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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数119件
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なんとフリーマントルの手による、ホームズのパスティーシュ小説。しかし、厳密に云えば純然たるホームズのパスティーシュではない。
通常ホームズのパスティーシュ小説と云えば、そこここに正典へのオマージュなり、パロディなりが挿入されていつつ、ホームズの快刀乱麻の如き名推理を堪能できるような作りになっているものだが、フリーマントルの手になる本書はホームズの登場人物を借りたスパイ小説となっている。 主人公はホームズでもワトソンでもなく、フリーマントルが創作した彼の息子セバスチャン。ウィンチェスターからケンブリッジへ3年飛び級で進学し、史上最年少で数学卒業試験首席第一級合格者となり、その後ソルボンヌ大学、ハイデルブルグ大学も首席で卒業という天才の遺伝子を引く彼の任務は第二次大戦中に中立国の立場にあったアメリカにあるという極秘裏にドイツに武器を売っている秘密組織を探る事。 自然、物語は政治色が濃くなり、シャーロックよりも官職に就いていたその兄マイクロフトの出番の方が多くなっている。実にフリーマントルらしいホームズ譚だ。 フリーマントルが正典のホームズ譚に兄マイクロフトと息子セバスチャンが出てこない理由として、彼らが政府の諜報活動に携わっていたからだという尤もらしい理由を付けているのがこの作家のそつの無いところだ。 その他にも英国から米国へ渡る豪華客船上でのロマンス、大陸横断鉄道を利用しての調査、富豪たちが所有する専用の馬車などなど古き良き時代の優雅さが漂う。 おまけに正典ではなかった旅先での恋まで語られ、濡れ場まで登場する。 更に今回フリーマントルはセバスチャンの諜報活動で欠かせない暗号文の作成にノーションとズィフというウィンチェスター・カレッジに代々伝わる独自の言語を採用している。作者は作中、これについてある程度詳しい説明を行っているが、全く以って複雑で判らない。英語を日常語として使っている私でさえ、理解するには遥かに及ばない領域の言語だ。 いわゆるその学校で話す独特の言葉、例えば眼鏡を掛けた人物の名前がトレヴァーだとするとその名前を取って、トレヴァーがノーションでは眼鏡を意味する、といった具合だ。これは実際にある言語らしく、辞書も出ているらしい。 しかしこのホームズ譚の登場人物によるスパイ小説という手法が果たしてよかったのかどうか、非常に悩ましいところだ。題名に堂々と『シャーロック・ホームズの息子』と謳っているから―因みに原題は“THE HOLMES INHERITANCE(ホームズの継承者、ホームズの遺伝子)”―、どうしてもホームズ譚のような物語を想像してしまう。私は正にそうだった。 元々フリーマントルはエスピオナージュ作家でありながら、本格ミステリ張りのどんでん返しが巧みな作家であるから、本作もその傾向だったと大いに期待したのだが、そうではなかったようだ。 確かにサプライズはある。最後に明かされるドイツ側のスパイの正体だ。そしてそれに関する手掛かりもフリーマントル流のさり気ない描写に挟まれているが、それは「あっ!」というようなものでなく「云われてみればそう読める」といった類いの物だ。つまり本格ミステリに求めるサプライズとはいささか質が違う。 ただホームズは国に乞われて国交間に跨る問題解決をしていた事は確かに正典にも書かれている。どの作品か忘れたが、ホームズがフランスかどこかの国に行ってて、なかなか本題の事件に着手できなかった設定を読んだ覚えがある。だからホームズが諜報活動のプロであり、その息子を後継者として国が採用する事に違和感はないのだが、では正典と本作では何が違うのかというと、それは物語の語り方だろう。 ホームズ譚の諸作は、まず発端に依頼人が自分の身の回りに起きた奇妙な出来事について相談し、その解決をホームズに委ねたところ、それが思いもかけぬ、国家の存亡を揺るがすような事件であった、という、小事から大事への謎の発展であるのに対し、フリーマントル版ホームズでは、最初から国の存亡を賭けた任務を任され、隠密裏に解決するといういきなり大事から幕開けだということだ。しかもセバスチャンはホームズの遺伝子を引き継いだ優秀な頭脳の持ち主であるが、初めての任務でいきなりの大役ということで綱渡りのように右に振れ、左に振れと非常に危なかしい捜査を続ける。ここに違いがある。 ホームズ物では読者は依頼人によって提示される謎という迷宮に放り込まれるが、それをホームズが鮮やかに解き明かす。つまりこれは謎という不安定な状況をもたらされた読者に安定をもたらす存在がホームズという万能の神であるというお約束事があるのだが、本書で読者は駆け出しスパイのセバスチャンと共に、五里霧中、四面楚歌の中、英国からの公的な協力もなく、たった一人で未知の秘密組織を暴かなければならないという終始不安の中に置かれる。つまりセバスチャンは正典における磐石の存在ホームズではないため、読者もセバスチャンが果たして任務を果たせるのかどうか懐疑的な中で物語は進行するのだ。 この小説作法は実は全く悪い事ではない。むしろそういう作品の方がスリリングだろう。しかしホームズの意匠を借りた作品でやるとなんとも違和感を生じてしまうのだ。 読書を十全に愉しむためにこの手の先入観は極力排して臨むべきだと解っていても、やはりこの手のパスティーシュ小説では難しい。 恐らくフリーマントルはチャーチルという英国の歴史に名を残す名政治家とその時代についての作品を著したかったのだろう。 そのプロットを練る過程で、どうせその時代の事を書くのならば、実在の英雄にもう1人の想像上の英雄ホームズをぶつければ、面白い読み物になるではないかと思いついたのではないか。もしくはその逆でホームズのパスティーシュを書く事を想定していて、その時代にチャーチルというかねてから書きたかった実在の人物がいたことに気付いたのかもしれない。 どちらにせよ物語巧者フリーマントルならではの演出である。そして本作ではチャーチルはかなりの策士として描かれ、読者の好意を得られる人物としては決して云えない。政治家について詳しいフリーマントルだから、後書で語られるチャーチルの行為も併せて、恐らく実際チャーチルとはこういう人物だったのだろうと思われる。彼の政治に対するシニカルな視点も手伝って、なかなか濃いキャラクターに仕上がっている。 本書はシリーズ化されており、続編も既に訳出されている。 初めて手に取った本書では上の理由により、面食らってしまい、なかなか物語にのめり込むことは出来なかったが、フリーマントルの意図するところが解った今、次作はもっと楽しめるのではないか。そんな期待をして、続けて読みたいと思う。 |
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国名シリーズ7作目の本作は今までとは違う怪奇趣味を押し出した異色作だ。
カナダへの休暇旅行からの帰り道で出くわした山火事のため、山の頂上に聳え立つ屋敷に泊まらざるを得なくなるクイーン親子。そしてそこにはなんだか怪しげな雰囲気を身にまとう住人たち。そしてクイーン警視自らも巨大な蟹のような化け物の幻想を見るという、今までにない不思議な導入である。 もっとも特徴的なのは山火事で周囲から隔離された《矢の根荘》で起きた殺人事件にクイーン親子たった2人で事件に挑まなければならないという「雪の山荘物」だということだ。こういういつもとは違う状況のためか、エラリーはいつもより饒舌で、自らの推理が確固たる物になる前から推理を披瀝し、悉く間違えを犯すという一面を見せている。 さらにもう1つの大きな特徴は“読者への挑戦状”が挿入されていないということだ。事件は密室でもなく、館にいる誰もが成しえるような状況であったが、2つ起きる殺人事件のいずれの死体の手には半分に切り裂かれたトランプが握られており、本作のメインの謎がこのダイイング・メッセージにあるに違いないと思われ、それに関して推理を巡らす事もできるので、私はなぜ挑戦状が入っていないのか不思議に思っていた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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国名シリーズ第6作目(作中の“読者への挑戦状”では7イニングと謳っているがこれは作者の数え間違いだろう)。
他の国名シリーズと違い、いささか巷間の口に上がらない本書。特に名作と名高い『エジプト十字架の謎』の次作であり、それに比して・・・ということもその原因の1つだろう。 開巻してまず驚いたのが、登場人物表に記載された人数の少なさである。挑戦状が織り込まれているこのシリーズでこの少なさというのはちょっと冒険に過ぎるのではないかと思った。 更に事件が起きるとその範囲はかなり狭められ、物語に終始関係する人物でもこの表に記載されていない人物―トニー・マースや《巻き毛》のグラント、ゴシップ新聞記者のテッド・ライオンズ、かつて軍人で今は映像技師であるカービー少佐、etc―もいるので更に戸惑いを隠せなかった。 今回は何か掴みようのないままに物語が進行していく。2万人の観衆と41人のカウボーイ・カウガール達というシリーズの中でも最大の容疑者数であることが捜査の方向付けを曇らせているのかもしれない。 なんだか作者クイーン自身が暗中模索しながら書いている、そんな印象を受けた。事実、最後の真相解明を読んでも、ところどころ歯切れが悪い。 今回のテーマは映像、弾道学による犯罪の検証になるだろうか。二度発生する衆人環視の中での射殺、しかも殺された場所、撃たれた箇所など全て同じ状況下でカメラが何を捕らえていたのか?これが物語の解決における要だといえる。これらについては当時作者クイーンが取材か何かで警察捜査の当時の最新情報を知った事からそれを活かして自作を著そうとしたのかもしれない。 とはいえ、映像の検証を自家薬籠中の物のように事件の最大の手掛かりとなるであろうショーの模様を映した映像の実見をなかなかしないところが実に不思議だった。物語も半ばになってようやく着手する。 それまで延々と関係者と観衆の持ち物検査、コロシアム内に隠されていると思われる凶器となった25口径の銃の捜索について語られるのだ。これは全く以って捜査手順としてはおかしいだろう。 率直に云えば、本作の出来はあまり良くない。やはり色々と無理が生じている。 まず物語の主眼となる消えた銃の謎。これについてはかなり意外であった。 しかし肝心の真犯人、これが全く納得できない(以下ネタバレにて)。 また輪を掛けて納得行かないのが犯行の実現性。この殺人方法はほとんどマンガの世界での出来事のようだ。 そして第2の殺人。これが果たして必要だったのかどうか、悩ましいところだ。 とまあ、本作は実にバランスが悪い。 そして片や映像検証、弾道学という科学捜査に言及しながらも従来から成立している指紋の検証、歯形の検証といった捜査技術に関しては何の関心も向けず、捜査が進められる、およそ世界中には存在しないだろう愚かな警察がここには歴然としてまかり通っているのが非常に痛い。 しかし1961年初版とはいえ、その後重版が繰り返され、私が手にしたのは1999年の第47版である。いい加減、訳を見直した方がいいのではないか。 ホリウッドは今ではハリウッドだし、特に十ガロン帽子には参った。これはそのままテンガロンハットでいいだろう。こういう細かい仕事を出版社には期待したいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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非常に独特のリリシズムを持った作家だ。己の美意識に従ったその作風は胡散臭さと紙一重のバランスで、ぎりぎり読むに値する、そんな危うさを感じた。自作の歌詞まで載せているくらいだから、気障と云ってもいいだろう。
そしてこれは自身が相場の世界で大被害を被った経験を活かした作品であり、主人公梨田は作者自身が十二分に投影された姿であろう。そう、この作品は作者の過去との訣別のために書かれた、そう断言しても間違いではない。 本作の舞台となる相場師の世界。ありもしない資金を投じて、株価吊り上げを行う様は、某IT企業の若い社長が世間に株価暴落ショックをもたらした例の事件を思わせる。そしてこれはその事件が起こる10年も前、平成6年に書かれた物。更に作中の時代は遡り、バブルの時代の物語である。ここにこんな教訓がきちんと書いてあるのに、同じ事が繰り返される。人間は愚かというか、金の魔力ゆえというか。 そしてこれらの世界はやはり作者がその世界に身を投じているからこそ書ける物で、かなり独特の雰囲気に満ちている。単なる堅気では書けない人を見る目、世界を見る目で以って書かれた世界だ。作者自身が作中で主人公が独白する“向こう側の世界”に身を置いた、もしくは知る者であることを示唆している。 こういうリリシズムに満ちた作品はチャンドラーを初め、国内作家の志水辰夫氏、大沢在昌氏、原尞氏など、私はかなり好きなのだが、この作品に関しては読中、なんとも云えないもやもやとした感じが拭えなかった。これは何だろうとずっと考えていたが、ようやく解った。 まずこの作者の文体についてだ。 美しい文体というのはどこか作者の自己陶酔と紙一重のところがある。自己陶酔で書かれた文章というのは、夜に書かれたラヴレターのような文章だ。つまり一夜明けて読むとその時の熱意が白々しく思える、陳腐な文章だ。 で、この作家の文章はというと、美文と自己陶酔の境目を右往左往している、そんな印象を受けた。時に読者を酔わせもするが、白々しくも感じさせたりもする。自らの人生経験で培った美意識を、出来うる限り詰め込んでいるのが、文面からひしひしと伝わってはくる。 これが合うか否かで読者の印象はガラリと変わる。私にはどうも読みにくいように感じた。 そしてこの主人公梨田、この男の造形である。相場の世界で他人の金で一儲けする裏家業に身を浸す男である梨田は真に卑しき街を歩く者なのだが、終始どうにも共感できない人物像だった。 矜持を持ち、こだわりを捨てずにかつての恩人の弔いのために、再び相場の世界に身を投じる。かつて行けなかった犯罪に手を染める向こう側に行く事を覚悟し、自分の信じる道を突き進む。 しかし、作者が意図して創作した上記のような設定は認めつつも、どうしても何かが違うように感じてならなかった。そしてそれはこの男はただ人から見られる外見を気にしているに過ぎないことに気付いた。 かっこ悪いところを見せない男であり、しかもそれは読者の前でもまたそうなのだ。卑しき街を行く男どもの話を読むのは私は大変好きである。彼らには自分にはない矜持とか守るべき何かがある。しかし私が彼らを好きなのはそれだけではなく、彼らが一様に弱さを秘めており、また人前で無様な姿を見せたりするからこそ共感できるキャラクターになっているのだ。減らず口を叩いたり、度胸がいい割には腕っぷしが強くなかったり、もしくは非常にだらしない男である、生活欠陥者とでもいうべき人間だったり、女の前では弱かったり、そういう完璧さを覆す欠点が読者にとってそのキャラクターに親近感を抱かせるのだ。 しかし本作の主人公梨田という男にはそれが一切ない。腕っぷしは立たないかもしれないが、やられる前、いや傷つく前に友人のヤクザに助けられるし、一文無しになったゼロからのスタートだといっても口八丁手八丁で金のないところを周りに悟らせない。また金が無くなっても身に着けている物は高級ブランド品ばかり、車はポンコツ車などには乗らない。つまりなんとも嫌味な男なのだ。 これは作者自身が相場の世界という情報や風評を重視し、他人への信頼を何よりも気にする世界に身を浸からせた男だからこそ外見を気にするのだろうが、なんとも気障ったらしいな、と鼻につく感じが最後まで取れなかった。 そして唐突に迎える物語の終焉。冒頭のエピソードで語られる梨田が服役3年に処されるまでの話が語られるかと思ったら、そうではなく、自分が囲った女の手記で物語は閉じられ、繋がりが放置されたままで投げ出される。 つまり作者は結末は既に書いてると云っているのだろうが、これがなんとも呆気に取られる閉じられ方なのだ。つまりミステリとして読んだ時に、一番要となる“どうしてそうなったのか?”という核心の部分をすっぽかしたままなのだ(ちなみに本作品、’95年版『このミス』第9位である)。結局、読者はこの作者の自慢話を、作者の美学を延々と聞かされただけなのか。読後の今、そんな風にしか思えない。 作中、一人の女性が主人公に対して云う台詞がある。貴方は自分の世界に酔っているだけだと。正にそんな作品だ。残念ながら私はその領域まで酔えなかった。 |
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とにかく苦痛の強いられる読書だった。途中何度も投げ出そうと思った。
プロットに比べその書き込みの量ゆえに物語の進行が途轍もなく遅い本書はクーンツ作品には珍しく疾走感を欠いている。それは本書ではクーンツが詰め込みたかったエピソードを存分に詰め込んでいるからだ。 今回は『ドラゴン・ティアーズ』でサブテーマとして語られていた“狂気の90年代”という、本来抱くべき近親者への愛情が個人の欲望の強さに歪められ、異常な行動を起こす精神を病んだ人々が主題となっている。つまり本書で語られるのが全編胸の悪くなる異常な話ばかりだ。 特に同時に進行する3つの話の中でも本書の主軸となっているミッキーとレイラニのパートで語られるレイラニのジャンキーな母親シンセミーリャとUFOが異常者を癒すと信じ、生命倫理学なる学問を確立し、障害者ならびに社会不適合者、老い先短い老人たちを淘汰する事でよりよい社会が生まれるという選民思想を掲げるその夫プレストン・マドックの所業の数々は観たくも無い、聞きたくも無い人間の残酷さを見せ付けられ、何度もくじけそうになった。特に障害を持って生まれたレイラニたちを生まれた瞬間から負け犬と独白する辺りは気分が悪くなった。 そしてレイラニとその亡き兄ルキペラがなぜ障害を持って生まれたかを母親が嬉々として語る件は、寒気と吐き気を覚えるほどだ(妊娠中にドラッグを多用し、そうすることで奇跡の子が生まれると信じて疑わなかったというとんでもない母親なのだ)。 後半に至り、今まで他人の目を通して語られていたプレストンが主観的に語られるにいたり、彼の歪んだ心理とあまりに独善的な哲学にも身の毛がよだつほどだ。先に述べた生命倫理学を説きながら、その実、プレストンは妻の妊娠中にドラッグを服用させ、不具者を生まれさせようとする。それは自らの殺人願望を満たすためだからだ。 そしてカーティス・ハモンドのパート、これも辛かった。特に逃亡者であるカーティス・ハモンド少年というのがなんとも“空気の読めない”少年で、気の利いたことを云おうとして人の神経を逆なでする、この繰り返しだからだ。あらゆる学問や映画・音楽といった文化的知識には精通しているものの、人との付き合い方となると、スラングや慣用表現に疎く、常に言葉尻を取って反問する、普通で云えば友達にはなりたくない男の子である。 しかしこれも上巻の最後に至り、ようやく納得できるのだ。この少年自体が宇宙人であり、クーンツはカーティスのパートを追われる宇宙人側から描いてきたのだ、と。そしてカーティスがキャスとポリーのグラマラスな双子の姉妹と出逢うに至り、人類と宇宙人の理解が生まれ、ギクシャクしていた物語の進行がスムーズになっていく。 そして3つの話のうち、比重がやや軽い探偵ノア・ファレルのパート。彼も少年の頃に叔母に家族を惨殺され、自身も撃たれるという苦い過去を持つ男だ。そしてそこで語られるエピソードもまた“狂気の90年代”そのものである。彼は妹を預けている保養施設にて、狂った慈愛の心を持った看護婦に妹を殺されたことで探偵業を辞めてしまう。しかしそこに現れるのがレイラニを救うべく立ち上がったミッキーで、ここで彼らの人生が交わる。 また残るカーティスはキャスとポリーのスペルケンフェルター姉妹らとともに訪れたフリートウッドのキャンプ場で、そこに停泊していたレイラニ一家のトレーラーハウスに出くわす事で彼らの人生が交わる。 しかしそこから実にクーンツらしく、物語はじれったく進行していく。共通の宿敵であるプレストンを退治するまでが非常に長い。そして物語はそれが解決する事で収束に向かい、もう一つ大きな主題であったカーティスと追っ手との攻防はなんと棚上げされたように処理される。これこそクーンツの悪い癖でテーマを盛り込みすぎて、片手落ちになってしまっている。 しかも今回はよほど色んな情報を得たのだろう、とにかくプレストンの行った悪行、彼の異常なまでに歪んだ選民思想、ミッキー、ジェニーヴァ、シンセミーリャ、ノア、キャス、ポリーそれぞれの登場人物の語り口が長い、長すぎる。なんとも説教臭い話になってしまっているのだ。 クーンツの、この現代人が抱える精神病に関してリサーチした結果、そしてそれに関する自身の考察の発表の場になっているようにしか思えず、先にも述べたように詰め込みすぎだという印象は拭えない。上下巻1,130ページも費やして語られる物語は至極簡単な物で、70%はこれら長ったらしい主張で埋められているかのようだ。しかも1つの物語は決着がつかないままである。 またクーンツ作品の特徴の1つに犬との交流というのがあるが、今回は最もそれが顕著だ。なんと宇宙人を介してとうとう犬の思考の中まで入り込んでしまうことになり、各登場人物全てが最終的に犬を飼うとまでなってしまう。犬好きの自分が描く理想の友人付き合いの姿ともいうべき結末で、しかも犬の思考についてはかなり善意的に書いてあり、本当かな?と首を傾げざるを得ない。なんとも自分の趣味嗜好をここまで押し出していいものかなと疑問を持ってしまう。 唯一の救いはやはりレイラニの存在だろう。ジャンキーの母親に大量殺人者であり、幼児虐待嗜好者の義父に連れられ、UFOとの遭遇を求め、全国を駆け巡り、10歳になる前に義父の狂った論理ゆえに殺される運命を抱えながらも、自らをミュータントと定義し、物事を斜めに観ることで笑いに変え、辛い現実を直視することを避け、どうにか生きようとするこの少女の造形は何よりも素晴らしい。 『テラビシアにかける橋』でヒロインを演じたアナソフィア・ロブをイメージして読んだ。特にカーティスとの邂逅シーンで呟く「きみはキラキラしてる」は心に残る名セリフだ。 原題の“One Door Away From Heaven”とは作中幾度かジェニーヴァから問われる「天国の一つ手前のドアの奥には何がある?」という謎かけから取られている。その答えは意外に完結でなく、けっこう説教じみた物だ(心を閉ざしていれば何も見えず、心が開かれていればそこには貴方と同じように道を探している人が見える。貴方はその人と一緒に光に繋がるドアを見つけるの)。 こういう説教事で埋め尽くされた作品を読むと、今後のクーンツはどの方向に進むのか不安でならない。 |
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これが奥田氏の第1作目なのだが、先に読んだ『三重殺』で見られた軽妙洒脱な文体とは打って変わって寂れゆく街の中、陰鬱なムードで物語は流れる。
炭坑の閉山に伴い、すたれいく街で久寿里市の三分の一の産業を担う釧久グループ。しかし各々はこの街がもうかつての盛況を取り返すことの無いことを知っていた。しかしそれぞれの事情を抱えてこの街にしがみつくしかない彼らは残滓のように残る僅かばかりの繁栄に身を委ねて日々の鬱憤を晴らしている。 主人公を務めるのは署長からつまみ弾かれたはぐれ者の刑事4人。森村、川崎、喜多見、佐々木の面々はそれぞれの個性を発揮しながら事件を追っていく。しかしこれらの刑事像が実に刑事らしくない。大学の推研サークルの輩が殺人事件を前に推理ゲームを展開しているかのような、青っぽさを感じるのだ。この辺がやはりデビュー作における作者の若さだろう。 そして事件を取り巻く関係者それぞれの事情。陰鬱であり、上っ面の人間関係に隠れたそれぞれの思惑などじっくり書いているのだが、それに重きをおいたせいか肝心の事件の印象が非常に薄い物になってしまった。 本書は80年代後半に起きた新本格ブーム一連の流れでデビューした作家群の1冊として刊行されたはずである。だからジャンルで云えば本格推理小説となるのだが、おそらく綾辻氏、法月氏らがデビューした当初にさんざん叩かれた「人間が描けてない」の批判を受け、作者奥田氏は十分考慮した上で、本書のように登場人物それぞれのストーリーを描くに至ったのだろう。そのために本格推理小説としての味わいが薄れてしまったようだ。 実際、この小説で明かされる真相はアンフェアに近い。ストーリーを読むうちに推理できる材料がほとんど提示されないのである。読者に推理する余地を与えず、残りのページも少なくなっていきなり真相を告げられた感が否めない。 そして元の題名『霧の町の殺人』だが、これは全く以ってほとんど意味を成していない。当時の新本格作品の1冊ならば、街に漂う霧が、事件に一役買って霧が無ければ成立し得なかったトリックやロジックを期待してしまうはずだ。 しかし単に霧は舞台設定に終わってしまって何の関係も果たさない。霧は登場人物の心中に澱のように溜まっていく諦観を現しているだけのものになっている。だから題名を『霧枯れの街殺人事件』と変えたのだろうが、これもまた片手落ちのような感じがする。 しかし2作目の『三重殺』を読んだ限りでは、作者の力量はこの後、向上しているので、次に読む3作目が楽しみでもある。基本的には2作目のテイストが好きなので、これが活かされていることを望む。 |
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数々の山岳小説を物してきた谷氏が今回取り組んだテーマは戦前の立教大学山岳部を扱ったドキュメンタリー小説。日本人で初めてヒマラヤ登頂を成功したチームの物語である。
これは当時TVで流行っていた『プロジェクトX』を髣髴とさせる内容だ。しかし決定的に違うのはこれは小説であるという事だ。したがってあのTVの手法をそのまま小説に持ち込めばなんとも味気ないものになる。そしてこの作品はそれをやってしまって、全体的に淡白な印象を受けるのだ。 事実を扱ったドキュメンタリーであっても、小説家のフィルターを通れば自然、物語に熱を帯びてくるものだが、本作においてはそれが見られない。 立教大学山岳部の成り立ちと初のヒマラヤ登攀挑戦に向けての数々の苦難、ようやくヒマラヤに着いてからの未知の世界・習慣に対する戸惑い、そしてやはり世界の屋根ヒマラヤが持つ、他の山々の追随を許さない過酷な環境。これら一通りの事は語られるのだが、非常に淡々としており、苦労が真に迫ってこないのだ。 物語を面白く材料は多々ある。やはり立教大学山岳部の個性豊かな面々、特に本作の主人公ともいえる最年少登頂者浜野の親友であった「雷鳥」こと中島雷二のエピソード、そして部外者ながらもヒマラヤ登攀グループの一員に加わる事になった毎日新聞社の竹節記者、金持ちの出の奥平。彼らがヒマラヤ登攀の選抜隊に加わるか否かのやり取りなど、もっと色濃く描写できたはずである。 しかしこれが素っ気無い。例えば、竹節の参加を巡っての諍いとか、財政面でどうしても参加できなかったメンバーが「いっそ子供と女房と別れてまでも参加しようと思った」とか「参加できるお前が正直憎い」といった人間の内面をむき出しにするドラマがここにはない。みな紳士で、優しく、お行儀がいいのだ。つまり読者の心にあまり振幅をもたらさない。これが物語としての熱がないという意味だ。 そして通り一辺倒に立教大学山岳部が発足からヒマラヤ登攀に至るまでのストーリーを語るがために、全てが平板に語られている印象があり、物語の焦点が見えない。谷氏がこの物語でどこに重きを置いたのかが解らないのだ。 冒頭のプロローグではヒマラヤ登攀シーンで失敗をするところが描かれている。ここからもこの物語の焦点はヒマラヤ登攀シーンなのだろう。しかしこれが今までの谷氏の山岳冒険小説とどう違うのかが解らなかった。むしろ作り物である諸作品の方が、もっと人間の限界ギリギリの苦闘を描いていたように思える。ドキュメンタリーだから嘘は書けないだろうが、資料のない部分は作者の想像力で補っていいはずである。そこに本作の詰めの甘さがあるように思う。 もしこの作品が谷氏の山岳小説の第1作であったならば、立教大学山岳部の成り立ちからヒマラヤ登攀までの一連の出来事を綴ったこの内容で十分満足できただろう。 しかし、既に何作か山岳冒険小説を出している作者が今頃になってこういう作品を著すのならば、そこにはやはり物語作家としての+αを求めるのが読者の性だし、それに応えるのが作者の力量であろう。 きつい苦言になるが、遅きに失した作品、もしくは内容不十分の作品と云わざるを得ない。 |
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・・・読後、しばらく声がでなかった。
最近読んだ本の中では、最も後味の悪い結末だ。 何を語りたくてあのような結末にしたのか、全く以ってフリーマントルの意図が理解できない。この作品を著した当時、家族間に何か問題があったのか、そう勘ぐってしまうほどの結末だ。 もともとフリーマントル作品の特徴に、最後に皮肉な結末が必ずといっていいほど用意されていることが挙げられる。特にチャーリー・マフィンシリーズでは、時にそれは行き過ぎでは、と思ってしまうほどの悲惨な結末もあるが、それはやはり主人公であるチャーリーが色々な難関を乗越えた末の相手に行った仕返しといった一種の痛快感が伴っているから、許容できたわけなのだが、今回はそれがない。もう本当に救いがない。 主人公オファレルだけではなく、敵役であったリベラの遺族に対しては輪を掛けて悲惨な幕引きが用意されている。これは作者が民主主義と社会主義の暮らしの違いを最後に提示した一種の叙述に過ぎないのかもしれないが、特に子を持つ親の立場である今では、とても正視に耐えない結末だ。 そして、主人公であるオファレル。 当初題名から連想していたのは映画『レオン』のレオンの如く、日々の日課を欠かさず、1つのフォーミュラのように固持して生活する内省的な暗殺者を思い浮かべていたが、さにあらず、家族みんなに頼りにされる模範的な父親・夫という人物だったのが意外だった。 そしてこのオファレルという男は表面上は、動揺を見せないが―それは工作員として訓練を受けているからだが―実は、不惑の年は既に過ぎているのに大いに惑うのである。 オファレルが46歳という暗殺工作員としては高齢とも云える年齢に差し掛かってなお、まだ現役でやれると不安を押し殺して信じていたのは、かつて保安官だった曾祖父の存在があるからだ。 自分と同じ年に見える写真の曾祖父の自信に満ちた姿は自分もかくありたい、自分も負けてはいられないと奮い立たせる精神的基盤になっている。そしてその曾祖父の存在は自分の仕事である暗殺という行為を正当化する象徴でもあるのだ。 オファレルは「暗殺は人命を救う」という己の教義に従って自分の仕事に誇りを持ってきた。それは法の網の目をかいくぐってのうのうと暮らす悪人、巨大な権力を行使して私腹を肥やす悪人たちを制裁するのに暗殺こそが有効な手立てだと信じてきた。 そしてその信義を支える存在としてこの曾祖父の存在がある。自分のしてきたことに間違いはないのか?時折いいようのない恐れに涙を流したくなる時にこの曾祖父の姿を思い浮かべ、保安官は決して泣かないと呟き、夜を過ごす。 そしてまた彼には、両親が無理心中して亡くなったという暗い過去がある。ラトヴィア人である母がソ連兵士にレイプされ亡くなった事が原因で、鬱病を患っていた母。朝鮮戦争に出兵し、勲章を受けながらも片腕を失った父。そしてやがて母はある夜、父を撃ち殺し、自分も自殺する。 このオファレルという暖かな家庭を持ち、規律正しい生活を信条とし、なおかつ潔癖とまで云える正義感を備えた暗殺者というこの設定がこの作品に厚みを持たせている。通常の小説で語られる精密機械のような感情の持たない暗殺者、人殺しに無上の喜びを感じる歪んだ性格の持ち主ではなく、このような生真面目な人物を設定したところにフリーマントルのアイデアの冴えを感じる。 その他にも、ハッと気付かされることはあった。 例えば麻薬の運び屋でベトナム戦争経験者であるチンピラ風のパイロットが主張するベトナム戦争で得た彼の人生哲学の話。この話がオファレルの仕事に対する信条に揺るぎをもたらした一因といっても間違いではないだろう。 正義のために戦いに行って、知りえた事は自分の利益を如何に守るかだ。帰還兵に対して何の恩恵も与えなかった政府への憤り。何のために戦っているかも解らなくなる極限状態の中で開眼した彼の唯一の真実。それは自らの正義に基づいて暗殺を行ってきたオファレルにとって自分の信義よりも現実味のある内容だったに違いない。そしてイギリス人であるフリーマントルがこういう意見を登場人物の口から云わせることからも、他国から見てあの戦争が如何に無意味であったのかを知らされるシーンだと思った。 そして、ビリーの台詞。知らず知らずに麻薬の運び屋として利用されていた孫のビリー―後に知らず知らずではなく、薬の売人から脅迫を受けて已む無く手伝わされた事を白状するが―が、不正な仕事で得た金の使い道を泣きながらオファレルに語るシーン。 こういうシーンに私は弱い。自分の子供がダブってしまう。ずっと新しい物が買えなかったママにプレゼントするために使わずに貯めていた、こういう話に弱いのである。 しかし、これら小説的技巧の巧さがあっても、あの結末でかなりのマイナスは否めない。どう考えても受け入れがたいのだ。この本、面白いから読んで、とは絶対薦められない1冊だ。 結局、暗殺は不毛だというメッセージなのかもしれないが、この本の結末自体があまりに不毛すぎる。 |
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唄う髑髏、白秋の詩に秘められた暗号といったガジェット。衆人環視の中での毒殺事件という不可能犯罪。そして惨劇の舞台は北九州の田舎にある民窯の村で、しかも祖父が愛人を囲い、妻は舌を切られ、原因不明の病に臥せり、腹違いの兄妹たちは遺産相続でいがみ合っている。
つまり扱っている題材は本格ど真ん中であり、舞台設定、トリック共々、申し分ないはずなのだが、やはり物足りない。 小説を読んだというより、長いパズルを解かされたという感慨しか残らないのだ。ここまで来ると呆れるのを通り越して、これこそがこの作者の特徴かと割り切ってしまう。 確かにそれぞれの登場人物には、欲深さとか派手な生活が好きだとか、厭世観を常に抱いているといった性格付けは基より、狭い田舎で繰り広げられる人間関係の罪深い業も設定され、しかもそれにはワトソン役まで一役担わされるのだが、一通りの素材というのは揃っている。しかし、なぜかそれらがストーリーに深みを与えるのではなく、プロットの段階でお披露目しているようにしか思えないのだ。 これほどまでに無個性だと、むしろこの作者は全てが謎解きに寄与する純粋本格推理小説を書くことを目指しているのかもしれない。 前作までは冒頭の幻想的な謎と論理的解決、図解を交えたトリックの種明しといったモチーフから、島田作品の影響をもろに受けていると述べたが、今回は山奥の山村といった閉じられた社会での陰惨な事件、一族の中の確執、唄う髑髏と横溝正史氏の影響が色濃く出ていると思った。 しかしこれら先達と大いに違うのは、物語としての面白さに欠けることだろう。島田氏には島田氏の、横溝氏には横溝氏のテイストという物が確かにあり、それが読書の食指を動かすのである。 司作品は文章にそのテイストという物が無い。心を動かす物語の振り幅が0に等しいのだ。 物語よりもトリックを!といった純粋推理を楽しみたい方には最適の作品だろう。しかし私はといえば、あいにくそれだけでは腹が太らないのである。 |
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以前住んでいた愛媛の離島を舞台にした作品という事で、期待したが、二時間サスペンスドラマの題材に過ぎない内容でガッカリした。
冒頭の幻想的(?)な謎の提示―首の無い死体が首の代わりに置かれていたマネキンからつかの間の瞬間、髑髏に変わる―、論理的解明、さらには犯人の手記で物語が終わるといった構成は師匠と崇める島田荘司氏の創作作法に則っているのだが、パンチが弱い。 ただし、約240ページの薄さに収められた謎はかなりの量である。先に述べた首の挿げ替えられた謎、同時刻に被害者が20キロ海を隔てた地で目撃されている事、45年前に起きた胴無し死体の謎、骨食らう鬼の正体、更なる首無し殺人事件の発生、といった具合に畳み掛ける。 それを補完するように、戦後の混乱に乗じた御家乗っ取り、閉鎖された離島での因縁深い人間関係、男と女の恋情沙汰なども散りばめられている。しかも主人公の敷島にも小さい頃育った沖縄で米兵と母親との間の苦い思い出のエピソードがあり、キャラクターを印象付けようとしている。 しかし、これらが何か薄い。小説作法の方程式に当て嵌めて、ただ単純に作ったという印象が拭えないのだ。 小説としてのコクはなくとも、じゃあ、謎解き部分はどうだ、というと、これもさほどでもない。確かに色々散りばめられた謎、犯人、どれも私の推理とは違ったが、カタルシスを得られたかというとそうではない。 一番ビックリしたのはいきなり最終章で犯人が犯行について独白し始めた事だ。これは一番嫌な謎解きシーンである。その後の展開から、この犯人は真犯人ではなく、共犯者だという事が解るのだが、はっきり云って興醒めした。このシーンで探偵役の敷島が、単に迷走していただけになってしまったかのような印象を受けた。 この作品も初版はカッパノベルスであり、駅のキオスクで売られるであろう版型である。しかし同じノベルスでも東野作品と比べると、作者の力量の差がいやでも解ってしまう。 酷な云い方だが、ブレイクする作家とそうでない作家の違いが如実に解ってしまうような作品だった。 |
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ネス湖畔の村ティモシーで頭を犬の胴体に縫い付けられている死体が発見された。やがて両手両足、胴体などの他の部位が発見され、それらは巨人が引きちぎったような痕跡があった。
その後第2、第3、第4の殺人事件が起きたが、すべて同じ痕跡のバラバラ死体であった。事件発生では魔神の咆哮が鳴り響く事からモーゼの十戒に登場する魔神ヤーハエの仕業かと思われた。偶々現地に居合わせたスウェーデンはウプサラ大学に留学中のミタライ教授がこの連続殺人事件の謎に挑む。 しかし今回の御手洗物は読書の牽引力が小さく、なかなか読み進めなかった。これは語り役が石岡からバーニーという街の飲んだくれアマチュア作家の手によるものだという手法を取っており、文体も変えていたのが大きかったように思う。 今回も島田氏が提唱する21世紀本格としての大脳生理学と本格の融合がなされている。昏睡状態から目覚めた時の記憶の初期化でそれを基に手記を書いた者の錯覚を上手く利用しているのだ。この辺のアイデアは正に島田氏の独壇場とは思すwうのだが、やはり御手洗が大人しく事件に追従するのが退屈で、カタルシスに届かなかった。 こうして考えてみると、御手洗シリーズは事件の奇抜さや驚天動地のトリックよりも御手洗の強烈な個性が作品の魅力の大半を担っているのだなぁと再認識させられた。 しかし今の本格作家でこのようにシリーズ探偵が海外で活躍し、しかも登場人物が主人公以外全て外国人なんてミステリを書くのは島田氏しかいないだろう。 そう考えるとやはり島田氏は双肩する者のいない孤高の存在なのだ。山口雅也氏の云う「日本本格ミステリのボブ・ディラン」は正に的を射ている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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EU版FBI、ユーロポールに所属するプロファイラー、クローディーン・カーターの活躍を収めた短編集。プロファイリングがテーマとなっているので事件はおのずと猟奇性を帯びたものばかりになってしまう。
スペインを舞台に闘牛を模した連続殺人事件が起こる「最後の被害者」。 パリのセーヌ川に次々と浮かぶダウン症患者の溺死体の犯人を追う「屍泥棒」。 オランダで起きた十字架に磔にされたキリストのような十代の若者の死体が連続する「猟奇殺人」。 コペンハーゲンで行われるプロファイリング捜査の国際会議に出席中に起きるハイジャック事件と直面する「天国への切符」。 ベルリンで続発するセックス産業の元締めとその恋人の惨殺事件を扱った「ロシアン・ルーレット」。 フランスのリヨンの山奥でコミュニティを形成する聖人を自称する男と対決する「神と呼ばれた男」。 ロンドンで起きた切り裂きジャック事件を髣髴する婦女強姦事件を捜査する「甦る切り裂きジャック」。 イタリアで続発する麻薬過剰摂取による若者の死の謎を追う「モルモット」。 世界的に有名な興行主の息子が誘拐された事件を元FBIの私立探偵チームと競い合いながら解決に向かう「誘拐」。 ドイツで相次いだ老人宅への強盗犯罪がナチの亡霊を浮かび上がらせる「秘宝」。 獄中の大実業家が自分の身の潔白を証明するために検察に殴り込みをかけ、事件の洗い出しを要請する「裁かれる者」。 そしてベルギーの富豪の息子である人喰い魔を追う「人肉食い」 これらヴァラエティに富み、しかもヨーロッパ諸国にそれぞれ舞台を変えて展開する物語。こうやって書くとかなり面白く思えるのだが、さにあらず、正味30ページ前後の短編では、シナリオを読まされているような淡白さでストーリー展開に性急さを感じた。なぜこのように淡白に感じるかというと、被害者の描写が単なる結果としか報告されないからで、あまりに省略された文章は読者の感情移入を許さないかのようだ。 あと、ちょうど島田荘司氏の『ハリウッド・サーティフィケイト』を読んだ後では、これら猟奇的事件の衝撃がさらに薄まって、驚きに値しなかった。 全12作の中でよかったのはリアルタイムで事件が進行し、タイムリミットが設定された「天国への切符」と真相が意外だった「モルモット」ぐらいか。 現在ではほとんど手垢のついた題材で新味がないというのは事実。 とにかく読中は小説を読んでいるというより、1話完結のプロファイリングをテーマにした連載マンガを見ているかのようだった。仕事仲間のロセッティとフォルカーと主人公クローディーンとの関係が進展しそうでしないのもちょっと肩透かし。このシリーズはまだあるみたいなので今後に期待するか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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耕平&来夢シリーズ最終巻。第3巻を読んだのが1年前なので、ほとんど主人公以外の設定、登場人物を忘れてしまっていた。作者が作中で過去の作品における登場人物の役割を解説していたので記憶を辿る一助となったが、それでもなお完全には思い出せなかった。
これも作者がシリーズを一気呵成に仕上げない事、そしてこのシリーズのキャラクターや設定に魅力がないことが要因だろう。なぜなら同じ作者の銀英伝シリーズや創竜伝シリーズやアルスラーン戦記シリーズ(うっ、これは間が空きすぎてちょっと自信がないかも・・・)では期間を置いてでもキャラクター、設定が蘇るからだ。 本作は最終巻ということで来夢の忌まわしい因縁に決着をつけるストーリーとなっている。来夢が北本氏と失踪する事件が発生し、耕平の携帯電話に正体不明の人物からの黄昏荘園への誘いを受けて耕平がそこへ向かう。道中で一緒になった小田切亜弓と手を組んで来夢と北本氏の救出劇が始まる。 やはりバランスが悪い作品だと改めて思った。ごく普通の大学生としか思えない耕平に能力以上の設定を授けているという印象が拭えず、ご都合主義的なストーリー展開であると思えずにいられなかった。 なぜこのシリーズがこれほどまでにこちらの意識に浸透せず、浅薄なままで読み終わってしまったのか?この疑問について今回1つの答えを見出した。 作者が絶賛する本シリーズのキャラクターデザインを務めたふくやまけいこの絵と田中氏のキャラクター描写が全くマッチングしないからだ。かなりの美少女で描かれている来夢がふくやま氏の絵だと普通の女性キャラで下手をすれば単なる少年にしか見えない。この辺のアンバランスさが非常に居心地が悪かった。 思えば挿絵のない銀英伝シリーズは置いておくとしても、アルスラーン戦記シリーズの挿絵を手がけた天野喜孝氏、文庫版の創竜伝シリーズのキャラクターデザインを手がけたCLAMPはそれぞれ非常に田中氏の描写に対して忠実であり、いや田中氏の描写を凌駕してかなり強い印象を読者に植え付けているように思うのだ。小説に挿絵をするのなら、この辺の先行するイメージというのがいかに大事かを再認識した。 で、結末はなんとも煮え切らないものとなった。特に今まで問いかけてきた田中氏がこのシリーズで書きたかったジャンルというのはなんだったのかも解らず仕舞い。 こんなの書くより、創竜伝シリーズやアルスラーン戦記シリーズをはよ書いて完結せぃ!というのが正直な感想かな。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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実業家マントリング卿の屋敷では「後家の部屋」と呼ばれる開かずの間があった。その部屋で1人で過ごすと必ず亡くなってしまうという呪われた部屋で150年間で4人が犠牲になっていた。アラン・マントリング卿はゆかりの者達にくじ引きで当たった者が2時間過ごしてみるというゲームを行う事にした。
客人として訪れていたベンダーが当選者となり、その部屋で2時間過ごす。15分おきにドア越しから返事が聞こえていたのだが、2時間後部屋を開けるとベンダーは絶命していた。しかも死亡推定時刻は1時間以上も前だという。死体は毒殺の体を成しており、毒もクラーレというアフリカの原住民が吹矢に使用するもので、服用しても何ら危険は無く、皮下注射などで直接血液に混ざらないと効果が出ないものであった。事件に立ち会ったH・M卿も困惑する中、第2の殺人が起きる。 人を殺す部屋とか昔の毒針仕掛け箱の話などガジェットは非常に面白いのだが、いかんせん冗長すぎた。シンプルなのに、犯人が意外なために犯行方法が複雑すぎて、犯人を犯人にするがためにこじつけが過ぎるような印象を受けた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本短編集は島田作品の中では御手洗シリーズに位置づけられるのだろうが、『龍臥亭事件』同様、御手洗は電話のみの登場で実際は石岡と『龍臥亭事件』で知り合った犬坊里美二人の顚末を描いた連作短編集となっている。
まず冒頭を飾るのは犬坊里美が広島の大学から横浜のセリトス女子大に転入して、上京してきて石岡と共に一日横浜見物をする顚末を語る「里美上京」から始まる。これは非ミステリ作品だが、石岡の『異邦の騎士』事件の良子の思い出が里美との横浜散策中にフラッシュバックするあたり、こちらも胸に去来する熱い思いがあった。特に横浜は何度も訪れているので以前『異邦の騎士』で読んだ時よりも鮮明にイメージが蘇り、あたかも里美とデートしているようだった。 その後、幕末に起こった薩摩の大飢饉に遭遇した酒匂帯刀と寂光法師がなぜ生き延びることができたのかという謎を解明する「大根奇聞」と続き、クリスマスに起きた悲劇を語る表題作「最後のディナー」で幕を閉じる。 「大根奇聞」はこちらが考えていた解答の上を行く解決だったが、いささか印象としては弱いか。しかし挿入される「大根奇聞」という読み物の部分は今までの島田作品同様、読ませる。やはり島田氏は物語を書かせると本当に巧い。 「最後のディナー」は今思えば『御手洗潔の挨拶』に所収された「数字錠」を思わせるペシミスティックな作品。 石岡が里美に誘われ、英会話教室に通うくだりはギャグ以外何物でもなく、石岡がこれまで以上に惨めに描かれているのがなんとも情けない。大田原智恵蔵という老人の隠された過去とかその息子の話とか色々な哀しい要素はあったが、今一つパンチが弱かったか。モチーフは良かったのに十分に活かしきれなかった感が強い。これはやはり石岡では力量不足だという事なのかもしれない。 気になったのは「大根奇聞」と「最後のディナー」で石岡がちょこっと話しただけで真相が解る御手洗の超人ぶり。正直やりすぎだろうと思う。これは逆に御手洗というキャラクターの魅力にならなく、あまりに現実離れした架空の人物というにしかとれない。 本作品で見せる石岡の極端なまでの鬱状態はそのまま当時の島田氏の精神状態を表しているのではないだろうかという推測は下衆の勘ぐりだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『本格推理』シリーズも今回が最終巻。とはいえ、このあと編者が二階堂黎人氏に代わり、『新・本格推理』シリーズが始まるのだからあまり感慨は無い。
15冊も巻を重ねて、その中には目を見張るもの、プロ顔負けの巧さが光るもの、素人の手遊び、独りよがりのものと玉石混交という四字熟語が相応しいシリーズだった。 で、今回はといえば、はっきり云って小説として読めたのは石持浅海氏の「利口な地雷」のみだったという印象が強い。もうこれはこの時点においてプロの筆致である。題材も対人地雷禁止条約をプロットに絡ませるなど、他とはオリジナリティが群を抜いており、読み物として非常にコクがあり別格の出来映えだ。 その他には読み物として「六人の乗客」が読み応えがあった。バスの横転事故の際に耳を切られそうになるという奇事に見舞われ、それが悪夢となって夜毎うなされる1人の女性。顔は知りつつも名前も知らないいつも乗り合わせる乗客たちがなぜ事故の時に憎悪に満ちた顔で彼女の耳を取ろうとしたのかというのがこの物語の焦点。正直、六人の乗客の造形、書き分け方が見事であり、ホラー仕立ての先の読めないストーリーにわくわくしたが、耳を切ることの必然性が全然無くてがっかりした。さんざん耳の切断の謎で引っ張っておいてあの真相はないだろう。 その他、やや感心したものの全面的に納得できなかったものを挙げていく。 「情炎」は二重三重に真相が明かされるのはなかなかなのだが、溶剤を隠したいという理由がよく判らなかった。具体的にどんな溶剤を使っていてなぜそれが犯人究明の手掛かりになるのか、明確にしてほしかった。あとこの作者は文章が上手いと自負しているようだが、自分に酔っており、それが鼻についた。 「丑の刻参り殺人事件」は犯行時刻に容疑者がTV局の隠し撮りに遭っていたというシチュエーションは最高だったが、大掛かりな機械トリックにがっかり。 特筆するのは実は13編中これだけなのだ。 以前から感想で述べているように未だに素人なのにシリーズを作り、しかも名探偵を設定するマスターベーションが続いている。これが実に不愉快。金出して読む者に対し、無神経さを感じる。 辛辣すぎるかもしれないが、シリーズ最後で有終の美を飾れなかったというのが正直な感想である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のカー作品。しかも昔『毒殺魔』という題名で創元推理文庫から出ており長らく絶版となっていた幻の作品の改訳版である。1996年に国書刊行会から出版された物の文庫版である。
幻の作品ということでイコール傑作という発想が浮かぶが果たしてそうではない。 物語はシンプルで、婚約者がある病理学者により稀代の毒殺魔であることを知らされる男が主人公である。毒殺魔であると告げられた直後に学者は銃で撃たれ、しかもそれは婚約者が誤射した弾だった。この偶然が主人公に、もしかしたら本当に毒殺魔ではないだろうか?という疑惑を持たせる。 ここら辺のストーリー展開は見事で、しかも彼自身が毒殺される恐れがあるという設定も面白い。 その後、誤射された弾は単なるかすり傷に過ぎなかったことが判るのだが、なんと学者は青酸カリを注射して(されて)死んでしまう。ここに至り作者はさらに婚約者が毒殺魔ではないかと畳み掛ける。 ここら辺は実にカーらしい展開なのだが、なんとももって回った文章が多く、読みにくいことこの上なかった。 文庫として手に入りやすくなった今はもとより、絶版本である本作を古本屋巡りの末に手に入れ、読み終えたとき、その人はどのような感想を得たのだろうか? 私ならば果てしない徒労感がずっしりとのしかかって来るに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アイリッシュ=ウールリッチの詩的で叙情的な文体はタイムリミット物のサスペンスに緊迫感だけではなく、美酒を片手に飲みながら物語を読んでいるような陶酔感を与え、豊穣な気分をもたらしてくれるのだが、それが曖昧模糊とした雰囲気を纏っているせいもあり、時には物語の進行を妨げるファクターにも成り得る。
本作はそれを実証したかのような作品だ。 今回アイリッシュが用意した設定はこのようなものだ。 仕事の帰り道で偶然出くわした自殺間際の女性を刑事ショーンは間一髪で助ける。事情を聴くと、父が死に直面しているのだという。父はひょんなことからある予言者と出逢い、彼の信望者となっていた。その預言者トムキンズは人智では説明できないような力を持っており、彼の予言は全て当たった。ある日、トムキンズは女性の父親ハーラン・リードに3週間後に獅子に喰われて死ぬという予言をする。その娘ジーンは夜が来るたびに死に近づく父に絶望し、川に身を投げようとしたというのだった。ショーンは上司マクマナスと共にハーラン・リードを予言から守ることを決意する。予言を阻止すべく必死の捜査、護衛が始まった。 どうだろう? 通常であればアイリッシュならではの独創的なプロットだと感嘆するのだが、今回は物語を構成するそれぞれの材料に無理を感じてしまうのだ。 まずジーンが川に身投げする動機があまりにも浅薄で頼りない。この自殺未遂がきっかけで警察に助けてもらうようになるのだから、結構重要な因子であるのだが、純文学的といおうか、何とも摑みどころのない動機ではないか。 次に“予言を阻止すべく警察が捜査・護衛に当たる”。実はここで私はかなり引いてしまった。 通常、警察とは事件が起きてから捜査に乗り出すものである。事件を未然に防ぐための予備捜査・予備護衛は警備会社とか小説では私立探偵の仕事になるだろう。ここのリアリティの無さでこの小説の内容には没頭する興味を80%は失ってしまった。 これ以降、物語は退屈を極めてしまった。アイリッシュのいつもの文体が事件の確信を直接に触れず、婉曲的に周囲を撫でつけているように感じ、もどかしくなり、また予言が現実となるその時までの主人公と親子3人の重圧感ある心理的駆け引きの模様は単純に暑苦しいだけである。 恐らく今まで読んだアイリッシュ=ウールリッチ作品の中にもこのように設定それ自体にリアリティが欠如していたものがあったかもしれない。しかし今までの作品にはその瑕疵を感じさせない「説得力」があったように思う。 今回はそれが無かった。詩的な題名も読後の今はもはや虚しく響くだけである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東京創元社のドイル・コレクション第一集。
第一集に「王冠とダイヤモンド」、「まだらの紐」の2つの戯曲を冒頭に持ってくるあたり、かなりの冒険だが、試みとしては成功していない。これを純粋に愉しめるのは恐らく生粋のシャーロッキアンだけではなかろうか。戯曲はやはり芝居で観るから愉しいのであって、これをシナリオで読んで愉しめるのは彼らか好事家しかいないだろう。実はこの本を購入するのをずっと躊躇っていたのがこの戯曲が原因だった。 購入の動機となったのはコレクション第二集に収められた未読短編に触発されたからで本書も短編集未収録作品である「競技場バザー」、「ワトスンの推理法修業」、「ジェレミー伯父の家」、「田園の恐怖」を読むために他ならない。 既読の「消えた臨時列車」、「時計だらけの男」はほとんど内容を忘れており、新鮮な気持ちで読めた。前者は二人の男を乗せた臨時列車が目的地に着く前に消失するというもので、その事件が当時世間を騒がせていたフランス政府の醜聞に大きく関わっていたという構成は現在でも十分読むに値する設定だし、島田荘司氏の原点を見たような気がした。 後者は列車に駆け込み乗車をしたカップルと隣にいた男が途中で消失し、残っていたのは見知らぬ男の死体だったという事件の背景に隠れた人間模様を描いた作品。ホームズ物の長編に見られる事件解決後の事件に至る経緯を語る中篇のような話でドイルお得意のパターン。 こうして読むと第二集でもそうだが、ドイルは事件の故人や真犯人の手記で語らせるパターンが非常に多い。短編はほとんどがこの趣向である。量産作家であったが故のワンパターンに陥っていたのかもしれない。 ともあれ、コレクション中最も魅力のなかった第一集がこれで読了したので今後はまだ見ぬ傑作に巡り合う事を大いに期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ドイルのホームズ物でない短編集。東京創元社はドイル・コレクションと銘打ってシリーズで5集刊行した。これはその第2集。
収録作品のうち、「大空の恐怖」、「北極星号の船長」、「樽工場の怪」、「青の洞窟の恐怖」、「革の漏斗」は新潮文庫の『ドイル傑作選』シリーズで既読だが、その他6編は未読作品で今回購入の動機となったのもこれらが気になったため。 今回収められた作品は大きく分けて3つに大別できると思う。①「怪物譚」と②「超常現象物」と③「奇妙な味物」。①は初めの方に収められている「大空の恐怖」、「北極星号の船長」、「樽工場の怪」、「青の洞窟の恐怖」の4編が該当し、②は「革の漏斗」、「銀の斧」、「ヴェールの向こう」、「火あそび」、「寄生体」の4編、③は「深き淵より」、「いかにしてそれは起こったか」、「ジョン・バリントン・カウルズ」の3編が当たる。 ①はそれぞれ高空領域、北極、未開の島、洞窟と未知の領域が多く潜んでいた時代において誰も見たことのない怪物が潜んでいる、誰も遭遇したことのない奇怪な現象に囚われるといった古式ゆかしい形式のお話。②は過去の因縁がを宿した物や降霊会によって起こる奇怪な現象といった内容でこれも特に目新しいものでもない。③は偶然によって起こる出来事や皮肉な結末、悪女譚といった理屈を超越した話。これも19世紀ごろでは斬新だったのだろうが、今となっては・・・という域を脱していない。 総合的に判断すると、一昔前の怪奇短編集と評せざるを得ない。個人的には最後に読んだ「寄生体」が興味本位でかけられた催眠術が次第に主人公の主体性を乗っ取られていく様子をつぶさに語っており、現代にも通じる怖さを持っていると感じた。特にラストの主人公が催眠術師を殺害しに行ったときに当人が既に亡くなっていたこと、道中、教授仲間の一人とすれ違ったことが色々な想像を巡らさせられ、手法としても優れていたように思う。 またホームズ物がワトスンの手記であるように基本的にこれらの短編もドイルは誰かの手記、日記といった一人称記述物の体裁を取っており、おそらく作者自身、これが作品にリアリティをもたらすものだと考えているようだ。確かにクライマックスまで徐々に徐々に盛り上げていく効果はある。 今回の短編集シリーズは多分にコレクターズ・アイテムになるであろうが、まあ、「五十年後」といった優れた作品もあることだし、ドイル作品コンプリートの一環としてこれから付き合っていこう。 |
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