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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数119件
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国名シリーズの後に書かれた3作は通称ハリウッド三部作と呼ばれているが、本書はその第一弾。ハリウッドに脚本家として呼ばれたはいい物の、特に催促もないので時間を持て余していた彼が富豪の殺人事件に挑むというもの。
従って本書では撮影現場の華やかさとか映画産業の喧しさとかは全く描かれていないため、ハリウッド三部作といいながらも全くハリウッド色を感じさせない。 さて今回エラリイが挑む事件はたった一つ。ある富豪の不可解な死。 犯行時刻に現場にいたのは富豪の息子なのだが、たまたま富豪の共同経営者のオーバー―この云い方ももはや死語ですな。今判る人はいるのだろうか?―を間違って着て行ったため、破産宣告を受けた共同経営者が容疑者となってしまうというもの。しかしなぜか共同経営者は頑なに富豪の息子をかばおうとする。彼が娘の婚約者だからという理由だけでは理解しがたいほど頑なに。 本当のことをしゃべれば自分は救われるのになぜか話さないというのは後の傑作『災厄の町』でも見られた手法だ。本書は出来栄えからしても『災厄の町』の下地となった作品という風に解釈できる。この作品があったからこその『災厄の町』なのだと云い直してもいいくらい既視感を抱いた。 さて今までのエラリイは父親のリチャードがニューヨーク市警の警視という立場を利用して門外漢ながらも警察同様に現場にずかずかと立ち入り、捜査をし、あまつさえ証拠品を隠蔽したりとおよそありえない所業を繰り返していたのだが、父親の威光が届かないここハリウッドでは、ヒラリイ・キングと名乗り、事件の渦中にいる共同経営者の娘が親族しか判らない犯罪の内幕を新聞記事として毎日連載するお手伝い役―お目付け役―として新聞記者に雇われて一介の記者に扮して捜査に携わるという設定を取っている。これはなかなかに面白いアプローチだと思った。 そして事件の発端であり、背景となるのがインサイダー取引、粉飾決算といった21世紀の今でも行われている犯罪であるのも興味深い。しかしこの後の『靴に棲む老婆』でも書かれていたが会社の社長が自身の会社の経営状況が悪いと知ったことで株を売るという行為に関しては罰せられるような記述がない。まだ株取引が法的に厳密に取り締まわれていなかったのだろうと推測される。 今回の事件は地味で、なかなか前に進まない印象を受けた。事件は早々に起きるものの、真犯人を特定する証拠、証言に手間取り、またレッド・ヘリングのためか全く関係のないエピソード―特に専任弁護士ルーヒッグと故社長の被保護者ウィニの結婚の件は全くといっていいほど事件には関係がなかった―が挿入され、右往左往しているだけと感じた。 また今回の犯人は判ってしまった。 もちろん犯人へと至るエラリイのロジックは相変わらず冴えており、事件の容疑者に当て嵌まる条件から消去法でどんどん犯人へと絞り込んでいく。 しかし残念ながらこの作品に書かれているようには今では犯人は捕まらないだろう。それは全て状況証拠に過ぎないからだ。こういった推理だけならば今の読者は納得しないだろう。作者クイーンの詰めの甘さをどうしても感じてしまう。 個人的には本書読書中は出張もあり、精神的にキツイ仕事のため、尾を引くところがあって読書を存分に愉しむ精神状態ではなかったのだが、それでも作品としては小粒だと思った。 題名の意味も最後になって恐らくあのことなのだろうなとは想起させられるものもあるが、合っているかどうかは判らない。 もう少し事件とストーリーに起伏があれば楽しめただろうに、と勿体無さが先に立つ読後感だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジョン・レノンが生前主夫生活を送るのに軽井沢に逗留していたのは有名な話だが、本書はジョンが軽井沢で送っていた4年間の逗留生活にスポットを当てたお話である。
ジョンが名作“ダブル・ファンタジー”の創作のきっかけを掴むまでに至る魂の逍遥とでも云おうか。 なお作中のジョンの妻の名前や曲名などが微妙に変えられている(作中ヨーコではなくケイコ)。この辺は大人の事情なのだろうが、実に座り心地の悪い読書を感じさせ、もどかしかった。 まず延々ジョンの便秘が解消されない問題が続くこと。排便シーンがいくつもあり、もしかしたらこんなにトイレで排便するのを語った小説はこれが初めてではないだろうか? ジョンが便秘と格闘し、苦悶する姿は滑稽でありながら実に面白い。特に病院で与えられた特大浣腸の件は爆笑してしまった。 またそのシーンで挿入されるアビー・ロードスタジオでいつも排便していたことやコンサートで『I Feel Fine(作中ではI Feel So Fine)』演奏中に便意を催して青い顔で熱唱したなどのエピソードがあるが、果たして本当だろうか? 実はこの便秘がこの小説のキーだとは思わなかった。この便秘が解消されることがジョンの悔恨からの解放に繋がるのだ。 これはモデルとなったジョン・レノンを思わせる―というよりもほとんど彼なのだが―主人公が登場することからノンフィクションもしくはドキュメントのような印象を持ってしまうが実は幻想小説なのだ。 ジョンが出会うのは若気の至りで行っていた強盗の際に誤って殺したと思っていた水夫だったり、昔の彼女の母親だったり、バンド時代のマネージャーだったり、と彼が傷つけてきた人々たちだ。 一応物語の中盤でこの邂逅についての理由は付けられるが、この理由を凌駕してジョンとケイコ、そしてドクターとその助手を巻き込んで死者との接触がなされていく。 これこそ奥田氏がやりたかった、バランスの取れた物語の枠組みを超えるということではないだろうか? しかし個人的にはどうにも盛り上がりに欠け、面白みに欠けた。なぜならずっとジョンが便秘に悩まされるシーンが続くからだ。 ドクターと話す内容も便秘だし、排泄に四苦八苦するシーンが何度も繰り返され、いい加減にしろ!といいたくなるくらいだからだ。これが後に稀代のストーリーテラーとなる奥田氏のデビュー作とは思えないほど盛り上がりに欠ける。 ジョン・レノンに纏わる逸話や実話、エピソードを消化して彼の人生と創作のキーとなる母親という存在、そして息子を上手く絡ませて幻想小説を紡ぐという発想は買えるものの、もう少しエンタテインメントによって欲しかった。 私は今は閉館したジョン・レノン・ミュージアムにも行ったくらいのファンだが、それでもなかなかこの物語にはのめりこめなかった。特に先にも書いたが諸般の事情からか有名なビートルズの歌やジョンの歌も歌詞も微妙に変えられているし、核心の手前で妙な幕で一枚仕切られて一番触れたいところに触れられない忸怩たる思いを終始感じたからだ。オノ・ヨーコが本書を読んでどう思うのか(思ったのか)、知りたいものだ。 ところで本書で出てくるアネモネ医院の心療内科の先生は後の伊良部先生に繋がるのだろうか?そう考えると今の奥田氏の原型はすでにここにあったのだろう。そう考えると奥田ファンこそ当たってほしい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『チップス先生さようなら』で有名なヒルトン。彼の作品は彼のミステリ『学校の殺人』を読んだのみだが、このたび久しぶりに新刊文庫にその名前を見つけたのが本書。
歴史的傑作冒険小説とまで云われているのに惹かれ、読んでみた。 本書は作家ラザフォードが学友コンウェイから船上で聞いた話を著した物語という体裁を取っている。 容姿端麗、学業優秀、おまけに運動神経も抜群で性格も明朗と絵に描いたような好青年でオックスフォードでも名を馳せていたコンウェイをラザフォードは中国の修道院で再会する。その彼の姿はかつての栄光はいずこかと思われるほど、憔悴したものだった。そのコンウェイを介抱し、快復してから日本を経由してサンフランシスコへ向かう汽船上でコンウェイが話した彼が体験した数奇な冒険の内容が本書の物語だ。 政情不安定な地を飛行機で脱出する際、パイロットが何者かに倒され、見知らぬ者が操縦する飛行機で連れてこられたのがチベットと思しき極寒の山中。近くにあるのは寺院シャングリ・ラ。そこでは誰もが年を取るのを忘れ、自らの欲する物を追求し、極めることの出来る楽園。チベットの山奥という環境ながらあらゆる作物が実る渓谷があり、時折訪れる中国からの運送屋から近代的な物も入ってくる。 好むと好まざるとに関らず、そんな辺境の地に連れてこられた4人の男女は当初は一刻も早い帰国を望んでいたが、次第にこの楽園を律する中庸という考え方とある程度の不便を我慢すれば、己の欲するところに心を向け、没頭でき、衣食住には困らず、悪人もいないシャングリ・ラに定住しようと心変わりしていく。 本書の主人公コンウェイは4人の中でもシャングリ・ラの最高位に当たる大ラマにも認められ、次期大ラマへと推挙されるほどになるのだが、同僚のマリンソンに説得され、考えを180度変え、シャングリ・ラを後にする決意をする。 いち早くシャングリ・ラの環境に適応し、魅了されていくコンウェイと、世俗の考えを捨てきれず、ひたすらにシャングリ・ラからの脱出を願う若きマリンソン。 本書の読みどころはこの対照的な2人の考え方がぶつかり合うところだと云っていいだろう。 先に書いたが、そういう意味ではこれは冒険小説ではなく、思想小説の類に近いのではないだろうか。物語の導入部こそハイジャックされるというサスペンスがあるものの、物語の大半は楽園シャングリ・ラで繰り広げられる。 西洋人の面々が東洋の仏教の考えに直面し、次第に感化されていくさまは、作者ヒルトン自身の趣向が反映されているのかもしれないが、発表当時は斬新だっただろう。 この不思議な感覚の物語。読後の今、まだ自分の中で纏まらない想いがある。ちょっとしばらく考えてみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
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僅か270ページの分量に18もの作品が収録されたクイーンのショートショートミステリ集。しかもそれぞれ犯罪別の課に割り当てられた事件だという懲りようだ。
まずは恐喝課の事件「金は語る」。 イギリスから移住してきたミス・アルフレードというのが推理の鍵だが、イギリス英語とアメリカ英語の違いは日本人には解らないだろう。英語母国圏の人に通ずるミステリではある。 次は偽装課の事件「代理人の問題」は世紀の対決と云われるボクシングのタイトルマッチを控えた1時間半前に挑戦者が誘拐されるという事件が起きる。 身代金引渡しの代理人として指名されたエラリイは何とか犯人を捕まえようと明晰な頭脳を働かせる。これは少し注意をして読めばわかったであろう真相だ。 ネタ的には「金は語る」同様、物に関する呼び方の違いが事件解決の手掛かりになっている。 不可能犯罪課の事件「三人の寡婦」は遺産相続を待つ姉妹の障害となる義理の母親が毒殺されるのだが、その毒がいかに盛られたかを探る問題。 これは一見あざといと思われるが、よくよく考えると作者は細かいところまで仕掛けを施している。 こんな課があるのか寡聞にして知らないが珍書課が手がけた事件「変わり者の学部長」はシェイクスピア研究の権威であるニューヨークのとある大学の教授ホープ博士が見舞われたある災難のお話。 これは個人的ベスト。謎は比較的易しく、正直一瞬にして犯人は解った。 しかし何よりもホープ博士が無意識に発するスプーナリズムという2語以上の単語の最初の音を互いに入れ違って発音する癖が非常に面白い。この癖で通常の言葉がかなり変わった内容になってしまうというのだ。もちろん真相もそれを見事に手掛かりにした物で、さらに題名の原題さえもその言葉遊びに徹しているクイーンの遊び心が憎めない。泡坂妻夫氏が書きそうな一編だ。 ミステリと云えば必ず登場するのが殺人課。彼らの事件「運転席」は鉱山会社の共同経営者である3兄妹が亡き長男の妻に株を買い占められ、退任せざるを得なくなった状況下で起きた未亡人殺人事件の犯人を探るもの。 本書では明記はされていないものの、解決場面の前に一行、間が開けられており、これが暗に問題編と解決編の分水嶺になっていることを示しているのだが、本書においてはそれが機能していない。 公園巡視課という実在するか判らない部課の事件が「角砂糖」だ。 日本のドラマに出てきそうな未解決事件課の事件「匿された金」は強盗が仲間から騙し取ったお金を巡る事件を扱っている。 チェスタトンのある有名な短編を想起させる真相だが、あまりに唐突過ぎる。たった10ページで語らずにもっと分量を割いてほしいところだ。 ここまで来ると何でもあり感が漂う横領課の事件を扱ったのが「九官鳥」。 クイーンでは初ではないかと思われる倒叙物のテイストを含んだ作品。しかし推理の材料が犯行直前に行われたトランプによるくじ引きで誰が指名されたかで糾弾されるのはなんとも非現実的。もっと調べることがあるだろう!と思わされる作品だ。 これは絶対ないだろう、自殺課は。そんな課が扱った事件が「名誉の問題」。 過去の手紙が事件の引き金となる。これは正に『災厄の町』の原型、もしくは同じ主題を扱ったアレンジ作品だ。しかしやはりショートショートゆえに醜聞となりうる手紙の内容そのものには触れず、バークの犯人探しに終始する。バークが遺した文章が手掛かりとなり、犯人が特定されるが、冒頭の1篇「金は語る」同様、アメリカ英語と英国英語の違いが推理の鍵となるのは二番煎じの感が否めない。こちらの方が解りやすいのはあるが。 エラリイが久々にライツヴィルに還って活躍するのが「ライツヴィルの盗賊」。担当は強奪課だ。 本書中、最長の作品(とはいっても30ページ強だが)。やはりクイーンはライツヴィルが舞台となると熱くなるのだろうか。あとやたらと登場人物が頻出し、途中で訳が判らなくなってしまった。 詐取課の事件は「あなたのお金を倍に」という詐欺の事件。 詐欺師の事件を扱いながらも密室消失事件が謎というのはいかにもクイーンらしい。そしてこのトリックはシンプルがゆえに効果的だ。また詐欺の手口もシンプルなゆえに21世紀の今でも行われていると言う意味では今日的ではある。 ここまで来るともう驚かなくなってくる。埋宝課の事件「守銭奴の黄金」はポーの「盗まれた手紙」へのオマージュだ。 壁一面、もしくは床一面に貼りめぐらすという至極単純な解答を予想していたが、作中でも云われているようにこれはポーの「盗まれた手紙」へのオマージュ。つまりいつも目のつくところほど気付きにくいという盲点を利用したトリック。 もはやハリー・ポッターの領域である、続く魔術課の事件は「七月の雪つぶて」。 列車消失という大ネタを用意しながらいささか内容が弱い1作。最後の台詞も効果的だとは思えない。 すごく限定された犯罪の課、儀相続人課の事件「タイムズ・スクウェアの魔女」はタイムズ・スクウェアの魔女と称される女性が疎遠になった唯一の血族である彼女の甥に遺産を相続しようとした途端、甥だと名乗る2人の男性が現れるという話。 唯一“読者への挑戦状”が挿入された1編だが、その謎解きはフェアとは云い難い。 不正企業家の事件「賭博クラブ」もまた詐欺事件がテーマだ。 これも事件の真相よりも詐欺の手口の方が面白い。正直犯人が誰なのかはどうでもよくなってしまった。 ここまで来ると噴飯物の課、死に際の伝言課の事件は「GI物語」。老人が残したダイイングメッセージ、“GI”の意味を解き明かす。 GI=軍隊上がりというのはあまりに陳腐だからさすがにそれを作者はしない。クイーンはダイイングメッセージ物を数多く著しているが、本書もそのヴァリエーションの1つ。 最後から2番目にして久々に実在する課が現れた。麻薬課の事件「黒い台帳」は有力な麻薬売人を記した黒い台帳の移送を頼まれたエラリイが拉致され、丸裸にされたにもかかわらず、件の台帳が見つからなかった謎が挙げられている。 最後、誘拐課の事件「消えた子供」は利発でありながら家庭環境に恵まれない子ビリー・ハーパーの誘拐事件を扱ったもの。 これは誘拐事件の新聞記事を見て覚えていた書面をそのまま書いたというエラリイのロジックの妙に感心した。しかもたった7歳の子が犯罪を犯すというのは彼自身のある傑作を想起させる。 本書はクイーンによるミステリ小ネタ集と云っていいだろう。恐らく長編に成りえなかった事件のトリックを上手く料理して、正味10ページぐらいのミニミステリにしている。確かにそれぞれの事件は小ネタ感は拭えないものの、アイデア一つでは長編になりうるネタも揃っている。 本書における個人的ベスト作品は「変わり者の学部長」だ。とにかく物語の設定にも使われていた単語の一番上の子音と母音を入れ替えて話をするスプーナリズムという症状が非常に面白く、ためになった。 またミステリ界の巨匠とも云える有名な作品へのオマージュがそこここに見られるのも特徴的か。 「匿された金」はG・K・チェスタトンの「見えない男」の影響を感じるし、「守銭奴の黄金」はポーの盗まれた手紙の主題そのままだ。他にもどちらが卵で鶏か知らないか、クイーン自身の作品をモチーフに扱ったものもあった。例えば「名誉の問題」は「災厄の町」、「消えた子供」は「Yの悲劇」といったように。 ただ『犯罪カレンダー』でも感じたことだが、収録された作品のアイデアに非常に似通った物が複数あり、どうも一つのアイデアをヴァリエーションを変えて使用しているように感じた。やはりクイーンは意外と手札が少ないのではと思ってしまう。本書でもその傾向があったのは否めない。 そして今回は日本人にはいささかピンと来ない、解りにくい真相が多かった。 特に英国と米国の文化の違い、言葉の違いが推理のきっかけになっているものが散見され、せっかくの真相がやや腰砕け気味になったのは残念な思いがした。 あとページ数が少ないがゆえに1編あたりの情報量が多かったのも気になった。おかげで6割ぐらいの話がよく読み取れなかった。 恐らくはクイーンは『ミニ・ミステリ傑作選』というアンソロジーを出していることからも、彼自身がこの手のショートショートミステリに興味を持ち、且つ自身でも創作してみようと思ったことが本書の基となったのではないかと推察できる。 ただやはり今の日本本格ミステリは長編、短編共にクオリティが高い為、完成度という点ではやはり劣ってしまう。私の場合はもう免疫が出来ているせいもあって、こんなものだろうと済んでしまうのだが。なかなか人には勧めようと思わない1冊であることが残念だ。 ただ多少、いやかなり強引かと思われる警察の担当課をあてがって検察局の犯罪記録として編んだ構成はやはりただの短編集では面白くないという作者の稚気が見えて、やはりこの作家は晩年になってもとことんミステリが好きだったのだなと思うと、憎めないわけではあるのだが。 しかし挙げられた課の名称は大仰で脱線気味の感が強かった。逆にそれが制約となって注目すべき謎よりも、その周辺の瑣末なことが推理の対象になってしまったのではないかという勘繰りもしてしまう。 やはりたった約270ページで18編は多かった。もっと精選した短編集を次回は望みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジェフリー・ディーヴァー自身が作家生活の転機となった作品と評したのが本書。精神病院を抜け出した患者マイケル・ルーベックの逃走とそれを追う者たち、そしてマイケルを恐れる者たちの三者三様の物語。
追う者と追われる者という設定から往年のクーンツ作品を思い出した。 邪教集団トワイライトの襲撃』、『ウォッチャーズ』など彼の傑作はこの手の作品が多い。従って本書もその出来栄えを期待したが、それらと比べるといささか劣るというのが正直な感想。その先入観だけでなく、本書は随所に「クーンツらしさ」というのがそこここに見られる。 最も顕著な特徴が上に書いた逃走する者とそれを追う者の二極構造を描いたロード・サスペンス的物語構成であるが、それ以外にも敵役であるマイケル・ルーベックの造形。巨躯で怪力を誇り、精神分裂症にもかかわらず、機転で追っ手を撒くしたたかさを持っている。 またルーベックを追う者のうち、元警官のトレントン・ヘックは犬を飼っており、このエイミールという犬に絶大なる信頼を持っている。彼がエイミールを飼うに至ったエピソードは警察犬のブリーダーとしての知識を得られると共に、恐らくほとんどのブリーダーが抱いている思いをも代弁しているかのようだ。 この犬が物語のアクセントになっているのもクーンツ色を感じる。そう、まるでクーンツが著した『ベストセラー小説の書き方』をテキストにして書いたような錯覚を受けた。 ただ違うのはクーンツの敵役はこの上もなく強大な力を持ち、残忍で己のルールに従い、何者も寄せ付けない圧倒的な強さが強調され、主人公は果たして助かるのか?とハッピーエンドで終わることを予想しながらも読者は今度こそはダメなんじゃないか?と思わさせられるが、ディーヴァーの描くルーベックは精神分裂症で実はかなり臆病であり、リズに逢う目的のためにそれらをどうにか克服していこうとする。つまり敵役としてはさほど脅威ではなく、寧ろ社会的弱者ですらあるのだ。これがディーヴァーの味付けだろう。 さてこの追われる者、追う者、そして恐れる者それぞれに事情があるのは物語の定石だ。 追われる者、マイケル・ルーベックはインディアン・リープ事件で逮捕された犯罪者だ。彼は精神分裂症患者としてマーズデン州立精神病院に収容されていたが、そこを脱走し、追っ手を狡猾な知恵でまき、時には巨躯から繰り出す腕力でなぎ倒す。 追う者たち、精神科医リチャード・コーラー、元警官トレントン・ヘック、弁護士オーエン・アチスン。彼らはそれぞれの事情でルーベックを追う。 コーラーはルーベックの担当医であり、彼を保護し、被害が拡大する前に捕らえて病院へ戻そうとする。 ヘックは病院から提示された1万ドルの賞金を元手に別れた妻ジルとよりを戻すことを求めて彼を追う。 しかし次第にその目的も変容していく。オーエンは妻リズをルーベックの魔の手から守るべくルーベックを仕留めんがために彼を追う。 恐れる者、リズ・アチスンとルーベックを繋ぎ合わせているのは彼女がルーベックの裁判で証言したインディアン・リープ事件だ。このインディアン・リープ事件が何なのか?この真相はずっと引っ張られる。 さらにマイケルが唱える“イヴ”とは何なのか? まず物語のキーとなるインディアン・リープ事件だが、これは上巻から下巻に渡る中間部でその内容が語られる。 それはリズとオーエン夫妻が当時近所付合いをしていたギレスピー夫妻とリズの教え子のクレア、そしてリズの妹ポーシャと共にインディアン・リープへピクニックに行った際に起きた忌まわしい事件のことだ。 彼らはそこでロバート・ギレスピーとクレアを洞窟の中で亡くすという惨劇に出くわし、そこの現場にいたのが当時放浪中の身であったルーベックだった。そしてリズは裁判でルーベックが有罪となる証言をし、精神疾患を鑑定されたことでルーベックはマーズデン州の精神病院に収監されたのだった。 しかしこの物語の反転はディーヴァーにしてはなんとも普通な感じがして仕方がない。ページの手を止めるような驚きもなく、なるほどねのレベルで終わってしまった。 冒頭にも書いたがディーヴァー自身が作者人生の転機となった作品と述べたことで期待値を高くして望んだが、その出来栄えは凡百のミステリと変わらず、寧ろそれまでのディーヴァーの作品の中にもっと光るものがあったように感じた。 次の作品にディーヴァーマジックを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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最愛の人が政情不安定な異国の危険地帯で拉致されたら貴方はどうしますか?
本書の主人公ジャネット・ストーンはCIAや関連組織に連絡を取ってもなしのつぶてだったため、マスコミと政治家を味方につけ、世論を巻き起こし、さらに若き女性のみでありながら単身、現地へ乗り込むことを選択する。 そうした時に起こりうる利害関係者が取る対応について知るのにうってつけの小説と云えるだろう。CIAの慇懃無礼な対応や現地大使館、現地警察の圧力など非常にリアルに迫ってくるものがある。 過去に夫を肝臓癌で亡くし、そのときに何もしてやれなかった無力感がジャネットのレバノン行の原動力となっているのはわかるものの、非常に脇の甘い女性だなぁと終始思ってしまった。 レバノン渡航へのつてを得ようと、現地の詐欺師に簡単に騙され、一万ポンドのもの大金を簡単に渡してしまうわ、漁師たちの船に若い女性の身でありながら単身で乗り、強姦されそうになるわと、作中でキプロスの刑事がいうように「甘やかされた、金持ちの、愚かな女」で、「安っぽい小説の主人公のようにふるまっている」のだ。 この台詞は本書が安っぽい小説だと作者が自虐的に述べているようにも読み取れるがさすがにそれは穿った読み方か。 しかしハーレクインとして発表されてもおかしくないほど典型的なロマンスミステリではないか。フリーマントルが別名義で発表した作品かと思ったが、調べてみると違っていた。 ジャネットの年齢は明記されていないが、前夫との死別を経験していることから、おそらくは20代後半から30代前半と推測できる。つまりは分別のついた大人の女性であるはずなのだが、何かにつけ女性蔑視だと決め付け、それに対し激しく嫌悪し、激怒する。特に微妙な国際間の緊張を孕んでいるだけに無難かつ穏当に拉致事件を処理したい政府側に対して常に喚き、強引に関わろうとする。 さらに読み進めるにつれ、ジャネットはジョンの救出に力を貸すフリージャーナリストデイヴィッド・バクスターと恋に落ち、愛を重ねるようになるのだ。この辺、それまでのジャネットが経験してきた辛い仕打ちを考えれば、ようやく辿り着いた拠り所となるのだから判らないでもないが、救出するのが婚約者であることを考えると、どうにも共感できかねる背徳行為だと云わざるを得ない。 フリーマントルには『ディーケンの戦い』という誘拐された妻のために夫が奮闘するという小説があるのだが、本書の展開はその作品のやるせなさと救いのなさを思わせる。このような似た趣向の趣向の作品を2作も書いているフリーマントルは男女の真実の愛なんてものは存在しないとはなどと鼻であしらっているように思える。 以上のような性格だから、このジャネット・ストーンはなかなか読者の共感を覚えるキャラクターではなく、境遇は解るものの、物分りの悪い上昇志向の自意識過剰のヒステリックな女性としか見えず、応援しようと思えないのが本書の欠点だろう。 さて本書のタイトル『裏切り』。実に素っ気無い題名だが、この本には数々の裏切りが含まれている。 まず夫ジョンのジャネットに対する裏切り。職業が実はCIA工作員だったことを婚約者ジャネットに隠す。 まあ、これは裏切りと捉えるかは微妙なところだろう。文中にもあったがスパイは職業柄家族にも自らの職業については伏せておくようだから。 さらにジャネットの金を狙って次々と協力を装い、大金をせしめようとする詐欺師ども。これも裏切りだ。 そして最大の裏切りはジャネットのバクスターへの愛情だ。その他ストーリーが進むにつれてCIAのジャネットを利用した作戦やバクスターが実はモサドの工作員で自分達の捕虜を奪還する為にジャネットの愛情を利用して取引する作戦など、裏切りとも取れる物は数々ある。 しかしこういった諜報物にはこの手の二重三重のカバーストーリーは付き物だから、上のように書いていてもしっくりこない。通常諜報物にはFBI、CIA、KGBやSISなど情報を操作することに長けた人物達しか出てこないが、本書はそれらの人物に素人の女性が関わっているところが特徴なのだろう。 つまり一般人にとって彼らのやる情報戦やカバーストーリーは裏切り行為としか取れないのだ。 が、やはりタイトルの真の意味は最後にジョンが語る、自身を正気に繋ぎ止めておいたジャネットへの想いを読むと、ジャネットの浮気以外何ものでもないことは明白だ。 さて冒頭に書いた問いかけの答えとなりうる手法がここには書かれているが、マスコミ、政治家を利用するというのは実に普通だったなと思ったものだ。もう少し捻りが欲しかったが、一個人が同様の事態に陥ったときに取るべき行動の指南書としては参考になるだろうと思う。 しかしどうしてフリーマントルはこういう後味の悪い作品を書くのだろう?英国人はこういう苦いジョークが好きなのだろうか。不思議でならない。 |
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【ネタバレかも!?】
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実に摑みどころの無い事件である。
最初に心臓病で死んだ隠遁生活を送っていた老人に端を発した事件はその後、実業家の自殺へと続き、“町の乞食”もしくは“町の呑んだくれ”と称されていた男は行方不明になっているが、追いはぎに殺された可能性が高い。“町の泥棒”と呼ばれた男は揉み合ううちに銃の暴発により死亡する。そして“町の聖者”とも呼ばれる清貧の医者は交通事故で死んでしまう。 これら自殺を除けば、不運な事故の遭遇もしくは人命を全うしたとしか思えない連続する死亡事件。また雇われる先々で雇い主が奇妙な死を迎える“町の哲人”ハリイ・トイフェルの存在もオカルト風味をもたらしている。つまりこれら殺人事件とも思えない連続的な事故に対し、エラリイは誰かの作為が介在して意図的に起こされた殺人なのだと固執して事件の関連性を調査するというのが、本作の主眼なのだが、上に書いたようになんとも地味な内容なのだ。 そしてエラリイが周囲の反対を押し切って捜査を続ける理由が、“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒・・・”と歌われる童謡どおりに事件が起きている事実、それのみ。 人智を超えたところで作用する避けられない巨大な意図が今回のエラリイの敵、それがテーマなのだろうか? つまり偶発的に連続する死亡事故にも実は論理の槍を付きたてて事件性を見出すというのが作者クイーンが語りたかったことなのだろうか。 話は変わるが、本書はクイーン作品としては珍しく素っ気無い題名だ。これは事件に纏わる二という数字から来ている。 まずはエラリイが述べる「物事には二通りの見方がある」という台詞から端を発している。 その後、この二の符号は広がり、上に述べた童謡には二通りの文句が存在すること―“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒。お医者に弁護士、インディアンの酋長”と“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒。お医者に弁護士、商人のかしら”―、さらにその二つ目の文句には句点の入れ方で二通りの解釈が出来ること、などなど。 二が二を生み、どんどん拡散していく。その他にも二に纏わる符号は出てくるが、それは本書を読んで確認して欲しい。 今回、エラリイは明敏な探偵ではなく、迷える名探偵という位置づけだ。この作品の前の作品に当たる『九尾の猫』でもリアルタイムで起こる無差別殺人に手をこまねいていたエラリイだったが、本書でもそのスタンスは変わらない。 しかし後期作品のエラリイは事件に翻弄される役回りばかりだ。初期のエラリイは事件を高みから眺め、全てを見抜く、全知全能の神のごとく振舞う存在だったのがはるか昔のことのように感じる。 唯一の救いは今までの作品では真実を知ることで失う代価の多さから打ちひしがれる姿が多かったのが、本書では清々しく閉じられていることだ。 前作のエラリイの探偵廃業を決意するまでに絶望に落ち込んだ彼は一体何だったんだと叫びたいくらい、立ち直りが早い。まあ、これはよしとして次作がもっと面白いであろうことを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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「大富豪殺人事件」と「ペントハウスの謎」の2つの中篇からなる中編集。
まず1編目の表題作は株式仲買人として莫大な富を築き上げたピーター・ジョーダンからエラリイの許へ看護婦の手配を要請する手紙が送られてくるところから始まる。 80ページ足らずの短編とも云うべき作品。大富豪の被害妄想が現実になって殺人事件に発展するという趣向を取ったのだろうが、非常にオーソドックスな内容になっている。大富豪の屋敷の中だけで繰り広げられるという非常に限定された舞台設定であるため、あまり動きがない。 まただからといって閉鎖空間ならではの濃密な人間関係が描かれるわけでもない。本当に小編というべき作品だ。辛辣になるが単純に法律の知識を活かした作者の自己満足に終わっていると云えない訳もない。 続く「ペントハウスの謎」は一度創元推理文庫の『エラリー・クイーンの事件簿Ⅰ』で読んでいたため再読。しかし内容はすっかり忘れていたのだが。 本来この作品は買う予定ではなかった。というのも創元推理文庫の『エラリー・クイーンの事件簿Ⅱ』に表題作は収録されており、それを買えば補完できたからだ。 しかし肝心のその本は長らく絶版状態。じっと待ってても良いが、世のミステリファンの話からこれら短編に出てくるニッキー・ポーターはクイーンシリーズで出てくるそれとは別物のような設定であるから、二度と『~事件簿Ⅱ』は再販する可能性が低いことを知ってしまったからだった。 とにかく今手に入れられる本を買うべきと思って購入したが、内容的には薄味だった。『大富豪殺人事件』がクイーンファンにとってマスト・バイであるとは正直お勧めできない。 とはいえ、ここはこの作品を絶版にせずに今なお目録にその名を留め、書店の棚に収めている早川書房の志を敢えて褒めるべきだろう。 だから早川さん、早く『フォックス家の殺人』とか『最後の一撃』とか『心地よく秘密めいた場所』とか『第八の日』といったクイーン絶版本を復刊して下さいね。頼みます。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズ第2作。前作がスペイン風建築で今回のモチーフはインド。しかしタージ・マハルに代表されるような豪奢な宮殿ではなく、町中にある小さな宿のような建物。
本格ミステリとはその現実離れした特異性ゆえ、いかに物語世界に読者を引き込み、その中でのリアルをいかに感じさせるかが鍵である。 したがって中途半端なことをやるよりもやるならばとことん別の世界の話とまで思わせる、もしくは隔絶された過疎地域のような地域の特殊性が出るような場を提供する方がいい。 さて今回の惨劇の舞台となる恒河館は、本格ミステリで云うところの“嵐の山荘”である。つまり作者は今まで決して本格ミステリ然とした舞台設定を好まなかったが、今回はあえてそれに挑戦している。 しかしなんとも読みにくさを感じる小説だ。特に場面が思い浮かばない。添付された舞台となる恒河館の見取り図と作内で騙られる場面が結びつかないのだ。 見取り図にはない部屋の室名で場面が語られるため、非常にシンプルな構造をしているにもかかわらず、いやそれがゆえにそれぞれの人物がどの部屋にいるのか、どの部屋を指しているのかが解りにくい。 また加えてホテルとして開業するにはこの恒河館という屋敷の部屋数が少なすぎるのもまた気になった。たった2階建てで客室が3部屋しかない構成はまるでドラクエの宿屋のようだ。どうやって経営を成り立たせるのか。このまるで現実味を覚えない設定が物語世界にのめり込むのを阻んでいた。 そういった意味ではせっかくの舞台設定が生きていないと云わざるを得ないだろう。 また物語のテーマが今回はインド神によるところが大きいのも逆にこちらの興味を殺ぐ結果となった。過去の死亡事件に関わった人々にそれぞれインド神を擬えるというのはなんとも漫画的で愕然としたものだ。ミステリアスな死者の言葉がなんとも陳腐なものとして響いてしまった。 恐らく作者自身も自覚的だったのだろう、作中登場人物の間でミステリ談義が交わされるが、そこで持ち上げられるのは中井英夫氏の『虚無への供物』。つまり日本の三大ミステリの1つであり、アンチミステリの代表作だ。あらかじめ今回は観念的な宿命論を持って来ますよということを投げかけていたのだが、その設定にはちょっと違うだろうと思わされてしまった。 こんな絵空事な宿命よりも運命の皮肉という物語の妙で勝負して欲しい。そういう意味では前作の方がよかった。 この作家に期待するのは自分の好きなものを垂れ流し的に書くのではなく、もう少し読者の目を意識した作品を著す事だ。 デビューから一貫して他の新本格ミステリ作家とは一線を画した作風で勝負をしていることは賞賛に値するが、そのマニアックな内容はあまりに排他的で、「好みが合う人だけ付いてきな」とでも云わんばかりの傲慢さを感じる。 桜井京介、蒼、そして今回出演の機会がなかった栗山深春といったレギュラーメンバーの面々は正直嫌いではない。本格推理小説でありながら推理の対象は建物に秘められた謎が主であり、殺人事件はあくまで副次的という主題性も他の本格ミステリ物と一線を画す特徴があって好ましい。 後は物語のパンチ力か。ページを繰る手を休ませないリーダビリティと心に残る物語を期待したい。 |
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クーンツの犬好きは非常に有名だが、とうとう犬をテーマに小説を著したのが本書。
犬を前面に押し出した作品では既に『ウォッチャーズ』という大傑作があるが、本書ではもっと犬と人間との関わり合いについて書かれている。何しろ主人公はエイミー・レッドウィングといい、<ゴールデン・ハート>というドッグ・レスキューを経営しているのだ。 このドッグ・レスキューとは、その名のとおり、ペット虐待が日常化している家庭などで育てられている犬を買い取ったり、繁殖犬として劣悪な環境で育てられ、生殖機能を酷使され、人間の愛情すら受け付けられなくなった犬を保護したりする職業だ。このような仕事が実在するのか、はたまた犬好きのクーンツの生み出した願望の産物なのか、寡聞にして知らないが、とにかく犬に対する愛情なくては出来ない仕事である。 そして今回の目玉はニッキーという名のゴールデン・レトリーバーの存在。逢うもの全てが魅了され、どこか普通とは違う特別な犬だと悟らされる犬だ。 またも例に出して悪いが、『ウォッチャーズ』のアインシュタインを彷彿させる犬キャラだ。そういえばアインシュタインも同じ犬種ではなかったっけ? そして昨今のクーンツ作品に顕著に見られる裏テーマが幼児虐待だ。『ドラゴン・ティアーズ』で“狂気の90年代”を謳ってから、彼は一貫してこの虐待を扱っているように思う。 今回は幼児のみならず、犬に対する虐待を大きく取り上げ、声高らかに反論する。今回も“仔豚(ピギー)”と呼ばれる母親から虐待を受ける少女が現れる。彼女はダウン症で、母親は娘のせいで幸せが摑めないのだと逆恨みをぶつけて虐待を重ねるのだ。 そんな物語は実に緩慢に流れる。ドッグ・レスキューのエイミーとその恋人ブライアン、そして何か人智を超えた力を感じるゴールデン・レトリーバーのニッキーの話を軸に、ハローとムーンガールという不気味なカップル、そしてエイミーの過去を探る探偵の話が交互に語られる。そしてそれらはやがて一点に収束する。 しかし最近のクーンツ作品にありがちなエピソードを幾層にも積み重ねる語り口からはどうも最初にこのプロットありきとは感じられず、筆の赴くままに物語を書いていった結果、こうなったという印象が強い。 特にそれが顕著に感じられるのは、謎めいた存在を醸し出すゴールデン・レトリーバーのニッキーの謎が最後まで明かされないところ。 しかし本書の冒頭の献辞には、恐らくクーンツ自身が飼っていたであろうガーダ(解説の香山二三郎氏は瀬名氏による『オッド・トーマスの受難』を引用し、トリクシーが犬の名であるとしている)という名の犬―しかもゴールデン・レトリーバーのようだ―への感謝の気持ちが綴られており、どうやらその犬も既にあの世へと行ってしまったようだ。 そして虐待された少女ピギーことホープがニッキーのことを“永遠に光り輝くもの”と呼ぶことからも、これはガーダへ捧げる物語だったのだろう。エイミーが犬と暮した日々の追憶は作者のそれが重なっているに違いない。彼にとってガーダはニッキーであり、だからこそニッキーの謎については触れなかったのかもしれない。 犬を飼っている人にはこの気持ちが解るだろう、そう、クーンツは云っているようにも取れる。 本書の題名は原題をそのまま訳したものである。この「一年でいちばん暗い夕暮れ」とは実は登場人物たちが抱える闇を指しているのではなく、クーンツが経験したガーダを喪ったその日の夕暮れを指しているのではないか。 消化不良感がどうしても残る作品だが、愛犬を亡くしたクーンツを思うと、これは彼が哀しみを乗越えるのに書かねばならなかった作品だと好意的に解釈すれば、それもまた許せるというものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
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前作『災厄の町』から始まった第3期クイーンシリーズだが、この2作に共通しているのは事件が起こる前にクイーンが渦中の家族の中に潜り込み、その過程に隠された秘密を探っていくという趣向にある。これは調査を進めるうちに家庭内にどんどん入り込むチャンドラーのマーロウやロスマクのアーチャーなど私立探偵小説に通ずる展開がある。
もっと下世話に云えばドラマ『家政婦は見た!』のようなワイドショー的な立入り捜査となるだろうか。 今回は6人の息子を持つ靴屋チェーン店をアメリカに展開する老婆の家で起こる殺人事件を扱っている。その6人の息子というのが前夫の間に生まれた3人が気違いであり、現在の夫の間に生まれた3人が優秀でそのうち双子の兄弟は実質的に会社を切り盛りしているといった具合。 そしてこの靴屋の老婆と6人の子供という状況がマザーグースの歌に出てくるのだ。そしてその歌の歌詞を具現化するかのように事件が起きる。 マザー・グースの歌に擬えた殺人事件。この童謡殺人というテーマは古今東西の作家によっていくつもの作品が書かれているが、クイーンも例外でなかった。 しかしクリスティの『そして誰もいなくなった』然り、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』然りと、他の作家たちのこのマザー・グースを扱った童謡殺人の作品が傑作で有名なのに対して、本書はクイーン作品の中ではさほど有名ではない。 読了した今、それも仕方がないかなという感想だ。 今回の事件というのは、空砲での決闘になるはずだったサーロウとロバートの異父兄弟が実弾が放たれたがためにロバートが死に、そしてまたその双子の弟マクリンも決闘する段になってその前夜、何者かに撃たれて死んでしまうという物。 さらにポッツ一族の長であるコーネリアが死の間際に遺した告発状に自身がそれをやったのかと残されていたが、その告発状は偽物である事が発覚する。 空砲にすり替えたはずの銃弾を誰が実弾にすり替えたのか? そしてマクリンはマザーグースの歌に擬えるが如く、死んだのか? さらにコーネリアの告発状を偽造したのは誰か? これらが謎の焦点になっているのだが、事件としては小粒でいささか牽引力が弱い。 最後の蛇足交じりの重箱の隅を。 ロバートが決闘にて射殺される事件が起きるにいたり、ポッツ製靴会社の社主コーネリアはスキャンダルによる株価下落を予想して自身の所有する株を売りに出すことを命じるが、これは明らかにインサイダー取引だ。 まあ、恐らく本書が刊行された1940年代にはそういったモラルが確立されていなかったのだろうから、インサイダー取引に関する法律も整備されていなかったのだろう。当時の常識を知る意味でもなかなか興味深い一幕だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今やバカミスの第一人者として名高い霞流一氏。
彼は動物を作品のモチーフにしているのが特徴だが、本書はその題名が示すように全編に馬に纏わるものが散りばめられている。 まず物語の舞台となるのが岡山県の羅馬田町。勿論これは架空の町である。 そこに纏わる平家の落ち武者伝説に端を発した馬の頭をした馬頭観音に、一瞬にして馬を巻き上げ、落命させる堤場風の伝説から派生したダイバ神。さらに第2の死体はユニコーン像によって撲殺されている、などなど。 そしてそんなガジェットに包まれた事件は死体の周囲に足跡のない不可能犯罪、密室殺人に、袋小路で消え失せた犯人と、本格ミステリの王道を行くものばかり。 それらは実に明確に解き明かされる。その真相は島田氏の豪腕ぶりを彷彿させるような離れ技が多い。 しかし霞氏のコメディに徹した文体が不可能犯罪の謎を薄味に変えているように感じてしまった。 本格ミステリの不可能趣味とはその謎が不可解であればあるほど、魅力的に読者の目には映るわけだが、霞氏の軽い文体はその不可能趣味を茶化しているように感じて、謎の求心力を薄めてしまっているように思えてならない。 従って、私に限って云えば、いつもならば謎解きを考えながら読むのに、今回は物語が流れるままにしてしまった。謎解きを主題とした本格ミステリのフックを感じなかったのだ。 また読者の心に残す物語の主要素の1つ、キャラクターだが、これも設定がマンガ的に留まっており、個性的であるものの、読者の共感や憧れを抱くような血が通った者は皆無である。これは探偵役天倉とそのパートナーで語り手を務める魚間もそうで、非常に記号化された駒のような扱いである。 そのため、最後天倉が謎解きを魚間の前で開陳した後の事件関係者の成行きは後日端的エピソードの域を出ず、そこに関係者の台詞は全く挟まれていない。従っていわゆる一昔前のノベルス版で数多書かれたような本格ミステリという風に私は感じた。 しかし改めて振り返ると本書に挙げられた謎とその真相はなかなか面白いものである。 本書は1999年の書でようやく世間にバカミスなるジャンルを声高にアピールした頃に書かれたものだ。その時期に敢えて馬鹿の字の「馬」を選び、作中人物に事件の状況を指して「バカミステリー」と云わせているところが霞氏の歩む道を謳っているようで興味深い。 初めて彼の作品を読んだ印象としては、彼の言葉遊びの要素、コメディタッチのストーリー運びと戯画化されすぎたキャラクターが逆に損をしていると感じた。 しかし昨今の作者の評判は年々高くなっている。ここはしばらく彼の作品を追ってその真価を確認していこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書の紹介には「殺された被害者には一角獣の角で刺されたとしか思えない不思議な傷痕があった」と強調されており、それが題名と相俟って、伝説の獣による殺人というカー得意のオカルト趣味が横溢する作品だと思ったら、これがとんでもない間違いでなんと怪盗物だ。
パリを賑わせている神出鬼没の怪盗フラマンドを捕まえるべく、「島の城」に集まった面々。その最中に上に書いたような傷痕を残した奇妙な死体が衆人環視の中、起こるという物。確かに事件は不可能趣味溢れているが、これがメインというよりも変装の名人フラマンドは果たして誰なのか、そしてフラマンドの宿敵であるパリ警視庁警部ガスケも変装の名人で、それは誰なのかと怪盗探し、犯人探しに加え、探偵探しまで盛り込んだ内容になる。 ところでフランスが舞台となると、やはり怪盗が付き物なのか、本作では神出鬼没のフラマンドなる怪盗が登場する。勿論これはモーリス・ルブランの『怪盗ルパン』による影響が30年代当時、かなり強かったのではないだろうか―というよりもルパンシリーズは世紀を超えてなお世代を問わずに親しまれているのだが―。 その証拠に「島の城」城主のダンドリューが各人の枕元に一夜の友として置いている書物の中に当のルブランの『怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』が添えられているのだから、カーも堂々と意識していると謳っているのだ。 しかしそんな趣向満載の設定ながら登場人物が多すぎるのと、犯人・怪盗・探偵探しそれぞれがごちゃまぜになって、整理がつかずに物語が流れ、唐突に終わったような感じがしてしまった。特に最後HM卿の口から延々と開陳される事件のあらましはなんとも複雑であり、ちょっと造りすぎではないかと思われる。 しかしケン・ブレイクが出るシリーズはなぜこうもドタバタになるのだろう。 本書はシリーズ初期の作品であるが、この頃カーはケン・ブレイクを情報員であることを利用して、物語を複雑化する不幸な男としてミステリの味付けにしようと思っていたのだろう。 今回思ったのはやはり作品紹介というのは読み手の先入観を否が応にも刷り込んでしまうことだ。上にも述べたが、紹介は一角獣という実在しない怪物をモチーフにした事を前面に押し出し、一見カーの最たる特徴であるオカルト趣味を纏ったものだと思わせるが、蓋を開けてみればフランスを賑わす怪盗を捕らえる事が主眼の、HM卿の国際犯罪に携わる情報部の長という諜報活動の一面が色濃く反映された作品である。 確かに原題も“The Unicorn Murders”と一角獣と名を冠しているが、やはりこの紹介は間違いだろう。例えるならば、パッケージツアーで伊勢海老料理をメインに謳っておきながらその実、伊勢海老は添え物程度で鍋料理がメインだったような感じと云えば解るだろうか。 読者の作品評価に直結するので各出版社はもっと紹介文に配慮して欲しい。 まあ、感想を云えば、出来は残念といいたいところだが、文中、本格ミステリの謎に対する推理についてHM卿がなかなかに含蓄溢れる言葉を述べているのでそれを抜き出して終わりとしよう。 「人間が仮説をひねくり回しておるのは、その人物が推理しているというわけでは決してない。その人物だったらどうやるか、という事を披瀝しておるだけなのだ。しかし、そこから、その人物の性格がよく掴めるからな。」 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作は3部で構成されているが、それぞれ別の事件が起き、一応解決し、完結している。そしてそれら3つの事件を貫くのは“運命の女(ファム・ファタール)”ともいうべきゲイブリエル・レゲットだ。
そしてさらにこれら3つの事件の真相はかなり複雑だ。 まず事の起こりである第一部ダイアモンド盗難事件。 これだけでほとんど短編1本分の分量がある。 そこからまた第2部は宗教団体の神殿に住み込んだゲイブリエルの不可解な行動と彼女の周囲に続発する怪事について語られる。 そして第3部ではゲイブリエルに夫となったエリック・コリントン殺害の容疑が掛かる。 このゲイブリエルという女を中心に実に9人が殺される。正に死の連鎖であり、彼女こそ死の女神で、タイトル通りデイン家という血に呪われているとしか思えない不可解な事柄が起きる。 つまり本書はハードボイルドの意匠を借りたホラーであり、それに合理的な説明が付けられる本格ミステリでもあるのだ。 いや“運命の女(ファム・ファタール)”という観点から云えば、これはウールリッチのようなサスペンスの色合いが強いのかもしれない。 しかしウールリッチと違い、ハメットはこのゲイブリエルという女をさほど印象的に描かない。探偵の私の視点で紡がれるこの物語において、私は常に依頼された仕事をやり遂げるためにゲイブリエルに連れ添っているだけだからだ。周囲の人間が次々と死んでいく境遇に家系の呪いを感じる女性ゲイブリエルは薬物依存の弱い女としか描かれない。 このような作品を読むと、やはり作品の好き嫌いは登場人物に共感もしくは好感を持てるかが大きいのだというのが解る。 そういった意味で云えばハメットはあまりにドライすぎる。単純に仕事として関わっている私よりもやはり自分が納得したいがために仕事を超えて動くマーロウやアーチャーの方が私は好みである。 やはり私にはハメットは合わないのかもしれない。 そして各部で一応の解決を見た事件は最後の最後に意外な黒幕が暴かれ、また別の一面が曝されることになる。 また各部で明かされた真相が最後の最後でまた別の様相を呈すという趣向は現代の本格ミステリにも通ずる複雑な技巧である。 繰り返しになるが、本書はハードボイルドとして読むのではなく、呪われた家系をモチーフにした本格ミステリとして読むのが正しいだろう。 さらに本書が書かれたのは1929年と、まだクイーンが活躍する本格ミステリ盛況の頃。そして後年クイーンもこの示唆殺人を自作で扱っており、またクイーンはハメットらハードボイルド作家をライバル視していたので、この作品に何らかの影響は受けていたのではないだろうか。 しかし重ね重ね云うが事件の構造は複雑である。一読だけでは十分に理解できたとは云えないだろう。 なぜならば関係者がそれぞれ自身が犯罪者だと告白し、それぞれのストーリーを組み立てるのだから、真相が幾重にも折り重なり、何がなんだか解らなくなってくる。そういう意味ではコリン・デクスターの作風にも一脈通じる物があるのかもしれない。 作品としての出来は個人的にはあまり好みではないが、ミステリ史における本書の位置付けを考えると非常に意義深いものがあると読後の今、このように振り返ると思えてくる。 ただ歴史的価値のみで本書を勧められるかといえば、ちょっと頭を抱えてしまうのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は篠田真由美氏のデビュー作。鮎川哲也賞の最終選考まで残り、受賞は逃したがその後改稿の上に刊行された作品だ。
異色なのは18世紀の東ヨーロッパという日本ではなく異国、しかも現代ではなく中世を舞台にしている点だろう。 この頃の価値観は現在とは全く違い、疑わしき者を公然と犯人に仕立て上げ、処刑する事が罷り通っていた時代である。それはカーの『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』でも理不尽な裁判の様子が詳細に描かれており、冤罪などは当たり前だった。 そういう風潮ゆえに成し得うる、このシチュエーション。つまり身元不明の部外者を犯人に仕立て上げ、その無実を晴らすために探偵役を買って出る事になる状況はなかなかに斬新である。 またデビュー作の本書では既に稀代の吸血夫人エリザベート・バートリが既に物語を飾るガジェットとして使われている。 先に読んだ『ドラキュラ公』では吸血鬼ドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュの伝記的歴史小説を著していることからも、作者が中世の、特に東ヨーロッパに伝わる忌まわしき負の歴史に大いに興味を示しているのが解る。ロンドン、フランス、イタリア、ドイツ、スペインといった一般的に知られている国々ではなく、ほとんどの日本人がその歴史に疎い東ヨーロッパにスポットを当てているのがこの作者の特徴だろうか。 その頃多く刊行された本格ミステリの例に洩れず、本書でも1つだけでなく、連続殺人事件が発生する。 先に述べた吸血夫人バートリ・エルジェベトから引き継がれたという呪われし深紅の琥珀の首飾り、夜な夜な館の周囲を徘徊する亡き前妻の亡霊、消失した伯爵の死体と、甲冑を着た伯爵に襲われ、瀕死の重傷を負う侍従などなど、幻想味溢れる謎の応酬に作中に散りばめられた奇行と伝説めいた逸話が最後に謎の因子の1つ1つとなって表層からは見えなかった真のブリーセンエック伯爵家の姿、犯人解明、そしてさらに真犯人の解明、更に本書でしきりにその存在を謳われた琥珀の存在意義が溶け合って明らかに真相と、本格ミステリのコードに実に忠実に則った作品である。 しかし何故かそれらは上滑りで物語は流れていくように感じた。 中世、しかも東ヨーロッパという馴染みのない時代及び世界ゆえなのかと思ったが、坂東眞砂子氏の中世のヨーロッパを舞台にした『旅涯ての地』という上下巻800ページを超える作品に没頭し楽しめたのだから、そこに原因はない。やはり両者の作品と決定的に違うのは「物語の力」だろう。 デビュー作と坂東氏の傑作の1つを比べるというのはいささか酷ではあるが、人の心に物語を浸透させるフックのような物を感じなかった。ベルンシュタインブルクという古の塔を囲んだように造られた古城という魅力的な舞台を設定しながらもその魅力が刻まれるような勢いを感じなかった。 更に忌まわしき言い伝えをもつ琥珀の首飾り、そして今では静電気で知られる当時未知の力であったエレクトリシタスなど、知的興味に尽きる題材には事欠かない。しかし読了後感じたのは、そこに城があり、湖があり、庭園があり、別邸があり、それらの舞台を使って事件を起こしてみました、それだけだ。忌まわしき逸話もステレオタイプでどこかで聞いたような話でしかない。没入する魔力に欠けているのだ。 そう、何となく一昔前の低迷期の少女マンガを読んでいるよう、そこまで云うと酷だろうか。 しかし、本書ならびに『ドラキュラ公』で見せた中世の東ヨーロッパという他の作家の例を見ない舞台を活用して物語を紡ぐのはこの作者の長所である。この知識を活かして、もっと行間から匂い立つような物語の世界に酔わせてくれることを願う。 |
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ハリウッドシリーズ第3弾の本作は『ハートの4』でも精力的に導入されていた恋愛が事件に大いに絡んでいる。
従ってまずは事件ありきでその後探偵による捜査が続く本格ミステリの趣向とは違い、2人の遺産相続人の一方に起こる殺人未遂事件の数々が同時進行的に語られ、物語の設定はサスペンスになっている。 今回の主役はエラリーよりもその代役として活躍するボー・ランメルだろう。弁護士の資格を有する知性を持ちながら、ロンドンきっての伊達男ボー・ブランメルと名がそっくりだということでからかわれ続け、その都度腕っぷしに物を云わせて相手を黙らせ、職を転々とした無頼漢だ。 その彼がエラリーと組んで探偵事務所を設立する、『静』のエラリーに対し、『動』のボーという名コンビが生まれた。 また久方ぶりにクイーン警部とヴェリー部長が登場する。『悪魔の報酬』が未読なのでそこで登場しているかは解らないがもしそうでないとすると、『ニッポン樫鳥の謎』以来の登場だ。 そして本書にしてようやくクイーンは事件現場に対する常識的な配慮をしている。手袋をして現場検証に臨む事だ。しかしそれでも犯人の存在を証明する証拠を秘匿しようとしたり、犯行現場に自身の煙草の吸殻を置いたままにしたり―理由が吸殻だけではクイーンが現場にいた事は判らないというが、唾液の付いたフィルターが残っていたら判るんですけど―とまだまだ常識外れなところがあるのだが。 こういうシーンを読むと、探偵が警察と犬猿の仲になったのかが解るという物だ。 勝手に現場に入り込んで、傍若無人にやたらめったら触りまくり、あまつさえ有力な証拠を隠そうとする。現状保存を第一とする警察の捜査とは全く相反する行動であり、迷惑極まりない事この上ないだろう。これ以来、日本の本格ミステリでも探偵が同様の行為を現在に至ってなお行っているのはもしかしたらこのクイーンの影響が大きいからではないだろうか? 本作の奇妙な題名『ドラゴンの歯』とはギリシャ神話に出てくるカドマスという青年が蒔いたドラゴンの歯に起因している。恐らくこのドラゴンの歯とは災いの種という意味だろう。それは遺言状を作るときにデ・カーロスを大いにからかったカドマスの所業に起因し、これが基で今回の事件が起こったということになっているが、どうもしっくりこない。 やはり全体的にバランスの悪い作品だと云わざるを得ないだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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田中氏によるジュヴナイル小説のような読み物。14世紀のドイツならびにバルト海を舞台にした復讐譚。
ときおり挿入される当時のヨーロッパの情勢と風習が薀蓄のスパイスとしてまぶしてあるのはこの作者ならではといったところか。 ただ復讐譚と書いて想像するのは、不当に虐げられた人物が、その怨みを晴らすために情念を募らせるため、感情的な物語を想像してしまいがちになるが、本書においては史実に基づいて著しているせいか『銀河英雄伝説』、『アルスラーン戦記』、『創竜伝』といった、田中氏を代表する一連のシリーズに比べると、その筆致はかなり抑制された物となっている。作者特有の皮肉を混ぜた饒舌さも成りを潜め、淡々とした物語運びだ。だから読後感も非常にあっさりとしている。 そして題名ならびに若き船長という主人公の設定から、私は田中氏初の海洋冒険小説もしくは帆船小説なのかと想像したが、さにあらず、上にも書いたがやはり14世紀のドイツを描いた歴史小説となっている。 あとがきによれば小学生の頃に百科事典で出合った「ハンザ同盟」という言葉がこの物語を書く動機になっているとのことだ。 博学な田中氏のこと、物語に散りばめられた当時の風習や生活様式など、細かな知識、情報は我々が学校の歴史の授業では教わらない事が多く、また断片的に教わった情報を上手く物語に反映する事で、作中人物らの生活が非常にリアルに伝わってくる。 作中人物の中でとりわけ印象に残るのは漂着した主人公を助けるホゲ婆さんなる人物。この女性、数百年生きた魔女などとも呼ばれており、世界各地の豪商、貴族、騎士らがなんらかの形で助けられ、助成を受けた人物それぞれがその正体を憶測し、そのどれもが違っていながらもさもありなんと思わせる謎めいた女性である。 誰でも抵抗なく、すっと読み終わってしまう作品だが、それが故に残る物もあまりない。恐らく1ヵ月後にはどんなストーリーだったかも忘れてしまうのではないか。 小さく纏まったがために、物足りなさが残る作品であるのは残念である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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非国名シリーズ第1作(?)。
前作『スペイン岬の秘密』で完結した国名シリーズから脱却した作品だが、本書のまえがきで作者自身が述懐しているように、本書はつけようと思えば『スウェーデン燐寸の謎』とつける事も出来たという。確かに本作ではマッチが重要なキーとなり、謎解きに大いに寄与するから、それでも良かったのだが、作者としてはやはり前作で区切りを付けたのだろう。 片や美しい妻を持ちつつも行商人として安物の品々を売る生活、一方で名家の婿になりながらも、相手は年増の性格のきつい女性という二重生活を送っていた被害者。しかしこういった設定にありがちな、周囲の人間関係を探る事で浮かび上がるこの被害者像は不思議な事に立ち昇らなく、犯人捜しに終始しているのが実にクイーンらしい。 そして今回では容疑者は早々に逮捕され、クイーン作品では初めてとなる法廷劇へとなだれ込む。 今までクイーンの作品では現場に残された指紋、血液、唾液といった証拠の類いが一切無視され、遺留品の数々と被害者の奇妙な姿などを基にロジックを組み立てて犯人を究明する趣向が繰り返されていたため、この法廷劇というスタイルは全く合わないだろうと思っていたが、指紋に対する調査結果を基にした証人喚問も成され、一応体裁は整っている。 つまり本作ではロジックゲームの場を現場から法廷へ移したのがクイーンの狙いだと云えるだろう(それでもエラリーは手袋もせず警察が来る前に現場を調査したりするのだが)。 面白いと思ったのは、今まで警部の息子という特権を大いに利用して興味本位で事件に携わっていたエラリーが本作で初めて他者からの依頼で事件の捜査に乗り出す点。今回エラリーは被害者が100万ドルという破格の保険金を掛けていたことで、保険会社からこれが保険金目当ての殺人事件か否かを探るよう要請される。趣味としての探偵でなく、仕事としての探偵に携わるのが新しい。 まあ、恐らくこの理由がなくともエラリーは自分の旧友が事件に関わっているというだけで自ら事件解明に乗り出すのだろうけれど、この辺の新機軸は当時チャンドラーやハメットに「リアリティがない」と揶揄されていた事に対する作者クイーンなりの配慮かなと思ったりもした。 本書でも“読者への挑戦状”は挿入されており、私も一応犯人を想定したがやはり当らなかった。 しかしなんともアンフェアな感じが漂う真相だ。 理詰めで犯人が突き詰められていくが、やはり大前提を無視したロジックはなんとも頭に染み込んでこない。事件自体も一人二役の生活を送っていた被害者という設定の面白さの割にはシンプルであり、全体として小粒である。 本書の舞台である「中途の家」同様、クイーン作品体系の中休みとも云うべき作品なのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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表題作と「ヘルター・スケルター」2編が収められたノンシリーズの中編集。
「エデンの命題」は正直云えば本作は過去の本人の作品のヴァリエーションの1つに過ぎないと云えるだろう。それは私にとって不朽の名作である『異邦の騎士』だ。 実は読んでいる最中に本書の企みが解ってしまった。というよりも恐らくほとんどの読者が解るのではないか。あまりに露骨過ぎるミスリードである。 原本の『異邦の騎士』がこの上なく好きなだけに、本作での見え見えの作意に憤りさえ感じた。 ただアスペルガー症候群という自閉症の1つに焦点を当てたことが島田氏の社会に目を向けたテーマの探求と今日性を表している。 特に自ら掲げた「21世紀本格宣言」をさらに実践すべく、本作にも最新科学の知識がふんだんに放り込まれている。今回扱われたテーマは遺伝子工学、それも特にクローン技術に焦点を当てたものだ。 これに関しては既に島田氏は自著『21世紀本格宣言』で述べられていたため、これを改めて実作のテーマに採用したに過ぎない。つまりあのエッセイで俎上に上げられた数々の最新科学のテーマは、島田氏が今後テーマに挙げる内容を列記した物だと云える。逆に云えば、島田氏の手による「21世紀本格」を楽しむのならば、同エッセイはむしろ読まない方が十分楽しめると云える。事前にネタを知らずに済むだけに。 この作者の意図は何なのだろうか?最先端の科学知識を導入すれば物語も新たな息吹を与えられることを証明したかったのだろうか?しかしそれは残念ながら失敗していると思う。知識の敷衍に力点が置かれ、物語が薄っぺらいものとなっている。 私が懸念するのは本作を読んだ方が後に『異邦の騎士』を読んで、「なんだ、これあの短編の引き伸ばしヴァージョンだ」などと陳腐な感想を抱くことだ。自らの名作を自らの手で汚してしまった、そんなやりきれない思いのする作品だ。 なお題名の「エデンの命題」というのは、具体的に何を指すという物ではなく、それぞれの人生における守るべき信条、達成すべき大いなる目標といったシンボル的な意味が込められているようだ。つまり自身の安息の地であるエデンを維持するために守るべき原則ということになるだろう。 2編目「ヘルター・スケルター」はトマス・クラウンという記憶喪失者の物語。 これも脳科学をテーマにしたミステリ。本作では脳の各部位、各分泌液の機能が明らかになった2005年当時での最新の知識を活用して人間の性格、趣味・嗜好にどのように作用するかが詳らかに専門的に説明される。 これは『ロシア幽霊軍艦事件』で登場した自らをロマノフ王朝の皇女と名乗る数々の奇妙な行動を起こす老女の行動原理を大脳生理学の視点から分析した手法と同等だ。 本作で取り上げられるトマス・クラウンという男性は、幼少時に動物虐待、万引きや盗難などの非行を行い、その後ヴェトナム戦争に駆り出された後、帰国して婦女暴行殺害で逮捕され、30年間の服役を終えた老人である。この、物語の登場人物としては別段珍しくもない、チンピラの行動原理を同じように彼の人生で負った脳への障害を根拠としてなぜ彼の人生がそのような足取りを辿ったかを明らかにしていく。 この辺の流れはミステリというよりも脳科学を扱った専門書の事例紹介のようにも取れる。もちろん1つ1つ、奇行の原因を解き明かしていく経緯はミステリ的興趣に満ちてはいる。 さて、本書で取り上げられた脳科学に関する記述は先に読んだ瀬名氏の『BRAIN VALLEY』にも取り上げられていることと重複しているものもある。特に1950年代にある科学者がてんかん患者に行った脳機能を分析する実験の話は同書にも取り上げられていた。 確か島田氏が編んだ書下ろしのアンソロジー『21世紀本格』に瀬名氏も寄稿していたように記憶しているから、『BRAIN VALLEY』の感想にも書いたように、島田氏が件の作品を読んで大いに刺激された事は間違いないようだ。そして島田氏は創作の重心があくまで本格ミステリにあるのが両者との違いか。 しかし島田氏や瀬名氏の諸作で説明される大脳生理学、遺伝子工学といった最新の生物工学の最新の研究結果、データを知るたびに私は知的好奇心を揺さぶられると共に云い様の無い不安に襲われる事がある。 本書を例にとってみると、最近解ってきたアスペルガー症候群患者の実態、左利きの人が感情を司る右脳を刺激するがために感情的な行動を取る確率が高いこと、ある脳の分泌液の量の大小、ホルモンの量の大小、摂取する栄養分の大小が犯罪者に特徴的に現れる事。本書では低セロトニン・高インシュリン・低血糖を犯罪者のスリーカードと呼んでいる。 これらが明らかになってくると次に起こるのは選民という行為ではないだろうか。今まで個性と思われていた性格の違いが、精神病の一種として片付けられ、それらを集めて一箇所に隔離する。各人の脳の分析を行って、上に挙げた犯罪を起こす確率の高い症状が現れた場合、脳手術を行って、性格改造を行う、云々。 犯罪率が高まっていくに連れ、それを未然に防ごうとそういう傾向が見られる子供たちにその種の施術を行うという考えが出てくるのもおかしくはなく、しかもそう遠い未来ではないのではないか。特に本書で挙げられた事例には私にもいくつか当て嵌まる事項があり、私ももしかしたら・・・と畏怖せずにいられなかった。受取り方によっては暗鬱になる作品だ。 この島田氏の提唱する21世紀本格というのが未だ実体を伴わないように感じるのは私だけだろうか。 彼の提唱とは、本格ミステリは密室や怪物の成した業としか考えられない不可能状況、アリバイ工作に拘泥ばかりしては衰退する一方なので、これからは脳に焦点を当てるべきだという示唆である。未知なる分野である脳にはこれからの幻想的な謎のアイデアに満ちているというのだ。 しかしこれは本格ミステリ作家に対する創作の示唆である。読者はその作品で敷衍される新知識に対しては無知であり、単に専門的な内容の授業を受けているだけに過ぎなくなってしまい、作者対読者の頭脳ゲームという一面を持った本格ミステリでは、読者は作者とは対等で無くなってしまうからだ。 80年代後半から90年代前半にかけて起きたサイコミステリブームは、「人間の心こそが最も不可解で恐ろしい」という新たなテーマに着目したムーヴメントだった。これを学術的視点から論理的に解明していこうとしているのがこの21世紀本格であるが、その新しい科学の成果に驚きはもたらされるものの、あまりに専門的に走りすぎて読者の推理の介在を許さないものになっている。 ミステリというジャンルにはやはり闇は必要だと思う。ここまで踏み込むか否かは作者の興味に留めるべきであり、読者にまで啓蒙すべきではないと私は思う。 21世紀本格は短命になるのではと以前私は述べたが、今回更にその思いを強くした次第だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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