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1Q84
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1Q84の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.66pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全622件 21~40 2/32ページ
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最初の話の流れには少し違和感を感じたが、読み進んでゆくうちに、やはり村上春樹の世界から抜け出せなくなる。賛否両論はあるが、私にとっては自分が生きていることを、違う世界から見つめる眼をこの小説からもらった気がする。 初版で読み終えているが、それ以来、私は生き方が少し変わった。…ただ、ひとつだけ残念に思う事がある。BOOK2で終りにしてほしかった。 そして、その後は、それぞれの読み手の人生観に委ねてほしかったと思う。 それくらい、BOOK2の終わりは衝撃的だったし、なによりもカッコ良かった。 | ||||
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本書の内容と関係があるのかどうか?よく分かりませんが、ボク個人が< いちばん感銘を受けた! >のは、本書431頁のつぎの記述です。 「 人は死者に自然な敬意を払う。相手はついさっき、死ぬという偉業を成し遂げたばかりなのだ。 」 しかし、例外的に、< 死者に自然な敬意を払うことができない邪悪な人間 >が存在します。 そういう邪悪な人間を< 目の当たりにした人 >にとっては、< 本書はバイブルになる! >のではないか?と思いました。 また、死者に対して自然な敬意を払うことができるかどうか?が、< 邪悪な新興カルト宗教かどうか?を判断するひとつの基準 >になるのではないでしょうか? なお、死者に自然な敬意を払うことができない邪悪な人間と関わりを持っても< 、自分の人生をメチャクチャにされてしまうだけだ! >と断言できる!ので、そういう輩(やから)とは、躊躇することなく< スッパリと縁を切る! >べきです。 | ||||
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1984年ごろ東京の地下鉄の闇に潜む「やみくろ」という恐ろしい存在がいた。 だが彼等はある宗教団体に地下鉄サリン事件で駆除されたはずだった。 その忌まわしい宗教団体は、実は羊博士の肝入りだった。 闇の仕事をする。 ところがそこから分派した「さきがけ」という宗教団体があった。 リーダーは昔『鼠』とよばれていた男。宿主の羊ごと死んだはずの鼠は実は生きていた。 そして一部のやみくろを管理し、リトルピープルという人の理性を蝕む存在をつくり上げた。 1Q84はその「さきがけ」とリトルピープルとの、尊厳性をかけたやりとりを描いている。 この作品は深く入り組んだ洞窟を探検するアトラクションのようでした。古くからのファンを意識したかのような、過去の作品へ続くような横穴も多数掘られていました。なのでちょっと横穴をつなげてみました。 | ||||
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連休に読み返して楽しみました。この先もまた読み返して楽しめそうです。 登場人物が魅力的なのと、おはなしがおもしろいので読みだすと止まらない。 そして、変化した自分を受け入れて、未来へ進むのを肯定するラストが、明るい読後感をもたらします。 発売されてからもうすぐ10年が経とうとしているのですね。 そういうタイミングで読み返すと、リトルピープル、なるものから具体的な現在の事象を連想させられました。 SNSの発達普及による情報環境と、それがもたらす一般人への日常的な感覚の変容です。 そして、これは最近、トランプ大統領が誕生してから顕著になっている、反トランプを自認するいわゆる「リベラル」なインテリ人士が語る世評が、妙に通り一辺倒といいますか、すでにテンプレ化したすじがきを語るだけのものにしか聞こえないことから、そういう「リベラル」は、たぶん1Q84を読むと、自分たちをリトルピープルと対抗する側と決めつけて物を語りそうだけども、ひょっとしたらあなたたちが「リトルピープル」なのかもしれない、もしくは、だったのかもしれませんよ、とつぶやきたくなります。 ものごとの見かけにだまされてはいけない、というのは、そういう思い込みに囚われ続けていては見失うものがある、見間違うこともある、ということでもあるのでは。 柄にもないことを書いているようですが、こういう感想を持てるのも、物語を読む楽しさのひとつですね。 物語中の小説「空気さなぎ」の生成のされ方や読まれ方、その世評に対しての見方は、村上春樹の小説をめぐる心象がうかがえるようで、それも興深い部分です。また、ふかえりに託してギリヤーク人のように道路を歩こうとしない者たちを物語世界に存在させているのも、なかなかできないことではないかと思いました。 | ||||
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「1984」と「1Q84」が レールのポイントを換えるように切り替えられた。 青豆は 1Q84の世界にいつの間にか はいっていた。 それは 首都高速 を階段から降りたときから、始まったらしい。 「1Q84」の世界にいることは 月が二つ見える ことでわかる。 「もう一つの世界」ということは、リアルの世界とヴァーチャルの世界との関係で ヴァーチャルが もう一つの世界である ということは梅田望夫氏が言ったことだ。 たしかに 思考の外部化、記憶ベースの外部化。 そして強力な 検索システム ということがもう一つの世界を形成する。 身体とアタマの中にある妄想との関係も、身体とこころという 二つの世界があり、 こころが もう一つの世界であるかもしれない。 しかし、思考は 身体性を伴う ということがわかりかけてきて、 ちょっとこの二つの世界は 密接に結びついているのだろう。 生まれてくる前の世界と死んでしまった後の世界は 同じような世界なのだろうか? どうも違う気がするが、生まれてくる前のことは 記憶にないし、 死んでもいないので 死んだ後の世界はわからない。 世界はパラレルではなく 切り替えられるというムラカミハルキの発想は おもしろい。 どこかで、何かが、切り替わるときがある。 そこに踏み出したときに 後に戻れないような感覚がある。 ただ切り替わっても 通常の生活はほとんど変わらない。 切り替わった世界では 一体何が判断基準となるのだろうか。 社会における急速な変化のなかで、価値感 が変わろうとしているときに、 それは 一体何が 基準になるのだろうか? 「愛」が基準になるとしたら、ちょっと、ものたらない。 愛で すべての世界を構成しない。たしかに 中心的な位置にあると思うが、 そうではないもっと何かが あるはずだ。と考えていたら 朝の5時過ぎだった。 | ||||
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読後感は 「尻切れトンボ」の感じか、「残尿感」がある。 最後まで きちんとしっこさせてくれよーと思った。 パソコンの画面がフリーズして「強制終了」させたような感じだ。 この物語は 「月」がテーマとなっている。 ニンゲンの世界はどんどん変化しているが 月が400年前も 100年前も 同じのままだというテーゼ。 それを 黄色い月と 少しいびつな緑色の月が 二つ。 同じ大きさでないというのが ミソで、それは 青豆のオッパイが 左右同じでないというのに通じる。 ムラカミハルキの連想のなかでは 月とオッパイが つながっているようだ。 ムラカミハルキの小説は 親父っぽい目で女子を見る。 ときおりロリコン風でそのようなスケベの目が、随所にあるのは おじさん読者として 楽しい部分である。 「今ここにあること」 「今ここになくて もう一つの世界にある」こと その区別が 月が二つあるということで表現し、 その月を見ている 青豆と天吾の 二人の1984年を描く。 10歳のときの 青豆から 手を握られた「感触」から 「かけがえのないもの」が 二人の中に生まれる。 二人は 現実に立ち向かいながらも 「逃避」すると言う性格が共通している。 ムラカミハルキの中にある「逃避」のテーマは続いている。 確かに 父親が 堂々と登場するが、相変わらず ムラカミハルキは 父親問題を 避けた。 自分の本当の父親でないということで 天吾は安堵するのである。 育ててくれた 父親の感謝と本来なら発生する 父親へのわだかまりを 避けてしまった。 ムラカミハルキは 多分最後まで しょぼくれた父親に対峙できないのだろう。 日本人の心の歴史として 何故オウム真理教事件が起こったのか? というのが ムラカミハルキの 大きな問題意識のひとつであるが、 そこでは アイスピックで つつくような 作業をしているだけで 総体として つかみえていない ような気がする。 リーダーと青豆の会話は 意味が深いが 青豆の個人的なレベルに 矮小化されて、教義のない 宗教 が 天の声を聞くということで成り立っている。 そして その宗教の大きな資金源がどこにあるのか? というところまで、明らかにできていない。 孤独 というものをうけとめること、その重みだけは ひしひしと伝わってくる。 二つの月が あることを微細に語ろうとするが、カクメイ と ピース がどうやって違い ムラカミハルキはいう 『カクメイはいくぶん尖ったかたちをした考え方であり、 ピースはいくぶん丸いかたちをした考え方だ。』 (ふーむ。それだけで 片付けちゃうのかな。) ピースが 何故宗教になってしまったのか?ということは 謎として 読み手に投げかけられている。 『青豆を見つけよう、と天吾はあらためてこころを定めた。 何があろうと、そこがどのような世界であろうと、彼女がたとえ誰であろうと。』 でおわる が なぜ 青豆 を見つけようとするのか? 愛のためなのか?青豆のためなのか?自分のためなのか? というより 何故物語の中で 青豆を見つけることができないのか? 青豆を 物語の中で 見つけたら、三文小説になるという 考えが あるのかもしれないが、 ふーむ。ムラカミハルキらしい 1Q84 だった。 多くの疑問文があるが 答えは少ない。 そしてムラカミハルキはいう 『説明しなくてはそれがわからないというのは、どれだけ説明してもわからんということだ。』 いいな。このムラカミハルキの開き直り、読者に 謎かけして、よくわからないのは 読者のせいだ。 しかし、実は 書いている本人もよくわからんのだ。 説明できるわけねぇだろということかな。 | ||||
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牛河から始まるストーリー。ちょっと意外である。 牛河が どんな役割をするのか、楽しみである。 したたかさ というものを 文字でとらえることは 難しい。 でも 牛河 が中心人物になるのは、ムラカミハルキの世界でも めずらしい。 いやな奴の象徴である牛河が、どんな風に絡んでいくのか? リトルピープル、ふかえり、そして 教団。 いくつかのキーワードは かわっていないが。 青豆は いじらしく 天吾を 待ち続けるのである。 なぜ 天吾なのか?生きようとしていた希望が 天吾。 それをわからないがゆえに 感情とは 飛躍するものである。 天吾にあえば 何がわかるというのか? 天吾は 意識を失って確実に死に向かっている父親に 向き合っている。 一方通行としての コミュニケーション。何も言わないから 向き合えるのかもしれない。 父親とは そういう存在である。 窓の外から聞こえる 波の音が こんな風に描写されると、 なにか 自然のたくましさが 伝わってくる。 エヌエッチケーの集金人が 牛河的でもある。 なぜしつこく付きまとうのか? それが 天吾によって 解き明かされる。なるほどそういう仕掛けですか。 うまいですね。 そして 天吾は 父親と 和解をする。このことが 今回の重要なテーマなのだろう。 ムラカミハルキにとって父親との和解をあえて持ち出したのはおとしまえとしての語りだった。 でも なにか 重要なものが スポイルされているような気もする。 つまり 父親との距離感は 相変わらずちじまっていない。 そして なぜ 父親に対して 不信感を持ったのか? そのことが エヌエッチケーの集金人だったということに矮小化されすぎている。 これだけ いわれるとNHKも迷惑だろうね。 安達クミは 適度の距離感があって、めずらしく 抑制している。 ムラカミハルキも あたりかまわず セックスするだけではないようだ。 据え膳食わぬは 男の恥みたいなところがあったのに。 怒りが消えて、子供が宿る。雷鳴の夜につながる。 おなかが 少しづつ膨らんでいく。希望も同じように。 月は 二つなのか 一つなのか。 紛れ込んだ世界にあったものは、二人を結びつける ためにあるような。 二つの月は 一つになった。めでたしめでたしということか。 | ||||
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小説の中で小説を語る、とても面白いファンタジーでした。 村上春樹らしい、俗世になじまない主人公達と、細かい動作の描写と性的な描写によって物語が謎目いた雰囲気になっています。 幼少期に救いがたい経験をした二人がそれぞれに歪んだ世界に入り込み、時を越えて強くひきあってゆく。二人の世界が交差するまで、先が気になってどんどん読み進められます。 二回読み通しましたが、二回目も物語の些細な伏線を辿れて面白かったです。 | ||||
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ヒトラー、満州国、学生運動、といったキーワードがまたしても出てくる。それに加えて 毛沢東、そして日本赤軍、オウム、エホバの証人 がモデルとしか思えないものも。今までの作品と話の内容は全く違うが、テーマは同じようなもの。青春時代に取り返しのない悔いがあり、それについてしつこくしつこく書き連ねている感じ。作中に推敲で無駄を徹底的に削ぎ落としていくような描写があるが、それを言うならこの小説(のみならず過去の長編も)はどうなのか。毎度お馴染み 音楽の蘊蓄、どうでもいい動作の描写、歴史上の事件の説明、そしてセックスの描写。これを省いたら多分book1で話は終わる。でも以上述べたことが、村上小説の要。それがあることで全体が何となくぼやけてファンタジーぽくなるんだろ。てかこのbook1は自分が今まで村上春樹に対して、どういうつもりで小説書いてるのか、の答えがあった。~「小説家とは問題を解決する人間ではない。問題を提起する人間である」と言ったのはたしかチェーホフだ (文庫book1後編p256)~のくだりがそれだ。要するにそういうつもりで書いてるんだな。それならわかるわけがないんだよ、最後まで読んだって。いったい何が言いたいんだ?と思わせるように書いてるのだから。もう村上春樹の小説はそういうもんなんだって、得心して読むしかない。それが嫌なら最初から読まなければいい。時間の無駄だ。 | ||||
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新鮮で初々しい気持ちで読み進めることができました。切なさ、やるせなさなどの感情を実感しました。 | ||||
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1q84を読む前にジョージオーウェルの1984を読んでオーウェルの考えを理解すべき。それをして初めて1q84を理解できる。 | ||||
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ちょっと最後でどんでん返しがあるけれど、独特の世界に引き込まれる感じで読んでわくわくした。パラレルワールドをやらせれば一流だな。なんでノーベル賞取れないんだろ。 | ||||
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やっぱり売れた本だけあって、実に手が込んでいる。パラレルワールドの最後のどんでん返しには息をのむし、一度読み始めたら止まらないので、次の日が休みの日に読みましょう。 | ||||
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内容は下衆で過激なようでしたが、文の構成や登場人物の語りが淡々と論理的に書かれているように感じて、読んでいて安心感があり、そのギャップに心地良さを感じました。 | ||||
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宗教や政治思想、殺人やセックス、障害など、さまざまな話題が扱われており、それに対する答えや考えが明確に示されているわけではありませんが、個人的には物語世界に入り込めました。すらすら読めますので一度読んでみてはいかがでしょうか。 | ||||
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青豆と天吾が出会い、1Q84の世界から脱出して長編が終るわけですが、それまでの過程でいろいろな話題があり、不思議な出来事が起こったり、個人的にはおもしろかったです。ただ、文章は分かりやすくすいすい読めるのですが、結局よくわからない箇所も多くあります。 | ||||
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あけすけな性生活の描写が強くてまごついている。確か何度かノーベル賞作品にノミネートされたと思うが、少し飽きてきた。この様な作品がノーベル賞受賞されるのかな??? | ||||
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わけのわからない世界にどんどん引き込まれています。ありとあらゆるものが謎に包まれていて、どんどん読み進められました。 | ||||
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たくさんの物語が絡まっており、もう一度1巻から読み返してみるとさらにこの物語の深さを知ることができます。 | ||||
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主語が変わる章構成の物語は、どちらかにばかり興味(感情移入)が移りがちだけど、 偏ることないバランスで、退屈せずに一気に読んでしまいました。 さきがけリーダーと青豆が遭遇するシーンが印象的でした。 リーダーが会話の中で2つの世界の説明として引用するスタンダードナンバー、『イッツ・オンリー・ペーパー・ムーン』は個人的に好きで、 歌詞を知っていたので、物語のどこへ向かっていくのかがなんとなくわかりました。 信じることで、見える世界が”リアルに”変わるのだというメッセージだと受け取ったからです。 (導入のタクシー運ちゃんとの会話も主題かな) 自分的にこれらは読み進めていく上で重要でした また、二人に感情移入した状態、つまり主観的に読み進めていくことができたので、他の登場人物のその後なんて、 瑣末なこととして、この物語ではまったく気になりませんでした。 何かと批判の多い性描写はどうでも良いですが、村上氏は不倫がよく出てきますね。 作家が不倫を推奨してるわけではないとは思います。 しかし、自然な形でつきあい、ストーリーの都合に合わせるかのように自然に消滅しますので、 たまには、刺した刺されたみたいなドロドロな展開も見てみたいものです。 あと、牛河君ですが、何とはなく、ディケンズの『ディヴィッド・コパフィールド』のユライア・ヒープを連想しました。 章の主役に抜擢されるほど、重要な役割をうまく務めてくれましたね(合掌)。 | ||||
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