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新章 神様のカルテ
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新章 神様のカルテの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.70pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全2件 1~2 1/1ページ
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綺麗に包装はされているが、検品をしていないのか、本の中が折れ曲がっていました。本は丁寧に扱いたいのにショックです。包装する前にも一度検品してください。評価は「1」にも値しません。写真を添付しようとしましたがエラーで添付できませんでした。約10ページ折れ曲がり破れています。 | ||||
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星1とかなり厳しい評価をさせていただきました。以下ネタバレを含みますので、ご注意ください。 私は2009年の一作目からこのシリーズを愛読してきました。本作もまた、大学病院という場での葛藤が描かれており、読むまえから非常に楽しみにしていました。ところが読み終えてみると、なぜか引っかかるものがありました。もう少しはっきりと言えば、主人公の行動に疑問を持ってしまったのです。この主人公は、自分が患者を守りたい一心で、自身が周りに支えられていることにあまりにも無関心ではないでしょうか。本作では、そのような描写が数多くみられます。例えば、双葉が一止の研究に協力してくれるシーン(pp. 42~43)、あるいは偏頭痛に悩む一止のために、新発田(利休)がオトギリソウ茶を淹れてくれるシーン(pp. 130~131)、ほかには鮎川(お嬢)が二木を救うために、時間外まで働いて一止を手伝うシーン(pp. 222~223)が挙げられます。なぜこのいずれの場面でも、一止は「ありがとう」あるいは「ありがとうございます」といった言葉をかけないのでしょうか。新発田の場合は、比較的当人の負担が小さいいため、そこまで咎めなくても良いかもしれません。しかし双葉や鮎川の例でいえば、明らかに当人にかかる負担は大きいといえます。にもかかわらず、なぜ一止は「助けてくれ」(p. 42)や「物好きなことだな」(p. 223)といった言葉で片づけてしまうのでしょうか。 思えば本作は、主人公に都合のいいように描かれているようにみえます。私がこのシリーズを好んだのは、「周りの人に嫌味をいわれながらも、自分の信念を貫き通す姿勢」に共感したからでした。しかし本作は、信念を貫くうえでの困難さがそがれ、その格好よさだけが前景化しているようにみえます。例えば新発田が飯山行きを知る場面は、「当の利休本人は、医療の最前線に出られることを存外楽しみにしている節さえある」と、非常にあっさりとしか描かれていません(p397)。これはあくまで私の推測ですが、新発田にとってはもしかしたら飯山行きは本意でなかったのかもしれません。もしそうだとしたら、上司である一止に心配をかけまい、あるいは自分のことで責任を感じてほしくないと思い、あえて強がっているようにも読めます。一止は、本作を通してずっと新発田の事を気にかけていました。新発田の愚直なまでの真面目さに心底感心していたし、飯山行きが秘密裏に決まった時には北条に食ってかかっていました。にもかかわらず、なぜ彼の将来をたったこれだけで終わらせてしまえるのか、私には理解できません。一方でたしかに本作では、一止は宇佐美(パン屋)をはじめ、局内のナースとの対立に悩まされます。しかし宇佐美に関して言えば、散々対立したにもかかわらず、結局主人公は昇格して終わります。一止が好きな漱石作品と対比するなら、教頭をボコボコにして、結局左遷されてしまう『坊ちゃん』とは対照的です。また一止や新発田は、患者の方針をめぐってナースやケアマネージャーと対立し、自分たちの意見をなかば強引に通します。しかしそのあと、一止たちが直接嫌味を言われるようなシーンは描かれていません。 主人公の視点から都合よく描かれてしまうことによって、見えなくなってしまったものがあります。例えば上のナースとの対立を素直によめば、ルールに盲目的に従うナースやケアマネージャーと、ルールをあえて破ってでも患者の意思を優先する新発田や一止の対立という図式になるでしょう。たしかにルール自体を絶対化する姿勢は、必ずしも良いとはいえません。では一止たちの行動は褒められたものなのでしょうか。見方を変えれば、一止がナースやケアマネージャーといった立場の低い人たちに対して、医者という自身の権力に従わせているようにも捉えられます。ルールというのは本来そのような特定の人物の権力性を防ぐためにあります。とくにこと大学病院において、なぜそれほどまでにルールが必要とされるのかを考えなくてはいけません。それは本書にもある通り、大学病院が多くの人の協力によってひとつの医療行為を成り立たせている場所だからです。なればこそ、ルールを安易に批判するだけではなく、それに拠って成り立っている様々な人々の営為に注意を向けなければいけないのです。にもかかわらず一止は、上記の通り、周りの人が協力してくれることにあまりにも鈍感です。それは彼が地方の私立病院出身だからという理由で片づけられる問題ではありません。 ここまで論じるのも、私が本シリーズを本当に好きだからです。とくに『神様のカルテ3』は、木幡医師とのやり取りをめぐって、一止自身反省を迫られ、それでも前に進もうとしている点が、非常に素晴らしいと思います。『神様のカルテ3』で、一止は己の医療技術に磨かねばと決意し、本作のとおり、大学病院に進みます。そのうえで問いたいのは、一止が改善しなくてはいけないのは医療技術に限られるのか、という点です。最後にこの点を追及します。 私が本作を通して気になったのは、一止の年下に対する高圧的なふるまいでした。この点について、主人公は漱石作品からあまり良くない影響をうけてしまっているようにみえます。すなわち、マウントを取ろうとするところです。マウントとは、他者に自分の存在を誇示する行為を指します。マウントする人の心理には、とくに自分より下の人間だと思っている相手に対しては自分を低くみられたくないという思惑が働いています。漱石の作品では、マウントを取ろうとして孤独に陥る登場人物が散見されます。たとえば、『それから』の代助、『彼岸過迄』の須永、『行人』の一郎、『こころ』の先生が挙げられます。彼等はしばしば、女性や同僚、幼馴染、弟、そして「教え子」に小難しい講釈をたれます。たしかにそれらの多くは、彼らが真摯に悩んでいるからこそ発話されます。しかし、もったいぶった言い回しは、本人の意図にかかわらず、「あなたには分からないでしょうが・・・」といったニュアンスを多分に含ませてしまうのです。そしてときにそれは須永のように、「あなたは私を馬鹿にしている」と相手から言われてしまいます(詳しくは、手塚マキさんの『裏・読書』をご覧ください)。 翻って一止をみると、やはりそのようなマウントが認められます。なかでも彼の一番のマウントは、「私は誰よりも患者のために働いている」というものです。付言しておくと、そのような信念を持つこと自体は素晴らしいものです。しかしその信念は内に秘めておくべきであり、それによって安易にマウントを取ろうとするのは大変まずいのです。一止は、外村(後藤)看護師が協力してくれた場合には深々と頭を下げられるのに(p. 361)、年下である双葉や鮎川が協力してもまともに取り合いません。そんなことをしたら年下に見くびられてしまうのではないかと、内心思っているようにも読めます。しかし双葉の立場になって考えてみてほしいのですが、こちらが研究を手伝っているのに、ありがとうの一言も言わない相手にずっと協力するでしょうか。いま一止に求められているのは、本庄病院ではあまり問われてこなかったことです。大学病院という様々な医療従事者が集う場で、ルールに真っ向から背を向けてしまうのではなく、周りに感謝の言葉を伝え、ルールを踏まえたうえでより円滑で柔軟な協力体制を構築していく、それが一止にいま一番求められていることではないでしょうか。 | ||||
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