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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数688

全688件 481~500 25/35ページ

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No.208: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

悪訳ゆえに頭に入ってこない

ケンウッド・ブレークの友人ディーン・ハリディが彼に持ちかけた話とは、自身の邸プレーグ・コートで行われる、亡き兄ジェームズを呼ぶために伯母が呼んだ心霊学者ダーワースが開催する降霊会に参加して、彼のトリックを暴いて欲しいという依頼だった。プレーグ・コートとは1710年にロンドンに蔓延した黒死病の時代に、その病に感染した家族の間で凄惨なやり取りが繰り広げられた呪われた邸で、現在は幽霊屋敷と評されていた。
数々の降霊会でトリックを暴いたと云われるスコットランド・ヤードの警部マスターズとともにプレーグ・コートに赴いたケン・ブレークは降霊会の最中、主催者であるダーワースの殺人事件に出くわす。離れの石室で密室状態の中、殺されたダーワースの傍らには、プレーグ・コートの名の由来となった絞刑吏ルイス・プレージの短剣が落ちていた。捜査は混迷を極める中、ケンは風変わりな役人、ヘンリー・メリヴェール卿に助けを求めるのだった。

HM卿デビュー作の本書。正直、例によって読みにくい文章のため、中盤まではほとんど読後の結果については諦めていた。しかし、世評に名高い本書は、最後に至って複雑な絵図を読者の眼前に晒してくれた。
石室という離れで起こった密室殺人については、実のところ、あまり驚きをもたらさない。これを知らされただけでは本書は凡百のミステリに過ぎない。
しかし、この事件で最も読ませるのは真相で明らかになる複雑な人間関係だ。単純な事件の表層の裏に、かくも込み入った役割分担があったというのが驚き。

最後の真相は面白いが、そこに至るまでの内容・文体にどうしてもノレなかったのでそれを差し引いて評価は7ツ星。もはや私自身がカー作品の(翻訳の)文体に忌避感を抱いているのかもしれない。


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黒死荘の殺人 (創元推理文庫)
No.207:
(7pt)

説明は精緻、しかしプロットは二番煎じ?

読中、この人は一体何者?という思いが頭を覆っていた。
冒頭のプロローグでの原子力発電所の建築現場のシーンにおける建設専門用語の正確さから始まり、原子炉制御システムの専門的な説明はまだしも、科学専門雑誌・専門書の取次会社の業務や、潜入した大学で新しい原子炉のデータを抜き取る際のコンピュータ関係の専門用語、ウラン濃縮技術の話や操船技術、時限爆弾の作り方などそれらこの小説では余技である部分でさえ、微細に渡って描写し、説明するのにはひたすら脱帽。普通の作家なら、それらは省略するテクニックで上手く処理するのだが、この人にはそれがない。しかもそれらが全て専門家と同一レベルの知識なのだからものすごい。更に加えてこれらの知識を一切取材せず、専門書や自らの空想で描くというのだから、ほとんど天才である。
しかし、それらは裏返せば小説としての力の抜きどころがないわけで、読者もずっと力の入った読書を強いられる事になる。この辺が万人になかなか受け入れられにくいところではないかと思う。

さて、物語は三人称の文体を取りつつも、基本的に主人公島田浩二の視点で語られる。
島田はソ連側のスパイ、江口彰彦によって日本に連れてこられたロシア人と日本人とのハーフだった。日本では江口の知人、島田海運の社長、島田誠二郎の息子として育てられ、成長するにつれて江口の弟子としてスパイとして育てられつつも、原発の技術者としても知られるようになっていた。一時期疎遠になっていた二人を再び引き合わせたのは父誠二郎の葬儀の場だった。そこで島田は明らかにロシア人の顔つきをした高塚良と名乗る青年と幼馴染みの日野との再会を果たす。スパイを引退した島田はその日を境にCIA、KGB、北朝鮮、日本公安4つ巴の原発襲撃プラン「トロイ計画」の情報戦の渦中に引きずり込まれるのだった。

髙村氏は書きながらストーリーやプロットを考えるという。この小説はそういう作者の癖が如実に表れているように思った。詳細な日常な描写が続くし、各国スパイの島田への接触が断続的だし、次々と出てくる登場人物の使い方が使い捨てすぎるのが気になった。

特筆すべきはこの作家の脳みその構造の凄さである。まず専門家が素人の発言に驚かされるという描写。この小説では「世界の原子力発電所は戦争・破壊活動を想定して作られていない」、「原子炉の蓋を開けて見てみたい」という発想の斬新さを述べているが、こういう描写は専門家の頭を持っていないとまず思い浮かばない。この作家の経歴には商社勤務の経験しか書かれていず、技術者としての経験はないはずだが、何ゆえこのような発想が思いつくのか、想像を絶する。
それともう一つは隠遁中の江口が島田と行う暇つぶしの方法について。ホテルに篭ってマッサージをしてもらい、お酒をちびりちびりやりながら読書をする、このだらしなさこそが男の至福の寛ぎなのだとのたまうが正にその通り。
これを女性作家に述べられるともう敵わない。作者は男ではないかと疑うのも解る気がする。
あと原子炉の温度制御の数値入力において不適当な数値を入れたとしても1つ1つ綿密に潰していけばシステムは機能するという話はかつて問題になった建屋の構造計算書偽造問題を想起させ、興味深かった。

しかしこれほど緻密な説明や描写、血肉の通ったキャラクターを用意してもその内容はというと、首を傾げざるを得ない。結局原発襲撃は男二人の我侭による壮大な悪戯に過ぎないし、そのために犠牲になった各機関や人生を破滅させられるであろう登場人物が出る事を考えると簡単にこの小説に同意できないのだ。
世にその名が知られる前の作品だからこの辺の浅はかさは目をつぶるべきなのかもしれないが。


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神の火〈上〉 (新潮文庫)
高村薫神の火 についてのレビュー
No.206:
(7pt)

面白いがお勧めできないほどグロテスク

御手洗シリーズのスピンオフ作品で、今回はハリウッド・スター、レオナ・マツザキが主人公。

LAPDに寄せられた1つのビデオテープ。そこにはハリウッド・スターのパトリシア・クローガーを凌辱し、惨殺する模様が写されていた。このスナッフ・フィルムを取った犯人を探し出すべく、彼女の親友レオナ・マツザキが捜査に乗り出す。しかし、それは光輝く華やかなりしエンタテインメントの頂点ハリウッドとアメリカ合衆国の想像を絶する暗部を垣間見る捜査行の始まりでもあった。

まず最初に云いたいのは、本作は読んでいて気持ちがいいものではない。むしろ読後は食欲と性欲を著しく減じるほどのグロテスクな内容だ。読中、しきりに頭をよぎったのは、「なぜこんな作品を島田氏は書いたのだろう?」という疑問文だ。この疑問に対して自分なりの答えを以下に書いてみる。
恐らく島田氏はエッセイ『聖林輪舞』で取材したハリウッドの内幕と、世紀末から新世紀にかけて関心を抱いて取材を続けている脳科学やDNAなどの遺伝子工学の分野で得た知識を総動員してこの作品を物したものだと思われる。この作品で数多く語られる神の冒涜とも云えるクローン技術やアメリカのアンダーグラウンドで繰り広げられる異様なポルノ・グラフィティの世界は正直云って、読者の食指を動かすものでは決して、ない。知らずにいてもいいことだろうし、恐らく日本のみならず、世界大半の人がその世界の一端にも触れる事なく人生を終えることだろう。
つまり、この作品において島田氏は読者へ娯楽を提供しているのではなく、許されざる悪行が皆の知らないところで繰り広げられている事を啓蒙しなければならないという使命感のみで書き上げたということだろう。

作品の形態は一応ミステリという形をとってあり、サプライズも含んであるから本格の部類に入るのだろうと思うが、個人的には真相は最初の方で解ってしまった。作者が仕掛けたミスリードも惑わすほどの効果はなく、作者の手法の構造が透けて見えたほどだ。しかし、上にも述べたようにこの作品の要素はこのミステリ部分にはなく、作者がミステリ作家であるがゆえにこの形態を採ったに過ぎない。そして、この時期の島田作品の特徴である御手洗潔のカメオ出演(今回も電話の声のみ)もしっかりとあるからファン・サービスも忘れてはいない。

また『暗闇坂の人食いの木』以降の御手洗シリーズの特徴に本筋の話を彩る膨大なエピソードがあるが、今回はケルト民族の神話とあのコナン・ドイルも関係したコティングリー村の妖精騒動がそれに当たる。この辺の物語は今回も無類に面白い。コナン・ドイルに至っては晩年の心霊・神秘研究の話はもとより、かの名作『バスカーヴィル家の犬』が盗作で、本当の作者はドイルが殺したなんていう話も盛り込まれており、今回も非常に愉しめた。

あと気になったのが島田氏の英単語の発音表記。カメラの「ナイコン」、車の「ディムラー」はそれぞれ「ニコン」、「ダイムラー」ではないのかと思う。
それぞれ本当にアメリカではそのような云い方をするのかはこちらが無知で知らないが、「レジュメ」を「レザメ」というのは明らかに間違いだろう。どっかの訛りではないだろうか。あと「ストゥディオ」は「スタジオ」でも十分だろう。

とにかく、この作品は読者を選ぶ作品だ。万人に勧められるものではない。島田作品が好きでなおかつ彼のスピリットに共感できるものでしか勧められない、少なくとも私は。それでもその人が女性ならば勧めないだろうなぁ、絶対。



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ハリウッド・サーティフィケイト (角川文庫)

No.205:

廃流 (広済堂文庫―異形招待席)

廃流

斎藤肇

No.205:
(7pt)

最後の花道

佐久諒矢は小学生の頃、雲土の峠を友達同士で雲土の峠を登ろうとしていた際、休憩した付近で遭遇した奇妙な家でこの世のものとは思えない美しい少女と出くわす。しかし少女はうっすらと光に包まれながらも下半身は壁に溶け込んでいるという不思議な風貌をしていた。
10年後、各地で若い女性が体の一部を切り取られ死亡するという奇妙な事件が田山市で続発する。しかしそれは後に繰り広げられる奇妙な生命体が起こす惨劇の幕開けに過ぎなかった。

今回の話を読んで頭に浮かんだのはクーンツの『ファントム』とB級ホラー映画『ブロブ』だ(あとは『千と千尋の神隠し』のカオナシか)。最初は下半身が無くなる女性の事件から耳、腕、頭髪、頭と続く。この一連のエピソードが淡々とあくまで控えめな視点で語られる。今までの斎藤作品とは一線を画す素晴らしさで、非常に面白く読めた。
最初は小さなアメーバだったそれは人体の一部を搾取するだけだったが、次第に人体そのものを取り込んでいき、どんどんでかくなっていく。最終的には街を埋め尽くす光を放つ生命体にまで発達する。さてこういう大風呂敷を広げる話は大好きだが、読中気になるのはその収束方法。特に今回は銃弾はおろか麻酔弾も効かない、爆弾を仕掛けると細かく分裂して被害が拡大する恐れがある、あまりに大きすぎるために焼き払うことも出来ないという無手策ぶり。これを倒せるのは何の変哲も無い学生、佐久諒矢のみ。
どうやって倒すのだろうと思っていたら、危惧したとおり呆気なかった。

しかしこの生命体を軸に色んな立場、職業の人物を描いて群像劇を紡ぎだした手腕は買う。一番心に残ったのは掃除おばさん谷岡福子夫妻の逃亡劇の話。いち早く他人よりも逃げる事が出来たにもかかわらず、夫が預金通帳を取りに帰るなどという詰まらぬ事にこだわったがために申し訳なく思っている表情とそれに対する福子の最後の台詞。このエピソードは怪物が出てこようが人間っていうのは意外にそんなものなんだと感じさせる。

そんな斎藤作品も今回で打ち止め。しかし最後の最後で彼のいい仕事に出逢えた。


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廃流 (広済堂文庫―異形招待席)
斎藤肇廃流 についてのレビュー
No.204:
(7pt)

チャーリー・マフィン再登場!

チャーリー・マフィン再登場!原題は文中にも出てくる『拍手で迎えよう、チャーリーの再登場を』(私なら『拍手喝采、チャーリー様のお出ましだい』と訳すが)で、こちらの方がチャーリーの人を食った性格を表しており、邦題よりも相応しいと思う。

さて今回は前作『消されかけた男』の続きから物語は始まる。英国情報部とCIAをまんまと出し抜いて大金をせしめて逃亡したチャーリーはスイスはチューリッヒにいた。悠々自適な逃亡生活を送るかに思えたチャーリーだが、実際は追っ手からの目に怯える毎日を送っており、妻イーディスも暗鬱な逃亡生活に疲弊していた。
酒に溺れる日々の中、チャーリーは慕っていた前上司アーチボルト・ウィロビーの墓参りをしに英国を訪れることを思い立つ。制止する妻の忠告を聞かずにウィロビーの墓を訪れたチャーリーは大きな声で自分を呼ぶ男と遭遇する。それはウィロビーの息子ルウパートだった。ルウパートはチャーリー同様、父を閑職に追いやった今の英国情報部を嫌悪しており、チャーリーを英雄視していた。ウィロビーが遺言で彼の遺産の一部をチャーリーに残した旨を話し、協力を申し出る。しかし、それら一連の出来事は新任英国情報部長ウィルバーフォースと新任CIA長官スミス、ならびに彼らの前任者カスバートスン、ラトガースの知るところとなり、チャーリー抹殺の罠を仕掛けるきっかけになってしまう。

前作に比べると本作は小粒な印象を受けてしまう。今回は逃亡者としてのチャーリーの緊張感を軸にしてチャーリー抹殺のための英国情報部とCIAの丁々発止のやりとりを描いているのだが、プロットがストーリーに上手く溶け込まず、あざといまでに露見しているきらいがあり、チャーリーが逆転に転じる敵側のミスがあからさま過ぎるのだ。チャーリーを罠にはめるべく敵側が取った方法が銀行強盗であり、その被害届のために英国に戻らざるを得なくなるという設定は素晴らしいと思ったが、そのあとのロシアの美術館からのレプリカの美術品を盗む展開は、保険引受人であるルウパートを巻き込んで破滅させようという動機があるものの、やはり蛇足だと思う。

2作目を読んで、チャーリー・マフィンシリーズは海外の連続ドラマ方式の手法を取っていると感じた。1話1話にヤマ場を用意するために誰かが死んだり、登場人物の血縁が登場したりという手法がぴったり当てはまるかのようだ。
それに対して否定はしない。十分及第点の楽しみは得られるからだ。
チャーリーの今後を一読者として見守っていこう。


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再び消されかけた男 (新潮文庫)
No.203: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

田中氏が書けば中国風味が加わる

通常、映画のノヴェライズは手に取らない私。しかしその作者が田中芳樹氏だと聞くと気になり、思わず買ってしまった。このあまりに知られた物語をどういう風に料理するかに興味を覚えたからだ。

いやあ、実に田中芳樹氏らしい作品だというのが正直な感想。登場人物の台詞が田中特有のアイロニックな云い回しとハリウッド・テイストとぴったりマッチングしており、全然違和感ない。逆に映画という時間制限で極限に絞られた条件の中でこの部分の台詞はどのように表現されているのかと気になるくらいだ。つまり田中氏の台詞こそが映画に相応しく思えるのだ。
また映画の舞台となる1933年当時の歴史背景・風俗背景も丹念に書かれており、これが非常に臨場感を増している。この辺は正に彼の得意とするところで、面目躍如といった感じ。田中氏の悪い癖の1つに歴史的なエピソードに懲りすぎてストーリーの進行がおろそかになることが挙げられるが、今回はほどよい匙加減で、抜群に雰囲気を引き立てている(特に当時の大統領のエピソードやアル・カポネが逮捕された時はまだ32だったなんていうエピソードなどの薀蓄は楽しかった)。

そして今回最もこの作品を手に取るにあたり、ぐいっと興味を惹きつけられたのは「King Kong」という名前の由来が中国語から来ているというエピソードだ。これはどうやら田中氏の創作ではないかと思うのだが、このエピソードこそを得た事で中国好きの田中氏との強固たる絆が出来たことを確信した。(本書を読んだ時点では)映画を観ていないので憶測になるが、キング・コングの棲む島がダイヤモンドの原石の山だという設定は恐らくこのエピソードから膨らませた田中氏のアイデアだと思う。

ともあれこれを読んだがために非常に映画を観たくなった。忘れていた細部が補完されたため、そのスケールの大きさを痛感させられたので、是非とも映画館の大スクリーンで体験したい。
状況が許せばの話だが(その後DVD借りて観ました)。

キング・コング
田中芳樹キング・コング についてのレビュー
No.202:
(7pt)

青木知己氏の才能に感服

今回のアンソロジーで際立っていたのは投稿者の文章力の向上。ほとんどがプロと比肩して遜色がない。いや、名前を伏せて読めばプロ作家のアンソロジーだと勘違いしてしまうだろう。
これは神経質なまでに原稿の字組から指導した編者二階堂黎人氏の執念の賜物だろう。ただプロとアマとの大きな隔たりがあるのは否めない。それは過剰なまでの本格どっぷりに浸かったパズル志向である。その最たるものは「水島のりかの冒険」と「無人島の絞首台」と「何処かで気笛を聞きながら」である。

まず「水島のりかの冒険」は留学先のボストンで知り合ったカップルが新婚旅行先のホテルで殺人事件に出くわす物語。(感想はネタバレにて)

次の「無人島の絞首台」はインドネシアに旅行で訪れたカップルが事故により無人島に漂着し、サバイバルの日々を送るうちに、あたかもつい最近処刑が行われたかのような痕跡があった絞首台を見つけ、他人の存在に恐々とする話。これは無人島に漂流したという内容だけで50ページ以上も読ませる筆力は素晴らしいと思う。

そして「何処かで気笛を聞きながら」は幼い頃、誘拐された話を聴いていた夜ノ森静が、そのわずかな手掛かりからどこで起きた事件であるかを探り、命の恩人を探し出すというもの。これはもはや鉄道マニアのためのミステリで、常人にはこの謎は解けません。

この3作品に共通するのは100ページの短編の中にアイデアを詰め込みすぎていること。上にも上げたようにモチーフとなった作品はいずれも長編である。ワンアイデアを借りているだけという意見もあろうが、読んでいる身にしてみれば作者の言葉遊びに無理矢理付き合わされている感じは拭えなかった。

そんな中、傑作といえる作品が「コスモスの鉢」、「モーニング・グローリィを君に」、「九人病」の三作品。

「コスモスの鉢」は半身麻痺の資産家が自宅の2階から落ちて死亡する事件が起き、その事件の容疑者となった妻を検事不二子が調査するといった話。
平凡な事件に少ない登場人物。はっきり云ってこの作品は地味なのだが、地味な分、足元がしっかり地に着いており、読み物として濃い味わいがある。もちろん本格推理を募集したアンソロジーだからトリックはある。それが地に足が着いた検事を主人公にした話と違和感無く融合する程度だから、さほどすごいものではないのだが、場面展開といい、話の合間に挟まれる人物描写や検事の仕事の解説といい、全てが読ませる。

「モーニング・グローリィを君に」は今までも「窮鼠の悲しみ」、「金木犀の香り」と全て私がベストに推している鷹将純一郎氏の作品。
介護のバイトをしていた女子大生が介護先の老人の家で強姦の末、殺されるという事件を長きに渡って捜査する刑事と介護されていた老人たちの物語。
今回の事件の真相は実はほとんど推理できた。にもかかわらず優秀作に推すのはこの人の文章のためである。濃密でドラマ性があり、人間ドラマが際立っており、非常に読ませる。ただ本格に拘泥するあまり、最後に出てくる車のトランクの中での機械トリックが非常に浮いた感じがする。この人の本質はこんなトリックにないと思うので活躍の場を移せばいいのにと強く思った。

そして今回のベストは「九人病」。この作者青木知己氏も過去に名作「Y駅発深夜バス」と佳作「迷宮の観覧車」を送り出している優れた資質を持った人だ。
雑誌社に勤めている和久井が特集記事の取材のため訪ねた北海道の辺境の温泉で相部屋となった男から聴いた四肢が抜け落ちるという奇病「九人病」のお話。
この作品、純粋な意味で本格ミステリではなくホラーだろう。しかしそんな事がどうでも良くなるほど面白い!まず「九人病」というネーミングが秀逸で、なんとも読書意欲をそそられる。そして土俗ホラーの陰鬱な文章とこの九人病のアイデアが素晴らしく、読んでいて非常に楽しかった。これぞ物語の醍醐味である。

そして今回、今まで二階堂黎人氏が望んでいた「空前絶後の推理小説求む!」の声に応える作品が来た。その作品、高橋城太郎氏の「蛙男島の蜥蜴女」と「紅い虚空の下で」はそれぞれ蛙の面を被った男たちの住む島で起きた蜥蜴女の殺人事件とスカイフィッシュ(作中ではメタルフィッシュ)が人間界で起きた殺人事件を解くといういずれも幻想小説テイストの作品。漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を思わせるアクの強い文章(きっとこの作者は荒木飛呂彦のファンですな)とピーター・ディキンソンを思わせる悪夢のような作品世界は非常に読者を選ぶ。つまり二階堂氏が望んだ小説がこういうのだということが解り、がっかりした次第だ。

このシリーズは決別の意味を込めて今まで読んできたのだが、この高橋氏の作品に対する編者の喜びを読んで、その意を強くした。
しかしこのアンソロジーを読むことは決して無駄ではなかった。特に二階堂氏に編者が代わってからのこのシリーズの充実振りは目を見張るものがあった。このアンソロジーからデビューした作家が私の今後の読書体験の線上に上る事を願いつつ、このアンソロジーから本書を以って別れを告げたい。


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新・本格推理〈05〉九つの署名 (光文社文庫)
二階堂黎人新・本格推理05 九つの署名 についてのレビュー
No.201:
(7pt)

なんだかんだで泣かされます

正直云って、島田荘司氏は迷走してます。皆が云うように島田信望者に祭り上げられて浮かれていたんではないだろうか?そう思わざるを得ない今回の作品集。
なんせ御手洗潔が幼稚園児のときと小学2年生に既に刑事事件を解決していたというお話である。特に御手洗潔が幼稚園児のときの話「鈴蘭事件」では、幼稚園児にして明察な頭脳と観察力を持っていたという設定で、もはや小説中の人物でしかありえないスーパーマンぶりにがっかりした(なんせ幼稚園児の時点でモーツァルトを弾き、因数分解をしていたというから驚きだ)。もう何でもいいや、何が来ても驚かないぞという感じがした。

里美の大学に幼少時代の御手洗の写真と彼を語った文章が記された資料があるとの知らせから始まる「鈴蘭事件」は当時御手洗を好いていた女の子、鈴木えり子の父親が事故死した寸前、彼女の家のお店であるバーの透明グラスのみがことごとく割られているという事件を扱っている。

御手洗潔小学2年生の時の事件は表題作「Pの密室」。横浜市長賞という小・中学生を対象に毎年開かれる絵のコンクールの審査員をしている画家、土田富太郎が自宅で殺されるという事件が起きた。しかも現場は密室で愛人と噂されていた弟子の天城恭子とともにめった刺しにされ、絶命していたという。しかも奇妙な事に室内にはびっしりとコンクールの応募作が敷き詰められ、それら全てが真っ赤に染められていたというのだった。
小学2年生の時点で御手洗潔が事件の全容を最初から掴んで、刑事達を煙に巻いている、しかも刑事の中には協力的なものもいる、この現実性の無さというか、ご都合主義に呆れた。もしこれが「鈴蘭事件」同様のただの本格推理小説ならば、今回は5ツ星だったろう。
しかし、またしても島田氏のストーリー・テラーの才能にやられた。これがあるから島田氏は見捨てられないのだ。

題名の「Pの密室」の意味はパズラー純度100%だが、犯人の事情はまたしても私の心に残るだろう。よって+2ツ星の7ツ星としよう。


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Pの密室 (講談社文庫)
島田荘司Pの密室 についてのレビュー
No.200:
(7pt)

都会小説として満喫

今回収められた9編を読むとアイリッシュの作風は単なるサスペンス・スリラー作家という安直なフレーズでは収まらずに、サスペンス・スリラーの手法を用いた都会小説という思いを強くした。

まず最初の「高架殺人」は高層ビルひしめく都市の間を縫うように走る高架列車で起きた殺人であり、これは都会でなければ起き得ない事件。
「わたしが死んだ夜」は都会にしか存在しない浮浪者が殺人に関与しているし、「リンゴひとつ」は1つのリンゴが人から人へ渡る物語。その人たちは都会で生きていくのに明日の食事さえも摂れるかわからない人たちが大勢出る。1つのリンゴは隣り合う人々の手に渡るが彼らには全く関係性がないのも都会の人の繋がりの希薄さを示して非常に印象的。
「コカイン」も都会の膿が生んだ麻薬が引き起こす事件。「葬式」は冒頭の買い物から逃亡劇へと移るシーンで路地裏の複雑さを描いているし、「妻が消えた日」もひょんなことで怒った妻の行方が判らなくなる物語で、妻がいなくなることはその夫のみの事件であり、周辺に住んでいる人物は誰も事件には関わっていない。正に群衆の中の孤独である。

9編中、最も良かったのは「リンゴひとつ」と「日暮れに処刑の太鼓が鳴る」の2編。
「リンゴひとつ」は以前『晩餐後の物語』に収録されていた「金髪ごろし」という作品があったが手法的にはあれと似ている。「金髪ごろし」は金髪美女が殺されるという見出しのついた新聞を買う人々それぞれのドラマを描いた物語で、新聞売り場一点を定点観測していたが、今回は対象をリンゴに移して、その1つのリンゴが渡る様々な人々の物語を描いた作品。そのリンゴというのが宝石泥棒が宝石を盗むのに細工をしたリンゴで薄皮一枚の中に5万ドル相当の宝石が眠っている。これが盗みの手違いで傲慢な夫人や会社の金を横領し、その埋め合わせが出来なくて苦悶している夫婦、浮浪者などに渡っていく。
こういった作品の場合、アイリッシュは貧しき者に救済の手を差し伸べるのがパターンなのだが、今回はそうではなく、あくまで洒落た結末に着地している(この結末がいいかは別の話)。この作品でアイリッシュは「貧しい者たちにもチャンスは平等に訪れてはいる。ただそれに気付くのが難しい」と云うメッセージをこめているように思った。
「日暮れに処刑の太鼓が鳴る」は非常に贅沢な一品。中南米を思わせるサカモラスという架空の国を舞台に物語は語られる。
その国ではたった今政権交代が起き、新しい政府の頭には双子のエスコバル兄弟が鎮座する事となる。元市長を人質に大金をせしめようとするが、元市長の娘と息子がその将軍の下へ訪れた翌日、双子の片割れがナイフで刺されて死んでいるのが発見される。そのナイフは元市長の娘がかどわかされようとして抵抗した際に将軍に取られたナイフだった。激情したもう1人のエスコバルはその兄妹を処刑しようとするが、その場に居合わせたアメリカの刑事が犯行時間にずれがあることを示し、真犯人を捕らえようと乗り出す。
これは『暁の死線』や『幻の女』を思わせるデッドリミットサスペンスの手法を取っているが、それだけではなく、わずか60ページ足らずの中にクーデター物、ウェスタン小説、そして最後のアメリカから来ている刑事が容疑者の有罪を証明するための捜査行も洞窟を舞台にして、宝探しのテイストを持ち込んでおり、冒険小説の要素も入っている。
しかし、それら以上に興味深かったのが、アイリッシュが想定した架空の国サカモラスである。この警察とか裁判とかいうものがない国での殺人事件の捜査という趣向が非常に面白かった。サカモラスでは将軍が疑う者が犯人だと決まる。つまり「疑わしき者を罰する」という考え方。そこに居合わせたアメリカから来た刑事オルークは当然、容疑者は証拠を出して有罪を証明しなければならないという刑事捜査の原理に基づいて行動する。この概念自体から彼らに教えなければならないというのが非常に面白く、野蛮な国に近代の考えを持ち込むミスマッチの妙を半ばコミカルに描いている。アイリッシュでは異色の部類に入る作品だ。

また今回も前回の『シルエット』で感心した、物語を途中から始める手法は健在で、特に今回は極力情報を排して物語のスピードに留意した作品があった。
それは「葬式」と「死ぬには惜しい日」の2編。他の作品が50~60ページであるのにこの2編はそれぞれ30ページ、20ページと非常に少ない。しかしそれがゆえに物語のスピード・テンポは非常に特徴的だった。
「葬式」はチャンピオン・レインという全米指名手配犯のFBIからの逃走を描いた短編でいきなりチャンプの妻が買い物の最中にFBIに勘付かれた事に気付き、逃げ出すシーンから始まる。最初の2ページではハメットを思わせる状況のみを語った三人称で街角によく見られる買い物風景を描写しているが、女性が周囲の男性の正体に気付くや否やスピード感溢れる逃亡劇に変わり、物語が一気にアップテンポへシフトチェンジする。そこから怒涛の銃撃戦と息つく暇もないほどだ。この辺の手際が見事。
そしてこの物語ではチャンプが何を犯したのか、そういった説明を一切省いている。そういう意味では大きな物語の起承転結の「起」「承」自体が省かれていると云える。
そして「死ぬには惜しい日」。こっちは自殺を決意した女性ローレルが主人公。
ローレルが自殺を決意したその日、いざ実行しようとすると間違い電話が掛かってきたので気が散ってしまい、気分転換に外を散歩する事にした。公園のベンチで休んでいるとカバンを置き引きに取られてしまったが若い男性が捕まえてくれた。ドウェインというその男と何となく話すようになり、道々話しているとお互い気が合うのが解った。恋めいた感情が生まれ、やがて家の前に着いた時、ローレルは死ぬのを辞めようと決意するのだが。
最初の自殺を行おうとするローレルの自殺を行う事自体億劫な感じを与える倦怠さから気晴らしに散歩に出て男性を知り合い、部屋の前で交わす会話までの物語は非常のスロー・テンポだが、最後1ページで突きつけられる皮肉な結末はそれまでのスロー・テンポを完膚なきまでに破壊するほどの衝撃。長い「静」のシーンからいきなり落雷の如く訪れる激しい「動」のシーン。読者は無情なまでに物語の只中に置き去りにされるような感じがした。
この作品ではローレルの自殺を決意した直接の原因は語られない。そういう意味では「葬式」同様、大きな物語の「起」、「承」の部分を排除している。
同じ構成を用いて、2種類の物語のテンポチェンジを見せる、アイリッシュの手腕に感心する。

その他については簡単に寸評を。
「高架殺人」はスリムな体型でニックネームが「はずむ足どり(ステップ・ライヴリー)」なのに動きは鈍重、階段の上り下りさえも嫌うというライヴリーはユニークな設定なのだが、ちょっとした面白みがあるだけでストーリーに寄与していないのが勿体無い。
「わたしが死んだ夜」、「コカイン」、「夜があばく」と「妻が消えた日」は正にアイリッシュサスペンスならではといった作品。妻との保険金詐欺を働いた男に訪れる皮肉な結末、コカインを吸った記憶が曖昧な男が犯した殺人事件が本当にあったのかを捜査する話、夜中にいなくなる妻が放火魔なのかどうかと疑惑が募る話、実家に帰った妻が行方不明になる話とバリエーションは豊かだ。

どれもこれも内容は濃い。ただこの辺はアイリッシュ作品を読みなれているがゆえに新鮮さを感じなかった。こういう贅沢な感想が云えるのもアイリッシュのレベルが高い故なのだが・・・。


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わたしが死んだ夜―アイリッシュ短編集 (5) (創元推理文庫 (120-7))
No.199:
(7pt)

素人らしさが薄まった分、期待感が高まったせいもあるのか。

今回は光文社から本格ミステリ作家としてデビューした東川篤哉氏、加賀美雅之氏両氏の作品も掲載され、初期の『本格推理』シリーズに芦辺作品と二階堂作品が掲載していた事を思い出させた。
さて今回収録された8編、これらが全て良作かといえばそうではなかった。前回は50ページから100ページへ制約枚数が増大した分、作品それぞれの物語性が上がった事を喜んだが、2巻目の今回はそれは既に必要十分条件となっている。つまり今までに比べてさらにプロの出来映えに近いくらいの完成度を読み手が要求する事になっているだろうし、実際、私がそうだった。

そんな期待値が高い中、8編中、傑作と思ったのは2編。「窮鼠の哀しみ」と「『樽の木荘』の惨劇」の2編だった。

「窮鼠の哀しみ」は松本清張氏など社会派作家を想起させる誘拐事件を扱った作品。ある鉄工会社の社長の息子が誘拐され、脅迫状の文面から当初は狂言誘拐だと思われたが、犯人からの電話からどうやら本物らしい。二億円の身代金に対し、社長は一億しか都合がつかなかったが、残りの一億は偽装して誘拐犯の要求に臨むことにする。誘拐犯は携帯電話にて色々場所を移動するよう指示した後、あるトラックにカバンを置くように指示する。警察が見張っているとピザの宅配が来て、その車に乗り込み、エンジンを掛けたところを取り押さえるが、犯人ではなかった。心配になってカバンを開けてみると身代金は本物だけが空っぽだった。トラックの側面とその隣の店のシャッターが空いており、そこから金を持ち出したらしい。その後犯人から再度身代金の要求はあるものの、接触は無く、息子は死骸となって発見される。
正にこの2時間サスペンスドラマを読んでいるような感じを与える作品は、最初どこが本格なのか終始首を傾げていたが、最後に哀しいトリックの真相が待ち受けていた。文体といい、警察の捜査の模様といい、この作者は「書ける」人であることは間違いない。警察が真相を暴けない結末は『絢爛たる殺人』で読んだ昔の本格探偵小説を思い出した。

「『樽の木荘』の惨劇」はあの加賀美雅之氏の手になるもので、なんとまたもや「わが友アンリ」の物語に繋がる作品。作者曰く、これと「わが友アンリ」と「暗号名『マトリョーシュカ』」と並んで三部作となるという。これは3作全てが採用されないと成されない偉業。そしてその偉業は単に選者である二階堂黎人氏の贔屓目によるものでなく、確かに確固たる実力に裏付けたされたことであることがこの作品を読むと解る。
物語の舞台は1942年、満鉄の大連駅から始まる。大連駅に降り立った仮面の男。樽の木荘と呼ばれるフェイドルフ老人邸では殺人事件が起こった。雪の降った後、足跡が一組しかないその屋敷の中で老人は殺害され、現場となった書斎の窓の外の向こうには仮面と外套が中身のないまま、放置されていた。しかもそこに至る足跡もないままに。
本作が書かれたときは加賀美氏はまだ素人作家。そして名前も本名らしい素朴な名前。その事を考えると、もはやこの時から素人の域を超えている。そして今回登場人物として出てくるのはなんと若き日の鮎川氏!存命の時の作品だから、ご本人はどのように思ったのだろう。もう、文句のつけようが無いくらい素晴らしい。あまり気にも留めなかった加賀美氏の名前は、しっかりと私の胸に刻まれた。

その他6編中、佳作だと思われるのは「湖岸道路のイリュージョン」ぐらいか。この轢き逃げ犯人を追う夜の追走劇に仕掛けられた車消失トリックは単純であるがゆえに驚かされる。こういうロジックは結構好きだし、書き方もフェアでミスディレクションが非常に巧いと素直に感心。小粒なのでどちらかといえば頭脳パズルの領域を出ないのだが、あまり大仰しい作品ばかりだと疲れるので、こういう作品も入っているのがいい。

その他は専門知識に難があり、作風が肌に合わなかったり、内容が浅かったりとところどころ瑕疵があった。
今や本格ミステリ作家として活動する東川篤哉氏の手からなる「十年の密室・十分の消失」は前回の「竹と死体と」で登場した素人探偵コンビが出ているが、やはりこの軽い作風は好みに合わないし、丸太小屋消失事件については作者の建築知識の無さが露呈しており、これもマイナス要因となった。
「恐怖時代の一事件」はフランス革命直後のフランスを舞台にした作品。やっぱり前回の「ガリアの地を遠く離れて」といい、一連のルパンシリーズといい、どうもフランスの耽美な世界が合わない。二階堂氏が評しているように登場人物それぞれの書き分けが甘いのも気になった。
「月の兎」はトリックと犯人が解った。バニーガールが登場し、色々奇妙な話をする御伽噺めいたつくりはまだ許せるが、全体的にレベルは他の作品よりも下と感じた。
「ジグソー失踪パズル」は全体的に叙述内容とかに仕掛けがあり、ミスディレクションもなかなか。でも全体的に印象が薄い。
「時計台の恐怖」は女子高を舞台にした消失トリックもの。事件の目的とかトリックとかは及第点だったのに橘高が探偵事務所の一員になる最後の終わり方があまりにもベタすぎる。もうこれはライトノベルの世界。

前述のように確かに読み手の要求するハードルの高さは高くなった。だからこそ次はどんな作品、トリック、世界を読ませてくれるのかが非常に気になる。
プロの作品の出来を求めないよう、こちらも気をつけなければならないのか。それとも商業として成り立つべき最低ラインをクリアしていなければならないと厳しい目で見るのか。難しいところだ。

新・本格推理〈02〉黄色い部屋の殺人者 (光文社文庫―文庫の雑誌)
No.198:
(7pt)

新生本格推理はまずは天晴な出来栄え

鮎川哲也氏が編集していた一般公募の『本格推理』シリーズを編者を二階堂黎人氏に交代してリニューアルしたのがこの『新・本格推理』シリーズ。前シリーズは鮎川氏が全て読み、その時の気分で作品を選んでいたような玉石混交のアンソロジーの様相を呈したが、今回は他の新人賞のように予め複数の審査員が下読みをし、その1次予選を突破したものを二階堂氏が読んで選考するというスタイルに変わった。また、制限枚数が50枚から100枚へと倍になった。
結論から云えば、このことはかなり大きく作品の質を向上させた。選考スタイルの変更は作品の出来のバラツキが少なくなり、かなりレベルが高くなっているし、枚数の倍増は物語がパズルゲーム一辺倒になりがちだった作品群が中心となるトリック・ロジックを肉付けする物語性を高め、推理「小説」として立派に成り立っている。

そんな様変わりを経た中で選ばれた8編の中でも特に印象に残ったのは「水曜日の子供」、「暗号名『マトリョーシュカ』」、次点で「風変わりな料理店」とであった。

特に「水曜日の子供」はこれが本格ミステリなのかと思わせるほどの文章力に圧倒された。キャリアウーマンである妻との無味乾燥な生活に嫌気をさしたしがない推理小説家の妻殺しの一部始終を倒叙形式で語った作品。
何しろ文体が非常に格調高く、凡百のプロを凌駕する出来。訥々と男が犯罪を如何に成したかを一種の諦観と力の抜いたユーモアを交え、ゆったりと語っていく手法は気持ちよく物語世界に没入できたし、それが故に最後の怒涛の謎解きから物語のスピードが一気に加速するので脳内速度がシフトチェンジするのに戸惑ったが、至極簡単に解き明かしてくれるので理解も出来た。ジャズのエピソードなど物語にセピア調の彩りを備える辺り、只者ではない。

そして「暗号名『マトリョーシュカ』」。これは恐らく現在本格ミステリ作家として活動する加賀美雅之氏の公募時代の作品だろう。前回の『わが師アンリ』もカーのアンリ・バンコランを扱ったものだし、オマージュとした海外作品・作家は無いものの今回も外国を舞台にし、非常に濃密な作品世界を繰り広げている。
日露戦争の真っ只中、ロシアではウリャーノフ率いるレジスタンスの動向が気になっていた。数年前からスパイとして送り込んでいた「マトリョーシュカ」にウリャーノフの暗殺命令が下る。ウリャーノフを取り囲むメンバーの中にそのスパイがいるとの情報が伝わってきており、つい最近仲間入りしたアバズレスという男がその正体ではないかと云われていた。そんな折、窓から焼死体が飛び降りるという怪事が起きた。果たしてこれはマトリョーシュカの仕業なのか?
日露戦争時代を舞台に、ロシア革命を織り込んだ物語の創り方が「水曜日の子供」同様、本当にプロも真っ青な凝ったストーリーで、時代背景を実によく調べ上げている。カーばりの本格ミステリが好きな人らしく、大掛かりなトリックには苦笑いするところもあったが(はっきり云ってこのトリックを看破する人はいないだろう)、実在人物をストーリーに絡め、前回入選作も取り込むという懲りよう。常々素人作品のシリーズ探偵物には辟易していたがこれはその嫌味がない。正にプロ級の力作。

次点の「風変わりな料理店」も前半は格調高い物語世界、落ち着いた文体など非常に酔わせる書き手だと思った。鳥取の片田舎の温泉宿に逗留に来た推理作家が元刑事の老人から小説のネタにと、過去のある事件の顛末を聞き、その真相を暴くという安楽椅子探偵物。
フランス料理店のシェフが一万人目サービスとして肉料理を振舞う偶然に遭遇した刑事二人はその店が他の客にも一万人目サービスとして無料で料理を振舞っていることに気付いた。しかしその料理には女性の髪の毛や爪の一部が混入されていたり、不審な点があった。同僚の刑事である久瀬からは実はあのシェフがたびたび妻に暴力を振り、警察に助けを求められているという情報もあった。果たしてこの料理に供されている肉の正体とは・・・といった奇妙な味を思わせる作風。
ミスディレクションなど本格ミステリの醍醐味を十二分に味わさせてくれる、と思ったのだが、真相解明の説明にご都合主義が見られるのが非常に残念だった。
あと唐突に探偵小説に関するマニアックな知識が挿入されるのに違和感を覚えた。恐らく作者自身の本格ミステリ愛をアピールしたいが故の行動なのだろうが。

その他の5編も悪くない。というよりも以前のシリーズの中では1,2位を争うものばかりだろう。
二・二六事件を上手く推理の因子として扱った「竹と死体と」は竹を曲げて首を吊る事の必然性が判らないし、途中で挿入される自己紹介、安楽椅子探偵物に対する作者の考えを述べるのはリズムが悪く、同人誌を読まされている感じがした。
「ガリアの地を遠く離れて」は第一次大戦中のフランスを舞台にしたアイリッシュの『幻の女』を想起させる物語。耽美な文体・物語世界は上手いと感じはしたが、全編に作者の陶酔感が漂っているようであいにく私の好みには合わなかった。

その他カーの「B13号船室」をモチーフにした、題名の意味が未だに判らない「白虎の径」、同じく島田荘司の『眩暈』を大いに意識したと思われる「東京不思議DAY」は若干不満が残るものの、やはり面白くは読めた。
一番異色な「時刻表のロンド」はこんな作品がこの硬派にリニューアルしたシリーズに選ばれたこと自体が嬉しい。友達から送られた時刻表トリックを題材にした作品を解き明かす趣向のこの作品。奇想というに相応しい発想を買う。あまりに奇抜すぎて他の作品と同列に評価するのを憚られるが、私個人的には許容範囲。この稚気もまたミステリの醍醐味だと思った。

このシリーズに至り、ようやく最近新勢力の本格ミステリ作家の作風、趣向、原点が見えてきた。光文社は二階堂黎人氏を編者にしたことで幸せな結婚をしたと思う。


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新・本格推理〈01〉モルグ街の住人たち (光文社文庫―文庫の雑誌)
No.197:
(7pt)

傑作と凡作の境目

これほど続けてサスペンスを読むとやはり設定にヴァラエティを凝らしているとはいえ、展開が読めてくるのが悲しい現実。
恐らく現在続々と出てくる小説で語られる話というものは実は既に世の中で語られた物語の焼き直しに過ぎない。今まで観たことのない、読んだことのない物語は果たして生まれないのではないかとも云われている。で、そんな中、傑作と呼ばれる作品は他の類似作品と何が違うのか、今回はその答えの1つを見つけたような気がする。

今回収められた作品9編のうち、最も印象に残ったのは「秘密」。都会の片隅に住むケンとフランシス夫婦の物語。
熱烈な恋愛を経て結婚した二人。ケンはプロポーズのときにフランシスに自分は過去、人を殺したことがある、それも意図的にと告げる。しかしそんなことは2人にとってなんら障害ではなかった。2人の生活は順調だったが、ある日ケンの上司が変わったことから生活が一変する。新しい上司パーカーとそりが合わないケンは給料を減額されたりと冷たい仕打ちを受けていたがついに不満が爆発して上司を殴り、解雇される。折りしも世間は不況。仕事を探すが見つからない。しかし元上司の伝手で新しい仕事を紹介され、勢い込んで面接に行ったがパーカーからの紹介状により不採用となる。絶望したケンは突発的にその夜、出かける。翌朝の新聞にはパーカー殺害の記事が。果たして夫の仕業なのか?というのが大まかなストーリー。
この作品の良さは都会の片隅に静かに暮らす若い夫婦に訪れる不幸や不遇が、夫ケンがそりの合わない上司殺人の動機と有機的に絡み合う色づけになっている。凡作と傑作の違いはこういった味付けがしっかりしているか否かにあるとつくづく感じた。
その味付けの最も濃い部分は夫ケンが失業して得たバイトが半身裸になって商品の宣伝をドラッグストアのショーウィンドウで実演するもの。技術者の彼が二束三文を得るためにプライドを捨ててまで仕事に打ち込む姿を見て涙する妻。こういった情に訴えるエピソードが物語の厚みを増す。あまりにも皮肉なラストはケンが過去に殺人を犯したという最初の告白が伏線となって不幸な夫婦をさらに不幸にする。物語のエッセンスが凝縮されている。全てが有機的に働いた、いい作品だ。

準ベストは「生ける者の墓」だ。これも独特の設定で読むものを恐怖へ追い込むがオリジナリティがあるとは全面的には云えない。
かつて自分の父親が生きたまま棺桶に入れられ、苦悶の表情で死ぬのを見てから葬式に出くわすと棺桶の死体が生きていると思ってしまうというトラウマがあり、それを克服しようとしていたところ、生きながら埋葬され、そこでわずかばかりの酸素で死を克服する団体に行き当たり、強制的に入会させられ、埋葬させられることが決まった。逃げようとするがその団体の包囲網は細かく、四六時中見張られていた。結婚を決意した彼女とニューヨークかイギリスへ逃亡することを決意したが、捕まってしまう。しかしなぜか釈放され、彼女は来ない。どうも彼女は私の身代りに埋葬されたらしいのだ。早く助けなければならない。彼女が死ぬまでに果たして間に合うのか?警察の必死の捜索が始まった。
これはチェスタトンの『木曜の男』を想起させる。乱歩はこの最初のエピソードから材を得て『お勢登場』を書いたのではないかとも思え、作家たちの物語のアイデアが連鎖的に繋がっているように感じる作品。
この作品はその構成の上手さにある。冒頭に墓を掘り起こす男を持ってきて、どういう理由でそんな行為をやっているのかを徐々に明らかにさせ、しまいには予想もつかない奇妙な犯行団体の話に着陸する。時系列に語っても物語の牽引力はあるのにこれを変えることでさらに読者を先へ先へと引っ張らせる。これも傑作と凡作の大きな違いだ。

他に良かった水準作を簡単に述べていくと、まず「毒食わば皿」。気弱な男がのっぴきならない状況に追い詰められ、殺人を重ねていくノワール調のストーリー。詩的な文体で語るアイリッシュの手に掛かると不思議と男が殺人を重ねるのに必然性が生まれてくる。最後の妻の一言もツイストが利いている。
「死の治療椅子」もいい。殺人の疑いをかけられた友人の歯科医の無実を晴らす刑事の捜査物語。本格ミステリ並みのトリックも入っているが、これは一読瞭然。しかし主眼はこれにあらず、自らにこの罠を仕込ませて証拠を確保する刑事の心境をサスペンス豊かに語るのがやはりアイリッシュ。チープな本格にせず、サスペンスとして処理したアイデアがよい。なかなかこうは行かない。

他の「青ひげの七人目の妻」、「殺しのにおいがする」、「シルエット」は数あるアイリッシュサスペンスの1つとしてのみ記憶が残る程度か。アイリッシュが用意する手持ちのカードのうち、今回はこの結末を選んだ、それくらいの範疇で終わっている。
戦争による精神障害の男の話「窓の明り」、パリに訪れた悪漢二人の誘拐解決劇「パリの一夜」も詩的な文体が横溢しているがちょっと合わなかった。

前述にあるように続けてアイリッシュサスペンスを読んでいるものでいささか食傷気味になっているのは否めないが、それでもなお、読ませる作品を提供するこの作者の底力を思い知らされた短編集。限りなく8ツ星に近い7ツ星。

シルエット―アイリッシュ短編集 (4) (創元推理文庫 (120-6))
No.196:
(7pt)

有名な表題作が実は…

ヒッチコック映画であまりにも有名な「裏窓」をタイトルに冠して編まれた短編集。今回秀逸なのはやはり表題作と「いつかきた道」、「じっと見ている目」、「ただならぬ部屋」の4編を挙げる。

表題作については贅言をつくす必要はないだろう。裏窓から人間観察をすることで毎日を過ごす男がある日、病弱の妻が住む一角に妻が現れないことが気になって犯罪の発生を疑うというもの。
ヒッチコック作品をじっくり観たことはないが、何かで植えつけられた先入観のせいか、覗き見をする男ハルは貧弱で一握りの勇気しかない男だと思っていた。しかしこの作品では元刑事の不屈の男だった。覗かれている男が覗いている男に気付いて追い詰めていくというストーリーも実は全くの逆であったことも今回判った。アパートの窓の数だけ生活があるという書き方は群像劇が得意のアイリッシュらしい書き方だ。でも今のご時世ではこのハルの行為は全くの犯罪だなぁ。

「いつかきた道」は異色の作品。ある先祖を尊敬する少年がやがてその先祖そっくりに成長し、旅に出たときに初めて来る地にもかかわらず、細かなことまで判ってしまう。それはあたかも先祖が乗り移ったかのようだったというもの。
つまりは先祖が乗り移り、かつて先祖が愛した女性を迎えに行くという話なのだが、時世は現代で恋人は待ち人というのがちょっと理解できない。でも決闘シーンなどメタ歴史物とでもいう設定も手伝い、ロマン溢れる一篇になっている。

「じっと見ている目」は全身麻痺で息子夫婦の世話になりながら暮らす老女が妻の企てる殺人計画を聞き、どうにか息子に伝えようとする。しかし、犯罪は成就し、妻は愛人と再婚するがそこに現れた無一文の青年が老女の世話をしだすことで犯罪が露見し始める。
典型的なアイリッシュ作品。全身麻痺で口も聞けない老女がどうにか息子に殺人計画を伝える辺りは文章の力を強く感じた。刑事が手掛かりを掴むのが早いような気がするが、短編だから仕方ないか。

「ただならぬ部屋」はホテル探偵ストライカー物の一篇。これがシリーズ物なのかは現時点では知らないが、アイリッシュには珍しく密室殺人を扱った本格ミステリとなっている。
セント・アンセルム・ホテルでは913号室に宿泊する客が相次いで自殺するという怪事が続いていた。ホテルの保安係を務めるストライカーは警察の雑な捜査に業を煮やし、自らの身を以って真相を明かそうと宿泊客に変装して913号室で一夜を明かそうとするのだが。
他の短編と違い、飛び降り自殺に見せかけた殺人が都合4件起きるのだが、これをかなりのタイムスパンで100ページもの分量を費やして語る。これはストライカーの人と成りを示すために必要だったのだろうか?でもストライカーの執念とか物語の怪奇性とかは読ませるし、次作が愉しみな好編だ。

しかし以上の4編以外がつまらないというわけではない。「死体をかつぐ若者」は余命いくばくもない父親が浮気性の妻を殺害した事件を息子がアリバイ工作にて上手くごまかそうとするもの。アイリッシュの「遺贈」という作品では死体が車に乗っていたがために逮捕される窃盗犯の話を書いたがこれはその別パターン。

世評でよく聞く「踊り子探偵」は親友のダンサーの殺人犯人をダンサーが突き止めようとする話。アイリッシュの台詞の上手さが光る一品。世間では認知度高いが内容はさほどではなかった。

「殺しの翌朝」も最後の幕切れがアイリッシュの上手さを現している。不眠症の刑事が気付かないうちに殺人を起こしていたという話。アイリッシュ・サスペンスの、どう考えても窮地に陥った主人公の犯行としか思えない状況に追い詰めていき、アクロバットなトリックで実は・・・という常道をあえてそのままストレートに落ち着かせた。

「帽子」は帽子の取り違いから起きた殺人事件の話。殺害される男が帽子を店員に預けるのを断るのに「外は風が強く、帽子がないと風邪を引いてしまうからだめだ」というのには笑った。この辺の無理が最後までのめり込めなかった一因だった。

「だれかが電話をかけている」は 10ページにも満たないショートショートといってもいいくらいの作品。単純なストーリーであるがゆえに最後のオチが効いている。

前作が読み捨て小説の書き殴り感を強く感じたのに対し、今回は物語に起伏があり、読み応えがあった。昔の作品だという感覚は拭えないのは仕方はないにせよ、もう1つ心に残る作品があれば傑作になっていたと思う。


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裏窓―アイリッシュ短編集 (3) (創元推理文庫 (120-5))
No.195:
(7pt)

映像化狙いすぎ!?

あの『ゲット・ショーティ』の続編である本書は、やはりあのクールな元高利貸しチリ・パーマーが活躍するエンタテインメント作品。
前回高利貸しから見事映画プロデューサーに転身し、映画を製作してヒットさせたチリが今回扱うのはロックのインディーズレーベル。前回同様、芸能業界を題材にクールなチリが度胸を武器に常識を破っていく。

チリ・パーマーは個人的に数あるレナード作品に登場する主人公の中では最も好きな人物である。タフを地で行く彼にはどんなギャングが脅しにかかろうと動じない。持ち前の度胸と悪知恵で修羅場を乗り越えていく。あの「おれの目を見ろ」の台詞も健在だった。
そしてチリを彩る登場人物たちは今回も当然魅力的だった。ギャングの出身でリンダ・ムーンのマネージャーを務めていたラジの小物さ、そのラジのボディガード兼相棒のホモのエリオット・ウィルヘルム―この名前でサモア人の血が混じっている事自体、レナードのセンスが光る―、今回のヒロイン、リンダ・ムーンももちろん魅力的だった。
しかしなんといってもロシアマフィアのボス、ロマン・バルキンが出色の出来。初登場シーンの彼に対するチリの印象は今まで読んだどの小説よりも面白い。明らかにカツラとわかる男が車から降りてきた、何故あれほど頭よりもデカいカツラをヤツはつけているのだ?これには笑った。しかも似合わないカツラを被っているちゃんとした理由があるのがすごい。レナードの筆致は老いてなお、冴えわたる。

さらに今回は御齢75歳のレナードが随所に現代アメリカン・ポップス(原書が出版された1999年当時の)を縦横無尽に語るのがすごい。なんとスパイス・ガールズを語り、しかも彼女らの歌の好みについても語るのだ。俺の周りにはこんな75歳いないぞ!!
今回、興味深いのはチリの言葉を借りて、自らの創作姿勢を語っている点である。
「最初にプロットを描かず、まず登場人物たちを描き、彼らが動き出すのをそのままなぞる」
正に先の読めないレナード作品の真髄がこの創作作法にある。

しかし、今回はいささかやり過ぎた点があるのも否めない。あまりに映画化を意識した作りになっていること。
エアロスミスを作中に出させたのもその1つ。正に映画における特別出演メンバーではないか!
またストーリーがリンダのデビューをテーマに映画を作ることから、映画化された時のフィクションとノンフィクションとの境の錯覚、つまりメタ化を図っていることこそ映画化画策を露呈させている。
アメリカエンターテインメント界を題材として扱うチリ・パーマーシリーズは面白いことは面白いのだが、今回はちょっとあざとかった。


ビー・クール (小学館文庫)
エルモア・レナードビー・クール についてのレビュー
No.194:
(7pt)

設定の妙味を愉しめる

アイリッシュの独特の設定、シチュエーションは短編でも遺憾なく発揮されており、ドラマや映画のネタに困ればアイリッシュを読めば、そこに斬新なアイデアが詰まっているとでも云いたいくらいだ。
特に表題作はボクシング試合中の射殺事件を扱ったもので、映画『スネーク・アイズ』を想起させる。

今回収められた7編は全て水準作であり、可もなく不可もないといったところ。これは前半のサスペンスが一級品であるのに対し、後半の結末、特に真相解明になるといやに陳腐な印象を受ける。
まず最初の「消えた花嫁」はよくある失踪物だが、名作『幻の女』を髣髴させるほどのサスペンスで関係した誰もが花嫁など見なかったというあたりはホラーに近い。また主人公のジェームズの恋の盲目ぶりもあまりに間抜けすぎた。
またよく理解できなかったのが「殺人物語」。主人公の作家タッカーは何故自らの犯行声明を表した作品取っておいたのか?皮肉は結末はアイリッシュならではなのだが、ここら辺の登場人物の心理の掘り下げがもう少し欲しかった。

「チャーリーは今夜もいない」は街で連続して起こる煙草屋強盗事件の犯人が実は捜査する刑事の息子ではないかというサスペンス物。これは途中で作者の意図が見えた。

本格ミステリ色強いのは「検視」と「街では殺人という」の2編か。
「検視」は馬券宝くじから始まる夫の殺人計画発覚ものだが、再婚した夫の犯行の証拠がいささか貧弱か。作者の隠れた意図が見え見えであるのは痛い。
「街では殺人という」はアイリッシュの得意中の得意とでも云うべき、男と女の愛の友情物。弁護士がかつて惚れた女性の無罪を晴らすために立ち上がるというもの。この設定でかなり惹かれたが最後の列車の走行を利用した大トリックにはびっくりした。

今回最もアイリッシュュ色が濃いのは「墓とダイヤモンド」だろう。孤独な老女の遺品であるダイヤモンドを街の悪党チックとエンジェル・フェースが盗もうと画策するクライムノヴェル物。これはまず冒頭の老女の孤独さがそれ1つで短編となっており、そこから悪漢たちのクライムノヴェル、そしてアイリッシュ特有のアイロニー溢れる結末。仕掛けは凝ってはいないもののその分シンプルで愉しめた。

今回の作品は物語の構成はいいものの、最後のアイデアがいただけない。パルプ作家時代の早書きの特徴みたいなものが見受けられた。しかし、冒頭でも述べたように、設定は素晴らしい。現代作家も見習うべきだと強く思った。


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死の第三ラウンド―アイリッシュ短編集 (2) (創元推理文庫 (120-4))
No.193:
(7pt)

色々盛り込み過ぎて半ば迷走気味

本作品ほど、クーンツは傑作を物するのに仕損じたと大いに感じたことはない。

物語の構造は単純だ。幼き頃に虐待を受けたアグネスが授かった子供バーソロミュー。彼は量子力学を理解し、体現する神童であり、奇跡の理を知っていた。10代にしてレイプされたセラフィムはその子供エンジェルを産む。この子もまたバーソロミュー同様、奇跡の理を知る子供であった。
一方彼らが産まれた同じ頃、自分をこよなく愛する妻を衝動的に崖から突き落とし、事故に偽装して死なせた男ジュニア。彼はこの後、狂気の論理で殺人を重ねて行く。
そしてその彼を殺人鬼とみなし、付き纏う刑事ヴァナディアム。ジュニアは自分を潜在的に脅かすバーソロミューを探し、また死してなお、脅かすヴァナディアムから逃れながら殺戮の旅を続ける。そしてこの4者が数奇な運命を重ね、ブライトビーチで邂逅するとき、ある奇跡が起きる。

クーンツの長所として

①ページを繰る手を休ませない物語の展開の早さ
②読者を退屈させない斬新なアイデアの数々
③どんなに窮地に陥ってもハッピーエンドに終わる

という3点が挙げられるが、今回はこのうち③を特化して物語を閉じればかなりの傑作になったのではないだろうか?なぜテーマを1本に絞れなかったのか?

物語の終盤で形成されるアグネス・ランピオンを中心にしたファミリーの歴々のそれぞれが重ねた人生の悲哀、喜びなどを描くことに専念した方が、ミステリ性・エンタテインメント性は落ちるものの物語の深みはかなり上がっただろう。
今回最も印象に残ったのはアグネスの再婚相手となるポール・ダマスカスのエピソードで、ポリオで全身麻痺に侵された妻との死別するシーンはかなり胸を打った。またジュニアがいなくなってから語られるアグネス・ファミリーのその後がこの小説で一番醍醐味を感じた。最後の最後で数々の奇跡がバーソロミューに対し、実を結ぶ巧さもクーンツならではだと思う。だからこそジュニア・パートが宙に浮くような印象を強く受けるのだ。

余談だが物語中でジュニアの独白で語られるアクション映画・小説の鉄則が面白かった。暴走列車が尼僧を乗せたバスと激突したときにカメラないしペンが追うのは尼僧の生死ではなく、あくまでも暴走する列車の行方であるということ。これがエンタテインメントの鉄則であり、小説作法なのだと改めて認識した次第。
やはり西洋人の作家だなあと感じたのはジュニアが寝言で知りもしないバーソロミューの名を連呼することに対する答えを論理的に用意していたというところ。恐らく日本のホラー作家ならば説明のつかない超常現象めいたことを種にするだろうが、クーンツはしっかりとその理由についても論理的に用意していたのが興味深かった。

正直な話、今回は物語がどのような展開を見せるのかが全然検討がつかなく、これがページを繰る手を止まらせないといったようないい方向に向かえば文句なしなのだが、迷走する様を見せつけられているようにしか受け取れなく、何度も本を置こうと思った。1965年から2000年にかけてのバーソロミューの半生を描くサーガという趣向なのは解るけれども1,200ページ以上をかけて語るべき話でもなかったというのは確か。最後の最後でじわっとさせられるものがあったけれども終わりよければ全て良しとはいかず、やはりそれまでが非常にまどろこしかった。クーンツ特有の勿体振った小説作法がマイナスに出てしまった。

最後に重箱の隅を1つ。ジュニアが看護される看護婦相手に連想を起こす映画『ナイン・ハーフ』は1986年の作品であり、連想をする1965年には上映もされていない。実はこの矛盾のために今回は結構白けてしまった。


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サイレント・アイズ〈下〉 (講談社文庫)
No.192:
(7pt)

宮部テイストありつつも小粒

東京の隅田川と荒川に挟まれた場所にある下町を舞台に描かれる殺人事件の顛末を描いた作品。主人公は父子家庭の親子でベテラン刑事と中学生の息子。宮部みゆき氏の最も得意とする設定だろう。
移ってきたばかりの下町で女性のバラバラ死体の一部が川で見つかるのが発端。それに輪をかけるかのように近所にある身元不明の屋敷では女性が訪れては殺されているという噂が流れていた。その館の主は有名な画家だという。主人公の順は友人の慎吾と一緒にその館に調査に乗り込むが、作品などを見せてもらううちに画家篠田東吾と親しくなってしまう。そんなある日、順の家に篠田が人殺しだと告発する文書が投函される。そして第2のバラバラ死体の存在を示唆する文書が警察に届く。

この作家が上手いと思うのは普通に暮らしている人々に何らかの犯罪が関わったときに日常生活にどのような変化が訪れるのかを丹念に描いているところ。今回は画家の篠田の家の軒先に女性の手首が落ちていたことから警察が介入し、家宅捜索が行われるシーンが最も印象的だった。
個人が築き上げてきた何かが第3者によって蹂躙される不快感、世間が向ける視線の痛烈さ、犯罪というレッテルを貼られることの悲壮感が非常によく描かれている。こういう庶民の生活レベルでの視座での描写がこの作家は本当に上手い。
あと宮部作品の特徴といえば登場人物が魅力的なことだろう。今回も主人公の八木沢親子、その家政婦のハツ、画家の篠田など印象的な人物が出てくるが、いささか他の作品と比べるとやや弱いか。

本作は当時の少年法―20歳以下の未成年は刑罰に処されない―に対する作者なりのアンチテーゼといった意味合いも含んでいる。昨今の世情を鑑みれば、特異なものでもないが、作者はそれにもう一捻り加えて、なぜバラバラ殺人を起こしたのか、犯行声明がなぜ警察に断続的に送られてくるのかといった謎を散りばめている。
真相についてはちょっとある人物の行動に自己矛盾が感じることもあり、私自身は全面的に受け入れることが出来なかった。

今回は女性のバラバラ殺人と宮部作品では珍しく陰惨なモチーフを扱っている。『パーフェクト・ブルー』の焼死体以来ではなかろうか。
宮部作品としては『魔術はささやく』、『レベル7』と比べると小品とか佳作といった言葉がどうしても浮かんでしまう。それでも水準は軽くクリアしているのは云うまでも無いが、この作者ならではのテイストがもう少し欲しかったというのが正直な感想だ。


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東京下町殺人暮色 (光文社文庫)
宮部みゆき東京下町殺人暮色 についてのレビュー
No.191:
(7pt)

田中作品史上最強キャラ

田中芳樹氏のシリーズで現在最も筆が乗っているのは、『創竜伝』とこれ。会話の掛け合いの巧さ、作者独特のアイロニー、毒は健在。
今回の事件は日本に亡命した南米の元大統領―日系人と偽った日本人―の香港への航海の警護を薬師寺涼子とその部下泉田、それに2人の部下を加え、さらにライバル室町由紀子も加わった形で行うというもので、その豪華客船の中で残忍な殺人事件が起こるというもの。

怪奇事件簿だから例によって不可能興味を誘う趣向があるわけではなく、今まで登場してきた有翼人ら、怪物が犯人という装いはそのままである。
もうこれは単純にこの物語世界に浸るしかない。薬師寺涼子の無敵ぶりを純粋に楽しめた。

田中芳樹氏の作品で権力・財力を振りかざして悪に向かう主人公というのは非常に珍しく、悪が権力を私利私欲のために振りかざすのをそういう道理が通用しない主人公が腕力で打ちのめす図式が多いのだが、この薬師寺涼子は自身が世界をまたにかけるセキュリティ会社の大株主だということ、若きキャリア警視であること、またそれに輪をかけて格闘技にも精通していることということで、よく考えたら今までの田中作品のキャラクターでは最強ではないだろうか?

田中氏のページターナーぶりが健在だったことは素直に喜びたい。他のシリーズの刊行が待ち遠しい。

クレオパトラの葬送 薬師寺涼子の怪奇事件簿 (講談社文庫)
No.190:
(7pt)

私、解っちゃいました!

相変わらず玉石混交の短編集。こうも並べると文体のレベルの違いが如実に判り、苦痛を強いられる読書もあった。
今回は純粋に推理してみた。そのため、真相ないし犯人が判ったものが13編中4編あった。

「ドルリー・レーンからのメール」はハンドルネーム「ドルリー・レーン」の正体が、「最終バスの乗客」も乗客が語る事件の犯人が(この作品は女性の通り魔殺人での状況説明がそのまま犯人を名指ししている風にしか読めないのが欠点。文体はかなりしっかりしているだけに勿体無い)、「我が友アンリ」は犯人、ダイイング・メッセージの意味、そして作者が作品全体に仕掛けた思惑が(そういう意味では鮎川氏の冒頭の解説は全く以って蛇足だなぁ)、「教授の色紙」は真相そのものがそれぞれ判った。

逆にアンフェアではないかと思わされた作品もあった。「壊れた時計」は救急車の出動に関するアリバイ工作についてはまだしも納得できたが、ヒントで何度も繰り返される「壊れた時計」についての真相はあまりにひどすぎる。これは真相を明かされても悪い意味で呆然としてしまった。
「見えない時間」もそうだ。この作者山沢晴雄氏は今までこのアンソロジーで発表された作品同様、アリバイトリックが複雑すぎるのが難で、しかも今回は首の無い死体の必然性については何の言及もされていない。この人はアリバイ物しか興味が無いのだろうと思わされた。

今回秀逸作は「問う男」、「あるピアニストの憂鬱」の2作。両方とも私が求めるトリック・ロジック+αを備えており、読後感が良い。
「問う男」は提出された事実に対し、ニュースキャスターとサンタの扮装をした人物が全く逆のストーリーを作るという趣向が○。この作者も今ではミステリ作家で構成・アイデアとも一歩抜きん出ている感じがした。
「あるピアニストの憂鬱」は作品全体に流れる諦観めいた雰囲気が読後に余韻を残した。

そのほか、いい意味でも悪い意味でも印象に残った作品は、まず「溺れた人魚」。こちらはいい意味で真相にやられたと思わせられた。
次に「氷上の歩行者」。こちらは悪い意味で。池の離れ小島で行われる短編ミステリの競作という趣向はもとより、この大トリックは可能だろうかと大いに疑問だ。島田荘司氏が喜びそうなアイデアだがどうも現実味に欠ける。

以前はこのアンソロジーに採用されていた作品といえば、密室物、クローズド・サークル物とどれもこれも似たような内容で、しかも素人のくせにシリーズ探偵が出てくるというどこか履き違えた作品が多かったが、ここに至ると事件の趣向もヴァラエティに富み、本格の裾野の広がりを感じた。
応募作品の集合体という性質上、水準以上という評価が出来るようなインパクトは得られないが、以前に比べ、格段に質は上がっていると正直思う。
次回も謎解きをする構えで読もうとするか。


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本格推理〈14〉密室の数学者たち (光文社文庫―文庫の雑誌)
鮎川哲也本格推理14 密室の数学者たち についてのレビュー
No.189:
(7pt)

アイリッシュの本質が垣間見れる

アイリッシュの経歴によれば、当初は普通小説の作家から短編作家へ転身しており、彼の本質は短編にあるとの見方もある。実際、諸々の長編の中には短編で扱った題材を焼き直ししたものも多くないという。そんな前知識を与えられていた上で臨んだ初の短編集は、とりあえず水準をクリアしているとの印象を得た。

アイリッシュと云えば叙情溢れる文体と読んだことのないようなシチュエーションというイメージが強いが、本作品集においてもそれは発揮されている。8作品のうち平凡な設定であるのは「盛装した死体」と「ヨシワラ殺人事件」の2作品のみ。
前者はアイリッシュには珍しい本格ミステリで借金の返済に困った男が仕掛ける完全犯罪を扱っている。倒叙物で刑事が執拗に犯人を追い詰めるさまはアイリッシュの長編にも通ずるものがある。
後者は日本に停泊中に吉原を訪れた水兵が巻き込まれる殺人事件。恐らく作者が日本を訪れたときに強く印象が残ったのであろう、なかなかに細かく日本が描写されている。しかしところどころ勘違いしている内容もある(番犬の代わりにコオロギを買っているなんていうのは聞いたことが無いし、結末の切腹も西洋人にとってやっぱり日本といえばこれになるのかとがっかりした)。

その他6編ではやはりアイリッシュならではの魅力的な導入部を用意してくれている。
表題作「晩餐後の物語」は7人の男が乗り合わせたエレベーターが事故で地下まで墜落し、その中で起きた殺人事件についての復讐譚という内容。最後のどんでん返しもなかなかなのだが、エレベーターが落ちるときはバウンドするというのと乗客は即死しないという点が引っかかった。
次の「遺贈」は夜、疾走するスポーツカーのカージャックという内容。展開が読めたが、死体が何者かを明らかにしないのが逆に新鮮。

「階下で待ってて」はいつも階下で待っている男という設定が都会の一シーンを切り取る彼らしい作品。次の「金髪ごろし」の地下鉄の入り口にある新聞売り場を中心に繰り広げられる形もその例に漏れない。
「射撃の名手」の詐欺師が陥る犯罪事件も短編にしては濃厚な内容である。アイリッシュらしい強引な設定ながらも最後の一行にも気を配るあたり、余裕が感じられた。
「三文作家」は原稿を落とした作家の代わりに作品を仕上げることになった作家の話。これははっきり云って最後のオチからしてミステリではない。恐らく作者自身の経験から生まれた作品だろう。

今回の中でのベストは「金髪ごろし」に尽きる。それぞれの客に金髪美女殺されるという見出しの新聞に対するそれぞれの事情。最後に出てくる実業家が洩らす一言は果たして真実なのか?都会派小説というか、群衆小説というか都会の一角で新聞売り場を中心に描いた小説はアイリッシュの洒落た感覚で物語を紡ぎだす。新聞を買うそれぞれの客のドラマが描かれる。題名の金髪ごろしはこれらの人間たちを描写する1つの因子に過ぎないところがいい。だからこそ逆に最後の言葉が余韻を残す。事件は解決されないながらも最も印象の残る作品となった。

次点では「階下で待ってて」か。純な日常の出来事がやがて国際的スパイ組織の陰謀と繋がっていくというのは派手派手しいが、短編でここまで読ませることに賛辞を送りたい。題名もなかなかである。

長編では復讐譚がほとんどだが、短編ではヴァリエーション豊かな物語があり、愉しませてくれた。一気に読むのが勿体ない、そんな気にさせてくれる。昔の作品なのに訳も違和感なく、むしろ風格さえ漂っている。
評価は7ツ星だが限りなく8ツ星に近い。それは単純にアイリッシュに対する要求が高いゆえなのだ。


晩餐後の物語―アイリッシュ短編集 (1) (創元推理文庫)