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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数699

全699件 481~500 25/35ページ

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No.219: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

御手洗シリーズのモチーフ溢れている作品なのだが

スウェーデンのウプサラ大学で脳の研究を続ける御手洗の許にエゴン・マーカットという患者が訪れる。彼は記憶障害を患っており、記憶を一定時間保つ事が出来ないのだ。
そんな記憶障害を持つ彼が書いた1つの童話『タンジール蜜柑共和国の帰還』。
それは天を突くほどの巨大な蜜柑の木をネジ式の関節を持った妖精たちがマーマレードを作って暮らしている国にエッギーという少年が紛れ込み、その世界を逍遥するといった内容だった。
このお伽噺でしかない物語を御手洗は事実に基づいて書かれた物だといい、さらにエゴン・マーカットの記憶障害の原因となった事件と失われた記憶を取り戻す手掛かりになると云うのだった。童話に隠された事件に御手洗潔が挑む。

久々の御手洗物らしい小説を読んだという感じだ。『タンジール蜜柑共和国の帰還』という奇妙な内容の童話について解析をする趣向は過去の作品『眩暈』を想起させ、この作品が好きな私にとってなんともたまらないワクワク感があった。
特にビートルズの歌が絡んでいるという件には驚かされた。これはビートルズ・フリークである島田氏にとって積年の願望をようやく果たしたのではないだろうか。
他にも旧作を想起させる箇所があり、人の五体を解体してネジ式の関節をもつ義手・義足をつけ、ゴウレムを作り上げるというのが今回の作品世界を彩るもう1つのモチーフなのだが、これなんかはデビュー作『占星術殺人事件』のアゾートがすぐに浮かんだ。

とまあ、ある種、永い眠りから覚めた御手洗シリーズの復活を宣言するような内容である本書。特に前半の『タンジール~』の解析の辺りはどんどん判明していく驚愕の事実にページを捲る手がもどかしいほどの面白さを感じたのだが、肝心の殺人事件の解明のあたりになるとどうも食指が鈍った。
疲れから来る睡魔もあったのは事実だが、なんだか事件が複雑すぎるのだ。明かされた真相もものすごく作られた感じがして、心の底から同意できなかった。殺された遺体の首がネジのように回り、外れ、転がっていく、なんとも唖然とする事件ではないか。しかし、それを論理的に解明しようとするために、無理を生じているような感じがした。
そして、やはり語り手が石岡以外では違和感があるのは否めない。御手洗がなんだか別人のように思えるのだ。エキセントリックさに欠け、すごく常識的な人物として立ち振る舞うその姿は消化不良感がどうしても残ってしまう。

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ネジ式ザゼツキー (講談社文庫)
島田荘司ネジ式ザゼツキー についてのレビュー
No.218:
(7pt)

あの事件を結末に持ってきた剛腕ぶりはどうよ?

1996年7月17日、ニューヨークのロングアイランド沖でTWA800便の旅客機が空中爆発を起こして墜落する陰惨な事故が発生する。当初発表された事故の原因は燃料タンクの給油ゲージの電線から火花が走り、燃料に引火したというものだった。
2001年、ジョン・コーリーは妻のケイトと共にTWA800便墜落事故の5年目の追悼式に出席していた。ケイトは事故当時、調査に当たったFBI捜査官の1人であり、それゆえにこの事故に対する思い入れが深かった。
その席でケイトは200人以上の目撃者の証言の多くが海面から飛行機に向かって走るミサイルのような光の筋を見たと云っていると告げる。それは公の場でCIAの手によって燃料タンクからの爆発による物だと説明はされていたが、目撃者や捜査に当たったケイトを含むFBI捜査官でも腑に落ちない点だった。そして当時、その模様をビデオカメラに撮っていたカップルが存在するとの噂があった。
追悼式の後、ケイトに事件の関係者たちに逢わされたジョンは、ビデオテープを持つカップルの捜索に極秘裏に乗り出す。

題名の意味は『黄昏』。物語の結末にあの事件を持ってきたこの作品にはそれがよく似合う。
今回は1996年に起きたTWA800便の旅客機が墜落した事故の一部始終を収めたと云われるビデオテープの在り処とそれを撮った不倫カップルを捜し当てるのがメイン・テーマとなっている。確かにジョン・コーリーのへらず口は健在で、ページの捲る手がクイクイ進むのだが、物語の牽引力としては設定がいささかパワー不足。

今回もデミルは冒頭の第一部で不倫カップルが存在する事、そしてその撮影にいたる顛末を事細かく描いており、ジョンがそのカップルになかなか行き着かないのに非常にやきもきさせられた。
『王者のゲーム』の時にも書いたが、やはりこの辺のデミルの物語の創作作法に疑問が残るのである。不倫カップルのエピソードは、ジョンがジルに行き着いた時に語れば、効果が高いと思う。ジョンがジルに逢った時はジルの解説付きで、セックスシーンからビデオを見せられるという形で第一部の内容が再度語られるのだが、これが同じ話を二度も読まされているという感じが拭えなかった。
これはやっぱりデミルの失敗だと思う(担当編集者、注意しろよ!というよりも、巨匠過ぎて出来ないのか?)。

物語はこの後の展開を予告するような形で終わるため、非常に興味深い。どうも今作はその次回作のための長大なプロローグのような気がしてならない。でないと、あまりに単調すぎる。
次回作こそ、ベトナム戦争に区切りをつけたデミルが21世紀にして新たに出会った驚異に立ち向かう渾身の作品になるに違いない。


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ナイトフォール(上) (講談社文庫)
ネルソン・デミルナイトフォール についてのレビュー
No.217:
(7pt)

御手洗シリーズとの違いが色濃く出た短編集

本作は2002年に当初『吉敷竹史の肖像』として刊行された短編集からエッセイや対談などを取り除き、純粋に吉敷シリーズの短編集として編み直した物で、文庫化に際して新作の「電車最中」という短編が書き加えられている。

まず冒頭の「光る鶴」はかつて島田氏が物したノンフィクション大作『秋好事件』をモチーフにした吉敷シリーズの中編だ。
吉敷はかつて逮捕した元やくざの藤波の葬儀に出席するため、福岡の久留米市に赴いた。その告別式で昭島悟と名乗る藤波の生前に親しくしていた若者と出逢う。
26年前に久留米市に近い稲塚という街で一家3人を惨殺した「昭島事件」という殺人事件が起き、彼はその犯人の息子だという。実は父、昭島義明は義父であり、世話になった藤波の頼みで養子縁組を組んでいた。今まで昭島義明は自らが犯人だと認めており、死刑も確定していたが、藤波の強い説得の末、再審請求をしているという。そこで彼は吉敷に父の冤罪を証明して欲しいと頼む。
26年も前の事件の再捜査に難色を示していた吉敷だったが、亡き藤波の熱意に押されるが如く、再捜査に乗り出す。
秋好事件が同じく福岡の飯塚での事件、そして一家惨殺事件である事からかなり類似性が高い。題名の「光る鶴」とは事件当時、駅のホームに捨てられていた赤子の悟の胸に置かれていた銀の折鶴に由来する。これが冤罪の証拠となるのは自明の理だが、相変わらずの吉敷の粘りの捜査が描かれている。
事件の真相は物語中盤で早くも吉敷と昭島との面接から明らかになるが、この作品の意図は昭島義明の冤罪をいかに証明するかに主眼が置かれているので当然だろう。この事件解明は島田の秋好事件に対する願望に外ならない。

続いて「吉敷竹史、十八歳の肖像」は吉敷がいかに警察官になるに至ったかを描いた物語だ。
広島は尾道市の町工場の息子である吉敷竹史は昔から権力を嵩に威張り散らす人間が嫌いだった。C大に合格し、東京に出てきた18歳の吉敷だったが、時は折りしも大学紛争たけなわの時代で吉敷の通う大学も例外ではなかった。
吉敷は学内闘争には加わらなかったが、闘争学生の中の1人、桧枝という学生と親しくなる。桧枝は同い年とは思えぬほどの博識でしかも社会の仕組みを裏側まで知り尽くしているような感じだった。その桧枝がある日、学校のロッカーでリンチ死体となって発見される。学生紛争の混乱から単なる一犠牲者としか扱わない警察に愛想を尽かし、吉敷は単独で犯人の捜索に当たる。
執拗な聞き込みの末、事件前日に犬猿の仲の佐々木という学生に会っていたとの情報を得る。吉敷は佐々木の住所を調べ、実家に赴くのだが・・・。
幼稚園児が快刀乱麻の名探偵振りを発揮する御手洗シリーズを書いた同じ作者とは思えぬほど、この物語は対極にある。つまりここに作者の二つのシリーズの創作姿勢が現れているように思う。吉敷シリーズが極力現実の警察の捜査に即して描く事を主眼にしたリアルなシリーズにあるのに対し、御手洗シリーズは幻想味と奇想をテーマに掲げた一種のファンタジーだという事だ。
あとラストに出てくる最後の宮沢賢治の詩、『雨にも負けず』は、確かに吉敷の人と成りを語るにこれほど雄弁な物はないと感心した。

そしてラストの「電車最中」。
鹿児島県の天文館通りのマンションで市役所の建設企画課長が射殺されるという事件が起きた。鹿児島県警刑事課の留井は捜査を進めるにつれ、一人の容疑者が浮上する。地元の暴力団K山会の幹部、福士健三だった。
彼の犯行である証拠として、死体のズボンの折り返しの裾に入っていた食いかけの電車の形をした最中を福士が買ったことを立証すれば、逮捕は目前だった。しかし、九州中の市電のある県を当たってみたが、そんな物はないという知らせ。捜査を中国・四国地方に拡大したが、同じ結果だった。
焦った留井は捜査を東京を除く市電のある全国各地の都市に広げたが、すべて空振りに終わった。途方にくれた留井はふと数年前の捜査で東京から鹿児島に訪れていた吉敷という刑事の事を思い出す。
まさにこれこそシリーズを読み通した者が得る醍醐味というものだろう。留井が語る数年前の事件とは私の好きな『灰の迷宮』である。電車型をした最中を探す、これだけ単純な捜査にこれほどまでに物語性を持たせる島田氏の手腕に改めて脱帽。いやはやどこからこんな話を拾ってくるのだろうか?
そしてこの作品でも御手洗シリーズとの相違がはっきりと書き分けられている。御手洗シリーズのスピンオフ作品では御手洗が電話や手紙での出演だけなのに、あっさりと事件の真相に迫るヒントなんかをアドバイスする超人ぶりを描いているのに対し、本作では吉敷は留井の捜査のお手伝いをするのみで助手に徹している。あくまで事件を解くのは留井である。この辺の身のわきまえ方が私をして御手洗よりも吉敷の方を好きにさせているところなのだ。
そして最後の蛇足ともいえる留井の若かりし頃の東京での恋愛話もまた昭和を語る一つの因子となっている。

今後の島田氏はこういった情の部分を積極的に取り入れるらしい。なんとも嬉しい話ではないか!

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光る鶴 吉敷竹史シリーズ16 (光文社文庫)
島田荘司光る鶴 についてのレビュー
No.216:
(7pt)

謎の畳み掛けが絶妙

カーター・ディクスン名義で発表された作品だが、主人公はおなじみのH・M卿ではなく、短編でおなじみのマーチ大佐の前身であるマーキス大佐。発表当時、エラリー・クイーンの片割れ、フレデリック・ダネイが大幅に削除したそうだが、今回はそれらを含めた完全版である。

引退した元判事チャールズ・モートレイクが自宅の離れで殺害されるという事件が発生した。犯人はモートレイクに重刑を科せられた犯罪者ゲイブリエル・ホワイトだった。仮出所したホワイトが判決の恨みのため、モートレイク宅に押し入り、銃で殺害したというのだった。
現場を現認したペイジ刑事はしかし、事件に不思議な不適合性を発見していた。銃声は2回鳴ったのにもかかわらず、ホワイトから発射された銃弾は1発のみ。しかも室内の花瓶の中から別の銃が見つかり、もう1発の銃声はこの銃からの物と思われるが、室内に銃弾が見つからなかった。そして解剖の結果、モートレイクの体内から発見された銃弾は、2つの銃のどちらでもなく、全く別の空気銃から放たれた銃弾だった。

物語の謎自体、シンプルながら、どこか辻褄の合わない論理の違和感でどんどん話を膨らませていく作品で、読中、セイヤーズの作品を想起した。
今回は登場人物たちがそれぞれ何らかの嘘をついていることがテーマか。嘘をついていることで殺人計画が予想外の方向転換を余儀なくされた結果、2発の銃声に3種類の銃弾が発生するという奇妙な事件を招く。この、どうにもすわりが悪い状況設定を最後に論理で解き明かしていくのは素晴らしい。

今回の作品の特徴として、新たな事実が発覚するにつれ、また新たな謎が生まれる畳み掛けの手法が挙げられる。カーの持ち味とも云うべきこの手法だが、今回はこの畳み掛け方が絶妙だった。
銃声2発に対し、犯人から発射された銃弾は1発→現場で発見された別の銃の意外な持ち主→遺体から摘出された銃弾がその2丁の拳銃のどれでもない第3の銃弾だった→第3の銃の意外な発見場所→奇妙な窓の足跡→第2の殺人の発生、と謎また謎の連続である。
しかも220ページの薄さでこれだけの状況展開を繰り広げられるから物語のスピード感が違う。今までのカー作品の中でも随一の速さを誇っていると思う。
そして今回嬉しかったのが部屋の見取り図がちゃんと付いていた事。コレがあるのと無いのとでは物語の理解度が違う。そして田口氏による改訳により、いつもの時代がかった大仰な表現が鳴りを潜め、非常に読みやすかった。

犯人は今回も意外だった。しかしこれについて衝撃を受けるようなほどでもなかった。ただし、状況は整然と整理され読者の前に提示された。
しかし、やはり窓の足跡については蛇足であると感じた。他者へ疑惑の目を向けるための工作だったが、開かない窓から脱出する足跡という謎は魅力的だったものの、その存在を十分に納得させるだけの論理性は薄弱だと感じた。恐らくダネイはこの部分を削除したのではないだろうか(後で解説を読むと、どうやら削除されたのは登場人物の描写が中心らしい)?

しかし御大カーの作品を削除して発表させる事が出来るのはこの人ぐらいだろう。この2人による贅沢なコラボレーションは当時、かなり話題だったに違いない。


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第三の銃弾 完全版 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
カーター・ディクスン第三の銃弾 についてのレビュー
No.215:
(7pt)

日本の根源的な怖さを感じる小説

逆打ち―四国霊場八十八ヶ所を最後の礼所から最初の礼所へ逆回りに死者の死んだ歳の数だけ回ると死者が甦ると伝えられている儀式。日浦照子は若くして亡くなった我が子莎代里を甦らせようとこの逆打ちを行った。
一方、幼い頃に高知の矢狗村に住んでいた明神比奈子は矢狗村にある実家の整理という名目で東京での生活に疲れた心身を癒しに訪れた。幼馴染みの日浦莎代里に会おうとしたが、不幸にも亡くなっている事に気付く。
同窓会が行われた際に秋沢文也と再会し、かつての恋心が再燃する。しかしその二人を見つめる“眼”があることにその時はまだ気付かなかった。

当時自分の住んでいる四国を舞台にこれほどまでの土俗ホラーが繰り広げられるのにまず驚いた。寒風山トンネルとか石鎚山とか馴染みのある地名が出てくるので、自分の住んでいるところがとんでもなく恐ろしい死者の地のように感じた。
しかし、この死者を甦らせる逆打ちという儀式、これが本当にあるのか、または言い伝えとして残っているのかは寡聞にして知らないが、このアイデアは秀逸。実際、ありそうだもの。そして素直にお遍路さんを感心して見る事が出来ないようになりそうだ。
この逆打ちを中心に、四国が死者と生者が同居する“死国”となる展開、そして比奈子の実家の管理人、大野シゲの若かりし頃の不倫の話、儀式として四国霊場八十八ヶ所巡りを村の男が順番に行う男の話、植物人間状態で入院している郷土研究家の莎代里の父と介護する看護婦の話、これら全てが逆打ちに同調して収斂する手際は見事だ。

今回読書中、『八つ墓村』とかの昔の日本の映画の雰囲気を思い出した。あの独特の日本人の魂の根源から揺さぶられる恐怖がここにはある。日本の田舎が持つお化け屋敷的な怖さを感じさせる文章力は素晴らしい。
そして映画は未見だが、恐らく莎代里=栗原千秋なのだろう。このキャスティングは見事。イメージぴったりだ。映画も観たくなった。

死国 (角川文庫)
坂東眞砂子死国 についてのレビュー
No.214: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

案外御手洗シリーズ入門書として良いかも?

『占星術殺人事件』を解決した数ヵ月後の話。御手洗の許に高沢秀子という妙齢の女性が訪れる。その人が話すには、友人の折野郁恵という女性が、五稜郭で有名な榎本武揚が当時ロシア皇帝から頂いたダイヤモンドの靴を所有しているという。
最近その折野郁恵さんの様子がおかしくなり、相談に乗っていた時に、雨が降り出したのを見て、突然倒れ、そのまま入院してしまったのだ。郁恵さんの容態が気になり、最近息子夫婦に尋ねたところ、雨が降ったから十字架が無くなり、とんだことになってしまったという謎の答えが返ってきた。そして息子夫婦が最近、教会の前の道路沿いの花壇を衆目の中、掘り出すという奇行をしていたとの事だった。
この一連の奇妙な出来事について、御手洗は大事件が起きていると云うのだった。

御手洗シリーズの、短編小説のような意匠を凝らしたエピソードや、最近の科学技術の話など、そういった肉付けが一切無い、事件のみを語った生粋の本格推理小説だ。
セント・ニコラスのダイヤモンドの靴を巡って『占星術殺人事件』の竹越刑事と事件をもたらした高沢秀子を交え、右往左往する物語で、中身は簡単なのに、なかなか目的のダイヤモンドの靴までに行き着かない。まるで乱歩の通俗小説を読んでいるかのようだった。

事件を第三者の目から当事者の行動を、理解し難い奇行の数々として描くという技法を凝らしており、思わずポンと膝を叩いてしまった。そして逆に島田氏の本格推理物の作り方というのが解ってしまった。
それは、ある行動について、無知の人の目を通して情報の少ない形で語るというスタイル。これが後の説得力ある御手洗の解明に一役買っているのだ。だから読者は作者(ほとんどの場合、それはある登場人物の台詞によって語られる)が語る事象を鵜呑みにせず、その行動そのものを実際に試してみるとよいだろう。特に今回のダウジングなんかはその典型だ。

御手洗物入門書として、長さといい、ストーリーといい、最適の1冊かな。


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セント・ニコラスの、ダイヤモンドの靴: 名探偵 御手洗潔 (新潮文庫nex)
No.213:
(7pt)

シリーズ第2作目から読んで第1作目のネタバレに(ノд-。)あぅ。。

ロシアの民警ダニーロフとアメリカのFBI捜査官カウリーが国境を越えてコンビを組むダニーロフ&カウリーシリーズ第2弾。不幸な事に第1弾である『猟鬼』は絶版で手に入れることが叶わず、未読。そして本書はその『猟鬼』の真相に存分に触れているというシリーズ読者には親切な作品。

前回の事件で活躍をしたダニーロフはロシア国民には英雄視される一方、モスクワ民警では“便宜には便宜を”図らない清廉潔白な捜査官であったため、約束されていたと見込んでいた本部長の座を格下のメトキンに奪われ、憤懣やるかたない日々を送っていた。
一方、アメリカではロシア大使館員が銃殺されるという事件が起き、続いてスイスの投資会社社長が同様の手口で銃殺される事件が連続して起きていた。事件解明にはロシアの協力が必要と感じたFBIはカウリーを捜査の担当者に任命し、またダニーロフを協力者としてロシア政府に要請した。
アメリカに飛んだダニーロフは再びカウリーとコンビを組む事になったが、意外にも捜査は一向に進まなかった。ロシア大使館の監視の中、ダニーロフは被害者セロフのメモ帳にある符号を見出す。果たしてそれは暗号で、7人のロシア人の名前が浮かび上がる。ようやく得た手掛かりに沸き立つ捜査陣。しかし事件はこの後、ロシアマフィアの恐怖に彩られた戒厳令の下、更に混迷を深めていく。

ダニーロフの人物造形がまず面白い。不当な扱いを受けながらもそれを糧に有能振りを発揮し、上司をいいようにあしらう辣腕ぶりは痛快だ。そしてそれが強固な背骨を持った、やわな虚勢でない事をロシアマフィアとの対話で知る事になる。
またストイックな性格のカウリーは心理学に基づいた尋問をしたり、FBIの最新捜査技術を駆使して、ロシア側だけなら何ヶ月もかかる捜査をあれよあれよという間に進めていく。
無骨ながらも少ない頭髪を気にしたり、友人の妻と浮気をしているロシアの警察官、酒を控え、ストイックなまでに任務を遂行するFBI捜査官。ロシア人とアメリカ人とで比べれば、大方その人物設定は逆になるであろうと思われる。これこそフリーマントルならではの味付けといったところか。

事件の真相はゴルバチョフの時代に起きたクーデターで紛失した2,000万ドルにもなる共産党資金についての争奪戦の様相を深めていく。
ロシアの大使館員とスイスの投資会社社長のパイプ、そしてマフィアネットワークの構築など、話が進めていくにつれ、事は大きくなっていく。

この辺は後に読むノンフィクション『ユーロマフィア』で培った取材に基づくところによるものだろうが、よく考えられている。何しろ破綻が無い。
かつて天敵であったロシアとアメリカがチームを組むが、やはり冷戦の頃の根は深く、お互いが大団円で利益を分け合うようにはいかない。この辺のリアルさが作者の誠実さなのだろう。
ロシアの大使館員が被害者という事で両者のうちダニーロフに関する描写・挿話の比重が高く、カウリーの印象が薄かった。前作『猟鬼』が未読なので不明だが、カウリーについては前作で語られたのかもしれない。もしそうでなければ作者はダニーロフの方が好きなのかも。

色々思うところは他にもある。
例えば上巻のラストでダニーロフがロシア高官の歴々の面前で上司を伴いながら公然と批判するところ。批判だけでなく、証拠無しで本部長罷免の要請をするのだ。ここを読んでたら映画『ア・フュー・グッド・メン』を思い出した。畳み掛ける挑発で証拠無しで自供を勝ち取るあの緊迫感。こういう手法もロシアならではなのか。
あとやはりダニーロフの私生活について、特に愛人と妻との間で揺れる感情の機微について感銘を受けた。歳を取るにつれ、肉体を求める事が無くなり、じわじわと蝕まれるように愛情が損なわれ、破綻していく二人の関係。一方で魅力を増す友人の妻。どきりとするところがあり、思わず我が身を振り返る。幸いな事に自分には浮気や不倫などという事には縁がないが、ふとした時に過ぎるセックスレスの心情などは胸が痛くなる思いがした。
そして意図せず自らが行った親切に無邪気に喜ぶ妻を見た時に訪れる憐憫の情。これは解るなぁ。私自身、大学当時、毛嫌いしていた親父がTVのつまらないギャグで大笑いしているのを見て、「こんなことぐらいしか楽しい事がないのか」と感じたあの感覚。忘れていたあの時のことをふと思い出してしまった。

しかし、全体的に冗漫だと感じた。特にマフィアと繋がっているダニーロフの悪友コソフや上巻で道化師役を割り当てられるメトキンの二人の狂言回しが長すぎる。これもダニーロフの人物像を深めるためのエピソードなのだろうが、なかなか核心に行かず、焦れた。
こういう冗漫さを感じるところが傑作と佳作の壁なのだろう。面白いがその面白さが突き抜けなかったなあ。

英雄〈上〉 (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル英雄 についてのレビュー
No.212:
(7pt)

ミステリという先入観を外して読むのが吉

日本推理作家協会賞受賞のこの短編集。しかし私は1作の『空飛ぶ馬』の方を推す。
今回も主人公私が出くわすのは日常の謎だ。それもいつもとちょっとだけ違う違和感に似た現象だ。それらを円紫師匠と私が問答を行うように解き明かすと、人間の心の暗部が浮き上がる。

今回収められた作品は3編。第1編「朧夜の底」では友人正ちゃんのバイト先の神田の大型書店で遭遇する国文学書に対して行われる些細な悪戯が、悪を悪と思わない都合主義な利己心に行きつく。
2編目の「六月の花嫁」はもう1人の友人、江美ちゃんの誘いで軽井沢の別荘に行ったときに起きた、連鎖的消失事件について語った物。チェスのクイーンの駒→卵→脱衣室の鏡と続く消失劇は「私」の推理でその場は一応解決されるが、1年後、江美ちゃんの結婚へと結実する。しかしそこには江美ちゃんが「私」を利用したやましさがあった。
最後は表題作「夜の蝉」。「私」の姉の交際相手、三木さんが新入社員の沢井さんと浮気しているという噂を聞いて、姉は歌舞伎のチケットを三木さんに渡し、待ち合わせをするとそこに現れたのは沢井さんだった。後日喫茶店で3人で話し合ったときに三木さんに「なぜあのような意地悪をするのだ」と叱責される。誰が姉の手紙を沢井さんへ送ったのか?女のしたたかさを感じさせる1編。


今回特徴的なのは『空飛ぶ馬』よりも各編が長くなり、事件が起きるまでに「私」を取り巻く人々の知られていない部分について語ることにページが費やされている。1、2作目はそれぞれ「私」の友人の正ちゃんと江美ちゃんのサークル活動について。3作目は今までほとんど語られる事のなかった「私」の姉との関係について。そして各編で事件が起きるのは1作目では全91ページ中39ページ目、2作目では全80ページ中36ページ目、3作目では全91ページ中37ページ目で。つまり今回の謎は各登場人物を描き出す因子の1つとして添えられているようだ。
純粋に推理だけに終始する物語は好きではないものの、このように謎そのものがメインでない物語も好きではない。逆にもどかしさを感じずにいられなかった。だから私は今作よりも前作の方が日本推理作家協会賞に相応しいと思うのだ。

確かに各編で語られる人間模様、「私」の感性豊かな主張、落語や日本文学について語られる侘び寂び溢れる薀蓄、日本の良さを強く感じさせる品の良い自然描写などどれをとっても一級品でそれら「寄り道」は確かに面白い。
しかし、それらをメインで語るならばミステリでなくて良いわけで、やはりミステリと謳うからには物語の主柱に謎があって欲しいのである。

ところで1作目で「私」にも恋の訪れがあるのかと思わせたがその後の2編では全く出てこない。代わりに2作目では江美ちゃんの結婚、3作目では姉の失恋と続く。
そうか、これはミステリの意匠を借りた恋愛短編集なのかもしれない。しかしそれらは惚れた、振られただのを声高に叫ぶど真ん中の恋愛ではなく、昔の日本人の美徳とされた慎み深く、他人に見せびらかすことない、忍ぶ恋愛だ。


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夜の蝉 日本推理作家協会賞受賞作全集 (65)  双葉文庫
北村薫夜の蝉 についてのレビュー
No.211:
(7pt)

無駄のない端正なミステリ

マンションの9階から女性が飛び降りる事件が起きた。ドアには鍵がかかっている上にチェーンも掛けられ、完全な密室状態だった。捜査をしていた警察は自殺もしくは事故だとして片付けようとしていた。
しかし向かいのマンションでこの部屋を覗くのが習慣となっていた車椅子の女性、坪田純子は事件が起きた午後9時ごろに室内に男がいるのを目撃していた。
事件が混迷を極める中、女子大生連続殺人事件が発生する。そして飛び降り事件を殺人事件と主張して止まない坪田の家には無言電話が掛かってくるようになっていた。

一切の無駄がない作品。どの事件、エピソードも余すところなくミステリの因子として活用される。おまけに文章も上手く、読み物としてのコクもある。
特に推理の肝となる時間差トリックや犯人の供述の綾などがごくごく自然に書かれており、すっと読まされるために驚きも大きかった。なるほど!と膝を思わず叩いてしまった。この辺の文章の自然さは女子大生の同居人、久保まことの正体や坪田の部屋をノックする人物の消失などの小技トリックにも驚きをもたらす事に成功している。こういう小技が本格ミステリには読書の牽引力として必要なのである。

本作は題名から察するにウィリアム・アイリッシュをモチーフにしており、各章の章題もウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)作品を思わせる(というかその物ズバリもあるが)物ばかりだ。詩のような美麗な文章とまではいかないが、足が地に着いた堅実な筆致は読んでて、信頼めいたものを感じた。

今邑作品は数年前に『i 鏡に消えた殺人者』を読んだが、そちらでも盛り込まれていた最後のオカルト趣向が本作にも盛り込まれているのが嬉しい。
今回は闇へと開かれた古びた扉が描かれた油絵。ここから何者かが飛び出し、所有者を死へいざなうのだ。しかし、やはり『i』を読んでいるだけに二番煎じ感は拭えないのは確か。

この作家、『このミス』や『本格ミステリ・ベスト10』や『週刊文春』など各種年間ミステリランキングにランキングされなかったので、そろそろ離別しようかと思っていたが、作品に漂うミステリ色は私好みのそれなので、考えを改め、今後も付き合っていく事に決めた。
世間よ、今邑彩氏を読むべし!と声高に叫びたい。



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「裏窓」殺人事件―tの密室 (光文社文庫)
今邑彩「裏窓」殺人事件 tの密室 についてのレビュー
No.210: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

フリーマントル版『ジョーカー・ゲーム』

イギリスの対外情報機関。その建物が四角張った赤レンガ造りのビルで正に工場を想起させる事から通称「ザ・ファクトリー」と呼ばれていた。
「ザ・ファクトリー」の情報工作員が立て続けに潜入先で捕まるという事件を発端に情報工作本部長であるサミュエル・ベルは組織内に二重スパイ(もぐら)がいると睨む。通常ならば内部監察を受けるべきなのだが、そうすれば個人秘書との愛人関係、職務中の度重なる飲酒など自らの乱れた生活が暴かれるのは必至で、地位を追われることは間違いなかった。そこでサミュエルは自ら立てた計画に基づき、「もぐら」を炙り出そうと試行錯誤する。

本作はこの「ザ・ファクトリー」に潜入した二重スパイの捕縛をテーマにした12の連作短編集。その内容は二重スパイの誤認、ロシアからの亡命者の話、潜入中の工作員の救出、ロシアへのスパイ派遣、首相のインサイダー取引疑惑事件、世界的経済壊滅事件、ロシア皇帝の末裔の話などヴァラエティに富んでいる。
それぞれの短編を通して、「ザ・ファクトリー」に勤務する人物達を活写する手際はフリーマントルの職人技が冴え渡っている。財政のスペシャリスト、度胸満々のアラビア語を操るエージェント、暗号解読のスペシャリストなど、実に魅力的。こういった微に細に渡ったエージェントの諜報活動を読むのは、非常に胸を躍らさせ、これぞ読書の醍醐味というのを味わった。

しかし、これら12の短編が1つのテーマを下に語られている割には前半の4編は散文的である。5編目の「もぐら」でとうとうサミュエルがロシアへスパイを潜り込ませるという背水の陣の攻めの一手を打つのだが、それ以降もイギリス首相のインサイダー取引疑惑の話や世界的な経済壊滅危機の話や、テロリストの武器調達源の捜索など、枝葉の話に移るのがバランスを書いているように感じた。確かにこれらは面白い。1つの作品として面白いが連作短編と謳っているのにもかかわらず、最終的に「もぐら」の抽出に寄与していないのが物足りなかった。

作品として面白かったのは「マネー・チェンジャー」、「テロリスト・ルート」、「皇帝の密書」、「尋問」、「暗号破り」の5編。つまり最後の6編中、5編が面白かった。
「マネー・チェンジャー」は先進各国は資源の確保のため、発展途上各国に行う資金投入がエスカレートして債務国の支払能力をはるかに上回るほどの過剰投資となっているという悪循環の内容が非常に興味深かった。これは恐らく事実なのだろう。本当に起こりうる話だというのが怖い。
「テロリスト・ルート」はアラビア語を自在に操る工作員ヘンリー・ミリントンというキャラクターの魅力に尽きる。ヘンリーのスパイとしてのプロフェッショナルさが際立っており、最後の皮肉なラストも小説としてのレベルが高い。
「皇帝の密書」はよくある設定なのだが、こういう始まり方は好き。しかし皇帝の末裔が語る「天下の一大事」の正体がいささか弱い気が。
「尋問」はスパイ活動の非情さを克明に書いた一編。ロシアに侵入したジェレミー・ディーデスに行われる拷問についての詳細な内容は痛々しいし、また「もぐら」で潜入したスパイ、ウィリアム・デイビスの末路も哀しく、ここで打つ手がなくなったと思わせるフリーマントルの小説作法が心憎い。
しかし最後から2番目の「暗号破り」で暗号解読のスペシャリスト、ヘンリー・アクストンの活躍で一気に好転する。これはヘンリーの人物を上手く描くと共に連作短編としての展開も見事だ。

このようにクオリティの高い短編もあるが、今回の評価が低くなったのはやはりラストのどんでん返しによる。サプライズのために用意されていたのだろうが、あれは余計な設定だった。こういうところが職人作家のいらぬサービス精神なんだよなぁ。


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十二の秘密指令 (新潮文庫)
No.209: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

21世紀本格とはもはや読者が謎解きに参加できない本格なのでは?

アメリカ在住のレオナから石岡の許に送られてきた一通の手紙。それは倉持ゆりという女性からのファンレターだった。それは普通のファンレターと違い、亡き祖父倉持平八がレオナにヴァージニア州に住むアナ・アンダーソン・モナハンという女性に謝罪をしていたと伝えて欲しいという内容だった。
暇を持て余していた御手洗と石岡はファンレターに書かれていた箱根の富士屋ホテルのマジック・ルームに飾られていた写真について調査を始める。そこで二人が支配人に見せられた写真は大正8年に山中の湖、芦ノ湖にロシアの軍艦が現れたという不思議なものだった。御手洗は軍艦が現れた謎とその裏に隠された歴史的悲劇を解き明かすことになる。

『暗闇坂の人喰いの木』から『アトポス』まで続いた長厚壮大な御手洗シリーズとは打って変わって、初期の御手洗作品を思わせるような文庫本にして340ページ弱のコンパクトな作品。しかも今回は今まで冒頭で延々と語られていた事件に纏わるエピソードを作品の後半に持ってきたスタイルで、御手洗シリーズの源流であるドイルのホームズシリーズの構成を想起させた。

今回の謎は見え見えであると云ってもいい。幽霊軍艦の謎も物語の2/3の部分に当たる224ページで早くも明かされてしまう。
つまり今回の主題はこのロシア幽霊軍艦の謎を解き明かすことよりも島田氏が21世紀本格として提唱している脳の秘密と本格の融合についての実践にあると感じた。
『眩暈』では悪夢のような実際にありえそうもない手記の内容について論理的にそれら一つ一つを合理的に解決していったが、今回アナという女性が繰り広げる奇行―髪の毛をむしり取る、衝動的な暴力的行為、糞公害やゴミ屋敷―について大脳生理学上の見地から説明を行っている。過去の実例を挙げて非常に理路整然としていて読みやすく、興味深く読んだのだが、今後の本格の行く末について危惧したのも確か。知識ではなく知恵で解き明かす知的ゲームとしての本格が専門的な知識も動員しないと解けなくなるのは寂しい感じがした。

また御手洗の特徴として常人には理解できない奇行があるが、今回もレオナの知人でロマノフ王朝について調べていた在野の研究家ジェレミー・クラヴェルが御手洗の許を訪れて一緒に食事に行く際に馬の毛で作ったブラシを突然買い、頭の薄いクラヴェルに勧めるシーンがある。非常に面白いエピソードだが、これが実に後半有機的に働くのだ。
今までならば御手洗の人物描写として味付けがなされていた奇行さえも本作の真相解明に一役買っていることからも今回の作品が実に贅肉をそぎ落とした作品かが解る。

しかし、このまま行けば本格がますます解けないパズルゲームになってしまいそうだ。これが島田氏の本懐なのだろうか。
知的ゲームとしての本格か、それとも本格の意匠を纏った物語か、うーん、悩ましい。


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ロシア幽霊軍艦事件: 名探偵 御手洗潔 (新潮文庫nex)
島田荘司ロシア幽霊軍艦事件 についてのレビュー
No.208: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

悪訳ゆえに頭に入ってこない

ケンウッド・ブレークの友人ディーン・ハリディが彼に持ちかけた話とは、自身の邸プレーグ・コートで行われる、亡き兄ジェームズを呼ぶために伯母が呼んだ心霊学者ダーワースが開催する降霊会に参加して、彼のトリックを暴いて欲しいという依頼だった。プレーグ・コートとは1710年にロンドンに蔓延した黒死病の時代に、その病に感染した家族の間で凄惨なやり取りが繰り広げられた呪われた邸で、現在は幽霊屋敷と評されていた。
数々の降霊会でトリックを暴いたと云われるスコットランド・ヤードの警部マスターズとともにプレーグ・コートに赴いたケン・ブレークは降霊会の最中、主催者であるダーワースの殺人事件に出くわす。離れの石室で密室状態の中、殺されたダーワースの傍らには、プレーグ・コートの名の由来となった絞刑吏ルイス・プレージの短剣が落ちていた。捜査は混迷を極める中、ケンは風変わりな役人、ヘンリー・メリヴェール卿に助けを求めるのだった。

HM卿デビュー作の本書。正直、例によって読みにくい文章のため、中盤まではほとんど読後の結果については諦めていた。しかし、世評に名高い本書は、最後に至って複雑な絵図を読者の眼前に晒してくれた。
石室という離れで起こった密室殺人については、実のところ、あまり驚きをもたらさない。これを知らされただけでは本書は凡百のミステリに過ぎない。
しかし、この事件で最も読ませるのは真相で明らかになる複雑な人間関係だ。単純な事件の表層の裏に、かくも込み入った役割分担があったというのが驚き。

最後の真相は面白いが、そこに至るまでの内容・文体にどうしてもノレなかったのでそれを差し引いて評価は7ツ星。もはや私自身がカー作品の(翻訳の)文体に忌避感を抱いているのかもしれない。


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黒死荘の殺人 (創元推理文庫)
No.207:
(7pt)

説明は精緻、しかしプロットは二番煎じ?

読中、この人は一体何者?という思いが頭を覆っていた。
冒頭のプロローグでの原子力発電所の建築現場のシーンにおける建設専門用語の正確さから始まり、原子炉制御システムの専門的な説明はまだしも、科学専門雑誌・専門書の取次会社の業務や、潜入した大学で新しい原子炉のデータを抜き取る際のコンピュータ関係の専門用語、ウラン濃縮技術の話や操船技術、時限爆弾の作り方などそれらこの小説では余技である部分でさえ、微細に渡って描写し、説明するのにはひたすら脱帽。普通の作家なら、それらは省略するテクニックで上手く処理するのだが、この人にはそれがない。しかもそれらが全て専門家と同一レベルの知識なのだからものすごい。更に加えてこれらの知識を一切取材せず、専門書や自らの空想で描くというのだから、ほとんど天才である。
しかし、それらは裏返せば小説としての力の抜きどころがないわけで、読者もずっと力の入った読書を強いられる事になる。この辺が万人になかなか受け入れられにくいところではないかと思う。

さて、物語は三人称の文体を取りつつも、基本的に主人公島田浩二の視点で語られる。
島田はソ連側のスパイ、江口彰彦によって日本に連れてこられたロシア人と日本人とのハーフだった。日本では江口の知人、島田海運の社長、島田誠二郎の息子として育てられ、成長するにつれて江口の弟子としてスパイとして育てられつつも、原発の技術者としても知られるようになっていた。一時期疎遠になっていた二人を再び引き合わせたのは父誠二郎の葬儀の場だった。そこで島田は明らかにロシア人の顔つきをした高塚良と名乗る青年と幼馴染みの日野との再会を果たす。スパイを引退した島田はその日を境にCIA、KGB、北朝鮮、日本公安4つ巴の原発襲撃プラン「トロイ計画」の情報戦の渦中に引きずり込まれるのだった。

髙村氏は書きながらストーリーやプロットを考えるという。この小説はそういう作者の癖が如実に表れているように思った。詳細な日常な描写が続くし、各国スパイの島田への接触が断続的だし、次々と出てくる登場人物の使い方が使い捨てすぎるのが気になった。

特筆すべきはこの作家の脳みその構造の凄さである。まず専門家が素人の発言に驚かされるという描写。この小説では「世界の原子力発電所は戦争・破壊活動を想定して作られていない」、「原子炉の蓋を開けて見てみたい」という発想の斬新さを述べているが、こういう描写は専門家の頭を持っていないとまず思い浮かばない。この作家の経歴には商社勤務の経験しか書かれていず、技術者としての経験はないはずだが、何ゆえこのような発想が思いつくのか、想像を絶する。
それともう一つは隠遁中の江口が島田と行う暇つぶしの方法について。ホテルに篭ってマッサージをしてもらい、お酒をちびりちびりやりながら読書をする、このだらしなさこそが男の至福の寛ぎなのだとのたまうが正にその通り。
これを女性作家に述べられるともう敵わない。作者は男ではないかと疑うのも解る気がする。
あと原子炉の温度制御の数値入力において不適当な数値を入れたとしても1つ1つ綿密に潰していけばシステムは機能するという話はかつて問題になった建屋の構造計算書偽造問題を想起させ、興味深かった。

しかしこれほど緻密な説明や描写、血肉の通ったキャラクターを用意してもその内容はというと、首を傾げざるを得ない。結局原発襲撃は男二人の我侭による壮大な悪戯に過ぎないし、そのために犠牲になった各機関や人生を破滅させられるであろう登場人物が出る事を考えると簡単にこの小説に同意できないのだ。
世にその名が知られる前の作品だからこの辺の浅はかさは目をつぶるべきなのかもしれないが。


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神の火〈上〉 (新潮文庫)
高村薫神の火 についてのレビュー
No.206:
(7pt)

面白いがお勧めできないほどグロテスク

御手洗シリーズのスピンオフ作品で、今回はハリウッド・スター、レオナ・マツザキが主人公。

LAPDに寄せられた1つのビデオテープ。そこにはハリウッド・スターのパトリシア・クローガーを凌辱し、惨殺する模様が写されていた。このスナッフ・フィルムを取った犯人を探し出すべく、彼女の親友レオナ・マツザキが捜査に乗り出す。しかし、それは光輝く華やかなりしエンタテインメントの頂点ハリウッドとアメリカ合衆国の想像を絶する暗部を垣間見る捜査行の始まりでもあった。

まず最初に云いたいのは、本作は読んでいて気持ちがいいものではない。むしろ読後は食欲と性欲を著しく減じるほどのグロテスクな内容だ。読中、しきりに頭をよぎったのは、「なぜこんな作品を島田氏は書いたのだろう?」という疑問文だ。この疑問に対して自分なりの答えを以下に書いてみる。
恐らく島田氏はエッセイ『聖林輪舞』で取材したハリウッドの内幕と、世紀末から新世紀にかけて関心を抱いて取材を続けている脳科学やDNAなどの遺伝子工学の分野で得た知識を総動員してこの作品を物したものだと思われる。この作品で数多く語られる神の冒涜とも云えるクローン技術やアメリカのアンダーグラウンドで繰り広げられる異様なポルノ・グラフィティの世界は正直云って、読者の食指を動かすものでは決して、ない。知らずにいてもいいことだろうし、恐らく日本のみならず、世界大半の人がその世界の一端にも触れる事なく人生を終えることだろう。
つまり、この作品において島田氏は読者へ娯楽を提供しているのではなく、許されざる悪行が皆の知らないところで繰り広げられている事を啓蒙しなければならないという使命感のみで書き上げたということだろう。

作品の形態は一応ミステリという形をとってあり、サプライズも含んであるから本格の部類に入るのだろうと思うが、個人的には真相は最初の方で解ってしまった。作者が仕掛けたミスリードも惑わすほどの効果はなく、作者の手法の構造が透けて見えたほどだ。しかし、上にも述べたようにこの作品の要素はこのミステリ部分にはなく、作者がミステリ作家であるがゆえにこの形態を採ったに過ぎない。そして、この時期の島田作品の特徴である御手洗潔のカメオ出演(今回も電話の声のみ)もしっかりとあるからファン・サービスも忘れてはいない。

また『暗闇坂の人食いの木』以降の御手洗シリーズの特徴に本筋の話を彩る膨大なエピソードがあるが、今回はケルト民族の神話とあのコナン・ドイルも関係したコティングリー村の妖精騒動がそれに当たる。この辺の物語は今回も無類に面白い。コナン・ドイルに至っては晩年の心霊・神秘研究の話はもとより、かの名作『バスカーヴィル家の犬』が盗作で、本当の作者はドイルが殺したなんていう話も盛り込まれており、今回も非常に愉しめた。

あと気になったのが島田氏の英単語の発音表記。カメラの「ナイコン」、車の「ディムラー」はそれぞれ「ニコン」、「ダイムラー」ではないのかと思う。
それぞれ本当にアメリカではそのような云い方をするのかはこちらが無知で知らないが、「レジュメ」を「レザメ」というのは明らかに間違いだろう。どっかの訛りではないだろうか。あと「ストゥディオ」は「スタジオ」でも十分だろう。

とにかく、この作品は読者を選ぶ作品だ。万人に勧められるものではない。島田作品が好きでなおかつ彼のスピリットに共感できるものでしか勧められない、少なくとも私は。それでもその人が女性ならば勧めないだろうなぁ、絶対。



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ハリウッド・サーティフィケイト (角川文庫)

No.205:

廃流 (広済堂文庫―異形招待席)

廃流

斎藤肇

No.205:
(7pt)

最後の花道

佐久諒矢は小学生の頃、雲土の峠を友達同士で雲土の峠を登ろうとしていた際、休憩した付近で遭遇した奇妙な家でこの世のものとは思えない美しい少女と出くわす。しかし少女はうっすらと光に包まれながらも下半身は壁に溶け込んでいるという不思議な風貌をしていた。
10年後、各地で若い女性が体の一部を切り取られ死亡するという奇妙な事件が田山市で続発する。しかしそれは後に繰り広げられる奇妙な生命体が起こす惨劇の幕開けに過ぎなかった。

今回の話を読んで頭に浮かんだのはクーンツの『ファントム』とB級ホラー映画『ブロブ』だ(あとは『千と千尋の神隠し』のカオナシか)。最初は下半身が無くなる女性の事件から耳、腕、頭髪、頭と続く。この一連のエピソードが淡々とあくまで控えめな視点で語られる。今までの斎藤作品とは一線を画す素晴らしさで、非常に面白く読めた。
最初は小さなアメーバだったそれは人体の一部を搾取するだけだったが、次第に人体そのものを取り込んでいき、どんどんでかくなっていく。最終的には街を埋め尽くす光を放つ生命体にまで発達する。さてこういう大風呂敷を広げる話は大好きだが、読中気になるのはその収束方法。特に今回は銃弾はおろか麻酔弾も効かない、爆弾を仕掛けると細かく分裂して被害が拡大する恐れがある、あまりに大きすぎるために焼き払うことも出来ないという無手策ぶり。これを倒せるのは何の変哲も無い学生、佐久諒矢のみ。
どうやって倒すのだろうと思っていたら、危惧したとおり呆気なかった。

しかしこの生命体を軸に色んな立場、職業の人物を描いて群像劇を紡ぎだした手腕は買う。一番心に残ったのは掃除おばさん谷岡福子夫妻の逃亡劇の話。いち早く他人よりも逃げる事が出来たにもかかわらず、夫が預金通帳を取りに帰るなどという詰まらぬ事にこだわったがために申し訳なく思っている表情とそれに対する福子の最後の台詞。このエピソードは怪物が出てこようが人間っていうのは意外にそんなものなんだと感じさせる。

そんな斎藤作品も今回で打ち止め。しかし最後の最後で彼のいい仕事に出逢えた。


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廃流 (広済堂文庫―異形招待席)
斎藤肇廃流 についてのレビュー
No.204:
(7pt)

チャーリー・マフィン再登場!

チャーリー・マフィン再登場!原題は文中にも出てくる『拍手で迎えよう、チャーリーの再登場を』(私なら『拍手喝采、チャーリー様のお出ましだい』と訳すが)で、こちらの方がチャーリーの人を食った性格を表しており、邦題よりも相応しいと思う。

さて今回は前作『消されかけた男』の続きから物語は始まる。英国情報部とCIAをまんまと出し抜いて大金をせしめて逃亡したチャーリーはスイスはチューリッヒにいた。悠々自適な逃亡生活を送るかに思えたチャーリーだが、実際は追っ手からの目に怯える毎日を送っており、妻イーディスも暗鬱な逃亡生活に疲弊していた。
酒に溺れる日々の中、チャーリーは慕っていた前上司アーチボルト・ウィロビーの墓参りをしに英国を訪れることを思い立つ。制止する妻の忠告を聞かずにウィロビーの墓を訪れたチャーリーは大きな声で自分を呼ぶ男と遭遇する。それはウィロビーの息子ルウパートだった。ルウパートはチャーリー同様、父を閑職に追いやった今の英国情報部を嫌悪しており、チャーリーを英雄視していた。ウィロビーが遺言で彼の遺産の一部をチャーリーに残した旨を話し、協力を申し出る。しかし、それら一連の出来事は新任英国情報部長ウィルバーフォースと新任CIA長官スミス、ならびに彼らの前任者カスバートスン、ラトガースの知るところとなり、チャーリー抹殺の罠を仕掛けるきっかけになってしまう。

前作に比べると本作は小粒な印象を受けてしまう。今回は逃亡者としてのチャーリーの緊張感を軸にしてチャーリー抹殺のための英国情報部とCIAの丁々発止のやりとりを描いているのだが、プロットがストーリーに上手く溶け込まず、あざといまでに露見しているきらいがあり、チャーリーが逆転に転じる敵側のミスがあからさま過ぎるのだ。チャーリーを罠にはめるべく敵側が取った方法が銀行強盗であり、その被害届のために英国に戻らざるを得なくなるという設定は素晴らしいと思ったが、そのあとのロシアの美術館からのレプリカの美術品を盗む展開は、保険引受人であるルウパートを巻き込んで破滅させようという動機があるものの、やはり蛇足だと思う。

2作目を読んで、チャーリー・マフィンシリーズは海外の連続ドラマ方式の手法を取っていると感じた。1話1話にヤマ場を用意するために誰かが死んだり、登場人物の血縁が登場したりという手法がぴったり当てはまるかのようだ。
それに対して否定はしない。十分及第点の楽しみは得られるからだ。
チャーリーの今後を一読者として見守っていこう。


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再び消されかけた男 (新潮文庫)
No.203: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

田中氏が書けば中国風味が加わる

通常、映画のノヴェライズは手に取らない私。しかしその作者が田中芳樹氏だと聞くと気になり、思わず買ってしまった。このあまりに知られた物語をどういう風に料理するかに興味を覚えたからだ。

いやあ、実に田中芳樹氏らしい作品だというのが正直な感想。登場人物の台詞が田中特有のアイロニックな云い回しとハリウッド・テイストとぴったりマッチングしており、全然違和感ない。逆に映画という時間制限で極限に絞られた条件の中でこの部分の台詞はどのように表現されているのかと気になるくらいだ。つまり田中氏の台詞こそが映画に相応しく思えるのだ。
また映画の舞台となる1933年当時の歴史背景・風俗背景も丹念に書かれており、これが非常に臨場感を増している。この辺は正に彼の得意とするところで、面目躍如といった感じ。田中氏の悪い癖の1つに歴史的なエピソードに懲りすぎてストーリーの進行がおろそかになることが挙げられるが、今回はほどよい匙加減で、抜群に雰囲気を引き立てている(特に当時の大統領のエピソードやアル・カポネが逮捕された時はまだ32だったなんていうエピソードなどの薀蓄は楽しかった)。

そして今回最もこの作品を手に取るにあたり、ぐいっと興味を惹きつけられたのは「King Kong」という名前の由来が中国語から来ているというエピソードだ。これはどうやら田中氏の創作ではないかと思うのだが、このエピソードこそを得た事で中国好きの田中氏との強固たる絆が出来たことを確信した。(本書を読んだ時点では)映画を観ていないので憶測になるが、キング・コングの棲む島がダイヤモンドの原石の山だという設定は恐らくこのエピソードから膨らませた田中氏のアイデアだと思う。

ともあれこれを読んだがために非常に映画を観たくなった。忘れていた細部が補完されたため、そのスケールの大きさを痛感させられたので、是非とも映画館の大スクリーンで体験したい。
状況が許せばの話だが(その後DVD借りて観ました)。

キング・コング
田中芳樹キング・コング についてのレビュー
No.202:
(7pt)

青木知己氏の才能に感服

今回のアンソロジーで際立っていたのは投稿者の文章力の向上。ほとんどがプロと比肩して遜色がない。いや、名前を伏せて読めばプロ作家のアンソロジーだと勘違いしてしまうだろう。
これは神経質なまでに原稿の字組から指導した編者二階堂黎人氏の執念の賜物だろう。ただプロとアマとの大きな隔たりがあるのは否めない。それは過剰なまでの本格どっぷりに浸かったパズル志向である。その最たるものは「水島のりかの冒険」と「無人島の絞首台」と「何処かで気笛を聞きながら」である。

まず「水島のりかの冒険」は留学先のボストンで知り合ったカップルが新婚旅行先のホテルで殺人事件に出くわす物語。(感想はネタバレにて)

次の「無人島の絞首台」はインドネシアに旅行で訪れたカップルが事故により無人島に漂着し、サバイバルの日々を送るうちに、あたかもつい最近処刑が行われたかのような痕跡があった絞首台を見つけ、他人の存在に恐々とする話。これは無人島に漂流したという内容だけで50ページ以上も読ませる筆力は素晴らしいと思う。

そして「何処かで気笛を聞きながら」は幼い頃、誘拐された話を聴いていた夜ノ森静が、そのわずかな手掛かりからどこで起きた事件であるかを探り、命の恩人を探し出すというもの。これはもはや鉄道マニアのためのミステリで、常人にはこの謎は解けません。

この3作品に共通するのは100ページの短編の中にアイデアを詰め込みすぎていること。上にも上げたようにモチーフとなった作品はいずれも長編である。ワンアイデアを借りているだけという意見もあろうが、読んでいる身にしてみれば作者の言葉遊びに無理矢理付き合わされている感じは拭えなかった。

そんな中、傑作といえる作品が「コスモスの鉢」、「モーニング・グローリィを君に」、「九人病」の三作品。

「コスモスの鉢」は半身麻痺の資産家が自宅の2階から落ちて死亡する事件が起き、その事件の容疑者となった妻を検事不二子が調査するといった話。
平凡な事件に少ない登場人物。はっきり云ってこの作品は地味なのだが、地味な分、足元がしっかり地に着いており、読み物として濃い味わいがある。もちろん本格推理を募集したアンソロジーだからトリックはある。それが地に足が着いた検事を主人公にした話と違和感無く融合する程度だから、さほどすごいものではないのだが、場面展開といい、話の合間に挟まれる人物描写や検事の仕事の解説といい、全てが読ませる。

「モーニング・グローリィを君に」は今までも「窮鼠の悲しみ」、「金木犀の香り」と全て私がベストに推している鷹将純一郎氏の作品。
介護のバイトをしていた女子大生が介護先の老人の家で強姦の末、殺されるという事件を長きに渡って捜査する刑事と介護されていた老人たちの物語。
今回の事件の真相は実はほとんど推理できた。にもかかわらず優秀作に推すのはこの人の文章のためである。濃密でドラマ性があり、人間ドラマが際立っており、非常に読ませる。ただ本格に拘泥するあまり、最後に出てくる車のトランクの中での機械トリックが非常に浮いた感じがする。この人の本質はこんなトリックにないと思うので活躍の場を移せばいいのにと強く思った。

そして今回のベストは「九人病」。この作者青木知己氏も過去に名作「Y駅発深夜バス」と佳作「迷宮の観覧車」を送り出している優れた資質を持った人だ。
雑誌社に勤めている和久井が特集記事の取材のため訪ねた北海道の辺境の温泉で相部屋となった男から聴いた四肢が抜け落ちるという奇病「九人病」のお話。
この作品、純粋な意味で本格ミステリではなくホラーだろう。しかしそんな事がどうでも良くなるほど面白い!まず「九人病」というネーミングが秀逸で、なんとも読書意欲をそそられる。そして土俗ホラーの陰鬱な文章とこの九人病のアイデアが素晴らしく、読んでいて非常に楽しかった。これぞ物語の醍醐味である。

そして今回、今まで二階堂黎人氏が望んでいた「空前絶後の推理小説求む!」の声に応える作品が来た。その作品、高橋城太郎氏の「蛙男島の蜥蜴女」と「紅い虚空の下で」はそれぞれ蛙の面を被った男たちの住む島で起きた蜥蜴女の殺人事件とスカイフィッシュ(作中ではメタルフィッシュ)が人間界で起きた殺人事件を解くといういずれも幻想小説テイストの作品。漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を思わせるアクの強い文章(きっとこの作者は荒木飛呂彦のファンですな)とピーター・ディキンソンを思わせる悪夢のような作品世界は非常に読者を選ぶ。つまり二階堂氏が望んだ小説がこういうのだということが解り、がっかりした次第だ。

このシリーズは決別の意味を込めて今まで読んできたのだが、この高橋氏の作品に対する編者の喜びを読んで、その意を強くした。
しかしこのアンソロジーを読むことは決して無駄ではなかった。特に二階堂氏に編者が代わってからのこのシリーズの充実振りは目を見張るものがあった。このアンソロジーからデビューした作家が私の今後の読書体験の線上に上る事を願いつつ、このアンソロジーから本書を以って別れを告げたい。


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新・本格推理〈05〉九つの署名 (光文社文庫)
二階堂黎人新・本格推理05 九つの署名 についてのレビュー
No.201:
(7pt)

なんだかんだで泣かされます

正直云って、島田荘司氏は迷走してます。皆が云うように島田信望者に祭り上げられて浮かれていたんではないだろうか?そう思わざるを得ない今回の作品集。
なんせ御手洗潔が幼稚園児のときと小学2年生に既に刑事事件を解決していたというお話である。特に御手洗潔が幼稚園児のときの話「鈴蘭事件」では、幼稚園児にして明察な頭脳と観察力を持っていたという設定で、もはや小説中の人物でしかありえないスーパーマンぶりにがっかりした(なんせ幼稚園児の時点でモーツァルトを弾き、因数分解をしていたというから驚きだ)。もう何でもいいや、何が来ても驚かないぞという感じがした。

里美の大学に幼少時代の御手洗の写真と彼を語った文章が記された資料があるとの知らせから始まる「鈴蘭事件」は当時御手洗を好いていた女の子、鈴木えり子の父親が事故死した寸前、彼女の家のお店であるバーの透明グラスのみがことごとく割られているという事件を扱っている。

御手洗潔小学2年生の時の事件は表題作「Pの密室」。横浜市長賞という小・中学生を対象に毎年開かれる絵のコンクールの審査員をしている画家、土田富太郎が自宅で殺されるという事件が起きた。しかも現場は密室で愛人と噂されていた弟子の天城恭子とともにめった刺しにされ、絶命していたという。しかも奇妙な事に室内にはびっしりとコンクールの応募作が敷き詰められ、それら全てが真っ赤に染められていたというのだった。
小学2年生の時点で御手洗潔が事件の全容を最初から掴んで、刑事達を煙に巻いている、しかも刑事の中には協力的なものもいる、この現実性の無さというか、ご都合主義に呆れた。もしこれが「鈴蘭事件」同様のただの本格推理小説ならば、今回は5ツ星だったろう。
しかし、またしても島田氏のストーリー・テラーの才能にやられた。これがあるから島田氏は見捨てられないのだ。

題名の「Pの密室」の意味はパズラー純度100%だが、犯人の事情はまたしても私の心に残るだろう。よって+2ツ星の7ツ星としよう。


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Pの密室 (講談社文庫)
島田荘司Pの密室 についてのレビュー
No.200:
(7pt)

都会小説として満喫

今回収められた9編を読むとアイリッシュの作風は単なるサスペンス・スリラー作家という安直なフレーズでは収まらずに、サスペンス・スリラーの手法を用いた都会小説という思いを強くした。

まず最初の「高架殺人」は高層ビルひしめく都市の間を縫うように走る高架列車で起きた殺人であり、これは都会でなければ起き得ない事件。
「わたしが死んだ夜」は都会にしか存在しない浮浪者が殺人に関与しているし、「リンゴひとつ」は1つのリンゴが人から人へ渡る物語。その人たちは都会で生きていくのに明日の食事さえも摂れるかわからない人たちが大勢出る。1つのリンゴは隣り合う人々の手に渡るが彼らには全く関係性がないのも都会の人の繋がりの希薄さを示して非常に印象的。
「コカイン」も都会の膿が生んだ麻薬が引き起こす事件。「葬式」は冒頭の買い物から逃亡劇へと移るシーンで路地裏の複雑さを描いているし、「妻が消えた日」もひょんなことで怒った妻の行方が判らなくなる物語で、妻がいなくなることはその夫のみの事件であり、周辺に住んでいる人物は誰も事件には関わっていない。正に群衆の中の孤独である。

9編中、最も良かったのは「リンゴひとつ」と「日暮れに処刑の太鼓が鳴る」の2編。
「リンゴひとつ」は以前『晩餐後の物語』に収録されていた「金髪ごろし」という作品があったが手法的にはあれと似ている。「金髪ごろし」は金髪美女が殺されるという見出しのついた新聞を買う人々それぞれのドラマを描いた物語で、新聞売り場一点を定点観測していたが、今回は対象をリンゴに移して、その1つのリンゴが渡る様々な人々の物語を描いた作品。そのリンゴというのが宝石泥棒が宝石を盗むのに細工をしたリンゴで薄皮一枚の中に5万ドル相当の宝石が眠っている。これが盗みの手違いで傲慢な夫人や会社の金を横領し、その埋め合わせが出来なくて苦悶している夫婦、浮浪者などに渡っていく。
こういった作品の場合、アイリッシュは貧しき者に救済の手を差し伸べるのがパターンなのだが、今回はそうではなく、あくまで洒落た結末に着地している(この結末がいいかは別の話)。この作品でアイリッシュは「貧しい者たちにもチャンスは平等に訪れてはいる。ただそれに気付くのが難しい」と云うメッセージをこめているように思った。
「日暮れに処刑の太鼓が鳴る」は非常に贅沢な一品。中南米を思わせるサカモラスという架空の国を舞台に物語は語られる。
その国ではたった今政権交代が起き、新しい政府の頭には双子のエスコバル兄弟が鎮座する事となる。元市長を人質に大金をせしめようとするが、元市長の娘と息子がその将軍の下へ訪れた翌日、双子の片割れがナイフで刺されて死んでいるのが発見される。そのナイフは元市長の娘がかどわかされようとして抵抗した際に将軍に取られたナイフだった。激情したもう1人のエスコバルはその兄妹を処刑しようとするが、その場に居合わせたアメリカの刑事が犯行時間にずれがあることを示し、真犯人を捕らえようと乗り出す。
これは『暁の死線』や『幻の女』を思わせるデッドリミットサスペンスの手法を取っているが、それだけではなく、わずか60ページ足らずの中にクーデター物、ウェスタン小説、そして最後のアメリカから来ている刑事が容疑者の有罪を証明するための捜査行も洞窟を舞台にして、宝探しのテイストを持ち込んでおり、冒険小説の要素も入っている。
しかし、それら以上に興味深かったのが、アイリッシュが想定した架空の国サカモラスである。この警察とか裁判とかいうものがない国での殺人事件の捜査という趣向が非常に面白かった。サカモラスでは将軍が疑う者が犯人だと決まる。つまり「疑わしき者を罰する」という考え方。そこに居合わせたアメリカから来た刑事オルークは当然、容疑者は証拠を出して有罪を証明しなければならないという刑事捜査の原理に基づいて行動する。この概念自体から彼らに教えなければならないというのが非常に面白く、野蛮な国に近代の考えを持ち込むミスマッチの妙を半ばコミカルに描いている。アイリッシュでは異色の部類に入る作品だ。

また今回も前回の『シルエット』で感心した、物語を途中から始める手法は健在で、特に今回は極力情報を排して物語のスピードに留意した作品があった。
それは「葬式」と「死ぬには惜しい日」の2編。他の作品が50~60ページであるのにこの2編はそれぞれ30ページ、20ページと非常に少ない。しかしそれがゆえに物語のスピード・テンポは非常に特徴的だった。
「葬式」はチャンピオン・レインという全米指名手配犯のFBIからの逃走を描いた短編でいきなりチャンプの妻が買い物の最中にFBIに勘付かれた事に気付き、逃げ出すシーンから始まる。最初の2ページではハメットを思わせる状況のみを語った三人称で街角によく見られる買い物風景を描写しているが、女性が周囲の男性の正体に気付くや否やスピード感溢れる逃亡劇に変わり、物語が一気にアップテンポへシフトチェンジする。そこから怒涛の銃撃戦と息つく暇もないほどだ。この辺の手際が見事。
そしてこの物語ではチャンプが何を犯したのか、そういった説明を一切省いている。そういう意味では大きな物語の起承転結の「起」「承」自体が省かれていると云える。
そして「死ぬには惜しい日」。こっちは自殺を決意した女性ローレルが主人公。
ローレルが自殺を決意したその日、いざ実行しようとすると間違い電話が掛かってきたので気が散ってしまい、気分転換に外を散歩する事にした。公園のベンチで休んでいるとカバンを置き引きに取られてしまったが若い男性が捕まえてくれた。ドウェインというその男と何となく話すようになり、道々話しているとお互い気が合うのが解った。恋めいた感情が生まれ、やがて家の前に着いた時、ローレルは死ぬのを辞めようと決意するのだが。
最初の自殺を行おうとするローレルの自殺を行う事自体億劫な感じを与える倦怠さから気晴らしに散歩に出て男性を知り合い、部屋の前で交わす会話までの物語は非常のスロー・テンポだが、最後1ページで突きつけられる皮肉な結末はそれまでのスロー・テンポを完膚なきまでに破壊するほどの衝撃。長い「静」のシーンからいきなり落雷の如く訪れる激しい「動」のシーン。読者は無情なまでに物語の只中に置き去りにされるような感じがした。
この作品ではローレルの自殺を決意した直接の原因は語られない。そういう意味では「葬式」同様、大きな物語の「起」、「承」の部分を排除している。
同じ構成を用いて、2種類の物語のテンポチェンジを見せる、アイリッシュの手腕に感心する。

その他については簡単に寸評を。
「高架殺人」はスリムな体型でニックネームが「はずむ足どり(ステップ・ライヴリー)」なのに動きは鈍重、階段の上り下りさえも嫌うというライヴリーはユニークな設定なのだが、ちょっとした面白みがあるだけでストーリーに寄与していないのが勿体無い。
「わたしが死んだ夜」、「コカイン」、「夜があばく」と「妻が消えた日」は正にアイリッシュサスペンスならではといった作品。妻との保険金詐欺を働いた男に訪れる皮肉な結末、コカインを吸った記憶が曖昧な男が犯した殺人事件が本当にあったのかを捜査する話、夜中にいなくなる妻が放火魔なのかどうかと疑惑が募る話、実家に帰った妻が行方不明になる話とバリエーションは豊かだ。

どれもこれも内容は濃い。ただこの辺はアイリッシュ作品を読みなれているがゆえに新鮮さを感じなかった。こういう贅沢な感想が云えるのもアイリッシュのレベルが高い故なのだが・・・。


▼以下、ネタバレ感想
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わたしが死んだ夜―アイリッシュ短編集 (5) (創元推理文庫 (120-7))