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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数902件
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映画化もされた東野圭吾氏の近未来警察小説とでも云おうか、国民のDNA情報から犯人を割り出すDNAプロファイリングの罠にはまった技術者の物語だ。
幼き頃のある悲劇的な経験から人をデータとしてしか捉えられなくなった主人公神楽龍平は自ら構築したDNA捜査システムで自身を犯人と指摘され、逃亡者となる。 彼の同行者となるのがスズランなる謎めいた少女。彼は二重人格者である神楽のもう1つの人格リュウが現れた時に姿を現し、彼の絵のモデルとなっていた少女だが、彼女は神楽がリュウである彼を愛し、一緒になりたいと願う。しかしその存在は神出鬼没で読者は彼女が実在するのか幻想の賜物なのか、判断がつかないまま物語を読み進めることになる。 本書で取り上げられているDNA捜査システムとは端的に云えば日本国民全てのDNA情報をデータとして取り込むことで犯罪者を特定するシステムだ。それは現場に残された容疑者の遺留物からDNA情報を採取し、進呈的特徴や癖、習慣などを割り出すのみならず、容疑者に近い親族の情報を割り出して人物を特定し、さらにその情報を基に容疑者の顔を画像として作成するほど高度なシステムだ。 但し膨大なDNA情報から容疑者を絞り込むには途轍もなく高速化された演算能力を持つコンピューターが必要である。本書ではサヴァン症候群患者である蓼科早樹という天才的数学者によって開発された画期的なプログラムでそれを可能としたのだ。 このDNA捜査システムを読んで想起したのは住基ネットである。これは単に住所、氏名、年齢といった本人を取り巻く外的情報でしかないが、これもまた警察と政府によって仕組まれた国民管理構想の一端のように思えてならない。従ってもしDNA情報まで保存・管理・検索できるスーパーコンピューターが開発されれば本書のような捜査システムが構築されるのは時間の問題なのかもしれない。 情報を操る者は情報に操られるというのが高度情報化社会での皮肉な現象だが、今回の主人公神楽もまた高度なDNA情報を利用したファイリングシステムを構築していながら、自分自身が容疑者として検出される実に皮肉な運命が待ち受けていた。 かつて高名な陶芸家だった父親が、陶芸ロボットによる贋作が出回った時代に、自らの作品には機械などが再現できない創作者の思いや魂が込められていると断言しながらも、贋作であることを見破れずに自ら命を絶ったことで父もまたデータの1つに過ぎず、つまりデータは間違えない、そしてデータ化されるDNA、遺伝子は嘘つかないと絶対視してきた男がそのデータによって裏切られ、窮地に陥る。 エンタテインメントの手法としては古くからハリウッド映画でも題材にされてきたテーマだろう。しかしこれを絵空事と思っていいものだろうか? 上に書いたように、既に我々の情報は公共機関によって管理されている。それが機械のミスで、いや故意に人為的に操作されて自分がある日突然犯罪者に仕立て上げられる可能性もあるのだ。このデータは嘘をつかない、機械はミスをしないと信じる盲信性こそが現代社会に生きる我々の最大の敵ではないだろうか。 題名となっているプラチナデータは物語終盤になって登場する。 完璧な正義など存在はせず、大なり小なりの悪が存在しながら社会は機能している。 東野氏は自身の公式ガイドブックの諸作の自己解説でところどころで上のようなことを述べている。従って東野作品は個人の力ではどうしようもないことに対して非常に自覚的である。 それが故に彼の作品は勧善懲悪的に悪が必ず罰せられる結末を迎える作品は少なく、どこか割り切れなさと現実の厳しさというほろ苦さを読後に残す。 果たしてこれは来るべき未来に対する東野氏からの警鐘なのだろうか。裁かれるべき者が、巨悪がさらに大手を振って世間に幅を利かせる世の中になっていく。 ここで書かれた未来はなんとも暗鬱だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今なお続く殺し屋ケラーシリーズ。本書はそのシリーズ最初の作品であり、短編集である。
まず最初の「名前はソルジャー」は『夜明けの光の中で』にも所収されており、既読なのでここでは感想を割愛するが、この作品は一度目よりも二度目の方がケラーがどうして仕事、つまり殺しを実行する気になったかが如実に解るような気がする。 「ケラー、馬に乗る」では飛行機を乗り継いでワイオミング州のマーティンゲイルへ赴く。 小さな町でケラーが出くわす奇妙な人間関係が本作では面白い。殺し屋のターゲットが浮気相手の女性の父親であり、さらに彼女は亭主を殺したがっている。そしてその亭主にも当然浮気相手がいてそちらを愛しており、結婚したがっている。 この物語に確かな答は出てこない。あるのは結果だけだ。そして些末なことに囚われないのがケラーという男なのだ。 続く「ケラーの治療法」ではケラーは精神科医のカウンセリングを受けている。 ケラーが精神科医とカウンセリングを続けるうちに読者は徐々にケラーがどういう男なのかを知ることになる。彼の本名がジョン・ポール・ケラーであること、1作目でも語られた子供のころに飼っていた犬ソルジャーの話に父親の話と、彼の生い立ちや素性を知るだけでも貴重な一編と云えよう。 そしてこのどこへ向かうのか解らない物語は急転直下を遂げる。何とも云えない読後感を残す作品だ。 そしてその犬ネルソンがケラーに思わぬ効果をもたらすことを知らされるのが次の「犬の散歩と鉢植えの世話、引き受けます」だ。 ケラーの短編は時系列に並べられており、その前の短編で書かれた内容がその後の短編にも関係してくるのだが、本書ではそれが顕著に表れている。 そのアンドリアとの関係に一つの答えが出るのが続く「ケラーのカルマ」だ。 とてもヒットマンが主人公の物語とは思えないほど、人間味が溢れている。 「ケラー、光り輝く鎧を着る」と一風変わった題名の本作では依頼斡旋人のドットがホワイト・プレーンズのオフィスを飛び出し、ケラーを訪ねてくる。 しかしそれよりもケラーの依頼人であるホワイト・プレーンズの男が前作から調子を悪くしているのが気になる。こういう短編同士を貫く軸があるから次が楽しみになるのがこの殺し屋ケラーの醍醐味と云えよう。 「ケラーの選択」は実に面白いシチュエーションだ。 恐らく殺し屋稼業をテーマにした作品ではありえない間抜けな内容だ。これもケラーシリーズだからこその面白さと云えよう。 そして本作ではそれまでの展開から極端に変化が訪れる。それはまた後で述べることにしよう。 そして「ケラーの責任」ではそれまでの殺し屋物には似つかわしいほどほのぼのとしたムードから一転してケラーの苦悩と殺し屋としてのプライドが描かれる。 人を殺す生業の男があろうことか、昔取った杵柄で人命救助してしまう。それが基でケラーはターゲットである名士ギャリティに気に入れられ、さらにケラー自身も彼の事を気に入ってしまう。この殺し屋のジレンマを抱えたこの物語は意外な展開を見せる。 こんな男らしい物語を読まされると実に堪らない。 「ケラーの最後の逃げ場」ではケラーは突然愛国心に目覚める。 殺し屋ケラーも詐欺に掛かるのだということを教えられた。しかしこれはケラーをはめたバスコウムを褒めるべきか。 聡い読者ならすぐにケラーに依頼するバスコウムの胡散臭さが解るところが寧ろ本作の面白さではないだろうか? そしてこの短編集の最後を飾るのは「ケラーの引退」だ。 ケラーの引退で幕を閉じると思われたこの短編集。新たなシリーズの幕明けを告げ、本は閉じられる。 しかし切手収集が趣味な殺し屋とは、ブロックは何ともおかしな趣味をケラーに与えたものだ。 古くは不眠のスパイ、エヴァン・タナー、そして無免許探偵マット・スカダーに泥棒探偵バーニイ・ローデンバーに短編集のみ登場する悪徳弁護士エイレングラフとブロックのシリーズキャラクターは実に個性的なのだが、そこにまた新たなメンバーが加わった。 それは殺し屋ケラー。 黒い表紙に都会の片隅を想起させる湿った路地の写真と銃痕で穴の開いた窓の意匠に「殺し屋」の文字。装丁から想起されるのは非情で孤独な男の世界なのだが、しかしこの殺し屋に纏わる話は実に奇妙なのだ。どのシリーズにもないどこか不条理感を伴っている。 しかしそれもシリーズを読み進めるうちに読者にケラーの素性が解ってくるに至り、何を考えているのか解らなかったこの男が実に人間臭い人物になってくるのだ。 これが殺し屋の物語かと見紛うほど、ほんわかする内容だ。 つまり読み進むうちにケラーの変化を同時に読者は感じるようになり、次の展開が非常に気になる作りになっている。 しかしそんな読者、いや私の期待を次の「ケラーの選択」で見事に裏切る。 これはシリーズの広がりを期待しただけに非常に残念なシチュエーションなのだが、実はこの作品から物語のトーンが変わり、実に読み応えが増している。 この後に続く「ケラーの責任」はMWA賞受賞作に相応しい傑作だ。本作のケラーは実に深みがあり、孤高の殺し屋としての流儀を重んじる人物になっている。 彼は思いまどいながら殺すのを躊躇うターゲットに対して責任を果たすことこそが餞になると決意するのだ。この心理こそが殺し屋の殺し屋たる仁義とも云えよう。個人的ベストに迷わず挙げよう。 そしてケラーが見事に詐欺に引っ掛かってしまう「ケラーの最後の逃げ場」を経て「ケラーの引退」で一旦幕を閉じる。 しかし殺し屋を主人公にしながらこのヴァラエティーの豊かさはどうしたものだろう。まさにブロックはアイデアの宝庫であり、ノンシリーズのみならず連作短編でさえもその瑞々しさは損なわれることがないことを証明した。 男臭さの宿る装丁で手に取ることを敢えて躊躇っているならばそれは実に勿体ない話だ。この物語世界の豊かさは寧ろ男性よりも女性に手に取ってほしい色合いを持っている。 ケラーの、どことなく思弁性を感じさせる彼独特の人生哲学と、仕事斡旋人のドットとの掛け合いの妙を存分に堪能してほしい。殺しを扱いながらこんなにも明るい物語に出遭えるのだから。 この二律背反を見事に調和させたブロックの職人芸、ぜひとも堪能していただきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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戦争小説でデビューし、その後も冒険小説、スパイ小説と様々なテーマを題材にしてきたマクリーンが今回選んだ題材はF1レースの世界。ある日突然トラブルに見舞われるようになったトップ・レーサーを取り巻く不審な事故を巡る物語だ。
本書ではもはやマクリーン作品の特徴となった、前段がなく、いきなり事件の途中から物語は始まる。そして稀代のトップ・レーサーと称されながらも、最近自殺行為とも云える際どいレースを繰り広げるジョニー・ハーローの一匹狼的な事件の調査をメインに物語は進行する。 マクリーンはジョニー・ハーローに対して外的描写のみで語るため、彼の心中は他の登場人物同様、読者には全く解らない。 本書ではいきなりレース中の事故で他チームのレーサーを死なせてしまう事件から幕を開けるため、まず読者にはジョニー・ハーローが作品で語られるほど凄腕のレーサーとは思えず、寧ろ心理の読めない孤高の、悪く云えばいけ好かないレーサーと映り、正直感情移入がしづらい人物となっている。そんな彼の真意は物語の最後に語られる。 一流レーサーともなると度胸とハートの強さが要求されるが、彼はまさに一つ抜きん出たメンタルの強さを持った人物と云えよう。その裏付けとして一連の事件に加担した人々に対して眉一つ動かさずに非情な制裁を加えることを全く厭わないことが挙げられる。 その冷徹ぶりはもはや一介のレーサーを通り越して、数々の修羅場を経験したエージェントのような趣さえある。 本書はマクリーン作品では実に読みやすい作品で、つっかえるところなく、クイクイ読めるところがいいのだが、その反面、マクリーン特有のメカに対する詳細な描写がほとんどないのが気になった。 ヨーロッパでは有名なモータースポーツに詳細な専門用語を並べることはもはや意味がないとまで思ったのか。いやそれとも晩年の作品は取材する時間をほとんど取らずにテクニックで小説を著していたのか、今となっては解らないが、マクリーンらしい熱が足らない作品だった。題材がそれまでのマクリーン作品の中でも異色だっただけにこれは実に惜しい。 真相も今にして思えばどちらかと云えばありきたりの内容だ。マクリーンの衰えを如実に感じさせる作品だったことが非常に残念だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フリーマントル4作目の本書ではアメリカ次期大統領の有力候補と目されるアメリカ大使が大統領選を優位に運ぶためにソ連に対して行った駆引きに巻き込まれる老スパイとイギリス人大富豪の姿を描いた作品だ。
フリーマントルの定番とも云えるスパイ物だが、本書に登場するのはナチス時代に収容所に入れられ、屈辱の日々の末に解放され、スパイとなったユダヤ系オーストリア人フーゴー・アルトマン。彼はアメリカとソ連の陰謀の渦中に否応なく巻き込まれる。 しかし本書では各国政府の思惑の狭間に翻弄されるのは老スパイ、フーゴー・アルトマンだけではない。上に書いたように作戦成功のキーマンとしてロシアによって標的にされたイギリスの大富豪でアメリカ次期大統領候補ジェイムズ・マレーの義弟であるジョスリン・ホリスもまた運命と云う名の歯車に巻き込まれる。彼はロシアに仕組まれたアルトマン、チェコ貿易相コーデス、東ドイツ貿易相ユンカースらによって国際的取引を持ちかけられることでスパイ容疑を掛けられる。 今まで順風満帆だった実業家がある巨大国家の思惑によって囮スパイに仕立てられるこの恐怖。知らず知らずに知り合った外交官が実は共産主義国から送り込まれたスパイだったことで自身にも容疑が掛けられる、まさに突然の災厄以外何物でもない。 本書にもちらりと出てくるがいわゆるキム・フィルビー事件に関わった人々は同様の恐怖のどん底に陥れられたことだろう。 ところで2、3作目に続いてフリーマントルは本書でも収容所に入れられた男を題材に選んでいる。恐らくは収容所をストーリーに絡めた2作目を著すに当たり、取材の過程でたくさんのエピソードを手に入れたのだろう。そしてそれらのエピソードを1つの物語に圧縮するには分量が多すぎて、3作も連続して収容所に纏わる男たちを主人公にした物語を綴ったのではないだろうか。 凄腕の、国に貢献をしたピークを超えた一介のスパイが、その実績ゆえにそれぞれの国の暗部を抱えていることを危惧した政府によって抹殺されることを余儀なくされ、どうにか自分の運命に抗う姿を描くのはフリーマントル作品には多々ある構成だ。そしてそのどれもが悲劇的な結末を迎え、読者を暗鬱な気持ちにさせる。 それは本書でも例外ではなく、熟練の老練さでロシア外相の指令に従い、行動し、自らのアメリカへの亡命をも成功させようと企むアルトマンの末路は想像以上に悲惨だった。 こう考えると用無しとみなされたスパイの悲劇的な末路を描くフリーマントル流常套手段を打ち破ったのが今なお新作が書かれている窓際スパイ、チャーリー・マフィンシリーズだろう。 そして同シリーズは第1作目が本書の後に書かれるのだ。 つまりこのフリーマントル的悲劇を知る者にとっては実はチャーリー・マフィンシリーズとは彼の作品群の中で異色の部類に入ると云えるだろう。 さて題名『十一月の男』は原題“The November Man”そのままである。この11月とは即ちアメリカ大統領選挙の行われる月を指す。 しかし一方で陰謀の渦中に飲み込まれようとしている富豪ジョスリン・ホリスもまたこの11月に大きな取引を控えていた。そしてアルトマンは来るべき11月を迎えることはできなかった。“Man”と原題では単数形が用いられているが、本書は男たちそれぞれが迎える11月を指しているのではないだろうか。 しかし毎度暗鬱になる物語を書く作家だ、フリーマントルは。 これらの作品群があって次作の『消されかけた男』が光るのかもしれない。今なお書かれ継がれるそのシリーズのマーケット戦略は見事に成功したわけだ。 それを当時のフリーマントルが実際に考えていたかどうかは解らないのだけれど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今では次世代を担う作家の1人となった道尾秀介氏のデビュー作が本書。ホラーサスペンス大賞の特別賞を受賞して刊行された。ちなみに大賞は沼田まほかる氏の『九月が永遠に続けば』だ。
さてそんな彼のデビュー作は怪異現象を解き明かす霊現象探求所なる物を開業している真備庄介が登場し、そしてそのパートナーは道尾秀介という作者と同姓同名のホラー作家という、探偵=作家の構図を持った作品である。 背中に眼のような物が写った奇妙な写真の被写体になった者たちが次々と変死を遂げる。その事件の発端となった福島県の山中にある白峠村には忌まわしい天狗伝説があり、4人の子供がいなくなるという神隠しの事件も起こっていた。さらには隣の町では霊の視える少年がいて、2人に関わっていく。 物語は怪奇現象としか思えない土俗的な伝奇色を濃厚にしていく。私は上にも書いたようにこの後の作品が続々と『このミス』でランクインされる道尾作品の本作は当時京極夏彦の百鬼夜行シリーズを髣髴させるという世評もあって、本作をホラーと見せかけて合理的な解決が成されるミステリだと思い込んで読んでいた。 しかし物語はすっきりと解決されない。合理的な解決でありながらもどこか割り切れなさの残る、中途半端な読後感が残ってしまった。 この一見合理的でありながらも不確かな物に解決を求める真相に今の私は正直戸惑っている。齢四十を過ぎると人間の心の不思議さや状況が人の心に及ぼす思いがけない効果などに対しても頑なに否定せず、納得できるようになったと思っていたが、それでもなお腑に落ちなさが残る真相、物語の閉じ方である。 そして今さらだが本書がホラーサスペンス大賞の特別賞受賞作であることに気付かされた。つまり本書はやはりホラー小説だったのだ、と。 物語にふんだんに盛り込まれる地方の因習や伝承に加え、実在する童話に少年殺しの意外な真相を絡め、更には東海道五十三次の一幅の絵を福島の山奥に残る天狗の忌まわしい殺戮の歴史に重ねて殺人者の狂気へと導くプロットはとてもデビュー作とは思えないほどの完成度だ。 しかしやはりもやもやとした割り切れなさが残るのは正直否めない。 先入観と云う物は全く恐ろしいものだ。 次こそはまっさらな心で物語に臨みたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ後期の始まりと云える本書は実に変わった趣向が施されている。それは奇数章しか存在しないのだ。
では偶数章はどこへ行ったのかと云うと、それは次作『夏のレプリカ』で書かれる。それは冒頭のみ登場する西之園萌絵の高校時代の友人、簑沢杜萌の身に起こった事件だ。 つまり本書と次作は2作で1つの大きな物語を語っていると云えるだろう。 このような趣向はアメリカの海外ドラマで別のシリーズのキャラクターが登場し、各々の作品の話に影響を及ぼす、いわゆるクロスオーヴァーという趣向に実に似ているが、読後の今は次に語られる事件がさほど本作には絡んでいないように感じたので、その是非は次作を読んでからにしたい。 さて本書ではまたもや密室殺人が扱われているが、それまでのシリーズ作品と違い、鍵の掛けられた状態での密室ではなく、衆人環視の中でマジシャンが殺される、いわば開かれた密室である。 本書で提示される謎は4つ。 先述した衆人環視の中での有里匠幻というマジシャンが何者かによって背中にナイフを突き立てられ絶命する事件。 そしてその匠幻の葬式で霊柩車に乗せられた棺から忽然と匠幻の死体が消えうせる謎。 さらに匠幻のトリック製作を担っていた工場の社長菊池泰彦の死。 そして最後は有里匠幻の弟子の1人、有里ミカルが爆破解体されるビルから脱出するマジックで死体となって発見される事件。 4つの謎に3人の死とミステリとしてはこの上もない充実ぶりだ。 そんな陰惨且つ幻想的な殺人事件の犯人は実に意外な人物だった。 そしていつも思うのはこのシリーズの事件解決に至るまでの時間が実に長いことだ。 今回のマジシャン有本匠幻が衆人環視の中で殺害される事件が起きるのが8月の第1日曜であり、事件解決は9月の第2土曜日以降である。つまり最低1か月半は経っているのだ。 これは本書の探偵役である犀川創平は事件解決に積極的でないことに起因するだろう。彼の関心は自分の研究題材であり、そして西之園萌絵であり、決して事件の謎ではない。彼が事件に向き合うのは事件に積極的に関わる萌絵に危機が訪れた時だ。彼は望まざる形で事件に関わり、そして誰よりもその真実をいち早く見抜くのだ。しかし彼の関心が事件にないために事件解決まで、いや西之園萌絵が事件の真相に肉迫するまで解決されないのだ。 そして事件のエピソードには萌絵の大学生活に纏わるイベントが盛り込まれており、今回は大学院受験の真っ最中である。この辺は大学生活を経験した者には案外ノスタルジイを感じるのかもしれないが、大学生活を知らない者や萌絵自身に関心のない読者にとっては全く以て「それで?」と呟いてしまうエピソードではある。 そして色恋沙汰は西之園萌絵と犀川創平の関係だけではない。サブキャラクターである院生の浜中深志にもとうとう我が世の春が訪れる。彼に恋人らしき存在が出来る村瀬紘子という同じN大学の文学部の1年生が彼と付き合うことになる。 そして愛知県警の若手刑事たちで西之園萌絵と定期会合を行う<TMコネクション>なるファンクラブめいたサークルも出来るに至って、ますます西之園萌絵に嫌悪感が増してしまうのは私だけだろうか。 さて前作『封印再度』に続いてまたもやタイトルで唸らされてしまった。 ストーリーとタイトルがマッチするとこれほどまでにカタルシスを感じるのかと再認識した。後は本書で感じた違和感を次作で払拭されることを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マット・スカダーシリーズ13作目の本書は前作に引き続いて連続殺人事件を扱っている。しかも不可能趣味に溢れた本格ミステリのテイストも同じく引き継がれているのが最大の特徴だろう。
今回スカダーが取り扱う事件は2つ。 1つ目はウィルと呼ばれる社会的制裁者。 誰もが認める悪人なのに裁判の結果、無罪放免になり、大手を振って世間にのさばっている、いわば法によって裁かれない悪人たちを処刑する必殺仕事人だ。ウィルはどんな巨悪であっても宣告通りに始末してきた。それがニューヨーカーたちを、いやアメリカ国民の“正義”を触発し、世間を賑わせている匿名の犯罪者だ。そんな劇場型犯罪にマットは立ち向かう。 もう1つはAAの集会で挨拶を交わす程度の知り合いだった男バイロン・レオポルドが散歩中に何者かによって殺される事件だ。 毎日何千人をも人が殺されているというニューヨークで起きた1人のHIV感染者でもある男の死。一方はマスコミとアメリカ中を賑わせている劇場型犯罪者、そしてもう一方はニューヨークの片隅で起きたHIV感染者の殺人事件。そんな極端に異なる事件にマットは対峙する。 まず解決するのは現代の仕置人ウィルの事件だ。 そしてこの事件の後、マットはもう1つのバイロン・レオポルド殺しの犯人を突き止める。 この一見関係のない2つの事件には一貫してあるテーマがある。それは病魔というキーワードだ。 この社会に蔓延する病気が犯罪を起こさせるという本書のテーマは刊行当時アメリカ社会を席巻していたエイズ、即ちHIVキャリア問題が色濃く反映されているからではないだろうか。特に患者の多かったアメリカでは日本の数倍ものセンセーショナルな病気だったのかもしれない。 人の心とはなんと弱いものだろう。挫折をバネにして再起を果たしても忌まわしい記憶は決して当人の心からは消え去ることはなく、その疵の傷みを止めるためにその手を汚す。 それらはいわゆる「魔がさす」という類のものだろう。 そして数秒間に1人が死ぬと云われているニューヨークでは1つ1つの事件が必ずしも解決されるとは限らず、恐らく彼らの殺人も次々と起こる事件の荒波に埋没する運命だったのかもしれないが、魔がさして成された殺人を抱えたまま生きるのはやはり苦しく、ある者は自らの命を絶ち、ある者は積極的に自白をし、ある者は観念して罪を告白する。 本書は現代に甦った仕置人の正体を探る本格ミステリ的な設定を持ちながら、最後に行き着くところは名探偵の神懸かった推理や驚愕のトリックが登場するわけでもない。 マットが素直に人間を見つめてきたことによって出た答えによって導かれた犯人であり、そのどれもが人間臭く、決して他人事とは思えないほど、その心の在り様がリアルに思えるのだ。 前作『死者の長い列』の解説で法月綸太郎氏は同書と本書が謎めいた連続殺人事件を扱っていることで本格ミステリとしても読める異色作だと述べていたが、とんでもない。これまでの作品同様、八百万の人間が住まうニューヨークに起こる人間の営みとそれが引き起こす人間の心の変化による犯罪を扱っているのだ。 そしてまたもや事件に遭遇することでマットの身辺に変化が訪れる。 今回は事件自体が派手なこともあって、今回はマットがなんとマスコミたちの注目の的になる。 マットがウィルの正体を突き止めたことがマスコミにリークされたからだ。これが今後彼の事件の関わり方にどんな変化が訪れるのか、ちょっと想像がつかない。 そして『処刑宣告』という物々しいタイトルとは裏腹に結末は実に暖かい。『倒錯の舞踏』以来、マットの好パートナーとして活躍してきたTJに思いもかけないプレゼントが与えられるのだ。 それはまずパソコンだ。これは恐らく機械音痴であるマットに替わって捜査のツールとして使うために与えられたようだ。 そしてマットが今まで住んでいたホテルの部屋が終の棲家として与えられる。つまり彼はマットの本当の相棒になったのだ。一介のストリート・キッズだった彼がここまでの存在になるとは思わなかっただけにこれは読者としても何とも嬉しいサプライズだった。 マットを取り巻く人々とマット本人の世界はますます彩りを豊かにしていく。アル中で子供を誤って銃で撃ち殺した元警官という忌まわしい過去を背負った中年男の姿はもはやないと云ってもいいだろう。 しかし本書はどれだけ歳月を重ねても人の抱えた心の疵はなかなか消えないことを謳っている。あまりに順調なマットの人生に今後途轍もない暗雲が訪れそうである意味怖い気がする。 この平穏はしばしの休息なのか。 まあ、そんなことは考えずにまずはこのハッピーエンドがもたらす幸福感に浸ることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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ガリレオシリーズ第5弾の本書は『容疑者xの献身』以来の長編だ。
ガリレオこと湯川学が挑むのは離れた場所にいてある特定の人物に毒物を飲ませる方法を探ることだ。しかしこのトリックが湯川をして「理論的に考えられるが、現実的にはありえない。まさに完全犯罪だ」と云わしめるほどの難問なのだ。 そんな湯川を悩ませる事件自体は至極単純だ。 夫人の不在中に夫が不倫相手と自宅で過ごしている間に自分で作ったコーヒーで毒殺される。その毒の混入元を探るのがメインの謎だ。一方で犯人は読者にはほとんど明確に提示されている。それは毒殺された夫真柴義孝の妻綾音だ。 この容疑者がいかにして不在中に毒を混入できたのかが事件の焦点である。 元来ミステリでは毒殺物は古今東西に亘って多数書かれている。やはりこの毒殺トリックというのは本格ミステリの書き手ならば一度は手掛けたいものなのだろう。 毒をいかにして標的に飲ませるか? そしてどんな毒を使うのか? 殺害方法は単純ながら、そのヴァリエーションは多岐に亘っている。そして本書はまた毒殺トリック物に新たな1ページを刻むことになった。 しかし本書で最もミステリアスなのはこのトリックよりも実は容疑者である被害者の妻真柴綾音だ。 彼女は自らを容疑の外に置きながらも、第一容疑者で夫の不倫相手兼自分の会社の従業員である若山宏美を擁護し、あまつさえ自らも場合によっては犯行が可能であったとさえ、内海・草薙らに仄めかす。 慈愛に満ちた表情を湛えながらも、自分の教え子を護る時には毅然とした厳しい眼差しを向け、自分も容疑圏内に置こうとする。その姿は題名にもあるようにまさに聖女のようだ。 この常人の理解を超えた綾音の心理は慈しみを超えて、時に読者に判じ得ない恐怖を覚えさす。 そしてそんな彼女に草薙は心を揺さぶられてしまう。出逢った瞬間に今までにない感情を事件関係者に抱くことになるのだ。それは刑事としてはあってはならぬことだ。 捜査に当る警察官が容疑者に惚れる。 このハーレクイン・ロマンスのような設定をまさかこのガリレオシリーズで読むことになろうとは思わなかった。 しかもその刑事が草薙。ガリレオシリーズでは科学に疎い読者の代弁者として名探偵湯川学に事件の解決を依頼するパートナー的存在だった彼も本作で恋する人間臭さを備える。 一方翻って彼の相棒の内海薫の人物造形の豊かさはますます深まるばかりだ。 私はTVシリーズの方は観ていないのだが、視聴者の話では柴咲コウ演じる内海薫は草薙刑事の役回り、つまりドラえもんでいうところののび太的存在だ。 しかし前作『ガリレオの苦悩』で初登場して以来、内海の刑事としての優秀さが長編の本書でさらに磨きがかかっている。特に女性特有の視点で捜査に別の方向から光を当てる着眼点の鋭さが。内海を投入することでこのシリーズは事件とそれに関係する人々への描写がさらに濃密になったといっても決して過言ではないだろう。 草薙を翻弄し、内海も歯噛みし、そして湯川をも唸らせる完全犯罪のトリックは実に驚くべきものであった。 そして1年間子供が出来なかったから別れてくれと宣告されたときに自分が自宅を離れることで綾音はその封印を解いた。 彼女は自分が子供を作れない身体であることを知っていたからこそ、期限の来る1年前にこの時限爆弾を仕込んでいたのだ。それは子供がほしいがゆえに独善的な約束事を押し付ける夫の支配に対する彼女にとっての“銃”だったのだ。いつでも引鉄が引けるように常に装填された銃を彼女は心に持っていたのだ。 正直このトリックは現実的に考えると無理があるだろう。恐らく読んだ人全てが納得するトリックでは決してないだろう。 しかし私はそんなありえない殺害方法を肯定的に受け止める側だ。 このトリックはやはり真柴綾音という存在あってのものだと思うからだ。これが他のキャラクターならば到底納得できなかっただろう。そしてこれこそが東野マジックなのだ。 『容疑者xの献身』では自分に生きる希望を与えてくれた母子を助けるために自らが容疑者役に回った石神。 そして本書では結婚した瞬間に離婚せざるを得ない時限爆弾を抱えた綾音の行為もまた献身ではないか。しかしどちらも屈折した献身だ。 毒殺トリック物という本格ミステリど真ん中の謎を設定しながら、読み終わると人間というものの複雑さが際立つ、なんとも贅沢なミステリ。 これぞ東野ミステリ!と看板を掲げたくなる傑作がまたここに生まれた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ナヴァロンの巨砲壊滅はただの前哨戦に過ぎなかった!
満身創痍で瀕死の状態で任務を成し遂げたマロリー大尉とミラー伍長たちのまさに任務達成直後から物語は始まる。 2人は再びジェンセン大佐から新たな任務を告げられると、ようやく任務を終えて結婚式を挙げようとしていた不屈の男アンドレアを強引に引き連れてイタリアのテルモリへと向かう。今度は孤軍奮闘する7,000人ものパルチザン兵を救出するために。 しかしジェンセン、人遣い荒過ぎでしょう! ほとんど生死の境を彷徨うほどの超難関な任務を終えた部下たちをたった30分しか眠らさず、飛行機に乗せて次の任務地に連れて行くなんて、今の時代ならパワハラ上司の極みとの謗りを受ける事だろう。 そんなパワハラ上司ジェンセンの有無を云わさぬ強引さによって今回もマロリーたち一行は困難な任務に赴くわけだが、1作目に比べると切迫感がないように感じる。疲労困憊なはずなのに1作目で感じた死線を彷徨うようなスリルに欠けるのだ。 物語のスケールとしては前作が1,800人のイギリス兵の救出に対し、今回は7,000人のパルチザンの救済と3倍以上になっているにもかかわらず、常に余裕綽々で全知全能の存在の如く、事に当たっているように感じる。寧ろ部下のレナルズのように眼前に起きている事態が解らなくて戸惑っていながら、マロリーに反発している姿こそが読者そのものを写しているかのように感じた。 それはやはりキース・マロリーがもはや生ける伝説の英雄となっているからだろう。前作登場時は世界的な登山家として勇名を馳せていたという設定ではあったが、読者にとってキース・マロリーは全くの門外漢であった。その男が満身創痍になりながら不撓不屈の精神で不可能と思われたナヴァロンの巨砲を打ち砕く姿に感動を覚えたものだった。 しかし今回のマロリーはその時の男とは違い、もはや一介の登山家ではなく、誰もが不可能を可能にする男としてヒーロー視しており、そしてマロリー自身も上に書いたように困難を困難とも思わずに誰もが呆気に取られるような無謀な計画を立てては完遂する有言実行の男になっている。 1作目では到底不可能とされた任務に何度もくじけそうになりながらも前に進んだ姿とはもはやかけ離れているのだ。“男子三日会わざれば刮目して見よ”という言葉があるが、キース・マロリーの人物造形の違いは危難を達成したが故の成長と見てとれるが、それにしてもその違いには戸惑いを覚えざるを得ない。 読者へのサーヴィス精神と云う観点から考えれば、救出すべき人員の数と巨砲ならぬダムの破壊と以前にも増してスケールアップしているのは定石通りと云えば定石通りだが、物語の深みが明らかに減じているのは非常に残念だ。 前作が作者2作目の意欲作であり、所謂「2作目のジンクス」を打ち破らんがために渾身の筆致で描いた苦難に挑む男達の物語だったが、それはデビュー間もない作家が持つ初々しさと粗削りさがいい方向に出た稀有の傑作だったと云えよう。 翻って本書はキース・マロリーと彼の仲間ミラーとアンドレア達ヒーローの物語であり、冒険小説ではなく映画化を意識したエンタテインメント小説となってしまっているのだ。特に原作しか読んでいない読者にはピンと来ないアンドレアの婚約者マリアはなんと映画でのオリジナルキャラクターとのこと。映画会社のいいなりになって自身のオリジナルをも捻じ曲げるとは、何とも情けない限りだ。 そして哀しいかな、本書以降、書評家たちのマクリーン作品への評価は決して高くない。この2作の明らさまな違いがその後のマクリーンの、テクニックだけで映画会社が喜ぶストーリー展開と派手な演出へと淫していった兆しが同じ主人公を使った本書で顕著に表れたように感じた。 |
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フリーマントル3作目の本書ではエスピオナージュを扱う作家ならば一度は扱う題材、ナチスだ。ナチスの残党を追うモサドとそこから逃れようと身分を変え、潜伏している元ナチスの党員や人体実験を行った科学者たちの息詰まる情報戦を描いている。
オーストリアの湖から引き揚げられた箱の中にはナチスの残党に関する情報が収められたファイルがあった。ロシアの宇宙開発に携わるヴラジミール・クルノフは自分がナチス時代、ユダヤ人収容所で様々な人体実験をした責任者ハインリッヒ・ケルマン博士だったことを明かされてはならぬとベルリンへ乗り出し、ファイルを手に入れようとするが、バヴァリア訛りの謎の男に彼がケルマン博士であることを知られ、脅迫される。 この謎の脅迫者の正体と一連の事件の真相は物語の3/4辺りで明らかになる。 世界でも執念深さと世界中に散らばるユダヤ人と云う広範な情報網を持ったモサドという組織の凄さを改めて思い知らされた。 第3作目にして世界におけるナチスの存在の忌まわしさとモサドのナチスに対する復讐心の奥深さと執念深さを何の救いもなく描くとは、とても新人作家のする事とは思えないのだが。 また本書が発表された1975年はイスラエル問題の最中でもあり、また解説によれば実際に翌年の1976年に国際指名手配されていた元ナチスの党員が世界各国で自殺を遂げており、まだ第2次大戦から地続きであった時代だったのだ。 このユダヤ人大量虐殺を行ったナチスに対して異常なまでに復讐心を燃やすイスラエル政府の執念深さはマイケル・バー=ゾウハーの諸作で既に知っており、最近読んだノンフィクション『モサド・ファイル』は本作をより理解する上で非常によい参考書となった。 特に本書にも出てくるゴルダ・メイヤやモシェ・ダヤンといった実在の政治家は同書に写真まで掲載されているのでイメージも喚起しやすかった。書物が書物を奇妙な縁で結ぶことをまた体験したのだが、逆に云えばこのようなエスピオナージュの類を読むならば、『モサド・ファイル』ぐらいのノンフィクションは読むべきなのかもしれない。 題名『明日を望んだ男』はナチスの亡霊から逃れようとしたハインリッヒ・ケルマンやヘルムート・ボックら残党達だったのだろうが、それらに復讐を計画したナチスのユダヤ人収容所出身のウリ・ペレツもまた忌まわしき過去を清算して新たな「明日を望んだ男」なのかもしれない。 彼らが望んだ明日とは決して無傷では得られないものであった。それほどナチスが世界に及ぼした傷跡は深いのだと云う事を改めて教えられた。 だからこそいまだにナチスをテーマにした作品が紡がれるのだろう。本書はフリーマントルにとってナチス、モサドを題材に扱っていく足掛かり的な作品であったことはその後の作品からも窺える。 しかし本当に救いのない話だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズ第6作。なんと前作から11年ぶりの作品だ。
ブロックによれば彼の中にはいつも登場人物が住んでいるらしく、彼らが時々現れて新たな物語を教えてくれるとのことだ。久々にマット・スカダーシリーズの新作と殺し屋ケラーシリーズの新作を出したが、それも彼に云わせればまだ彼らが生きていたからだろう。 さてそんな久々のシリーズ作品は日本人にはほとんど馴染みがないが、アメリカでは株や絵画の売買や不動産以上の投資効果があると云われる野球カードに纏わる物語だ。 といっても物語は単純明快のようで複雑に展開する。密室殺人あり、偽装殺人ならぬ偽装窃盗ありと、案外本格ミステリど真ん中の設定と新たなヴァリエーションを加えられて物語は進む。 演劇を観に不在になることが確実な裕福な夫婦の邸宅に忍び込むはずが、結局適わず、夜中に1本の電話を掛けるだけで終わる。しかし何の因果か、キャロリンと別れて家路に向かう途中で出くわした美女にしばらく海外旅行に行っている夫婦がいることを知らされて、そこに忍び込んで大金をせしめるが、その家のバスルームに死体を発見してしまう。 通常ならばそこでバーニイに殺人の濡れ衣を着せられるのだが、本作では電話を掛けた裕福な夫婦がコレクションしている貴重な野球カードが盗まれており、その容疑がバーニイに掛かって逮捕されるのだ。 さらに忍び込んだ先で出くわした死体はそのコレクターから野球カードを盗み出した当人だと以前出くわした美女に教えられる。しかし野球カードコレクターは実はカードは盗まれてなく、自分が売り払った後に盗まれたと証言して保険金をせしめたのだった。 とまあ、このように物語は二転三転、四転五転していく。登場人物の相関関係が複雑に絡み合い、これらが綺麗に繙かれるのかと心配するが、ブロックは最後の大団円で、バーニイは関係者を集め、推理を開陳する段になって、全てが鮮やかに解き明かされる。 それはなんとも美しいロジック。特にこのシリーズの前作や前々作ではこの本格ミステリ趣向を全面に押し出そうとしたせいか、却ってプロットが複雑になり過ぎて、読了後も煙に巻かれたような思いが残って釈然としなかったが、本作では実にシンプルに解き明かされ、カタルシスをも感じた。 ただエラリイ・クイーンらとは違うのは彼が直感的に推理を紡ぎ出しているところもあるところだが、それは許容範囲だろう。 また野球カードに熱狂するアメリカ人の心情は以前なら理解し難かったが、今ならば日本人もトレカ、つまりトレーディング・カードで同様な行為をしている人々もいるので、全く別の世界の話とまでには刊行当初の1994年に比べてはなっていないだろう。 とはいっても私はトレカも門外漢なので本書のように何万ドルもの価値のあるトレカがあるのかどうかは解らないのだが。 さて古書店主になってからのバーニイのシリーズでは本に纏わる薀蓄、特にミステリに関する小咄が多くて海外ミステリファンの心をくすぐるのだが、本書ではスー・グラフトンの作品に集中しているのが興味深い。 特に彼女の代表作であるキンジー・ミルホーンシリーズの『アリバイのA』に代表されるアルファベットをモチーフにした題名をパロディにしたやり取りが実に面白い。これは当時アメリカミステリ作家クラブか何かでスー・グラフトンとかなり親しくなったのだろうか?とにかく出てくる、出てくるパロディのオンパレード。最初から最後までこのキンジー・ミルホーンシリーズの題名をパロッたやり取りが繰り返される。 さて今までのこの泥棒探偵シリーズはバーニイが泥棒でありながら、アルセーヌ・ルパン張りに殺人を犯さず、しかも仕事の後は仕事の前と変わらぬように部屋を片付けて出ていく、スマートさを信条にした泥棒であり、その彼が図らずも殺人事件に巻き込まれて、窃盗以外の罪を着せられそうになるのを防ぐために自ら事件解決に乗り出すのが物語の必然性になっていた。 しかし本書では恒例のように盗みに入った先で死体を発見し、さらに彼に常に疑いを持つ刑事のレイ・カーシュマンに逮捕はされるものの、保釈金を払って出所してからは、彼に危難と云う危難は訪れず、寧ろ野球カードに纏わる人々たちに請われる形で盗みに関わっている。そして今までのシリーズの中で最も盗みを働いた作品でもある。 つまり野球カードの在処は判明し、もはやルーク殺害事件からは全く関係のない立場に置かれたバーニイはなぜか目の上のタンコブであるレイ・カーシュマンがその事件に執着していることを聞いて、事件解決の場を設けるのである。この辺は一見犬猿の仲に見えながらも奇妙な友情がバーニイとレイには介在するのかと思わされてしまった。 11年ぶりに書かれたこのシリーズもこの結末を読めば、もうこれで打ち止めかと思われるのだが、まだこの後も続編が作られた。これは嬉しい限り。 さあ、二見書房が『獣たちの墓』を(映画化のためとはいえ)新訳刊行したのだから、このシリーズもポケミス版のみの作品もぜひとも文庫化をお願いしたいものだ。頼みますよ、早川書房。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マクリーン第5作目の本書の舞台はもはや彼の独壇場とも云える極寒の地グリーンランド。国際地球観測年の観測隊の基地に突如不時着した旅客機の乗員たちを巡る物語だ。
5作目の本書でのマクリーンの筆致はまさに油に乗り切っている。極寒の地で我々の想像を超える世界と人間に降りかかる危難の詳細な描写は磨きがかかっており、読むだけで我々を氷点下100℃の世界へと誘ってくれる。 例えば観測隊たちが住んでいる組み立て式の建物ケビンは跳ね上げ式の扉がついているが、そこには叩き傷がついている。それはドアに付着した凍結した氷を砕かないと開けることが出来ないからだ。ナット1つ締めるのでも、凍りついたナットを手袋で温めなければ廻らない。 そんな細かいディテールが我々を極寒の地での生活にいざなってくれる。 そして金属に素手で触れるだけで手の皮は剥け、血まみれになり、スノーマスクとゴーグルをしなければ冷気で凍りついた空気中の水分が細かい刃となって目や喉を切り裂く。ほんの数分、外気に晒されるだけで凍傷に見舞われる。 そんな登山家でも音を挙げる厳寒の環境の只中にいるのは往年の名女優やセールスマン、上院議員に神父、等々とまさにこんな状況とは無縁の世界にいる人々たちだ。しかし彼らは生きるために馴れない環境でお互いに手を取り合って協力し合う。 そしてそうしている間にも刻々と彼らの命の灯火は削られていくのだ。次第に話し声も少なくなり、とにかく暖を取って無駄な体力を消耗せぬようにお互いに抱き合って蹲っていく姿は思わず唾を飲みこんでしまった。 そしてそんな中にも主人公メイスンたちを邪魔する人が潜んでいるサスペンス性もある。 不時着した旅客機の一行の中に潜んでいる悪党たちがいったい誰なのかと云う犯人捜しの妙味と極寒の地を苦難に次ぐ苦難、そして正体不明の犯人による心無い妨害と迫害が絶妙なバランスで溶け合い、サスペンスを盛り上げ、読者を飽きさせない。 しかし本書の前に書かれた『シンガポール脱出』や『最後の国境線』に比べてこのリーダビリティの高さは何故だろう? それは本書の設定の明瞭さにあると私は思う。 正直に云えば本書のバックストーリーである最新鋭ミサイルの機密情報を狙う悪党と云う設定は単なる飾りに過ぎない。本書はやはりデビュー作と『ナヴァロンの要塞』に見られた厳しい自然環境の中で苦闘する一般の人々と健気で必死に生きようとする姿を描くことにあるのだ。 特に本書では主人公メイスンが観測基地に派遣された医師であり、それ以上でもそれ以下でもない人物であることが非常に興味深い。 今までのマクリーン作品は不屈の闘志を持つ軍人や仮の姿をしたプロのエージェントといった謎めいた主人公が多く、つまり常人を超えた能力を備えた人物が多かった。 しかし本書のメイスンは正真正銘ただの医師である。従って彼は見当違いの推理をしては誤りを繰り返し、また犯人に出し抜かれるような隙の多い行動が多く、失態を繰り広げる。だからこそ主人公を含めた登場人物たちに降りかかる災難が必然性を伴って感じられるのだ。 極端に云えば主人公メイスンは物語では狂言回しであり、、ヒーローは彼の部下で陽気で寡黙なエスキモー人ジャックストローであり、無線通信士のジャスであり、乗客の1人である若きボクサーのホープ、ジョニー・ザゲロであるのだ。 しかしこの頼りないリーダーが実に人間臭くていいのだ。医者でありながら早とちりをし、判断を見誤っては仲間たちに苦難をもたらす。しかしなぜか皆が頼りにするリーダーシップを備えているのだ。憎めないキャラクターだと云えよう。 さて本書の原題は“Night Without End”、つまり「終わりなき夜」だ。 13人の不時着した乗客の中に事故を起こし、また命を奪おうとする犯人が潜んでいる疑心暗鬼の中で生き残りをかけ、極寒の地を戦前のオンボロ雪上車で決死行に臨むメイスンたち一行の不眠不休の決死行を表すのに絶好の題名である。 それに比べると邦題の『北極戦線』は何とも味気なさを覚えてしまう。もっと小洒落た邦題は浮かばなかったのだろうか?例えば私なら『終わりなき北の決死行』とでも付けようか。 私はやはり妙に謎めいた設定を持ち込んで読者をじらさせる作風よりも本書のような明瞭な設定をリアリティ溢れる筆致で描くマクリーン作品の方が好みである。本書を読んでそれを改めて強く思った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書が発表された1974年は冷戦状態にあった米ソ間がデタント、つまり緊張緩和の時代に入った頃だ。つまり国民が西側への接触を決して許さなかったソ連がその戒めを緩め、寧ろ世界へ国力を誇示する意向を示している。
フリーマントルはその様子をロシア人がノーベル賞を受賞するシチュエーションでその国威宣伝に携わる男の苦悩と危うい立場を描いている。 まずロシア人初のノーベル賞受賞者を出すという大役を任されるのが主人公のヨーゼフ・ブルトヴァ。かつて父の政敵だった現文化相ユーリ・デフゲニイによって父と共に失脚させられ、収容所生活を送っていたかつての対西側交渉のプロ。 その彼がノーベル賞を受賞させるために協力するのが片田舎出身の作家ニコライ・バルシェフ。このニコライは天才にありがちな社会不適合者の性格を持ち、多くの人々の前では萎縮し、酒に溺れて失態を演じる、世間知らずの文学青年だが、ジミー・エンデルマンというカメラマンを得て次第に尊大さを肥大させていく。 そしてヨーゼフの妻パメラはなんとイギリス人。イギリスへの帰国のチケットを持ち、夫不在の中、馴れないロシアでの生活に不安を募らせ、いつ帰国しようかと揺れている、精神的にも不安定な若き妻。 しかしノーベル賞作家と共にイギリスとアメリカの要人と会見し、駐在大使や文化省次官、そしてヨーゼフがそれぞれの思惑を孕みつつ、作家を餌にして失地回復や新たな出世の階段に上ろうとする丁々発止のやり取りはあるものの、題材がいかにも地味であることは否めない。 特に片田舎の在野の作家であったニコライ・バルシェフが突然得た名声の為に今までの質素な生活からは想像もできないセレブの世界に足を踏み入れ、自分を見失い、同性愛に目覚め、また麻薬に溺れるさまは典型的な成り上がり者の堕落物語である。 この政治的駆引きの嫌らしさとニコライと同行するカメラマン、エンデルマンが次第に傲慢ぶりを発揮し、倒錯の世界にどんどんのめり込んでいっては我儘を云ってヨーゼフを蚊帳の外に追いやる苦々しさを2つの軸だけで400ページ強もの物語を牽引しているかとは決して云えず、同じ話を交互に繰り返しているだけにしか思えなかった。ノーベル賞作家とカメラマンの傲慢な振る舞いに振り回されるヨーゼフが対峙すべき政敵との駆け引きに隠されたバックストーリーによるどんでん返しが最後に炸裂するのはフリーマントルならではだが、いきなり2作目にして400ページ強のボリュームで語るには題材に派手さがなく、小説巧者の彼でも“2作目のジンクス”があったのだなぁと感じ入ってしまった。 しかしデビュー作では爽快な読後感を与えてくれたのに、2作目にしてこの後味の悪さだとは。フリーマントルは初期からサディスティックな作家だったということが身に染み入るように解った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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トゥローの作品は一貫して架空の都市キンドル郡を舞台にリーガル・サスペンス作品を紡いできた。従ってシリーズの登場人物たちはそれぞれの作品に顔を出し、関連性があった。
しかし本書のように再び同じ主人公が危難に陥る作品は初めてだ。本書はトゥローのデビュー作『推定無罪』の正真正銘の続編である。 21年前のサビッチが危難に陥ったスキャンダラスな事件は愛人の死を巡っての裁判でその時、サビッチは一度地に落ちたが、21年後は首席判事となり、最高裁判官の候補にまで上りつめている。 そしてこの21年後の今彼が直面したのは妻の死。しかしそれは検死の結果、自殺と判定されたが、過去の事件にあまりにも似通った状況からかつて敵として戦った検事側のトミー・モルトが再び相見えることになる。 しかしサビッチにとって最も致命的なのは元調査官アンナとの不倫関係。またもや21年前と同様の状況に陥っているのだ。 つまり前作と本作は表裏一体の体を成しているのだ。 首席判事まで上り詰め、最高裁の判事候補になろうとする男がなぜこうも女性問題で身を滅ぼそうとするのか。しかも21年前と違い、彼は60歳。21年前の39歳ならば、まああり得る話だが、もはや還暦の域に達した男が陥るスキャンダルではないだろう。サビッチはとことん女性にだらしないダメ男ぶりを今回も発揮する。 一方のアンナは34歳になりながら、バツイチの独身女性。男性遍歴は豊富だが、これまで長く続いたことはなく、22歳で結婚し、72日間の結婚生活を過ごしたに過ぎない。なぜか衝動的に落ちてはならぬ恋に落ちてしまう女性なのだ。 このアンナも社会的に高い地位を持ちながら、なぜ色恋沙汰にはだらしないのか。それはアンナ自身が次のように述懐する。 恋とは至高のものなのだ、愛が絡むとたしなみも分別も全て振り払うことが出来る、と。 好きになったら止められない、それがアンナという女性の本質らしい。 いやアンナを受け入れたラスティ・サビッチもまた衝動的に行動する人物だと云えるだろう。 男の女の恋情の機微。親と子が同じ一人の女性を愛する。偶然が招いたとはいえ、それがまた男と女の色恋沙汰の滑稽なところだ。 ロー・スクールを卒業して法律に携わる高潔な職業に就く者たちでも、こと恋愛に限ってはただの男と女に過ぎない。 いや寧ろ人を裁くという重圧とそれに掛かる膨大な資料と証言を相手に裁判に向けて下調べをしなければならない過酷な職業による我々の想像以上のストレスによってそれを発散するために愚かだと思いながらも愛欲に溺れ、浮世の辛さを忘れたがっているのかもしれない。 本書の面白さはミステリの妙味よりもそんなどうしようもない衝動に駆られる高等階級の人間たちのおかしさにあるのだろう。 また本書はトミーとサビッチという2人の男が歩んできた人生の光と影の物語と云えるだろう。 ロースクールの同級生でありながら、常にサビッチの後塵を拝してきたトミーはその風貌も相まって自信の無さが特徴で、逆にそれを長所に検事局のトップまで登り詰めた来た男だ。21年前、満を持して起訴に持ち込んだサビッチを、法廷の魔術師と称される弁護士サンディ・スターンによってことごとく反証され、打ち砕かれてからは特に用心深くなり、本書においても意気揚々の部下ジム・ブランドとは対照的に常に消極的な立場をとる。 しかし起訴してからは彼はそれまで携わってきた公判の中でもベストのパフォーマンスを出す。常に2番手に甘んじていた屈辱を晴らさんが如く。 このトミー・モルトを単純にコンプレックスの塊のような男とみなしてはならないだろう。 誰もが上昇志向を持っている法曹界というエリート中のエリートが集う業界で燻らせていた自尊心を回復するための、いわば己との戦いなのだ。私はこのトミーの心情に本書の妙味を感じた。 かつての雪辱を晴らさんとする男と男の矜持。そしていくつになっても愛を求める男と女の情念。 一つの事件を巡ってトゥローはそれらを訥々と綴っていく。 そしてトゥローの小説を読むと法廷は最上の劇場だと思い知らされる。 検事側が優位に立ったと思えば、翌日は弁護側が攻勢に出る。一つ一つの言葉に複数の意味を持たせ、一挙手一投足に百の言葉以上の含意を持たせる。 さらに双方の戦術によって無罪と有罪の天秤は激しく傾く。 特に今回は死者となったサビッチの妻バーバラの存在感がものすごく濃厚なのである。“死せる孔明、生ける仲達を走らす”とばかりにバーバラが仕組んだ数々の時限装置に被告人であるサビッチはもとより、弁護士、検事、判事らが奔走させられる。 人はそれぞれ秘密を持つ。それは家族であっても同じだ。 そして事件が起き、裁判という場が開かれ、四方八方から捜査のメスが入っても決して知られてはならない秘密は暴かれることはない。なぜならもはや裁判が真相を証明して正義を見せる場ではなく、一番納得のいくストーリーを仕上げて正義と見せる場となっているからだ。だから物事は常に歪められて解釈される。 ラスティ・サビッチ、バーバラ・サビッチ、ナット・サビッチ、アンナ・ヴォスティック、トミー・モルト、ジム・ブランド、サンディ・スターン。彼ら彼女らが知ったことは決して真実ではない。 彼ら彼女らは何を知り、また知らずに生きていくのか。そして今後知る機会があるのか。恐らくそれぞれが墓場で持っていかねばならないことだろう。だがそれでも我々はいくつになっても愚かなことをしてしまう。そしてそれこそが人生なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アンソロジストとしても名高いエラリー・クイーンが犯罪に纏わる女性が登場するミステリを集めたアンソロジーが本書。女性探偵物に女性犯罪者の短編がカテゴリー別に集められている。
まず「女性の名探偵―アメリカ編―」の劈頭を飾るのはミニヨン・エバハートの女性ミステリ作家兼探偵のスーザン・デアが活躍する1編「スパイダー」だ。 怪しげで決して仲が良いとは云えない老女たちがもたらす暗鬱な雰囲気の中に部外者のスーザンが放り込まれ、事件が起きる。そして神経症の発作を起こした依頼人のスーザンはマリーが他の部屋で話していたのだと思えば、実は自分の部屋にいたというドッペルゲンガーを髣髴させる奇妙な体験をする。 実に古式ゆかしいゴシック風のミステリだが真相はなかなかトリッキー。 幻想的な謎とその合理的解決と黄金期ミステリそのものと云えよう。 次は昨年クレイグ・ライスとの合作が訳出されたスチュアート・パーマーの女教師兼探偵のヒルデガード・ウィザーズが登場する「緑の氷(グリーン・アイス)」は宝石を盗み出した強盗をウィザーズとその相棒のオスカー・パイパー警部が追う話だ。 警察の無線を傍受して事件の捜査に無理矢理介入するのがヒルデガード・ウィザーズの探偵スタイル。つまり相棒の警部オスカー・パイパーにとって捜査の邪魔をする目の上のタンコブという設定だ。 本作の事件は行方の知れない宝石泥棒を捕まえるというものだが、ミステリとしては凡作かと。 ポール・ギャリコの生み出した女性探偵サリー・ホームズ・レインはその名前から「シャーロック」の愛称で呼ばれている女性新聞記者で、編集者のアイラ・クラークと結婚している。「単独取材」では農場で宝探しごっこをしていた少年たちが農場主の夫人に散弾銃で襲撃されるという事件をサリーが潜入取材して調べるという物。 衝撃的な真相に未だに身震いしそうになる。21世紀の現代でもこの結末には戦慄を覚える事だろう。 1作目のミニヨン・エバハートと共に<HIBK“もしも知ってさえいたら”>派の代表としてベストセラー作家だったメアリ・ロバーツ・ラインハートによる女探偵ルイーズ・ベアリングが登場する「棒口紅」は精神科医に通っていた妻が突然自殺した奇妙な事件の物語。 夫婦生活の秘訣は適度な距離感だと云う事を改めて知った次第だ。 「撮影所の殺人」のカール・デッツァーは今では全く知られていない作家だが、彼の創作した女性探偵ローズ・グレアムは映画会社の監督助手という特殊な職業に就いている。 監督助手とは撮影中断されたシーンが再開される際に繋がれるシーンと食い違いがないかを確認する役目を担う。つまり観察力が要求される職業で、まさに探偵役にうってつけの役割と云えよう。 真相はいささか肩透かし気味だが、映画監督助手の探偵という設定はなかなかに面白い。 短編のみアンソロジーに収録され紹介されており、まとまった短編集はまだ編まれていないマーガレット・マナーズは先のカール・デッツァー同様に森英俊氏の労作『世界ミステリ作家事典』にも収録されていない作家だ。その彼女のシリーズ探偵スクウィーキー・メドウが登場するのが「スクウィーキー最初の事件」だ。 色々な何気ない伏線が最後の真相に結びつく点、そして取り調べを重ねるうちに人物像が反転する価値観の逆転が起こる点はミステリとしては及第点だが、昔のミステリにありがちな捜査の部外者が堂々と事件現場に立ち入って素手で色々と物色する描写を読むと、解ってはいるが何とも現実感の無さに辟易してしまうし、何しろスクウィーキーの傍若無人ぶりが好きになれなかった。 1作目でいきなり殺人課の刑事と友人と云う設定も都合よすぎか。今では忘れられた作家であるのも解る気がする。 ハルバート・フットナーのマダム・ロージカ・ストーリーが活躍する「ジゴロの王」は本書では86ページと最も長い1編だ。 観光地に巣食う金持ちのマダム達をターゲットにしたジゴロたちの犯罪グループを壊滅するという、それまでの女性探偵が関わる事件よりもスケールの大きな犯罪に挑むマダム・ロージカ・ストーリーは金持ちのマダムでありながら、犯罪者たちの陥穽を見極め、また犯罪者たちを目の前にしても動じない肝の据わった女性で、犯人の脅迫にも屈しない。現代女性もこの女性の強さには憧れを持つのではないか。 事件はマダム・ストーリーが自らを囮となって組織犯罪のからくりを暴こうとするもので、書物を使った暗号のやり取り等、クライム小説のような展開を見せながらも最後に明かされるグループの元締めの正体でサプライズを仕掛けるなど、なかなかに凝った作品で、最も分量の多い作品だが、決して冗長ではなく、起伏に富んだ展開で読ませる。 この作家の作品、いやマダム・ストーリーシリーズをもっと読みたい気にさせてくれた。 これまた今では知られていないフレデリック・アーノルド・クンマーの「ダイヤを切るにはダイヤで」ではエリナー・ヴァンスというどこかで聞いたような名前の女性探偵が登場する。 冤罪を晴らすために容疑者に探偵が接近するのではなく、冤罪を掛けられた関係者を近づかせて逆に罠を仕掛けてぼろを出させるという解決方法が珍しい。 最後の最後でタイトルの意味が解るのもなかなかだ。 シャーロッキアンとして有名らしいヴィンセント・スカーレットの女性探偵サリー・カーディフが登場する「オペラ座の殺人」は文字通りオペラ公演中に起きた殺人事件の謎を探る作品だ。 公演中の劇場で起きる衆人環視の中での殺人事件はクイーンやカーも扱った題材で謎としては魅力的なのだが、その魅力的な謎に比肩する魅力的な真相になかなか出会えないというのが実情だ(そういう意味では『ローマ帽子の謎』はかなり意外な佳作と云える)。ヴィンセント・スカーレットの本作も演劇の出演者が犯人だという意外性は買えるものの、謎解きの内容を読むとやはり無理を感じざるを得ない。 また探偵役のサリー・カーディフもいわゆる美人で聡明と云う男の願望を具現化したようなキャラクターでこれと云った特徴がないのが残念だ。この作家の作品の訳出が進まないのももしかしたら探偵役に魅力的な特徴がない故かと勘繰ってしまった。 クイーンの紹介文によれば恐らくこの作品が唯一の作品となるらしい。ヴァイオラ・ブラザーズ・ショアなる作家による女性探偵グウィン・リースが活躍する「マッケンジー事件」は39ページの分量ながらも実に起伏に富んだ展開を見せる。 この作品は実によく出来たミステリだ。 H・H・ホームズはアンソニー・バウチャーの筆名だが、本作「フットボール試合」は原稿用紙から印刷された出来立てホヤホヤの作品とのこと。 フットボールの試合に勝つために容疑に掛けられているフットボールの花形選手を釈放させるためにその付添いのかつての名選手が嘘の証言をすると云うのがいかにも熱狂的なフットボールファンの多いアメリカらしい。かなり強引な展開なのに何故か納得してしまう。 しかしながら犯人の手掛かりが賭博師の手にしたゲームの負けカードの数字に隠されていたというダイイング・メッセージを使いたかっただけの物語で、ダイイング・メッセージ好きのクイーンには大いに受けただろうが、トリックありきの作品になったのは非常に残念だ。 さてここからは第2部「女性の名探偵―イギリス編―」。先陣を切るのはギルバート・フランカウの「サントロぺの悲劇」は船上で起きた事件を探偵キラ・ソクラテスコが捜査にあたる。 本書が特徴的なのは探偵が推理を間違え、ワトスン役によって過ちを犯すところを救われるという異色の結末を迎えるところだ。 ただ何となく物語が上滑りな感じがするのが残念だ。 翻って次のF・テニスン・ジェスの「ロトの妻」は実に濃厚。 この作品の探偵ソランジュ・フォンテーヌの造形が見事。悪を予感する霊的能力を持っている女性と作者は述べているが、このようないわゆる感受性の強い女性なのだが、このような設定はえてして実に都合のいい能力と捉えがちだが、作者はソランジュを通じて彼女の接する人物を実に精緻に描いていく。 つまり人物分析を詳しく書くことで真相が明かされた時のサプライズが実に効果的に生きているのだ。 特に渦中の人物アンガスの描写が印象的だ。印象は実に善良に感じるのだが、心底そうではなく、また邪悪かと疑えば、それもまた違う。 新しい恋に目覚めた男が離婚に同意しない妻の呪縛を解き放つという表向きのストーリーが整然であるがゆえに、その裏に隠されたストーリーの陰鬱さが際立つ傑作だ。 この霊感が強いソランジュ・フォンテーヌという女性探偵は使い方によっては万能すぎて読者は鼻白んでしまうが、本作はその特徴が見事に融合して成功している。 17ページという短い分量のグラディス・ミッチェルの「百匹の猫の事件」は女性探偵ミス・ブラッドレーが周期的な記憶喪失に悩まされる患者にあうことになる。 正直この前に読んだ「ロトの妻」が鮮烈すぎてこの作品の印象はその分量と同様とても、薄い。 ヴァレンタインの「銀行をゆすった男」はハリウッド映画にもなりそうな個性豊かな探偵チームが登場する。 実に面白い。 資金は潤沢にあるために報酬は不要とする<調整者>たち。その名の由来は「犯罪者と被害者の間にある不公平を調整するため」に存在しているからだ。この<調整者>たちは10代の娘しか見えない愛らしいダフネ・レインを中心に運動万能の伯爵の1人息子、探検家、演出家、刑事弁護士というメンバーで構成されており、悪を正すために有罪を証明するのが困難な犯罪者に立ち向かい、作戦を立てて悪を懲らしめるのだ。 う~ん、この明快さが何とも気持ちがいい。映画化するに相応しい題材だ。こんな作品が1929年に書かれていたことが驚きだ。 ファーガス・ヒュームの想像した女性探偵ヘイガー・スタンレーは質屋を営んでいるという変わり者だ。「フィレンツェ版の珍本」は彼女の店に持ち込まれたダンテの<神曲>の第2版を巡る物語だ。 100ポンドもの高価な本に隠された伯父の財産の在処が隠されているという魅力的な謎の真相が小学生の時に私がマンガで読んだ手法だったのに脱力した。 ステーシー・オーモニアの「恐怖の一夜」は寺院町イージングストークのミス・ブレースガードルが南アメリカから帰郷する妹を迎えに行った宿泊先のホテルの部屋にいつの間にか見知らぬ男性が寝ているという状況に出くわす。 貞淑なミス・ブレースガードルは男と一つの部屋にいることに恐怖を覚え、どうにかこの状況を脱しようとするが、やがてこの男性が死体であることに気付く。 正直この作品はこれだけの話である。 イングランドの外にも出たことがなく、男性との付き合いもしたことのない箱入り娘が出くわす見知らぬ男が部屋にいるというシチュエーションに戸惑い、最悪の状況を想定する動揺ぶりが細かく綴られるだけである。つまり世間ずれしていない女性にとっては見知らぬ男と一緒にいる事自体が一夜の冒険だというのがこの物語のテーマなのだろう。 さて第2部を締めくくるのは二大巨匠の手による作品。ガストン・ルルーの女性探偵レディ・モリーの「インヴァネス・ケープの男」とアガサ・クリスティーのミス・マープルが登場する「村の殺人」だ。 前者はある人物の失踪事件を扱った物。 しかしこのトリックが商店街を荒らし回る方法として有効なのかよく解らない。 一方後者の方はさすがの逸品といった作品だ。 片田舎で起きた一人の夫人の死。しかし平穏な村ではその事件でパニックに陥ることなく、牧歌的な雰囲気で物語は進行する。小さな村では村人は皆家族のような物であり、当然ながら被害者の過去も知っている。昔女中として勤めた屋敷で盗難事件が起きたことなど。そんなゆったりとした時間の中でミス・マープルによって明かされる事件の真相は穏やかな村に潜むどんよりとした悪意を読者に知らしめてくれる。 やはりクリスティーの物語は深い。 次の第3部「女性の大犯罪者―アメリカ編」では2編紹介されている。ジョン・ケンドリク・バングズによるパロディ、ラッフルズの妻が主人公の「鉄鋼証券のからくり」とフレデリック・アーヴィング・アンダソンの「贋札」だ。 前者はミセス・ラッフルズの所有する時価10万ドルの鉄鋼証券を担保に150万ドルをせしめる詐欺の一部始終が語られる。 これは古き良きアメリカだからこそ実行可能な詐欺だ。 何とも原始的だが、交通網が発達していない当時ならば有効な手だったのだろう。 後者は最後の最後まで女性犯罪者の正体が判明しないという特殊な作品。 紹介文にあるようにこの作品で語られる犯罪が明かされるのは物語の最後でそれまでは何が起こっているのか読者には解らない。 何が事件なのか解らぬまま、その裏に事件の翳が隠されているという趣向は当時かなり斬新だったのではないだろうか。 最後の3編は「女性の大犯罪者―イギリス編」。そのうち2編エドガー・ウォーレスの「盗まれた名画」とロイ・ヴィガーズの「グレート・カブール・ダイヤモンド」は女怪盗物だ。 それぞれ見つからない盗品を探すという同じテーマでしかも双方とも盗んだと見せかけて実は屋敷から持ち出していないというトリックを扱った物。 前者の女怪盗フォー・スクウェア・ジェーンは義賊でぬくぬくと肥え太った金持ちから有名な絵画を盗み出し、返却の代償として小児医院に5000ポンドの寄付を強要する。そして寄付の後、女怪盗はご丁寧に絵を返却する。 後者は女怪盗フィデリティ・ダヴがアメリカの鉱山王夫人が所望しているあまりにも有名な大型ダイヤモンド、グレート・カブールを所有者から見事盗み出すが、この怪盗は一歩もダイヤは屋敷から出ていないという。所有者は警察の手を総動員して屋敷中を探すが見当たらず、翻ってミス・ダヴはこのまま見つからなかったら、自分が20000ポンドで屋敷ごと買い取ると宣言するという話。 これはどちらかと云えばポーの「盗まれた手紙」を想起させ、そう考えるとチェスタトンの件はミスディレクションだったと思えるのだが、あまりにヒントが明らさますぎた。あと厳重なセキュリティ・システムのかいくぐってダイヤを盗み出す方法が全く語られておらず、「ミス・フィデリティ・ダヴならばこれくらい朝飯前」で済まされているのには苦笑を禁じ得ないが。 しかし両者はこれぞミステリとも云うべき女性版怪盗ルパンの登場だ。ミステリど真ん中の怪盗譚は明快で気持ちのいい物語だった。 最後を飾るのはフィリップ・オッペンハイムによる「姿なき殺人者」だが、物語のテーマはイギリスを騒がせている大犯罪王マイクル・セイヤーと隠退した元ロンドン警視庁刑事ノーマン・グレーズの静かな戦いだ。 逃げる犯罪王に追う元刑事。 一人の女性犯罪者の誕生を登場人物それぞれの視点で描いた佳作だ。 題名が示す通り、女性が犯罪にメインで関わる作品を集めたアンソロジー。 本アンソロジーもクイーン自身による、本書が編まれることになった経緯を語ったはしがきから幕を開ける。そこには古書収集家のクイーンらしく、女探偵の登場の変遷から現在に至るまでの道のりなど、歴史的価値の高い資料としての情報がいっぱい詰まっているのだが、このはしがきの内容は平成の世では実に問題が多い、男尊女卑の考えが明らさまに出ていて苦笑を禁じ得ない。このはしがきの内容のせいで復刊されないのかと勘繰ってしまうほどだ。 さて登場する女探偵たち、もしくは女犯罪者たちは概ね有閑マダムの暇つぶしのような探偵や犯罪者が大半で、中には退屈な日々を紛らすために警察との知恵比べや障害を乗り越えるため、つまりスリルを味わうために犯罪をしていると堂々と述べるキャラクターもいるほどだが、女探偵の場合はそんな中にも探偵を副業として正規の職業に携わっているのが特徴的だ。作家兼探偵、教師兼探偵、新聞記者兼探偵、映画監督助手兼探偵と、特徴的な職業を持ってるがゆえに事件に関わってしまう者もおり、そこに探偵小説の進化を読み取れたりもする。 女性は家を守るものとされていた時代で女性探偵が職を持っているのは非常に珍しいと思う。逆に時代に先駆けて自立した女性だからこそ探偵業も成せるという裏返しなのかもしれないが。 しかし本書に収められた短編ではまだまだ小説創作の技法が幼く、その特色を物語に活かせていないのが残念だ。 上下巻24編が綴られた本書の中で個人的ベストを挙げるとそれはポール・ギャリコの「単独取材」だ。女性新聞記者が探るニュー・ジャージー州の片田舎で起きた牧場主による子供への銃撃事件を取材すべく、お手伝いとして牧場に潜入したサリー・ホームズ・レインが最後に行き着くおぞましい牧場の秘密は今でも総毛だつほどだ。現代でも十分通じる本当のミステリだ。 そして次点ではヴァイオラ・ブラザーズ・ショアの「マッケンジー事件」とF・テニスン・ジェスの「ロトの妻」、アガサ・クリスティーの「村の殺人」とそして最後のフィリップ・オッペンハイムの「姿なき殺人者」を選ぶ。単なるサプライズに留まらず、読後心に「何か」を残す作品たちだ。 「マッケンジー事件」はパトリシア・ハイスミスを思わせる成り替わり劇がもたらす運命の皮肉を、「ロトの妻」は惜しまれつつ亡くなったルース・レンデルが見せる価値観の逆転とそのためにじわじわと巻き起こる登場人物の真意の怖さを、「村の殺人」はのどかな片田舎に潜む悪意を、「姿なき殺人者」は犯罪者の誕生を実に印象的に語っている。 また収録されている作家たちにも着目したい。 まず第1作目を飾るのがミニヨン・エバハートというのがご時世を表していて興味深い。当時コンスタントに年1、2冊発表していた作家でアメリカ探偵作家クラブの会長も務めたほどの才媛だったようだ。恐らく本書が編まれた当時は作家として円熟期にあったのだろうが、現代ではもはや翻訳本は全て絶版であると時代の流れの残酷さを感じてしまう。 また森英俊氏による『世界ミステリ作家事典』に紹介されていて、今なお紹介が進んでいない、まだ見ぬ巨匠たちは彼女たち以外ではスチュアート・パーマー、ヴィンセント・スカーレット、フレデリック・アーヴィング・アンダスン、エドガー・ウォーレスだが、それ以外にも同事典に収録されていない作家がわんさかといた。個人的には上に挙げたベスト5の作家だけでも埋もれた作品を掘り起こしてほしいものだ。 私が選出した作品は5編だが、上に書いたそれぞれの感想に述べたようにそれ以外にも光る作品は多々あった。 24分の5。打率にして2割ちょっとだが、それでも本書は復刊されうるアンソロジーだと思う。 やはり障害はあの序文かな。そんな瑕疵に目を瞑って、ぜひとも復刊してもらいたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵ガリレオシリーズ4作目の本書はシリーズの原点に立ち戻った短編集。そして本書から当初TVドラマ版のオリジナルキャラクターであった内海薫が登場する。
「落下(おち)る」はマンションから転落した30歳独身女性の事件。 綺麗に片づけられた部屋でいかにして死体を飛び降り自殺したかのように見せかけるのか?部屋に残されているのは凶器と思われる蓋付の鍋と掃除機。 この謎掛けに対して湯川はピタゴラスイッチのごとく、非常にアクロバティックな実験をして犯行が可能であることを実証する。トリック成立の細かい説明のあたりは島田荘司氏の本格ミステリ作品の謎解きを読んでいるからのようで、非常に面白い。 2作目「操縦る」は放火事件を扱った物。 工業科学ともいうべき専門的な内容を事件のトリックとして応用するところに東野圭吾氏の先鋭性を感じる。 収録作品中2番目に長い本作はやはり事件に湯川のかつての師が関わっているところによる。それについては後で詳しく感想を述べよう。 続く「密室(とじ)る」でも湯川の知己の人物が登場する。 「操縦る」ではかつての恩師、そして本作では元同級生と湯川に縁のある人物に纏わる事件が並ぶ。 友人の経営するペンションの宿泊客が突然窓から抜け出て崖の下に転落したという何の変哲もなさそうな事件。これだけならば科学の天才である湯川の出番が必要ないと思われるのだが、きちんと本作でも最新科学がトリックに盛り込まれている。 今回は密室の正体が非常に面白い。とうとうここまで密室トリックは来てしまったのかという思いを抱いてしまった。正直このトリックは1回限りにしてもらいたい。 また宿泊ノートに綴られた何気なく子供が書いた風呂の感想から事件当時の不整合性を見破るところも科学の知識あっての故だ。なるほど風呂に入った時に時々出来る空気のつぶつぶは冷たい水に溶け込んだ空気が刺激されて身体に付着するからなのか。しかもこれは一番風呂でないと起きないとのことで、またも勉強になった。 2作目の短編集で印象に残った作品に「予知る」があったが、次の「指標(しめ)す」もそれに似た味わいの作品だ。 ダウジングとは曲げた針金を両手に持って地中に埋まっている水道管や金属を探し当てる方法で、本作によればまだ科学的根拠もなく、探し当てる確率も盲滅法に探すのとほとんど五分五分らしい。 そのダウジングを亡き祖母から譲り受けた水神様と呼ばれる水晶の振り子で中学3年生の真瀬葉月は行い、今まで色んな物を探し、また自分の人生の選択をしてきたという。その一種眉唾科学に今回湯川学は対峙するのだが、正直歯切れの悪い結末ではある。 つまりはダウジングの信憑性はまだ今の科学では証明できないだけであり、それもまた近い将来解明される科学の一種であると湯川は云っているのではないだろうか。真瀬葉月は「予知る」に出た本当に予知視できる少女の姿とダブり、もしかしたら敢えてダウジングの実験を湯川はしなかったのではないかとも思えるラストの余韻はなかなかだ。 最後の「攪乱(みだ)す」は湯川に恨みを持った人間が犯人となる。 本書で最長の最後を飾る本作はそれまでの事件と違って犯人は明確に湯川に対して挑戦状を叩き付ける。つまり今度の事件は今まで他者の事件だったのが、湯川自身に恨みを持つ人物による犯行なのだ。 そういう事態に陥ったのは湯川が警察の捜査に協力していることが一部マスコミに知れたことでかつて湯川に学会で恥をかかされた男が逆恨みで湯川に復讐をするため、自分の行う犯行方法を解き明かすことができるのかを湯川を名指しで指名することでその鼻を明かそうというのが犯行の動機だ。 いわば古典的な名探偵対犯人の構図なのだが、犯人が研究者にありがちな社会不適合者であり、自分のミスを他人のせいにする精神的に未熟な人物であり、また人を離れた場所から殺害する手段を持ちながら、世の中を騒がせ、湯川を挑発する幼さが典型的な現代の世相と云えよう。 また本作で使われたトリックはまたも普通の読者の知らないハイテクだが、使われている内容は昔からある理屈である。つまり古くからある知識に最先端の技術を応用してミステリを書く。これこそガリレオシリーズの醍醐味といえるだろう。 冒頭でも書いたが本書で特徴的なのはドラマのオリジナルキャラクターだった内海薫がレギュラーとして登場する点だ。そして彼女の登場は事件の捜査に奥行きをもたらしている。 今まではいわゆる普通の刑事草薙が難事件に直面して湯川に助けを求めるパターンで、このパターンは踏襲されているものの、湯川の非凡さを際立たせるためか、東大をモデルにしたと思われる帝都大OBでありながら草薙刑事はキャリアのエリートといった風格もなく、至極凡庸な刑事に描かれていた。 しかし女性の刑事である内海が捜査に加わることでそれまでの事件ではなかった女性特有の視点が加わって、警察の捜査に幅が広がっているのだ。つまり極端に云えば、無能な警察のように描かれていたのが、内海が入ることで日本の警察の優秀さが少しばかり加味されるようになったように感じた。 そして『ガリレオの苦悩』と冠せられた本書は『容疑者xの献身』を経てから書かれた短編で構成された作品で、各短編で見せる湯川の心情は『容疑者~』以前のそれとは明らかに異なり、それまで謎そのものに対する興味しかなかったのに対し、事件に関わる事での苦悩や事件の関係者の心情に対しての考察が見られるのが特徴的だ。 例えば1作目の「落下る」では自らの手でかつての学友であり、ライバルだった数学者石神を司法の手に渡すことになったショックからか、警察の捜査に非協力的になっている。 『探偵ガリレオ』や『予知夢』の各短編では一見不可解な事象を解き明かすことに学者としての知的好奇心をくすぐられて、事件の解明に臨んでいた。それらの事件は湯川自身には何の縁もゆかりもない他人の身に起きた事件で、いわば他人事として捉えていたのだが、石神という自分の人生に関わり、また一人の天才として尊敬もしていた男の罪を自身で解き明かしたことによる精神的反動はこの天才科学者の心情に大きな変化をもたらしたようだ。 特に2作目の「操縦(あやつ)る」ではそれぞれ自分の大学時代の師が事件の犯人になっており、またもや自分の人生に関わる人間を司法の手に渡さなければならなくなる。本作の最後で学生時代の湯川を知る友永元助教授が科学しか興味のなかった湯川が隠された友永の真意を見破ることで人の心まで解るようになった湯川に驚きを示すのは、石神の事件を経てからこそだろう。 3作目の「密室(とじ)る」では大学時代の友人藤村の依頼で彼の経営するペンションで起きた事件の解明をするのだが、この作品にこそ湯川の心情の変化が如実に表れているように感じた。 謎自体は特段科学者の興趣を惹くものではないのに湯川は藤村の頼みから事件の調査を始めるが、恐らくは事件のあらましを訊いた時点で湯川には事件の構図が大体見えていたのだろう。 普通の生活を守るために犯行を実施せざるを得なかったとはいえ、罪は罪なのだと事件の真相を話す湯川の姿は石神の犯行を解き明かした時のそれと妙にダブった。 4作目の「指標(しめ)す」は先にも書いたが「予知(し)る」を髣髴させるテイストの作品だ。科学では証明できない不思議な事象を湯川は目の当たりにするが、敢えてそこに踏み込まない湯川の科学者としての懐の深さを感じさせる。 またこの作品では母と娘の母子家庭が捜査の対象であり、これが草薙にとって『容疑者xの献身』に出てくる花岡母娘を想起させる件が出てくるのがニヤリとさせられる。 そして最後の「攪乱(みだ)す」では湯川に勝負を挑む犯罪者が登場する。『容疑者xの献身』では湯川が天才だと認めた男石神と湯川の頭脳対決だったが、本作ではかつて学会で湯川に自身の研究について質問され、上手く応えられてなかったことで失墜した技術者が警察の捜査を手伝っている湯川に敵対心を燃やして犯行を実行するというものだ。 石神の時は偶然による対決だったが、本書では湯川に恨み(逆恨み以外何物でもないが)を持つ者が湯川自身に対して挑戦状を叩き付けているところが違うのだが、犯罪に加担せざるを得なかった石神に対して苦悶していたのに対し、本作では科学の技術を殺人に利用して世間を騒がせている犯人に憤りを覚えて対峙している姿勢もまた違う。 と各短編について湯川の心情の、いや人間性の変化を述べてきたが、それぞれの作品が実は『容疑者xの献身』の要素をそれぞれ分配させて成り立っている事に気付くことだろう。 かつて知的好奇心を満たす為、興味本位で警察捜査に関わっていたが、事件に関わることで自らもまた心を傷つくことを知った湯川。 かつての恩師や大学時代の友人の犯した罪を解き明かさなければならなくなった湯川。 健気に生きる母子家庭の親子が巻き込まれた事件に携わる湯川。 そして自らを敵とみなす犯罪者と対決する湯川。 それぞれが『容疑者xの献身』に込められたエッセンスだ。 そして湯川はあの事件で人の心の深みを知り、また作中でも人の心を知ることも科学で途轍もなく奥深いと述懐している。 これはかつて大学で理系を専攻し、トリックメーカーとしてデビューした東野氏が人の心こそミステリと作品転換したのに似ている。つまりこの湯川の台詞は作者自身の言葉と捉えてもいいだろう。 『名探偵の掟』で本格ミステリを揶揄しながら、敢えて現代科学の知識で本格ミステリを書いた『探偵ガリレオ』シリーズ。このトリック重視の作品に人の心の謎を持ち込んだ『容疑者xの献身』でこのシリーズも第2のステージに入ったと云えるだろう。 そして正直に云って『探偵ガリレオ』や『予知夢』の各編よりも本書収録作の方が印象に残るのだ。これからのガリレオ探偵湯川学の活躍、いや事件への関わり方が非常に興味深くて読むのが愉しみでならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1960年に刊行されて以来、長らく絶版となっていたフィルポッツのまさに幻の作品がこの2015年に新訳で刊行されるとは一体誰が想像していただろうか?
ちなみに1960年刊行の同書をAmazonで調べてみるとなんと7,700円という価格が付いているのには驚いた。 幻の名作というのは実際のところ眉唾物であることが多い。名作ならば版を重ね、現代にまで読み継がれているべきものだからだ。それが初版から55年も経ってようやく新訳で再販されるとは、刊行当時さほど話題に上らずに淘汰されてしまったからだと考えるのが普通だろう。 しかし皮肉なことにその稀少価値ゆえに古書収集家の間で高値で取引され、今にその名を留める結果になったのだろう。つまり内容ではなく本そのものに価値がある作品なのだ、と読む前は思っており、さほど期待せずに読んだのだが、これが意外と、いや実に面白かったのである。 いやはや読み始めと読み終わりの抱く印象がこれほどガラリと変わる作品も珍しい。 まず開巻直後は若き医師ノートン・ペラムと教会の大執事の箱入り娘ダイアナ・コートライトの衝動的なまでの初恋と結婚までの道のりが描かれる。恋は盲目というが魂の結び付きと感じた2人は周囲の反対を押し切って結婚に向けて駆け抜けていく。ダイアナは準男爵のベンジャミン・パースハウス卿からプロポーズを受け、裕福な暮らしが約束されているにも関わらず、好きになったら止まらないとばかりにノートンと結ばれるのだ。 しかしそんな衝動的な結婚生活も長くは続かない。 安定を約束された生活よりも深い愛を選んだダイアナはしかし世間知らずのお嬢様で最初は自炊や洗濯をする生活に新鮮さを感じていたが、器用に思われた自分が意外と家事が苦手だと知るに至り、やがてノートンが将来資産家の伯父から受け取るであろう財産が毎日の質素な生活の中での光明となっていく。 しかしノートンは伯父の反対を押し切った結婚だった故に財産贈与を約束されなくなっていたことを妻に話せずにいた。その事実を自ら伯父を訪問することで知ったダイアナは嘘をついていた夫を深く憎悪するのだ。 愛情は深ければ深いほど、裏切りを感じた時に抱く憎悪はそれにも増して深くなっていくのだ。ダイアナはいつしかノートンに復讐心を抱くようになる。 そこから物語は急変する。 もはやぎくしゃくとした夫婦生活を送るダイアナとノートンの日々が描かれ、家庭に収まることを是としないようになったダイアナは女優を目指すようになるのだが、いきなり体調が悪くなっていく。そこからベンジャミン卿と結婚した姉マイラにも不慮の事故で子供が産めない身体になり、身体に障害を持ってしまう。 そしてダイアナは夫ノートンに毒を盛られていると姉夫婦に告げると、その予言どおりに亡くなってしまう。 そして彼女の死後1年半後、夫が妻殺しで逮捕され、友人たちがノートンの無実の証明のために事件の調査に乗り込む。 いわばミステリの根幹とも云える殺人事件が起きるのが約330ページ中200ページの辺りだ。 若き美しき男女の恋物語が一転してボタンの掛け違いでお互いを恨むようになった夫婦の憎悪の話、そして謎の妻の死とその罪を着せられる誠実な夫の無実を証明する話と、本書は紹介分にあるようにまさに万華鏡のような変幻自在な物語の展開を見せる。 そしてこのどうしようもなく上手く行かなくなった若夫婦の道程から妻の死に至るまでの物語と妻が死んでから死に立ち会った姉夫婦ベンジャミン・パースハウス卿の物語が、最後の最後で想像を超える真相へと繋がるのだ。 正直この真相には戦慄した。 冒頭にもこれほど印象が変わる話も珍しいと書いたが、それは物語の色合いのみならず、登場人物像もまたそうだ。 まずは何と云ってもダイアナだ。思慮浅く、人生経験も薄いと思われていた彼女だったが読み進むにつれて男女の愛に対する洞察の深さや心の移り変わりに思わずのめり込んでいくのには驚いた。 例えば当初家事もしたことのない世間知らずのお嬢様として、しかも夫ノートンが得るであろう伯父の多額の財産を生活の励みしていた、打算合っての愛ゆえに結婚した浅薄な女性と思われたが、伯父の反感を買って財産を相続できない夫の嘘を知ると、財産を得ることが適わないことを恨むのではなく、正直に事実を打ち明けない夫の態度に憎悪を抱くところに、ノートンとの恋愛が一時の烈情ではなく、貧しくも2人で生きていく覚悟あっての事だと気付かされて、見方が変わってしまった。 そして自らが信じた道を邁進する決意の強さこそが実は彼女の本性だと云えよう。 衝動的な結婚も自らの判断の正しさを信じたゆえの結果であり、また結婚後も優しいノートンを引っ張るが如く、生活の舵を取る。夫が渋るのであれば自らが伯父に逢いに行く行動力。しかしその行動力がまた自分が万能であることを過信させることにもなり、また復讐と云う負の方向へと突き進む原動力にもなってしまうのだが。 一方翻って世の女性たちは主人公ノートン・ペラムに対してどのような感情を抱くのだろうか? 誰もが振り返る美男子の医師とくれば玉の輿を狙う女性たちの垂涎の的だろう。 しかし一皮剥けば貧しい自分の境遇にコンプレックスを抱き、投資家で資産家の伯父の財産を当てにして自分の将来の安定を約束している、いわば他力本願の男。さらには伯父の同意が得られないことを知るといつまで経ってもその事実を妻に打ち明けず、妻の愛を逃したくないがためにずるずると先延ばしにしている男だ。さらには自分を慕う女性に自らの結婚の話をする無神経さも兼ね備えている。 私は正直顔がいいだけのダメ男だと何度もレッテルを貼ってしまった。 特に嘘をつかれながらもどうにかノートンと暮らし、貧しい生活の中に自分の張り合いを見つけようとする妻の行動力を制御しきれず、もはや妻は自分には目を向けておらず、愛情はとうに消えてしまったと愚痴をこぼす辺りでは、あまりの女心への無知ぶりに呆気に取られたものだ。妻に冤罪を着せられて刑務所暮らしをさせたくなるほど恨まれても仕方のない男だと思う。 つまり優しいだけの男なのだ。 そしてこの作品で最も好意を抱くのはノートンの婚約者として登場した彼の伯父の秘書を務めるネリー・ウォレンダーではないか。 ノートンを慕いながらも、もはや結婚目前まできながら、ノートンの口から他の女性との結婚を打ち明けられる。しかしそれでも気丈に振舞い、ノートンの幸せを祝福する懐の深さを見せ、更には自分との結婚が破棄になることで財産を渡さないと断じた彼の伯父の説得まで試みる女性なのだ。 社会的に自立し、物事をバランスよく見る人物なのだが、正直現代でもこんなにいい女性はいないだろう。 しかしこのような善人ほど辛い目に遭うのだ。ダイアナの死後1年半後にようやく心の傷が癒えたノートンと晴れて結ばれた結婚式の日に妻殺しの容疑で伴侶が逮捕されてしまうのだから。 う~ん、なんて意地が悪いのだ、フィルポッツは。 さてこの題名だが、実は我々団塊の世代の子供たちの世代では実は翻訳された“コマドリ”よりも英単語の“Cock Robin”の方に親しみがある。それはアニメ『パタリロ』の主題歌『クックロビン音頭』のフレーズ「だれが殺したクックロビン」で耳に焼き付いているからだ。 作者の魔夜峰央氏はミステリ好きとして有名だが、さすがに本作から取ったフレーズではなく、マザーグースの一節から取られており、この題名も同様なのだ。 しかしあまりに日本人にとってお馴染みなフレーズであるため、もしかしたらこの作品が語源では?と勘違いする読者もいるのかもしれないがウェブで調べると出典は萩尾望都の作品に由来するとのことだったのであしからず。 しかしたった330ページの分量ながら、男女の愛憎劇にとんでもないサプライズまで仕掛けられている本書が50年以上も絶版だったのは何とも不思議だ。 正直高を括っていたが、今でも本書に描かれる男女の機微、運命の皮肉、そして最後に感じられる女性の恐ろしさは現代でも十分読ませる内容だ。 今こうやって新訳で読める事の幸せを改めて嬉しく思う。この機会を逃すと次に手に入るのはまた50年後かもしれないので、ぜひとも多くの人に読まれ、版を重ねて絶版とならないようになることを強く祈るばかりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フリーマントルのデビュー作である本書はイギリスに亡命してきたソ連の宇宙科学者を尋問する聴取官の物語だ。
その主人公の聴取官エィドリアン・ドッズは決して魅力的な人物として描かれていない。 外見は痩せ気味のこれといって特徴のない男で35歳にして妻に愛想を尽かされた挙句、レズビアンの彼女の許に逃げられ、毎日のワイシャツとスーツのアイロンがけも儘ならず、しわくちゃのままに着用して秘書の眉を顰めさせ、その年配の秘書には手玉に取られ、遅刻や早退を思うが儘にされており、さらには完全に禿げ上がった頭髪を気にして周囲の人のみならず街ですれ違う人々のカツラを見破ることに専心しているという、およそ読者の共感を得られにくいキャラクターだ。 しかしこの男が尋問者として亡命者の前に立つと他に比肩する者がいないほどの洞察力と判断力を発揮する。12ヶ国語を話し、亡命者の専門とする分野の知識も身に着け、安易に会話の主導権を握らせない。 しかしアメリカ政府から早く2人の宇宙技術者を渡すよう圧力をかけられているイギリス政府内ではイギリス首相エベッツの巧みな話術に翻弄され、自らの地位を危うくしてしまう。 このうだつは上がらないが、仕事をすれば切れ者でありながら、自分の仕事に対する実力へのプライドが高いがゆえに、常に他者との駆け引きを重んじて自身の地位の安泰と出世のためにあらゆることを利用しようとする上層部からの受けが悪いエィドリアンの姿はどこか我々サラリーマンに通ずるところがある。 しかし我々日本人のサラリーマンと違うのはもはや最後通牒が突きつけられる段になっても自らの正当性を主張し、上司であれ首相であれ、反撃して説き伏せさせようとする根性だ。 1973年の作ではあり、当時の日本のサラリーマン社会には詳しくはないのだが、このエィドリアンの抵抗は当時も驚きだったのではないだろうか。 そして最新作『魂をなくした男』で終結した三部作でも描かれていたのはロシアのKGB高官の亡命劇なのだから、文体、プロットともフリーマントルは変わっていないことに気付かされた。 更には『魂をなくした男』でも亡命を目の前にぶら下げた人参として亡命先の国から逆に情報を得ようとする実に狡猾なロシアのブラフを驚愕のサプライズと共に読者の前に示してくれたが、デビュー作の本書でも旧ソ連一流のブラフを見せてくれる。 まさに想定の斜め上を行くソ連の描いたプランの恐ろしさと巧みさ。家族を大事に思うパーヴェルの性格を利用して、恐らくは家族を人質に強要されたのだろうが、それを微塵とも感じさせないパーヴェルの狡猾さ。 第1章から各章の終わりに挟まれる委員長カガノフを中心としたソ連の秘密委員会の怪しげな会話、真意が読めないパーヴェルの行動などの本当の意味が最後になって明かされる辺りに新人作家でありながら既にデビュー当時からミステリマインドを持った作家だったことが解る。 しかし三つ子の魂百までとはよく云ったもので、この主人公を主体にしたメインストーリーが繰り広げる中で章の終わりにインタールードのように挿入されるソ連の秘密委員会たちによる謎めいた会議の様子は本書ではサプライズのために実に有機的に機能しているが、これはフリーマントル作品ではお馴染みの構成で既に本書においてフリーマントルのスタイルとして確立されているのに驚いた。 さらにはチャーリー・マフィンシリーズを筆頭に描かれるイギリス人への痛烈なる皮肉。 上にも書いたが常にロシア人は物事の深淵を透徹した視野で物事を考え、イギリス人は目の前に駆引きに終始して、物事の本質を見極められないというイギリス政府蔑視の姿勢が既に本作で確立されているのには苦笑してしまった。 重ねて云えば先にも述べたように最新作『魂をなくした男』とデビュー作の本書が奇妙に題材が酷似していることもその裏付けだと云えるだろう。 そう考えれば自分の禿げ頭にコンプレックスを抱いてカツラ愛用者を見破ろうとしている奇妙な性格のエィドリアン・ドッズは危機を感知すると幅広な形の足が痛むチャーリー・マフィンの原型だったのかもしれない。 また本書は題名がいい。 原題は“Goodbye To An Old Friend”でこれが最後の1行として現れ、実に切ない余韻を残す。 そして邦題は『~した男』とフリーマントル翻訳作品の題名のフォーマットを踏襲しながら原題を活かし、読後にその真意に気付かされる、ミステリのお手本のような翻訳だ。 ただデビュー作ということもあってか、本書は珍しく皮肉屋のフリーマントルらしくなくサプライズと深い余韻を重視したエンディングになっている。正直に云えばいつもこのような形で終わればいいのにと思うのだが。 さて冒頭にも書いたが、本書はフリーマントルが37歳の時に「デイリー・メイル」紙の外報部長時代の頃に通勤中の車内で書いた物で、これが好評を以て迎えられた、フリーマントルの作家活動のきっかけとなった作品である。こういう物語を通勤中に書くことも凄いが(多分多少誇張も入っているだろうが)、37歳で部長職に就いていることだ。 日本の会社では一流の新聞社では恐らく考えられないことだが、実力主義のイギリスではこのような人事もあり得るのだろうが、現代の大作家は勤め人としても凄かったということか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『墓場への切符』から始まったいわゆる“倒錯三部作”を経たマット・スカダーシリーズも第11作目では圧倒的な悪との戦いから解放され、以前のシリーズの趣を取り戻したような様子で幕を開ける。
今回の事件はある弁護士の死の真相を探るという物。しかしその犯人はすぐに逮捕されて証拠もあるのだが、犯人の弟から事件の再調査を依頼される。 弁護士を殺害したとされる容疑者はジョージ・サデッキというヴェトナム帰還兵の精神障害者。戦争の後遺症で定職に就くことが出来ず、マットの住むクリントン地区界隈で浮浪者の如く生活している生活困窮者だ。 つまり弁護士と云う社会的地位の高い者を殺害したのは世間ではさして関心も持たれない社会の底辺生活者。この社会的弱者の無実を晴らすためにスカダーは勝ち目のない戦いに挑むのだ。 そして捜査が進むうちにこの四方八方から見て全く以て健全だと思われた被害者の弁護士グレン・ホルツマンには何か隠された謎があることが解ってくる。 小さな出版社の顧問弁護士というさほど高給な報酬を受け取っていなかった男がニューヨークの高級コンドミニアムの28階という実に長めのいい部屋をキャッシュで買い、クロゼットの中には30万ドルもの現金が隠されていた。この身分不相応な金の出処に事件の鍵をマットは嗅ぎ付ける。 このグレンが謎の大金を手に入れる秘密の真相は実に意外な物だった。 さて暗鬱な“倒錯三部作”を経た本書はそれまでのシリーズには見られなかった軽妙さがそこここに感じられる。それは前作でマットが決意したエレインと結婚を意識しているためか、どこか二人の掛け合いにそれまでにない薔薇色めいた華やかさを感じるのだ。 そして今や名バイプレイヤーとなったマットの助手TJの活躍も文体の軽妙さに一役買っていると云っていいだろう。前作『獣たちの墓』で大活躍したTJが本作でも事件の目撃者捜しという大役に大いに貢献する。 アル中探偵で警官時代の過去の事件でトラウマを抱えて1人孤独に社会の底辺で生きる人々の間を渡り歩いていたマットだが、もはや彼は一人ではなく、チームが出来上がっていたのだ。これが物語のトーンを変えているアクセントとなっているのは間違いない。 しかし本書にはどこか死の翳が付きまとう。 それはシリーズが進むにつれて確実にマットもエレインも齢を取っているからだ。 さらにマットは被害者である弁護士の妻リサとも関係を持ってしまう。それは幸せな家庭を理不尽な仕打ちで唐突に壊された未亡人に対するケアなのか、それとも恋をしてしまったのか、マット自身も解らない。 しかし時々無性に電話をし、逢いたくなる。それはエレインに対する裏切りであることを知りつつも辞められない、ミック・バルーの台詞を借りればいわゆる“男の性”なのだ。 かつては世間では取るに足らない存在に過ぎない人間の尊厳を守るために生前親しんでいた依頼人のために事件を探っていたが、今では死が全てを忘れ去ってくれるかのごとく、依頼人も固執せずに容易に依頼を真相が解らぬままで断ち切る。 時代が移ろい、人の心も移ろうのだ。 それはマットとて例外ではない。 1人ではなく、護る者が出来たマットが辿る静かな足取りながらも味わい深い物語をこの後も期待する事にしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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島田荘司氏のノンシリーズである本書は読者の予断を常に超え、全く想像のつかない展開で物語が進んでいく。
それはあらゆる学問や知識が動員された奇妙な、しかしそれでいて実に説得力のある話が展開したかと思えば、奇想に満ちた世界が連続する。 まず開巻一番、御手洗シリーズに負けず劣らずにセンセーショナルな事件が繰り広げられる。 木に吊るされた2人の女性の死体。1人は性器の周囲を抉られ、内臓が垂れ下がり、もう1人は腹を一文字に裂かれ、骨盤が真っ二つに割られ、前に腹が引き出されているという、まさに島田氏ならではの読者の想像をはるかに超える凄まじい有様だ。 この猟奇的事件を追うのはワシントン東警察署のロン・ハーパーとウィリー・マクグレィという2人の刑事。この人智を超えた殺人事件の謎を追う展開は海外ミステリの警察小説のような色合いをまとっている。 そんな犯行の動機が理解し難い事件の謎はこれまた理解し難い手掛かりをきっかけに犯人に辿り着く。それはある大学院生が書いた恐竜滅亡の謎について考察した論文だ。この内容が実に興味深い。 なぜ2億5千万年前に出現した巨大な恐竜が1億3,500万年もの長き間に亘って繁栄し生き長らえたのかを現代科学の知識から解き明かしていく。その一つ一つが新たな見地を開いており、まさに蒙が啓かれる思いがした。ちょっとかいつまんで書き並べていこう。 現在生存する生物の視点から考えると恐竜のスケールの大きさやその骨格の不自然はどうにも生存するには不便であり、恐らく自重によって内臓が圧迫され、長くは生きられなかったとするのが当然であり、また草食の首の長い恐竜も胃までの十数メートルもの距離をベルトコンベアのような機能を備えていないと食物を運ぶことは到底不可能であることやバランスを取るために長い頸部と尻尾を平行にして歩行したと推測されているが、これらは構造の観点から云えば、かなりの負荷が頸と尻尾の付け根に課せられ、現代では吊り橋のような構造にしないと長期に亘って支えられないことも挙げられている。 また5トンもの体重があると想定されるティラノサウルスが同等の体重を持つ象が4つ足歩行しかできないのに、2足歩行が出来たのか? それを解決する1つの方法がカンガルーのようにジャンプしながら移動していたのではないかという説。 さらには翼竜など飛行する恐竜たちもまた今の鳥類のスケールから考えても到底空を飛べたとは思えないほどの大きさと重さを持っているのになぜ飛ぶことが出来たのか。 他にも太陽系の惑星に関する自転周期の奇妙な事実など単なる生物学を超えて物理学、構造力学、天文学の観点から疑問を投げかけているのが実に興味深い。 そしてこれら不可解な事実を一転して理解可能とするのが、恐竜たちが棲息していた時代は重力が今よりも軽かったとする説。それが故に最も自転によって生じる遠心力が最も大きい赤道周辺に恐竜がいたこと、そして現在の重力になったのは巨大隕石による衝突の衝撃によるものだという実に画期的な説だ。 この実に知的好奇心溢れる学説は全く以て知らなかった。どうやらこの説は前から出ていたそうだが、ウェブで調べるとトンデモ学説と断ざれたり、支持する声もあったりと様々だ。私はこのコペルニクス的転回であるこの重力説を支持したい。 ここまでが上巻の展開だ。そこから物語は文字通り目くるめく展開を見せる。 これはまさに島田氏しか書けない物語だ。題名が示すようにこれはまさに幻想物語だ。 第2次大戦下のアメリカを舞台に古代生物学、物理学に構造力学、天文学といった知識がふんだんに盛り込まれ、空想の世界を補強し、このとんでもない空想物語がさも実存するかのように島田氏は語る。 5つに分かれるこの壮大な幻想譚は1章では行間から血の臭いまでもが匂い立つほどの迫真性に満ちた人智を超えた猟奇的事件を語り、2章では重力論文なる、現代科学において規格外とされる巨大な生物、恐竜の存在とその絶滅の謎に対する学術的な話が展開し、3章ではアルカトラズ刑務所を舞台にした刑務所生活と手に汗握る脱獄劇が、そして4章では一転して島田ワールドとも云える空想世界の物語だ。 それは『ネジ式ザゼツキー』で語られた「タンジール蜜柑共和国」を髣髴とさせる「パンプキン王国」なる不思議の国の話。そしてそんなメルヘンとしか思えない世界が最後のエピローグで意外な真相と共に明かされる。 まさにこれはそれまでの島田作品のエッセンスを惜しみもなくふんだんに盛り込んだ集大成的作品と云えるだろう。 世のミステリ作家の想像の遥か彼方の地平を進む本格ミステリの巨匠の飽くなき探求心とその豪腕ぶりに今回もひれ伏せてしまった。 島田氏はまたしても我々が読んだことのないミステリを提供してくれた。 ミステリの地平と明日はまだまだ限りなく広く、そして遠いことをこの巨匠は見せてくれたのだ。まさに孤高という名に相応しい作家である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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