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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数896件
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シリーズ7作目。今ではどんな原題であろうと、『~の骨』という統一した邦題が付けられているこのシリーズ。その端緒となったのは9作目の『楽園の骨』からだったと思うが、厳密に云えばシリーズ第3作に当る『断崖の骨』からが最初だといえる。しかし『断崖~』の原題も“Murder In The Queen’s Armes”であり、直訳すれば『クイーン・アームズの殺人』といささか平凡なこともあり、やはりギデオンといえば骨ということで邦題の方が「らしくて」いい。
で、本書の原題は何かというと“Make No Bones”。これは成句で後ろにAboutをつけて、「~するのを躊躇しない、平気で~する、~について率直に云う」という意味。これを邦題にするのは確かに難しい。これは英語圏の人が付ける一種の洒落だろう。なぜこの成句が使われたのかは後で述べることにしよう。 本書の舞台は原点に立ち返ったかのごとく、アメリカ本土のオレゴン州。前作が極寒の地とはいえ、アメリカのアラスカであり、それに続いて本国を舞台にしているということは、やはりそうそう海外にも行ってられないということだろうか。 さて題名にも挙げられている遺骨だが、これは10年前の司法人類学会々長ジャスパーの遺骨に由来する。ギデオンが司法人類学者の会議に招かれ、その学会の会長でもあり、第一人者であったジャスパーの遺骨が本人の遺言に残された希望により、学会会場近くにある博物館に展示されることになった。が、しかしその遺骨が何者かに盗まれ、会議会場の近くで身元不明の白骨が発見され・・・というのが本書の内容だ。 今までギデオンについて「スケルトン探偵」、「骨の鑑定士」なる呼称を使っていたが、彼はれっきとした大学教授でその肩書きは形質人類学者。この形質人類学とは平たく云えば古い骨から人間の進化の歴史を探る学問で、骨を鑑定する同じ観点から司法医学に一脈通じるところがあるらしい。実際の法医学者からこの作品を読んでも、実に興味深い内容が盛り込まれており、学生たちにとっても勉強になるらしい。 さて本書では一時期センセーショナルに取り上げられていた頭蓋骨に粘土を付けていく復顔技術が登場する。なぜ今まで骨がさんざん登場しておきながら、花形といえるこの技術が9作目まで登場しなかったのかと思うが、一片の骨から性別、身長、職業などを当てるというシャーロック・ホームズ的な全知全能の神ともいえるギデオンの推理が骨鑑定シーンの妙味であったことによるのだろう。実際頭蓋骨から粘土で顔を複製することはギデオンの技術とは関係ないのだから、逆に云えば、編集者か、もしくは個人的興味からようやくこの技術に着手したのだろう。で、もちろんこの技術が真相解明に大いに寄与しており、ここが本書の肝となっている。 今回はジャスパーの後任のネリーがいい味を出している。特に彼の着ているTシャツの文句が面白い。確かに海外にいて気づくのは英語の文章が書かれたTシャツにけっこう面白いことが書いてあること。女性ならば定番の「恋人募集中」なんかみたことなく、「もうずっと一人で寝ている」とか「私はオカマだから声掛けてもムダ」とかけっこう過激な内容が多い。デザインもいいのでもし日本人が海外旅行先で意味も解らずに買って街中で着たりするとけっこうニヤつかれるので気をつけた方がいい。 で、原題となっている“Make No Bones”だが、これはジャスパーが自分の遺骨を「平気で陳列する」という意味で無いと思う。恐らく次のジョン・ロウ(はい、本書にもちゃんと出てきますよ、彼)の次の言葉ではないだろうか。 「頭のいい連中がおそろしく馬鹿な真似をする」 なかなか含蓄に満ちた言葉である。 |
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美術学芸員クリス・ノーグレンシリーズ2作目。前作は贋作事件に携わったクリスだが、本作では美術便盗難事件解決に関わることに。
今回の舞台はイタリア。いやあ、仕事とはいえ、風光明媚な土地を訪れることが出来るのは役得以外何物でもなく、全くうらやましい限り。 そして今回も盗難品であったルーベンスの名画を皮切りにルノアール、ヴァン・ダイク、テルブルッヘン、カラヴァッジオ、ウィテバールにフラゴナールと盛りだくさん(ちなみに題名はフラゴナールの作品について登場人物の1人が語る感想から来ている)。このように名前を陳列してもどの作品がどの作者の物であるのかが一致しない浅薄な知識しか持ち合わせていない私。絵画の本と一緒に読むとさらに楽しめるんだろうなぁ。 今回は美術の薀蓄もさることながら、ヨーロッパ随一の「マフィア社会」と呼ばれるイタリアの慣習、料理、風景がたくさん織り込まれ、クリスたち登場人物を魅了する。何しろ登場人物の1人はイタリアに渡ってイタリア風に名前を変えるほどののめり込みようだ。しかしクリスは盗難事件の解決に携わるという仕事のため、否応無くマフィアに関わりを持たざるを得なく、なんと友人だけでなく本人も暴行に遭って入院する羽目に陥る。 そして前作から引き続いて妻と離婚調停中であったクリスに新しい恋の始まりが訪れるところで物語は終える。この辺の進展もシリーズ物の長所といえるだろう。そういえばギデオン・オリヴァーシリーズも2作目でジュリーを出逢うだったんだよなぁ。 事件そのものよりもこの小説としての皮の部分が非常に面白いのがエルキンズの特徴だが、特にヨーロッパ好き、美術好きには本作は堪らないシリーズだ。 |
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スケルトン探偵ギデオン・オリヴァーシリーズもこれで6作目。時系列に今までの舞台を書くと(未訳の第1作目は除いて)、アメリカの森林公園、イギリスの断崖、モン・サン・ミシェルの干潟、メキシコの古代遺跡となり、本作での舞台はアラスカの氷河である。暑い所からまたかなり涼しい、いや極寒の地へ行ったものである。
で、もう書かなくてもお分かりかと思うが、今回は氷河から骨が出てくるという趣向。そしてたまたま居合わせたギデオンに鑑定の依頼が舞い込んできて、その骨の正体がまたそこに居合わせた連中には曰くつきのものだった・・・ともう今までの感想をコピペしているような粗筋である。 今回は骨の鑑定よりもジュリーによって説明される氷河の成り立ちに関する知識の方が面白かった。いやあ、本当にこのシリーズはためになると思う。実はこのような薀蓄話は作者自身意識して挿入しているとのこと。本を読んで新しい知識が得られることほど楽しい事はなく、それを創作のときには常に頭に入れているらしい。 さてアラスカの氷河というよほど用事がないとまず旅行では行かないだろうというところにたまたま居合わすというのがすごいと思うが、この無理な設定を愛妻であり、パークレンジャーであるジュリーの研修旅行に同伴するということでハードルを越えていく。後のシリーズもかなり特異なところに行くが、その導入部はギデオンが大学教授であり骨鑑定家であること、ジュリーがパークレンジャーであることと、2人とも特殊な職業に付いていることからそこに居合わせることになっており、ギデオンの研究所に依頼人が来て骨の鑑定を依頼する、なんてことは一切無い。よく考えるとシリーズ探偵物がまず依頼人ありきというフォーマットで語られるのに対し、常にギデオンはたまたま現地に居合わせて巻き込まれてしまうパターンである。これはよく考えるとすごいことだ。前にも述べたがこれは正に『水戸黄門』パターンである。エルキンズは『水戸黄門』を観たことがあるのだろうか。 さて今回もギデオン、ジュリー、ジョン3人のやり取りが非常に面白く、特にジョンはハワイ生まれなのに暑さが苦手というのが面白い。さらにFBI捜査官「らしくなさ」にも拍車が掛かってきている。こういうキャラクター設定の妙味がこのシリーズの醍醐味の1つといえる。 ミステリとして総体的に評価した場合、突き抜けることがないため、水準作となってしまうが、それを補って余りある面白さがこのシリーズにはある。でも続けて読むとやはり飽きてしまうな。半年、いや1年に1回の再会を楽しむように読むのが本書の正しい読み方だろう。 |
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スケルトン探偵ギデオン・オリヴァーシリーズ3作目。これでようやく『古い骨』以前のシリーズ作が訳出されたことになる(第1作目はいまなお未訳だが、『暗い森』の感想に書いたように、趣向が違うため、別物と考えられている)。
で、本作は前作『暗い森』で知り合ったジュリーとギデオンの新婚旅行がテーマに扱われており、物語の舞台は旅行先であるイギリスの片田舎。そして例によって例の如く、そこでまた骨が現れ、新婚旅行中にも関わらずギデオンは骨の鑑定を頼まれることに。そしてまた当然の如く、その骨に関わった人物達の間で殺人事件が起きて、それにも巻き込まれるという正に黄金パターン。 後の作品の感想にも述べているが、このシリーズは『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』ら、定番時代劇に似た趣があり、この永遠のマンネリズムを楽しむのが本書の正しい楽しみ方といえよう。事件に関係する個性豊かなキャラクターとウィットに富んだ会話、そして毎回骨の鑑定で唸らされる薀蓄の数々。舞台と登場人物を入れ替えただけと云われればそれまでだが、逆に云えば、これほど安心して読めるシリーズも無い。 で、本作は新婚旅行であることもあり、いつになくジュリーとギデオンの中がアツイ。もう終始やりまくり、失礼、ラブラブである。この2人の熱い会話も骨の鑑定家ギデオンならではの専門的な誉め方が入っており、なかなか面白い。 そしてエイブ・ゴールドスタイン再登場。というよりも本当は『呪い!』よりもこっちの方が先。この好々爺が実にいい味を出している。ギデオンが師と仰ぐだけの知識と経験となにより豪放磊落さが非常に小気味よい。 また骨の鑑定士ギデオンが意外な事に死体が苦手だということが発覚する。なるほど、乾いた骨は美しさすら感じるけど、やはり肉が付いていると気持ち悪いという感覚は解る気がする。 事件はあからさまなミスディレクションが仕掛けられているので、逆に一番疑わしい人物が犯人ではないと概ねの読者は思うだろう。明かされる真相は驚愕ではないにしろ、ミステリとしては水準と云える。ま、このシリーズにはどんでん返しは求めていないのでこれはこれでいいのだが。 さて新婚旅行で事件に出くわすというのは恐らくシリーズ物ではけっこうあるのだろうが、私はセイヤーズのピーター卿シリーズ『忙しい蜜月旅行』しかまだ読んだことが無い。で、この2作に共通するのは新婚旅行中に事件に巻き込まれることとは別に、両方とも新婚旅行先がイギリスの片田舎、つまり観光地ではないことだ。片やイギリスの作家、片やアメリカの作家であり、国民性に違いはあるのだけれど、これって欧米人特有の感覚なんだろうか?日本人ならば新婚旅行は有名な観光地で休日を満喫するが、両者に共通するのは旅慣れた旅行者が普段観光客が行かないところだ。喧騒を離れて2人きりで愛を交わしたいという意思の表れなんだろうか。その辺もなかなか興味深かった。 |
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アーロン・エルキンズはスケルトン探偵ギデオン・オリヴァーシリーズが有名だが、実はもう1つシリーズ物がある。美術館学芸員クリス・ノーグレンシリーズである。
一方は骨の鑑定家、もう一方は学芸員と全く毛色の違う2つのシリーズだが、双方比べても質が同じであるのはこの作家のすごいところ。このシリーズでは美術に関する専門的な知識、トリビアがふんだんに盛り込まれ、知的好奇心をくすぐる内容が横溢している。 クリスはベルリンに出張している上司に呼び出され急遽彼の地に飛ぶことに。ベルリンの美術館で開催される「ナチ略奪名画展」の作品の中に贋作が含まれており、それを見つけ出すようにというのが出張の目的だった。調査の中、しかしその上司は殺されてしまい、クリスも事件の渦中に引きずり込まれてしまう。 西洋美術に第2次大戦中のナチスの美術品強奪が絡むのはミステリの題材としては非常に魅力的であるのだろう。そしてシリーズ第1作目としてこの歴史的事実と贋作という美術ミステリには無くてはならない題材を絡めたのは作者のシリーズに対する創作意欲と固定ファンを掴むための宣伝効果双方によるものだと思う。 で、このシリーズで主人公を務めるクリスは全くギデオンとは違うキャラクター。ギデオンが妻ジュリーといつも仲睦まじいのに対し、クリスは妻と離婚寸前という情けないキャラクター。しかも人使いの荒い上司へのグチも云う。が、なぜか女性にモテるという面白いキャラクターであり、非常に人間くさくて私は好きな主人公だ。 で、このクリスが殺人犯捜しと贋作探しに孤軍奮闘する。エルキンズのミステリは真っ当なミステリなので、云わずもがな見事クリスはこの2つの事件を解決するのだが、こういう普通の男が見事目的を達成するところは爽快感すら漂う。 真相は、なかなか面白い。特に贋作発見についてクリスのインスピレーションは逆説的であり、思わず「ほお・・・」と声を出してしまった。この相矛盾するエゴによる動機は美術収集家だけのみならず、あらゆる収集家に共通する思いだろう。 以前『ゼロ 神の手を持つ男』という漫画を愛読しており、それがこの作品と非常にダブった。どちらも美術を扱う作品であり、作品に散りばめられた薀蓄も重複するところが結構あり、非常に楽しく読めた。ただ『ゼロ』で頻繁に登場する「炭素14法」が全く出てこなかったところに疑問。使われた塗料、キャンパスが当時のものであるか、その中に含まれた炭素14の崩壊率から年代を推定するこの方法は現代の真贋鑑定に必ずといって採用されるものだと思っていたが。単にエルキンズが知らなかったんだろうか? まあ、それはさておきギデオン・オリヴァーシリーズに続いて本書もハヤカワ・ミステリ文庫で復刊されており、私同様ファンがいることが確認され、嬉しく思った。 ちなみに本作で取り上げられる絵画の中には数年前日本でも絵画展が大々的に開かれたフェルメールがあり、物語でも重要なファクターとなっている。フェルメールに興味のある方はそれだけでも本書を読む事をお勧めしたい。 |
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このシリーズの読みどころは数あるが、その1つにギデオンとその妻ジュリーの仲睦まじいやり取りがある。毎度毎度ケンカすることも無く、けっこう年取った夫婦でありながらも熱々ぶりを披露する2人(逆に云えば、もっと2人に何か起きてシリーズに新風を吹かすくらいの演出をすればいいのにと思うが)。
その2人の馴れ初めが書かれているのがシリーズ第2作に当る本作。余談になるがシリーズ第1作“Fellowship Of Fear”は現在も訳出されていない。聞くところによると、第1作目はどちらかといえばホラー色が多く、シリーズとは異質の内容らしく、恐らく作者自身も封印したいのではないか。したがって本作こそが実質的なシリーズ第1作といっていいだろう。 物語の舞台は本国アメリカはワシントン州にあるオリンピック国立公園。ここで人骨の一部が見つかり、その調査をギデオンが頼まれる。そこでは6年前にハイカーが行方不明になった事件があり、その人物の遺骸であると判明する。しかし不可解なことにその骨に残った槍の穂先はなんと一万年前に絶滅したはずの種族の物だった! 非常に興味深い内容で、しかも学術的趣味に溢れている1作だ。まずオリンピック国立公園に関する薀蓄。なんとこの公園は実在し、敷地は神奈川県よりも広い(!)らしい。さらにギデオンによる骨の鑑定シーンで得られる法医学知識。そして本書に絡む幻のネイティヴ・アメリカンと云われるヤヒ族の話。 ギデオンが未来の妻ジュリーと出会うのはこの奥深い森を持つ公園。ジュリーの職業はパークレンジャーであり、密猟や森林の管理、そして遭難者の捜索など、全般的な公園の監理業務が彼女の仕事である。そこで遭難したギデオンを見つけた彼女はこの奥深い森の中で一夜を過ごす。そこに性的交渉はないものの、この非日常的状況が2人をくっつけるきっかけになったのは自明の理で、まあ、ベタといえばベタか。 また本書では準レギュラーのFBI捜査官ジョン・ロウも出てくる。つまり本書で既に固定キャラは登場してしまっているのだ。 やがてヤヒ族最後の生き残りが見つかり、ギデオンらは感動に震える。作者は元々大学教授であったこともあり、このような学術的な発見はいつか自分も成しえたかった夢であったのだろう。それを自作で実現させたように思える。 さて今回だが、個人的な話をすれば犯人は解ってしまった。これが解らなければ、本書は私の中でかなり上位になったかもしれない。骨の鑑定から一万年前の槍の穂先が見つかり、それを裏付ける絶滅したと思われるネイティヴ・アメリカンの登場。ここまでの流れはミステリではなく、冒険小説の筆運びになるからだ。いわゆる噂のみで存在する財宝を発見する話と変わらない。そう思わせておいて、実はミステリだったという、仰天の展開が繰り広げられるのだから、そうと思わずに読んでいれば傑作と褒め称えただろう。実際故瀬戸川氏は本書を大絶賛している。しかし、私の悪い癖で、推理とは関係のないところ、云わばミステリ読みの勘とも云うべき部分で真相を見抜いてしまった。しかしこれはこれで自分で謎を解いたのだから作者とのゲームに勝ったという意味で楽しめたと云える。 私は常々作家の作品は刊行順に読むべきだという持論を述べているが、本書に関しては特にそうは思わなかった。本来ならば刊行順に『暗い森』→『断崖の骨』→『古い骨』→『呪い!』と読むのがいいのだろうけど、逆にこのシリーズでは『古い骨』、『呪い!』でさんざん見せ付けれらた2人の熱々ぶりのそもそもの始まりを知ることになって逆に興味深く読めた。 このシリーズが好きな方は決して読み落とすべき作品ではない。なぜなら・・・って云わないでも解るか。 |
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エドガー賞受賞の『古い骨』の次に発表されたスケルトン探偵ギデオン・オリヴァー教授シリーズ第5作目。日本での紹介も同様に『古い骨』の次に訳出されている。
前作はフランスのモン・サン・ミシェルが舞台だったが、本作ではメキシコのマヤ遺跡が舞台。遺跡の発掘に関わっていた恩師エイブ・ゴールドスタインから遺跡から古い人骨が出てきたのでその調査を依頼されるというのが物語の導入部。その人骨の傍にあった古文書を解読すると、遺跡に踏み入った者には呪いがかけられるという不穏な内容。そしてその予告どおりに発掘メンバーに呪いがかかったような不吉な出来事が起きだすというのが物語の骨子。 『古い骨』の感想にも書いたが、基本的にこのシリーズのストーリーは突飛な物はなく、非常にオーソドックスな趣向で展開する。この古代遺跡の呪いというのも古来ミステリ作家が一度は題材に扱う内容で、定番中の定番。古代の呪いを扱う場合、往々にしてエジプトのファラオの呪いであるのが、本書ではメキシコのマヤ文明であるところがこの作者なりの味付けか。 で、恐らく本国アメリカでもそうだっただろうが、エドガー賞受賞後1作として発表された作品である本書は周囲からの期待値も高かったに違いない。しかしその期待を上回ることはなかった。実に普通のミステリである。骨の出現で呼ばれるギデオン夫婦、そこで起こる不穏な出来事が殺人事件に発展し、そして挟まれる骨の鑑定シーン、さらにギデオンにも危険が及び、そして大団円と全く『古い骨』と構成は一緒だ。一応フーダニットは盛り込まれているが、それによるサプライズというのはあまり感じない。 ミステリの外側の部分はどうかというと、これは読ませる。マヤ遺跡という恐らく大多数の人が行くことのない場所に関する叙述は興味をそそるし、また恩師エイブ・ゴールドスタインのキャラクターは出色の出来である。しかし上にも書いたように基本的には『古い骨』の構成をなぞらえているだけで、単純に舞台と登場人物を変えただけという感じは否めない。これが2作目である本書を読んだ時の率直な感想だ。しかしこれが巻を重ねることにこれこそエルキンズの味だというのが解ってくるのだが、まだこのときは引き出しの少ない作家だなとしか思えなかった。 |
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スケルトン探偵ギデオン・オリヴァー教授シリーズ第4作目にして本邦初紹介第1作目。なぜ4作目から紹介されたのかといえば、本書がMWA賞、通称エドガー賞受賞作であったことが要因として大きいだろう。本作の出版は実は現在流布しているハヤカワ・ミステリ文庫ではなく、廃刊となったミステリアスプレス文庫から出版されていた。しかも本書はその叢書の第1冊目でもあり、新規固定客を掴む重要な役割として大きな期待がかけられていたのだろう。
物語の舞台はフランスのモン・サン・ミシェル。プロローグは富豪のギョーム・ロッシュが干潮時に貝の収集をしている最中に満潮に巻き込まれ、命を失うシーンから始まる。骨の鑑定家であるギデオンは彼の館で見つかったナチス時代と思われる古い骨が見つかったことで親友のFBI捜査官ジョン・ロウと共に鑑定に訪れる。そしてその最中、一族の1人が毒殺されるという事件に巻き込まれる。 ミステリという観点から云えば、このギデオン・オリヴァーシリーズは非常にオーソドックスな作りである。因縁となる過去の事件を発端とし、なんらかの形でギデオンが関係者に関わり、そこに骨に関する事件や出来事が起き、そして過去の因縁が基になる殺人事件が起き、ギデオンが真相に近づく中、彼も一命を失うような危機に陥るが、大団円に至る。シリーズ全てがこのパターンを踏襲している。派手な演出、驚愕の真相を期待する方にとっては物足りなさを覚えるだろうが、逆にこのマンネリさがこのシリーズに安定感をもたらせ、安心して読めるシリーズと云えよう。 とはいえ、このシリーズにさしたる特徴はないかと云えばさにあらず、本書の目玉はギデオン・オリヴァーが毎回行う骨の鑑定にある。この場面の描写は毎回微に入り、細を穿ち、専門的かつ学術的である。では一般読者の理解に困難を強いるかといえば全くそうではなく、専門知識を誰もが解りやすいように噛み砕いて説明しており、読後新たな知識が得られたという満足感がある。この骨の鑑定という読者の知的好奇心をそそる演出がこのシリーズの人気の半分を占めていると云えよう。 さてエドガー賞を受賞した本書の出来はといえば、確かによく出来ており、非常に卒が無い。上に述べたように物語の起承転結がはっきりしており、なおかつサプライズもある。巷間に様々なミステリが溢れている今ならば、本書に収められているミスディレクションは特段話題にするほどの物でもないが、読んで損を感じることはないだろう。 さて本書は版元である早川書房が新規創刊した文庫シリーズの集客戦略の一手として出版されたであろうことは冒頭に述べたが、幸いにしてこの作品はその期待を損ねることなく、ミステリファンのみならず広く親しまれたようだ。特にその年の『このミス』では第3位という高評価を持って迎えられた。その後この叢書が廃刊になり、本国アメリカで新作が出版されても長らく訳出されないという不遇な時代もあったが、ファンからの熱い要望により、版型をハヤカワミステリ文庫に移して再出版され、その後コンスタントに新作も出版されている。 本邦刊行から今に至って私はこのシリーズを読み続けているが、最も新刊が待たれるシリーズの1つになっている。もし何を読もうか迷っている方がいれば、まず手にとっても貴重な時間を失うことはないことを保証しよう。 |
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東京創元社が独自に編んだ短編集。構成はカーによるラジオドラマ脚本とノンシリーズの短編、エッセイと多岐に渡るが、なんと云っても本書ではミステリ書評家に今なお語られる江戸川乱歩によるエッセイ『カー問答』が収録されているのが目玉だろう。
さて独自に編んだ短編集というのはごった煮感が強く、マニアのためのコレクション・アイテムのような趣があるが本書もそうで、カーが世に発表した諸々の文章を完全網羅するという意義は買うが、作品としてどうかと問われれば、玉石混淆だろう。なぜならば今までの短編集でもそうだったが、カーは(というよりもほとんど昔の作家はそうなのだが)短編のアイデアを基にした長編作が多く、本書では「死を賭けるか?」や「あずまやの悪魔」がそれに当るし、また既出の短編の別ヴァージョンという作品もあり(「死んでいた男」、「黒い塔の恐怖」)、何度も同じ話を読まされているような感じがしてしまう。 さらに本書では当時のアメリカ推理作家協会の面々で催されたシャーロック・ホームズのパスティーシュを題材にした寸劇の脚本、そして乱歩によるエッセイ「カー問答」が収録されていることからも短編集というよりも彼の功績を残すための資料的価値の方が勝っている内容である。私にしてみればこの事に対して否定的な立場ではないが、では作品としてどうかと問われればやはり出来栄えは悪いとしか評することが出来ない。 しかしこの余分な収録物と思っていた「カー問答」が本書では最も面白かったのは確か。これが収録され、読むことが出来たことが評価を7点に上げている。つまり私もマニアということなのだ。 散文的になってしまったので纏めると、貴方がコレクターならば、もしくはミステリの求道者ならば本書は必携の書であろう。しかし単なるカーの、ミステリの一読者であるならば本書はお勧めできない。そういった意味で勉強のための1冊と云っておこう。 |
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所謂カーの歴史ミステリシリーズの第1作目とされている。本来ならば『深夜の密使』こそがそれに当たると思うが、あの作品はカーター・ディクスンでもカー・ディクスンでもない別名義で書かれていたせいで、カーの作品とは長らく気づかれなかったようだ。そのため公式的にはこれがカー初の歴史ミステリ作品と云われている。今回は世間の通説にならって、本書を第1作として感想を書くことにする。
さて第1作目ということもあって、真っ当な歴史ミステリに徹している。『火よ燃えろ!』や『ビロードの悪魔』で採られたような現代人がタイムスリップして事件の解決に当たるといった荒唐無稽さはなく、あくまで本書で探偵役を務めるのはその時代の人物である。 ディック・ダーウィンはフランシス・オーフォード卿を殺害したかどでニューゲイト監獄に死刑囚として収監されていた。しかし彼はそれが冤罪であることを知っていた。そのディックに1人の女性が訪れる。その女性キャロライン・ロスは叔父の遺産相続の権利があるのだが、結婚をしていないと無効になるとの条件があり、そこで死刑囚であるディックに目をつけ、遺産相続のために形式だけの結婚を求めに来たのだ。 その要望を受入れ、監獄で形式だけの式を挙げた2人だったが、突然ディックの死刑が中止になり、ディックは釈放されることになる。ディックは自分が死刑に追い込まれたオーフォード卿殺害の真犯人を探りあてることにする。 財産目当てに結婚した女性と図らずも結婚生活を共にすることになるという、なかなか類を見ないシチュエーションである。そして晴れて釈放の身となったディックのその後の活躍はなかなかに面白く、ヒロイック小説的な様相がある。 なぜカーが歴史をさかのぼってこのような物語を著したかといえば、当時のまだ万人に対して公平ではなく、理路整然としていないイギリスの法律の抜け穴を小説の設定に利用したからであろう。ディックが釈放されるのはディックが貴族の出で、死刑の前に爵位を持つ叔父と従兄弟が相次いで亡くなり、ディックに爵位が継承され、ディックの死刑判決が下されるのがその後だったことから、貴族であるディックは上院による判決が必要になり、それまでの判決が無効になる。そして上院での再審はなんと慣例的に無罪になるという、今では到底信じられない裁定が下されるのだ。 後年同著者の『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』を読んだ時にも強く感じたが、中世イギリスの法律というのは本当にいい加減で、貴族ら上級社会層の人間に有利に働くように制定されている。だからこそ生まれる珍事というのがあり、本書もそれに着目したことから本作のプロットを練ったに違いない。 さて事件そのものはあまり大した事がなく、本書はどちらかといえばミステリというよりも冒険活劇小説の色が濃い。私はカー=本格ミステリという先入観があったせいか本書はそれなりに楽しめるものの、カーの作品としてはどうかという疑問を持ってしまった。しかし実は本書を読むことで次に読む『ビロードの悪魔』に対する私の読書スタンスが決まったわけだから、『火よ燃えろ!』同様、今改めて読んでみるともっと面白く読めるかもしれない。 |
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カーは後年歴史ミステリを数作著しているが、本書もそのうちの1冊。しかしカーの歴史ミステリというのは他の作家とは違った特徴がある。
通常歴史ミステリとはその時代の実在の登場人物、もしくは架空の登場人物を探偵役にしてそのときに起こった事件の謎を解く、もしくは現代の人物が過去の文献や資料を当たって、歴史の闇に新たな見解を示す物と大きく2つに分かれるだろう。 カーの歴史ミステリはこの2つのジャンルミックス的なものといえる。彼の作風は現代の人物がタイムスリップしてその時代に云って騒動自体に巻き込まれて事件を解き明かすという一風変わった特徴がある。 さて事件の内容はといえば、ロンドン警視庁の警視がタクシーに乗っていたらいつの間にかそれが二輪馬車に変わっており、1829年のロンドンにタイムスリップし、創立間もないスコットランド・ヤードの一員となって、不可解な射殺事件を解き明かすといったもの。 私は英国史はもとより世界史にもさほど精通していないため、本書でどのような歴史的事実が盛り込まれ、活用されたのかは寡聞にして解らない。が、しかしカーの歴史ミステリの主眼は従来の作家が採る歴史上の謎となっている事件を持論を以って開陳するものではなく、その時代でしか成立しなかった犯行・トリックを使うがために歴史をさかのぼっている節がある。現代の日本人ミステリ作家でたとえるならば、二階堂黎人氏の二階堂蘭子シリーズや京極夏彦氏の妖怪シリーズが正にその設定を採用し、自己薬籠中の物として次々と作品を生み出している。 で、その結果、カーは時代を退行することによって生じる読者への先入観を上手く引き出し、成功しているといえよう。本書の射殺事件に使われた物こそ、この時代あってこそのものであり、それを上手くミスディレクションとして使っている。 それに加え、当時の風俗、風景描写に躍動感があり、正に水を得た魚のような筆致である。元々カーは若い頃から歴史物やノンフィクションを著しており(『深夜の密使』、『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』)、このジャンルに興味があったようだ。 ただこの特異な趣向が万人向きかと云えば、全面的に肯定できないところがある。タイムスリップという非論理的な趣向と事件を論理的に解き明かすという趣向が混じっているため、物語のスタンスが一定しておらず、なんだかちぐはぐな印象を受けるかもしれない。それは私も同様で、本作に対する評価があまり高くないのもこれがフィルターとなってしまったことによる。 物語について寛容になった今ならば、この作品は改めて楽しく読めるのかもしれない。時間があれば再読することも頭に入れておこう。 |
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カーのベストを挙げよと云われたら『火刑法廷』か本作かというくらい評価の高い作品だが、私個人の評価はさほどでもない。
本作はカーが密室物の大家としての名を確固たる物とした作品と云われている。それは2つの密室殺人が盛り込まれ、そのどれもが不可能性が高く、さらにとどめは有名なフェル博士による密室講義が挿入されていることによるからだろう。特に後者は世の本格ミステリファンの密室好きの琴線に触れ、後年多くの作家がこの講義を下地に改訂作業を行っている。 第1のはグリモー教授の部屋での密室殺人。犯人と思われた謎の男ピーター・フレイは銃声が聞こえてすぐさま駆けつけたにもかかわらず、姿を消していた。 第2の棺は街の袋小路で起きたそのピーター・フレイ殺害。雪の降り積もる中、しかも袋小路の只中で残されていたのは被害者のみの足跡。 しかし不思議なことにこの事件は同時間に行われていた。ピーター・フレイはなぜ同じ時間に全く離れた場所に存在できたのか? この非常に魅力的な謎が解明されるが、一読した後では十分に理解できないだろう。それはあまりに複雑すぎ、さらに危ういまでに偶然が作用しており、しかもこれらの不可能状況が実に微妙なバランスの上で成り立っていることが解るからだ。 カーが本作に密室講義を盛り込んだことからも本作を彼の数ある密室殺人物の集大成と捕らえていたのは間違いなく、本書に盛り込まれたトリックはそれまでカーが使っていたあらゆる物を盛り込み、実現させている。 しかしそれは解るのだが、盛り込みすぎて実にギリギリのところで成り立っているとしか思えず、読んだ後は「こんなに上手く行くのかな」と首を傾げてしまった。 もう一方の特徴、密室講義は読む価値ありだ。これは1935年当時、既に数多創作された密室を類別し、整理して非常に参考になり、また読みやすい。ただその性質上、他作家の密室物の真相を暴いている(作品名は出されていない)のは致し方ないところ。個人的に面白かったのはフェル博士が「我々は小説内の登場人物なのだから・・・」云々とメタ的発言をするところだ。 力作であるのには間違いなく、こういうトリックの応酬が好きな人には堪らない1冊だと思うが、私としては張り切りすぎて、やりすぎだという苦笑を禁じえなかったのである。 |
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カーのベストを募ると必ず選出される本書は実はノンシリーズの1冊。
出版社の編集員が作家ゴーダン・クロスの書いた実在の毒殺魔ブランヴィリエ夫人の物語を読み、そこに付せられた肖像画と自分の妻とのあまりの近似性に驚愕する。それ以来、妻がブランヴィリエ夫人の生まれ変わりであることを示唆する噂と奇妙な事件が彼の身の回りに起こる。 『緑のカプセルの謎』でも書いたが、カーは密室物と同じくらい毒殺物を著しており、本書もその1冊。今気づいたが後年読んだ『死が二人をわかつまで』と非常によく似たシチュエーションである。但し私の中ではこちらの方が評価は上。 もしかしたら本書を読んでもそれほど驚かない人もいるかもしれない。この趣向を取り入れた設定の作品は今たくさんあるからだ。しかしこれこそがそれらの作品の祖だと考えればかなりエポックメイキングな作品であることに気づくだろう。つまりポーが開祖としたミステリ、つまり人外の闇の部分に論理の光を照らして人智の物とするという新しい文学形態にさらにその形態を下敷きにして新たなるスタイルを確立したとまで云っても過言ではない。 特に読まれる方は全編に散りばめられた台詞や仕掛けに留意してもらいたい。出来れば結末を知った上で読めば、カーが含ませた数々のダブルミーニングに気づくはずだ。本書は例えば、列車に乗っているときに遭遇する進行方向から見る広告と逆方向から見る広告が角度によって全く違っている看板のようだと云えば解ってもらえるだろうか? ただし、ではカーのお勧めは?と未読の方に問われて、この作品を推奨するのはいささか抵抗がある。なぜならば本書はカーがこのような作品を書いたことに大きな意義があるからだ。HM卿、フェル博士シリーズなどを数多く著してきたカーだからこそ本作が光るのだ。 ぜひとも読んでいただきたい傑作だが、ぜひともそれまでにカーの作品を何点か当たっていただきたい。素直に勧められないこのもどかしさをどうか理解して欲しい。 |
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本書はカーによる歴史ミステリの1冊。創元推理文庫ではカー一連の作品で最後の方に位置しているが、本書はカーが晩年に書いた一連の作品群ではなく、1934年に別名義で書かれた作品。1934年と云えば、傑作と云われている、『プレーグ・コートの殺人』、『白い僧院の殺人』が書かれた年で、ようやくカーの作者としての油が乗り出す時期だったと云えよう。しかし一方でその年には『剣の八』、『盲目の理髪師』といった、首を傾げるような作品もあり、おいそれと作品の質が保証されないところがある。果たして本書の場合はというと・・・。
今まで書いてきたように、この頃読んだ一連のカー作品の評価はあまりよろしくない。特に『亡霊たちの真昼』のように、退屈な作品を読まされた(この表現は実は好きではない。なぜなら本に読まされることはなく、選んだ自身が“読んだ”のだから。しかしいかんともしがたい欲求不満が募る時はついこういう表現を使ってしまう。ご容赦願いたい)時には、なんとも読む意欲をそそられない物だと思ったものだ。 その予想通りに前半の展開は非常に冗長だ。1670年にロデリック・キンズミアなる男が遺産相続のためにロンドンを訪れ、そこで殺人事件、国家的陰謀に巻き込まれていくというのが物語の骨子だ。この国際的陰謀に際して、国王からフランスへ密使を頼まれることになるのだが、ここまでが異様に長く感じられ、なかなか動き出さない物語に忸怩たる思いをした。 が、そこはカー。その後の展開は悪くなく、このロデリックという男が次第に好きになっていく。こういう冒険譚が上に書いた頃の作品群と非常に対照的であるため、逆に云えば本作でカーの冒険小説、歴史小説に対する飢えを癒した感が受け取れる。 期待しなかった分、逆に面白く読めた作品である。今でも本棚にその書影を見かけると「意外と面白かったな、これ」と当時の読後感を思い起こす。 |
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カーのミステリの特徴として密室がよく挙げられるが、それと双璧を成すほどよく扱われていた題材が毒殺トリック。古来ヨーロッパでは毒殺による殺人事件が頻発しており、しかもそれらが連続殺人事件であることが多かったこと、そして伯爵夫人や公爵夫人といった王侯貴族の夫人達による実行が多く、スキャンダラスな側面を持っていたことが大いにミステリ作家達の創作意欲を刺激したようだ。その中でも多数の毒殺トリックを扱った作品を著したカーはとりわけこの毒殺という犯行に魅了され、独自に研究をしていたように思われる。
というのも本作には『三つの棺』で行われた密室講義に続く毒殺講義がフェル博士から成されるからだ。このことからもカーが密室と毒殺を自身のミステリのテーマとして掲げていたに違いない。 物語は巷で毒入りチョコレートを食べた子供達が死ぬという事件が頻発しているという物騒な事件が起きていることがまず語られる。この事件を犯罪研究家であるマーカス・チェズニイ氏が解明し、その方法を友人や家族の前で実演している最中に覆面を被った何者かが入ってきて、なんとそのまま毒殺されてしまう。しかもその模様を見ていた3人の目撃者の証言はどれも食い違っていたという、非常に面白い題材を扱っている。 さらにこの模様を写したフィルムで彼らの証言を検証する行為がなされ、それに加えて生前チェズニイ氏が用意した10の質問に答えるという趣向も盛り込まれている。この映像による検証が本書のメインであり、最も面白いところだ。 カーが本書を著した際、バークリーの代表作『毒入りチョコレート殺人事件』が念頭にあったことはまず間違いない。識者によればカーがバークリーが長を務めるディテクティヴ・クラブに入会したのが1936年で本作の上梓が1938年。当時バークリーは英国ミステリ界において重鎮であり、しかもエース的存在であった。カーがクラブ入会後、彼と会員のミステリ作家たちの交流を通じて多大に影響を受けたのは知られており、本作は特にバークリーの影響を受けて創られたようだ。 やはり珍しいのは映像を使った心理的トリックだろう。毒殺された犯罪研究家が作った映像とそれに関する問いについて視聴者が喧々諤々の議論と問答を繰り広げるのは面白く、ロジックよりもトリックを主体にしたカーにしてみれば異色ともいえる展開である。 で、これが逆にトラブルとして起きた毒殺事件を複雑化しており、なかなか良く考えられた作品である。失礼な言い方になるが、全てが綺麗に納得でき、しかも精緻すぎてカーの作品ではないみたいだ。 とこのように非常にカー作品の中ではロジックを前面に押し出した作品で、読み応えがあるのだが、当時の私の感想を書いた一言メモでは、どうも多忙の中で読んだようで楽しめなかったとだけ残ってある。しかしそれでも内容についてこれだけ記憶に残っており、読み応えがあったように思えるのだから、やはり私の中ではカーの作品でも上位に来る作品であるようだ。もう一度読み直すべき作品として記憶にとどめておこう。 |
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フェル博士シリーズ第2作目で私にとって初めてのカー長編。私はこの作品でカーが好きになった。というよりも「カーってこういう作家なんだ」と理解した作品である。
盗まれたポーの未発表原稿の捜索とロンドンで頻発する帽子盗難事件が同時進行的に語られ、やがて帽子盗難事件の犯人と目されている「きちがい帽子屋」を追っていた新聞記者がシルクハットを被った他殺死体として発見されるという、3つの事件が錯綜する非常に贅沢な内容になっている。 実は私はこの殺人事件に関してはほとんど覚えていなく、それ以外のポーの未発表原稿の行方と帽子盗難事件の方が非常に鮮明に記憶に残っている。それほど私にはインパクトがあったのだ。この全く関係ない2つの事件がある接点で結びつく。それはある人は非常にバカバカしいと思うだろうが、私はよくもまあ、こんなことを思いついたもんだと非常に感心した。この着想の妙がツボにはまり、一気にカーが好きになってしまった。 そして乱歩もこの作品を推しており、黄金期ミステリ十傑の中に入っている。しかしカーの他の作品を見渡してみると、この作品以上に出来のよい作品はまだあり、ミステリ読者ならびに書評家の中には「よりによってなぜこれを?」という疑問の声は多い。しかし私はなんとなく乱歩が本作を選んだ意味は解るように思う。ポーの未発表原稿盗難事件と帽子盗難事件という全く接点の無いと思われた事件が、シルクハットを被った他殺体という接点で結ばれる、この着想を買ったのだと思う。私同様、これをバカバカしく思わず、何たる発想と快哉を挙げたに違いない。 ちなみに本書の原題は“The Mad Hatter Mystery”という。現在ならば“Mad Hatter”と云えば、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の方が広く知れ渡っている。後年になって私はクイーンのその作品を読んだが、なんの共通点も見出せなかった。『Yの悲劇』が1932年の作品で本書が1933年の作品であるから“Mad Hatter”という呼称を通じて、イギリスで何かあったのかもしれない。時間があれば今度調べてみたいと思う。 |
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東京創元社によるカーの第4短編集。本書から通常の短編に加え、ラジオドラマの脚本も併載され、ますますマニアのコレクション・アイテム度が増している。
短編は今までの3作で盛り込まれることの無かった、アンリ・バンコラン物がほとんどを占め、それに他の短編集にも収録されていたノンシリーズの歴史ミステリが1編収録されている。私は本書で初めて脚本調の作品を読んだが、これが意外に読みやすく、すんなりと頭に入ったため、案外この短編集は好きな方である。恐らくこれは装飾過多な演出と持って回った文体がシナリオという形であるため、簡略され、一切の無駄がそぎ落とされたせいだからだろう。当時の私はまだカーの訳文に難儀しており、逆にこの簡潔な文章が読書の手助けになった覚えがある。 したがって本書でも記憶に残っているのはバンコラン物を筆頭に収録された短編ではなく、ラジオドラマの方である。ラジオドラマのシナリオでありながら、古くよりカーの良作と云われ、現在でもモチーフにした作品が日本ミステリ作家の間で書かれている「B13号船室」と表題作の2編がそれだ。前者は小さい頃に読んだ本当にあった怖い話とシチュエーションが酷似しており、それが故に鮮明に記憶に残っている。後者は単純に面白かった。こういう先入観を利用したトリックは他にもあったが、これについてはすんなりと嵌ってしまった感があった。これもシナリオ調の文章が一助になったのだろう。 実は最初ラジオドラマの脚本まで収録して短編集を編むことに出版社の卑しき商売根性とマニアの香りを感じたので、嫌悪感を示していたが、結果は上に述べたように存外面白かった。逆に云えば作者のルーツを辿る意味でもこのような作品集も読むべきだと考えを改める契機になった短編集だったと云えよう。 |
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東京創元社によるカーの第2短編集。日本独自に編まれた短編集だが、本書は各編メリハリがあって好きな方である。
なんと云っても本書は表題作に尽きる。カーの中でも傑作の部類に入る短編だ。20年前神隠しにあったかのように一週間少女が失踪した事件の元となった妖魔の森の家と云われるバンガローに再びその少女がその家に入るといつの間にか姿を消していた。しかも家には鍵がかかっており、周囲はHM卿も含め、ずっと見張られていたのだ。しかも誰も出て行ったものもいないという、扱われるモチーフはカーが得意とする密室物。しかも妖魔の家なる怪奇色も施してぬかりがない。そしてそれを実にすっきりと解き明かす論理はカーにしては(?)非常に整然としており、カーの作品の最たる特徴が出た作品だ。だからこれに比べるともう1つの密室物である「ある密室」がやや強引さが目立ち、やや劣る。 その他収録されている作品のうち、「軽率だった夜盗」は数年後読むことになる『仮面荘の怪事件』の原版となる短編だし、「第三の銃弾」は逆に長編であった原版を省略したカット版で、数年後早川書房から完全版が出版された。 残りの1編「赤いカツラの手がかり」は着想が面白く、あまりのバカバカしさに苦笑を禁じえないが、後の『帽子収集狂事件』に繋がるユーモアがあり、結構好きな方である。 以上、不完全版が2編収録されているが、読んだ当時はそんなことは知らないので気にならず、むしろヴァラエティに富んだ短編集だという印象が残った。しかし本を手にとって浮かぶのはやはり表題作が醸し出す雰囲気。本書はこの1編を読むだけでも価値がある作品集と云えるだろう。 |
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ミステリ黄金期の三大巨匠といえば、クイーン、クリスティ、そしてカーであることは周知の事実である。そのうちカーについては私はミステリを読み始めた早い時期から触れていた。未だに絶版作品が多いので、全ての作品を読破したとはいえないが、ほぼ80%は読破したように思う。
で、本書はそのカーの短編集で収録作10編中6編で探偵役を務めるのがマーチ大佐。本書のタイトルはこのマーチ大佐が所属するスコットランドヤードの部署の名前。もちろん現存しない部署であるのは云うまでも無い。ちなみに基本的にこのマーチ大佐は本書のみで探偵役を務め、他の作品でも出てくるものの、単なる一登場人物に留まっている。 収録作の中で印象に残っているのは「空中の足跡」、「銀色のカーテン」、「もう一人の絞殺吏」、「目に見えぬ凶器」の4編。しかしこの4編が特に優れているというわけではなく、出来不出来を別にして今に至っても記憶に残っている作品。 まず「空中の足跡」は今読むと滑稽だろう。というよりもこれは雪の足跡トリックで誰もが一番に思いつく犯行方法だと思う。特に某作家が編んだ推理クイズ集に必ずこのトリックが収録されていたことでも有名だ。 「銀色のカーテン」は雨の中で行われた殺人事件というイメージが鮮烈に残っており、またそこで使われたトリックも納得できる。後日、同様のトリックがチェスタトンのブラウン神父シリーズのある短編で使われているのを思い出したが、シチュエーションと仕掛け方が違っている。 「もう一人の絞殺吏」は歴史ミステリだが特に読後の味わいがなんともいえない余韻を残す。個人的にはこれが本書のベストだ。ちょっとチェスタトンの作風に似ているかもしれない。 「目に見えぬ凶器」は読後当初、「いくらなんでもそれはわかるだろう!」と眉唾物として捉えていたが、その後、このトリックと似たようなシチュエーションに遭遇し(同様の犯罪が起きたというわけではない)、ああ、やっぱり気づかない物なのかと改めて考え直させられたという意味で印象深い。とはいえ、作品的には並みの部類。 語り口にかなり個性を感じたものの、なんだか子供騙しのトリック、小粒な仕掛けを大げさな表現で糊塗して、過剰に演出しているとしか思えなかった。しかし本書こそ私がカーとの最初の出会いで、以後今に至るまで、カーの未読作品に遭遇すると必ず読んでしまうようになるのだから、縁とは不思議なものである。 |
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以前、綾辻作品の中でもっとも賛否両論分かれる作品だろうと『人形感の殺人』の感想に書いたが、それと双璧を成す、いやもしくはそれ以上に賛否両論分かれるだろう作品が本書である。
吹雪舞う冬山に遭難した劇団“暗黒天幕”の一行は山中に聳え立つ洋館に辿りつく。高級な調度品に装飾された館「霧越邸」に命からがら飛び込んだ一行。しかしそれは惨劇の幕開けであったという、“吹雪の山荘物”そのままの設定。 閉ざされた館で起こる連続殺人事件で作者は綾辻行人となると、館シリーズを思い浮かべるが、本書はノンシリーズである。それについては後述するとしよう。 今回一番目立つのはペダンチックに飾られた霧越邸を彩る一流の調度類について語られる薀蓄だろう。家具、照明器具はもちろん、書斎に置かれた万年筆の類いに至るまで、全てが高級品であり、それらについて事細かに語られる。こういう内容は雑学好きには堪らなく、無論、私もその一人であった。そしてそれらの中には犯罪の煽りを受けて、無残にも壊され、また殺人道具として使用される。この勿体無さは『時計館の殺人』で次々に壊されたアンティーククロックに匹敵する。私は作中人物が、これら職人が精魂込めて作り上げた芸術ともいえる物を躊躇無く壊す、もしくは意図的に壊す行為は、なんだか綾辻氏のある哲学、美学に裏打ちされた行為ではないかと思う。例えばミステリに関する既成概念を打ち砕くとか、過去の偉大なミステリ作家が築き上げたトリックやロジックの砦を敢えて壊して、新たな本格を作るといった意気込みというか。この辺はまだ漠としたイメージでしかないので、また綾辻作品に触れた時に作品と照らし合わせて考察していきたい。 で、この作品に対する私の評価はと問われれば作者のやりたい事は理解できるものの、では作品としてカタルシスを感じられるかと云えば、そうではなく、従ってなんとも中途半端な印象を持ってしまった。ずるい云い方になるが賛成半々、否定半々というのが正直なところ。綾辻氏の持ち味である日本なのにどこか異界を舞台にしたような幻想味と一種過剰とまで思えるロジックの妙、これが実にバランスよく施されているのが館シリーズだが、このうち幻想味の方にウェイトを置いたのが本書。最後にいたり、これが豪壮な館を舞台にしながら敢えて館シリーズにしなかったわけが解る。つまりそこからして綾辻氏は館シリーズからへの分化には意識的だったのだ。とはいえ探偵役島田潔は登場しないものの、文体ならびに作中の陰鬱さを感じさせる抑制された雰囲気は館シリーズと変らないし、また文中、中村青司がデザインしたと匂わせる表現もあり、そこに作者としての迷いも感じられる。綾辻作品世界のリンクであるくらいの内容かもしれないが、私はそれだけとは受け取れなかった。 ミステリの既成概念を打ち砕くために敢えて挑戦した企み、この手の作品には過去にカーのある名作があるが、そこまでには至らなかったと感じてしまった。その後の綾辻氏の諸作で彼がどのような本格ミステリ観に基づいて作品を著していったのか、さらに追っていこう。 |
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