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(短編集)
白痴
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【この小説が収録されている参考書籍】
白痴の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.12pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全61件 41~60 3/4ページ
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評論集である『堕落論』から始め、間に『白痴』を挿入、再び『堕落論』で締めるという構成は、 安吾を分かりやすくもしているが、一方で誤解を生むことにもなるだろう。 精神的にまいっている時に安吾を読むと一時的に楽になる。安吾が堕落することを許してくれるからだ。 だが、それは止めどがない。どこまでも堕ちていくきっかけなりかねない。 安吾は「時には堕落しなけりゃやってられない」と言っているだけなのに 「どこまで堕ちてもいいんだよ。堕ちろ〜堕ちろ〜落ちると楽だよ」と呪文でもかけれている気になってくるのだ。 そんな時の解毒剤が『白痴』である。 『堕落論』の主張を作品化したものである。 白痴の女と燃え盛る空襲の炎の中をのがれ、 「生きるための、明日の希望がないから」女を捨てていく「はりあいさえない」と嘆く男、 また朝が来て太陽の光がふりそそぐだろうかとだけしか考える事のできない男。 しかし男は、堕ちて行く途中を、この白痴の女に支えられるのである。 描画的なことで言ううと、この白痴の女は,美しく描きすぎている。 「白痴美」とは反対汚損時になければ安吾の意は表せないだろう。 | ||||
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「堕落論」をもとに描いた短編集です。現実と観念とにおける差異の甚だしさに自己の存在を置いています。その差にニヒリズムを見いだしたのかもしれません…。 「何か一つの純潔とその貞節を守らずには生きていけられなくなるものだ。」 | ||||
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落ちるところまで落ちろ そうすれば自然に浄化される いい意味での他力本願 熱心党みたいな平沼さん 嘆きの壁にならないといいがwwwwwwww | ||||
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この作品集には十四篇の短編が収められており、人間の魂を見詰める坂口安吾の姿勢の遍歴と、その小説への凝縮を辿ることができる。『吹雪物語』の執筆(昭和11年から昭和13年)或いは「文学のふるさと」の発表(昭和16年)を一つの境目と考えると、本作品集を興味深く読めるかもしれない。 坂口安吾の文学のモチーフは人間の魂の全的肯定にあり、それは人間生来の孤独、哀切(それを彼は「ふるさと」と呼ぶ)を冷徹に凝視することで為される。初期の作品に於いては、「ふるさと」に対する彼の態度は虚無的で感傷的だった。その感傷の故に数々の美しい詩的な作品(本作品集では「傲慢な目」を特に挙げられるだろう)が生まれたが、一方では視線には冷徹が不足し、「ふるさと」に対する態度には厳格が稀薄だった。そのために「ふるさと」には現実感が欠け、憧憬ばかりが顕著になっている。しかし徐々に(本作品集では昭和21年の「白痴」から)、彼は「ふるさと」に急速に接近して行く。感傷的なものから現実的なものへ、憧憬から希求へ、受動から能動へ。この姿勢の変化とその徹底によって、彼は人間の魂の深層を照射し、人間の魂の全的肯定そして人間の生命力への全的信頼に達したのだ。 | ||||
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匂いって何だろう? 『白痴』『青鬼の褌を洗う女』は新潮文庫版でも読んだけど、面白かった。 『二流の人』は、奇を衒った時代小説かと思いきや至極全うな時代小説で、すごくおもしろかった。 黒田如水が一応の主人公だけど、小西行長や豊臣秀次を総括的に「二流の人」と呼び、時代に翻弄されつつも味のある人生を送った、一流ではないヒーローたちの物語。な気がする。 スティグマを持ったヒーローは、決して主役にはなれないということですね。そんなヒーローのほうが個人的には好きだけど。 苦しまなければならぬ。 できるだけ自分を苦しめなければならぬ。 人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。 君、不幸にならなければいけないぜ。 うんと不幸に、ね。 そして、苦しむのだ。 不幸と苦しみが人間のふるさとなのだから、と。 | ||||
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匂いって何だろう? 『白痴』『青鬼の褌を洗う女』は新潮文庫版でも読んだけど、面白かった。 『二流の人』は、奇を衒った時代小説かと思いきや至極全うな時代小説で、すごくおもしろかった。 黒田如水が一応の主人公だけど、小西行長や豊臣秀次を総括的に「二流の人」と呼び、時代に翻弄されつつも味のある人生を送った、一流ではないヒーローたちの物語。な気がする。 スティグマを持ったヒーローは、決して主役にはなれないということですね。そんなヒーローのほうが個人的には好きだけど。 苦しまなければならぬ。 できるだけ自分を苦しめなければならぬ。 人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。 君、不幸にならなければいけないぜ。 うんと不幸に、ね。 そして、苦しむのだ。 不幸と苦しみが人間のふるさとなのだから、と。 | ||||
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安吾先生は「肉欲」とか「肉体」とか「女体」とか言うキーワードを好んでいた割に、 性愛に走るのを拒み、理想論的な恋愛をガッチリ書こうとしていたようです。 その思想は「青鬼の褌を洗う女」や「女体」「恋をしに行く」で顕著だと思います。 プラトニック・ラヴに五月蠅い方には特にオススメです。 あと「戦争と一人の女」は無削除版のほうが記述が丁寧で読み易いです。 血生臭くもうつくしい「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」も読めて、 非常にお得な一冊です。 | ||||
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安吾の純文学および幻想文学の代表作を網羅した短篇集。 前月発売の「堕落論・日本文化私観」、翌月の「風と光と二十の私と・いずこへ」とあわせて、岩波文庫3冊で安吾選集のコンパクトな決定版ができた感じだ。 分量も過不足ないし、これまでに出たどの作品集よりも純度が高い。 最新版筑摩全集に準拠した初めての文庫本なので、「白痴」や「戦争と一人の女」は無削除版であり、「風博士」は冒頭の1文から他社の文庫と違う。 あとはこれに、推理小説&ファルス、歴史小説、紀行&ルポなどで1冊ずつ作ってもらえれば、短篇選集としては完璧だろう。 この巻の収録作は以下のとおり。 風博士 傲慢な眼 姦淫に寄す 不可解な失恋に就て 南風譜 白痴 女体 恋をしに行く 戦争と一人の女〔無削除版〕 続戦争と一人の女 桜の森の満開の下 青鬼の褌を洗う女 アンゴウ 夜長姫と耳男 | ||||
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「堕落論」なんて現代人が読んでも共感できるわけがないです。 なぜ「堕落論」「白痴」が戦後の国民に衝撃を与えることができたのか? それは当時の読者がまさに戦争の体験者だったからです。 本作では原作にはない戦時中の具体的なエピソードや安吾の他の随筆の要素を交えて、現代人にも非常にわかりやすく構成されています。 「堕落論」から同時収録の「白痴」への繋がりが見事で、制作担当者の努力に拍手を送りたい。 戦争を知らない世代のためにアレンジされたマンガ版「堕落論」。 おすすめです。 でも当時の戦争を知っている先輩達には当然原作がおすすめですが……。 | ||||
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まさに現代版の小林よしのりのような内容である。 戦前の日本の美しさを虚しい美しさと言い表していて、前後のギブミーチョコレートや闇市、売春婦などの社会風刺を落ちるところまで落ちるのは人間だからしょうがないとしている。 マンガのタッチも小林よしのりに似ているため、とてもスムーズに楽しく読めた。 堕落論,白痴という題名からおもしろくなさそう先入観をもっていたが、実におもしろかった。 | ||||
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大学生の時に「堕落論」を読みましたが、あの頃は「堕落せよ」という フレーズだけがただただ印象的で、その後12年、坂口安吾って 「人間ダラダラ生きましょう」と言ってる人だ、だらしない人だと 思っていました。 が、こうやって改めて読んでみると(マンガだけど)、坂口安吾は けしてだらしない人ではないということが分かります。戦前・戦中を 通して、人間はどう生きるべきかを考え続けた人なのですね、きっと。 白痴で描かれる人間のリアルさもおもしろいです。 相当に人間を見ている人なのでしょう。 12年前に私が坂口安吾に理解できず、共感もできず、深入りも しなかったのは、彼の書く文章がかなり主観的・観念的・抽象的 だったからだと思うのです。1946年に発表された原作に対して 時代背景も分からなかったし。けれどもこのマンガでは、 坂口安吾の言いたいことが戦争を全然知らない私たちにも 具体的にイメージできるものになっています。 彼は、政治的な体制がどうであれ、自分の好きなこと、自分の 欲しいことを明確にして生きていくことの大切さを説いている ように思いました。その反面で欲するままに生きることの害悪 も警告しているようです。 だったら、どう生きたらいいのだろう、と思いますが、それが たぶん人間の核であり、本質かなと思います。 もう一回原作を読んでみたら、本質にたどり着けるかもしれません。 | ||||
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大学生の時に「堕落論」を読みましたが、あの頃は「堕落せよ」という フレーズだけがただただ印象的で、その後12年、坂口安吾って 「人間ダラダラ生きましょう」と言ってる人だ、だらしない人だと 思っていました。 が、こうやって改めて読んでみると(マンガだけど)、坂口安吾は けしてだらしない人ではないということが分かります。戦前・戦中を 通して、人間はどう生きるべきかを考え続けた人なのですね、きっと。 白痴で描かれる人間のリアルさもおもしろいです。 相当に人間を見ている人なのでしょう。 12年前に私が坂口安吾に理解できず、共感もできず、深入りも しなかったのは、彼の書く文章がかなり主観的・観念的・抽象的 だったからだと思うのです。1946年に発表された原作に対して 時代背景も分からなかったし。けれどもこのマンガでは、 坂口安吾の言いたいことが戦争を全然知らない私たちにも 具体的にイメージできるものになっています。 彼は、政治的な体制がどうであれ、自分の好きなこと、自分の 欲しいことを明確にして生きていくことの大切さを説いている ように思いました。その反面で欲するままに生きることの害悪 も警告しているようです。 だったら、どう生きたらいいのだろう、と思いますが、それが たぶん人間の核であり、本質かなと思います。 もう一回原作を読んでみたら、本質にたどり着けるかもしれません。 | ||||
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全編にわたって気だるく薄暗い雰囲気が漂い、どこかしらネチネチとしてグダグダで陰湿な展開ぶりである。ゆえに思わず苦笑してしまった場面もあったが、読後にそれが不快という感情を呼び起こすことはなかった。むしろ今までにないフワリとした不思議な感覚を得た。ぼんやりと心地よささえ感じた。 「私は始めから不幸や苦しみを探すのだ。もう、幸福など希わない」 「幸福などというものは、人の心を真実なぐさめてくれるものではない」 「私はただ、私の魂が何物によっても満ちたることがないことを確信した」 などと、印象的な文が散見される。 「続堕落論」には、文学は制度や政治への反逆と復讐であり、反逆と復讐自体が協力なのだと述べられているが、確かに「幸福を追求し何事にも前向きに積極的に生きよう、前進し続けよう」という現代社会のスローガンに対して、この小説は強烈なカウンターパンチを浴びせる代物だ。しかし、それを浴びせることもまた協力への一歩。むしろこの小説の側の方が生きている人間の真実なのかも知れないと思った。 | ||||
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いやぁ〜、まったく読解力の無い人たちのレビューが多くて驚いちゃいました。 「ひょっとして堕落しちゃったほうが人生楽なんでしょうか、みたいな話」? 凄いですなぁ〜、これ。 こんな風にしか感じ取れない人は、そりゃ、面白くないはずだ。 それは、まったく、この本を読んでいない事に等しい。 安吾は無気力な駄目人間なんかじゃない。 彼は常に戦い続けた。 ニートなんかと一緒にするな。 もし、この小説からニート的なものを感じるならば、それは、唯単に読者に読解力が無いだけである。 気安く現代の社会問題と結びつけて、評論した気になるなよ。 また、安吾からは文学性が感じられないという意見もあるが、それは、安吾が谷崎潤一郎などの美文を嫌い、「小説は文章よりも内容」という自説を説き、「悪文」こそが「美文」という安吾独自の逆説が、そう感じさせるのだろう。 そもそも「文学性」がある作品=良い作品なの? なんで? それに、「文学性」ってつまりはなんなの? | ||||
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この短編集に入っている「風と光と二十の私と」を読んで、わたしは一発で安吾のファンになってしまった。これは安吾のエッセー的作品になるのだが、その中で彼は繰りかえし「人を嫌いになりたくない」と書いている。子供達の描写が細やかで驚いた。安吾という人は様々な面をもっている。そう感じさせたのが、次に読んだ「白痴」。これは文体からして全く違う。 正直最初は何の話がしたいのかわからない。しかし、物語が進むにつれ、物語の芯が見えてくる。此れを自然に出来るのが安吾に天性の才があったからとしか思えない。 同書にはこの他6編が収められている。 | ||||
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この短編集に入っている「風と光と二十の私と」を読んで、わたしは一発で安吾のファンになってしまった。これは安吾のエッセー的作品になるのだが、その中で彼は繰りかえし「人を嫌いになりたくない」と書いている。子供達の描写が細やかで驚いた。安吾という人は様々な面をもっている。そう感じさせたのが、次に読んだ「白痴」。これは文体からして全く違う。 正直最初は何の話がしたいのかわからない。しかし、物語が進むにつれ、物語の芯が見えてくる。此れを自然に出来るのが安吾に天性の才があったからとしか思えない。 同書にはこの他6編が収められている。 | ||||
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舞台は戦場。ダメ男とある女が部屋でただしゃべっている。状況はいたってシンプル。事件のよう類は皆無。ではどこが読ませるのか? ズバリ男と女の会話である。その会話は非常に哲学的であり、そこには坂口安吾ワールドが無限に広がっている。生死の捉え方、果ては墜ち方に至るまでがかくも美しくけそしてだるく描かれている。読むものを惹きつけ吸い込む本書は、個人的にはベスト・オブ・坂口安吾である。 | ||||
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白痴を含む七編 一、「いずこへ」 一人称で語られる物語の初めに、安吾の人生哲学が書かれている。 落伍者の心情「何か一つの純潔とその貞節を守らずには生きていけられなくなるものだ。」「私はみすぼらしさが嫌いで、食べて生きているだけというような意識が何より我慢できない」「私は少年時代から落伍者が好きであった。」 自分をとことんまで貶めて、そこから観た真実をそのまま書き出す。これが安吾の芸術だ。絶望的な状況をそのまま受け入れるということ。このことが絶望的な状況から彼らを救っている。自らの絶望をしらけた視点で語ることによって絶望がユーモアに変わる。まさしく安吾は自らが『堕落論』で言ったとおり自分を貶め、道化になっている。世の中をプラグマティックにみていながらも、俗な人間の生の中に美のイデアを求めた芸術家である。 | ||||
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あちらこちら命懸け。まさにその言葉どおり、生き方どおり。堕落について肉慾について魂について。堂々たる堂々巡り、絶望、執着、切望の連鎖。とことん考えずにはいられず、正直すぎて都合のいいところにも落ち着けず、シャニムニつきぬけようというカッコヨサ!に、襟を正しちゃいます。「私は海をだきしめていたい」が特に好きです。「女は海~」ってだれか歌ってましたね(笑) | ||||
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安吾の小説には短編が多く、長編は中途半端なものが多い。また、「白痴」が代表小説であるが太宰や三島のようにいくつもの作品が一般に知れ渡っているわけではない。だが安吾は日本の戦後文学において、また日本文学において大変貴重な作家であるといえる。何故か、それは恐らく安吾が「聖と俗の混淆」を描ききることの出来た数少ない作家の一人であるからではないだろうか。安吾は時代を凛と見つめる冷徹な目と、時代の中に自らの身を浸し、漂う優しい目、その二つの視点を持っていたように思う。そしてその2つの目で時代を的確に、また「感傷的」に見つめることによって「白痴」のような小説を書き上げ、「堕落論」などの珠玉のエッセイを残しえたのであろう。 | ||||
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