■スポンサードリンク
闇の奥
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
闇の奥の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.94pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全58件 21~40 2/3ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『地獄の黙示録』の原作のひとつと言われています。 たしかに、物語の大枠はこの小説から着想を得ているようです。 しかし、『闇の奧』のもっとも大きな特徴は 小説でしか描けないことを描いている点にあるので。 『地獄の黙示録』を観ても 『闇の奥』の理解につながることは皆無と言って良いでしょう。 小説技法の見本一覧のように多くの小説技法が散りばめられています。 出来事の展開は単調なので、ドラマチックな物語を期待すると、肩透かしをくらうと思います。 出来事というよりは、言葉の荒波を越えて 人間という生き物の奥地に冒険していくような小説です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
書き込み・傷みともなく、大いに満足している。但し、他の話が載っていないのは少々残念だが。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
コンラッドの「闇の奥」。植民地時代のアフリカ奥地の究極状態を描いた小説。あくまでも小説ではありますが、植民地支配、黒人奴隷、差別の根源を知る上で、重要な本だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
日本に帰ったら紙の本を買って何度か読んで見たい。できれば、違う翻訳で読み比べもしてみたい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
のべ数時間で読み終えた。 だが、予定調和でシャンシャンシャンと結末を迎えるような読み取りやすい小説ではない。 モヤモヤの残る読後感だし、作者のメッセージがどこにあるのか、しばらく思案した。 本作に対して、いろんな評価に分かれているのが、うなづける。 クルツもマーロウも男として魅力的だ。 クルツは極めて有能で周囲の評価も高く、将来が嘱望されていたようだ。 そんな彼が、アフリカ奥の奥の未開の地で、現地人たちを従えるまでになり逞しく生きていた。 出世欲からか象牙をほぼ取り尽くし、熱病か、はたまた魔界の狂気かに侵され、死ぬ。 マーロウは、クルツを思い出しながら言う。 『誰にも束縛されずに歩いていく人間が、孤独をくぐり抜け、静寂を通り抜けて、原始の世界のどんな異様な 場所にたどり着いてしまうことがあるか、君らにわかるはずがない。(略)警察官の保護や隣人の助けと いったものがなくなれば、持って生まれた自分の力と、自信を持つ能力に頼るほかない。』(p121) メッセージはこの辺りにあるのではないだろうか。 秘境の中で、鬱蒼とした密林と野蛮な現地人に囲まれた原始生活での孤独。自分なら生きていけないだろう。 解説には、クルツの堕落のようなことが書いてあったが、私にはそうは思えない。立派に闘った(自分と境遇と) のではないだろうか。クルツの最後の言葉、『怖ろしい、怖ろしい』も相手がマーロウだからこその言葉だと思う。 最後の最後で、嘘はついてはいけないと言っていたマーロウが嘘をつく。 抱いていた理想を目の前の現実に合わせざるをえなかったクルツの心情を暗示しているのだろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
随分前に読んだ記憶はあるのですが、余り良い印象はありませんでした。 ただ、この名作をもう一度読んでみたいと思っていました。 それが、今回この本を手に取った理由でした。 この本を読んでみて一番感じたのは、前に読んだ欧文直訳体ではない、頭にすっと入ってくる読みやすい文体でした。 おかげで、作品に十分に入り込むことが出来ました。 もう一つ、この本を読みたいと思った理由は、「闇の奥」と言うタイトルです。 原題は、“HEART OF DARKNESS”です。 この言葉の真意は何か?ということです。 この本は、反植民地主義のバイブルの様に扱われたり、人種差別の書として糾弾されたりしていますが、作者の本当の意図は、このタイトルにある様に思えてなりませんでした。 改めて読んでみて、はっきりしたことは、クルツを狂わせ、マーロウをその寸前まで追い詰めた「闇の奥」は、現代社会にも存在しているという事です。 それは、連続殺人事件などの様な形で現れてきますが、人が人を殺すことに引き込む「闇」もそれと同じではないかと思うわけです。 当時未開であったアフリカの奥地コンゴで、クルツが経験したことは、社会から疎外され生きる意味を見いだせない日々から齎されるどうしようもない虚しさの様なものだっただろうと思います。 そうした「闇」は、現代人の中にも生まれうるだろうと思います。 その意味で、この本は時間を超えた名著と言えるのでしょう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『闇の奥』は貿易会社員マーロウが仕事としてアフリカへと赴き、船を使いながら奥部へと進んでいく作品である。題名からも察すると思うが、雰囲気はかなり暗い。 しかしながら、この作品はかなり説明が難しい。一体どういう作品なのか。無論、あらすじを紹介することはできるが、結局作者は何が描きたかったのか、と聞かれれば読み終わった私はうまく答えることがでいない。(この作品は意外にも文体が難解であり、スラスラと読むことができない。うまく答えることのできない原因の一つである) まず、この作品はいわゆる冒険譚的なもののようでそうではない。未知の領域へと行き、色々な出来事に遭遇し、最後には自分の目的を達成するといえば、なるほど確かにその通りだが、この作品を読み終わった人間はこの作品が冒険譚ものであると主張することはあまり考えられないだろう。なぜかと聞かれれば、私なりの答えとして「快活さ」があきらかに抜けているからである。あるいは少年らしさといえばいいのだろうか。とにかく読んで心を躍らせるものではないことは確かである。 あるいは風刺ものと聞かれれば、やはり違うと言わざるをえない。当時のアフリカの植民地の情勢を描いたとwikiでは記されているが、確かにそういう描写もあるものの、少なくとも風刺しているものとは私には思えない。情勢を描くのが「目的」なのではなくどちらかというと「手段」である。 結局この作品の題名通り「闇」そのものを描きたかったのではなかろうか、と私は考える。作中での陰鬱なものは確かに闇そのものであり、それを味わうことがこの作品の醍醐味なのだろうと私は解釈しているがどうだろうか。どういう「闇」なのかと聞かれれば回答には窮するが。それは飢えや襲撃という「闇」なのか、未知なる大地という意味での「闇」なのか、人間の精神における「闇」なのか。最後話の鍵を握るクルツという男が「The horror!」と言いつつ死んでいくのだが、それも確かに「闇」を描いたものであるといったいいだろう。 確かに独創的な作品である。陰鬱であり、それでいて喜怒哀楽的な感情要素があまりない。うまくいえないが、陰鬱という感情を淡々と描いていく、この作品を説明するとすればこうなるだろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ページ数はさほど多くなくて、中編です。新潮文庫の『老人と海』よりすこし長い程度。けれど最初の1ページからして、ともかく難渋なほうへ持っていこうとするので、付き合うのに手間取りました。具体的な日常はさっさと通過して、次に「考えごと」がはじまるとこれが異様に、ながい。これだけ書いたのだからどこか落としどころがあるのだろうと読んでいても、ありません。この小説に比肩しうる書物といったら、20年前の「ウインドウズ・バイブル」のみです。 1900年頃のイギリスではこうした「ヴィクトリア朝」文学が流行していたようです。「意識の流れ」「自動書記」などと呼ばれるスタイルで、T・S・エリオットやD・H・ロレンス、そして(20年遅れで)フォークナーなどの作風です。貴族階級者がこぞって読んで、教養に磨きをかけたわけですね。 この小説の最後にクルツの婚約者が登場しますが、そこにさしかかると文章が急に明確になります。はて、どこかで読んだことがあるぞ、この感覚は・・・と、めぐらしていたら思い出しました。コナン・ドイルの短編です。イギリスでは「黄禍論」が吹き荒れはじめ、ドイルも反日運動を主導しました。上記のD・H・ロレンスも随想で日本人を「ウジ虫」と呼んでいます。 結局のところ、この『闇の奥』という偉大な作品は、わたしにとっては白豪主義の誇示であり、WASP(正しくはWAS-CEでしょうか)の優位の啓蒙書にすぎませんでした。この意識は21世紀のいまも健在です(わたしはそれを毎日痛感させてくれる職場に10年以上、いました)。この小説をぜひ読みたいと仰有る方がおられたら、その前に映画「地獄の黙示録」(コッポラ監督が2001年にカットした最終シーンを含む版)を観ることをお勧めします。 最後に、翻訳者様に。クルツの最期の言葉については、彼が、すべてを象捨したのちに残るただひとつのものは、という感覚で言った単語だとわたしは思います。心理学者が性愛と呼び、行動科学者が攻撃と呼んだ、「これだけはぜったい確かなんだ」・・・そういう言葉だと思います。 最後の最後に。翻訳者様。勘違いかもしれませんが、172ページの「残ったもの」という部分の原文が「remains」だったとしたら「遺体」ではないでしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この本の前に読んだもの 山崎ナオコーラ カツラ美容室別室 川上弘美 蛇を踏む 姜尚中 在日 倫理的な点では、神は禁忌の象徴だろう。(存在に関しては起源且つ保存であり、認識に関しては構造だろう。) 光と闇、自制、孤独、人生と謎、語りと声 ◉語り ・語りの原風景 語りと声は、見聞きしたものを伝達することの象徴。伝達には夾雑物が混じる。それに対して、真実や真理は恐らく西洋にあっては啓示によってもたらされる。この本では、真実や真理を疑う、或いは、真実や真理といったものを説くことを疑っているように思う。 ・批判 批判的態度が根底にある。批判には知識と判断が必要。この本の語りの曖昧さには、読者への批判的態度の喚起を求める意図が見える。登場人物の意見を鵜呑みにせず、筋の収まりによるカタルシスだけに留めないように、物語は曖昧さを含ませている。 ・語りの重層 現在の船上→マーロウの語り(過去、ベルギー→コンゴ)→マーロウの語り(現在と過去の間、イギリス) 物語のクライマックスはコンゴでのクルツとの邂逅と救出(?)だろう。なぜ、婚約者が登場するか。2点あると思う。クライマックスによるカタルシスで終わらせないこと、生きることの肯定。 語りの重層化は、歴史を暗示する。確か19世紀後半は植民帝国英国に翳りが見え出した頃だろう。英国大帝国もローマから続く彼の地の歴史的一過程だ。国家という既に与えられているものも、内部から、或いは、外部から、若しくは、その双方からの変革によって変わってきた。このような見方は、コンラッドの経歴に適うように思う。 ◉主題 ・人格の部分としての要素での共鳴と、共鳴の無さによる狂気 対比として鮮やかなのは、クルツの狂気と、黒人の操舵手助手の親密さだ。クルツは密林でミニチュアの帝国を築いたが、孤独のなかで狂気に陥った。一方、黒人助手は、空腹に苛まれながらも、言わば協働によってマーロウとの関係を築いた、もしかしたら、助手はマーロウを護ろうとして倒れたのかもしれない。 ・生の生活 生の感覚や生きる支えは、現実の生活の肯定を示す。 船上生活と車座の語りは、上の二つを象徴する。 ◉今日の意義 すぐに思い付くのは、科学・進歩への批判だ。冒頭の「一種の光」はクルツの叫び「恐ろしい!」だろう。安閑な生活の裏や、内側に恐ろしさは巣食っている。偉大な信条の陰や、安泰な生活の奥に隠されている気がする。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
最近の嫌韓ブームに影響されて、韓国関係の本をいろいろ読みました。 在日韓国人が強制連行の結果、日本にいるというのはデマでく、密入国者だったんですね。だまされていたという気持ちでした。 以降、単なる嫌韓本だけでなく、アイルランド・アレンの「THE NEW KOREA―朝鮮(コリア)が劇的に豊かになった時代(とき)」や、イザベラ・バードの「朝鮮紀行〜英国婦人の見た李朝末期」を読んだりしたのですが、明治時代や江戸時代の朝鮮は、今のソマリアのような未開の土地だったんですね。 偏見は良くないという論点以前の問題として、真実を知らねば。 で、行き着くところ、今は、19世紀の欧米の植民地支配の本に興味を持つようになって、この本を見つけ出して、読むに至りました。 「地獄の黙示録」という映画はこの小説を下書きにしたのでしょう。 コンラッドという作家の名前は聞いたことがありましたが。初めて読んだコンラッドの本でした。 決して政治的な小説ではなく、私小説的な、引き込まれるような感じ。 付録の解説も良いので、ぜひご覧あれ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
本作『闇の奥』(1902)は政治的見地、いわゆるポストコロニアリズム以後の視点からいろいろ議論されています。もちろん著者ジョゼフ・コンラッド(1857 - 1924)が同時代の帝国主義や白人至上主義を乗り越えていた、あるいは逃れらなかった、という指摘はどちらにも一理あるでしょう。 けれど、それらはともにコインの表裏であって、結局どちらも「西欧」を基準とした読み方でしかありません。くわえて、そのような議論は本書を、現在の視点で過去を裁くための政治的なテクストに還元するため、読者は教条主義的な読みを強いられ「物語」から遠ざけられてしまいます。 それではあまりにもったいないし、本作は単純にひとつの小説として優れています。透徹した眼差しと卓越したレトリックによって紡がれる情景や心理の描写には、何度もため息をつかされます。 作中のテーマである「闇の奥」そのものは間接的に描写されるだけだし、語り手マーロウの矛盾した態度についてもどう解釈するか議論を呼んだようです。ですが逆に言えば、それらは物語として開かれていることを意味します。本書のメッセージをどう捉えるかはすべて読者に委ねられているのです。 そして本書の形式は重層的で、アフリカ遠征の経験についての語り手「俺」(マーロウ)の体験談が、地の文の語り手「私」によって読者に伝えられます。すべては一人称である “I” =「俺」=「私」という主観からしか語られません。語り手 “I” を信用するか否かも、 “I” =コンラッドと解釈するか(すなわち “I” の政治的な偏向をコンラッド自身のものととらえるか)も読者次第なのです。 人間の持つ善悪や矛盾を「白」か「黒」かのわかりやすい図式に貶めず、不明瞭なままにしか提示しえなかった著者コンラッド。それが政治的に「正しい」のか「間違っている」のか自分にはわかりません。それでも、そうした姿勢こそ、複雑なものを複雑なまま受け入れることのできる、ゆえに己のためらいや葛藤を認めることのできる彼の知性のあらわれなのだと思います。 どうか先入観を持たず、ひとつの小説として読んでください。政治的判断はその後でもかまわないはずです。 本翻訳からは、マーロウの饒舌な語りを日本語で再現しようとした訳者の苦心の跡がうかがえます。仮に本書を読みずらいと感じる方がいたとしても、それはコンラッド自身の回りくどい表現を訳者が原文のリズムに可能なかぎり忠実に訳しているからだと思われます。たとえば “The rapids were near, and an uninterrupted, uniform, headlong, rushing noise filled the mournful stillness of the grove, where not a breath stirred, not a leaf moved, with a mysterious sound” 「近くに川の早瀬があるらしい。猛然と迸る水の、途切れることのない単調な音が、木立の中の、そよとも風が吹かず、一枚の葉も動かない、死を悼むような静まりを、不思議な響きで満たしている」 を比較すると、翻訳するさい文章を短く切ったり「超訳」することなく、原文のリズムを日本語に移し替え、なおかつコンラッドのもってまわった言い回しを最大限わかりやすく訳そうとしていることが伝わるのではないでしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
さすが古典名作。読み応え120%だ。だが一番おぞましかったのは、悪霊にとりつかれたようなクルツでも気のふれたような蛮人たちでもない。悪党どもは常に存在する。だが、悪党クルツを英雄視し慕う人々、特にその虚像を信じて疑わない彼の妻と、彼女に最後まで真実を明かさない語り手の主人公自身だ。悪党を慕う連中や真偽を明かさない連中こそ、人間の闇を深くする根源そのものなのだ。「月と六ペンス」でもそうなのだが、自らすすんで虚偽に生きる連中ほど、救いようがない部類の人間はいない。神によって最後の審判の日が定められてるのは、こういう理由からだろう。聖書の言うように、真実はいつかは全部暴露される。主人公は真理を証すべきだった、結果がどんなことになっても。闇からの唯一の脱出口だったのに。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
さすが古典名作。読み応え120%だ。だが一番おぞましかったのは、悪霊にとりつかれたようなクルツでも気のふれたような蛮人たちでもない。悪党どもは常に存在する。だが、悪党クルツを英雄視し慕う人々、特にその虚像を信じて疑わない彼の妻と、彼女に最後まで真実を明かさない語り手の主人公自身だ。悪党を慕う連中や真偽を明かさない連中こそ、人間の闇を深くする根源そのものなのだ。「月と六ペンス」でもそうなのだが、自らすすんで虚偽に生きる連中ほど、救いようがない部類の人間はいない。神によって最後の審判の日が定められてるのは、こういう理由からだろう。聖書の言うように、真実はいつかは全部暴露される。主人公は真理を証すべきだった、結果がどんなことになっても。闇からの唯一の脱出口だったのに。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
西洋とアフリカとの出会いが生々しく描かれていた。コンゴ川を遡り、奥地に入っていくことが「闇の奥」に入ることではあるまい。<他者>を理解不可能だと思い、<他者>から奪い、抹殺しても良いとさえ思うようになる人間の心こそ、「闇」であることを感じさせられた。クルツの叫びは今の時代にも尚、こだましているものだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
フランシスフォードコッポラ監督の映画地獄の黙示録の原作本です、確か当本の解説者の解説に当時のベルギーの王はコンゴの原住民を数百万殺した、イギリスでもそれほどしないとあり、また当時南アフリカでは先に入植したオランダ人と後に入植したイギリス人との戦い、ボーア戦争もありました、ヒトラーは読書家でありナチが行ったジェノサイドはそのベルギーの王レオポルトが行ったコンゴの虐殺の史実からヒントを得たのかもしれない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『闇の奥』は難解な書物であるといわれてきた。その責任の大部分は、50年余り唯一の翻訳にあぐらをかいてきた中野好夫(と岩波書房)に帰すだろう。その誤った評価が本書によって覆されたのは嬉しい。今でも中野本を「格調が高い」といって褒めそやす御仁がいるが、「ではその内容は?」聞くと、きちんと答えられない人が多い。「判らない故に貴い」が読書態度だとするのは滑稽だ。 中野本は誤訳と言うよりは、独りよがりな解釈に基づく誤解が多い。「パリ」の例は可愛いいが、クルツが埋葬された後の簡単な原文:”And then they very nearly buried me” を『そしてそれと同時に、僕自身もほとんど墓穴の中の人間同然にされてしまった』としているのは噴飯ものである。本書は「そしてこの俺も、もう少しで死んで埋められるところであった」である。クルツが死んだ後、マーロウも重い病に冒され生死の縁をさまよった。というだけのことが、中野本では、マーロウは「社会的に葬られかけた」ことを暗示していると解釈でき、ますます混乱してしまう。 『闇の奥』はマーロウが遊覧帆船の上で潮待ちの退屈な時に、昔話をとりとめなく語った物語に過ぎない。そんなマ−ロウの話し言葉に、本書の口調は良く合っていると思う。マーロウの語りの判りにくさの一つは彼の饒舌と、もう一つはどう語るべきかで戸惑う彼自身のもどかしさにある。それを解いてやるのが読書行為である。マーロウの発言を注意深く再構成してみれば、彼の言いたいことは全部提示されているのが判り、難しいことは何もない。「難解」という人は、ただ読みかたが足りないに過ぎない。 さて『闇の奥』の問題点を挙げれば次の4点だろう。 A知識人のクルツが、その「理念」を掲げて踏み込んだアフリカ奥地でどうして“変身”してしまったのだろう Bマーロウは、そんなクルツをどうして「すごい人物」と評価するのだろう Cロシア人の若者は、どうして「そこ」にいるのだろう D嘘をつくのが大嫌いなマーロウが、クルツの婚約者にどうして嘘をついたのだろう。 このうちABDについては多くの批評家たちが言及し、それによらずとも、アフリカ奥地のとてつもない「闇の深さ」とヨーロッパ文明の「闇」を相対化しているマーロウの視点から、結果は異なるとしても、読者それぞれの解釈と批評が可能だろう。残るCだが、彼に言及している批評は少なく、あったとしても「クルツを語る舞台廻しの役割」と素っ気ない(石清水由美子『闇の奥』の註)。しかし私には彼をとても興味深く感じられる。 マーロウが「道化harlequin」と呼ぶロシア人はクルツとは好対照である。この青年は「絶対的に純粋で、打算のない、実利とは無関係な冒険精神」で、少しづつアフリカ奥地を進み、「どうやって引き返すかわからない所まできてしま」った。それでいて、全く戸惑っている様子はない。彼にはクルツのような「宣教者」精神でもなく、といって同時代の探検家スタンリーのような利権獲得精神でもない、ヨーロッパ精神の原点にある未知への好奇心がある。クルツとの出会いで、ヨーロッパ文明の真髄のような教えを享受されて驚嘆しても、「僕は単純な人間で、偉大な思想なんてありゃしません」と西欧人の優越感に犯されることもなく、僕には原住民の友だちが「たくさんいますよ。彼等は単純な人たちです。−僕は何も欲しがりませんからね」といって、密林の奥に戻って行く。彼はこの先も原住民たちと平等に接し、仲良く暮らして行くのだろう。ここは本書の唯一の「救い」となっている。 近年『闇の奥』を人種差別的あるいは植民地主義的だとして非難する傾向があるようだ。興味深いことに、辛辣なエドワード・サイードは、「祖国喪失者」としてのコンラッドに思いを馳せ、『闇の奥』には不十分であるが、帝国主義の動揺と「闇の」自律性が描かれていると評価する(サイード『文化と帝国主義』第1章)。これに対して藤永茂はチヌア・アチェベを引き合いに出しながら、コンラッドは帝国主義者だったと断定している(藤永『私の闇の奥』)。第三世界の眼で見れば、西欧古典文学の全てからレイシズムを指摘できることに、理がないわけではない。これらの論争に私の浅学をもって切り込んでいくのは気が引けるが、私見では『闇の奥』はロシア人の登場で、西欧人の「もうひとつのあり方」を描き出しており、コンラッドが決してレイシストやコロニアリストではなかったことを証明していると思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
今又違う意味でアフリカが注目されているが・・・アフリカを考えあるときに 是非、一度は読んでほしい古典的な本かな?特に若い人に・・・人の心の闇も同時に 考えさせられる本。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
翻訳家はlaunchedを、運動(移動)でとらえるが、静止状態のものがアクティブになる、 電源が通って生きた状態になるの意味もある、 「宇宙の中を飛ぶ音」はいくらなんでもひどい、 ここは「地球の大地に血脈が通うすさまじい流れが音になったかのような」くらいの意味 「真実を語っていなかった」と逆にした、というが、 ここは原文どおり、「語っていた」が正しいはず in his lifeだから、著書は「生命の短さ」に言及している 翻訳家は体が大きいから筋が通らないとするが、「彼の生命線は名前のとおりに短い、(だがbut=原文になし)体は大きい」という意味で、単に対立概念を提示しているだけ、翻訳家の解釈が正しければ長命となり、矛盾が生じる、実際には過去を回想しながら全篇をつづったこの作品で、この時点ですでに彼が途中で死んだことがわかっている、「生命の短さ」と考えるのが妥当 「どんな経験であれ…」ここの解釈はほぼ正しいが、訳文がおかしい、「任意の時点」「ある時点」というより、「特定givenの時点」については時間を隔てて伝えるのは不可能、という意味になるはず、翻訳家の訳文は限定抜きで「どのときの経験も全部、経験というものは等しく伝えるのが不可能」としている、コンゴ川を遡って人を救出するという特殊任務の時点と、その他の時点が、同じように不可能ではないはず、このgivenはspecificに近いと考えられる 「艀に」は、どちらでもいいと思う、ただ、翻訳家は筋が通らないから、とするが、「筋が通らない」文章は小説の大事な要件の一つで、通らないことから(通るように)組み立てるのが読者側の醍醐味でもある、また、明確に映像化した後(イメージが小さくなるので)その映像を制限するのは小説家が使う常套手段、これは「(作品が)あいまいな表現方法をとる」というのとは違う、「いっそう不可解だ」と理由付けするが、この作品に不可解さは大切なので、著書は不可解なままにしてほしかったかもしれない(「波打ち際」もいらないかもしれない、ということ) 「俺も、もう少しで死んで…」ここは余計だと思う、「俺もクルツと紙一重の運命だった」くらいでちょうどいい、「熱病が原因」かどうかの特定は不要、むしろ読者側の選択肢が増えると不安感が増すので、「彼らに殺されたかもしれない」「病気で死ぬところだったのかもしれない」と二つ残すほうがよかった、「意図的な曖昧さ」というのとも違う、このあたりはむしろコンラッドの筆の勢いが直感でそうさせている 「白く塗った墓の町」これは著書が「ある都市」としているので、特定してはいけない箇所、ブリュッセルではない、翻訳家はここでも論証を企てるが、これはあくまで小説、マーロウはコンラッドではない、どこでもない都市が通用する世界だ、ここで繰り広げられるカフカ的なやりとりは非常に興味深い、水を差すのはさけたいところ、もちろんパリでもない 「魔境wilderness」は単にwild、まず第一に「野生」ではないだろうか、翻訳家は漱石の「草枕」を例にとるが、この作品ではあくまでキリスト教的な価値観と対峙するwildernessを念頭に置いている、キリスト教の教化の光が届かない地帯、つまり実際の場所と精神的なwildernessの両方を指している、と思われる、場所が強ければ「ジャングル」、精神的な存在であれば「野生の精」、場合によっては「暗黒」にもなろう、「魔境」は子供向けの冒険小説のきらいがある 会話は既訳よりも勢いがあっていい、小説自体は面白いのでお勧めできる | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『闇の奥』とはよく訳されたタイトルで(原題は"Heart Of Darkness")、本当にタイトルの通りの小説。 ページをめくるごとに闇の奥へ奥へと進んで行く。まるでディズニーランドの”It's a small world” の両河岸がものすごい悪夢みたいなよう。 悪夢から、悪夢、さらに悪夢へと途切れることなくボートに乗って進んでいく。スタート地点ですでに黒人奴隷のゴミ捨て場だ。 闇にももっと暗い闇がある、黒にももっと黒い黒があるのである。 アフリカの奥地で狂ってしまったクルツを特異な例と片付けていいものだろうか、 否。会社の利益のため、仕事のために魂を売る人間はごまんといるではないか。 「人間の中には、道を踏み外すことさえできないほどの馬鹿もいれば、闇の力を意識することさえできない鈍感なやつもいる。 馬鹿が悪魔に魂を売った例はない。そして、僕らの大多数の人間というのは、馬鹿でもなければ、聖者でもないのだ。」 という語り部の痛切な叫びがぼくの心の闇に響いた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
これを読むと、大いなる「恐怖」と人間との戦いもしくは対話、というものを感じる。それは物語の系列として世界的に脈々と存在する。 たとえばメルビルがそうだし、あるいは望月峯太郎の「ドラゴンヘッド」もそうじゃないだろうか。あるいは武田泰淳の諸作。水木しげるの自然描写もかなり怖いが、本人は怖いものを描こうとしてああなるのだろうか。 ルポルタージュとしては、不徹底な作品だ。だが人間にとっての恐怖とか悪とかを象徴した作品として価値があるだろう。コンラッドの他の作品は、より社会を複合的に捉えたものがあり、人によってはそれらの方が良いという人もいるだろう。だが本作の、集中して恐怖を語る力もなかなかだ。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!