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鍵のかかった部屋
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鍵のかかった部屋の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.45pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全23件 1~20 1/2ページ
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ポール・オースター『ニューヨーク三部作 The New York Trilogy 』の一冊である。三部作の中で唯一主人公の存在が確かだと感じられる作だ。小説内現在は1984年と明記されて、それを起点に登場人物の年譜も作ることができる。その他にも主人公ファンショー実在の証明は、語り手の「僕」と再婚した彼の妻ソフィーや、彼の実子で「僕」の養子となったベンの確固とした存在がある。主人公が最初から不在だったり、行方不明になったりする他の二作とはちがう。 作品で驚くのは作者が顔を覗かせること。「ファンショーはいなくなった。そして彼とともに、僕もいなくなったのだ」と書く小説内の「僕」は、「その結果がもし僕の内側に残っていなかったら、僕はこの本を書き始めることは出来なかったろう。この本の前に出た二冊の本についても同じことが言える。『ガラスの街』『幽霊たち』そしてこの本、三つの物語は究極的に皆同じ物語なのだ」、と書く「僕」とは別人で、後者は作者自身だ。だが作者に読み方まで縛られたくはない。私の読みでは、ファンショーは死に「僕」は彼から解放されて生き続ける。 「僕」とファンショー関係は、さしずめ『グレート・ギャツビー』のギャツビーとニックに例へられよう。しかしそんな緩い関係ではない。二人は中産階級が住む街の隣りあう家の同年生まれで、兄弟のように育った。ファンショーは一種の天才少年で既に自分の「閉じた系」の中におり、他人からの評価を自己のアイデンティティとする凡庸な「僕」はハラハラしながら彼につき従う少年だった。ファンショーはハーバード、「僕」はコロンビア大学に進み,二人は初めて別れて暮らすが、二年後、彼は中退し失踪する。父がガンで亡くなり、学資の支払いが困難になるだろうからと母に告げたそうだが、本当は大学生活の退屈さに耐えられなかったのだと友人は言う。音信が途絶え、生死もわからない。 8年後「僕」はニューヨークで一応「気鋭の批評家」の評価を得ているが、内実は家賃の支払いにも事欠く売文業者だ。生活に追われ、まとまったものなど書けないと自虐する日々を送っている。ある日ソフィーと言う見知らぬ女性からの手紙を受けとる。ファンショーの妻だと名乗り、夫は6ヶ月前から行方不明になっているが、あなたに夫からの伝言がある、という。翌日彼女を訪れるが、まずその美しさに眼を奪われる。ベンという行方不明後に生まれ男児を抱いている。言伝ては、ファンショーが書き貯めた膨大な原稿を評価し、公表すべき価値のある作品なら、出版代理人になって欲しいというものである。「僕」はソフィーに惹かれて原稿を持ち帰り、2週間かけて読み通すが、これまでに類を見ない小説だと感じる。 出版は大受けして、二人は大金持ちになり、同時に関係も深まる。ソフィーは夫の死亡を疑わない。世間ではファンショーと言う作家は存在せず、「僕」がゴーストライターではないか、との噂がたつ。「僕」は否定し、それほど疑われるのならば、「僕」がファンショーの自伝を書いても良いと言ってしまう。ソフィーも「誰かが書かなくてならないのなら、彼を最も良く知っているあなたが書くべきだ」と薦める。 そんな折り、ファンショーからの手紙が届く。生きていたのだ。自作の出版を喜び、自分は死んだことにして、ソフィーと結婚してやってくれ。僕を見つけたら君を殺すと。ソフィーには手紙を見せられない。読んだらファンショーに走ることが明白だからだ。急遽「僕」たちは離婚手続きが簡単なアラバマ州に飛び、ニューヨークで結婚する。知り合ってから1年目になる。「僕」はファンショーの伝記執筆を始めるが、それは口実で、本当の目的はファンショーの生死を確かめること。後半の物語は彼を捜すための「僕」の旅となる。 ファンショーが遍歴の先々から妹に宛てた手紙(その大半は妹に見せずミセス・ファンショーが保管していた)を借り、書かれている微かな手掛りを基に、彼が数年滞在していたというフランスまで行くが、実りはない。「僕」は探せば探すほど、生死はおろか、彼の正体までもつかめなくなる。憎しみが募る余り、「僕」は彼を追っているのか彼に追われているのか。彼を殺そうと願っているのか彼に殺されることを願っているのか判らなくなってくる。という、ポール・オースター得意の心理の逆転劇が楽しい。最後はパリの酒場で居合わせたアメリカ人に、「俺がファンショーと呼ぶのだからお前はファンショーだ」と言いがかりをつけて殴り倒され、傷心の帰国となる。 ファンショーに憑りつかれた「僕」は肝心なソフィーの愛情すら失いかけ、一年余りも別居する。結局伝記執筆は諦め、妻のもとに帰り次男も生まれた。そして1982年、またもやファンショーの手紙が届く。「話をしたいから直ぐにボストンの自宅に来てくれ」と。ソフィーにはボストン図書館に行くと偽って、ある雪の朝、ファンショーの家(昔は由緒あったらしい4階建ての崩壊寸前のビル)を訪ねる。ドアの内側に銃を持ったファンショーが居て、「話をしたいと言ったが、会うとは言ってない、ドアを開けたらお前を殺す」と言う。今日死ぬつもりで既に毒を飲んだ」とも。 ファンショーが会いたいと言った目的は、最近書き終えた「手記を読んで欲しい」というもの。積もり積った友情と鬱積が閾を越え、「僕」はドアの前で泣き崩れる。気が付いた時は「赤いノート」を抱え、雪のなかボストン駅へ歩くシーンとなる。列車を待つ間に読んだ手記は明白な印象を残しつつも、「僕」の探索結果と同じく、全く内容のつかめない代物だった。「僕」はノートから一頁ずつ千切ってはゴミ箱に投げ入れ、最後の頁を捨てた時、列車が到着する。完。 凡庸な「僕」のファンショー探しは単純だ。ひとえにソフィーを愛していることに尽きる。では世間から身を隠したファンショーの意図はなにか。これも他の二作と異なり、精読すれば明白だ。私の読みはファンショーの「カリスマ殺し」。ファンショーは突然変異的なカリスマの持主だった。意図せずに、あらゆる人から魅了された。ファンショーと同級生だった編集者の弟は「皆が彼を〚未来の大統領〛だと言っていた」とまで言う。ファンショーが自身の「カリスマ」性を知ったのは、妹が彼を魅了するあまり、ついには精神病にまで陥ってしまった時だろう。それ故失踪したのだが、結局は行く先々でリーダーに持ち上げられそうになる。カリスマ性を発揮して俗世間の指導者になるなどは、彼には「おぞましさ」に尽きる。徹底的に忌避するには身を隠すしかない。だが試みに「僕」に評価を依頼した小説は出版されて大成功を収め、「僕」が伝記を書くという話も判った。何時か身元も割れるだろう。それを避けるにはもう死ぬしかない。一言でいえば「カリスマ」の絶望だ。 標題〚鍵のかかった部屋〛の意味もこれから判る。ファンショーは「鍵のかかった」部屋の中でしか、いきることが出来なかった。 | ||||
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さすがストーリーテラー、ポール・オースターです。 一度読み始めたら、最後まで読まざるを得ません。 どこにこのようなことを語る要素が入っているのでしょうか。 同じ人間なのに不思議です。 | ||||
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なんとも不思議な読後感だ。この小説の全体を意味する大きなメタファーともいえる「鍵のかかった部屋」は、いつの間にか不在の人物ファンショーにとり憑かれたような奇妙な感覚と人間の本質存在論的な不可解さに引きずられるように否応なくそのことを考えさせる。つまり、この物語はファンショーという不在の人物をめぐって一人称で書かれた僕によって語られるのだが、構造的にみて三つの時間軸で重層的に描かれているからかもしれない。 たとえば、記憶の中にある親友ファンショーと過ごしともに成長した幼少期から青年期までのいくつかのエピソードや家族関係のこと。つまり、ファンショーが残した膨大な原稿を書いたと思われるその時のことだ。 この雪におおわれた、開いた墓穴でも、それと同じようなことが起きていた。ファンショーは一人下にいて、自分だけの思考にふけり、自分だけでその瞬間を生きていた。まるで本当は僕などそこにいないかのように。これが父の死を想像するためのファンショーなりのやり方であることを僕は理解した。ここでもまた、ことはまったくの偶然から始まっていた。開いた墓穴がそこにあり、ファッショーはその墓穴が自分を呼んでいると感じたのだ。(p46) そして、不在となったファンショーが残した膨大なノートや原稿のことで妻ソフィーから突然の連絡を受け、彼の意に沿ってそれを著作として刊行するために出版者として関わることになる。 その通りだった。結果的には、おそらくスチュアートが想像もしなかったほどの「めっけもの」だった。『どこでもない国』はその月の末に出版が決まり、と同時にほかの作品も同じ出版社が優先権をとった。(P64) 考えてみればたしかに、ファンショーの原稿がすべて出版されたとして、そのあと僕が彼の名前を使ってもう一冊か二冊本を書くことはまったく可能である。もちろんそんなことをする気は僕にはなかった。でもそう考えてみるだけで、僕の頭の中に、奇妙な、謎めいた想いがあれこれ浮かんできた。作家が自分の名を書物に記すことにはどういう意味があるのか?(P76) さらに、僕の手によってファンショーの『伝記』を執筆することで、物語それ自体を相対化し現在を読み手と共有できる時間が重なる構造となっている。 『ガラスの街』『幽霊たち』、そしてこの本、三つの物語は究極的にはみな同じ物語なのだ。 ただそれぞれが、僕が徐々に状況を把握していく過程におけるそれぞれの段階の産物なのだ。ぼくは自分が何か問題を解決したのだなどと主張するつもりはない。僕はただ、起きた出来事を振り返っても自分がもはや怯えなくなった瞬間が訪れた。ということを伝えようとしているだけなのだ。そういった瞬間に続いて言葉が生まれ出てきたとしても、それは単にそれらの言葉たちが僕に望んでいる方向に進んでゆくしか手はなかったからだ。だが、それだけでは、それらの言葉が重要だということには必ずしもならない。僕はこれまで長いあいだ、何かに別れを告げようと苦闘してきた。この苦闘こそが何にもまして重要なのだ。物語は言葉の中にはない。苦闘の中にあるのだ。(P183) ニューヨーク三部作といわれポール・オースターの名を知らしめた作品の中でも本著『鍵のかかった部屋』とはじめて出合った衝撃はぼくにとって驚きだった。 この小説を読みながら、ぼくはロシアのイリヤ・カバコフというアーティストの「シャルル・ローゼンタールの人生と創造」という展覧会のことを思い出していた。それはイリヤ・カバコフが《シャルル・ローゼンタール》という作家を想定しその人の人生をふりかえる回顧展という手の込んだ設定で行われたのだが、この作品が著者の手記とも自伝ともとれる様式をもちながら人間の本質存在を明るみにする稀有な物語として描かれていると思ったからかも知れない。 ここでは主人公として登場する(しない?)ファンショーという人物が本当に実在するものなのか、失踪したあとに生きているのか死んでいるのかさえ不確かなまま物語は進行し、あるいはフィクションとして語られる装置のようにも感じられる。だが、ベンとソフィーの存在する事実からおそらくそれらしき実在の人物が存在したことは事実というほかない。ファンショーはおそらくこの物語の架空の人物として用意されたフィクションとしての存在のような気がするのだが、そのこと自体はこの作品にとって大した問題ではない。 いうなれば推理小説の形式を示しながら完結してとじられる世界ではなく、ポール・オースターという作家のきわめて観念的で人間的なまなざしが捉えた客体化された物語をそれにかかわる主体(作者と読者)との存在論的なあり方を措定していることに注目したい。そういう意味では現実と非現実との間を流動的に往復できる装置として現在を描いたきわめて斬新でシリアスな物語といえるのではないか。 余りにも個人的な思惑に埋没した思弁的な捉え方とおこられるかもしれないが、ぼくはそういう作品があって欲しいとそう思うからでもある。 カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」、町田康「ギケイキ」、P・オースター「鍵のかかった部屋」とつづけて読むことになったが、なんの脈絡もない不節操な読書の仕方と思われるかもしれない。だが、これほど異質の作品でありながらいずれも第一級のすぐれた作品であることに疑いの余地はない。 なにはともあれ、これはニューヨーク三部作をはじめ、ポール・オースターにとり憑かれて読むしかなさそうだ。 | ||||
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読み終わった後、無性に泣きたくなった。"無”に戻りたがる男の人生がどれほど辛いものか、生きるという事がどれほど残酷なものか。『ガラスの街』同様、答えのないのが答えであり、終わりのないのが終わりなのだ。存在するものが複雑にそして不条理に絡み合うほど、ものごとは"無"の方向に向かうのだろう。 "僕"はひたすらファンショーを追い続け、追い詰め、自らもファンショーになりきり、自らを追い詰めていく。まるで幻想にどっぷり浸かったカルト的な匂いのする人生物語である。"人生が進んでゆくにつれ、我々は自分自身にとって益々不透明な存在になっていく"というフレーズは、柴田氏が解説する"自分自身にはもう一つの到達し得ない他者の影が存在する"をテーマにした物語でもある。 "書く事、言葉を使って考える事で、人は自己の中に他者の影を見出す"つまり、ファンショーは書く事で、存在しない筈のもう一人の自分を創り出し、そして、"僕"は読む事で人を自己から隔て自身を存在しない人間にしてしまう。その二人が互いを追いかけ、互いを追い詰めていく。 柴田氏はこの二人の不透明な存在を"亡霊"に喩え、"人は絶えず、自らの亡霊を産出し、自らを他者の亡霊に仕立て上げる"とする。僕はファンショーともう一人の僕を産み出し、そしてお互いを融合させてしまう。至極抽象的だが、この亡霊にも似た幻想に対する執念がこの本書の核心であろう。 最後には、ファンショーは"鍵のかかった部屋"で自らの命を断とうとする。"僕"は彼の目の前で、彼と決別し、彼の亡霊を何とか振り切り、愛する妻の元に戻る。その妻のソフィーこそがファンショーの先妻であるのだ。彼女はファンショーを愛したが、ファンショーは自分を愛した。"僕"はファンショーに憧れ、彼と同化し、彼と心中しかけた。しかし、彼女の"生"への執着と執念が"僕"を救ったのだ。それは、ファンショーの"無"へのそして死への渇望とはとても対象的に映る。 まさに、”生きる事の残酷さと死ぬ事の潔さ”を教えてもらったような気がした。まるで、畏怖の念にも似た戸惑いを感じながら読み終えてしまった。そして、それは"愛される事の残酷さと愛する事の潔さ"と置き換えてもいいのかもしれない。 | ||||
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とてもきれいな本でした。 内容的には、小説としてクラシカルで期待ほどではありませんでした。 | ||||
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すごい冒頭部分だ オースター史上 最高の出だしだ もうそこだけでも傑作確定のはじまりだ ああ、オレにそれを全部引用するだけの気力があれば、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 | ||||
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オースターのファンはたくさんいて、オースターの小説にはオースターの小説なりの読み方があるような気がするのだが、なんせ私はオースターを読むのはこれが2冊目で、ぱりぱりの初心者で、三部作の最終話が2冊目なことからも明白なように三部作を最初から読んでもおらず、そんな不埒な読者の言うことなど誰の役にも立たないだろうと承知の上で、思うところを記そうと思う。 読み終わって、というより、終わり頃に近づいて、自分が年をとったなとつくづく思った。もし、あと15年か20年くらい若かったら、言い換えれば、主人公くらいの年齢だったら、こんな風に結末がストンと腑に落ちることはなかったような気がする。読み終わって今頃、暴れたくなっていたと思う。でも多分、ファンショーは主人公のアルター・エゴ(もう1人の自分)なんやろうね。。。だから親友の未亡人に恋をして愛し合って、その子に父親と呼ばせるなんて、フツー道義的にどうよ?って言ってしまいそうになるような関係があたかも必然のように成り立ってゆくのではないか?不思議にいやらしさを感じない。そうこうするうちに、親友と自分との境界線があいまいになってゆく。いやいや、それはたんに私自身が感じたことだ。読むヒトそれぞれの感じ方があって良いと思う。 「鍵のかかった部屋」は、それだけで1つの、簡潔で調和の取れた、小説にはこうあって欲しいと思えるものが全部はいった、小説らしい小説で、読みやすかった。日本語訳も良いと思う。なぜだか無性に小説が読みたいと思っているヒトには本当にお薦めする。そんなに長くないので気軽に読み始められると思う。 | ||||
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憧れであり、秘密を共有した親友であり、そして忽然と行方をくらましてしまった そんな男が、もう一度自分の人生に現われた 正確には、行方不明者として、 なるほどあの男の妻だろう、という、 でも、すっかり途方にくれた美しい女性を 自分を引き合わせた 彼は、あなたにとって、それでもなおヒーローであり続けるでしょうか ほんとうの謎は、そこじゃないかと思います | ||||
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失踪した幼友達の美人妻から「主人を探して!」って請われた「僕」。これを断らない手はないってんで、当然「僕」はこの依頼を受ける。あわよくばこの美人妻をモノにすることができるやも知れぬ。実際のところ、モノにしてしまい、結婚もした。さらにさらに、この失踪した友人のいまだに若々しくて魅力的な母親とも仲良くなり、2回もいたしてしてしまった。 冗談はさておき、ニューヨーク三部作の最終巻である本書は、過去の2作品と同様のテーマを扱っていることには違いない。つまり、訳者あとがきで柴田元幸が述べているように、「誰かを見張っている人物が、自分こそ誰かに見張られているのではないかという思いに襲われる」、あるいは「僕がファンショーを追いかけるプロセスは、ある意味で僕がファンショーになってゆくプロセスでもある」ということなのだ。 オースターの巧みなストーリー・テリングでついつい引き込まれて読んでしまうが、「僕」がソフィーと暮らし始め、ついには結婚までした後のいろんなファンショー追っかけエピソードは、どうでもいいんじゃないか。 最終章までずるずると面白く読ませる手順は「さすが!」だが、最期の最期、コロンブス・スクウェアのシーンだけで話を終えることもできるし、読者も納得する・・・・・。 | ||||
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「自己」の中における「他者」の発見、「他者」を通した「自己」の発見はありふれたテーマであり、多くの作家がこのテーマのもと作品を生み出してきた。オースターもその大勢の中の一人に過ぎないのだが、発見に至る叙述は読者の期待、そして作者の企図をも超えて読み応えがある。人物造形のうまさとストーリテリングは作家として初期の段階においても特異なものがある。 「鍵のかかった部屋」こそ、他者の象徴であり、自己へと通じる道であるが、凡百の啓蒙書を読むより、この一冊を読めば自己と他者に関する認識は深まる。「鍵のかかった部屋」は抽象的な他者の象徴として機能しているだけではなく、実在感、いや、異物感さえ感じさせる。すべてはオースターの叙述と柴田氏の翻訳のなせる業である。翻訳でこのような優れた本を読むことができるのは幸いである。 | ||||
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「言葉というものを大切に思うこと。書かれたものに自分を賭けてみること。そうしたことが他の要素を圧倒するのであり、それに較べれば、自分の人生などごくささいなものに思えてくるのだ。」(本書50ページ) 言語表現に対するこのような愛情の下で、この小説のストーリーでは、批評家の主人公(読み手)が幼馴染の天才小説家(書き手)に殺意を抱きつつアイデンティファイしていく。両者ともに家族や生活を削ぎ落とし、自己自身のアイデンティティや存在さえも消し去りながら、「書くこと」「読むこと」に一体化しようとする。特に両者が狂気スレスレまでいって対話する後半は読み応えがあるが、同じようなテーマで語り手が消え去った「シティ・オブ・グラス」と対照的に、この小説では現実=こちら側の世界に主人公がギリギリのところで引っかかっているところが面白い。その点で、この小説のラストにほのかな「希望」を読み出す読者もいるだろう。(訳者もその一人。) 「書くこと」に自己言及した小説を書いた作家は沢山いるが、不可能だと知りつつ「書くこと」と「読むこと」、それ自体を掴もうとしてミニマリズムを展開したこの作品は、奇跡的なことにストーリーに厭きがこないどころか、ミステリー仕立てで面白い。文句なしに初期オースターの傑作として文学史に残る作品でしょう。これからも、何度か繰り返し読みたいと思います。 | ||||
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「ファンショー」を「フィクション」に読み替えて、 オースターがフィクションの創作に関して何かを掴むまでのプロセスの 最終段階の物語としても読めます。 特に後半、特に第8節の途中以降は 著者が書く際、「フィクションは……」などと書いて後から 「フィクション」を「ファンショー」に一括変換 したのでは?と思うぐらい(笑)そのように読むと いろいろおもしろいことを言っているので是非試してみてください。 | ||||
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本書はThe New York Trilogyの最終話だ。 この3部作は何れもある人物に関わる謎を探ることを目的とする推理小説のような体裁を取っているが、読み進めるにつれて実は謎を追い求める主人公の内面の変化がテーマになっていることに気がつく。 主人公は最初は職務としてターゲットとなる人物を尾行したり、過去を調べたりするのだが、次第にターゲットと自己との境目が曖昧になり、謎を探る行為は職務ではなくそれ自体が自己の存在意義と化していく。 外面からは安定しているように見える人間の心に潜む危さや脆さが見事に描き出されており、楽しく読める作品ではない。だが最近のポール・オースターの円熟した作品とは異なる実験的な要素がちりばめられた初期の傑作だと思う。 | ||||
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村上春樹と対をなす作家、と思うのは自分だけだろうか。 ニューヨーク三部作の最後、鍵のかかった部屋。独立して読めるものの、前の二作を読んでから読んだほうがいいのかな、と少し思った。 探偵小説の技法を使い、世界、あるいは個人の謎を解くことをやってきたオースター。前の二作よりもサスペンスフルな展開はやや抑えられている、といった印象はあるものの、徹底したシンプルで静かな描写でぐいぐい読ませいく。 かなりの絶望を味合わされた二作と比べ、ほんのりとした希望があるのも特徴。自分の頭の中にある鍵のかかった部屋にいる人物、自分でありどこまでも他者である彼からの呪縛から逃れられず、翻弄していく「僕」、言い表すことのできない悲しみに包まれるその世界観が魅力。 オースターは間違いなくアメリカ文学史にその名を残す作家だ。 | ||||
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オースターの初期作品の中で、頭ひとつ抜け出ている印象の本書。 書き出しからラストまで、どこをとっても好きなのは、ちょっと贔屓のしすぎかもしれませんが。。 オースターのストーリーの書き方は偶然に拠り過ぎているって話がありますが、私はそれよりも、幸福はいつまでも続かない、ハッピーエンドでは終われない物語のリアリズム性の方に、オースターらしさを感じます。 この作品のラストは、そういう意味でものすごく印象に残っています。 曖昧な結末の映画を見たのに、考えさせられるのではなく、理屈ではなく、胸がうずくと言えばいいのか。 数あるオースター作品の中でも、この作品のラストは群を抜いているように思えます。 未読のオースター好きの方には是非読んでいただきたいです。 | ||||
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最初に話題になった『ムーン・パレス』を読み、その次に自分から出合った、オースターの作品の衝撃の一冊目となった宝物です。 この本を一気に読んでしまった後、他の作品へと、オースターの世界に吸い込まれていきました。 ニューヨーク三部作の締めくくりの一作とされていますが、最初に読んで価値あり、おすすめです! | ||||
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実に小説らしい小説だと思う。 もしくは物語らしい物語。 サスペンスフルでスリリングでどことなくカフカチックで、読んでいて引き込まれる楽しみがある。 この人の小説はこのあたりから物語小説としての魅力を増し、「ムーンパレス」、「リヴァイアサン」、「偶然の音楽」、「ミスターヴァーティゴ」あたりの完成度の高い作品に結実していく。 作品として決して完成度が高いとは言えないまでも、それは筆者がその後さらにすばらしい作品を生みだしたという事実をすでに知っていることから来る相対的な評価でしかなく一つの作品としては十分に楽しめる。 私は読後、村上春樹の「羊をめぐる冒険」を思い出した。 二つの物語が探求したものは果たして同一のものだったろうか、と考えたのだ。 この「鍵のかかった部屋」、もちろん村上ファンのかたにもお薦めです。 | ||||
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親友のファンショーがいなくなったことを知らされた「僕」は、彼の残した小説を出版するが、「僕」の生活は一変してしまう。「僕」がファンショーの名で小説を書いていたという噂が流れ始めてから「僕」の中の何かがおかしくなる。「僕」は親友を愛していたのと同じくらい憎んでもいたのだ。彼は本当に現実世界にいたのだろうか、もしかしてファンショーは「僕」ではないのだろうかと現実と幻想の境界線が曖昧になってくる不思議な作品。「われわれは自分自身のために存在しているのだろうし、ときには自分が誰なのか、一瞬垣間見えることさえある。だが結局のところ何ひとつ確信できはしない。人生が進んでゆくにつれて、われわれは自分自身にとってますます不透明になっていく。」この「僕」の言葉の中にファンショー(=オースター)の心の叫びが聞こえてくるような気がした。 | ||||
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ニューヨーク3部作ですが、主人公は探偵ではなく作家ですのでリヴァイアサンにも近いと思います。基本的には謎が多い作品で、私なりの解釈もないのですが、個人的にはオースター作品で一番好きです。理由は登場人物が魅力的ですからね。 | ||||
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読み始めると、オースターの小説は、一気に読めてしまう。グイグイと引き込まれるストーリー展開の巧みさは、この作家の最大の魅力だろう。「鍵のかかった部屋」は、「幽霊たち」より、さらにおもしろいニューヨーク3部作の最終作だった。オースターの小説の特徴は、次は、どうなるのだろう、その次はどうなるのだろう、といった展開の尽きないおもしろさにあり、だから、最後まで、一気に読めてしまう。 もう一つの特徴は、登場人物が、いつも最小限に限られていて、それでいて都会的で、特に、このニューヨーク3部作は、都会の孤独をうまく捉えていると思う。もう一歩、時代的な、芸術的なテーマ性を持てば、オースターは、1980年代以降の、最も世界的な作家になり得る可能性がある作家だと思う。 | ||||
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