■スポンサードリンク


鍵のかかった部屋



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!

鍵のかかった部屋の評価: 4.45/5点 レビュー 29件。 Aランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.45pt


■スポンサードリンク


Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全29件 1~20 1/2ページ
12>>
No.29:
(3pt)

内容が難しくないので短時間で楽しめました。

三部作の中では読みやすい話でした。つまり邪な話の流れや先がわりあい読めてしまいますが、人間関係の裏表および心理描写の描き方が中途半端に思え、物足りなさがありました。読み終えると、ファンショーの「どこでもない国」が気になってーー読んでみたくなりました。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.28:
(5pt)

「カリスマ」の絶望

ポール・オースター『ニューヨーク三部作 The New York Trilogy 』の一冊である。三部作の中で唯一主人公の存在が確かだと感じられる作だ。小説内現在は1984年と明記されて、それを起点に登場人物の年譜も作ることができる。その他にも主人公ファンショー実在の証明は、語り手の「僕」と再婚した彼の妻ソフィーや、彼の実子で「僕」の養子となったベンの確固とした存在がある。主人公が最初から不在だったり、行方不明になったりする他の二作とはちがう。

作品で驚くのは作者が顔を覗かせること。「ファンショーはいなくなった。そして彼とともに、僕もいなくなったのだ」と書く小説内の「僕」は、「その結果がもし僕の内側に残っていなかったら、僕はこの本を書き始めることは出来なかったろう。この本の前に出た二冊の本についても同じことが言える。『ガラスの街』『幽霊たち』そしてこの本、三つの物語は究極的に皆同じ物語なのだ」、と書く「僕」とは別人で、後者は作者自身だ。だが作者に読み方まで縛られたくはない。私の読みでは、ファンショーは死に「僕」は彼から解放されて生き続ける。

「僕」とファンショー関係は、さしずめ『グレート・ギャツビー』のギャツビーとニックに例へられよう。しかしそんな緩い関係ではない。二人は中産階級が住む街の隣りあう家の同年生まれで、兄弟のように育った。ファンショーは一種の天才少年で既に自分の「閉じた系」の中におり、他人からの評価を自己のアイデンティティとする凡庸な「僕」はハラハラしながら彼につき従う少年だった。ファンショーはハーバード、「僕」はコロンビア大学に進み,二人は初めて別れて暮らすが、二年後、彼は中退し失踪する。父がガンで亡くなり、学資の支払いが困難になるだろうからと母に告げたそうだが、本当は大学生活の退屈さに耐えられなかったのだと友人は言う。音信が途絶え、生死もわからない。

8年後「僕」はニューヨークで一応「気鋭の批評家」の評価を得ているが、内実は家賃の支払いにも事欠く売文業者だ。生活に追われ、まとまったものなど書けないと自虐する日々を送っている。ある日ソフィーと言う見知らぬ女性からの手紙を受けとる。ファンショーの妻だと名乗り、夫は6ヶ月前から行方不明になっているが、あなたに夫からの伝言がある、という。翌日彼女を訪れるが、まずその美しさに眼を奪われる。ベンという行方不明後に生まれ男児を抱いている。言伝ては、ファンショーが書き貯めた膨大な原稿を評価し、公表すべき価値のある作品なら、出版代理人になって欲しいというものである。「僕」はソフィーに惹かれて原稿を持ち帰り、2週間かけて読み通すが、これまでに類を見ない小説だと感じる。

出版は大受けして、二人は大金持ちになり、同時に関係も深まる。ソフィーは夫の死亡を疑わない。世間ではファンショーと言う作家は存在せず、「僕」がゴーストライターではないか、との噂がたつ。「僕」は否定し、それほど疑われるのならば、「僕」がファンショーの自伝を書いても良いと言ってしまう。ソフィーも「誰かが書かなくてならないのなら、彼を最も良く知っているあなたが書くべきだ」と薦める。

そんな折り、ファンショーからの手紙が届く。生きていたのだ。自作の出版を喜び、自分は死んだことにして、ソフィーと結婚してやってくれ。僕を見つけたら君を殺すと。ソフィーには手紙を見せられない。読んだらファンショーに走ることが明白だからだ。急遽「僕」たちは離婚手続きが簡単なアラバマ州に飛び、ニューヨークで結婚する。知り合ってから1年目になる。「僕」はファンショーの伝記執筆を始めるが、それは口実で、本当の目的はファンショーの生死を確かめること。後半の物語は彼を捜すための「僕」の旅となる。

ファンショーが遍歴の先々から妹に宛てた手紙(その大半は妹に見せずミセス・ファンショーが保管していた)を借り、書かれている微かな手掛りを基に、彼が数年滞在していたというフランスまで行くが、実りはない。「僕」は探せば探すほど、生死はおろか、彼の正体までもつかめなくなる。憎しみが募る余り、「僕」は彼を追っているのか彼に追われているのか。彼を殺そうと願っているのか彼に殺されることを願っているのか判らなくなってくる。という、ポール・オースター得意の心理の逆転劇が楽しい。最後はパリの酒場で居合わせたアメリカ人に、「俺がファンショーと呼ぶのだからお前はファンショーだ」と言いがかりをつけて殴り倒され、傷心の帰国となる。

ファンショーに憑りつかれた「僕」は肝心なソフィーの愛情すら失いかけ、一年余りも別居する。結局伝記執筆は諦め、妻のもとに帰り次男も生まれた。そして1982年、またもやファンショーの手紙が届く。「話をしたいから直ぐにボストンの自宅に来てくれ」と。ソフィーにはボストン図書館に行くと偽って、ある雪の朝、ファンショーの家(昔は由緒あったらしい4階建ての崩壊寸前のビル)を訪ねる。ドアの内側に銃を持ったファンショーが居て、「話をしたいと言ったが、会うとは言ってない、ドアを開けたらお前を殺す」と言う。今日死ぬつもりで既に毒を飲んだ」とも。

ファンショーが会いたいと言った目的は、最近書き終えた「手記を読んで欲しい」というもの。積もり積った友情と鬱積が閾を越え、「僕」はドアの前で泣き崩れる。気が付いた時は「赤いノート」を抱え、雪のなかボストン駅へ歩くシーンとなる。列車を待つ間に読んだ手記は明白な印象を残しつつも、「僕」の探索結果と同じく、全く内容のつかめない代物だった。「僕」はノートから一頁ずつ千切ってはゴミ箱に投げ入れ、最後の頁を捨てた時、列車が到着する。完。

凡庸な「僕」のファンショー探しは単純だ。ひとえにソフィーを愛していることに尽きる。では世間から身を隠したファンショーの意図はなにか。これも他の二作と異なり、精読すれば明白だ。私の読みはファンショーの「カリスマ殺し」。ファンショーは突然変異的なカリスマの持主だった。意図せずに、あらゆる人から魅了された。ファンショーと同級生だった編集者の弟は「皆が彼を〚未来の大統領〛だと言っていた」とまで言う。ファンショーが自身の「カリスマ」性を知ったのは、妹が彼を魅了するあまり、ついには精神病にまで陥ってしまった時だろう。それ故失踪したのだが、結局は行く先々でリーダーに持ち上げられそうになる。カリスマ性を発揮して俗世間の指導者になるなどは、彼には「おぞましさ」に尽きる。徹底的に忌避するには身を隠すしかない。だが試みに「僕」に評価を依頼した小説は出版されて大成功を収め、「僕」が伝記を書くという話も判った。何時か身元も割れるだろう。それを避けるにはもう死ぬしかない。一言でいえば「カリスマ」の絶望だ。

標題〚鍵のかかった部屋〛の意味もこれから判る。ファンショーは「鍵のかかった」部屋の中でしか、いきることが出来なかった。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.27:
(5pt)

持っていかれる

さすがストーリーテラー、ポール・オースターです。
一度読み始めたら、最後まで読まざるを得ません。
どこにこのようなことを語る要素が入っているのでしょうか。
同じ人間なのに不思議です。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.26:
(5pt)

とり憑かれたような感覚

なんとも不思議な読後感だ。この小説の全体を意味する大きなメタファーともいえる「鍵のかかった部屋」は、いつの間にか不在の人物ファンショーにとり憑かれたような奇妙な感覚と人間の本質存在論的な不可解さに引きずられるように否応なくそのことを考えさせる。つまり、この物語はファンショーという不在の人物をめぐって一人称で書かれた僕によって語られるのだが、構造的にみて三つの時間軸で重層的に描かれているからかもしれない。
たとえば、記憶の中にある親友ファンショーと過ごしともに成長した幼少期から青年期までのいくつかのエピソードや家族関係のこと。つまり、ファンショーが残した膨大な原稿を書いたと思われるその時のことだ。

この雪におおわれた、開いた墓穴でも、それと同じようなことが起きていた。ファンショーは一人下にいて、自分だけの思考にふけり、自分だけでその瞬間を生きていた。まるで本当は僕などそこにいないかのように。これが父の死を想像するためのファンショーなりのやり方であることを僕は理解した。ここでもまた、ことはまったくの偶然から始まっていた。開いた墓穴がそこにあり、ファッショーはその墓穴が自分を呼んでいると感じたのだ。(p46)

そして、不在となったファンショーが残した膨大なノートや原稿のことで妻ソフィーから突然の連絡を受け、彼の意に沿ってそれを著作として刊行するために出版者として関わることになる。

その通りだった。結果的には、おそらくスチュアートが想像もしなかったほどの「めっけもの」だった。『どこでもない国』はその月の末に出版が決まり、と同時にほかの作品も同じ出版社が優先権をとった。(P64)
考えてみればたしかに、ファンショーの原稿がすべて出版されたとして、そのあと僕が彼の名前を使ってもう一冊か二冊本を書くことはまったく可能である。もちろんそんなことをする気は僕にはなかった。でもそう考えてみるだけで、僕の頭の中に、奇妙な、謎めいた想いがあれこれ浮かんできた。作家が自分の名を書物に記すことにはどういう意味があるのか?(P76)

さらに、僕の手によってファンショーの『伝記』を執筆することで、物語それ自体を相対化し現在を読み手と共有できる時間が重なる構造となっている。

『ガラスの街』『幽霊たち』、そしてこの本、三つの物語は究極的にはみな同じ物語なのだ。
ただそれぞれが、僕が徐々に状況を把握していく過程におけるそれぞれの段階の産物なのだ。ぼくは自分が何か問題を解決したのだなどと主張するつもりはない。僕はただ、起きた出来事を振り返っても自分がもはや怯えなくなった瞬間が訪れた。ということを伝えようとしているだけなのだ。そういった瞬間に続いて言葉が生まれ出てきたとしても、それは単にそれらの言葉たちが僕に望んでいる方向に進んでゆくしか手はなかったからだ。だが、それだけでは、それらの言葉が重要だということには必ずしもならない。僕はこれまで長いあいだ、何かに別れを告げようと苦闘してきた。この苦闘こそが何にもまして重要なのだ。物語は言葉の中にはない。苦闘の中にあるのだ。(P183)

ニューヨーク三部作といわれポール・オースターの名を知らしめた作品の中でも本著『鍵のかかった部屋』とはじめて出合った衝撃はぼくにとって驚きだった。
この小説を読みながら、ぼくはロシアのイリヤ・カバコフというアーティストの「シャルル・ローゼンタールの人生と創造」という展覧会のことを思い出していた。それはイリヤ・カバコフが《シャルル・ローゼンタール》という作家を想定しその人の人生をふりかえる回顧展という手の込んだ設定で行われたのだが、この作品が著者の手記とも自伝ともとれる様式をもちながら人間の本質存在を明るみにする稀有な物語として描かれていると思ったからかも知れない。
ここでは主人公として登場する(しない?)ファンショーという人物が本当に実在するものなのか、失踪したあとに生きているのか死んでいるのかさえ不確かなまま物語は進行し、あるいはフィクションとして語られる装置のようにも感じられる。だが、ベンとソフィーの存在する事実からおそらくそれらしき実在の人物が存在したことは事実というほかない。ファンショーはおそらくこの物語の架空の人物として用意されたフィクションとしての存在のような気がするのだが、そのこと自体はこの作品にとって大した問題ではない。
いうなれば推理小説の形式を示しながら完結してとじられる世界ではなく、ポール・オースターという作家のきわめて観念的で人間的なまなざしが捉えた客体化された物語をそれにかかわる主体(作者と読者)との存在論的なあり方を措定していることに注目したい。そういう意味では現実と非現実との間を流動的に往復できる装置として現在を描いたきわめて斬新でシリアスな物語といえるのではないか。
余りにも個人的な思惑に埋没した思弁的な捉え方とおこられるかもしれないが、ぼくはそういう作品があって欲しいとそう思うからでもある。
カズオ・イシグロ「わたしを離さないで」、町田康「ギケイキ」、P・オースター「鍵のかかった部屋」とつづけて読むことになったが、なんの脈絡もない不節操な読書の仕方と思われるかもしれない。だが、これほど異質の作品でありながらいずれも第一級のすぐれた作品であることに疑いの余地はない。
なにはともあれ、これはニューヨーク三部作をはじめ、ポール・オースターにとり憑かれて読むしかなさそうだ。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.25:
(3pt)

価格のためのかなり気の利いた

迅速な購入と配信。 高品質の完璧な製品です。 サイズもちょうどいい お店は大丈夫です。数回を購入するには、サービスや古い顧客は非常に思慮深い、後で頻繁に来る!店がそのようなサービス態度を保つことができれば、それはすぐに王冠であることを信じる! お勧め! これまでのところこのアイテムは素晴らしいです
鍵のかかった部屋Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋より
4560046468
No.24:
(5pt)

生きる事の残酷さと死ぬ事の潔さ

読み終わった後、無性に泣きたくなった。"無”に戻りたがる男の人生がどれほど辛いものか、生きるという事がどれほど残酷なものか。『ガラスの街』同様、答えのないのが答えであり、終わりのないのが終わりなのだ。存在するものが複雑にそして不条理に絡み合うほど、ものごとは"無"の方向に向かうのだろう。
 "僕"はひたすらファンショーを追い続け、追い詰め、自らもファンショーになりきり、自らを追い詰めていく。まるで幻想にどっぷり浸かったカルト的な匂いのする人生物語である。"人生が進んでゆくにつれ、我々は自分自身にとって益々不透明な存在になっていく"というフレーズは、柴田氏が解説する"自分自身にはもう一つの到達し得ない他者の影が存在する"をテーマにした物語でもある。
 "書く事、言葉を使って考える事で、人は自己の中に他者の影を見出す"つまり、ファンショーは書く事で、存在しない筈のもう一人の自分を創り出し、そして、"僕"は読む事で人を自己から隔て自身を存在しない人間にしてしまう。その二人が互いを追いかけ、互いを追い詰めていく。
 柴田氏はこの二人の不透明な存在を"亡霊"に喩え、"人は絶えず、自らの亡霊を産出し、自らを他者の亡霊に仕立て上げる"とする。僕はファンショーともう一人の僕を産み出し、そしてお互いを融合させてしまう。至極抽象的だが、この亡霊にも似た幻想に対する執念がこの本書の核心であろう。
 最後には、ファンショーは"鍵のかかった部屋"で自らの命を断とうとする。"僕"は彼の目の前で、彼と決別し、彼の亡霊を何とか振り切り、愛する妻の元に戻る。その妻のソフィーこそがファンショーの先妻であるのだ。彼女はファンショーを愛したが、ファンショーは自分を愛した。"僕"はファンショーに憧れ、彼と同化し、彼と心中しかけた。しかし、彼女の"生"への執着と執念が"僕"を救ったのだ。それは、ファンショーの"無"へのそして死への渇望とはとても対象的に映る。
 まさに、”生きる事の残酷さと死ぬ事の潔さ”を教えてもらったような気がした。まるで、畏怖の念にも似た戸惑いを感じながら読み終えてしまった。そして、それは"愛される事の残酷さと愛する事の潔さ"と置き換えてもいいのかもしれない。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.23:
(2pt)

アメリカ文学史の最良の入門書?

高評価も多いようですが、私は星二つでいきます。ファンの人ごめんなさい!

定期的に現れるオースター節、綿密な光景や人物の描写は相変わらず上手だなと思いつつ、
何だかアメリカンかつ陳腐な手法でドストエフスキーのように人間の心にある深淵を抉り
出したりしようとしているのだが、それがとても低いレベルで失敗してしまったという印象です。

禁忌とされることを導入しつつ、その禁忌が作った割れ目に何らかの真理を漂わせようとはし
たのでしょうが・・・。その割れ目も漂わせようとした真理もナンセンス。自分自身が過去から
背負っている罪悪感や不快感の塊を物語の柱として多用するのはあまり品が良いとは言えない。

本人は作品に悪い意味での昇華をしてすっきりかもしれませんが、それをお金を払ってまで分担
して請け負わされる読者とは作者にとって何なんでしょうか。

それをも文学と言うのなら、画家のベクシンスキーの作品のような滅びや死、損壊の美学がこの
物語にあるべきでしょうが、そういった凄味はこの物語からは感じられない。悪い意味でアメリカンで
チープ、浅薄だと思います。

学問的な意見、本人の意図等あるでしょうが、幼なじみの妻と結婚し、その幼なじみの母親と行為
に及ぶくだりは不愉快な”だけ”で、これを含む本がアメリカ文学史とやらの最良の入門書と言うのは
疑問。後からその気持ち悪い行為が別の価値や意味を持って立ち現れるというわけでもない。一言
で言えば気持ち悪いだけで何の意味も無い。その意味の無さに深い意味があるわけでもない。

深そうな文章で読者を煙に巻くことに成功すればその読者はこの物語を肯定的に見るでしょう。
それがフェイクだと気づいた読者は否定的に見ると思います。私は楽しめなかったし、得るところ
もあまり無かった方です。

オースターの人の心理に関する洞察や描写はユニークだけれど、だからと言って深いのか、全体として
良質の話なのかと言われればまたそれは別だと思います。

こういうものがかつて評価された時代があった、という点では今更読んでも良いでしょう。オースター
が初めてであればムーンパレスからの方が良いと思います。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.22:
(5pt)

クラシカルな海外小説

とてもきれいな本でした。 内容的には、小説としてクラシカルで期待ほどではありませんでした。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.21:
(5pt)

冒頭部分がヤバイ

すごい冒頭部分だ オースター史上 最高の出だしだ もうそこだけでも傑作確定のはじまりだ ああ、オレにそれを全部引用するだけの気力があれば、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.20:
(5pt)

これを読み終えて自分が年取ったなと思った。

オースターのファンはたくさんいて、オースターの小説にはオースターの小説なりの読み方があるような気がするのだが、なんせ私はオースターを読むのはこれが2冊目で、ぱりぱりの初心者で、三部作の最終話が2冊目なことからも明白なように三部作を最初から読んでもおらず、そんな不埒な読者の言うことなど誰の役にも立たないだろうと承知の上で、思うところを記そうと思う。
読み終わって、というより、終わり頃に近づいて、自分が年をとったなとつくづく思った。もし、あと15年か20年くらい若かったら、言い換えれば、主人公くらいの年齢だったら、こんな風に結末がストンと腑に落ちることはなかったような気がする。読み終わって今頃、暴れたくなっていたと思う。でも多分、ファンショーは主人公のアルター・エゴ(もう1人の自分)なんやろうね。。。だから親友の未亡人に恋をして愛し合って、その子に父親と呼ばせるなんて、フツー道義的にどうよ?って言ってしまいそうになるような関係があたかも必然のように成り立ってゆくのではないか?不思議にいやらしさを感じない。そうこうするうちに、親友と自分との境界線があいまいになってゆく。いやいや、それはたんに私自身が感じたことだ。読むヒトそれぞれの感じ方があって良いと思う。
「鍵のかかった部屋」は、それだけで1つの、簡潔で調和の取れた、小説にはこうあって欲しいと思えるものが全部はいった、小説らしい小説で、読みやすかった。日本語訳も良いと思う。なぜだか無性に小説が読みたいと思っているヒトには本当にお薦めする。そんなに長くないので気軽に読み始められると思う。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.19:
(3pt)

意表をつかれてリアリズムだった。

『シティ・オヴ・グラス (角川文庫)』と『幽霊たち (新潮文庫)』と読んできて、ここでどんな手法を見せるのか?と読みはじめてみたら、これがオーソドックスなリアリズム小説だったことに驚いた。ポール・オースターのニューヨーク三部作と呼ばれる初期作品群は、前述の二作品が前衛手法を駆使していたため本作もそうなのだろう、と思い込んでいた僕の予想--(というか勝手な思い込みですな)--はあっさり裏切られた。そして作品自身もファンショーという主人公の友人の失踪という仕掛けがありつつも、その友人のへの羨望と愛と嫉妬の入り混じるいい意味で青々しい主人公の内面の描写を中心として作品は進む。だが、他者を通して自分を見出してゆくプロセスはその痛みはわかるのだが、著者のキャリアがまだ浅いためか、その具象化の弱さ=書きたい事を直接書いてしまう表現衝動が眼につく。しかし、と主人公とファンショーという友人の二重構造で自己を浮かび上がらせる設計と文章は上手い。これは訳者の柴田元幸氏の実力に依るところも大きいだろう。ただ、僕は読みながら「これ村上春樹の文体じゃねえか?」と思えるほどの類似点にいくつもぶつかった。本作の発表年度からみれば村上氏は79年デビューのため、無論剽窃ではない。ただ、氏は現代アメリカ文学の影響を深く受けているため、その文体うんぬんを口にするのはナンセンス、というかにわとりとたまごの関係を突き詰めるようなもので無意味だろう。色々書いてしまったが、ポール・オースターの素直な肖像を見れた印象をもてて幸い、というのが読後感だ。
鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)より
4560070989
No.18:
(3pt)

意表をつかれてリアリズムだった。

『シティ・オヴ・グラス (角川文庫)』と『幽霊たち (新潮文庫)』と読んできて、ここでどんな手法を見せるのか?と読みはじめてみたら、これがオーソドックスなリアリズム小説だったことに驚いた。ポール・オースターのニューヨーク三部作と呼ばれる初期作品群は、前述の二作品が前衛手法を駆使していたため本作もそうなのだろう、と思い込んでいた僕の予想--(というか勝手な思い込みですな)--はあっさり裏切られた。そして作品自身もファンショーという主人公の友人の失踪という仕掛けがありつつも、その友人のへの羨望と愛と嫉妬の入り混じるいい意味で青々しい主人公の内面の描写を中心として作品は進む。だが、他者を通して自分を見出してゆくプロセスはその痛みはわかるのだが、著者のキャリアがまだ浅いためか、その具象化の弱さ=書きたい事を直接書いてしまう表現衝動が眼につく。しかし、と主人公とファンショーという友人の二重構造で自己を浮かび上がらせる設計と文章は上手い。これは訳者の柴田元幸氏の実力に依るところも大きいだろう。ただ、僕は読みながら「これ村上春樹の文体じゃねえか?」と思えるほどの類似点にいくつもぶつかった。本作の発表年度からみれば村上氏は79年デビューのため、無論剽窃ではない。ただ、氏は現代アメリカ文学の影響を深く受けているため、その文体うんぬんを口にするのはナンセンス、というかにわとりとたまごの関係を突き詰めるようなもので無意味だろう。色々書いてしまったが、ポール・オースターの素直な肖像を見れた印象をもてて幸い、というのが読後感だ。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.17:
(4pt)

自分の少年時代に向き合うこと

憧れであり、秘密を共有した親友であり、そして忽然と行方をくらましてしまった そんな男が、もう一度自分の人生に現われた 正確には、行方不明者として、 なるほどあの男の妻だろう、という、 でも、すっかり途方にくれた美しい女性を 自分を引き合わせた 彼は、あなたにとって、それでもなおヒーローであり続けるでしょうか ほんとうの謎は、そこじゃないかと思います
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.16:
(2pt)

意味がわからない

以下かなりねたばれを含む自分個人の感想になります。

親友が謎の失踪

その謎を中心に主人公の生活が一変する

物語後半親友の謎を追いパリまで行き

そこでなぜか神経衰弱におちいる

そしてその謎は最後まではっきりとしない

後述しますが、結果的に自分にとってわからないことだらけの小説で

それ故か主人公の言動が釈然とせず、嫌悪すら覚えます。

いくらもう戻ってこないとはいえ、またいくら友人から託されお互いに想いあう仲になったとしても

親友の妻と結婚するというのはどうしても親友の失踪で気落ちしているところにつけこんでいるようなそんな嫌な気持ちになるし
(そこに関しての主人公の逡巡や葛藤は描かれているにしても)

特に作品の扱いを委ねられた親友の残した作品を出版しお金を手にするのはいいけれど

もう1つの僕(親友)のことは忘れてくれ追わないでくれという約束は平気で破り、
(親友の妻を託すという約束はしっかり守っているのに)
少しも悪びれることもなく、あろうことか出版社と親友の自伝を書く約束までしてしまう、
さらにその取材の過程で親友の母親に会いに行きただならぬ関係をもつ。

唖然・・・

一体この物語は読者に何を伝えようとしているのか?この主人公にとって親友とは、友達とはなんなのか?・・・誰なのか?

これを含めた著者の「ニューヨーク三部作」はあとがきのある批評家の言によれば

「アメリカ文学史の最良の入門書」

であるらしいが、大半のアメリカ人にとっては自分の感じる違和感、嫌悪感を感じず、この物語に共感することができるだろうか?
結果的に自分には作品の主旨を読み取ることができず、心に何も残らなかった。

僕はなんの前知識も持たず雑多に本を読む素人です、それを自覚しながら読んでも、この著者が読者に伝えたいこと、著者がこの物語に託した意味は全く理解も共感もできず、もしこれが本当に本当に「アメリカ文学史の最良の入門書」であるのならば、自分など到底アメリカ文学を理解し得ず、楽しむことなどできないだろうと思う。

じゃあ、面白くないのかと言われれば後半、もうこれ謎解けないんだな、とわかるまではとても面白かった、
しかし肝心の謎が結局解けないだろうことがわかった瞬間、自分にとっては本当に意味のわからない小説になった。

時にはっきりとさせず読者に判断を委ねたり、あるいはこの本の主題にとって謎を解くということの意味がそれほど重要ではないのかもしれないけれど自分ははっきりさせて欲しかった。

そうでなければ上記主人公の言動も余計理解不能である。

親友失踪の謎が物語の始まりであり軸であり、主人公の世界と生活変えた端緒であるのに、その謎が結局わからず仕舞いでは自分はこの物語を主人公の行動や心の推移をどう受け止めれば良いのか全くわからない(あくまでこれは僕の感想で作者には別の深い意図があるだろうことは推測できるけれど、それでも尚)

自分は以前同じポール・オースターの「ムーンパレス」をジャケ買いし、とても面白かったので期待していただけにがっかりした。

なお「ニューヨーク三部作」最後の作品とのことですが、どれから読み始めても構わないそうです。

追記
2015年12月13日加筆しました。
他の方々のレビューを読ませて頂き、自分がいかに浅い読み方をしていたのか思い知り、多少加筆しました、
でも基本的な感想は当時のままで変化はありません、これ以後「アメリカ文学」は読んでいません。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.15:
(5pt)

美人妻の悲喜劇をあなたにも!

失踪した幼友達の美人妻から「主人を探して!」って請われた「僕」。これを断らない手はないってんで、当然「僕」はこの依頼を受ける。あわよくばこの美人妻をモノにすることができるやも知れぬ。実際のところ、モノにしてしまい、結婚もした。さらにさらに、この失踪した友人のいまだに若々しくて魅力的な母親とも仲良くなり、2回もいたしてしてしまった。

 冗談はさておき、ニューヨーク三部作の最終巻である本書は、過去の2作品と同様のテーマを扱っていることには違いない。つまり、訳者あとがきで柴田元幸が述べているように、「誰かを見張っている人物が、自分こそ誰かに見張られているのではないかという思いに襲われる」、あるいは「僕がファンショーを追いかけるプロセスは、ある意味で僕がファンショーになってゆくプロセスでもある」ということなのだ。

 オースターの巧みなストーリー・テリングでついつい引き込まれて読んでしまうが、「僕」がソフィーと暮らし始め、ついには結婚までした後のいろんなファンショー追っかけエピソードは、どうでもいいんじゃないか。
 最終章までずるずると面白く読ませる手順は「さすが!」だが、最期の最期、コロンブス・スクウェアのシーンだけで話を終えることもできるし、読者も納得する・・・・・。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.14:
(5pt)

「鍵のかかった部屋」

「自己」の中における「他者」の発見、「他者」を通した「自己」の発見はありふれたテーマであり、多くの作家がこのテーマのもと作品を生み出してきた。オースターもその大勢の中の一人に過ぎないのだが、発見に至る叙述は読者の期待、そして作者の企図をも超えて読み応えがある。人物造形のうまさとストーリテリングは作家として初期の段階においても特異なものがある。
 「鍵のかかった部屋」こそ、他者の象徴であり、自己へと通じる道であるが、凡百の啓蒙書を読むより、この一冊を読めば自己と他者に関する認識は深まる。「鍵のかかった部屋」は抽象的な他者の象徴として機能しているだけではなく、実在感、いや、異物感さえ感じさせる。すべてはオースターの叙述と柴田氏の翻訳のなせる業である。翻訳でこのような優れた本を読むことができるのは幸いである。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.13:
(5pt)

小説表現におけるミニマリズム

「言葉というものを大切に思うこと。書かれたものに自分を賭けてみること。そうしたことが他の要素を圧倒するのであり、それに較べれば、自分の人生などごくささいなものに思えてくるのだ。」(本書50ページ)

 言語表現に対するこのような愛情の下で、この小説のストーリーでは、批評家の主人公(読み手)が幼馴染の天才小説家(書き手)に殺意を抱きつつアイデンティファイしていく。両者ともに家族や生活を削ぎ落とし、自己自身のアイデンティティや存在さえも消し去りながら、「書くこと」「読むこと」に一体化しようとする。特に両者が狂気スレスレまでいって対話する後半は読み応えがあるが、同じようなテーマで語り手が消え去った「シティ・オブ・グラス」と対照的に、この小説では現実=こちら側の世界に主人公がギリギリのところで引っかかっているところが面白い。その点で、この小説のラストにほのかな「希望」を読み出す読者もいるだろう。(訳者もその一人。)

 「書くこと」に自己言及した小説を書いた作家は沢山いるが、不可能だと知りつつ「書くこと」と「読むこと」、それ自体を掴もうとしてミニマリズムを展開したこの作品は、奇跡的なことにストーリーに厭きがこないどころか、ミステリー仕立てで面白い。文句なしに初期オースターの傑作として文学史に残る作品でしょう。これからも、何度か繰り返し読みたいと思います。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.12:
(5pt)

ただカフカ的なだけじゃない

「ファンショー」を「フィクション」に読み替えて、 オースターがフィクションの創作に関して何かを掴むまでのプロセスの 最終段階の物語としても読めます。 特に後半、特に第8節の途中以降は 著者が書く際、「フィクションは……」などと書いて後から 「フィクション」を「ファンショー」に一括変換 したのでは?と思うぐらい(笑)そのように読むと いろいろおもしろいことを言っているので是非試してみてください。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.11:
(5pt)

人間の危さや脆さを描く傑作

本書はThe New York Trilogyの最終話だ。

この3部作は何れもある人物に関わる謎を探ることを目的とする推理小説のような体裁を取っているが、読み進めるにつれて実は謎を追い求める主人公の内面の変化がテーマになっていることに気がつく。

主人公は最初は職務としてターゲットとなる人物を尾行したり、過去を調べたりするのだが、次第にターゲットと自己との境目が曖昧になり、謎を探る行為は職務ではなくそれ自体が自己の存在意義と化していく。

外面からは安定しているように見える人間の心に潜む危さや脆さが見事に描き出されており、楽しく読める作品ではない。だが最近のポール・オースターの円熟した作品とは異なる実験的な要素がちりばめられた初期の傑作だと思う。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562
No.10:
(5pt)

ああ

村上春樹と対をなす作家、と思うのは自分だけだろうか。

 ニューヨーク三部作の最後、鍵のかかった部屋。独立して読めるものの、前の二作を読んでから読んだほうがいいのかな、と少し思った。

 探偵小説の技法を使い、世界、あるいは個人の謎を解くことをやってきたオースター。前の二作よりもサスペンスフルな展開はやや抑えられている、といった印象はあるものの、徹底したシンプルで静かな描写でぐいぐい読ませいく。

 かなりの絶望を味合わされた二作と比べ、ほんのりとした希望があるのも特徴。自分の頭の中にある鍵のかかった部屋にいる人物、自分でありどこまでも他者である彼からの呪縛から逃れられず、翻弄していく「僕」、言い表すことのできない悲しみに包まれるその世界観が魅力。

 オースターは間違いなくアメリカ文学史にその名を残す作家だ。
鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)Amazon書評・レビュー:鍵のかかった部屋 (新しいアメリカの小説)より
4560044562

スポンサードリンク

  



12>>
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!