■スポンサードリンク


(短編集)

夜の樹



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!

夜の樹の評価: 4.10/5点 レビュー 21件。 Bランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.10pt


■スポンサードリンク


Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全21件 1~20 1/2ページ
12>>
No.21:
(1pt)

低品質

このレーベルに及第点を求めてはいけない。誤字はあって当然。金を払う価値のないものに金を払える人だけどうぞ。
夜の樹 (新潮・現代世界の文学)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮・現代世界の文学)より
4105014021
No.20:
(4pt)

早熟の天才

早熟の天才と言われたトルーマンカポーティの短編9つを収める短編集。以前には龍口直太郎氏の翻訳によるものが同じ新潮社より出版されていた。しかし、その本に入っていた「感謝祭の客」と「クリスマスの思い出」はこの文庫には入っていない。
 元々1948年にアメリカで出版された“Tree of the Night and other stories”には上記の2作品は含まれていなかった。
 カポーティーは1924年生まれだから原作出版当時24歳だった。この短編集にある「ミリアム」でオー・ヘンリー賞を受賞した時は21歳だった。ニューヨークのレキシントン街に独居する老婦人に起こる夢とも現実とも分からぬ出来事を描いている。21歳の若者にどうして老女の生活や心情を描けるのか。それをミステリー仕立てで引き込んでゆく力は類稀な筆力といえる。一方、「誕生日の子供達」では、カポーティが生まれ育った南部と思われる町での、都会からやってきたらしい少女と、対照的な田舎の少年達との出会いと別れを描く。2作ともに人物描写は細やかにそして事の顛末を丁寧に描いて結末へと向かう展開は読む者を飽きさせない。
 他の7作(原作では6作)もいくつかの都会と南部の町での主人公を取り巻く出来事が描かれる。
 ・「夜の樹」“The Tree of the Night”(アトランタへ向かう列車に乗り込んだ若い女性)
・「夢を売る女」“Master Misery”(イーストンの町とニューヨークが舞台。女性)
・「最後の扉を閉めて」“Shut the Final Door”(サラトガ、ニューヨーク、ニューオリンズと移ってきた男の話)
・「無頭の鷲」“Headless Hawk”(ニューヨークと思しき町での男の暮らし)
・「銀の壜」“Jug of Silver”(ワチャ郡に住む少年)
・「僕にだって言い分がある」“My Side of the Matter”(ルイジアナ州ーナッシュビル線にあるアドミラルズの町に引っ越した若い男)
・「感謝祭の客」“The Thanksgiving Visitor”(アラバマ州の田舎町に住む少年の歳時記にまつわる出来事)
 龍口直太郎氏の翻訳は少し硬い感じだが、川本氏の訳のは読みやすい。また、原書も読んだが、龍口氏の訳では曖昧であった箇所が川本氏の訳で納得できたところもあった。数人の方が翻訳の監修をされていたようで、自分で英語を読んだ時もよく分からなかったところが上手く訳出されていた。
 日本の私小説に似たような趣があり、割と自然に主人公の置かれた場面に入っていける。しかし、その状況はいくぶん現実的ではないものもある。南部を舞台にしたものはのどかさも感じられるが、都会を舞台にしたものは殺伐としたものもある。
 それにしても、このような色々な場面を様々な人物を主人公にして20代で描けるのは確かに「早熟の天才」と言えるだろう。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.19:
(2pt)

訳分からん短編も多数

カポーティ原作の映画「ティファニーで朝食を」は観たことあるし、カポーティの苦悩を描いた映画「真実のテープ」も観たことがあるけれど、著作を読むのは初めて。この短編集、果たして面白いのか、面白くないのか。

 最初の「ミリアム」は「トワイライト・ゾーン」や「世にも奇妙な物語」風の味わい。アメリカではドラマにもなったそうで、これはまだ話がわかる。けれど、「夢を売る女」など、それ以外の短編はワケがわからないものも多数。

 本書は1994年発行の比較的新しい改訳版。それでも読んでいて話の意味がわからない。カフカか? 以前の古い日本語による訳書だと、さらにワケがわからなかっただろう。

 そんな中で最後のお話「感謝祭のお客」は珠玉の一編。著者自身の子供時代のことをベースに書いたのだとされる。「許されない罪が一つだけあるの。わざと酷いことをすること」は名言だ。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.18:
(5pt)

アメリカ南部に行ったことはないけれど…

カポーティの中篇『草の竪琴』(1951年)を読んだついでに、この初期短篇集も読んでみました。

 本短篇集には9編の作品が収められています。
 ただしほんらいの『夜の樹』(1949年)は8編の短篇で構成されていて、本書にはその8篇はすべて収録されたうえで、あらたに「感謝祭のお客」(1967年)がくわえられています。また同じ新潮社からかつて刊行された龍口(たつのくち)直太郎訳の旧版『夜の樹』(単行本のみで出版)に入っていた「クリスマスの思い出」(1946年)はこの新訳版には入っていません。

 本書所収の短篇では、マレビト(客人)ともいうべき存在が、変わらぬ日常のなかに生きている人(たち)のもとを訪れ、いくらかその秩序をかきまわし、そして去ってゆくという話のパタンが多く見られます。

 ところで、この短篇集のなかで評者の好みはというと、大都会を舞台にひんやりとした大人の孤独の人影を映しだす「ミリアム」や「無頭の鷹」より、アメリカ南部の町を舞台に少年少女が登場してくる「銀の壜」やとりわけ「誕生日の子どもたち」(1949年)です。

 「誕生日の子どもたち」はつぎのようにはじまります:
 
 「昨日の午後、六時のバスがミス・ボビットを轢き殺した。それについてはどんな感想をいったらいいかぼくにはわからない。結局、彼女もまた十歳の女の子だったのだ。それでもぼくには、町のだれもが彼女のことを決して忘れないだろうということはわかる」
 
 この作品は倒叙的な物語構成をとっていて、ここから1年前に遡って、「ぼく」の住む南部の小さな町にミス・ボビットが引っ越してきたところからあらためて時系列に沿って物語がはじまります。
 「ぼく」たちの目の前にあらわれたミス・ボビットは10歳ながらレディーのように気取った仕草や上品なしゃべり方をします。ダンスもうまく、町の男の子たちをとりこにするばかりか徐々に町の大人たちも一目置く存在となってゆきます。そのあたりの経過がいくらかのユーモアをふくませた筆致で描かれていて、楽しく読めます。
 しかし1年後ミス・ボビットはハリウッドに行くためについに町を出てゆくことになり、その出発の日、6時のバスが来る頃、彼女は、歩道の向かい側にいる、自分に好意を寄せてくれていた、バラの花をかかえた男の子たちのところに駆け寄ろうとしたそのとき…

 こうしてこの作品でも、『草の竪琴』と同様、軽い内容に最後とても重い内容を並置ないし対置させるというカポーティの物語パタンが見られるのですが、ともあれなぜこの作品が好きなのだろうかとあれこれ考えてみると、どうやらやはり『草の竪琴』と同じく、アメリカ南部の小さな町を舞台に、少年の視点で語られる物語というところで惹きよせられる、もう少しいうと、この物語の世界になにか懐かしいような親しみを覚えるからといったらいいでしょうか(小説史的にはこうした物語の源流にはマーク・トウェインのあの『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885年)があるのでしょう)。

 そして、アメリカ南部などには行ったことがないのに、なぜ懐かしさとか親しみを覚えるかというと、この少年の視点で語られる、ときに不幸や悲劇といった出来事が起こる物語というのが、昔小さいころたくさん見た、少年が主人公のアメリカ製のTVドラマとか、やはり不幸や悲劇といった出来事がときに起こる、少年や少女が主人公の日本製TVアニメにあった物語の世界に近似するからでは、と思いあたります。
 
 ちなみに、「感謝祭のお客」(1967年)では、いじめっ子オッド・ヘンダーソンについて「彼の耳は『ちびっこギャング』に出てくるアルファルファの耳のように人目をひく」という一文があり、かつて日本でも放映され人気のあったアメリカのTVドラマ「ちびっこギャング」がそこで言及されています。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.17:
(5pt)

満足するもの

以前から探していたものが見つかり満足しています。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.16:
(3pt)

大したことなかった

あまりに高評価だったので買ってみたが、大したことなかった。少なくとも私には、天賦の才のようなものは感じられず、平凡な、つまらない作品集に見えた。
ほかのカポーティの作品にはなかなか素晴らしい読後感を残してくれたものもあったが、この本はそうではなかった。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.15:
(1pt)

初歩的誤植が多い!

初歩的な誤植が多く呆れました。「夜の樹」だけで、素人が気づいたものだけで5カ所、もっとあるかもしれません。
内容コメント以前、廉価版とは言え、売り物なので、何とかしてもらいたいです。
夜の樹 (新潮・現代世界の文学)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮・現代世界の文学)より
4105014021
No.14:
(5pt)

カポーティ短編『誕生日の子どもたち』の【川本三郎】と【村上春樹】の翻訳の比較

【物語の超要約】
十歳のおませな少女、ミス・ホビットが、母と共に、あるアメリカ南部の町にバスで着いて、町中の同年代の少年・少女、まわりの大人たちに嵐を巻き起こし、1年後その町を離れる(広義の意味で)・・・・そんな物語。

緒言
この短編 『誕生日の子どもたち』 は、アメリカ南部のある小さな町に、十歳の女の子ミス・ホビットが母とともに夕方のバスに乗ってやって来て、その1年後、来た時と同時刻のバスに乗り、町を出て行くまでの物語です。作者カポーティは、ミス・ホビットと町の住人、とりわけホビットと同年代の男の子たちとの活き活きとしたやり取り、いろいろな小事件などを優れた筆致で記述している。
 十歳といえば、日本では小学5、6年生くらいであり、あなたが女性であれ男性であれ、その当時の自身を思い出してしまうことでしょう。そして、もしあなた自身が女性であれば、当時の男子の “ガキさかげん” を思い出し苦笑してしまうでしょう。そんな昔のことを思い出しつつこの小説を読んでいただければ、【川本三郎】と【村上春樹】の翻訳の優劣・好き嫌いの判定の基盤となると確信します。
 ここでは、二人の翻訳者、【川本三郎】と【村上春樹】の訳文にかなりの違いがある、と(わたしが)感じられた文章(主にパラグラフとセンテンスの中間の長さ)を抽出し、並列して書き出した。加えて、小説の書き出しと、最後の文章は、どんな小説でも非常に大切なものですので、無条件で抜粋し、両者の訳文を比較した。

この小説は「ぼく」という物語には直截的に関与していない、主人公たちよりは、いくつか年上の男の子(男子)の視点で記述されている。言うまでもないのですが、このフォーマットは、著者カポーティがフリー・ハンドを持つために使われたもので、小説ではよく使われる手法です。カポーティは、三人称での、「完全なる神の視座」では物語がウソくさくなり、かといって、物語の登場人物での一人称では、話が詰まって息苦しくなり、魅力的には書き切れないと判断したのでしょう。
 
方法
先行(1994年)して出版されている、新潮文庫「夜の樹」の川本三郎訳の『誕生日の子どもたち』 と、後年(2009年)出版された村上春樹訳の文春文庫「誕生日の子どもたち」の巻頭に掲載されている『誕生日の子どもたち』を比較した。(私が読んでいて)川本三郎訳と村上春樹訳とでは、細かな部分の翻訳の違いは言うまでもないが、パラグラフ内のフレーム・ワークにもかなり違いがあるように感じた。また、いくつかのセンテンスでは、翻訳の意味が明らかにどちらかが誤訳(?)、という部分も認められた。(後日、まじめに訳して、このレビューに反映させる、かもしれません)
  トルーマン・カポーティの意を、両者がどのようにとらえていたか(愛の深さ?)、を推察するのも楽しく、このレビューを書いてみました。

結果
1:この小説『誕生日の子どもたち』の書き出し―――page 160, 最初の1行目―――;
【川本三郎】
昨日の午後、六時のバスがミス・ホビットを轢き殺した。それについてはどんな感想をいったらいいかぼくにはわからない。結局、彼女もまだ十歳の女の子だったのだ。それでもぼくには、町のだれもが彼女のことを決して忘れないだろうということはわかる。
【村上春樹】
昨日の夕方、六時のバスがミス・ホビットを轢いた。それについて何をどう語ればいいものか、僕にはわからない。結局のところ、彼女はまだ十歳にすぎなかったわけだが、それでもこの町の人間で、彼女のことを忘れてしまえるものは一人としていないはずだ。

2:page 162、2行目
【川本三郎】
髪の毛は赤い巻き毛がいくつも重なりあい、かつらをかぶっているように見える。大人っぽく眉を入れている。それでも彼女には威厳があり、レディのようだった。
【村上春樹】
その仮装用かつらみたいに見える髪は薔薇のような巻き毛で溢れ、目には大人っぽくアイラインが引かれていた。しかしそれでも、彼女にはやせっぽちなりの威厳があった。

3:page 163、2行目
【川本三郎】
そのとき、ミス・ホビットは真面目な顔をしてこちらを振り向いた。ひまわりの花のように黄色い彼女の目が一瞬暗くなった。そして彼女は、その目を、一篇の詩を思い出そうとする時のように横に動かした。「母は舌の具合が悪いので、わたしがかわりに話さなければならないんです」彼女は早口でそういうと溜め息をついた。
【村上春樹】
そのとき、ひたむきな表情を顔に浮かべて、ミス・ホビットは後ろを振り返った。ひまわりの黄色をした彼女の目は、暗さを増していた。そしてまるで何かの詩を思い出そうとするみたいに、その目をちらりと寄せた。「母は言葉がいささか不自由なので、わたしがかわりにお話いたします」、彼女は早口でそう告げ、ため息をついた。

4:page 164、4行目
【川本三郎】
女の子たちはまるで魔女の一団のように悪口をいい続けた。男の子のなかでも、いつも女の子といっしょにいるのが好きな、あまり頭のよくない連中までいっしょになってひどいことをいったので、エル叔母さんは顔を真赤にして、みんな家に送り返し、お父さんのどやしつけてくれるようにいいつけるといった。
【村上春樹】
女の子たちは魔女の集団みたいにきゃっきゃと騒ぎ続けていたし、女の子のご機嫌をとりたい一部の馬鹿な男の子たちも、それに同調した。それでエル叔母さんは頭に来て真っ赤になり、みんなこのままおうちに返して、お父さんにお仕置きをしてもらいますよと厳しく宣言した。

5:page 164、10行目
【川本三郎】
ビリイ・ボブやプリーチャー・スターのような年長の男の子たちは、女の子たちがミス・ホビットの悪口をいっているあいだ、何もいわずに座っていた。ミス・ホビットが姿を消した家を、ぼんやりと、何か期待するような顔で見つめていた。しかし再びミス・ホビットがあらわれたので、彼らは立ちあがってゆっくり門のところへ歩いていった。
【村上春樹】
少女たちがミス・ホビットを嘲笑しているあいだ、ビリー・ボブやプリーチャー・スターといった年かさの少年たちは静かに座って、彼女が向かいの家の中に消えていくのを、ふくみのある野心的な表情を顔に浮かべながらじっと見ていたが、今ではすっと背筋を伸ばし、歩いて門に向った。

6:page 169、11行目
【川本三郎】 
プリーチャーも彼女のためなら中国のバラを取ってしまうだろう。彼もビリイ・ボブと同じくらい彼女に夢中になっていた。しかしミス・ホビットのほうはふたりの気持ちに気づいていなかった。唯一、彼女からのメッセージは、エル叔母さん宛てに来た、バラの花に対するお礼だけだった。
【村上春樹】
プリーチャーだってやはり中国じゅうのバラの花を摘んだことだろう。彼もまたビリー・ボブと同じくらい彼女に夢中になっていた。しかしミス・ホビットは二人にはぜんぜん目もくれない。僕らとミス・ボビットとのあいだに交わされた唯一のやりとりは、彼女がエル叔母さんあてに送ってきた、花をどうもありがとうございますという短い礼状だけだった。

7:page 170、後ろから2行目
【川本三郎】
赤ん坊のように太った、ボンボンみたいに丸い女の子で、黒いちごの黒いちごのバケツを持って鼻歌をうたいながら歩いていた。ふたりの男の子は、彼女を虫けらのようにからかった。通せんぼをして、関税を払わなければここを通さないといった。カンゼイなんて言葉まだ習ってないわ、と彼女はいった。
【村上春樹】
赤ん坊のようにぽっちゃりとして、ボンボンみたいにまん丸な黒人娘が、ブラックベリーを入れたバケツを手に、鼻歌を歌いながら歩いていくだけだった。少年たちはその娘にぶよのようにまとわりついてからかい、手をつないで通せんぼをした。通行税を払うまではここを通せないねと二人は言った。通行税って何のことだい、と娘は言った。

8:page 172、6行目
【川本三郎】
たとえば町の商人たちは、以前は彼女のことをミス・ホビットと呼ぶときくすくす笑い出したものだが、やがて彼女はミス・ホビットということになってしまい、彼女が日傘をまわしながらくるっと身体をまわすと、彼らは緊張し軽くおじぎをするようになった。
【村上春樹】
一例をあげるなら、最初のうち町の商人たちは彼女をミス・ホビットと呼ぶときに、からかい半分でミスの部分を強調したものだ。しかしそのうちにだんだんふつうにミス・ホビットと呼ぶようになり、彼女が日傘をくるくると回しながら足早に歩いてくると、堅く小さく頭を下げるようになった。

9:page 172、後ろから1行目
【川本三郎】
いつも何匹かが彼女の窓の下に坐りこんでいる、と彼女はいった。まず何よりも自分は眠りが浅い。そのうえ、シスター・ロザルバがいうには、彼らは犬ではなく、ある種の悪魔である。もちろん保安官は何もしなかった。そこで彼女は自分の手で解決することにした。
【村上春樹】
何匹かの犬が彼女の部屋の窓の下にずっと居座って、吠え続けているのだと彼女は言った。そもそも私は眠りが浅い方なのです。それだけではない。彼女はシスター・ロザルの言によれば、彼らを犬とはまったく思っていなかった。悪魔の一種だとみなしていた。当然のことながら、保安官は何もしなかった。だからミス・ホビットは自分で始末をつけることにした。

10:この小説のタイトルを 『誕生日の子どもたち』 とした理由が記述されているシーン:page 175、2行目
【川本三郎】
ほんというとね、わたし、この町に住んでいるというわけではないの、正確にいうとね。だってわたしはいつもどこか他の町のことを考えているんだから。その町ではどんな人でもみんなダンスをしているの。町の人は通りでダンスをする。なにもかも、誕生日の子どもたちみたいにきれいなの。わたしの大事なパパにいわせると、わたしは空に住んでいるんですって。パパだってもっと空に住んでいたら望み通りにお金持ちになれたのよ。パパは困ったことに、自分で悪魔を愛さずに、悪魔のほうにパパを愛させてしまったの。
【村上春樹】
わたくしは正確に申し上げますと、ここに住んでいるというわけではありません。わたしの頭にはいつもどこか別の場所があります。ここではすべてのものがダンスをしております。たとえば人々が通りでダンスをしていて、何もかもが美しくて、たとえば誕生日の子どもたちのようなところです。わたくしの大事なパパは、わたくしは空に住んでいるんだと申しておりました。しかし、もしパパがもっと空に住んでおりましたら、望んだとおりのお金持ちになることもできたでしょう。パパの問題は、悪魔を愛さなかったというところにあります。彼は悪魔に自分を愛させました。

11:page 179、11行目
【川本三郎】
彼はビリイ・ボブへのプレゼントを置いていった。開けてみるとシャーロック・ホームズの本だった。巻頭の見返しにはこんな言葉が書かれていた。「壁のツタのような友だちは落ちてしまわなければならない」。あんなにひどい言葉、見たことがない、とビリィ・ボブはいった。まったく、なんてまぬけなんだ。
【村上春樹】
彼はビリー・ボブにもプレゼントを置いていった。それはシャーロック・ホームズの本だった。見返しの紙には文句が書き付けてあった。「壁の蔦のような友人は必ず落ちる」と。やれやれ、これくらい月並みな文句にはお目にかかったことはないね、とビリー・ボブは言った。ジーザス、なんていう田舎者なんだ、まったく。

12:page 180、10行目
【川本三郎】
・・・先生たちがダンスのことを知っているというのなら、話は別ですが。でも、こんな事情でしたら、そうですコプランド先生、こんな事情でしたら、このことはお互いに忘れたほうがいいと思います」。コプランド氏も出来ればそうしたかった。しかし町のほかの人たちは、彼女にお仕置きをすべきだと考えた。
【村上春樹】
・・・もちろんダンスについて先生がお詳しいのであれば、話は別です。しかしながら現今の状況におきましては、そうです、ミスタ・コープランド、現今の状況におきましては、この問題はさっさと忘れてしまうのがいちばんだと私は申し上げたいのです」
そういわれてミスタ・コープランドはさっさと忘れてしまった。しかし町の人々はミス・ホビットは厳しくしつけを受けるべきだと考えていた。

13:最後のセンテンス「オデオン座」の部分は、両者の翻訳は全く違います。原文を当たってみることをお勧めします。page 183、4行目
【川本三郎】
しかし、そのショウの晩はすごかった! 抵当のことも台所の流し皿のこともほかのことはすべて忘れてしまったかのような晩だった。エル叔母さんは、まるでオペラに出かけるみたいね、みんな着飾って、ピンクの服を着たり、甘い匂いをさせたりして、といった。オデオン座は以前、町のみんながオペラを見るために大枚の銀貨を払った晩以来のにぎわいだった。
【村上春樹】
しかしそのショウの夜ときたらたいしたものだった。その夜にはすべてが忘れ去られた。抵当のことも、台所の流しの皿のことも。なんだかまるでオペラにでも出かけるみたいね、とエル叔母さんは言った。人々はみんなぱりっとめかしこんで、頬をピンク色に染め、良い匂いをさせていた。オデオン座がそんなに混んだのは、そろいの純銀食器セットを大安売りセールした夜以来だった。

14:page 185、7行目
【川本三郎】
“私は中国で生まれ、日本で育った” ぼくたちはこれまで彼女が歌うのを聞いたことはなかったが、彼女の声は紙やすりでこすったようなハスキーな声だった。 “わたしの桃(胸を指す)が嫌いなら、わたしのお尻から離れてね、ホー、ホー!”。エル叔母さんは興奮して息を乱した。ミス・ホビットはさらにぱっとスカートの裾をめくって青いレースの下着を見せた。
【村上春樹】
「私の生まれは中国で、育ったところは日本なの・・・・・」 彼女が歌うのを耳にしたのはそれが初めてだった。ざらざらした感じの荒っぽい声だった。 「・・・・私のピーチ(胸乳房を指す)が気に入らないのなら、私の缶(女性性器を意味する)から離れていてね。お・ほお・お・ほお!」 エル叔母さんは息を呑んだ。エル叔母さんがもう一度息を呑んだのは、ミス・ホビットがドンと腰を突き出して、スカートをまくり上げ、ブルーのレースがついた下着を丸見えにしたときだった。

15:【川本】と【村上】の翻訳が、この作品で最も異なっている部分のひとつ:page 185、14行目
【川本三郎】
しかし、ミス・ホビットが最後に優勝したのは決してお尻を見せたからではなかった。ミス・アデレードが低音のキーで不吉な雷が鳴るような音を出しはじめると、その瞬間、シスタ・ロザルバが、火のついたローマ花火を持って舞台に飛び出してきて、それを急テンポの(splitに対する訳としては?)踊りを踊っているミス・ボビットに渡した。彼女もローマ花火を持って振り回した。その瞬間、花火は爆発して、赤や白や青の火の玉がとび出した。
【村上春樹】
しかしお尻を見せることは、まだ本当のクライマックスではなかった。ミス・アデレイドは暗いキーを使って、不吉な雷鳴のような音を弾き始めた。そこで火のついた筒型花火を持った、シスター・ロザルバが舞台に大急ぎで上り、ミス・ボビットに手渡す。ミス・ボビットはちょうど完全開脚(split)をやりかけているところだったが、それをやり終えたまさにその時に、筒型花火がどんと炸裂し、赤と白と青の火の玉が散った。

16:page 189、最後から6行目
【川本三郎】
ただ、昨日は、あたりに不思議な微笑のような雰囲気がただよっていた。彼女がいよいよ町を出て行く日だった。昼ごろ太陽が顔を出した。それとともにあたりの空気には藤の花の甘い香りがあふれた。エル叔母さんのレディ・アンがまた花を開いた。そして彼女は素晴しいことをした。
【村上春樹】
何はともあれ昨日という日には、不思議な微笑みのようなものがあった。それは彼女が出発する当日だった。昼頃には太陽が顔を見せ、藤のたっぷりと甘い香りをあたりに漂わせた。エル叔母さんの黄色いレディー・アンは、再び見事な花を咲かせていた。そして叔母さんはとても見上げたことをした。

17:この小説の最後のパラグラフ; 一年後、ミス・ホビットが、町に初めて町に来た時と同じバスに轢かれるシーン―――page 190、最終行
【川本三郎】
・・・・両腕を伸ばして、階段を走り下りてきた。道路に飛び出してきたら何が起こるかわかっていたのでみんな大声で叫んだ。しかし、バラの月(花束のこと)に向かって駆け出してくる彼女にはその声が聞こえないようだった。午後六時のバスが彼女を轢き殺したのはそのときである。
【村上春樹】
・・・・両手をいっぱいに広げ、階段を駆け下りていった。僕らは大きな声で叫んだ、僕らの声は雨の中に雷鳴となって響いた。しかしふたつのバラのお月様(花束)めがけて駆けていくミス・ホビットの耳には、その声は届かなかったようだ。そのようにして彼女は、六時のバスに轢かれてしまったのだ。

考察と結論
唐突な結論じみた考察ですが、上記の結果に示した17例について判断すると、2,3の比較を除いて、少なくとも、この短編小説では村上の方が優れているという印象です。緒言で述べているように、わたしは恣意的にセンテンス・パラグラフを選択するようなことはしておりません。極めて単純に両翻訳で、雰囲気・意味のとりかたが、あきらかに違っている部分を選択したものです。
両翻訳を読んで、村上訳のほうから、より登場人物の感情のさまを切実に感じとれました。もし、村上の訳を読んでいなかったら私はこの小説の中に登場する人物たちに、こんなには思い入れを持つことはなかったような気がする。
ただ、気を付けなければならない事は、川本三郎氏が、本来的に存在していたカポーティの作品のクオリティーを削いだ翻訳をしたわけではなく、実は川本三郎氏の訳のほうがカポーティの作品そのもの、という可能性もあります。単に、村上春樹のカポーティに対する愛がオリジナル以上の作品にしてしまった、ということも考えられます。
言語体系が違うのですから、答えは万能の神、のみが知っている。これはすべての翻訳に当てはまる、面白い特性だと考えます。

使用小説
1. 川本三郎訳
『誕生日の子どもたち』 byトルーマン・カポーティ、in 「夜の樹」 新潮文庫、page 160-191, 1994
2.村上春樹訳
『誕生日の子どもたち』 byトルーマン・カポーティ、in 「誕生日の子どもたち」文春文庫、page 9-50, 2009
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.13:
(5pt)

無頭の鷹 を村上春樹訳と比べたくて。

村上春樹訳の誕生日の子供たち にも、夜の樹 にも、同じ 無頭の鷹 が入ってます。訳の違いを読んでみたくて再読のため購入しました。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.12:
(5pt)

カポーティの文体

本書はカポーティの初期短篇集で、工芸品のような繊細さと冷たい大気の肌触りの香気高い文体で書かれている。たとえ、アメリカ南部の埃っぽい街角の描写であっても、ひやりとした肌触りが伝わってくる。このような雰囲気のなかで、本書の主人公たちは、プライベートな内部の側にいて、外部から侵入しようとするエキセントリックな人物への恐怖に慄(おのの)いている。その文学的テーマは“越境”だったように思われる。「ミリアム」のミセス・ミラーにとって、夜の11時過ぎに、他人の家のベルを鳴らし、「なかに入れて」と懇願する少女ミリアムは恐怖そのものだ。「夜の樹」のケイは、夜汽車の客席で、旅芸人風の男女からプライバシーを穿鑿され、飲めない酒を飲まされ、精神的に追い詰められていく。「夢を売る女」のシルヴィアの場合は、奇妙な設定だが、見た夢の話を買い取る男が彼女の心中へ侵入する不安に襲われる。「無頭の鷹」の心を病んだヒロインは、彼女に恋する主人公にとって「自分自身の壊れたイメージ」を映し出す鏡だった。ところが、見方を変えてみると、少女ミリアムの非常識な行動は、「ティファニーで朝食を」の愛すべきホリーの気まぐれな行動とそっくりで、親愛の情の唐突な表明だったといえるだろう。しかし、このような“越境”は、愛情の温もりに飢えるあまり、人間関係の適切な距離感がわからず、いつも極端に接近しすぎると告白するようなものだ。ミリアムの夜の11時過ぎの訪問は、非常識すぎて、相手の心中に恐怖を招いたばかりか、もし勝手に“扉”を開けて室内に踏み込めば、あの『冷血』の凄惨な事件現場へと発展する恐れさえあった。訳者の川本三郎氏によれば、カポーティは、幼少期に両親が離婚したため、親戚の家を転々としており、若い母が愛人と外出する際に、幼いカポーティをホテルの部屋に置き去りにしたため、部屋から出られず、ヒステリーを起こしたという悲しい思い出を忘れなかった。川本氏は、「カポーティの短篇を読んでいると、親に見捨てられた子ども、暗がりのなかにひとり取り残された子どもをイメージしてしまう。」と述べている。カポーティは、『冷血』の「親に見捨てられた」過去を持つ犯人にもシンパシーを感じていた。彼の美しい文体が「ミリアムとは自分自身のことだ」という孤独な自意識に由来するものだとすれば、文学創造の玄妙さに胸を打たれずにいられない。この短篇集は、そういう不安な心の痕跡がちりばめられている。ちなみに、『冷血』だけはジャーナリスティックな乾いた文体で、いつものカポーティらしくないが、代わりに、厳粛な事実の冷たさがチリチリと肌を刺すかのようだ。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.11:
(5pt)

カポーティの中で

名作を聞かれると「ティファニーで朝食を」を推すんだけど、
訳のせいか、この「夜の樹」と、「おじいさんの思い出」が一番しっくりくる。

長編はどれも少し読みにくい。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.10:
(5pt)

懐かしい

遠くに置き忘れてきた青春の懐かしい匂いを想い返させてくれる作品群。幾度読み返しても、新鮮な感覚を呼び出してくれる稀有な物語り。十五の年に巡り合えてたらどんな感想を抱いただろう。若人にすすめたい小説です。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.9:
(5pt)

早熟の天才、カポーティ

この短篇集は9作品を収載するが、「感謝祭のお客」を除きすべて1940年代前半の、二十歳そこそこで書いた作品というから驚く。特に“ニューヨークもの”に現れる病んだ精神の繊細な描写は、そんな歳の若者が書いたとはとても信じられない。早熟の天才とはカポーティのためにある言葉だ。
  
 典型的なニューヨークものの「ミリアム」。NYに住む未亡人が見知らぬ少女につきまとわれ、住まいに押し掛けられ、乗っ取られる(と感じる)という、不条理で一種幻想的な作品だ。少女は主人公の未亡人自身なのだろう(だから名前が同じミリアム)。あらがいながらも少女の望むままになってしまう不思議も、感じる恐怖も、自分自身を見ることから来ている。自分に覚えがあるのでそう思うのだが・・・。

 表題作「夜の樹」は19歳の女子大生が主人公。南部の田舎の夜汽車の旅でわけの分からない芸人の二人連れ(中年女性とコビト的なフリークの男性)に絡まれる。主人公の不安な心理が書き込まれている。何でそう感じるのかよくわからないと思ったが、解説では芸人たちは女子大生の分身だ、としている。なるほど。

 「最後の扉を閉めて」は、平気で嘘をつき女を裏切る生活を続ける軽薄な男の哀しい物語。後半では、正体不明の男から時々電話がかかってきて、誰なのか問いつめると「長いつきあいなのに」と電話が切られる。たぶん、自分自身からかかってくるのだ。

 “アラバマもの”は無垢な子供の心を描いた作品の系譜で、まだ不安も恐怖もない幸せな時代だ。
「誕生日の子供たち」はその最高傑作。田舎町に突然現れた大人びた少女と、町の男の子たちの奇妙な交流が描かれる。
 最初の一行でその少女がバスに轢かれて死んだことが読者に知らされており、最後の一行まで、なぜ、どのように死ぬのかという興味で引っ張っていく(しかしキワモノではない)。ラストの描写は素晴らしく、深い余韻が残る。
 この物語は「ハックルベリ・フィン」を感じさせる。「ハック」にはかなり重たいテーマがあったが、現代のハックもトムも自由とは無縁の現実を突きつけられる。

 南部の田舎町の、少年と独身の叔母さんと、彼をいじめる悪童の物語「感謝祭のお客」も素晴らしい。スック叔母さんの造形がとても良い。ひねくれていた悪童も叔母さんの優しい心遣いで立ち直りのきっかけをつかむ。優しい、とても良い物語。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.8:
(5pt)

ライオンのような菊の危険さを、考えた

『ミリアム』
適応の失敗。孤立。不快。怒り。それらの総体としての恐怖。
完璧なスナップショットだ。

『無頭の鷹』
「愛した人間のなかに自分自身の壊れたイメージを見てしまう」(179頁)。
それなら救いはなく、「愛」する事は主人公に意味付けを与えてくれないということが、わかる。本当の自分というものに縛られることから逃れる為の戦い(188頁)。
蝶の絡まる場面の記述は素晴らしい。(185頁-)

『誕生日の子どもたち』
これが最も好みに合う。本書の他の多くの作品と共通する主題を、簡潔にあけすけに記述していると思う。
主人公は超人的だが、主体性を発揮して行動しているというような感じは乏しく、どこか眼の死んだ操り人形のような印象がある。しかも周りの人間は主人公を排斥するすることもやっつけることもできず、力を殺がれて、気がつくと主人公の勝手な規範に絡め取られている。
他の作品では幻のような形を取っていた、自己の中の他者(の如き制御できないもの)が、一人の人物の形を取って書かれていると思う。
この話は屈従と関係があると思う。

『感謝祭のお客』
結末近くのどんでん返しで、主人公は敗北を体験する。このままでは全くの人間不信に陥っても不思議ではないが、ミス・スックはその敗北さえ包容し、回収してしまう。
思ったのだが、これが、他の作品においても、明示はされないにしても隠れた要として、著者の筆を規定していないだろうか。
というのは、そうでないなら、情性欠如者の恨み言のようなものになってしまって、これほどの黒い豊かさを持てなかったのではないかと思うからだ。
とはいえ、この作品は、心温まるというような生易しいものではないと感じる。「オッド・ヘンダーソンは、いまやわたしより立派な人間、それどころかわたしより正直な人間になってしまった-」(326頁)。こんなことを、有毒な方向に逸れずにしかも自分自身できちんと受け止め消化するということは、どれほど誤りやすく難しい行いだろう。
ライオンのような菊が危険だというのは、豊かな謎だと思う。

トルーマン・カポーティ『夜の樹』
新潮文庫 カ-3-5
平成六年二月二十五日 発行
平成二十三年七月五日 二十二刷改版
平成二十四年六月五日 二十三刷
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.7:
(4pt)

哀しさと温かさ

何だか息苦しくなった。登場人物たちは皆、何かに囲われていて、そこから逃れられずにもがいている。裏表紙の紹介文には「お洒落で哀しい短編集」とあったが、正直哀しみばかりが胸を打った。
 それでも、最後の短編「感謝祭のお客」では、主人公の親友である老婆の温かさにほっとさせられた。良い構成。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.6:
(4pt)

カポーティで1冊を選べと言われれば本書を推す

トルーマン・カポーティというと、日本では「ティファニーで朝食を」、しかも映画の「ティファニー…」の「原作者」という知名度なのだが、どうしてどうして映画の「ティファニー…」のテイストとは似ても似つかぬ作風、似つかぬながらも極めて多様な才能の持ち主なのである。
米国ではカポーティというとベストセラー「冷血」の作者、というのも通り相場のようであるが、本書に収録されている短編の数々は、そんな「冷血」や「ティファニー…」(もちろん映画でもテキストでも)とはひと味もふた味も違った作品ばかりである。
O・ヘンリ賞受賞作品の「ミリアム」に始まり、本書のタイトル作品「夜の樹」、村上春樹の絶賛する「無頭の鷹」といった幻想的な「ゴシックロマン」と、「銀の壜」「誕生日の子供たち」といった何処かからやってきたストレンジャーを巡る寓話的と言っていい作品、そして抒情的な「感謝祭のお客」…。
いずれも「これぞカポーティ」という典型的な作品といってよく、かつ「これだけではカポーティは語り尽くせない」と言わざるを得ない。
この多様な作品群の中で唯一共通しているのは、何処かバランスを欠いた不安定な「空気」である。
意図的にそんな「空気」を前面に押し出している作品もあれば、巧みなストーリーテリングで覆い隠されながらもその隙間から「空気」がにじみ出てくる作品もある。
いずれにせよその「空気」はカポーティの持ち味で、「ティファニー…」や「冷血」にも共通する。
そんな「空気」の共通性と各作品の多様性。
本書を通してその両方を満喫できる。
日本で出版されているカポーティの中で1冊を選べと言われれば、僕は本書を推す。■
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.5:
(5pt)

この短篇集を読まずしてカポーティは語れません。

ノンフィクションの傑作「冷血」や、やや難解な「遠い声、遠い部屋」。それに言わずとしれた「ティファニーで朝食を」。どれもカポーティの代表作ですが、彼の原点はこれら短篇にあると思います。ゴシックホラーテイスト溢れる「ミリアム」から、ノスタルジーを感じさせる「誕生日の子供たち」や、その他影も曇りもない「昼の文体」、背筋がひやりとする様な「夜の文体」の作品が、バランスよく収められています。そしてこれらの作品群には一貫して透明な空気の粒を感じさせる瑞々しさ、繊細な硝子細工を思わせる叙情的なものを感じます。どれも20代のうちに書かれたものばかりという事で、早熟ながらその文章の完成度には改めて驚きました。
別出版社から出ている村上春樹訳の「誕生日の子供たち」の短篇集に含まれる作品と重複してるのもありますが、少し位かぶっていても両方買っておいて損はない筈。
私にとっては人生の中でもベスト5に入る位手放せない短篇集です。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.4:
(5pt)

大傑作です。

個人的にカポーティは、「ティファニーで朝食を」などの中篇よりも、切れ味のするどい短編のほうが優れていると思います。本書収録、「ミリアム」、「夜の樹」などは、まさに短編小説のお手本のような作品です。抽象的なストーリーに対し、おさえた筆致で人間の孤独や不安や恐怖などネガティブな感情を色濃くうつしだす手腕にはただただ脱帽するのみです。

 なかでもおもしろいのは、「誕生日の子供たち」です。最高の書きだしです。魔女的な女の子がひっこしてくることにより子供たちは狂わされ、けれど彼女はバスに轢かれてしまう。まったく意味のないストーリーなのに何故か背筋が寒くなるほどの絶対的な恐怖と哀愁がただよいます。是非読んでください。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.3:
(4pt)

いいと思う

内容はとても暗いものが多いですが、どれも割りと面白いですし、
ずしっとくるものがあります。
ただ、(個人的な理由ですけど)「無頭の鷹」だけは難しくてうまく理解できなかったのが残念でした。
でもそれにしてもはまる人ははまると思うので、お勧めですよ。
2回も3回も読める作品群です。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055
No.2:
(4pt)

雪の雲。

この本を手にしたのは、ほんの気まぐれからでしたが、ラッキーな出会いだったかもしれません。
収められた短編の一つ一つに、何か共感できる物語があるわけではないし、決して、涙を流すような感動的シーンがあるわけではありませんが、流れる雰囲気は、人をひきつける存在感がありました。
主人公たちを取り巻く不思議で、ふわふわした取り留めのない、そして少し冷たい感覚を伴った雰囲気がすべての短編に、一貫してながれていて。それは、私にうっすらと低く敷き詰められた、雪の雲を思わせました。
雰囲気と登場人物は、巧みな描写で表現され、ふとしたはずみで、日常からそんな不思議な空間に紛れ込んでしまった主人公たちの「なぜ??」という問いかけが聞こえてきそうでした。
私のお勧めは「最後のドアを閉めて」です。
この作品に出てくる主人公のどうにも救いがたいところがいっそうの冷たさと、孤独を感じさせる作品です。
夜の樹 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:夜の樹 (新潮文庫)より
4102095055

スポンサードリンク

  



12>>
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!