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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数688件
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前作『浪花少年探偵団』から5年。あのしのぶセンセが帰ってきた。
本書も前作同様、しのぶセンセこと竹内しのぶと彼女の元教え子の2人が主要登場人物の連作短編集となっている。そしてタイトルが示すとおり、本書がシリーズの幕引きとなる一冊でもある。 まずは復活の一発目「しのぶセンセは勉強中」。 本書が刊行されたのは1993年だから本編が発表されたのはそれ以前であろう。当時はまだ私も学生の身だったので、その頃のパソコンの普及率を考えると世の中の変化についていけない者が出てきて、社会に淘汰されていくというニュースも出ていた記憶がある。 時代と共にやはり内容も古びてしまう。それでも今なお本書が当時の内容で刊行されているのは東野人気のためだろうが。 続く「しのぶセンセは暴走族」ではしのぶセンセは子供達に交通事故の恐ろしさを教え、守ろうという動機から自動車教習所へ通って免許取得にチャレンジ中。 恐らく読者のほとんどが経験しているであろう自動車教習の部分がやはり面白い。確かに金払っているのにあれだけ傲慢に振舞い、罵倒されなきゃならない境遇は珍しい。私もそう毅然と云えればよかったが、やっぱり無理だよね。謎としては小粒か。 次の「しのぶセンセの上京」は文字通りしのぶセンセ東京進出の話。 前作で新藤の恋敵役だった本間義彦再登場。彼は大阪から東京に転勤しており、しのぶセンセの東京ガイドという役回り。とはいえ、やはりここに新藤が絡まないと単なる道化役にしかなっていないのが惜しいところだ。 さすがのしのぶセンセも病気には勝てなかった。「しのぶセンセは入院中」では急性虫垂炎で入院したしのぶの所にも事件は訪れる。 ここは素直に登場人物たちのやり取りと小出しに発生する事件に頭を捻りながらストーリーに身を委ねて、愛すべき登場人物たちが織り成す笑劇に浸るのが吉。 とうとう学生生活から先生へ復帰するしのぶセンセは実家に戻ることを決意する。「しのぶセンセの引っ越し」では住んでいたアパートに最近越してきた母子が、新藤が担当する強盗殺害事件に絡む。 非常に狭い範囲で展開する物語。真相は小粒で、安西と松岡老人とのミッシングリンクを探る物であるが、本格ミステリ度はやはり低く、読者が推理して解明できるプロットではない。真相を知ることで加害者と被害者どちらが悪いのかという正義のあり場を考えさせられる話だが、シリアス度はさほど感じられない。 そしてシリーズの最後を飾るのが「しのぶセンセの復活」。 シリーズ最後の本編は原点回帰ともいうべき、しのぶのクラスで起きる事件を描いたもので刑事事件でもなく、虐めの萌芽と馴染んでくれない生徒達に何とか立ち向かうしのぶの姿が描かれる。したがってこの短編にはレギュラーメンバーである田中と原田は登場しない。それこそしのぶセンセの新たな出発の象徴といえよう。 シリーズ1作目同様、肩の力を抜いて楽しく読めるキャラクター小説である。こちらの独断かもしれないが、物語の構成が手がかりを提示した本格ミステリの風合いから次々と事件が起きて読者を愉しませるストーリー重視の犯罪物に変わっているように思う。 それぞれの短編の雑誌掲載時期が載せられていないので、どの作品がいつ頃書かれたか解らないため、これが東野氏の作風の変遷と同調しているのかが解らないのが残念なところだ。 しかしあとがきにも作者自身が作風の変化を自覚していることを述べているからこの推察は間違いないだろう。読者の推理の余地がないので、本格ミステリ度は薄いが、逆に東野氏のストーリーテリングの上手さと、関係のないと思われた事象がどのように繋がっていくのかを愉しんで読める作品になっている。 従って推理するという作品ではなく、しのぶセンセとレギュラーメンバーである浪花少年探偵団(といってもたった2人だが)こと田中鉄平と原田郁夫、そいて新藤刑事に恋敵本間義彦らが織り成す涙と笑いのミステリ風大阪人情話なのだ。 そして今回しのぶセンセは教師ではなく、兵庫の大学に内地留学している身である。 これが本作にどう影響しているかというと、教え子が絡む小学校に関係する事件ではなく、しのぶセンセを取り巻く環境で起きた事件を題材にしている。そして前作でレギュラーだった田中鉄平と原田郁夫が元教え子として絡む。従って自由度は以前よりも上がっているから事件も学校・生徒という限定空間から外側に広がっている。 各短編の出来は平均的といってよく、駄作もなければ傑作もない。強いてベストを挙げるとなるとやはり最後の「しのぶセンセの復活」となるか。子供の跳び箱事故からある家族の家庭事情に繋がり、教師の転勤へと繋がっていく話の妙はさすがだが、この短編の読みどころは教師生活にブランクを置いたしのぶの再起する姿にある。シリーズの終焉に相応しい好編だ。 大阪弁を前面に出した軽妙なストーリー運びと下町の姉ちゃんと呼べる威勢のいい女教師のこのシリーズ、シリアスな作品が多い東野作品の中でも異色のシリーズだっただけにたった2冊でシリーズを終えるのは惜しいものだ。 現在押しも押されぬ国民的人気作家となった東野圭吾氏がこのシリーズを再開するのは限りなく0%に近いだろうけど、執筆活動の気晴らしとしてまたぼつぼつと書いて欲しいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ウィンズロウのノンシリーズ物の長編だが、本書の主人公ウォルター・ウィザーズは実はニール・ケアリーシリーズの『ウォータースライドをのぼれ』に登場した落ち目の探偵。
あの時の凋落振りからは想像も出来ないほどのやり手の調査員として登場。なにしろ腕利きの元CIA工作員であり、調査会社に転職しても、FBI、イタリアンマフィア、その他アメリカの暗部に顔が利く人物たちにも対等に渡り合うほどの人物なのだ。 そして文体も1950年代の夜霧の雰囲気漂うハードボイルド調と、またしてもウィンズロウの新たな一面に触れられる作品である。古き良きアメリカ。まだ夢が夢として存在し、誰もが成功する可能性を秘めていた時代がセピア色の文体で語られる。行間には常にジャズが流れ、男と女は本心を揺蕩わせながらその日を生きるムードが漂っている。 そして事件はやはり男と女の間で起きる。マルタ・マールンドという女優で上院議員の浮気相手を軸に上院議員婦人のマデリーンはもとより、ウォルターの恋人アンまでもが関わっていることを知らされる。 魔性のような男には抗い難い女の周りで起こる不協和音。そして次期大統領候補を落としいれようとするスキャンダルの渦。 探偵ニール・ケアリーシリーズならばニールの減らず口をメロディに軽快に語られていた同種の事件が、ウォルターが主人公の本書では哀切と退廃を伴って語られる。 レイモンド・チャンドラーを意識しているのか、物語はウィンズロウの作品らしく常に核心に触れながら展開するのではなく、色んな登場人物をウォルターが渡り歩き、なすべきことが明確になってもそこに急進していかない。寧ろ彼は自らの恋人アンとのことが気がかりで、仕事よりも彼女との関係に腐心することが多い。 そして物語のアクセントとして使われるのが酒。夜の酒場をウォルターは彷徨する。 しかしそんな回り道も全てが一連の事件に収束していくのが最後の方で判明する。いやあ、この手際にはちょっと驚いた。 また折に触れ、ところどころに挿入されるウォルターの父親からの警句がまた実に効いている。豊かな人生経験に裏打ちされた含蓄溢れるその言葉はいちいち頷くことしきり。 全てノートにメモって自身の人生の教訓、または道標にしたいくらいだ。 やがてウォルターは次期大統領候補をスキャンダルの汚辱にまみれる決定的な証拠を摑むがゆえに、敵味方から襲われる存在になる。この絶対的な状況を打破する最後のカードが実に巧妙。 これはまさにエドガー・フーヴァーなるFBI長官という影の大物の脅威に50年代のアメリカが包まれていたことを示すわけだが、いやあ、本当に最後までどうなるんだろうと思いました。 そんなウィンズロウの新境地を切り開く作品だが、それでもやはり今までの作品と同様に政治家のスキャンダルが物語の要素だというのもそろそろ飽きてきた。 思えば第1作の『ストリート・キッズ』もこの次期大統領候補と目される上院議員の、スキャンダルを未然に防ぐだめに不肖の娘を確保するという内容だった。この政治的スキャンダルはウィンズロウ作品にはけっこう取り扱われているテーマであり、純粋にスラップスティック・アクションに徹した『砂漠で溺れるわけにはいかない』からウィンズロウの新境地への幕開けと思っていただけに本書のプロットは期待とは違ってしまった。 しかしこれは私の捻くれた感想であることを忘れないでいただきたい。本書はそんな政治的策略が巧妙に絡んだ、ハードボイルドを主体とした優れた作品であることは間違いない。ただこちらが期待した物が違ったというだけなのだ。 ウィスキー片手に50年代の煙る街ニューヨークを舞台にジャズが漂う男と女が交錯するハードボイルド小説を読んで、浸りたい方にはお勧めの1作だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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てっきり学園青春ミステリとは縁を切ったと思っていた東野圭吾氏が久々に学生、しかも高校生を主人公にして書いたミステリが本書。しかもデビュー当時の瑞々しさは失わずに、寧ろ豊かな経験を重ねた分、人物像にさらに厚みが増し、そしてプロットの切れ味が増しているという、東野氏のこの手の作品が好きな人にはまさに堪らない一品となっている。
何しろ主人公の西原荘一はじめ、彼を取り巻く高校生たちがなんとも瑞々しい。親や先生の云うことを聞く、聞き分けのいい生徒ではなく、彼らはすでに自分達の世界を持ち、恋にスポーツに受験に明け暮れているのだ。 この歳になると、高校時代とか大学時代という、世の中のしがらみに囚われずに一所懸命何かに取り組めた頃を懐かしむ傾向に私はあるようだ。 技巧派である東野が本書で主人公西原の一人称叙述を用いたことで学校で起こる恋人の交通事故死と妊娠騒ぎ、そして教師の自殺に同級生の自殺未遂とショッキングな事件が連続する事件の数々を、高校生の青臭さと純粋さを持った視点から同世代の友達との交流も合わせて語らせて、あえて難しくない事件を解りにくく書かせることに成功している。 そしてまた冒頭のエピローグで語られる先天的に心臓に異常を抱える妹春美に纏わるもう一つの物語の軸を煙幕で覆い隠すことにも成功している。 ただ非常に危うい設定の作品であると云わざるを得ない。 主人公の行動に矛盾がありすぎるのだ。 特に恋人宮前の死の真相を明かすべく、クラス全員の前で自分がお腹の子の父親だと公言し、その死因に教師の過剰な生活指導に原因があると糾弾する。しかしこういうことをしながらも自身の所属する野球部が地区大会に出られるように事を大きくすることを危ぶむ。 自分で騒ぎを大きくしておきながら、この心配がどうにもちぐはぐな印象を受ける。高校生の考えること、そう考えれば納得は行くかもしれないが、世を斜に構えた姿勢で見る、あの頃特有の生意気さと背伸びした大人の素振りを見せる主人公がこのような行為をすることがどうしても結びつかない。 しかしこれらは推理小説として捉えればの話であり、青春小説として捉えれば、この主人公の行動も理解が出来る。要するに自分に正直に生きることを信条とするがゆえの若気の至りなのだ。 最後に至って西原の真意が明かされるに当たり、それが明確に見えてくる。これは若さゆえの何物でもないな、と。こういう心情を書ける東野圭吾氏の若さを本作では買いたい。 しかし毎回思うがこの作者の筆致の淀みの無さはいったい何なんだろう?全く退屈を感じさせること無く最後まで読ませる。しかも巧みに物語に謎を溶け込ませ、読者に推理を容易にさせない。推理するためにページを繰る手を止めるよりもストーリーが気になって先に進めることを選択せざるを得ないのだ。 そして最後の一行のカッコ良さ。青臭さを感じる生意気な高校球児である主人公西原荘一のお株をグンと挙げるキメ台詞だ。 人を教育することに信念を持つ先生という大人と、大人と子供の境で日々を生きる高校生という人種が交わる閉鎖空間、高校。 この特異な空間で歪められた人間関係が生み出した悲劇。 個人的には悪人は誰もいなかったように思う。誰もが己の正義を貫こうと、己の護るべき物を護ろうとした結果ゆえに、これほどまでに捩れてしまったのだ。 成熟の域に達した東野氏が久々に放った青春学園ミステリは、やはり上手さの光る逸品であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵ニール・ケアリーシリーズでデビューしたウィンズロウが、同シリーズを“一旦”終了させて書いたノンシリーズが本書。探偵学入門編という体裁を取りつつ、娼婦の母親に育児放棄された形でストリート・キッドとして生きていかなければならなかったニールの、ちょっと触れれば壊れてしまいそうなナイーヴさを特徴に、潜入捜査を通じて人生の哀しみを知り、成長していく姿を描いていたが、後半はスラップスティックコメディからロードムーヴィーのような追跡劇へと、ニールの内面の掘り下げからユーモアを前面に押し出すような展開を見せていた。
そして本書で選んだのがロードムーヴィーアクション。伝説的サーファー兼麻薬王ボビーZの替え玉に選ばれたティムが、生き残るために、そしてボビーZが遺した子供のためにしつこく手強い追跡者達を迎撃しながら逃走していく。 いやあ、すごいね、これは。 題名は「気怠く優雅な人生」だが、中身は全く正反対。ニール・ケアリーシリーズと違って死体が出るわ出るわ。確かに同シリーズの3作目『高く孤独な道を行け』でもクライマックスにアクション要素をふんだんに織り込んだシーンがあったものの、こちらは全編に渡ってそれ。 特に登場人物表に載せられた人物がバッタバッタと死んでいき、全く先が読めない。たった310ページ強の作品なのに、今までの作品よりも出てくる死人の数が多い。 しかし血生臭さを感じるけれども、それよりもやはりアクションシーンが眼前へ蘇る。それはなんとも迫真に満ちている。 人を殺した者にしか解らない心の機微や感触を実感を伴わせて描写する。 しかし単なる殺し合いのエンタテインメント小説にしていないのがこの作者のいいところ。 ボビーZに成りすましたティムが道連れにするのはボビーZの隠し子であるキットという子供。彼との逃亡劇がキットにとって父親との失われた交流を取り戻す時間となり、ティムは他人の子供ながら我が息子と同様に慕い、やがて親子の絆を築き上げる。 そしてエリザベスというかつてボビーの恋人として振舞うキットの世話役の絶世の美女の存在もこの物語にアクセントを与えている。麻薬王ドン・ウェルテーロの下に入りながらも、ボビーZことティムに加担する彼女は高級娼婦で男性を手玉に取る器量を持ちながら、情に厚いところもあるファム・ファタール的存在だ。 ニール・ケアリーシリーズのヒロイン、カレンといい、本当にウィンズロウの描く女性像は魅力的だ。 上に書いたように物語の構造自体は伝説の麻薬王ボビーZの替え玉となったティムが自らに降りかかる色んな災厄から逃亡するという実にシンプルなのだが、ティムを追う敵たちが多種多様でそれらが見事に絡み合い、アンサンブルを奏でる。 ティムを替え玉にした麻薬取締捜査官グルーザから始まり、過去のある恨みからボビーを亡き者にせんとするメキシコの麻薬王ドン・ウェルテーロ。それにティムの刑務所時代の敵役だったヘルズエンジェルの面々。そしてボビーの腹心であったがボビーの財産に目が眩み、我が物にするため、ボビーを亡き者と画策する“僧侶(ザ・モンク)”。 それらを軸に登場人物表に記載されていないのが不思議なくらい個性的なキャラクターがボビーZことティムに関わってくる。たった320ページ弱の中にこれだけ面白い交錯劇をよくも編込んだものだと、改めてこの作家の技量には感服する。 本書は1997年発表の10年後、ハリウッドでポール・ウォーカー主演で映画化された。確かにこれだけアクションシーンが多く、しかも先を読ませないストーリーと絶妙なプロットを備え持つ作品であれば映画化されてもおかしくはない。 興行成績的にどうだったのかは寡聞にして知らないが、それにして映画化までけっこう長くかかったものだ。 しかしやはりニール・ケアリーシリーズを比べるとくいくい読めるものの、心に何かを残すのには軽すぎたように思う。確かにティムとキットの交流は特に物語の終盤に胸を熱くさせるシーンはあるが、ニール・ケアリーシリーズで見られたほどにはトーンは低く設定してあるようだ。 『砂漠で溺れるわけにはいかない』から続いて出版された本書に共通するのはそれまで上梓された作品に比べて非常にページ数が少ないことだ。この頃の作者は過剰に書き込まずにスピード感持った作品を書くことを目指していた、もしくはそういう物を書けるように訓練していた風にも取れる。前作にも書いたがなんだかエルモア・レナード作品を読んでいるような感じも受けた。 色々書いたがこの作者の作品が面白くないわけでは決してない。寧ろ何も考えずに面白い話を読みたいという人や時には最適の一作だろう。 |
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御手洗・石岡コンビ若き日の事件。やっぱり彼らはこうでなくてはならない。
初期の御手洗シリーズのテンポ、御手洗の奇矯ぶり、そして2人の漫才のような掛け合いが戻ってきた。開巻してすぐ私はこの快哉を挙げた。初期シリーズに見られたユーモアも織り込まれ、一気に御手洗ワールドに引き込まれた。 この頃の島田氏は物語の復興を唱えていた。ミステリはトリック、ロジックも大事だが、まず小説でなければならない、コナン・ドイルの時代から描かれてきた物語がなければならない、確かそのようなことを提唱していたと記憶している。そして本書が出た2006年は月刊島田荘司と銘打たれたように、6ヶ月連続で新刊(一部加筆訂正も含む)が発表され、気炎を吐いていた。 特に本書ではコナン・ドイルへの影響が顕著で、事件の発端となった日の御手洗・石岡コンビの日常が語られるあたりは全くホームズシリーズの導入部と似ている。そして奇妙な依頼と事件発生、解決、そして事件に至るまでの犯人の長いエピソードなど、構成は全くもってホームズシリーズの長編と瓜二つだ。 そう、ミステリ始祖に敬意を表した原点回帰がこの頃の島田氏の活動指針だった。 本書はしかしミステリとしてどうかと云われるとその出来映えについてはやはり首を傾げざるを得ない。御手洗が登場するのは全277ページの物語のうち、たった76ページぐらいで、その後はある野球選手の半生と事件に至るまでの経緯が手記の形で語られるのである。したがって御手洗の推理らしきものはほとんどない。 まあ、確かに御手洗は超人型探偵で事件に遭遇しただけで全て見極めてしまうのだが。しかし事件の真相はこの手記で明かされており、一応御手洗はその手記で出て来はするものの、間接的に事件の真相を見抜いたようにしか書かれていない。つまりこれはもはや推理小説ではないわけで、読者は事件が起きた後、犯行手記を延々と読まされるだけなのだ。 これは構成上、大いに問題だろう。ホームズでも犯人究明の推理はなされていた。それが故に彼は今なおミステリ界に君臨するキング・オブ・ディテクティヴなのだ。 しかし本書ではその推理すら披露されない。全てを見抜いた御手洗の暗示的な台詞が仄めかされるだけなのだ。ちょっと物語に比重を置きすぎたバランスの悪い作品と云える。 しかしそんな構成上の不満はあるものの、やはり島田氏のストーリーテラーぶりは素晴らしい物がある。 少しの才能でプロ野球選手を目指した貧しき男と、天性の才能で見る見るうちに球界を代表する選手にまでなった全てを手に入れた男の友情物語は、はっきり云ってオーソドックスな浪花節以外何ものでもないが、くいくいと読まされる。作者の揺ぎ無い創作姿勢とも云える弱者への優しい眼差しも一貫されている。 つくづくこの作家は物語を語るのが上手いと感じた。 ただ現代本格ミステリ界の巨人としてはやはり上記の理由から凡作といわざるを得まい。100ページ足らずの短編をエピソードで無理矢理引き伸ばした長編、もはやテクニックだけで書いている作品だなぁと一抹の寂しさを感じてしまった。 |
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とうとうこの時が来た。ニール・ケアリーシリーズ最終巻。
元々最終巻は前作『ウォータースライドをのぼれ』だったようだが、本作はファンの要望に応えて書かれた後日譚と云われている。そのせいか、他の作品と比べて総ページも約250ページと約半分の分量である。しかしそれでもやはりウィンズロウ、しっかり仕事をしてくれている。 毎回このシリーズには印象的なキャラクターが登場するが今回は何といってもニールが家へ連れ戻す老人、元コメディアン、ナッティ・シルヴァーことネイサン・シルヴァースタインのキャラが秀逸。 今までの作品でのウィンズロウのウィットに富んだ文体で彼のユーモアのセンスは解っていたつもりだが、コメディアンをメインに据えた本書ではそれが全開。今まで我慢していたギャグを大放出しているかのようだ。そしてそれがほとんど面白い。 それがまたナッティのキャラクターの造形を色濃くしている。そしてその飄々とした好々爺の風格が古き良き時代のアメリカン・コメディアンそのものであり、眼前にナッティがしたり顔でジョークを連発するのが目に浮かぶくらいの存在感を放っている。 この分量であるから、前4作に比べるとすごくシンプルな作りになっていると感じるのは否めないが、内容的には思う存分愉しめた。7ツ星評価は今までのシリーズに比べての相対評価であり、もしこの内容でノンシリーズだったり、第1作目であれば8ツ星を献上しただろう。 3作目から登場したカレンだが、実にいい女性だと思う。大人に成りきれないニールの純粋さを受け入れて愛する姿勢、しかし決して盲目的に献身に徹するのではなく、気風のいい姐御であり、常にニールと対等に振舞う。いやあ、カレンは個人的には今まで読んだ小説でも一、二を争う最高のヒロインだ。 特に今回は作者自身も愉しんで書いていることが窺える。ナッティとニールのやり取りはもちろんのこと、ニールとカレンの会話、時折挿入されるホープの日記、保険会社と弁護士との往復書簡、サミとハインツの通話の記録など、いくつもの文体を駆使して、それらが全て笑いに直結している。 もうウィンズロウは全開でギャグを放り込んでいたんだろうなと容易に想像できる内容だ。 解説によれば作者はシリーズ再開を考えているらしい。 いや1999年時点の話だから、既に出ているかもしれない。実に嬉しいことではないか。一ファンとしてはそれが早く形になり、そしてさほどのタイムラグが生じないように訳出されることを願って、感想の締めとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1904年に発表されたチェスタトンのデビュー長編小説。実にチェスタトンらしく、様々な警句と美意識に満ちた作品だ。
まず冒頭の2章まで読むに限って、この小説をなんと称したらいいだろうか、私には皆目見当が付かなかった。 1907年に著した1984年を舞台にした近未来小説。籤引きで国王が選ばれるイギリスを舞台にした物語。この設定からしてチェスタトン自身がふざけながら楽しんで筆を進めているのが解る。 最初の100ページまではチェスタトンお得意の言葉遊びに満ちており、ストーリーが全く見えてこない。ここら辺は非常に難解で思考があっちこっちに飛び、理解に苦しむ。 しかしやはり奇想の思想人チェスタトン。そこを過ぎると実に面白いストーリーが見えてくる。 ロンドンの一大プロジェクトである3市を貫く大街道建設に異を唱え、たった100人ぐらいしか住まないポンプ・ストリートというちっぽけな通りを守るべく、そこの市長アダム・ウェインが国王と袂を分かち、戦争が勃発するのである。圧倒的数の劣勢は明白でアダムの敗北は十中八九間違いないと思われていたが、そのポンプ・ストリートには戦争マニアである玩具屋の主人がいた。彼はかねてよりその通りが戦火にまみえた時にどう守るかを研究していたのだったという、なんとも喜劇的なお話なのだ。 しかしそんな“ありえない”話が各市長との幾度とない戦いが繰り返されるにしたがって次第に真剣味を帯びてくる。冒険活劇小説としても楽しめるほど、ロンドンの町の一角で繰り広げられる市街戦は迫真的でしかも実に策略に富んだ内容でエンタテインメントとして十分成り立っている。 ブラウン神父シリーズに代表されるチェスタトンの作品は独特の思考と常人を超越した理論で常識に凝り固まった我々を開眼させてくれる思弁小説というイメージが強かったがいやいやカーのそれとも劣らない活劇が書けるものだと感服した。 しかしそれでもやはりチェスタトンはチェスタトンである。 物語とは関係のないところで方々で挿入される言葉遊び。イギリス各地の地名の由来を、その真偽について眉を顰めざるを得ないような駄洒落や冗談で説明する件があったり、オーベロンの、人を笑わすために取る奇矯な振舞いにもっともらしい説明を加えたり、そしてお得意の狂人が登場したり、と展開は天真爛漫、自由奔放だ。 また狂人がほんの数十メートルしかない通りをめぐって国王と連合軍に立ち向かうというこの物語は壮大な冗談小説と取れるだろう。 しかしその冗談に命を賭ける人々がいる。それは愚直なまでに自らの信ずる道を行く、女性から見れば呆れるだけの戦争ごっこのような類にしか映らないだろう。しかしこれこそがジョンブル魂なのだとチェスタトンが鼓舞しているようだ。 これを著した1904年当時、イギリスはまさに世界の王であった。しかしその絶対なる優位もヨーロッパの周辺国が力をつけてその地位を脅かしつつあった時期である。そんな英国に送った応援歌なのではないだろうか。 特に象徴的なのは最初市長がノッティング・ヒルの独立を宣言した時、住民の1人の乾物商は全く妙ちきりんな事として取り合わなかった、その時の自分は一介の乾物商に過ぎなかったが、実は自分は水の生き物を手にいれ、地球の裏側の果実を集める輩どもを従える王であったと気付かされたと述べる件だ。まさに”Everybody’s a HERO”である。ここに私はチェスタトンの真意を見た。 しかしこの小説は初めてチェスタトンを読むにはかなりハードルの高い小説だと思う。 このチェスタトンしか書けないテイストはやはり他の作品、やはりブラウン神父シリーズを導入部として読んでからにして欲しい。もしくは『木曜の男』(光文社古典新訳文庫版は『木曜だった男』)を愉しめた人ならば本書も愉しめるだろう。 私にとって本書は繰り返しになるがチェスタトンはやはり最初からチェスタトンだったと思えただけに嬉しい作品だった。 |
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本作のテーマは殺人鬼物。しかし荒唐無稽な殺人鬼ではなく、現代スポーツ医学の歪みから生み出された殺人機械。
そして単純連続虐殺劇というチープな設定を採らないところがこの作家のいいところ。 とにかくまず東野圭吾氏がまさかこのようなモンスター小説を書いているとは思わなかった。 殺し屋タランチュラは狂えるスポーツドクター仙道之則が生み出した七種競技の選手。より高く跳び、より速く走り、より遠く投げ、より長く走れる万能選手のみが出場できる陸上界至高の競技。この競技を制するものはクイーン・オヴ・クイーンズとまで称される。 まずその選手を殺人鬼に仕立てたのが東野氏のアイデアの秀逸さ。そして驚愕させるまで鍛え上げられ、肉体改造されたタランチュラはまさしく女ターミネーター。狂気のスポーツトレーナー仙道が生み出した運動機械。 その完璧に鍛え上げられた肉体は裏返せば人を屠る凶器にもなる。運動機械から殺人機械へ。まさしく題名どおり「美しき凶器」だ。 ターゲットとなるのは元重量挙げ選手で現在会員制スポーツクラブの取締役である安生拓馬。 元陸上短距離選手で現在は化学工場の社会人陸上部のコーチを務める丹羽潤也。 元ハードル選手で現在はフリーのスポーツライターである日浦有介。 そして元体操選手で現在はテレビタレントになっている佐倉翔子。 彼ら4人を結ぶ輪の中心にいるのが仙道之則。彼はスポーツドクターでありながら肉体改造に心を奪われた人間だった。 彼ら4人は現役選手だった頃、仙道の下でドーピングを施され、一線の選手として活躍した者たちだった。自殺したドーピング仲間の元スキー選手だった小笠原彰の自殺を契機にJOCが仙道を調査するにあたり、自分たちの過去が発覚するのを恐れて、それらを抹消する為、自分たちのカルテを処分しようとしたのだった。 通常このような殺人鬼物ならばスプラッターホラーに代表されるようにとにかく凄惨な虐殺シーンを強調するだけに留まり、なぜ彼が無差別に人を殺すのかなどはありきたりの設定で流し、アクションシーンのみを強調するのだが、東野氏の優れた点は彼らがタランチュラに襲われることになった原因があり、しかも彼らにはその殺人鬼から逃げてはならない理由があるところ。 よくよく考えるとこういう連続殺人鬼物は殺されたくないがために必死に逃げ惑い、人数が減って最後に返り討ちにする為、主人公らが勇気を振り絞って殺人鬼を打ち破るという定型があった。そこに自分たちの犯行を絡ませて敢えて殺人鬼と対峙しなければならないというシチュエーションは今までになかった設定でさすがは東野氏!と褒め称えたいところだ。 そして日浦を初めとする4人たちに共通するドーピングという蠱惑的な堕落への道に陥ったスポーツ選手の苦悩。どうしても超えられない選手としての壁に直面した時に自分の弱さゆえに、克己心よりも自己中心的考えを優先して「ばれなければいい」という悪魔の囁きに屈した後の代償が殺人鬼の報復というのはなかなか面白い。 また世界で肉体増強として様々な手法が開発されていることを知らされた。特に運動機械タランチュラを生み出した、妊娠させてわざと中絶をさせることで筋肉を増強させる方法は人命を軽視した悪魔の所業で憤懣やる方ない。妊婦が体力が必要になることから自然に筋肉を増強させる物質を分泌するという性質を利用して、薬で流産させ、筋肉増強を図る方法。しかも何度も妊娠・流産を繰り返すことで無敵のスポーツ選手が出来るという。 ここまで来ると倫理なぞはもうどこかへ消えてしまい、人体実験の領域にまで達し、もはや実験牧場である。 しかしそんな設定の妙がありつつも作品の評価は佳作どまりだろう。疾走感は買うものの、物語、人物設定に膨らみが感じられなかった。逆に疾走感を取るならば読者に考える間を与えず、次から次へと災厄が降りかかる手法を取った方がエンタテインメント性が増して何も考えずに読めて面白かっただろう。 確かにこれは通勤・通学中に読むにはクイクイ読めて面白いが後に残るものがあるかといえばそうでもない。最後にタランチュラが取った意外な行動には胸を打ち、光るセンスを感じたが、総じて軽めの作品だった。 しかし隙のない物語運びとプロットだ。さほど名の知られていないが読んで損はない作品と云っておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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篠田真由美氏のシリーズ探偵、その名も建築探偵桜井京介。本書はそのシリーズの記念すべき第1作である。
篠田氏も80年代後半から起こった新本格ブームに乗じてデビューした一群の作家の1人であったが、鮎川哲也賞に応募して最終選考に残って東京創元社から刊行された『琥珀の城の殺人』と続く『祝福の園の殺人』は中世のヨーロッパを舞台にした歴史ミステリであり、他の新本格作家とは毛色は違っていた。 そんな独自の道を行っていた篠田氏が、他の新本格作家同様に所謂名探偵を配して難事件に挑むという新本格のコードに則って、満を持して放ったシリーズ探偵がこの桜井京介だ。 まあ、第1作目ということもあり、起こる事件やキャラクターは実に類型的と云えるだろう。 探偵役の桜井は朝に弱く、建築に造詣の深く、しかも大抵のことでは動じず、しかも通常長い前髪で覆いかぶされている顔は類稀なる美貌を放つ美男子ぶりという、なんとも少女漫画的な設定だ。 さらにある事情から桜井から保護を受け、助手を務める15歳の蒼は一旦見た映像を細部まで記憶するという特殊能力を持つ。そして独自の推理で突っ走る道化役の桜井の友人栗山深春とコマも揃っており、実際コミケでは桜井を主人公にした同人誌―恐らく桜井と蒼との関係を邪推したやおい本が多いと思われるが―が島田荘司氏の御手洗潔や有栖川有栖氏の火村、京極夏彦氏の京極堂といった有名どころのシリーズ探偵と肩を並べるほどの人気だったとも聞く。 そんな桜井が依頼されるのは取り壊しが決まった伊豆にあるスペイン風洋館の保存の手助け。そこでは1年前に主の遊馬歴老人が亡くなり、年末には歴の息子灘男が腹部にナイフを突き立てられ昏倒するという殺人未遂事件があり、そして取り壊してリゾート地として売り出そうとしていた不動産会社々長醒ヶ井が不審死を遂げるという過去の因縁と現在の事件が同一の館で起き、しかも持ち主である遊馬家の夫婦と4姉妹はそれぞれに思惑を秘めているという、推理小説はかくありきとも云うべき設定だ。 しかし本作がそれでも特色を放っているのはやはりサブタイトルにも掲げられているように桜井が建築探偵というところだろう。事件そのものよりも対象となる館そのものこそが桜井の関心の対象なのだ。 したがって人の生死に関わる事件は二の次で館に秘められた設計者、住居者の思い、建築の意図を推理する。そのことによって殺人事件の犯人が炙り出されるという間接的な事件真相へのアプローチが成されているのが最たる特徴だろう。 作中、スペイン文学研究者灘男と桜井の問答で『黒死館殺人事件』について触れられるシーンがあるが、そこで語られる殺人の動機は建物が人間に及ぼした影響なのだと探偵法水が述べる部分こそ本書の、いや本シリーズのメインテーマであると云えるだろう。 従って本書では黎明荘に秘められた主だった遊馬歴の想いを解き明かすのがメインであり、事件の方はそれを装飾するものであり、通常新本格ミステリ作家が第1作目として気合を入れて導入する密室殺人事件などは起きない。 起きる事件は3つあるがそのどれもが椅子からの転落死だったり、腹を何者かに刺されて瀕死の重症を負うという、Howdunitには重きが置かれず、WhodunitやWhydunitに重きが置かれた事件になっている。そのためか事件に派手さはなく、まずは桜井京介お披露目の作品といった印象を受けた。 その犯行の模様が明かされても何のHowdunitの興趣をそそるものは一切なく、Whydunitが述べられるだけだ。 陰鬱な雰囲気を常に湛えた遊馬家が桜井によって、事件の真相と黎明荘に込めた遊馬歴の想いが明かされて、一転して明日への新たな道が開かれる。 といったように新本格ミステリというよりも単なるミステリの趣が強い本作だが、やはり作者の得意とする歴史を絡めているところにこの作家のこだわりを感じる。歴が若かりし頃に渡ったスペインで起きたスペイン革命と歴の運命を絡め、秘められたロマンスを演出している。 う~ん、革命を背景に叶わぬ恋とは、これはまさに『ベルばら』の世界だ。やっぱりこの作家、自覚していないようだが少女マンガ的設定を盛り込む遺伝子を持っているのだ。 館を舞台にしながら密室殺人が起きないというのは本格を期待している輩には物足りないが、やはりそこは建築探偵である。以降の作品でその登場を期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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題名が示すように本書は「嵐の山荘物」であるが、そんな単純な物を東野圭吾という作家は書かない。この本格ミステリお馴染みの設定に劇団員の推理劇というツイストを効かせた味付けを施す。
いやはやさすがは東野圭吾というべきか。 従って「嵐の山荘」でありながらも、実際は雪は降っていないし、殺人も遺体が残らず、事件がどのように起きたかを知らせるメモが残されているのみ。しかし舞台劇を想定しながらその実、劇団員が1人、また1人と消えていくうちに団員たちの中に不信感が生まれ、疑心暗鬼に陥る。 これは芝居なのか現実なのか? この辺のフィクションと現実との境が解らなくなっていく展開が非常に上手い。 また巻頭に収められた一見描き殴られたように見える粗末な見取り図にも謎を解くヒントが隠されているのが心憎い。私は単に登場人物配置を解りやすくするためだけに付けられたのだと思っていたので全く顧みなかったのだが。 しかも読者の目には登場人物が消え去るシーンは恰も殺人がなされているように書かれているため、読んでいる方も本当に殺人が起きているのかいないのか判断に迷わされる。この叙述方法もまたトリックの1つであることに最後には明かされる。 単に奇抜なシチュエーションを用意しただけでなく、色々な仕掛けを施した作品なのだ。 またこの山荘での殺人劇、しかも虚実どちらか解らぬ状態で互いが互いを疑いあう状況からなんとなくゲーム『かまいたちの夜』を思い出させる。 逆に実際に舞台劇として演じられると非常に面白いかもしれない。劇中劇という設定で劇の中の演者がさらに演技を要求され、それが観客に虚実を混同させる効果を生み出し、どこまでが演技でどこからが素なのか解らなくなりそうだ。 いや実際既にどこかの劇団で公演されたのかも。 さて本書では登場人物の口を借りて東野流“ノックスの十戒”が開陳される。 曰く、「人間描写もできない作家が名探偵なんか作ろうとするな」、「警察の捜査能力を馬鹿にするな」 本書ではこの2つのみが書かれたがこれが後に『名探偵の掟』に繋がる着想の萌芽ではないかと考えると、やはり作品は発表順に読んでこそ、その作者の創作姿勢が時系列に垣間見れて楽しい、などとマニアックな悦に浸ってしまうのだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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依井貴裕氏は1990年に『記念樹』という作品で当時東京創元社が出していたミステリ叢書からデビューした本格ミステリ作家である。つまり新本格ブームの中、数多くデビューした作家の1人と云えるだろう。
そのペンネームを音読みすれば「イイ キユウ」、すなわちエラリー・クイーンのイニシャル「E.Q」になることから、この作家の持ち味はあくまでロジックに徹したミステリであり、同じくクイーンを尊敬する有栖川有栖氏の目指すところは一致している。 さて私にとって彼の作品を読むのは本作が初めてなのだが、実に端正な本格だというのが正直な感想。上に述べたように推理はロジックの積み重ねで整然と解かれていく。 休業中の俳優桜木和巳の許へ送られた手紙には数ヶ月前に旧友たちと山荘に集まり宿泊した3日間に起きた連続殺人事件の顛末が小説風に綴られていた。桜木には当日の記憶が一切ないが人の首を絞める感触が実に生々しく残っていた。そしてその文書には桜木が犯人であると告発していた。 この20世紀末の時期、日本の本格シーンにはこういった手記に隠されたトリックを解き明かす類のミステリが一つのジャンルのように作られた。 法月綸太郎氏の『頼子のために』、島田荘司氏の『眩暈』、そして叙述トリックの雄、折原一氏の一連の作品群・・・。 傑作も多いことからこのような題材は本格ミステリ作家ならば一度は挑戦したいと思うのだろう。依井氏がそのジャンルに挑戦したのが本書である。 確かに一見普通の手記のように読み取れるが、なんだか解らない違和感がある。しかしそれがなんだか解らないまま、190ページ弱読み終わり、読者への挑戦状が挿入される。どうにも解らないまま解決編に行くと思いもよらないトリックに驚かされる。 このトリックはネタバレになるので具体的には挙げないが、同趣向の作品と同様のトリックである。しかし無駄の一切ない内容で実にコンパクトにまとまっており、それが故、疑うことさえも難しくなっている。 また真犯人の正体も実に意外だが、当時のミステリ文壇の流行を取り入れた内容になっている。 しかしこの頃すでにこの題材は手垢にまみれていたからさほどの衝撃はなかったのかもしれない。 また探偵役の多根井理のキャラクターが平凡で単純なロジックマシーンになっているのが惜しいところ。理路整然としたロジックもいいがやはり作品として一歩抜きん出るにはトリックの衝撃はもとより、魅力的な探偵というのが必須であることを痛感させられる反面教師のような作品になっている。 しかしこの作家のクイーンへの傾倒ぶりはかなり熱いものだと感じられる。なんせ「読者への挑戦状」も挿入されているのだ。 また先に述べた自身のペンネームに加え、作品の探偵役であるミステリ作家多根井理の名を見て思わずニヤリとしてしまった。エラリー・クイーンのコンビであるフレデリック・ダネイとマンフレッド・リーのそれぞれのラストネームを当て字にして名前にしているのだ。 他にもバーナビー・ロスの当て字をした登場人物がいるのではないかと目を皿のようにして読んだのだが、さすがにそれはなかったが。 さてこの依井氏、1999年発表の本書以降、新作を発表していない。おそらく公務員との兼業作家であることがその大きな要因であるのだが、数多消えていったミステリ・エンタテインメント作家と違うのは今なお『このミス』で近況報告がされていることだ。そこには次回作のことは一切書かれていないが毎年何がしかの報告がなされているということは再びペンを執る気持ちが残っているからだと推察する。それを期待して新作の発表を待つことにしよう。 それよりも東京創元社ですでに発表された『記念樹』、『歳時記』、『肖像画』といった一連の作品を文庫化してほしいものだ。頼みますよ、東京創元社さん! ▼以下、ネタバレ感想 |
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オッド・トーマスシリーズ3作目。
前回の事件の後、オッドは元恋人ストーミーの伯父が司祭を務めるシエラネヴァダ山脈にあるセント・バーソロミュー大修道院に住み込むようになる。本書はそこでオッドが遭遇した怪事件について書かれている。 前回はダチュラという悪役がオッドの敵であったが、今回は骨の化け物と修道院の学校の生徒の1人ジェイコブに“いなかった”と呼称される顔の無い修道士の出現と、クーンツお得意のモンスターパニック小説の趣が強い。特に人間に寄生して生まれる骨の化け物はエイリアンを想起させた。 前2作での舞台ピコ・ムンドを出たオッド。従って彼の良き理解者だったピコ・ムンド警察署長ワイアット・ポーターもいなければその妻カーラもいない。さらに彼の心の支えでもあったベストセラー作家のリトル・オジーもいない。つまりお馴染みのメンバーがいないわけだが、それでも今回登場する修道士たちも個性豊かな者たちばかりである。 世界でもっとも優秀な物理学者とタイム誌に賞賛されながら、セント・バーソロミュー大修道院で隠遁生活を送るブラザー・ジョン。 ブラザー・ナックルズは元マフィアの用心棒で、修道院の中でオッドの理解者であり、一番親しい人物でもある。 そして今回の惨事の第一犠牲者となるのはキットカット中毒と揶揄されているブラザー・ティモシー。 LAでソーシャルワーカーとして働き、幾人もの若い少年少女を構成させたシスター・ミリアムは、一部の心無い者たちからその遣り方を非難され、否応無く解雇された過去を持つ。 しかし今回の影の主役は得体の知れないロシア人ロジオン・ロマーノヴィッチになるだろう。眼光鋭い眼差しを持ったクマのような男で決して他者と交わろうとはしないが美味いケーキを焼くことに長けている、となんだか訳が解らないとにかく怪しいロシア人なのだが、物語の終盤で彼の役割が明らかにされるに至り、キャラが非常に立ってくる。 このオッド・トーマスシリーズは死者が見えるというスーパーナチュラルな要素を盛り込みながらも物語の語り口にミステリ的手法を取り入れているのが興味深い。 つまりファンタジー的な約束事を前提にした物語を紡ぎながら、ミステリ的サプライズも用意しているという非常に贅沢な作品なのである。 よくよく考えると舞台設定も本格ミステリでは王道とされる「嵐の山荘」である。 そしてこの手法はこの前に読んだ『一年でいちばん暗い夕暮れに』でも見られた複数の事象が一転に収束する鮮やかさを髣髴させる。どうやらクーンツは特殊な能力・状況・現象を前面に押し出したスーパーナチュラル作品にミステリ技巧を施すジャンルミックス的創作法が非常に効果的であることに気づいたのかもしれない。 個人的にはこの試みは成功していると素直に認めたい。 しかし一点苦言を呈するならば、この広大な修道院を舞台にするならば、やはり見取り図が欲しかった。 聖堂に図書館に学校に寮と広大な敷地を東奔西走するオッドの様子がなかなか頭に入ってこない。位置関係が解らないため、オッドが今どこにいるのかが非常に把握しにくい。 本格ミステリ作家でないデミルでさえ、『ニューヨーク大聖堂』では大聖堂の見取り図が付けられていたのだから、これはやはり出版社の怠慢だろう。次作の舞台設定が解らないが、この辺の配慮はお願いしたい。ミステリを専門に出版する会社としたら当然の配慮だと思うからだ。 ところでクーンツの犬好き、レトリーヴァー好きは最近になってますます拍車が掛かったようだ。 本書でもブーという名の雑種ながらもラブラドル・レトリーヴァーの血を引く犬が登場する。そして最後に意外な正体が判明するのだが、彼のトリクシーという愛犬を喪ったバックグラウンドを知っているものの、昨今の犬好き露出振りにはちょっと辟易してしまう。 そんな理由もあり、本書は裏表紙の紹介文にあるほどには傑作とは感じなかった。バカミスと賞される可能性大だが標準作だといえる。やはり1作目のインパクトが大きすぎた。 今回で1作目から連れ添ってきたエルヴィスも成仏し、オッドの許を去り、シリーズとして一段落着いたような趣がある。しかしエルヴィスに変わり、最後にサプライズ・ゲストが現れ、物語は次作への続きがほのめかされて終わる。このサプライズ・ゲストがどういう風にオッドと絡み合うのか、興味が非常にある。 それを期待して次作を待つことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ライツヴィルシリーズ3作目。本作ではかなり意識的にライツヴィルという町がエラリイにとって運命的な何かを持っている存在として描かれる。
シリーズ1作目『災厄の町』同様、本書では手紙が重要な役割を担う。『災厄の町』では夫が妻の毒殺計画をほのめかす3通の手紙だったが、本書では息子が母への恋情を認めた4通の手紙だ。 『フォックス家の殺人』が未読なので手紙が出てくるのか解らないが、本書は共通する手紙の内容がまったく正反対でしかもスキャンダル性を両者とも帯びている。 そして本書では『靴に棲む老婆』と同じ示唆殺人がテーマとして扱われている。『靴に棲む老婆』がマザーグースに擬えていたのに対し、本作では聖書の十誡がモチーフ。 したがって『靴に棲む老婆』のテーマ性に『災厄の町』の味付けを施した作品という印象を持った。 そしてそれら2作のエッセンスをさらに凝縮したかのような濃さがここにはある。特に本書の主要人物はエラリイと彼の友人ハワード、そしてその父親ディードリッチにその妻サリー、ディードリッチの弟ウルファートのたった5人というのが驚きだ。 そんなごくごく少ない人間関係の間で起きる殺人事件だから、必然的にドラマ性が濃くなる。 まずエラリイの友人ハワードは突発的に短時間の記憶喪失症に陥るという特異性を持っている。さらに彼の父親ディードリッチは捨て子だった彼を養子に迎え、さらには若き妻サリーも彼が支援していた貧しい家庭の娘を妻として引き取った経緯がある。 このハワードとサリーが姦通し、その内容を記した手紙が謎の脅迫者の手に渡ってしまうというのが物語の骨子といえよう。 本書におけるエラリイの役回りは謎の脅迫者を突き止める探偵役、ではなく、このハワードとサリーの2人に翻弄される哀れな使い走りであることが異色。前にも述べたがこういう役回りを配される辺り、国名シリーズ以降のクイーンシリーズはパズラーから脱却してストーリーを重視し、ドラマ性を持たせることに重きを置いているように感じる。 特に驚くのは事件の真相が解明するのは一旦落着した1年後であることだ。これほどまでに事件を引っ張ったことは今までなかったし、これがエラリイのに初めて犯人に屈服する心情を吐露させる。 しかしライツヴィルという町はなんとも問題を抱えた家族が多い町だ。事件に関わるたびに人間不信に陥りそうになり、探偵クイーンも気が滅入るのも無理はない。 また本書ではクイーン作品の弱点とも云うべき点が自己弁解気味に書かれているのが面白い。 華麗なるロジックを前面に押し出しているクイーンの諸作だが、そのロジックの美しさには惚れ惚れとするものの、いかんせん情況証拠の列挙に留まっていることが多々あり、実際私も感想にその事に触れ、苦言を呈しているときもある。本書ではその事に対し、エラリイが言い訳めいた理由を述べる。 曰く、「証拠集めは、証拠集めを仕事としている人たちに委せることにしている、(中略)ぼくの任務は犯罪者を発見することで、彼等を罰することではありません」 う~ん、なんとも苦しい弁解だ。つまり殺人事件など刑事事件を扱いながら警察捜査にはまったく自信がないと告白しているようなものである。 リアリティがないとチャンドラーたちハードボイルド作家連中にこき下ろされたことに対し、ほとんど屈服しているように思える。 エラリイが探偵業に自信を喪失したこと、そして上の台詞から読み取れる、作者のリアリティの追求を放棄したことを併せると本書は作者クイーンの敗北宣言とも取れる作品かもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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92年に『交通警察の夜』という題名で刊行された短編集。元の名が示すように本書に収められた短編は交通事故を題材にしたミステリである。
まずは改題された書名にもなっている「天使の耳」。 交差点での出会い頭の事故という題材に、盲目の目撃者をあしらい、信号機の色が変わる時間を秒刻みでロジックとして展開するところに実に面白く読めた。 被害者である女性を美少女に配し、加害者の疑いがある外車の運転手を軽薄なフリーターに設定しているところがミソ。最後に背筋が寒くなるどんでん返しが用意されているが、果たしてそれが真相か否かは解らない。 次の「分離帯」も午後11時過ぎと深夜の時間帯に起きた事故を扱っている。 これは非常に巧い。登場人物のエピソードとプロットが見事に呼応しており、それが最後のうすら寒さを感じさせる結末に見事に結実している。 そして「分離帯」という題名もテーマと溶け合い、もう1つの意味を最後に醸し出している。法律が時に見せる弱者への容赦ない仕打ちを逆手に取って復讐する彩子の執念がすさまじい。 誰でも一度は経験するだろう、初心者マークをつけた車の運転にいらいらすることは。「最後の若葉」はそんな経験が思いもよらない結末を迎える一編。 いやはやこれもよくある光景でしかもかつてそんな経験があったなぁと思わされた。 もし当て逃げされ、後日加害者から連絡が入り、修理しますと持ち出したらどうするだろうか。もちろんラッキーだと思って頼むだろう。「通りゃんせ」はそんな状況から始まる。 「分離帯」同様、路上駐車を扱った一編。このあまりにも身近な軽犯罪は一般的過ぎて罪の意識すら感じない人が多いが、本編ではその軽率な行動が復讐にまで発展する恐怖を扱っている。 続く「捨てないで」では実は警察はあまり介入してこない。そういう意味では元の『交通警察の夜』として編まれた本書では異色の作品とも云える。 実に上手い。小道具である缶コーヒーの空き缶が実に効果的に皮肉な結末に寄与している。 空き缶から犯人を突き止めるのかと思いきや、結局被害者側の役には立たないのだが、完全犯罪が深沢の知らないうちに放置された空き缶のために綻ぶという展開は秀逸。 仕返しをしていたことに気づかない被害者の2人もなんだか微笑ましい。 最後の「鏡の中で」はもっとも東野氏らしい作品と云えよう。 スポーツの世界ではスキャンダルが最も恐ろしい敵であるが、この作品はそれを扱ったもの。オリンピック出場が有力視される会社の選手が起こした事故をコーチが身代わりになって加害者となる。この手の真相の隠し方と物語運びはまさに東野圭吾氏の真骨頂だろう。 本書は今までの短編集と違い、交通事故という、通常のミステリで起こる殺人事件よりも読者にとって非常に身近な事件にクローズアップしており、それが非常に新鮮だった。従って諸作品で起こる事故が読者にとっても起こりうる可能性が高く感じ、私を含め特に車を運転する人々には他人事とは思えないほどのリアルさがある。 扱っている事件も交差点での信号の変わり目での出会い頭の事故、中央分離帯がある道路での急な飛び出し、初心者マークの車を脅かす煽り運転、雪の日の路上駐車中での当て逃げ、高速道路での空き缶の投げ捨て、交差点でのハンドルミスと、非常に日常的である。 そして事故に遭った人ならば誰もが一度は抱くと思うだろうが、交通事故の解決というのは被害者・加害者双方が納得いくようなものではなく、道交法に忠実に則って処理されるため、一種理不尽な扱いを受けたような思いを抱き、不平等感といったしこりが残る。つまり法律的には正当性が証明されても、感情的にはどちらが被害者か解らないといった感情を抱いたりする。 また交通事故の多い日本では機械的に処理する警察官もいるくらいだし、本書でも出てくるが、偶然起こった事件などは警察も捜査しても犯人が挙がる可能性が低いから、被害者の心情を慮らずに投げやりに応対したりもする。 そんな交通事故で遭遇する理不尽さが本書では語られている。特に前半の3編は泣き寝入りするしかない被害者側の、加害者に対する怨念が最後のサプライズとして用意されている。しかしそれは決して胸の空くような清々しいものではなく、弱者と思っていた者が最後に見せる狂喜や冷徹さが立ち上るようになっており、うすら寒さを覚える。 また他の3編でも被害者が実は間接的に加害者へ被害を加えていた、知らないうちに被害者が加害者へ仕返しをしていた、などとヴァリエーションに富んでいる。 個人的に好きな作品は「分離帯」、「通りゃんせ」、「捨てないで」の3編。特に「捨てないで」は先が読めないだけに最後の皮肉な結末にニヤリとしてしまった。 いやあ、しかし交通事故だけに絞ってもこれほどの作品が書けるのかとひたすら感服。 その読みやすさゆえに物語のフックが効きにくく、平凡さを感じてしまうが、実は完成度は非常に高い。この人はどれだけ引き出しがあるのだろうと、途方に暮れてしまう。この軽い読後感が私を含め本書の評価をさほど高くしていないのがこの作家の功罪か。 しかし東野作品を読んだことのないミステリ初心者がいたら、『犯人のいない殺人の夜』かもしくは本書を勧めるだろう。東野氏のエッセンスが詰まった、非常に損をしている作品集とだけ最後に云っておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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アイリッシュ=ウールリッチお得意のサスペンス。1人の女性の運命が翻弄されるプロットが実に心憎い。やはりアイリッシュは、こうでなくてはならないという期待に必ず応えてくれる信頼できる作家だ。
アイリッシュの作品の登場する女性には悪女という冠がつくことが多いが、本書の主人公ヘレン・ジョーゼッソンは列車転覆事故がきっかけで実業家の息子と結婚した女性に成り代わるのに、彼女は決して悪女ではないのが特徴的だ。 彼女は運命に翻弄されるか弱い女性であり、常にいつ自分のついた嘘がばれないか、怯えている。しかも彼女を受け入れてくれたハザード家がこれまた善人たちの集まりであり、そんな善良な人たちを騙す行為に常に罪悪感が抱いているのだ。 しかし彼女は決して真実を話そうとはしない。なぜならば折角得た幸福を逃したくないという願望が強いからだ。 冒頭で語られる人生が変わるまでの彼女の人生はなんとも悲惨なものだ。8ヶ月の胎児を孕んだ身重でありながらその父親は賭博師で認知もせず、彼女にたった5ドルと彼女の故郷までの切符を郵送で送りつけただけ。貧乏のどん底に逢った彼女のよすががこのろくでなしの彼スティーヴンだけだったのだ。 そんな彼女に降って湧いたような豊かな生活。これは誰しもそう簡単に手放せるわけでないだろう。 アイリッシュのプロットはよくよく考えると非現実的だ。本書でも実業家の息子ヒューの花嫁パトリスが相手の両親に逢った事もないのに結婚をしている。これは今では考えられないシチュエーションだ。 しかし詩的な文体が織成す前時代性的雰囲気、そして行間に流れる登場人物の哀切な心情が読者の共感を誘い、一種の酩酊感すら覚え、これが一種荒唐無稽な設定に疑問を抱かせず、流麗な筆致で語られる物語へ没入させられるのだろう。 しかし私が本書で語りたいのは本来の幸せの形ということではなく、作者アイリッシュに対する母親という存在についてだ。 本書が発表されたのは1948年。『暗闇へのワルツ』、『喪服のランデヴー』と同時期に書かれ、正にアイリッシュが作家として爛熟期にあった頃だが、実はこの頃アイリッシュは同居していた母親が重病となるという不幸に見舞われている。恐らく彼女の看病をしながらの執筆活動だったと思われるが、本書でも義母グレースが重病に瀕しており、いつ死んでもおかしくない状況であり、ヘレンを含めた家族はとにかく刺激を与えるような事を知らせないように神経質に動いている。 まさにこれこそ当時のアイリッシュの状況を髣髴とさせる。 そんな意味からも本書は今まで読んだアイリッシュ作品の中でも、実に彼の素顔が色濃く現れており、それが悲痛な叫びと感じられる、物語の外側が妙に意識させられる珍しい作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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いやあ、バー=ゾウハーの新作がまさか読めるとは思わなかった。なんと原書刊行2008年。正真正銘の新作だ。
私がこの作家が好きなのはエスピオナージュを書きながらもストーリーやプロットにミステリマインドが溢れているからだ。私が好んで読む同じジャンルの作家フリーマントルも同様だが、バー=ゾウハーの場合はスピード感と緊張感に溢れている。 さて本作ではどうだろうか。 まず冒頭、ロンドンで宿泊していた男がベルリンのホテルで警察に叩き起こされ、そのまま逮捕されてしまうという、いきなり窮地から始まる。その逮捕もなんと60年以上も前に犯した元ナチス将校殺害事件の容疑者としてだから驚きだ。 作中人物の話によればドイツには殺人罪には時効がなく、市民が訴えれば捜査は開始されるらしい。 そこから長らく絶縁状態だった息子ギデオンが登場し、ルドルフがロンドンにいた事実を探ろうとする。しかし何かを恐れるかの如く、ルドルフに関わった人たちは彼と逢ったことを否定する。 この辺はアイリッシュの『幻の女』を髣髴する。 更にネオナチの狂信者たちのルドルフに対する感情は募り、やがて魔の手が迫り行く。 今回の主役は逮捕されたルドルフと疎遠だった息子ギデオン・ブレイヴァマン。父親の意向に背き、世界中を旅した後、民俗学者になった男だ。 彼が拘束中の父親の許を訪れ、久方ぶりに邂逅するシーンは2人の間に広がる溝が明らかにまだ存在している事を感じさせ、ぎこちない。しかしギデオンは父親が訃報逮捕された証拠を掴もうと躍起になる。 そして彼の前に立ち塞がるのがベルリン州女性上級検察官マグダ・レナート。 今回の任務に賭ける意欲は並々ならぬものがあることを知らされるのだが、それも無理もないことが物語半ばで判明する。なんと彼女の祖父はユダヤ人のパルチザンだったルドルフによって殺されたSS将校の1人だったのだ。 しかしその事実もある事実で彼女にとって屈辱に代わる。親しかった祖母から教えられた亡き祖父像は第2次大戦で英雄的な戦死を遂げた将校ではなく、ユダヤ人収容所でのホロコースト実行の中心的人物だったからだ。 このくだりを読むと、やはりドイツ人はナチスが第2次大戦で行ったホロコーストを忌むべき過去とし、歴史の汚点としているのが解る。自分の先祖が大量虐殺行為に関わっていた事はやはり不名誉であり、隠したい過去なのだろう。この憶測が裏打ちされるのは、ルドルフ逮捕に隠れた陰謀が明かされる段になってからだ。 ルドルフが今回の陰謀に巻き込まれる引鉄となったのはかつて愛した女性をロンドンで見たという戦友からの手紙である。第2次大戦の恐怖を伴う呪わしき記憶が残る彼の地ヨーロッパを踏ませた原動力が愛する人に一目逢いたいという想いだったのはなんともロマンチックではあるが、これが実に共感できる。 もし私にも同じ報せが入れば、どうにかしてそこを訪れ、再会したいと思うだろう。私もそんな齢になってきたのかと苦笑してしまった。 北上次郎氏も云っていたが率直に云ってかつての名作から比較すれば冒頭に述べたスピード感は減じている。 しかしそれを補う物語はここにはある。 傑作とは云えないまでもやはり続けて読みたくなる作家である事は確か。 バー=ゾウハー御齢80歳。同年代のフリーマントルが旺盛な執筆活動を見せている今、この作家にも次作を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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この頃の東野作品には『宿命』や『変身』といった人間の心や過去の因果によって引き起こされる運命の皮肉を扱ったミステリと、片や『白馬山荘殺人事件』、『仮面山荘殺人事件』など、昔からのトリッキーな舞台設定でペンションや館といった閉鎖空間で繰り広げられるオーソドックスなミステリと、2つの大きな流れがあったように思うが、本書はその題名から連想されるように後者の流れを汲むミステリだ。
かつて愛した人を、その男が実業家の隠し子で遺産を相続する権利があるという理由で無理心中という形で殺された元秘書が、実業家一族と懇意である老婆に変装し、遺言公開が行われる回廊亭という旅館で、犯人を見つけ出し、復讐するというプロットがメインだが、やはり東野氏はそんな通り一辺倒に物語を展開せず、容疑者の目処が付いた時点でその容疑者を殺し、復讐者が警察と一緒になってその犯人を探し出すという物語の転換を見せる。つまり倒叙物に犯人探しを織り込んだ作品だといえる。 実にさらっと書いており、しかもその流れが実に淀みが無いので普通に読んでしまいがちだが、限られた登場人物で捜査が進むに連れて判明する新事実に容疑者が二転三転するこの物語運びはなかなか出来るものではない。 特にその淀みない筆致こそが曲者であり、読んでいる最中、どうにか作者の術中に嵌らないことを念頭に読んでいたが、今回もすんなりと騙されてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『深海のYrr』でミステリ界の話題を攫ったフランク・シェッツィングは第1作は歴史サスペンス、2作目はコージー・ミステリと作風をガラリと変えてきたが、邦訳最新作で実質3作目となる本書は女探偵を主人公にした正々堂々たるミステリ。湾岸戦争の怨念の正体を追う探偵物にして、本格ミステリ風のサプライズまで備えた作品となっている。
ケルンで起きた拷問の末の殺人事件が91年に起きた湾岸戦争で仲間に置き去りにされたスナイパーの復讐劇の始まりのように思わされる導入部。これに纏わって当初は謎めいた捜索願が女探偵の許へ依頼されるという形を取っている。 しかしこの謎は上巻の220ページ弱のあたりで早々に明かされる。 しかし冒頭のプロローグから連想されるプロットに反して、ヴェーラの捜査が進むに連れて、登場人物はどんどん増えていく。お宝に関わった3人以外にも外人部隊、それもZEROと呼ばれる精鋭たちで構成された部隊に所属していた戦争の亡霊たちが次々と事件に関わっていく。 そして復讐者と思われたマーマンも実は湾岸戦争時代の類い稀なる残忍さと拷問の技量を備えたイェンス・ルーボルトの標的である事が解り、物語は混迷を極める。 その混迷は下巻の242ページでようやくすっと霧が晴れるように消失する。 そして本書ではプロットのみではなく、登場人物の描写力も格段に良くなっている。今までは平板でプロトタイプ的な登場人物ばかりで、物語が上滑りしているように感じられたのがシェッツィングの欠点であったが、本書では登場人物の過去が因果となる性格形成をプロファイリングで説明するという手法を取っているからだろうか、なかなか厚みがあった。 ヴェーラの依頼人バトゲはヴェーラのガードを解きほぐす魅力を備えており、また謎めいた物腰がなかなか興味をそそる。 そして災厄の根源ルーボルトも怪物として描かれているが、単純に人智の及ばない怪人物として描かず、彼がなぜ怪物となったのかを生い立ちから語ることで、創造上の人物からどこか現実的にいる人物に感じられるようになっている。 その中でもやはり最も印象に残る人物は主人公である女探偵ヴェーラ・ジェミニだろう。最初はコンピュータに精通した、活きのいい気の強い女性と典型的な女探偵像で語られ、実に画一的な印象を受けたが、下巻、依頼人のバトゲにとうとう身体を許すようになって回想される彼女の結婚生活の失敗のエピソードで彼女の人物像に厚みが出てくる。 かつて同じ警察の鑑識員として働いていた元夫カールと離婚に至るまでに受けた彼女の肉体的、精神的苦痛と残る傷痕。そこで吐露されるヴェーラの男性観がなかなかに鋭く、身につまされる点もあった。カールの、男が社会で気を張って頑張らざるを得ないがために陥った自我の崩壊が理解できるだけに痛い。このエピソードでヴェーラの貌がようやく見えた。 さらに個人的にはほんの少ししか登場しなかったが軍隊時代のルーボルトの上官であったシュテファン・ハルムが印象に残った。こういう端役の人物に深みを感じるようなことは今まで彼の作品を読んで、初めてのことだ。 しかしそれに反して警察の面々は戯画化されたように書かれている。この凄惨な事件を任されたメネメンチやその部下クランツのやり取りは、残忍な事件を語る物語に挟まれる笑劇のようである。特にメネメンチは独身である事を実に悔やんでおり、前回読んだキュッパーもまた長く付き合っていた恋人との別れに愚痴を連ねていた。 シェッツィングはどうも警察官を女々しい人物と描く傾向があるようだ。それは権威的存在である警察官を読者のレベルまで引き下げる事で親しみを持ったキャラクターにしているのかもしれないし、黄金期の作家たちがよくやっていたように、権威を貶める事で読者の溜飲を下げているのかもしれない。 そうそうキュッパーと云えば、本作でカメオ出演しており、プロファイリングを披露する。『グルメ警部キュッパー』を読んだ時はそんなことしたかいな?と首を傾げるような感じではあるのだが、ケルンを舞台にして作品を著す著者にしてみればやはり警察に所属するこの2人が面識がないというのもおかしな物だと思ったのかもしれない。 本書の登場人物に共通するのは自らの存在意義への問い掛けだ。 自分が自分であることはどうやって証明できるのか? また自分はどこから来て、どこへ行くのか? 誰かに見ていられることで自分は存在するのではないか? そういう問い掛けを登場人物は行う。夫の暴力を克服して獲得した自分という物は果たして誰かに必要とされるのかと疑問視し、人に愛される事で自らが存在する事を解りながら、過去の結婚の過ちがトラウマとなり、一歩踏み出せない主人公ヴェーラを筆頭に、厳格な父親に育てられる事で、自分が幼少の頃にされた仕打ちを部下に強いる事で父親の翳を克服しようとするルーボルト、名前を変え、異国に隠れてルーボルトという驚異に怯えて暮し、あえて自らの存在を殺そうと務めるマーマン。現実世界に愛想を尽かし、仮想空間に真実を求めるマーマンの妹ニコラ、などなど。 最後にルーボルトが演説する、メディアに見られてこそ、事件は事件となり、存在は存在として認識されるという言葉は、名前ではなく、エンジニア、運転手、スナイパーと役職だけで語られるプロローグの匿名性を示唆しているようで興味深い。 匿名性と存在に対する他者の認識、そして人ならば必ず抱える自らの存在意義など、本書の主題とこれらのテーマが結び付いて、前作、前々作よりも明らかに出来映えが増している。 本書の後に1作挟んで発表されたのが『深海のYrr』である。ますます期待感が高まる。 しかしやはりこの邦題はどうにかならないだろうか?宣伝効果を煽るために「ゲシュペンスト」なる聞き慣れないドイツ語(「亡霊」という意味らしい)を冠するのはなんともダサい。 逆にドイツ語を知る人はそれほどいないのだから、自由に邦題を付けられるのだから、それを利点にしてもっとしびれるような邦題をつけてほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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晴れて浪速大学に合格し、念願のミステリ研に入った吉野桜子とミス研の面々、黒田、清水、若尾ら3先輩が遭遇する日常の謎系ミステリ短編集。
「消えた指輪(ミッシング・リング)」は浪速大学ミス研の面々が合宿先のセミナーハウスにて入浴中に密室状態の脱衣所で起こった財布と指輪の盗難事件の謎を解くという物。 正に軽いジャブのような作品。事件はあまりに単純で犯人も容易に解る。工夫がなされているのは指輪の隠し場所と犯人の動機だろうか。日常の謎系ミステリを作るために少しばかり無理を感じさせる謎である。 表題作はこの短編集を貫く1本の軸のような物語。桜子の大叔父の暗号で書かれた遺言状をミス研の面々が解き明かそうとチャレンジする。しかしこれは発端に過ぎなく、この遺言状の謎を巡って桜子はある決意をする。 インタールード的な作品となろうか、その間に挟まれる2編は実に軽いミステリ。 まずその1編「『無理』な事件」は関西ミステリ連盟交流会、略して関ミス連のイベントでミステリ作家大槻忍先生を招いてのトークショーで起きた、睡眠薬入り緑茶事件を浪速大学ミス研の諸氏が推理する話。 もう1編「忘レナイデ・・・・・・」は小学校の時に転校で別れ別れになった男の子から届いた十年以上も前の暑中見舞い。しかし相手はつい最近交通事故で亡くなっていたという謎を扱う。 1枚の葉書きから男女の三角関係に潜む複雑な心情を推理する本編はどこかケメルマンの「九マイルには遠すぎる」を髣髴させる。 そして物語は再び表題作によって閉じられる。 光原百合氏が創元推理文庫で出版した文庫オリジナルの連作短編集。 彼女の実質的なデビューは東京創元社から単行本の版型で出版された『時計を忘れて森へ行こう』だった。しかしその前に彼女は光文社が主催する鮎川哲也が審査員を務める『本格推理』シリーズに投稿をしており、実際に作品が掲載された。本書にはそのシリーズに掲載された作品(「消えた指輪」)も挟まれている。そして投稿時のペンネームが本書で主人公ならびに語り手を務める吉野桜子でもあった。 浪速大学ミステリ研究会に所属する吉野桜子が出くわすちょっとした謎をミステリ研究会の面々が解決するというスタイルで語られているが、そのメンバーの個性が類型的過ぎて、なんとも少女マンガ的だなぁと苦笑してしまった。 よく似ているなぁと思ったのは田中芳樹氏の『創竜伝』シリーズの主役、竜堂4兄弟である。 例えば黒田はやんちゃな終であり、清水はおっとり型の余、そして若尾は毒舌家の続と家長の始以外、非常に似通ったキャラクター設定である。 ミステリとしての出来映えは中の下ぐらいか。どれもが見え見えの内容で、解けない謎でも真相は想像の範疇、つまり読み手が予想していた選択肢の中に納まっている物である。 しかしこの連作短編集はミステリそのものとして読むよりも語り手の吉野桜子のある成長物語と読むのが正しいだろう。日常の謎系ミステリの先駆者である北村薫氏が描く主人公「私」も確かに物語を重ねるにつれ、純粋な文学少女から大人の女性への階段を上っていく味わいがあるが、それは彼女が出くわす事件を通じて、大人の世界を知っていくといったもので、これといった主軸があるわけではない。 しかし本書では大学受験に合格し、憧れのミステリ研究会へ入会した吉野桜子が本書の表題作に登場するミステリ好きの大叔父との「遠い約束」、大人になったら大叔父と2人でコンビを組んでミステリ作家になる約束のため、いつか作家となる夢に向かう姿が描かれている。自分の身の回りの小さな宇宙を通じて作家になることへの覚悟を固めていく姿が背景になっている。 この吉野桜子が前にも述べたようにかつての光原氏のペンネームであったことから解るように、作者自身を投影した人物であるのは想像に難くない。従ってその文章からは自身がようやく憧れのミステリ作家になれた歓びが満ち溢れているのだが、いささかはしゃぎすぎて苦笑を禁じえないのも確か。 一人称叙述で語られる地の文はライトノベル好きの文学少女が書きがちな、ユーモアと皮肉に溢れており、悪く云えば悪ふざけが過ぎるように感じる。高校生の時に読めば、この手のミステリ愛好者をくすぐるような、ところどころに挟まれる古典ミステリへのオマージュや固有名詞にはニヤリとさせられるのだが、やはり40代の身には、白けて映ってしまう。 しかしそれらはやはりこの光原百合という作家が抱くミステリへの愛の深さゆえの発露であることがひしひしと伝わってくる。読み手から書き手へと脱皮したい衝動を主人公吉野桜子に存分に投影しているし、とりわけラストの大叔父の手紙ではミステリを愛する者が必ず抱く思いが綴られていて、胸を打つ。 こういうのにやっぱり弱いんだな、私は。 斜に構えて評価しようとも思ったが、それはやはりこの作家に対して失礼だと感じた。ミステリを愛する人、特に高校生に読んで欲しい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のチャーリー・マフィンシリーズ。前作『城壁に手をかけた男』でナターリヤとの結婚生活に終止符を打ったチャーリーがまたまたロシアを舞台に暗躍する。
騙し騙され、嵌め嵌められ。全く諜報活動の世界とは何が真実で何が虚構なのか全く予断を許さない。 最後まで読んだ今はそんな思いでいっぱいだ。 今までと一味違うと思ったのはチャーリーが嵌められて、いいようにあしらわれることだ。大使館内のスパイ潜入疑惑の捜査の一環としてチャーリーそのものが嘘発見器にかけられ、危うくナターリヤとの生活がばれてしまうのではないかと恐れを抱く。 また記者会見を開く直前にロシア民警捜査官で、チャーリーの協力者であるパヴロフの部屋に招かれた際の一部始終をVTRに撮られ、全国ニュースにその内容がロシア側に同情を誘うように編集され、世界中の笑い者になるなど、今までのチャーリーに比べるといささか精細さを欠く。 文中で時折挟まれる自身の技能の衰えの有無に関する独白から推定すると、本作では現場を離れた超一流スパイのブランクを描く事が1つの目的であったのではないだろうか。 例えば『待たれていた男』や『城壁に手をかけた男』などは身元不明の死体の正体捜しや暗殺の模様が映された映像の分析や容疑者の尋問など、謎の核心にチャーリーが関係する諸外国の機関との軋轢を乗り越えながら迫っていくものだったが、本作では身元不明の片腕の男の死体があるにもかかわらず、その身元を探るところから始まるのではなく、この死体が英国大使館内で殺されたか否かにまず腐心する。 まあ、大使館内で死体が発見されるというシチュエーションだからこの手続きは定石なのだろうが、どうにか探りを入れて事件に介入しようとするロシア側と事なかれ主義を貫こうとする大使館の面々からの妨害や横やりへ対処することばかりが語られ、一向に被害者の正体探し、犯人探しへ進まない。 まあ、これらはいわゆる役所仕事と揶揄されるずさんな仕事ぶりや1つのことにいろんな部署が介在してたらい回しにされるところも想起させられるのが面白いところではあるのだが、それでも謎解きの牽引力よりも状況の打開策に苦心する姿と、再会したナターリヤとの関係修復に苦悶する姿の繰り返しなのはちょっと引き延ばしているのでは?と上巻を読んでいるときは感じてしまった。 今回の話は物語の冒頭に引用されている2006年に起きた元KGBのアレクサンドル・リトヴィネンコをロンドンで暗殺した容疑者アンドレイ・ルゴヴォイ引渡しを当時のロシア大統領プーチンが拒否した事件をモチーフにしている。グラスノスチ以後、ペレストロイカで資本主義社会にシフトしていったロシアが今なお社会主義的秘密主義に覆われている事を世界に知らしめた事件だ。 フリーマントルはここにエスピオナージュの鉱床を見つけ、更にロシアの暗部と畏怖を掘り下げようとしている。その好敵手として選んだのがロシアで長年海千山千の強者どもを出し抜き、危機を脱して生き残ってきたチャーリー・マフィンだ。 しかしこの引用ですら、実はフリーマントルによるミスディレクションだった事に最後になって気付かされるのである。これについてはネタバレで述べよう。 しかし本当にこのシリーズは一流のエスピオナージュ小説でありながら世のサラリーマンの共感を得る、中間管理職の苦労を痛感させられる作りになっているのが面白い。 例えばチャーリーが派遣されるロシアの英国大使館の警備責任者を含む面々は、歴代の駐在員たちから見れば、信じられないほど楽天的で牧歌的な雰囲気を纏った人物ばかりだ。かつてのロシア駐在員たちはいつ謂れのない理由で民警に逮捕され、監禁されて拷問を受ける恐怖が常に付き纏っていたのに、彼らは壊れた監視カメラの修理でロシア人を何の疑問もなく大使館内に入れ、おまけに再び壊れた監視カメラを直さずに何日も放置しているという体たらくだ。しかもその行為に誰も疑問や危機感を感じない鈍感さも伴っている。しかもチャーリーは派閥争いで劣勢に立っている現部長の地位堅守のため、どうしてもこの事件を解決しなければならないのだ。 これをサラリーマンに照らし合わせると、万年赤字を抱えている地方支店に配属され、そのあまりにひどい現状に幻滅する姿が目に浮かぶではないか。派閥争いに巻き込まれるあたりはもうサラリーマンの苦悩そのままである。 そしてそんなチャーリーが最後の最後に誰もが信じて疑わなかった真実から開眼し、事件の裏に隠された真実を突き止める。 訳者あとがきによれば本作は新たな3部作の第1作目であるとのこと。恐らくチャーリーとナターリヤの関係もこの3部作で結着が着くことだろう。即ちようやくフリーマントルは長きに渡ったチャーリー・マフィンシリーズに終止符を打とうとしているのだ。 本書の評価は上に書いたとおり、個人的には全面的に受け入れ難いため、7ツ星評価に落ち着いたが、三部作の最後を読んだ後ではまた変わるかもしれない。 とにかくフリーマントルのライフワークとも云えるこのシリーズの恐らく掉尾を飾る三部作の最終作を愉しみにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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