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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数694

全694件 461~480 24/35ページ

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No.234: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

タイトルだけが残念だ

復讐者による連続殺人譚。タイトルにある「11文字」とは復讐者の手による「無人島より殺意をこめて」という1文に由来し、ケメルマンの『九マイルには遠すぎる』など、11文字に込められた謎を追うものでなく、単純に復讐のテーマだけの意味でしかない。
いきなりちょっと肩透かしを食らった感がしたが、もしかしたら、当初東野氏が予定していたこの作品の没タイトルだったかもしれない。

初版はカッパノベルスということで、前の『白馬山荘殺人事件』でも感じたが、このノベルスで発刊される作品は作者自身、読者層は駅のキオスクで購入して、車中で読み終わる程度の読み易さを心がけているような気がして、文章は軽妙だ。しかし、今回はなかなか読ませる。事件の構造も単純ながらも真相は最後で二転三転し、私なぞは映画『戦火の勇気』を想い起こした。
復讐者の正体はモノローグ4においてようやく解った。海難事故の遭遇者の中で唯一現れなかった古沢靖子についても途中で解った。この辺の難易度もやはり駅売りノベルスという事を配慮してか、軽めに設定している感じがした。

今回は今まで東野作品で扱われていた密室殺人が一切無く、本格的要素は最後の殺人でのアリバイ工作がある程度。海難事故で起こった事に関する謎を主題にしており、トリックよりもストーリーとプロットで勝負した感がある。
しかし、やはり二時間サスペンスドラマ小説と云った雰囲気は拭えない。主人公への脅迫の仕方もそうだが、特に肉体を求めるといった内容が出てきた時には時代の古さを感じたものだ。昭和の頃の作品だからまだこういう物が横行していたのだろうから仕方がないのかもしれないが思わず苦笑いしてしまった。

しかしまだ5作目で、外れはない。東野作品、お楽しみはこれからだろう。


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11文字の殺人 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾11文字の殺人 についてのレビュー
No.233:
(7pt)

とことん不幸に描かれた猿嫁

この小説は猿に似た風貌から猿嫁と呼ばれた蕗の一生を明治中頃から現代に至るまで日本の歴史の移ろいを重ねて語ったもの。そこには自由民権運動から始まり、日露戦争、太平洋戦争、東京オリンピックなどが蕗の人生に織り込まれ、彼女の人生に色んな影響を与えていく。
また作者の緻密な筆致は健在で、吹きぼぼ小屋、若者の間で行われた和歌の会などの当時の風俗、火振村の伝統行事である七夕祭りに、その時に行われる女房担ぎなる駆け落ち、「女の家」という風習、道祖土家の先祖を讃える玄道踊りなどを交え、エピソードに事欠かない。

火振村の大地主の長男の嫁として迎えられた蕗は、予想に反して大地主の嫁として村に一目置かれる存在として扱われずに、家内では舅、姑、そして夫にこき使われ、半ば下女のように使われる。家族に隠れて飲む酒を唯一の愉しみにして、明日をまた生きるのだ。
そんな彼女にも転機は訪れる。
一度目は夫を亡くして実家に帰ってきた義姉の蔦の父知らずの子を引き取ると決めた時。そこに母親としての強さが芽生えるのだった。
二度目は後に火振合戦と呼ばれる警官と自由民権運動を支持する者達の戦いにおいて、夫と家族を助けるために、牛馬を放ち、警官達を一網打尽にする。
しかし、それらは蕗にとっては一時の転機に過ぎず、蔦の子、秋英は学生時分に家出して、音信不通となり、火振合戦で牛馬を放つきっかけとなった大楠からの啓示から家に植わる大楠を生き守様と拠り所にして、報われない日々を生きていくのだ。

そう、この主人公はいやに報われない。村の者達から猿嫁と馬鹿にされ、家では下女同然の扱いを受け、老境に入ってからも戦争で若い労力を取られることでなかなか隠居できずに家事に追われる始末。そして、子供4人のうち、1人は家出して行方知れず、1人は台風に河に落ちて死亡。さらに将来を期待された孫、辰巳に関しては太平洋戦争でビルマへ出兵し、そのまま還らぬ人に(最後にサプライズあるが)。
こういった境遇はもちろんながらも、最も酷いと感じたのは、蕗がセックスにおいて女性の悦びを知らずに死んでしまったことだ。92歳になって始めて孫夫婦の交わりを目の当たりにし、夫婦の営みとはかくも心地よい悦楽を得られるものかと愕然とするその事実。その股座に手を当てても渇ききってしまっており、もはや潤いは沸かない。その事実に蕗は涙を流すのだ。
この扱いは確かに残酷だと思う。ここに蕗の人生の答えが出ていると私は思った。

人生、楽しい事は僅かしかなく、大抵が辛い事だろう。価値観が多様化した今、全ての人がそうであるとは云わないにしても、ほとんどがそうだと思う。
しかし、そんな毎日の中に、確かに幸せを感じる瞬間はある。実際、自分の人生を振り返っても、幸せの時というのは頻繁にはないにせよ、決して少なくはない。そんな事を思い浮かべながら、老後に、人生楽しかったと感じるのではないだろうか?

しかし、この蕗の人生はどうだろう?
道祖土家の知り合いの紹介で断るに断りきれない気まずさから結婚した夫清重は、蕗との間に夫婦愛というものを介在せず、単純に身の回りの世話をし、時に欲情を覚えた時には一方的に交わるだけの女としてしか蕗を見ない。最初は猿に似た風貌を注視するのを避けて向き合っても視線を宙に浮かして喋るほどだ。
夫婦間との関係がそんな状態だから、蕗は常に居るべき所にいず、居てはいけない所に腰を据えている居心地の悪さを常に感じながら、とうとう生まれ故郷の狭之国に還ることなく、一生を終える。

一度、離縁を決意して里帰りを決行した時もあるが、結局は引止めに来た夫に負けてそのまま還ってしまった。もしあの時故郷へ帰っていたらという思いが最期の間際でも過ぎる蕗。これは人生のターニング・ポイントを見過ごした者の行く末を描いた小説なのだろうか。
いや、必ずしもそうではない。作者は道祖土家に残った蕗を中心に道祖土家の血縁者ら、蕗の子供ら、孫らのそれぞれの旅立ちを描くが、彼ら・彼女らが決して幸せになったという風には書いていないのだ。

作者のメッセージは終章に出てくるある人物からの手紙に書かれている、「常に自分の真の故郷は(中略)母と子供のいる場所だ」の一文になるのだろう。
とすると、作者は蕗の一生は幸せだったと云っているのか?幸せとはこういうものだと云っているのだろうか?
ここに来て私は、またもや首を傾げてしまうのだった。

道祖土家の猿嫁 (講談社文庫)
坂東眞砂子道祖土家の猿嫁 についてのレビュー
No.232: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

学生街は心を学生レベルに押し留める

東野作品4作目の本作は2作目の『卒業』の流れを汲む青春ミステリで、分量も今までの作品が350ページ前後であったのに対し、470ページ弱と増した事からも、当時この作品にある思いを秘めていた事が予想される。
とにかく東野氏の若さの主張が横溢しているのだ。

舞台は大学の正門の場所が変わったことで寂れゆく一方の旧学生街。そこの一角にある喫茶店兼雀荘兼ビリヤード場の店でバイトする主人公光平。大学を卒業するも、素直に社会の組織に組み込まれる事に嫌気が差し、自分が何者であるかを模索しているモラトリアムな男。そして同じバイト仲間の松木に至っては一旦勤めていた会社を辞め、あるチャンスを待ちながら同じバイト先で燻っているといった男である。
そして光平の彼女広美はいきなり堕胎を告白するシーンから登場し、しかも光平との不思議な出会いから、光平には内緒に通っている障害児童の幼稚園へのボランティアなど数々の謎めいたエピソードを孕み、そして唐突に殺される。そして光平と一緒に広美の死の真相を探る事になる妹の悦子に加え、他にも登場するのは派手な男性経験を重ねてすぐに寝る同じバイト仲間の沙緒里に、ビリヤードを打ちに来るサラリーマンの『ハスラー紳士』こと井原、同じくビリヤード仲間の大田助教授と本屋の時田、広美の友人かつスナックの共同経営者日野純子、かつて広美の恋人だった香月刑事、そして後半、重要な役回りを演じる斎藤医師と、老若男女問わず、それぞれが非常に青臭い信条や傷を持って生き、主張する事を止めない。
これだけみんなが青臭い純粋さを持っていると、なんだか二流のテレビドラマを観ているようで、今回ばかりはちょっと恥ずかしさを抱いてしまった。

この作品には『卒業』同様のペシミズムが流れているのは確かだが、『卒業』が私の中で高評価なのは主人公加賀の一本筋の通った性格と、サブキャラクターである恩師の南沢雅子の含蓄ある台詞に痺れたからだ。
それに対し、本作の主人公光平の確たる目標もなく、ただ現状に不満を抱きながらも行動を起こさない弱さ・青さ、そして周囲の人間誰もが自ら恣(ほしいまま)に振舞う未成熟なところが物語の要素として物足りないのだ。やはり物語を引き締めるには他に同調しないキャラクターが必要なのだ。被害者である光平の恋人広美にその片鱗が窺えるものの、その自己犠牲的な性格が他者に比べて両極端すぎて、バランスを欠いているように感じた。

しかしこの若い頃経験するまったりとした雰囲気、常に何か満ち足りない物を感じていた想い、これこそ東野氏が本作で書きたかったことなのだろう。いわゆる大人の常識に逆らうように世間の波から外れた生き方、そういう青い時期を本作ではテーマにしたように思う。
それゆえに本作での最後の真相のシーンは、通常では考えられない酷い仕打ちを犯人に犯している。
そして光平の父親の言動。定職に就かずフラフラしている息子に対し、叱責することなく、むしろその生き方を認めて去っていくその姿は、大人のそれではない。やはり親というのは子供に対して壁であるべきで、子供の人生の選択に対し、その覚悟を確かめるべきなのだ。私ならば、こういう物分りのいい親は自分の成長をストップする悪しき存在でしかないので願い下げである。

この470ページ弱の物語の中には、旧学生街の退廃感、そこを訪れる人々それぞれの思惑、彼ら彼女らが微妙に交錯することで始まり、あるいは終わる群像劇を背景に、エレベーターにおける密室トリック、アリバイ工作、そして1987年当時、最新の科学技術であった人工知能AIの話などなどが盛り込まれており、正直ページを繰る手を止まらせなかった。
しかし、読了した今、やはり登場人物の青さしか残らなかった。それが東野氏が書きたかったテーマである事は認めよう。ただ、それが私には非常に幼く映ったのだ。


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学生街の殺人 新装版 (講談社文庫)
東野圭吾学生街の殺人 についてのレビュー
No.231:
(7pt)

もっと書き方に工夫すればあるいは傑作だったかも?

魅力的な謎を魅力的な論理、魅力的な解明で解き明かしてこそ、本格推理小説は引き立つ。そして謎が魅力的であればあるほど、読者の期待が否が応にもその解決に集まり、増していく訳だが、本作は果たしてどうだろうか。
屋敷に着いた途端にコートと渦中のランプを残して忽然と姿を消し、しかもその屋敷には隠れ通路や隠し部屋などは存在しない、これほど条件を限定して、しかもそれが一度ならず二度も起こる。

内容紹介文にカーがエラリー・クイーンとミステリについて語り明かした末に行き着いた最高の謎、人間消失に挑んだこの作品で、上記のように確かに謎の魅力はどんどん高まるのだが、その真相の魅力が逆に小さく、期待しただけに終わったというのが正直、私の感想だ。

そして第二の失踪事件の謎。これは良かった。犯人の意外性も素晴らしく、またその動機も面白い。しかしある一点のみ説得力に欠ける(詳細はネタバレにて)。



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青銅ランプの呪 (創元推理文庫 (119‐6))
カーター・ディクスン青銅ランプの呪 についてのレビュー
No.230:
(7pt)

暗鬱な物語を求めるのでなく

坂東眞砂子氏の中編集。彼女お得意の土俗ホラーというものではなく、2編が怪奇物で1編が奇妙な味系か。

まず怪奇物2編は冒頭の「一本樒」と末尾の表題作。
前者は妹のやくざ紛いの情人が姉夫婦の家を付き纏うというお話。ネタ自体は特に目新しい物はないのだが、樒やまたたび酒などの小技が効いている。
後者は妻を亡くした男が仕事の忙しさに疲れ、故郷の徳島に帰った時に出くわす怪異譚。この作品のモチーフとなっている葛橋は私も祖谷にある物を渡った事があるだけに興味深かった。古事記の伊邪那岐命の話から葛橋はあの世とこの世を結ぶ橋という設定を生み出した(実際そう伝えられているのかもしれないが)坂東作品の王道であるが、処理の仕方がいまいちか。

残る1編は奇妙な味とも云うべき「恵比寿」。高知県の漁村に住む主婦、宮坂寿美が主人公で、サラリーマンから漁師へ転身した夫、3人の子供に舅姑の七人家族を支えて毎日慌しく過ごしていたある日、いつものように夫と子供らを送り出してパートに出かける道すがら、海岸に打ち上げられた奇妙な物体に気がつくことから物語は始まる。淡い灰色のその塊はぐにゃぐにゃと柔らかく泡を固めたような物だった。家に持ち帰ると舅はかつて自分が漁師だった頃に南方の島で異国の者に見せてもらった鯨の糞だという。恵比寿様の贈り物だといって神棚に奉納していたが、寿美は娘の個人面談の時に娘の担任教師にその物体について尋ねたところ、龍涎香という抹香鯨の結石で香料として使われ、非常に価値のあるものだという。宮坂一家はその知らせに大金獲得の夢に思いを馳せるのだが、というストーリー。
坂東作品の中では珍しくどこかコミカルであり、新機軸として面白く読んだ。皮肉なラストはちょっと余計かなとも思ったが、この作者らしからぬ処理の仕方に逆に好印象を持った。

各3編に共通するのはどれもがどこか片田舎を舞台にしているということで、それぞれが小市民ながらも一生懸命生きているという生活感が滲み出ているところ。坂東作品の持ち味である登場人物が抱える業が無いのも珍しいと思った。
『屍の聲』が短編であるのにもかかわらず、それぞれの登場人物が業を抱えているのにだ。しかしそれゆえにちょっとあっさりとした感じがするのも確か。
全く贅沢なものである。

葛橋 (角川文庫)
坂東眞砂子葛橋 についてのレビュー
No.229:
(7pt)

捻りに捻って、なんだか掴みどころがありません

かつて反政府分子たちの弁護士として高名を馳せていたディーケンは、立て続けに敗訴して以来、自信喪失症に係り、故郷の南アフリカを離れ、スイスの片隅でしがない弁護士稼業を続けていた。
そんな折も折、ディーケンはルパート・アンダーバーグと名乗る人物からアラブの武器商人アジズがナミビアのレジスタンスへ供給する兵器類を阻止して欲しいと頼まれる。思いもよらない依頼にディーケンは断ろうとしたが、アンダーバーグは彼の妻を誘拐していた。妻と引換えに、こちらの条件を飲めという。
進退窮まったディーケンはアジズの許へ向かう。彼の孤独な戦いが始まった。

ストーリーを概略すると以上のような形に収まるが、本作の構成はかなり複雑である。アンダーバーグなる黒幕はナミビアへの武器供給を止めろとディーケンに命じつつ、そのレジスタンスのリーダー、エドワード・マキンバーとも通じており、更に武器商人アジズの息子を誘拐させたイスラエル過激派を率いっており、なかなか狙いが摑めない。
更にアジズは誘拐グループに報復をしようと凄腕の用兵部隊を雇う。この三者三つ巴の只中で一人、ディーケンは南仏からセネガル、そして南アフリカへと翻弄される。

また本書は、矜持を失った男が、妻を救うべく奮闘する中で次第に自分を取り戻していく、といった定石を踏まない。
かつて反政府分子たちのために次々と政府相手に勝訴を勝ち取った英雄弁護士ディーケンは、翻弄されるがまま、それこそボロ雑巾の如く、這いつくばり、愚直なまでにアンダーバーグの言葉に従い、アジズとその弁護士グリアスンの掌上で踊らされる。
ディーケンが自分の意志で行動を起こすのは全400ページ中290ページ弱の辺りで全体の3/4が終わった頃である。しかしその後もディーケンは支援側からも利用されるといった具合で終始報われない。

さらに誘拐された妻はストックホルム症候群に陥り、イスラエル過激派のリーダーと恋に落ちてしまう。むしろディーケンの許へ帰る事を拒むようになるといった次第で、ますます主人公ディーケンは救われないのだ。
この作品は読者がこの展開を楽しめるか楽しめないかに懸かっている。そして私は後者に属した。シニカルな面白さよりも爽快感を求めたが故に、悲壮感が最後残ってしまった。

実は爽快感を期待したのには訳がある。作中235ページにディーケンがバーでぼんやりとしている時に二匹のヤモリが、虫を食べようとして失敗し、虫は無事逃げおおせるといった描写がある。これをそのままストーリーの展開の直截な暗喩と思ったのだ。
逃げおおせた虫はディーケン、二匹のヤモリはそれぞれアジズとイスラエル過激派と思ったがそうではなかった。この暗喩は一体何を意味したのか。

そしてエピローグにて明かされる本書の仕掛け。最後に登場する名前は予想の範疇で特別なサプライズは感じなかった。
私はあまりにも出来すぎていて、計画の破綻がないことに逆に作り物の偽物感を抱いた。ちょっと懲りすぎたかな、フリーマントル。


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ディーケンの戦い (新潮文庫)
No.228: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

意外と骨太

それぞれの人にそれぞれの事情。
約340ページに纏められた本書はその題名から駅の売店で売られている読み捨て感覚のノベルスの1つに過ぎないと高を括っていたが、いやはや色んな謎が重層的に織り込まれたなかなか味わい深い作品だった。

密室殺人の謎、「マザー・グース」の暗号の謎、遠隔殺人トリック、2年前の事故死の謎に加え、ペンション「まざあ・ぐうす」の前の所有者である英国未亡人の自殺の謎と盛り沢山である。
またそれぞれの謎についても1つの真相に留まらず、そのまた隠れた真相と二重構造になっているのもかなり贅沢だ。デビューした作家が必ず通るカッパ・ノベルスでの、所謂『量産物』的作品と位置づけるには勿体無いくらいの満腹感がある。

東野氏は本作で当初叙述トリックを試みようとした節がある。よくあるパターンのトリックなのだが、しかしそれは早々に種明しされる(なんと始まって30ページ弱のところで)。通常ならばこの手法を用いるのにそんなに早い段階で明かさないのだが、恐らく書いている途中(もしくは一旦書きあがった途中)にこのトリックが作品のバランスを欠くものだと判断したようだ。
私は逆にこの判断を尊重する。本作を読むに別に最後の方で明かすことは困難ではなかっただろう。ちょっとしたサプライズとして取っておくことは可能だっただろうが、やはり最後のエピローグまで読むと、この段階で明かすことが賢明だったように思える。この辺の思い切りのよさが単なる「推理」作家に満足していないとの認識を得た。

しかしとは云いつつ、本作のメインの2つの謎―密室殺人と暗号―は結構複雑。
まず密室殺人。過去2作の密室殺人から判断できるように、東野氏の密室殺人は密室が何段階にも分けられて構成されていることに特徴を感じる。最初は開いていた扉が次には閉まっていた、ここが逆に読者を更なる難問へと導くのである。
だからその解明も結構複雑だ。詰め将棋が解かれる様を見ているようである。
しかし、逆にこれが所謂“ファイナル・ストライクー最後の一撃”効果を大いに減じているのは確か。読者はロジックを理解するのに腐心して、カタルシスを感じないのである。
それは「マザー・グース」の暗号にしてもそうである。いやいや、かなり難しい。英文と訳文2つを駆使して、しかもそれぞれの詩の構成を参考にして分解・再構成をしなければならないとくれば、いやもうこれは一種、数学の難問と取り組むのと変わらない趣きがある。

先ほど述べたように、カッパ・ノベルスと云えば出張や旅行の車内で暇つぶしに読むといった感じの蔵書であるから、この作品だと暇つぶしどころか、かなりの頭脳労働を強いられる事だろう。おっとこれは本作の出来には関係のない余計な詮索だった。本筋に戻ろう。

東野氏の作品は物語にコクがあるのも事実で、本作もそれぞれの宿泊客は元よりペンションのオーナーにシェフ、従業員の男女にも深みのあるバックストーリーが用意されている。これが今回のプロットを重層的に構成させるのに大いに貢献しているのだが、このストーリー性とロジックに偏ったトリックとがいささか上手く溶け合っていないように感じる。前2作はまだ良かったが、3作目の今回は特に強く感じた。宿泊客がそんな複雑な仕掛けをするかなぁというのが私の感想である。確かにそれを裏打ちするエピソードも用意されてはいたのだが、1年に一度訪れる現場では準備に苦労するという気持ちは否めない。
しかし、まだ東野ワールド創世記である。現時点このクオリティだから、今後更に大いに期待できるのは間違いない。ああ、次はどんな話を用意してくれるのだろうか。

最後にちょっと蛇足めいた感想を。他の人の書評にもあったが東野氏の過去の作品には昔の時代を感じさせる表現が時々出てくる。今回もあるにはあったが、1つだけ。
数千万円相当の宝石を評して、プロ野球のトップ選手の年棒とあるが、今の数億円プレーヤー頻出の世の中では失笑を免れない表現である。これは次回重版時に削除したらよいかと思うが、どうだろうか?

白馬山荘殺人事件 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾白馬山荘殺人事件 についてのレビュー
No.227: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

実は事件は爬虫類館で起きているのではない!

本作の密室トリック―窓も扉も目張りされ、鍵が掛けられた部屋からいかに犯人は脱出したのか―の真相は解ってしまった。最初は解らなかったものの、トリックを特定するある物が出て来た時点で、閃いた。というよりも多分小さい頃に読んでいた藤原宰太郎氏の推理トリッククイズに問題の1つとして挙げられていた可能性が高い(ホント、この本の犯した罪は重いと思う)。
本格推理小説は手品・奇術と相通ずる物がある、というのは泡坂妻夫氏の持論だが、カーもこの作品で奇術におけるミスリードを一つの要素として扱っており、カー自身もその思いを強くしていたように思える(良きライバルであるクレイトン・ロースンその人が奇術師であり、競作を行っていたから、これは今更ながら述べる事でもないのだが)。

本作はこのトリックがメインであり、その他については物語を形成する装飾品に過ぎない。特にそれが顕著に見られるのは最後の犯人告発シーン。密室の解明に力が入っている割には、犯人を特定すべき証拠が挙がらず、脅迫じみた形で自白を迫るといった滑稽さである。まあ、そのシーンも犯人が憎らしいがために、読者の溜飲を下げる効果もあるのだが、幾分泥臭い。
しかし真相の解明のヒントとなる戸棚とマッチの燃え滓の2つはどうも読者へのヒントになっていないように思える。私自身、トリックの真相に確信を持っていたのだが、違うのかなと思ってしまった。その説明も本作では十分になされていない。
しかし、犯人は予想とは違った。いやあ、やっぱりカー作品は犯人を当てるのは難しいわ。あまりに情報が少なすぎる。

さて今回の原題だが“He Wouldn’t Kill Patience”であり、作中の台詞を借りると「彼がペイシェンスを殺すはずがない」となる。これは事件が自殺でなく他殺である根拠として娘のルイズが述べる台詞で、ペイシェンスはお気に入りの蛇の名前である。手元の辞書では何か別の意味があるのか解らなかったが、私は邦題よりもこちらの方が魅力を感じる。
事件は園長の家で起きており、爬虫類館ではないので邦題の『爬虫類館の殺人』は実は正確さを欠いている。しかも原題には未読の人にはその意味について興味をそそられ、本を読んでこそ解る意味になっているからだ。この題名は改訳の折には変更してもらいたいと強く思った。


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爬虫類館の殺人 (創元推理文庫)
カーター・ディクスン爬虫類館の殺人 についてのレビュー
No.226:
(7pt)

未完の作品?

今まで四国、奈良と古き因習の残る小村、または町を舞台に伝奇ホラーを展開してきた坂東氏が今回選んだ舞台はなんと東京。しかも本作はホラーではなく、戦前の画家の探索行と昭和初期の情念溢れる女と男の業を描いた恋愛物。
しかし、舞台は東京といっても年寄りの街、そして仏閣の街、巣鴨。やはり死がテーマの一部である。

物語は混乱の昭和初期を生き抜いた二人の女性の物語を軸に、戦前の画家西游を巡る現代の物語が展開する。
当初本作の主人公とされた額田彩子のストーリーよりも五木田早夜と小野美紗江という対照的な二人の物語の方が比重が大きくなり、またその情念の凄さから物語自体、かなり濃密である。

この二つの物語についてはそれぞれの人生観が特徴的に表れていると思う。
雪深い新潟の地を出るように上京し、画家を目指すが、人生に翻弄されるがままに生きていき、西游という狂乱の画家と出逢う事で愛憎に苦しみながら生きてきた早夜は「人生は食べてしまった饅頭のように何も残らないものだ」と述懐する。
一方、同棲相手から逃げるように飛び出し、未練を残しながらも新しい生活に向かおうとする彩子は「散った桜が消えないように、人生も過去に思いを馳せつつ残り続けていく」と考える。
何もかも失ってしまった早夜―最後に命さえも失った事が解るのだが―と三浦英夫との同棲に失敗した思い出が色濃く残る彩子。この二人を象徴するのに最適なエピソードだと思った。

そして早夜と美紗江の過去の物語の登場人物全てが不幸であるというのもまた坂東氏の特徴がよく表れている。
早夜は元より、その類い稀なる美貌と絵の才能を持っていた美紗江もまた西游に人生狂わされ、緑内障により、画家の道を閉ざされ、生涯独身を余儀なくされる。
そして榊原西游も周囲の人生を狂わせる事で絵の才能の糧にし、女の内面を写実的に描き出す。しかし空襲でその作品のほとんどは焼き尽くされ、現在では最早忘れ去られた存在に(実在の人物なのかどうかは解らないが)。
そして早夜の上京時からの良きパートナーであった有馬雄吉もまた、新進の俳優の道が開ける正にその時、戦争に徴収され、顔に火傷を負い、俳優の道を閉ざされ、家業の桶屋を継ぐことになる。しかも妻と子供は空襲で爆死するといった有様だ。その死に様は身寄りの無い年寄りの孤独な死である。
この救いの無さは一体何なのだろう?

しかし、前述したように過去と現在との物語では断然過去の物語の方が面白い。
これから判断するに、人の不幸こそ面白い、というのが坂東氏の物語作法なのだろうか?
しかし、私はこの物語は失敗作だと思う。
いや、失敗作というのは適切ではない。未完の作品だと思う。
過去と現在の物語の濃度に差がある故にバランスを欠いているように感じるのだ。
主人公の予定だった彩子がなんともぼやけた存在になってしまっている。
行きつけのパブ「リンダム」の常連達である弥生と大磯夫婦など個性あるキャラクターもいるのに物語があまり膨らんでいない。
しかし何といっても物語の結末の仕方がすべて曖昧なのだ。
はっきりした答えなど必要ない、感じたことを信じればそれでいいのだ。
確かにこれも一種の結末の付け方だろう。しかし、なんとも据わりが悪い。

今回、死の象徴とされた蝙蝠傘を持ち、「都市は冥界である」と唱える男の正体、絵の作者、西游の行方、美紗江の真意。
これら全てが未解決であるから余韻を残す結末ではなく、どうにも消化不足のような気がしてならない。
ミステリではないからと云われればそれまでだが、あと少し書き込めばなかなかの傑作になったのではないかと思うのだが。

桜雨 (集英社文庫)
坂東眞砂子桜雨 についてのレビュー
No.225:
(7pt)

展開は予想もつかないのだが…

題名の『バンディッツ』は“盗賊”の意味で、本作では主人公ジャックと元修道尼のルーシー、そしてかつて刑務所仲間だった元銀行強盗のカレンと元警官のロイたち一行を差す。
最初読んだ時はレナードにしてはストレートな設定だなぁと思った。ジャックが強盗団を結成すべく、ムショ仲間を仲間に引き入れ、大佐の金を強奪するという方向性が早くも見えたからだ。この前に読んだ『スティック』は思いつくままストーリーは流れ、なんとも掴みようがなかっただけに、この明解さには正直驚いた。

しかしやはりレナードはレナードである。一筋縄では参りません。この強奪計画が判明した106ページから誰が423ページの結末を予想できるでしょう?
本作ではレナードは熱心に南米で行われている虐殺についてルーシーの言葉、そしてCIAのウォリー・スケイルズの口を借りて述べている。また登場人物の1人に「ベトナム戦争に行った事ない奴が口出すんじゃねぇ」と云わせ、ベトナム戦争がアメリカに落とした影についてもそれとなく仄めかしている。レナードの南国の太陽を思わせる雰囲気の中に戦争の悲惨さという暗いテーマが眠っているのもこの作品の特徴だ。

しかし、この作品、レナードの先の読めない展開が悪い側に出たという印象は拭えない。本作のプロットが判明する100ページ辺りまでの面白さから、「これは!」と期待するところがあったのだが、それ以降の展開が実にのらりくらりとしており、なかなか強奪計画の全容が見えてこない。実際最後の380ページ当たりになって始めてシミュレーションが行われるくらいだから、レナードはそこに重きを置いていないのだろう。
でも逆にこれが私には不満で、まるで皮が美味しいのに中身がスカスカの饅頭を食べているかのような印象が残った。
タイトルのバンディッツも結局ほとんど機能しなかったし、やはりちょっと物足りないと思うのである。


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バンディッツ
エルモア・レナードバンディッツ についてのレビュー
No.224: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

犯人が異様に逞しい

女優フレイヴィア・ヴェナーの邸宅だった<仮面荘>に住むドワイト・スタナップはスコットランド・ヤードの警部ニコラス・ウッドを自宅に招待した。実はドワイトが警察へある相談を持ちかけた事がきっかけで仮面荘へ赴くことになったのだが、表向きは新年のお祝いに招待されたという体裁を整えていた。
ドワイトには活発なエリナーに可憐なベティという美しい異母姉妹がいた。また邸には他にも実業家のブラー・ネズビー、ニコラスの旧友ヴィンス・ジェームズが招待されており、エリナーの婚約者ロイ・ドースン海軍少佐も訪れる予定だった。
ニコラスが訪れたその夜、屋敷の1階に絵画泥棒が押し入り、果物ナイフで刺されるという事件が発生した。泥棒の正体はしかし、当主のドワイトその人であった。なぜ彼は自分の家の絵画を盗もうとしたのか?そしてなぜ泥棒を捕まえた者は捕縛せずに一思いに刺したのか?
瀕死の状態ながらもドワイトは一命をとりとめ、意識が戻るまで自宅で養生する事にした。
そこへ登場するのが我らがヘンリー・メリヴェール卿。しかしHM卿の登場空しく、次なる悲劇が発生する。

本作の真相は見破れないながらも、この頃の作品に多く見られるアクロバティックな真相で、カタルシスを感じるには首肯せざるを得なかった。
泥棒の正体が館の主である事からすぐに盗難による保険詐欺という趣向が想起され、それが確かにミスリードとなっているのは、さすがはカー!といったところか。

しかし、前述のように真犯人の正体に関してはいささか際どすぎる。
真相や趣向は非常にいいと思うのだが、事件の意匠の部分で過剰に演出しすぎ、現実味に欠けていて、いや非常識に感じられて、失望を禁じえない。
あと犯人の絞込みの重要なキーとなる背格好について。これについてもそれぞれの登場人物の描写を事細かにメモしていないと解らない。確かに作者が云うようにヒントは冒頭に隠されていたが、しかし、これだけだとは・・・(まあ、これは半分負け惜しみが入っているが)。

とはいえ、本作においてもカーは読書サービスを怠らない。
今回は特にHM卿が大カフーザラムなる魔術師に扮して子供達に奇術を披露するシーン。しかも仮面荘の当主の妻の悪友ともいうべきミス・クラタバックなる嫌味な人物に弄られながら、魔術と称してやっつけるといった内容。HM卿が実は奇術が得意であるという隠れた特技が本作で解るという点で、本作は見逃せない作品だろう。

また本作では犯人の悪意についても語られている。全てにおいて万能であった犯人が見事に罠に嵌り、プライドを傷つけられた憤りを重傷を負った人物に更に追い討ちをかけるように痛めつける。しかもそれについて悪びれもしないという人間の醜さを今回は見せつける。今手元にないので年代が解らないが、これはセイヤーズが晩年描いたテーマ―犯人が何も個人の事情や経済状態、止むに止まれない事情で犯行を犯すのではなく、単に意に沿わないという理由でも犯行を犯すのだ―に似ている。

カー作品の中でもあまり話題に上らない本作。それはこの素っ気無い題名によるところも大きいと思う。
本格物によくありがちな題名だが、原題は“The Gilded Man”で『金箔の男』という意味。これは盗難の対象となったエル・グレコの絵画に描かれたアンデス山中にある湖に沈んだ金塊を引き上げようとする男達を指している。
なかなか印象深い原題だが直接的には事件とは大きく関係しないため、どっこいどっこいといったところか。


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仮面荘の怪事件 (創元推理文庫)
カーター・ディクスン仮面荘の怪事件 についてのレビュー
No.223: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

どこかにあった物語を掘り起こしたよう

刑務所から出所したスティックはムショ仲間のレイニーから届け物をするだけで5,000ドルもらえる仕事があるから手伝えと持ちかけられる。気の乗らないまま、レイニーに同行するスティックは、それが麻薬密売人たちの取引で、自分たちが故売人のチャッキーに仲間を売られた報復として麻薬卸元であるネスターへ差し出された生贄だと知る。レイニーはネスターの手下に撃ち殺されてしまうが、スティックは命からがら逃げ延びる。
しかしスティックはチャッキーのいる街を離れず、くたびれた風采を整え、あえてこの街に残る事にする。ムショ暮らしで失ったかつての鋭さを取り戻すためと、自分が何者かを知るために。
ひょんなことからバリー・スタムという投資家のお抱え運転手を任される事になったスティックはバリーとチャッキーが友人同士だということを知り、チャッキーへの復讐を企む。

・・・と、あらすじを書いてみたものの、本作はレナード作品の中でも特に先の読めない作品だった。作者が行き当たりばったりで書いているとしか思えないほど、主人公のスティックが縦横無尽に動き回る。
一応、本作は『スワッグ』で銀行強盗として登場したスティックのその後を描いた続編。1983年に発表された本書は油が乗り切った時期に書かれたこともあって、レナード特有の流れるような文章、一緒に会話をしているかのような生きた台詞がページのすみずみまでに行き渡っている。いつしかスティックを始め、投資家のバリー、暗黒街のボス、チャッキー、不遜な殺し屋エディ・モーク、投資アドヴァイザーで美人のカイル、はたまた登場人物表に載っていない端役のバーテン、ボビー―このキャラクターがなぜ一覧表に無いのか不思議。かなり魅力を感じる美人バーテンダーである―までもがイメージを伴って、眼の前に迫ってくる。

しかし、前にも書いたように本作の特徴はスティックの行動そのものにあるといっていい。読者はスティックが何を考えているのかに興味を持ちながら読み進むしかないのだ。
最初はムショ上がりの冴えない男だったのが、死地から逃げ延びた事で逆に己自身を見つめなおし、自動車泥棒を行おうとしたところで、バリーと知り合い、運転手に落ち着き、そこで株投資の世界に興味を持ち始めたかと思うと、バリーの付き合う愛人、妻、そして投資アドヴァイザーのカイルの3人と寝てしまうのだ。更にはバリーと主従の関係が逆転し、そしてバリーが企画した新作映画への融資をだしにチャッキーを獲物にして一大詐欺を起こそうとするのだ。

こんな物語に最後きちんとオチがつくのだからものすごい。こういう話を読むとレナードが作ったのではなく、あたかもそういう話が実際にあってそれをレナードが小説にしたとしか思えない、それほど「作っていない」感じがするのだ。

しかし、あえて苦言を呈するならば、やはり行き当たりばったりで書いているなあという気持ちは払拭できない。以前とは違い、さすがに色々読んできている現在では終わりよければ全て良しという手には乗らないぞという捻くれた思いが強く残るのだ。
こういう小説もいいだろ?という声も聞こえるが、他にレナードの素晴らしい作品を知っているだけに、ここは苦言を呈して星7ツに留めよう。

スティック (文春文庫)
エルモア・レナードスティック についてのレビュー
No.222:
(7pt)

ジョナサン・ヘムロック、精彩を欠く

アイガーでの制裁(サンクション)の後、スパイ稼業に嫌気が差したジョナサン・ヘムロックはCIIを辞め、一度見た物を細部まで記憶するという自らの天賦の才能を活かして美術鑑定家として生計を建てていた。
旧友のヴァンからパーティに出席するよう頼まれたジョナサンはパーティ会場の一室でギリシャ彫刻を具現化したような完璧な美貌を持つ男に逢わされ、マリーニの『ダラスの馬』を見せられる。男はこれを500万ポンドで裁いて欲しいと依頼するのだが、ジョナサンは危険な匂いを感じ取り、断った。
旧友の美術品泥棒マックテイントに逢いに行った帰り、ジョナサンは一文無しのアイルランド娘マギーと知り合い、自分のアパートメントで一夜を共にする。
翌朝目覚めてみるとバスルームに腹を裂かれた死にそうな男が横たわっており、ジョナサンは何かに巻き込まれようとしているのを察知し、逃亡するが、約束の講演に出演した折に捕まってしまう。
捕まえた組織はルー―便所という意味―というイギリス版CIIともいうべき組織だった。そこを束ねる“司祭”は闇の一大売春組織『修道院』が所有するイギリスを根底から揺るがすスキャンダルが収められたフィルムの奪還をジョナサンに頼む。断れば死体の犯人にさせられるという状況下、ジョナサンは悪の巣窟『修道院』へ乗り込む。

長年探し求めていた『アイガー・サンクション』の続編の本書がまさか彼の地フィリピンで邂逅しようとは思わなかった。こんな硬質な作品をよく読んだものだ。一体誰だろう?他にもレナードの『スティック』と『バンディッツ』も収穫できたし、また出発前には絶版となっていたクーンツの『トワイライト・アイズ』もGETできたし、最近の立て続けに起こる過去の積み残し大清算めいた流れはどうしたことか?
いきなり本題から外れてしまったので元に戻ろう。

『アイガー・サンクション』ではスパイ物でありつつ、本格的な山岳小説でもあったが、本作は純粋なスパイ小説に徹している。主人公のジョナサン・ヘムロックが一流の登山家であることを匂わす箇所はクライマックスで敵のアジトから脱走しようとするシーンで麻薬中毒の中、マントルピースをよじ登るシーンと屋根上に隠れるシーンでしかない。
冒険小説を期待する読者にとっては物足りなさを感じるのだろう、『アイガー~』が時折巷間の話題に上るのに対して、本作については全くと云っていいほど語られない。しかし、個人的には傑作とまではいかないにしても一級のスパイ小説であると思う。

プロローグのあるスパイが聖堂の鐘楼で串刺しにされているというショッキングなシーンから幕開けするが、このたった6ページのシーンの緊迫感からして濃厚だ。最初、何が男に起こっているのか、読者には検討がつかない。もはや助からないのだろうなという事は解るのだが、どういった状況が判明しない。最後のページの新聞記事の抜粋を読むに至って、串刺し刑という拷問にあった事がわかり、それを基に読み直すと、今まで読んでいた意味が明らかになる。この辺からもう心臓鷲掴みである。
しかし、なかなか物語は進まない。本題に入るのは100ページを超えた辺りからだ。それまでは延々とスパイ稼業を引退したジョナサンと彼を取り巻く人たちとのやり取り、そしてアイルランド娘マギーとの新たな出逢いが語られる。

本作は何といってもマギーに尽きるだろう。このアイルランド娘の存在はスパイを辞めたジョナサンにとって普通の生活へ繋ぎ止める存在であり、守らなければならない物、そして彼にとって心のダイヤモンドである。特にジョナサンとマギーが最初に出逢い、レストランで食事をするシーンは本作の中で最も私が好きなシーン。道すがら出逢った男と女が交わす他愛も無い会話を断片的に語る、これだけで二人の親密さが心の中にしんしんと積もっていく。男と女の始まりを空気まで沸き立たせており、トレヴェニアンの技巧の冴えに唸ってしまった。
そしてだからこそマギーの喪失感がジョナサンと同様、読者の胸を打つ。やっぱりこの手の手法に私は弱い。

図らずもスパイ稼業に復帰せざるを得なくなったジョナサン。しかし読者の予想を裏切って百戦錬磨の活躍を見せるわけではなく、ブランクによる違和感と若さの喪失を悔やむジョナサンと読者は対面する事になる。動きにかつての精彩さを欠きながら、それでもジョナサンはまんまと周囲を出し抜くのだが、非常に危なっかしい。特に強敵とされたレオナードとは直接格闘で倒すのではなく、麻薬で苦しむジョナサンが銃で撃ち殺す結末となり、個人的には物足りなかった。
しかし、相変わらずトレヴェニアンの描く登場人物は個性的で際立っている。先に述べたマギーを筆頭に、完璧な美を誇る売春婦アメージング・グレース(素晴らしい名前だ!)、同じく永遠の若さを理想とする悪役マクシミリアン・ストレンジ、そして一癖も二癖もある美術品泥棒マックテイントなどなど、全て印象的である。この作家が亡くなってしまったのは本当に惜しい。

今考えてみると、本作は残酷なシーンと哀しみが表裏一体となっている。拷問の上に殺されるというケースがほとんどであり、また悪役もダムダム弾という一発で手足が吹き飛ぶ強烈な弾で撃たれ、無残に殺されている。
残酷さと哀しみ。どちらも負の感情だ。だからこの作品の読後感に爽快感はない。大きな喪失感が残る。

元大学教授とトレヴェニアンの略歴にはある。心理学なのか文学の教授だったのかわからないが、一連の作品に通底するペシミズムは彼のこの経歴から来るものなのかもしれない。つまり小説創作を通じて実験を行っている、それはあまりに穿ち過ぎか。


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ルー・サクション (河出文庫)
トレヴェニアンルー・サンクション についてのレビュー
No.221: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

私は欺かれた読者です

病理学者サーンダーズ博士は友人の弁護士チェイスからある招待を受ける。それは彼の友人であるコンスタブル夫妻が読心術師を発見し、家に招いて読心術を披露してもらうという内容だった。興味を持ったサーンダーズ博士はコンスタブル夫妻の住まいであるフォーウェイズ荘へ赴き、そこで読心術師ペニイクと出会う。
初対面であるのに、自らの心中をズバズバと当てるペニイクに戸惑いを隠せない出席者全員。そんな中、ペニイクは思念の力で殺人も出来ると云い、しかも家の主人であるコンスタブル氏に、今夜貴方は死ぬだろうと告げる。
そしてその夜、悲劇は起こった。2階の寝室から覚束ない足取りで出てきたコンスタブル氏は、そのまま心臓麻痺で絶命してしまう。
サーンダーズ博士はマスターズ警部とHM卿に助けを求める中、一人泰然自若とするペニイクは第2の殺人を予告し、見事成し遂げてしまう。
果たしてペニイクの読心術は本物なのか?彼は思念で人を殺せるのか?

思念で人を殺せると自称する男を登場させ、遠隔殺人を扱った本書。この作品はカーの最たる特徴であるオカルティズムが十分に堪能できる作品である。
とにかく読心術が出来、思念で人を殺せると主張するペニイクなる人物が縦横無尽に物語を駆け巡り、あのHM卿でさえも翻弄され、思念で人を殺していると半ば信じるほどだ。

物語、事象が裏返る手法はカー作品の特徴でもあるが、今回もそれが十分に発揮できている。とにかくこの作家はダブル・ミーニングの投げ方が巧い。最初読む話では全く自然の流れであった表現が真相を与えられるに当たって全く意味の違う意味に変わってしまう切れ味は健在である。
そしてこの読者への挑戦状ともいうべき題名。原題は“The Reader Is Warned”つまり文中の訳文を引用するのなら『読者に一度警告する次第である』となるが、この表現が随所に出てきて、挑戦意欲を駆り立てる。

とはいえ、この真相は、解らんでしょう!が、個人的にはこういうサプライズは大歓迎。セイヤーズ作品を読んでいるみたいだった。
しかし第1の殺人の真相が非常に面白いのに対し、第2の殺人の真相がその亜流でしかもちょっと無理があるだろうと思わされるものだったのが残念。ちょっと綱渡りしすぎた。


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読者よ欺かるるなかれ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.220:
(7pt)

御手洗の超人ぶりと石岡の情けなさにちょっとついていけない感が

本作は「上高地の切り裂きジャック」と「山手の幽霊」の2つの中編で構成された作品集。

まず「上高地の切り裂きジャック」は2000年の頃に石岡が解き明かした事件の話。大学を卒業し、みなとみらいにある法律事務所に就職した犬坊里美は石岡の許を訪れる。「最後のディナー」事件で知り合った磯子署の蓮見刑事が御手洗に相談したい事件があるというのだ。
それは上高地の山中で美人女優細川みどりが変死体で発見されたというものだった。死体の状況は死因は絞殺だが、腹が一文字にぱっくり裂かれ、腎臓や膀胱、子宮が持ち去られ、代わりに石が詰められていたという陰惨なものだった。しかも死亡推定時刻は細川が上高地へ帰った次の日の午後だというなんとも奇怪な状況だった。
犯人が子宮を持ち帰った目的は?なぜ細川は上高地へとんぼ返りしたのか?
真相を探る石岡はしかし、迷走のまま、スウェーデンに留学中の御手洗に助けを求める。

次の「山手の幽霊」はまだ御手洗が日本にいた1990年の頃の話。
頭を抱え込む丹下刑事が御手洗の許を訪れてきた。山手のトンネルの上にある家は呪われた家と云われており、最初の家主は急性の癌で病死し、その後、購入した家主大岡修平は娘が難病で病死して、そのあおりで妻が自殺し、大岡も自失のまま、仕事を辞め、飲んでくれて街を徘徊する廃人同様の生活を送っていた。三番目の家主正木が住み始めた時、地下のシェルターに餓死した大岡の死体が見つかったのだ。
さらに御手洗は電車の運転手を夫に持つ老婦人から、山手のトンネルで起きた奇怪な出来事の解明を依頼される。それはトンネルを通った時にいきなり前面の窓に女性の死体が貼りついたというのだ。電車を停めて探したが遺体らしきものは見当たらなく、しかもそれはその夫婦が亡くした幼児の成長した姿だという。

この二つの怪奇譚に御手洗の推理が冴える。
「上高地の~」はスピンオフ作品「ハリウッド~」の創作中に生まれた副産物のような感じだ(あれほどグロテスクではないが)。題名の「切り裂きジャック」から連想される残酷なイメージとは違って事件は単発、しかもどちらかといえば死亡推定時刻に関する話が多く、陰惨さの味わいは薄れている。
またこの頃、島田氏が力を入れていた冤罪事件への取り組みの色合いもあり、ここでは容疑者とされていた牧原信吾の無罪をどうにか証明しようという方向でストーリーは進む。これは金川一事件というのがモチーフになっているらしい。
しかし『最後のディナー』や『Pの密室』の頃に比べるとだいぶん石岡も以前のペースを取り戻しているようだが、犬坊里美の携帯電話の留守電組の話を聞いてショックを受ける件は50を間近に控えた男の台詞か?と思った。蓮見刑事に嫉妬するところもちょっとなぁと思うのだが。

翻って「山手の幽霊」は、『~挨拶』や『~ダンス』の頃を髣髴とさせる御手洗の活躍ぶりが堪能できた。関係のないと思われた二つの事件がまたも大胆な設定で結びつく。これこそ御手洗ファンが読みたかった作品だろう。
しかし両作とも共通するのは御手洗潔の超人的な推理力。いきなり真相が見えているように動き回る様、人に命令を下す様は確かに面白いが、超人的すぎて、少々辟易した。これと比べるとやはり私は吉敷シリーズの方が地味ながらも堅実で面白いのである。

オレも歳を取ったかなぁ。

上高地の切り裂きジャック (文春文庫)
島田荘司上高地の切り裂きジャック についてのレビュー
No.219: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

御手洗シリーズのモチーフ溢れている作品なのだが

スウェーデンのウプサラ大学で脳の研究を続ける御手洗の許にエゴン・マーカットという患者が訪れる。彼は記憶障害を患っており、記憶を一定時間保つ事が出来ないのだ。
そんな記憶障害を持つ彼が書いた1つの童話『タンジール蜜柑共和国の帰還』。
それは天を突くほどの巨大な蜜柑の木をネジ式の関節を持った妖精たちがマーマレードを作って暮らしている国にエッギーという少年が紛れ込み、その世界を逍遥するといった内容だった。
このお伽噺でしかない物語を御手洗は事実に基づいて書かれた物だといい、さらにエゴン・マーカットの記憶障害の原因となった事件と失われた記憶を取り戻す手掛かりになると云うのだった。童話に隠された事件に御手洗潔が挑む。

久々の御手洗物らしい小説を読んだという感じだ。『タンジール蜜柑共和国の帰還』という奇妙な内容の童話について解析をする趣向は過去の作品『眩暈』を想起させ、この作品が好きな私にとってなんともたまらないワクワク感があった。
特にビートルズの歌が絡んでいるという件には驚かされた。これはビートルズ・フリークである島田氏にとって積年の願望をようやく果たしたのではないだろうか。
他にも旧作を想起させる箇所があり、人の五体を解体してネジ式の関節をもつ義手・義足をつけ、ゴウレムを作り上げるというのが今回の作品世界を彩るもう1つのモチーフなのだが、これなんかはデビュー作『占星術殺人事件』のアゾートがすぐに浮かんだ。

とまあ、ある種、永い眠りから覚めた御手洗シリーズの復活を宣言するような内容である本書。特に前半の『タンジール~』の解析の辺りはどんどん判明していく驚愕の事実にページを捲る手がもどかしいほどの面白さを感じたのだが、肝心の殺人事件の解明のあたりになるとどうも食指が鈍った。
疲れから来る睡魔もあったのは事実だが、なんだか事件が複雑すぎるのだ。明かされた真相もものすごく作られた感じがして、心の底から同意できなかった。殺された遺体の首がネジのように回り、外れ、転がっていく、なんとも唖然とする事件ではないか。しかし、それを論理的に解明しようとするために、無理を生じているような感じがした。
そして、やはり語り手が石岡以外では違和感があるのは否めない。御手洗がなんだか別人のように思えるのだ。エキセントリックさに欠け、すごく常識的な人物として立ち振る舞うその姿は消化不良感がどうしても残ってしまう。

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ネジ式ザゼツキー (講談社文庫)
島田荘司ネジ式ザゼツキー についてのレビュー
No.218:
(7pt)

あの事件を結末に持ってきた剛腕ぶりはどうよ?

1996年7月17日、ニューヨークのロングアイランド沖でTWA800便の旅客機が空中爆発を起こして墜落する陰惨な事故が発生する。当初発表された事故の原因は燃料タンクの給油ゲージの電線から火花が走り、燃料に引火したというものだった。
2001年、ジョン・コーリーは妻のケイトと共にTWA800便墜落事故の5年目の追悼式に出席していた。ケイトは事故当時、調査に当たったFBI捜査官の1人であり、それゆえにこの事故に対する思い入れが深かった。
その席でケイトは200人以上の目撃者の証言の多くが海面から飛行機に向かって走るミサイルのような光の筋を見たと云っていると告げる。それは公の場でCIAの手によって燃料タンクからの爆発による物だと説明はされていたが、目撃者や捜査に当たったケイトを含むFBI捜査官でも腑に落ちない点だった。そして当時、その模様をビデオカメラに撮っていたカップルが存在するとの噂があった。
追悼式の後、ケイトに事件の関係者たちに逢わされたジョンは、ビデオテープを持つカップルの捜索に極秘裏に乗り出す。

題名の意味は『黄昏』。物語の結末にあの事件を持ってきたこの作品にはそれがよく似合う。
今回は1996年に起きたTWA800便の旅客機が墜落した事故の一部始終を収めたと云われるビデオテープの在り処とそれを撮った不倫カップルを捜し当てるのがメイン・テーマとなっている。確かにジョン・コーリーのへらず口は健在で、ページの捲る手がクイクイ進むのだが、物語の牽引力としては設定がいささかパワー不足。

今回もデミルは冒頭の第一部で不倫カップルが存在する事、そしてその撮影にいたる顛末を事細かく描いており、ジョンがそのカップルになかなか行き着かないのに非常にやきもきさせられた。
『王者のゲーム』の時にも書いたが、やはりこの辺のデミルの物語の創作作法に疑問が残るのである。不倫カップルのエピソードは、ジョンがジルに行き着いた時に語れば、効果が高いと思う。ジョンがジルに逢った時はジルの解説付きで、セックスシーンからビデオを見せられるという形で第一部の内容が再度語られるのだが、これが同じ話を二度も読まされているという感じが拭えなかった。
これはやっぱりデミルの失敗だと思う(担当編集者、注意しろよ!というよりも、巨匠過ぎて出来ないのか?)。

物語はこの後の展開を予告するような形で終わるため、非常に興味深い。どうも今作はその次回作のための長大なプロローグのような気がしてならない。でないと、あまりに単調すぎる。
次回作こそ、ベトナム戦争に区切りをつけたデミルが21世紀にして新たに出会った驚異に立ち向かう渾身の作品になるに違いない。


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ナイトフォール(上) (講談社文庫)
ネルソン・デミルナイトフォール についてのレビュー
No.217:
(7pt)

御手洗シリーズとの違いが色濃く出た短編集

本作は2002年に当初『吉敷竹史の肖像』として刊行された短編集からエッセイや対談などを取り除き、純粋に吉敷シリーズの短編集として編み直した物で、文庫化に際して新作の「電車最中」という短編が書き加えられている。

まず冒頭の「光る鶴」はかつて島田氏が物したノンフィクション大作『秋好事件』をモチーフにした吉敷シリーズの中編だ。
吉敷はかつて逮捕した元やくざの藤波の葬儀に出席するため、福岡の久留米市に赴いた。その告別式で昭島悟と名乗る藤波の生前に親しくしていた若者と出逢う。
26年前に久留米市に近い稲塚という街で一家3人を惨殺した「昭島事件」という殺人事件が起き、彼はその犯人の息子だという。実は父、昭島義明は義父であり、世話になった藤波の頼みで養子縁組を組んでいた。今まで昭島義明は自らが犯人だと認めており、死刑も確定していたが、藤波の強い説得の末、再審請求をしているという。そこで彼は吉敷に父の冤罪を証明して欲しいと頼む。
26年も前の事件の再捜査に難色を示していた吉敷だったが、亡き藤波の熱意に押されるが如く、再捜査に乗り出す。
秋好事件が同じく福岡の飯塚での事件、そして一家惨殺事件である事からかなり類似性が高い。題名の「光る鶴」とは事件当時、駅のホームに捨てられていた赤子の悟の胸に置かれていた銀の折鶴に由来する。これが冤罪の証拠となるのは自明の理だが、相変わらずの吉敷の粘りの捜査が描かれている。
事件の真相は物語中盤で早くも吉敷と昭島との面接から明らかになるが、この作品の意図は昭島義明の冤罪をいかに証明するかに主眼が置かれているので当然だろう。この事件解明は島田の秋好事件に対する願望に外ならない。

続いて「吉敷竹史、十八歳の肖像」は吉敷がいかに警察官になるに至ったかを描いた物語だ。
広島は尾道市の町工場の息子である吉敷竹史は昔から権力を嵩に威張り散らす人間が嫌いだった。C大に合格し、東京に出てきた18歳の吉敷だったが、時は折りしも大学紛争たけなわの時代で吉敷の通う大学も例外ではなかった。
吉敷は学内闘争には加わらなかったが、闘争学生の中の1人、桧枝という学生と親しくなる。桧枝は同い年とは思えぬほどの博識でしかも社会の仕組みを裏側まで知り尽くしているような感じだった。その桧枝がある日、学校のロッカーでリンチ死体となって発見される。学生紛争の混乱から単なる一犠牲者としか扱わない警察に愛想を尽かし、吉敷は単独で犯人の捜索に当たる。
執拗な聞き込みの末、事件前日に犬猿の仲の佐々木という学生に会っていたとの情報を得る。吉敷は佐々木の住所を調べ、実家に赴くのだが・・・。
幼稚園児が快刀乱麻の名探偵振りを発揮する御手洗シリーズを書いた同じ作者とは思えぬほど、この物語は対極にある。つまりここに作者の二つのシリーズの創作姿勢が現れているように思う。吉敷シリーズが極力現実の警察の捜査に即して描く事を主眼にしたリアルなシリーズにあるのに対し、御手洗シリーズは幻想味と奇想をテーマに掲げた一種のファンタジーだという事だ。
あとラストに出てくる最後の宮沢賢治の詩、『雨にも負けず』は、確かに吉敷の人と成りを語るにこれほど雄弁な物はないと感心した。

そしてラストの「電車最中」。
鹿児島県の天文館通りのマンションで市役所の建設企画課長が射殺されるという事件が起きた。鹿児島県警刑事課の留井は捜査を進めるにつれ、一人の容疑者が浮上する。地元の暴力団K山会の幹部、福士健三だった。
彼の犯行である証拠として、死体のズボンの折り返しの裾に入っていた食いかけの電車の形をした最中を福士が買ったことを立証すれば、逮捕は目前だった。しかし、九州中の市電のある県を当たってみたが、そんな物はないという知らせ。捜査を中国・四国地方に拡大したが、同じ結果だった。
焦った留井は捜査を東京を除く市電のある全国各地の都市に広げたが、すべて空振りに終わった。途方にくれた留井はふと数年前の捜査で東京から鹿児島に訪れていた吉敷という刑事の事を思い出す。
まさにこれこそシリーズを読み通した者が得る醍醐味というものだろう。留井が語る数年前の事件とは私の好きな『灰の迷宮』である。電車型をした最中を探す、これだけ単純な捜査にこれほどまでに物語性を持たせる島田氏の手腕に改めて脱帽。いやはやどこからこんな話を拾ってくるのだろうか?
そしてこの作品でも御手洗シリーズとの相違がはっきりと書き分けられている。御手洗シリーズのスピンオフ作品では御手洗が電話や手紙での出演だけなのに、あっさりと事件の真相に迫るヒントなんかをアドバイスする超人ぶりを描いているのに対し、本作では吉敷は留井の捜査のお手伝いをするのみで助手に徹している。あくまで事件を解くのは留井である。この辺の身のわきまえ方が私をして御手洗よりも吉敷の方を好きにさせているところなのだ。
そして最後の蛇足ともいえる留井の若かりし頃の東京での恋愛話もまた昭和を語る一つの因子となっている。

今後の島田氏はこういった情の部分を積極的に取り入れるらしい。なんとも嬉しい話ではないか!

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光る鶴 吉敷竹史シリーズ16 (光文社文庫)
島田荘司光る鶴 についてのレビュー
No.216:
(7pt)

謎の畳み掛けが絶妙

カーター・ディクスン名義で発表された作品だが、主人公はおなじみのH・M卿ではなく、短編でおなじみのマーチ大佐の前身であるマーキス大佐。発表当時、エラリー・クイーンの片割れ、フレデリック・ダネイが大幅に削除したそうだが、今回はそれらを含めた完全版である。

引退した元判事チャールズ・モートレイクが自宅の離れで殺害されるという事件が発生した。犯人はモートレイクに重刑を科せられた犯罪者ゲイブリエル・ホワイトだった。仮出所したホワイトが判決の恨みのため、モートレイク宅に押し入り、銃で殺害したというのだった。
現場を現認したペイジ刑事はしかし、事件に不思議な不適合性を発見していた。銃声は2回鳴ったのにもかかわらず、ホワイトから発射された銃弾は1発のみ。しかも室内の花瓶の中から別の銃が見つかり、もう1発の銃声はこの銃からの物と思われるが、室内に銃弾が見つからなかった。そして解剖の結果、モートレイクの体内から発見された銃弾は、2つの銃のどちらでもなく、全く別の空気銃から放たれた銃弾だった。

物語の謎自体、シンプルながら、どこか辻褄の合わない論理の違和感でどんどん話を膨らませていく作品で、読中、セイヤーズの作品を想起した。
今回は登場人物たちがそれぞれ何らかの嘘をついていることがテーマか。嘘をついていることで殺人計画が予想外の方向転換を余儀なくされた結果、2発の銃声に3種類の銃弾が発生するという奇妙な事件を招く。この、どうにもすわりが悪い状況設定を最後に論理で解き明かしていくのは素晴らしい。

今回の作品の特徴として、新たな事実が発覚するにつれ、また新たな謎が生まれる畳み掛けの手法が挙げられる。カーの持ち味とも云うべきこの手法だが、今回はこの畳み掛け方が絶妙だった。
銃声2発に対し、犯人から発射された銃弾は1発→現場で発見された別の銃の意外な持ち主→遺体から摘出された銃弾がその2丁の拳銃のどれでもない第3の銃弾だった→第3の銃の意外な発見場所→奇妙な窓の足跡→第2の殺人の発生、と謎また謎の連続である。
しかも220ページの薄さでこれだけの状況展開を繰り広げられるから物語のスピード感が違う。今までのカー作品の中でも随一の速さを誇っていると思う。
そして今回嬉しかったのが部屋の見取り図がちゃんと付いていた事。コレがあるのと無いのとでは物語の理解度が違う。そして田口氏による改訳により、いつもの時代がかった大仰な表現が鳴りを潜め、非常に読みやすかった。

犯人は今回も意外だった。しかしこれについて衝撃を受けるようなほどでもなかった。ただし、状況は整然と整理され読者の前に提示された。
しかし、やはり窓の足跡については蛇足であると感じた。他者へ疑惑の目を向けるための工作だったが、開かない窓から脱出する足跡という謎は魅力的だったものの、その存在を十分に納得させるだけの論理性は薄弱だと感じた。恐らくダネイはこの部分を削除したのではないだろうか(後で解説を読むと、どうやら削除されたのは登場人物の描写が中心らしい)?

しかし御大カーの作品を削除して発表させる事が出来るのはこの人ぐらいだろう。この2人による贅沢なコラボレーションは当時、かなり話題だったに違いない。


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第三の銃弾 完全版 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
カーター・ディクスン第三の銃弾 についてのレビュー
No.215:
(7pt)

日本の根源的な怖さを感じる小説

逆打ち―四国霊場八十八ヶ所を最後の礼所から最初の礼所へ逆回りに死者の死んだ歳の数だけ回ると死者が甦ると伝えられている儀式。日浦照子は若くして亡くなった我が子莎代里を甦らせようとこの逆打ちを行った。
一方、幼い頃に高知の矢狗村に住んでいた明神比奈子は矢狗村にある実家の整理という名目で東京での生活に疲れた心身を癒しに訪れた。幼馴染みの日浦莎代里に会おうとしたが、不幸にも亡くなっている事に気付く。
同窓会が行われた際に秋沢文也と再会し、かつての恋心が再燃する。しかしその二人を見つめる“眼”があることにその時はまだ気付かなかった。

当時自分の住んでいる四国を舞台にこれほどまでの土俗ホラーが繰り広げられるのにまず驚いた。寒風山トンネルとか石鎚山とか馴染みのある地名が出てくるので、自分の住んでいるところがとんでもなく恐ろしい死者の地のように感じた。
しかし、この死者を甦らせる逆打ちという儀式、これが本当にあるのか、または言い伝えとして残っているのかは寡聞にして知らないが、このアイデアは秀逸。実際、ありそうだもの。そして素直にお遍路さんを感心して見る事が出来ないようになりそうだ。
この逆打ちを中心に、四国が死者と生者が同居する“死国”となる展開、そして比奈子の実家の管理人、大野シゲの若かりし頃の不倫の話、儀式として四国霊場八十八ヶ所巡りを村の男が順番に行う男の話、植物人間状態で入院している郷土研究家の莎代里の父と介護する看護婦の話、これら全てが逆打ちに同調して収斂する手際は見事だ。

今回読書中、『八つ墓村』とかの昔の日本の映画の雰囲気を思い出した。あの独特の日本人の魂の根源から揺さぶられる恐怖がここにはある。日本の田舎が持つお化け屋敷的な怖さを感じさせる文章力は素晴らしい。
そして映画は未見だが、恐らく莎代里=栗原千秋なのだろう。このキャスティングは見事。イメージぴったりだ。映画も観たくなった。

死国 (角川文庫)
坂東眞砂子死国 についてのレビュー