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愛と幻想のファシズム
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【この小説が収録されている参考書籍】
愛と幻想のファシズムの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.12pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全107件 21~40 2/6ページ
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限りなく透明に近いブルーのイメージを持って読みましたが、限りなく透明に近い、駄作です。学生運動に影響された、作者自身の体験談に過ぎません。限りなく駄作です。www皆さん、村上春樹を読みましょう。 | ||||
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限りなく透明に近いブルーのイメージを持って読みましたが、大ハズレの駄作でした。学生運動に影響された、作者自身の体験談wwwこれを読めば、作者に騙される事は無くなるでしょう。とにかく駄作です。www皆さん、村上春樹を読みましょう。 | ||||
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主人公のとうじの生き方に憧れます。ほんと魅力的です。村上先生のファンになりました。 | ||||
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私が村上龍ファンになったきっかけになった本です。 村上春樹を受け付けない人は是非読んでみてください。 あなたの求めているものが得られると思います。 | ||||
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なかなか面白かった。力作ではあるし、読むかいもあると思うが、わたしは氏の他の作品のほうが好きだ。氏はファシズムにさえ絶望していると言いたいのだろうが、何を今更、と普通に思う。そこが作品として弱い。狩猟社会とファシズムを結びつけるのもあまり成功した感じがしない。狩猟社会では弱者は置いていかれると繰り返されるが、本当だろうか?果たしてそこまで厳しいものだったのか? 巨大なる祈りという大フェステイバルをクライマックスに持ってくる事で、69という氏の作品との類似性が生まれる。だが69では痛快だったあのフェスティバルが、ここでは陳腐なものそして苦々しくものに見えてくる。 力の無い高校生がやると痛快な反逆だったことでも、権力をにぎった連中に強引にやられると、あほか、という感じになる。 ファシズムを讃えているともとれるこの作品は、確かに先見の明があるのかもしれない。だがなればこそ、氏はこの作品をいまは封印すべきときではないかと思う。 悪く言えば、ファシズムと対峙したわけではなく、軽く戯れた作品ともとれる。 | ||||
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随分昔に読んだものを再読しました。 若かりしころ読んだときとはまた違った味わいがあり、 今読んでこそ村上龍氏の偉大さがよりわかります。 若い人にこそ是非読んでもらいたい名作です。 | ||||
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初めて読んだのは二十歳そこそこだった。すごい小説だと思うと同時に、長過ぎる/出てくるのは平気で人殺しする奴ばかり/難しい用語や概念が多すぎ、そんな感じでついていけなかったのが正直なところだった。『コインロッカー・ベイビーズ』の方が全然面白い、と。 しかし四半世紀を経て、こちらも政治や経済を多少は理解できるようになった上で読み直してみたところ、あまりに面白すぎて寝る間も惜しんで一気に読んでしまった。もちろん、設定が古くなっている部分は多いが、二大強大国連携による経済支配(米ソを米中に置き換えれば、、)や格差社会の進行、弱肉強食も容認する自己責任論、一般人の感情的で偏った右(左)翼化などなど、、、あまりに多くで21世紀社会を予言していることに驚かされる(雑誌連載の準備期間を加味すれば構想は80年代初頭!)。また、狩猟社は残酷で傲慢な人間ばかりだが、人間が生き抜く上で必要な資質を強く備えていることも否定はできない。 『コインロッカー・ベイビーズ』での男2人女1人の関係性は、本作でさらに象徴的なものになる。トウジとゼロの対称的補完性(+フルーツという触媒)は危ういバランスを保ちながら維持されていくのだが、そこには、おそらく絶対父性社会的なトウジが認めようとしない“強い”ということの別の側面—おそらく母性社会的な愛との距離感(*)を示唆しているようにも思える。下巻ではその結末も語られる。 *本書には女性の重要な登場人物が極めて少ないことと関係していると思う | ||||
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初めて読んだのは二十歳そこそこだった。すごい小説だと思うと同時に、長過ぎる/出てくるのは平気で人殺しする奴ばかり/難しい用語や概念が多すぎ、そんな感じでついていけなかったのが正直なところだった。『コインロッカー・ベイビーズ』の方が全然面白い、と。 しかし四半世紀を経て、こちらも政治や経済を多少は理解できるようになった上で読み直してみたところ、あまりに面白すぎて寝る間も惜しんで一気に読んでしまった。もちろん、設定が古くなっている部分は多いが、二大強大国連携による経済支配(米ソを米中に置き換えれば、、)や格差社会の進行、弱肉強食も容認する自己責任論、一般人の感情的で偏った右(左)翼化などなど、、、あまりに多くで21世紀社会を予言していることに驚かされる(雑誌連載の準備期間を加味すれば構想は80年代初頭!)。また、狩猟社は残酷で傲慢な人間ばかりだが、人間が生き抜く上で必要な資質を強く備えていることも否定はできない。 当時は今ひとつしっくりこなかったこの下巻における結末も、今ではスンナリ腑に落ちる。エンディングでの日本の状況とは裏腹に、トウジとゼロの対称的補完性(+フルーツという触媒)の崩壊という一種の悲劇(*)が呈示されていると思う。それは、おそらく絶対父性社会的なトウジの認めない“強い”ということの別の側面—おそらく母性社会的な愛に絡んでいるとも推測でき、なかなか深い余韻を残すのだ。 とにかく非常にスリリングな攻撃的ファンタジーであると同時に極めて優れた教養小説だ。 *悲劇—それはエルクに同化できたのはトウジでなくゼロだったからなのか、あるいはトウジが理念ゆえにゼロの肩を抱くことができなかったからなのか、、もし国民→狩猟社→トウジの食物連鎖的ピラミッド(父性的社会)に裏からゼロが加われば円環構造(母性的社会)に変換されて代謝が保たれるのだろうか。しかし、それが叶わなかったので、トウジはエルクを見失ったまま指導者になるのだろうか。 | ||||
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「何のために生きるかって、そんな下らないことは考えなかった、自分は不幸だなんて思うヒマもなかった。今の俺達の、快楽と苦痛は、大昔のその単純な暮らしに発している。快楽とは生き延びるのに必要なことをやった場合に与えられる」 一人称で語られる本書の鈴原冬二の考えはシンプルだが力強い。 我々はいつしか奴隷として生きていることに慣れてしまっている。 自分で判断しなくていい奴隷は楽だ。他人がこうやれと言うことをやればいいだけだから、これほど楽なことはない。 そんな楽をしてきた奴らが大威張りで発言する。他人に従う快楽しかしらない奴隷が威張る時代が今の民主主義だ。 俺は、あいつらを叩きつぶそうと思う、君たちはどうだ? そう語りかける鈴原冬二のもと政治結社「狩猟社」が誕生する。 強烈な存在感をみせる鈴原冬二のもとには優秀なブレーンが集まり、彼らのつくる狩猟社の政治綱領は「あらゆる階層の人間に幸福な幻想を与える」ものとなり、党員は爆発的に増えていく。 まさに閉塞した現代社会においてカリスマ的存在が求められるのは必須であろう。 カリスマはまず不快の念を持って迎えられるが、その後に恐怖が訪れ、それが興奮と崇拝に変わる。 数十年ぶりに読み返した本書は、こんなにも強烈な毒をはらみつつ重厚で魅力的な作品は、村上龍以外に書けないだろうとあらためて思わされる、そんな作品です。 また、文学的技巧として、本書を、ゼロではなく冬二の一人称にした点も興味深い。 ゼロは、「だいじょうぶマイフレンド」の映画化で大こけした当時の村上龍自身を彷彿させる存在で、通常は作者の分身たる人間の語りになりそうなものですが、そこを冬二の一人称とすることで、ゼロを客観的にみるかたちとなり、より破壊力を持った作品になっているように感じられます。 | ||||
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1987年に作られた作品であるが、今読んでも新鮮な感じがする。 日本の閉塞状況をどう打ち破るのか?そのことを、暗示させるところがある。 日本が 衰退途上国であるが故に。閉塞状況は加速度的にすすんでいる。 ハンターであるトウジ(鈴原冬二)は、ゼロ(相田剣介)と出会い、政治結社 狩猟社 をつくる。 弱者をころせ。と トウジは平気で言う。 強者しか生き残れない 時代がやってきているとそのカリスマ性を 徐々に 確保していく トウジ。 暴動、ストライキの中で トウジは 演説をもって、その群衆のこころを 掌握する。 トウジは 大衆の期待に応えることができるのか? まぁ。『演説』という手段が 古くさいかもしれないなぁ。 ゼロはフルーツへの手紙 『君に自信を与えられなかった。 君は美しくすばらしい女だと今ぼくが何万回言っても信用しないだろう。 ぼくのことを忘れてくれ。そして君に自信を与えてくれるような男をさがしてくれ』 百姓や奴隷の眼に卑屈さを感じる。獲物をしとめる時の快感は他にない。 狩猟民族が優れているのだ。と 組み立てられた 論理があっても システムを壊そうとしてシステムをつくることになる。 欲望はなぜ起こるのか。 快楽の深さと情報量の多いものがニンゲンの容量を決める。 ファシズムとは 効率のいい 支配形態。 混沌の時代に 強いリーダーシップを発揮するニンゲンが登場する。 一方では 多国籍企業の グループである ザセブンが経済を支配する。 それに,敵対することができるのか。 今の時代に 革命が できるのか? 革命は どんなスローガンとなるのか? それとも、革命は 死んでしまったのか? | ||||
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1968年の作品。ずいぶんと長くて 読み切るのに時間がかかった。 その頃は アメリカとソビエトが 経済の中心だった。 アメリカの支配が 隅々まで 届き、企業連合隊のセブンが世界を支配していた。 円安となり 1ドルが 500円という時代である。 そのなかで 穀物が 入らなくなり、飢餓を目前と迎えているときに トウジはファシストとして 登場する。 トウジは ハンターとしての独特の観と世界観でアメリカを 追いつめようとする。 様々なスタッフがいる中で、ゼロは 特別だった。 ゼロは いくつかの契機の中で 変化してトウジを たすけた。 フルーツは ときどき 予言者の役割をした。 私設軍隊は 訓練を重ね 礼儀正しく規律ある部隊に成長し 青年達のあこがれだった。 ハッカー飛駒の天才的な 工夫で、新しい形でのクーデターを 仕込むことができ、自衛隊のエリート達も その配下として 働く。国を守るものとして。 物語が方々の破れがある中で『救済と再生』『閉塞感の打破』をこころみる。 熱狂を支える 貧しさが背景にあったとしても、 熱狂できない人たちの多さを乗り越えて、アジテーションをする。 | ||||
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☆☆☆☆☆ あとがきに「システムに抗する人間…」という言葉があるが、この“システム”の捉え方が読む人によって違ってくることでこの本が映し出す世界は違ってくるのかもしれない。 「ザ・セブン」「アメリカ」「戦後日本の民主主義」。 小説のうえではボカされた感じで描かれている「ザ・セブン」がその標的として描かれているが、鈴原冬ニの世界観から眺めた社会を想定すると、本のタイトルからしても「民主主義」が当てはまるのではないだろうか。 私などはこの強固で居心地の良い民主主義の窓から眺めることでしか、今存在している、あるいは過去に存在してきたシステムを想像をすることしかできない。 だから、そこに違和感を感じたり、都合の悪さを感じたり、時には非難したり、拒絶したりしながら、自分の中で必死にこの愛着のある『民主主義というシステム』を守ろうとしてしまう。 だけど、時としてみせるこの「民主主義の綻び」にそのシステムの構築の礎となった数多くの人類の歴史の悲劇を忘れかけ、限界を感じて、他のシステムを希求してしまう自分もいる。 そんな隙間にジワってつけ込もうとするのが、鈴原冬ニが求める理想の魅惑的な世界である。歴史上の様々なシステムの発生とその末路を目にする人は存在しえないから、そのことを伝える警句は伝承されない。だから歴史は繰り返すのだろう。 先日相模原の津久井やまゆり園で起きた事件は、この「民主主義というシステム」の綻びに限界を感じ、その外のシステムに魅了された者の凶行だと思えるのだが、これを穏やかな言葉でジックリとシステムを変更しながら進める『狩猟社』のような存在が現れる可能性はある。 そんな可能性を携えて読んでゆくと刺激的で、現実味を増して読むことができる。 鈴原冬ニ、ゼロ、フルーツの存在もそして、その関係もこの作品をフィクションとして良い味付けをしてくれているから、最後まで読み進めることができる。 2016/08/15 | ||||
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最高に面白かったです。 一番好きなシーンは、ゼロとトウジが一緒に狩りに行くシーンですね、まるで自分が登場人物と共に現場にいるような文章力に圧倒されました。 村上龍の脳内はどうなっているんだろう、本当に凄い本です。 現時点で村上龍が作り上げた作品の中で、この作品が一番好きです。 文句無しの★5です。 | ||||
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発刊当時、かなり熱くなって、この単行本を読んだ気がする。 25年以上経って再読。作者の筆力、文章表現力は、 日本文学史的なレベルに置いても抜きんでていると思う。 ただ、時々思うのは、それが、十分いい形で発揮されているのかどうか、ということ。 F1エンジンを付けてリアカーが走っているような気になるときがある。 龍氏は、かつて「小説とは、情報を物語にすることだ」といった。そして彼の作家活動はその実践になっている。 彼は小説をコンスタントに量産し、村上龍はこういうものだという期待を裏切らない作風を維持してきている。 それとは対照的に、村上春樹氏は、早い段階で自分の方向性を大きく変えた。 デビュー作と第2作が持っていたリリカルで、親密で、個人的な魅力は、第3作目からなくなり、 従来の、いわゆる「文学的な」表現へと舵を切った。春樹氏ならば「情報の物語化が、小説だ」とは 間違ってもいわないだろう。彼の処女作時代を愛した読者たちは、これを裏切られたように思った。自分もそのひとり。 ふたりとも、いい意味で、いわゆる「文学」的なものから距離があり、 それが作品の大きな魅力になっていたのだが、龍氏は「情報化」し、春樹氏は「文学化」したことで、 当初の新鮮な、他のどこにもなかったような味わいは失われてしまった。 さて、『愛と幻想のファシズム』だが、ここにおける作者の根本思想のようなものは、 弱肉強食のシンプルな快楽原則。それが狩猟民族や、進化論、生物学的真理、経済問題などで彩られている。 それと、龍氏の特徴のひとつは、彼が「時代の作家」であることを積極的に受け入れ、 その時々の読者の関心に寄り添っていくこと(刺激挑発することも含めて)。 それはこの作品でも顕著で、あまりにバブル期の気配を、作品が身にまといすぎているように思える。 春樹氏は、同時代性や、日本というものから遠く距離を取り、世界文学の地平へ歩んでいった。 現代人の心象という普遍的な部分の文学化に向かい、ノーベル賞候補に毎年名を連ねるようになった。 龍氏は、自身の資質に素直に、自分の文章力を活用し、作品を発表し続けている。 情報を租借し、自らが持つ圧倒的な文章表現力で作品化する(できてしまう)ことは、両刃の剣となる。 それは時に、作品を表面的なものにしてしまう。 たとえば、ある時期、「激写」などといい、ものすごい仕事量で、メディアに出続けたカメラマンがいたが、 今、彼のことを口にする人はほとんどいない。 この小説の冒頭近くで、トウジと出会ったゼロは「みんなぼくのことを天才だというよ」というようなことを話す。 ゼロの人物造形は、作者自身が投影されているので、こういう類いのことを、龍氏も日常言われていたのだろう。 だが、海外で生活することの多い春樹氏は、そういうことからも自由になっているはず。 村上龍氏も、一度、周辺的なことからまっさらになり、自身の才能だけに向き合い、小説を書いてくれるとよいのだが。 寡作であっても、充実した、中身の濃い作品を生み出してくれた方がいいのではないだろうか。 『愛と幻想のファシズム』を改めて読んで、そんなことを思った。 講談社文庫版は、紙質が悪く、裏移りして、物語世界の中に入っていけないので、 この単行本がいい。横尾忠則の装幀も、作品に合っていて、クールでカッコよくきまっている。 | ||||
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小説としてのダイナミズムという点では文句のつけようのない本作の読了後に残るモヤモヤ感を解消するための処方箋として、個人的に以下のようなラストシーンを思い浮かべることにした。 「ザ・セブン」への対抗勢力たる国際社会の若きリーダーとしてニューヨークで開催される国連総会に出席したトウジが、一世一代の大演説をぶっている途中、いきなり訳の分からない妄言を発し始める。口の端からは泡が吹き出し、両眼の焦点は定まらず、突然ニヤニヤしたかと思うと次の瞬間には涙を浮かべ虚空に浮かぶ幻影に向かって許しを請い始める・・・ 衛星中継で放映されるトウジの醜態を深夜の都内ホテルの一室で冷静に眺める一人の女。彼女の掌には数日前アメリカに向けて搭乗する直前にトウジの口に含ませた錠剤があった。 彼女が錠剤を飲み干しベッドに横たわるのとトウジが発狂したままテレビカメラの前で自らの喉を掻っ切って自決するのはほとんど同時であった。(完) | ||||
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25年前の作品とは思えない。 ギリシャ、プエルトリコが破綻した2015年の 今を当てているよう。 やはり彼の感性は凄い。 最も、身震いするような美人のフルーツ(笑)とか、美人は迫力だの、全てだの やや現代じゃ受けないような文面も見受けられますが。 男性陣に至っては何甘いこと言ってんの?の羅列です。 昔も今も、お金を稼ぐ、 営業する、狩猟しなければ生きていけません。 まー日本は閉塞感凄すぎるんで 右傾化するのもわかるんですが、世界から見たらかなりいいほうでしょうからねー。 | ||||
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日本も税収減を目の前に、発達障害なんかも認められなくなって、障害者や 高齢者の福祉なんかもガンガン削減されている現代。日本も、内需型で バブル崩壊後なんとか生き延びてきたがそうもいかなくなってきた。 いや本当は、全世界に営業かけないと、一生懸命生きないと、栄枯盛衰で サクサク倒産しちゃうのは皆解ってる。グローバル企業が正しいとは思えないが、 他国を見ていても欧米式が正しいとは思えない。公務員がのさばっている日本も 相当ヘンだが、これからは個々人が自分の頭使ってやってくしかないんでしょう。 私はアウトローなので、こういう考えは好きですが、だからと言って弱っている人に あからさまに鞭打つ事はできないなぁ~。だって世の中結局持ちつ持たれつなところ ありますもん。700万都市の都会に住んでいてもそう思うのですから・・・。 | ||||
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まず、こんなにうまく行くかよってのが、読んだ最初の感想。この作品は、私にしては非常に珍しく2~3回は読んだ。他に2回以上読んだ本は「新約聖書」と「影武者徳川家康」くらい。私はだいたい1回読んで終わり(常に買い置きの本があるので2度読みする余裕がないのもある)それがこの本はまた読んだ。なぜならこうなってほしいという願望があるから。こういう世の中になってほしいという。冒頭にも書いたが、物事がトントン拍子に進んでいく。トウジやゼロが始めたのは、普通だったら初期段階で潰されるような団体、運動だ。それが世間に簡単に受け入れられ過ぎ。でもこういう団体が出てきてほしい。在特会や新風はまだまだこんなレベルじゃない。まぁこの話の場合、運動初期段階でクロマニヨンのような実力行使する勝手連が出てきたのが最大の成功の要因だが。村上龍の作品にありがちな、凄い少年たちが、狩猟社への妨害者に対する大いなる牽制になったればこそ。そしてこういう少年たちは(少年である必要はないが)いつまでも現実には出てこない。出てくれば簡単に世の中ひっくり返せる。いつも思うが、村上龍は少年たちに期待し過ぎ。まぁ、幻想(ファンタジー)だね。それからトウジというキャラクターには全く共感できなかった(ハッキリ言って終止ムカついていた)こいつには人間味が全く感じられない。超人として描きたかったのかも知れないが。あとアメリカの超大金持ちって本当にああいう生活してるのかね。してそうな気もしないでもないが。全編通して幻想は感じられたが愛は感じられなかったね。 | ||||
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まず、こんなにうまく行くかよってのが、読んだ最初の感想。この作品は、私にしては非常に珍しく2~3回は読んだ。他に2回以上読んだ本は「新約聖書」と「影武者徳川家康」くらい。私はだいたい1回読んで終わり(常に買い置きの本があるので2度読みする余裕がないのもある)それがこの本はまた読んだ。なぜならこうなってほしいという願望があるから。こういう世の中になってほしいという。冒頭にも書いたが、物事がトントン拍子に進んでいく。トウジやゼロが始めたのは、普通だったら初期段階で潰されるような団体、運動だ。それが世間に簡単に受け入れられ過ぎ。でもこういう団体が出てきてほしい。在特会や新風はまだまだこんなレベルじゃない。まぁこの話の場合、運動初期段階でクロマニヨンのような実力行使する勝手連が出てきたのが最大の成功の要因だが。村上龍の作品にありがちな、凄い少年たちが、狩猟社への妨害者に対する大いなる牽制になったればこそ。そしてこういう少年たちは(少年である必要はないが)いつまでも現実には出てこない。出てくれば簡単に世の中ひっくり返せる。いつも思うが、村上龍は少年たちに期待し過ぎ。まぁ、幻想(ファンタジー)だね。それからトウジというキャラクターには全く共感できなかった(ハッキリ言って終止ムカついていた)こいつには人間味が全く感じられない。超人として描きたかったのかも知れないが。あとアメリカの超大金持ちって本当にああいう生活してるのかね。してそうな気もしないでもないが。全編通して幻想は感じられたが愛は感じられなかったね。 | ||||
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発刊当時、かなり熱くなって、この単行本を読んだ気がする。 25年以上経って再読。作者の筆力、文章表現力は、 日本文学史的なレベルに置いても抜きんでていると思う。 ただ、時々思うのは、それが、十分いい形で発揮されているのかどうか、ということ。 F1エンジンを付けてリアカーが走っているような気になるときがある。 この小説も、結局、描写を取り除いた作者の根本思想みたいなものは、弱肉強食の快楽原則で、 それが狩猟民族とか、進化論とか、生物学的真理とか、経済問題その他で彩られている。 あと、彼は「時代の作家」であることを受け入れ、その時々の読者の関心に寄り添う(刺激挑発することも含めて) のだが、それがこの作品でも顕著で、あまりにバブル期の気配を作品が身にまといすぎているのでないだろうか。 同時期にデビューした村上春樹さんは、同時代性や、日本というものから遠く距離を取り、 その結果、世界文学の地平へ歩んでいった。現代人の心象という普遍的な部分の文学化に向かい、 今、ノーベル賞候補に毎年名を連ねるようになった。 村上龍氏は、自身の資質に素直に、自分の文章力を活用し、作品を発表し続けているのだが、 それが結果的に、表面的な空回りとならなければいいのだが。 たとえば、ある時期、「激写」などといい、ものすごい仕事量で、メディアに出続けたカメラマンがいたが、 今、彼のことを口にする人はほとんどいない。 この小説の冒頭近くで、トウジと出会ったゼロは「みんなぼくのことを天才だというよ」というようなことを話す。 ゼロの人物造形は、作者自身が投影されているので、こういう類いのことを、龍氏も日常言われていたのだろう。 だが、海外で生活することの多い春樹氏は、そういうことからも自由になっているはず。 村上龍氏も、一度、周辺的なことからまっさらになり、自身の才能だけに向き合い、小説を書いてくれるとよいのだが。 寡作であっても、充実した、中身の濃い作品を生み出してくれた方がいいのではないだろうか。 『愛と幻想のファシズム』を改めて読んで、そんなことを思った。 | ||||
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