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琥珀の夏
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琥珀の夏の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.13pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全70件 61~70 4/4ページ
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多くの方がこの小説をミステリーと捉えていらっしゃるようですが、これは一種の心理小説で、特に家族や子供との関係、それと仕事の関係については女性作者にしか書けない性格のものであると思いいます。同性の方でも、弁護士として活躍する法子の生き方に憧れる方がおられる一方、反発を感じる方もいらっしゃるのではないかと思います。少女時代に対する感じ方については、女性だからというのとはちょっと違う気がします。そういうと「お前は平和で幸せな少年期を過ごしたからだろう」といわれそうですが、わたしは慣れない地方都市に転校したり、イジメにあったりと結構これで苦労しています。しかしこういう特殊な心理状態でその頃を思い出すということはありませんね。もう一ついえることですが、わたしの親だったら、主人公の参加したような合宿に子供を参加させることは絶対になかったといえることです。わたしも自分の息子が孫をこうした会に参加させるといったなら、絶対に止めますね。 お読みになっているうちに〈ミライの学校〉について整理してみたくなる方が沢山いらっしゃると思い、わたしなりに整理してみました。 〈ミライの学校〉 もともとは教育問題を中心に結成された組織。子供たちを親から離して集団生活させ、知識偏重教育を廃して自分たちの頭で考える習慣をつけさせることを目的として、幼稚園~高校生の子供たち100人程度に集団共同生活をさせていた。当初は静岡県の山奥の某所に本拠地を置いていた。敷地内に有名な湧水があり、これを販売することを資金源としていた。組織の趣旨に賛同する大人たちが、仕事や家庭を捨てるかたちで活動に参加するようになり、その中には現役の教員もいた。こうした出家を思わせる活動形態から世間一般からは彼らの意図とは別に、〈ミライの学校〉は一種の新興宗教集団と見做されるようになっていった。事実内部でも湧水を神聖視する新興宗教的な動きがあった。一方公式に学校法人とは認定されていないため、「学び舎」と呼ばれた校舎で生活する子供たちは、彼らが〈麓〉と呼ぶ近接する町の小学校・中学校に通い、義務教育を受ける必要があった。したがって、〈ミライの学校〉の高等部を卒業しても世間的には中卒でしかなかった。社会人として生活するためには一定の学歴や資格が必要であるが、〈ミライの学校〉ではこの点が無視されていたため、多くの卒業生たちが事実上社会の落伍者になってしまった。また〈ミライの学校〉が新興宗教と見做されたことから、出身者が差別の対象となることがしばしば起った。〈ミライの学校〉は規模を拡大しつつも、一層閉鎖性を強めていっていた。そんな中、関係者にのみ販売していたはずの無殺菌の湧水を組織とは無関係の子供が飲んでしまい、カンピロバクターによる食中毒を起こす事件が発生した。その何年か前オウム真理教事件があったこともあり、〈ミライの学校〉は危険な新興宗教として指弾されるが、規模を縮小しつつも現在も活動を続けている。現在の本拠地は北海道だが、東京に連絡事務所がある。学園は静岡に本拠を置いていた時代、夏休みに1週間程度の予定で一般家庭から小学生を林間学校のようなかたちで「合宿」と称して預かっていた時期があり、これに参加した児童が相当数いたことが、規模に比して組織の知名度が高い有力と理由と考えられる。 ところでこの批評欄に殺人事件と考えられる案件については公訴時効が廃止されているはずだとのご指摘がありましたが、殺人事件等凶悪犯罪に対する時効の廃止が決定され即日施行されたのは2010年4月27日です。この物語には地下鉄サリン事件のことが取り上げられていますが、これは1995年3月の出来事です。この事件は明らかにそれ以前に起きており、事後法を認めないという立場からこの事件では公訴時効が成立しています。なお、以前は殺人罪でも公訴時効は案外短く、1994年までは15年でした。ただ、公訴時効の成立が考えられるような事案だからといってこれだけ話題になった事件を警察が捜査しないということは考えられず、そういう意味では、いきなり弁護士が調査に乗り出すというのは不自然だというご指摘はもっともだとも思います。 もうひとつ、二次性徴が発現していない子供の骨を見て男女を見分けるのは難しいのではないかという疑問がありましたが、現在はDNA鑑定が行われますから、問題なく判別できます。もっともそういう時代だけに、「うちの子ではないか?」といった疑問を持って警察を訪ねる関係者もおり、問題はもっと紛糾していたのではないかとは想像されます。 このあたり、小説・ミステリーの難しい点ですね。現実の世界との整合性がなくてはなりませんし、一方で現実世界のいろいろな規制や規制緩和がストーリーの構築を難しくすることがある。いや、大変だとなと思います。 いろいろと書き込みましたが、この小説は時代についても充分に配慮してストーリーが構築されている大変に骨太な作品であるといえると思います。冒頭に書きましたように、働く女性の感じ方について賛同か反発を覚えるかについてはひとそれぞれだと思いますが、作品としてはさすがに大きく話題になるだけの出来映えであると思います。ご一読下さい。 | ||||
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宗教的な団体で過ごした子供たちの描写がイヤミスの雰囲気を出し、読み進めるのが辛くても止められない。 社会的な問題と同時に家族の結びつきをテーマに展開。 著者の作風らしく子供の揺れ動く気持ちを描くのが上手い。 不思議と大人になると忘れてしまう理不尽な思いや他人との距離感などをリアルな描写で迫ってくるので、読者としては苦しい場面もあるが、これが著者の筆力のなせる業である。 大人の思う子供への純粋な未来が必ずしも子供にとって良いものではなく、綺麗な水で生きていくのはまさに「水清ければ魚棲まず」であるのであろう。 | ||||
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テレビでこちらの「琥珀の夏」が紹介されていたのをきっかけに購入しました。 近所の本屋に行きましたが、まさかのこちらの本だけが売り切れており、Amazonで購入した次第です。 辻村深月先生の作品は初めてになりますが、ゆっくり読み進めて行きたいと思います。 | ||||
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初期作品から続く、思春期の少女の繊細なこころの動きに、ミステリーではないけれども最後に そうくるのかと思わせる卓越したストーリー展開を織り交ぜた作風は、2018年に本屋大賞を受賞 した『かがみの孤城』でも、ますますそのクオリティを高めています。 お子さんをもったことによるものと思いますが、近年では『朝が来る』をはじめ、子供と母親、 そして家族の絆をテーマとし、筆者のみずみずしい感性に、力強さが加わった作品も、辻村深月 さんは生み出してきています。 それ以外では、『ツナグ』シリーズや『東京會舘』で、人の縁を描いた作品でも素晴らしいもの を輩出しています。 その辻村深月さんの最新作『琥珀の夏』は、そのすべての要素を総合しているとともに、最終章に ドラマティックなエンディングをもってくるという手法を封印し、エンタメ性よりもメッセージ色 を強めた作品として提示しているものでした。 小説の筋を追うならば、小学四年生の夏に主人公が体験した〈ミライの学校〉での出来事と、その 施設で発見された白骨死体事件の真相を、弁護士として働く40歳になった主人公が、そこで出会っ た人たちの当時と現在の心情のギャップと、また一方でその時から変わらないものを発見していく 物語です。 この小説は、その本筋とも取れる「カルト的」な団体施設の恐ろしさだけでなく、現代日本にはび こる、「教育問題」「保育園問題」「SNSでの誹謗中傷」「イジメ」などの社会問題へ一石を投じ た物語とも受け取れます。 小説というのは、作者と読者の対話によって完成するものだと考えてよいのなら、私がこの作品の 中で一番強く、そしていままでの辻村さんの作品の中にそれほど見られなかったチャレンジかなと 思ったのが、人という生き物の強さも弱さも、そしてその両方が見方によっていとも簡単に逆転を 起こす矛盾を孕んだ世界を描くことに、この作品で向き合っていることです。 小学四年生で、〈ミライの学校〉での生活を体験した主人公は、「みんなが、いろんなことを、 ひとつひとつ丁寧に考えるところが好き」だと感じます。ここにいる先生たちは、育ちがよく、 純度の高い理想を追い求める、意識高い系が揃っていると当時の主人公は感嘆します。 ところが、30年あまりが過ぎ、この団体施設が殺人事件や悪徳商法に関わるものと見なされる やいなや、世間一般だけではなく、以前その施設に関わっていた人たち、そこの先生までもが、 そこでの欺瞞を大っぴらに口にするようになります。 「お人よしすぎる。理想に過ぎる。だから、あそこには、未来なんかなかった」と。 そして、弁護士になった主人公もその白骨死体事件の真相解明の調査にあたる中で、綺麗事を ならびたてていた先生たちが実は、「麓」と呼ばれる一般社会と同じ「俗」にまみれた単なる 閉鎖社会に生きる俗物であったことを知るに至ります。 「聖」が「俗」へと堕ちていく様が、痛々しいまでに描かれています。 本当にこの作品の凄みを感じるのは、小説の最後に、主人公と、第二の主人公ともいえる 美夏(ミカ)という女性に次のように語らせているところです。 「あなたが、生きていてくれて、また会えて、よかった」 「綺麗でも、立派でもなくて構わないから、説明してほしかった。一緒に考えてほしかった。」 この人間世界にあるのは、聖でも俗でも、あるいは確かな正義と悪なんていうものでもなく、 その両方の性(さが)を併せ持つ人の営みだけなのかもしれません。 もし、辻村さんがこの世界を本気で描いていこうとしているのだとすれば、当代きっての感性と 筆力を持つこの作家がどうさばき切るのかをとことん付き合って見てみたいと思える、そんな作品 でした。 | ||||
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白骨化した遺体は、小学生時代の夏休みに<友達>になった少女ではないか、という思いにとらわれる主人公のパートと、主人公が夏のひと時過ごした<学び舎>の様子がそれぞれ語られます。 罪悪感と後悔に苛まれながらも、記憶を探ろうとする主人公の姿は読んでいて息苦しい。また、小学生ならではの世界で繰り広げられる複雑で繊細で危うい人間関係も丹念に描き込まれています。 期待したミステリーとは違ったものの、予想外の展開もあったりして、友情や愛情について丁寧に紡ぎだされた物語と感じました。 | ||||
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子どもは社会が育てるとの理念の基、親子が離れて、子ども達と先生で集団生活する〈ミライの学校〉。 事件を通じ、弁護士の法子先生が〈ミライの学校〉の夏合宿に参加していたこと、そこで友達とした約束のことをいつの間にか忘れていたことを思い出し、弁護士として団体と関わることになった際、現在まで放って置いたことを当時の友達・美夏さんに詰られても、現在の自分にできること、美夏さんの弁護に取り組んでいった姿は素敵でした。 法子さんの小学生の頃の夏合宿の回想で、夜誰と一緒に寝るかを心配したり、仲間外れを恐れる感じや、遊び慣れてない子が河原で水遊びするときに学校の水着を持って行ってしまって恥ずかしくてしょうがない場面なんかは、いたたまれなかったです。女の子グループから嫌な気持ちになる言葉をかけられたり。 嬉しいこと、嫌なこと、出会い、別れ、約束、達成、失敗、いろんなことを経て、大人になるんでしょうけど、結構小さい頃に苦しかったこと、嫌だったことって鮮明に覚えていたりして、苦いもんですよね。 終始話の中心である〈ミライの学校〉は、テロを目論んだり、詐欺や虐待をする団体ではなく、理想を掲げているものの、先生達は普通の人で、それほど悪い団体というわけでもなく、隠された過去が明らかになる際、保身から過ちを犯した面はありますが、衝撃的な展開というよりは、淡々としていました。 | ||||
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色んな角度からみられるストーリーに引き込まれました。 続編があったらぜひ読みたいと思いました。 | ||||
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先が気になりあっという間に読んでしまいました。親の信仰に振り回されている子どもの気持ちや、信仰に目を向けてしまう親の気持ちが詳しく書かれていました。 ミライの学校の何とも消えない胡散臭さに気分が悪くなりそうになったり、子ども達のリアルなピュアさと、美しい作品のタッチに夢中になりました。 | ||||
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もともとは、地方新聞11紙に2019年3月~2021年1月に連載されていた小説。 理想の教育を掲げ集団生活をする組織が、やがて宗教的雰囲気をまとう事となる。そして、聖なる泉の水なるものを販売する事となり、その後、その水を飲んだ事に拠る健康被害が生ずる。水の中からカンピロバクター(食中毒菌)が検出された事で、世間から叩かれ、施設は泉周辺から撤退する。その更に数十年後、施設が撤退した敷地から女児の白骨死体(第二次性徴を経ていない場合、児童の骨格からの男女鑑定は容易ではないとは思うのだが…)が発見され…と云う流れを、この作品は、女児の白骨死体発見 → その女児が自らの孫ではないかと疑う老齢夫婦からの依頼を受けての弁護士と組織との交渉の場から描き始める。 が、この作品は、その謎融きを一旦棚上げにし、暫くは、その組織の中で暮らしていた子供の視点で組織を描く事に費やす。サマースクールとして参加していた子供の視点も含めて。この視点は、複数の子供の間を行き来するものの、どれも回想形式(と想定されるもの)で進む。 この作品の構成としては、女児の身元を追う事は全体の65%で完了する。その後、女児の死因を巡っての民事訴訟(殺人なら別だが、過失致死、遺体遺棄も公訴時効となっていて、刑事責任を問えない)を軸に話は展開し、女児の死因を巡る経緯は最後の15%程度で明かされる事となる(ここには推理も何も無い。調査結果を語る構成)。 この作品では、組織を簡単に断罪する事なく、掲げた理想の高邁さ、そこで育った大人の高邁さも含めた特性をも描く。一方で、高邁さだけではない人間関係や、その窮屈さ、構成員の自己保身などの面も描く。そして、組織から脱退した人の思いまで。理想を追い求めた組織の変質と、変わらないもの。評価を簡単に下すのではなく、そうした両義性(多義性)をまとったまま、叙述は進む。 私は、ここに辻村深月の成熟を見る。かつて、辻村深月は、両義性と言っても、誤解を伴った誤読を誘発する様に仕向け、最後でどんでん返しでそれに気付かせる様な「仕掛け」を多用する作家だった。が、この作品は、そうした叙述の「手法」による事無く(情報の開示を限定し、読者の推論に幅を持たせる、程度の手法は使っているが)、丁寧な論理展開で評価の両面性(両義性。もしくは多面性、多義性)を描いて行く。子供にしては、あり得ないほどの論理展開も、この組織が言葉による「問答」を大切にする組織である事から何とか成立する(笑)。いや、成立している理由は、回想形式ゆえの語り手の年齢の曖昧さ? それとも、違和感を感じる読者が多いのか? この「両義性」(もしくは多面性)は、この作品を徹頭徹尾、貫いている気がする。最初の、聖なる泉への子供の思いと、その思いから来るおまじないの様な儀式、が、その儀式は一方では泉の汚染にも繋がる、と云った様に。 そんな記述の仕方なので、かつての辻村深月作品の様な「小気味よさ」や、一部の作品にあったスピード感は失われているかも知れない。が、記述内容に関して、異なる視点からの多義的評価をじっくりと味わえる。 なお、サマースクールの最初の方の班分けや寝床の配置などを巡る描写は、かつて映像化されもした何かの作品で見た様な既視感が拭えない。辻村深月は、同じ登場人物を色んな作品で登場させるので有名な作家だから、過去の辻村作品(私は辻村深月の単行本なら全てを読んでいる)からの引用ならばよいのだが、「朝が来る」で批判された様な、過去の放送映像のノベライゼーションの様なもの(「朝が来る」ではドキュメンタリーだった。私の記憶では、今回の記述部分は何かのドラマだった様な…)だとしたら、批判は免れないだろう。「朝が来る」では、参照物として明示はされていたものの、それでも批判を受けても致し方無いものだった。今回は、特記されてもいない。組織の描写に関しては、各種の実在宗教組織や実在教育組織などの性格を織り交ぜて記述されているが、そんな中に資料テキストが紛れ込んでしまったのだろうか? また、女児の白骨死体が出て来て…と云った流れならば、通常なら、警察に行くだろう。何故、最初から弁護士が組織と交渉しなければならないのか? 死体遺棄の公訴時効が成立し…と云う構成から、警察は白骨死体の身元特定を最初からしない、とでも思い込んだか? 現在、殺人罪なら公訴時効は撤廃されているし、白骨死体でもDNA鑑定の出来る場合も多い(DNA鑑定なら、子供の白骨死体でも男女鑑定は可能)。新聞連載だから、編集者などのチェックが甘かったり、間に合わなかった可能性もあるが、一般常識のチェックの面で、編集者側の力量に疑念を感じる。 | ||||
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久々に辻村深月の作品を読んだが、非常に楽しい時間が過ごせた。 初期作品では若年層に人気があるのが分かる、とがった作品が多い印象だったが、本作はより万人受けする作品であった。 ミステリー小説であるので詳細は伏せるが、子供目線で描かれた作品であっても、本作は以前より幅広い年齢層に受けいれられる作品という印象を受けた。 以前辻村深月作品を読んでいまいちであった人でも、本作は楽しめるのではないかと思う。 | ||||
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