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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
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スケルトン探偵ギデオン・オリヴァー教授シリーズ第4作目にして本邦初紹介第1作目。なぜ4作目から紹介されたのかといえば、本書がMWA賞、通称エドガー賞受賞作であったことが要因として大きいだろう。本作の出版は実は現在流布しているハヤカワ・ミステリ文庫ではなく、廃刊となったミステリアスプレス文庫から出版されていた。しかも本書はその叢書の第1冊目でもあり、新規固定客を掴む重要な役割として大きな期待がかけられていたのだろう。
物語の舞台はフランスのモン・サン・ミシェル。プロローグは富豪のギョーム・ロッシュが干潮時に貝の収集をしている最中に満潮に巻き込まれ、命を失うシーンから始まる。骨の鑑定家であるギデオンは彼の館で見つかったナチス時代と思われる古い骨が見つかったことで親友のFBI捜査官ジョン・ロウと共に鑑定に訪れる。そしてその最中、一族の1人が毒殺されるという事件に巻き込まれる。 ミステリという観点から云えば、このギデオン・オリヴァーシリーズは非常にオーソドックスな作りである。因縁となる過去の事件を発端とし、なんらかの形でギデオンが関係者に関わり、そこに骨に関する事件や出来事が起き、そして過去の因縁が基になる殺人事件が起き、ギデオンが真相に近づく中、彼も一命を失うような危機に陥るが、大団円に至る。シリーズ全てがこのパターンを踏襲している。派手な演出、驚愕の真相を期待する方にとっては物足りなさを覚えるだろうが、逆にこのマンネリさがこのシリーズに安定感をもたらせ、安心して読めるシリーズと云えよう。 とはいえ、このシリーズにさしたる特徴はないかと云えばさにあらず、本書の目玉はギデオン・オリヴァーが毎回行う骨の鑑定にある。この場面の描写は毎回微に入り、細を穿ち、専門的かつ学術的である。では一般読者の理解に困難を強いるかといえば全くそうではなく、専門知識を誰もが解りやすいように噛み砕いて説明しており、読後新たな知識が得られたという満足感がある。この骨の鑑定という読者の知的好奇心をそそる演出がこのシリーズの人気の半分を占めていると云えよう。 さてエドガー賞を受賞した本書の出来はといえば、確かによく出来ており、非常に卒が無い。上に述べたように物語の起承転結がはっきりしており、なおかつサプライズもある。巷間に様々なミステリが溢れている今ならば、本書に収められているミスディレクションは特段話題にするほどの物でもないが、読んで損を感じることはないだろう。 さて本書は版元である早川書房が新規創刊した文庫シリーズの集客戦略の一手として出版されたであろうことは冒頭に述べたが、幸いにしてこの作品はその期待を損ねることなく、ミステリファンのみならず広く親しまれたようだ。特にその年の『このミス』では第3位という高評価を持って迎えられた。その後この叢書が廃刊になり、本国アメリカで新作が出版されても長らく訳出されないという不遇な時代もあったが、ファンからの熱い要望により、版型をハヤカワミステリ文庫に移して再出版され、その後コンスタントに新作も出版されている。 本邦刊行から今に至って私はこのシリーズを読み続けているが、最も新刊が待たれるシリーズの1つになっている。もし何を読もうか迷っている方がいれば、まず手にとっても貴重な時間を失うことはないことを保証しよう。 |
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東京創元社が独自に編んだ短編集。構成はカーによるラジオドラマ脚本とノンシリーズの短編、エッセイと多岐に渡るが、なんと云っても本書ではミステリ書評家に今なお語られる江戸川乱歩によるエッセイ『カー問答』が収録されているのが目玉だろう。
さて独自に編んだ短編集というのはごった煮感が強く、マニアのためのコレクション・アイテムのような趣があるが本書もそうで、カーが世に発表した諸々の文章を完全網羅するという意義は買うが、作品としてどうかと問われれば、玉石混淆だろう。なぜならば今までの短編集でもそうだったが、カーは(というよりもほとんど昔の作家はそうなのだが)短編のアイデアを基にした長編作が多く、本書では「死を賭けるか?」や「あずまやの悪魔」がそれに当るし、また既出の短編の別ヴァージョンという作品もあり(「死んでいた男」、「黒い塔の恐怖」)、何度も同じ話を読まされているような感じがしてしまう。 さらに本書では当時のアメリカ推理作家協会の面々で催されたシャーロック・ホームズのパスティーシュを題材にした寸劇の脚本、そして乱歩によるエッセイ「カー問答」が収録されていることからも短編集というよりも彼の功績を残すための資料的価値の方が勝っている内容である。私にしてみればこの事に対して否定的な立場ではないが、では作品としてどうかと問われればやはり出来栄えは悪いとしか評することが出来ない。 しかしこの余分な収録物と思っていた「カー問答」が本書では最も面白かったのは確か。これが収録され、読むことが出来たことが評価を7点に上げている。つまり私もマニアということなのだ。 散文的になってしまったので纏めると、貴方がコレクターならば、もしくはミステリの求道者ならば本書は必携の書であろう。しかし単なるカーの、ミステリの一読者であるならば本書はお勧めできない。そういった意味で勉強のための1冊と云っておこう。 |
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所謂カーの歴史ミステリシリーズの第1作目とされている。本来ならば『深夜の密使』こそがそれに当たると思うが、あの作品はカーター・ディクスンでもカー・ディクスンでもない別名義で書かれていたせいで、カーの作品とは長らく気づかれなかったようだ。そのため公式的にはこれがカー初の歴史ミステリ作品と云われている。今回は世間の通説にならって、本書を第1作として感想を書くことにする。
さて第1作目ということもあって、真っ当な歴史ミステリに徹している。『火よ燃えろ!』や『ビロードの悪魔』で採られたような現代人がタイムスリップして事件の解決に当たるといった荒唐無稽さはなく、あくまで本書で探偵役を務めるのはその時代の人物である。 ディック・ダーウィンはフランシス・オーフォード卿を殺害したかどでニューゲイト監獄に死刑囚として収監されていた。しかし彼はそれが冤罪であることを知っていた。そのディックに1人の女性が訪れる。その女性キャロライン・ロスは叔父の遺産相続の権利があるのだが、結婚をしていないと無効になるとの条件があり、そこで死刑囚であるディックに目をつけ、遺産相続のために形式だけの結婚を求めに来たのだ。 その要望を受入れ、監獄で形式だけの式を挙げた2人だったが、突然ディックの死刑が中止になり、ディックは釈放されることになる。ディックは自分が死刑に追い込まれたオーフォード卿殺害の真犯人を探りあてることにする。 財産目当てに結婚した女性と図らずも結婚生活を共にすることになるという、なかなか類を見ないシチュエーションである。そして晴れて釈放の身となったディックのその後の活躍はなかなかに面白く、ヒロイック小説的な様相がある。 なぜカーが歴史をさかのぼってこのような物語を著したかといえば、当時のまだ万人に対して公平ではなく、理路整然としていないイギリスの法律の抜け穴を小説の設定に利用したからであろう。ディックが釈放されるのはディックが貴族の出で、死刑の前に爵位を持つ叔父と従兄弟が相次いで亡くなり、ディックに爵位が継承され、ディックの死刑判決が下されるのがその後だったことから、貴族であるディックは上院による判決が必要になり、それまでの判決が無効になる。そして上院での再審はなんと慣例的に無罪になるという、今では到底信じられない裁定が下されるのだ。 後年同著者の『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』を読んだ時にも強く感じたが、中世イギリスの法律というのは本当にいい加減で、貴族ら上級社会層の人間に有利に働くように制定されている。だからこそ生まれる珍事というのがあり、本書もそれに着目したことから本作のプロットを練ったに違いない。 さて事件そのものはあまり大した事がなく、本書はどちらかといえばミステリというよりも冒険活劇小説の色が濃い。私はカー=本格ミステリという先入観があったせいか本書はそれなりに楽しめるものの、カーの作品としてはどうかという疑問を持ってしまった。しかし実は本書を読むことで次に読む『ビロードの悪魔』に対する私の読書スタンスが決まったわけだから、『火よ燃えろ!』同様、今改めて読んでみるともっと面白く読めるかもしれない。 |
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カーは後年歴史ミステリを数作著しているが、本書もそのうちの1冊。しかしカーの歴史ミステリというのは他の作家とは違った特徴がある。
通常歴史ミステリとはその時代の実在の登場人物、もしくは架空の登場人物を探偵役にしてそのときに起こった事件の謎を解く、もしくは現代の人物が過去の文献や資料を当たって、歴史の闇に新たな見解を示す物と大きく2つに分かれるだろう。 カーの歴史ミステリはこの2つのジャンルミックス的なものといえる。彼の作風は現代の人物がタイムスリップしてその時代に云って騒動自体に巻き込まれて事件を解き明かすという一風変わった特徴がある。 さて事件の内容はといえば、ロンドン警視庁の警視がタクシーに乗っていたらいつの間にかそれが二輪馬車に変わっており、1829年のロンドンにタイムスリップし、創立間もないスコットランド・ヤードの一員となって、不可解な射殺事件を解き明かすといったもの。 私は英国史はもとより世界史にもさほど精通していないため、本書でどのような歴史的事実が盛り込まれ、活用されたのかは寡聞にして解らない。が、しかしカーの歴史ミステリの主眼は従来の作家が採る歴史上の謎となっている事件を持論を以って開陳するものではなく、その時代でしか成立しなかった犯行・トリックを使うがために歴史をさかのぼっている節がある。現代の日本人ミステリ作家でたとえるならば、二階堂黎人氏の二階堂蘭子シリーズや京極夏彦氏の妖怪シリーズが正にその設定を採用し、自己薬籠中の物として次々と作品を生み出している。 で、その結果、カーは時代を退行することによって生じる読者への先入観を上手く引き出し、成功しているといえよう。本書の射殺事件に使われた物こそ、この時代あってこそのものであり、それを上手くミスディレクションとして使っている。 それに加え、当時の風俗、風景描写に躍動感があり、正に水を得た魚のような筆致である。元々カーは若い頃から歴史物やノンフィクションを著しており(『深夜の密使』、『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』)、このジャンルに興味があったようだ。 ただこの特異な趣向が万人向きかと云えば、全面的に肯定できないところがある。タイムスリップという非論理的な趣向と事件を論理的に解き明かすという趣向が混じっているため、物語のスタンスが一定しておらず、なんだかちぐはぐな印象を受けるかもしれない。それは私も同様で、本作に対する評価があまり高くないのもこれがフィルターとなってしまったことによる。 物語について寛容になった今ならば、この作品は改めて楽しく読めるのかもしれない。時間があれば再読することも頭に入れておこう。 |
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カーのベストを挙げよと云われたら『火刑法廷』か本作かというくらい評価の高い作品だが、私個人の評価はさほどでもない。
本作はカーが密室物の大家としての名を確固たる物とした作品と云われている。それは2つの密室殺人が盛り込まれ、そのどれもが不可能性が高く、さらにとどめは有名なフェル博士による密室講義が挿入されていることによるからだろう。特に後者は世の本格ミステリファンの密室好きの琴線に触れ、後年多くの作家がこの講義を下地に改訂作業を行っている。 第1のはグリモー教授の部屋での密室殺人。犯人と思われた謎の男ピーター・フレイは銃声が聞こえてすぐさま駆けつけたにもかかわらず、姿を消していた。 第2の棺は街の袋小路で起きたそのピーター・フレイ殺害。雪の降り積もる中、しかも袋小路の只中で残されていたのは被害者のみの足跡。 しかし不思議なことにこの事件は同時間に行われていた。ピーター・フレイはなぜ同じ時間に全く離れた場所に存在できたのか? この非常に魅力的な謎が解明されるが、一読した後では十分に理解できないだろう。それはあまりに複雑すぎ、さらに危ういまでに偶然が作用しており、しかもこれらの不可能状況が実に微妙なバランスの上で成り立っていることが解るからだ。 カーが本作に密室講義を盛り込んだことからも本作を彼の数ある密室殺人物の集大成と捕らえていたのは間違いなく、本書に盛り込まれたトリックはそれまでカーが使っていたあらゆる物を盛り込み、実現させている。 しかしそれは解るのだが、盛り込みすぎて実にギリギリのところで成り立っているとしか思えず、読んだ後は「こんなに上手く行くのかな」と首を傾げてしまった。 もう一方の特徴、密室講義は読む価値ありだ。これは1935年当時、既に数多創作された密室を類別し、整理して非常に参考になり、また読みやすい。ただその性質上、他作家の密室物の真相を暴いている(作品名は出されていない)のは致し方ないところ。個人的に面白かったのはフェル博士が「我々は小説内の登場人物なのだから・・・」云々とメタ的発言をするところだ。 力作であるのには間違いなく、こういうトリックの応酬が好きな人には堪らない1冊だと思うが、私としては張り切りすぎて、やりすぎだという苦笑を禁じえなかったのである。 |
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カーのベストを募ると必ず選出される本書は実はノンシリーズの1冊。
出版社の編集員が作家ゴーダン・クロスの書いた実在の毒殺魔ブランヴィリエ夫人の物語を読み、そこに付せられた肖像画と自分の妻とのあまりの近似性に驚愕する。それ以来、妻がブランヴィリエ夫人の生まれ変わりであることを示唆する噂と奇妙な事件が彼の身の回りに起こる。 『緑のカプセルの謎』でも書いたが、カーは密室物と同じくらい毒殺物を著しており、本書もその1冊。今気づいたが後年読んだ『死が二人をわかつまで』と非常によく似たシチュエーションである。但し私の中ではこちらの方が評価は上。 もしかしたら本書を読んでもそれほど驚かない人もいるかもしれない。この趣向を取り入れた設定の作品は今たくさんあるからだ。しかしこれこそがそれらの作品の祖だと考えればかなりエポックメイキングな作品であることに気づくだろう。つまりポーが開祖としたミステリ、つまり人外の闇の部分に論理の光を照らして人智の物とするという新しい文学形態にさらにその形態を下敷きにして新たなるスタイルを確立したとまで云っても過言ではない。 特に読まれる方は全編に散りばめられた台詞や仕掛けに留意してもらいたい。出来れば結末を知った上で読めば、カーが含ませた数々のダブルミーニングに気づくはずだ。本書は例えば、列車に乗っているときに遭遇する進行方向から見る広告と逆方向から見る広告が角度によって全く違っている看板のようだと云えば解ってもらえるだろうか? ただし、ではカーのお勧めは?と未読の方に問われて、この作品を推奨するのはいささか抵抗がある。なぜならば本書はカーがこのような作品を書いたことに大きな意義があるからだ。HM卿、フェル博士シリーズなどを数多く著してきたカーだからこそ本作が光るのだ。 ぜひとも読んでいただきたい傑作だが、ぜひともそれまでにカーの作品を何点か当たっていただきたい。素直に勧められないこのもどかしさをどうか理解して欲しい。 |
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本書はカーによる歴史ミステリの1冊。創元推理文庫ではカー一連の作品で最後の方に位置しているが、本書はカーが晩年に書いた一連の作品群ではなく、1934年に別名義で書かれた作品。1934年と云えば、傑作と云われている、『プレーグ・コートの殺人』、『白い僧院の殺人』が書かれた年で、ようやくカーの作者としての油が乗り出す時期だったと云えよう。しかし一方でその年には『剣の八』、『盲目の理髪師』といった、首を傾げるような作品もあり、おいそれと作品の質が保証されないところがある。果たして本書の場合はというと・・・。
今まで書いてきたように、この頃読んだ一連のカー作品の評価はあまりよろしくない。特に『亡霊たちの真昼』のように、退屈な作品を読まされた(この表現は実は好きではない。なぜなら本に読まされることはなく、選んだ自身が“読んだ”のだから。しかしいかんともしがたい欲求不満が募る時はついこういう表現を使ってしまう。ご容赦願いたい)時には、なんとも読む意欲をそそられない物だと思ったものだ。 その予想通りに前半の展開は非常に冗長だ。1670年にロデリック・キンズミアなる男が遺産相続のためにロンドンを訪れ、そこで殺人事件、国家的陰謀に巻き込まれていくというのが物語の骨子だ。この国際的陰謀に際して、国王からフランスへ密使を頼まれることになるのだが、ここまでが異様に長く感じられ、なかなか動き出さない物語に忸怩たる思いをした。 が、そこはカー。その後の展開は悪くなく、このロデリックという男が次第に好きになっていく。こういう冒険譚が上に書いた頃の作品群と非常に対照的であるため、逆に云えば本作でカーの冒険小説、歴史小説に対する飢えを癒した感が受け取れる。 期待しなかった分、逆に面白く読めた作品である。今でも本棚にその書影を見かけると「意外と面白かったな、これ」と当時の読後感を思い起こす。 |
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カーのミステリの特徴として密室がよく挙げられるが、それと双璧を成すほどよく扱われていた題材が毒殺トリック。古来ヨーロッパでは毒殺による殺人事件が頻発しており、しかもそれらが連続殺人事件であることが多かったこと、そして伯爵夫人や公爵夫人といった王侯貴族の夫人達による実行が多く、スキャンダラスな側面を持っていたことが大いにミステリ作家達の創作意欲を刺激したようだ。その中でも多数の毒殺トリックを扱った作品を著したカーはとりわけこの毒殺という犯行に魅了され、独自に研究をしていたように思われる。
というのも本作には『三つの棺』で行われた密室講義に続く毒殺講義がフェル博士から成されるからだ。このことからもカーが密室と毒殺を自身のミステリのテーマとして掲げていたに違いない。 物語は巷で毒入りチョコレートを食べた子供達が死ぬという事件が頻発しているという物騒な事件が起きていることがまず語られる。この事件を犯罪研究家であるマーカス・チェズニイ氏が解明し、その方法を友人や家族の前で実演している最中に覆面を被った何者かが入ってきて、なんとそのまま毒殺されてしまう。しかもその模様を見ていた3人の目撃者の証言はどれも食い違っていたという、非常に面白い題材を扱っている。 さらにこの模様を写したフィルムで彼らの証言を検証する行為がなされ、それに加えて生前チェズニイ氏が用意した10の質問に答えるという趣向も盛り込まれている。この映像による検証が本書のメインであり、最も面白いところだ。 カーが本書を著した際、バークリーの代表作『毒入りチョコレート殺人事件』が念頭にあったことはまず間違いない。識者によればカーがバークリーが長を務めるディテクティヴ・クラブに入会したのが1936年で本作の上梓が1938年。当時バークリーは英国ミステリ界において重鎮であり、しかもエース的存在であった。カーがクラブ入会後、彼と会員のミステリ作家たちの交流を通じて多大に影響を受けたのは知られており、本作は特にバークリーの影響を受けて創られたようだ。 やはり珍しいのは映像を使った心理的トリックだろう。毒殺された犯罪研究家が作った映像とそれに関する問いについて視聴者が喧々諤々の議論と問答を繰り広げるのは面白く、ロジックよりもトリックを主体にしたカーにしてみれば異色ともいえる展開である。 で、これが逆にトラブルとして起きた毒殺事件を複雑化しており、なかなか良く考えられた作品である。失礼な言い方になるが、全てが綺麗に納得でき、しかも精緻すぎてカーの作品ではないみたいだ。 とこのように非常にカー作品の中ではロジックを前面に押し出した作品で、読み応えがあるのだが、当時の私の感想を書いた一言メモでは、どうも多忙の中で読んだようで楽しめなかったとだけ残ってある。しかしそれでも内容についてこれだけ記憶に残っており、読み応えがあったように思えるのだから、やはり私の中ではカーの作品でも上位に来る作品であるようだ。もう一度読み直すべき作品として記憶にとどめておこう。 |
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フェル博士シリーズ第2作目で私にとって初めてのカー長編。私はこの作品でカーが好きになった。というよりも「カーってこういう作家なんだ」と理解した作品である。
盗まれたポーの未発表原稿の捜索とロンドンで頻発する帽子盗難事件が同時進行的に語られ、やがて帽子盗難事件の犯人と目されている「きちがい帽子屋」を追っていた新聞記者がシルクハットを被った他殺死体として発見されるという、3つの事件が錯綜する非常に贅沢な内容になっている。 実は私はこの殺人事件に関してはほとんど覚えていなく、それ以外のポーの未発表原稿の行方と帽子盗難事件の方が非常に鮮明に記憶に残っている。それほど私にはインパクトがあったのだ。この全く関係ない2つの事件がある接点で結びつく。それはある人は非常にバカバカしいと思うだろうが、私はよくもまあ、こんなことを思いついたもんだと非常に感心した。この着想の妙がツボにはまり、一気にカーが好きになってしまった。 そして乱歩もこの作品を推しており、黄金期ミステリ十傑の中に入っている。しかしカーの他の作品を見渡してみると、この作品以上に出来のよい作品はまだあり、ミステリ読者ならびに書評家の中には「よりによってなぜこれを?」という疑問の声は多い。しかし私はなんとなく乱歩が本作を選んだ意味は解るように思う。ポーの未発表原稿盗難事件と帽子盗難事件という全く接点の無いと思われた事件が、シルクハットを被った他殺体という接点で結ばれる、この着想を買ったのだと思う。私同様、これをバカバカしく思わず、何たる発想と快哉を挙げたに違いない。 ちなみに本書の原題は“The Mad Hatter Mystery”という。現在ならば“Mad Hatter”と云えば、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の方が広く知れ渡っている。後年になって私はクイーンのその作品を読んだが、なんの共通点も見出せなかった。『Yの悲劇』が1932年の作品で本書が1933年の作品であるから“Mad Hatter”という呼称を通じて、イギリスで何かあったのかもしれない。時間があれば今度調べてみたいと思う。 |
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東京創元社によるカーの第4短編集。本書から通常の短編に加え、ラジオドラマの脚本も併載され、ますますマニアのコレクション・アイテム度が増している。
短編は今までの3作で盛り込まれることの無かった、アンリ・バンコラン物がほとんどを占め、それに他の短編集にも収録されていたノンシリーズの歴史ミステリが1編収録されている。私は本書で初めて脚本調の作品を読んだが、これが意外に読みやすく、すんなりと頭に入ったため、案外この短編集は好きな方である。恐らくこれは装飾過多な演出と持って回った文体がシナリオという形であるため、簡略され、一切の無駄がそぎ落とされたせいだからだろう。当時の私はまだカーの訳文に難儀しており、逆にこの簡潔な文章が読書の手助けになった覚えがある。 したがって本書でも記憶に残っているのはバンコラン物を筆頭に収録された短編ではなく、ラジオドラマの方である。ラジオドラマのシナリオでありながら、古くよりカーの良作と云われ、現在でもモチーフにした作品が日本ミステリ作家の間で書かれている「B13号船室」と表題作の2編がそれだ。前者は小さい頃に読んだ本当にあった怖い話とシチュエーションが酷似しており、それが故に鮮明に記憶に残っている。後者は単純に面白かった。こういう先入観を利用したトリックは他にもあったが、これについてはすんなりと嵌ってしまった感があった。これもシナリオ調の文章が一助になったのだろう。 実は最初ラジオドラマの脚本まで収録して短編集を編むことに出版社の卑しき商売根性とマニアの香りを感じたので、嫌悪感を示していたが、結果は上に述べたように存外面白かった。逆に云えば作者のルーツを辿る意味でもこのような作品集も読むべきだと考えを改める契機になった短編集だったと云えよう。 |
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東京創元社によるカーの第2短編集。日本独自に編まれた短編集だが、本書は各編メリハリがあって好きな方である。
なんと云っても本書は表題作に尽きる。カーの中でも傑作の部類に入る短編だ。20年前神隠しにあったかのように一週間少女が失踪した事件の元となった妖魔の森の家と云われるバンガローに再びその少女がその家に入るといつの間にか姿を消していた。しかも家には鍵がかかっており、周囲はHM卿も含め、ずっと見張られていたのだ。しかも誰も出て行ったものもいないという、扱われるモチーフはカーが得意とする密室物。しかも妖魔の家なる怪奇色も施してぬかりがない。そしてそれを実にすっきりと解き明かす論理はカーにしては(?)非常に整然としており、カーの作品の最たる特徴が出た作品だ。だからこれに比べるともう1つの密室物である「ある密室」がやや強引さが目立ち、やや劣る。 その他収録されている作品のうち、「軽率だった夜盗」は数年後読むことになる『仮面荘の怪事件』の原版となる短編だし、「第三の銃弾」は逆に長編であった原版を省略したカット版で、数年後早川書房から完全版が出版された。 残りの1編「赤いカツラの手がかり」は着想が面白く、あまりのバカバカしさに苦笑を禁じえないが、後の『帽子収集狂事件』に繋がるユーモアがあり、結構好きな方である。 以上、不完全版が2編収録されているが、読んだ当時はそんなことは知らないので気にならず、むしろヴァラエティに富んだ短編集だという印象が残った。しかし本を手にとって浮かぶのはやはり表題作が醸し出す雰囲気。本書はこの1編を読むだけでも価値がある作品集と云えるだろう。 |
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ミステリ黄金期の三大巨匠といえば、クイーン、クリスティ、そしてカーであることは周知の事実である。そのうちカーについては私はミステリを読み始めた早い時期から触れていた。未だに絶版作品が多いので、全ての作品を読破したとはいえないが、ほぼ80%は読破したように思う。
で、本書はそのカーの短編集で収録作10編中6編で探偵役を務めるのがマーチ大佐。本書のタイトルはこのマーチ大佐が所属するスコットランドヤードの部署の名前。もちろん現存しない部署であるのは云うまでも無い。ちなみに基本的にこのマーチ大佐は本書のみで探偵役を務め、他の作品でも出てくるものの、単なる一登場人物に留まっている。 収録作の中で印象に残っているのは「空中の足跡」、「銀色のカーテン」、「もう一人の絞殺吏」、「目に見えぬ凶器」の4編。しかしこの4編が特に優れているというわけではなく、出来不出来を別にして今に至っても記憶に残っている作品。 まず「空中の足跡」は今読むと滑稽だろう。というよりもこれは雪の足跡トリックで誰もが一番に思いつく犯行方法だと思う。特に某作家が編んだ推理クイズ集に必ずこのトリックが収録されていたことでも有名だ。 「銀色のカーテン」は雨の中で行われた殺人事件というイメージが鮮烈に残っており、またそこで使われたトリックも納得できる。後日、同様のトリックがチェスタトンのブラウン神父シリーズのある短編で使われているのを思い出したが、シチュエーションと仕掛け方が違っている。 「もう一人の絞殺吏」は歴史ミステリだが特に読後の味わいがなんともいえない余韻を残す。個人的にはこれが本書のベストだ。ちょっとチェスタトンの作風に似ているかもしれない。 「目に見えぬ凶器」は読後当初、「いくらなんでもそれはわかるだろう!」と眉唾物として捉えていたが、その後、このトリックと似たようなシチュエーションに遭遇し(同様の犯罪が起きたというわけではない)、ああ、やっぱり気づかない物なのかと改めて考え直させられたという意味で印象深い。とはいえ、作品的には並みの部類。 語り口にかなり個性を感じたものの、なんだか子供騙しのトリック、小粒な仕掛けを大げさな表現で糊塗して、過剰に演出しているとしか思えなかった。しかし本書こそ私がカーとの最初の出会いで、以後今に至るまで、カーの未読作品に遭遇すると必ず読んでしまうようになるのだから、縁とは不思議なものである。 |
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以前、綾辻作品の中でもっとも賛否両論分かれる作品だろうと『人形感の殺人』の感想に書いたが、それと双璧を成す、いやもしくはそれ以上に賛否両論分かれるだろう作品が本書である。
吹雪舞う冬山に遭難した劇団“暗黒天幕”の一行は山中に聳え立つ洋館に辿りつく。高級な調度品に装飾された館「霧越邸」に命からがら飛び込んだ一行。しかしそれは惨劇の幕開けであったという、“吹雪の山荘物”そのままの設定。 閉ざされた館で起こる連続殺人事件で作者は綾辻行人となると、館シリーズを思い浮かべるが、本書はノンシリーズである。それについては後述するとしよう。 今回一番目立つのはペダンチックに飾られた霧越邸を彩る一流の調度類について語られる薀蓄だろう。家具、照明器具はもちろん、書斎に置かれた万年筆の類いに至るまで、全てが高級品であり、それらについて事細かに語られる。こういう内容は雑学好きには堪らなく、無論、私もその一人であった。そしてそれらの中には犯罪の煽りを受けて、無残にも壊され、また殺人道具として使用される。この勿体無さは『時計館の殺人』で次々に壊されたアンティーククロックに匹敵する。私は作中人物が、これら職人が精魂込めて作り上げた芸術ともいえる物を躊躇無く壊す、もしくは意図的に壊す行為は、なんだか綾辻氏のある哲学、美学に裏打ちされた行為ではないかと思う。例えばミステリに関する既成概念を打ち砕くとか、過去の偉大なミステリ作家が築き上げたトリックやロジックの砦を敢えて壊して、新たな本格を作るといった意気込みというか。この辺はまだ漠としたイメージでしかないので、また綾辻作品に触れた時に作品と照らし合わせて考察していきたい。 で、この作品に対する私の評価はと問われれば作者のやりたい事は理解できるものの、では作品としてカタルシスを感じられるかと云えば、そうではなく、従ってなんとも中途半端な印象を持ってしまった。ずるい云い方になるが賛成半々、否定半々というのが正直なところ。綾辻氏の持ち味である日本なのにどこか異界を舞台にしたような幻想味と一種過剰とまで思えるロジックの妙、これが実にバランスよく施されているのが館シリーズだが、このうち幻想味の方にウェイトを置いたのが本書。最後にいたり、これが豪壮な館を舞台にしながら敢えて館シリーズにしなかったわけが解る。つまりそこからして綾辻氏は館シリーズからへの分化には意識的だったのだ。とはいえ探偵役島田潔は登場しないものの、文体ならびに作中の陰鬱さを感じさせる抑制された雰囲気は館シリーズと変らないし、また文中、中村青司がデザインしたと匂わせる表現もあり、そこに作者としての迷いも感じられる。綾辻作品世界のリンクであるくらいの内容かもしれないが、私はそれだけとは受け取れなかった。 ミステリの既成概念を打ち砕くために敢えて挑戦した企み、この手の作品には過去にカーのある名作があるが、そこまでには至らなかったと感じてしまった。その後の綾辻氏の諸作で彼がどのような本格ミステリ観に基づいて作品を著していったのか、さらに追っていこう。 |
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一応第2作目が出ているがシリーズと呼ぶには憚れるのが警視庁刑事明日香井叶とその双子の兄で探偵の明日香井響が探偵役を務める殺人方程式シリーズ。
新興宗教の教祖が教壇のビルに篭って、祈りの儀式をしていたはずなのに、他のビルの屋上で頭部と左腕を切断された死体として発見された謎を探るという、本格ミステリ。しかしなんだか法月氏の某作に似ているなぁと思った作品だ。 館シリーズと本作ではどう違うかというと、館シリーズは日本なのにどこか異界に迷い込んだような味わいがあるのに対し、本作では実にオーソドックスな筆運びである。本格ミステリと呼ぶよりも本格推理小説の方が本作のイメージに合うだろう。 しかし小粒感はあるものの、実に端正な本格推理小説で、私はすっかり騙されてしまった。特に犯人を限定するある行動に対する叙述が非常にさりげなかったので、その思いはひとしおだった。 そして本書の特徴は、殺人をなすべく、本当に方程式が登場すること。通常「殺人方程式」という呼称は犯罪者が精緻に組立てた犯罪を表すロジックのことを指し示す。つまりそのロジックが数学の証明問題に類似しているから、そういう風に呼ぶのだろうけれど、本作では犯罪を成すための方程式が登場する。ちなみに方程式は数学ではなく、物理の方程式。そうと聞いて、忌避感を抱く方もいるかもしれないが、非常に有名な方程式で、しかも微分積分とかも使われていない、小学生の算数の知識で理解できますのでご安心を。 しかし、この主人公が非常に「創られた」感じがあり、感情移入できなかった。これは私の性格的な問題もあるのかもしれないが、兄弟なのに名前の呼び方がどちらも「きょう」と同じなのがいただけない。紛らわしいではないか!この辺の作者の価値観が全く解らない。なんとなく同人誌に取り上げられることを狙ったようなキャラクターである。 ぜひとも読んで欲しいとは勧めないまでも、読んで損することは無い程度にお勧めの作品である。 |
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このアンソロジーはシリーズ2冊目だが、確か原稿を公募した出版社の予想を超える応募数があったため、パート1と二つに分けて出版されたものと記憶している。従って本書は同時期の応募作によって編まれた物である。
ただ本書では当時既にミステリ作家であった司凍季氏が作品を寄せているだけで、これといった感慨は無い。が、近年になって短編集として刊行された田中啓文氏の「落下する緑」が93年刊行の本書に掲載されているのが特色といえば特色か。第1集はやはり購入者を惹きつけるためにそれなりの作品を集めたようで、また出来不出来の激しい玉石混交感もあったことで逆に特色が出てたが、第2集の本書は全体的に一定の水準の作品(プロ作家の司氏の作品も含めて)が揃えられており、可もなく不可もなくといった感じか。しかし田中氏の「落下する緑」は頭一つ抜きん出た感がある。先にも書いたが、近年になって編まれた田中氏の短編集の表題に同題が使われており、そのとき、既視感を感じ、『このミス』の解説を読んで「ああ、やっぱり!」と思ったものだった。 絵画を題材にした本格ミステリは1作は初期のこのシリーズに収録されており、そのどれもが秀作だったのを覚えている。この「落下する緑」もまた例に漏れず、味わい深い作品である。素人時代の応募作品ながら既に完成された端正さがある。 このとき(学生時分)に読んだのはこの2冊のみ。というのもその時点ではまだこの2冊しか出ていなかったのである。その後、刊行されるたびに買い続け、とうとう全15巻と特別編集版の3冊、さらにその後、二階堂氏によって引き継がれた『新・本格推理』シリーズまで買い続けた。それらの感想についてはのちほど。 石持浅海氏など、現在活躍する作家の登校時代の作品を読むにつけ、やはり後々作家になる人はその他の人たちは違う何かを感じた。プロになって短編集などに収録されない作品などもあるだろうから、資料的な意義から考えると結構貴重なシリーズなのかもしれない。 |
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島田荘司のミステリで一気にミステリ熱が再燃した私は当時、本格ミステリと名の付く物ならば何でも貪欲に読んでいたが、これもその1つ。光文社が本格ミステリを一般公募して鮎川哲也氏を選者として文庫型マガジンとしてシリーズ化した本書は、当時創元推理文庫の日本人作家作品を堪能していた私にとって、東京創元社が「鮎川哲也と13の謎」と銘打った叢書を刊行し、それに親しんでいたことと、同社が鮎川賞を設立していたこともあって、鮎川哲也=面白い本格という刷り込みがなされており、一も二も無く飛びついたものだった。
しかも当時鮎川氏は立風書房から5巻に渡る本格のアンソロジーを敬愛する島田氏と編んでいたのも、さらなる後押しとなった。今思えば当時この両巨匠は社会派推理小説とエンタテインメント小説に席巻されていた当時のミステリシーンに新本格の旗印の下、本格ミステリの復権のため、このような活動を精力的に行っており、私はその活動に同調し、そのまま乗っていったのだろう。 鮎川氏亡き後、二階堂黎人氏を編者にして『新・本格推理』と名を変え、年1回刊行されていたこのシリーズだが、現在活躍されている作家の中にもここに応募されていた方は多く、後述する以外では大倉崇裕氏、霧舎巧氏、黒田研二氏、蘇部健一氏、田中啓文氏、柄刀一氏、三津田信三氏、光原百合氏などなど、なかなか豪華なメンバーが揃う(以上、Wikipedia参照)。 その記念すべき第1集目の本書にはこのアンソロジーをきっかけにデビューした村瀬継弥氏と後の鮎川賞作家北森鴻氏の作品が掲載されており、その他には前述の島田氏と編んだアンソロジーのうち『奇想の復活』という巻に作品が載せられていた津島誠司氏、すでにプロ作家となって2、3作発表していた二階堂黎人氏、そして一昨年作品集が刊行されたアマチュア作家山沢晴雄氏の作品が盛り込まれている。 その後村瀬氏は2作ほど作品を上梓した後、活動停止状態だが、北森氏の活躍はミステリ読者なら周知の通り。両者の熱心な読者ではないのでこのアンソロジーのみでの判断になるが、読後ほっこりと温かくなる、単純な謎解きに徹していない村瀬氏の作風の方が好みだった。 一方、プロ作家二階堂氏はさすがプロだけに筆達者振りを発揮。ディクスンのHM卿を主人公にしたパスティーシュ作品でその名も「赤死荘の殺人」。 また個人的に注目していた件のアンソロジーに作品が掲載されていた津島氏は期待はずれだった。ちょっと私には受け入れがたいトンデモ本格だった。 その他別の意味で印象に残ったのは太田宜伯という作者の手による「愛と殺意の山形新幹線」。このベタな題名の作品、なんと作者は高校生!従って文章は非常に拙く、人物の性格付けにもぎこちない物を感じた(大の大人が喫茶店に入るのが苦手だという性格はこの作者が高校生だからだろう)。題名から想起されるように時刻表を用いたアリバイトリック物であり、これは選者による鮎川氏の好みと高校生による投稿という意気込みに華を添えたに違いない。 総体的な出来はまあまあというところ。今読むともっと評価は低くなるだろう。なんせこの頃の私は未来の本格ミステリ作家の登場に立ち会えるかもしれないと、かなり新本格にのめりこんでいたのでがむしゃらに手を出していたから、そのときはそれなりに楽しんだ記憶がある。 無論、一度手をつけたシリーズは最後まで読む性質の私。次に刊行された2巻も買ったのは云うまでもない。 |
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くどくなるが、この作家も創元推理文庫で作品が出ていなかったら、全く手に取ることの無かっただろう。そしてその出会いは私にとって実に有意義な物となった。
本作は脳性麻痺で車椅子生活を強いられている信一少年が成城署の真名部警部が持ち込む捜査が難航している事件を明敏な頭脳で解き明かすという典型的な安楽椅子探偵物の連作短編集。しかし特徴的なのは安楽椅子探偵を務める信一少年が身体障害児であり、それに関する社会問題も提起しているところにあるだろう。収録されている短編の初出はなんと76年と30年以上も前のことながら、90年代になってようやく人々の意識が向きだしたバリアフリー不足の問題など、障害者が社会では生きるのには厳しい状況について触れられているのが興味深い。今その視点で読むと、既に使い古された内容と感じるかもしれないが、私が本作を読んだのは90年代の初めの頃だったので、このような内容は実に新鮮で、けっこう心に響いた記憶がある(まだ純粋だったのだね)。この信一親子にはモデルがあり、なおかつ天藤氏が当時から親交の深かった仁木悦子夫婦との付き合いも手伝って、身障者を主人公にしたミステリを書いたことが解説で触れられている。 で、それだけのミステリかといえばそうではなく、収録されている作品のレベルはなかなかに高い。単純なミステリになっていなく、読後考えさせられる内容もある。 どの作品か忘れたが、特に印象に残っているのは肯定できる殺人はあるかというテーマの作品。殺人は許されるものではないという通念を覆されるような思いをしたものだ。 あとどう考えても本当のような話に思えない証人を探す話は、なぜだか未だに記憶に残っている。 そして全作品に通底するのは天藤氏の人間に対する温かい視線だろう。前にも述べたが身障者に対する社会へのさりげない問題提起に、真名部警部と信一親子との交流(母親に対するほのかな愛情も含めて)と社会的弱者に対する優しさに満ちている。この感覚は宮部みゆき氏の諸作の味わいに似ている。数十年後、作者の写真を拝見する機会を得たが、その顔は優しき微笑を湛えており、この人ならばさもありなんと思ったものだ。 無論のこと、この作家の作品を追いかけることになるが、次に手にした彼の作品が私の読書人生において5本の指に入る傑作との出会いになったのだった。 |
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CWA賞受賞でジェイムズ初期の代表作。本の厚みも1.5倍くらいになり、今のジェイムズの作風はここから本格的に形成されたと云える作品。
看護学校で起きた殺人事件をダルグリッシュ警視(実は『不自然な死体』で既に警視に昇格していた)が捜査に乗り出し、解き明かす。今まで名門の屋敷や休暇で訪れた村など、限定された場所ではありつつも、黄金期の本格をそのまま踏襲する実にオーソドックスな舞台設定であったが、本作以降、教会、出版社、原子力発電所など、舞台は色んな職場を舞台に、そこで働く、もしくは関係する人々の隠された軋轢を解き明かすという趣向に変わっていく。このような舞台設定を採用していくことで、それ以前の作品と違ってくるのは、物語が一種、業界内幕物となってくるところだろう。元々ジェイムズは確か病院の事務か経理をしていたという経歴の持ち主で、最初にこの看護学校を舞台に選んだのは自身が詳しい業界だったからというのは想像に難くない(その後調べてみたら、2作目の『ある殺意』で既に精神病院を舞台にしていた)。これはセイヤーズが自分がコピーライターとして勤めていた広告業界を舞台にした作品を書いたのと合致する、と『不自然な死体』に見られるジェイムズのセイヤーズ崇拝に拍車を掛ける理由付けとして書きたいところだが、概ね作家というのは自分の詳しい世界を舞台に作品を書く傾向があるのでこれはこじつけにすぎるというものだろう。 CWA賞受賞ということで、では何が変わったかというと特にそれほどの劇的な変化は見られず、従来から最たる特徴であったジェイムズの風景描写、人物描写、心理描写が登場人物がそれまでの作品と比べて増していることで、その分増えた結果、このようなページ数の増大に繋がったという傾向が強い。とはいえ、そこに介在する人間の悪意についてはさらに露骨に書かれ、実際その心情を登場人物がぶちまけるシーンもあり、実際に直面するとかなりドン引きだろうと思われる。 こういう誰もが殺人を犯す動機があるという作品は犯人当て趣向の作品では意外性を伴わない危険性があり、本作もそう。特に動機面についてはごく普通であり、CWA賞受賞作という前知識から期待感を持って読むと、ちょっと肩透かしを食らう感はある。実際私はそうで、それが上の☆評価に繋がっている。やはり『皮膚の下の頭蓋骨』のような、目から鱗が剥がれるような動機などあれば、もっと評価は上がるのだろうけど、初期の作品だからしょうがないか。 物語の閉じ方は降り積もった悪意が解き放たれる思いがする。知りたくない人もいるだろうから詳しくは書かないが、既にぎくしゃくして、いつ壊れてもおかしくない状態だった関係性を一旦清算し、新たなる出発を予感させる。これはその後、ジェイムズ作品で一貫して取り入れられている結末だ。 とまあ、『皮膚の下の頭蓋骨』、『罪なき血』と後の傑作を先に読んでしまったがためにその後に読んだダルグリッシュシリーズがこのような評価になってしまうのは残念なところ。原本の刊行順で読めばまた感想も変わったかもしれない。 |
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女探偵コーデリア・グレイシリーズ2作目にして最後の作品。前作とはうってかわって、今度は孤島で起こる殺人事件の捜査にコーデリアが当たるという、古式ゆかしい黄金期のミステリのような本格ミステリ風作品になっている。
コーデリアの事務所を訪れた元軍人。彼の妻は女優であり、彼女宛てに数日来から脅迫状が頻繁に届いているのだという。彼の依頼はその妻が今度古城を頂く孤島の持ち主より公演の依頼を受けた、ついてはコーデリアに滞在中の身辺保護を頼みたいというものだった。 ヴィクトリア王朝様式の古城に招かれた人々は一見裕福そうに見えるが、それぞれに問題を抱えている、とミステリの王道を行くシチュエーション。 後にジェイムズ作品を読み進めていくうちに判ってきたのだが、この誰もが何か問題を抱えた人間が一堂に会しているというのはこの作家の作品の最たる特徴である。まだ本書では古城の内部を彩る豪華な調度品や島の風景の描写も精緻を極めており、これもジェイムズ作品の特徴の1つであることが後々解ってくる。つまり本書はジェイムズが本来の創作作法に則って書いた作品であり、『女には向かない職業』の方が、ジェイムズ作品としては異色だったということになる。 前作にも増して2倍以上はあろうかというボリュームと、見開きページぎっしり書かれた文章とで、1時間に40ページくらいしか進まなかった記憶がある。そんな小説は読み疲れして、早く終われ、早く終われと呪文のように頭の中で繰り返し、苦痛を感じながら読むのが私の常だった。 本作でもそうだった。特に前半はほとんど登場人物らの相関や事情、古城ならびに島の描写に筆は費やされており、事件が起こるのは半ばぐらいだったように思う。その事件も密室殺人などといった本格ミステリならではといった派手さもなかった。しかし、コーデリアが犯人の動機を探り当てる段になって、この重厚さによって私の目の前にかかっていた靄が一気に雲散霧消した思いを抱いた覚えがある。今読んでみて、この動機がそれほどのカタルシスをもたらすかどうかは判らないが、当時は「おおっ!」と声を上げたものだ。ネタバレになるので詳細は書かないが、この動機を期待しすぎるとガッカリする方もおられるだろう。しかし私はこういうのが好きなのである。まさしくこれは好みの問題と云えるだろう。 そんなわけで私の評価は1作目よりこっちの方が上。従って1作目を気に入った方は同趣向の作風を求めると、肩透かしを食らって、さほど楽しめないかもしれない。 しかしなぜ早川書房はこのシリーズを先に文庫化したのだろう。それがために私はダルグリッシュ警部シリーズを読むことなく、このシリーズを読むことになってしまった。元々早川書房は原書の刊行順に関係なく、売れ筋の本から訳出、刊行する傾向があったので、恐らくジェイムズ作品も比較的とっつきやすいコーデリア・グレイシリーズを文庫化したに違いない。ま、そんなことをぐだぐだ考えても意味のないことなんだが・・・。 |
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英国女流ミステリの大家P・D・ジェイムズ。彼女の代表シリーズといえばアダム・ダルグリッシュ警部物が連想されるが、それと双璧を成すのが本作を1作目とする女探偵コーデリア・グレイシリーズだ。しかし双璧と成すと云えど、実際にはこのシリーズ、たった2作しかない。なのに読者の支持は非常に高く、3作目を期待する声もあるほどだ(結局書かれなかったけど)。その人気の秘密は主人公コーデリアにある。突然勤めていた探偵事務所の上司の自殺でその事務所を弱冠22歳で引き継ぐことになったコーデリア。彼女のこの若さゆえにまだ残る純粋さが時に武器になり、時に仇となり、まだ彼女にとっては狭い社会との軋轢に悩まされるその姿に多くの社会で働く女性が共感したのだろう。
そんなコーデリアが引き受けた依頼は大学を中退し、自殺した青年の自殺した理由を突き止めて欲しいというもの。最初に手がける事件として、これほどコーデリアに向いている物もないだろうと思わせる、実に上手い内容だ。 とはいえ、事件はさほど印象に残るようなものでもなく、本作の主眼はやはりこのコーデリアが世間に揉まれ、亡き上司の教えを思い出しながら、徒手空拳で事件を探っていくその姿にある。特に私は捜査の途中、コーデリアが古井戸に落ちてしまい、そこから這い上がるシーンがあるが、そこにいきなり右も左もわからないところから必死に這い出ようとしているコーデリアの心情がメタファーとなっており、非常に印象深く残っている。 また本作の歴史的価値も高く、私がミステリを読み始めた頃、世間ではサラ・パレツキーやスー・グラフトンらに代表される4F物なる、女探偵を主人公にした作品が流行していたが、本作はそのブームに乗じた物ではなく、それに先駆けること10年以上も前に書かれた本格的女探偵物だということだ。ちなみに4F物とは作者、主人公、読者、そして日本では訳者が全て女性(Female)という意味。 が、そんな名作も、当時まだミステリ読みとしてはさほど冊数をこなしていない私にしてみれば、いささか退屈を感じたのも正直な気持ち。特にこの作品は章立てが少なく、1章が60ページぐらいあったような記憶があり、細かい章立てでいつでも読み止める事が出来る日本その他の小説に慣れていた私にとって、ちょっと読みづらかった。私はどうもある区切りがないと、読み止めることが出来ない性質なのでこれにはちょっと困った。 小説には読む時期というものがある、というのが持論だが、正にこれはそういう意味では読み時期を見誤った作品といえよう。いつか機会があればもう一度読み直してみたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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