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虚人たち
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虚人たちの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.94pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全17件 1~17 1/1ページ
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筒井康隆の文庫112冊を発表順に読み始め現在53冊目の「虚人たち」になりましたが「脱走と追跡のサンバ」に続き読書断念しました。他のレビュー等を参考に読む方法をいろいろ試しましたがやはり無理でした。我慢して読むのも時間の無駄だと思い次作品に進みます。全作品を読んだ後また読んでみます。 | ||||
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期待通りのものでした。 | ||||
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"今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない"虚構の存在である事を自覚する主人公により、1ページ1分としてリアルタイムで時間が進んでゆく本書は表現手法が何層にもわたって実験されていて驚かされる。 個人的には、従来の起承転結的な物語に慣れている読者ほど、理解不可能ではないか?と心配にすらなったが【あくまで虚構である】と著者視点を意識して眺めると、突然割り込んでくるようなギャグ風のキャラ、そして物語としては後味の悪い結末も受け止められるのではないか。とも思った。 幻想的、実験的な小説を読みたい誰か、あるいは4時間30位の時間つぶしの一冊を探す誰かにオススメ。 | ||||
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筒井康隆は天才だから何を書いても娯楽小説のようになる。しかしこの作品だけは例外である。ギャグはほとんどない。スリルはあるがそれは作者が自身の文学的な意図から作品を脱線させはせぬかと読者を不安にさせるからで、探偵小説のようなスリルではない。娯楽性がないところは筒井本人も認めるようにこの作品の失敗である。目的のわからない小説が好きでないという人には読み通すのが辛いかもしれない。筒井には『着想の技術』という著作があり、この中で『虚人たち』を書くにあたっての意図を説明している。ぜひ併読あれ。 | ||||
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30年前、20代後半で挑んだときは最初の1ページで離脱し、 おかげでそれ以後筒井作品とはすっかり縁遠くなってしまっていた。 それが、ちょっとしたきっかけがあってこのたび再挑戦。 なにせ読点はないし描写は執拗だしでヒッジョーに難解。 冒頭の金網製品製造業の親父が出てくる場面で 早々に白旗を上げそうになったが、懸命にがまん?して読み進めるうち、 作者の意図というか、本作の設定がおぼろげながら掴めてきた。 ■主人公は突然本作の主役に抜擢され、何がなんだかわからない状況に放り込まれた。 ■しかもこの主人公は自分が小説という虚構内に存在することを自覚している。 ■物語の展開と現実の時間との同一化は作家の手を離れて主人公に委ねられている。 ■主人公は主人公たる自分がいかに物語を展開させていくかのみに腐心している。 ■虚構ならではの省略をよしとせず、主人公はとにかく考え、描写し、そのすべてを文章化する。 とはいえ1度目はついついストーリーを追うことに終始して読了。 そこで解説を熟読し、上記の設定を踏まえて再度読み始めると、1度目とは段違い平行棒の面白さ。 とても楽しく読み終えた今、主人公役を見事に演じきってくれた「彼」を、お疲れさまと労いたい。 一般の小説とはあまりに異なる分だけ、かなり濃厚な中毒性を含有する作品世界。 3度目の埋没が今から楽しみだ。 | ||||
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読了:2017年91冊(7月11冊)★3.2 『虚人たち (中公文庫)』1998/2/1、筒井 康隆 (著) なんじゃこりゃ。全く理解できない(多分読者に理解を求めていない?)。筒井康孝と言えば、関西ではよくテレビで見るし、アニメ『パプリカ』は世界的にも評価されていて私も大好きな作品だ。そんな筒井氏の泉鏡花賞受賞作品。評価した側もかなり挑戦的である。これをどのような立ち位置で評価したのであろうか?選考した人たちの意見を聞いてみたい。 本書は、冒頭から意味不明である。笑えばいいのか、高尚過ぎるのかも判断が全くできない。会話内容は意味不明(時空を超えて会話していることもしばしば)、時間軸もコロコロ変わるし、場所も何の前触れもなく変わる。そして、部長は変態すぎる。どの登場人物も虚人過ぎるし、これを読んだ人もきっと虚人になるだろう。1ページですらなんのこっちゃ全く分からないからだ。これは、筒井氏による小説という概念へのアンチテーゼ、挑戦なのだろうか。小説界の現代アートである。 ───今のところまだ何でもない彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言い回しをのぞいて何もしていない。(p.7)本書書き出し部分 | ||||
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小説家、役者など多様な側面を持つ筒井康隆は、ある種スピリチュアル・マスターであり科学者でもあるのではないかと思う。氏は「虚航船団」の頃、あるエッセイで「作家に分らないことは、世界における自分の作品の客観的な意味である」旨の心情を吐露しておられたが、私の私見ではそれは、大仰に聞こえるかも知れないが、「人類の意識の進化」に関わる使命が、その作家也作品にあるのだと思う。天動説が地動説に席を譲らなければならない葛藤が人間ドラマとして成り立っているのが本作であり、その「イデア」自体が、これを読んだ当時の若く自我の強かった私、つまり「天動説的人間」にとっての「衝撃」であった。「自分」は「人類」つまり「世界」であるから、このことが「作品の世界的な意味」、つまり作品の「客観的な機能」であろう。それが「第一」であり、小説としての実験性、技巧は、それに付随する何かである。少なくとも自分にとっては。常に新しい考え、多次元的な意識を読者に開くのが「意識の先駆者」としての「作家」の使命、「作品」の機能であるという理論である。これが私にとって最も強く機能したのが本作、そして「虚航船団」であった。「虚航船団」においては、「文房具と鼬の邂逅」(「遭遇」ではなく、あえて「邂逅」)が、ただ「手術台の上のミシンと蝙蝠傘」という「異種遭遇がもたらす新規性」という今では陳腐な古いシュールレアリズムの効果をはるかに超えて、何かデジャヴのような、DNAに潜在的に組み込まれた記憶を呼び起こす覚醒効果で機能した。 | ||||
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私は今まで何作か筒井康隆の小説を読んできましたが、虚人たちはトップクラスに意味が分かりませんでした。 なので解説に期待したのですが、本当にこの解説にはふざけるなと言いたくなりました。 この人は本当に、最初から最後までちゃんと読んだのか?と疑問さえ感じます。解説らしい事をしている部分は小説の冒頭部分くらいなのです。 しかも、「ここでは詳述しないが」って、あなたはそのことを書くのが仕事じゃないの?本当は何も分かっていない癖に、分かっている風を装いたいが為に書いてるんじゃないの?と怒りを感じます。 そして最後に、この人が重要とされると思う部分を言っておいて、その部分を解説せずに自分の書いた本の宣伝までする始末。 解説で本文を引用するのはよくあることですが、行を埋めたいのではないかと邪推してしまうし、笑い出してしまうなどと書かれても、嘘にしか聞こえません。 もっと他に、解説に相応しい人がいたのでは?他の人に変わって欲しいです。 | ||||
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この作品を読む前に同作者執筆の「着想の技術」を読んでいたので、なんとかついていけた感じでした。ただ、木村と同僚と部長のやりとりについてはいまだによくわかりません。難解です。 | ||||
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純文学路線における筒井文学の真骨頂のひとつ。 メタ・フィクションというわかりにくい文学をエンターテイメントにまで高めていることに驚愕する。 小説の主人公が「小説の主人公」であるという自我に目覚めたとしたら、 小説の主人公は物語をどのように導いていくのか、というのがテーマだと思われる。 娘と妻が突然に誘拐される、しかしそれが「物語」的で何か納得がゆかない。 主人公はページが進むにつれて、自分がフィクションの住人であるということに目覚め、 「作者の都合」に対して反逆を試みて行く、というのが大筋だ。 主人公の意識と文章がリンクしていることを読者に明示させるために、 主人公が気を失うと白紙ページがつづくという、テキスト上のレトリックを駆使して、 極端に振り切ったメタ・フィクションを演出している。 小説の主人公が「物語」に反逆する、 すなわち読者の快感に奉仕しない、そういうタイプの小説なので、 隔靴掻痒、気持ちの悪さがつづくことを楽しまなければいけない。 小説が読者にとって心地のよいものだ、 という前提を覆すのがメタ・フィクションのひとつのテーマならば、 まさに『虚人たち』はその目的に成功していると思われる。 なお、『虚人たち』に先立つメタ・フィクション作品に『脱走と追跡のサンバ』があり、 そこでは筒井康隆の分身である主人公が、 複次元世界で幾つもの可能性の筒井康隆に追いつ追われつする、 というメタ・フィクションが展開されている。 本作品はその『脱走と追跡のサンバ』の作品構成が踏襲されている。 続編ではないかという解説もあるようなので、 未読の方は『脱走と追跡のサンバ』も一読の要あり。 | ||||
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実はこの小説の主人公は主人公ではなく別の(つまり2つのポルノ小説の)脇役なのではないかと思う。彼は本書に登場するほかの小説の主人公(彼の息子やドタバタ小説の主人公)に比べてディーテルがぼやけて曖昧だし終盤の同時に2箇所に出没するいい加減さは脇役ならではないか? それにしてもこの2つの小説はどう見ても駄作である(よって本書も筋書きとしては相当退屈だ)。つまらない小説のしかも脇役として設定され、その運命から逃れようと(息子を物語に引き込もうとする)もがく主人公の叫び(「こっちの身にもなってみろ」)が聞こえるようだ。 | ||||
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僕は筒井康隆氏の愛読者ではないのだが、氏の果敢なチャレンジ精神には驚かされる事が多い。『読者罵倒』という短編は最高だったし、『大いなる助走』で唇の厚い大作家!(無論M氏ですなW)の揶揄を中心としたドタバタ劇も楽しい。そして筒井氏がチャレンジした純文学はこのメタフィクションだった。メタフィクションは下手すると自己言及と虚構性だけを強調して結局はなにも表現できずに終わってしまう事が散見されるが、この本はモノクロームのトーンの中で筒井氏の緻密かつ豊富な語彙によって最後まで枯れる事なく描かれる。この設定でいくと大抵は途中で失速するものだが筒井氏の類まれな文章力は見事なものだ。そしてこの不穏な世界は存在の虚無と不安が見事に表現されている。最近は本当に筒井氏の小説を読まなくなってしまっているのだが、過去作を色々と読んでみたい。蛇足:この小説を読んで久々にカート・ヴォネガットの『チャンピオンたちの朝食』を読み返したくなった。 | ||||
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70を過ぎてライトノベルに進出。ネットがまだ一般的でなかった頃に双方向性小説を執筆。等々過激な創作を続ける小説家筒井康隆が純文学の世界に殴り込みをかけたこの作品。主人公の意識に合わせて1分間=原稿用紙1枚というペースで描写しているから意識がない間はページが真っ白!「ふざけるな」と怒り出す人もいるでしょうね(笑)結構難解なので巻末の解説やエッセイ集『着想の技術』に目を通してから読んだ方がいいと思います。はっきり言って筒井作品初心者にはお勧めできません(笑)でも筒井毒者にはたまらない逸品です。 | ||||
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常に小説の"虚構性"を強調し、表現技巧に工夫を凝らす筒井が新しい挑戦を試みた意欲作。小説の"お約束"を全て放棄してしまうと言う破天荒な実験作だ。 一応、妻と娘を誘拐され、誘拐犯に昏倒させられた主人公が目を醒ます所から物語が始まるのだが、物語の進行が尋常ではない。「不確定性至上主義」を標榜する主人公の意識の絶え間ない流れの描写だけで話が進むのだ。まるでビデオカメラで主人公の頭の中を映し出しているよう。そして、その像は恐らく虚像なのだ。登場人物どうしの確かな関係や会話で意志を疎通し合うとか、リアルな風景描写をするとかの通常の小説作法は主人公(=作者)の頭にはない。「小説の登場人物やその言動はその物語の中では"現実"である」と言う前提を端から否定する。主人公が構築する虚空の世界が全てで、その中で主人公にとっては時間・空間的制約はなく、しかも主人公の思考・視点は「不確定」なのだ。冒頭の誘拐劇も真実か否か不明である。本作の内容は主人公が昏倒している間の無意識の世界かも知れない。そして、筒井の実験小説で良く見られる読点を使用しない計算された文体。ここまで通常の小説の"お約束"を破れるのかと感心する。誘拐事件を放っておいて、主人公が時と場所を越えて、取引先の会社を訪れたり、行きずりの男の妻の家を訪れたり、自身の会社を訪れたりするのも違和感がない。他の登場人物も各々の世界を持っているらしいが、主人公の世界では飽くまで虚像である。小説における"現実性"を徹底的に排除した"(虚像としての)自我の世界"である。実験作でありながらスリルやある種の怖さを味あわせる展開も見事。いつもの言葉遊びも健在である。 小説中の"現実性"を無謬に信じる一般の小説の"お約束"を嘲笑い、小説における"虚構性"と人間心理の"不確かさ"を究極まで追求した独創性溢れる傑作。 | ||||
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読後、小説、物語のルールの多さに気付かされる。そしてそのルールが破られる(暗黙の了解を否定する)と、どれほど七面倒くさくややこしい事態になるかも懇切丁寧にこの作品は示してくれる。 小説、物語のルールが破られているのだから、これは小説ではないのかもしれない。しかしこれはフィクションである。メタフィクション要素もある。となると、これはなんであろうか。 これは小説がどのように書かれていくかを描いた私小説的な、壮大なクエスチョンではないかと思う。つまりこれは小説であり、小説ではなく、私小説的な問題定義である。 つまるところ、小説とはなんであるかという問題を投げる挑戦だ。 | ||||
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筒井康隆、短編はめちゃくちゃ評価しています。 この小説、やりたいことはよくわかる。登場人物が虚構の中にいるという大前提、作家が無視しなければならない大前提を無視した、大胆な作品。 なんだけど、それだったらもっと他にやりようがあったんじゃないのだろうか、と思った。 とにかく、僕は読むことを放棄せざるをえなかった。 | ||||
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単行本刊行は昭和56年、文庫本初版は1984年。解説で三浦雅士が指摘しているように、この小説の「今のところまだ何でもない彼は何もしていない。」という冒頭は衝撃的だ。小説というのは読み進まない限り、または書き進まない限り物語は展開しないという当たり前といえば至極当然の前提の指摘でもあるし、これまでの小説すべてに対する挑戦とも受け取れる。読点がなく(たぶん)改行の少ない文体。虚構性の異様に高い表現。例えば山水画が壁に掛かっていることに対して「山水画という字が書かれているだけという可能性さえある。」としている。それではおもしろいのかと問われればおもしろくなかった。8年ぶりに再読したのだが、形式としては成功しているが内容はおもしろくない。初読の時はすごいすごいと興奮した覚えがあるのだが、今回は「小説を読まされている」と感じた。何か書いてあったようでもあり何も書いてなかったかも知れない。未読の方に推薦。「着想の技術」(新潮文庫)に細かな解説あり。 | ||||
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