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聖灰の暗号
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聖灰の暗号の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.22pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全30件 21~30 2/2ページ
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読了して最初に思ったことは「これを日本人の作家が書いたのか」という驚きだった。 ローマカトリックから異端とされ、弾圧されて消滅したカタリ派と異端審問を記録した架空の文書を題材に、宗教の暗部をあぶり出す本作。日本人がフランスの異端審問などについてこれだけ書くには、相当綿密な取材と史料を研究しての時代考証が必要になり、その労力は想像するだけでもすごい。 本作はカタリ派をめぐる歴史ミステリーの体裁をとりつつ、や異端を認めないローマカトリックの欺瞞や残酷さをまざまざと描き、人を救うはずの信仰が恐ろしい悲劇を生み出す現実を、日ごろ信仰とは無縁に近い日本人にも突きつけてくる。 帚木蓬生氏の小説に共通することだが、人間への視点がものすごくやさしい。主立った登場人物は誰も目の前に立ち現れてくるような気がするほど丁寧に描写され、ちょっとした登場人物にも人柄が分かるようなエピソードが入る。 カタリ派やキリスト教に興味がなくても、歴史ミステリとして楽しめるレベルの作品だが、これをきっかけに宗教や信仰について調べてみるのもいいな、と思っている。 | ||||
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カタリ派のことは予備知識を持っていた。TBS「世界遺産」の番組で、フランスの世界遺産カルカソンヌをやったときに見た。 「何だテレビかよ」と言う声が聞こえてきそうだが、なんのなんの、なかなかいい番組だった。30分の放送時間のうち半分をカタリ派の歴史の紹介に費やし、最後はエンドロールの流れる中、ライトアップされたカルカソンヌの城壁をバックに、吟遊詩人にふんしたガイドがバイオリンを奏でながらカタリ派の悲劇を歌う、というシーンで、たちまち自分の中でカルカソンヌが一度は行ってみたい場所になった。 そう思ってると、この文庫が本屋に並んでいるのを見た。 感想は二つ。 まず、驚くほど違和感を感じない。 西洋史の秘史をモチーフにして日本人を主人公にすると、今までの小説にはどうにもとってつけたような違和感がぬぐえなかった。この小説には、そういう違和感を特に感じない。日本人が西洋史の謎に迫るというストーリー展開に無理がない。 これもグローバル化の時代の影響か。それとも作者の筆力を褒めるべきか。 もう一つ。 巻頭で、作者は30年前にカタリ派ゆかりの地を訪ねて、この小説を思い立ったと書いているが、何しに行ったのだろう。仕事ではあるまい。おそらくバックパッカーの個人旅行だったのでは。私もかつてヨーロッパを放浪旅行した経験があり、お仕着せの旅行ではない自分の興味をそそられた地を訪ね、感銘をうけ、さらにこの地を舞台に小説を書いてみたいなどど、楽しい空想にふけった経験がある。 ・・・いまだに実現していない。だが帚木は実現した。そういう帚木へのジェラシーを抱きつつ小説のページをめくるのも読書の楽しみ・・・、なわけないか(笑 | ||||
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カタリ派の異端審問について記録した古文書を巡る学者とバチカンの暗闘を描いた作品です。 ただ、作者の力点はアクションやサスペンスではなくて、むしろ古文書の内容自身、すなわちカタリ派とカトリックの宗教観にあります。(あ、この古文書の内容もフィクションです) 古文書の作者は、異端審問を行う大司教の通訳兼書記。 カタリ派の宗教指導者と大司教の神学論争では、カトリックの矛盾をカタリ派の指導者が聖書の引用を駆使しながら論破して行きます。 そこでは、教皇を頂点とする宗教的ヒエラルキーに従わないものはすべて異端であり、悪であるとするカトリックの独善性が露わにされます。 しかし、カトリックに不利な記録を残すことは許されません。 審問の過程で徐々にカタリ派にシンパシーを感じた書記官はカトリックの司祭達には読めない故郷(カタリ派が隠れ住んだ地方)の方言で、その記録を残し秘匿したのです。カトリックに廃棄されないように。 この作品でもたびたび言及されるモンセギュールの陥落を描いた佐藤賢一の『オクシタニア』と併せて読むと感興も一入だと思いますよ。 | ||||
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帚木作品の素晴らしさは第一に、ストーリーの清々しさです。悪戯に殺人や裏切りで非現実感を煽ることがなく、悪人にさえどこか隣人愛を感じさせる暖かい視点がある。 本作品で暴かれる、ローマ教会の深い闇と「異端」とされ歴史に葬り去られたカタリ派殉教者達の清烈な生き方。 立派な教会などいらず、形式だけの洗礼もいらない。嘘をつかず、日々の仕事、眼前にあるすべての出来事が神との対話となる…。 家や職場こそが教会だというカタリ派の教えを邪教とし、全信者が根絶するまで拷問・処刑を繰り返す本家カトリック教会の存在意義とはなんだったのか。 同氏のアフリカシリーズが、そんな社会の歪みが現代でも健在することを示しているように思う。宗教権力は巨大企業・資本主義の偽善にとって変わり、虐げられる人々は貧困国や隣国の片隅で今も命掛けの祈りを呟いているのだろうか。 帚木作品を読んで得られる気付と内省は、私にとっての小さな信仰の場になっていると言えます。 心に残る一冊です。 | ||||
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中世キリスト教の異端、カタリ派の秘密を日本の歴史学者がフランスで追いかける。 熱い本だったな。著者のカタリ派に寄せる思いが伝わってくるいい本だった。カタリ派好きの自分にとっては、すごく好きなテーマだし、ストーリーも分かりやすくて(ダヴィンチ・コードみたい?)、あっという間に読み終えてしまった。 カタリ派を描いた最近の小説には佐藤賢一の『オクシタニア』もあるが、あちらは、現代の話ではない。あれもいい小説だった。 それにしても自分がカタリ派に惹かれるのはどうしてだろう?高校生のころからそうだったんだよな。不思議。 | ||||
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私は、単純に面白かった。 「ダヴィンチ・コード」より、こちらのほうがわかり易かったし。 カタリ派にしろ何派にしろ、宗教がなぜ分裂していくのか、不思議。 イスラム教もキリスト教も、元(根っこ)は同じような気がするのだけどなー。 カタリ派とローマ教会がなぜ相容れないかの理由は、この本を読んで理解はできたが。 | ||||
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二人ほど前にレビューを書いた方が、「全キリスト者を侮辱」する作品と酷評しているが、この作品で取り上げられているカタリ派というのも立派なキリスト者であった、ということを忘れてはならないだろう。宗教的な権力闘争(とは言ってもカタリ派のほうに権力欲があったわけではないのだが)と政治的な領土獲得欲が都合よく手を組んだことで、滅ぼされることになった南フランスのカタリ派とカタリ派を擁護する貴族達、彼らについての歴史的な事実を推理小説という形を借りて日本の読者に知らせた、というだけでこの作品は価値がある。カタリ派弾圧に象徴されるような異端に対する抑圧は、キリスト教という宗教の病なのではなく、キリスト教会という制度の病である、ということをはっきり理解する必要がある。出来るだけ多くの方がこの作品を読んで、西欧の根幹にある制度の問題点を少しでも読み取ることが出来ればいいのだが。ただし、この作品、ミステリーとしては今一である。 | ||||
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12〜13世紀異端のキリスト教であるカタリ派をローマ教会が弾圧したという実話を元に、歴史学者が偶然発見した地図を手がかりに、その弾圧の証拠を宝探しのように見つけていき、それに誘拐劇などが絡み合うミステリーだ。実際にカタリ派へのローマ教会からの弾圧は相当あったようで、ネットで調べると日本語だけでも沢山出てくる。その弾圧の物語がこの本の3/4以上を占める。キリスト教異端弾圧の歴史物語を読むという意味であれば、この本を読む意義は大きい。私は夏休みでもあったので、ゆっくりこの弾圧の歴史の物語を読むことができ、大いに勉強になった。ただミステリーとしての部分がかなり薄くなってしまっているので、ミステリーとしてはあまり面白くない。(私は夏休みに長編のミステリーを読むことにしているので、その点では期待はずれであった) また昔の物語として読めればいいのだが、現代のローマ教会、されには現教皇を批判するような箇所が多々あるので、その辺はちょっといただけないと思った。踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまっていると感じた。 私としては、異端弾圧の歴史の部分もっと押さえて、ミステリーの部分をもっと膨らませて欲しかった。 | ||||
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著者は30年前から本書の構想を練っていたと「波」で読み本書の背景も知りました。わたし自身は20年ほど前に「異端カタリ派」という本でカタリ派のことを知りました。自分なりに限られた出版物を読み漁りました。本書には手稿という形で火刑に処せられるカタリ派の人々がまさに蘇ってきます。こういう本が出ると決まってローマ教会を冒涜するだの嘘だの書く人が現れますが、まさに思ったとおり上巻のレビューにも出ていましたね。 わたしは著者に対し深い敬意を表します。また本書を支えてきた編集者の方にも賞賛をおくります。ピレネーの山の中で残酷な時代に生きた清貧なカタリ派の人々もさぞかし喜んでいることと思います。ピレネーの山中にこの本を捧げにに行くという著者と共に、読者としてのわたしのこの感想も捧げてほしいと思います。本当によく書いてくれました。どのように焼かれ死んでいったのかは知っていても、その時代に生きた人々の感情は小説なくしては読めれなかったからです。何度も読み号泣いたしました。素晴らしい本を本当に書いてくださりありがとうございました。カタリ派を語れる本に出逢えてとても幸せです。 | ||||
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おおよそ文学とは、著者の感覚を読者が感じるものなのかもしれない。そういう意味で言えば本著の意図するところは達成されているのではないだろうか。 須貝、クリスチーヌ、エリック、エリーズ、カタリ派の聖職者たちと手稿を護り通した人たち。そしてその相反する立場にいる人たち。その人たちの心が読み取れる作品ではなかったか。と同時に、その心とは、現代人が忘れている人間らしい心。 いうまでもなく宗教と人間とは切っても切り離せない関係にある。悪の側に立つならば、宗教的権威と政治権力が結託して人間を支配しようとする心は現代にも生きている。その反面、宗教を人間の側に取り戻そうとする心もある。いつの時代もそれらがシーソーのように揺れ動いているのだ。 しかし、私は、本著を読んで思うに、人間らしい生き方、人間らしく生きるための、また人々と生きていくための「覚悟」を見たような気がする。そのことを感じるならば、本著に書かれたものが史実か、史実でないかは関係のないことなのである。 アリエス教授は言う、真贋を見分ける感性を持つことも人間にとって不可欠な資質だ、と。これこそが本著のテーマ、主題であるのだと確信する。現代に生きる人々はそのことを真摯に学ばなければいけないのではないだろうか。 | ||||
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