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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数902件
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倉知淳氏のシリーズ探偵猫丸先輩のデビュー作で、同時に倉知氏自身のデビュー作でもある。
本作は連作短編集で、7編の短編+α×2という構成になっている。そう、本作も若竹七海氏や西澤保彦氏の某作品と同じ、各短編に散りばめられたミッシングリンクが最後に明かされる趣向の短編集になっている。 さてそれについては後に述べるとして各編について順繰りに感想を述べていこう。 第1編「空中散歩者の最期」は猫丸先輩のキャラクターを語るのにうってつけの一編と云える。 導入部の幻想味、大掛かりなトリックによる真相と、大御所島田荘司氏が書きそうな作品。この真相については最初は眉唾物でなかなか信じられなかったが、高さと加速がつけば確かにありうるかもと納得。個人的には空中散歩者が宙を飛ぶ原理の着想が面白く、空中散歩者を主人公にした超能力物を読みたいと思った。 2編目の「約束」はガラリと趣向が変わって、ちょっとびっくりした。 子供を主人公にすること自体がもう卑怯とも云える泣ける一編。もう冒頭からその雰囲気満点である。 本作は隠された人間の悪意を看破する物で、若竹七海氏の作風を思わせる。ちょっと作りすぎのような感じもするが、こういう話に本当弱い。 「海に棲む河童」は1編目と同様、ファンタジックな物語で幕を開ける。 これも島田荘司氏の『眩暈』や『ネジ式ザゼツキー』を想起させる、一見ファンタジーとしか思えない話が実は真実であった事を論理的に解明する話。 面白いのは冒頭に付された御伽噺ががものすごい方言で読み難いことに配慮して、作者が本編終了後にその標準語訳を付けているのだが、今度は逆に注釈が多すぎて却って読み難くなっているところ。この辺は海外ミステリの過剰なサービスへの揶揄とも取れ、ブラックユーモアが効いている。 「一六三人の目撃者」は上演中の劇の最中で殺人が起きるという、夏樹静子の『Wの悲劇』を思わせる作品だ。 純粋にロジックで犯人を解き明かす1編。プロバビリティーの追求にのみ焦点を当てた本作は、従って最後に明かされる犯人の動機は一切謎のままに幕が閉じられる。 本作では猫丸が劇団員の1人として登場する。しかもかなりの演技派らしく、いつもと違う猫丸が見れる貴重な1編。 「寄生虫館の殺人」はどこかで見た事のある題名だが、中身は全然違う。 ちょっと強引過ぎるミスディレクションだなぁと思った。 NHKの受信料集金者が怪談のような奇怪事に遭遇するのが「生首幽霊」。 これはプロット創作の裏側が推理を重ねる事で見えてくるぐらいにかなり作り物めいた作品だ。長いアパートという設定で容易にある程度八郎が遭遇した事態の真相も予測はつく。 構成上、最後の短編なのが表題作「日曜の夜は出たくない」。 これは素直に上手いと認めよう。出来としても一番いい。よくあるサスペンス物だが、小技が効いていて、作者のミスリードになかなか抗えないようになっている。 そして明かされる真相も甘酸っぱい恋のノロケのようで微笑ましい。これが本作ではベストかな。 さてこれら7編の後、これらの短編に共通するキーワードがエピローグで明かされるが、これははっきり云って解明不可能、凝りすぎだろう。一応自分なりになんとか解き明かそうとチェックをしていったのだが、これほどまでに細部に渡ってチェックしないと解らない仕掛けだったら、驚愕とか感心とかを通り越して呆れるしかない。 さて本作で探偵役を務める猫丸という人物。その後シリーズ化されているが、確かに面白いキャラクターだ。当初は単なる小さな事件に興味のある素人探偵の域を出ていないキャラだったのが3編目と4編目では船頭のバイトだったり、劇団員だったり、と意表を突くシチュエーションで絡んでくる。 それが私をして猫丸というキャラクターに好感をもたらせることになった。 一番面白かったのはやはり4編目での劇団員としての猫丸だ。他の作品とは違うきびきびとした振る舞いは、俳優としてもその道のプロに演技を認められるほどの技巧派だと評され、そのギャップにニヤニヤしてしまった。 ただ1作目でアマチュア奇術クラブや同人誌、町内会の趣味の会合や断食会にも参加したりとどこにでも首を突っ込むと紹介されている割にはそのヴァリエーションが乏しかったのがちょっとがっかりだ。それについては次作以降に期待しよう。 しかしデビュー作である本書は脱力系でマイペースだと窺っている作者倉知氏の性格とは反比例して1作ごとに趣向を変えるなど意欲的な試みに満ちている。各編の感想にも述べたが島田荘司風ミステリあり、ハートウォーミングストーリーあり、ロジックのみを追究したミステリあり、サスペンスありと様々だ。 おまけに自身もエピローグで述べているように全ての殺害方法が違う。墜落死、凍死、溺死、毒殺、撲殺、絞殺、刺殺。デビューに向け、当時の全てを吐き出したような書きっぷりだ。そしてその努力が報われるように、本書はその年の『このミス』のベスト20にもランクインされ、現在も活躍が続いている。 ただやはり気になるのは読者が推理しようとするにはあまりに情報が少ないことだろう。私は与えられた謎を推理するのが好きなので、本作でも自分で謎解きに挑みながら読んでいったが、全敗してしまった。 しかし真相がぽんっと膝打つものであれば良いのだが、本作では真相に導くためにこじつけているようにしか感じられないのが惜しかった。しかし先に読んだ『占い師はお昼寝中』ではその辺は解消されているので、これはデビュー作ゆえの脇の甘さだろう。 これが私の負け惜しみかどうか、他に本書を読んだ人の意見を聞きたいところだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本の新人文学賞でも屈指の難関と云われる日本ホラー大賞初の受賞作である本書はそれが単なる飾りでない事を証明する濃い内容の作品だ。というよりもこの作品が基準となり、同賞が難関となったと云っても間違いではないだろう。
発表当時大学の薬学部で博士課程だった瀬名氏。その専門分野をいかんなく本作に導入しているがために、中身は専門用語が縦横無尽に横溢してあり、門外漢である私はしばし内容を理解するのにページを捲る手を休めざるを得ない状況に陥った。 しかし、それでもリーダビリティが落ちなかったのは、作者の高度に計算された物語運びの妙にある。 主人公永島利明のパートでは死亡した妻聖美の細胞を培養するプロセスが事細かに書かれ、聞き馴れない専門設備・器具の名称や専門用語の応酬に怯むものの、そのパートでは迫り来る得体の知れない何かに対する危機感めいた物がきちんと挿入されている。さらに話は腎臓移植を受けた麻里子のエピソードやその経過、そして生前の聖美と利明との馴れ初めなどが絶妙にブレンドされ、読み物として退屈を呼び込んでこない。実にバランスの良いストーリー運びである。 本作のプロットは実に単純である。人間にとって寄生して生存していると思われたミトコンドリア自身が寄生体そのものを凌駕し、逆に征服し、次世代知的生物に成り代わるというものだ。 本書が他のホラー作品と比べて一歩抜きん出ているのは、まずその壮大な嘘を博識な専門知識によって理論武装し、本当にありえそうな恐怖を齎したこと、そして従来人間に寄生し、征服しようとする存在は地球外生物が多かったのに対し、瀬名氏は元来全ての生物に備わっているミトコンドリアという存在に着目したこと、この2点にあるだろう。 そして本書が突拍子のなさを持っていないのは、寄生体であるミトコンドリアが人間のDNAを逆支配するという可能性がゼロではないことだ。現代の最新研究ではまだその証明がなされていないが、これから先、科学の分野が発展するにつれてこれら机上の空論であった事実が実はかなりの必然性を持った可能性となることもあるかもしれない。 そんな潜在的恐怖を抱かせてくれるところに瀬名氏の作品の特色があると思う。 それはやはり専門家としての瀬名氏の博学な知識がそれを裏付けているし、またそれが彼の作家としての他の作家と一線を画する特質であろう。 私が本書において特に驚嘆したのは腎臓移植手術に関する事細かな叙述である。例えば臓器提供者(ドナー)と臓器受容者(レシピエント)との間を取り持つ移植コーディネーターなる存在があることもその1つだ。 なによりも腎移植手術の件が特に興味深かった。メスを入れるところから、腎臓を摘出するまでのプロセスとそこから移植手術に移るまでの時間との闘いといった一連の流れが精緻な叙述で眼前に映像が浮かぶかのごとく描かれる。素人考えで恐縮だが、薬学部である瀬名氏が医学部の学生でも立ち会わないだろう内臓移植手術をかくも迫真性を以って描いていることに驚く。しかもこれはベテランの作家によるものではなく、新人賞に出された原稿なのである。取材費なども出ない作品の制作にここまでよく取材した物だと感心した。 そして瀬名氏が理系研究者が陥りがちな説明調文章を多用するわけでなく、作家として物語を形成する技量にも長けていることが本作ではよく解る。 本作は3つの大きな話が同時進行で語られるが、私が一番印象に残ったのはサブストーリーとも云える、腎臓移植を受けた麻里子のパートだ。娘とのギクシャクしたコミュニケーションに悩む父親と、麻里子自身が負った心の傷のエピソードについつい親の視点で読んでしまい、自分ならどう対処するかと考えさせられた。 また移植手術がレシピエントにとって必ずしも喜びをもたらすものではない事を本作では教えてくれる。 元々成功率が低い手術であるのに、患者は術後は普通の生活に戻れるものだと100%思い込む。それがゆえに拒絶反応が出て摘出しなければならなくなったときの落胆振り。更に麻里子の場合は、腎移植が仇になりいじめの対象になってしまう。特に彼女の、死体から摘出した腎臓を移植する嫌悪感からくる「わたしはフランケンシュタインじゃない」という悲痛な叫びが胸を打った。 こういう細かい人間描写が本作を単なるホラー作品ではなく、小説として真っ当な読み物にしている。 と、全面これ、賞賛の嵐となっているが、やはりエンタテインメントとしての勢いを減じているのが先ほどから述べているその圧倒的な量を誇る専門知識と専門用語だ。 これを語るにはこの知識が、この作業にはこういう装置が必要だ、だからそのことを説明するにはこの分野について触れておかねばならない、といった瀬名氏の読者に対する配慮が行間からも解るのだが、その親切すぎる配慮ゆえに情報量が多すぎ、読者の理解力をことごとく試すような物語の流れになっているのが惜しい。そういった理解しがたいパートについては読み流せばよいのだろうが、当方はそれがどうしても出来ず、理解するために何度も読み返してしまった。 この辺の匙加減がやはり若書きの至りというものだろうか。しかしそれを第1作目で求めるのは酷というものだろう。日本ホラー大賞の黎明を告げた本書はその賞に恥じない、力作である事は間違いない。 |
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鮎川賞に応募した『慟哭』でデビューした貫井氏の『症候群』シリーズ第1作。
貫井氏といえば、『必殺仕事人』に代表される“必殺”シリーズの大ファンであるが、本作はその趣味を存分に活かしたシリーズと云えるだろう。ただ現代を舞台にしているので、同趣向の『ハングマン』シリーズの方が近似性が高いかもしれない。とにかく環敬吾率いる彼のチームのメンバーの召集シーンからニヤニヤしてしまった。 本作に登場する環率いるチームのメンバーは、平常時は土方をやっている倉持真栄、托鉢僧の武藤隆、そして警察の職を追われ、探偵業を営んでいる原田柾一郎である。 で、本作ではリーダーの環ではなく、メンバーの1人、原田にスポットを当て物語は進行する。原田が担当した失踪人、小沼豊の捜査と彼の家庭が抱える問題が交互に語られる。そしてこのサブストーリーとも云える原田の問題が環たちが捜査している事件と関連性が持ってくる。 この原田が抱える問題とは高校生になる娘の反抗期である。家族と一緒に過ごさなくなり、夜毎ライブハウスに友達と出入りし、帰りは夜遅く、久々に会ってみれば化粧をしている。さらには不登校が発覚するという、いわばどこにでもあるような反抗期なのだが、今や子を持つ親の身とすれば他人事とは思えず、私ならどう対処しようと頭に描きながら読んでしまった。 やがて事件は複層する失踪事からやがて若者達に蔓延しているイリーガルドラッグへと重心が移っていく。 特に注目したいのは本作に登場する犯罪の片棒を担いだ人々というのが、実は私たちとなんら変わりのない、ごく普通の人々だということだ。 彼らは現状に不満を抱きつつ、毎日を過ごし、その現状から脱出したいがために、一線を少しだけ越えてしまった人々なのだ。その一線というのが、誰しも抱く「このくらいなら大丈夫だろう」という軽い気持ちで始めた犯罪行為というのが非常に心苦しい。なぜならここに書かれている人々は自分かもしれないからだ。 こういう作品を読むと、我々の安定した暮らしというものがいかに危うい日常のバランスの上で成り立っているかが実感させられる。 失踪した彼ら・彼女らも毎日親や近所、会社の上司から与えられるプレッシャーから逃れるために自ら選んだ道であり、実際、事件の真相解明を依頼されたチームを束ねる環はこの一連の失踪事件に関しては主謀者である馬橋の改心を促しただけに留め、本質的な解決をもたらしていない。真相を解明し、後は当事者に判断を委ねるという形を取っている。 更に加えて、この馬橋という男が、昨今の大不景気で続出する首切り問題の対象となっている契約社員という立場が故にこのような犯罪に手を出したという事情も同情できるだけに切ない。 群衆の中の孤独。 東京ほどこれほどぴたりとくる街もないだろう。日本最大の人口を誇りながらも人はその群れの中でいとも簡単に掻き消えてしまう。小市民である彼らはそんな中で、限られたコミュニティにアイデンティティを見出しながらひっそりと暮らしている。 海外で暮らす今、失踪人たちの矮小さが痛切に響いた。 初の貫井作品だったが筆致は堅実で迷いがない。ただ器用すぎて派手さに欠けるとも思った。 あと失踪人捜しという物語の軸足がいつの間にかドラッグ密売グループの摘発に移っているのも、ぶれている感じさえある。 更には冒頭に述べたように作者自身がファンであるドラマシリーズを感じさせるため、物語や構成もドラマの場面が浮かぶきらいもあるが、純粋に愉しめはしたので及第点というところか。本棚に並ぶ彼の作品を次に読むのが楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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運命の悪戯、そうとしかいいようのない三人の運命、いや文字通り“宿命”を描いた作品。
晃彦、勇作、美佐子の抱えるやり場のない感情の行方、お互いの間を交錯する想いが届きそうで届かないもどかしさが読み進むにつれて胸に痛切に響いてくる。 小学校からのライバルであった瓜生晃彦と和倉勇作。片や地元有力企業の創立者の息子の御曹司であり、片や一介の警察官の息子。 しかし勇作は天性のリーダーシップと知性で学年の人気者になるが、どこか世の中を嘲笑っている晃彦は孤高の存在として誰にも取り成す事もなく、我が道を行く。しかしそんな彼が唯一気にしていた存在が勇作であり、事ある毎に勝負してきた。そして勇作は晃彦に小学校、中学校、高校とずっと勝てないでいた。 やがて2人は同じ統和医科大学を受験するが、晃彦は受かり、勇作は不合格で浪人生活に。その浪人中に美佐子と知り合い、再び同じ大学を受験しようとする。今度こそ合格確実という時に父親が脳溢血で倒れ、受験できなくなる。バイトをしながら受験勉強をするが、耐え切れなく、警察学校に入学する苦渋の選択をする。 典型的な勝ち組と負け組を描いた対照的な2人の人生。自然、読者は勇作を応援する側に回ってしまうだろう。 しかしこれこそ東野圭吾氏が仕掛けたマジックなのだ。 家族のみならず妻の美佐子にも決して心の内を打ち明けず、いつも一人超然と佇む晃彦。彼の真意が終章に至ってようやく読者の眼前に明かされる。このとき、東野氏がマジックを解くのに、指をパチンと鳴らした音が聞こえたような気がした。 とにかくこの3人の人生に纏わる奇妙な結び付きが、冒頭からモヤモヤとした形で少しずつ眼前に差し出されるが、それは眼の前の靄を晴らすのではなく、新たなる靄を生み出し、更に読者を物語の深い霧の中へといざなうようで、居心地の悪ささえ感じた。しかしこれこそ東野ミステリの特徴であり、私はこういう趣向のミステリを待っていた。 本作は三角関係という恋愛小説の色も持ちながら、青春小説の側面もあり、なおかつ明かされる三人の過去には科学が生んだ悲劇という通常相反する情理が渾然一体となって物語を形作っているのが特徴的だ。この絶妙なバランスは非常に素晴らしい。 特に科学の側面を全面的に押し出さず、あくまで人間ドラマの側面を押し出して物語を形成したのは正解だろう。やはり「推理小説」はあくまで小説であるから、物語がないと読者の心に響かない。 個人的には勇作と美佐子が若かりし頃に交際していた件がベタながらも鼻にツンとくるような甘酸っぱい感慨を抱かせ、非常に印象に残ったエピソードだ。読んでいる最中、尾崎豊の”I Love You”が頭の中を流れていた。 しかし東野氏の熱すぎず、かといって冷めすぎない抑制の効いた筆致がありがちな過剰演出を抑え、逆に読者の心に徐々に一つ一つの事実が染み込んでいく。そして最後に明かされる真実が哀切に響いてくる。 ミステリを書く上で、これは最大の長所であり、続けて読んでもくどさが無く、飽きが来ない。これこそ彼の最たる特質だろう。 考えるに、本作は東野氏の第2期の始まりを告げるものではないだろうか。 デビュー以後、一貫して学生・学校を舞台に紡いだ青春ミステリを『学生街の殺人』で以って一旦結着し、その後『魔球』、『鳥人計画』といったスポーツミステリ、『浪花少年探偵団』、『犯行現場は雲の上』、『探偵倶楽部』といったライトミステリ、『十字屋敷のピエロ』、『ブルータスの心臓』といったオーソドックスなミステリを経て、再び青春小説のテイストとそれまでに培った科学知識を応用したミステリのハイブリッドを目指した人間に焦点を当てた東野ミステリの始まり、本書はそんな作品のような気がしてならない。 デビュー当時の青春ミステリと違うのは既に大人になった彼ら・彼女らが過去を振り返るところにある。そして事件の鍵がその過去に因縁に深く根差しているところにこの第2期の特徴があるように思う。 また本作が刊行された90年というのは一世を風靡した『羊たちの沈黙』が訳出された一年後である。つまりサイコホラー元年の翌年、世にはこの手のサイコホラー系ミステリが横溢していた。 そして本作もまたこの類いの影響下にあったに違いない。人の心こそ最も怪奇、恐ろしいというこのジャンルは当時画期的であり、東野氏はその側面に脳科学の分野にスポットを当て、独自のアプローチをしたに違いない。そして恐らく本作は後の『変身』に続く里程標的作品になっているだろう。 しかし本作はなんといっても文庫版の表紙のイラストに尽きる。この何の変哲もない屋敷のイラストが開巻前と読了後では全く印象が変わってみえる。 本書がスティーヴン・キングの代表的サイコホラー、『シャイニング』の表紙に酷似しているのは単なる偶然ではないのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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とにかく冷静に読めない小説だ。なぜならあまりにリアルすぎるからだ。
老化が一気に進む恐るべき奇病のパンデミック(世界的大流行)を扱った本書。 前書きでも言及されている鳥インフルエンザから進化した新型インフルエンザのパンデミックが恐れられている昨今、正にタイムリーな小説だった。とはいえ、本作が書かれたのはなんと16年前の2002年。この頃、既に現在の新型インフルエンザの発症は実は予見されていることに驚いてしまった。 本作ではフィクションの形を取っていながらも実はかなり真実に近い内容だという。地球温暖化で北極・南極の氷が溶け出し、その厚い氷に眠っているのは古代に流行した未知の病原体であったというのが発想の素になっているが、実際にこういう事実は発見されているのだという。 本書の中には前書きにも言及されている、クジラやアザラシなどの海洋動物ではありえなかったインフルエンザの発症、世界最新の湖、バイカル湖に眠る紀元前数万年前の汚泥に潜むウィルスなど、世界的な異変の実体についても物語に盛り込まれており、これが絵空事とは思えない迫真性をもたらしている。 そしてこの時点でこんな小説が書かれているのにも関わらず、パリ協定から離脱宣言をしたアメリカはなんとバカな国だろうと義憤に燃えずにいられなかった。無論、フリーマントルはその事も念頭に置き、地球温暖化を否定したアメリカが、それが原因としか思えない未知の病原体の発症を認めるという一流の皮肉を使っている。これを物語の発端にすることこそ、フリーマントルが実施したアメリカへの痛烈な罵倒であろう。 しかしこの作家が凄いのはそのアメリカのシンクタンクの連中ならばこういうストーリーで温暖化を認め、逆にそれを糧にして更に世界のリーダーシップをアピールするに違いないときちんとシミュレーションし、淀みなく物語に溶け込ませているところだろう。本書を読んだアメリカ人のなんとも云い難い顔が目に浮かぶようだ。 裏を返せばフリーマントルがアメリカにパリ協定の同意をさせるにはどうしたらよいかを示した一つの指針であるとも云える。 あの国の巨大産業と政治との癒着が根源と成っている愚行を正すにはこういう人類を滅ぼすぐらいの奇病が発生し、それが地球温暖化が原因である事を認めさせるくらいでないと、あの国は決してその重い腰を上げないし、固い頭を柔らかくしないだろうと声高に叫んでいるように読めた。もし同様のことが起きた場合に、こうすればあの国も協定に同意するだろうというプロセスを、詳らかに記した一例とも云える。 そしてこういうパニック小説を書きながらもフリーマントルは内外の政治的駆け引きを盛り込む事を忘れない。調査の主導権を握ったアメリカではこの機会を利用して成り上がろうと野心を燃やすアマンダとポールのせめぎ合い、協力国の1つ、イギリスではクーデターに失敗した科学相ピーター・レネルが再度首相の支持者を略奪すべく、画策する。 はたまたそれらの国々が病原体撲滅が成功した暁に、世界中からの賞賛を得、国際的信用と影響力を獲得するために、また逆に病原体が世界中に蔓延し、戒厳令がもはや意味を成さなくなった時の事態に備え、責任逃れをすべく、政治的交渉・策略に頭脳の全てを傾ける。 未知の病原体の正体の解明、そしてそれを自身の地位向上に利用しようと画策する政治家たちの陰謀、これらが50:50の割合で絶妙にブレンドされて物語が進行していく。 意外だったのは今までのフリーマントルの諸作では最も人非人として描かれていたロシア人が、最も人道的な考えを持っていることだ。 曰く、哀しい事に、こういった各国の協調姿勢が医学的観点から観て世界保健機関WHOに警告を与える事は絶対に必要だという議論が一切無く、彼ら全てが真っ先に個人への反発もしくは政治的反動を最小限に抑えることに専心している。 逆に云えば、この小説が出るまで、なぜ今までのパニック小説にはこういった政治的駆け引きの一切が考慮されていなかったのだろうかと疑問を持ってしまう。それらはあえて添え物でしかなく、常に物語の核心は敵であるパニックの正体に注がれていた。 翻せばこれこそフリーマントルでしか書けないパニック小説という事なのかもしれない。 しかし畏れ入るのは、およそ門外漢である遺伝子学、ウィルス学、病理科学の分野に関して、かなり詳細な考察を述べていることだ。同じくこれら専門知識に関して無知である一般読者に理解させるために、それぞれの調査・検査のプロセスを事細かに、秩序立って述べる様は一朝一夕で仕入れた付け焼刃的な知識では到底書けない域にまで達している。 しかもこの未知の病原体の正体を数々の症例、世界中から寄せられた感染の情報を手掛かりにして、一流の頭脳集団がディスカッションを重ねて解き明かす様は、謎を解き明かすミステリになっているのだから脱帽である。この作家の取材力とそれを噛み砕く理解力の凄さを改めて思い知らされた。 そして本作ではこういうパニック小説にありがちなハッピーエンドが用意されていない。これはこのフリーマントルという作家が時折見せる非情などんでん返しである。正に衝撃のラストである。これは手遅れになる前に行動を!と叫ぶフリーマントルが投げかけた冷徹なる警告であろう。 しかし本書を読むには今が最適の時期だと改めて思う。今、正に新たなる未知の病原体の恐怖という危機に直面しているからこそ、多くの人に読んでもらいたい作品だ。 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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渋谷の道玄坂の老朽ビルの一角に「霊感占い所」なる事務所を掲げてはいるものの、生来の怠け者の性分から一向に商売っ気のない辰寅叔父。そこに大学入学とともに上京し、社会勉強も兼ねて助手のバイトとしてお邪魔した美衣子のコンビが織成す安楽椅子探偵型連作短編集。
まず「三度狐」は挨拶代わりの一編といった作品で、実に内容はストレート。 続く「水溶霊」では2作目であるがテイストはちょっと陰鬱な感じで異色な作品である。 次の「写りたがりの幽霊」は依頼人の話、辰寅叔父による霊鑑定、その後の真相解明とストレートな流れで小粒な印象だ。 往々にしてこういった連作短編集にはクリスマスを扱った作品が挟まれるが、それが本作「ゆきだるまロンド」。 5作目の「占い師は外出中」ではなんと助手役の美衣子が叔父に代わって霊鑑定を行うというスピンオフ的な作品。 最後を飾る「壁抜け大入道」は占い所を辰寅叔父が出て、実地検証に乗り出す事に。 本作は北村薫を起源とする日常の謎系ミステリで、殺人事件は一つも起きない。 また表紙ならびに挿画が若竹七海氏の『ぼくのミステリな日常』と同じ朝倉めぐみ氏であることからどうしてもイメージがダブってしまう。倉知氏の筆致も軽妙且つコミカルなところで、それを助長しているようだ。 さて出来映えだが、これは!と目を見張るものは正直云って、ない。謎の難易度も比較的軽めで、作品によっては霊鑑定に入る前に真相が解ったものもあった。 まず「三度狐」だが新居、小学生の子供、転校と自然に連想される環境の変化でかわいい犯行が自然に見えてきた。紛失物のありかに関する論理はちょっと危ういが、確かに子供の頃、床下によく潜っていたなぁと思い出した。 次の「水溶霊」も犯人はすぐ解るものの、この作品の主眼はやはりその動機。 確かにドロドロした内容ではあるが、美衣子が云うようには魂が冷えるような話ではないと思う。こういう陰湿な話は同趣向の話では若竹七海の方が上か。 なぜかクリスマスをテーマにした短編には名作が多く、そして「ゆきだるまのロンド」も例外ではない。冬の寒さを心温まる話で温める傾向にあるのか、ほっこりとなる優しい話だ。 不器用な旦那の秘密のプレゼントだと気付くと全てがするするするっと解けていく。特に美衣子の目を通して語られる依頼人の主婦の描写に対する視線が暖かで、ドッペルゲンガー現象というホラーなモチーフを扱いながら、終始物語はその主婦の近所で語られ、日常のよくある風景が目に浮かぶように打ち解けた雰囲気で語られるのもいい。 以上三篇が真相もしくは犯人が解った作品。それ以外の3編はどちらも解らなかった。 「写りたがりの幽霊」は普通に流れる物語にそのまま流された感じ。 心霊写真のトリックがこっちとしてはすごく興味があったのだが、それが意外にも大したことなく、子供の悪戯の域を出ていないのがガッカリ。 「占い師は外出中」も全く逆を想定していた。 最後の「壁抜け入道」は子供の視点という事を考慮に入れれば大入道の謎はギリギリフェアか。昨今の怪奇・幻想的な謎は話半分に読んで頭に入れるに限るというのが最近解ってきた。 全般を通じて共通するテーマというのは辰寅叔父の人間観察力によって暴かれる人間心理そのものだろう。魑魅魍魎の仕業としか思えない怪奇現象を解き明かす手掛かりは依頼人を取り巻く人間達の思惑によって起こる不自然さにある。これらの人間が彼らの不都合を取り繕うがために結果的に起きてしまった一見不可解な事象を人間の行動心理を以って解き明かすのが本作の主眼である。 それは大学生の美衣子がバイトがてら助手を続けているのが母親の頼みというきっかけはあるものの、自身の人間観察に役立つからだという動機に重きを置いているところからも明らかだ。 また本作の特徴として面白いのは従来の本格ミステリの依頼人が持ち込んだ事件を探偵が解き明かすというフォーマットは踏襲しているものの、依頼人にはそれらの謎が怪奇現象などではなく、人間によって為された事である事を直接依頼人には説明しないところにある。 霊鑑定士の辰寅叔父の依頼人に対してはあくまで彼らが持ち込んだ怪奇現象に対する対策を告げる―時にはお札を発行する―段階で留まり、それらが人為による物だとは決して教えない。しかし、その真意はほとんどその依頼人周囲の人間に―時には依頼人本人に―彼のアドヴァイスによって成される行為によって仄めかされ、悟らせられる(ようにしている)。 したがって霊鑑定の後、辰寅叔父と美衣子の間で成される謎解きはあくまで彼の推論であり、証拠も何もないので、実は単なる1つの解釈に過ぎないのだ。この辺が倉知氏の本格ミステリに対するしたたかな視座だと見た。つまり推理で解ける事が必ずしも真理では無いと既に自覚的であるように取れるのだ。だからこの占い師という設定は作者にとってミステリを書くには最適だろうと感じた。 またこの2人の問答を読むに当たり、もしかしたら実際、占い師なぞは仕事が終わった後、お客さんの背景についてこんな風にあれこれ想像を巡らせているのかもしれないなどとも思ったりもした。 倉知氏を取り巻くミステリ作家仲間から伝え聞く彼の人と成りから想像すれば、辰寅叔父は色濃く作者の性格が反映されているものと思える。書けば年末のランキングに入るほど、才能があるのにもかかわらず決して多作とは云えない作者の創作姿勢は、人を見抜く能力が卓越しているにも関わらず出来れば楽に暮らしたいと、金儲けに頓着せず宣伝なども行わない辰寅叔父とかなりダブる。 なかなか特徴がありつつ、面白い作風なのでこの寡作ぶりは勿体無いが、クオリティを下げない事ためなら、やはりこの作家はこのペースでいいのかも。残りの未読作品を読むのが楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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モスクワでの事件の発端、ロシア側の事なかれ主義による内部工作の策定、他国への協力要請に、それぞれの思惑を秘めたディベートゲーム・・・。
毎度お決まりのパターンなのだが、全く飽きない。それはこれらのやり取りが非常に高度な知的ゲーム、インテリジェンスを扱った駆け引きであるからだろう。 さらに今回チャーリーは前作『流出』で再会したナターリヤとの共同生活に踏み切っており、これが上層部に知られるとロシア永久追放され、さらには失職のうち、断罪される恐れがあるという実に微妙な立場にいる。 それはそうだろう。なんせ片やイギリスの諜報部員で外国の情報を探る身、片やロシアの内務省内部保安連絡局長という国内の問題を内密に処理する身なのだから。改めて考えるとものすごい設定だ。 さらに今回はナターリヤの妹イレーナが加わり、これが姉の持つものであれば略奪したくなる性分で、当然ながらチャーリーが彼女の標的となる。しかもイレーナはチャーリーを貶めるべく画策している英国情報部の財政監督官ジェラルド・ウィリアムズがモスクワのイギリス大使館に送ったスパイ、リチャード・カートライトの情事の相手でもあり、さらにFBIモスクワ支局長ソール・フリーマンとも寝てる尻軽女なのだ。イレーナはチャーリーに興味を抱き、色々探ってくる。 つまり今回は、シリーズで何度となく繰り返された、他国との共同戦線の中での駆け引き、国内ではチャーリー、ナターリヤをそれぞれ貶めようと画策している者達との丁々発止の駆け引きに加え、彼らの家庭でも他者に素性を知られまいとするための駆け引きが加わり、さらにスリリングになっているのだ。 特に面白いと思うのは実の妹であるイレーナが姉の仕事を知らない事だ。 映画“トータル・リコール”だったと思うが、確かアメリカでも夫の諜報員という仕事を知らない妻という設定があった。つまり国交や国務の機密を扱う部署に従事する者は身内にも隠さなければいけないという特殊な状況にあるのだろう。特にナターリヤは国内の治安を守る部局の要職にあり、社会主義国家ではその身元も親戚には隠しておかなくてはならないのだろう。 今回の目玉はチャーリーが記者会見の場に駆り出されるという不測の事態に陥るところだろう。かつてソ連の地だった場所からイギリスとアメリカの軍人と思われる遺体が発見されたという、過去のスパイ事実を証明するような事態である。それをむざむざとメディアの目に晒すというのは国際間の緊張を煽るもので、出来る限り内密に処理したい事件だろう。 こんな非常識と思われる展開をフリーマントルは、解体したソ連の国の1つ、ヤクート共和国というロシアを目の敵にするかつて領国で死体が発見されたという設定を持ち込む事でクリアしている。この辺が実に上手いではないか。 そしてこのメディアへの露出はもともと諜報員として活躍していたチャーリーにとって、あってはならないことである。しかも彼は今までのシリーズの事件で恨みを買った数は数知れず。それらの天敵どもに隠していた彼の生存、居場所まで知らされる事になる。さらにようやく手に入れたナターリヤとの甘い生活ともおさらばせざるを得なくなるのだ。 しかし我らがチャーリーはその逆境をさらに武器にすることで自らの使命遂行に有利に働きかける。 まず三国の中で一番最初に遺体の身元を突き止めるのは、やはりチャーリーである。しかしその時点でさらに謎は深まる。なぜなら、その遺体はベルリンの地にある墓に埋葬されているはずだからだ。死体のすり替えだけでなく、イギリス人の死体が異国のベルリンに埋葬されているという困難がさらに生じ、その経緯を探るには他の2名の身元を探る必要が生じる。 そこでチャーリーは身元不明の遺体の顔写真の開示をするよう働きかけ、広くマスコミから情報を集めさせるよう提案する。自らを安全圏に置きつつ、他者を出し抜くのがいつもながら上手い。結局、アメリカは特有のしたたかさを発揮し、それはロシア側のみしか適用されなかったわけではあるが。 さらに傑作なのはもう1つの出し抜き方だ。 今回の身元不明死体はアメリカならびにイギリス上層部のある2人―英国外務省事務次官ジェイムズ・ボイスと米国々務次官ケントン・ピーターズ―にとって歴史の陰に隠されるべき事態である事が、物語の早い段階で語られ、チャーリーらの捜査と同時進行で2人のやり取りが語られる―まあ、これはフリーマントル特有のいつもの創作作法であるが―。 したがって、今回チャーリーの捜査が進み、真相を明らかにされるのは彼らにとって好ましくない状況であり、チャーリーにはCIAの殺し屋が派遣される。それを独自の判断で察知するチャーリー。その身の危険を回避するため、チャーリーはなんとマスコミを利用する。ホテルで朝食を取っているヘンリー・パッカーという殺し屋の許にマスコミが大量に押し寄せるのは痛快極まりなかった。 こういう高度な駆け引きが毎度繰り広げられるのは、登場人物全てが上昇志向が高いからだろう。誰もがトップに立つことを望み、他者を出し抜こうと虎視眈々と権力者の椅子を狙っている。そのため、利害の一致する者とは手を組むが、自らが窮地に落ちようとするとスパッと切る事も辞さない。今日の友は明日の敵を地で行く連中ばかりだ。 だからこそ、一般的な駆け引きとは超えた次元で行われる彼ら・彼女らのゲームは読者の想像の遥か上の領域で進み、予想も付かない方向へ導かれていく。これこそフリーマントルの描くエスピオナージュの醍醐味である。 そして先ほど述べたように事件はイギリスとアメリカ双方が関わった歴史の暗部であり、明らかにすることもまた禁じられており、チャーリーは先に進むも地獄、失敗するのも地獄というのっぴきならない状況に陥る。なんともこのフリーマントルという作家の、思慮の深さを読めば読むほど思い知らされる物語だ。 しかし今回の話は長すぎたように感じる。謎また謎の展開は読書の興趣をそそるものの、なんせ情報量が多すぎて物語の先行きを理解するのに他の作家の小説よりも時間がかかるのでなおさらである。 更には登場人物の多さと関わる部署の多彩さ。今回は自国民の身元不明死体を探る話だっただけにイギリス、アメリカ、ロシアの国内外に渡って捜査が進むにつれ登場人物が続々と登場してくる。登場人物一覧に記載されていない人物で物語で重要な役割を果たす人物も結構おり、それも読書にいささかの難儀さを感じた。もっとコンパクトにすれば、爽快感を得られただろう。 とはいえ、永久凍土から50年ぶりに現れた死体の正体を探るだけでも十分ミステリ要素が高いのに、これが旧ソ連の地で、しかも眠っていた死体はイギリス、アメリカの軍人とロシア人女性という三国民とし、これに政治的思惑を絡めてエンタテインメントに仕立てるフリーマントルの着想の冴え。 全く以って衰えを知らない作家だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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古代エジプトの遺跡の中で起こる連続殺人事件。
そう聞くと誰もが殺人事件の謎解きを連想するだろう。私もそうだったが、さにあらず、これは“ミステリ”というよりも“ミステリー”の方が正解と云える作品。 つまり本作で主眼となっているのは遺跡に仕掛けられた殺人装置の謎解きなのだ。 本作では情報文化大学の遺跡発掘チームの面々に、同行する漫画家梓美紀ら一行、道中で大学チームの元同級生に出逢い、同行する事になった雑誌記者の新郷の合わせて11名が主たる登場人物なのだが、このうち8名もの死者が出る陰惨な物語となっている。しかし彼ら・彼女らはあくまで誰かの手によって殺されるのではなく、ネクエンラー王が王墓内に仕掛けた数々の殺人装置によって殺され、生き残りと閉じ込められた王墓からの脱出を図る、インディ・ジョーンズ風な冒険謎解き物になっているのだ。 こういう趣向であれば、本作の題名は明らかに不適切であろう。“密室”を冠していながら、実は王墓に残されたパピルスの暗号解読が主眼であるから、ここは『ネヌウェンラー王の墓の謎』という風にすべきではないだろうか? 確かに結論から云えば、王墓という大きな密室から脱出する謎なので密室の謎解きと云えるのだが、どうも歯切れが悪く、読後の今としてはどうも期待外れのような感が否めない。 加えて云えば、作中どうしても気になった梓美紀の不可解な行動。これに関する言及がなく、本当に霊感の強い人で終わってしまっているのも消化不良な感じだ。 しかし、本作の主眼となっているエジプト王に関する薀蓄、そこから派生している謎はなかなかに興味深い。 恐らく作者の創作だと思われるが、連綿と続いていたファラオの歴史に第十七王朝と第十八王朝に王不在の<大空位時代の謎>と、それの解釈については一種の叙述トリックであり、なかなか面白いものがあった。以前読んだ『バビロン空中庭園の殺人』にも同様の趣向があったが、完成度で云えばこちらの方が上である。 また、マイナーな作家のためか、あまり広く知られていないが、小森氏の諸作も伊坂幸太郎氏や初期の島田作品に特徴としてあった、各々独立した作品が実は地続きで繋がっている、登場人物らが一つの作中世界を共有しているという趣向が凝らされている。 本作ではまず『バビロン~』に登場した葦沢教授、『ローウェル城の密室』で名のみ登場した漫画家の梓美紀が登場してくる。しかも後者は本作で語り手を務める新郷の元恋人という意外な事実が明かされる。 で、本作では梓美紀が死に、葦沢教授は存命であるから、時系列的には『バビロン~』よりも前の事件ということになるだろう。 作者の古代エジプトに関する知識が十分に横溢し、ヒエログリフでしか成しえない謎の設定とこの作者ならではの意欲的な特徴が込められた本書だが、作品の方向性に違和感を覚えてしまった事が残念だ。 特にこの作者の自分の身の回りの事しか題材にしない作風だったという今まで私が抱いていた不満を解消するように、エジプトのルクソールでの風景や街の喧騒、日本人から観たエジプト人の奇妙な行動などなど活き活きとした描写があった。自ら取材のために旅行したと思われ、その成果が十分に発揮されて物語の皮の部分にも興味深い内容が盛り込まれているだけにその思いはひとしおなのだが。 次作に期待しよう。 |
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桐野夏生の江戸川乱歩賞受賞作である。
意外だったのは村野ミロが女探偵ではなく、単に元探偵だった父親の事務所に住んでいただけの人物だったことだ。当時サラ・パレツキー、スー・グラフトンらのいわゆる4F探偵物が流行っていたことを反映して颯爽と登場し、乱歩賞を受賞した桐野夏生によるこの作品はその先入観から女探偵物だと思っていたが、実は事件に巻き込まれた一女性に過ぎなかった。 だからミロは通常の探偵ならばしないであろう、自分の持っている情報について何の躊躇もなく敵役とも云える協力者成瀬に明かす。例えば、寝ている成瀬の隙をついて耀子の部屋に単独で行った際に掴んだ情報なども、成瀬にその旨問い質されると簡単に白状するといった具合だ。 ただストーリーは世に数多ある私立探偵小説の定型とも云える失踪人捜しであり、特に新味がない。ストーリーの流れもオーソドックスで、文体や筋運びには素人の域を既に脱している感があるにせよ、これぞと思うダイヤの原石のような煌めきは特に感じなかった。 受賞当時、世の書評子らが噂していたように、やはり日本に初めて登場した3F探偵物という珍しさを話題性も含め、乱歩賞の審査員が買ったのではないだろうか。 しかし、桐野氏は後に『OUT』で直木賞を受賞し、さらに海外のエドガー賞までノミネートされる存在にまで成長する。そして今や押しも押されぬ女流作家としてその名を馳せているのだから、当時の審査員の選択眼は間違いではなかったわけだ。 つぶさに作品を読んでいくと、この作者の作家としての資質、そして野心を感じさせるものがある。 特に巧いと感じるのは単調になりがちな失踪人捜しのストーリーに起伏を持たせていることだ。例えば川添桂なるアーティストによるネクロフィリア及び性倒錯の世界をモチーフにしたアングラパフォーマンスの件など、そのグロテスクさに読者は吐き気を伴う嫌悪感を抱く事だろう。 こういう風に人の感情を揺さぶる出来事は作用反作用の法則からも読者に物語に対する次への展開への欲求をもたらせ、読書の牽引力となるのは間違いのない事実である。元々ジュニア系小説を書いていた作者だけにこのような計算高い構成も出来たのだろうが、なかなかの手練だと感じた。 また耀子の草稿として挿入されるルポルタージュの内容はドイツ、ベルリンの当時の雰囲気をよく醸し出しており、この応募作を著すのに自費で現地に飛んで取材したのではないかと思われる。それが本作に賭ける熱意としてひしひしとして伝わってきた。 ただ惜しむらくは登場人物1人1人の魅力に乏しさを感じる事だ。 主人公のミロはまだしも、行動を共にする成瀬の造型もステレオタイプのように感じるし、しかもミロが成瀬に惚れて危うく愛を交わそうとする辺りなどは苦笑してしまった。 そして本作ではある意味肝とも云える失踪人耀子の造型が、意外にもなかなか立ち昇ってこなかった事だ。友人だからという理由で巻き込まれるミロが捜査の過程で遭遇する耀子の知られざる貌の数々。しかしそれは単に奇を衒っただけで、1つの肖像として浮かび上がってこなかった。ここら辺にまだまだ力量不足さを感じた。 しかしその後の活躍を見るにつけ、この作家は追いかけるに値する。本作はブレイクするまでの少しばかり長い助走期間の第一歩であるから、ここで見限るのは時期尚早だろう。 今後も読み続けていくことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回は犯罪者側から物語を描いた、いわゆる倒叙物である。
こういう倒叙物であれば、作品の主眼というのは完全犯罪を目論む側に不測の事態が起きて、果たして犯罪が成功するか否かに終始する。つまりこの作品で云えば死体移動中に事故が起きたり、共犯者がいなかったりと殺人リレーが成立か否かに焦点を当てて、スリルを描く事も出来るのだが、それを東野氏はそこをさらりと流す。 実に魅力ある設定を惜しげもなく使い捨てるとまで云ってもいいくらいだ。 で、東野氏が選んだストーリーとはなんと拓也が受取った死体が計画立案者である仁科直樹その人だったという仰天の展開。 そして物語は犯行を行った側と捜査する警察陣の両側面から推理する形で描かれる。 すなわち、「誰が仁科直樹を殺したのか?」 なんとも実に物語としてツイストが効いているではないか。 ここに東野圭吾という作家の非凡さが現れている。 さらにこのような展開をもたらす事で、物語は仁科直樹殺害犯人の捜索に加え、末永拓也の当初のターゲットである雨宮康子の殺害計画の再考も語られ、物語が重奏的に進行する。 こういった類いの趣向は以前にも『鳥人計画』でも見られたが、あの作品では犯人役である峰岸の犯行自体も謎であり、動機なども最後の方で判るのだが、今回は極めてシンプルに動機も犯行方法も第1章で全て詳らかにされるのが特徴だ。これだけ冒頭で手札を晒しつつ、先を読ませない展開で読者を引っ張っていくのだから、本当にこの作者はミステリ・マインドに溢れている。 そして本作の主人公となる末永拓也は完全なる左脳型思考の人間で、生まれ育ちの悪さをバネにして、一生懸命勉強し、独力で成り上がろうとする野心家だ。 人生の敗北者のような父親に育てられた彼は人間としての情よりも、理論を愛するようになり、とりわけミスをしないロボットにのめり込んでいる。だから彼は装飾品や絵画など芸術には一切の関心を抱かない。また自分の出世の道に邪魔になる者は、自ら排除するのも厭わない冷血漢である。 今までの東野作品では、どこか感情面で欠落した人間がいたが、本作もその型の人間である。ただ今までと違うのはこの人間が罪を暴く探偵側の人間でなく、犯行に加担する悪側の人間だというところで、共感は持てないにしろ、物語の主人公としては違和感なく受け入れる事が出来た。 また第2の、橋本が密室で殺される事件など作者はすぐそのトリックを明かしてしまう潔さには驚いた。まるでそこに主眼がないかのようだ。私でもトリックがすぐに解っただけに、謎を持続するには弱いだろうと作者自身も思ったのだろう。 逆に云えば物語に更なる謎を付け加える要素として使ったことで逆に謎が深まった事は確かだ。 今回はなんとしても東野マジックに引っかからないようにプロローグについて常に注意を払ってきたのだが、それでも無駄に終わってしまった。しかしこの展開はさすがに読めない。 やはり東野作品とは犯人探しや動機探しを行う物ではなくて、作者が周到に隠したバックストーリーを作者が1枚1枚、ヴェールを剥がすように読者に知らされる経過を楽しむものなのだろう。 さて本作のタイトルとなっている「ブルータス」とは末永が開発した産業用ロボットの名前である。人間でも難しい精密な動きをするこのロボットは末永の技術の粋を尽くして作った最高のロボットである。しかしだから本作のタイトルとして相応しいかというとそうでもない。 特になぜ「心臓」なのか?やはり今回も東野は題名に無頓着だったのかなと苦笑してしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クーンツが得意とする“巻き込まれ型サスペンス”小説だが、レナードが書くと斯くの如き面白い読み物になるのかと感嘆した。
クーンツが、いきなりジェットコースターのように主人公もしくはその仲間を危機、また危機の只中に放り込み、ただただ逃げ惑う設定が多いのに対し、レナードは全く関係のないところから、偶然的に出逢う事になった敵同士を絡ませ、軽妙な会話と挿話を間に挟み、追う者と追われる者が運命の悪戯にて導かれるかのように必然性を伴いながら引き合わされるのが面白い。時間の流れ方が両者では全く違うのだ。 そして今回面白いのは成行きで組む事になった2人の敵役がお互いを心の底から信用していなく、一触即発の中で手を組み合っているところだろう。だから今までのレナード作品に出てきた悪漢達よりも増して、二人の間の関係に緊張感が走り、どんな展開になるか、さらに解らなくなってきている。 ベテランの殺し屋でインディアンのオジブウェイ族とフランス系カナダ人との合いの子であるブラックバードことアーマンド・デガスはその血筋から、インディアンのシャーマニズム・スピリチュアリズムを信じて疑わない男。そして彼は現場に指紋を一切残さず、万全を期した計画を立てないと行動に移らない。 片や悪行で名を馳せたい男リッチー・ニックスは34歳ながらもギラギラした目を持ち、人から指図される事、諭される事を何よりも嫌う、自らの本能と直感を信じ、衝動的に人を殺す、いわゆるアブナイ男である。 この2人の関係は、出会った当初は一日の長があるアーマンドがボス的立場でリッチーを飼い馴らすような上下関係であるのだが、リッチーが狂気にも似た感情を沸々と滾らせるようになってからは、御しれなくなり、次第に逆転していく。 通常ならばこういう2人の場合、私はアーマンドのような老成した男の方に肩入れするのだが、本作ではチンピラのリッチーの方に魅力を感じた。というのも短絡的思考型のこの男が、女の性格を読むことに関しては非常に長けているからだ。 同棲している年上の女性ドナの操り方から始まり、なんと敵のカーメンの母親まで手玉に取る。特に初めて逢って「この女は一番良かれと思ってそいつの人生をメチャメチャにしてしまう女だ」と毒づくシーンは、読書中もやもやしていた事を雲散霧消するほど的確な一言だった。 そして特筆すべきはウェインとカーメンのコールスン夫妻の描写だ。年下のカーメンはウェインに一目惚れして結婚し、結婚生活20年になってもまだウェインにぞっこんなのだが、これが事件に巻き込まれ、非日常生活に苛まれるにつれ、彼女の心理が徐々に変わっていく。 タフで優しく、仕事一筋ながらも妻への愛を忘れないと見えた夫が実は自制心が弱く、何にでも文句をいい、自分のことを語るのが大好きで、妻のことは好きなのだが、女心が一切わからない肉体バカだと気づいていく。この辺の心理描写がものすごく上手く、女性が男を観る視点でカーメンの内的描写がされているのに舌を巻く。特に結婚生活20年も経った夫婦の不満を表す、的確な台詞を云うのだから、レナードの耳は実に明敏だ。 さらにバイキャラクターとしてカーメンの母親レノーアが都度登場するのだが、これが実にウザい、更年期障害持ちのおばさんで、こういう人いるわと笑いながら読んだ。 そしてやはりレナードの筆は冴え渡る。ここでこれしかないという台詞をバシバシ決めてくれるのだから心地よい。 証人安全プログラムの説明を受けた後、憤懣やる方ないウェインがその思いをたった一言で云い表すところなんか、快哉を挙げてしまうほどだった。「帰りも車で送ってもらえるのかな」なんて、私の引き出しにはないし、もうこれ以上最高な台詞もないだろう。 またウェインが高層ビルの鉄骨の上であれこれと思案するシーンなんか最高である。ここでもレナードの台詞が効いている。延々11ページに渡って繰り広げられるウェインの、2人組に対する仕返しの方法で行き着いた彼の決め台詞「待っていたぜ」が、ダブルミーニングをきちんと備えているところが傑作だ。 現場監督や主任らが心配する中で、人を食ったようにするすると鉄骨を降りていくところは笑いが止まらなかった。こういうアクセントが非常に上手い。 鉄骨工ウェインのキャラクターが単なる紙上の設定ではなく、一人の血が通う人間のように錯覚するほどストーリーに溶け込み、物語世界の中で一流の鉄骨工として生活している匂いまで感じるようだ。これがレナードの特筆すべきところで単に特異なキャラクター設定のために取材した知識を披瀝するだけに留まらず、実際の鉄骨工がどう振る舞い、どう仕事をするのかがリアルに伝わってくる。彼らがすべき行動、使うべき言葉を生のままぶつけてくるのだ。 本作の最たる特徴として挙げられるのは主人公2人の夫婦が「証人安全プログラム」の保護を受けること。レナードはこのシステムがいかに杜撰かを容赦なく作中でこき下ろす。 証人を守るためのシステムなのに、監察官がポロッと無駄話のネタとして本名を教えたり、裁判の場所に直行便で訪れ、保護されている証人の居場所がそれにより解ってしまったり、また末端の監察官には情報保護のため、詳しい情報を与えられていないために、保護者が犯罪者であると見なし、蔑みの念を持っていること、等々、どこまでが実話でどこからが創作か解らないほど、説得力のある欠陥を書き連ねていく。これは取材しないと解らない実態だと思うのだが、証人安全プログラムの庇護下にいる人たちをどうやって取材するんだろう? とまあ、本作にはレナードの筆致がページをはみ出さんばかりに躍動しているのだが、クライマックスがやや冗長すぎた。 折角ここまで引っ張った緊張感をすっきりさせるにはちょっと物足りなかったかなとも感じた。 しかし本作発表の89年頃はレナードの筆がノリにノッている時期であろうことは間違いない。なにしろこんなに面白いんだから! ▼以下、ネタバレ感想 |
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その題名が指し示すように、ドルリイ・レーン最後の事件である本作は今までとは趣向が違い、ウィリアム・シェイクスピアの稀覯本の行方及びその本に隠された謎と、それに絡んで失踪した人物の行方を追う物語で、これはシェイクスピア劇俳優の第一人者であったレーンの掉尾を飾るためにクイーンが用意した謎なのだろう。
とにかく本作では謎の覆面の男と青い帽子を被った顎鬚を生やした男という、変装した正体不明の人物が物語に入替り立ち替わり介入してき、また本の行方や最重要容疑者であるハムネット・セドラーとエイルズ博士が同一人物か否かという謎がなかなか判明せず、ずるずると物語を引っ張っていくうちに、エイルズ博士の館が爆破されたりと、本格ミステリというよりもサスペンスに近いテイストで、しばしば謎の焦点がぼやけてくるのに苦労した。 本作では前3作で登場していたブルーノ地方検事が退場し、一切出てこなくなり、代わって前作『Zの悲劇』でお目見えしたサム元警視の娘で明敏なる推理力を発揮するペイシェンスがサムの相棒を務めている。とはいえ、前作のように語り手としての役柄ではなく、レーンも探偵として積極的に介入し、叙述も一人称から三人称に戻っており、前作のような違和感は全くない。そして結末に至って、やはりこのペイシェンスという人物が必要だった事が解るのである。 そのことは後に語るとして、で、本作で散りばめられた様々な謎については、事件の展開が目まぐるしく変わる作風のため、私自身の推理もその都度焼き直しを強いられ、試行錯誤の繰り返しだった。 例えば冒頭に出てくる博物館から盗まれたジャガード本が送り返された意図に関する推理は私の中で確立するものの、その謎は次の章で早々に解明されてしまったし、バスの乗客の人数の謎も17人だったのが18人だったことを発端にしており、これを現地で調査すると実は19人だったと謎が謎として深まっていく。つまり小さな謎がどんどん提出されては、解き明かされ、また次の謎が展開するという構成であり、今までの悲劇3作ではレーン氏は自らの推理に確証がないと自身の推理に自信があっても決して開陳しなかった、云わばクイーンの国名シリーズと同様の最後の最後で犯人と犯行方法・動機を解き明かす趣向とは明らかに違うものだ。そう、本作は失踪人捜しと稀覯本探しという、ロスマクなどの私立探偵小説に似たテイストなのだ。 で、これらの謎については私自身解き明かすことが出来た。上にも述べた返却された稀覯本の謎しかり、セドラー氏の正体もしかり。特にサムに預けられた封筒の手紙に書かれていた「3HS wM」の謎は的中し、これには快哉を挙げてしまった。そして最後の犯人もまた当ってしまった。しかしこれはこの作品の最大の特徴が巷間に流布しているので、それが頭の片隅にあったことに因るところが大きかったのだろう。 さて前作ではどちらかといえば、目障りな存在だと思われたペイシェンスだが、この悲劇四部作の最後においてどうしてももう1人の探偵の存在が必要だった事が解る。 クイーン愛好家の中では、やはり『Zの悲劇』を異端視し、このペイシェンスの存在を軽視している方々もおられるようだが、私としてはやはりこのシリーズの幕の降り方はクイーンがシリーズ当初から考えていたものであると認識する。 この悲劇四部作、全て読み終わった今、全体と通してみるとやはり巷の評判どおり『Yの悲劇』が抜きん出てその次に『Xの悲劇』、そして本作、最後に『Zの悲劇』という評価になる。 しかし、愛好家の中で云われている『Yの悲劇』が明らかに異色でこれはクイーンが国名シリーズで元々使おうとした話だった、『Zの悲劇』は不要だった云々などという話は単なる書好家の興味の対象として読むにとどめ、やはり悲劇四部作は悲劇三部作ではなく、悲劇四部作であったと思う。 また振り返ってみるとたった4作のシリーズなのにそのヴァリエーションのなんと豊かなことだったか。衆人環視の連続殺人、館での連続殺人、女性探偵物という趣向に、最後は失踪人探しとビブリオミステリを絡めた探偵自身の犯罪。たった2年で書かれた正に流星の如く駆け抜けたシリーズだった。 最後の本作でレーンという男の謎がいっそう深まったような気がする。たった4作のみの探偵レーン。しかしその名は今なおさんざんと煌めき、そして今後もずっと残っていくに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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その名の通り、オタク風味満載のミステリ。というよりも恐らく作者自身がオタクなのであろう、またもや彼の精通する身の周りのことを題材にしたミステリである。
とはいえ、前に読んだ『ローウェル城の密室』よりは特異ではなく、『バビロン空中庭園の殺人』よりもオーソドックスさからは一歩抜きん出た作品となっており、楽しく読めた。 『ローウェル城~』よりも特異でないというのは、刊行当時1994年の時点、私はまだ大学生で、オタクはまだキワモノであったが、現在ではオタクも一般的に認知され、さほど珍妙な存在として捉えられてはいない時代背景がコミケを舞台にしたミステリを受け入れるのに緩和剤となっているのは確実だ(そういう意味ではやはりあの『電車男』はブレイクスルー的な作品だった)。もしかしたら今のミステリ好き、少女マンガ好きの高校生が『ローウェル城~』を読めば、逆に面白いと思うかもしれない。 『バビロン~』よりもオーソドックスさから一歩抜きん出たというのは、物語の中心となるコミケ出店サークル「大きなお茶屋さん」の同人誌「月に願いを」が丸々1冊作中作として盛り込まれており、それがきちんと全て読めること、さらにこれが謎解きに絡んでいることが挙げられる。 作品の冒頭に挿入された『ルナティック・ドリーム』の密室殺人の推理が七者七様に、しかも論文体、ホラー小説、ペダンチック溢れる小栗虫太郎風ミステリ、やおい風味小説と、作者の器用さが横溢している。それがそれなりに読ませるのだから畏れ入る。特に傑作だったのはやはり小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を模した『黒石棺の殺人』だ。博覧強記とギャグは紙一重だということを実に上手く表現した好編だ。またメンバーの1人が原稿を落とし、アンケートを代わりに挿入させるなどの凝りようも作者ならでは。 で、ミステリとしての本作だが、なかなか読ませる。コミケという特殊な状況下での殺人をコミケに精通している作者が書いているので、非常に抵抗無く読むことが出来た。 例えば本作で起こる4つの殺人のうち、3つはコミケ会場で起こっており、しかも2つは衆人環視の中なのだが、通常のミステリと違い、衆人環視の殺人であるにもかかわらず、Howdunitに全く拘りが見られないところが面白い。これこそコミケ会場という特異な雰囲気を忠実に再現していることに他ならない。 つまり参加のほとんどがオタクであり、彼らは他人には興味がなく、自分の興味対象、そして同好の士以外、全く眼中に入らないのだ。だから隣りにいる人がいきなり毒殺されようが、刺殺されようが、それに至る被害者の接触者に全く注意を払っておらず、自身の同人誌の販売・購入にしか集中していない。それがこのコミケ会場での連続殺人を可能にしていると云えるだろう。そしてそれはオタクの実体が周知となった現在では無理なく了承できるから面白い。 さて私自身、かつてはオタクであったわけだが、コミケには一度も参加したことがない。だから本作で書かれるコミケの内容、会場の雰囲気は非常に愉しく読めた。 まず上手いと思ったのはこういうコミケに全く縁のなかった人物を通してコミケに出店する人物の有り様を客観的描写している事だ。オタクの一大イベント、コミケが正に今から始まらんとす、パンパンに膨らみ、はち切れんばかりになった風船のような期待感を秘めた参加者及び会場の雰囲気が素人でも解るように描かれている。その後、物語はコミケの常連であるサークル「大きなお茶屋さん」の登場人物の動きに進行が変わるわけだが、これも出店側から書かれていることでコミケの内容が密に語られ、愉しい読み物になっている。学園祭と物産展の中間のようなその稚気と打算が入り混じった出店者の思惑はコミケならではの物だろう。 で、逆にこのコミケの話とコスプレに興じる「大きなお茶屋さん」ら面々の雰囲気が良くて、題名にあるように殺人など起きなく、このまま物語が進んでくれればいいのにと思わせてくれるが、やはり殺人は容赦なく起きる。しかも彼ら彼女らのうち4人も殺され、そのうち3人はコスプレに興じていた女の子3人なのだ。 これはコミケに行った事がある人ならば結構強烈な展開ではないだろうか?思いがけなく感情移入してしまった私も、作者の非情さにちょっと戸惑いを覚えてしまった。 さてこの3人+1人の殺人の真相だが、当初考えて、捨ててしまった選択肢が正解だったのが驚きだった。これについては作者の周到な罠に嵌められたというのが妥当で、反論はない。 本作において3つの真相解明が成されている。で、個人的にその真相の面白さを述べると、第1の真相>第2の真相>第3の真相となってしまう。 第1、第2の真相はコミケ、同人誌という一般的でない情報・知識を知っている者でしか看破できなく、第3の真相は一般のミステリ読者でも解けることが特徴である。だから実は作品としてはフェアであるのだが、逆にそのシンプルさが作品としての魅力を半減させてしまったのは皮肉な物である。私も特殊な知識を要しないと真相に辿り着けない本格ミステリは通常は好きではないのだが、この作品に限ってはコミケという特長を活かした真相の方が面白く読め、こういうミステリではそういうケレン味を尊重すべきだなと考えさせられてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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なぜ死体はバラバラにされたかという様々な謎をロジックで解き明かす書解体事件を扱った短編集で、現在、奇抜な設定下の中でのロジックを得意とする異彩の本格ミステリ作家、西澤保彦のデビュー作である。
まず「解体迅速」は後の西澤作品で探偵役を務める匠千暁が早くもお目見えする。 この作品、状況説明の段階で早や犯人は解ったものの、バラバラにした動機が不明だった。その説明は、まあ納得の行くといった程度だったが、真犯人が第1被害者を殺す理由に思わず唸ってしまった。話の前後から交通事故が絡むと思ったが、いやなかなかに鋭い。 こういうさりげない伏線が西澤作品の特徴のようで、それは今後の作品でも同種の趣向が見られる。 続く「解体信条」は後にフルネームと匠千暁の学生時代の先輩である事が判明する高校教師の辺見祐輔が主人公を務める。 これも真相解明前に犯人とどういう風に被害者が毒を飲んだのかまで解ったが、やはりバラバラにした理由までは解らなかった。死体をバラバラにする理由となると、どうも持ち運びの利便性に囚われがちである。まあこれこそ作者が期待するミスリードなのだけれども。 収録作品中、最も魅力的な謎であるのがこの「解体昇降」だろう。 マンションの8階から1階に降りるわずか16秒の間に乗った女性が全裸のバラバラ死体で発見されるという魔術的な殺人事件が起こったエレベーターはどの階にも停止することなく、まっすぐ1階に降り、しかも8階では住民が入れ違いに被害者がエレベーターに乗り込む様子を見ている。死体は首と左手足が切断されていた。あまりにも不可解な事件に捜査陣は値を上げた。堪らず平塚刑事は入院中の上司中越警部に救いを求めるのだった。 次の「解体譲渡」では再び辺見祐輔が登場する。 辺見祐輔はその日お見合いの席にいた。相手の藤岡佳子は垢抜けた美女であったが、どこかであった記憶がある。しかしそれがどこなのか思いつかなかった。傍らでは付添いの中年男性が先週の土曜日に起きたバラバラ死体遺棄事件について語っている。藤岡佳子はおもむろに口を開くと意外なことを行った。彼女は祐輔が毎週土曜日にエロ本を立ち読みしに通っている本屋でいつも見かけていた名も知らぬ美人だったのだ。愕然とし、自己嫌悪に陥る祐輔だったが、彼女の口から意外な話を聞かされる。それは先週土曜日にある妙齢の婦人がそこの本屋で101冊ものエロ本を買い占めていったというのだった。その婦人の目的が何なのか気になってしょうがないという。祐輔と佳子は見合いそっちのけでこの奇妙な出来事について推理を巡らす。 奇しくも(?)2作とも男の煩悩、エロ関係が関与する話となった。前者はこの短編集中、随一の不可能状況で読者の知的好奇心を誘う謎でありながら、最も下らない解決が示される、駄作だかなんだか判らない奇妙な1編。 後者は101冊ものエロ本を買う婦人の謎とこれまた『五十円玉二十枚の謎』を髣髴とさせる面白い謎だが、これもかなり無理がある推理である。この2作は奇抜な謎のために辻褄を合わせるような回答を持ってきたという不自然さが目立ち、好きではない。 「解体守護」では匠千暁のパートナーであるタカチが登場する。 この作品が本短編中ではベスト。事件の真相の約6割くらいは見えていたが、あのおこわが絶妙なアクセントになっている。 今までの短編から作者の手法という物を解っていただけに、この小道具の意味が解らなかったことが悔しいが、清々しい悔しさだ。もう一方の挿話に関しては念頭に置いていたのだが、私の予想を上回る使い方で、これも気持ちのいい敗北感。泡坂氏独特の論理に通じる真相でもある。なんとも云い様の無い奇妙な事件の発端から最後に心温まる家族の話に落ち着くのが私の好み。 「解体出途」では匠千暁は叔母の沢田直子に呼び出されて、娘の結婚を妨害してくれと頼まれる。 今までの短編でそれぞれ探偵役をしていた匠千暁と中越警部が邂逅する作品。だが本作での探偵役は事件に巻き込まれた匠千暁が務め、中越は最初の現場捜査のみの登場で、専ら匠の相手は部下の平塚刑事となっている。 さて物語はなんとも苦笑したくなる性的欲求不満熟女の話で昼のメロドラマのような展開にちょっと引けたが、事件は今までの中で一番難しかった。犯人までは特定できた物の、これにも二重の犯行が成されており、なかなか簡単にはいかない内容だ。こういう三文ポルノ風な話が作者の趣味なのかも。 「解体肖像」では「解体信条」で祐輔に謎を提示した小菅亜紀子・麻紀子の双子の姉妹が今度は匠千暁に謎を提供する。 収録作品中、この短編の謎が最も簡単だろう。私もこの作品の謎はすぐに解った。シンプルな謎で、恐らくおおよその読者も真相は見破れるだろう。 しかし本作で訴えたかったのは傍観者も共犯者であるという重いテーマだ。ある事がきっかけで死者が出てしまったことを知りつつも何もアクションを起こさない貴方達も同罪なんだという作者の熱いメッセージが込められている。 本書の約4割を占める中編「解体照応」は推理劇のシナリオという形式を取っており、180ページという中編ながらも読者にブレイクタイムを促すような軽い読み物になっている。 「解体昇降」で出てきた中越警部と平塚刑事と思われる二人にベテランで狂言回し的な存在のチョウさんという仇名の部長刑事が全般を通しての登場人物。 “読者への挑戦状”が挟まれた唯一の作品。しかしこれは解らなかった。首が切られている上に、髪が全て短く切られているというのは、それぞれの名前についてアナグラム的なパズル趣向があるのかと別の方面での推理をしていたが、全然違った。 明かされる犯人とその動機は、突拍子もないものと思われるが、推理劇という趣向がこの突拍子のなさを逆にフィクションであるが故の、ミステリゲームという意味合いを持たせており、個人的には許容できる内容だ。 以上、7編の短編と1編の戯曲の体裁をした中編だが、 さてこの感想の冒頭で述べたように各短編は「解体」という二文字をキーワードにして、何かを切り取られた事件を扱っているが、非常にヴァラエティに富んだ内容で緩急を持たせ、同類事件の話の繰り返しにならないよう、作者が入念に配慮しているのが解る。 文字通りバラバラ殺人事件から、ぬいぐるみの腕切断や街頭ポスターの首切抜きといった小事まで扱っており、殺人事件から日常の謎までと作者の器用さが十分に出ている短編集だ。 そしてそれらは昔TVで放映されていた「私だけが知っている」という推理ドラマ趣向のクイズ番組のように、「解体照応」以外は“読者への挑戦状”が付されていないものの、作品に提示された情報で読者が真相を解き明かす事が出来る、非常にフェアな作りになっている。かくいう私も、1つ1つの短編について作者が提示する謎に挑戦し、全ては解き明かせないにしろ、犯人やトリックを断片的に解き明かす事が出来、ミステリを読む愉悦に浸る事ができた。 さて本作で登場したタックこと匠千暁、中越警部に辺見祐輔らの探偵役のイントロダクションとしては格好の作品だと思う。彼らが今後どのような活躍をするのか、非常に楽しみになった。 しかし匠千暁の初登場シーンは笑ってしまった。彼の部屋には膨大な書籍で占められているとのこと。これは明智小五郎を筆頭とする日本の推理小説の探偵役の系譜である。乱歩没後数十年経っても、名探偵の特徴は変わらないのだなぁと苦笑した次第である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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毎回このギデオン・オリヴァーシリーズは異国の地を舞台に骨が関わる事件が描かれるが今回はアマゾン河。しかし有名なブラジルからではなく、お隣のペルーからの進入だ。
そして本作は個人的に非常に面白い物となった。読書中、自分がチリへ出張した時のことを思い出したからだ。 本書でも述べられているが、南米への旅行には不便が強いられ、私がチリに行った時も行きは24時間、帰りは28時間かかり、ギデオンたちも例に洩れず、行きは乗り継ぎの空港リマに来るだけで24時間が経過していた。しかも乗り継ぎの空港がリマであるというのも一緒だった。ただ私の場合はチリ行きの便が途中に立ち寄る空港がリマで、乗り降りの必要は無かったのだが。 他にもペルーの主流タクシーである屋根付三輪オートバイ<モトカー>はこちらフィリピンで横行している<トライシクル>そのままだし、国は違えど、南の国々の乗り物はさほど変わらないことを認識させられた。 またクルーザーの船長が乗客に振舞うピスコサワーに激しく反応してしまった。作中で書かれているとおり、この飲み物はペルー特産の蒸留酒ピスコをベースにした飲み物なのだが、これはチリでもよく飲まれており、かくゆう私も出張中、食前酒として何度も飲み、またお土産として持って帰ったくらい、実に美味しい飲み物なのだ。35度という比較的高いアルコール度数とは裏腹に飲みやすい味わいがあり、女性も気軽に飲める、一種の爆弾みたいな飲み物だ。本作を読んで、またこのピスコサワーが飲みたくなった。 更にはマラリアの予防注射が存在せず、錠剤を飲むだけだということも正にこちらで自身がやっていること。つまり本作でギデオンらが体験した事は全て私自身も経験しているようなことで、いつもにも増して親近感を覚えてしまった。 他にも作者が実際に取材したペルーでの旅、アマゾン河クルーズの体験がふんだんに盛り込まれており、我々文明社会に生きる者たちの想像を超える気候、思想、文化が余すところなく作品に活かされて、興味が尽きない。特にアマゾン河に住む部族のシャーマンに逢いに行く際、この体験記を書くために訪れたフリーライターのメルがメモしようとするが、ものすごい湿気のためにゲルインクのペンは凝固せずにそのまま流れ、代わりに鉛筆を使うが、今度は紙が湿気を帯びて破れて書けず、しまいにはノートを綴じている糊が湿気で溶け、バラバラになってしまう。更に代わりに取り出したハンディレコーダーもテープが湿気で膨張し、使い物にならないと、想像を絶する環境なのだ。つまりかくして秘境は謎に包まれるということか。TVや映画でアマゾンを取材した映像を観たりすることがあるが、あれが途轍もない苦労の末の成果だということを気付かされる。 そしていつも思わせられることだが、エルキンズはキャラクターを作る力が本当に抜きん出ている。内容の軽さゆえに、読み飛ばしそうなシリーズだが、毎回ギデオンが旅先で出くわす人物たちは、普通の人とはちょっと違ったエキゾチックな特徴を持っており、それをストーリーに上手く絡ませて、上質のウィットを生み出している。 特に今回は昆虫学者のオースターハウトが個人的には一番面白いキャラクターだった。ゴキブリの権威である彼とジョン・ロウとのやり取りは思わず大きな声を発してしまうほど笑ってしまった。 そして本シリーズの恒例の目玉であるギデオンによる骨の鑑定だが、本作ではなんと全400ページ弱の分量に於いて280ページのあたりと物語も7割を過ぎた辺りでようやく出てくる。しかもメインの事件ではなく、云わば物語の装飾の部分に該当する麻薬取引を取り潰すマフィアの画策に関する事件に関連してくる。しかしこの被害者の正体がメインの事件を絞り込むのに大いに関わってくるから、決して副次的な物ではない。 ただ、この骨の絡んだ事件の真相はすぐに解ってしまった。こう申しては失礼だが、謎としては小学生のなぞなぞのレベルである。 思うにこのギデオン・オリヴァーシリーズはミステリとしての謎の醍醐味よりも、先に書いた登場するキャラクターの面白さと売りとなっているギデオンの骨の鑑定から判明する意外な事実、つまり知的好奇心を満たす新情報といった小説としての旨みにある。前作ではそろそろジュリーとギデオンとの間に何か変化が起きてもいいのでは?などと書いたが、やはりこのいつものメンバーがいつものように旅先で出会う事件を、ギデオンが骨を鑑定しながら解決する、こういう定型を愉しんでいるのだと再認識させられた。 さて最後に本作の原題“Little Tiny Teeth”とは直訳すれば「小さな小さな歯」となるが、これはピラニアの歯を指している。このピラニアの歯がギデオンの骨の鑑定に少しばかりお手伝いをしている。恐らくこれは作者エルキンズが目の当たりにした自然界の力強さを象徴するものだったのだろう。 不思議の世界アマゾン。エルキンズの筆によるアマゾン行は面白かったが行きたいとは思わなかった。ただこのピラニアは一度食べてみたいなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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まず本作は悲劇四部作において、変奏曲ともいうべき作品になるだろう。それは前2作から打って変わって物語はサム警視の娘ペイシェンスの一人称叙述で語られることから明らかだろう。
そしてレーンは冒頭に出てきてからは成りを潜め、終始ペイシェンスとサムが物語の中心となって事件の捜査に当る模様が語られ、読みながらしばし「これはドルリー・レーンシリーズなのか?」と首を傾げる事があった。物語もちょうど中間に差し掛かってようやくレーンが事件に乗り出す。 しかし今回のレーンは前作『Yの悲劇』から10年経った設定であり、70を超える老境に入っており、そのため身体的にも衰えが著しく、前2作に比べると精彩を欠き、快刀乱麻の如き、もしくは全知全能の神の如き活躍を見せない。 そんな人物配置であるから物語は自然ペイシェンス・サム中心となって語られる。それが故に、この作品では1930年代での女性に対する男性社会の偏見がそこここに見られる。 この時代では女性の社会進出はまだ珍しく、女だてらに殺人現場や容疑者を尋問の場に立会い、自分の意見を開陳するペイシェンスを蔑視する描写がところどころに現れる。事件捜査の中心人物である地方検事ヒュームはペイシェンスには見向きもせず、意見を述べると鼻で笑ったりもし、洞察鋭い意見であっても見直すこともなく、女如きが、と蔑む。 私が並行して読んでいる現代の海外ミステリ、例えばフリーマントルの諸作やエルキンズの諸作で活躍する女性に対する主人公含め男性諸氏の眼差しとは隔世の感がある。 またクイーンは到底レーンが活躍するものだと思っていた読者に対し、このペイシェンスがレーンに匹敵する叡智の持ち主であることを納得させるためにホームズ紛いの推理のお披露目をレーンとの邂逅シーンで設けている。それは初対面でいきなりレーンが回顧録をタイプライターで打っていることを云い当てるのだが、この推理に疑問を感じる。 レーンがペイシェンスの推理を補完するために、老境に達した男が今頃になってタイピングを習得し始めたとなると、自らの功績を書き残しておくためしか考えられぬと述べているが、これはどうだろう? 隆慶一郎氏のように老境に入って作家活動を始めるという人間もいるのではないだろうか?これを以て唯一無二の真実とするには論理としては弱すぎるだろう。それともこの時代はそういう作家はいなかったのだろうか? で、本作『Zの悲劇』だが、やはり前2作に比べるといささか迫力に欠けるのは巷間の評価とは一致するものの、結末まで読んだ今では、最後怒濤の如くレーンが開陳する弁証法による消去法で瞬く間に容疑者が絞られ、1人の犯人が告発されるあたりはロジックの冴えと霧が晴れていくカタルシスが得られ、個人的には凡百のミステリよりも優れており、楽しめた。 巷間の評価が本作についてかなり低いのは、やはりこのペイシェンスというキャラクターが妙に浮いている感じを受けるのと、前2作に比べ、タイトルに掲げた「Z」の意味がインパクトに欠けるからだろう。 さて次の作品でこの悲劇四部作は終焉を迎える。本作で登場したペイシェンスは更にレーンに関わりを持つのか?そしてどんな結末が待っているのか、楽しみして臨みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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数年前、本作を執筆するために自身が所有するヨットで航海している作者の姿をTVで見たことがある。確かその時の番組は『情熱大陸』だったように思うが、その番組内でのナレーションで、この作家は自分の作品のテーマにすることを自らの身体で体験しないと書けないというようなことを云っていたことを思い出した。
17年前の太平洋横断航海で沈んだ船の謎を軸に、親子の絆の回復と自然教育を絡めた本作はその時の経験がいかんなく作品に反映されている。 特にガッチリとした体型の主人公船越はそのまま作者の姿を投影したものと思われる。その他、人生の先輩とも云える岡崎や、かつてのクルージング仲間牛島などは作者を取り巻く同好の士がモデルだろう。 そして特に女性陣の特徴が際立っている。岡崎の愛人の娘、稲森裕子に、中絶して、この世にはいないと思われていた船越の娘陽子。そして17年前の航海で立ち寄ったパラオで出会った運命の女性水上朝代。彼女らは全て男に癒しを施す、聖母のような包容力と強さを持つ。16歳の陽子でさえ、それを感じる。 しかしそんな女性陣の中で特に異彩を放つのが船越のかつての恋人、升野月子だろう。どこまでも自己中心で、躁鬱が激しく、常に人の注目を集めていないと気がすまない女性である。しかも自分のカタルシスを得るためならば、人の心に一生残る傷を与えるような話も平気でする女性だ。こういう人間は確かにおり、しかもなぜか男どもは危険だと思いつつ、関係を持つ欲望に抗えない。人生を達観している岡崎でさえ、手を出し、火傷を負ってしまう。 この月子こそ船越の人生を狂わせ、ある時には周囲の人間の運をブラックホールのように吸い込み、命まで奪うほどの悪女であるのだが、勧善懲悪物のように、この話では彼女には天罰は下らない。そんなことなど些末な物だと思える天啓を船越は得るのだ。 谷甲州氏もそうだが、自然を相手にした趣味を持つ者は神々の恩恵、畏敬そして神の配剤という物を肌で感じるのだろうか。自身、船を所有する作者もまたクルージングを趣味にしており、山と海と対象は違えど、その内容に人間の理解を超えた恩恵をあるがままに受け入れ、作品に取り入れる特徴が両者には見られる。 本作で実に魅力的に描かれるサブキャラクター岡崎の、奇妙な人生が2章で書かれているが、それはまさに神の祝福を受け、岡崎が成功した人生を歩んできたことをそのまま肯定するかのような内容だ。 小学校5,6年のときに毎日校門を潜ると、空から光が降り注ぎ、髪のみならず各国の人々からの喝采を浴びるような経験、イタリア留学中、地中海でヨットの処女航海に出た際に感じた海の真っ只中で聞こえた音楽、それを基に作曲した映画音楽で一世を風靡した人生に、土地を転がし、バブル崩壊前に売却し、巨万の富を築くという夢のような成功譚。 そして主人公船越が太平洋への航海に踏み切るのも、岡崎の娘稲森裕子から聞いたスキューバダイビング中にフィジーの沖で発見した沈没した船がかつて自身が沈没した船であったこと、そして彼は正にその時、航海できる船を得たこと、そして15年ぶりに沈没した船に同乗していたかつての恋人から電話を受けた事、そういう偶然が動機となっている。あまりにも出来過ぎた設定だが、これを作者は主人公を導くために作った神の道筋だと述べる。 しかしそれがこの作品をどこかで読んだ話のように思わせているのは確か。海を越えて巡り合う血の絆。これは正にこの作者のデビュー作『楽園』のテーマそのものではないか! 『リング』シリーズで一躍時代の寵児として躍り出た作者が宣言したホラー断筆宣言。その先に見た作者の道筋とは親と子の物語であり、家族の抗えない血の絆をテーマにした物語。そしてその物語を紡ぐために原点回帰とも云えるヨット航海を選んだのだが、いささかそれが偶然に次ぐ偶然に寄りかかった話のようになってしまったのは非常に残念である。 本作ではこの見えざる力による主人公の行動を逐一納得させるために作者が自身の考えを執拗に開陳しており、これが押し付けがましさを感じさせ、逆効果となっているように思えた。下世話な云い方をすれば、俺はこういう風に思う、そうだろ?そうだろ?と何度も同じような話を聞かされているようで、しかも自分で紡いだ話を証拠として、ほらなとしたり顔をしているように感じた。 上にも書いたように、今回この作品でちらついたのがデビュー作『楽園』だったように、この作者の書くテーマ、モチーフに同一の物が多く、意外に引き出しがないように思われる。『情熱大陸』で語られていた「自分で体験しないと書けない」という言葉は裏返せば「自分で体験した事しか書けない」ということだ。『リング』シリーズ以降、大きなヒットに恵まれない理由がここにあると思うのだが、辛辣すぎるだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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後に『黒い家』で日本ホラー小説大賞を受賞する貴志祐介氏のデビュー作。
これはその前年に書かれ、同賞の佳作を受賞したホラー作品だ。 単純な多重人格者によるサイコホラーと思ったら、予想に反して意外なアイデアが含まれており、この着想の妙を手放しで褒めたい。1995年に起きた阪神大震災を上手くストーリーに絡めて、このようなモダンホラーを作り出す貴志氏の着想の素晴らしさ。 これがデビュー作だというのだから、畏れ入る。 こういった奇抜なアイデアを一見本当のように読者に信じさせるには、それなりの裏付けが必要なのだが、本作ではそれが十分になされている。物語の主軸となる臨床心理学、認知心理学、精神薬理学からの学術的理論から雨月物語に出てくる古典からの引用、はたまた千尋の中のそれぞれの人格に名づけられた名前に使われた漢字の意味による性格付けなど、理系・文系の双方から物語を肉付けして、尤もらしく読者に信じ込ませ、頭に浸透させようとしている。 そしてそれは個人的な見解だが、見事に成功していると思う。つまりこの作家は自分で考え付いた壮大な嘘を読者に信じ込ませるという、作家としての十分な資質があることがこの第1作で窺えるのだ。特に各人格に与えられた名前が性格に起因しているなど、言霊が宿るような土俗的な要素も含まれており、これが最後になって非常に有効に働くその手腕は素晴らしい。 では物語としてはどうかというと、これはさすがにまだ物足りないと云わざるを得ない。 確かに開巻以降、主人公由香里のボランティア活動の顛末、物語のメインキャラクターとなる森谷千尋との出逢い、森谷千尋の隠された秘密、彼女に潜む未知の存在の表出、千尋の治療への光明から、新たなる脅威の出現、サブキャラクターへのアプローチ、と物語は淀みなく進む。筆致もしっかりしているのだが、物語に必要な読者の感情を振幅させる“熱”という物が見えない。行間から迸る作者の読者に訴える熱意が感じられないのだ。 恐らく貴志氏は理系型思考の人間だと思われる。本作に登場する由香里と後半に出てくる真部との化学反応がなんとも云えず、淡白だ。望むと望まざるとに関わらずエンパスという相手の心を読み取る能力を持ったが故に家族との断絶を余儀なくされた天涯孤独の身の由香里の恋愛の対象として真部を設定したことは多重人格者への治療と、未知なる不穏な存在磯良の登場に終始した無機質な物語に潤いを与えるエピソードであるはずなのに、なんともまああっさりとしたものである。 中学生や高校生、大学生といった学園ドラマでももう少しマシな恋愛が描かれるぞと云いたくなるほど、拙い男女関係である。特に偶然乗り合わせたバスで出逢った男性が、由香里の逢うべき対象であった真部その人だったという件は、苦笑を禁じえないほどベタな展開である。 最後のクライマックスの雷雨の中での磯良との対決シーンでさえ、ステレオタイプな感じがしてしまい、いささか迫力不足。 そして本作で怪物の権化として登場する十三番目の人格、磯良。これは哀しいかな、当時一世を風靡していたモダンホラー、『リング』の貞子の亜流として見られたのではないだろうか。確かに両者を比べた時に、貞子のインパクトの方が断然強い。 それは作者鈴木氏がこの作者にはない物語としての“熱”を確かに備えており、貞子が作者の手を離れて一人歩きしているがの如く、キャラクターとして確立しているからだ。 しかし今の段階で読むと、これは全くの別物として捉えるのが筋だろう。個人的にはこの磯良というキャラクターの設定はクーンツの諸作に現れるこの類いの敵よりもよほどしっかりしていると感心している。 そしてアイソレーション・タンクなる代物。これは確か有栖川有栖の火村シリーズ『ダリの繭』にも出てきたフロートカプセルと同じだろう。これを使って片や本格ミステリを、そして片やサイコホラーを創作する。 当時学生だった私は寡聞にしてこの装置を知らないが、それほど流行ったものなのだろうか?そしてなぜ寝不足社会の今の世にこの装置の存在が忘却の彼方にあるのだろうか?短時間で深い睡眠と安息が得られるこの機械、前にも増して今の世にニーズはあるはずなのだが、やはり一過性の話題で終わったのだろうか? しかしこれほどの作品であっても日本ホラー小説大賞佳作である。この後の『黒い家』を読んでみないと解らないが、なんともまあハードルの高い賞だ。 |
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古くは『ストーカー』、『邪教集団トワイライトの襲撃』、『ウィスパーズ』、『ウォッチャーズ』、そして最近では『ハズバンド』、『チックタック』といった一連の逃亡物、クーンツ独特のノンストップアクションだ。
そして上にも挙げたように、これらの作品においてクーンツは傑作が多く、逆に最近の同じ系譜の作品が最後に悪い意味で裏切られる傾向にあったのだが、本作でとうとうそれらの忸怩たる思いが一気に解消された。 とにかく本作ではクーンツの悪い特徴である勿体ぶったところが全くなく、いきなり物語の核心から始まるところが非常によい。往年のノンストップアクションスリラーが帰ってきたかのように、物語はどんどん加速度をつけて進んでいく。 主人公のティム・キャリアーは朝起きては仕事場でレンガ工として働き、仕事が終わると行きつけのバーで旧友と他愛もない会話を楽しみ、家に帰って寝ては、また翌日から仕事に向かうという単調で安定した生活を送る独身男性だ。 最初は殺し屋と間違われたことで、それら安定した生活が終わりを告げる。赤の他人の命をそのまま殺し屋に委ねて、自らの安寧を固持してもよかったのだが、自らの心に問うてみるとやはりそれは出来なかった。そして彼には彼女を守る“力”があった。 このティムの秘密は、物語の進行で折に触れ、小出しに触れられるが、最後の最後でようやく全貌が明らかになる。それは色々なアクション映画や同種の小説を読んできた者にしてみれば、特段意外な正体という物でもなく、十分予想が付く物だが、今回はそれで語られる周辺のエピソードが非常に心地よい。これについては後で話そう。 翻って不幸にも標的となった女性リンダ・パケット。TVも持たず、キッチンと車庫の間の壁を取っ払い、台所に自身お気に入りの39年式のフォードを停めている作家だ。彼女はペンネームで何冊かの小説を上梓しているが、それはいずれも己の内なる憤怒をぶちまけた物である。何ゆえ彼女がそれほどまでに世間に対し、人間に対し怒りを持っているのか、それは後半で明らかになる。 このリンダが幼い頃に味わった不幸、家族が経営している保育園が、モンスターペアレントの心無い悪評で、幼児虐待施設となり、両親ともども幼児嗜好の高い性的倒錯者だと周囲に刷り込まれ、実刑判決が下り、共に刑務所で服役中に死亡するという救いのない話は、『ドラゴン・ティアーズ』から続くクーンツの裏テーマ“狂気の90年代”に他ならない。 そして彼らを執拗に追うクライト。クーンツ諸作に出てくる絶望的なまでに狂気を湛えた殺人鬼同様、彼もまた異常な価値観と自己陶酔の気を持った自信家であり、また狂気に満ち溢れた人物として描かれている。 自らを世界の皇帝と称し、世界は全て自身の都合のいいように便宜を図り、失敗する事など微塵も信じない男。その精神の安定性は一種独特の狂気がなせる業なのだが、とにかく変わった人物だ。常にR・Kのイニシャルを持った偽名を使い、自分の家を持たず、他人の家を自分の家として留守の間に勝手にシャワーを使い、料理を食べ、ベッドで寝る、普通の神経では考えられない男だ。よくもまあ、クーンツはこんな特異な人物を次から次へと考え付くものである。 物語の主題はこの2人と1人の逃亡・追跡にあるのだが、もう1つ“何故リンダは命を狙われるようになったのか?”という謎がある。昨今のクーンツ作品と本作が違うのはこれについてもきちんと答えを用意していることだ。しかもクライトとの決着がついた後に30ページ弱を費やしてこの辺について語り、更に決着までつけている。しかもそれが読書の余韻を静かに誘う。 真相は陳腐といえば陳腐。 こういう風に書いていくと、本作がなぜこれほどまでに私の中で評価が高いのかが一向に理解できないと思われるだろうが、この作品にはクーンツ一連の単なるジェットコースター型ノンストップアクション小説とは一線を画す味付けが最後に施されていたからだ。 最近になって再び刊行が顕著になってきたクーンツ。 とはいえ『ハズバンド』、『対決の刻』、『チックタック』と続いた一連の作品は消化不足感が拭えず、フラストレーションが溜るばかりだったが、ここに来てようやく快作が出た。傑作とまでは云わないまでも、クーンツ作品の中でも私の中では上位に入る作品となったことを付記しておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジョン・コーリーシリーズ4作目に当たる本作は正に狂信者達の戦争とも云うべき皮膚泡立つ恐ろしい物語だ。
21世紀という現代において先進国が自国内で何千人単位という犠牲者を出したテロは2018年現在でも2001年に起きた9・11同時多発テロ以外起きていない。それは“世界の警察”を自認するアメリカにとって屈辱的なことであり、なおかつ国民レベルで世界に対する、いや正義に対する見方・考え方が変わった瞬間であった。 多くの人が直接的・間接的を問わずトラウマを患った未曾有の危機によって本書に書かれている権力者達が精神不安定の状況下でこのような世迷言のような、独善的な計画を発案し、実行に移そうとしていても何ら不思議ではないかもしれない。つまりビンラディンは人道的にやってはいけないレベルのテロ行為をやってしまったのだ。 本作のタイトルとなっている「ワイルドファイア」とはレーガン政権時代に考案された対テロ報復作戦である。「全てを焼き尽くす燎原の火」という名のこの作戦はアメリカがテロを受けた際、自動的に核ミサイルが発動してイスラム諸国の主要都市―油田及び主要港湾都市を除いた―を襲撃するという物だ。 そして本作で掲げられている<プロジェクト・グリーン>とは9・11同時多発テロを受け、アメリカが次のテロを受ける前に自身の手で核を自国のどこかで爆発させ、大義名分を得た上でイスラム諸国を襲撃するという、権力者達の狂った作戦なのだ。 そしてこの<プロジェクト・グリーン>の首謀者が石油会社を経営するベイン・マドックス。自身かつて合衆国陸軍に属し、戦争も体験し、中佐まで上りつめた男だ。 殺人を主にした犯罪を良心を痛めることなく出来、その自らの行為に関して警察やFBIに勘ぐられようが眉一つ動かさず、汗一粒も垂らさない、大木のような図太い神経を持った男だ。いや、その辺の善悪に関する感覚が麻痺しているといった方が正しいかもしれない。そしてこの男にコーリーはだんだんと惹かれていったりもする。同じ穴の狢としての匂いを感じるのだ。 さて作者は冒頭のはしがきでこの「ワイルドファイア」は作者の創造による作戦である事を述べているが、同時に類似の作戦は作られるべきだとも述べている。このコメントにはかなり幻滅した。結局デミルもアメリカ至上主義者の1人に過ぎないと解ったからだ。 本作で滔々と述べられる<プロジェクト・グリーン>が及ぼす影響は、アメリカにとって有益な事を並べ連ね、他国の事は全く頓着していないことが非常に特徴的だ。核を使うことを是とする作戦は作ってはならないと私は強く主張したい。核使用後の波及効果はシミュレーションだけでは計り知れないものがあると思うからだ。そういう類いの作戦立案を支持するデミルの姿勢は、ここに出てくるカスターヒル・クラブの歴々となんら差がないのではないか?そしてこれについてはコーリーも心中で述懐するように、一瞬この作戦を止めるのを躊躇する。もしかしたらこの小説はデミルによる、イスラムへの反逆に対する国際的指示を得るであろう開戦プランの提言なのかも、とまで思ってしまう。 思えば『王者のゲーム』で現れたジョン・コーリーの敵アサド・ハリールが中東諸国から来たテロリストであることは今となってみれば非常に暗示的だった。 そしてその作品が本国アメリカで出版されたのがなんと2000年。9・11のわずか1年前である。 テロ発生後、デミルはこの偶然性に天啓を受けたに違いない。このテロこそ自分が次に書くべき題材だと。そしてこれこそ我が残りの生涯を通じて語るべき物語なのだと。そこでデミルは『王者のゲーム』の後、『アップ・カントリー』を上梓し、自身も参戦したベトナム戦争の心の傷痕を清算している。 そしてその後は、今までどちらかと云えばシリーズキャラクターを立てず、単発物を書いていたデミルにしては珍しくジョン・コーリー物ばかりを書いており、創作姿勢が変化している。このことからもデミルはこの先ジョン・コーリーシリーズしか書かなく、ジョン・コーリーを通じてこの一連のATTFシリーズを自らのライフワークとして定めたのではないだろうかという推測が成り立つ。 穿った見方をすれば、情報通のデミルのこと、もしかしたらこれは偶然ではなかったのかもしれない。『王者のゲーム』を著す際の取材でオサマ・ビンラディンを筆頭とするムスリム系テロリストの存在は知っていたのは必然だろうし、逆にそれを題材にして『王者のゲーム』を著したのかもしれない。そして当初はアメリカへの警鐘の意味合いを込めた作品だったはずだ。しかしそれが警鐘を超え、現実の物となってしまった。 さてデミルの創作意識への推測はここまでにして本作の内容に移ろう。 今まで『王者のゲーム』、『ナイトフォール』で私が散々不満を漏らしていたデミルの創作作法については今回も変わらない。物語の序盤でATTFの捜査官ハリー・ミューラーが<カスターヒル・クラブ>の潜入捜査に失敗して拉致されるあたりで、本作の物語の肝である<プロジェクト・グリーン>と「ワイルドファイア」の内容について早々に詳らかにする。 しかしこれは後々のジョンとケイトのベインとの対決シーンの緊張感を高めるのに、この長々としたベインの講演を読まされるよりもよかったように感じた。今回の物語の展開としてはこの手法は有益に働いていた。 そして何よりも今回はカタルシスがきちんと得られた。敵役のベインとはきちんとケリがつくし、何よりもシリーズを通してのジョンの天敵テッド・ナッシュとの決着も着くからだ。前2作で感じた、どうにも宙に浮いたような結末に比べるとやはり数段にいい。 そして主人公のジョン・コーリーは相変わらずのスタンドプレイぶり。とにかく全ての上司の命令に背く。つまり上司の命令と反対の事をすれば、真相に行き着くと云わんばかりだ―まあ、実際そうなのだが―。 そして減らず口も健在。というよりも更に輪を掛けて饒舌になっている。よくもまあ、ケイトはこんな男と付き合えるものである。物語の主人公としては痛快極まりないが、同じ仕事の同僚、部下としてはお金を払ってでも遠慮ねがいたい人物だ。 しかしデミルのジョンを描く時の筆の冴えは健在だ。もうノリノリである。随所に盛り込まれたジョークにまたも声を出して笑ってしまった―特に「カタツムリだけは入れてくれるな、アンリ」は傑作!―。 相棒のケイトもこれほど辛抱強く、またジョンに同調していとも簡単に規則を破っていたかしらという風に変わってきている。作中でも9・11以後、ケイトはセラピーを受け、変わったと述べているが、二人のコンビ振りが更に躍動感を増したように思う。 余談だが、アメリカ国内における核もしくはテロリストの脅威がテーマであることで、なんだかドラマ『24』を観ているような錯覚に陥った。とはいえ、ジョンはキーファー・サザーランド演ずるジャック・バウアーとはイメージが異なる。しかもあのドラマと違い、こちらは1泊1200ドルもする高級コテージで寛ぐ余裕すらある。 さて前にも書いたように、本作では9・11同時多発テロが色濃く繁栄されているが、興味深いのはあのテロの後、アメリカ人の心境・生活に何をもたらしたかが随所に織り込まれていることだ。 頭上を飛ぶ飛行機の機影に敏感になる、空港のみならずホテルや高層ビルでは金属探知機が常設されている、毎日どこかの葬式に出席していた、等々。これらはデミルが書かなければならなかった事実なのだろう。そしてそれはアメリカ国民にとっても読むべき話なのだろう。明日に向かうために。 また2006年に発表された本書ではイラクに大量破壊兵器があるなどと信じていないという記述があり、ニヤリとさせられる。 しかし同時に石油価格がこの<プロジェクト・グリーン>発動後、1バーレル当り100ドルまで急騰するだろうと述べられているが、実際はその予想を遥かに上回る130ドルという価格まで跳ね上がった(2008年当時)。 もちろん現実社会では核攻撃など起きてはいない、そういった状況での原油高騰であり、これはさすがのデミルも予想外だったに違いない。 とまあ、上下巻合わせて1,080ページ強のこの物語には、こんな風に書いていけばいくらでも書きたいことが出てくる。それほど本作には色んな内容が盛り込まれており、読者を飽きさせない。 私は本作を読んだ時に、ジョン・コーリーシリーズはこれで終わりではないだろうかと思った。 しかし、そうではないことに気付いた。なぜならジョンの最大の敵役アサド・ハリールがまだ残っているからだ。次にこのハリールが復活してジョンを脅かすのかどうか、楽しみにして待っていよう。 |
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