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1Q84
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1Q84の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.66pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全622件 181~200 10/32ページ
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主人公のその後の世界を描いた続編を期待してしまいます。 | ||||
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発売当初、大変話題になっていましたね。 本屋で平積みされていたのを斜め読みをして『こりゃ読めないわ』と、以来忘れていました。 正直、村上春樹のエッセーは大好きですが、小説は読んでみるものの面白いと思ったことは一度もありませんでした。 そんな私ですが、たまたま人から借りて読み始めた1Q84は予想以上にスラスラと読めました。 冒頭、高速道路の場面はまるで映像を観ているようで心を鷲掴みにされました。 2つの月、猫の街、実態のないNHKの集金人、そしてホウホウと応えるリトルピープル・・・これらは宮沢賢治を思わせる世界で個人的に大好きです。 しかし・・・3巻になると少し停滞感が漂うのと、エキセントリックな青豆には感情移入がまったくできなくなり 天吾にも共感できずにいました。 加えて2人のラブストーリーは薄っぺらさが否めない感じですが、牛河さんの部分は例外で、あの部分だけでも3巻を読む価値がありました。 全体的な印象としては『面白かった』です。 しかし、これはあくまで顕在意識から見た感想で、深層意識に物凄く影響を受けた感じがしています。 私の深い部分にあった『何か』のスイッチを押されたような、そんな不思議な気がしてなりません。 | ||||
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村上春樹はこの作品で何を言いたかったのだろう。単純な恋愛小説でないことは確かだ。たまたまそれが青豆と天吾との、互いを求め合う物語になったとはいえ、それではふかえりの役割も、牛河の役割も、「現実というのは常にひとつきりです」という暗示的なメッセージを残したまま舞台を下がった冒頭の運転手の役割も、ただの装飾に過ぎなかったことになってしまう。そしてやはりこの作品が、大掛かりな暗喩であることを私は感じる。それが何であるか、うまく言葉で言えないけれど(間違いなく多義的である)、ここに深いメッセージが込められていることを、心に受け止めることができる。ともあれ、物語の幕は降りた。 1. 余人は知らず、私はこの作品に出会ったことに宿命のようなものを感じる。彼の作品としては、些かきれいに終わりすぎるけれど、もっと文学的な結末だったら、私はかなり傷ついただろう。だから少なくとも私にとって、結末はこうでなければならなかった。村上春樹らしくない?確かに、闇を吹き払うような本巻は、彼の作品として異質に思える(展開も結末も、かつてより形而下的だ)。プロの批評家ならいろいろと文句の付けようもあろう。しかし一読者として、そこまで非情になる必要を感じない。私はこの作品に対し、個人的な共感を表明することしかできない。携帯電話もインターネットもない時代。待つしかなかった時代。 2. 文章は抜群に上手い。しかし、なぜか綻びも目立つ。消し忘れかと思う余計な括弧書き(p.556)。「〜。たぶん。」という段落末尾が、気付いただけで6回(第1巻からの合計)。推敲の時間が足りなかったのかもしれない。不十分な推敲でこれだけ書いたのなら奇跡に近いと思うけれど、彼はこれまで奇跡を何度も成し遂げた人だった。どうしたのだろう。 | ||||
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使うモノ等はレビューを見て参考にしますが、 本は何も考えずに読んでみるのが良いかなと思います。 | ||||
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村上春樹作品ははじめて読むのですが、次まで読みたくなりました。文章は情景が浮かぶくらい上手だと思います。ただ、次への布石ということでいるのかもしれませんが、若干冗長的ですよね。すべてに大して性描写がいるのかどうかは不明ですよね。 BOOK1は序みたいなもんでしょうか。本書は、青豆と天吾の視点が交互に書かれる形式ですが、この二人のつながりみたいなものが垣間見れますが、出会ったりお互いの名前が出てくることはないです。これからどういう風につながっていくのかが気になります。 | ||||
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BOOK2でも、青豆と天吾の話が交互に展開されます。BOOK1との違いは、青豆と天吾がお互いを意識し始めることと完全に月が2つある1Q84の世界に入り込んでいることにお互い気がついたことですかね。青豆は「さきがけ」のリーダーを殺害した。天吾は、NHKの集金人の父親が入院している病院に赴いて、いろいろな話をした。 BOOK2に入ってどういう風に着地するのかなとおもったが、よくわかんないです。何かもやもやとするなあ。 | ||||
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今回は青豆と天吾の他にbook2で天吾とあっていた牛河の視点が入ります。あんまり話はすすまなかったかなと思う。牛河の視点によって、この話1Q84の世界がどういう話だったのかが追認できるのかなと思いました。 結局、元の鞘に戻ったのかなと思いました。青豆と天吾が出会えたのは良かったかな。ふかえりと牛河によってこの二人が出会えたのかな。1Q84の世界は半分ぐらいしか理解できなかったとは思うが、この二人が出会えたということから、この話を読んでよかったかなと思う。 牛河については、全体的に知りすぎたがゆえに殺されたんだね。牛河については有能な人だけど哀れだなと感じる。 | ||||
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背水の陣で臨む。現代の小説は嫌いだ。読者を同じ感情へ誘導する乗り物でしかない浅薄な作品が、取っかえひっかえ、脚光を浴びている。さもなくばマニア相手の特殊作品。「もしこれが駄作だったら、もう小説とは訣別するかもしれない」と私。「じゃあもう、近代(文学)へ行くしかないね」と妹。近代文学。文豪の時代。しかし現代は違う。小説はテーマパーク。A honky-tonk parade. この作品は筋を追うだけなら簡単だと思う。文壇を、宗教を、権力を、一刀両断するサービスもある。しかし、村上春樹の作品はすべて暗喩である。比喩やアナロジーを多用し、表面的な筋書きが単に水面の光景でしかないことを示唆している。水の奥に何が蠢き、どんな水流があるか、それを考えることが醍醐味なのだ。そこには重層する「多義的」な「意味」がある。だからこそ世界の知識人に読まれるのである。お話として面白いかどうかとか、焼き直しだとか、作者の女性観がどうとか、そういった皮相な批判は、だからまったく意味をなさない。そんな読み方しかできない人は、この先彼の作品など手に取らず(「説明しなくてはわからないということは、説明してもわからないということだ」)、もっとずっと易しい、大量消費型お子様ランチでも読んでいればよい。その方がずっと楽しい時間つぶしになる。 とはいえ、物語としての緊密さは、第2巻よりも第1巻の方が優る。次第に謎が明かされるにつれ、表層的な動きが増し、多義性が薄れて、つい読み飛ばしたくなる。「海辺のカフカ」では最後まで維持された緊張が、次第に緩んでしまったのを残念に思った。妹は「第2巻で一旦完結の感あり」と言う。だからここで感想を書くのだが、この結末は必然性を欠く。ここからは難業だろう。しかし前に進まねばならない。 そして結論。現代小説との訣別まで、今少しの猶予を設けたい。少なくとも彼の作品に、私はまだ未練がある。 | ||||
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これは現実の大地に足をつけたファンタジーであり、ファンタジーの世界の現実である。 1Q84年は、どこか遠い星のできごとではなく、「あったかもしれない」可能性の世界であり、わたしたちが生きている“いま”の時代と根っこでつながっている場所なのだ。 G・オーウェルは未来の可能性について書き、村上春樹は現在の蓋然性を描いたと言える。それは小説でなければできないことである。 著者は1984年とよく似た、しかし「どこか違う」1Q84年を設定することで、読者に、単なる想像の世界ではない「浮遊感のある現実」を提示した。 2つの月は、主人公の二人が“出会っていたかもしれない可能性”を示しているが(天吾が2つの月に気付いたことが2人の出会いにつながる)、同時に“異なる現実”を読者に認識させるための小道具でもあり、2人の主人公をのぞく1Q84年の登場人物にとっては大きな意味をもたない(もしかすると私たちが見ている月も2つあるのかもしれない)。 物語は、主人公の青豆が首都高の渋滞に巻き込まれる場面からはじまる。この書き出しは秀逸だと思う。 これまでの村上作品にあった、並行世界という舞台装置の作為的なぎこちなさが取り払われ、読者は主人公とともに、文字通り“知らない間に”1Q84の物語世界に引き込まれていく。一方もうひとりの主人公、天吾は知り合いの編集者からある企てを持ちかけられる… 本作品でもっとも議論を呼ぶと思われるのは、宗教に関する描写であろう。 著者は、あのオウム真理教事件に際して被害者と信者にインタビューを重ね、2冊を刊行している。わかることはわかって反論するところは反論した上で、神秘的(極端に主観性が強い)な領域に関しては、あくまでわからないという不可知論的立場をたもっているように見える。 本文中では「さきがけ」のリーダーの言葉を借りて、小説の構造と自身の疑問を明らかにしているが(※ただし答えは提示されない)、人間の認知能力(主観)が、現実世界とどのようにつながっているか(またはいないか)についての問題提起としてとらえることも可能だろう。 宗教に対する見解も(あくまでフィクションということを前提とした上で)、人間自身の内部(主観)と外部(社会)の問題として整理する視点で見れば、比較的公平な書き方に近いのではないか。 この小説は読者によっては自身の内面を写し出す鏡のような役割を果たすもので、読者がもうひとつの現実について思いをめぐらせるとすれば、著者のねらいは成功していると言えるだろう。 結論は読み手にゆだねられているが、諸説ある中で自分が気に入っているのは次のようなものだ。 いまここに君がいることに、どんな意味があるんだろう 君と現実の世界で出会って、いまの時代を生きている もしかしたら、なかったかもしれない現実について考えることで、 僕たちは、そのかけがえのなさ(と同時に救いのなさ)を知るのだ | ||||
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3度の再読後の感想。 「作家は自身が一冊の本なんだ。一作だけ翻訳しても彼の身体の一部を切りとったにすぎない」''ある欧州の作家/翻訳家の言葉。 「作家の全作品が長い道筋として感知される」と書いたのは、ミラン・クンデラ。これは別の本のレビューからの引用ですが、村上春樹の1Q84、全3巻についてもそのまま言えることのように思います。 心のある部分を再生できないまま、それを抱えながら小説家として歩んできた自身の癒しのメカニズムが、これからの作品の中で、どのように変化を遂げていくのか・・・期待を込めて。(特にファンというわけではありませんが、一応初期の作品から読んでいます。それゆえに才能の使い方が残念に思う) | ||||
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長い物語の始まりです。 (私は、熱烈な村上春樹ファンでなく、通りすがりの、一読者の感想です) 自分自身が読んだのは、BOOK3まで出版されている時期です。すぐに、続きを読もうと思わなければ、ワクワク感や次の展開が楽しみなどの余韻が残りました。(実際、BOOK2を読み始めるまで、2〜3週間あきました) ただBOOK3まで、立て続けに読む環境の中では、読者によっては、感想も変わり、また性的表現も含まれますので、嫌悪を感じる方もいるかもしれません。 (これは、村上春樹作品に馴れ親しんでいる方とは、感想が変わると思います) 基準点を3点とし、今回は4点としました。 | ||||
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ようやく読み終えましたが、1Q84はどんどん先を読みたくなってしまって、ナカナカ大変でした。 ムラカミ作品には珍しい終わり方でしたが、現実と空想とサスペンスとお伽噺とエロス(笑)。 また良い作品に出会えたと思います。次は3年後ぐらいですかね...。楽しみに待ってます。 | ||||
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1Q84の完結。 素晴らしい文章力が、読ませます。 でも、あの問題は??ふかえりは?? 謎。 やっぱり、恋愛小説、純愛。 癒される、BOOK3です。 | ||||
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これだけのベストセラーだから、 普段村上春樹を読まない、 あるいは読書の習慣もあまりない人が手にとっていてもおかしくない。 それにしてもレビューを読んで、 これは「面白いのか」「面白くないのか」 のどちらかの判断を下している人が多いなあと。 読書ってその本がそれだけ売れるに値するほど面白いのか否かについて判断する作業への準備なのかなと。 皮肉っぽく書いてしまいましたが、 結局これは面白かったのかそれとも面白くなかったのか判断なんてつかないけれど、 とにかく読んでしまったという読書体験なんて山ほどあります。 その本を読んでどう感じたか、 というのはこんなレビューを書いておいて逆説的ですが実はどうでもいいことだと思う。 読んでるその最中、その過程が読書であり、 それから人生のどこかでその本のことが不意に思い出されるのが附随する唯一のおまけみたいなものかと。 読んでみようかどうしようか迷っている方は、 期待はずれだったらどうしよう? 面白くなかったら損するかな? なんて考えている時間がもったいない。 お金がもったいないならまずは図書館で借りてもいいから、 読んでみるのが大切なのかなと思います。 偉そうにすみません・・・。 全然この小説そのものの評価になってませんが、 わたしはとにもかくにも迷っているならまずは迷わず読む本であることは確かだと思っています。 | ||||
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文学作品と言うよりは並行世界SFものとしてBOOK1、BOOK2は読んできた。このBOOK3も面白かったけど、だんだんとSFっぽさは薄れ、天吾と青豆とのラブストーリーに... それはそれで面白かったし、この終わらせかたも悪くはないんだけど、ちょっと物足りない終わらせ方というか、勿体無いなって感じ。謎は謎のまま、っていう終わり方も、まぁ分かるんだけど、残された謎が気になってしょうがない。実はまだ完結してないってことはないよね... ふかえりの行方、リトル・ピープルやパラレルワールドの謎なんて、まだまだ話は続けられそうだし、というか、続けてもらわないと困る。自分の中で決着がつかないような読後感。これを狙ってるとしたら、村上春樹はやっぱりスゴイ作家だけどなぁ。でも、違うのかな。もともとこの展開、エンディングを考えていたとしたら、尻すぼみと言われてもしょうがないかも。そんなはずはないと思うけど、やっぱり、物足りないかも。 | ||||
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なにか宗教団体の無差別テロとか、メディアが教えてくれない事実や犯罪なんかを彷彿とさせる。被害者には分かるパラレルワールドへの囲い込み感覚にインスパイアされた物語で、社会問題を見つめているのかもしれない。世の中は比喩に満ちていて。 いろいろな人に癒しがおとずれる日が来ますように、青豆と彼が再会したように、大切なものを思い出すように。 | ||||
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これまでBOOK1とBOOK2を読んだが、どちらも物語に引き込まれて非常に面白かった。 表現の豊かさ、洗練された技巧的な文章、モダンな洒落た会話、意表を突く物語の展開はBOOK1と同じくすばらしいと思った。 登場人物にはBOOK1を読んでいるときよりも感情移入させられた。天吾と青豆の幸福を願わざるをえなかった。BOOK2の時点での青豆の結果には非常に残念だ、と思わせてくれる。 BOOK2では光と影、天使と悪魔といった古典的な(「古典的」に否定的なニュアンスは意図していない)図式で物語は展開される。私としては「悪」をもう少し悪らしく描いて欲しかった。この物語(BOOK2)の「悪」は外見が可愛らしいし、善の衣を纏うこと(偽善性)もあまりなく、知性(狡猾さ)も力も不充分に感じた。「悪」には単純な感情的な反応は見せないでもらいたい。 まだ解決されていない問題や謎は多く、物語は始まったばかりという印象だ。最初発売はBOOK2までだったので、覚えていないが、もしこのときBOOK3の出版が公にされていなかったとしたら、読者は満足しなかっただろう。 天吾の子どものころに受けた心の傷や過去へのわだかまりが或る程度解決されたことはよかったと思う。ただ、それぞれの読者が抱える傷や過去の問題を解決する一般的なヒントにはなりにくいかもしれない。他のレビューにも書かれているが、この物語から何か人生の指針のようなものを得るのは難しいだろう。私はこの作品から優れた文学的表現やストーリーの巧みさを楽しんだ。この作品にも(どこに書かれていたか忘れてしまったが)『空気さなぎ』という小説が読者を最後まで惹きつけながら作品を終えるだけでも十分すごいことではないかというようなことを確か天吾に語らせていたが、意外とそれが村上の小説に望むことへの本音なのかもしれない。 | ||||
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Book 1,2,3とも発売当初に読んでしまっていたのだが、今般ゆっくりと再読。 Book3の初読時については、結末が知りたい一心で先へ先へページをめくり、 だいぶ読み飛ばしてしまっていた。時を置いて再読することによって (「牛河」の視点を導入し物語の「動き」を補っている部分はあるにせよ) 改めてこの作品が「青豆」と「天吾」のロマン=小説であることが印象付けられる。 このBook3においては、あれだけ暴れていたリトル・ピープルが、 その「声を聴くもの」の消滅により、一転その活動を鈍らせる。 代わりに前面に出てくるのは、主人公二人の深い深い場所での結びつきである。 メインキャラクター二人がほとんど物理的空間を移動しないという 異常なシチュエーションの中、濃密な人と人との関係性が描かれていく。 異世界を舞台にした作品ではある。パラレルワールドものとしては 中途半端なSFにとどまっているのは間違いない。 しかし「この世界」であれ、「あの世界」であれ、 血の通う私たちがそこで生きていかなければならない、 という事実に変わりは無い。 しかし本書で作者がもう一歩その歩みを進めているのは、 「ここにいることは私自身の主体的な意思でもあるのだ。(p476)」 とその運命にも似た何かを自らの手で選び取る覚悟である。 「何が善なるものであれ、何が悪なるものであれ、 これからは私が原理であり、私が方向なのだ(p531)」 この強いメッセージから、作者がこれからどこへ向かおうとしているかは 判らない。しかしこれからも否応無く惹きつけられるのは間違いない。 | ||||
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今のところBOOK1だけを読んだが、とても面白い小説だと思った。 たとえば、すっきりしない、落ち着かない気持ちを「すっきりしない、落ち着かない気持ち」と表現することは平凡なことであり、このような表現は人を楽しませることができず、飽きをもたらすし、美しくない。このすっきりしない、落ち着かない気持ちを作家たちはできるかぎり技巧的で美しく新鮮に表現しようとする。また、作品の中で同じ語彙を繰り返さずに、洒脱な会話を展開させようとしたりする。当たり前のことかもしれないが、村上春樹はそのような文学的技術に卓越していると思う。たとえば、彼はすっきりしない、落ち着かない気持ちを「厚い雲の切れ端を何かと間違えて呑み込んでしまった人のように、すっきりしない、落ち着かない気持ち」と表現する。このような優れた新鮮な技巧的表現が約550ページに渡ってほぼ間断なく展開されることに驚かされる。 ストーリーもエンターテイメント性に富み、先が予想できず、この先どのように展開して行くのかと人を惹き付けるものになっていると思う。登場人物も個性的かつ魅力的に生き生きと描かれている。 この本が他の村上作品と共通している点をいくつか挙げてみたい。 ・繊細な心の人間には特に負担となるような人間関係や社会的しがらみからできるかぎり離れた平穏でひっそりとした「楽な」生活が村上のおそらく一つの理想だと思われることをうかがわせる。しかし、物語の中ではそのような「理想的」生活は大きく乱されて行く。 ・性と暴力への強い関心。 ・現実世界には存在しない不可思議な容易に理解を許さない謎の存在の登場。 ・人生の不可解さの強調とその中での生き方の模索。 ・人と違う特質を持つ人間は人間社会、特に子どもの社会ではいじめられ、孤立を招く要素となるという主張。 これに対して、今回の作品(BOOK1)に特徴的だと思われる点をいくつか挙げてみる。 ・宗教への関心ないし反感。 ・子どもの頃に受ける深い傷とその後の人生へもたらす大きなないし決定的な影響への並みならぬ関心。 ・他人を平気で傷つけるような俗悪な人間への嫌悪。そのような人間の存在への問題意識。(このことは他の作品にも見られるかもしれない。) ここでは村上における宗教に関連することを書いてみたい。 他でも言われているようだが、私見でも村上の宗教理解は浅い。この作品では宗教が批判的に書かれているが、取り上げられるのはキリスト教でもかなり異端的な分派とカルト的な新興宗教であり、また、歴史を持つ既成宗教に関しても語られるのはその本質ではなく(おそらく村上は本質を理解していない)、歴史上誤った形で現れてしまった派生的な負の側面にすぎない。 村上は「神」に関心がないとどこかで書いていたのを読んだことがあるが、その「神」への無理解こそが、村上の作品の深みに限界を与えてしまっていると思われる。この無理解は彼が卓越した想像力と表現力を持っているにも関わらず、ドストエフスキーには及ばない決定的な理由だと思う。容易な理解を許さない大きな力を持った(ただし有限の)存在を登場させても、この世界の謎を解き明かすことはできないと思われる。そのような存在は人工的な側面が強く、単なる「文学的な遊び」的な存在で人々に新たな発見的「理解」をもたらすことはなく、作品に深みを与えることはできないだろう。そもそも村上に世界の謎を明らかにする意図はないかもしれないけれども。世界について本質的なことを知りたければ、「神」に関わらざるを得ないと思われる。少なくとも歴史の深い既成宗教の多くは一致してそう考えていると思われる。(仏教でも「空」ないし「無」は「神」に当たると思われる。) 「神」不在で生きることによる無自覚的な不安と欲求不満が、その大きなはけ口であり、一時的(かつ虚しい)解消法である性と暴力への関心に村上を向かわせていると思われる。 私としては村上が、日本という特定の地域の現代という一時代の単なる優勢な思潮にすぎない唯物論と無神論に流されず、きちんとした宗教を真剣に学んだ後の作品を読んでみたい。 | ||||
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Book1,2,3とも発売当初に読んでしまっていたのだが、今般ゆっくりと再読。 初読時にはBook1,2が同時発売で、Book2で終結すると思っていたので 本書の後半はストーリーを追いたくて、だいぶ読み飛ばしてしまっていた。 時を置いて再読することにより改めて、本作品は章立ての文字通り 「青豆」と「天吾」の物語として再読でき、また映画の画面構成のように 二つの物語が並行する緊張感と、異世界のスリリングさを体験できている。 この大著のメインキーワードはもちろんリトル・ピープルであり、 「リトル・ピープルが何ものかを正確に知るものは、おそらく どこにもいない(p241)」と書いてはあるものの、この中盤、 そのヒントがないわけではない。青豆の決断のシーンはおそらく 本作品を貫くクライマックスであるが、その場に「暗い獣たちと精霊が その入り口を囲んでいた(p292)」とある。明確なビッグ・ブラザーに 対峙する存在としてのリトル・ピープルの解釈に、これからも 私たちは(作者のイスラエルでの講演内容も足掛かりとして) 真摯に向き合うべき対象として頭を悩ませていくのだろう。 前に述べたように、異世界を舞台にした作品ではある。 しかしその世界は単なるヴァーチャルな疑似世界ではない。 その世界でも人は傷つき、死に至る。 前にいた本来の「その世界はもうない(p292)」のだ。 その世界の中で、作者の分身は「これからこの世界で生きていくのだ (p500)」と心に決める。これはおそらく「私の作った言葉(p249)」が 世界の写し絵のみならず、まぎれもなくその一部であることの自覚と その主張を我がものとして受け入れる覚悟である。まさに「心から一歩も 外に出ないものごとなんて、この世界には存在しない(P250)」のだ。 | ||||
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