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海辺のカフカ
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海辺のカフカの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.76pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全345件 181~200 10/18ページ
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父を殺め、母と交わるという、ソフォクレスの『オイディプス王』と同じ「予言」を受けた15歳の少年は、1人東京から高松に旅立つ。 少年が訪れ、暮らすようになる図書館の司書(大島さん)は言う。 「…世界の万物はメタファーだ。誰もが実際に父親を殺し、母親と交わるわけではない。そうだね?つまり僕らはメタファーという装置をとおしてアイロニーを受け入れる。そして自らを深め広げる」 『海辺のカフカ』的小説世界を端的に言い当てたこのことばのように、この小説は、たとえば、「愛への渇望」、「世界に存在する圧倒的で捉えがたい暴力」、「独りで世界に対峙するという現実」、「自身あるいは他者の内面へ踏み込むこと」等が、非常にメタフォリカルな方法で、鮮やかに描出されている。しかし、それは、同時に、非常にリアリスティックな意味で読者の心を揺さぶる。 田村カフカ(僕)、ナカタさん、大島さん、佐伯さん、ホシノさん、カーネルサンダース、ジョニーウォーカー、さくら…登場人物は多岐に渡るけれど、それぞれが魅力的で忘れられない印象を与える。ときに哀しく、ときにユーモラスな人たち。 そして、いつもの村上春樹さんの長編と同じく、物語へと引きずり込む圧倒的な文体の力、物語の駆動力。 「世界で一番タフな15歳」になろうとする田村カフカくんの、流されることなく自分を見据え、自分自身と世界に向き合い、成長していく強さは、われわれに希望を与え、勇気付けてくれます。 | ||||
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私はそれほど著者のファンというわけではなく、昔、中学生の頃「風の歌を聴け」を読んで感じるところがあって、しばらく著者の作品をぽつりぽつり散読したクチなんですが、色々あって、著者の全作品を読んだというわけではないのです(いつも新刊が出るたび気にはなっていたのですが)。ついこの前に「螢・納屋を焼く〜」「中国行きのスロウボート」の文庫本を押入れの奥から引っ張り出して読み返す機会があり、その余韻が残っていてその延長で本作を読みました。 読んでる間ずっと薄暗いトンネルの中をそぞろ歩いているような感覚があって、文中の言葉の端々が、自分がこれまでの半生の中で感じたことと不思議と共鳴する感覚があって、この小説は何やらすごいという感じがしました。 私は大学出ではないし、文学や哲学の理論めいた難しいことは分かりません。文中のどの言葉が何の引用であるかなどは、私にはあまり分かりません。しかし、深いところにある「何か」の存在、そのイマジネーションに過ぎぬであろうなにか説明のつかないものに滾々と触れているような、静謐で不思議な寓話を読んでいる感じがしました。それは、子供の頃よく内容も分からずぼんやりと読んでいた何かやさしげな絵本に似ている。読み終えた後、自分の中の何かが終わったような気がした。一年ほど前、近しい或る意味敬愛していた人に不幸があり、それから、釈然とせぬ何かが心の内に残っていて大変望ましくない思いをしていたのですが、本作を読んで、特に「カラス」という主人公の分身と主人公の関係や、ホシノさんとナカタさんのやりとりには大変癒されたように思います。まだ読んでいない、また内容を忘れてしまった著者の他の作品も追々読んでみようと思います。 | ||||
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世界において全てが分かることなんか不可能 読者は神じゃない 全てわかる必要はない 世界はわからないことがある それは物語の中でも同じだし それに様々張り巡らされた伏線は全く重要じゃない あくまでカフカの森に突っ込んでくことへの補助にすぎない カフカが森に突っ込んでくあの場面は作品の躍動感を感じました 最後に作品のまとまりから見てもやはり謎が解明される必要はないです ミロのヴィーナスです 黄金比です 謎が残るからこそのリアルとミステリアスが心地良いと思います | ||||
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1Q84, ノルウェイの森、に続いて読みました。それまで、松本清張さん、宮部みゆきさん、堂場瞬一さんらを好んで読んできました。多読家です。しかし、村上春樹さんの作品を読む前は、「難しそう」と思って食わず嫌いでした。これらの作品群を心から楽しみました。決して難しいとは思いませんでした。突拍子も無い部分もありますが、それぞれを分かり易く描いてくれているので、置いてけぼりは食わなかったです。大人になってから読む本だと思います。性描写も”不可避な事”として受け入れられました。主人公は15歳の少年とは思えず、40代の自分自身と重ねながら読みました。佐伯さんの行動からも、年齢に囚われずに読んで良い、と感じました。これから、他の作品も読んでいきます。 | ||||
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現代のノストラダムス、村上春樹氏の作品です。この作品は、読者一人一人に、個別のメッセージが込められているのはずなので、一概に感想を述べることはできません。ですが、共通したメッセージとしては、以下の3点を挙げたいと思います。・中国、ロシア(ソ連)との復讐戦を警戒しなさい。・そのために怒りと恐れを手放しなさい。・怒りと恐れを手放す最終期限が、そろそろ近づいています・・・。怒りと恐れを手放すことができた人には、シンクロニシティを伴ったさまざまなメッセージが伝えられていると思います。 | ||||
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ねじまき鳥クロニクルを越えて、村上作品の最高峰だと思います。切実さは遠のき、円熟と知性とユーモアと、魂の救済があります。なんだかんだ言ってもやっぱり、結局のところ「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が一番だよな〜と思っていたけど、1Q84後に再読し、改めてその力に圧倒されました。何を読んでいたのか、と自分であきれました。これからの人生で何度も読み返し、そしてその都度、それまで気づかなかったその力を実感することになると思います。本当にすごい本だと思います。 | ||||
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この小説の全編で読み返したいと思うのは、ナカタさんを巡る一連の猫エピソードと人間模様である。特に、ナカタさんが四国へヒッチハイクする過程で出会った運転手さん、例えばホシノ青年等との道中は思わず心がホノボノとしてくる。すなわち、この小説の中で最も魅力的な人物は礼儀正しく人柄のいいナカタさんであり、この小説の心暖かい面白さの中核をなし、ストーリー全体の雰囲気を著しくアップしている。 これに対し、主人公の15歳の少年のキャラクターには惹き付けられる要素があまりない。そもそも、この主人公の少年が大島さんとかの年長者にため口なのはどういうわけか? こういう点が主人公にいまいち共感できない一因である。また、この15歳の少年に絡む大島さんの言葉もリアリティーに乏しい。彼ら二人の会話は話に(おそらくは見せかけの)深みを添えるための観念(メタファーとか)の表明でしかないが、その技巧はあっぱれである。 とはいえ文章は平易で読み易く、ついつい先に読み急いでしまう筆力は流石であり、この先一体どうなるのか、読者の興味を常に駆り立てる技量も素晴らしい。 この小説は、暇な時間を楽しく過ごすための娯楽小説として一級の出来であることには間違いない。 | ||||
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村上さんはすげえよ。子供心を保ちつつせいちょうしているんだろうなー。こういう感覚は現代にたりないきがするよ。他のはあんまり読んだことないけど。この人のはたぶん駄作はないんだろう。特に上巻の最後のほうに出てくる歌詞には心底おどろいた。純粋で人間らしい人間じゃないとあの言葉たちは出てこない気がする。村上さんや何人かの「人間らしい」人間の持つ柔軟性は 本来人間全員が持つもの。人の感想はあてにしないで、自分が読みたかったら読めばいいと思うよ。自分が純粋なら 君がかかわるもの全部に感動があるとおもうよ。 | ||||
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まず、この『海辺のカフカ』をお読みいただくに当たってこの小説の大きなテーマが誰もが経験する『大人への成長』である事を念頭においていただきたいと思う。そして、そのうえで初めてファンタジーであったり、時にはダークであったりもする様々な要素がこの小説を飾り立てているのだ。であるから、決して後者はメインキャストではない。その為、それらの描写は時に曖昧で読者を深く考え込ませたりもする。しかし、だからこそ前者として挙げた大きなアウトライン(筆者の伝えたい旨)に沿ったうえでの読者ひとりひとりの自由な解釈が可能となり結果として、読者は自らがあたかも一人の登場人物として作中に参加しているような感覚を与えられうるのではないだろうか。決して一字一句に対して理論的な解釈を求めるようなつまらない読み方ではなくぜひ、"あなた"の世界観に沿った『海辺のカフカ』を読んでいただければと僕は思う。 | ||||
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遅ればせながら村上春樹を初めて読んだ。朝日新聞の文芸欄で、2000年以降の10年間に出版された書物の中でこの小説が第2位に位置づけられていたので、遂に手に取ってみた。自分がよく読むノンフィクションや歴史もの、経済もの、国際政治ものなどと全然趣向が違う。想像力が漲っていて、ストーリーの展開が重層的、そしてメタファーの使用などとっても技巧的で印象深い。エンターテインメントとしてとても面白い。この小説の思想的傾向として、自分の頭に浮かんできた表現は「urban middle-class intellectual progressive liberalism」。皮肉な意味で使っているわけではない。自分自身、ストーリーの中に出てくる和洋様々な文学や音楽に改めて触れて見たいとの気持ちになった(早速、題名のカフカの作品「変身」を読んでみた)。15歳の少年がクラシックなジャズを好んだり、彼が中高年というべき婦人に恋したり、若干oldiesに流れるところもあるけど、村上春樹が世に広く読まれていることを思えば、このような趣向も一つの大きな潮流かなと思う。この本を読んでいて、日本語表現としてその場になじまない文章が時々出てくることがある。これは、この本が英語訳されることを想定してそうなっているのかなと思ったのだが、どうなんだろう。 | ||||
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「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」―15歳の誕生日がやってきたとき、僕は家を出て遠くの知らない街に行き、小さな図書館の片隅で暮らすようになった。少年時代、その時期にしかない一瞬を扱った小説なのかな。よくある小説のように、現実をわかりやすく、より軽快に、より明快に描くのではなく、メタファーで満たし、より寓話的に、より暗示的に描くとこうなるのかなー、と感じた。「世界はメタファーだ」「この僕らの住んでいる世界には、いつもとなり合わせに別の世界がある」ほかの作品でもよくあるように、2つの世界から物語は語られる。別の世界。今回は対比がとてもくっきりしているように感じた。一つのものが、複数のものと隣り合わせにある。難しいことはさて置いて、ナカタさんとホシノさんのやりとりがすごく良かった。村上春樹はこういう単純なのも書けるんだ。正直、作者の意図とか文学的な価値なんてさっぱり分からない。書いてあることの、半分も理解できない。それでも、なんだかわかった気にはなれました。 | ||||
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読めば読むほど面白いし、二つの物語が不意に互いに絡み合い、一つになっていく過程も、読んでいて時を忘れました。しかし、ガッカリしたのは、私は村上春樹さんの小説を読んだのがこれが初めてなので、彼の特徴や作風を全く知らずに読み進めました。すると、村上ワールドを知らない私は、読み終えた後「謎が全く解決されてない…」と言うどこか期待を裏切られた気分になりました。でも他の作品をよんで、「この物語の中にリアルを求めてはいけないんだ」と思い直しました。魔女ッ子の登場するアニメに「何で魔法が使えるの?」と聞くのと同じことです。それを踏まえて読めば、魅力的なキャラクターたち(個人的に大島さんが一番好きです)や、村上春樹さんの物語を読ませる力にグイグイ引き込まれて、とても味わい深い作品だと思います。 | ||||
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「音楽にかわるものはいたるところにあった。鳥のさえずり、様々な虫の声、小川のせせらぎ、樹木の葉が風に揺れる音、なにものかが小屋の屋根を歩いている足音、雨降り。そして時々耳に届く、説明のつかない、言葉では表現することもできない音…。地球がこれほど多くの美しく新鮮な自然の音に満ちていることに、これまで僕は気付かずにいた。そんな大事なことをずっと見逃し、聞き逃して生きてきたわけだ。その分の埋め合わせをするように、僕は長い時間ポーチに座り、目を閉じ、気配をころし、そこにある音をひとつ残らず聞き取ろうとする。」「森に対しても、最初ほどには恐怖を感じないようになっている。その森に自然な敬意のようなものを抱き、親しみさえ感じるようになる。もちろんそうはいっても、森の中で僕が足を踏み入れることができるのは小屋のまわりの、小道のついている範囲だけだ。道から外れてはいけない。ルールを守っている限りおそらく危険はない。森は僕を黙って受け入れてくれる。あるいは見逃してくれる。そしてそこにある安らぎや美しさをいくらか分けあたえてくれる。しかしいったんルールを踏み外すと、そこに隠れている沈黙の獣たちはするどい爪で僕をとらえてしまうかもしれない。」「背反性といえばね、最初に君に会ったときから、僕はこう感じているんだ。君は何かを強く求めているのに、その一方でそれを懸命に避けようとしているって。君にはそう思わせるところがある。経験的なことを言うなら、人が何かを強く求める時、それはまずやってこない。人が何かを懸命に避けようとするとき、それは向こうから自然にやってくる。難しい問題だ。でも、あえて言うならこういうことになるだろうね。その何かはたぶん君が求めるときに、求める形ではやってこないだろう。」「田村カフカ君、僕らの人生にはもう後戻りができないというポイントがある。それからケースとしてはずっと少ないけれど、もうこれから先には進めないというポイントがある。そういうポイントが来たら、良いことであれ、悪いことであれ、僕らはただ黙ってそれを受け入れるしかない。僕らはそんな風に生きているんだ。」「そりゃいい。だからね、おれが言いたいのは、つまり相手がどんなものであれ、人がこうして生きていいる限り、まわりにあるすべてのものとのあいだに自然に意味が生まれるということだ。一番大事なのはそれが自然かどうかっていうことなんだ。頭がいいとか悪いとかそういうことじゃないんだ。それを自分の目を使ってみるか見ないか、それだけのことだよ。」「だからさ、こういうのは頭の良し悪しの問題じゃないんだ。あれは別に頭なんて良かねえよ。ただ俺には俺の考え方があるだけだ。だからみんなによくうっとうしがられる。あいつはすぐにややこしいことを言い出すってさ。自分の頭でものを考えようとすると、だいたい煙たがれるもんなんだ。」「ねえ、大島さん、僕のまわりで次々にいろんなことが起こる。そのうちのあるものは自分で選んだことだし、あるものはぜんぜん選んでいなことだよ。でもその二つのあいだの区別が、僕にはよくわからなくなってきているんだ。つまりね、自分で選んだと思っていることだって、実際には僕がそれを選ぶ以前から、もうすでに起こると決められていたことみたいに思えるんだよ。僕はただ誰かが前もってどこかで決めたことを、ただそのままなぞっているだけなんだっていう気がするんだ。どれだけ自分で考えて、どれだけ頑張って努力したところで、そんなことは全くの無駄なんだってね。というかむしろ、がんばればがんばるほど、自分がどんどん自分ではなくなっていくみたいな気さえするんだ。自分が自分自身の軌道から遠ざかって行ってしまうような。そしてそれは僕にとってはひどくきついことなんだ。いや、怖いっていうほうが近いかもしれない。そう考え始めると、ときどき体がすくんでしまうみたいになるんだ。」「もし仮にそうだとしても、つまりもし君の選択や努力が徒労に終わることを宿命づけられたとしても、それでもなお君は確固として君であり、君以外のなにものでもない。君は君として間違いなく前に進んでいる。心配しなくていい。」「いいかい、田村カフカ君、君が今感じていることは、多くのギリシャ悲劇のモチーフになっていることでもあるんだ。人が運命を選ぶのではなく、運命が人を選ぶ。それがギリシャ悲劇の根本にある世界観だ。そしてその悲劇性は、アリストテレスが定義していることだけれど、皮肉なことに当事者の欠点によってもたらされるというよりは、むしろ美点を梃子にしてもたらされる。僕の言っていることはわかるかい?人はその欠点によってではなく、その美質によってより大きな悲劇の中に引きずり込まれていく。ソフォクレスの「オイディプス王」が顕著な例だ。オイディプス王の場合、怠惰とか愚鈍さによってではなく、その勇敢さと正直さによってまさに彼の悲劇はもたらされる。そこに不可避的にアイロニーが生まれる。」「しかし、救いはない。」「場合によっては、救いがないということもある。しかしながらアイロニーが人を深め、大きくする。それがより高い次元の救いへの入口になる。そこに普遍的な希望を見出すこともできる。だからこそギリシャ悲劇は今でも多くの人々に読まれ、芸術のひとつの元型となっているんだ。また繰り返すことになるけれど、世界の万物はメタファーだ。誰もが実際に父親を殺し、母親と交わるわけではない。そうだね?つまり僕らはメタファーという装置を通してアイロニーを受け入れる。そして自らを深め広げる。」「そしてカフカという名前、佐伯さんはその絵の中の少年が漂わせている謎めいた孤独を、カフカの小説世界に結びついたものとしてとらえたのだろう。僕はそう推測する。だからこそ彼女は少年を[海辺のカフカ]と呼んだ。不条理の波打ち際をさまよっているひとりぼっちの魂。多分それがカフカという言葉の意味するものだ。」 | ||||
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オウム事件や神戸の震災など、この作家は前世紀の末あたりから、その作品に於いて、世相を言及、または反映することが多くなった。この作品も、今世紀初めに頻発した15才の(あるいはミドルティーンの)、バスジャックや一家惨殺などの凶悪事件に対して、作家的アプローチをしたものに他ならない。そういう観点から見ると、この作品に何らかの世相に対する警告、又は示唆のようなものがあるかといえば、それは全くない。何か形而上学的な喩え(この作品でいうところのメタファーなるもの)でもあるかと言えば、それもどうかわからない。ただ、主人公が切れやすい15才で、家出をし、残された父親が殺されるという話である。しかしながら彼は家を出るとき、父親の書斎からナイフを持ち出す。これは同時に盗み出す携帯電話と合わせ、非常に象徴的とも思える。加えて主人公、田村カフカの極めて精緻な感情描写で、我々読者は、15才の少年の等身大の実像を知る。つまり、我々大人が認識している以上に、彼らは狡猾であり、内省的であり、冷静であるということ。 これはまさしく、大人に対する作者からの警告に違いない。それにしても作者本来の作風を損なわず、またほどほどに娯楽性を保ちながら、このような作品を仕上げれるのは、さすがである。ただ、村上春樹の作品としてはどうだろうか?嘗ての羊(あるいはねずみ)シリーズやワンダーランドと同様に、曖昧模糊とした、独特の味わいは健在だが、仕掛けはいまひとつである。各章ごとに人物や設定が交互する、いわゆる仕掛け小説は、伊坂幸太郎などが、かなりのエンタメ性を高めているので、そういう意味合いでは、古めかしさすら感じてしまう。ただし、織り込まれた伏線や謎賭けにしても、この作家の手にかかると”文学”としての格調の高さを感じてしまうから不思議だ。下巻の第47章あたりから、なにか書き急いでいる感じが文章に漂っている。これはこの作家の作品としては、大変珍しい現象だ。この作家の作品世界には、時間の長さが重要ではないのと同様に、枚数もあまり関係ないからだ。実際に僕らは、この作品を30枚の短編としても、全12巻の大河小説としても、受け容れることが出来るだろう。つまり、ストーリー性というより”空気感”重視の作品であるということだ。生活様式の詳細な描写(飲食や車などのブランドへのこだわりや、排泄行為など)は相変わらずだが、同様にあけすけな性描写に関して言えば、僕はやや戸惑いを感じた。これも仕掛け(メタファー)なの?と勘繰るにしては、生生し過ぎだからだ。どちらにしても、なんでもかんでもメタファーを疑って読み込むとしんどいし、純文学と受けとめるには軽すぎるように感じた。作家がどう捉えて欲しいのかは僕は知らないが、どうぞご勝手に、というならば、ここまで引っ張ってきたにしては自恣が過ぎると思う。何かを頂戴、という日本の読者よりも、僕はこう感じる、といった海外の読者に受けるのもよく解る。 | ||||
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想像を巡らせばかなり感動にふける事ができる。単純に、ハリーポッターシリーズのようにすごく夢中になれる本だった。 | ||||
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「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君の歳ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし飽きないものはだいたいにおいて、退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない」なにげないセリフに立ち止まるところは、こんな言葉だったりする。僕にだって、もちろんそのふたつの区別なんてのは考えることもできなかったけどこんなにも些細なことでも、言われてみれば「ああ、そうだな」と納得できてしまうものは妙に響く。説得をする人間は醜い。押しつけられたら人は逃げたくなる。しかし本当に良い作品は、いつでも自由な感想を与えてくれる。本は決められた時間に読まなくていい。本当に響く言葉は儚い、貰っても返せないから、魅かれる。それは音楽の詩だったり、物語の登場人物のセリフだったり自分の生き方や哲学を単に疑似化させるだけで人の心には、どんな密な会話よりも、強く居続けるものだなと感じた。 | ||||
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●1回目周りから必要とされない存在である田中とナカタ。 二人は異なった形で、形而上的で象徴的な砂嵐をくぐり抜ける事となる。嵐の中にまっすぐ足を踏み入れ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けようとする…。 ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- ●2回目不可避な運命に対峙した先には、何が待ち受けているのでしょうか。 「先を見すぎてもいけない。先を見すぎると、足もとがおろそかになり、人は往々にして転ぶ。かといって、足もとの細かいところだけを見ていてもいけない。よく前を見ていないと何かにぶつかることになる。だからね、少しだけ先を見ながら、手順にしたがってきちんとものごとを処理していく。こいつが肝要だ。何ごとによらず」 | ||||
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デビュー作からずっと読んできた作家が、ノーベル賞をとるかもしれないっていうのは、なんか不思議な感じ。「物語」の面白さは圧倒的で、謎が結局謎のままなのもいいと思うが、おじさんとしては、性描写の「あけすけさ」は、なんとかならんもんか・・とは思う(必要なんだろうけど)。下巻は、「ホシノ青年」の成長物語の側面がもっとも面白い。こういうフラッと出てきた人物が、だんだん重要になってくるのが、長い小説の醍醐味だと思う。逆に、後半カフカ君が「マイ・フェイバリット・シングス」を口笛で吹いたりすると、「君、15歳じゃなかったっけ?」って、醒めてしまったりする(当然考え抜いてこういう選曲してるんだろうけど、その意図は僕にはよくわかりませんでした)。ホシノ青年が大島さんに、音楽を聴き小説を読むことの意味を問うシーンがもっとも感動的だ。ここで作者は、大島さんの口を借りてこう答えている。「何かを経験すると、僕らの中で何かが起こる。そのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上がっていることに気づく」この言葉に、素直に納得するホシノ君がチャーミング。もう「風の歌を聴け」や「1973年のピンボール」の世界には戻れないんだなあと思うとさびしくもあるが、それはしょうがないことなんだろうな。 | ||||
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内容は面白いし、深いと思います。ただ、どの年代の人にお勧めなのかがよく分かりませ。思春期の主人公を対象にした作品ながらも、作品の中に登場する心象イメージが強すぎてその年代の人が読むには少々危険な気がします。しっかりとした大人が、「こんなこともあったな〜」と振り返るものでもないような気がするし、村上春樹さんの言いたいことは何となく分かるような気がするんですけど、それで?っていう感じです。日本人の普遍的な問題点がよく表れているようで、作品のレベルは恐ろしい程高いと思います。ただ、その問題点からどうするのか、という問いに対する解答がなく、読み終わった後はイライラして「だから、何なの?」っていう感じでした。現代の日本人について深く考えさせられるような作品です。ただ、それが最後少々無理やりになっていたような気がして、もう少し現実に沿った過程みたいなものがみたかったです。 | ||||
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世界でいちばんタフな15歳を目指す男の子、田村カフカくんの章と、小学生の時に不可思議な事故にあって、記憶と文字を理解する能力を失ってしまった老人、ナカタさんの章が交互に書かれています。4歳の時に母と姉が出ていってしまい、父親一人にに育てられた田村カフカくんは、父親の「お前は父親を殺し、母と姉と交わるだろう」という予言を胸に、15歳で家出をします。夜行バスで四国にたどり着き、私立図書館の一室に身を寄せることになったカフカくんの、過去との出会い、予言への抵抗、そして新しい世界への旅立ちの物語です。一方、ナカタさんも中野区から何かに導かれるように、四国へと向かい、途中ヒッチハイクをしたホシノくんの力を借りて、“普通の”ナカタさんに戻る旅をします。表裏一体のこの2つの物語は、最終的に繋がっていくのですが、そこには様々な謎が残されたまま、物語は終わってしまいます。村上春樹ワールドというか、あの独特の世界観を解釈しようとするのではなく、あるがままに受け入れてみた方が楽しめるのではと思います。 | ||||
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