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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
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なぜ死体はバラバラにされたかという様々な謎をロジックで解き明かす書解体事件を扱った短編集で、現在、奇抜な設定下の中でのロジックを得意とする異彩の本格ミステリ作家、西澤保彦のデビュー作である。
まず「解体迅速」は後の西澤作品で探偵役を務める匠千暁が早くもお目見えする。 この作品、状況説明の段階で早や犯人は解ったものの、バラバラにした動機が不明だった。その説明は、まあ納得の行くといった程度だったが、真犯人が第1被害者を殺す理由に思わず唸ってしまった。話の前後から交通事故が絡むと思ったが、いやなかなかに鋭い。 こういうさりげない伏線が西澤作品の特徴のようで、それは今後の作品でも同種の趣向が見られる。 続く「解体信条」は後にフルネームと匠千暁の学生時代の先輩である事が判明する高校教師の辺見祐輔が主人公を務める。 これも真相解明前に犯人とどういう風に被害者が毒を飲んだのかまで解ったが、やはりバラバラにした理由までは解らなかった。死体をバラバラにする理由となると、どうも持ち運びの利便性に囚われがちである。まあこれこそ作者が期待するミスリードなのだけれども。 収録作品中、最も魅力的な謎であるのがこの「解体昇降」だろう。 マンションの8階から1階に降りるわずか16秒の間に乗った女性が全裸のバラバラ死体で発見されるという魔術的な殺人事件が起こったエレベーターはどの階にも停止することなく、まっすぐ1階に降り、しかも8階では住民が入れ違いに被害者がエレベーターに乗り込む様子を見ている。死体は首と左手足が切断されていた。あまりにも不可解な事件に捜査陣は値を上げた。堪らず平塚刑事は入院中の上司中越警部に救いを求めるのだった。 次の「解体譲渡」では再び辺見祐輔が登場する。 辺見祐輔はその日お見合いの席にいた。相手の藤岡佳子は垢抜けた美女であったが、どこかであった記憶がある。しかしそれがどこなのか思いつかなかった。傍らでは付添いの中年男性が先週の土曜日に起きたバラバラ死体遺棄事件について語っている。藤岡佳子はおもむろに口を開くと意外なことを行った。彼女は祐輔が毎週土曜日にエロ本を立ち読みしに通っている本屋でいつも見かけていた名も知らぬ美人だったのだ。愕然とし、自己嫌悪に陥る祐輔だったが、彼女の口から意外な話を聞かされる。それは先週土曜日にある妙齢の婦人がそこの本屋で101冊ものエロ本を買い占めていったというのだった。その婦人の目的が何なのか気になってしょうがないという。祐輔と佳子は見合いそっちのけでこの奇妙な出来事について推理を巡らす。 奇しくも(?)2作とも男の煩悩、エロ関係が関与する話となった。前者はこの短編集中、随一の不可能状況で読者の知的好奇心を誘う謎でありながら、最も下らない解決が示される、駄作だかなんだか判らない奇妙な1編。 後者は101冊ものエロ本を買う婦人の謎とこれまた『五十円玉二十枚の謎』を髣髴とさせる面白い謎だが、これもかなり無理がある推理である。この2作は奇抜な謎のために辻褄を合わせるような回答を持ってきたという不自然さが目立ち、好きではない。 「解体守護」では匠千暁のパートナーであるタカチが登場する。 この作品が本短編中ではベスト。事件の真相の約6割くらいは見えていたが、あのおこわが絶妙なアクセントになっている。 今までの短編から作者の手法という物を解っていただけに、この小道具の意味が解らなかったことが悔しいが、清々しい悔しさだ。もう一方の挿話に関しては念頭に置いていたのだが、私の予想を上回る使い方で、これも気持ちのいい敗北感。泡坂氏独特の論理に通じる真相でもある。なんとも云い様の無い奇妙な事件の発端から最後に心温まる家族の話に落ち着くのが私の好み。 「解体出途」では匠千暁は叔母の沢田直子に呼び出されて、娘の結婚を妨害してくれと頼まれる。 今までの短編でそれぞれ探偵役をしていた匠千暁と中越警部が邂逅する作品。だが本作での探偵役は事件に巻き込まれた匠千暁が務め、中越は最初の現場捜査のみの登場で、専ら匠の相手は部下の平塚刑事となっている。 さて物語はなんとも苦笑したくなる性的欲求不満熟女の話で昼のメロドラマのような展開にちょっと引けたが、事件は今までの中で一番難しかった。犯人までは特定できた物の、これにも二重の犯行が成されており、なかなか簡単にはいかない内容だ。こういう三文ポルノ風な話が作者の趣味なのかも。 「解体肖像」では「解体信条」で祐輔に謎を提示した小菅亜紀子・麻紀子の双子の姉妹が今度は匠千暁に謎を提供する。 収録作品中、この短編の謎が最も簡単だろう。私もこの作品の謎はすぐに解った。シンプルな謎で、恐らくおおよその読者も真相は見破れるだろう。 しかし本作で訴えたかったのは傍観者も共犯者であるという重いテーマだ。ある事がきっかけで死者が出てしまったことを知りつつも何もアクションを起こさない貴方達も同罪なんだという作者の熱いメッセージが込められている。 本書の約4割を占める中編「解体照応」は推理劇のシナリオという形式を取っており、180ページという中編ながらも読者にブレイクタイムを促すような軽い読み物になっている。 「解体昇降」で出てきた中越警部と平塚刑事と思われる二人にベテランで狂言回し的な存在のチョウさんという仇名の部長刑事が全般を通しての登場人物。 “読者への挑戦状”が挟まれた唯一の作品。しかしこれは解らなかった。首が切られている上に、髪が全て短く切られているというのは、それぞれの名前についてアナグラム的なパズル趣向があるのかと別の方面での推理をしていたが、全然違った。 明かされる犯人とその動機は、突拍子もないものと思われるが、推理劇という趣向がこの突拍子のなさを逆にフィクションであるが故の、ミステリゲームという意味合いを持たせており、個人的には許容できる内容だ。 以上、7編の短編と1編の戯曲の体裁をした中編だが、 さてこの感想の冒頭で述べたように各短編は「解体」という二文字をキーワードにして、何かを切り取られた事件を扱っているが、非常にヴァラエティに富んだ内容で緩急を持たせ、同類事件の話の繰り返しにならないよう、作者が入念に配慮しているのが解る。 文字通りバラバラ殺人事件から、ぬいぐるみの腕切断や街頭ポスターの首切抜きといった小事まで扱っており、殺人事件から日常の謎までと作者の器用さが十分に出ている短編集だ。 そしてそれらは昔TVで放映されていた「私だけが知っている」という推理ドラマ趣向のクイズ番組のように、「解体照応」以外は“読者への挑戦状”が付されていないものの、作品に提示された情報で読者が真相を解き明かす事が出来る、非常にフェアな作りになっている。かくいう私も、1つ1つの短編について作者が提示する謎に挑戦し、全ては解き明かせないにしろ、犯人やトリックを断片的に解き明かす事が出来、ミステリを読む愉悦に浸る事ができた。 さて本作で登場したタックこと匠千暁、中越警部に辺見祐輔らの探偵役のイントロダクションとしては格好の作品だと思う。彼らが今後どのような活躍をするのか、非常に楽しみになった。 しかし匠千暁の初登場シーンは笑ってしまった。彼の部屋には膨大な書籍で占められているとのこと。これは明智小五郎を筆頭とする日本の推理小説の探偵役の系譜である。乱歩没後数十年経っても、名探偵の特徴は変わらないのだなぁと苦笑した次第である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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毎回このギデオン・オリヴァーシリーズは異国の地を舞台に骨が関わる事件が描かれるが今回はアマゾン河。しかし有名なブラジルからではなく、お隣のペルーからの進入だ。
そして本作は個人的に非常に面白い物となった。読書中、自分がチリへ出張した時のことを思い出したからだ。 本書でも述べられているが、南米への旅行には不便が強いられ、私がチリに行った時も行きは24時間、帰りは28時間かかり、ギデオンたちも例に洩れず、行きは乗り継ぎの空港リマに来るだけで24時間が経過していた。しかも乗り継ぎの空港がリマであるというのも一緒だった。ただ私の場合はチリ行きの便が途中に立ち寄る空港がリマで、乗り降りの必要は無かったのだが。 他にもペルーの主流タクシーである屋根付三輪オートバイ<モトカー>はこちらフィリピンで横行している<トライシクル>そのままだし、国は違えど、南の国々の乗り物はさほど変わらないことを認識させられた。 またクルーザーの船長が乗客に振舞うピスコサワーに激しく反応してしまった。作中で書かれているとおり、この飲み物はペルー特産の蒸留酒ピスコをベースにした飲み物なのだが、これはチリでもよく飲まれており、かくゆう私も出張中、食前酒として何度も飲み、またお土産として持って帰ったくらい、実に美味しい飲み物なのだ。35度という比較的高いアルコール度数とは裏腹に飲みやすい味わいがあり、女性も気軽に飲める、一種の爆弾みたいな飲み物だ。本作を読んで、またこのピスコサワーが飲みたくなった。 更にはマラリアの予防注射が存在せず、錠剤を飲むだけだということも正にこちらで自身がやっていること。つまり本作でギデオンらが体験した事は全て私自身も経験しているようなことで、いつもにも増して親近感を覚えてしまった。 他にも作者が実際に取材したペルーでの旅、アマゾン河クルーズの体験がふんだんに盛り込まれており、我々文明社会に生きる者たちの想像を超える気候、思想、文化が余すところなく作品に活かされて、興味が尽きない。特にアマゾン河に住む部族のシャーマンに逢いに行く際、この体験記を書くために訪れたフリーライターのメルがメモしようとするが、ものすごい湿気のためにゲルインクのペンは凝固せずにそのまま流れ、代わりに鉛筆を使うが、今度は紙が湿気を帯びて破れて書けず、しまいにはノートを綴じている糊が湿気で溶け、バラバラになってしまう。更に代わりに取り出したハンディレコーダーもテープが湿気で膨張し、使い物にならないと、想像を絶する環境なのだ。つまりかくして秘境は謎に包まれるということか。TVや映画でアマゾンを取材した映像を観たりすることがあるが、あれが途轍もない苦労の末の成果だということを気付かされる。 そしていつも思わせられることだが、エルキンズはキャラクターを作る力が本当に抜きん出ている。内容の軽さゆえに、読み飛ばしそうなシリーズだが、毎回ギデオンが旅先で出くわす人物たちは、普通の人とはちょっと違ったエキゾチックな特徴を持っており、それをストーリーに上手く絡ませて、上質のウィットを生み出している。 特に今回は昆虫学者のオースターハウトが個人的には一番面白いキャラクターだった。ゴキブリの権威である彼とジョン・ロウとのやり取りは思わず大きな声を発してしまうほど笑ってしまった。 そして本シリーズの恒例の目玉であるギデオンによる骨の鑑定だが、本作ではなんと全400ページ弱の分量に於いて280ページのあたりと物語も7割を過ぎた辺りでようやく出てくる。しかもメインの事件ではなく、云わば物語の装飾の部分に該当する麻薬取引を取り潰すマフィアの画策に関する事件に関連してくる。しかしこの被害者の正体がメインの事件を絞り込むのに大いに関わってくるから、決して副次的な物ではない。 ただ、この骨の絡んだ事件の真相はすぐに解ってしまった。こう申しては失礼だが、謎としては小学生のなぞなぞのレベルである。 思うにこのギデオン・オリヴァーシリーズはミステリとしての謎の醍醐味よりも、先に書いた登場するキャラクターの面白さと売りとなっているギデオンの骨の鑑定から判明する意外な事実、つまり知的好奇心を満たす新情報といった小説としての旨みにある。前作ではそろそろジュリーとギデオンとの間に何か変化が起きてもいいのでは?などと書いたが、やはりこのいつものメンバーがいつものように旅先で出会う事件を、ギデオンが骨を鑑定しながら解決する、こういう定型を愉しんでいるのだと再認識させられた。 さて最後に本作の原題“Little Tiny Teeth”とは直訳すれば「小さな小さな歯」となるが、これはピラニアの歯を指している。このピラニアの歯がギデオンの骨の鑑定に少しばかりお手伝いをしている。恐らくこれは作者エルキンズが目の当たりにした自然界の力強さを象徴するものだったのだろう。 不思議の世界アマゾン。エルキンズの筆によるアマゾン行は面白かったが行きたいとは思わなかった。ただこのピラニアは一度食べてみたいなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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まず本作は悲劇四部作において、変奏曲ともいうべき作品になるだろう。それは前2作から打って変わって物語はサム警視の娘ペイシェンスの一人称叙述で語られることから明らかだろう。
そしてレーンは冒頭に出てきてからは成りを潜め、終始ペイシェンスとサムが物語の中心となって事件の捜査に当る模様が語られ、読みながらしばし「これはドルリー・レーンシリーズなのか?」と首を傾げる事があった。物語もちょうど中間に差し掛かってようやくレーンが事件に乗り出す。 しかし今回のレーンは前作『Yの悲劇』から10年経った設定であり、70を超える老境に入っており、そのため身体的にも衰えが著しく、前2作に比べると精彩を欠き、快刀乱麻の如き、もしくは全知全能の神の如き活躍を見せない。 そんな人物配置であるから物語は自然ペイシェンス・サム中心となって語られる。それが故に、この作品では1930年代での女性に対する男性社会の偏見がそこここに見られる。 この時代では女性の社会進出はまだ珍しく、女だてらに殺人現場や容疑者を尋問の場に立会い、自分の意見を開陳するペイシェンスを蔑視する描写がところどころに現れる。事件捜査の中心人物である地方検事ヒュームはペイシェンスには見向きもせず、意見を述べると鼻で笑ったりもし、洞察鋭い意見であっても見直すこともなく、女如きが、と蔑む。 私が並行して読んでいる現代の海外ミステリ、例えばフリーマントルの諸作やエルキンズの諸作で活躍する女性に対する主人公含め男性諸氏の眼差しとは隔世の感がある。 またクイーンは到底レーンが活躍するものだと思っていた読者に対し、このペイシェンスがレーンに匹敵する叡智の持ち主であることを納得させるためにホームズ紛いの推理のお披露目をレーンとの邂逅シーンで設けている。それは初対面でいきなりレーンが回顧録をタイプライターで打っていることを云い当てるのだが、この推理に疑問を感じる。 レーンがペイシェンスの推理を補完するために、老境に達した男が今頃になってタイピングを習得し始めたとなると、自らの功績を書き残しておくためしか考えられぬと述べているが、これはどうだろう? 隆慶一郎氏のように老境に入って作家活動を始めるという人間もいるのではないだろうか?これを以て唯一無二の真実とするには論理としては弱すぎるだろう。それともこの時代はそういう作家はいなかったのだろうか? で、本作『Zの悲劇』だが、やはり前2作に比べるといささか迫力に欠けるのは巷間の評価とは一致するものの、結末まで読んだ今では、最後怒濤の如くレーンが開陳する弁証法による消去法で瞬く間に容疑者が絞られ、1人の犯人が告発されるあたりはロジックの冴えと霧が晴れていくカタルシスが得られ、個人的には凡百のミステリよりも優れており、楽しめた。 巷間の評価が本作についてかなり低いのは、やはりこのペイシェンスというキャラクターが妙に浮いている感じを受けるのと、前2作に比べ、タイトルに掲げた「Z」の意味がインパクトに欠けるからだろう。 さて次の作品でこの悲劇四部作は終焉を迎える。本作で登場したペイシェンスは更にレーンに関わりを持つのか?そしてどんな結末が待っているのか、楽しみして臨みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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数年前、本作を執筆するために自身が所有するヨットで航海している作者の姿をTVで見たことがある。確かその時の番組は『情熱大陸』だったように思うが、その番組内でのナレーションで、この作家は自分の作品のテーマにすることを自らの身体で体験しないと書けないというようなことを云っていたことを思い出した。
17年前の太平洋横断航海で沈んだ船の謎を軸に、親子の絆の回復と自然教育を絡めた本作はその時の経験がいかんなく作品に反映されている。 特にガッチリとした体型の主人公船越はそのまま作者の姿を投影したものと思われる。その他、人生の先輩とも云える岡崎や、かつてのクルージング仲間牛島などは作者を取り巻く同好の士がモデルだろう。 そして特に女性陣の特徴が際立っている。岡崎の愛人の娘、稲森裕子に、中絶して、この世にはいないと思われていた船越の娘陽子。そして17年前の航海で立ち寄ったパラオで出会った運命の女性水上朝代。彼女らは全て男に癒しを施す、聖母のような包容力と強さを持つ。16歳の陽子でさえ、それを感じる。 しかしそんな女性陣の中で特に異彩を放つのが船越のかつての恋人、升野月子だろう。どこまでも自己中心で、躁鬱が激しく、常に人の注目を集めていないと気がすまない女性である。しかも自分のカタルシスを得るためならば、人の心に一生残る傷を与えるような話も平気でする女性だ。こういう人間は確かにおり、しかもなぜか男どもは危険だと思いつつ、関係を持つ欲望に抗えない。人生を達観している岡崎でさえ、手を出し、火傷を負ってしまう。 この月子こそ船越の人生を狂わせ、ある時には周囲の人間の運をブラックホールのように吸い込み、命まで奪うほどの悪女であるのだが、勧善懲悪物のように、この話では彼女には天罰は下らない。そんなことなど些末な物だと思える天啓を船越は得るのだ。 谷甲州氏もそうだが、自然を相手にした趣味を持つ者は神々の恩恵、畏敬そして神の配剤という物を肌で感じるのだろうか。自身、船を所有する作者もまたクルージングを趣味にしており、山と海と対象は違えど、その内容に人間の理解を超えた恩恵をあるがままに受け入れ、作品に取り入れる特徴が両者には見られる。 本作で実に魅力的に描かれるサブキャラクター岡崎の、奇妙な人生が2章で書かれているが、それはまさに神の祝福を受け、岡崎が成功した人生を歩んできたことをそのまま肯定するかのような内容だ。 小学校5,6年のときに毎日校門を潜ると、空から光が降り注ぎ、髪のみならず各国の人々からの喝采を浴びるような経験、イタリア留学中、地中海でヨットの処女航海に出た際に感じた海の真っ只中で聞こえた音楽、それを基に作曲した映画音楽で一世を風靡した人生に、土地を転がし、バブル崩壊前に売却し、巨万の富を築くという夢のような成功譚。 そして主人公船越が太平洋への航海に踏み切るのも、岡崎の娘稲森裕子から聞いたスキューバダイビング中にフィジーの沖で発見した沈没した船がかつて自身が沈没した船であったこと、そして彼は正にその時、航海できる船を得たこと、そして15年ぶりに沈没した船に同乗していたかつての恋人から電話を受けた事、そういう偶然が動機となっている。あまりにも出来過ぎた設定だが、これを作者は主人公を導くために作った神の道筋だと述べる。 しかしそれがこの作品をどこかで読んだ話のように思わせているのは確か。海を越えて巡り合う血の絆。これは正にこの作者のデビュー作『楽園』のテーマそのものではないか! 『リング』シリーズで一躍時代の寵児として躍り出た作者が宣言したホラー断筆宣言。その先に見た作者の道筋とは親と子の物語であり、家族の抗えない血の絆をテーマにした物語。そしてその物語を紡ぐために原点回帰とも云えるヨット航海を選んだのだが、いささかそれが偶然に次ぐ偶然に寄りかかった話のようになってしまったのは非常に残念である。 本作ではこの見えざる力による主人公の行動を逐一納得させるために作者が自身の考えを執拗に開陳しており、これが押し付けがましさを感じさせ、逆効果となっているように思えた。下世話な云い方をすれば、俺はこういう風に思う、そうだろ?そうだろ?と何度も同じような話を聞かされているようで、しかも自分で紡いだ話を証拠として、ほらなとしたり顔をしているように感じた。 上にも書いたように、今回この作品でちらついたのがデビュー作『楽園』だったように、この作者の書くテーマ、モチーフに同一の物が多く、意外に引き出しがないように思われる。『情熱大陸』で語られていた「自分で体験しないと書けない」という言葉は裏返せば「自分で体験した事しか書けない」ということだ。『リング』シリーズ以降、大きなヒットに恵まれない理由がここにあると思うのだが、辛辣すぎるだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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後に『黒い家』で日本ホラー小説大賞を受賞する貴志祐介氏のデビュー作。
これはその前年に書かれ、同賞の佳作を受賞したホラー作品だ。 単純な多重人格者によるサイコホラーと思ったら、予想に反して意外なアイデアが含まれており、この着想の妙を手放しで褒めたい。1995年に起きた阪神大震災を上手くストーリーに絡めて、このようなモダンホラーを作り出す貴志氏の着想の素晴らしさ。 これがデビュー作だというのだから、畏れ入る。 こういった奇抜なアイデアを一見本当のように読者に信じさせるには、それなりの裏付けが必要なのだが、本作ではそれが十分になされている。物語の主軸となる臨床心理学、認知心理学、精神薬理学からの学術的理論から雨月物語に出てくる古典からの引用、はたまた千尋の中のそれぞれの人格に名づけられた名前に使われた漢字の意味による性格付けなど、理系・文系の双方から物語を肉付けして、尤もらしく読者に信じ込ませ、頭に浸透させようとしている。 そしてそれは個人的な見解だが、見事に成功していると思う。つまりこの作家は自分で考え付いた壮大な嘘を読者に信じ込ませるという、作家としての十分な資質があることがこの第1作で窺えるのだ。特に各人格に与えられた名前が性格に起因しているなど、言霊が宿るような土俗的な要素も含まれており、これが最後になって非常に有効に働くその手腕は素晴らしい。 では物語としてはどうかというと、これはさすがにまだ物足りないと云わざるを得ない。 確かに開巻以降、主人公由香里のボランティア活動の顛末、物語のメインキャラクターとなる森谷千尋との出逢い、森谷千尋の隠された秘密、彼女に潜む未知の存在の表出、千尋の治療への光明から、新たなる脅威の出現、サブキャラクターへのアプローチ、と物語は淀みなく進む。筆致もしっかりしているのだが、物語に必要な読者の感情を振幅させる“熱”という物が見えない。行間から迸る作者の読者に訴える熱意が感じられないのだ。 恐らく貴志氏は理系型思考の人間だと思われる。本作に登場する由香里と後半に出てくる真部との化学反応がなんとも云えず、淡白だ。望むと望まざるとに関わらずエンパスという相手の心を読み取る能力を持ったが故に家族との断絶を余儀なくされた天涯孤独の身の由香里の恋愛の対象として真部を設定したことは多重人格者への治療と、未知なる不穏な存在磯良の登場に終始した無機質な物語に潤いを与えるエピソードであるはずなのに、なんともまああっさりとしたものである。 中学生や高校生、大学生といった学園ドラマでももう少しマシな恋愛が描かれるぞと云いたくなるほど、拙い男女関係である。特に偶然乗り合わせたバスで出逢った男性が、由香里の逢うべき対象であった真部その人だったという件は、苦笑を禁じえないほどベタな展開である。 最後のクライマックスの雷雨の中での磯良との対決シーンでさえ、ステレオタイプな感じがしてしまい、いささか迫力不足。 そして本作で怪物の権化として登場する十三番目の人格、磯良。これは哀しいかな、当時一世を風靡していたモダンホラー、『リング』の貞子の亜流として見られたのではないだろうか。確かに両者を比べた時に、貞子のインパクトの方が断然強い。 それは作者鈴木氏がこの作者にはない物語としての“熱”を確かに備えており、貞子が作者の手を離れて一人歩きしているがの如く、キャラクターとして確立しているからだ。 しかし今の段階で読むと、これは全くの別物として捉えるのが筋だろう。個人的にはこの磯良というキャラクターの設定はクーンツの諸作に現れるこの類いの敵よりもよほどしっかりしていると感心している。 そしてアイソレーション・タンクなる代物。これは確か有栖川有栖の火村シリーズ『ダリの繭』にも出てきたフロートカプセルと同じだろう。これを使って片や本格ミステリを、そして片やサイコホラーを創作する。 当時学生だった私は寡聞にしてこの装置を知らないが、それほど流行ったものなのだろうか?そしてなぜ寝不足社会の今の世にこの装置の存在が忘却の彼方にあるのだろうか?短時間で深い睡眠と安息が得られるこの機械、前にも増して今の世にニーズはあるはずなのだが、やはり一過性の話題で終わったのだろうか? しかしこれほどの作品であっても日本ホラー小説大賞佳作である。この後の『黒い家』を読んでみないと解らないが、なんともまあハードルの高い賞だ。 |
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古くは『ストーカー』、『邪教集団トワイライトの襲撃』、『ウィスパーズ』、『ウォッチャーズ』、そして最近では『ハズバンド』、『チックタック』といった一連の逃亡物、クーンツ独特のノンストップアクションだ。
そして上にも挙げたように、これらの作品においてクーンツは傑作が多く、逆に最近の同じ系譜の作品が最後に悪い意味で裏切られる傾向にあったのだが、本作でとうとうそれらの忸怩たる思いが一気に解消された。 とにかく本作ではクーンツの悪い特徴である勿体ぶったところが全くなく、いきなり物語の核心から始まるところが非常によい。往年のノンストップアクションスリラーが帰ってきたかのように、物語はどんどん加速度をつけて進んでいく。 主人公のティム・キャリアーは朝起きては仕事場でレンガ工として働き、仕事が終わると行きつけのバーで旧友と他愛もない会話を楽しみ、家に帰って寝ては、また翌日から仕事に向かうという単調で安定した生活を送る独身男性だ。 最初は殺し屋と間違われたことで、それら安定した生活が終わりを告げる。赤の他人の命をそのまま殺し屋に委ねて、自らの安寧を固持してもよかったのだが、自らの心に問うてみるとやはりそれは出来なかった。そして彼には彼女を守る“力”があった。 このティムの秘密は、物語の進行で折に触れ、小出しに触れられるが、最後の最後でようやく全貌が明らかになる。それは色々なアクション映画や同種の小説を読んできた者にしてみれば、特段意外な正体という物でもなく、十分予想が付く物だが、今回はそれで語られる周辺のエピソードが非常に心地よい。これについては後で話そう。 翻って不幸にも標的となった女性リンダ・パケット。TVも持たず、キッチンと車庫の間の壁を取っ払い、台所に自身お気に入りの39年式のフォードを停めている作家だ。彼女はペンネームで何冊かの小説を上梓しているが、それはいずれも己の内なる憤怒をぶちまけた物である。何ゆえ彼女がそれほどまでに世間に対し、人間に対し怒りを持っているのか、それは後半で明らかになる。 このリンダが幼い頃に味わった不幸、家族が経営している保育園が、モンスターペアレントの心無い悪評で、幼児虐待施設となり、両親ともども幼児嗜好の高い性的倒錯者だと周囲に刷り込まれ、実刑判決が下り、共に刑務所で服役中に死亡するという救いのない話は、『ドラゴン・ティアーズ』から続くクーンツの裏テーマ“狂気の90年代”に他ならない。 そして彼らを執拗に追うクライト。クーンツ諸作に出てくる絶望的なまでに狂気を湛えた殺人鬼同様、彼もまた異常な価値観と自己陶酔の気を持った自信家であり、また狂気に満ち溢れた人物として描かれている。 自らを世界の皇帝と称し、世界は全て自身の都合のいいように便宜を図り、失敗する事など微塵も信じない男。その精神の安定性は一種独特の狂気がなせる業なのだが、とにかく変わった人物だ。常にR・Kのイニシャルを持った偽名を使い、自分の家を持たず、他人の家を自分の家として留守の間に勝手にシャワーを使い、料理を食べ、ベッドで寝る、普通の神経では考えられない男だ。よくもまあ、クーンツはこんな特異な人物を次から次へと考え付くものである。 物語の主題はこの2人と1人の逃亡・追跡にあるのだが、もう1つ“何故リンダは命を狙われるようになったのか?”という謎がある。昨今のクーンツ作品と本作が違うのはこれについてもきちんと答えを用意していることだ。しかもクライトとの決着がついた後に30ページ弱を費やしてこの辺について語り、更に決着までつけている。しかもそれが読書の余韻を静かに誘う。 真相は陳腐といえば陳腐。 こういう風に書いていくと、本作がなぜこれほどまでに私の中で評価が高いのかが一向に理解できないと思われるだろうが、この作品にはクーンツ一連の単なるジェットコースター型ノンストップアクション小説とは一線を画す味付けが最後に施されていたからだ。 最近になって再び刊行が顕著になってきたクーンツ。 とはいえ『ハズバンド』、『対決の刻』、『チックタック』と続いた一連の作品は消化不足感が拭えず、フラストレーションが溜るばかりだったが、ここに来てようやく快作が出た。傑作とまでは云わないまでも、クーンツ作品の中でも私の中では上位に入る作品となったことを付記しておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジョン・コーリーシリーズ4作目に当たる本作は正に狂信者達の戦争とも云うべき皮膚泡立つ恐ろしい物語だ。
21世紀という現代において先進国が自国内で何千人単位という犠牲者を出したテロは2018年現在でも2001年に起きた9・11同時多発テロ以外起きていない。それは“世界の警察”を自認するアメリカにとって屈辱的なことであり、なおかつ国民レベルで世界に対する、いや正義に対する見方・考え方が変わった瞬間であった。 多くの人が直接的・間接的を問わずトラウマを患った未曾有の危機によって本書に書かれている権力者達が精神不安定の状況下でこのような世迷言のような、独善的な計画を発案し、実行に移そうとしていても何ら不思議ではないかもしれない。つまりビンラディンは人道的にやってはいけないレベルのテロ行為をやってしまったのだ。 本作のタイトルとなっている「ワイルドファイア」とはレーガン政権時代に考案された対テロ報復作戦である。「全てを焼き尽くす燎原の火」という名のこの作戦はアメリカがテロを受けた際、自動的に核ミサイルが発動してイスラム諸国の主要都市―油田及び主要港湾都市を除いた―を襲撃するという物だ。 そして本作で掲げられている<プロジェクト・グリーン>とは9・11同時多発テロを受け、アメリカが次のテロを受ける前に自身の手で核を自国のどこかで爆発させ、大義名分を得た上でイスラム諸国を襲撃するという、権力者達の狂った作戦なのだ。 そしてこの<プロジェクト・グリーン>の首謀者が石油会社を経営するベイン・マドックス。自身かつて合衆国陸軍に属し、戦争も体験し、中佐まで上りつめた男だ。 殺人を主にした犯罪を良心を痛めることなく出来、その自らの行為に関して警察やFBIに勘ぐられようが眉一つ動かさず、汗一粒も垂らさない、大木のような図太い神経を持った男だ。いや、その辺の善悪に関する感覚が麻痺しているといった方が正しいかもしれない。そしてこの男にコーリーはだんだんと惹かれていったりもする。同じ穴の狢としての匂いを感じるのだ。 さて作者は冒頭のはしがきでこの「ワイルドファイア」は作者の創造による作戦である事を述べているが、同時に類似の作戦は作られるべきだとも述べている。このコメントにはかなり幻滅した。結局デミルもアメリカ至上主義者の1人に過ぎないと解ったからだ。 本作で滔々と述べられる<プロジェクト・グリーン>が及ぼす影響は、アメリカにとって有益な事を並べ連ね、他国の事は全く頓着していないことが非常に特徴的だ。核を使うことを是とする作戦は作ってはならないと私は強く主張したい。核使用後の波及効果はシミュレーションだけでは計り知れないものがあると思うからだ。そういう類いの作戦立案を支持するデミルの姿勢は、ここに出てくるカスターヒル・クラブの歴々となんら差がないのではないか?そしてこれについてはコーリーも心中で述懐するように、一瞬この作戦を止めるのを躊躇する。もしかしたらこの小説はデミルによる、イスラムへの反逆に対する国際的指示を得るであろう開戦プランの提言なのかも、とまで思ってしまう。 思えば『王者のゲーム』で現れたジョン・コーリーの敵アサド・ハリールが中東諸国から来たテロリストであることは今となってみれば非常に暗示的だった。 そしてその作品が本国アメリカで出版されたのがなんと2000年。9・11のわずか1年前である。 テロ発生後、デミルはこの偶然性に天啓を受けたに違いない。このテロこそ自分が次に書くべき題材だと。そしてこれこそ我が残りの生涯を通じて語るべき物語なのだと。そこでデミルは『王者のゲーム』の後、『アップ・カントリー』を上梓し、自身も参戦したベトナム戦争の心の傷痕を清算している。 そしてその後は、今までどちらかと云えばシリーズキャラクターを立てず、単発物を書いていたデミルにしては珍しくジョン・コーリー物ばかりを書いており、創作姿勢が変化している。このことからもデミルはこの先ジョン・コーリーシリーズしか書かなく、ジョン・コーリーを通じてこの一連のATTFシリーズを自らのライフワークとして定めたのではないだろうかという推測が成り立つ。 穿った見方をすれば、情報通のデミルのこと、もしかしたらこれは偶然ではなかったのかもしれない。『王者のゲーム』を著す際の取材でオサマ・ビンラディンを筆頭とするムスリム系テロリストの存在は知っていたのは必然だろうし、逆にそれを題材にして『王者のゲーム』を著したのかもしれない。そして当初はアメリカへの警鐘の意味合いを込めた作品だったはずだ。しかしそれが警鐘を超え、現実の物となってしまった。 さてデミルの創作意識への推測はここまでにして本作の内容に移ろう。 今まで『王者のゲーム』、『ナイトフォール』で私が散々不満を漏らしていたデミルの創作作法については今回も変わらない。物語の序盤でATTFの捜査官ハリー・ミューラーが<カスターヒル・クラブ>の潜入捜査に失敗して拉致されるあたりで、本作の物語の肝である<プロジェクト・グリーン>と「ワイルドファイア」の内容について早々に詳らかにする。 しかしこれは後々のジョンとケイトのベインとの対決シーンの緊張感を高めるのに、この長々としたベインの講演を読まされるよりもよかったように感じた。今回の物語の展開としてはこの手法は有益に働いていた。 そして何よりも今回はカタルシスがきちんと得られた。敵役のベインとはきちんとケリがつくし、何よりもシリーズを通してのジョンの天敵テッド・ナッシュとの決着も着くからだ。前2作で感じた、どうにも宙に浮いたような結末に比べるとやはり数段にいい。 そして主人公のジョン・コーリーは相変わらずのスタンドプレイぶり。とにかく全ての上司の命令に背く。つまり上司の命令と反対の事をすれば、真相に行き着くと云わんばかりだ―まあ、実際そうなのだが―。 そして減らず口も健在。というよりも更に輪を掛けて饒舌になっている。よくもまあ、ケイトはこんな男と付き合えるものである。物語の主人公としては痛快極まりないが、同じ仕事の同僚、部下としてはお金を払ってでも遠慮ねがいたい人物だ。 しかしデミルのジョンを描く時の筆の冴えは健在だ。もうノリノリである。随所に盛り込まれたジョークにまたも声を出して笑ってしまった―特に「カタツムリだけは入れてくれるな、アンリ」は傑作!―。 相棒のケイトもこれほど辛抱強く、またジョンに同調していとも簡単に規則を破っていたかしらという風に変わってきている。作中でも9・11以後、ケイトはセラピーを受け、変わったと述べているが、二人のコンビ振りが更に躍動感を増したように思う。 余談だが、アメリカ国内における核もしくはテロリストの脅威がテーマであることで、なんだかドラマ『24』を観ているような錯覚に陥った。とはいえ、ジョンはキーファー・サザーランド演ずるジャック・バウアーとはイメージが異なる。しかもあのドラマと違い、こちらは1泊1200ドルもする高級コテージで寛ぐ余裕すらある。 さて前にも書いたように、本作では9・11同時多発テロが色濃く繁栄されているが、興味深いのはあのテロの後、アメリカ人の心境・生活に何をもたらしたかが随所に織り込まれていることだ。 頭上を飛ぶ飛行機の機影に敏感になる、空港のみならずホテルや高層ビルでは金属探知機が常設されている、毎日どこかの葬式に出席していた、等々。これらはデミルが書かなければならなかった事実なのだろう。そしてそれはアメリカ国民にとっても読むべき話なのだろう。明日に向かうために。 また2006年に発表された本書ではイラクに大量破壊兵器があるなどと信じていないという記述があり、ニヤリとさせられる。 しかし同時に石油価格がこの<プロジェクト・グリーン>発動後、1バーレル当り100ドルまで急騰するだろうと述べられているが、実際はその予想を遥かに上回る130ドルという価格まで跳ね上がった(2008年当時)。 もちろん現実社会では核攻撃など起きてはいない、そういった状況での原油高騰であり、これはさすがのデミルも予想外だったに違いない。 とまあ、上下巻合わせて1,080ページ強のこの物語には、こんな風に書いていけばいくらでも書きたいことが出てくる。それほど本作には色んな内容が盛り込まれており、読者を飽きさせない。 私は本作を読んだ時に、ジョン・コーリーシリーズはこれで終わりではないだろうかと思った。 しかし、そうではないことに気付いた。なぜならジョンの最大の敵役アサド・ハリールがまだ残っているからだ。次にこのハリールが復活してジョンを脅かすのかどうか、楽しみにして待っていよう。 |
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【ネタバレかも!?】
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天童荒太氏のデビュー作。登場人物全てがそれぞれに孤独を抱えている。その孤独感の描写が寂寥感に溢れており、読んでて痛い。
全面改稿した上での文庫化なので、原本とどれだけ違い、また質が上がっているのか解らないが、読んでてなんとも魂の抉られる思いがする、そんな作家だ。情念の作家とでも云おうか。 上に書いたように、この作品でテーマになっているのはそれぞれの人間が抱える孤独。ひとりではないんだけど、結局ひとりなのだというあの感覚だ。 家庭内での孤立、学校内での孤独、社会に対応しきれない孤独、群集の中の孤独。それら色んな種類の孤独をこの作者はみなが表現したいように表現している、そんな風に感じた。 読んでいると主人公や各登場人物が抱える孤独が痛烈に胸に突き刺さってくる。平静な気持ちで読んでいられない。リレーのバトン渡しのエピソードなど、人と人との繋がりについて語るのに長けているように感じた。 読中、よくよく読むと、各登場人物の造形はどこかで見たタレントや歌手を想起させるし、セリフなどは2時間サスペンスドラマの脚本のように、安っぽさを感じさせるのだが、殊にこの作者が本当に語りたい事に触れると、その筆致は非常に無防備なまでに心情が剥き出しになってくる。 そして本作のサイコ・キラーの異常な性癖・生活の場面や、彼が被害者に施す残虐な行為には熱がこもり、こちらまで痛みが届く思いがする。この身を切り裂かれんばかりの迫真性は一体何なのだろう? 表紙カバー袖にある著者近影の写真は、読者に挑まんばかりにギラギラしている。描写のエネルギー、いやそうではない。筆に込められた思いの丈の伝達力の強さ、これこそがこの作者の特質であり、唯一無二性なのだ。 発表されたのは1998年。この頃は1989年に日本で刊行された『羊たちの沈黙』から派生した一連のサイコホラー・サスペンス物が続々と書かれた時期で海外ミステリに目を向ければ、ハイスミスの諸作がどんどん訳出されており、しかもこの年の『このミス』における日本ミステリ部門1位は桐野夏生の『OUT』である。2位は貴志祐介の『黒い家』でもあり、やはりこの頃はサイコサスペンス全盛だったのだなぁと感慨深い。 私はこれらの作品を未読なのだが、この天童氏が描くサイコパスは、厳格な父親に育てられた母の、不倫であるにも関わらず、両親がいると信じることを強要された狂った親の犠牲者であり、この子供の頃の経験が後の趣味嗜好性に影響を与えるというのがこの時代で既に描かれている。現在の抱える子供の教育問題―特に幼児虐待の根っこ―はこの時に既に顕在化していたのか。 そして特筆すべきはこの事件が非常に日常的な風景の中で描かれている事だ。切り裂きジャックのように、犯人は無作為に女性を襲うのではなく、深夜コンビニを利用する若い女性をターゲットにしている。買い物の内容を何日も確認し、独り暮らしであることを確信する。尾行して家を探り当てるとずっと見張り、どんな暮らしをしているのかを自分の物とする。しかも東京という街の匿名性を熟知しており、怪しまれても笑顔で相手を和ます落ち着きも備えている。現代でいうストーカー犯罪者である。 更にその家は、女性を連れ込んでも、死体を連れ出しても隣近所からは解らない、1階に車庫を備えた住宅である。もしかしたら現在起きている犯罪のほとんどはこうしてなされているのかもしれない、それほどリアルで特殊性がない。 また題名の「孤独の歌声」も、単に読者を惹きつける為に、小洒落たように付けられているわけではなく、ちゃんと意味がある。本作ではアマチュア歌手の芳川潤平の声が科学的に分類されると「孤独」を表現するグループに入るということから来ている。しかもそれは淋しさを嘆き悲しむ声ではなく、淋しいけれども独りではないよと元気付けられる、勇気付けられる声だという物だ。 私はこのエピソードを読んだ時にすぐに尾崎豊が頭に浮かんだ。それ以降、潤平は尾崎だった。 友達が眼の前で犯罪者に連れ去られるという幼少期のトラウマを抱えた主人公朝川風季は、またこれも『羊たちの沈黙』のクラリスを想起させる。 だからしっかりと書けているのだけれど、どこか借り物という気持ちが拭えない。 しかし、この作者には作家としての何かを確実に持っていることが解る作品だ。それは後の活躍が証明している。 世評高い『家族狩り』、『永遠の仔』に比して、埋もれがちな本書だが、この作者が拙いまでも描いた孤独のメロディ、決して読んで損はしないと思う。 事実、私は愉しんだのだから。 |
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とにかく今回の作品は、いきなりクライマックスから始まる。今までのクーンツ作品と違い、今回はなぜトミーの許に呪術を施されたような人形が送りつけられ、彼を襲うのか、その経緯がまったく解らないまま、最終章の前章まで逃亡劇・闘争劇が続く。
訳が解らない物ほど怖い物はないということだろうか、今回のテーマは。 さて今回の主人公トミーは両親と2人の兄と共にヴェトナムから逃亡してきた移民だが、歳の離れた彼らと違い、ヴェトナム人であるアイデンティティを固持せず、あえてアメリカ人として同化しようとしている。ファン・トラン・ツォンから改名し、アメリカ人的な名前、トミー・ファンと名乗り、家族の経営するベーカリーを手伝わず、医者にしたいという親の期待を裏切り、大学でジャーナリスト科を専攻し、新聞記者となり、作家業へと転身する。しかし、そうやってヴェトナム人であることを捨てようとすることで、家族と疎遠になることもまた寂しく思っている、そんなありきたりな移民系アメリカ人だ。 クーンツはかつて日本人を作品に登場させた事があり、日本人の描写、日本文化に関する叙述の詳細さに驚嘆した覚えがあるが、今回のヴェトナムに関しても恐らくその辺の詳細さに関しては同様だろう。ヴェトナム人が好むソウル・フードに関する叙述はそのまま日本人が抱く感覚でもあるし、またヴェトナム人が非常に勤勉な民族であること、また圧政からの反骨精神から根っからの闘士である点など、凡百の移民と思われたトミーが何故この物語の主人公に選ばれたのか、つまりこの訳の解らない苦難に打ち克つための根拠がこのヴェトナム人という設定に込められている。 またこの怪物がなぜトミーの許に送られることになるのかも、この設定に拠っているところが大きい。 また物語の前半でトミーの相棒となるデラ・ペインなるエキセントリックな女性も、なかなか魅力的ではある。最初はその飛躍した会話、性格から作りすぎている感が強かったが、トミーが彼女の一見突拍子のない会話の中に彼女特有の哲学と真実を見通す目から話されている的確さを悟るあたりで、彼女の人と成りが腑に落ちてくる。 このデラ・ペインは先に読んだ『対決の刻』に出てくるスペルケンフェルター姉妹の原形のような人物像である。なぜこのような“作られた”ようなスーパーウーマンが出てくるのか、それは最後に明らかにされる。 そして犬好きのクーンツ、本作でもまた犬が出てくる。スクーティーというデラが飼う黒いラブラドール・レトリーバーだ。 しかし、本作では『ウォッチャーズ』や『ドラゴン・ティアーズ』、『対決の刻』のように主役、もしくはキー・プレイヤーのような役回りではなく、あくまで物語にアクセントを加える道化役に留まっているように感じたが、やはりクーンツ、最後にとんでもない設定を用意してくれた。 ところで作中、日本人は毎日豆腐を食べるから前立腺癌の発症率が低いという叙述があるが、本当だろうか? 確かに日本人は前立腺癌に罹って死ぬという話はあまり聞かない。本書に拠れば男性の死亡原因の3、4番目ぐらいに位置するらしい。アメリカに限った話か、国際的な統計か解らないが、なかなか面白い挿話である。 しかし、今回の訳はところどころ首肯せざるを得ないおかしい箇所があった。まずトミーの購入したコルベットの色を“明るいアクアメタリック”と訳すのはどうかと思う。これはそのまま英語をカタカナ表記すべきだろう。 “フーティーやブロウフィッシュ”は明らかに”Hootie&The Blowfish”のことだし、“ショウガクッキー”も“シュレック”に出て来た“ジンジャークッキー”のことに違いない。 訳者は誰かと思ったら、なんと海外文学に造詣が深い風間賢二ではないか!取材を怠ったか、さらには下請けに出したとも誹られてもおかしくない怠慢さである。 またこれを校正した上で出版した扶桑社の姿勢もまた眉を潜めざるを得ない。出版不況・海外ミステリが売れないと嘆かれているが、訳者・出版社がこんな調子では、現状打破は望めるべくもなく、それも無理からぬと気がせんでもない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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国名シリーズ5作目でシリーズ中最高傑作と名高い本書。その導入部はエラリーが父親の出張旅行に同行している最中に出くわす猟奇的な殺人事件というショッキングな幕開けだ。
しかも今回クイーンは云わば「動のクイーン」と称せるほど、クイーンが動く。物語の舞台が変る。最後の犯人の追跡行はアメリカ東部の主要都市を車、飛行機を駆使して不眠不休の如く、続けられる。 また今までのシリーズのように、事件をしっかり調査して、並べられた証拠・事実をじっくり吟味する趣向と違い、犯人と目される人物の名前は出ており、それが起こす殺人を如何に未然に防ぎ、犯人を捕らえるかという、特殊な設定になっている。 今回のテーマは「見立て殺人」ということになるだろうか。T型の十字架に磔にされた首のないT型の死体。しかも場所はT字路もしくは頭文字“T”のトーテムポール。おまけに殺害現場にはどちらとも大きく「T」の殴り書きが。 云わば『Tの悲劇』とも副題がつきそうな内容だが、物語半ばで明かされるTの真相は意外にも呆気ない。その真相が得られるまでエラリーはT十字架、ギリシア正教で使われていたギリシア十字架の前に存在していたタウ十字架、すなわちそれは昔エジプト十字架と呼ばれていたという知識を披露し、事件の裏に宗教的な匂いを感じる。 これはヤードリー教授に勘違いを指摘されてしまうのだが、これがちょうど物語の半分辺りの2章の終わりで覆されるのが個人的には惜しいと思った。 しかしこの“T”の意匠については解決編で別の解答が得られるが、よくありがちな真相、つまり私が想像していたものであったのが残念。 さて今回の読者への挑戦状はかなり後の方に出てくる。残り50ページ足らずのところで挿入される。しかし前述の通り、今回は犯人が解っているため、今回は読者への挑戦状はないかと思っていたので、正直びっくりした。 実は私は2章が終わった段階である人物を犯人と目していた。その直感的な指摘は、その時点で物語を読み返すと確かに事件の時期とその人物の行動・そして身体的特徴が一致したこともあり、かなりの自信があったのだが、挑戦状を待たずして、その人物が犯人でない事が解ったことも、今回は挑戦状はないのでは?と思った次第だ。 で、結果はというと今回も敗北。これは素直に認めざるを得ない。なにしろあれだけ明確にあの人物が犯人であるという証拠を見せつけられたからには、ぐうの音も出ない。 天晴れ、クイーン!である。 が、しかしそれでも私は解決編を読んでも残る疑問はあると苦言を呈したい。 まず第一になぜトマス・ブラッドは犯人とチェッカーをやるために、家族のみならず、執事ら使用人らも含めて人払いしたのか? もう1つはスティヴン・メガラの殺害について、桟橋にあったボートを盗んで犯行に及んだ事までは解っているが、どうやってその桟橋まで犯人は侵入できたのか?まだ警察はブラッドウッド界隈を見張っており、メガラが犯人をおびき寄せるべく、警察に警護を解くようにいった事実は、この犯人は知りようがないではないか。つまりこの犯人はそれまでブラッドウッドのどこに潜んでいたのかが全然解らない。 今回の犯人は犯行現場からかなり遠方にいたはずである。どうやってメガラ周囲の動向が知りえたのか、全く不明だ。中にスパイがいた、もしくは定期的に連絡を取っていたという記述は一切なかった。 他にも何か据わりの悪さを感じるところがあるが、主に上の2点が非常に気になった。 今回の国名シリーズは今までの国名シリーズと違い、非常に表題に挙げられた国を意識した作品になっている。今までは舞台となった場所にその国名が関せられただけで、国名シリーズといいながら、その国ならではの特徴があったとは決して云いがたい。 しかし今回はエジプトに関する叙述が横溢している。発端のエジプト十字架に関する考察から、古代エジプトの文化・風習など、それらが物語に一種オカルト風の味付けをしていることが本書の最大の特徴だといえるだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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中堅どころの建設会社に勤めるOL若竹七海が突然社内報の編集長を仰せつかり、しかもその社内報に小説を載せたいという無理難題を命じられて、大学の先輩に助け舟を出したところ、その友人が匿名で短編小説を連載する事に協力する事になる、といった、これまでにないアイデアで纏められた連作短編集。
若竹七海が編集長に任ぜられたのは1年間で、各短編もそれぞれその時の季節に合わせた内容になっている。それらの中身はその匿名作家が自身の体験に基づく話で、先輩や街で出会った人から聞いた話に隠された真相を解き明かすアームチェア・ディテクティヴの体裁を取っている。 まず創刊号の4月号では花見を舞台に展開する「桜嫌い」。 その次の「鬼」はちょっとぞっとする話だ。 一転して6月号に掲載された「あっという間に」は、商店街の草野球チームが織成す下町風味のミステリ。 社内報も7月ということで怪談めいたミステリが登場。「箱の虫」がそれ。 そして続く8月号も怪談仕立て。というよりもこの「消滅する希望」はホラーそのものである。 9月号の「吉祥果夢」も「消滅する希望」を引き継ぐかのような幻想的なミステリ。 10月号掲載の「ラビット・ダンス・イン・オータム」は持病の療養で有意義な放蕩生活を満喫していたぼくが社会復帰をするところから始まる。 11月号は「写し絵の景色」。 12月号の「内気なクリスマス・ケーキ」はやはり定番のクリスマス・ストーリー。 新年を迎える1月号では「お正月探偵」が掲載。しかし題名とは裏腹に結末は重く、暗いものだった。 2月号の「バレンタイン・バレンタイン」は今までの構成とはガラリと変え、作品のほとんどが会話文で構成された黒崎緑氏の『しゃべくり探偵』を思わせる作品となっている。 最後3月号は「吉凶春神籤」。 まず短編集であるからには短編に関する感想から述べよう。 設定が社内報に掲載する短編であることから、作者はプロローグでの先輩との往復書簡でも書いているように1編原稿用紙30~40枚程度という制限を課しており、これが逆に各作品のクオリティにバラツキを与えている。特に「写し絵の景色」などは明らかにこの枚数では足りないような内容であり、中編向きである。また全編主人公の「ぼく」の閃きが逆に謎解きの性急さを感じさせた。 ちょっと気になるのは短編の中には展開するそれぞれの登場人物たちの立ち位置が解りにくいものもあった。1作目の「桜嫌い」の桜木荘の間取りと各登場人物の配置、「箱の虫」の箱根のロープウェイにおける乗客の位置関係や交通機関の連絡関係など、文章のみではかなり把握しづらい。 ただ全体を通して文章に伏線や布石をさりげなく散りばめる手腕は素直に上手いと思う。風景描写や人物描写として語られる一文が実に謎解きに有機的に働くのは読んでて小気味よかった。 収録作品中、ベストはやはり「内気なクリスマス・ケーキ」で、その他「あっという間に」と「お正月探偵」がそれに続くか。 「内気なクリスマス・ケーキ」はシクラメンの持つ性質の二面性といい、見事に引っかかってしまった。これこそこの作者のさりげない描写が十分に発揮された成果であろう。往々にしてクリスマスを題材にしたミステリにはハートウォーミングなストーリーが多いが、これもそう。色々な仕掛けが随所に散りばめられた好編。 「あっという間に」はオーダーメニューが相手チームに渡す情報のヒントというのまでは解ったが、この解答が思いつかなかった。 「お正月探偵」はざらりとした読後感が印象的。夜中に架かってくる電話という導入部から暗鬱な話だと連想されるが、内容はぼくの素人尾行の顛末。坊野という元野球部のスポーツマンタイプの男を設定し、カラッとした内容で物語は展開するが、明らかになる真相は逆にその軽妙さとのギャップがボディブローとして重く効いてくる。 「鬼」はぞっとする話だが、この人の心に潜むざらりとした感情を描くことこそ、この作者が持つ本質なのかもしれない。 逆にワースト2を云えば「ラビット・ダンス・イン・オータム」と「バレンタイン・バレンタイン」の2編となるか。 ワーストとは特別悪いという事ではないが、前者は謎は謎でもミステリというよりもクイズだろう。しかもある程度の知識を持っていないと解けないクイズで、非常に高度。まあ、納得はいくが。 後者は中身としては軽いミステリ。特に最後の設定は入らないでしょう。 その他佳作として、ミステリならぬ幻想小説仕立ての「吉祥果夢」が印象に残った。幻聴は幻聴として起こるという前提での謎解きで、この設定を高野山という霊験あらたかな地を舞台にしていることで、納得させている。最後の結末はちょっとやりすぎかなとも思ったが。 とまあ、上に書いたように正直な感想を云えば、各短編それぞれの謎のクオリティと、物語としての面白さには出来不出来の差がはっきりあり、全てが手放しで賞賛できるものではない。 しかし、この一種未完成とも筆足らずとも思える短編が最後になって一枚の絵を描く時、それらが単なるある1つの事件を告発する材料に過ぎないことが解る。そういった意味で云えば、やはりこの短編集は普通の短編集にはない1つ秀でた何かを持っているのは認めざるを得ない。 毎回わざわざ社内報の目次が載ることに最後に各短編が1つに繋がるヒントが隠されているであろう事は解ったのだが、それでもやはり私の眼はその謎を解き明かすには節穴だった。 そして全体を通して判明するこの短編集の意図は、やはりここでは後の読者の事を考えてあえてどんな物かは詳らかにすべきではないと思うが、かなり魂の冷える話だ。少なくとも私はそう感じた。 これほど読書前と読後の印象が変る作品も珍しいのではないか? 日常のなんでもない謎、あるいは謎ともいえないちょっと理解しがたい事象を主人公のぼくが独自の視点から思わぬ解答を披露する軽妙洒脱なミステリ、これが読中の印象だったが、最後の編集後記ならびに匿名作家からの手紙を読み終わると、闇の奥底に人の悪意なるものが息を潜めて狙っている、そんな冷えた読後感を得た。 冒頭でも話したとおり、これらミステリ短編が匿名作者自身の体験に基づく内容であるからこその題名『ぼくのミステリな日常』だというのが大方の感じ方だろうが、読後の今、私は実は匿名作者にとって本当の「ミステリな日常」が始まるのではないかと思えてならない。それも怖い意味で。 ところで作中で出てくる「ぼく」のニックネーム、「ちいにいちゃん」がどうしても解らないのだが、誰か解る人いるだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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東京創元社によるドイルコレクション第4集。
今回は非常にバラエティに富んだ内容となっているのが特徴だ。それぞれテーマがボクシング、狩猟、クリケット、海賊物とに分かれている。 順を追って各編に触れていこう。 まず最初の4編はボクシング小説。「クロックスリーの王者」は苦学生が学費を稼ぐためにボクシングの野試合に出るというもの。 次の「バリモア公の失脚」は同じボクシングを扱いつつも、ちょっと毛色の変わった内容だ。 ドイルのホームズ物を除く短編の特徴として怪奇譚が多いのが挙げられるが、これにボクシングをブレンドしたのが続く「ブローカスの暴れん坊」。 最後の「ファルコンブリッジ公―リングの伝説」はボクシングに男女の憎悪を絡めたもの。 ドイルの手によるボクシング小説というのは意外に思えるが、この手の格闘小説を書くというのは実はホームズシリーズにおいても第2部の事件の背景を語る物語でこのような話はあったから、なんら不思議には感じなかった。むしろそっちの方が水を得た魚のような躍動感溢れる筆致で書いていた印象がある。 「クロックスリーの王者」もボクシングに試合に出るまでの顛末から、ボクシングの試合描写の詳細さまで、手を抜くことなく書いている。結末もモンゴメリーの男意気を上げるようなもので爽快だ。 2編目の「バリモア公の失脚」は宿敵を失脚させるために甥が選んだ方法というのが女装して、バリモア公ならびにその用心棒を打ちのめすという趣向がウィットに富んでいる。 「ブローカスの暴れん坊」はやはりこれはよくあるパターンであると思わざるを得ない。 「ファルコンブリッジ公」も謎で引っ張るだけになかなか面白かった。 これらに共通しているのが減量・トレーニングの様子、そして負けても相手を讃えるフェアプレイの精神、倒れた相手には手を出さない騎士道精神といった英国紳士の気高さが表されていること。これらが選手の内面にも掘り下げられており、登場人物とともに試合前の緊張感、不安感を感じることが出来る。特にボクサーの肉体美を讃える描写が必ず挟まれており、ボクシングに対する思いがなみなみならない事を行間からも窺わせる。そして各編ともテーマはボクシングなれど設定はヴァラエティに富んでおり、逆にこういうのがドイルも書けるのかと新たな発見をした思いがした。 続く「狐の王」は狩猟小説。 狐狩りという狩猟をモチーフに有閑青年の教訓話が繰り広げられる。作品のプロットは凡百のものと云えるものだが、当時イギリスで行われていた狩猟シーンの描写が白眉で非常に写実的。また狩りのためなら他人の敷地に入ることも辞さず、またそれが許されていたというのも時代を感じさせ、面白い。 「スペティグの魔球」はなんとクリケット小説。 一介の無名の素人選手が、特異な球を投げられるというだけで、国際試合の投手として抜擢されるドリーム・ストーリーで、非常に映画に向いている話だ。クリケットについては無知であったが、それでも十分楽しめる。定番だが、やはりこういう話は面白い。 「准将の結婚」は短い喜劇のような話。プライドの高い軽騎兵隊の准将が遠征に訪れたフランスの自作農の娘に惚れ、結婚する話。とはいえ、兵士である彼は明日の命を知れぬ自分の職業柄、結婚には前向きではなかったのだが、逢瀬の帰り道に出逢った巨大な牡牛から逃げることで偶然にもプロポーズに至るという、笑い話。イギリス人、軍人のプライドの高さが他のストーリーでは登場人物らに一種の崇高さを与えているのに、この話では逆にユーモアを助長しているというのが面白い。 続く3編は海賊シャーキー物の短編が収められている。 「セント・キット島総督、本国へ帰還す」は悪名高いシャーキーが処刑される事になり、その採決を下した総督をひょんなことからロンドンまで乗せて帰ることになったジャック・スカロウ船長、最初はいやいやながら引き受けたが、次第に総督の人となりに他の船員達も打ち解け、また船長も総督に親しみを抱くようになっていくが・・・という話。 「シャーキー対スティーヴン・クラドック」は傾船手入れをしているシャーキーを彼の似た船を使って騙し、一網打尽にしようと企む元悪党スティーヴン・クラドックとシャーキー船長の騙しあいを描く。 「コプリー・バンクス、シャーキー船長を葬る」はタイトルどおり、かつての豪商コプリー・バンクスが妻と子供をシャーキーに殺され、復讐を企てる話。 スティーヴンスの『宝島』に代表されるようにかつては一大ジャンルを築いていた海賊物。いわゆる悪漢小説の類いとなるが、それが一時期隆盛を誇ったのも解る気がする。 ルパンに有名な怪盗物とならび、文字通り海千山千の強者が鎬を削り、騙し合いが日常茶飯事に行われる荒くれ者の日々、これが小説の題材として非常に魅力的なのは間違いなく、本作品もその例に洩れない。確かに小説のストーリー、プロットには斬新さは見られないものの、そこはかとないロマンが作品には漂う。男はやはり海が好きだということかもしれないが。 最後は表題作「陸の盗賊」。小村の野道を訪れる車を次々と襲う追い剥ぎの目的とは?といった内容。 この真相はいささか無理がある。ちょっとこれは意外性を狙いすぎだろう。 短編集も4集目を迎えて、さらにドイルの作家としての奥深さが解ってきた感じがする。ボクシング、狩猟、クリケットはまさにドイル自らが趣味として嗜んでいたものだからだ。 つまりこれらの短編を読んでいく事で作家ドイル自身の人となりが詳らかになっていくことになるのだ。 そして昔の英国紳士が持っていた騎士道精神なるものが作品には通底しており、これがまた非常に清々しい。更に今回気付いたのはドイルの風景描写の精緻さである。特に「狐の王」では姿の見えない狐を追っていくシーンが延々と綴られるが、その流れるような英国の田舎風景は正に写実的かつ映像的で、主人公とともに馬を駆って野山を一緒に駆け巡っている錯覚を覚えた。 更には当時の英国風俗・慣習を知ることにもなり、それらを補完する原書の挿絵が詳細で、資料的にも価値が高いように思える。 確かにストーリー・プロットは現代小説に比べれば、一昔も二昔も前の古めかしさを感じるのは否めないが、それ以外の付加価値が高い短編集だと思った。 予定で行けば次の第5集が最後らしい。次はどんな作品が読めるのか、楽しみになってきた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スケルトン探偵ギデオン・オリヴァーシリーズも本作でなんと13作目である。
ここまで終始一貫して骨をテーマにしたミステリを展開しているエルキンズ。前作の『水底の骨』、前々作の『骨の島』ではそれぞれ辛口の評価を下したが、今回はもうかつてのシリーズの最盛期を思わせる、骨の検証と事件とがガッチリ結びついた好編となっている。 そう、上に述べたようにシリーズは13作目なのである。13作目にして、さらに骨に関して新しい見識・見解が本作で繰り広げられるのにまず脱帽。 今回、浜辺に埋められていた骨の正体について、その身体的特徴から死者の生前の職業を云い当てるのだが、これが見事。 よく考えると、詳らかになった事実を予め用意した設定に当て嵌めているようにも読め、他にこれらの身体的特徴を持つ職業って本当にないのかしらと疑問に思ってしまうが、それはそれ、野暮というものだろう。ここは素直にスケルトン探偵が一枚一枚覆われたヴェールを剥ぐが如く、展開していく推理に身を委ねるのが一番だろう。 そしてさらに現在において起きた殺人の解剖にギデオンが立ち会うことになるのだが、そこで開陳される解剖学における知識についても新たに開眼させられる思いがした。脳の損傷におけるクー損傷とコントルクー損傷について。なんと脳みそは止まっている状態で打撃を与えられた場合と、頭が動いた状態で静止した物に頭をぶつけた場合では、脳に受ける損傷が違うのだという。前者をクー損傷といい、これは打撃を受けた箇所が脳は損傷するのに対し、後者のコントルクー損傷とは、例えば落下して地面に頭を打ち付けるなどという事象では、脳は打撃を受けた箇所の反対側を損傷するというのだ。 さらに骨に関して云えば、クー損傷を起こす事象では骨は打撃を受けた箇所が陥没骨折を起こすのに対し、コントルクー損傷では、線状骨折となり罅が入るのだという。 私もミステリを長年読んできたが、こういった事実は初めて知った。いやはやまだまだ知らぬ事が多いことだ。特にこの辺の叙述は日本のミステリ作家にとっても大いに興味を引く箇所ではないだろうか。 そして今回嬉しいことに、250ページの辺りで犯人が解ってしまった。正確に云えば、浜辺に埋められていた骨の正体が誰かと解った時点で、そこから推測して犯人が解った次第。 今までこのシリーズを読んだ者ならば、このエルキンズという作家の創作手法から、犯人を推測できるのは想像に難くない。ここで“推理”と云わず、“推測”というのは、まさしくその通りだからだ。 21世紀の現在、日本を除いて、作中に散りばめられた事実から真実を推理する真の“推理小説”はもはや書かれていない。いや、正確にはフランスのポール・アルテなど、本格ミステリマニアから作家になった人たちがいるものの、それらはかなりの少数派だ。 これら少数派の作家以外の手によるミステリでは、読者のページを捲る手を牽引するために、新たに事件を発生させる、サスペンス型、昔で云うところの通俗推理小説がほとんどである。そして犯人は自身の蛇足による自滅によるところが大きく、動機などは最後の辺りで犯人の独白や人生背景などで語られることがほとんどである。 哀しいかな、このスケルトン探偵シリーズも現れた骨からギデオン・オリヴァーが遺体がどんな人物なのかを推理するところに主眼があり、犯人当てはそのイベントを彩る味付けとなっている。 しかし、この作者の良いところはあくまでフェアなこと。 全く関係のないと思われたエピソード―主にプロローグ―がきちんと事件に関連しており、そしてそれが最後のサプライズに寄与している。この作家のミステリマインドが他の作家と違い、昔の本格ミステリのテイストを微かながらに残していることが、シリーズの人気を長く保っている秘密なのではないかと私は思っている。特に今回はさりげなく犯人を推理するヒントが散りばめられており、犯人当てを趣向として愉しめるようになっていると思う。 そしてシリーズの長寿化はそれだけが理由ではない。やはりキャラクターの魅力もその大きな要因だ。 今回も読後感のなんと爽やかな事。出てくるキャラクター全てが気持ちよい。小説のキャラクターを印象付けるため、なかなかいそうでいない人物像を創作するのが、作家の手腕の見せ所だが、このエルキンズという作家は、そのハードルを楽々クリアする上に、しかも全てが善人で、本を閉じる頃には別れを名残惜しむくらい、キャラクターが立ち上がってきている。 コンソーシアム主催者のコズロフや、博物館長のマデリン、特殊能力犬訓練士のヒックスなどもいいが、何といっても今回は墜ちた英雄として描かれるマイク・クラッパー巡査部長とその部下ロブ巡査の造形が見事。この二人のその後について、絶対シリーズで描いてほしい。本作で終えるには勿体無い好漢たちである。 いささか疑問に残るのは邦題である。今回はシリー諸島のセント・メアリーズ島にあるスターキャッスルなる古城がコンソーシアムの主催者コズロフの持ち家であり、確かにこの城がギデオンらの常宿ともなっているわけだが、『骨の城』となるほど、骨には密接に関わっておらず、むしろ出てくる骨は島の浜辺からである。ここは『浜辺の骨』ぐらいが適当ではないか。確かにそれだとインパクトにかけるかも知れぬが。 そして原題の“Unnatural Selection”普通に訳せば「不自然な選択」となるが辞書でこの対義語を調べると”Natural Selection”で「自然淘汰」という意味らしい。この言意で考えれば原題の意味は「不自然淘汰」、つまり「殺人」ということになるわけだ。 作中、自然動物に関する保護運動がしばしば語られ、これが本作の底を流れるテーマともなっており、またメインではないものの、自然界における淘汰についても触れられており、この原題が実に知性とウィットに満ちたものであることが判る。 ともあれ、いやあ、やはりこのシリーズ、やめられない。そんな気にさせてくれる好シリーズだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『リング』、『らせん』、そして『ループ』で登場した高野舞、山村貞子、杉浦礼子という3人の女性の物語を描いた連作短編集。内容的にはこれら3作で語られなかったエピソードを補完するような内容となっている。
まず冒頭の「空に浮かぶ棺」は呪いのビデオテープを見ることで、山村貞子を懐胎してしまい、不遇の死を遂げた高野舞の物語。それも内容は山村貞子再誕の“あの時”の話。 続く「レモンハート」は特に『リング』において浅川と新聞社時代の同僚吉野が探った山村貞子の劇団員時代の若き日の物語。語り手を遠山というかつての劇団員の仲間であり、また貞子の恋人でもあった男に設定し、彼を吉野が訪ね、その時の話を聞くという構成になっている。 最後の「ハッピー・バースデイ」は『ループ』の主人公二見馨の子供を宿すことになった杉浦礼子の、『ループ』以後の話。ループプロジェクトの研究員の天野から馨がどのような運命を辿り、そして現在彼がどこにいるのかを聞かされつつ、お腹に宿った新たな生命を生み出すまでの話となっている。 これらの短編は連作短編となっており、各短編の時間の流れも正にこの順番どおりとなっている。そして無論の事、それらの作品世界は本編3部作を踏襲しており、「空に浮かぶ棺」、「レモンハート」を包含するような形で「ハッピー・バースデイ」が存在する。 正直、最初の2編を読んだ時は改めて短編として描くようなエピソードだったのかという疑問が残った。ここに書かれた内容は確かに『リング』、『らせん』では明確に書かれていなかったが、特別に短編として書き出すほどの目新しさを感じなかった。 「レモンハート」も劇団員時代に貞子の周囲で起きた怪異譚を描いているが、この遠山という人物が貞子の呪縛に絡め取られ、死んでいく話もあえて必要だったのかと疑問が残る。確かに劇場の音効室に隠された神棚とそこにあった干からびた臍の緒、そしていずこともなく音響カセットに入り込む赤子の声と貞子の官能的な愛の囁きと、ホラー要素ど真ん中の作品なのだが、どうも心の底から怖く感じない。逆に当たり前のモチーフを用いて、印象が浅くなってしまった。これは逆に『ループ』を読んでしまった後だけに、貞子という存在が希薄になってしまった事によるからかもしれない。 しかし、最後の「ハッピー・バースデイ」では、この報われなさが救われた。先にも書いたように『ループ』の後日譚である本作は、どうにか消化不良だった『ループ』に最後のピースがカチッと収まった、そういう風に感じさせてくれる作品だった。 馨の子供を孕んだ礼子がその子を産むまでの話なのだが、それを仮想空間「ループ」に入った馨のその後、リングウィルスのその後、そして増殖した山村貞子という個体のその後がきちんと語られ、そして最後に新しい生命の誕生と、実に清々しい気分にさせてくれる好編だ。出産をテーマにした本作は主夫作家鈴木氏の小説テーマのど真ん中なのだが、今回はそれがいい方に働いた。それは自分も三度我が子の出産に立ち会ったという経験から来る、作者への共感によるところが大きいのかもしれないが。 いまだに『ループ』という作品の内容については納得は行かないものの、この短編を読むことで、欲求不満が若干解消されたのは確か。逆にこの1編がなかったら、この短編集は単なるリングファンの手によるファンジンぐらいの価値しかなかっただろう。 最後に馨が生まれたてのわが子に投げかける言葉。それはそのまま私が生まれた子供らに向けて投げかけた言葉に等しい。あのときの思いを思い出させてくれた。それだけでこの1編だけは他人がけなそうが私にとっては良作になっている。 |
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『リング』、『らせん』シリーズの最終作『ループ』。
しかしこの作品の評判が非常に悪いのが気になっていた。実際映画化されたのも『らせん』止まりだし、あれだけ世間で大ブームを起こしたこれらの作品に比して、この『ループ』は一種のタブーめいた扱いを受けているような気がした。 そしてそれは確かにその通りであると認めざるを得ない物であることが解った。 それはまず『ループプロジェクト』の内容がわかる135ページ当たりから、非常に嫌な予感となって現れた。そしてそれは的中してしまった。 作者鈴木氏は前2作で積み上げてきた山村貞子なる恐るべきキャラクターが起こした一大カラミティを大胆にも解体し、箱庭の中に封じ込めてしまった。 そしてさらに馨がフォーコーナーズの研究所跡で体験する仮想空間「ループ」の件を読むに至って、さらに不安は増す。それはあって欲しくない予想だったが、果たしてその通りだった。 またこの『リング』シリーズを通して解ったこと、痛感したことがある。 やはりホラーというジャンルは恐怖の根源についてある程度の謎解きは許せても、全てを解明するとなんともまあ陳腐になるということだ。それはシリーズが続くにつれ『リング』>『らせん』>『ループ』とどんどん面白さが希薄になっていくからだ。 始まりは「ビデオを観た人が1週間以内に死ぬ」というシンプルな設定だった。しかし、シンプルだからこそ、物語の方向性はまっすぐであり、読者はその方向に登場人物と共に身を委ねて突き進めた。 しかしこの設定をどんどん理詰めで解明しようとしたのがまずかったように思う。恐らく作者は当初続編を書こうなんて気は毛頭無かったのではないか?それは『リング』前後に書いたこの作者の作品がファンタジー、ミステリと作品ごとにジャンルが違っている事からもわかる。 しかし世間は『リング』の面白さを受け入れ、あらゆるメディアに『リング』ブームは拡がる。そして『リング』を読んだ・観た者達は当然の如く続編を求めた。 そしてそれは出版社も恐らくそうだろう。この『リング』ブームを単発で終わらすには勿体無い、ブームを継続させるには続編が必要だ、それはファンも望んでいる、と。そしてこの作者は通常ならばこういうホラーの続編にありがちな手法、つまり限られた登場人物での出来事から、山村貞子を化け物として、大多数の人間を襲う、というような安直な方法を採らず、怪異の現象を科学的に解明しようとする方法を採ったのだ。 それはクローン技術同様、天に唾吐く行為だったのだと思う。確かに作者はかなりそれを実現させるために努力している。遺伝子工学、暗号学、物理学という理系学問に加え、アメリカの民間伝承にまでその思弁の手を伸ばしている。しかし、逆にそれがために作者自身が自縄自縛に陥る様を見ているように感じられた。 作中、主人公馨が仮想空間ループの中で繰り広げられる第1作『リング』の設定―ビデオが貞子の念写によって作られた―を観て、こんなことを溢す。 「よくできているけれども、いくつかの幼稚な設定が鏤められた映画を観ているような気分になってきた」 この件はどういう意味なんだろう? 今回の巻末に書かれた参考文献の膨大な量からして、当時『リング』を物した時とは比べようも無いほど、作家として成熟している。あの頃はなんと無邪気に小説を書いていたことかと省みているのだろうか? それともあんな幼稚な設定で始めた話がこんな話にまでなってしまった、俺はこんな続編を作りたかったわけじゃないんだと吐露しているのだろうか? 私は上に感想に述べたように後者のように思えてならないのだが。 また本作には2作目『らせん』に引き続き、またも『リング』そして今度は『らせん』の内容を要約するパートが出てくる。 『らせん』でも感じたが―あれは後でこの要約部が必要だった事が解るが―、これらがかなり詳細であり、同じ話を何度も読まされている気になり、退屈だった。私はこれらのシリーズを続けて読んでいるからかもしれず、実際このシリーズは刊行にインターバルがある(『リング』91年、『らせん』95年、『ループ』98年)ので、読者に対して―あるいは作者自身に関しても―おさらいの意味があったのかもしれないが、これは作品としてページ数の水増しにもとれ、どうも承服しかねる。 ただ今回モチーフとなっているガンに関して述べられている中で、面白いと思った部分がある。ガン細胞が不老不死である事は周知の事実であり、この細胞こそに不老不死のカギが隠されていると、云われている。しかし作者は作中である宗教家の戯言と一刀両断しており、代わりにこのガン細胞こそ実は人間が次の進化を行うために新たなる臓器を生み出すために生まれた物ではないかと述懐している。 作中でも述べられているが、生物の進化の歴史はそれこそ悠久の年月が費やされており、1000年単位どころか1万、10万、100万年単位がほとんどである。そしてたかだか人間の歴史という物のはそのうちのたった数千年に過ぎない。そしてガンと医学の闘いは21世紀の今においても根本的な解決は見られていない。普通、人間の身体を蝕むものに対して、戦い、打ち克つことを考えるが、この作者はこのガン細胞と共存し、次世代の人間が生まれるのではないかと想定する。 これは私自身、新しい視点であり、こういうところはなかなかユニークな事考えるなぁと思った。 作者は本作において作者なりの神話体系なる物を書きたかったのか? 最先端の科学の分野の知識を導入し、それを突き詰めていく先で辿り着くのはやはりこの世には人智を超えた存在による介入が無い事には今の進化はありえなかったという結論。そしてその人智を超えた存在までをも創造する事で一連の山村貞子が引き起こしたカラミティを豪腕で以って解決に導いた本作。しかし、上で述べたように、明るい場所で見るお化け屋敷ほど、陳腐な物はない。 お疲れさん、というくらいの感想しか浮かばないのが本音だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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タイトルどおり、生と死をテーマにした作品を集めた短編集・・・といいたいところだが、読後感はちょっと違う。
「紙おむつとレーサーレプリカ」と最後の「無明」は作者本人と思われる人物が主人公の私小説的作品。 神経衰弱に侵された妻と暮らす私は娘の誕生を機に勤めを辞め、主夫がてらスポーツジムのインストラクターのバイトと家庭教師のバイトをしていた。家庭教師先の生徒がこの頃サボるようになった。一緒に成績を上げるべく頑張ってき、実際テストの結果も徐々に上がってきたのだが、期待した通信簿は前と変わらぬ1の連続だったことに消沈したらしい。今日も生徒に会えずに、途中で買った紙おむつを後部に結びつけたレーサーレプリカのバイクで帰る道すがら、一台のセリカが幅寄せをしてきて、転倒してしまう。バイクは大破し、あわや命を失うかというほどの事故だったが、紙おむつがクッションになりかすり傷程度で助かる。遠くに停まったセリカの後部座席に家庭教師の生徒の姿があった。 「無明」はこの続きと云える作品だ。 娘の通っていた保育園の父母同士で毎年キャンプを行っていた。今回は一日遅れで参加することになったが、その場所が元幹事の会社の同僚が建てたログ・キャビンであり、仙丈ヶ岳の奥まったところにあるというだけのファックスが頼りだった。そこの山の霊気に触れることに思いを馳せる私は過去何度か訪れたこの地で経験した大自然、特に山が与える云い様の無い力について思い出していた。確たる自信がないまま、見当をつけた未舗装の道を車で行くうちに、私たち家族はとんでもない光景に出くわす。 ここで語られる勤めていた出版社を辞め、マグロ船に乗ったこと、主夫業に専念している事、ウェイトリフティングの大会に出るほどの体躯の持ち主など、ほとんど作家をする前の作者の姿と思える。家庭教師をやっていたのは本当だろうが、こういう事故があったのかどうかは定かではないが、どうにも本当のように思える。 しかし、同じく登山を経験し、途中、修験僧と出会い、滝にうたれたことなどを書いた「無明」も作者の体験したことなのだろうが、最後に出てくる誰かが死体を山中に処理しようとしてるところに出くわすというショッキングな体験は、この物語のためのものだろう。その恐怖についての描写はリアルさを感じるが。 しかし幕切れは強制的に連載終了されたマンガを思わせるほど、消化不良だ。 次の「乱れる呼吸」は集中治療室を舞台にした小品。 クモ膜下出血で病院へ搬送された妻は集中治療室にいた。その傍らで目が開くのを待つ私。そのとき人工呼吸器の調子がおかしいことに気付く。看護婦を呼んでみると首を傾げつつ、何度か機械を叩いたところ正常に直った。こんな機械に妻の命が委ねられているのかと驚愕しつつ、うとうとした私はまたもや人工呼吸器の調子がおかしいことに気付く。半ば怒りを伴いながら看護婦を呼びつけるとまたも同じ処置。機械を換えてくれと訴える私だったが、看護婦は涙を浮かべて、外に出るように促す。 これは実際にありそうな話。以前肺ガンで亡くなった患者の意思が乗り移ったかのように、人工呼吸器の動きが乱れる。常に生か死か、命のやり取りが行われている病院ではこういう不思議なことは案外あるのだろう。 「キー・ウェスト」は幻想小説。 交通事故で妻と長男を亡くした美術教師渥美達郎は娘と二人、ロスアンジェルスからニューヨークを長距離バスで横断する旅に出ていた。途中、手違いでスーツケースが紛失したのを機に、レンタカーを借りて、フロリダのキー・ウェストに一泊することにした。島を繋ぐハイウェイを通っている際、ある島が目に入る。既視感を感じた渥美はふとあの島に泳いで渡ろうと思いつく。トランクス一丁で島に渡った渥美は足元に得体の知れないおぞましさを感じつつ、島を散策すると、そこにはかつて人が住んでいたと思われる集落跡と不似合いな廃客車があった。 これは『楽園』で出てきた太平洋の島での話、それに加えて絡み合う二匹の海蛇をDNAの二重螺旋に喩える辺りは『らせん』で用いた表現で、こういう似たようなテーマ、モチーフが気にかかる。内容的には可もなく不可もなくといったところ。 「闇のむこう」は何気ない日常を突如襲う理不尽な悪戯をテーマにしている。 やっとの思いで手に入れたマンションに深沢良明と絵梨子夫婦は喜んでいた。しかしそんな生活も束の間、奇妙ないたずら電話が掛かってくることに。電話魔は絵梨子のことを知っているようで、その内容は酷い誹謗・中傷に満ちていた。妻に心当たりを問い質すが、皆目見当がつかない。しかしいたずら電話は毎日架かってき、絵梨子は精神的不安定から難聴を来たす。途方に暮れる夫婦だったが、ひょんなことから犯人の糸口が見つかる。 個人的にこれがベスト。こういう悪意あるいたずら電話が起こす非日常体験というのが誰もが経験する可能性があるだけに怖い。そして誰とも知らない人物が電話番号という個人情報を手に入れる方法としてあまりに普通の事なので逆に恐怖を駆り立てる。特にいたずら電話は自らも経験があるだけにドキドキしながら読んだ。 離婚したシングルマザー理英子が主人公の「抱擁」。 理英子は5日前に取引先の東京のアパレルメーカーの営業担当の藤村から誘いを受けていた。5日前はホテルに連れ込まれる寸前まで来たが、難聴の1歳の娘が気になり、断った。その週の土曜日に9時に電話すると行って別れた。果たして藤村は約束どおり電話してきた。清水市に住む理英子のためにわざわざ東京から車を飛ばしてきたらしい。理英子は藤村を家に上げることを承諾する。5日前の再開とばかりに親密な雰囲気に包まれるが、その時娘が泣き出した。なかなか寝ない娘をあやす間、藤村は自分が娘を突然死で亡くしたことを語りだす。 この結末の呆気なさはなんだろう。シングルマザーの情事を描くかと思えば、そうではなく、そこでは情事の相手が抱えるある闇が語られる。 人が死ぬ事、生き延びること、その違いとは一体何なのか?それについて語った作品集といいたいところだが、「闇のむこう」と「無明」はそのテーマから外れているだろう。 確かにこれらの作品でも死が扱われているが、それは副次的な物であり、主体ではない。いたずら電話の犯人のちっぽけな死。山奥に遺棄される誰とも知らない男の死体。そこに生死を分ける何かが語られているわけではない。 しかしあとがきを読むと、なんと父性と母性をテーマにしているあるではないか。しかしそれもなんだか腑に落ちない。 「キー・ウェスト」そして「無明」はその父性と母性については触れられていない。それらには危うく冥土に行きかけた男がこの世に引き寄せられたもの、山での霊的体験について語られており、それらは生死、魂などといった見えない力に関するものだからだ。結果、私の中ではなんとも統一性のない短編集だという感が残ってしまった。 ところで『仄暗い水の底から』以降の作品に見られるテーマの重複が異様に気になる。南の孤島、洞窟、DNA、マグロ船などがそうだ。確かに同じテーマを扱うのはいいが、その再利用の仕方が、初めて使った作品をなぞるかの如く似通っているのが気になる。つまり同じ話を主人公と結末を変えて語っているだけのような気がする。そしてそれは逆に作者の懐の浅さを露呈している。もしかして昨今のこの作者の活躍を聞かないのはこういうところにあるのではないだろうか。 4作目にして翳りが見えてき、5作目の本書でもそれが拭えない。もっと書ける作家だと思ったのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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大ヒットホラー『リング』の続編である。これも映画化されたので云わずもがなではあるが。
『リング』で想像された山村貞子という忌まわしき存在。『リング』では超能力者の怨念に現代ツールであるビデオテープを組合し、全く新しいホラー小説を生み出した。これこそ日本におけるモダンホラーの幕開けだとその時の感想に書いた。 そしてその続編である本書では、山村貞子というウィルスの存在を遺伝子工学を中心に、あらゆる見地から解き明かし、更なる深化を目指している。 だからといって山村貞子が増殖するというメカニズムを詳らかにし、それを糸口として山村貞子の殲滅が成就する、といった構成になっていないところが面白い。むしろそのメカニズムが解ってからこそ、真の恐怖が生まれる趣向になっている。 特に興味深いのが、科学の最先端分野である遺伝子工学が、いまだ五里霧中の最中で手探り状態であることが本書を読むと解ってくる。特に生命の根源を突き詰めていけば、禅問答のように無限のクエスションが生まれていき、ロジックの深淵へと入り込んでいくのがよく解る。例えば「見る」という行為に対して、このメカニズムを突き詰めていくと 「人間は見る」→「なぜ?」→「目があるから」→「なぜ目があると見えるのか」→「目には角膜と瞳孔があり、それで物体を投射できるから」→「なぜ投射できると見えるのか」→「それを像として脳に認識させる視神経があるから」→「なぜ視神経と脳は繋がっているのか?なぜ角膜と瞳孔という物があるのか」→「・・・」 といった具合である。 つまり目のない生物と目のある生物との境、そして目を構成する複雑な組織がどういう進化の過程で、細胞から変異したのかについてはまだ解っていない。そして(本書が出版された1995年当時の)現在では、それは“心”が作用している、つまりそれを望む「意志」の力が影響していると述べられている。その例としてストレスで胃に穴が空くという話が出てくるが、なるほどと思った。この辺の話は非常に興味深く読んだが、あまり長く書くと感想を大きく逸脱するのでここいらで止めよう。 あと本作では暗号が都合2回出てくる。これが実に凝った暗号で、最初の暗号はさしたる頭脳労働はなかったものの、2回目の暗号はかなり本格的。読んでいる途中で投げ出してしまった。幸いにもどうにか理解は出来たが、遺伝子情報を暗号に見立てるそのアイデアからして、やはりこの鈴木光司という作家は単なる物書きに終始していないことがよく解る。 そしてこの作家の最も大胆なところは、本作が実は世に興った『リング』ブームのパロディであることだ。自身が生み出した『リング』という作品が各メディアにて映画、ドラマ、CDブック、コミックへと色んなメディアへ文字通り“増殖”していく過程をそのまま山村貞子が人類社会へ増殖していく現象へと擬えているのが非常に面白い。 ある箱根の保養施設で偶然写りこんだ奇妙な名も無いビデオテープから、それを観た者が1週間、自分の命を救うために奔走した体験記へ、そしてそれが死後、遺族の手を借りて『リング』という名の小説となり、人類へと蔓延る、正に作者独自の大いなる皮肉である。なんとも大胆不敵だ。 しかし今回はいささか大風呂敷を広げすぎた感は否めない。次作『ループ』がどのような話になるのか、非常に不安である。 最後に本書が出版された95年という年に注目したい。実はこの年、日本ホラー小説大賞が初の受賞作を生み出している。それは『パラサイト・イヴ』。ご存知のようにこれも遺伝子を扱ったモダンホラーである。そしてこの作品も日本に“理系ホラー”を生み出すきっかけとなった。この年がそういう転換期であったと今になって思える。 そういえばこの前に読んだ本、篠田節子氏の『絹の変容』も遺伝子操作を扱ったパニック・ホラーだった。これは91年の作品だった。そして本書の前作『リング』はなんと91年出版である。 当方としてみれば単純に本棚の積読本の山から順番どおりに未読本を抜き取っているに過ぎない。単なる偶然だろうが、読書を続けると、なぜかこういう云い様の無い大きな流れというのを感じてしまう。確かにこの世にはこういう説明のつかない事がまだあり、それがあるからこそ、こういうホラーも成り立つのだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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篠田節子デビュー作。たった200ページにも満たないパニック小説であるが、中身は薄っぺらな物ではなく、仕上がりも堅実である。
一枚の絹織物から、その繭を作る蚕の養殖、そしてほんの小さな過ちから派生するパニックが、絹織物、養蚕、バイオテクノロジーの専門知識を読者の興味を損なわない程度に付け加えながら、必然性を持って発生するプロセスを淡々と描いていく。 特に蚕がどんどん怪物化していく過程は例えば、よくある怪物小説で放射線が当たって遺伝子に異常が起きた、特殊な薬品・ガスがこぼれて、それを吸ったがために進化した、などと理由にならない理由をつけて突然変異させる物が多い中、この小説では芳乃の独創的な改良手法を逐一述べることで読者に怪物が出来ていく様を知らせていくところが、非常に好ましい。蚕の糸が蛋白質で出来ていることから、餌を桑の葉から鶏肉に、そして豚の血を混ぜた餌を食べさせるなんて発想には驚いた。 そして登場人物も三人と非常に少ないのがこの本の特徴。これは映画『ザ・フライ』を思わせる。 虹のような光彩を放つ絹に魅せられ、それにかつての夢を賭けようとする主人公長谷康貴は、包帯工場の若旦那であり、また整った風貌から遊び人のように見られ、事実、そのような自堕落な生活を送っていた人物。とにかく包帯工場を継ぐのがいやで、何か華やかな仕事を始めたいと友人に持ちかけるが、その飽きっぽい性格ゆえ、一つとして物にならないまま、30手前まで来ているというよくある現代の若者の1人とも云える。 確かにこの康貴の考えはとても社会人であるとは思えないほど甘い。夢はでかいがそれを実現するために何をしなければならないかが全くわかっていない男である。 そして康貴の持ち込んだ絹織物に同様に魅せられ、閑職で燻っていた研究心を再燃する有田芳乃。とはいえ、この女性は専門に特化した女性として描かれ、人間味を感じさせない人物となっている。 しかし、それは自身の仕事に対するプライドの高さゆえと、それが及ぼす影響力を肌身で知っているからこその態度・姿勢であり、これをおぼっちゃんである康貴の甘さとの対比でそれが際立っているに過ぎないことが解ってくる。 そして康貴の持ち込んだ絹織物に新しい商売の匂いを嗅ぎつけ、金銭面と商業面で協力する大野。通常ならばこういう人物は金の亡者のような描き方をされるが、本作ではそうではなく、社会人である私の眼から見れば、真っ当な経営者である。 投資するに見合うだけのビジネスチャンスがあるかを算段し、それを成功させるためには金を惜しまない。ビジネスを世に公開すべきタイミングを嗅ぎ分ける嗅覚、そして不測の事態に対する迅速な処理も非常にそつが無い。もしこの本を学生のころに読んでいたらこの大野という人物に嫌悪を感じていたかもしれないが、社会人も10年を過ぎた今となっては、大野が非常にバランスの取れた経営者だと認められる。 特に育てた蚕が人体に悪影響を及ぼすことを妻の死で知った康貴が、何もしてやれなかった妻への罪滅ぼしというその感傷的な理由から事業の撤退を大野に告げた際の大野の反論は至極最もであり、康貴という人物の甘さに腹が立つくらいだった。 品種改良した蚕が人間を襲うパニック小説。それを発端から結末まできちんと描いているにもかかわらずコンパクトに纏め、総ページ200ページ弱と非常に薄い本書だが、やはり新人の若書きという感じがしないでもない。 確かに200ページで済むような内容を、色々贅肉を施して倍、もしくはそれ以上の分量にしたりして冗長を感じさせるのも困るが、あまりにあっさりしすぎるのも物足りない。 特に今回思ったのはその展開の速さである。シナリオを読んでいるかのごとく物語はとんとんと進み、時間経過も5年もの月日が流れているとは思えないほど早い。やはり小説には外連味や人物に厚みを持たせるエピソード、つまり味わいが必要である。そこに読者の心情は移り、共感や嫌悪感を得るのである。 特に本書では、やはり芳乃と康貴との心の揺れ、康貴と父親との確執についてもっと掘り下げて欲しかった。康貴が父親から栗林を譲り受けるシーンは親子の確執があるにしてはあっさりとしすぎだ。 まあ、後に直木賞を受賞する作家であるから、これからの小説にはその小説の旨みというのが加わるのだろう。 最後に1つ。タイトルはもう少しどうにかならなかったのだろうか? 品種改良され、化け物と化した蚕という意味でつけた題名だろうが、『絹の変容』という言葉からはとてもそんな内容は想起できない。呉服屋を舞台にした恋愛小説や群像小説のような感じがする。もう少し、熟考したらよかったと思うのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリーズ4作目での趣向はトライアル&エラー、つまり複数の推理による事件の解決である。つまり今回、エラリーは一度誤った推理を犯し、二度目は父親である警視の推理に出し抜かれ、三度目にしてようやく真相に辿り着く。
この趣向を行うために作者は時代を遡り、エラリー最初の事件としている。そしてその趣向のため自然ページ数も最大となってきている。つまりそれほどこの作品には自信があるということだ。 で、その自信作はというと、いやあ、確かに素晴らしい出来映え。またもやものの見事に騙された。今回は真に完敗である 正直に云えば、犯人が明かされたとき、驚きよりも懐疑が勝っていた。この真相はちょっと狙いすぎだろうと。しかし40ページに渡って繰り広げられるエラリーの推理を読んで、その心境は喝采に変わった。実に素晴らしいどんでん返しだと。正にこれはクイーンがこれだけのページを費やすに値する自信作だ。 本書における真犯人は第4の犯人であるが、読者への挑戦は第3の犯人が提示される前に挿入されている。この第3の犯人を立証する論理が非常に穴だらけで、何だ、これは?とこぼしてしまったが、それを洗い流すだけのカタルシスが最後に得られた。 しかし、本書において1つだけ腑に落ちない論理がある。それは第1段階の推理で判明する被害者の従弟が色盲であるという事実を証明するシーンだ。 その従弟は緑が赤に見え、赤が緑に見えるという。これがちょっとおかしい。本書ではこの色盲を部分的色盲と述べているが、例えば赤が緑に見えるのは解るにしてもその逆が成り立つかどうか甚だ疑問である。 そしてこの推理にはもう1つの解釈が出来る。このギリシアから呼ばれた従弟は白痴であり、それゆえに単語を覚える段階で「赤」を「緑」と覚え、「緑」を「赤」と間違って覚えたという解釈だ。こっちの方が理論的にすっきりすると思うのだが。 あと事件の発端ともいうべき、紛失した遺言書をいかに盗んだかについて何ら解明されていない事だ。誰かが盗んだのは出てくるにしても、執事がうたた寝しながらも金庫の前に鎮座していたという状況下でどのように盗んだのか興味があったのだが、結局それについては流されてしまった。事件の捜査が進むに連れ、この無くなった遺言書についてはそれほど重要視されなくなったのも気になった。 あとタイプライターについての推理は、読者、特に日本の読者には推理しようにも出来ない代物だ。どこのタイプライターか、特定する材料として£(英国ポンド)のキーがある珍しいタイプという述懐があるが、解明の糸口となる電報の件でもポンドはカタカナ表記だし、これは正に騙し打ちの感がある。まあこれは海外ミステリの抱える一種の業のようなものだから仕方ないか。 また、この時代を遡るという設定は今までの作品と違って、エラリーの理解者である父親のクイーン警視や地方検事のサンプトンらが、エラリーの存在を疎ましく思っている効果を生み出し、それが面白い。とはいえ、他の名探偵物に比べるとやはり警視の息子ということで特別扱いをされている感は否めない。 明らかに捜査の邪魔となるエラリーの気紛れな所作は、激昂の上、退場を命ぜられてもおかしくないものばかりだし、また大学出たてのくせに周囲の大人にタメ口をきく無礼さ―まあ、これは翻訳の綾かもしれないが―も寛容に受け止められている風がある。 それ以外に、時代性を感じさせる表現があったので、ここに書きとめておこう。 書中でおやっと思ったのは事件のキー・パーソンとなっているハルキス氏の秘書ジョアン・ブレット女史が自分の年齢が22で、結婚年齢が過ぎたと述べていること。これは早すぎではないか?というより、この1930年代とはそういう風潮だったのか?今の日本の結婚適齢期を考えると、ものすごい隔世の感がある。 そしてエラリーは明らかにこのジョアン女史に色目を使っている。ちゃらちゃらしてますね、彼。そして初対面時のくどき文句がすごい。 「僕が、あなたについて、たとえ予備知識をもっていなかったとしても、僕の循環組織が、それを教えてくれるとは、お考えになりませんか」 つまり、要約すると、「貴女の事について、何も知らなかったとしても、いきなり胸がドキドキしたってこと、解ります?」ってことなんだろう。これをわざわざ回りくどい表現を使うクイーン。まあ、大学ぽっと出の、頭でっかちな時にしか浮かばないセリフだな。 今回は密室状況下での殺人とかダイイング・メッセージとか、衆人環視での殺人、人物消失などといった不可能趣味というよりも色々出てくる事実に辻褄が合う1つのストーリーはこれだ!といった類いのミステリだったので、決定的な証拠があるわけでもなく、読者への挑戦まで堅牢な自分の推理というのが持てなかったのが、悔しい。が、やはりこれほどまでにロジックに彩られたミステリはやはり面白いものだ。 そして最後の中島河太郎氏によって明かされる本書に隠された趣向もまた素晴らしい!いやあ、やるねぇ、クイーン! ▼以下、ネタバレ感想 |
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ユーロポール心理分析官クローディーン・カーター・シリーズ3作目。今回は小児性愛者グループによる幼児誘拐を扱っている。
そして本作では犯人グループがたまたま誘拐したのが将来の大統領候補とも云われるベルギー駐在アメリカ大使の娘であるところがミソ。あえてその娘をテロ行為として誘拐したのではないところがフリーマントルらしい味付けだ。 今回クローディーン・カーターのライヴァルとして設定されているのがFBI人質交渉主任のジョン・ノリス。登場シーンから彼がいかなる凄腕の交渉人であり、しかも変人であるかが雄弁に語られるのだが、ここにフリーマントルの作家としてのあざといまでのテクニックが見られる。 実際語られるノリスの交渉はクローディーンがプロファイルするように自分が偉大な人間だと妄信する単なる勘違い男に過ぎないのだが、フリーマントルはクローディーンと邂逅させるまでに彼が実に切れ者の交渉人であるかをCIA、FBIのスタッフその他と会見させる事で述べる。しかしそれらのやり取りは直裁に語られず、会見後に零す彼らの、例えば「あのくそ野郎は現実の人間なのか」といったコメントによって人物像を形成させられているに過ぎない。つまりこのノリスを強敵と見せ、それをクローディーンに論破させることでフリーマントルはクローディーンの有能さを読者に刷り込もうとしているのが解る。こういう職人的テクニックが最近は頂けないと思うのだ。 特にジョン・ノリスが初めてクローディーンと論争をする際にあからさまに対抗されることに慣れていないという描写があって、あれっ?と私は思ってしまった。人質交渉主任として凄腕ならば数々の事件の修羅場を経験しており、その中には一切、人の話を聞かないでゴリ押しする犯罪者もいたはずである。そういう輩も相手にしてきているわけだから、こういうあからさまな抵抗を受ける事に慣れていないというのはおかしいではないか? そしてこのノリスは結局自らを追い詰める形で途中退場してしまうのだが、この辺どうも消化不足だなぁと思ってしまった。 また前作ではクローディーン、フォルカー、ロセッティといった多国籍エキスパートチームが少数精鋭で活躍している痛快さがあったが、本作ではアメリカ大使の娘の誘拐という事で、事件の起こったベルギーの警察のみならずフリーマントル作品ではおなじみのFBI・CIAそしてユーロポールの混合チームとなって捜査に当るところが特徴的だ。 というよりもこれによりユーロポールという新進気鋭の組織の特徴が減じられ、特に事件の責任所掌において各要人が自らの保身のために腐心する様子は正にチャーリー・マフィン・シリーズとなんら色が変わらなくなってしまったような気がした。 そしてクローディーンのチームにも変化が訪れる。前作まで無敵のトライアングルを形成していたこの3人に綻びが生じる。それは新たにパートナーになったピーター・ブレークなるイギリスの元スパイの存在。彼の抱えるトラウマが、クローディーンに彼を身近な存在に感じさせたのは間違いない。 また植物人間と化した妻の復活を待つロセッティにクローディーンが疲れを感じていたのも二人の接近を許す事になってしまった。今後これら三角関係がどのようになるのかを匂わせて物語は閉じられる。 前作でもあったが、本作でもクローディーンは自らのプロファイリングに絶大なる自信を持ち、捜査を推し進める。それは自らの正しさを信じることで捜査を確実な方向に導かなければならないというプレッシャーの裏返しでもある。さらにその有能さゆえに自らが抱える孤独に苛まれる。 敵に勝つために自信の鎧を身につけ、それゆえに誰もが不可侵である存在感をも身にまとってしまうことの寂しさ。有能な人間ほど自らの幸福に縁遠くなってしまう。現代の女性の抱える問題をクローディーンは具現化しているようだ。 最後にもう1つ。本作は1998年の作品となっている。捜査ではインターネット、Eメール、携帯電話も登場し、それらの逆探知も行われているが、ドラマ『24』を観た者にとっては時代遅れの感は否めない。なぜにこれほど逆探知に時間が取られるのか、Eメールの発信元探知の遅さ、そしてそれらに対して敵側が何らかのファイアウォールも設定していない事など時代錯誤感を感じた。 10年前の作品だが、やっている事はそれ以上の月日が経っているように感じてしまった。これもハイテク捜査を扱う作品の哀しい宿命を感じずにはいられない。 |
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