■スポンサードリンク


残夢の骸 満州国演義 九



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)

残夢の骸 満州国演義 九の評価: 4.31/5点 レビュー 26件。 Aランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.31pt


■スポンサードリンク


Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全5件 1~5 1/1ページ
No.5:
(3pt)

特に問題ありません
残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)より
4101343284
No.4:
(3pt)

読書感

読みづらい文書だったが、最後まで読み通したので、結局は面白かったと思う。
残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)より
4101343284
No.3:
(3pt)

歴史の奴隷になった小説

ようやく全巻読み終わったところである。

まず物語は満州とは全く脈絡のない時間・空間・状況から始まる。今後の展開に期待を持たせる上々の導入部である。が、第三巻あたりから、急に詰まらなくなり、最終巻まで到達するのに苦労した。

その理由は最終巻のあとがきで著者がいみじくも書いていることに他ならない。

第二巻における著者の後書の「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史も小説の玩具ではない」という一節を説明して曰く、「歴史は客観的と認定された事実のつながりによって構成されているが、その事実関係の連鎖によって小説家の想像力が封殺され、単に事実関係をなぞるだけになってはならない。かと言って、小説家が脳裏に浮かんだみずからのストーリイのために事実関係を強引にねじ曲げるような真似はすべきでない。認定された客観的事実と小説家の想像力。このふたつは互いに補足しあいながら緊張感をもって対峙すべきである。」

事実関係については、「この作品を仕上げるには膨大な量の文献との格闘が不可欠だった」と著者が述べており、「資料渉猟はわたしのもっとも苦手とするところ」にも関わらず、晩年は病をおして、満州国をめぐる歴史を書き出した労作と言えよう。

しかし、「小説家の想像力」の方はどうだろう、四人の兄弟は次郎を除いて(それも馬賊をやめるまで)、まったくキャラが立っていない。著者によれば、歴史の枠を超えることはできないので、その枠内でということになるのだろうが、それにしても小説の部分が面白くない。ネタバレになるので、くわしく書かないが、第一巻のミステリアスな導入部と敷島四兄弟そして“間垣”という怪しげな人物などが絡まって物語が展開し、あっと驚く種明かしがあるのではないかと期待して後半まで読み進めても、結局“えっ、それだけ?!”というあっけない落ちしかない。あっと驚く結末を思いつく前に、病が進行して、力尽きてしまったのかもしれないが、こうなるとやはり、船戸与一はあまり事実関係に制約されない「山猫の夏」の様な冒険小説を得意とする作家であったと言わざるを得ない。

小説としてのテクニカルな問題もある。
主人公(例えば、太郎)のところに、外部の者(例えば、間垣)が来て、“こういうことを知っているか”と問いかける、それに対して主人公は“知らない”と言うと、当該外部の者は“それはこういうことだ”解説する、それに対して主人公は“で?”と応じて、外部の者が話を続けるというパターンが、ほぼ全巻を通じて何度も繰り返される。それは四兄弟のだれについてもそうだし、間垣以外の外部者との組合せでも同じである。歴史と小説の接点の様な部分において、外部者に歴史を語らせているのだろうが、それに対して兄弟は全く受動的で、歴史の枠を超えようともしないので、著者が避けたかった“小説家の想像力が封殺され”ている状態。

歴史的事実の桎梏から逃れるには満州国は新しすぎて、小説家としての想像力を発揮できる余地が少なかったのかもしれない。とすれば、作家の無謀な試みということになるので、残念ながら、小説としては★一つ。ただし、歴史書としては★四つ、十年がかりの労作に敬意を表して、おまけで★三つ。

最後に船戸は「客観的に認定された事実にも疑義を挟まざるをえないものがあちこち出て来るようになった」と述べている。望むらくは、歴史に疑義を挟んで、それを小説に膨らませて欲しかったが、泉下の人には届かぬ願いである。合掌。
残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)より
4101343284
No.2:
(3pt)

歴史書としての意義有

第9巻まで読了。船戸氏の著作は新雨月以外はすべて読んで大ファンです。 これは遺作でもあり大変に期待したのだが、
いままでの船戸節は影を潜め 主人公4兄弟の動きもいつになく重苦しく 船戸小説がこんなはずはないと思い続けた。 
シリーズ中頃からはこれは兄弟の物語として考えずに 日本が絡んだ歴史を知る読み物だと思うようになった。 
そして最終巻P421でいみじくも 三男の言葉「いったん濁流の流れに身を投じた以上、だれもが流されていくしかない。」が 
この大作のテーマであると深く感じた。 本作の主人公は4兄弟ではなく 濁流に身を投じた過去の日本なのだと。 主役4兄弟
および それを取り巻く脇役の人々はそのステージで踊った狂言回しである。 小説としては評価が低いが、
歴史に踏み込むという部分では大変に役に立った。
残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)より
4101343284
No.1:
(3pt)

旅の同伴者として

中身をどれだけ理解したか不明ではあるが、とりあえず満州国演義を通して読んだ。とにかく長い旅であった。満州事変から終戦までの日本史を全て網羅した力作であることは事実であろう。そして最終巻が出版された直後にこの世をさったことからも、本書が船戸作品の集大成という意味合いがある。しかし、何故船戸はこのような正史を書き続けたのであろうか?
船戸の魅力は、正史とは違う世界で無名のまま死んでゆく人間の魅力を描くというものである。この作品でも敷島4兄弟、間垣徳蔵という架空の人間が生き、死んでゆく(一人は生き残るが)。しかし彼らの話す言葉、行動の殆どは正史を語るものである。特に太郎、および彼の記述は殆どが正史をそのまま書いている。妻圭子との問題も突っ込みが足りない。彼の言動は、外務省がなにも出来ずにいたと言う事だけであり、これも正史で言われる事である。三郎は憲兵の目から見た世界だが、これも所謂歴史の教科書的な事項をなぞっているに過ぎない。
その点、次郎と四郎は通常知らない世界を描いている。馬賊、緑林の世界なぞ、殆ど知られていない。四郎がさまよう世界は殆どが裏社会だ。例えば開拓民の世界を扱い、そこに知られざる物語を描けば、それだけで面白い話しになったように思う。知られている満影でも良かったと思う。満影での生活を掘り下げる事はいくらでも出来るように思う。いや、この作品に出てくる全ての事象を掘下げ、船戸得意の世界を展開できたはずである。そしてそれは決して「歴史が小説の玩具」にはならなかったはずである。
またこの作品の後味が悪いのは、負のカタルシスを感じ得ない事にある。船戸作品の登場人物は殆どが凄絶な死を迎える、もしくは絶望にかられる。そしてそこに不必要な希望は書かれていない。そこにこそ人間の生に対する諦念と、逆説的な希望がある。本作において船戸的「死」は間垣徳蔵にのみ見られるが、それとて特別なものではない。次郎にしても三郎にしても戦闘の中で死んでいったとは言え従来の作品に見られるような死の美学はない。まして太郎となると美学どころの話しではない。葛西政信が川に沈む時、群家徳雄の死体が燃える時、マルチネスが車輛にひかれる時、野呂影夫の首がかっ切られる時感じた衝撃、さらには粛清をされる蒋国妹が砂漠にたたずむ時、イラワジ川のほとりで那智信之がたたずむ時、藤堂早苗を看取った伊勢明美が花吹雪にあおられる時感じた喪失感を、残念ながら殆どこの作品に見る事は出来なかった。
船戸与一は本書、さらには「新雨月」において真摯な歴史小説家になろうとしたのだろうか?真摯な歴史小説家とは、史実を丁寧に調べていく。となると、いい加減なフィクションが書けなくなるのであろうか?その意味で会津若松の謎も、捻る事が出来なかったのかもしれない?この謎は途中でネタが見えてきたように思うし、奥山貞夫が「会津若松で」と死に際に唸る時の期待感は、間垣徳蔵のあっさりとした告白で裏切られてしまう。
しかし船戸作品と数十年の付き合いをしてきて、様々な旅をし様々な人間と会ってきた。ベネズエラ、ブラジル辺境、西サハラ、スレイマン山脈、小ネヴァ河畔、イーニン、金門島、赤猿温泉、龍神町。アンディショウ、バラバ、群家徳雄、シャリフ、間垣浩介、ハッサン・バブーフ、ティモシー・ヤン、葛西政信。その旅の同伴者として、今は亡き船戸与一と「満州国演義」は再び訪れるべき場所なのかも知れない。
残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:残夢の骸 満州国演義九 (新潮文庫)より
4101343284

スポンサードリンク

  



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!