはその軽快な筆致。とてもマット・スカダーシリーズと同じ作家が書いたとは思えないほど、軽妙でユニークだ。
特に絶妙なのは会話だ。突然話があらぬ方向に向かうバーニイと、彼を取り巻く人物たちのやり取りは洒落た漫才のようで実に面白い。しかもジョークを持ち味にするキャラクター―例えばネルソン・デミル作品のジョン・コーリー―にありがちな嫌味が全くなく、逆にバーニイの人柄の良さが滲み出てくる。

初登場作である本書でバーニイが出くわす事件とは、謎の小男からある部屋に忍び込んで革張りの小箱を盗んできてほしいという物だった。しかし仕事中になぜか巡回中の警察官が部屋に入ってき、しまいには家の主の死体がベッドに転がっていて、バーニイは危うく殺人犯にさせられそうになるという物。

バーニイの小気味良い会話はもちろんながら彼を取り巻く面々もなかなかに面白い。

まず何といってもいきなり潜伏中のバーニイの許に突如現れる美女ルース・ハイタワーことエリー・クリストファーが実にいい。
とにかく指名手配中で外出ができないバーニイの代わりに捜査を買って出て、しかも謎の依頼人探しにあらゆる方面から手を尽くして情報を手に入れる凄腕。しかし何かを隠してバーニイに協力しているところがあって、それが事件の真相に繋がっている。

またバーニイのへらず口として語られる彼の過去の失敗談や逃亡中に間借りする知り合いの俳優についての解説が巧みに事件の要素として関わってくるのは驚いた。単なるエピソードとして読み過ごしていると読者は何のことだっけ?と呆気に取られてしまうだろう。

これは謎の依頼人がハリウッド映画によく出てくる名もない脇役を務める俳優だったことも関係しているのかもしれない。
数ある映画を観ていて見過ごしがちな存在ながらも、ある人やある場面では特定の意味を持った存在となるというのは、この単なるエピソードも事件の重要な情報になり得る、つまり不要な物などはないのだということを暗示しているように私は感じた。

正直第1作目の本書は最初の導入部が実に面白かったせいもあり、途中バーニイが身動きとれずにいる辺りは中だるみを感じてしまったのは否めない。が、さりげない手がかりや伏線と云った意外に本格ミステリな趣向が凝らされており、最後の真相には感心してしまった。

陰鬱で重厚なマット・スカダーシリーズとは対極にあるような軽妙で洒脱なミステリ。この後のシリーズの展開が非常に愉しみ。
しかしなぜこれも現在絶版なのか?どうにかしてほしいものだ、早川書房。


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泥棒は選べない (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ローレンス・ブロック泥棒は選べない についてのレビュー
No.1016: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

法は我々を護るのか?それとも我々が法を守るのか?

人を殺すと云う事についてその意味を問う問題作だ。

ここでは二種類の殺人が描かれる。
1つは未成年の男性2人による、遊び半分で女性を襲い、クスリを打って強姦したはずみでの殺人。
もう1つは大事な愛娘を殺害された恨みを晴らすための殺人。
どちらも人を殺すことでは同じながらもその動機は全く以て異なる。

今まで数々のミステリが書かれる中で、数多く書かれた復讐のための殺人について、改めて実に遣る瀬無い理由によって殺人を犯そうとすることの意味を問う。

物語は長峰が菅野快児を探す物語と長峰を追う警察の捜査の模様、そして菅野にいいなりになって犯罪に加担した中井誠の3つの視点で語られる。

長峰のパートでアクセントとなって加わるのが丹沢和佳子という女性だ。長峰が菅野捜索の過程で滞在するペンションの経営者の娘だ。しかし彼女には最愛の息子を目を離した隙に公園の滑り台から転落させて亡くしたという位過去を持ち、その事故が原因で離婚をし、いまだに哀しみから抜け切れない日々を送っている。その彼女が長峰の協力者となり、一緒に菅野快児を探す手伝いをする。

この彼女の心情が実に上手い。同じ子供を亡くした親同士という共通点があり、片や事故で亡くしながら、その割り切れなさで蟠りを抱えて生きている。そこに娘を非人道的な所業によって殺害された男が犯人に復讐するという目的を持って現れる。それは彼女にとって長年抱えていた蟠りを別の形で晴らすことに繋がると見出したのだろう。
しかし殺人はよくないという理屈と感情のせめぎ合いの中で半ば衝動的に手を貸す、心の移り変わりが、決して明確な理屈で語られるわけではないのだが、行間から立ち上ってくるのだ。

尤も、彼女が長峰に協力しようと思ったのは実の息子を幼くして亡くしただけではない。彼女は長峰の娘が犯人に凌辱されるVTRを目の当たりにしたからこそ、ただ同情するだけではなく、何が正しいのか見つけるために行動したのだ。
そのことを父親へ告げる408ページの台詞を私はすっと読み流すことが出来ずにしばらく何度も噛みしめてしまった。

毎日報道される数々の事件。それらをただのニュースの一つとして捉えて、我々は時に関心を持ち、職場や家族で話題にしながらも数分後には次の話題に移っている。
それは無関心というわけでなく、事件そのものを深く知らないからゆえに他ならない。新聞でたった数行で語られる事件、TVのワイドショーで数分取り上げられる事件の中枢を知らないからこそ、毎日を平穏に過ごせるのかもしれない。

事件の本質を知らされると世間がどうなるのか?
本書では長峰の手紙が公開されて、世論は長峰擁護に傾くようになる。長峰の邪魔をするなと警察に多くの抗議の電話が鳴り響くようになる。

法治国家だからどんな理由であれ、殺人はよくない、こんなことを許せば秩序が無くなる。確かにそうだろう。
しかし犯人が我が子になした悪魔のような行為を見ると果たして誰もがそんな言葉を口にするのを躊躇うことだろう。

作中、長峰がこう述べる。「法律は人間の弱さを理解していない」と。秩序を守るために論を以て判断し、判定を下すのだ。人の命を奪うのではなく、罪を憎んで人を憎まず、更生させてその人の人生を変えるのだと。
しかし長峰が云うように残された遺族はそこまで大人になれない。人間が感情で生きる動物だからこそ、そんなに簡単に割り切れないのだ。

1+1は確かに2だろう。しかしその1はそれぞれ過ごした時間と関わった人によって込められた背景がある。だから人間関係とは1+1は2ではなく、3にでも5にでも、10でも100や1000にもなり得るのだ。

長峰は復讐を成就できるのか。
それとも菅野が先に警察に保護されるのか。

ただこんな二者択一のような単純な構図の物語においても東野圭吾氏はサプライズを忘れない。

長峰事件の後、辞職願を出して退職した久塚は最後にこう述べる。我々警察は市民を守っているのではなく、不完全な法律を守っているのだ、と。

これはまさに東野圭吾氏が持っている考えそのものではないだろうか。

それは殺人という行為についてこの頃の東野氏は色んなアプローチで語っていることからも推察される。

『手紙』では殺人を犯した兄が被る弟の人生について語り、『殺人の門』では折に触れ人生を狂わされる男がその張本人に殺意を抱き、その最後の境界線を越えるまでを描いた。そして本作では2種類の殺人が描かれる。

1つは家庭も持ち、仕事もありながら、周囲に迷惑をかけることを解りつつも亡き娘の為に敢えて殺人を犯そうとする男。

もう1つは自らの快楽の為に心が壊れるまで蹂躙し、寧ろ死ぬことで自らの犯罪が露見しないことを悦ぶ獣たち。

殺人と云う非人道的な行為を通じてこの2者が社会に下す裁きは全く異なる。前者は成人男性の為、刑法が適用され、後者は未成年ゆえにが少年法という保護下に置かれるからだ。

法によってその残虐な行為が軽減され、護られる者。法によって満足な裁きが成されず、最愛の者を亡くした哀しみを一生抱えなければならない者。そして法によって裁かれることで自身の復讐を重い刑罰で継ぐわなければならない者。

人は法の下では平等であるというが、何とも虚しい響きだと感じてしまう。このような胸に残る割り切れなさを表したのが久塚の言葉であり、東野氏の言葉のように思えるのだ。

最愛の娘を亡くした恨みを晴らすために犯人を追う。この私怨を晴らす物語はハリウッド映画などで山ほど書かれた物語だ。
しかし東野圭吾氏にかかるとこれが非常に考えさせられる物語に変わる。それは通常アクション映画のような活劇ではなく、復讐を誓う一介のサラリーマンとそれを取り巻く警察、犯人、協力者たちが我々市井のレベルでじっくり描かれるからだろう。
つまりアクション映画のようにどこか別の世界で起こっている物語ではなく、いつか我々の狭い世間でも起こり得る事件として描かれているから臨場感があるのだ。

自らの正義を成就すべきか、それとも復讐のための殺人は決して許される物ではないという世の道徳を採るべきか。物語の舵を取った時からどちらに落ち着いてもやりきれなさが残ると想像される物語の行く末を敢えて選び、そしてそれを見事に結末に繋げるという作家東野圭吾氏の技量は改めて並々ならぬ物ではないと痛感した。
このような「貴方ならどうしますか?」と問われ、ベストの答が決して出ない、論議を巻き起こす命題について敢えて挑むその姿勢は単にベストセラー作家であるという地位に甘んじていないからこそ、読者もついていくのだろう。

さて次はどのような問題を我々に突付け、彼ならではの答を見せてくれるのか。とにかく興味は尽きない。


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さまよう刃 (角川文庫)
東野圭吾さまよう刃 についてのレビュー
No.1015:
(7pt)

またもナチス絡み

本書のテーマはアメリカ大統領選挙戦である。
アメリカの石油不足と年々高騰する原油価格という負のスパイラルを打破すべく、OPECに軍事的介入を辞さないと主張する新進気鋭の議員とOPECと友好関係にある現副大統領との一騎打ちにOPECの議長がその地位の安泰とOPECの地歩を盤石にすべく、アメリカの石油会社の社長と共に新進の議員の失墜を画策するという政治的紛争を描いた作品だ。

そして本書でもナチスが関わってくる。特に本書ではOPECによる石油生産抑制にて価格高騰に苦しむアメリカを背景にした次期大統領選挙戦で次々と相手方のスキャンダルとお互いの政治的活動を引金した種々の事件を引き合いに足の引っ張り合いを繰り広げる精神の削り合いのような攻防と合わせて、かつての栄光を再びと再起を図るノンフィクションライターのクリント・クレイグが次回作の題材にとナチスの元帥ゲーリングの死と彼が指揮したファントム作戦なる、ドイツの各地に隠匿し、今なおその大半が見つからない略奪された欧州各国の財宝や美術品の行方を探る物語が並行して語られるが、クリントのゲーリングに関する取材の内容はこれだけで1冊のノンフィクションが物に出来るような実に深く、しかも面白い読み物となっているのが凄い。

さらにこのゲーリングの謎が本筋である怒涛の攻勢を見せる次期大統領候補の隠された過去に関わってくるのが実に心憎い。アメリカ大統領選挙とOPECとアメリカの争い、そこにナチスの昏い翳を投げかける。
バー=ゾウハーにとって果たしてナチスとはどれほど根深いテーマなのだろうか?

しかし1980年に発表された当時ではまだ第二次大戦がそれほど遠い過去ではなく、あの大戦で何らかの任務に携わった人々が当時それぞれの道で功を遂げている、または政界へ乗り出そうとしていること、つまり1980年現在と地続きであったことが知らされ、隔世の感を覚えてしまった。

バー=ゾウハー作品初期のソーンダースシリーズは少ないページ数の中でとにかく場面展開が目まぐるしく、危機また危機の連続で謎が明らかになるごとにさらに別の謎が深まり、実に複雑な事件の構図が最後になって明らかになるというスピード感と国際謀略の奥深さを思い知る内容だったが、本書ではそれらの作品の約1.5倍の分量がありながらも事件の構図は明確で、逆にその目的に向かってタイムリミットが迫るというサスペンスが盛り込まれている。しかも当時の石油問題やアラブ諸国の特異な勢力争いと思想、さらにゲーリングの自殺に纏わる数々のエピソードが盛り込まれ、単純な活劇ではなく、情報小説としての読み応えが実にある。

その中で最もなぜか忘れられないエピソードが本書で初めて知った男性のみならず女性にも割礼の儀式があるアラブの風習。男性のそれと比べて女性へのそれは永遠にオルガスムスへの歓びを剥奪し、姦通に走らないようにするためだと思われるが、しかしあまりに非人道的すぎる。

またOPECが蹴落とそうとする次期大統領候補の1人ジェファーソンがゲーリング殺害に関わっていた疑惑がじわりじわりと濃厚になっていくのが実にスリリングだ。
またジェファーソンの人物像が自信家であり、典型的なアメリカン・エリートの肖像を持っていることも、読者に共感を得るキャラクターとなっていないことで逆にクリントにジェファーソンが悪人であることを証明してほしいという思いにさせられる演出が上手い。それを決定づけるような342ページの1行もまた印象的だ。全くバー=ゾウハーの小説作劇は何とも読者の興趣をそそらされるのだ。

彼に加え、主人公のノンフィクション作家クリント・クレイグ、彼に偶然を装って近づきながら父親ジェファーソンの間者となりながらもクリントに惹かれるという複雑な立場に苦悩するジリアン・ホバースなど本書の数ある登場人物の中で最もミステリアスなのは敵役であるOPEC議長アリ・シャズリだ。OPEC議長と云う現在の地位を固執するために勢いのある次期大統領候補ジェファーソンを目の敵にして蹴落とそうとしながらも、OPEC内部の政治抗争に勝つための手段としてその作戦を利用し、更に目的が果たせないことが分るや、その懐の深さでジェファーソンを取り込み、煙に巻く。さらにアラブ人でありながら民族衣装を身に纏わず、高級スーツに袖を通し、常に身ぎれいに洗練された西洋人然として佇むその造形はどこか作者であるバー=ゾウハー自身を思わせる。

さてカタカナ名詞に二字熟語を重ねた題名はもはやこの頃のバー=ゾウハー作品の代名詞ともなっているが、本書のファントムとは第二次大戦中にナチスのゲーリング元帥が指揮した各国の財宝・美術品の隠匿作戦が<ファントム作戦>と呼ばれていたことに由来する。主人公のクリントが未だにその大半がその在処が不明となっているナチス時代の財宝・美術品の謎を探るノンフィクションを著すためにその痕跡を辿る、まさに邦題は作品のテーマを実に的確に表している。これは訳者の仕事を素直に褒めたい。


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ファントム謀略ルート (1982年) (ハヤカワ文庫―NV)
No.1014:
(4pt)

複雑すぎる真相に二度読み必至

1961年に発表された本書の舞台は1907年のイギリス。しかもHM卿やフェル博士と云ったシリーズ探偵が登場しないノンシリーズのミステリ。

物語の主人公、つまり探偵役はデイヴィッド・ガースと云う最近売り出し中の精神科医。さらに副業で覆面作家「ファントム」を名乗り、ミステリをシリーズで出版している。

そして彼と張り合うように捜査を担当するのはトウィッグ警部。ネチッこい尋問と勿体ぶったやり口が鼻につく嫌な警官だ。

物語の中心となる謎は2つ。1つはセルビー大佐の家政婦であるモンタギュー夫人の首を絞めていた女性は地下室に逃げ込み、いかにしてそこから脱出したのか?

もう1つは砂浜に囲まれた脱衣小屋で起きた殺人、しかし周囲には犯人と思しき足跡がなかったという物。

この2つの謎に関わる女性が本書のヒロインであるベティ・コールダーの姉であり、数ある男と浮名を流しては財産を略奪する悪女グリニス・スチュークリーだ。

まず引き潮の只中で周囲が濡れた砂浜に覆われた家の中で女性を殺した犯人は周囲に足跡を残さずにいかにして犯行を実行したのかという謎は『白い僧院の殺人』の変奏曲のように感じる。

犯人だけを見れば実にシンプルな事件だが、ただこの真相は実に複雑すぎる。

そして本書でなぜHM卿やフェル博士と云ったシリーズ探偵を使わずにデイヴィッド・ガースという精神科医を探偵役にしたのかは真相が明らかになって初めて分る。

しかし未読の方に注意していただきたいのは本書を読むにはある条件を満たしておく必要があることだ。

それはガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』を読んでいること。なぜなら本書ではその真相が詳らかに明かされているからだ。本書では『黄色い部屋~』の謎解きが真相解明に一役買っているように語られるためだが、正直ここまで他の作家の傑作と云われている作品の真相をここまで詳しく書く事はミステリの作法として正しいのかが甚だ疑問だ。

とにかく場面転換が唐突過ぎて戸惑う事しきりだ。行動していたかと思えばいきなり回想シーンに入って昔のことを語り出すし、会話をしていたと思えば、これまた突然の電話や来客で打ち切られ、結局何をしていたのかが分らなくなる。ストーリーを時系列的に追うのにかなり困難だった。

かてて加えて真相の複雑さ。これは二度読みが必要なのかもしれない。

今回なかなかハヤカワ・ミステリ文庫で復刊されないことに業を煮やして図書館に所蔵されていたポケミス版で読んでみたが、訳や仮名遣いが古く感じたので、カーの新訳出版が続く現在、今度はぜひとも新訳で読みたいものだ。


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引き潮の魔女 (1980年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ジョン・ディクスン・カー引き潮の魔女 についてのレビュー
No.1013: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

我々ウェブ感想者たちへの教訓の書

ディーヴァーのシリーズキャラクターと云えば、リンカーン・ライムだが、そのシリーズから派生した、相手の仕草や言動から嘘を見抜く、“人間噓発見器”、キネシクス分析の名手キャサリン・ダンスシリーズの第2作が本書。

このシリーズもライム作品同様、日本のミステリ読者に好評を以て受け入れられ、その年の『このミス』でも9位に選ばれた。

今回のテーマは年々過熱するSNSの書き込みに対する誹謗中傷だ。
ネット炎上という言葉が一般的になって久しいが、匿名性ゆえの舌に衣を着せない、読むに堪えない悪意の塊のような批判がその人の人生を狂わせることも珍しくなくなってきた。

本書でも2ちゃんねるを思わせるチルトン・レポートなるブログが数々のスレッドを立ち上げ、そこから不特定多数の人間が、ある人のご近所で起きた事件について自由気ままに語り、対象者を槍玉に挙げる。さらにそこから更なる中傷が生まれ、拡散していく。そんな騒動の渦中にいつの間にか担ぎ出された人は現実世界でも周囲から嫌がらせを受け、日々の生活に昏い翳を落とすようになる。

まさにネットが生んだ現代的なイジメだ。しかもその範囲が自分の居住圏という限られたコミュニティではなく、世界中に広がっていくのがこの上なく恐ろしい。

またディーヴァー作品に特有の薀蓄は今回も健在。特に『青き虚空』や『ソウル・コレクター』以来、ウェブ社会の現在を反映したような、電脳世界での犯罪を主題にしているが、今回もこの世界での新語について薀蓄が語られる。
ブログ日記を書く人々を“escribitionist”、ブログに書いたことがばれて会社を解雇されることを“dooce”、就職面接で以前の上司についてブログに書いたことがある云々を訊かれる事を“predoocing”と云ったりと様々だ。
しかし2009年に発表された本書で書かれたこれらの言葉が4年後の現代でも生きているかどうかは定かではないので使用については注意が必要なのだが。

また今回はさらに踏み込んでオンラインゲームの世界にもダンスは介入する。容疑者であるトラヴィスが現実の学校生活では冴えないオタクの青年だとみなされているが、ネットの世界、本作に登場するオンラインゲーム『ディメンション・クエスト』では神と呼ばれるほどの有名人であることが判明する。
昨今ではネトゲ廃人なる言語も生まれたように、日がな一日中ゲームの世界に浸って世俗との交流を絶つ者や、ウェブマネーを巡ってのトラブルなど、決してポジティヴに捉えられることのないオンラインゲームだが、ディーヴァーの筆致は決して否定的でなく、寧ろそういう世界の存在を認めている節がある。

しかしまさかゲームの登場人物の戦い方をキネシクスで判断して、性格を把握するとは思わなかったが。

このシリーズの前作『スリーピング・ドール』の感想に私は「物質のライム、精神のダンス」と2つのシリーズの特徴について述べたが、本書では図らずもそれを裏付ける記述があった。
ライムの鑑識能力は物証による推測であるが、ダンスのキネシクスは話す相手がいないと発揮できないのだ。ライムが人物よりも物証を最大に重視するのに対し、ダンスは人を、話す相手を最大に重視する。それぞれのシリーズの特徴が実によく表れている。

しかし前作でも思ったが“人間噓発見器”の異名を引っ提げて『ウォッチメイカー』で登場したダンスの前では誰もが嘘を付けないと思わされていたが、彼女のシリーズになるとなぜかその万能性が損なわれる。特に今回の事件の引き金となっているブログ、チルトン・レポートの主、ジェームズ・チルトンの前で説得を試みるも、逆に云いように操られて逆上するダンスがいて、思わず驚いてしまった。

特にこのシリーズではダンスの過去や生活に筆を割いており、それが逆にダンスを尋問の天才という偶像から、どこにでもいる再婚をどこかで願っている二児の母であることが強調されている。

つまりダンスも冷徹な人間ではなく、間違いもする人なのだということを再認識させてくれるのだ。

本書ではまたもう1つの事件が語られる。それは前作『スリーピング・ドール』の事件で殉職した刑事を安楽死させた容疑でダンスの母イーディが逮捕されるというものだ。この家族に起こった突然の災禍がロードサイド・クロス事件を追うキャサリンの人間性を揺るがす。

そう、今回のダンスはいつにも増して人間臭いのだ。マシーンのような敏腕ぶりを発揮するのではなく、素人にも見透かされ、切り返されるようなミスを犯す。

さらに未亡人である一人の女性として2人の男性に心を揺さぶられる。1人は長年仕事のパートナーとなってお互いを知り尽くしている保安官事務所刑事のマイケル・オニール、そしてもう1人は今回の事件をサポートするために捜査に協力することになったコンピューターの専門家であるカリフォルニア大学教授のジョン・ボーリング。
ダンスが女性であることが、2人の子供を抱えて働く女性であることが父親不在の不安に心惑わされて、それが捜査にも影響を与えていくようにもなる。

しかしライムが感情的になってさえも冷静な頭で数々の証拠物件から犯人を割り出すのに対し、ダンスは感情に突っ走るきらいがあり、それが時に冷静な判断を誤らせているのも確か。特に不意な一報に弱く、常に最悪のケースを想定し、心泡立たせて、焦燥感を駆り立てて、妙な先入観を抱いていらぬ心配をしたり、ヒステリックに怒鳴ったりする。

この辺のギャップに実に戸惑ってしまうのだ。
『ウォッチメイカー』の時の彼女とシリーズに登場する彼女にはその有能ぶりという面ではかなりの格差を感じる。シリーズではダンスは決して万能ではなく、キネシクスの専門家という看板を持ちながらも自身の振る舞いが相手に自分の感情を悟られないように自制しているわけでもなく、また妙な先入観で判断を鈍らせることも一度だけではない。その欠点を補うのが先述のオニールであり、TJやレイ・カラネオなのだ。

さてもはや専売特許ともなったどんでん返しだが、本書でもそれはあった。
最初にこの件を読んだ時は、どんでん返しを強烈にするためのあざとさを感じ、正直ガッカリしたが、読み進むにつれてその妥当性が理解でき、今ではまたもやディーヴァーにしてやられたという思いでいっぱいだ。

ディーヴァー作品の大黒柱的存在であるライムシリーズの犯罪が個人ではなく、もはや不特定多数を標的にしたテロ事件へと次第にスケールが大きくなっているのに対し、ダンスのこのシリーズはまだ2作目と云う事もあるせいか、1人の人間がある個人に対して行った犯罪と、限られた範囲での物語であることが同じ殺人事件を扱いながらも種類の異なる特色になるだろう。
恐らくダンスのシリーズも回を重ねるうちに殺人事件から無差別テロへ発展していくかもしれないが、そうであったとしても物証解析のライム、精神解析のダンスという区分けがある限り、その深みは増すに違いない。

さて今回はウェブ社会がもたらした誰もが情報発信者となり、評論家となり、またはご意見番となるこのご時世に起こる情報による冤罪や苛めについて手痛い警告が成されている。それは悪意をもって誹謗中傷し、騒動を煽るようなことをしてはならないという数億人のブロガーに対する警鐘であると同時に、個人の主観で語られるがゆえに記事を読む人々は決してそれを鵜呑みにせず、自分の頭で判断し、考えることが必要だということをも強く促している。
こうやって読んだ本の感想をウェブで挙げている我々も同じような過ちを犯さぬよう、感想を挙げる時は感情的にならずに、また他者の感想はあくまで参考程度に読むなど、気を付けていきたいものだ。


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ロードサイド・クロス
No.1012:
(4pt)

最後に臆したか!

上下巻合わせて1,600ページに亘って繰り広げられるあのテロの物語。重厚長大が売りの馳作品の中でもこれまでで最高の長さを誇る物語は新興宗教<真言の法>の栄華と狂乱を描く。
そんな物語は教団の№2の男が狂える教祖によって人生を狂わされる一部始終を、一介の、ただし凄腕である公安警察官児玉が<真言の法>を利用して警察権力の中枢へ迫っていく道のりを、そして高校を卒業してすぐに<真言の法>に入信した若者がある事件をきっかけに狂信者へ染まっていく、この3つの軸で進んでいく。

物語は3部で構成されている。

第一部は1989年にあった坂本弁護士一家殺害事件を想起させる教団を糾弾する弁護士一家殺害計画の一部始終、そして教祖の十文字源皇が選挙に立候補するまでが語られる。

第二部は欲望が肥大し、次第に制御が効かなくなる十文字を見限り、自分の保身を進める幸田と十文字との対立、そしてもはや狂気のテロ集団リーダーと化した十文字が太田を軸に武闘派集団を形成していく有様、そしてサリンが開発され、あの事件が発生するまでが語られる。

そして第三部はサリン撒布後の幸田、児玉、太田の末路までが語られる。

とこのようにこれはかつて世間を騒がせたオウム真理教の悪行を綴った小説の意匠を借りたノンフィクションと云ってもいいだろう。

その物語の語り手となる3人の男たち。

かつて有能な弁護士として鳴らしながらもある事件をきっかけに周囲からの総攻撃を食らい、十文字源皇と共謀して<真言の法>を創設し、教団お抱えの弁護士となりながら、私腹を肥やす№2に成り上がった幸田。

かつて中野学校を卒業した<サクラ>の一門であるノンキャリアの公安警察官児玉は警察上層部のくだらない出世競争の暗闘に巻き込まれ、その職を追われる。しかしそんなときにかつてのアカの弁護士としてマークしていた幸田を見つけ、<真言の法>が犯した殺人を目撃し、彼を金蔓に自分を嵌めた警察上層部とそれらと癒着している政治家と渡り合い、のし上がっていく。

幸田も児玉もそれぞれの組織でジョーカー、つまり周囲に疎まれながらも、その力が必要なために権威を持っているという立場であるが、2人の成り行きは異なっている。
幸田は組織で侍従長という№2の立場にありながら、教祖十文字との確執が広がり、次第に教団内での立場が危うくなっていくのに対し、児玉は警察の権力抗争の中で足切りを受けながらも、<真言の法>を金蔓にしてノンキャリアながら公安課の中枢部へとのし上がっていく。
どちらも大金を操っているのだが、その道行きは真逆なのだ。

幸田と児玉が<真言の法>をビジネスとして、そして自身の贅沢な生活を保つために利用しているのに対し、もう1つの物語の軸である太田慎平はいわゆる一人の社会不適合者が教祖を崇拝し、物事の道理から外れ、狂信者となってサイコパスへと至る話であるのが興味深い。あの事件を目の当たりにしていた我々にとって、何故胡散臭さしか感じない教祖に心酔して身も心も捧げたのかが常に疑問をしてあったが、太田慎平の話はそれを我々に解らせる1つのプロセスを示しているのだ。

そしてその太田は3つの軸の中で最も複雑なキャラクターだ。十文字の教義に入れ込み、十文字の言葉を信じながらも自分の手を血で濡らしていくことに苦悩し、それを好意を持っていた吉岡凛を喪うことで俗世への憎悪に変え、十文字の望むように行動する。しかしそれも児玉に全てを看破されていることを知らされるに当たり、今の過激な十文字の提案に反発し、幸田と組みながら十文字の出す殺人計画を阻止することを画策する。しかしそれもこれも教団を基の姿に戻すためだと信じ、十文字を裏切れないでいる。

狂信者になり、児玉によって蒙を開かれ、それでいて十文字を、<真言の法>を捨てきれない、そんなジレンマに惑わされる実に複雑なキャラクターだ。

しかしそんな3つの軸を担う三人はやがて一つの目的に向かって共闘する。教団を存続させるためにサリンによる大量虐殺を防ぐことだ。しかし目的は同じにしながらもそれぞれの思惑は違っている。
幸田は教団の金を自由に使える現在の地位を、生活を守るために。児玉は自分を嵌めた輩に復讐するため、その隠れ蓑として教団にお金を貢がせ、キャリアや政治家連中への自分の必要性を保つために。太田はかつて信じたグルと教団を取り戻すために。
それぞれがそれぞれの思惑を嘲笑し、罵倒し、唾棄しながらもサリン阻止へと向かっていく。

そんな3人の思惑を上回るのが教祖十文字源皇の力だ。絶大なるカリスマ性を誇る彼は幸田、太田、児玉らの仕掛けた阻止工作を都度乗り越え、その心を掌握していく。それは戦時下の特高警察が暗躍した日本、第二次大戦下のナチスが横行するドイツの縮図だ。
これがつい先ごろの平成の世に起きていたことに驚愕を覚える。

そしてやはり同時代を生きてきた私にとって、ここに書かれているオウム真理教に纏わる事件の数々がフラッシュバックして脳裏に甦り、いつもよりも臨場感を持って物語に没入できた。

この狂気のテロ集団の物語はあまりに有名になったオウム真理教がモデルになっているが、もしかしたら今ここでさえ、第2のオウム真理教が生まれている可能性がある。
この物語は一介の新興宗教がテロ集団になっていくプロセスを語ることで、我々にこのように人間は操作され洗脳されていくのだということを眼前に示し、警告を促しているようにも思えるのだ。

馳氏が本書を著した目的は<真言の法>という新興宗教団体を通じて一連のオウム真理教事件を緻密に描き出そうとしていることなのだが、少々解せないのは微妙に事実と異なる点があることだ。

特に物語の始まりが実在の呼称を避けつつも、実在の新興宗教、企業や当時の政治家のスキャンダルを擬えているだけに、後半の実際の事件との微妙なずれが作品の方向性をぶれさせてしまったようだ。
こんなことならいっそノンフィクションを書いた方が良かったような気がする。

これほど読書に費やした時間を浪費したと痛感させられたのは久々である。もっとコストと時間に見合ったパフォーマンスを作者は提供すべきである。全く以て残念だ。


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煉獄の使徒 上 (角川文庫)
馳星周煉獄の使徒 についてのレビュー
No.1011:
(7pt)

冬の寒さにぬくもりを求める男女の機微

アル中の無免許探偵マット・スカダーシリーズ第2作。殺された娼婦と警官の悪行を検察官に売ろうとした悪徳警官のために警官たちの反感を買いながら真相を探る。

誰もが憎む相手の無実を証明しようと奮闘する探偵と云えば、最近ではドン・ウィンズロウの『紳士の黙約』が思い浮かぶ。しかし本書では同書よりも四面楚歌ではない。
ウィンズロウ作品では主人公の許を仲間が一旦離れ、しかも親友が敵となる絶妙な設定だったが、本書では嫌われているのは依頼者であり、主人公ではないため、それほど阻害されているような印象は受けない。

ただとにかくこの本を読むのが今の私には実にマッチしていた。色んな人に捜査を辞めるよう諭されながらも真実を知りたいという一心で妨害に抗い捜査を進めるマットの心情が今の私の心情に重なったのだ。周囲に理解されずとも己の信ずる道を歩むスカダーの姿に今の私を写したように感じた。

またマットが依頼人ブロードフィールドの妻ダイアナと逢瀬を重ねるのが実に興味深い。恋とか愛とかを期待することの無くなった男が一時の迷いから留置場に夫を入れられ、怯える女性にほだされてしまう。それはお互いが孤独を怖れたからだ。
マットは長い孤独に嫌気が差しており、ダイアナは子供を抱えてこれからどうすればいいのか不安に駆られている。そんな状況で生まれた恋情はしかしマットに余計な犠牲者を増やすという過ちを犯させてしまう。酒に溺れるだけでなく、今回は女に溺れることで有力な手がかりを持つであろう男を喪うマットはこのように有能でないからこそ、実存性をリアルに感じさせる。

さらにマットが娼婦エレインと今のような関係になった経緯についても語られている。
元警官が娼婦と懇意になる、このことは確かに悪意ある取引を連想させるが、この2人はそんな下世話な部分とはかけ離れた、純粋に人間同士の付き合いという美しさと潔さを感じていたが、やはりそうだった。
時に一人の客とその相手として、時にそれぞれ一人の男と女として、そして時に友人同士として協力し合う関係。彼ら2人の関係はことさらドラマチックな化学反応があったわけではないのだが、それが逆に私達読者が持つ人間関係の始まりと実に似通っていて、腑に落ちるのだった。

真相と真犯人は実に意外だ。というよりもこの真相を読者は当てることが出来ないのではないか。それほどそぐわないように感じた。

今回はこの素晴らしい邦題を褒めたい。この物語にはこの題名しかないとしか思えない絶妙な仕事だ。
原題は“In The Midst Of Death”、『死の真っただ中に』とでもなるだろうか。これが“Deaths”と複数形ならば今回出てくる3つの死人の中心にある物という意味になるのだろうが、恐らくはそれが正解なのだろう。しかしやはり本書では冒頭マットと出逢い、すぐに死んでいくポーシャ・カーが印象的だからだ。1章の最後でふとこぼれる台詞が非常に強く印象に残るからだ。そしてマットもまた冬を怖れる理由を探る。この実に詩的な謎が本書に深みをもたらしている。

短いながらもこんな風に大人の心の機微を考えさせられる作品だ。そしていまだに私は彼女が怖れた冬とは何だったのかと考えに耽っている。


▼以下、ネタバレ感想
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冬を怖れた女 (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック冬を怖れた女 についてのレビュー
No.1010: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

カーマニア度が試される1作

本書の謎は2つ。
まずは犯罪方法としての物だ。それは衆人環視下における凶器のすり替えはいかにして成されたか?

もう1つは催眠術下にある人物は殺人を教唆されたら術者の云う通りに実行するのかという物だ。

まずは後者の謎は本編を彩るガジェットとして使われている。催眠術といういかがわしい代物に懐疑的な人々はその存在をなかなか認めようとはしない。それでは百聞は一見にしかず(なおこれが本書の原題となっている)とばかりに実演してみせることになる。

その内容は催眠術で人に殺人を犯させることは可能かと云うかなり過激な物だ。現代ではそれは不可能とされているが、それと悟られないように指示することで殺人も自殺も可能とされている(宮部みゆきの『魔術はささやく』がそんな話だった)。

カーが巧みなのは、この前段に夫が浮気の末に若い娘を殺害したことを妻が知らされていることが冒頭で読者に知らされていることだ。果たして不貞を働いた夫を妻は許せるのかと云うバックグラウンドを盛り込んで、この催眠術による殺人教唆のスリルを盛り立てている。

その設定から一転、明らかに人を殺せない凶器がいつの間に本物にすり替わって、被験者が皆の目の前で殺人を犯してしまうというショッキングな謎にすり替わるのだ。この辺の謎から謎への移り変わりの巧みさはまさにカーならではだろう。

さて本書のメインとなるこの不可能犯罪、一室に集められた人々の目の前に置いてある凶器がすり替えられたという謎だが、殺人の目撃者が一様に凶器が目の前にあり、誰もそれに触れた者はいないと証言しているとさらに不可能性を強化させていく。そんな実にシンプルかつ難しい謎にどんなトリックがあるのかと実に興味深く読んだ。

そして本書の原題“Seeing Is Believing”は邦訳では前述のとおり、「百聞は一見にしかず」という意味だが、本来ならば最後に“?”が付くことが本書における意味を最も示しているように思う。
見ていることが必ずしも真実ではないのだと、カーは本書に仕掛けられたミスディレクションの数々で示しているように思えてならない。

さてこのシリーズではいつもH・M卿の奇妙な振る舞いがアクセントとしてユーモアを醸し出しているが、本書では口述による自叙伝の内容が実に面白かった。いつもながらH・M卿のドタバタぶりには笑わせてもらえるが、本書も幼年時代の破天荒ぶりには心底笑わせてもらった。
H・M卿を描くカーの筆はいつも躍動感があって実に楽しい。

こんなに楽しい名探偵が活躍する作品群が、そしてこんな本格ミステリの巨匠の作品が数多く絶版だった状況は非常に好ましくない。
カー作品を後世に伝えるためにも今後の永続的な新訳・復刊を望みたい。


▼以下、ネタバレ感想
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殺人者と恐喝者 (創元推理文庫)
カーター・ディクスン殺人者と恐喝者 についてのレビュー
No.1009:
(7pt)

テロリストたちの疑似家族ドラマ

本書は一種変わったクライム小説だ。救急救命士という真っ当な職業に就く人物が主人公であると変化球を見せれば、新宿に蔓延る中国マフィア連中によって翻弄されるいつものパターンもある。そして最後には都知事爆破を企むというクライムノヴェルの様相を呈していく。

しかし根っこにあるのは家族を喪った心に獣を飼う男と貧しくも逞しく生きる、東京に親を剥奪された子供達との適わなかった幸せだ。

この救急救命士の織田と云う主人公は暗黒小説の雄である馳氏の作品とは思えないほど、クリーンだ。昔消防士だった頃に地下鉄サリン事件で妻と子を亡くしたという苦い過去を持つ男だ。

彼は今までの馳作品の主人公のようにドス黒い憎悪の塊や業深き欲望のような負の要素を持たない男でもある。未成年で、しかも日本国籍のないファッションヘルスで働く儚げな美少女笑加を前にしても性的欲求が頭をもたげずに通常通り振舞う。
こんな普通な主人公は初めてではないだろうか?

しかしそこは馳氏。作風転換と見せかけてやはり織田は他の馳作品のようにドス黒い感情を孕んだ人物であることが明かされる。
地下鉄サリン事件を契機に日常がいかに危ういバランスの上で成り立っているかを思い知り、疑心暗鬼に陥り、自分の身を守るために武器をまとうようになった。
殺る前に殺る。心に獣を飼いながらそれを押し隠して救命士の職を務めていたが、笑加たちとの出逢いで彼らの不遇とこの世の理不尽さに、鎖で繋いでいた獣を解き放とうとする経過が刻々と語られる。

とはいえ、この織田の情念は今までの主人公たちに比べれば常識人でもあり、我々一般人が一種理解し難い狂気ではないことが特徴的だ。
云いたいことが云えない世の中で誰もが抱えるストレスに近い物を感じ、織田がいつキレるのかを待ち受ける読者はどこか自分を重ねて見ることが出来るようなキャラクターのように思える。

その証拠に織田は道を踏み外そうと決意し、中国人の暗黒街のボス李威の下で犯罪に手を染める手助けをさせられるが、自分がどんな犯罪に加担しているのか知ろうとし、また李威によって利用され食い物にされる人々と接するごとに罪悪感に苛まれる。なかなか悪の道に踏み入ることが出来ない善人なのだ。
これも馳作品では異色のキャラクターと云えよう。

特に織田の人生が破綻していく動機が他者のためであるのが特徴的だ。
今までの馳作品の主人公は己のエゴや黒い欲望のために他人を出し抜き、一攫千金を夢見て、のし上がる、もしくは理想の楽園へ逃れようと実に利己的な動機だったのに対し、織田は親を祖国へ強制送還され、自分たちだけの力で生きていかざるをえなかった明たち不法就労者の残留児たちの生活を守るために、悪事に手を染め、安定した救急救命士という職を擲ち、窮地に陥っていくのだ。
彼が求めたのはかつて持っていた家庭と云う温もりと長きに亘った孤独への別離。明や笑加を筆頭にしたたかにも逞しく生きる子供らとの生活が長く続くことを願ってやまなかったことだ。

従って本書ではそれら壊れやすい貴重な宝石のような物が次第に失われていくような儚さがある。危ういバランスの上で成り立っていた疑似家族と云う幸せという薄氷、その象徴が再生不良性貧血という重病で弱っていく笑加の存在だ。

たった15歳で風俗に身を落とし、生活費の大半を稼いで彼らを養っている母親役の少女。しかしそんな気丈なところがあるようには思えないほどその存在感は儚げなのだ。
彼女の容態の推移が本書の抗えずに向かう悲劇へのカウントダウンとなっている。

さらに文体もまたかつての馳作品とは全く違う。抑制の効いた文章で新宿界隈の忌まわしい事件を語る。その抑えた筆致が逆に新宿の荒廃感を醸し出している。
そこにはラップのようなリズムもなく、刻むような体言止めも存在しない。淡々と事実を、風景を、織田の心情を語る文章があるだけだ。

そしてさらには呪詛の羅列のような唾棄すべき内容の文章だったのが、ここでは織田と笑加、明たち少年たちの交流を瑞々しく描いている点だ。
彼らは生き抜くために犯罪に手を染め、大人を出し抜き、更には自分たちの不遇を呪って都庁爆破と云うテロを企てているという、いわばとんでもないアウトローの集団なのだが、実の素顔は日々不安を抱えて生きている少年少女であり、それが子供と妻を地下鉄サリン事件で亡くした織田にとっては何物にも代えがたい宝石となっているのだ。

その心温まる交流が随所に挿入され、テロを計画するという陰謀とは裏腹に家族愛を感じさせるのが皮肉だ。

まさにこれは馳流大家族ドラマとも云えよう。

そしてその家族愛と双璧を成すのが新宿都庁爆破と云うテロ計画だ。

本書では新宿都庁のセキュリティの甘さが衝撃的に描かれている。展望室へ至るエレヴェーターが実は全ての階に停まり、容易に各階へ侵入できることが書かれている。そしてこれが地下鉄サリン事件を経験し、アメリカの9・11を目の当たりにした国の中枢のセキュリティなのかと警告を発している。

私が件の場所を訪れたのは2011年だったが、その時は本書のような状態ではなく、エレヴェーターにはきちんと案内人が乗っていたように記憶しているが、もしかしたら本書がきっかけで改善されたのかもしれない。

つまり本書は日本のセキュリティの甘さを痛烈に批判する警告の書という側面もあるのだ。

また地下鉄サリン事件という未曽有の都市型テロで家族を喪った織田が、明たちと共に都庁爆破と云うテロに手を染めていくとはなんと皮肉なことだろうか。

テロの仇はテロで返す、そんな不毛な原理主義が実に虚しく響く。

これは家族を守ろうとする一人の男の愛の強さを描いた物語だ。しかし馳氏の手に掛るとその愛の強さはテロをも生むのだ。安定した生活を擲って家族のために犯罪に手を染めていく不器用で愚直な織田に、どこか昭和の男の香りを感じてしまった。

9・11倶楽部 (文春文庫)
馳星周9・11倶楽部 についてのレビュー
No.1008:
(10pt)

耐える男たちの物語

かつて書評家諸氏より涙なくしては読めないと云われた冒険小説の傑作が本書。アリステア・マクリーンの代表作にしてデビュー作でもある。

ここにあるのは極限状態に置かれた人々の群像劇。筆舌に尽くしがたいほどの自然の猛威と狡猾なまでに船団を削り取るドイツ軍のUボートとの戦いもさながら、それによって苦渋の決断を迫られる人々の人間ドラマの集積なのだ。

総勢25名にも上る登場人物一覧表の面々についてマクリーンはそれぞれにドラマを持たせ、性格付けをしている。

故郷で待つ家族を爆撃で喪った上に、同じユリシーズ号で従業員として働いていた弟を喪った者。

社会の低層部でケチな犯罪者として生きてきた過去があり、艦長に叛乱を企てようとする不満分子。

自分の力不足に気付かず、そのプライドの高さと逸る功名心ゆえに部下の命よりも手柄を立てることを至上として部下の反感を買い、任務後に審問を掛けられ、降格を余儀なくされた者。

自分のミスで艦体のみならず乗組員を多数死なせて自責の念から自殺する者。

死と隣り合わせの場所でもはや正常な心を保つことさえ困難になり、ロボットのように索敵のために海をひたすら凝視する者。

自分の職責の重圧に耐えきれず、任務半ばで自我を喪失する者。

それら数多く語られる各登場人物の痛切なエピソードの中でとりわけ強烈な印象を残すのは一介の水雷兵ラルストンだ。

先の任務でユリシーズ号に同乗していた弟を亡くし、更には故郷に遺した母親と妹を空襲で亡くし、唯一残された父親を、自らの手で葬ることになる男。物語半ば過ぎで訪れる輸送船団の1つヴァイチュラ号の撃墜を躊躇う理由が明かされた時の衝撃は今まで読書歴の中でも胸にずっしりと圧し掛かるほど重いものだった。

また彼らの敵は当時最強と云われたUボートを率いるドイツ軍だけではない。それは自然だ。

北極海を航行する戦艦にとってその極寒の環境は生きることさえ困難であると云わざるを得ないほど過酷を極めている。

いつの間にか甲板に降り積もる氷。それは乗組員の足元を滑らせるだけでなく、戦艦たちに多大なる重量を与え、艦体にきしみを与え、航行のバランスをも崩す。除去しても除去しても上からのみならず、下方から乗り上げてくる荒波もまた氷の素となるため、乗組員は勝ち目のないレースを強いられる。

さらに風の驚異も凄まじい。氷点下の温度で空気中の水分が凍りついた海上では風は乗組員の肌を切り裂く刃と化す。そして強風は大波を起こさせ、右へ左へ薙ぎ倒すかのように揺さぶり、強固な鉄皮を軋ませ、疲労させる。もちろん中にいる人々は我々の想像を超えた船酔いの餌食となるのだ。

そんな苦難を乗り越えた乗組員を襲うのはドイツ軍の猛襲だ。コンドルという戦闘機が昼夜の境なく空爆を行い、船団はその勢力を削られていく。ユリシーズもさらに深手を負い、その船体に敵機をめり込ませた状態で航行を続ける。

そして彼らの一縷の望みを絶望に変えるのが無敵と呼ばれた当時世界最強の戦艦ティルピッツの影だ。この容赦なき敵の出陣の情報にもしかし、英国軍は援軍を送らない。
そんな四面楚歌状態で作者はユリシーズ号の属するFR77船団をどんどん過酷な状況に追い込んでいく。

とにかく過酷な状況の連続だ。
疲労困憊、満身創痍の船員たちに対し作者は徹底的なまでに嬲るかのように苦難を与える。そして惨たらしいまでの精緻極まる描写が拍車を掛ける。特に200ページ目前後で実に6ページに亘って描写される爆撃によって撃沈した空母から、流出し引火した油の混じる海へ投げ出された船員たちの死に様の凄惨さは、なんとも云いようがない苛烈さに富み、絶句するのみであった。

そして満身創痍なのは船員たちのみではない。巡洋艦ユリシーズ号もまた度重なる極寒の地の風雪に曝され、また相次ぐドイツ軍の急襲に遭い、その姿を変形させていく。
艦の姿が朽ちていくたびにまた船員たちも1人また1人と命を失くし、また五体満足ではなくなっていく。ユリシーズ号の姿はそれを操る乗組員たちの姿のメタファーとも云える。

そしてもはや航行すら危うい姿になりながらもユリシーズ号は任務を遂行せんと突き進む。出発時から既に病に侵された身でありながら任務に向かうヴァレリー船長はすなわちユリシーズ号そのものと云っていいだろう。手負いの虎の如く、最終目的地ムルマンスクに向け、突き進む。さながらそれは自分の相応しい死に場所である墓場に向かう巨象のようだ。

正直このような物語の結末は開巻した時から読者にはもう解っているようなものである。とりわけ精緻を極めた実に印象的なイラストが施された表紙画が饒舌に先行きを物語っている。しかしその来たるべき結末に至るまでの道行きが実に読み応えがあるのだ。

例えば本書に使われている単語には技術者の専門用語が多用されているのが特徴的なのだが、このマクリーン自身が巡洋艦にて勤務した経験の裏付けによるものだ。

更に過去の英国艦隊に纏わるエピソードと事実を交えることで、ユリシーズ号が、FR77艦隊がいかに不遇な状況であったのかを如実に知らせてくれる。

しかしそれらにも増して魅力的だったのはユリシーズ号、その他FR77船団の面々が見事に活写されていることだ。
上述のように極上の群像劇を実現した作者の経験に裏打ちされた乗組員の描写や性格付けは実に忘れがたい印象を残す。730名が住まうユリシーズ号という小社会にいるのは老いも若きも皆むくつけき船乗りたちであるが、その性格は十人十色。そのことについては既に上に書いているので重複を避けるが、特段煽情的な筆致でもないのにやたらと印象に残る輩が多く、彼らが1人また1人と去りゆくにつれて目頭が熱くなるのを抑えられなかった。

涙が無しでは読めぬとまではいかないまでも目頭は熱くなるであろう本書は確かに傑作であった。
海洋冒険物だから、戦争物だからと苦手意識で本書を手に取らないのではなく、昔の男どもの生き様と死に様を存分に描いたこの物語にぜひ触れてみてほしい。

女王陛下のユリシーズ号 (ハヤカワ文庫 NV (7))
No.1007:
(7pt)

映画を先に観る方がよい

19世紀末から20世紀初頭にかけて一世を風靡した二大奇術師の対決の物語。
しかしそこはプリースト、単純な話にはならず、得体のしれない双子の存在が物語の物陰から見え隠れする。それはまたプリースト特有の、自身の存在、そして住まう世界が揺らぐ感覚でもある。

今回は死んだと思われていた子供が成人して生きていた。さらには世界のどこかにまだ見ぬ双子の兄弟がいるという感覚に付き纏われるという、どこが地に足がつかない感覚が物語を包み込む。

更には稀代の奇術師たちが挑んだ瞬間移動奇術の謎とその因縁が主人公たち2人の男女の現在に纏わるという重層的な構造を持っている。

しかし物語の大半を占めるのはこの2人の奇術師アルフレッド・ボーデンが生前遺した自伝とルパート・エンジャの日記という手記だ。その中心にあるのはそれぞれが発案した瞬間移動奇術の正体だ。

アルフレッドの「新・瞬間移動」は完璧な奇術であり、まずはルパートがその謎を探るべく、彼の許に自分の愛する女性を助手として送り込む。しかしアルフレッド側に寝返った助手の女性から偽の情報を渡されたルパートはそこに書かれたアメリカの発明家ニコラ・テスラの許を訪れ、アルフレッドから全く違う方法で瞬間移動奇術「閃光の中で」を編み出す。

ここからがファンタジーの領域になっていく。

そしてそこから物語は双子、いや二通りのもう一人の自分の存在について語られる。

瞬間移動奇術の謎を解く話がいつの間にか一人の人物の存在というものへの疑問へと変わっていく。

瞬間移動奇術を通じてアルフレッド・ボーデン、ルパート・エンジャという名前を持つ存在は一人の男だけの物なのかを問う物語、というのは大袈裟な表現だろうか。

さらに物語は混迷を極めていく。それはプリースト独特の語り口故に。
語り手は「わたし」という一人称叙述に変わり、これがどの「わたし」を指しているのか解らなくなってくる。さらにはこの「わたし」は自分の死を語り、生者なのか死者なのかも不透明になっていく。

ここで思うのは名前という物の重要性だ。しかし名前という確定要素さえもプリーストにかかれば存在意義を揺るがすものとして扱う。

貴方の名前は誰の物?本当に貴方だけの物だろうか?
貴方の名前を名乗って貴方の人生を生きる存在がいる、などという人は皆無に等しいだろうが、同姓同名の人と出逢って、妙な違和感を抱いた経験がある人はいるだろう。その時に感じる自分の名前を横取りされたような感覚。本書のテーマはその違和感が肥大した物なのかもしれない。

なぜこのように感じるのか?
それは2人の奇術師の手記で構成された内容でさえ、作中の登場人物によって改竄させられたものだからだ。

そして驚愕の真相が明かされるのは最終章。

正直この真相は分かりにくい。なぜなら上に書いたようにこの顛末を語るのは誰なのか解らない「わたし」だからだ。
この私はルパートなのか、それともアンドルーなのか最後まで解らないからだ。
プリーストの、存在という基盤が揺らぐ書き方はさらに曖昧になってきている。読者もその理解力を試される作家だと云えよう。
二度目に読むとき、違和感を覚えた記述の意味が解る、二度愉しめる作品の書き手でもある。
しかしこれほど頭を揺さぶられる読書も久しぶりだ。次は読みやすい本でも手にしよう。

後日、本書を原作にした映画『プレステージ』を観たが、複雑なストーリーが換骨奪胎されており、実に解りやすく、かつ傑作だった。本書の場合は最初に映画を観てから読むことをお勧めする。

▼以下、ネタバレ感想
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