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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数201

全201件 81~100 5/11ページ

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No.121:
(8pt)

隠れた名品集

澤木喬という作家がいる。この作家が現在著している作品はこの『いざ言問はむ都鳥』という1990年に出版した4編の短編を収めた短編集1作のみ。しかしこの短編集、一読忘れがたい印象を残す。

本書の主役は分類学者、沢木敬。とある大学の植物学科の平井主任教授の下で助手として働いている。平井教授の周囲には同じく助手の樋口陽一、博士課程の院生で平井教授の研究室に所属しているマドンナ梅咲久美子がおり、この4人が物語の中心となっている。

それぞれの短編で提示される謎とは一見なんともないようなものだ。

まず表題作はご近所の宮本さんの庭に咲いていた季節はずれの都忘れの花びらがなぜ点々と落ちていたのかという謎。

次の「ゆく水にかずかくよりもはかなきは」では沢木の意外な趣味が明かされる。彼はアマチュア・オーケストラに所属しており、そこでヴァイオリンを弾いている。ここでの謎は彼が遭遇した釣り人はなぜ駅の券売機でひたすら子供用の切符をいくつも買い続けるのか。

「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」では平井教授の講座、生態学講座のアイドルお桂ちゃんこと、篠崎桂子の部屋で起きた小火の謎。

最後の「むすびし水のこほれるを」では梅さんこと梅咲久美子が見た死んだはずの猫が再び生きて歩いているのを見たという謎に沢木のコンサートにいつも来ている矢部という学生がなぜコンサートもないのに花束を買っていたのか、そして沢木のオーケストラ仲間の宮本さんがなぜヤブツバキをサザンカだと強調して平井教授宅から苗木を貰ったのかという複数の小さな謎。

こうやって紹介すると一見「日常の謎」系の短編集だと思うだろう。そのジャンルの仕掛け人である東京創元社から出版されているから尚更だ。

しかし本書はそうではない。人の死が、犯罪が介在するミステリなのだ。

沢木敬が語り手となって進む物語は、上に書いた平井教授とその仲間達の日常風景と大学の学生達のエピソードと沢木の植物に関する薀蓄などが上手く絡み合って実にほのぼのしたタッチで語られる。その話に挟まれる小さな事件、もしくは事件とはいえない、ちょっと変わった出来事の裏に隠された真相は実に魂の冷えるような手触りをもっている。

これらストーリーの牧歌的雰囲気と予想もしていなかった陰鬱さを含んだ暗い真相のギャップが各編に強烈な印象を残していく。この落差はかなり強力で思わず驚愕の声が漏れそうになった。

またそれらの真相を看破するのは実は沢木ではない。彼の友人樋口なのだ。

このように悉くこちらの予想をいい意味で裏切る構成からして一筋縄でいかない作品だというのが解るだろう。

解説の巽昌章氏が一番冒頭に語っているように、このたった220ページ強の短編集に込められた時間は実に濃密だ。

なぜこれほどまでに濃密なのだろうか?
本書の構成は沢木敬が春に経験し、またその翌年の春にいたるまでの1年間での出来事を綴ったもの。作中、沢木が云うように確かに1人の人間が1年の間でこれほど人の生死に関る事件に遭遇するのはおかしいと思えるだろう。

しかしそれ故に濃密だとは私は思わない。私は本書で語られる沢木の日常が実に自分達の生活空間に似ているが故に隠された犯罪が樋口の口から明かされた瞬間、実にリアルに感じられてしまうのだ。
つまり我々の平凡な日常生活にもいつ負の変化が訪れてもおかしくないと思わされてしまうのだ。このことが読者に登場人物に流れる時間を追体験させ、我が身になぞらえることで濃密に感じられる、私はそんな風に思うのである。

さてここで各編の題名に使われている和歌について言及してみたい。

まず表題作は在原業平の有名な短歌、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」から取られている。この短歌の意味は「その名の通りならば問いかけよう、都鳥よ。都に住む私の想い人は今どうしているのか、と」という物。
これは恐らく落ちた花びらが恋占いを予想させるところから来ているのではないだろうか?そう考えると実は題名それ自体がミスディレクションだと云えるだろう。

次の「ゆく水にかずかくよりもはかなきは」は古今和歌集の詠み人知らずの歌「ゆく水にかずかくよりもはかなきはおもはぬ人を思ふなりけり」から。この意味は「流れいく水に数字を書いても書く先から消えていく。それでももっと儚い物は、自分へ振り向いてくれない人をひそかに思うことなのだ」というもの。
これは恋患いの歌なのだが、本編の真相を考えると題名に引用された部分のみを取り出して考えるのが妥当だろう。

「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」は山上憶良の「世の中を憂しと恥しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」からの引用。「世の中を嫌な所、身が細るような耐え難い所だと思っても、鳥のように飛んで逃げ去ることなど適わないのだから」と現状を受け入れ、頑張っていくしかないと詠っている。
これはまさにその物ズバリ。小火事件から推理される驚愕の真相に対するある家族へ向けての励ましの言葉か。

最後の「むすびし水のこほれるを」は紀貫之の「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」から。「立春の日の今日の風は、袖を浸して掬ったあの水が凍っているのを融かすのだろうか」という意味。
これもまさに沢木が経験したこの一年に身の回りに起きた様々な災禍で変わってしまった周囲の人々の状況を春が来ることでいくらか元通りになるのだろうかという沢木の思いが反映されているように思う。

各編は40~80ページといった分量だが、実は謎とそれへの推理に関するページ数は実に少ない。それ以外は沢木の日常や彼の身の回りのことを語ったエピソードと植物に関する知識などに割かれている。
しかしこれらの謎とは関係のない話は決して無駄ではなく、実はそれらに謎を解き明かす手掛かりが散りばめられているのだ。
しかしこれらの描写や情報を謎への推理の材料として活用するのは読者には困難だろう。本書では作者が見せる謎解きの手捌きの美しさに見惚れれば(読み惚れれば?)いいのだ。

久々に誰かに紹介したい作品に出逢った。冒頭にも書いたように作者澤木喬氏が発表した作品はこのたった1冊だけ。恐らく作者の名もこの作品の存在すらも知らないミステリファンもいることだろう。ぜひとも多くの読んでもらいたい。現在絶版状態であること自体、勿体無い。

再び書店の棚に陳列されるためにも適わぬことかもしれないが澤木氏には20数年ぶりに新作を発表してもらいたいものだ。


▼以下、ネタバレ感想
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いざ言問はむ都鳥 (創元推理文庫)
澤木喬いざ言問はむ都鳥 についてのレビュー
No.120:
(8pt)

もう凄すぎて何が何だか

奇想と民族対立という社会的問題のコラボレーション。
本書を読む際、本格ミステリか民族問題提起の社会派小説か、どちらかに比重を置くことで評価も変わってくるだろう。

本書は大きく分けて3つの構成で成り立っている。
まず表題作の前編があり、その後に『クロアチア人の手』という中編が挿入され、最後にまた表題作の後編が始まるという、そう『帝都衛星軌道』と同じ長編の中に中編が挟まっているという構成だ。

表題作はボスニア・ヘルツェゴヴィアで起きた奇妙な猟奇殺人事件とオンライン・ゲームの話が平行して語られる。
メインの殺人事件は4つの惨殺死体のうち、3つが首を切られ、そのうち1つは心臓以外の内臓が全て取り出され、その代わりに飯盒の蓋やパソコンのマウスなどが内臓に見立てられて入れられているというおぞましい物。しかもクロアチアにはリベルタスという子供の大きさの金属人形の伝説があり、その死体はまさにリベルタスを擬えているという趣向だ。

もう1つの中編『クロアチア人の手』もこれまた奇妙な事件だ。ユーゴスラビアで起きた民族紛争の模様を通奏低音として流しながら、日本で起きた奇妙な密室殺人事件が語られる。
俳句国際コンクールで優秀賞を受賞したクロアチア人ドラガン・ボジョヴィッチとイワン・イヴァンチャンの2人が深川の芭蕉記念会館に宿泊した翌朝、イヴァンチャンの部屋はもぬけの殻となっており、もう1人のボジョヴィッチの部屋では男が密室状態で死んでいた。奇妙なことに部屋の水槽にはロビーの水槽にあったピラニアが入れられ、そこに手と顔を突っ込んだ状態で死んでいたのだ。遺体は右手と瞼と上唇を食いちぎられており、最も奇妙だったのは被害者はボジョヴィッチではなくイヴァンチャンだったということだ。
しかも逃亡したと見られたボジョヴィッチはなんと記念館の前の道路でタクシーに轢かれ、その拍子に持っていたトランクが爆発して死んでしまったというのだった。

いやあ本当に島田氏はとことん奇妙で理解不能な謎をどんどん放り込む。全然衰えないその奇想力に感服する。
この不可解な事件を解決するのがなんと石岡。彼は捜査を担当した寄居刑事が『占星術殺人事件』で知り合って以来御手洗と親交のある竹越刑事の伝手を頼って電話したのをきっかけに捜査に関っていく。

そして御手洗は、というとスウェーデンの大学にいてまたもや電話での出演となる。しかし今回は御手洗の推理が案外長く聞けるので、今までのような不満はないが、やっぱり彼の天才ぶりに現実味を感じないところがあるなぁ。

しかしクロアチアで俳句が盛んだったり、芭蕉記念会館にピラニアを詠んだ近代俳句が傑作だった理由でピラニアが飼われているなんて豆知識が投入されているが本当だろうか?しかしピラニアを詠んだ傑作俳句って一体…。

また余談になるが島田荘司氏の謎のモチーフには生命のないものが血肉を経て奇跡を起こすという幻想的な謎が多い。
デビュー作の『占星術殺人事件』のアゾートがそうだし、それをアレンジした『眩暈』も然り、『龍臥亭幻想』の森考魔王も然り、『ネジ式ザゼツキー』も機械仕掛けの人形が取り上げられている。とまあ一人の作家がこれほど人造人間、人形をテーマに取り上げるのも珍しい。
本書リベルタスもまた同じくブリキで出来た子供人形がクロアチアの前身とされるドゥブロブニクを救ったという寓話がテーマになっている。しかし作者あとがきによればこのリベルタスは全くの作者の創造によるもの。やはり島田氏はこのような人形の持つミステリアスな雰囲気が好きなのだろう。

しかし手垢がついているとはいえ、またこのテーマかと一度は思ってはみてもやはり面白い。

ただ本書はそんなギミックと驚愕の真相のみを評価するには十分ではないだろう。
本書で書きたかった島田氏の主張とはやはり旧ユーゴで起きた民族紛争が落とした暗く深い翳、セルビア人、クロアチア人たちの大きく深い暗黒のような溝にある。一緒の町に住み、一緒に遊んでいた子供達と親、仕事仲間が紛争が起きることでいきなり敵と味方に別れてしまう。それもそれまで深めた親交が全く意味がなかったかのように憎悪の炎を燃やし、家族同士が殺し合い、破壊し尽くし合い、レイプしあう、まさに地獄絵図のような状況に陥るのだ。それを民族の血がそうさせるのだという。
さらに紛争が終わった後も、レイプした者とされた者が以前と同じように同じ町に住み、働いており、顔も合わせるというのだから信じられない。
この民族の神経というものは一体何なのだろうか?感情の針の振り幅が大きすぎ、どうにも理解が出来ない。遠い日本の地でテレビや新聞、週刊誌を通じて伝えられる事実がいかに薄められて我々に提供されているのか、思い知らされた。
しかしそれでいいのだと思う。
世の中には知らなくていいこともあるし、もしありのままにメディアに情報が垂れ流しされていれば恐らくPTSDや人間不信に罹る日本人は増えたであろう。このような書物に触れた人間だけが知ればいいのであろう。
島田氏の世界残酷紀行は今なお続いている。


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リベルタスの寓話 (講談社文庫)
島田荘司リベルタスの寓話 についてのレビュー
No.119:
(8pt)

サーファー探偵はご機嫌だぜ!

すこぶる腕の立つ私立探偵なのだが、三度の飯よりもサーフィンが好きなせいでそのためにはどんな依頼よりもサーフィンを優先する。そんな魅力的な探偵ブーン・ダニエルズがウィンズロウの新シリーズの主役だ。

まずもうのっけから作品世界にのめり込むほどの面白さ。ところどころに織り込まれるエピソードが面白く、一気に引き込まれてしまった。
恐らく亡くなった児玉清氏が存命で本書を読んだなら快哉を挙げること、間違いないだろう。

まずブーン・ダニエルズの造形が素晴らしい。

両親ともにサーファーで母親が妊娠六ヶ月の頃から波に乗っていた、「海から生まれた子」。2歳で親父のサーフィンボードに乗せられ、7歳で初サーフィン、11歳で新米サーファーとなり、14歳になる頃には数多のプロサーフチームからスカウトを受ける―この件で登場するブーンの両親たちが実に愛情に満ち溢れていて素晴らしい―。
しかし純粋にサーフィンを愉しみたかった彼はその道を選ばず、刑事になり、その職を辞し、私立探偵業を営む。

そして彼を取り巻くサーフィン仲間“ドーン・パトロール”の面々の造形もまた実に魅力的なのだ。

日系人でサンディエゴ市警殺人課刑事のジョニー・バンザイは仲間のブレイン的存在。

水難救助員のデイヴ・ザ・ラブゴッドはギリシア彫刻のモデルになるほどの美男子でナンパ成功率100%。

チームで一番の若手ハング・トゥエルブはサーファーショップの店員でいいムードメーカー。その仇名の由来がまた実にウィンズロウらしい―なんと足の指が12本あるのだ!―。

海に入ると水位が上がるとまで云われている160キロの巨漢ハイ・タイドはサンディエゴ公共事業課作業監督だが、何しろ食べ物に詳しい。

そして紅一点サニー・デイはブーンを凌ぐサーフィンの腕前でウェイトレスをしながらプロサーファーを目指している、夢に出てくるような“カリフォルニア・ガール”。

もうこの彼らの人物設定だけでこの物語が面白いものになると確信してしまった。

そして彼らがいかにブーンと関りあうことになったのか、それらのエピソードがどれもキラキラとして美しい。
幼馴染の頃からブーンと親しい者や決して幸せでなかった者が彼に声をかけられることでサーフィンというやり甲斐を見つけ、“ドーン・パトロール”の仲間になっていく。

とまあ、ご機嫌な奴らが繰り広げられる物語はオフビートな語り口で軽快に流れていくのだが、ブーンが捜査していくうちに判明する真実は重い。

カリフォルニアの燦々たる陽光の下で繰り広げられた物語に、光が強ければ影もまた濃くなるという犯罪社会の現実をウィンズロウは痛烈に投げかける。

本音を云えば、前作『フランキー・マシーンの冬』のように痛快に物語を突っ走って欲しかった。最後の展開はあまりに重く、なかなかページを繰る手が進まなくなるような描写もあった。
『犬の力』でメキシコの悲惨な社会状況を教えてくれたが、人身売買、少女買春のエピソードが頻出する後半のテイストはそれに似ている。

しかし『カリフォルニアの炎』、『フランキー・マシーンの冬』と(間に『犬の力』を挟むものの)ここ最近訳出された作品には共通してサーファーが主人公になっている。
しかしこれらの作品と決定的に違うのは今回はサーフィンが人生を彩るスパイスに留まらず、サーフィンの申し子のような男であり、また彼の仲間とサーフィンチームを作っており、それぞれも個性的な面々であるという点でサーフィンに対する想いが一層強くなっていることだ。
本書は新シリーズの1作目だと謳われている。恐らく今後もブーンたち“ドーン・パトロール”のメンバー達はサーフィンに興じながら一致団結して事件を、降りかかる災厄を解決していくことだろう。

特にブーンは過去警官時代に解決できなかった少女誘拐事件の犯人の追跡が残っており、これが今後シリーズにどう絡むのか興味深いところだ。

そして今回ビッグ・ウェーヴに見事に乗り、一躍時の人となったサニーの今後もまた非常に気になる。彼女がいるのといないのとではシリーズの彩りが変わることは必定だから、この展開はまさに痛し痒しである。

最後に忘れてはならないのはやはりウィンズロウは名文家だということ。読んでいて思わず心に留めたくなる言葉に満ちている。

“波に乗るのは、水に乗る行為ではない。水は媒介にすぎず、じつはエネルギーに乗っている”
“家系というものはあくまで土台であり、錨であってはならない”

なんと魅力的な言葉たちではないか。
そして今回最もジーンと残る文章は最後の一行にある(“何であろうと、トルティーヤにのっけりゃ旨くなる”)。それがどんな文章かは読んで確かめて欲しい。

しかし今回訳者が東江氏から中山宥氏に代わったが、全く違和感がなかった。ウィンズロウ作品の読みどころを実によく捉えた文章だ。東江はやはり仕事を多く抱えて、手が回らなかったのだろう。

さて中山氏という優秀な訳者を得たことだし、これからもっと短いサイクルでウィンズロウ作品が訳出されることを期待しよう。


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夜明けのパトロール (角川文庫)
ドン・ウィンズロウ夜明けのパトロール についてのレビュー
No.118: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

リンカーン・ライムは現代のシャーロック・ホームズだ!

とうとうリンカーン・ライムシリーズである。
ジェフリー・ディーヴァーの名声を磐石の物としたこのシリーズ。満を持して手に取った。

知恵と知識を使っての連続殺人鬼ボーン・コレクターとの戦い。次から次へ手がかりを残しては殺人を犯すボーン・コレクターと四肢麻痺で厭世観に持ちながらも、かつてNY市警中央科学捜査部長の座まで登りつめ、ありとあらゆる場所を踏査しては知識として蓄えてきたリンカーン・ライムとの丁々発止のやり取りが実にスリリングで面白い。
いや面白すぎる!

そして健常者だった頃に暇さえあればマンハッタン中を歩き回り、地理や地質、建っている建物やどこにどんな企業や店があるのかを調べては自分の知識の糧としていたライムの推理方法はアメリアが持ち帰った証拠類から見事な犯人の意図を、絵を描き出す。それは指紋や靴の磨り減り方からも職業や趣味を云い当てるほど、人間というものを知り尽くしている。
特にビックリしたのは私の仕事の分野である建設業で用いられるベントナイトに関する記述だ。
世界一の犯罪学者と称されていたとはいえ、他分野の工法にも精通しているとは、どれだけの知識があるんだ、ライムは!いや、正確に驚嘆すべきは作者ディーヴァーの知識の深さか。

このライムの推理の過程や独自の経験に裏付けられた鑑識道具の数々や手法を読むと、私はどうしても世界一有名な探偵を思い浮かべてしまう。
そう、シャーロック・ホームズだ。四肢麻痺というハンデはあるものの、ライムは現代に甦ったシャーロック・ホームズなのだ。

そして身体の動かせないライムの代わりに手となり目となり鼻となり足となって捜査を行うアメリア・サックスは彼のよき助手ワトソンといったところか。

しかしアメリアは原典のワトソンと違い、父親も警官だった女性警官で、自分というものをしっかりと持った女性だ。従ってホームズ=ライムに逆らい、抗いもするし、また彼を凌駕する発想を持ったりする。実に血の通った人物だ。

そう、今回一読してビックリしたのはこれらキャラクターの造形の深みだ。

まずはやはり主人公リンカーン・ライムのキャラクターの深さだろう。かつては大統領さえも一目置いたという凄腕の鑑識員だった男だが、操作中の事故で四肢麻痺になり、自暴自棄な毎日を暮らしている。あらゆることに退屈し、後は自殺して一刻も早く魂が解放されることを望んでいた。
傲慢で不遜だが、その知識と明察な頭脳はいささかも衰えがなく、犯人ボーン・コレクターの意図を読み取り、次の被害者のいる場所と犯人の居所を残された手がかりで推理する。

そして彼の手となり足となるアメリア・サックス。モデルも経験したほどの美貌の持主ながら父親と同じ警察官への道に進んだ彼女。最初の登場シーンはバランスの悪いルーキーといった感じだったが、反目しながらもライムの凄さを認め、彼のやり方を吸収していく。

この2人のやり取りが物語にツイストをもたらし、ページをくいくい捲らせていく。

そしてライムに援助を求めてきた元同僚のニューヨーク市警殺人課刑事ロン・セリットーに彼の若き相棒ジェリー・バンクス。ライムが信頼する市警の鑑識員メル・クーパー。
そして本書の名バイプレイヤーと云えるライムの介護士トムを忘れてはならない。彼のような身障者を腫れ物に触るが如く珍重せず、通常の人間として扱い、ライムのわがままを無視し、揶揄するヘルパーこそ本来介護士のあるべき姿なのだろうと思う。

そして連続殺人鬼ボーン・コレクター。面白い作品には名主役に匹敵する悪役が必要だが、その役割は十分、いや十二分に果たしていると云えるだろう。
ライムの著書を熟読し、それをバイブルにして鑑識の知識を自家薬籠中の物として、かつての世界一の犯罪学者に挑むボーン・コレクターは人の美しい容姿や肢体といった人間を覆う皮膚には興味を抱かず、その中にある骨に異常なまでの愛情と興味を注ぐ。人を傷つけるにも、骨が損傷しないか気になるくらいだ。

彼の性癖の基となるのが20世紀初頭の1911年にニューヨークを震撼させた連続殺人鬼ジェームズ・シュナイダーの犯行だ。これはあとがきによれば作者の創作のようだが、彼が骨を愛でる記述が昔読んだ楳図かずおのある作品の冒頭に書かれた一節を思い出させる。
「骨は美しい。醜いのはそれを覆う皮膚だ」
確かこのような文章だったように思うが、正にボーン・コレクターの心情がこれだ。時代と東西の文化の壁を越え、同じモチーフで全く違う作品が書かれたことがなんとも興味深い。

このボーン・コレクターの正体を私なりに推理した。
下巻の終わりが近づくにつれて、自分の推理が当たっていることを確信していたが、まんまとディーヴァーにやられてしまった。

さてディーヴァーが自作で開陳する専門的な知識、特に登場人物の職業や性癖などに由来する業界人でしか知りえないようなリアルな情報が毎回の読みどころだが、本書もその例外に漏れず読ませる。

まず挙げられるのは鑑識という作業に関する細かいところまで神経が行き届いた仕事ぶりだ。ミステリ番組やミステリ小説では端役に過ぎないこの仕事だが、いやあ、事件後の現状保存に対し、鑑識員がこれほどまでに細心の注意を払っているとは思わなかった。
この鑑識の仕事にスポットを当てたのは正にディーヴァーの着眼の良さであり、功績だろう。本書に挙げられた情報は膨大な物だが、特に印象に残ったのは現場に入る鑑識員は靴に輪ゴムを巻いて入るというもの。その理由は・・・是非本書で確認して欲しい。

そして四肢麻痺の重度の身障者であるライムが語る身障者の生活の苦労だ。毎日同じことの繰り返しがやがて絶望に変わるというのは先にも書いたが、例えばチョコレートなど甘い嗜好品が逆に楽しみの後の苦痛を助長させるということ。そして歯に詰まっても自分で取り除くことが出来ないこと。つまりこんな簡単なことが出来ない自分に気付かされる事実がさらに絶望を生むということ。
これは全ての身障者に当て嵌まることではないかもしれないが、もし自分がライムと同じ境遇に陥ったならば、彼と同じように感じているかもしれないと痛感したエピソードだ。

そして今回ボーン・コレクターが残す手がかりの解明の端緒となるのはニューヨークの古地図だ。その手がかりと共に古きニューヨークの街並みがライムの口から説明されていくのも知的好奇心をくすぐる。通常ならば小説を読む付属的な愉悦に過ぎないこういった薀蓄が次の被害者の居場所を探る手がかりとして物語に有効に働くところがディーヴァーという作家の凄さだ。
いやあ、この作家は読書好きのツボというものを心得ている。堪らないね。

さて事件を解決しながらも自殺願望の火が消えないリンカーン・ライムのその後が非常に気になる。シリーズはこの後巻を重ね、今も書き続けられているのだからライムの命はまだまだ続いていくのだろうが、そんな予断などが意味を成さないくらいに先の展開が非常に気になる。

本書の評価は先に述べたようにボーン・コレクターの正体に納得のいかなさを感じたことと、最後のライムの凄まじいまでの犯人対決シーンが私の中で役割分担されていた“知のライム、動のアメリア”の構図が見事にひっくり返されたことに対する戸惑いと、そして今後のシリーズでさらに面白い作品があることを期待しているという3つの理由から8ツ星としておくことにする。

まだまだ未読の作品があることがこの上もなく嬉しい。
最後にディーヴァー作品をこよなく愛した故児玉清氏に合掌。


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ボーン・コレクター〈上〉 (文春文庫)
No.117:
(8pt)
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フランケンシュタインの新機軸

クーンツの手によるフランケンシュタイン譚。
メアリー・シェリーのオリジナルをリメイクするのではなく、彼女が生み出したフランケンシュタインが実は現実の産物であり、その人造人間、そして創造主であるフランケンシュタイン博士が今なお21世紀の世に生きているというパスティーシュになっている。

正直に云って、最初は全く期待していなかった。今更フランケンシュタイン?クーンツも他の作家からアイデアを拝借するなんて衰えたか?
そんな侮りめいた先入観を抱いたが、読後の今、己の不明を恥じる思いで一杯だ。

これは面白い!
最近読んだクーンツで面白かったのはオッド・トーマスシリーズの第1作だったが、本書はそれに次ぐ面白さと云えるだろう。

メアリー・シェリーが創造したフランケンシュタインを換骨奪胎してクーンツなりのアレンジを加えて、世界観を広げていることに感服した。

まず原典では愚かな犠牲者とされているフランケンシュタイン博士、そして怪物とされている人造人間の価値観、役割を180度転換させているのがミソだろう。

フランケンシュタイン博士ことヴィクター・ヘリオスは現代まで生き残り、世間では実業家として名を馳せているが、実は自らが生み出した完璧な人類、新人種による新世界の創造を夢見ており、近い将来全ての人間を新人種に変換して理想社会を作らんと画策している。

一方彼によって生み出された忌まわしい怪物はデュカリオンと名を変え、200年もの間、知識と人間の文化、宗教を学び、逆に人間という存在に敬意を払うまでに改心している。

つまり悪玉と善玉が逆転しているのだ。

さらにヴィクターは200年の間に蓄積した知識で新人種と呼ぶ人間をしのぐ身体能力を持ち、感情を制御し、ヴィクターに従順である存在を多く生み出し、人間社会に溶け込ましていた。

通常ならばこの新人種対人間+デュカリオンという二極対立の構図を描くのがセオリーだが、クーンツはさらにヴィクターが生み出した新人種たちが自らの生き方に疑問を持ち、本来逆らうことが出来ないようにプログラミングされているのにもかかわらず、創造主たる博士に叛旗を翻すという、もう1つの敵を設定した。

これにより物語に幅が広がり、様々なドラマを生み出す効果が生まれた。

作者によればこのシリーズは三部作になるとのことだが、解説によれば5巻目が近日中に本土アメリカで刊行されるとのこと。従ってもう1つのシリーズ、オッド・トーマスとは違い、本書で起きた事件や出来事のいくつかは完結せずに本書以降に持ち越される。

例えばカースンの自閉症の息子アーニーの幸せそうな笑顔を見て、なぜ彼がそんな幸せなのか秘訣を知りたいと思い、彼と逢うことを決意し、ヴィクターの研究所を脱走する。

また神父として人間社会に送り込まれた新人種パトリック・デュケインは神への信仰を重ねることで、ヴィクターに逆らえないプログラムを凌ぐことに成功する。

そして本書における悪役である新人種の警官ジョナサン・ハーカー。彼は誰も愛せない新人種の特徴に絶望し、その孤独を癒すために幸せを追求するが、次第に彼の内部に何かが生まれ、やがてその存在が彼を支配し、生まれた新たな生命はいずこへと消えてしまう。

これらが今後の物語でどのように物語に関っていくのか、非常に興味深いところだ。

また本書で最も印象に残ったキャラクターは連続殺人鬼ロイ・プリボーだ。
彼は完璧な女性を求めて、理想のパーツを持つ女性を殺し、そのパーツを切除して冷蔵庫に保管して愛でる精神異常者だが、この設定を読んで思い出したのが2つある。
1つは島田荘司氏の『占星術殺人事件』で出てくるアゾートだ。これは美しい女性のパーツを組み合わせて生み出された完璧な美女のことで全く同じだ。
しかしそれよりも強く思い出したのは荒木飛呂彦氏の『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部に出てくる吉良吉影だ。日本の漫画は数多く海外へ輸出されているが、まさかクーンツがジョジョを読んでいたとは思えない。しかしよく似た人物設定だ。

しかし2000年代になって、なぜアメリカモダンホラー界の大御所のクーンツが今更ながらにオッド・トーマスや本作のフランケンシュタインといったシリーズ物を手がけることになったのだろうか?
確かに最近のノンシリーズは似たような設定をキャラクターと場面を変えて語っていただけのマンネリ感はあった。それを打開する為のシリーズ作品の創作なのだろうか?

しかしオッド・トーマスシリーズが主人公オッドの一人称叙述で彼の考えや感じ方を逐一細かく叙述しているがために饒舌になり、1章の分量も多いのに対し、本書は三人称叙述で1つ1つの章が10ページに満たなく、中には2ページという短さで語られることから非常にテンポ良く物語が展開しているのが今までのクーンツ作品では見られなかった特徴だ。これが映画のカメラの切り替えを思わせ、非常に小気味よく物語が進むのも心地よい。
何より、最近のクーンツ作品で見られた陰鬱になる現代社会の抱える異常な家族環境のエピソードや説教くさい警句が極力抑えられているのが本書のスピード感を醸し出し、エンタテインメント性を高めている。

全くノーマークだった本書が予想外に面白かったのは収穫だ。クーンツ未だに枯れず。版元には一刻も早く次作の訳出を願う。

フランケンシュタイン野望 (ハヤカワ文庫 NV ク 6-12)
No.116: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)
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警察もまた“人”であることを濃厚に描く傑作

D県警を舞台にした殺人課ではなく、警務課諸氏を主人公にした警察小説連作短編集。

表題作は警務課の人事担当二渡真治警視が主役を務める。
なんとも渋みの効いた作品。何を考えているのか解らない元刑事の鬼、尾坂部の存在感が途轍もなく大きい。
そして過去に未解決に終わった娘のレイプ事件が人事拒絶に絡み、その犯人が意外な形で明らかになる。全て無駄の無い作品だ。
正に横山伝説の始まりを告げるに相応しい一篇。

続く「地の声」は警務部監察課に務める新堂隆義が主人公。
人を疑うのが仕事の警察。それは犯人を挙げる外部の人間のみならず、自らの出世を企む内部の人間でさえ同じことだ。昇進の人事査定が迫った時期に密告がなされる弱肉強食の世界の警察内部の醜さと過酷さがここには描かれている。
第1話で主役を務めた二渡がここでは人事の鬼という存在で物語に大きな影響力を与えているのが非常に興味深い。

続く「黒い線」は警務課婦警担当係長である七尾友子が主人公。
実直で真面目な婦警が手柄を立て、マスコミにも報じられた翌日になぜ無断欠勤するのか?
この矛盾を感じる突然の行動に実に納得の行く結末が用意されている。しかもそれは実に残酷な結末。社会に生きる女性の厳しさや、パワハラといったサラリーマン社会にも通じる苦いその内容は組織に生きる一人の人間として心に響いた。
特に驚いたのが男性の横山氏がよくもこれだけ女性の、しかも警察という男性社会の只中で奮闘する女性の心理を描いたものだと感心した。本書の中でも個人的ベストだ。

最後の「鞄」は警務部秘書課の柘植正樹が主役を務める。
国会答弁があらかじめ質問事項が決まっており、それに基づいて部下の官僚などが答弁の原稿を書き、大臣や議員はそれを読むだけになっているというのはもはや周知の事実だが、県議会での警察への質問も同じとは知らなかった。そして警察もまた専用の担当官がおり、それが本編の主人公柘植の仕事だ。
権力と面子が物を云う世界で、質問する側される側双方の顔を汚さずに無事議会を終えるために奔走するこの仕事は非常にデリケートで神経を使うものだが、D県警初の30代警視になるという野心を持つ柘植にとって、それは出世への階段の近道であるため、かつての友人とも云える同期や周辺の人物を利用することを辞さない。
本編でも二渡は登場するが、ほんのカメオ出演というくらいで、それよりも2編目の「地の声」で主役を務めた新堂がここで再登場し、作品のその後の彼の姿がそのまま上昇志向の強い柘植と対比させるようになっている。


ミステリといえば、殺人事件。したがって警察が主人公となる警察小説の主役といえばやはり殺人事件を扱う捜査一係が専らで、変わったところでは大沢在昌の『新宿鮫』の鮫島の生活安全課というのがあるくらいだが、あえて横山氏は殺人課を使わずに事件性を持たして警察小説が書けることを証明した。
ここに出てくるのは警務課で主人公それぞれが就いている職務は人事、監察、婦警の管理、秘書課と事件に直接的に関わる部署ではなく、警察の内務をテーマにしながらも事件を描くという点が新しい。

しかも扱われる謎は云わば“日常の謎”なのだ。
辞任の時期が来たのに、なぜ辞めようとしないのか。
悪意ある告げ口としか取れないメモ書きの真意とその犯人は誰か。
前日に手柄を立て、マスコミにも大きく扱われ、一躍メディアの主役になった若き婦警はなぜ翌日無断欠勤し、失踪したのか。
ある県議員が議会で本部長を陥れるためにぶつける質問、即ち“爆弾”の正体とは何か。

これらが警察組織で起これば、事件性を伴い、背後に隠された事件・犯罪を浮かび上がらせ、十分警察小説になりうることを横山秀夫氏は見事に証明した。これは正に新たなジャンルの誕生とも云える発想だ。
綿密な取材と落ち着いた文章と過不足ない引き締まった内容で横山氏はそれを高次元のレベルで成し遂げたのだから、確かにこれは歴史的快作といえるだろう。

ただ横山氏は必ずしも犯罪を描くことに腐心しておらず、特に後半は警察官それぞれの矜持や権力闘争、面子を重んじる風潮から生じた齟齬や弊害を上手く絡めて、謎に仕上げている。その微妙な駆け引き、上司のために自分を殺さなければならない理不尽さを受け入れる姿勢などは警察の世界のみならず私も含めサラリーマン社会にも通ずるものがある。
各4編でのテーマをそれぞれ抜き出すと人事問題、賞罰審査、部下の監督不行届け、会議を円滑に進めるための水面下での根回しなど、おおよそ警察小説とは思わず、企業小説としか思えないだろう。
こんな普通の会社でも起こりうる出来事が警察機構に組み込むことで事件性を持ってくるのだから、繰り返しになるが、本当にエポックメイキングな作品である。
これほど警察内部の男社会に切り込んだ作品を読んだのは『新宿鮫』以来だ。今までミステリを読んできた人間にとって警察とは本格物であれば、名探偵の引き立て役や道化役であり、警察小説であれば探偵役であり、警官同士が協力して事件を解決するものと思っていただろう。
そんな外側から見た警察の内部はこれほどまでに面子を重んじ、複雑な駆け引きと微妙な均衡の上に成り立っていることを知らされれば、単なる探偵役としての警官や刑事の見方も変わってくるだろう。

また全4編に共通して登場する人物は表題作で主役を務めたD県警のエースと呼ばれる二渡真治警視の存在感が物語の裏に影響を及ぼし、次第に増してくるのも興味深い。今後横山氏の作品で彼がどのように絡んでくるのか興味深いところだ。

組織で動きつつも個人の個性と上昇志向が強く、せめぎ合う警察機構の内部をここまで詳しく書いた横山氏。残る作品を読むのが非常に愉しみな作家だ。また追っかけなければならない作家が増えてしまった。



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陰の季節 (文春文庫)
横山秀夫陰の季節 についてのレビュー
No.115:
(8pt)

表紙と内容が違いすぎ!

今回の主人公は火災査定人。なんでも作者ウィンズロウ自身が保険調査員だった時の経験を基に書いたのだそうだ。
そして内容も経験した者でしか書けないディテールに満ちている。特にジャックが火災現場で火元を調査する詳細な件は実に精緻でリアルに満ちている。科学的根拠に基づいたその調査は素人の好奇心を掴んでやまないほど、面白い。

さらに保険に纏わる数々の信じられないようなエピソードが読書の興趣をそそる。
保険会社を変えてはスプーンの盗難を訴え、保険金をせびるオリヴィア・ハサウェイ老婦人のエピソードも面白いが、何といってもアメリカで保険金詐欺が続出している件が非常に興味深かった。
何しろ不景気になると保険金を目当てにした偽装火災が増加するのだそうだ。好景気の時に将来の収入を見込んで、ちょっと背伸びをした金額の家を購入するが、不況の波で給料が削られ、「こんなはずではなかった」状態に陥り、減少する給料に比例せずにローンは一定の金額で出て行く。そんな苦境に陥ったとき、自ら火災を起こし、全てを無に帰し、一からやり直そうとするのだそうだ。その額、なんと1年で80億ドル!80億「円」ではなく、80億「ドル」なのだ。そしてこの手の犯罪は1年に約8,600件起きており、つまり1時間に1件起きていることになる。まさに保険会社はこれら詐欺事件との日々戦いだといっていいだろう。

また保険会社内の力関係についてもウィンズロウは詳らかにしている。契約を取ってくる外務部門。社に利益をもたらすよう保険率の算定を行う引受部門。そして保険金を支払う補償部門。
どこの会社でもそうだが、利益を生み出す部門が社内では発言権が大きく、また優先される。補償部門に所属するジャックは自身の会社の大口契約の顧客であるニッキーの不正を暴こうとするのだが、そうすることで大口の契約を失う外務部門の担当者や引受部門の協力者たちの妨害に逢う。
う~ん、サラリーマンを主人公にしながら、これほどマーロウを想起させる孤高の騎士を生み出す業界があっただなんて、いやはやウィンズロウはいいところに目をつけたものだ。

そして何といっても外せないのはウィンズロウが描くキャラクターの魅力だ。主人公のジャック・ウェイドはカリフォルニア火災生命の中でも腕利きの保険査定人として知られているが、実は過去は郡保安局の火災調査部のトップの調査員だった。しかしある事件をきっかけに職場を離れなければならなくなり、サーフィンと仕事に明け暮れる日々を過ごしている。その正義感の強さが彼の魅力であり、また弱点でもある。
この世渡り下手な男は上にも書いたが私に云わせればフィリップ・マーロウそのもの。以前よりウィンズロウの作風がレイモンド・チャンドラーに近づきつつあることを云っていたが、本作でその思いをさらに強めた。減らず口を叩くところはデミルのジョン・コーリーに類似しているが彼ほど型破りでもなく、また女たらしでもない。

そして敵役のニッキー・ヴェイルの造形も見事。KGBの工作員でアメリカにロシア・マフィアの一味になって不法に外貨を流出させることを命令され、マフィアの元締まで昇りつめたが、アメリカの自由に魅了され、アメリカ人の実業家となることを決意した男。彼の歪んだ心理構造が彼の想像を絶する過酷な生立ちを語ることで肉付けされていく。

その他、ジャックを保安局から追い出す要因となった天敵のブライアン・<失火>ベントリー、良き理解者である上司の<こんちきしょう>ビリー。元恋人のレティ・デル・リオ、そしてジャックが義憤を燃やす被害者のニッキーの妻パミラ・ヴェイル、その他登場人物表に名前が記載されていない人物も実に個性的で読者に感情移入を否応なくさせられる。
特に今回はウィンズロウが主要登場人物の過去にページ数をかなり割いて丹念に掘り下げているため、これまでの諸作よりもさらに登場人物たちの造形は深みを増している。

ウィンズロウの作品の根底に流れるテーマに“父性”がある。ニール・ケアリーシリーズでは彼を探偵に育て上げたグレアムがその象徴だし、ノンシリーズでも『ボビーZの気怠く優雅な人生』では主人公のティムが実の子供ではないキットを我が子のように扱い、父子の絆を築き上げていく。また先だって読んだ『歓喜の島』でも主人公ウォルターの回想にモノローグの如く、父親の訓示が挿入されていた。

すなわち作者ウィンズロウにとって父親という存在は自己を形成する上でかなり影響を受けた人物であり、また自身の息子に対し、こうありたいという理想像を作品に投影しているのではないだろうか。そして単に説教になりがちな父親の存在と言葉が全く騒音にならず、寧ろそれがあるために登場人物に深みが増し、読者の親近感を誘うのはこの作者の上手いところだ。

しかし本作では父親の蔭はそれまでの作品に比べると成りを潜めているようだ。主人公ジャックの頭に過ぎる父親の言葉は物語の冒頭部分にしか現れない。
これは父性からの脱却なのだろうか?つまりジャックを今までの主人公とは違う、より自立し、独りで考え、直面した問題を克服する男として描きたかったのだろうか?
確かにこのジャックは保険査定人として一流でありながら、“自分”が有りすぎるために妥協せず、そのために罠に嵌り、巨大な壁に何度も直面する。それを粘りと不屈の精神で乗り越えていく。
このジャックの姿勢を見ると、確かに上に考えたようなことが当て嵌まるように思える。これは後の作品でも注目していこう。

そしてウィンズロウの十八番である読者の予想の斜め上を行く意外な真相は本書でも健在。訴訟社会と云われるアメリカの立証第一主義の裁判が明らかな殺人の痕跡を“血の粛清”でもみ消し、またそれを逆手に取って莫大な損害賠償を求める訴訟を生み出す。そんな自縄自縛な保険業界のジレンマをまざまざと見せ付けられる哀しい結末だ。

これほどまでに絶賛しておきながら評価が8ツ星なのは、物語の閉じ方に不満を感じるからだ。
なぜだか解らないが、ウィンズロウの作品にはハッピーエンドが少ない。そして本書もなんとも報われなさを醸し出す読後感をもたらすのだ。
あのニール・ケアリーも最後は孤独だった。これはウィンズロウの人生観なのだろうか?男はすなわち行き着くところは孤独なのだ、と。それとも次の再開を仄めかす終わり方なのだろうか?

最後に苦言。
こんなに面白い作品なのに、表紙で大いに損をしている。この生っちょろいイラストではこれが不屈の男の生き様を描いた作品だということは想像つかないだろう。表紙に引かず、是非とも手にとって欲しい。保険業界の仕組みや裏側も判り、なによりもジャック・ウェイドという、この上ない魅力ある主人公に出逢えるのだから。


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カリフォルニアの炎 (角川文庫)
ドン・ウィンズロウカリフォルニアの炎 についてのレビュー
No.114:
(8pt)

極彩色な面々と女たちの共闘と

ニール・ケアリーシリーズ第4弾。
聞くところによると実質的なシリーズ最終作との事で、次の『砂漠で溺れるわけにはいかない』はおまけのような作品らしい。しかし逆に私は読後の今、この愛すべき人々との別れが実に惜しくてならなく、おまけの1作とはいえ、もう一度この仲間たちと逢えるのがなんとも嬉しい。

さて今回もグレアムの訪問とニールの後悔で幕を開けるが、前3作と違うのはニールの許には愛すべき存在カレンがいること。そして任務も今まではロンドンに中国、ネヴァダ州の山奥と移動に移動を重ねてきたが、今回は前作の舞台だった“孤独の高み”に仕事が舞い込んでくるという設定。したがって登場人物も3作目と重なる人物が多く、お馴染みの顔ぶれが出揃う。物語に挟まれる彼らとのやり取りにニールが彼の地に溶け込み、もはや村の住民の1人として認知されていることに気付かされる。
とうとうニールは安住の地を見つけたのだ。

しかしそんな安息の日々も長くは続かず、ポリーを巡って元FBIで渦中のキャンディ・ランディスに惚れてしまっている私立探偵チャック・ホワイティングに、謎の殺し屋“プレーオフ”、さらに元凄腕の探偵で今は極度のアル中で落ちぶれた生活を送っているウォルター・ウィザースが絡んでくる。さらにジャック・ランディスには悪徳建設業者の隠元豆ジョーイが付きまとっている。
やはり父親代わりのグレアムはまたしても災厄の天使であったわけだ。

本作は定点で繰り広げられる物語と異色な展開であるに加えて、今まで若くナイーヴな探偵ニールを中心にした“男”の物語であったのだが、今回はレイプの告発をした有名人の秘書とカレンの存在、そしてその2人に加わるその有名人の妻キャンディ3人が主導で展開する“女たち”の物語であるように感じた。

まずポリー・パジェットのインパクトが強烈。よくもまあ、訳者の東江氏はこんな読みにくい田舎訛りの文章を案出したものだ。原文がどのように書かれているのか非常に興味をそそる、それほど痛快な仕事だ(なにしろ“ちんちん”の田舎訛り訳語が「でっちぼ」なんだから参る。しかしつくづく金玉系が好きだねぇ、原作者もしくは訳者は)。
この一見脳足りんの尻軽女の風貌で教養の欠片さえも感じさせないポリーに教育を施し、裁判で衆人の同情を惹く人間に育てる過程は映画『マイ・フェア・レディ』、『プリティ・ウーマン』を思わせる。

さらにそのポリーが心に純粋な塊を持っており、次第にカレンの見方が変わっていくのに加え、夫の浮気に憤懣やるかたないキャンディの懐の深さに感服。特にポリーの妊娠が発覚してから敵同士であるべき存在キャンディが共に赤ん坊の名前を考えている様子など、男たちが想像できない女性たちの同族意識ともいうべき不思議な心理構造を見せる展開はまさに女たちの物語というべきシーンだろう。

こんな先の読めない展開と三文悪党どものジャムセッションとも云うべき、題名のとおりウォータースライドを滑るが如く二転三転するストーリー展開はクライムノヴェルの巨匠エルモア・レナードの作品を思い起こさせる。
そしてその本家に勝るとも劣らない痛快な展開が待ち受けている。

エンタテインメント小説を紡ぎ出していたウィンズロウがTVというショービジネス界のスキャンダルとまさにエンタテインメントど真ん中の題材を描いた本作には斯界に蠢く巨額の浮利と思惑が交錯し、それぞれが自縄自縛状態に陥っていることを如実に描く。特にTVで幸せなアメリカ夫婦の象徴という虚像を担ってきた当事者ジャック・ランディスの有名税ともいうべき不自由な暮らしぶりなど考えさせられるものがある。

また逆に虚栄を売っているこの界を揶揄したギャグも盛り込まれている。特にニールが適当にでっち上げたポルノ映画のシリーズが一人歩きし、隠れ蓑として作った偽名が逆に注目を集めるくだりなどは実に面白い。

とにかく本作は前3作に比べると、危機一髪のドキドキハラハラ感よりもスラップスティックコメディ的な予想の斜め上を行く展開が実に面白く、何度も声を上げて笑ってしまった(特に伝説の殺し屋“プレーオフ”の末路が実に悲惨ながら笑ってしまう)。
したがって今までこのシリーズの売りでもあった若き探偵ニールのナイーヴさはほとんど出てこなくなっており、逆に恋人のカレンが正義感を振り回し、ニールの役割を果たしているようだ。しかし私は前作でニールは一皮向け、一人の男として成長したように捉えていたので全く違和感はなかった。

しかしもう残り1冊になってしまったのか。面白い小説というのは本当にクイクイ読めて時間が経つのが早く感じてしまう。残り1作品、物量的には最も薄いがするめを噛みしめるように読み、じっくり味わいたい。

ウォータースライドをのぼれ (創元推理文庫)
No.113:
(8pt)

やっぱり「決まり金玉!」ですわ

若き探偵ニール・ケアリーシリーズ第2弾。
今度の舞台は1977年の中国・香港。もちろん香港はまだ返還されておらず英国領のままだ。毛沢東亡き後、次の覇権争いが渦巻きながらも故毛主席の怨念が色濃く翳を落とす時代の物語。

第1作であった前作でも感じたが若き探偵物語という謳い文句で世間に喧伝されているが、本作では私立探偵物というよりも諜報物に近い。
CIAに中国スパイ。
1人の女と1人の男を巡る中国、アメリカの組織入り乱れての攻防。
味方と思っていた者が敵になり、敵と思っていた者が利害の一致から味方になる。
これはまさしくエスピオナージュの物語運びだ。

さらに終盤中国の奥深くの山々に分け入り、そこで繰り広げられる攻防戦有りといった冒険小説の色合いも強くし、もはや1つのジャンルに留まらない非常に贅沢なエンタテインメント娯楽作品になっている。

そして今回ニールは前作に陥った窮状が子供騙しだったと思わされる窮地に陥る。ターゲットでしかも恋に落ちた相手リ・ランに世界で最悪といわれる貧民街九龍に置き去りにされるのだ。
ここでのニールに対する仕打ちはまさに人間の尊厳などは全否定され、生きていることすら苦痛に思わされる境遇に陥る。この辺の件は主人公ニールに好感を抱いている多くの読者にとって息苦しさと悲愴感が痛切に心に響く場面だ。

今回もターゲットの化学者を捕まえるため、中国美術に造詣のある学生に成りすまし、仲間に取り入ろうとするが、ナイーヴな心を持ったニールは仲睦まじいペンドルトン博士と美しい中国女性画家リ・ランにほだされ、任務を放り出して彼らの恋の逃避行を応援しそうになる。

前作も家出娘の捜索のために麻薬の売人に取り入ってターゲットのアリーに心を動かされたが、これはニールが元ストリート・キッドである出自に大いに関係があるだろう。

両親の愛情を知らずに掏摸をして糊口を凌ぐ生活をしていたニールにとって仲のいい仲間たちやコミュニティは人生で体験したことがない心地よさを彼にもたらし、プロの探偵であってはならない感情移入をしてしまい、ミイラ取りがミイラになってしまう危うさがある。しかしこの青さと純粋さが大人になると失ってしまう誠実さを思い起こさせ、彼に共感を覚えてしまう。こういう稼業に仕えるには彼は優しすぎるのだ。
若干24歳の若き探偵ニール。技術は一流ながらも心はまだ純粋という名の宝石を秘めている男。
この手の諜報物では騙し合いの攻防戦は当たり前で、登場人物も歴戦の強者ばかりなので、いちいち傷ついてもいられないというのが定石だが、ニールの若さが探偵の、真実を知ることで自分の中で何かが失われている寂しさを体現しており、やはり私は彼にフィリップ・マーロウを重ねてしまうのだ。

またこのシリーズではあえて現代を扱わず、70年代と激動の政治・世界情勢そしてカルチャー時代を扱っており、当時アメリカが抱えていた危惧と懸念と不安がバックグラウンドとして描かれているが、本書ではまさに今の中国を予見する内容が書かれている。

この世界人口の1/4を占める一大王国が発展することで世界に及ぼす影響、そしてアメリカが中国人のどこでも生活でき、成功を収めることができるパワーを恐れていることが克明に書かれる。したがって当時の中国政治の混乱はアメリカにとって中国の成長を阻むことすれ、促進させるものではないと奨励していたのだった。
本書でCIA工作員シムズが得々と述べる発展した中国のエネルギー消費量の増加、食品消費量の増加と世界の需給バランスの崩壊はまさに現代我々が直面している問題だ。刊行されたのは原書が1992年、訳書が1997年と13年も前の作品だが、ここに語られるテーマは今日的なものだ。
『このミス』1位がきっかけでウィンズロウを手にしたが、出来るだけ多くの人に読んでもらいたいと思った。

また登場人物リ・ランが語る家族に起こった物語、毛政権が国民に当時何をしたのかという粛清の歴史が一家族の視点で語られる部分は、アメリカ人のウィンズロウがよくもこれだけ東洋思想・政治を曲解せずに書いたものだと感心した。歴史の一証言として残しておくに価値ある記述だ。

そしてやはり触れずにいられないのが通訳伍とニールの交流だ。ニールが伍に教えるスラングが物語のアクセントになっており、最後のシーンで実に効果的な演出をかもし出す。思わず「決まり金玉!」とこちらまで云ってしまいそうだ。
そして何よりも毎度書かれるニールの本に対する愛情が本読みの興趣をくすぐる。中国で九龍城から抜け出したニールが読書への渇望をもらし、西洋図書禁制下の中、町の書店に掛け合って表に出ない在庫に隠されたアメリカ文学の数々と遭遇するシーンは本読みならば自身の好きなジャンルに擬えて垂涎の思いを抱くところだ。

さて一見どのような物語なのか想像するのが難しいちょっと奇妙な題名だが、その中でも最も目を引く「仏陀の鏡」とは物語の終盤の舞台になる四川省の奥地にある峨眉山の山頂から深き谷を見下ろすと霧の中に本当の姿を映すという伝説から来ている。そこへ行くことが今回ニールが目指すべき所であり、知るべき真実が待つ所なのだ。
前作の原題「地下に吹く一迅の涼風“A Cool Breeze On The Underground”」も一見語呂が悪い―特に邦訳では―題名だと思うが読み終わってしまうとこれほどぴったり来る題名もないと思わせる。若き文豪、いや決まり文句遣い師ドン・ウィンズロウの絶妙のコピーだ。

しかしW杯中の読書は辛い!いつもは家でじっくり読むのだが、出来る限りW杯中継を見たいがために通勤時、職場での昼休みなど断続的な読書をせざるを得なかった。
ちなみに前作も海外出張中で移動時間や待ち時間を利用しての読書だった。これがもしいつものような読み方だったら評価はもっと上になったかもしれない。
すまん、ウィンズロウ。W杯が終わったらもっと誠実な態度で読みます。


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仏陀の鏡への道 (創元推理文庫)
ドン・ウィンズロウ仏陀の鏡への道 についてのレビュー
No.112:
(8pt)

ところで映画化の話はどうなった?

重厚長大とはまさにこのこと。
しかし単に長くて厚いだけなら退屈を促すだけだが、驚くべきことに本書とはそれは無縁の言葉だ。一言で云うならば、圧巻。この言葉に尽きる。

日本のミステリシーンにその名を留めさせたのが本作『深海のYrr』。上中下巻の三分冊で合計1,600ページ以上もありながら、刊行された2008年の年末の『このミス』では11位に食い込んだ。

深海に埋蔵されているメタンハイドレードの氷塊に巣食う大きな顎を持ったゴカイの発現を皮切りに、クジラやオルカたちが人間を襲い、世界中で猛毒性のクラゲが異常発生する。そしてフランスの三ツ星レストランではロブスターがゼリー状の物質に侵食され、人間にも害を及ぼす。

さらにゴカイはメタンハイドレードを侵食し、とうとうノルウェー沖の大陸棚の崩壊を招き、大津波がヨーロッパに起き、数万人もの命を奪う。そして被害の外だったアメリカにも白くて眼のないカニが数百万匹という単位で上陸し、病原菌を撒き散らし、ニューヨークを死の街にしてしまう。

地球全体の7割を占める海だが、その正体はほとんど謎に包まれており、作中でも語られているがメタンハイドレードなる次世代エネルギー資源が地球規模で埋蔵されているのが発見されたのもつい最近の事だ。
この未知なる神秘の世界で起こる世界的変事を大部のページを費やし、詳らかに作者は語っていく。神秘であるが故にそれが起こりえると納得してしまうような内容だ。

さてこのイールと名づけられた太古からの単細胞生物の襲撃はもちろんこれには人類が地球に及ぼした環境破壊が根底になっているのだが、それにも増して強調されるのは人間がイルカやクジラ、オルカなどの海棲類にしてきた仕打ちに対する怒りが込められている。

本当かどうか解らないが、本書ではアメリカ軍がイルカやオルカの脳に電極を入れて思考回路を解明しようとし、動物兵器を作る計画があったことが語られる。その仕打ちは正に人類のエゴ以外何物でもなく、動物愛護者でなくとも憤懣やるかたない所業だ。

しかし裏返せばこれほど西洋人の自然に対する保護意識を高める内容もないなと気付かされる。最近のマグロ漁獲規制やシーシェパードによる蛮行とも思える捕鯨反対運動など、こと海の生き物に対する西洋人の反発の強さは最近日に日に強さを増している。
本作が書かれたのは2004年だから現在に続くそれらの運動に繋がっているように感じる。作者シェッツィングはドイツ人だが、彼も海棲類にはそれらのグループに共通する愛着以上の感情を抱いているのかもしれない。

またパニック小説でありながら、登場人物のキャラクターにも彫り込んでおり、そこにもページを随分割いている。

主役の1人、レオン・アナワクは自身がネイティヴ・アメリカンの出自である事をひたすらに隠そうとする。翻って彼が忌み嫌うジャック・グレイウォルフはアイルランド人の父親とネイティヴ・アメリカンの混血児である母親の間に生まれたが故に、自身がネイティヴ・アメリカンであるアイデンティティがないのだが、逆に彼はオバノンという姓を使わず、グレイウォルフと名乗り、ネイティヴ・アメリカンたろうとする。
この両者の二律背反な位置づけは、逆にレオンをして近親憎悪を抱かせている。つまり彼はジャックが鏡に映った自分のように感じられてならなく、それがかえって彼の反感を買っているのだ。

またもう1人の主役シグル・ヨハンソンもスタットオイル社の社員で友人であるティナ・ルンを愛していると知りながら、恋人がいることを知るが故、本心を隠す。
そしてティナも恋人がいて初めてヨハンソンへの恋慕に気付かせられるのだ。

彼ら以外の脇役にも人物造形にはページを割いており、中編から陣頭指揮を執るジューディス・リーは真の天才である人生が語られ、くじけることがない強靭な精神が起因するところまでしっかりと描かれる。

ティナの退場で新たなヒロインとなるジャーナリストのカレン・ウィーヴァーもまた、どんな僻地や未踏の大地まで恐れずに身体を張って取材する姿勢が過去両親を幼い頃に亡くした際に心が折れ、転がるように堕落していった人生がある日入水自殺からの生還を期にタフな心と身体を持つに至る経緯が語られる。
彼女の造形には『砂漠のゲシュペンスト』の主役ヴェーラを想起させるものがあった。

本書3冊で登場人物表に挙げられた人数は37名。それらのほとんどにエピソードが織り込まれているからこれだけ長くなるわけだ。

さらに加えて様々な分野に関した詳細な情報がふんだんに盛り込まれており、読者の知的好奇心をそそる。
最新の深海調査内容については前述したとおりだが、他にもジョディ・フォスター主演の映画『コンタクト』で取り上げられた地球外知的文明探査機関、通称SETI―おそらく実在するのだろう。数万年後に返事が返ってくる地球外知的生命体との情報交換を生業としている国の機関があるというのはアメリカという国の懐の深さに感服する。日本ならばかつて話題となった事業仕分けで真っ先に切り捨てられることだろう―や石油会社の台所事情、津波のメカニズムについての詳細な記述、最新鋭空母についての詳細な説明、などなど、通常我々が触れることのない分野の情報が事細かに書かれている。
本書を著すにこの作者が費やした労力を考えると気が遠くなるような思いがする。

それらの中でも特に興味深かったのが、長年枯渇が叫ばれている原油について実はそれが全てではないことが書かれている。
本書によれば原油はあるにはあるのだが、それを採掘するコストと売上の採算が合わなくなってきているというのが実情らしい。自噴する油井がやがて圧力低下により、人工的に汲み上げるしかなくなったとき、莫大なコストがかかり、ここでコストバランスが崩れてしまうため、撤退せざるを得ないらしい。従って石油採掘会社は現在オートメーション化を推し進めているが、それにより従業員の大幅な解雇が問題になってきているというのだ。

また産業界と学術界の価値観の相違についても興味深く読んだ。
曰く、学術界は不明な点について明らかになるまでゴーサインは出さないが、産業界は不明点が致命的と判断されないならば、すぐさまゴーサインを出すというもの。この辺は学術探求者集団と資本主義者集団の意識の違いが如実に表されていて面白かった。

そしてこれまでの著作ではドイツ、しかもケルンと、自身の熟知したフィールドを舞台に作品を著してきたシェッツィングだが、本作ではノルウェー、カナダのバンクーバー、ニューヨークからはたまたイヌイットの住む北極、そして空母の上まで舞台がワールドワイドに展開する。なにしろ最初のプロローグの舞台はペルーの沖である。
開巻と同時に今まで読んだ彼の作品とは一味も二味も違うことが一目瞭然なのだ。

そして各地で語られる内容もまた濃密である。舞台となる場所の名所やレストランはもとより、そこに生活する人々の独特な風習や生活様式まで書き込まれている。個人的にはアナワクが父親の死を悼むために帰郷する北極圏のイヌイットでのエピソードがとりわけ印象に残った。

特に本書はイールに対抗する国として全てのディザスター作品の例に漏れずアメリカ合衆国を中心に据えており、そして例によって世界のリーダーシップを取りたがるアメリカ人の醜いエゴが揶揄的に描かれている。
この辺はフリーマントルの諸作でも常に見られる傾向だ。欧州人はやはり似たような反米感情を持っているだろうか。

とにかく派手派手しく大規模なカタストロフィを次から次へと繰り出しながらも内容は全く荒唐無稽さを感じさせない。それは上述したように作者はその1つ1つに現代科学の最新情報を織り込み、専門知識を詳細に説明しながら、それらが起こりうるべくして起こったのだと納得させる。

上に挙げたような構成だから各々ページの上中下巻という大部になるのはもう致し方ないか。しかし不思議な事に全くだるさを感じない自分が居た。むしろ毎日読むのが愉しみでパニック小説でありながらも結末を早く知りたいといった性急さにも焦がれなかった。ただこの作品に出てくる人物達の生き様や世界が崩壊していく行く末をじっくりと読みたい自分がいた。
今までシェッツィングの作品を読んできた私の感想は決して好意的ではなかっただけにこれは今までになかった感情である。

正にフランク・シェッツィングが作家として全身全霊を傾けた渾身の一作である本書。『砂漠のゲシュペンスト』で見せたエンタテインメント作家としての洗練さが花開いた感のある大作だ。
しかしだるさを感じないとはいいながらもやはり1,600ページ強はやはり長く、再読するには躊躇ってしまう。次作はもっとコンパクトにさらにエンタテインメントに徹した作品を期待したい。


▼以下、ネタバレ感想
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深海のYrr〔新版〕 1 (ハヤカワ文庫NV)
フランク・シェッツィング深海のYrr についてのレビュー
No.111: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

最初から結末が見えているのに読ませる

切ない。なんとも切ない物語だ。

脳を移植された男が次第に移植された脳に支配され、性格を変貌させていく。

プロットを説明するとたったこの一行で済んでしまうシンプルさだ。しかしこのシンプルさが実に読ませる。
この魅力的なワンアイデアの勝利もあるだろうが、やはり名手東野氏のストーリーテラーの巧さあっての面白さであろう。

実はこの作品にはかつて別の形で接していた。
それはこの作品の漫画化作品で確かヤングサンデーで『HEADS』という題名で連載されていた。作者は『イキガミ』でも名を馳せている間瀬元朗氏。
当時私は東野作品を読むことは全く考えていなかったのですぐに読んだが、脳移植手術を施された主人公が徐々に自分らしさを失っていく当惑と恐怖が次回への牽引力となっていたのをよく覚えている。そしてその作品がきっかけで間瀬氏の作品を読むようにもなった。

しかし幸いにして当時の私はどんな理由だったか解らないが、その漫画を最後まで読むことはなかった。従って結末は知らないままなので、初読のように読めた。また各登場人物のイメージが『HEADS』で描かれた人物像だったのは云うまでも無い。

人の臓器を移植された時点で人はもうその人そのものでなくなってしまう、そんな感慨を抱く人もいるようだ。
そして本書は臓器の中でも人格を形成する脳を移植されるわけだから、アイデンティティに揺るぎが出てくるのは必然だろう。

21世紀になって18年経つ現在、本書に書かれているような脳移植手術は実現していない。現在から遡る事28年前に発表された本書は、脳移植がアンタッチャブルな領域である事をひしひしと感じさせ、その恐ろしさをじわりじわりと感じさせる。
しかし作者は別に警鐘を鳴らしているのではない。本作の前に書かれた『宿命』では脳を対象にした人体実験が物語の隠し味として扱われていたが、本書ではそれを前面に押し出して実験体となった男の行く末を一人称で語っていく。
つまり脳、そしてそれによって形成される自分という物の正体を脳移植というモチーフを使って探求しているようだ。

確かに科学的根拠としてこんな事が起きるのかという疑問はあるだろう。出来すぎな漫画のようなプロットだと思うかもしれない。
しかしそんな猜疑心を持たずに本書に当って欲しい。

90年代に自分探しというのがちょっとしたブームとなった。
自分は一体何者でどこから来たのかというルーツを探る、一人旅をして裸の自分と向き合う、そんな風潮が小説はもとより映画やあらゆるメディアで用いられた。この作品はそんな自分探し作品の変奏曲だ。
失われつつある自分を必死に引きとめようとすることで他者を意識し、自分という存在を意識する。脳移植をモチーフに変身していく男の苦悩と恐怖を描く事で凡百の自分探し作品に落ち着かない作品を描く東野氏。さすがである。

自己のアイデンティティへの問い掛けから最後は人生について考えさせられる本書。
物語の閉じられ方がそれまでの過程に比べ、拙速すぎた感が否めないが、ワンアイデアをここまで胸を打つ物語に結実させる東野の物語巧者ぶりに改めて畏れ入った。


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変身 (講談社文庫)
東野圭吾変身 についてのレビュー
No.110: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

ある有名な古典作品を想起させる佳作

いまや本家北村薫と双璧を成す日常の謎系ミステリ作家の地位を確立した加納朋子の鮎川哲也短編賞受賞作を含むデビュー短編集。
本書は児童書「ななつのこ」を読んだ主人公入江駒子が作者にファンレターを送った事をきっかけに、同書に収録されているお話に準えて彼女が出逢ったちょっと不思議な体験について作者の佐伯綾乃に手紙を書き、その返事によって謎が解かれるという体裁を取っている。

まず「スイカジュースの涙」は駒子がある早朝に短大へ通っている時に遭遇した点々と続く血痕の謎について語った物。
散りばめられた事実は雄弁すぎるほどに血痕に隠された事件について語っているため、謎の難度は比較的軽い。作者の世界観と物語の構成に関して紹介を行った軽いジャブといった作品だ。

続く「モヤイの鼠」は渋谷を舞台にしたある奇妙な出来事の話。
題名にあるモヤイ像に群がる鼠たちは果てしてこの物語に何をもたらしているのだろう?
しかし渋谷駅は通勤の乗換駅なのでよく行くため、書かれている情景がすぐに解った。こういうのを読むとやっぱりミステリ含め、小説というのは東京ありきなのだなと思う。

「一枚の写真」はある日長年空白だったアルバムの、駒子が3歳前後だった頃の写真が19歳の今頃になって友人から返される理由を推理する。
本格ミステリの賞だということを勘案すればもっといい短編になっていたに違いない。

「バス・ストップで」の謎は自動車教習所に通いだした駒子が遭遇した老婦人と少女の奇妙な行動について。
しかし本作はそんな謎よりも駒子のロマンス相手となりそうなバス停で出逢った男性の出逢いに集約される。バス停でバスを待っている間という場面に加え、突然雨が降り出して傘が必要だと思い、相手に傘を差し出すシチュエーションなど、状況的にかなりベタなのが惜しいところだ。70~80年代の出逢いのシーンといいたいくらい古めかしい。

「一万二千年後のヴェガ」では再びバス停で出逢った青年と駒子が再会する。
「バス・ストップで」で出逢った瀬尾と再会するという、本短編集にロマンス風味が加わってきた作品。従ってメインの謎であるブロントサウルスの移動よりもやはり瀬尾と駒子との触れ合いが物語の主旋律となっている。

本書の中でもとりわけ文学色が強いのが「白いタンポポ」。
謎としては少女がなぜタンポポを白く塗るのかということになるが、それが前面に押し出されているかと云われればそうではなく、やはり主題は真雪と駒子の交流だろう。自分にも同年代の子供がいるせいか解らないが、こういうホッコリするような話が最近特に印象に残る。

そして本書の締めとなるのが表題作「ななつのこ」だ。
連作作品を締めくくるだけあって、それまでの関係者が一同に会し、そしてまた全体の謎が解かれる。
謎は歯医者で治療中の時は2鉢だったペチュニアが、1階の喫茶店から見上げると4鉢に増えているという物と、プラネタリウムの最中に少女真雪が失踪してしまうことだろう。どれも謎の妙味としては実に希薄だが、物語性は逆に濃い。また題名に示されているように「7」に拘ったモチーフがそここにあしらわれている。プレアデス星団、通称昴の第7の星に関するエピソードや7歳の真雪。七話目というのも隠れた7だろう。

北村薫に端を発する日常の謎系ミステリの新たな書き手の誕生と騒がれた加納氏だが、本書に収められた作品は読み進めるにつれて謎のスケールが小さく萎んでいっているように感じた。いや正しく表現するならば、日常の謎よりも駒子を取巻く人物達の物語を描く事に力点がシフトしていったように感じた。

その転換点となるのが、キーパーソンである瀬尾が登場する「バス・ストップで」からだろう。この瀬尾という存在が短大の友人達とで構成されていた駒子の世界が外側へと広がり、他者との関係性が深化していく。

オリジナリティ感じる点はやはり作中作である児童書「ななつのこ」のお話に擬えた駒子が体験する日常の不思議という設定だろう。どちらがニワトリでどちらがヒヨコか解らないが、よくだれずに最後まで貫き通したものだ。

ミステリという視点から論じれば各短編での謎よりもやはり作品全てに共通する児童書「ななつのこ」の作者佐伯綾乃の謎こそがこの短編集で語りたかった謎だ。

先に述べたように鮎川哲也賞受賞作として捉えるならば、首を傾げざるを得ないほどミステリ色は希薄だが、ここはいまどき珍しい純粋かつ甘酸っぱい物語と行間から感じ取れる作者が本作に込めた想いに素直に賞賛を贈って、8ツ星としよう。


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ななつのこ (創元推理文庫)
加納朋子ななつのこ についてのレビュー
No.109: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

これもまた歴史

地下1階にあるカウンターのみのバー『スリーバレー』に通う常連3名。某私立大学教授の三谷氏にその美人助手、早乙女静香。そして雑誌のライターで在野の研究家宮田。
この3人が一同に会する時、宮田が常識を覆す珍説が開陳し、喧々諤々の歴史談義が花を咲かす。

本書は発表当時『このミス』でも8位にランクインするなど、予想外の好評を以って迎えられた連作歴史ミステリ短編集。

5W1Hで語られる歴史の謎6編―正確に云えば4編目の“WHAT”は動機を尋ねているから“WHY”と同じなのだが―。歴史は覆されるとは別な意味で使われるが本書は正にこの言葉がぴったりの逸品。

今までそういう風に教わっていた事は実はよくよく考えてみるとおかしな部分がある、というのは良くある事で、本作は誰もが常識、通念として捉えていた歴史的事実に潜む矛盾に論理の一突きを食らわす知的興味溢れる歴史ミステリだ。

歴史学者や考古学者、古典文学研究家など、古代史に携わる人々によって確立されてきた歴史的事実。しかし実はこれらが口承や伝聞でしかないことも確かで、それが恰も既成事実として語られ、いつの間にか我々の常識になっている。それはやはりその道の権威ほど通説、定説に目を眩まされてしまうからだ。
象徴的なのは表題作と3編目の「聖徳太子はだれですか?」だ。

日本史の研究者達は昔から伝わる書物を解明の手掛かりに歴史の謎を探る。つまりそこに書かれている意味を見出す事で歴史の空白を埋めていく作業を行うわけで、つまり歴史書の類いを鵜呑みにしがちである。
しかしこの2編では邪馬台国について書かれている「魏志倭人伝」を、聖徳太子の事が書かれている「日本書紀」の記述を疑う事でそれぞれの真相に迫っていく。これら2つの書物は学校の教科書にも出ている有名な物で、これを疑うという行為自体、かなりの冒険的なのだが、本書の面白さはそういった権威を疑い、覆す事にある。

また面白いのは日本語の意味の解釈の仕方によって事実の捉え方が変わることだろう。なるほど、日本語の意味が時代と共に変わっていっているのは知られているが、現代の意味で紀元前や1000年以上前の記述をそのまま訳すとまったく違った解釈になる。これが本作での肝である。

仏陀が王族の息子と捉えられていた事実は、学校に通っているという事実から王家の者ならば自宅に先生を呼びつけるはずだという常識的観点から矛盾するし、卑弥呼が占いによって人心を惑わせていたという記述は「惑わせる」という言葉は昔は「摑む」、つまり信頼を得ていたという意味だったということで卑弥呼の統治に対する印象がガラリと変わる。

これら珍説を肯定するために書かれたたった50ページ前後の短編に注ぎ込まれた知識の膨大さ、調査内容の豊富さを考えると作者鯨氏が費やした時間と労力に賞賛を贈らざるを得ない。本書で検証されていくプロセスは世に知られる歴史書の数々に記載された記述はもとより、在野の研究者や作家たちの検証結果にも及び、単に読者へ驚きをもたらすためだけでは済まされない物がある。なんとも誠意溢れる仕事だ。
恐らく作者の本懐はそういう裏方仕事を想像せずにただ愉しんでもらえればそれでいい、それだけかもしれないが、私はこれを面白かった!だけで済ますことが出来ない。
巻末に記された各短編における参考文献の数は最低でも5冊を数える。短編1作を著すにしては異例の数だろう。

しかし作者の本質がここにあるのならば、この調査自体は生みの苦しみではなく、自らの知的好奇心の探求と自説の啓蒙というカタルシスを得るがために行った、実に楽しい頭脳労働だったのではないかという気がする。
在野の一研究者であった鯨氏が満を持して放った論説集。正直云えば最後の方の作品には息切れを見え、完成度は落ちると感じたが、私は十分に愉んだ。


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邪馬台国はどこですか? (創元推理文庫)
鯨統一郎邪馬台国はどこですか? についてのレビュー
No.108: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

仮面の在処は最後に

その題名からいわゆる“嵐の山荘”物を連想するが、確かに本書はそのジャンルに類いする物である。
が、しかし館の関係者が外部に出られない状況というのが突然の強盗の襲撃と篭城という非常に特異なシチュエーションであるのが、この作家を他のミステリ作家と一線を画する存在にしている。そんな緊張状態の中での殺人劇という、実にアクロバティックな手法を繰り出す。

強盗襲撃という心的疲労に加え、殺人事件の勃発とさらに関係者の心労は募る。従って次第に人格者であった彼ら・彼女らの精神状態も脆くなり、泥沼のやり取りが繰り広げられる。
まさしく「仮面」を被った者たちの饗宴だ。

しかしそれらは典型的な密室劇のフォーマットに則った展開とも云える。
しかし東野氏はさらに読者の想像の上を行く。最後10ページ弱の中で明かされる大どんでん返しに読者はしばし呆然とするに違いない。

最初私は、“嵐の山荘物”といい、題名といい、あまりに本格ミステリど真ん中の内容にちょっと面食らった。
というのもこの前に発表した『宿命』から人の心の謎に焦点を当てた第2期東野ミステリの幕開けを確信しており、それ故、今回も人間関係の綾と心の謎がメインのミステリになると思ったからだ。
しかし最後の真相に至り、やはり東野氏の興味はそこにあるのだということを再度確信した。

正に「嵐の山荘物東野風変奏曲」とも云えるこの作品。ここは素直に作者の入念な企みに拍手を贈ろう。


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仮面山荘殺人事件 新装版 (講談社文庫)
東野圭吾仮面山荘殺人事件 についてのレビュー
No.107:
(8pt)
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早すぎたエンタテインメント作品

瀬名秀明氏が『パラサイト・イヴ』で通称“理系ホラー”で鮮烈にデビューし、理科系作家によるミステリ・ホラーのブームの引鉄となったのが1995年。それに先駆けて1993年、既に梅原氏は本書を以って理系ホラーを世に出していた。
しかし版元が朝日ソノラマと認知度がさほど高くない会社であったためか、この作品は一部の読書通のみ知られる存在に留まり、彼の作家としての評価は次作『ソリトンの悪魔』が発表される瀬名氏デビュー同年の1995年まで待つ事になる。それも恐らく瀬名氏そして角川ホラー大賞が起こしたホラームーヴメントに牽引される形だったのではないだろうか。

ともかくも本書はなぜ発表当時に注目されなかったのかが不思議なくらい、よく出来た理系エンタテインメント作品である。
本書は端的に云えば、最新のバイオテクノロジーの知識をふんだんに盛り込んだ、仮面ライダーや秘密戦隊ゴレンジャーなどに繋がる、イントロンから生み出された生命体GOOと超人間UB、即ちアッパー・バイオニックで組織された部隊との戦いの物語だ。それを上下巻併せて1,000ページ以上の厚みで語りつくす。
作者梅原氏が考案した、人間を超人化するNCS機能、即ち<神経超伝導>という現象は壮大な嘘なのだが、それを裏付ける専門的科学知識が精緻に詳細に説明され、読者にさもありなんと思わせる。この一連の創作作法は瀬名氏の『パラサイト~』も同じ。本書はそれと相似形を成す作品だといえる。

瀬名氏はミトコンドリアを、梅原氏はイントロン配列と双方とも怪物の根源を元々人間が、生物の中に備わっていたある組織に着目しているところが全く同じだ。だが、梅原氏は瀬名氏よりもエンタテインメントに徹しており、とにかく次から次へ読者を愉しませるアイデアを放り込み、読者にページを繰る手を休ませようとはしない。

野心溢れる科学者の挫折から端を発したイントロンから生み出された怪物GOOとC機関という隠密部隊の闘い。そしてUBという超人の誕生から、更にはUBとGOOとのお互いの存続を賭けた世界規模での戦いへと物語はどんどんスケールアップする。
従って本書に挙げられる専門的知識は遺伝子工学、生命工学の分野に留まらず、軍事兵器・銃火器にも渡り、しかもそれぞれが詳細かつ緻密である。生半可な知識では到底書けない類いの物ばかりで、この梅原克文という作家の懐の深さ・資質をこの1作で存分に思い知る事ができる。


途轍もない大きな球体が転がり、触手を伸ばして次々に生物を捕まえては同化し、吸収していくという、この地獄絵図のような様子を読んで思い出したのは石ノ森正太郎の『幻魔大戦』だ。他にもまだ本作に繋がるモチーフは見つかるのかもしれない。
恐らくこの作品にはクトゥルー神話と『幻魔大戦』といった梅原氏の好きな作品がいっぱいモチーフとして詰め込まれているのだろう。

逆に本書から後世の複数のジャンルに渡って影響を与えたのではないかと思われる作品がいくつか連想される。

1つは発売されるたびに人気を博し、ハリウッドで映画化もされたTVゲーム『バイオハザード』だ。
本書でもこの単語は使われているが、この「生物災害」という意味のこの単語は本来ならば、感染性の強い開発中のウィルスによる災害を指し、本書でもこのGOOとの闘いはバイオハザードとは見なされていない。しかしゲームは本書で取り上げられた実験で生み出された未知の生命体によって起こされる災厄そのものを示している。本書の内容の近似性と両社に共通する「バイオハザード」という単語から類推するに、恐らくあの大ヒットゲームはこの小説に着想を得ているのかもしれない。

サイバースペースでの戦いは映画『マトリックス』を想起させる。特に超人間UBという、人間の限界を超越した存在は同映画の主人公たちがダブる。

そんな本書だが、一貫してモチーフとして作中にも登場するのがちらっと触れたがラヴクラフトのクトゥルー神話だ。生命体GOOはかつて“CTHULHU”の頭文字を取って“C”と名づけられており、深尾の前に何度も立ち塞がるGOOのコードネームはダゴン102。サイバーホラーに古典ホラーであるクトゥルー神話をハイブリッドした作品なのだ。
元々クトゥルー神話自体、その世界観を複数の作家で共有し、物語世界を広げていくシェア・ワールド構想が成された物であるから、この作品もまたクトゥルー神話大系の一作品となるのだろうし、恐らく作者の意図もそこにあるに違いない。

さてこの未曾有のエンタテインメント作品で梅原氏が採用した文体はなんと主人公深尾による一人称叙述。このようなパニックホラーを描くとすればこの選択は非常に珍しい。多面的構造を採用せず、主人公深尾を常に戦場の第一線に置くという設定だからこそ、この文体を採用したのだろう。
その判断は正しかったようで、主人公の逡巡、苦悩が直截に響き、また常に闘いの最前線に置かれる深尾と共に一寸先に潜む危険を探る臨場感に溢れている。

この深尾という男は、作中でも語られるようにいつか1人で会社を興し、成功者を夢見る野心に満ちた遺伝子科学者だったが、自ら引き起こした惨劇を苦に政府の機関である遺伝子操作監視委員会に所属するエージェントに身を窶している。そのようなエリートにありがちな自分の実力に絶大な自信を持つナルシスト的側面と周囲を見下す視線を持ち、一匹狼を気取り、上司に歯向かう姿勢を備えて、また過去の過ちに常に自責の念を抱き、自ら危険に踏み込む自殺的思考―本書ではアープ症候群と呼ばれている―の持ち主だ。一緒に仕事をするにはいわゆる「イヤな奴」なのだが、その性格に合わせたハードボイルド調の語り口がマッチしていて嫌味を感じずに物語を読むことが出来る。

この文体は大いにチャンドラーを意識した物と思われる。多用される比喩がそれを特に裏付けている。しかしチャンドラーのそれとは違い、深尾が元科学者という特徴を出すためか、使われる例えも例えば「出会っただけで超伝導マイスナー効果のように反撥する」とか「全身のシナプスがアセチルコリンの分泌を停止したみたいだった」といった理系的専門用語を意図的に多用しているようだ。
この辺は物書きとして第一歩を踏み出した作家にありがちな、肩に力の入りすぎた感じが否めないのだが、私個人としてはそれほど悪くは感じなかった。

逆によくもこれほどのパニックホラーを一人称叙述で書き切ったものだと感心した。破綻無く進むストーリーテリングは重ねて云うが、梅原氏が既に作家としての実力を備えていることを見事証明している。

最新(1993年当時に構想のみされていたものも含めた)のバイオテクノロジーからダーウィンの進化論、そして恐竜の絶滅から新約聖書、サイバースペースなどなど、多種多様なジャンルを盛り込み、壮大なスケールで描いたスペクタクルホラー。
一言で云おうとすると、修飾語が多く付きすぎて収拾が付かなくなるほど、盛り沢山のエンタテインメント作品。
先に述べたように、本書の影響を受けたと思われる作品が好評を博している今、少し早すぎた作品だったのかもしれない。勿体無い。



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二重螺旋の悪魔 完全版 (クトゥルー・ミュトス・ファイルズ)
梅原克文二重螺旋の悪魔 についてのレビュー
No.106:
(8pt)

またも奇想のオンパレード

島田荘司氏、数年の沈黙を破っての大作。文庫版670ページ強を費やして語られる事件は御手洗シリーズの新作を待望していた読者の渇きを癒すのに十分な内容だ。
なんせ事件がすごい。

舞台はニューヨークのアパート、セントラルパーク・タワー。物語の導入部で語られる元女優が死の間際に話したたった15分のうちに34階の部屋から停電中に1階の住民を拳銃で殺して戻ってくる不可能状況から始まり、スーツを着た骸骨の顔を持った男が、ロックされたゲートを通り抜けて住民を射殺する事件。

さらに物語は53年前に遡り、そこで起こる不可解な連続殺人事件。3つの密室内で自殺したとしか思えない事件。さらに時計塔の大時計の長針の針を利用しての演出家の断頭殺人。そしてハリケーンの夜に突如起こったアパートのほとんどの窓が爆発した最中の建築家の転落死。貨物用エレヴェータに佇み、奇声を発する骸骨。それらの事件の陰に蠢くファントムという名の仮面を付けた怪紳士。
往年の島田氏のセンス・オブ・ワンダーが溢れんばかりに盛り込まれた奇想の応酬である。

そして本書に登場するのは若き日の御手洗潔。まだ石岡と出逢う前の、アメリカのコロンビア大学に留学していた頃の彼だ。
従ってここに出てくる彼は全知全能の神ではない。不可能状況・夢幻としか思えない奇妙な現象に惑わされ、思考する一個の探偵なのだ。石岡が主役を務める『龍臥亭事件』、『龍臥亭幻想』やレオナが主役を務める『ハリウッド・サーティフィケイト』などのスピンオフ作品に電話のみで登場して全てを解き明かしてヒントを与えるような超天才型探偵でまだないところがいい。

したがって非常に若々しい。『眩暈』までの作品でよく見られたフィールドワークに嬉々として没頭する彼の姿がここにはある。
なんとも嬉しいではないか。やはり御手洗はこうでないといけない。

さらに本書では舞台であるマンハッタンに纏わる様々な都市伝説が開陳される。マンハッタンの摩天楼が巨大な岩盤に作られていることは有名だが、その摩天楼が出来るに至った高層ビル競争の歴史、その地下には摩天楼に勝るとも劣らない巨大空間が広がっている都市伝説、そしてセントラルパークに纏わる逸話の数々。歴史の浅い国アメリカの中で最も急激に発展し、ロンドン、パリをも凌ぐ大都会となったマンハッタンという特殊な都市の秘密がストーリーに絡めて語られていく。
これこそ島田ミステリの真骨頂。本当に久々の本家御手洗シリーズを堪能した。

特にマンハッタンの地下王国についてはかなり信憑性が高いようで、マンハッタン界隈のホームレスの数が年々減っているようだ。しかもこれについては『モグラびと』なる本も出版されており、それに詳しく記載されている。

さて島田作品には従来からシャーロック・ホームズの影響が強く見られるのは知られているが、もう1つ特徴的に見られるのは乱歩の影。
今回は特に連続殺人事件の1つ、セントラルパーク・タワーの大時計の長針を利用した断頭殺人は乱歩作品でも幾度となく使われた殺人方法であった。

そして題名、連続殺人事件に現れては消える謎の存在ファントム、さらには物語の中心となるのが女優であることから容易に連想されるある有名な作品がある。そうガストン・ルルーのあの名作だ。これは島田流『オペラ座の怪人』なのだ。
ただあとがきにも述べられているが、本家が怪人と美女との悲恋の物語であるのに対し、本書はあくまでも不可能趣味、怪奇趣味を前面に押し出していること。従ってファントムが恋焦がれて止まないジョディ・サリナスなる女優がそれほど生涯を賭して守るほどの愛らしさ、崇高さを備えているとは思えなかったきらいはある。

とはいえ、さすが島田氏、最後に忘られぬ驚愕の真相を用意してくれる。
確かに摩天楼を形成するビルの頂上にはガーゴイル像など意匠を凝らした装飾が成されているのは映画でもよく見られたが、これを更に一歩押し進めたこの島田の奇想はなんともロマンティックだ。

そして物語全体に散りばめられた謎は今回も御手洗の閃きによって暴かれるが、果たしてこれを本格ミステリと呼んでいいものか疑問が残る。
確かに手掛かりとなる暗号もあれば、事件現場の見取り図も読者に提示されている。が、しかしそれでもこの真相を看破できる読者は皆無であろう。

また今回のメインの謎とされるたった15分間―その後物語が進むにつれてそれは10分間と更に短縮されるが―で1階から34階までいかに移動して殺人を成しえたかという謎の真相もまたある専門知識、いや薀蓄を知っていないと解けないものだ。唯一おぼろげながら真相が解ったアパートの窓が一斉に爆発した謎の真相もまた専門知識が必要であり、門外漢には全く解けないものだろう。

こうして振り返ってみると、もはや御手洗シリーズは読者との推理合戦の領域を超越し、作者の奇想の発表の場になってしまったのだなと一抹の寂しさを感じる。
しかしその作者の奇想が読者の予想をはるかに超え、実にファンタスティックである故に、私のような固定ファンがいつまでもいるのだ。この作風が許せる島田氏はやはり日本の本格シーンの中では唯一無二の別格的存在だといえよう。

久々の重厚長大の御手洗シリーズ。本作は往年の物と比べると勢いはやや劣る物の、その豪腕ぶり、斬新な奇想はまだまだ健在だと証明するに十分すぎる作品だ。


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摩天楼の怪人 (創元推理文庫)
島田荘司摩天楼の怪人 についてのレビュー
No.105:
(8pt)

ロボットが日常化する、少し未来のお話

ロボットが人間の生活に入り込んだ、今より少し先の世界をテーマにした短編群に「WASTELAND」という、ロボットのみが生存する近未来の地球を描いた短編が間奏曲のように語られる。

表題作「ハル」は愛玩用ペットロボットの名前が題名になっており、これにヒューマノイドが絡んだちょっと不思議な手触りのする作品だ。
人間が作った人工物が理論を超えた進化を遂げるというのは瀬名氏の過去の作品でも取り上げられていたが、これもそのテーマに沿った一編。ここではロボットに魂は宿るかという命題に取り組んでいる。近い将来、ロボットが単なる玩具や客寄せパンダではなく、一大産業として社会に本格的に盛り込まれていくであろう未来への警告か。

「夏のロボット」は子供の頃にロボットと不思議な人物と出会った出来事が語られる。
ロビタという人工知能を備えた学習型ヒューマノイドと娘の菜都美とのコミュニケーションで次第にロビタが人間に近くなっていくことに気付いた恵が至る真理が「ハル」とは同じなのにその受取り方が逆なのは面白い。片や畏怖や嫌悪感を抱くのに対し、恵は新たなる知性の出現の萌芽に地球上の唯一の知的生命体である人間が孤独感から解放されると喜びを示す。この感覚は理解できる。

個人的に好きなのは「見護るものたち」と次の「亜希への扉」だ。
前者の舞台はタイ。災害救助ロボット、地雷探査ロボットなど前2編にもまして現実味を帯びている題材である。リーというタイの寒村に住む女の子と犬とロボットの交流という、泣かせる要素を全て盛り込んだ作品である。読んでいる途中でリーの行く末が解ってしまった。
しかしここで語られるのはその悲劇を超えて尚且つロボット開発に挑むのかという杵島の覚悟を確認する物語。主人公はあくまで杵島というロボット技術者の挫折と再生の物語なのだ。
彼は災害救助にロボット技術者として携わるたびに、自分の開発したロボットが想像していた以上に役に立たない事に直面し、挫折感と徒労感を味わう。果たして自分は社会に貢献しているのだろうか、人間の役に立っているのだろうかと。しかし最後にパートナー岡田がかける言葉に救われる。
ロボットというのは希望の装置なのだという。誰もがロボットに希望を抱く。それは未来の象徴だからだ。だからその分失敗すると挫折感も大きい。恐らくロボット開発というのはその繰り返しだろう。しかしそれでもなお貴方はロボット開発は止めないだろう。それこそが大事だ。その努力を続ける事こそ理想に近づけく唯一の道なのだ。
このメッセージは瀬名氏がロボット技術者全てに送る励ましの言葉と私は受取った。
余談だが、地雷探査犬の名前アインシュタインに思わずニヤリとしてしまった。クーンツファンである瀬名氏の茶目っ気だろう。

そして「亜希への扉」はなんとも甘いラヴストーリー。
物語の冒頭で断っているようにこの作品はメルヘンだ。といっても模型が生命を宿してしゃべったり、動物がしゃべったりするような類いのものではなく、出来すぎたラヴストーリーと云えるだろう。
しかしこういうベタな作品もまたいいのではないか。それよりもこの作品で述べられる、成長期にある子供がロボットと交流して育ち、やがてロボットのAIを凌駕して成長してしまったときに直面する魔法が解けたときのような喪失感、そして永久的に動き続けるロボットに死のプログラムが必要になるというある人物の考えなど、実に興味深い。そこまで瀬名氏は考えているのかと驚嘆した。
また題名だがこれはハインラインの傑作をもじった物。これも作者の茶目っ気か。

そして本書の主題ともいうべき作品が最後の「アトムの子」だ。
各短編、そして幕間で挿入される掌編「WASTELAND」、これらに共通する1つの軸とも云うべき存在がある。それは鉄腕アトムである。マンガの神様手塚治虫が創作した人型ロボットこそ、日本のロボットの研究の始まりであり、究極形であり、ロボット研究者が至る道だという風に瀬名氏は述べている。その思いが結実したのがこの最後の短編だろう。ここで語られるのは非常に哲学的な話だ。

果たしてロボットに正義を教える事が出来るのか?
そしてまた正義とは一体何なのだろうか?

本書の登場人物の一人の口から語られるロボットが正義を信じる理由が実に哀しいながらも腑に落ちる。人間でも機械でもない継子である彼らがアイデンティティを失う代わりに彼らは正義をアイデンティティとして生きるのだというのは実に興味深い考察だ。

これらの短編群は直接的には関わりは持たないものの、全てが地続きであり、同一の世界で語られ、呼応している。ファンタジックな装いの幕間劇「WASTELAND」もまた最終編「アトムの子」で地続きとなる。

そして本書に挙げられているロボットは実に多彩。愛玩用ロボット、学習型ヒューマノイド、対話型AIを備えた受付ロボット、災害救助ロボットに地雷探査ロボットなどなど。
これらのロボットと人間が共存する世界、そしてロボットを介して築かれる人間同士の絆がまずテーマの1つと云えよう。ロボットがコミュニケーションツールとして、生活のサポーターとして、はたまたパートナーとして人間の生活の中に介入する世界が描かれている。そしてそれらロボットを通じて得られる人間同士の新しい絆もまたそうだ。人間が作ったロボットによって生かされる人間もまたあること。ロボットがいたからこそ知り合えた人々の物語がここには綴られている。

そしてもう1つは人造物がある日突然人間の理解を超えた行動をするだろうという予見だ。特にある日突然飛躍的に発達・進化するという発想はデビュー作の『パラサイト・イヴ』以来、瀬名氏が必ず作品のテーマに盛り込んできた内容だ。
本書では人口の産物ロボットが人間が持ちうる雰囲気、気配といったプログラムできない、抽象的な部分を次第に身に付けていくこと、そして自らの死に際を求め、いずこへと消えてしまうといった都市伝説的事象などが語られている。

ここが瀬名氏という作家の面白いところと云えよう。自身博士号を持つ科学者であるのに、彼の面白いところは論理や理屈では説明できない存在を受け入れている。理科系作家でありながら精霊などといった超常現象を導入するファンタジーを創作するところにこの人の特異性があると思う。

しかし瀬名氏は2002年時点でのロボット工学の最新技術を取材し、それから類推される人々の生活への影響、意識の変化などをしっかり足が地に着いた物語を紡ぎ、ロボットを扱った作品にありがちな人間がロボットに支配される社会を描くデストピア型の作品を書いていないところが素晴らしい。
しかしそれでもロボットが発展する上で直面するだろう云い様の無い畏怖を抱くこともきちんと描いている。

本書に収められたメッセージはそのまま瀬名氏からロボット研究者たちへのエールと云っていいだろう。ロボットが果たして未来に役立つのか、単なる道楽で終わってしまうのか、研究者たちは絶えずその悩みと直面しているに違いない。瀬名氏は現在のロボット技術の進捗とその未来を作品として著す事で彼らの後方支援をしているのだ。

本書の舞台は2001~2030年という近未来。2002年に発表された当時、瀬名氏はこの頃既にロボットは人間生活に入り込み、無くてはならない物と想像していたようだが、2018年の今、残念ながらその予兆はあるものの、この予見はまだ先のことになりそうだ。
果たしてここに語られるような未来は来るのか、まだ先は見えないが、こんな未来はまんざら悪くないなぁと思わせる、心温まる作品群だ。

ハル (文春文庫)
瀬名秀明ハル についてのレビュー
No.104:
(8pt)

初フリーマントルにうってつけ?

上手い。実に上手い。

相手に嵌められ、妻まで奪われて刑務所に入れられた男が出所を機に全てを取り戻すため、復讐を企む。今まで何度も使い古されたプロットであるが、そこはフリーマントル、普通の設定にしない。

なぜなら復讐者ジャック・メイスンこそ、元妻の安定した生活を脅かす悪の存在だからだ。彼はCIA勤務中はロシアに情報を流す売国奴であり、私生活では女を買うのは勿論の事、公然と浮気をし、妻に暴力を振るっていた最低の男なのだ。
この通常ならば主人公の宿敵となるべく恐怖の存在を逆に主人公として設定したところにフリーマントルの作家としての一日の長がある。

また逆を云えば、かつて自らの手で刑務所に送った男が出所し、主人公に復讐するという話もあるが、本書の特異な点は物語をこの同情すべからぬ復讐鬼側から描いたところにあると云えよう。

そしてこの復讐鬼ジャック・メイスンが通常設定されるようなサイコパス、性格異常者ではなく、元CIA諜報員であり、模範囚として減刑され、刑期を5年も縮めて仮出所した男であるという社会的常識を備え、かつ特殊な訓練を受けた男という点に注目したい。

元○○工作員、元グリーンベレーといった殺人能力に長けた復讐者という設定も往々にしてあるが、ほとんどの物語はその特殊性のみ取り沙汰され、復讐鬼=モンスターのような扱い方をされていたように思う。しかしフリーマントルはジャックをそう描かず、15年も刑期を勤めた出所者からスタートし、そこから社会への順応、徐々に復讐の計画を積み上げる過程、そして復讐を成すために積み上げる男として、元諜報員としての自信の回復、そして一方ではいざ実施となった段に逡巡する心理状態などを細かく描く。つまり復讐鬼が社会的不適合者という異常者というような定型を採らないところに本書の読みどころがある。

そして今回復讐を受ける側、ドミートリイ・ソーベリことダニエル・スレイターとアン、そして息子のデイヴィッド一家側の設定もまた巧みだ。

ジャックが出所する段になって、突然彼らに幸運が紛れ込む。ダニエルは自らが経営する警備会社に新規契約と大きな取引が次々と来るようになり、アンは自分たちの住む地方都市フレデリックで営む自らの画廊に有名な画家の個展を開く話が舞い込み、それを成功させたことでメディアの取材に引っ張りだこになり、街の名士となりつつあり、息子のデイヴィッドもバスケットの才能を買われ、大学からスカウトが来る。
こういった人もうらやむサクセスストーリーが、復讐を恐れ、証人保護プログラムの庇護を受ける彼らには災厄の種でしかならない。この大きな幸運がさらに大きな不運を呼び込むストーリー展開の妙と、証人保護プログラムの盲点を付くこのフリーマントルの着想に思わず唸った。

主題がはっきりしているだけに、物語の行き着く所は実に明確だ。即ち復讐は成されるか、成されないかだ。
こういう単純な構造の物語はそのゼロ時間に向かうまでのプロセスに読みどころがあると云えるだろう。同じ復讐譚を扱ったP.D.ジェイムズの傑作『罪なき血』が正に好例と云える。
フリーマントルの場合はと云えば、云わずもがなで、復讐する側とされる側の双方を丹念に描き、全く飽きさせず、“その瞬間”まで双方を振り回す。

またフリーマントルはアメリカの証人保護プログラムに警鐘を鳴らしている。この堅牢と思われたシステムが、実はいくつもの欠点があり、その成功実績は薄氷の上に立つ危うさ、いや逆に情報が隠されているだけに絶対安心という虚像でしかないかもしれないのだ。
エルモア・レナードもこのプログラムには『キルショット』でかなり辛辣な評価を作中で下しており、アメリカ国民(フリーマントルは英国人だが)の中でもその信頼性を疑われているのが解る。

しかし本書を読んでいるときはそんなことは考える必要はない。CIA、KGBは出てくるものの、従来のフリーマントル作品と違い、政治的駆け引きが一切なく、物語がジャックの復讐のプロセス1点に絞られて進むのが非常に読みやすい。
彼のスパイ物に横溢するディベートの応酬も醍醐味だが、こういうシンプルな構成であるが故に、彼のストーリーテリングの素晴らしさが引き立つ。ぐいぐい引き込まれる物語に委ねるだけでいいのだ。

一般的に国際謀略小説の重鎮と呼ばれ、その格調の高さから敬遠されがちなフリーマントルの作品だが(それでも毎年コンスタントに訳出されているのは売れているからだろうが)、本書は彼の本を初めて読む人にはそういった意味ではまさに“うってつけの”一冊ではないだろうか。


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殺人にうってつけの日 (新潮文庫)
No.103: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

まだ闇残る時代のミステリ

京極夏彦氏鮮烈のデビュー作。綾辻以降の新本格から第2ステージに移行した本格ミステリシーンの時代の転換期の象徴とも云える妖怪シリーズ第1作だ。

とは云え、一読、実に真っ当な本格ミステリというのが率直な感想だ。
元々ミステリとは始祖ポーが、明らかに怪物の仕業である、または説明のつかない怪奇現象の類いであると思われた事象を実に明解な論理で解き明かすことを主眼にした文学形態である。つまり人々が恐れていた謎という闇の部分に論理という光を当て、人智の物とする行為。
この京極堂こと中禅寺秋彦の「憑物落とし」は正にこの行為そのものである。だからこの妖怪シリーズは妖怪というモチーフと物珍しさ、憑物落としという興趣くすぐる演出で新たな本格という風な捉えられ方をしたが、実は黄金期ミステリ時代への原点回帰的作品なのだ。

この現代社会にそぐわない憑物落としを違和感なく作品世界に落としこむために設定した舞台が昭和二十七年という時代設定である。戦後からようやく復興の兆しが見えてきたこの時代、闇夜はまだ怪異の居場所だった。そんな異界と斯界がまだ密接に隣り合っていると信じられていたこの時期こそ自身の作品を成り立たせるのがこの時代であったと後日作者自身が述べている。

そしてそれが時折挟まれる幻想味溢れる眩暈めいた文体も相まって、独特の作品世界を構築する。理詰めで構築される博覧強記の京極堂の薀蓄語りとどこか情緒不安定な“信頼できない”語り手である関口の妄想めいた語り口が程なくブレンドされており、デビュー作とは思えない独自の作品世界と文体を既に確立しているのが素晴らしい。

またこのシリーズがなぜ斯くも人気があるのかがこの1作で解る。
非常にキャラクターが立っているのだ。

古本屋京極堂を営む陰陽師安倍晴明の流れを汲む元神主で憑物落としを副業とする中禅寺秋彦。
三文作家でワトソン役を務める俗っぽい語り手である関口巽。
出版社に勤める活動的な女性で京極堂の妹敦子。
そして眉目秀麗、何をやらせても非凡な才能を持ち、更に人の記憶が見えるという特殊能力を持った薔薇十字探偵社を営む榎木津礼二郎。
関口と榎木津の戦友であり警視庁の刑事である木場修太郎。
第1作から斯くも個性的なキャラクターが総出演し、それを自在に物語に配置し、躍動させる京極氏の筆の冴え。

そして全編に繰り広げられる薀蓄、これまた薀蓄の波。
民俗学から端を発す妖怪、幽霊の存在についての考察から宗教論に錬金術、はたまた大脳生理学から量子力学まで、その内容は幅広く、しかも詳細だ。しかもこれらは単なるガジェットではなく最後の憑物落としに実に有機的に結実するのだから読み落としてはいけない。

なおこれも翻って考えれば、黄金期ミステリを代表するヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスに由来している事が解る。先にも述べたがこのシリーズは実に本格ミステリの王道に忠実なのだ。

そしてこれら博学な知識を動員して説かれる論理はなかなか心地よい物がある。幽霊を視認する事と脳の作用に関する考察、歴史上の人物と御伽噺の登場人物の存在として等価性とそれに対する現実と想像との判断基準に関する考察、知性や道徳性が生物の種の保存という本能に及ぼす歪んだ価値観、などなど興味は尽きない。
その中でも特に他人の記憶が視覚化するという榎木津の特殊能力に対する京極堂の論理的推論は非常に面白い物があった。

その榎木津もエキセントリックな風貌も相まって御手洗潔が初登場した時を思い出させる印象的なキャラクターだ。個人的には一番好きなキャラクターである。

そして話が進むにつれて、噂の久遠寺医院は伏魔殿の如き様相を呈してくる。
蛙のような赤ん坊、産まれてまもなくいなくなる嬰児、これら奇妙な噂と謎が実に間然なくロジックで解き明かされる心地よさ。
しかしその真相は実に複層する狂気が折り重なった戦慄の真相。
惑う人ほど弱く、そして自らの視野を狭め、最悪の選択をする。
このあまりに非人道的な行為が今回の失踪事件に繋がるロジックの妙はおぞましさはもとより耽美な美しささえ感じるほどだった。
この業が“姑獲鳥”なる妖怪を生み出してしまったのだ。

とまあ、実に私の好みと合った作品で、ここまで激賞の連続だが、メインの謎に関する真相はいささか期待はずれという感がないわけではない。
二十ヶ月間も妊娠している妊婦、密室から失踪した夫の行方と非常に不可解かつ魅力的な謎を提示しているが、その真相との落差が激しかった。

今まで述べたように、この妖怪シリーズは決して斬新な本格ミステリではなく、むしろ過去のあらゆる分野からモチーフを取り出し、それを咀嚼した上で完成した物語という一枚の絵であることは識者であれば一目瞭然だろう。
しかしそれは全くこの作品を貶める物ではない。逆に温故知新の素晴らしき実践例だと私は褒めたい。

本格ミステリに必須ともいえる謎という暗闇に日本古来より伝わる妖怪という怪異を施したこのシリーズと作者の着想。更には知識欲の充足をも与えてくれる博学な作者のデビュー作とは思えぬ練達の筆捌き。
次作を早く読みたい気分で今は胸がいっぱいだ。


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文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)
京極夏彦姑獲鳥の夏 についてのレビュー
No.102: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

東野作品第二期の始まり

運命の悪戯、そうとしかいいようのない三人の運命、いや文字通り“宿命”を描いた作品。
晃彦、勇作、美佐子の抱えるやり場のない感情の行方、お互いの間を交錯する想いが届きそうで届かないもどかしさが読み進むにつれて胸に痛切に響いてくる。

小学校からのライバルであった瓜生晃彦と和倉勇作。片や地元有力企業の創立者の息子の御曹司であり、片や一介の警察官の息子。
しかし勇作は天性のリーダーシップと知性で学年の人気者になるが、どこか世の中を嘲笑っている晃彦は孤高の存在として誰にも取り成す事もなく、我が道を行く。しかしそんな彼が唯一気にしていた存在が勇作であり、事ある毎に勝負してきた。そして勇作は晃彦に小学校、中学校、高校とずっと勝てないでいた。
やがて2人は同じ統和医科大学を受験するが、晃彦は受かり、勇作は不合格で浪人生活に。その浪人中に美佐子と知り合い、再び同じ大学を受験しようとする。今度こそ合格確実という時に父親が脳溢血で倒れ、受験できなくなる。バイトをしながら受験勉強をするが、耐え切れなく、警察学校に入学する苦渋の選択をする。
典型的な勝ち組と負け組を描いた対照的な2人の人生。自然、読者は勇作を応援する側に回ってしまうだろう。

しかしこれこそ東野圭吾氏が仕掛けたマジックなのだ。
家族のみならず妻の美佐子にも決して心の内を打ち明けず、いつも一人超然と佇む晃彦。彼の真意が終章に至ってようやく読者の眼前に明かされる。このとき、東野氏がマジックを解くのに、指をパチンと鳴らした音が聞こえたような気がした。

とにかくこの3人の人生に纏わる奇妙な結び付きが、冒頭からモヤモヤとした形で少しずつ眼前に差し出されるが、それは眼の前の靄を晴らすのではなく、新たなる靄を生み出し、更に読者を物語の深い霧の中へといざなうようで、居心地の悪ささえ感じた。しかしこれこそ東野ミステリの特徴であり、私はこういう趣向のミステリを待っていた。

本作は三角関係という恋愛小説の色も持ちながら、青春小説の側面もあり、なおかつ明かされる三人の過去には科学が生んだ悲劇という通常相反する情理が渾然一体となって物語を形作っているのが特徴的だ。この絶妙なバランスは非常に素晴らしい。
特に科学の側面を全面的に押し出さず、あくまで人間ドラマの側面を押し出して物語を形成したのは正解だろう。やはり「推理小説」はあくまで小説であるから、物語がないと読者の心に響かない。
個人的には勇作と美佐子が若かりし頃に交際していた件がベタながらも鼻にツンとくるような甘酸っぱい感慨を抱かせ、非常に印象に残ったエピソードだ。読んでいる最中、尾崎豊の”I Love You”が頭の中を流れていた。


しかし東野氏の熱すぎず、かといって冷めすぎない抑制の効いた筆致がありがちな過剰演出を抑え、逆に読者の心に徐々に一つ一つの事実が染み込んでいく。そして最後に明かされる真実が哀切に響いてくる。
ミステリを書く上で、これは最大の長所であり、続けて読んでもくどさが無く、飽きが来ない。これこそ彼の最たる特質だろう。

考えるに、本作は東野氏の第2期の始まりを告げるものではないだろうか。
デビュー以後、一貫して学生・学校を舞台に紡いだ青春ミステリを『学生街の殺人』で以って一旦結着し、その後『魔球』、『鳥人計画』といったスポーツミステリ、『浪花少年探偵団』、『犯行現場は雲の上』、『探偵倶楽部』といったライトミステリ、『十字屋敷のピエロ』、『ブルータスの心臓』といったオーソドックスなミステリを経て、再び青春小説のテイストとそれまでに培った科学知識を応用したミステリのハイブリッドを目指した人間に焦点を当てた東野ミステリの始まり、本書はそんな作品のような気がしてならない。
デビュー当時の青春ミステリと違うのは既に大人になった彼ら・彼女らが過去を振り返るところにある。そして事件の鍵がその過去に因縁に深く根差しているところにこの第2期の特徴があるように思う。

また本作が刊行された90年というのは一世を風靡した『羊たちの沈黙』が訳出された一年後である。つまりサイコホラー元年の翌年、世にはこの手のサイコホラー系ミステリが横溢していた。
そして本作もまたこの類いの影響下にあったに違いない。人の心こそ最も怪奇、恐ろしいというこのジャンルは当時画期的であり、東野氏はその側面に脳科学の分野にスポットを当て、独自のアプローチをしたに違いない。そして恐らく本作は後の『変身』に続く里程標的作品になっているだろう。

しかし本作はなんといっても文庫版の表紙のイラストに尽きる。この何の変哲もない屋敷のイラストが開巻前と読了後では全く印象が変わってみえる。
本書がスティーヴン・キングの代表的サイコホラー、『シャイニング』の表紙に酷似しているのは単なる偶然ではないのかもしれない。


▼以下、ネタバレ感想
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宿命 (講談社文庫)
東野圭吾宿命 についてのレビュー