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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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トゥローの作品は一貫して架空の都市キンドル郡を舞台にリーガル・サスペンス作品を紡いできた。従ってシリーズの登場人物たちはそれぞれの作品に顔を出し、関連性があった。
しかし本書のように再び同じ主人公が危難に陥る作品は初めてだ。本書はトゥローのデビュー作『推定無罪』の正真正銘の続編である。 21年前のサビッチが危難に陥ったスキャンダラスな事件は愛人の死を巡っての裁判でその時、サビッチは一度地に落ちたが、21年後は首席判事となり、最高裁判官の候補にまで上りつめている。 そしてこの21年後の今彼が直面したのは妻の死。しかしそれは検死の結果、自殺と判定されたが、過去の事件にあまりにも似通った状況からかつて敵として戦った検事側のトミー・モルトが再び相見えることになる。 しかしサビッチにとって最も致命的なのは元調査官アンナとの不倫関係。またもや21年前と同様の状況に陥っているのだ。 つまり前作と本作は表裏一体の体を成しているのだ。 首席判事まで上り詰め、最高裁の判事候補になろうとする男がなぜこうも女性問題で身を滅ぼそうとするのか。しかも21年前と違い、彼は60歳。21年前の39歳ならば、まああり得る話だが、もはや還暦の域に達した男が陥るスキャンダルではないだろう。サビッチはとことん女性にだらしないダメ男ぶりを今回も発揮する。 一方のアンナは34歳になりながら、バツイチの独身女性。男性遍歴は豊富だが、これまで長く続いたことはなく、22歳で結婚し、72日間の結婚生活を過ごしたに過ぎない。なぜか衝動的に落ちてはならぬ恋に落ちてしまう女性なのだ。 このアンナも社会的に高い地位を持ちながら、なぜ色恋沙汰にはだらしないのか。それはアンナ自身が次のように述懐する。 恋とは至高のものなのだ、愛が絡むとたしなみも分別も全て振り払うことが出来る、と。 好きになったら止められない、それがアンナという女性の本質らしい。 いやアンナを受け入れたラスティ・サビッチもまた衝動的に行動する人物だと云えるだろう。 男の女の恋情の機微。親と子が同じ一人の女性を愛する。偶然が招いたとはいえ、それがまた男と女の色恋沙汰の滑稽なところだ。 ロー・スクールを卒業して法律に携わる高潔な職業に就く者たちでも、こと恋愛に限ってはただの男と女に過ぎない。 いや寧ろ人を裁くという重圧とそれに掛かる膨大な資料と証言を相手に裁判に向けて下調べをしなければならない過酷な職業による我々の想像以上のストレスによってそれを発散するために愚かだと思いながらも愛欲に溺れ、浮世の辛さを忘れたがっているのかもしれない。 本書の面白さはミステリの妙味よりもそんなどうしようもない衝動に駆られる高等階級の人間たちのおかしさにあるのだろう。 また本書はトミーとサビッチという2人の男が歩んできた人生の光と影の物語と云えるだろう。 ロースクールの同級生でありながら、常にサビッチの後塵を拝してきたトミーはその風貌も相まって自信の無さが特徴で、逆にそれを長所に検事局のトップまで登り詰めた来た男だ。21年前、満を持して起訴に持ち込んだサビッチを、法廷の魔術師と称される弁護士サンディ・スターンによってことごとく反証され、打ち砕かれてからは特に用心深くなり、本書においても意気揚々の部下ジム・ブランドとは対照的に常に消極的な立場をとる。 しかし起訴してからは彼はそれまで携わってきた公判の中でもベストのパフォーマンスを出す。常に2番手に甘んじていた屈辱を晴らさんが如く。 このトミー・モルトを単純にコンプレックスの塊のような男とみなしてはならないだろう。 誰もが上昇志向を持っている法曹界というエリート中のエリートが集う業界で燻らせていた自尊心を回復するための、いわば己との戦いなのだ。私はこのトミーの心情に本書の妙味を感じた。 かつての雪辱を晴らさんとする男と男の矜持。そしていくつになっても愛を求める男と女の情念。 一つの事件を巡ってトゥローはそれらを訥々と綴っていく。 そしてトゥローの小説を読むと法廷は最上の劇場だと思い知らされる。 検事側が優位に立ったと思えば、翌日は弁護側が攻勢に出る。一つ一つの言葉に複数の意味を持たせ、一挙手一投足に百の言葉以上の含意を持たせる。 さらに双方の戦術によって無罪と有罪の天秤は激しく傾く。 特に今回は死者となったサビッチの妻バーバラの存在感がものすごく濃厚なのである。“死せる孔明、生ける仲達を走らす”とばかりにバーバラが仕組んだ数々の時限装置に被告人であるサビッチはもとより、弁護士、検事、判事らが奔走させられる。 人はそれぞれ秘密を持つ。それは家族であっても同じだ。 そして事件が起き、裁判という場が開かれ、四方八方から捜査のメスが入っても決して知られてはならない秘密は暴かれることはない。なぜならもはや裁判が真相を証明して正義を見せる場ではなく、一番納得のいくストーリーを仕上げて正義と見せる場となっているからだ。だから物事は常に歪められて解釈される。 ラスティ・サビッチ、バーバラ・サビッチ、ナット・サビッチ、アンナ・ヴォスティック、トミー・モルト、ジム・ブランド、サンディ・スターン。彼ら彼女らが知ったことは決して真実ではない。 彼ら彼女らは何を知り、また知らずに生きていくのか。そして今後知る機会があるのか。恐らくそれぞれが墓場で持っていかねばならないことだろう。だがそれでも我々はいくつになっても愚かなことをしてしまう。そしてそれこそが人生なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アンソロジストとしても名高いエラリー・クイーンが犯罪に纏わる女性が登場するミステリを集めたアンソロジーが本書。女性探偵物に女性犯罪者の短編がカテゴリー別に集められている。
まず「女性の名探偵―アメリカ編―」の劈頭を飾るのはミニヨン・エバハートの女性ミステリ作家兼探偵のスーザン・デアが活躍する1編「スパイダー」だ。 怪しげで決して仲が良いとは云えない老女たちがもたらす暗鬱な雰囲気の中に部外者のスーザンが放り込まれ、事件が起きる。そして神経症の発作を起こした依頼人のスーザンはマリーが他の部屋で話していたのだと思えば、実は自分の部屋にいたというドッペルゲンガーを髣髴させる奇妙な体験をする。 実に古式ゆかしいゴシック風のミステリだが真相はなかなかトリッキー。 幻想的な謎とその合理的解決と黄金期ミステリそのものと云えよう。 次は昨年クレイグ・ライスとの合作が訳出されたスチュアート・パーマーの女教師兼探偵のヒルデガード・ウィザーズが登場する「緑の氷(グリーン・アイス)」は宝石を盗み出した強盗をウィザーズとその相棒のオスカー・パイパー警部が追う話だ。 警察の無線を傍受して事件の捜査に無理矢理介入するのがヒルデガード・ウィザーズの探偵スタイル。つまり相棒の警部オスカー・パイパーにとって捜査の邪魔をする目の上のタンコブという設定だ。 本作の事件は行方の知れない宝石泥棒を捕まえるというものだが、ミステリとしては凡作かと。 ポール・ギャリコの生み出した女性探偵サリー・ホームズ・レインはその名前から「シャーロック」の愛称で呼ばれている女性新聞記者で、編集者のアイラ・クラークと結婚している。「単独取材」では農場で宝探しごっこをしていた少年たちが農場主の夫人に散弾銃で襲撃されるという事件をサリーが潜入取材して調べるという物。 衝撃的な真相に未だに身震いしそうになる。21世紀の現代でもこの結末には戦慄を覚える事だろう。 1作目のミニヨン・エバハートと共に<HIBK“もしも知ってさえいたら”>派の代表としてベストセラー作家だったメアリ・ロバーツ・ラインハートによる女探偵ルイーズ・ベアリングが登場する「棒口紅」は精神科医に通っていた妻が突然自殺した奇妙な事件の物語。 夫婦生活の秘訣は適度な距離感だと云う事を改めて知った次第だ。 「撮影所の殺人」のカール・デッツァーは今では全く知られていない作家だが、彼の創作した女性探偵ローズ・グレアムは映画会社の監督助手という特殊な職業に就いている。 監督助手とは撮影中断されたシーンが再開される際に繋がれるシーンと食い違いがないかを確認する役目を担う。つまり観察力が要求される職業で、まさに探偵役にうってつけの役割と云えよう。 真相はいささか肩透かし気味だが、映画監督助手の探偵という設定はなかなかに面白い。 短編のみアンソロジーに収録され紹介されており、まとまった短編集はまだ編まれていないマーガレット・マナーズは先のカール・デッツァー同様に森英俊氏の労作『世界ミステリ作家事典』にも収録されていない作家だ。その彼女のシリーズ探偵スクウィーキー・メドウが登場するのが「スクウィーキー最初の事件」だ。 色々な何気ない伏線が最後の真相に結びつく点、そして取り調べを重ねるうちに人物像が反転する価値観の逆転が起こる点はミステリとしては及第点だが、昔のミステリにありがちな捜査の部外者が堂々と事件現場に立ち入って素手で色々と物色する描写を読むと、解ってはいるが何とも現実感の無さに辟易してしまうし、何しろスクウィーキーの傍若無人ぶりが好きになれなかった。 1作目でいきなり殺人課の刑事と友人と云う設定も都合よすぎか。今では忘れられた作家であるのも解る気がする。 ハルバート・フットナーのマダム・ロージカ・ストーリーが活躍する「ジゴロの王」は本書では86ページと最も長い1編だ。 観光地に巣食う金持ちのマダム達をターゲットにしたジゴロたちの犯罪グループを壊滅するという、それまでの女性探偵が関わる事件よりもスケールの大きな犯罪に挑むマダム・ロージカ・ストーリーは金持ちのマダムでありながら、犯罪者たちの陥穽を見極め、また犯罪者たちを目の前にしても動じない肝の据わった女性で、犯人の脅迫にも屈しない。現代女性もこの女性の強さには憧れを持つのではないか。 事件はマダム・ストーリーが自らを囮となって組織犯罪のからくりを暴こうとするもので、書物を使った暗号のやり取り等、クライム小説のような展開を見せながらも最後に明かされるグループの元締めの正体でサプライズを仕掛けるなど、なかなかに凝った作品で、最も分量の多い作品だが、決して冗長ではなく、起伏に富んだ展開で読ませる。 この作家の作品、いやマダム・ストーリーシリーズをもっと読みたい気にさせてくれた。 これまた今では知られていないフレデリック・アーノルド・クンマーの「ダイヤを切るにはダイヤで」ではエリナー・ヴァンスというどこかで聞いたような名前の女性探偵が登場する。 冤罪を晴らすために容疑者に探偵が接近するのではなく、冤罪を掛けられた関係者を近づかせて逆に罠を仕掛けてぼろを出させるという解決方法が珍しい。 最後の最後でタイトルの意味が解るのもなかなかだ。 シャーロッキアンとして有名らしいヴィンセント・スカーレットの女性探偵サリー・カーディフが登場する「オペラ座の殺人」は文字通りオペラ公演中に起きた殺人事件の謎を探る作品だ。 公演中の劇場で起きる衆人環視の中での殺人事件はクイーンやカーも扱った題材で謎としては魅力的なのだが、その魅力的な謎に比肩する魅力的な真相になかなか出会えないというのが実情だ(そういう意味では『ローマ帽子の謎』はかなり意外な佳作と云える)。ヴィンセント・スカーレットの本作も演劇の出演者が犯人だという意外性は買えるものの、謎解きの内容を読むとやはり無理を感じざるを得ない。 また探偵役のサリー・カーディフもいわゆる美人で聡明と云う男の願望を具現化したようなキャラクターでこれと云った特徴がないのが残念だ。この作家の作品の訳出が進まないのももしかしたら探偵役に魅力的な特徴がない故かと勘繰ってしまった。 クイーンの紹介文によれば恐らくこの作品が唯一の作品となるらしい。ヴァイオラ・ブラザーズ・ショアなる作家による女性探偵グウィン・リースが活躍する「マッケンジー事件」は39ページの分量ながらも実に起伏に富んだ展開を見せる。 この作品は実によく出来たミステリだ。 H・H・ホームズはアンソニー・バウチャーの筆名だが、本作「フットボール試合」は原稿用紙から印刷された出来立てホヤホヤの作品とのこと。 フットボールの試合に勝つために容疑に掛けられているフットボールの花形選手を釈放させるためにその付添いのかつての名選手が嘘の証言をすると云うのがいかにも熱狂的なフットボールファンの多いアメリカらしい。かなり強引な展開なのに何故か納得してしまう。 しかしながら犯人の手掛かりが賭博師の手にしたゲームの負けカードの数字に隠されていたというダイイング・メッセージを使いたかっただけの物語で、ダイイング・メッセージ好きのクイーンには大いに受けただろうが、トリックありきの作品になったのは非常に残念だ。 さてここからは第2部「女性の名探偵―イギリス編―」。先陣を切るのはギルバート・フランカウの「サントロぺの悲劇」は船上で起きた事件を探偵キラ・ソクラテスコが捜査にあたる。 本書が特徴的なのは探偵が推理を間違え、ワトスン役によって過ちを犯すところを救われるという異色の結末を迎えるところだ。 ただ何となく物語が上滑りな感じがするのが残念だ。 翻って次のF・テニスン・ジェスの「ロトの妻」は実に濃厚。 この作品の探偵ソランジュ・フォンテーヌの造形が見事。悪を予感する霊的能力を持っている女性と作者は述べているが、このようないわゆる感受性の強い女性なのだが、このような設定はえてして実に都合のいい能力と捉えがちだが、作者はソランジュを通じて彼女の接する人物を実に精緻に描いていく。 つまり人物分析を詳しく書くことで真相が明かされた時のサプライズが実に効果的に生きているのだ。 特に渦中の人物アンガスの描写が印象的だ。印象は実に善良に感じるのだが、心底そうではなく、また邪悪かと疑えば、それもまた違う。 新しい恋に目覚めた男が離婚に同意しない妻の呪縛を解き放つという表向きのストーリーが整然であるがゆえに、その裏に隠されたストーリーの陰鬱さが際立つ傑作だ。 この霊感が強いソランジュ・フォンテーヌという女性探偵は使い方によっては万能すぎて読者は鼻白んでしまうが、本作はその特徴が見事に融合して成功している。 17ページという短い分量のグラディス・ミッチェルの「百匹の猫の事件」は女性探偵ミス・ブラッドレーが周期的な記憶喪失に悩まされる患者にあうことになる。 正直この前に読んだ「ロトの妻」が鮮烈すぎてこの作品の印象はその分量と同様とても、薄い。 ヴァレンタインの「銀行をゆすった男」はハリウッド映画にもなりそうな個性豊かな探偵チームが登場する。 実に面白い。 資金は潤沢にあるために報酬は不要とする<調整者>たち。その名の由来は「犯罪者と被害者の間にある不公平を調整するため」に存在しているからだ。この<調整者>たちは10代の娘しか見えない愛らしいダフネ・レインを中心に運動万能の伯爵の1人息子、探検家、演出家、刑事弁護士というメンバーで構成されており、悪を正すために有罪を証明するのが困難な犯罪者に立ち向かい、作戦を立てて悪を懲らしめるのだ。 う~ん、この明快さが何とも気持ちがいい。映画化するに相応しい題材だ。こんな作品が1929年に書かれていたことが驚きだ。 ファーガス・ヒュームの想像した女性探偵ヘイガー・スタンレーは質屋を営んでいるという変わり者だ。「フィレンツェ版の珍本」は彼女の店に持ち込まれたダンテの<神曲>の第2版を巡る物語だ。 100ポンドもの高価な本に隠された伯父の財産の在処が隠されているという魅力的な謎の真相が小学生の時に私がマンガで読んだ手法だったのに脱力した。 ステーシー・オーモニアの「恐怖の一夜」は寺院町イージングストークのミス・ブレースガードルが南アメリカから帰郷する妹を迎えに行った宿泊先のホテルの部屋にいつの間にか見知らぬ男性が寝ているという状況に出くわす。 貞淑なミス・ブレースガードルは男と一つの部屋にいることに恐怖を覚え、どうにかこの状況を脱しようとするが、やがてこの男性が死体であることに気付く。 正直この作品はこれだけの話である。 イングランドの外にも出たことがなく、男性との付き合いもしたことのない箱入り娘が出くわす見知らぬ男が部屋にいるというシチュエーションに戸惑い、最悪の状況を想定する動揺ぶりが細かく綴られるだけである。つまり世間ずれしていない女性にとっては見知らぬ男と一緒にいる事自体が一夜の冒険だというのがこの物語のテーマなのだろう。 さて第2部を締めくくるのは二大巨匠の手による作品。ガストン・ルルーの女性探偵レディ・モリーの「インヴァネス・ケープの男」とアガサ・クリスティーのミス・マープルが登場する「村の殺人」だ。 前者はある人物の失踪事件を扱った物。 しかしこのトリックが商店街を荒らし回る方法として有効なのかよく解らない。 一方後者の方はさすがの逸品といった作品だ。 片田舎で起きた一人の夫人の死。しかし平穏な村ではその事件でパニックに陥ることなく、牧歌的な雰囲気で物語は進行する。小さな村では村人は皆家族のような物であり、当然ながら被害者の過去も知っている。昔女中として勤めた屋敷で盗難事件が起きたことなど。そんなゆったりとした時間の中でミス・マープルによって明かされる事件の真相は穏やかな村に潜むどんよりとした悪意を読者に知らしめてくれる。 やはりクリスティーの物語は深い。 次の第3部「女性の大犯罪者―アメリカ編」では2編紹介されている。ジョン・ケンドリク・バングズによるパロディ、ラッフルズの妻が主人公の「鉄鋼証券のからくり」とフレデリック・アーヴィング・アンダソンの「贋札」だ。 前者はミセス・ラッフルズの所有する時価10万ドルの鉄鋼証券を担保に150万ドルをせしめる詐欺の一部始終が語られる。 これは古き良きアメリカだからこそ実行可能な詐欺だ。 何とも原始的だが、交通網が発達していない当時ならば有効な手だったのだろう。 後者は最後の最後まで女性犯罪者の正体が判明しないという特殊な作品。 紹介文にあるようにこの作品で語られる犯罪が明かされるのは物語の最後でそれまでは何が起こっているのか読者には解らない。 何が事件なのか解らぬまま、その裏に事件の翳が隠されているという趣向は当時かなり斬新だったのではないだろうか。 最後の3編は「女性の大犯罪者―イギリス編」。そのうち2編エドガー・ウォーレスの「盗まれた名画」とロイ・ヴィガーズの「グレート・カブール・ダイヤモンド」は女怪盗物だ。 それぞれ見つからない盗品を探すという同じテーマでしかも双方とも盗んだと見せかけて実は屋敷から持ち出していないというトリックを扱った物。 前者の女怪盗フォー・スクウェア・ジェーンは義賊でぬくぬくと肥え太った金持ちから有名な絵画を盗み出し、返却の代償として小児医院に5000ポンドの寄付を強要する。そして寄付の後、女怪盗はご丁寧に絵を返却する。 後者は女怪盗フィデリティ・ダヴがアメリカの鉱山王夫人が所望しているあまりにも有名な大型ダイヤモンド、グレート・カブールを所有者から見事盗み出すが、この怪盗は一歩もダイヤは屋敷から出ていないという。所有者は警察の手を総動員して屋敷中を探すが見当たらず、翻ってミス・ダヴはこのまま見つからなかったら、自分が20000ポンドで屋敷ごと買い取ると宣言するという話。 これはどちらかと云えばポーの「盗まれた手紙」を想起させ、そう考えるとチェスタトンの件はミスディレクションだったと思えるのだが、あまりにヒントが明らさますぎた。あと厳重なセキュリティ・システムのかいくぐってダイヤを盗み出す方法が全く語られておらず、「ミス・フィデリティ・ダヴならばこれくらい朝飯前」で済まされているのには苦笑を禁じ得ないが。 しかし両者はこれぞミステリとも云うべき女性版怪盗ルパンの登場だ。ミステリど真ん中の怪盗譚は明快で気持ちのいい物語だった。 最後を飾るのはフィリップ・オッペンハイムによる「姿なき殺人者」だが、物語のテーマはイギリスを騒がせている大犯罪王マイクル・セイヤーと隠退した元ロンドン警視庁刑事ノーマン・グレーズの静かな戦いだ。 逃げる犯罪王に追う元刑事。 一人の女性犯罪者の誕生を登場人物それぞれの視点で描いた佳作だ。 題名が示す通り、女性が犯罪にメインで関わる作品を集めたアンソロジー。 本アンソロジーもクイーン自身による、本書が編まれることになった経緯を語ったはしがきから幕を開ける。そこには古書収集家のクイーンらしく、女探偵の登場の変遷から現在に至るまでの道のりなど、歴史的価値の高い資料としての情報がいっぱい詰まっているのだが、このはしがきの内容は平成の世では実に問題が多い、男尊女卑の考えが明らさまに出ていて苦笑を禁じ得ない。このはしがきの内容のせいで復刊されないのかと勘繰ってしまうほどだ。 さて登場する女探偵たち、もしくは女犯罪者たちは概ね有閑マダムの暇つぶしのような探偵や犯罪者が大半で、中には退屈な日々を紛らすために警察との知恵比べや障害を乗り越えるため、つまりスリルを味わうために犯罪をしていると堂々と述べるキャラクターもいるほどだが、女探偵の場合はそんな中にも探偵を副業として正規の職業に携わっているのが特徴的だ。作家兼探偵、教師兼探偵、新聞記者兼探偵、映画監督助手兼探偵と、特徴的な職業を持ってるがゆえに事件に関わってしまう者もおり、そこに探偵小説の進化を読み取れたりもする。 女性は家を守るものとされていた時代で女性探偵が職を持っているのは非常に珍しいと思う。逆に時代に先駆けて自立した女性だからこそ探偵業も成せるという裏返しなのかもしれないが。 しかし本書に収められた短編ではまだまだ小説創作の技法が幼く、その特色を物語に活かせていないのが残念だ。 上下巻24編が綴られた本書の中で個人的ベストを挙げるとそれはポール・ギャリコの「単独取材」だ。女性新聞記者が探るニュー・ジャージー州の片田舎で起きた牧場主による子供への銃撃事件を取材すべく、お手伝いとして牧場に潜入したサリー・ホームズ・レインが最後に行き着くおぞましい牧場の秘密は今でも総毛だつほどだ。現代でも十分通じる本当のミステリだ。 そして次点ではヴァイオラ・ブラザーズ・ショアの「マッケンジー事件」とF・テニスン・ジェスの「ロトの妻」、アガサ・クリスティーの「村の殺人」とそして最後のフィリップ・オッペンハイムの「姿なき殺人者」を選ぶ。単なるサプライズに留まらず、読後心に「何か」を残す作品たちだ。 「マッケンジー事件」はパトリシア・ハイスミスを思わせる成り替わり劇がもたらす運命の皮肉を、「ロトの妻」は惜しまれつつ亡くなったルース・レンデルが見せる価値観の逆転とそのためにじわじわと巻き起こる登場人物の真意の怖さを、「村の殺人」はのどかな片田舎に潜む悪意を、「姿なき殺人者」は犯罪者の誕生を実に印象的に語っている。 また収録されている作家たちにも着目したい。 まず第1作目を飾るのがミニヨン・エバハートというのがご時世を表していて興味深い。当時コンスタントに年1、2冊発表していた作家でアメリカ探偵作家クラブの会長も務めたほどの才媛だったようだ。恐らく本書が編まれた当時は作家として円熟期にあったのだろうが、現代ではもはや翻訳本は全て絶版であると時代の流れの残酷さを感じてしまう。 また森英俊氏による『世界ミステリ作家事典』に紹介されていて、今なお紹介が進んでいない、まだ見ぬ巨匠たちは彼女たち以外ではスチュアート・パーマー、ヴィンセント・スカーレット、フレデリック・アーヴィング・アンダスン、エドガー・ウォーレスだが、それ以外にも同事典に収録されていない作家がわんさかといた。個人的には上に挙げたベスト5の作家だけでも埋もれた作品を掘り起こしてほしいものだ。 私が選出した作品は5編だが、上に書いたそれぞれの感想に述べたようにそれ以外にも光る作品は多々あった。 24分の5。打率にして2割ちょっとだが、それでも本書は復刊されうるアンソロジーだと思う。 やはり障害はあの序文かな。そんな瑕疵に目を瞑って、ぜひとも復刊してもらいたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵ガリレオシリーズ4作目の本書はシリーズの原点に立ち戻った短編集。そして本書から当初TVドラマ版のオリジナルキャラクターであった内海薫が登場する。
「落下(おち)る」はマンションから転落した30歳独身女性の事件。 綺麗に片づけられた部屋でいかにして死体を飛び降り自殺したかのように見せかけるのか?部屋に残されているのは凶器と思われる蓋付の鍋と掃除機。 この謎掛けに対して湯川はピタゴラスイッチのごとく、非常にアクロバティックな実験をして犯行が可能であることを実証する。トリック成立の細かい説明のあたりは島田荘司氏の本格ミステリ作品の謎解きを読んでいるからのようで、非常に面白い。 2作目「操縦る」は放火事件を扱った物。 工業科学ともいうべき専門的な内容を事件のトリックとして応用するところに東野圭吾氏の先鋭性を感じる。 収録作品中2番目に長い本作はやはり事件に湯川のかつての師が関わっているところによる。それについては後で詳しく感想を述べよう。 続く「密室(とじ)る」でも湯川の知己の人物が登場する。 「操縦る」ではかつての恩師、そして本作では元同級生と湯川に縁のある人物に纏わる事件が並ぶ。 友人の経営するペンションの宿泊客が突然窓から抜け出て崖の下に転落したという何の変哲もなさそうな事件。これだけならば科学の天才である湯川の出番が必要ないと思われるのだが、きちんと本作でも最新科学がトリックに盛り込まれている。 今回は密室の正体が非常に面白い。とうとうここまで密室トリックは来てしまったのかという思いを抱いてしまった。正直このトリックは1回限りにしてもらいたい。 また宿泊ノートに綴られた何気なく子供が書いた風呂の感想から事件当時の不整合性を見破るところも科学の知識あっての故だ。なるほど風呂に入った時に時々出来る空気のつぶつぶは冷たい水に溶け込んだ空気が刺激されて身体に付着するからなのか。しかもこれは一番風呂でないと起きないとのことで、またも勉強になった。 2作目の短編集で印象に残った作品に「予知る」があったが、次の「指標(しめ)す」もそれに似た味わいの作品だ。 ダウジングとは曲げた針金を両手に持って地中に埋まっている水道管や金属を探し当てる方法で、本作によればまだ科学的根拠もなく、探し当てる確率も盲滅法に探すのとほとんど五分五分らしい。 そのダウジングを亡き祖母から譲り受けた水神様と呼ばれる水晶の振り子で中学3年生の真瀬葉月は行い、今まで色んな物を探し、また自分の人生の選択をしてきたという。その一種眉唾科学に今回湯川学は対峙するのだが、正直歯切れの悪い結末ではある。 つまりはダウジングの信憑性はまだ今の科学では証明できないだけであり、それもまた近い将来解明される科学の一種であると湯川は云っているのではないだろうか。真瀬葉月は「予知る」に出た本当に予知視できる少女の姿とダブり、もしかしたら敢えてダウジングの実験を湯川はしなかったのではないかとも思えるラストの余韻はなかなかだ。 最後の「攪乱(みだ)す」は湯川に恨みを持った人間が犯人となる。 本書で最長の最後を飾る本作はそれまでの事件と違って犯人は明確に湯川に対して挑戦状を叩き付ける。つまり今度の事件は今まで他者の事件だったのが、湯川自身に恨みを持つ人物による犯行なのだ。 そういう事態に陥ったのは湯川が警察の捜査に協力していることが一部マスコミに知れたことでかつて湯川に学会で恥をかかされた男が逆恨みで湯川に復讐をするため、自分の行う犯行方法を解き明かすことができるのかを湯川を名指しで指名することでその鼻を明かそうというのが犯行の動機だ。 いわば古典的な名探偵対犯人の構図なのだが、犯人が研究者にありがちな社会不適合者であり、自分のミスを他人のせいにする精神的に未熟な人物であり、また人を離れた場所から殺害する手段を持ちながら、世の中を騒がせ、湯川を挑発する幼さが典型的な現代の世相と云えよう。 また本作で使われたトリックはまたも普通の読者の知らないハイテクだが、使われている内容は昔からある理屈である。つまり古くからある知識に最先端の技術を応用してミステリを書く。これこそガリレオシリーズの醍醐味といえるだろう。 冒頭でも書いたが本書で特徴的なのはドラマのオリジナルキャラクターだった内海薫がレギュラーとして登場する点だ。そして彼女の登場は事件の捜査に奥行きをもたらしている。 今まではいわゆる普通の刑事草薙が難事件に直面して湯川に助けを求めるパターンで、このパターンは踏襲されているものの、湯川の非凡さを際立たせるためか、東大をモデルにしたと思われる帝都大OBでありながら草薙刑事はキャリアのエリートといった風格もなく、至極凡庸な刑事に描かれていた。 しかし女性の刑事である内海が捜査に加わることでそれまでの事件ではなかった女性特有の視点が加わって、警察の捜査に幅が広がっているのだ。つまり極端に云えば、無能な警察のように描かれていたのが、内海が入ることで日本の警察の優秀さが少しばかり加味されるようになったように感じた。 そして『ガリレオの苦悩』と冠せられた本書は『容疑者xの献身』を経てから書かれた短編で構成された作品で、各短編で見せる湯川の心情は『容疑者~』以前のそれとは明らかに異なり、それまで謎そのものに対する興味しかなかったのに対し、事件に関わる事での苦悩や事件の関係者の心情に対しての考察が見られるのが特徴的だ。 例えば1作目の「落下る」では自らの手でかつての学友であり、ライバルだった数学者石神を司法の手に渡すことになったショックからか、警察の捜査に非協力的になっている。 『探偵ガリレオ』や『予知夢』の各短編では一見不可解な事象を解き明かすことに学者としての知的好奇心をくすぐられて、事件の解明に臨んでいた。それらの事件は湯川自身には何の縁もゆかりもない他人の身に起きた事件で、いわば他人事として捉えていたのだが、石神という自分の人生に関わり、また一人の天才として尊敬もしていた男の罪を自身で解き明かしたことによる精神的反動はこの天才科学者の心情に大きな変化をもたらしたようだ。 特に2作目の「操縦(あやつ)る」ではそれぞれ自分の大学時代の師が事件の犯人になっており、またもや自分の人生に関わる人間を司法の手に渡さなければならなくなる。本作の最後で学生時代の湯川を知る友永元助教授が科学しか興味のなかった湯川が隠された友永の真意を見破ることで人の心まで解るようになった湯川に驚きを示すのは、石神の事件を経てからこそだろう。 3作目の「密室(とじ)る」では大学時代の友人藤村の依頼で彼の経営するペンションで起きた事件の解明をするのだが、この作品にこそ湯川の心情の変化が如実に表れているように感じた。 謎自体は特段科学者の興趣を惹くものではないのに湯川は藤村の頼みから事件の調査を始めるが、恐らくは事件のあらましを訊いた時点で湯川には事件の構図が大体見えていたのだろう。 普通の生活を守るために犯行を実施せざるを得なかったとはいえ、罪は罪なのだと事件の真相を話す湯川の姿は石神の犯行を解き明かした時のそれと妙にダブった。 4作目の「指標(しめ)す」は先にも書いたが「予知(し)る」を髣髴させるテイストの作品だ。科学では証明できない不思議な事象を湯川は目の当たりにするが、敢えてそこに踏み込まない湯川の科学者としての懐の深さを感じさせる。 またこの作品では母と娘の母子家庭が捜査の対象であり、これが草薙にとって『容疑者xの献身』に出てくる花岡母娘を想起させる件が出てくるのがニヤリとさせられる。 そして最後の「攪乱(みだ)す」では湯川に勝負を挑む犯罪者が登場する。『容疑者xの献身』では湯川が天才だと認めた男石神と湯川の頭脳対決だったが、本作ではかつて学会で湯川に自身の研究について質問され、上手く応えられてなかったことで失墜した技術者が警察の捜査を手伝っている湯川に敵対心を燃やして犯行を実行するというものだ。 石神の時は偶然による対決だったが、本書では湯川に恨み(逆恨み以外何物でもないが)を持つ者が湯川自身に対して挑戦状を叩き付けているところが違うのだが、犯罪に加担せざるを得なかった石神に対して苦悶していたのに対し、本作では科学の技術を殺人に利用して世間を騒がせている犯人に憤りを覚えて対峙している姿勢もまた違う。 と各短編について湯川の心情の、いや人間性の変化を述べてきたが、それぞれの作品が実は『容疑者xの献身』の要素をそれぞれ分配させて成り立っている事に気付くことだろう。 かつて知的好奇心を満たす為、興味本位で警察捜査に関わっていたが、事件に関わることで自らもまた心を傷つくことを知った湯川。 かつての恩師や大学時代の友人の犯した罪を解き明かさなければならなくなった湯川。 健気に生きる母子家庭の親子が巻き込まれた事件に携わる湯川。 そして自らを敵とみなす犯罪者と対決する湯川。 それぞれが『容疑者xの献身』に込められたエッセンスだ。 そして湯川はあの事件で人の心の深みを知り、また作中でも人の心を知ることも科学で途轍もなく奥深いと述懐している。 これはかつて大学で理系を専攻し、トリックメーカーとしてデビューした東野氏が人の心こそミステリと作品転換したのに似ている。つまりこの湯川の台詞は作者自身の言葉と捉えてもいいだろう。 『名探偵の掟』で本格ミステリを揶揄しながら、敢えて現代科学の知識で本格ミステリを書いた『探偵ガリレオ』シリーズ。このトリック重視の作品に人の心の謎を持ち込んだ『容疑者xの献身』でこのシリーズも第2のステージに入ったと云えるだろう。 そして正直に云って『探偵ガリレオ』や『予知夢』の各編よりも本書収録作の方が印象に残るのだ。これからのガリレオ探偵湯川学の活躍、いや事件への関わり方が非常に興味深くて読むのが愉しみでならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1960年に刊行されて以来、長らく絶版となっていたフィルポッツのまさに幻の作品がこの2015年に新訳で刊行されるとは一体誰が想像していただろうか?
ちなみに1960年刊行の同書をAmazonで調べてみるとなんと7,700円という価格が付いているのには驚いた。 幻の名作というのは実際のところ眉唾物であることが多い。名作ならば版を重ね、現代にまで読み継がれているべきものだからだ。それが初版から55年も経ってようやく新訳で再販されるとは、刊行当時さほど話題に上らずに淘汰されてしまったからだと考えるのが普通だろう。 しかし皮肉なことにその稀少価値ゆえに古書収集家の間で高値で取引され、今にその名を留める結果になったのだろう。つまり内容ではなく本そのものに価値がある作品なのだ、と読む前は思っており、さほど期待せずに読んだのだが、これが意外と、いや実に面白かったのである。 いやはや読み始めと読み終わりの抱く印象がこれほどガラリと変わる作品も珍しい。 まず開巻直後は若き医師ノートン・ペラムと教会の大執事の箱入り娘ダイアナ・コートライトの衝動的なまでの初恋と結婚までの道のりが描かれる。恋は盲目というが魂の結び付きと感じた2人は周囲の反対を押し切って結婚に向けて駆け抜けていく。ダイアナは準男爵のベンジャミン・パースハウス卿からプロポーズを受け、裕福な暮らしが約束されているにも関わらず、好きになったら止まらないとばかりにノートンと結ばれるのだ。 しかしそんな衝動的な結婚生活も長くは続かない。 安定を約束された生活よりも深い愛を選んだダイアナはしかし世間知らずのお嬢様で最初は自炊や洗濯をする生活に新鮮さを感じていたが、器用に思われた自分が意外と家事が苦手だと知るに至り、やがてノートンが将来資産家の伯父から受け取るであろう財産が毎日の質素な生活の中での光明となっていく。 しかしノートンは伯父の反対を押し切った結婚だった故に財産贈与を約束されなくなっていたことを妻に話せずにいた。その事実を自ら伯父を訪問することで知ったダイアナは嘘をついていた夫を深く憎悪するのだ。 愛情は深ければ深いほど、裏切りを感じた時に抱く憎悪はそれにも増して深くなっていくのだ。ダイアナはいつしかノートンに復讐心を抱くようになる。 そこから物語は急変する。 もはやぎくしゃくとした夫婦生活を送るダイアナとノートンの日々が描かれ、家庭に収まることを是としないようになったダイアナは女優を目指すようになるのだが、いきなり体調が悪くなっていく。そこからベンジャミン卿と結婚した姉マイラにも不慮の事故で子供が産めない身体になり、身体に障害を持ってしまう。 そしてダイアナは夫ノートンに毒を盛られていると姉夫婦に告げると、その予言どおりに亡くなってしまう。 そして彼女の死後1年半後、夫が妻殺しで逮捕され、友人たちがノートンの無実の証明のために事件の調査に乗り込む。 いわばミステリの根幹とも云える殺人事件が起きるのが約330ページ中200ページの辺りだ。 若き美しき男女の恋物語が一転してボタンの掛け違いでお互いを恨むようになった夫婦の憎悪の話、そして謎の妻の死とその罪を着せられる誠実な夫の無実を証明する話と、本書は紹介分にあるようにまさに万華鏡のような変幻自在な物語の展開を見せる。 そしてこのどうしようもなく上手く行かなくなった若夫婦の道程から妻の死に至るまでの物語と妻が死んでから死に立ち会った姉夫婦ベンジャミン・パースハウス卿の物語が、最後の最後で想像を超える真相へと繋がるのだ。 正直この真相には戦慄した。 冒頭にもこれほど印象が変わる話も珍しいと書いたが、それは物語の色合いのみならず、登場人物像もまたそうだ。 まずは何と云ってもダイアナだ。思慮浅く、人生経験も薄いと思われていた彼女だったが読み進むにつれて男女の愛に対する洞察の深さや心の移り変わりに思わずのめり込んでいくのには驚いた。 例えば当初家事もしたことのない世間知らずのお嬢様として、しかも夫ノートンが得るであろう伯父の多額の財産を生活の励みしていた、打算合っての愛ゆえに結婚した浅薄な女性と思われたが、伯父の反感を買って財産を相続できない夫の嘘を知ると、財産を得ることが適わないことを恨むのではなく、正直に事実を打ち明けない夫の態度に憎悪を抱くところに、ノートンとの恋愛が一時の烈情ではなく、貧しくも2人で生きていく覚悟あっての事だと気付かされて、見方が変わってしまった。 そして自らが信じた道を邁進する決意の強さこそが実は彼女の本性だと云えよう。 衝動的な結婚も自らの判断の正しさを信じたゆえの結果であり、また結婚後も優しいノートンを引っ張るが如く、生活の舵を取る。夫が渋るのであれば自らが伯父に逢いに行く行動力。しかしその行動力がまた自分が万能であることを過信させることにもなり、また復讐と云う負の方向へと突き進む原動力にもなってしまうのだが。 一方翻って世の女性たちは主人公ノートン・ペラムに対してどのような感情を抱くのだろうか? 誰もが振り返る美男子の医師とくれば玉の輿を狙う女性たちの垂涎の的だろう。 しかし一皮剥けば貧しい自分の境遇にコンプレックスを抱き、投資家で資産家の伯父の財産を当てにして自分の将来の安定を約束している、いわば他力本願の男。さらには伯父の同意が得られないことを知るといつまで経ってもその事実を妻に打ち明けず、妻の愛を逃したくないがためにずるずると先延ばしにしている男だ。さらには自分を慕う女性に自らの結婚の話をする無神経さも兼ね備えている。 私は正直顔がいいだけのダメ男だと何度もレッテルを貼ってしまった。 特に嘘をつかれながらもどうにかノートンと暮らし、貧しい生活の中に自分の張り合いを見つけようとする妻の行動力を制御しきれず、もはや妻は自分には目を向けておらず、愛情はとうに消えてしまったと愚痴をこぼす辺りでは、あまりの女心への無知ぶりに呆気に取られたものだ。妻に冤罪を着せられて刑務所暮らしをさせたくなるほど恨まれても仕方のない男だと思う。 つまり優しいだけの男なのだ。 そしてこの作品で最も好意を抱くのはノートンの婚約者として登場した彼の伯父の秘書を務めるネリー・ウォレンダーではないか。 ノートンを慕いながらも、もはや結婚目前まできながら、ノートンの口から他の女性との結婚を打ち明けられる。しかしそれでも気丈に振舞い、ノートンの幸せを祝福する懐の深さを見せ、更には自分との結婚が破棄になることで財産を渡さないと断じた彼の伯父の説得まで試みる女性なのだ。 社会的に自立し、物事をバランスよく見る人物なのだが、正直現代でもこんなにいい女性はいないだろう。 しかしこのような善人ほど辛い目に遭うのだ。ダイアナの死後1年半後にようやく心の傷が癒えたノートンと晴れて結ばれた結婚式の日に妻殺しの容疑で伴侶が逮捕されてしまうのだから。 う~ん、なんて意地が悪いのだ、フィルポッツは。 さてこの題名だが、実は我々団塊の世代の子供たちの世代では実は翻訳された“コマドリ”よりも英単語の“Cock Robin”の方に親しみがある。それはアニメ『パタリロ』の主題歌『クックロビン音頭』のフレーズ「だれが殺したクックロビン」で耳に焼き付いているからだ。 作者の魔夜峰央氏はミステリ好きとして有名だが、さすがに本作から取ったフレーズではなく、マザーグースの一節から取られており、この題名も同様なのだ。 しかしあまりに日本人にとってお馴染みなフレーズであるため、もしかしたらこの作品が語源では?と勘違いする読者もいるのかもしれないがウェブで調べると出典は萩尾望都の作品に由来するとのことだったのであしからず。 しかしたった330ページの分量ながら、男女の愛憎劇にとんでもないサプライズまで仕掛けられている本書が50年以上も絶版だったのは何とも不思議だ。 正直高を括っていたが、今でも本書に描かれる男女の機微、運命の皮肉、そして最後に感じられる女性の恐ろしさは現代でも十分読ませる内容だ。 今こうやって新訳で読める事の幸せを改めて嬉しく思う。この機会を逃すと次に手に入るのはまた50年後かもしれないので、ぜひとも多くの人に読まれ、版を重ねて絶版とならないようになることを強く祈るばかりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フリーマントルのデビュー作である本書はイギリスに亡命してきたソ連の宇宙科学者を尋問する聴取官の物語だ。
その主人公の聴取官エィドリアン・ドッズは決して魅力的な人物として描かれていない。 外見は痩せ気味のこれといって特徴のない男で35歳にして妻に愛想を尽かされた挙句、レズビアンの彼女の許に逃げられ、毎日のワイシャツとスーツのアイロンがけも儘ならず、しわくちゃのままに着用して秘書の眉を顰めさせ、その年配の秘書には手玉に取られ、遅刻や早退を思うが儘にされており、さらには完全に禿げ上がった頭髪を気にして周囲の人のみならず街ですれ違う人々のカツラを見破ることに専心しているという、およそ読者の共感を得られにくいキャラクターだ。 しかしこの男が尋問者として亡命者の前に立つと他に比肩する者がいないほどの洞察力と判断力を発揮する。12ヶ国語を話し、亡命者の専門とする分野の知識も身に着け、安易に会話の主導権を握らせない。 しかしアメリカ政府から早く2人の宇宙技術者を渡すよう圧力をかけられているイギリス政府内ではイギリス首相エベッツの巧みな話術に翻弄され、自らの地位を危うくしてしまう。 このうだつは上がらないが、仕事をすれば切れ者でありながら、自分の仕事に対する実力へのプライドが高いがゆえに、常に他者との駆け引きを重んじて自身の地位の安泰と出世のためにあらゆることを利用しようとする上層部からの受けが悪いエィドリアンの姿はどこか我々サラリーマンに通ずるところがある。 しかし我々日本人のサラリーマンと違うのはもはや最後通牒が突きつけられる段になっても自らの正当性を主張し、上司であれ首相であれ、反撃して説き伏せさせようとする根性だ。 1973年の作ではあり、当時の日本のサラリーマン社会には詳しくはないのだが、このエィドリアンの抵抗は当時も驚きだったのではないだろうか。 そして最新作『魂をなくした男』で終結した三部作でも描かれていたのはロシアのKGB高官の亡命劇なのだから、文体、プロットともフリーマントルは変わっていないことに気付かされた。 更には『魂をなくした男』でも亡命を目の前にぶら下げた人参として亡命先の国から逆に情報を得ようとする実に狡猾なロシアのブラフを驚愕のサプライズと共に読者の前に示してくれたが、デビュー作の本書でも旧ソ連一流のブラフを見せてくれる。 まさに想定の斜め上を行くソ連の描いたプランの恐ろしさと巧みさ。家族を大事に思うパーヴェルの性格を利用して、恐らくは家族を人質に強要されたのだろうが、それを微塵とも感じさせないパーヴェルの狡猾さ。 第1章から各章の終わりに挟まれる委員長カガノフを中心としたソ連の秘密委員会の怪しげな会話、真意が読めないパーヴェルの行動などの本当の意味が最後になって明かされる辺りに新人作家でありながら既にデビュー当時からミステリマインドを持った作家だったことが解る。 しかし三つ子の魂百までとはよく云ったもので、この主人公を主体にしたメインストーリーが繰り広げる中で章の終わりにインタールードのように挿入されるソ連の秘密委員会たちによる謎めいた会議の様子は本書ではサプライズのために実に有機的に機能しているが、これはフリーマントル作品ではお馴染みの構成で既に本書においてフリーマントルのスタイルとして確立されているのに驚いた。 さらにはチャーリー・マフィンシリーズを筆頭に描かれるイギリス人への痛烈なる皮肉。 上にも書いたが常にロシア人は物事の深淵を透徹した視野で物事を考え、イギリス人は目の前に駆引きに終始して、物事の本質を見極められないというイギリス政府蔑視の姿勢が既に本作で確立されているのには苦笑してしまった。 重ねて云えば先にも述べたように最新作『魂をなくした男』とデビュー作の本書が奇妙に題材が酷似していることもその裏付けだと云えるだろう。 そう考えれば自分の禿げ頭にコンプレックスを抱いてカツラ愛用者を見破ろうとしている奇妙な性格のエィドリアン・ドッズは危機を感知すると幅広な形の足が痛むチャーリー・マフィンの原型だったのかもしれない。 また本書は題名がいい。 原題は“Goodbye To An Old Friend”でこれが最後の1行として現れ、実に切ない余韻を残す。 そして邦題は『~した男』とフリーマントル翻訳作品の題名のフォーマットを踏襲しながら原題を活かし、読後にその真意に気付かされる、ミステリのお手本のような翻訳だ。 ただデビュー作ということもあってか、本書は珍しく皮肉屋のフリーマントルらしくなくサプライズと深い余韻を重視したエンディングになっている。正直に云えばいつもこのような形で終わればいいのにと思うのだが。 さて冒頭にも書いたが、本書はフリーマントルが37歳の時に「デイリー・メイル」紙の外報部長時代の頃に通勤中の車内で書いた物で、これが好評を以て迎えられた、フリーマントルの作家活動のきっかけとなった作品である。こういう物語を通勤中に書くことも凄いが(多分多少誇張も入っているだろうが)、37歳で部長職に就いていることだ。 日本の会社では一流の新聞社では恐らく考えられないことだが、実力主義のイギリスではこのような人事もあり得るのだろうが、現代の大作家は勤め人としても凄かったということか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『墓場への切符』から始まったいわゆる“倒錯三部作”を経たマット・スカダーシリーズも第11作目では圧倒的な悪との戦いから解放され、以前のシリーズの趣を取り戻したような様子で幕を開ける。
今回の事件はある弁護士の死の真相を探るという物。しかしその犯人はすぐに逮捕されて証拠もあるのだが、犯人の弟から事件の再調査を依頼される。 弁護士を殺害したとされる容疑者はジョージ・サデッキというヴェトナム帰還兵の精神障害者。戦争の後遺症で定職に就くことが出来ず、マットの住むクリントン地区界隈で浮浪者の如く生活している生活困窮者だ。 つまり弁護士と云う社会的地位の高い者を殺害したのは世間ではさして関心も持たれない社会の底辺生活者。この社会的弱者の無実を晴らすためにスカダーは勝ち目のない戦いに挑むのだ。 そして捜査が進むうちにこの四方八方から見て全く以て健全だと思われた被害者の弁護士グレン・ホルツマンには何か隠された謎があることが解ってくる。 小さな出版社の顧問弁護士というさほど高給な報酬を受け取っていなかった男がニューヨークの高級コンドミニアムの28階という実に長めのいい部屋をキャッシュで買い、クロゼットの中には30万ドルもの現金が隠されていた。この身分不相応な金の出処に事件の鍵をマットは嗅ぎ付ける。 このグレンが謎の大金を手に入れる秘密の真相は実に意外な物だった。 さて暗鬱な“倒錯三部作”を経た本書はそれまでのシリーズには見られなかった軽妙さがそこここに感じられる。それは前作でマットが決意したエレインと結婚を意識しているためか、どこか二人の掛け合いにそれまでにない薔薇色めいた華やかさを感じるのだ。 そして今や名バイプレイヤーとなったマットの助手TJの活躍も文体の軽妙さに一役買っていると云っていいだろう。前作『獣たちの墓』で大活躍したTJが本作でも事件の目撃者捜しという大役に大いに貢献する。 アル中探偵で警官時代の過去の事件でトラウマを抱えて1人孤独に社会の底辺で生きる人々の間を渡り歩いていたマットだが、もはや彼は一人ではなく、チームが出来上がっていたのだ。これが物語のトーンを変えているアクセントとなっているのは間違いない。 しかし本書にはどこか死の翳が付きまとう。 それはシリーズが進むにつれて確実にマットもエレインも齢を取っているからだ。 さらにマットは被害者である弁護士の妻リサとも関係を持ってしまう。それは幸せな家庭を理不尽な仕打ちで唐突に壊された未亡人に対するケアなのか、それとも恋をしてしまったのか、マット自身も解らない。 しかし時々無性に電話をし、逢いたくなる。それはエレインに対する裏切りであることを知りつつも辞められない、ミック・バルーの台詞を借りればいわゆる“男の性”なのだ。 かつては世間では取るに足らない存在に過ぎない人間の尊厳を守るために生前親しんでいた依頼人のために事件を探っていたが、今では死が全てを忘れ去ってくれるかのごとく、依頼人も固執せずに容易に依頼を真相が解らぬままで断ち切る。 時代が移ろい、人の心も移ろうのだ。 それはマットとて例外ではない。 1人ではなく、護る者が出来たマットが辿る静かな足取りながらも味わい深い物語をこの後も期待する事にしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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島田荘司氏のノンシリーズである本書は読者の予断を常に超え、全く想像のつかない展開で物語が進んでいく。
それはあらゆる学問や知識が動員された奇妙な、しかしそれでいて実に説得力のある話が展開したかと思えば、奇想に満ちた世界が連続する。 まず開巻一番、御手洗シリーズに負けず劣らずにセンセーショナルな事件が繰り広げられる。 木に吊るされた2人の女性の死体。1人は性器の周囲を抉られ、内臓が垂れ下がり、もう1人は腹を一文字に裂かれ、骨盤が真っ二つに割られ、前に腹が引き出されているという、まさに島田氏ならではの読者の想像をはるかに超える凄まじい有様だ。 この猟奇的事件を追うのはワシントン東警察署のロン・ハーパーとウィリー・マクグレィという2人の刑事。この人智を超えた殺人事件の謎を追う展開は海外ミステリの警察小説のような色合いをまとっている。 そんな犯行の動機が理解し難い事件の謎はこれまた理解し難い手掛かりをきっかけに犯人に辿り着く。それはある大学院生が書いた恐竜滅亡の謎について考察した論文だ。この内容が実に興味深い。 なぜ2億5千万年前に出現した巨大な恐竜が1億3,500万年もの長き間に亘って繁栄し生き長らえたのかを現代科学の知識から解き明かしていく。その一つ一つが新たな見地を開いており、まさに蒙が啓かれる思いがした。ちょっとかいつまんで書き並べていこう。 現在生存する生物の視点から考えると恐竜のスケールの大きさやその骨格の不自然はどうにも生存するには不便であり、恐らく自重によって内臓が圧迫され、長くは生きられなかったとするのが当然であり、また草食の首の長い恐竜も胃までの十数メートルもの距離をベルトコンベアのような機能を備えていないと食物を運ぶことは到底不可能であることやバランスを取るために長い頸部と尻尾を平行にして歩行したと推測されているが、これらは構造の観点から云えば、かなりの負荷が頸と尻尾の付け根に課せられ、現代では吊り橋のような構造にしないと長期に亘って支えられないことも挙げられている。 また5トンもの体重があると想定されるティラノサウルスが同等の体重を持つ象が4つ足歩行しかできないのに、2足歩行が出来たのか? それを解決する1つの方法がカンガルーのようにジャンプしながら移動していたのではないかという説。 さらには翼竜など飛行する恐竜たちもまた今の鳥類のスケールから考えても到底空を飛べたとは思えないほどの大きさと重さを持っているのになぜ飛ぶことが出来たのか。 他にも太陽系の惑星に関する自転周期の奇妙な事実など単なる生物学を超えて物理学、構造力学、天文学の観点から疑問を投げかけているのが実に興味深い。 そしてこれら不可解な事実を一転して理解可能とするのが、恐竜たちが棲息していた時代は重力が今よりも軽かったとする説。それが故に最も自転によって生じる遠心力が最も大きい赤道周辺に恐竜がいたこと、そして現在の重力になったのは巨大隕石による衝突の衝撃によるものだという実に画期的な説だ。 この実に知的好奇心溢れる学説は全く以て知らなかった。どうやらこの説は前から出ていたそうだが、ウェブで調べるとトンデモ学説と断ざれたり、支持する声もあったりと様々だ。私はこのコペルニクス的転回であるこの重力説を支持したい。 ここまでが上巻の展開だ。そこから物語は文字通り目くるめく展開を見せる。 これはまさに島田氏しか書けない物語だ。題名が示すようにこれはまさに幻想物語だ。 第2次大戦下のアメリカを舞台に古代生物学、物理学に構造力学、天文学といった知識がふんだんに盛り込まれ、空想の世界を補強し、このとんでもない空想物語がさも実存するかのように島田氏は語る。 5つに分かれるこの壮大な幻想譚は1章では行間から血の臭いまでもが匂い立つほどの迫真性に満ちた人智を超えた猟奇的事件を語り、2章では重力論文なる、現代科学において規格外とされる巨大な生物、恐竜の存在とその絶滅の謎に対する学術的な話が展開し、3章ではアルカトラズ刑務所を舞台にした刑務所生活と手に汗握る脱獄劇が、そして4章では一転して島田ワールドとも云える空想世界の物語だ。 それは『ネジ式ザゼツキー』で語られた「タンジール蜜柑共和国」を髣髴とさせる「パンプキン王国」なる不思議の国の話。そしてそんなメルヘンとしか思えない世界が最後のエピローグで意外な真相と共に明かされる。 まさにこれはそれまでの島田作品のエッセンスを惜しみもなくふんだんに盛り込んだ集大成的作品と云えるだろう。 世のミステリ作家の想像の遥か彼方の地平を進む本格ミステリの巨匠の飽くなき探求心とその豪腕ぶりに今回もひれ伏せてしまった。 島田氏はまたしても我々が読んだことのないミステリを提供してくれた。 ミステリの地平と明日はまだまだ限りなく広く、そして遠いことをこの巨匠は見せてくれたのだ。まさに孤高という名に相応しい作家である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(5件の連絡あり)[?]
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ローレンス・ブロックの第3短編集。長編のみならず短編の名手であるブロック。今回もヴァラエティに富んだ作品集となっている。
まずはスカダー物の1編である表題作で幕を開ける。 ブロック自身がまえがきで述べているように本作は『聖なる酒場の挽歌』で起きる3つの事件の中の1編だ。このエピソードに2つの事件を肉付けしたのが『聖なる酒場の挽歌』であり、この作品がきっかけとなって『八百万の死にざま』で終焉を迎えようとしたマット・スカダーシリーズが再開されたのだから、ブロックにとってはマイルストーン的な作品となるのだろう。 「夢のクリーヴランド」は「世にも奇妙な物語」に使われていそうなおかしみのある1編だ。 夢の中でドライヴしているために寝た気がしないという実に奇妙な相談とそれを解決するこれまた実に奇妙な方法。そしてそれだけで終わらず友人も同じ夢を毎晩見て疲れている。しかもそれが毎晩3人の美女の夜の相手をするためにクタクタになっているという男の願望が詰まったような次の展開。 しかし他人の夢で起きたことが自分の夢で体験できるとは限らないのに男って奴は…。 「男がなさねばならぬこと」は奇妙な味わいを残す1編。 法の網をかいくぐり、暗躍する悪党たちに対して法の遵守者である警察は無力である。犯罪を犯したことは明白であるのに決定的な証拠がないばかりに逮捕できない。マット・スカダーでもその手の類の犯罪の容疑者がよく現れ、その都度マットを惑わしてきた。 そんな法で裁けない真の悪党たちを次々と暗殺する殺し屋を目の前にした警官が選択したのは法律的には許されないが、道徳的に実に納得のできる決断。こういうことは実際起きているのではないだろうか。 後のシリーズキャラクターである殺し屋ケラーが初お目見えするのがこの「名前はソルジャー」だ。 初登場の殺し屋ケラーのこの顔合わせともいうべき作品ではまだ彼がどういった人物かは解らない。依頼により、証人保護プログラムで身分を変えた男を見つけてもすぐには始末せず、いつも食事を共にし、また街をぶらぶらして満喫する。しかし彼が勝手に抱いていた妄想が崩れると、まるで夢から覚めたかのように非情なまでにターゲットを屠る。実に気まぐれな殺し屋である。 ケラーの為人については今後の作品群で理解していくことにしよう。 「魂の治療法」も実に皮肉な物語だ。 殺人を犯したという妄想に悩まされる男。それが妄想だと証明する刑事。 慣例や先入観と云うのは実に恐ろしい物だと笑い話では済まされない奇妙な味わいを残す1編だ。 短編集に必ず登場するシリーズキャラクター、悪徳弁護士エイレングラフは今回も例に漏れず登場だ。「エイレングラフの選択」では愛人殺しの容疑で捕まった女性の弁護を担当する。 相変わらずブラックな味わいを残す。 「胡桃の木」はなんとも暗鬱な物語だ。 レンデルの作品を髣髴させる、とても痛々しい夫婦の物語。 育った環境の、両親の影響で諍いを起こす衝動に駆られる夫婦。この負のパターンを打ち崩すべく妻が選択したのは夫を殺害する事だった。 寂寥感がただただ漂う1編だ。 さて泥棒バーニイ・ローデンバーは「泥棒はプレスリーを訪問する」で奇妙な依頼を受けることになる。 「エルヴィスはまだ生きている」とは有名な都市伝説の1つだが、彼の生家グレースランドが観光地となっており、この2階が観光客はおろかスタッフですら入れない万人禁制の聖域であるらしい。人は秘密があれば色んな想像を巡らせるが、この誰もが入れない2階でエルヴィスは生活しているのではないかと噂が立っているようだ。 実在する部屋の秘密を暴くのはさすがにブロックも躊躇らわざるを得なかったようだ。 「交歓の報酬」は誰もが抱く旅先の開放感を描いた作品。 海外旅行と云う非現実な空気に包まれるマジック・アワー。そんな時間や日々は日常の殻を破って冒険したくなるのが心情と云うもの。 旅先で親しくなった夫婦がスワッピングを愉しみたくなる甘美で淫靡なムードにほだされるが、物語は意外な結末を迎える。 しかしそれもまた白昼夢のような出来事。何が真実で何が虚構なのか、誰にもわからない。 「死にたがった男」はツイストの効いた一編。 想像の斜め上を行く結末に思わず唸ってしまった。アメリカの警察のずさんな捜査ならばこの方法は完全犯罪になりそうだ。 マット・スカダー2編目の「慈悲深い死の天使」は実に考えさせられる物語だ。 物語はちょうどエイズウィルスが突如流行した90年代初頭の世相を反映している。この未知の不治の病に苦しむ同性愛者たちに安らかな死と云う眠りを授ける女性はその苦しみから患者たちを解放するための言葉を授ける。 しかし物事は必ずしも上手く行かない。どんなに言葉を掛けようとなかな死出の旅に赴くことが出来ない患者もいるのだ。そんなとき、彼女は…。 スカダーはその事実を当人から聞かされながらも敢えて依頼人には話さない。それは彼女がやっていることが慈悲だと思うからだ。自らの保身やエゴの為に死を与える輩はどんな人物でさえも許さないマットだが、他者を思って行う殺人には寛大のようだ。 法律では裁ききれないことがある。彼女のやっていることは善か悪か解らないがマットにとっては悪い事のように思えなかったようだ。 「タルサ体験」は季節ごとにアメリカ国内旅行に出かけている仲の良い兄弟の旅行記。 犯罪大国アメリカならばありそうな話だけに怖さがひしひしと伝わってくる。 「いつかテディ・ベアを」も何ともおかしな話だ。 年に何回もアバンチュールを愉しむプレイボーイの映画評論家はテディ・ベアのぬいぐるみを抱かないと眠れないという設定は面白い。 同族意識が芽生えた二人は結婚するのだろうか? 「思い出のかけら」も奇妙な味わいを残す作品だ。 人に対する警戒心が強いアメリカなのに、大学の掲示板で車でシカゴまで乗せてくれる人を募り、誰とも知れない見ず知らずの相手の車に同乗するとはなんと無防備な女性だろうと思ったが、案の定、募集に応募した男性は快楽殺人者だった。 しかしそれだけでは物語は終わらず、とにかく奇妙な作品だ。 「ヒリアードの儀式」もなんと評してよいか解らない作品だ。 人生何をやっても上手く行かない時もあれば、何事も上手く進む時もある。アトゥエルというシャーマンが施す儀式はその人の持つ運を開放するきっかけを後押しすることかもしれない。 一見何の関係のないことがきっかけで運命が好転する、そんな人生の不思議さを語った作品なのか。とにかくヒリアードが受けた儀式で突然彼の生活が薔薇色に変わる根拠は全く解らないが、それでもなぜか納得させられる不思議な小説である。 本書での2度目の登場となる「エイレングラフの秘薬」では妻殺しの容疑者の弁護を引き受けることになる。 依頼人の冤罪を晴らすために別の角度から犯罪を捏造し、それによって依頼人を不起訴にし、別の犯人を仕立て上げる。 しかし有罪と無罪の境とはなんとも曖昧な物かとエイレングラフ物を読むと痛感させられる。 「フロント・ガラスの虫のように」もまた善悪の境を揺るがされる作品だ。 人は実はギリギリのところで善の境に踏み止まっていると思わされる作品だ。特に自動車の運転と云う非常に身近な行為にテーマを持ってきたところが上手い。 乱暴な運転をして、こちらに被害を被るような危ない目に遭った時、「いっそぶつけてやろうか」と思ったことは誰しもあるのではないか。長距離トラック運転手と云うストレスが溜まりがちな職業ゆえにその境界をいつ超えてもおかしくないのだ。そしてウォルドロンもまた…。 「自由への一撃」は銃を持ったある平凡な男がそのことで力を得た気になり、徐々に性格が変わっていく物語。 その男の心情は解るものの、なんと評していいか解らない作品だ。 たった7ページと本書で最も短い「どんな気分?」は動物虐待をしているのを見かねた男がその飼い主に制裁を加えていく。 老馬に激しく鞭打つ御者を同様に鞭打ち、飼い犬を蹴り飛ばす飼い主を安全靴で完膚なきまでに蹴り飛ばす。 ブロックのストーリーテリングの上手さが光る1編だ。 最後を飾るのはまたもやマット・スカダー登場の1編「バットマンを救え」はマットが探偵事務所に雇われて海賊版のバットマン商品を町の露天商から回収する仕事に就く。しかしマットは言葉もろくに話せないアフリカ人たちから回収する行為に腑に落ちない物を感じていた。 本作も正しいことをすればそれにより不利益を被る人がいる。それらが社会的弱者であるとマットはどうしても非情になれないのだ。それが法律的に正しいことであっても社会の底辺で半ば犯罪に手を染めながらも必死に生きている人々と付き合いが深いだけに、いやそこにかつてアル中だった自分を重ねてしまうのかもしれない。 マット・スカダーと云う男の本質を謳った物語だと思う。 ローレンス・ブロック短編集第3集の本書はシリーズキャラクターであるマット・スカダー物3編、泥棒探偵バーニイ・ローデンバー物が1編、エイレングラフ物が2編、そして以後シリーズキャラクターになる殺し屋ケラー物が1編含まれた全20編で構成された実に贅沢な短編集である。 今回の作品では前の2集とは異なり、何とも云えない後味を残す作品が多い。 その何とも云えなさは大別すると次の3つに分かれる。 法律と道徳の狭間で善と悪の境が曖昧になる物。 例えば「男がなさねばならぬこと」、スカダー物の「慈悲深い死の天使」、「フロント・ガラスの虫のように」がそれに当たるだろう。 次に人間の衝動の怖さを知らされる物。「魂の治療法」や「タルサ体験」、「思い出のかけら」が該当するか。 そしてとにかく煙に巻かれたような思いで終わる物。これは殺し屋ケラー初登場の「名前はソルジャー」、「いつかテディ・ベアを」、「ヒリアードの儀式」、「自由への一撃」になろうか。 収録作が80年代末から90年代に掛けての物が多いせいか、当時の流行を反映してサイコパス物や人間の不思議な習慣や行動に根差した作品が多く感じた。 これが発表当時、世紀末だったことに起因する特異性なのか解らないが、奇妙な味わいを残すオチが多い。割り切れなさとでも云おうか。 従ってウィットの効いたオチや切れ味鋭いオチを期待するといささか肩透かしを食らった感じがするかもしれない。 実際そういった類の作品は「夢のクリーヴランド」、「死にたがった男」、「どんな気分?」ぐらいしかなく、大半が敢えて結末をはっきりと書かないことで余韻を残すような書き方をしている。 これはブロックに限った話ではなく、国内作家でも見られる形で、いわゆる大団円的なフィナーレやスパッとした切れ味といったカタルシスを残す遣り方は少なくなってきており、登場人物たちの人生という1本の線のある時期を切り取った描き方をして、今後も彼らの時間が続いていくような区切のつかない終わり方が多くなってきている。これは物語の在り様の変化なのだろう。 さてそんな短編集の個人的ベストは「胡桃の木」、「慈悲深い死の天使」、「フロント・ガラスの虫のように」、「どんな気分?」の5つを挙げる。 これら4作品に共通しているのは先にも述べた世紀末特有の厭世観がもたらす法律による善悪よりも道徳としての善悪、つまり死に値すべき者、そして死を望む者に敢えてそれを施す行為がなされていることだ。特に「胡桃の木」はDVに悩まされる暗鬱な夫婦関係と遺伝と云う家系の業をひたすら重く語り、最後にサプライズを仄めかす、まるでレンデルが好んで描く抗えない血の呪いといった運命の悪戯が描かれており、ブロックの新たな境地を垣間見たような気がした。 本集の前の2短編集よりも全体としての評価は落ちるが、だからといってクオリティが低いわけではなく、本書もまた短編のお手本ともいうべき作品のオンパレードである。 ただ扱っている題材やプロットが前2作とは異なっており、例えようのない余韻を残す。 世紀末だからこそ書かれた作品群と思えば、本書は今後文学史を語る上で貴重な資料となり得る短編集と云えよう。こんな短編集が絶版で手に入らないのは誠に勿体ない話である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マクリーン16作目の舞台は厳寒の北極海。ベア島なる孤島に向かうハリウッドのロケ隊の一行。主人公はその映画会社オリンパス・プロダクションに雇われた医師マーロウ。
今までのマクリーン作品の読者ならば、厳寒の海が舞台であればまたも過酷な環境と苦難の連続の航海が一行に待ち受けているだろうと想像するが、本書はそんな読者が抱く先入観を裏切り続けて物語は進行する。 まず一行を運ぶモーニング・ローズ号、この豪華客船はかつてトロール船として海を馳せた老船である。そんなもはや老朽化という言葉を超えた船の乗客や乗組員が直面する災難は荒々しい波濤や物の数秒で凍てつくブリザードでも、触れるだけで大破するほどの絶望的な大きさを誇る流氷などが現れる極寒の環境ではなく、なんと激しい船酔いなのである。 この船酔いは主人公の医師マーロウによって集団食中毒であることが判明する。さらに死亡者が出るに至り、それは何者かによる毒殺事件へと発展する。 そんな不穏な空気を助長するかのように船内で連続して不審死や失踪事件が発生する。そして無線機も何者かによって壊され、疑心暗鬼の中、船は目的地であるベア島に到着する。 ここまでが物語の中盤だ。 物語の後半はベア島が舞台となる。そこでもたとえば『ナヴァロンの要塞』で我々読者をそこまでしなくてもいいだろうと思わせるほど危難に次ぐ危難、肉体の限界を超えた戦いが登場人物たちには待ち受けているわけではない。 まず到着早々にマーロウと親しくしていた航海士スミシーが失踪する物々しい幕開けを見せるが、実は航海士スミシーは主人公の医者マーロウと同じ組織に属するイギリス政府から派遣された者であることが判明する。彼らは第二次大戦中にナチスが各国から略奪し、世界中に隠した金、宝石、絵画、有価証券の在処を探る任務に就いており、映画製作者の1人で脚本家のヨハン・ハイスマンがその一人であることを突き止め、彼のそばについて隠し場所と思われるベア島のロケに同行したのだった。 そしてベア島に着くと一行は島にある観測隊が以前使用していた小屋に落ち着くが、いきなり第一の殺人が起こる。それを皮切りに次々と関係者が一人また一人と不審死を遂げる。犯人は島にいる関係者の中にいるというシチュエーション。 つまり厳寒の島で繰り広げられるのは何と本格ミステリでいうところの“嵐の山荘物”なのだ。しかしなんと島に留まっているのは主人公のマーロウを含めて22人にも上る。なんとも容疑者の多すぎる孤島物ミステリだ。 とこのように本書は極寒の海と島を舞台にしながらも従来のマクリーン作品の定型を全く裏切った展開を見せる。 そして物語は事件の謎を追いかけるうちに関係者たちに隠された過去を掘り出し、またマーロウの目的である盗まれた金の在処を探る冒険もあり、そして最後にはそれらの謎に加え、真犯人の思惑などサプライズが複層的に織り込まれている。そして最後には関係者を一堂に集めてマーロウによる推理が開陳され、黄金期の本格ミステリを髣髴させる。 しかし私が最も意外だったのは主人公マーロウの設定だ。ロケに同行する医師と見せかけて政府の者というのは確かにマクリーン作品の常套手段ともいうべき手法だが、今までの作品では掴みどころのない性格で一見軽薄そうな人物が実は情報部の諜報員だったという、素早い判断力と超人的な運動神経で危難を幾度となく克服するヒーローという設定だったのに対し、本書のマーロウと中盤で仲間だと知れる航海士のスミシーはスーパー・エージェントではなく、大蔵省の役人でしかない。 彼らは銃を持たず、また格闘術を教わっているわけでもなく、ましてや肉体の限界を超えて自然に立ち向かうストイックさもない。いわゆる我々のような一般人ぐらいの体力しかないのである。 このあたりからもマクリーンが新機軸を打ち出そうとしているのが行間からひしひしと伝わってくる。 さて毎回アイデア豊富のマクリーンだが、本書では彼の得意とする武器、兵器、機械や乗り物の専門知識や過酷な環境下で起こる災厄の詳細な描写はなりを潜めている。しかしマクリーン作品の中でも全450ページ弱という比較的厚い本書には第二次大戦後の世情やマクリーンの体験が盛り込まれているように感じる。 例えば映画会社の面々が登場人物の中心になっていることが本書では特徴的だ。 これはやはり出せば映画化と当時人気絶頂だったマクリーンが自作の映画化の際に接した映画会社の人々のその特異性が非常に印象に残っていたのではないか?元教師であるマクリーンにとって、何もかもが破天荒で常識外れが当たり前のエンタテインメント界の不条理さこそ、きな臭い陰謀を持つ組織の隠れ蓑として最適だと気付いたに違いない。 また本書の犯人の1人で中心的人物であるヨハン・ハイスマンはシベリアに囚われの身であり、そこから脱走して映画会社に入ったという異色の経歴を持つ。彼は第二次大戦中に二重、三重のスパイとしてソヴィエトとドイツを股にかけて活躍していたという彼の設定も昔アメリカ映画界を席巻した赤狩りの遺児を思わせ、また映画界で有名な人物が実は元スパイだったというのもキム・フィルビーを想起させる。 さて旧ナチスが隠した金の在処を巡って発生する連続殺人など一連の事件の真相はかなり複雑であるが、しかし、これらの謎が一気にマーロウの口から述べられるのはいささかバランスが悪いように思える。 確かにこれらは本格ミステリの典型であろう。マクリーンが本書で目指したのが本格ミステリであるならばそれも受け入れるが、マーロウが述べる内容は読者の前に伏線として提示されていない物も多く、マーロウが潜入する前に仕入れた情報に基づく内容の比重が大きい。 つまり意外な真相が明かされるものの、アンフェア感が拭えないのだ。 さらに登場人物の多さ。前述したように最終的に島に残る人物だけでも22人もいるのである。物語の前半はこれにモーニング・ローズ号の乗組員も加わり、大方30名前後の登場人物が出てくるのだ。 これだけ登場人物がいればやはり登場人物表は必要だろう。特に今回は船員のみならず映画会社という特殊な職業の人間たちばかりなのだから、人物紹介も容易であろう。 したがってそれらがないばかりに各登場人物たちの意外な素顔が最後で明かさされても、人物像がなかなか結び付かなく、サプライズを満喫できなかった。今回登場人物表を省いたのは出版社の怠慢と云わざるを得ない。 ただやはりマクリーンはサプライズを好む作風であるのだが、どうもそれがうまく機能していないように感じる。 今回は主人公のマーロウがそれほど思わせぶりではなく、また物語の中盤で自身の正体を明かすため、ほどなく物語に入り込めたものの、最終章で一気呵成にマーロウの口から新事実が次々に明かされる構成はやはりバランスが悪く、作者の独りよがりだという感は否めない。専門知識や機器の詳細などの微細な描写や説明、そして不屈の精神を持った人物の描写などは抜群に上手いのだが、物語を書くのがそれほど上手くないのだ。 本書のようにミステリ趣向の作品を読むと如実にそれが表れてくる。手掛かりや伏線の出し方の匙加減が下手だと云ってもいいだろう。 しかし後期に属する本書は世の書評家がいうほど出来が悪いとは思えなかった。 先に書いたように冒険小説と見せかけて実は本格ミステリ的という読者の先入観を裏切る作品であり、意欲的だ。恐らく北上次郎氏のような当時の書評家はリアルタイムでその時代の冒険作家の作品を読んできたがために、時代の変化に対応して作風を変え、新たなテーマを見つけ、変化し続けている作家たちに比べて相も変わらず同じ作風で不屈の主人公を描いているマクリーンがつまらなく思えたのだろう。それ故に後期のマクリーン作品の評判が悪いのではないか。 実際北上氏の『冒険小説論』ではそのように書かれている。しかし裏返せばそれは常に軸がぶれなかった作家だという証拠でもある。いわゆる北上氏がいうところの欧米の冒険小説家が直面した『70年代の壁』は今の読者にとっては壁でもなんでもない。『女王陛下のユリシーズ号』も『ナヴァロンの要塞』もこの『北海の墓場』も全て同じマクリーン作品なのだ。だから時代性に囚われず、純粋に作品の良し悪しで判断できる状況にあるのだ。 恐らく今後読むマクリーン作品の私の評価は世の中の評判とは異なることになるだろう。しかしそれこそ今過去の作品を読む意義ではないか。 後世の今、本書もまた全く話題に上らない作品だが、マクリーンが冒険小説と見せかけて本格ミステリ的手法で旧ナチスの財宝探しを描いた本書は定型を裏切っただけに私にとって案外印象に残る作品なのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズもまずは5作目を経て一休みと云ったところか。本書はノンシリーズの連作短編集。
冒頭を飾る「虚空の黙禱者」は夫に突然失踪された1人息子を抱えた女性に纏わる物語。 夫の失踪の謎が最後に明かされる。残酷な行為はしかし田舎の牧歌的な風景でゆったりとした時間の中、明かされる。 詩のように紡がれる物語「純白の女」は一日に電車が一本しか止まらない田舎にある白い建物を訪れた一人の女性の物語。 ファンタジーのような世界観を乙女チックな詩のような文章で綴られる本作は物語の最後でサイコの様相を成す。90年代に流行したサイコ物の森ヴァージョンといった作品。 敏腕女性刑事物と思いきやそれが作中作であることが解る「彼女の迷宮」もまたサイコ物の変奏曲である。 「真夜中の悲鳴」では大学内での事件を扱ったオーソドックスなミステリ。 まず大学での実験風景が実に懐かしい。私は理論研究だったので実験室に籠っての卒業論文の作成を経験をしていないのだが、それでも大学の授業で体験した実験の匂いが漂ってくる。しかも主人公のスピカたちがしているのは深夜の実験。実に魅力的ではないか。 そんな中で発生している学内での連続暴行事件と実験で発見される奇妙な現象。それらが連続暴行事件の犯人に繋がる展開は実にオーソドックスで、主人公のスピカが犯人によってピンチに陥るのも定型と云えば定型。しかし最後の数行が効いている。 次の「優しい恋人へ僕から」は漫画同人誌仲間であるスバル氏と篠原素数が出逢った2日間を描いた作品。この内容は森氏の奥方が佐々木スバル氏であることを考えると半自伝的な小説だろうか。最後のオチは作者が見せた照れ隠しと取っておこう。 続く2編「ミステリィ対戦の前夜」と「誰もいなくなった」は本編ではあまり語られることのない西之園萌絵のミステリ研究会での活動を描いた作品。 前者はミス研の合宿に初参加し、そこでなんと殺人事件に巻き込まれる、と見せかけて…、といった話。 後者はミス研が学校でのイベントで仕掛けたある謎を巡る物語。学校の記念講堂で突如現れた焚火の周りで踊る30人のインディアンがどこから現れ、どこに消えたのかという謎をミス研が仕掛ける。しかし10組の参加者は誰も解らなかったのだが、犀川がその話を聞いた途端に謎を解き明かすという物。犀川の天才性を再認識させる短編だ。 ジャンル的には幻想小説になるだろうか。「何をするためにきたのか」は退屈な大学生活を送る甲斐田フガクが主人公。 因果律の物語。一見何の関係のない人間と事象が次々と連なることで運命の扉が開けるという一種人生の構図を表したような物語だ。 S&Mシリーズの『冷たい密室と博士たち』で犀川が云う、「役に立たないものだからこそ面白い」ことを突き詰めた作品だ。 「悩める刑事」は意外な結末が面白い作品だ。 どんでん返しが鮮やかに決まった作品。これは上手さを素直に認めよう。 「心の法則」は教授である森氏ならではの思弁的な小説と思わせてこれまた意外な展開を見せる。 幻想的な物語だ。どこまでが夢でどこまでが真か、その境界線があいまいになっていく。 最後の「キシマ先生の静かな生活」は大学の異端児であったキシマ先生と主人公の想い出を語った物語だ。 これはミステリではなく、回顧録といった方が正確だろう。その天才性故に大学で孤立した存在であったキシマ先生と彼が助手として所属していた研究室の院生だった私だけが知るキシマ先生の人物像。彼の我が道を進む人生は誰も侵すことのできない世界を形成している。最後はそこはかとない寂しさが過ぎる作品だ。 S&Mシリーズでデビューし、その後連続して『封印再度』の5作まで全て同シリーズを著してきた著者による初めての短編集、となるとてっきりS&Mシリーズの連作短編集かと思いきや、なんとシリーズとは離れたノンシリーズの短編集だった。全く人を食った作風の森氏らしい計らいだ。 しかしこれほどまでに短編を書き溜めていたとは思わなかった。その作風は実にヴァラエティに富んでいる。 景色を丹念に書き綴った田舎風景が印象的な作品もあれば、一転してファンタジックな詩を思わせる作品もある。そして奇妙な味のような作品もあれば、S&Mシリーズを髣髴させる大学を舞台にしたサスペンス物もあり、半自伝的な恋愛物もあったり、作中作に幻想小説と物語のエッセンスがふんだんに盛り込まれている。 森氏の作品の特徴である現役教授ならではの大学風景の瑞々しいまでの描写が本書でも見事に活かされている。 「真夜中の悲鳴」、「ミステリィ大戦の前夜」、「誰もいなくなった」、「何をするためにきたのか」、「キシマ先生の静かな生活」など11作品中5作品と約半分がそれらに該当する。 またそれまでのS&Mシリーズでもその片鱗が見られる幻想的な趣向が短編では全面に押し出されており、作者の自由奔放さが溢れている。「純白の女」、「何をするためにきたのか」、「心の法則」がそれらにあたるだろう。 そしてさらには理系の教授ならではの学問に特化した内容が実に専門的に語られているのも特徴的だ。その内容はもう理解できない者は置き去りにすることも厭わないほど容赦がない。しかしそれを理解できる自分がいるのがどこか誇らしくも思えたりする。 しかし一番面白いのは森博嗣という作家そのものだろう。なんせ現役の建築学科の教授、つまり理系の教授がこれほどまでに色んな物語を書いていることだ。特に1作目の「虚空の黙禱者」の匂い立つような田舎の風景描写には驚かされてしまった。 正直に話せばS&Mシリーズは大きな謎1つで400~500ページの長編を引っ張る構成に冗長さを覚えていたが、短編では森氏独特の奇抜なワンアイデアを中だるみなく楽しめることが出来、この作家は短編向きではないかと思った。 さて次からはS&Mシリーズ後半戦に突入する。とにもかくにも西之園萌絵の存在が私にはシリーズに没入する障害となっているので、今後の変化に期待したい。それとも私が萌絵に馴れるべきなのだろうか? さて本書のタイトルは『まどろみ消去』。 私は本書を読むことで眠気も覚めるという作者の自信を森氏ならではの文体で表現した物だと理解していたが、英題は“Missing Under The Mistletoe”、直訳になるが『寄生木の下での消失』といささか幻想めいたタイトルである。この英題から想起させられるのは明るい日差しの中、寄生木の下で読んでいるといつの間にか異世界に連れて行かれた、そんなイメージだ。どちらにせよ、実に森氏らしいタイトルである。 さて貴方の眠気は覚めるだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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海外放浪から帰ってきたばかりの当時京大の医学部の学生の頃の御手洗潔がサトルという京大を目指す予備校生に京大近くの進々堂で語った話を集めた連作短編集。
まず「進々堂ブレンド 1974」は軽いイントロダクションの物語。 若き思春期の苦い恋の想い出話。これはミステリではなく青春物語といったところだろう。 「シェフィールドの奇跡」は知的障害者の物語。 21世紀になって島田氏は脳生理学の分野を積極的に物語に取り入れ、精神異常者のみならず学習障害者、アスペルガー症候群など、現代細分化されている様々な知的障害者をテーマにした作品を著しているが、本書は知的障害者が被ってきた社会的差別、虐待を扱っている。 ギャリーと云う学習障害者が唯一の取り柄である他者より抜きん出た体格の良さと発達した筋力を活かして重量挙げの選手として成功していく物語はしかしそれまでに彼が強いられた数々の苛めや虐待、社会的差別が詳らかに語られ、胸が痛む。私自身、次男が軽度の知的障害者であるが故、無縁の話とは思えないだけに痛切に胸に響いた。 さすがに21世紀の今では本作の時代である1970年代の社会よりも同じ境遇にいる人々への研究と理解が進んでいる為、作中に書かれているほど厳しい現実ではないが、それでも自分たち夫婦が同化する錯覚を覚えた。恐らくそのような身内を持たない人々にとっては典型的な感動の物語なのだろうが、私にとっては応援歌のような物語であった。 続く「戻り橋と悲願花」でもマイノリティに対する虐待の歴史が題材に扱われている。 戦時下の朝鮮人が受けた迫害の歴史は島田氏にとって昔からのテーマの1つだった。あの名作『奇想、天を動かす』はその最たるものだった。 本書もまた日本に渡って豊かな生活を夢見た貧しい姉弟が辿った数奇な運命と太平洋戦争で行われた風船爆弾という史実と島田氏ならではのミラクルストーリーが混然一体となっている。 路傍の花としてよく見かける彼岸花をモチーフにその球根が毒性を持つこと、実は生物学的にも特異な物であることを京都の一条にある戻り橋が持つ歴史の由来を上手く交えながら感動的な物語に昇華する。まさに物語作家島田の独壇場とも云える作品である。 最後の「追憶のカシュガル」は春の嵐山を訪れた御手洗がサトルに語る、中央アジアに位置するウイグル族の街カシュガルで出逢ったある老人の話だ。 路傍の賢者とも云うべき風貌と学識を備えた浮浪者。しかし町の人々は彼を無視し、彼の歩く周囲から遠ざかる。そこには老人が悔やんで悔やみきれない若き日の過ちがあったからだ。 カシュガルと云う数々の民族によって侵略され、数々の民族が混在して世界侵略の要となった都市ゆえに時代の流れに翻弄された男の悔恨の物語だ。 日本の古都京都はその永き歴史ゆえに様々な言い伝えや伝承が今なお息づいており、点在する名所や史跡にはそれらが成り立った理由や逸話が残っている。 そんな古都にまさか御手洗潔が住んでいたとはミタライアンでも驚愕の事実であっただろう。しかも京大の医学部出身だったとは。 横浜の馬車道を住処にしていた御手洗が関西ならば神戸辺りが適所だと思うが、京都とは意外だった。そんな京大時代に御手洗は休学し、海外放浪をしていた。そして京大を目指す予備校生サトルを相手にその時に出遭った人々の話を始めるというのがこの連作短編集だ。 島田氏の物語作家としての手腕はいささかも衰えていない。 一軒だけ異世界のように存在するアメリカの雰囲気を湛えたスナックがある寒々しい日本海の漁師町の風景、イギリスのある都市に住む知的障害者を子に持つ親子を取り巻く街の社会事情、戦時下の日本に夢と希望を抱いて日本に渡った朝鮮人兄弟が辿った苦難の日々、そして最後は浮浪者として町の人々に忌み嫌われるようになった老人の過ちなど、実に心に痛く響く物語が収められている。 同じような経験をしたことがないのに、それぞれの物語の主人公の心象風景色鮮やかに眼前に繰り広げられるのはこの作家の筆力の凄さだろう。 そして特徴的なのは御手洗潔の短編集でありながら本書では御手洗潔は推理をしない。つまりミステリとしての謎はなく、御手洗はあくまで彼が海外放浪中に出逢った人々から聞かされた話をサトルに語るだけなのだ。 謎を解かない御手洗の姿がここにある。 しかしこれら彼が経験した出逢いは御手洗にとって人間を知る、歪んだ社会の構図を知る、そして島国日本に留まっているだけでは理解しえないそれぞれの世界のルールを知り、その後快刀乱麻の活躍ぶりを発揮する名探偵としての素地を形成するための通過儀式のように思える。社会的弱者に対する優しき眼差しはこの放浪で培ったものなのだ。 強い道徳心が差別を生む。 息子が知的障害者と知ってショックで子育てを放棄し、失踪する親がいる。 知的障害者というだけでスポーツ選手の代表になることを嫌う社会がある。 移民というだけで迫害する社会がある。 一見平和だと思える現代の裏には実はこのような昏い時代があったのだ。 今や社会は弱者に対して優しくなったと思う。バリアフリーは進み、知的障害者に対する理解も増え、学校では支援学級が必ず存在するようになった。 また外国人への規制も緩くなりつつあるし、さらにはトランスジェンダーへの理解も広がり、性同一障害者がテレビをにぎわすほどにもなった。 しかしそんな社会もかつて虐げられた人々の犠牲の上にごく最近になって築かれてきた理解の賜物であることを忘れてはならない。この御手洗潔が語る弱者への容赦ない仕打ちこそがほんの10年位前にはまだ蔓延っていたのだ。 本書は御手洗の海外放浪記であるとともに世界の歴史の暗部を書き留めておく物語でもある。 人間の卑しさを知った御手洗がその後弱者の為に奔走する騎士となる、そんなルーツが知れるだけでもファンにとっては読み逃してはならない作品集だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『片腕をなくした男』から始まる三部作の完結編である本書は相変わらずそれぞれの部門長の椅子の安泰と自らの進退を賭けたディベート合戦で幕が開く。
しかし前作『顔をなくした男』から3年弱も経っているので正直どんな話だったのかは失念していた。 しかしそこは筆巧者のフリーマントル。前作でチャーリー・マフィンがロシアの空港で撃たれるというスキャンダルを利用して危機管理委員会を開き、そこで議長の口を通して今までの事件のおさらいをしてくれる。 事件の発端となったモスクワ駐在イギリス大使館構内で発見された身元不明の片腕の死体。その事件の捜査のため、チャーリー・マフィンがロシアに派遣され、見事解決するが、一方で同時期に行われていたロシア大統領選挙で立候補していたステパン・ルヴォフ候補が実はCIAのスパイとされながら実はロシア側の二重スパイだったこともチャーリーは暴露してしまう。つまり片腕の死体の正体がルヴォフがKGB時代の同僚であり、彼がCIAに情報を提供しようとしたために抹殺されたのだが、ロシアはその秘密を暴かれる前にルヴォフの恋人と名乗るイレーナ・ノヴィコワという女性スパイを送り込み、陽動しようとした。 しかしそれをチャーリーが看破し、彼女は陽動の為ロンドンに送り込まれながらアメリカ側に移ることを選択し、CIAの手に渡る。しかしイギリスはロシア連邦保安局副長官という大物マクシム・ラドツィッチを亡命させ、手中に入れることに成功する。 しかしチャーリーは一方で妻のナターリヤ・フェドーワと娘のサーシャをイギリスへ亡命させるため、ラドツィッチの亡命を陽動作戦に使うが、ラドツィッチ亡命をなんとしても成功させようとするMI5部長ジェラルド・モンズフォードの陰謀によって暗殺させられそうとなり、凶弾に倒れる。 ただしこれら複雑な様相を呈する一連の事件の真相が解る3部作の完結編という重要な位置にある作品にしては実に動きのない話である。何しろ展開されるのはまず亡命したマキシム・ラドツィッチへのMI6による尋問と同じく亡命したイレーナ・ノヴィコワに対するCIAによる尋問、そしてナターリヤ・フェドーワに対するMI5からの尋問、そしてロシアに拘束されたチャーリーのロシア連邦保安局による尋問、そして英国官房長官アーチボルト・ブランドを議長にする危機管理委員会におけるMI5部長オーブリー・スミスとMI6部長ジェラルド・モンズフォードを中心としたそれぞれの立場と自尊心を賭けたディベート合戦なのだ。 まず尋問シーンではそれぞれの尋問者が有効な手掛かりと情報を被尋問者から訊き出すための試行錯誤、手練手管が繰り広げられるが、被尋問者は自分の立場を有利に保つためにやすやすと情報開示しないため、延々と同じようなシーンが繰り返される。 また危機管理委員会も同じく日常的にいがみ合っているMI5とMI6との駆引きに終始紙幅が費やされる。特にチャーリー暗殺を企て、未遂と云う失敗に終わったモンズフォードはその事実を露見させないよう嘘八百を並べ、時に有意に立ち、時に八方ふさがりの状況に陥る、その繰り返しだ。 しかしやはり三部作の最後を飾る本書はそんな退屈なシーンを我慢するに値するサプライズが待ち受けている。下巻の230ページで明かされる衝撃の一行。 そこからの展開はまさに怒涛。五里霧中状態で暗中模索しながらチャーリー・マフィンをいかに救出する方策を決めあぐねていたイギリスの危機管理委員会がFBIとCIAと共同戦線を敷いてロシア側を欺こうと奮起する。 尊大に振舞っていたラドツィッチとFBIの尋問官を手玉に取っていたイレーナは一人の凄腕尋問官の軍門に下っていく。 その尋問官の名はジョー・グッディ。下巻の後半で登場しながらも堅牢なロシア側スパイの防御を切り崩し、ひれ伏せさせる尋問のプロ中のプロ。彼の登場で一気に物語が加速する。 その爽快さはそれまでの実に退屈な物語を我慢してきた甲斐があったと十分思わせるほどの物だった。 さらにチャーリーが解放された後の振舞いもまたチャーリー・マフィンと云う男の深さを改めて再認識させられる。 通常ならば監禁生活を強いられた者ならば解放される否や何をさし措いても家族と会うものではないだろうか。しかし完璧無比な諜報員であるチャーリーはその実に人間的な感情を敵国ロシアが利用していることを察して敢えてそれを味方にも悟られずに振舞う。それは彼の体内に追跡装置が埋め込まれていたからだ。チャーリーがそれを確信するシーンもさりげなく物語に溶け込ませているのだから、フリーマントルという作家の筆巧者ぶりには畏れ入る。 そしてナターリヤの過剰な疑心暗鬼ぶりも最後の最後でその真意が明かされる。 ただし、それでも小説全体の評価は傑作とまではいかなかった。それはやはり前述したように物語自体が全体的に動きに乏しかったこともそうだが、今回の訳は日本語として体を成していない文章がところどころ目立ったことも大きな一因である。 訳者は昨今のフリーマントル作品の訳を担当している戸田裕之氏なのだが、中学生や高校生が教科書に書かれた構文をそのまま訳しているような、実に解りにくい文章が散見させられた。例えば次のような文章だ。 (前略)いまは拒否している大使館との面会と、どうしても必要となる導きを得ることが出来るかもしれない。 あなたがわたしたちに協力し、あなたが心を開いて話してくれているとわたしたちが示すことが出来るかもしれない本当の何かを私たちに提供してくれ、(後略) こんな実に読みにくい文章が続くのだ。しかも上の2つの文章は登場人物たちの独白である。 こんな言葉を話す人などいやしない。行間を読むような話し方をするインテリジェンスに携わる人々の特殊な会話を表現する意図があったのかもしれないが、このような文章では決して成功しているとは云えないだろう。 例えば私ならば上の文章は次のように訳す。 (前略)いまは大使館との面会は拒否しているが、いずれ必要となるきっかけが得られるかもしれない。 あなたがわたしたちに協力し、信用して話しているという確証めいた物が得られれば、(後略) 原文がどう書かれているかは知らないが、せめて日本語として文章を書くのであれば作者の意図する内容を噛み砕いてほしいものだ。 しかし最後の最後まですっきりとしない物語だ。 諜報活動には終わりがない。常に騙し騙されるかの戦いだ。結局本書でも何が本当で何が虚構なのか解らないまま物語は閉じられる。 私はこの三部作こそが長きに亘って書かれたチャーリー・マフィンシリーズの終幕として著された作品と思われたが、どうやらそうではないらしい。 窓際の凄腕スパイ、チャーリー・マフィンを世界は必要としている。“Show Must Go On.” ▼以下、ネタバレ感想 |
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北上次郎氏の『冒険小説論』によればマクリーンは冒険小説に謎解きの要素を加えた作家であるとのこと。
確かにそうだが、以前から感想で述べていたようにマクリーンは読者をいきなり物語の渦中に投じ、人物背景や設定などを一切語らずにストーリーを進め、それら自体が謎となっているため、開巻してしばらくは非常にすわりの悪い読書を強いられるが、本書もまたその手法に則って書かれているおり、ジプシーのキャラバン隊の指揮者チェルダが一員のアレクサンドルを追跡の末、殺害する顛末が描かれるプロローグはこのチェルダという男がただの巡礼者でなく、ある秘密の目的を持っていることが分かるものの、いきなり彼らジプシーたちに命を狙われることになるネイル・ボーマンの逃走劇に何の前知識もないまま付き合わされることになる。 その逃走劇自体は非常に映像的でわかりやすく、なおかつスリリングであるのだが、やはり物語の前置きがなく、状況がよく解らないままに進むため、なんとも居心地の悪い思いをしながらの読書となった。 まず主人公のネイル・ボーマンだが登場シーンでは親が遺した数億という財産で何不自由なく生活している有閑人であると紹介されるが、滞在地に訪れたジプシーたちに接触したことでいきなりジプシーたちに命を狙われることになる。 彼がジプシーと接触したのは暇を持て余した金持ちの余計なおせっかいにすぎないのか、それとも有閑人を隠れ蓑にした秘密組織のエージェントなのかはページに至るまで判明しない。したがって読者はそれまではボーマンを自らトラブルに首を突っ込む世間知らずの道楽息子のようにしか見えない。つまり彼が巻き込まれるトラブルは彼が行った余計なお世話で自ら招いた災いである―実際登場人物の1人セシル・デュボアのそのように揶揄する―ため、軽薄かつ軽率な男として映り、なかなか彼に共感を覚える読者はいないのではないだろうか。 しかし読む進めるうちに彼がどこかのエージェントのようであり、そして軽口を叩きながらも正義を重んじる性格であることが解ってくる。つまり道楽者は仮初めの姿であり、キャラバン隊の指揮者チェルダが秘密裏に行っている事を探るために派遣されたようだ。 彼が美女の相棒セシル・デュボアとこの悪徳キャラバンの企みを阻止しようとするのだが、時に彼はセシルに結婚することを仄めかしながら、その実セシルがその気になると一線を引いて自分が冷酷な人間であることを示し、距離を置こうとする。軽薄な仮面の下には卑劣な行為を断じて許さない強い芯を持った意志が潜んでいるのだ。 そしてこの物語で最もキャラが立っているのは自称ジプシー研究家のクロワトール公爵なる人物。大食漢の巨躯と怪力を誇る偉丈夫で、ボーマンを落ちぶれたボクサー紛いの男と揶揄し、歯牙にもかけず、どんな脅しにも状況の変化にも動じない太い肝を持つ。なぜかジプシーたちに同行する彼がいったい何者なのかも物語の大きなキーだ。 さて彼らの標的であるジプシーキャラバン隊の指揮者チェルダは秘密を守るためには命を奪う事も、若い娘の背中の皮を剥ぐことも厭わない残虐な性格の持ち主だが、物語では心底の悪人のようには見えない。 まずは彼らのボスとして振舞っているクロワトール公爵の押しの強い性格に翻弄されて、ほとんど顎で使われているようになっていること。また秘密を守るために部下たちを連れてボーマンを亡き者にしようと執拗に追いかけるが、いつも出し抜かれ、そのたびに部下が返り討ちに遭って大怪我を負っていくことで、どこか憎めないドジな悪役のようなイメージになってしまうからだ。 そんな彼らが人を殺めてまで守ろうとした秘密の任務はまさに冷戦時代の作品だからこその真相である。 また本書で特徴的なのはヒロインが2人もいることだ。 まずは旅先でボーマンと知り合った美女セシル・デュボア。彼女は美しさと機転の速さを武器にボーマンの無理難題をこなし、立派なパートナー役を務めあげる。 もう1人はクロワトール公爵に気に入られ、彼のジプシー研究に同行する事になったリラ・デラフォントだ。 彼女は豪胆な公爵に翻弄されながらもなぜか愛想をつかずに同行する。 今ではマクリーンは『ナヴァロンの嵐』を最後に、作品の質は下り坂を辿り、後期の作品には読むべき物はないとされている。 北上次郎氏は前掲の評論で自身の作風に固執して時代の流れに乗りきれなかった作家として切り捨てている。 特に冷戦の緊張緩和、CIAのスキャンダル発覚でもはやスパイやエージェントがヒーローで無くなった時代になってもなおエージェントを描いて空回りしているのがまさにこの頃のマクリーンで、確かに本書も当時の時代背景を考えると一種お伽噺のような感がしないでもない。 しかしそれでもなお絶壁での逃走劇に荒ぶる巨牛との闘牛シーン、さらにはボートによる海上での戦いなど随所に盛り込まれるアクションシーンの迫真性はやはりこの作家ならではのりアリティに溢れている。 終わった作家とされていたマクリーンの以後の作品を冒険小説界に新風を巻き起こした作家としてではなく、1人の冒険小説家として今後の作品を読んでみることでその中にある宝石を探ってみたいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ5作目の本書ではまたもや密室殺人と1つのパズルが謎として提示される。密室殺人は過去と現代に起きた全く同じシチュエーション。
過去の密室は昭和24年に起きた蔵の中で死んだ仏画家の死。明らかに自殺と思われたが狂気が見つからなかったという物。 もう1つの密室は密室状態から消えた仏画家が近くの橋の下で遺体となって発見されるという物。密室状態から開け放たれた部屋では大量の血痕が発見されていた。しかも凶器は昔の事件と同じく凶器は見つからなかった。 なぜ蔵は閉じられていたのか? なぜ被害者は河原で見つかったのか? その2つの密室に共通するのは「無我の匣」という鍵の掛かった箱と「天地の瓢」という入口よりも大きな鍵の入った壺。1つのパズルとは、どうやってこの壺に鍵を入れたのかという謎だ。 これらの謎の解答はなかなかに興味深い内容だった。 しかし壺の中の鍵のトリックはそれで論理的に合っているとはいえ、実現の可能性としてはこれまた首を傾げざるを得ない。 しかしながらやはりこの西之園萌絵というキャラクターがどうしても好きになれない。 叔父が愛知県警の刑事本部長と云う地位を利用して他人の殺人事件に土足でずかずかと入り込んでくる無神経さがどうも気に入らない。いや押しなべてミステリに登場する探偵とはそのような物だが、西之園萌絵の場合は本部長の叔父が快く思っていないのにこそこそと事件に関わってくること、自分の容姿が他人の目を惹くことを知っているため、それを利用して事件に介入すること。 これが相性と云う物なのか。 シリーズを追うごとに作品のページ数は増えていくが、それが謎の複雑さに起因しているかと云えばそうではない。 その内容は探偵役である犀川が事件の解決に積極的でないため、西之園萌絵の試行錯誤に付き合わされているだけなのだ。 そのため事件が発生してから季節は移ろい、大学はセンター試験や研究室選びなどの行事を迎える。さらには犀川と萌絵の妙なラヴコメも挿まれていたりと何とも間延びした感は否めない。ファンならばこの辺の2人の間の進展は物語のアクセントとして愉しめるのかもしれないが、上に書いたようにどうにも相性が合わない当方にとっては苦痛以外何物でもない。 シリーズも5作目になって萌絵が不治の病に罹っており、それが契機で犀川が萌絵との結婚を決意するなど、シリーズのターニング・ポイントとなる物語かと思われたが、それは単なる世間知らずのお嬢様の悪意ある悪戯だったという脱力感溢れる物だったり、謎とトリックの真相が実に魅力的なのに、被害者の動機が非常に曖昧だったりと失望が禁じ得ない作品であった。 しかし本書の題名は実に優れている。邦題の『封印再度』は過去に起きた密室事件が現代に起こる意味と壺の中から取り出された鍵とそれによって開けられた箱は再び封印されたという二重の意味があり、更には英題の“Who Inside”は橋の下で死体となって発見された林水の部屋に、ではいったい誰がいたのかと謎の核心をついている。 同じ発音をしながら意味は違えどどちらも物語の本質をついているまさに見事な題名。言葉の魔術師だなぁ、森博嗣は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野作品が次々とドラマ化、映画化されているのは昨今の流れだが、通常ならば文庫化になってから映像化されるのが常だったのに対し、本書は単行本刊行直後に連続ドラマ化されたのが驚きだった。
つまりはそれほどストーリーがドラマチックであることを示しているのだろうが、開巻してすぐにそれもなるほどと思った。 まず幼い3兄妹の親に内緒で流星群を見に行き、雨の中、寝てしまった幼き妹をおんぶして帰る兄が家で観た凄惨な両親惨殺の風景。警察の捜査が描かれ、迷宮入りのまま、数年が流れ、兄妹は成長し、なんと詐欺グループになってお金を騙し取っていた、という導入部としては実に申し分ないドラマの1話目だ。ドラマを観ていなくてもその映像が目に浮かぶようだ。 幼き頃に両親を殺され、児童養護施設に入れられた男2人女1人の三人兄妹たちが誓ったのは犯人を見つけた時に自らの手で殺すこと。 これだけならば凡百の復讐劇に過ぎないが、東野氏はそこに妹があろうことか復讐のターゲットの息子に惚れてしまうというアクセントを加える。 さらには事件が起きる前、主人公たちの両親が借金をしていた節があり、口座から200万が引き出されていたこと、そして妻の塔子が事件前日の昼間に図書館で目撃されていたこと、4年前に摘発された横浜のノミ屋の名簿に功一たちの父親の名があったこと、さらには実は有明家は入籍しておらず、両親は内縁の関係であったことなど色々と不可解な事を挟みつつ、小さな洋食屋を営んでいた気の良い夫婦の実像にミステリアスな風味を加えている。 またストーリーは単純ではあるが、プロットは実に用意周到だ。 特に唸らされたのは功一たちの生業が詐欺師であることだ。これが実に効果的に物語に働きかけている。即ち両親を殺した真犯人と思える戸神に近づいたのはそもそも偽の宝石を売り付けて1千万もの大金をせしめるためで、戸神政行を14年前の事件の犯人だと通報すれば自分たちの詐欺行為も捜査線上に上がってくる危険性が高い。従って主人公の3人は容易に警察に協力を求められないのだ。 この辺の必然性は実に上手い。 しかしこれほどまでに緊密なストーリー展開を見せながらも、唯一腑に落ちない点があった。それは功一たちの両親を殺害した犯人の捜査で近くのコンビニに訊き込みをするシーン。商売の邪魔だと疎ましく感じている店長に当日の防犯カメラのテープを借りることを全く申し出ないのだ。 その後も泰輔の目撃証言で作成した似顔絵を持って聞き込みをするものの、一切防犯カメラには触れない。これは明らかにおかしい。 『使命と魂のリミット』でも病院の受付用紙の中に犯人のメッセージが潜り込んでいたシーンでも当然大病院にあるであろう防犯カメラについては一切触れなかった。防犯カメラは東野ミステリ世界では存在しないかのようだ。一工夫理由を考えればクリアできると思うのだが、どうしてだろうか? 物語の約1/3の辺り、泰輔が幼き頃に見た犯人を戸神政行だと視認した後の物語の疾走感は半端ではなかった。 積年の恨みを晴らすために3人兄弟のブレイン功一が策を練り、カメレオン俳優の泰輔と静奈がそれを演じ、接近していくがなかなか上手く進まない展開に忸怩たる思いを抱きながらも、先の読めない展開にハラハラし通しだった。詰将棋のように戸神を犯人に仕立てるために仕掛けを施していく3人兄弟のマジックが、静奈の魅力に盲目的になったと思われた戸神行成が突然静奈に詰問する側に転じる521ページ辺りからはまさに怒涛の展開だ。 そして戸神行成が功一たちの味方になると、読者はまさに東野氏の掌の上で踊らされるだけになってしまう。 それだけに事件の真相が悔やまれる。 しかし本書はかつて功一らの両親を殺害した犯人を突き止める事が主題ではない。 また有明3兄妹がいかにして犯人を逮捕させるかを綴ったものでもない。 本書は異父兄妹の絆の強さを描いた物語なのだ。 血の繋がっていない妹を2人の兄がいかに大切に育ててきたかを知る、絆の物語なのだ。だからこそ本書の結末は東野作品には珍しく悲劇的ではなく、ハッピーエンドになっているのだ。 人に騙して辛酸を舐めてきた兄妹が、人を騙す側に回って大金を得るようになったが、心底善人である戸神行成という男1人のためにそれらが瓦解してしまった。 しかしそれは間違いなくいい意味での瓦解だ。 罪を償い、まっさらな心と体になった有明3兄妹に本当の幸せが訪れるのはこれからだ。 こんなに爽快な読後感だからこそ、事件の真相と真犯人の始末の仕方が安易だったことが悔やまれてならない。 このあともう一歩感が私をしてこの渇きを癒すために次の東野作品へと駆り立てられるのである。全く困ったものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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作戦チームの中に裏切者、いやもしくはナチのスパイがいる!疑心暗鬼の中、極寒の地での救出作戦は続いていく。
難攻不落の要塞への進入行と云えばやはり『ナヴァロンの要塞』を思い起こさずにはいられないだろう。再びマクリーンが極寒の地にある要塞を舞台にした物語は拉致されたアメリカ高官の救出劇。 作者も『ナヴァロンの要塞』との区別をつけるために色んな特色を出している。 まず物語の目的は『ナヴァロンの要塞』が巨大な砲台の破壊だったのに対し、本書は上に書いたような救出劇であり、しかも『ナヴァロンの要塞』が男ばかりのチームだったのに対し、本書は女性のメンバーも加えていることが目新しい。 さらに吹雪の中でケーブルカーの屋根に捕まって要塞に潜入したり、また同様に敵と戦かったり、さらにはバスで豪快に脱出したりとまあ、何とも映画化を意識した作りになっている。 さてそんな物語はとにかく瀕死の状況で頑なに愚直なまでに任務を遂行していく『ナヴァロンの要塞』のようなストイックさもあるのだが、それらは寧ろ色を潜めており、スミス少佐の謎めいた思惑が秘められたまま、進行する。 後期のマクリーン作品は評論家によればスパイ・冒険小説と謎解きの融合が特徴であるらしく、唐突に物語が始まり、主人公の意図、目的が示されないまま、進行し、中盤以降でようやく主人公の意図が見えてくるという趣向もまたミステリの様式を汲んだものとして捉えられるが、今まで書いてきたように、個人的には成功しているように思えず、手放しで評価できなかった。 しかし本書の前に読んだ『北極基地/潜航作戦』は特にその色合いが濃く、前半は極寒の地での潜入劇、後半は潜水艦内で起きる連続殺人の犯人を突き止めるという本格ミステリのテイストが盛り込まれていた。 本書はその流れに沿うような形で、極寒の山頂に聳え立つ難攻不落の要塞への潜入劇とその任務の中で起きる仲間の不審死の謎と構造は全く以て同じと云っていいだろう。 もはや第2期に差し掛かったと云えるマクリーン作品のそれぞれを一つのエンタテインメント作品としてまっさらな心で読むように心掛けていきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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競争心。
それはお互いのプライドと克己心を育て、向上心を伸ばす。しかしそれが行き過ぎると斯くも歪んだ大人になってしまうのかをこの作品は思い知らせてくれる。 イタリア系移民の家族に育てられたユダヤ人エディ・フランクスとその家族の長男ニッキー・スカーゴウ、この2人のある原初体験が物語の軸となっている。 ナチスの、執拗なユダヤ人狩りからの逃亡生活の末、アメリカに流れ着いたアイザック・フランコヴィッチの息子エドマンド・フランコヴィッチはエディ・フランクスと名を変え、エンリコ・スカーゴウに引き取られて、彼の実息のニッキーと常に競わされ、比較されながら育てられた。そのため彼にはニッキーに対して拭いきれない劣等感を抱えており、いつか彼を見返してやるというのが彼の成功の原動力となった。 これはイタリア系民族の、父親が絶大なる権威を誇る典型的な家系ゆえの慣習なのだろうが、この原初体験が逆にエディとニッキーの生活を脅かす結果になる。 幼き頃は全てに上回るニッキーが疎ましく思っていたエディはイギリスで有数の投資家として成功する。一方ニッキーはニューヨークのウォール街を舞台に仕事をする法律事務所に勤める弁護士となっていた。 しかしニッキーは成功者であるエディに負い目を感じ、それが故にエディに犯罪の片棒を担がせることになってしまう。 つまり2人を競い合わすことで相乗効果を狙った父親の教育は、2人の少年期に歪んだ劣等感を抱かせることになったのだ。 そこからはそれぞれの出自、つまり民族性がお互いの方向性を二分する。 ナチスのユダヤ人狩りで逃げ惑いながらも、イギリスで諜報活動に身を置き、敵と戦った父を見て育ったエディはマフィアとの戦いに挑む。 一方、マフィアが政府を牛耳る腐敗政治の只中で育ったイタリア人であるニッキーとエンリコはマフィアの容赦ない報復を恐れ、全てをなかったことにして穏便に済まそうとする。 ある意味、それはそれぞれの身を置く社会、国民性においてどちらも正しい選択なのだろう。迫害の歴史の中で生き延びた民族とマフィアが政治を牛耳っており、彼らが法であることが常態化している民族の軋轢がこの家族のそれに繋がっている。 さてこのエディ・フランクスと云う男、全てを自分の眼で、耳で確認しないと信じない慎重な性格であり、しかも買収した会社は全て有限非公開会社として株式を後悔せず、妻と自身の名義とする、排他的な男だ。正直最初はなんとも魅力のない男だと映っていた。 しかしマフィアに彼の会社が乗っ取られようとしたときに彼が見せた男気は物語のヒーローとして実に相応しいものだった。 勿論私はエディを応援し、どのような展開が起きるのかを愉しみにしていたが、一方で皮肉屋のフリーマントルが何とも後味の悪い結末を用意していないかと不安にもなった。 その懸念通り、エディは正義感を発揮してマフィアたちに対してあらゆる対抗手段を講じるが全てが裏目に出てしまう。 ビジネス界の雄としてヨーロッパに名を馳せている男がFBI捜査官に協力したり、会社を解散させたりとその判断は間違っていないように思えるが、訴訟の世界になるとそれらが全てエディが犯罪に関与していたことを認めて、それを隠匿しようとした行為にしか見えなくなってしまう。 道徳的観点からすればエディの選択は決して間違っていないが、法律家たちからすれば、それらが全て隙のある行為であるのだから、法律の世界は実に恐ろしい。ここにブライアン・フリーマントルならではの意地の悪い皮肉があるのだ。 しかし彼らも長年の仇敵である悪徳マフィア3人組を司法の手によって罰する事を欲していた地方検事とFBIはエディに無罪放免を餌に協力を申し出る。しかしそれは証人保護プログラム(作中では証人保護計画と書かれており、訳者あとがきでは当時このシステムを知らなかったようだ)を適用して、フランクス一家に全く別人の人生を選ぶことを条件にしたものだった。 正直この内容には無理があるように思う。 アメリカの法律に詳しくないが、エディは世界でも有数の投資家であり実業家である。たとえ有罪となったとしても罰金を払って釈放されるのではないだろうか? またエディが巻き込まれた背景を鑑み、情状酌量の執行猶予付の判決もあり得るのではないだろうか? この辺が実に腑に落ちない展開だった。 さらにエディ・フランクスが正義を貫くために払った犠牲は多大な物だった。 このエディ・フランクスという男の精神構造は実に不思議だ。 私ならば連続する凶事に気も狂わんばかりになるだろうが、エディはむしろ情事に耽るのだ。これは彼の強さの源が家族の支え、とりわけ妻のタイナにあったのか? 有限非公開会社として常に会社を切り回してきた彼は全て自分の判断で経営を進め、自分で問題を解決してきた。役員たちは他会社と兼務する雇われ経営者に過ぎなく、経営に対する決定権や裁権を持たない。つまりかなりのワンマンである。だからこそ彼の拠り所は家族に、妻に在ったのか。 それは幼き頃にナチスにさらわれて行方知らずになった母の温もりを知らぬがゆえに育ったエディの母性への飢えなのかもしれない。従って一緒に危難を乗り越えようと誓った妻タイナがノイローゼで自分を批判するようになる一方で、既に未亡人となって、夫を喪ったマリアの強さと包み込むような慈しみが彼の拠り所になったのだろうか。 そして物語はクライマックスの法廷への戦いに向かう。エディと地方検事、FBIのチームは積年の敵であるパスカラ、デュークス、フラミーニを司法の裁きで有罪にできるのか。 この法廷シーンは結構手に汗握る展開であり、被告側の弁護士とフランクスとの討論シーンは法廷慣れした凄腕の彼らの弁舌にたじたじとなる一方、持ち前の度胸でフランクスがやり返すところなど、エンタテインメント性も高い。 本書が書かれた1987年とは奇しくも世に法廷小説という一ジャンルを築いたスコット・トゥローの『推定無罪』が発表された年である。もしかしたらフリーマントルは同書に触発されて本書を著したのかもしれない。 さて本書の狙いとは一体何だったのだろうか? 成功した実業家がいつの間にか犯罪者によって利用され、犯罪の片棒を担がされ、しかも巧妙に主犯者となってしまう、現代社会の恐ろしさか。 それとも犯罪に巻き込まれた成功者の家庭が海千山千の強者であるマフィアと孤独な戦いの望むことで色んな物を失いながらも勝利する姿か。 もしくは個人の都合などは巨悪を滅ぼすためにその命さえも利用される歪んだ正義とそれを執行する検察とFBIの底知れぬ恐ろしさか。 恐らくはそれら全てが狙いであり、上述の3つの狙いが下に行くにしたがって包み込んでいく重層的な構造を成していることだろう。 日本人ならば2番目の狙いを物語の結末に持って来てほろ苦い美談として終える事だろう。多分ネルソン・デミルも同様の結末を採るはずだ。 しかしこれはフリーマントルによる物語。やはり一筋縄ではいかなかった。 『ディーケンの戦い』然り、『暗殺者オファレルの原則』然り、『スパイよ さらば』然り。本書もそれら一連の作品の系譜に連なるものだろう。 しかし一方で『ネーム・ドロッパー』のような快作もあるのだから、ある意味ハッピーエンドこそがフリーマントル作品の意外な結末のようになってしまったようだ。 母国イギリスでは“スパイ小説界のルース・レンデル”と呼ばれていないのだろうか。 しかしため息が出る結末だ、本当に。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ第4作目の本書もまた密室殺人を扱ったものだ。もしかしたらこのシリーズは密室殺人事件のみを扱っているのだろうか。
もしそうであるならばシリーズの専売特許とも云える密室の謎だが、本書では3つの密室殺人が発生し、そのうち2つの密室殺人は物語の冒頭でいきなり起きるのにも関わらず、なんと全12章で構成されている物語のわずか第3章でそのトリックは明らかになる。 そしてさらに3番目の密室殺人は学園祭真っただ中のN大学の実験室で起きる。半地下のコンクリート試験室でまたもや下着1枚着けた状態で女性の死体が見つかる。そして肌には「A」の文字とも読み取れる三角形が書かれていた。 さらには同室にあるコンクリートのノッチタンクから一連の事件の容疑者とされたN大学を退学になったロックミュージシャン結城稔の遺体が入っていたというもの。 3つの密室に4つの遺体。連続殺人事件として実に申し分ないボリュームに満ちている。 それらの物語を構成するのがN大学生でありながらロックミュージシャンとして名を馳せている結城稔。そしてその兄、寛は大学院生で西之園萌絵が所属するミステリ研のメンバーであり、さらにはS女子大の助手、杉東千佳と結婚している。さらに同じくN大学生でありながら結城稔のマネージャーをしている篠崎敏治が加わる。 そして本書では密室の謎がメインではない。先にも書いたように冒頭2つの密室は早々に解かれる。 本書のメインの謎とはこれら密室を作るための至極面倒な手順を何故犯人は行い、密室を形成したのか?だ。 そしてその謎の解は常人の理解を超えるものだった。 精密なパズルを見ているかのようなトリックとロジック。心地よい頭脳労働を強いられる内容だ。 さて本書では建築学科に所属する学生が関わる事件であるせいか、密室のトリックに建築の専門知識がふんだんに盛り込まれているのが特徴的だ。 特に大学の建築学科の教授である森氏によるこのミステリで描かれる建物が他のミステリとは一線を画しているのはやはり現行の建築基準法に則って建物が作図されているところだ。動線が考えられた部屋の配置に二方向避難を考慮したドアの配置など、今までの作品でもきちんと考えられていることが同業者として実に座り心地のいい思いがした。 そして本書では数多あるミステリに登場する建物や館の珍妙さを専門家の視点から嘆いているのが実に面白い。特に推理小説は建築基準法や消防法のない世界なのだと萌絵が吐露する件は思わず何度も頷いてしまった。 4作目の本書で世間に流布する密室ミステリに対する痛烈な皮肉が開陳されるようになったのはシリーズが世間に認められた故にようやく常日頃云いたいことを思い切って述べるようになったのからかもしれない。 そういう意味で考えれば本書における密室殺人は全て建築の知識を用いて成された物。つまりはきちんとした建築の知識があれば密室などはいとも簡単に作れるということを暗に示しているように感じた。建築業界にとっては至極当たり前のことを本書では素人相手に示したことに意義があるのだ。 さて今回も今までのシリーズ同様、西之園萌絵は自身のちょっと行き過ぎた行動故に危難に陥る。この展開ももはやシリーズの定番となってしまった。 敢えてこの定型を崩さない森氏はもしかしたら『水戸黄門』シリーズなどに見られる「偉大なるマンネリ」の信奉者なのかもしれない。 しかしそんな典型的なストーリー展開でありながらもシリーズとしてはやや進展が見られる。 本書の主人公の1人、西之園萌絵は叔父が県警本部長である特権を大いに利用して事件に介入し、人の生き死に対して哀惜や喪失感と云った通常の人間が見せる感情とは無縁に、死者と犯人、関係者を単なる駒としてみなさずに事件のトリックやロジックを嬉々として推理する、無神経で厚顔無恥ぶりを発揮していた。本書でもその傾向はまだ完全に拭えないものの、彼女の中で心境の変化が見られてくる。それは事件の捜査に夢中になるのは自分が事件に興味を持っているわけではなく、事件を解き明かすことで敬愛する犀川に認められたいという願望ゆえだったことに気付かされる。それは自分が犀川に子供のように甘えていただけだったことでもあった。 この辺はシリーズの読者ならば早々に気付いていただろうし、これゆえに私が西之園萌絵を好きになれないのだが、ようやく気付いたのかと思わず苦笑してしまった。 そして萌絵は犀川に認められるために大学院への道を目指すと決意する。学生と教授の関係、大人と子供の関係から脱しようと奮闘するそれが萌絵の決意だった。 果たしてこの後、2人の関係はどのように展開していくのか。それがこのシリーズの読みどころであると解っているのだが、やはり西之園萌絵はまだ私には受け入れ難く、やたらと犀川にべたべたするのにはいささか食傷気味になってきた。 シリーズ物はいかにキャラクターに親近感を覚えるかがカギなので、この先のシリーズで萌絵が成長してほしい。私に免疫が出来るのとどちらが先だろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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あのディーヴァーが世界的有名なスパイアクションシリーズである007シリーズを手掛けるニュースを聞いた時は正直期待半分不安半分だった。私自身007は映画は観ていたものの、小説は未読だったのもあったし、ライムシリーズやキャサリン・ダンスシリーズと云う2つの看板シリーズを持っているディーヴァーにそれらと差別化できる特色が出る作品が果たして可能なのかと疑問視していた。
しかしそれは杞憂だった。 ここには007シリーズを想起させながらも新たなジェームズ・ボンドがいる。若々しく、スマートフォンとアプリを使いこなす現代のスパイとしてのボンド像をディーヴァーは創り出した。 そうでありながらも彼のボスはMであり、スパイグッズの発明家Qも出てくるし、ボンドカーと彼を取り巻く美女がきちんと配され、ファンが期待するボンドの定番も忘れられていない。 だがやはり現代を代表するエンターテインメント作家ディーヴァーは単なるパスティーシュとしての007の新作を書いてはない。ディーヴァーならではのアイデアが放り込まれている。 まず原典との大きな違いはボンドの所属する組織がMI6ではなく英国秘密機関である海外開発グループODGのエージェントであることだ。そしてMI5やMI6よりも立場の低い、権限の制限された組織となっている。 そして独自性を出しながらもディーヴァーはファン・サービスも忘れていない。現代の若者として設定されたボンドながらも父親の名は原典と同じくアンドルーであるし、極秘文書に付せられる“フォー・ユア・アイズ・オンリー(For Your Eyes Only)”には思わずニヤリ。 そして何よりも日本の読者には嬉しいのはボンドカーにスバルのインプレッサWRX STIが選ばれていることだ。あのレーシング仕様のマシンをボンドが操るとは、似つかわしくも若々しい。 また原典を未読なので解らないが、登場人物表に記載されていないが、ジェームズ・ボンドに協力する人々や彼の回想に出てくる人物名なども007愛好家の方々には思わずニヤリとする内容が含まれていることだろう。 さてディーヴァー版ジェームズ・ボンドの相手となる敵は巨大ゴミ収集企業グリーンウェイ・インターナショナルの代表取締役セヴェラン・ハイトとその相棒で冷酷な殺し屋ナイアル・ダン。 今なお創られる007シリーズ映画の敵はもはやソ連の秘密組織や戦争を企む武器商人などではなく、世界を牛耳る巨大企業による、その得意分野に特化した世界征服の野望を持つ狂える企業人であるが、本書もその流れを汲む物だ。 しかしただのゴミ回収業を営む一企業人がスーパー・エージェント、ジェームズ・ボンドの敵になり得るのかと疑問を持つだろうが、そこはやはりディーヴァー、この業界が実に世界を脅かす恐るべき存在になり得ることを見事に示した。 まず今回は死体愛好家であるセヴェラン・ハイトが相棒のナイアル・ダンと企む「ゲヘナ計画」が何であるかを突き止めるのが今回のボンドの使命。それは近いうちに行われるある大量虐殺計画を示唆しているが、場所も日時も不明。ボンドはアフリカ各地で行われている民族大量虐殺の跡地を“クリーン”にする事業を請け負っているダーバンの起業家ジーン・セロンに成りすましてハイトに近づき、計画の正体を探ろうとするのが物語のメインだ。 そして明らかになるのは我々の想像を超える恐るべき計画だった。詳細はネタバレに記載するが、実現可能と思われるだけに実に恐ろしい物をディーヴァーは考えたものだ。 しかしそこから続く更なる隠し玉はいささかインパクトが弱く感じてしまった。ディーヴァーの読者を最後まで飽きさせないサービス精神が裏目に出てしまったようだ。 さて題名の白紙委任状とはジェームズ・ボンドにODGから渡される作戦指示書のような物。それがつまり白紙である、つまりミッションの全権を委ねられており、ボンドは自らの判断で施設への潜入から破壊、そして殺人をも遂行できる。つまり原典でボンドに与えられた殺人許可証に当たるものだ。この白紙委任状はかなりの効力を持つようで、これが与えられているがゆえにジェームズは世界各国でその地の政府直属の機関の協力を得て活動できるのだ。 さて世界で活躍するジェームズ・ボンドだが、前述したようにディーヴァーの描く彼は実に現代的だ。 スマートフォンのアプリを使いこなして読唇術や追尾、盗聴を行う。実際にこれらのアプリが某国の情報局によって開発されているように思うが、反面、情報漏洩のセキュリティの脆弱さから本当にスパイがこんなことをしているのかとも疑ってしまう。実際我々の仕事で情報オペレーションシステムを扱う会社にヒアリングした際、パソコン上のデータをタブレット端末で共有して現場でもチェックできるようにできないかと質問したところ、可能だがセキュリティ上の問題が解決していないと云っていたことを考えると、あまりにも不用心すぎると考えるのは穿ちすぎだろうか。 さてリンカーン・ライムシリーズは個性的な連続殺人鬼と現代のシャーロック・ホームズであるリンカーン・ライムとの一騎打ちならば、007シリーズは巨大企業の陰謀を阻止する政府の秘密エージェントの戦いを描いた物であり、同じ悪との戦いを描きながらもそのスケールは全く違うと云っていいだろう。 恐らくディーヴァーは個対個の物語から組織対組織、もしくは組織対個という国家規模の犯罪との戦いを描きたいがために007シリーズの新作の依頼を快諾したのではないだろうか。 ただリンカーン・ライムシリーズももはやシリアル・キラーとの対決からテロリストとの戦いと巻を重ねることにスケールアップしているのは事実。それが故にもっとスケールの大きい悪との対決を描きたかったのかもしれない。 ディーヴァー版007。その出来栄えはまずは及第点と云ったところか。 アクション満載のスーパーエージェントの活躍が愉しめるものの、ディーヴァー特有のどんでん返しが今回はあまりストーリーの面白さに寄与しなかったように思えたのが痛かった。 このシリーズの続編の話はまだ聞かないが、この経験を活かしてリンカーン・ライムシリーズやキャサリン・ダンスシリーズがさらに面白くなることを一ファンとして望む。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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