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ねじの回転



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ねじの回転の評価: 3.77/5点 レビュー 53件。 Cランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.77pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全33件 1~20 1/2ページ
12>>
No.33:
(5pt)

「読みやすい怪奇小説」翻訳のスペシャリスト・南条竹則が難解な「ねじの回転」を見事に訳出‼

20世紀モダニズム文学の先駆者ヘンリー・ジェイムズの一番有名な作品「ねじの回転」は、ひと言でいえば性的ノイローゼぎみの若い女性家庭教師と生徒である可愛い少年少女とが織りなす中編 幽霊譚です。
しかも男の幽霊と少年、女の幽霊と少女との同性愛が伏線となっているというBL小説っぽさも兼ね備えた作品で、ストーリー自体はとても面白いんですが、何しろ文体が難解で取っつきにくい。

それでも内容自体の素晴らしさが人気を得ているのか、現在出回っているものでも岩波文庫 (2003年刊)、創元推理文庫 (2005年刊)、光文社古典新訳文庫 (2012年刊)、新潮文庫 (2017年刊)の4種類があります。ご参考までに、上記4文庫の翻訳を比較してみます。作品冒頭の一節です。

わたしたちは炉をかこみ、固唾をのんで話に聞き入っていた。ぞっとする、と誰かが露骨に言ったほかは--クリスマス・イヴに古い座敷で奇妙な物語とくれば、本来そうでなければならない--わたしの覚えている限り、口をきく者はなかった。しまいに誰かがこう評した--幽霊が子供の前に出るなんていう話を聞いたのは、これが初めてだ、と。(創元推理文庫・南条竹則・坂本あおい訳)

暖炉を囲み、一同固唾を呑んでその話に耳を傾けていた。由緒ある館のクリスマス・イヴの席での幽霊話であったから、不気味に感じるのは当然であった。ほかの感想は聞かれなかったが、しばらくして誰かが、子供の前に幽霊が現れたなんて初めて聞いた、と言ったのを私は覚えている。(岩波文庫・行方昭夫訳)

私たちは暖炉を囲むようにすわり、ときに息を呑みながら話に聞き入っていた。終わってしばらくは「身の毛がよだつ」というごく当たり前の--クリスマスイブに古い屋敷で怪奇譚とくれば当然そうあるべき--感想があっただけで、誰も何も言わなかったと思う。やがて「子供に出たなんていう事例は初めて聞いた」と誰かが言った。(光文社古典新訳文庫・土屋政雄訳)

その物語は、炉辺に集まった一同が息を詰めるほどの出来にはなっていたが、なるほど陰鬱だという評が出たのは、クリスマスイヴに古い館で聞く怪談としては至極当然であるとしても、ほかに見解らしきものが聞かれなかったところに、ひょっこり口を切った人がいて、子供が幽霊を見せられるという筋書きは初めてだとの感想を述べていた。(新潮文庫・小川高義訳)

海外小説の翻訳ばかりは、最終的には好みの問題です。
しかし「ねじの回転」に関して言えば、上記の4つの例ですと、南条竹則訳では2番目のセンテンスの頭に、いきなり〈ぞっとする〉という怪奇譚では一番のパンチ=ライン (決め台詞) が現れて、ハッ!とさせられるところが私は気に入っています。

この南条訳に近いのが、光文社古典新訳文庫・土屋政雄訳の第2センテンス〈終わってしばらくは「身の毛がよだつ」というごく当たり前の--〉ですが、こちらの場合「身の毛がよだつ」という、せっかくのパンチ=ラインを、前書き〈終わってしばらくは〉と後書き〈……というごく当たり前の〉で、すっかり弱めてしまっている印象です。

南条竹則という翻訳者は、例の「読みやすさ」が売りの光文社古典新訳シリーズで実に13作品を訳出し、新潮社の名作新訳コレクションでラヴクラフトのクトゥルー神話傑作選を3作品、その他、創元推理文庫から本作「ねじの回転----心霊小説傑作選」、ちくま文庫から「イギリス恐怖小説傑作選」と、新訳ものの翻訳者、とりわけ怪奇小説・恐怖小説 翻訳のスペシャリストとして、その名を馳せているかたのようです。

たしかに「ねじの回転」のみならず、本文庫に収められた他の心霊小説3作品も「ぞっとさせる」スペシャリストの翻訳力が遺憾なく発揮されていて読みごたえがありました。
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)より
4488596010
No.32:
(4pt)

ホラーというより熱病にうなされるような心理小説。奇妙な独特の味わい。通俗に流れない気品あり。

本場英国の田舎の屋敷を舞台にした幽霊小説なわけだが、家庭教師の女性の独白体で、ねちっこい心理描写と兄妹や家政婦との、ゆったりとした?よくわからない?持って回った?会話の連続で、独特の味わいがある。通俗に流れないのが良い。にしても、家庭教師の女性の心理、思い、幽霊との奮闘?自分でルールを決めた独り相撲みたいな?なかなかに進まない展開なのだが、ようやくにして、魅入られた妹、兄の心の叫びが露呈してきたと思いきや、ラストが。。。。嗚呼。疲れた。。。。今の小説家なら、ほかのラストを用意すると思うが、ま、古典だろう。気品はあるぞ。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.31:
(4pt)

暗示する物語。

表題作の「ねじの回転」の、そのタイトルにすでに幾ばくかの不気味な印象を受ける。一体何のねじが、どう回転するのか。回転して、それで何が起こるのか。邦題に醸し出されるそんな疑問はしかし読むことによっては解決されない。原題は「ひとひねり」程度の意味であり、「ねじ」に焦点が置かれた言葉ではないからだ(「訳者後書き」より)。にもかかわらず、この物語のタイトルとしては「ねじの回転」が相応しいようにも思える。目に見えない、どこにあるかも分からないねじが、ゆっくりと締められて行くイメージこそが物語な内容を的確に表現しているという気がするからだ。暗示に次ぐ暗示、人物の行動さえ明確に語ることはない、ゆえに分かりにくい文体で綴られる物語では、幽霊(めいたもの)はただそこに「見られる」、しかもただ一人の人物によって「見られる」のみで、一切何かをする、ということがない。そして結末において「あれは何だったのか」ということが明かされるわけでもない。杭のように佇むのみの「それ」の周りを登場人物たちがひたすら摺り足で巡る、そのような内容である。「そのような内容」と書いたが、これではおそらく「どのような内容」なのかはまったく判然としない。「判然としない」と書いたが、物語自身が本当に判然としないのだから、表現はこれでいいのだと思う。それゆえにさまざまな「解釈」がテクストの周りにわらわらと集まってくる、そんな怪奇小説の古典。
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)より
4488596010
No.30:
(5pt)

あまりにも有名でありすぎるため、もうひとひねりできない邦題「ねじの回転」

ヘンリー・ジェイムズの小説のなかで『ねじの回転』が特別な位置を占めているのは、21世紀になってから本訳も含め、いくつもの邦訳がなされていることで証明されよう。
 私はかつて古茂田淳三の『ヘンリー・ジェイムズ『ねじのひねり』考』(大明堂・1981)という一冊まるまる『ねじの回転』にあてた研究書を読んだことがあったが、その本はA5判で200ページを越す、対象とした小説よりひとまわり分量の多い著作だった。
 その当時、ヘンリー・ジェイムズの本の訳書、またヘンリー・ジェイムズについて書かれた日本語の本はほとんど読んでいたが、数ある日本人によるジェイムズ論の本のなかで上記の本は読めるものだと思えた(というより多くのジェイムズ論の本がつまらなすぎた)。
 結局、『ねじの回転』とは一冊の本をつかって論じるに値する作品なのであろう。手元にその本が見つからないが、先行研究を徹底的に探索しつくした緻密な作品論だったという思いは私の頭のなかにある。
 そうしたこともあって久しぶりに読む『ねじの回転』は納得のいく読後感をもたらしてくれた。
 21世紀における他の邦訳は未読だが、どうも本訳が最も原著の構文に沿ったものらしい。私には、それが合っていると思った。
 ジェイムズの短篇のなかでは(『ねじの回転』も短篇である)芸術家小説といった範疇のものが好きだが(『ヘンリー・ジェイムズ短編選集〈第2巻〉芸術と芸術家』は私が偏愛する書物である)、私はそうした諸短篇のなかで交される独特のジェイムズ的な会話に強い関心をもっている。
 言葉の多義性を利用した会話には難しさとともに含蓄がある。これはジェイムズが関心をもちながら挫折を味わった演劇作品とどこかで繋がる要素であろうか。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.29:
(5pt)

人の想念に生まれた幻影はどのように増殖してゆくのか。

幽霊はいたのか、いなかったのか、が気になりますが、それはこの作品では問題にはならない。ひとの心に入り込んだ幻影が増殖してゆく過程を読者の私たちに充分に堪能させてくれる作品である。幻影を生み出す背景の描写が見事だ。
大変面白く読めた作品なのだが、一つだけ不満を言うならば、最終章の終いで「マイルズの小さな心臓は、もう呪縛を解かれて、止まっていたのです。」との記述があるのだが、それが何故必要だったのかが理解できない。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.28:
(4pt)

ヘンリー・ジェイムズの傑作

テンポが良く、ホラー作品としても主人公の女家庭教師の精神分析をする意向で読んでも面白い小説です。

ブライの館で家庭教師として雇われ、2人のかわいい教え子を持つ彼女はある日から館の敷地内で幽霊にたびたび遭遇するようになるのですが、物語は彼女の主観的、一方的な語りを中心に進んでいくので、だんだん狂気的になる家庭教師の様子を見ると、実は幽霊なんて出ていないのではないかという研究も多く出ている作品です。

読んでいて怖いのですが、幽霊が怖いのか家庭教師が怖いのか分からなくなってきます。幽霊が出た/実際は出ていなかった と場合分けして読むとさらに面白いです。

個人的にグッと来たのはタイトルですね。
元はそんな想定で付けられたのではありませんが、物語を通してずっと、どこかで「ねじ」がキリキリと不吉な音を立ててゆっくり回り続けているような気がするんです。○○○○を射止めて、物語の終わりと、○○の停止とを遂行したかのようにhad stopped.(原文から)と綺麗に動きを止める様子がイメージとして浮かび上がってきました。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.27:
(5pt)

読書会の課題図書を探す誰かにも

"子供の登場で、ねじがギリッと一回転、心に余計深く食い込むとすると、子供が二人ならどういうことになるのかな"1898年発刊、スティーブンキングも絶賛する幽霊譚である本書は、怪奇・心理小説の傑作にして、文学技法上の『信頼ならざる語り手・意識の流れ』の元祖として、様々な形で読書を幾通りも楽しませてくれます。

さて、そんな本書は、大きな物語の中で異なる物語が語られる『枠物語』(額縁小説)といった形式で、クリスマスイブに古い屋敷で集まって怪談をしている中でダグラスという『ある人物が朗読する』意図して名付けられていないヒロインー『家庭教師の女性による手記』を、手記そのものではなく、語り手『私が正確に書き写した』とする。何とも【構造自体からして複雑で】読者を虚実入り乱れる世界へと誘導しているわけですが。(物語自体は素直で読みやすいです)

最初に読んだ時は【幽霊譚】ホラーとして"アイシーデッドピープル"1999年に、ブルース・ウィリス、当時天才子役と騒がれていたハーレイ・ジョエル・オスメントを主演に公開されたミステリー映画『シックス・センス』の方を脳内イメージ再生させて、ビクビクしながらも果たして【幽霊は実際にいたのか?いなかったのか?】を多くの評論家と同じくうむむと(楽しく)悩まされたものですが。

再読となる今回は、20才にして既に『行き遅れ』と感じている異様にテンション高く、男女共にすぐに抱きつく"信頼ならざる語り手"婚活ヒロインによる、雇い主の『イケメン貴族に(あわよくば)気に行ってもらう』ための【自作自演ロマンス】として読んでしまって。振り回される登場人物たちの姿に(幽霊ではなく)『ヒロインから早く逃げてー!』と心の中で叫びっぱなしで【幽霊譚と違う意味で】怖かった(笑)

あと。原文の英語で読めない浅学非才さがもどかしいですが。この著者による意図して【多くの余白を読み手に残した物語】を日本語という孤立した独自の言語に訳した翻訳家たちの素晴らしい仕事ぶりに感謝したい。想像するしかなくても、特に本書に関しては【細心の配慮が必要だっただろう】とヒシヒシと感じるから。

じわじわくる心理小説好きな誰かへ、また読後に仲間たちとワイワイ、あれやこれやと話せる読書会の課題図書を探す誰かにもオススメ。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.26:
(5pt)

読書会の課題図書を探す誰かにも

"子供の登場で、ねじがギリッと一回転、心に余計深く食い込むとすると、子供が二人ならどういうことになるのかな"1898年発刊、スティーブンキングも絶賛する幽霊譚である本書は、怪奇・心理小説の傑作にして、文学技法上の『信頼ならざる語り手・意識の流れ』の元祖として、様々な形で読書を幾通りも楽しませてくれます。

さて、そんな本書は、大きな物語の中で異なる物語が語られる『枠物語』(額縁小説)といった形式で、クリスマスイブに古い屋敷で集まって怪談をしている中でダグラスという『ある人物が朗読する』意図して名付けられていないヒロインー『家庭教師の女性による手記』を、手記そのものではなく、語り手『私が正確に書き写した』とする。何とも【構造自体からして複雑で】読者を虚実入り乱れる世界へと誘導しているわけですが。(物語自体は素直で読みやすいです)

最初に読んだ時は【幽霊譚】ホラーとして"アイシーデッドピープル"1999年に、ブルース・ウィリス、当時天才子役と騒がれていたハーレイ・ジョエル・オスメントを主演に公開されたミステリー映画『シックス・センス』の方を脳内イメージ再生させて、ビクビクしながらも果たして【幽霊は実際にいたのか?いなかったのか?】を多くの評論家と同じくうむむと(楽しく)悩まされたものですが。

再読となる今回は、20才にして既に『行き遅れ』と感じている異様にテンション高く、男女共にすぐに抱きつく"信頼ならざる語り手"婚活ヒロインによる、雇い主の『イケメン貴族に(あわよくば)気に行ってもらう』ための【自作自演ロマンス】として読んでしまって。振り回される登場人物たちの姿に(幽霊ではなく)『ヒロインから早く逃げてー!』と心の中で叫びっぱなしで【幽霊譚と違う意味で】怖かった(笑)

あと。原文の英語で読めない浅学非才さがもどかしいですが。この著者による意図して【多くの余白を読み手に残した物語】を日本語という孤立した独自の言語に訳した翻訳家たちの素晴らしい仕事ぶりに感謝したい。想像するしかなくても、特に本書に関しては【細心の配慮が必要だっただろう】とヒシヒシと感じるから。

じわじわくる心理小説好きな誰かへ、また読後に仲間たちとワイワイ、あれやこれやと話せる読書会の課題図書を探す誰かにもオススメ。
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)より
4488596010
No.25:
(5pt)

ヨーロッパに咲いた花

デイジーミラーが読みたくて。同じヨーロッパにおけるアメリカ娘でも、周囲の尊敬を集めた病弱なヒロイン、ミリー(『鳩の翼』)といわば真逆なタイプのデイジー。「米国人女性に対する偏見」との不満の声もあるそうです。アメリカとヨーロッパの文化やコモンセンスの衝突は、現代でも映画『ザ・スクエア』の一幕で端的に扱われていました。

で、ひょっとして『グレートギャッツビー』のデイジーって、フィッツジェラルドのオマージュなのかな??とかって文豪たちへの想いと想像が知らず知らずに巡らされるのも古典文学をよむ醍醐味のひとつ。
 
訳者による、デイジーを叩き台にしたイノセントの両義性の解説が、ひたすら興味深い。
ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)より
4003231392
No.24:
(4pt)

幽霊はいたかもしれないが・・・

本の題は以前から知っているのですが、読んだのは最近です。ちょうど、新潮文庫の小川高義氏の訳が出ていたので買ってみました。

ともかく、文章があいまいで、何が言いたいのかよく分からないのには参りました。
いろいろ調べると、翻訳が悪いわけではないのですね。元の英文がこみ入っている。
「幽霊が本当にいたのか」という点では、少なくとも最初は 「いたのではないか」と思います。家庭教師のヒロインが何の先入観もないのに、いきなり幻覚をみるとは思えない。しかし、子供たちは全く気にしていない。たとえ、恐がらなくても何らかの反応があるはずなのだが。おそらく子供たちには見えないのでしょう。

ただ、ヒロインがこの屋敷に居るうちに、だんだん話がおかしくなっていきます。最後に妹のフローラが激しくヒロインを拒絶しますが、真昼に見えないものを「どうして見えないの!」と詰め寄られれば、逃げ出したくなります。兄のマイルズの方は、弱みもあったのでフローラほどは拒絶反応を示しませんが、それでも最後に「この女、やっぱりおかしい」と気づきます。ただ、逃げ出すのが遅すぎた。

訳者の「本当に幽霊が出たのであってほしい」というあとがきには、全てヒロインの幻覚だったらあまりに悲しいという思いがあるのでしょう。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.23:
(4pt)

買いです。

書店で新訳を見つけて、30数年ぶりに読みました。
怪奇小説の括りで紹介されることが多いですが、2人の幽霊あるいは超常現象そのものは、読みようによっては語り手の家庭教師を怖がっているようにも見え、また、階級意識からくるところがもちろんあるにしろ、家政婦のグロースさんや、加えてラストのフローラの件りも、なにやら不誠実な語り手といいますか、語り手を怖がっているのを自身で正当化しているといいますか、怪奇というよるサイコ小説の趣きのある作品でした。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.22:
(4pt)

謎だらけ(ネタバレあり)

怪奇小説の古典、ということで読了しました。

読み終えた感想を率直に言うと「よくわからない」です。
怖いかといえば、あまり怖くなく、では何もないのか
と聞かれれば、たくさんある、というような…

内容そのものは幽霊と、それをめぐる人間模様ですが、
途中から2人の子供と家庭教師の心理戦とでも呼ぶべき
ものになっています。

文体そのものが曖昧、かつまたヴィクトリア時代に
特有の「はっきり物を言わない」「言いにくいことは
碗曲に表現する」ことで、二重に分かりにくいです。
作者自身もそれを狙っている感があり、読み手によって
どうとでも取れる表現を意図的に差し込んでいます。

ぼく自身は幽霊は「いた」派ですが(2人の幽霊の容姿を
明快に述べている、出現パターンを読み切っていない、
2人の子供が幽霊の名前をはっきり知っている…等)、
これとて自信を持って言えるわけではありません。

それより謎なのは主人公の立場で、家庭教師という
地位でありながら、あそこまで家政を取り仕切れる
ものだろうか…?ということ。
またグロース夫人とは何者なのか?

ヴィクトリア朝での家庭教師の立場は微妙で、他の
使用人に比べれば高給取りで地位も上ですが、メイド
たちからは孤立し、当然男性陣とも疎遠。
また、いくら主人の肝いりだとしても、家政婦(ハウス
キーパー)やコックより立場が強いとも思えません。

そういう目で見ると、グロースがただのお人好しで
気の弱い女性だというのは変な感じがします。
小説では、家庭教師とグロース夫人、および2人の子供以外、
使用人その他は遠景といってよく、幽霊ですら背景の
ひとつと言っていいかもしれません。
その彼女たちのやり取りを読んでいると、どうもグロースは
家政婦あるいはナニー(乳母)らしいのですが、家政婦なら
一家庭教師に指図されるとも思われず。かといって乳母だと
したら、屋敷から子供を連れ出すという重大事を行うのに
家政婦から何も言われないというのはおかしい。
また、幽霊を見ているのか見ていないのか。見ていたなら、
彼女もかなりしたたかな女だということになります。

この小説の主題は「邪悪」だと思うのですが、もし子供たちが
邪悪であるなら、主人公がとった行動は正しかったのか、
正しいとするならラストの結末はそれを証明しているのか
(つまり亡霊の邪気に染まり切っていたためか)…

雇い主の男が頑として姪・甥に近づこうとしないのはなぜか
(ちなみにヴィクトリア朝の子育ては親ではなくメイドに
任されていたことを考えると、それほど突飛な行動では
ないかもしれない)。それとは逆に、あれほど頑なに沈黙の条件を
守ろうとした主人公の動機は何か(恋愛感情というのはちょっと
苦しい気が…)。

なにぶんあの時代の常識や知識をよく持ち合わせていないので、
どう解釈したらいいのか困惑することだらけでした。

ホラーとしては「?」だけれど、自分のおつむにネジを
グリグリ刺し込まれた、という点では題名どおりです。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.21:
(4pt)

ヴィクトリア朝文化の最期の耀き

・「ねじの回転 The Turn of the Screw」、この謎めいたフレーズは2回だけ登場する。まず冒頭で、「もし子供だということで、ねじを一ひねり回すくらいの効果があるなら…」(p5)とあり、末尾近くで、「しかし、ねじを回転させて、ひとひねりでも前へ進めるように、…」(p215)とある。「訳者あとがき」によれば、前者は「さらに一ひねりした効果」、後者は「もう一踏ん張り」というような意味だという。ようするに、「ねじりながら前進する」というイメージがあるようだが、特に本書の主要テーマとも思えず、なぜこのフレーズがタイトルとなったかは簡単には理解できない。

・本書は、田舎牧師の娘の「私」が書いた手記の体裁となっており、彼女は、古い館に住む美しい子ども、マイルズとフローラの兄妹の家庭教師として赴任し、そこで何度も幽霊を目撃することになるが、それは前任の家庭教師の女と館の下男の幽霊で、二人とも不可解な死を遂げていた。いまとなっては既視感のあるプロットだが、ラストに至ってもホラー的な要素は少なく、実際に幽霊たちが出現したのかどうかも曖昧模糊としている。しかし、この曖昧模糊とした印象を抜きにすると、本書の魅力の大半が失われてしまうだろう。

・主人公の「私」は、「子供を守らねばならない教師が、妖異、怪異を説いて脅かしたのでは言語道断です」(p123)という堅い信念を行動規範としており、貴族階級の出身ではないが、教養人らしい品位の保持に細心の注意を払っている。その彼女の品位を証明するのが、相手を傷つけないよう、婉曲な表現で語られる手記の「精妙にして複雑な」(「訳者あとがき」)文体だ。この厄介きわまりない婉曲な表現のせいで、読者は、「私」の真意がつかめず、霧の中をさまようように、ストーリーの意味を解釈させられることになる。

・(以下、ネタバレに注意)「訳者あとがき」で、本書は「いわゆるヴィクトリア朝時代の階級意識、道徳意識を基盤にした物語である」と解説されており、「私」の手記の婉曲な表現こそが、イギリスの爛熟期にあたるヴィクトリア朝の品位を端的に示している。そして、訳者あとがきによれば、幽霊は出現しておらず、すべては家庭教師の妄想にすぎないという評論家の見解が有名なのだそうだ。主人公の「私」の説明によれば、幽霊たちは、マイルズとフローラを「悪」に染めようとしている。この構図は、新約聖書のキリストが荒野で悪魔から誘惑される「荒野の誘惑」のエピソードを連想させる。しかし、幽霊たちの「悪」がどのようなものかは具体的には説明されない。本書は、ヴィクトリア朝末期の1898年に発表されているから、つまり、幽霊たちとは、「ねじの回転」、すなわち時代を転回させる新興階級の活力を意味し、「悪」とは、その民衆文化の新しさをイメージしているようなのだ。

・もともと、「私」は、マイルズとフローラに紳士・淑女にふさわしい教育を施すというミッションが与えられていた。その「私」は、最初、幽霊たちの出現に肝を冷やすが、なぜか少しも怖がっていない。これは見逃せないポイントだ。「私」は、幽霊たちの出現後、マイルズとフローラを「悪」から守るという新たなミッションを自らに課すが、「私」自身が幽霊たちと同じ新興階級の出身だったため、彼らとの対立点が見当たらないという論理的矛盾をはらんでいた。

・実際のところ、「私」が奮戦していた相手は、幽霊たちではなく、日々、成長していくマイルズとフローラだった。彼らの反抗的な態度は、貴族階級の文化に飽き足りなくなった転換期の風潮を代表している。そして、いつの間にか、「私」の視点は、家庭教師のそれではなく、新興階級の文化=「悪」に染まっていく子どもを手元に取り戻そうとする保守的な母親の視点にすり替わっていた。そうでないと、あの意外なラストの1行の意味は理解できないだろう。ヘンリー・ジェイムズは、本書で、「私」の視線を通して、ヴィクトリア朝文化の終幕を象徴的に描ききったように思える。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.20:
(4pt)

ミステリーのような怪奇小説

物語を最後まで読んで、なぜあの結末になったのかを考えた時に、いくつもの伏線を再度考え直した物語。訳者あとがきに、パズルのような物語と言っていたのがすごいうなずける。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.19:
(4pt)

想像させる小説

なかなか面白い結末でした。いろんな想像をかきたてる面白い小説でした。
ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)より
4003231392
No.18:
(5pt)

162頁から一気読みモードになりました。

「時代を遥かに越えた新しさ」(298頁、訳者解説)を有し「いまなお世界で最も広く愛読されている幽霊物語の一つ」(290頁、同)とされる1898年発表の作品。モダン・ホラーを思わせる展開と様々な解釈に開かれた物語の状況と登場人物たちの動静が、何と云うか非常に不気味で、ざら~とした後味が脳裏に漂曳する。ネタバレになるのでこれ以上は書けないが、実際にようやくこの歳になって初めて読んでみて、この時代にこれだけの心裡描写、オリジナルが持つある種の香気(霊気?)に溢れてもおり、確かに世界文学の名作と云えば名作だろうな、と納得させられた一作でした。

「子供に幽霊が出るという面白い話は、ぼくには、あれが初めてじゃないんです。もし、子供ということが、ねじの回転(ひねり)を一段と利かせているというのなら、ではふたりの子供では、どんなもんでしょう-?」「もちろん、それじゃ ・・・ ふた回転(ひねり)の効果になるぜ! ついでに一つ、その話を拝聴したいもんですな」(6頁)
「いま、わたしの恐ろしい試練はもちろん、不自然な、不愉快な方向に推し進められてはいるが、しかし結局、ただ一回転(ひねり)すればふつうの人間の美徳に変わるのだから、善い方の状態になるネジの一回転を、わたしはあくまで追求していくべきだ」(260頁)。
「ねえ、マイルズ、いつか嵐の晩に、わたしがあなたのお部屋に行ったとき、ベッドの上に坐って、あなたに言ったこと覚えていて? あなたのためなら、たとえどんな事でもするって言ったの」(269頁)
「わたしは彼を捕まえた。そうだ、しっかり抱きしめた-どんなにかはげしい情熱をこめて。でもしばらくするとわたしは、自分の抱きしめているものが、本当は何だったか判りはじめた。わたし達は、静かな真昼にただ二人きりだった。そして、悪霊を払いのけられた彼の可愛い心臓は、鼓動の音が止んでいた」(286頁)。
「彼が、ここに描かれた恐ろしいものが何であるか、その正体をハッキリ見分け、固定させないことに成功し、一方読者各自が、自分でその正体を確認せざるを得ないように書き上げたことに、芸術家としての誇りをもったのは当然であろう」(296頁、訳者解説)。

訳文は流れもよく概して読みやすかったが、所々日本語表現がおかしなところは散見されるように感じました。(例えば、280頁で、「退学されて」とは云わないだろうし、「追求」は「追及」であろう。)
なお、284頁で、マイルズが何故「ジェスル先生、ジェスル先生のことさ!」と叫んだのか、ここは意味深ではないかと思いつつ、読了しましたね。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041028
No.17:
(4pt)

ホラーの古典を堪能できる中短篇集

ヘンリー・ジェイムズの古典的怪奇小説5編を集めた中短篇集。
表題作は言わずと知れた古典的ゴースト・ストーリーで色々な所で様々な事が言われている有名な作品なので、私がわざわざ同じ様な事を書いても屋上屋を架す事になると思うので特に何も言いませんが、一言だけ言わせてもらえば、流石古典と言われているだけあって良く出来ているなぁと思いました。様々な解釈も面白いのでやはり必読の作品だと思います。
他の4篇は普通小説に多少ゴースト・ストーリー的要素が入っている様な感じの短篇ではっきり言ってそんなに怖くないし、面白くもなかったです。それでも大家の作品という事で読む価値はあるかもとも思いましたが、人によって評価が判れそうに思いました。
という訳で良くも悪くもヘンリー・ジェイムズの世界を堪能できる短篇集だと思いました。これからホラー、怪奇小説、その他何でもいいですが、こういう小説を読もうと思っている方には表題作だけマストだと思いました。
ホラーの古典を堪能できる中短篇集。機会があったらご一読を。
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)より
4488596010
No.16:
(5pt)

モヤモヤが止まらない

読んでてすごく引き込まれました。それだけにモヤモヤが止まりません。面白かったです。原文と他の訳本も読んでみたくなりました。
ねじの回転 (1978年) (旺文社文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (1978年) (旺文社文庫)より
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No.15:
(5pt)

とても良かった

好き 好き意外に言いようがないです
皆さんにも是非読んで欲しいです^ ^
ねじの回転 (1962年) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (1962年) (新潮文庫)より
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No.14:
(4pt)

解釈が難しく読後、はぁ!?何この小説!って思いました。

スティーブンキングが過去100年の中で最も素晴らしいと賞賛した 小説 シャーリィージャクスンの丘の屋敷につづき
絶賛された小説とお聞きし、シャーリィー先生の作品が素晴らしいかったのでこちらも購入して見ました。
古典ホラー小説ではありますが 何とも言えない気持ちの悪い寒々描写には終始目が離せず
あっという間に読んでしまいました。(解説入れて全300P程度ですので読むのが速い方短時間で読めるかと思います。)
そして読了した後 頭の悪い自分はこの小説はどう解釈したら良いのか??状態で
巻末の解説を読み他の解説を読んだり、解説されてるサイトを見たり、、でようやくスッキリした感じです。

すでに書かれている方がいらっしゃいますが物語は 暖炉の前で怪談話に盛り上がる数人がひねりを聞かせた話が欲しいなとせがみます。
そこに出たのは語り手となるダグラス。
ダグラスは10離れた友達の歳上の女家庭教師が体験した手記の話を持ちかけます。
(ここで複雑なのがこの物語は家庭教師が記したものをダグラスが読み、聞き手の私が物語を書き残すといった流れです。)
20そこそこの田舎の牧師の元に産まれた彼女は家庭教師の求人を探し単身ロンドンへ。
そこで雇い主(これまた小説でしか滅多にお目に掛かれないハンサムな紳士)が出した内容は 
田舎のダラスにある邸にいる、両親がインド滞在中に亡くなった幼い甥と姪の家庭教師をして欲しい、
前の就任者は不幸にもお亡くなりになり現在彼らを女中頭のグロースが見ている、
正し何かしら問題のある事件がむこうで起きたとしてもこちらへ一切連絡しない事、こちらは何があっても関わらないことが条件付きであった。
既に何人か応募に来たがこの条件が嫌で辞退した者もいたが、彼に心中お熱な彼女はこの条件を飲みダラス邸へ行く事になるのです。

もうこの時点でこれは何か起こるな〜という恐怖材料は整っているかと思います。

そこで待ち受けるダラス邸での甥のマイルズとフローラを悪への道へと導こうとしている悪霊の存在や、
わたし視線から見て良い子のマイルズの退学になった理由、
終始わたしに献身的なグロースさんが言うはっきりしない不安な言葉の数々、、
そして書き手のみの視線で書かれているので何処迄が本当で結局幽霊は子供達も見ていたのかそれとも彼女だけ?
全ては伯父であるハンサムな雇い主に構ってもらいたいが故の狂言?と色々詮索させられます。
そしてどれも答えが当てはまらないと思います。
解説も人様々で彼女の行動は全て性的欲求の幻覚(始めて見た男の幽霊を当初惚れた伯父と間違えたり、
フローラが湖畔で穴の空いたブロックと棒を差し込んだりして遊んでいたと表記していることから)と解説する人もいます。
読後感じ方が千差万別に別れる小説じゃ無いでしょうか?
ただ一つ言えるのは表現するのは難しいのですがこの結局何が悪いのか、何が原因かはっきりしないところの気持ち悪さが半端無かったです。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
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