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愛と幻想のファシズム
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【この小説が収録されている参考書籍】
愛と幻想のファシズムの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.12pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全83件 1~20 1/5ページ
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まだインターネットがなく、人々のむき出しの本音が隠されていた時代に、「生態系」「淘汰」というキーワードを用いて社会のアンタッチャブルテーマに切り込んだ意欲作です。私は学生時代に読み、それまでもやもやしていた本能的な違和感を整理整頓してもらえた思いがしました。しかしこの手の議論に生理的な不快感を抱く人々にはとうてい受け入れられないでしょう。村上龍でなければこれだけの知的蛮勇はふるえなかった。時代を経ても大好きな一冊です。 | ||||
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古い本ですが、中はきれいでした。 | ||||
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政治経済、近現代の歴史をある程度知っているともっと楽しめると思う。でも、あんまり知識なくても全然読めると思います。作者の文体、思想の力強さはとても惹かれるものがある。 | ||||
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「狩猟社」とは。「強者は勝たねばならず弱者は淘汰されるのは摂理。そして当然おれは弱者ではない」という考え。どこかで聞いた話じゃないですか? 「〇〇はもう腑抜けだ、〇〇は降ろせ。〇〇を倒してくれるのか!?なら応援しよう!!」という熱狂で迎えられる狩猟社。横浜にはカジノタワーが建ち失業者があふれ、党を批判する報道は情報・印象操作で潰されていく。党内でも、肩を組み合った者だろうと失敗者は居なかったように処理されていく。…これノンフィクションじゃないですよね 、SF小説ですよね。 カン□□ア宮殿ではまだまだ成功しているかのように見える日本経済。なら安心か。いや、混乱に紛れてもう狩猟社は我々の喉元に来てませんか。 止められる希望は、ある。 | ||||
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20年位前に読んだ本。コロナで改めて購入して読み返しました。村上春樹が水彩画ならば、村上龍は絵の具を重ねた油絵。 | ||||
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高校の頃は無邪気に読めたけど、社会で袋叩きにされて今令和の閉塞感で読むと重みが違う。 おれは間違いなくトウジの言う農耕人であり切り捨てるべき弱者のカスに成り果ててしまった。 それでも、本当の事しか言わないトウジに言われたら死んでもいいかな。 こう考えること自体がすでに「自分で思考することをやめ決断を他者に委ねる典型的な農耕人」であることの証なんだろうな。 生きるか死ぬかくらいテメエで決めろや。 エネルギーのある作品だからこそ、入れ込みやすいタイプの人は間違った方向に連れていかれかねない。 特に鬱傾向のある人、社会に負い目を感じているような人には猛毒になりうる作品です。 全然纏まってないしレビューになってません。ハイ落第。 | ||||
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1980年代に構想された小説だが、00年代後半からの国内政治には小説と酷似した流れもあり、作家の洞察が光っているといえるでしょう。冬二はじめ登場人物の魅力もあり、ページをめくる手が止まらない勢いがある。1990年代の時点ではやや極端な筋書きの近未来小説だったわけですが、2010年代後半のいま、90年代に思っていたほどそれがあり得ないものではないことを、私たちは知っているのではないか。90年代、00年代、10年代それぞれを知っている人はなおのこと楽しめる小説と思います。 村上龍の描く極右は、現実の極右よりも美しい。 | ||||
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逆レビューです。キンコン西野氏の新刊「新世界」を読みながら本作を思い出しました。 当時ハタチくらいで、勤めていたデザイン事務所の激務の中、現実逃避を求め読破しました。主役の二人の作り出すユートピアが凄まじい勢いで大きく膨れ上がり、どこまで行くのか、、まさに幻想が大きな影となり、それと自己を重ねあわすストーリーにやられました。 あれから世の中は変わり、メディアや媒体が大きく変化し崩壊したが、やはり人とのコミュニケーションや信用が大切と説く西野氏、まさしく愛と幻想の如く、スケールアップがハンパ無い。アンチも多いが彼の言う事が成し遂げられる日も近いのだろうか?ゼロの様な結末を迎えるのか? とか何とか考えながら、本書をもう一度読んで見ようと思います。 | ||||
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適当にネットサーフィンをしていてまとめサイトがおまいらのおすすめ小説~みたいなスレッドがあったので見たら こちらのタイトルの本がありました。作者の村上龍というのは昔から有名だと聞いていましたが、わかりにくいのではないかな?と興味がそそられませんでしたが、ネット住民のお勧めで欲しくなって読んでみたらスラスラ読みやすいです。 これは名作だなと確信出来ましたが、まだ全て読んでないのでオチ次第で☆5にしようと思っています。 主人公がワイルドでかっこいいですし、人物の喋り方も時代を感じますが、ワイルド系(杉ちゃん)を連想させてしまうほどワイルドなハードボイルに近い作品でした | ||||
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この作品丸ごと日本の自己批判みたいな小説を読みながら良くも悪くも村上龍は団塊世代だなぁと思うことが多かった。ただ、日本の政治経済を舞台とした躍動的な物語であることは間違いない。 | ||||
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上のタイトルで下巻にレヴュー書いてはやウン年。初読から30年。改めて読むと、この作品に限らず当時の村上龍氏の作品はアメリカの存在が背景として極めてでかい。その核は「情報(快楽含む)を全て握ってるアメリカ、金しか握ってない日本人」とういうところでしょうか。80年代に思春期過ごした方ならご理解頂けるでしょうが別に氏に限らず当時はアメリカ、ヨーロッパの文化の影響力が非常に強く、映画なら洋画、邦画はダサい、とか、洋楽歌詞の意味もわからず聴きまくるとか(歌詞を訳してみたら結構ショボかった)、ハンバーガー食べることがかっこいいとか、今になって振り返ると自分自身もお恥ずかしい限りの風潮に流されておりました。そして皮肉なことに当時はまさに日本経済が世界最強だったんですよね。でも僕たちディスってたんです。それから30年、もはやどこの世界のビジネス雑誌も「日本経済の脅威」なんて特集書かなくなって久しくなりましたが当時小馬鹿にしていた日本文化が現在は世界で礼賛されるようになりました。当時フランスの雑誌が電車で漫画雑誌を読みふける日本の若者、サラリーマンの写真を載せ、経済で世界を席巻してる日本の文化はいい大人がコミック読むような低レベルとか書いたのに、今やフランス人がコスプレするご時世。焼き直しばっかりの最近のハリウッドしか知らない現代っ子からすればこの本の背景のアメリカってそんなにスゲーのって違和感感じられるんじゃないでしょうか。そういう時代だったんですよ。2017年現在、アメリカは未だ北朝鮮の核放棄もできず、あの大統領のおかげで自由や民主主義という価値観にすら疑惑が高まり、一方でかつての日本よろしくエコノミックアニマルぶりを発揮している中国で金を得た人民は自国文化をディスって海外カルチャー(ワイン、外車、ブランド、日本アニメ、AV,海外旅行などなど)を爆買い。アメリカは老いたのか?日本は獰猛なエコノミックアニマルから世界中から愛される愛玩動物になったのか?そして中国は?そんなことを考えてしまいました。 | ||||
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国際企業によるグローバル化が進む今の日本を思うとこの本に描かれた事が現実だった方が日本にとって良かったんじゃ無いかと思う。今の日本に足りないのは国際企業に真っ向から立ち向かう様な国内発の権力だろう。物語は唐突に終わるがこの後このもう1つの日本はどうなって行くのかを続編で読みたい。 | ||||
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現時点、そして今後の日本、世界経済を予言するかの様な読み応え十分の傑作。著者は当時戦後の平和ボケした怠慢で消費するだけの豚と化していた日本国民に憤り感じていたのでは無いだろうか。日本国内でナチスの様な集団が人気を博していくのだがリーダーがカリスマ性を持つ狩人というのが野生に帰る事が必要だと著者が感じていたからだろうか。2017年に読むと固有名詞に多少の時代を感じるが根本的な物語と描かれた問題の本質は古臭いどころかリアリティを増すばかりだ。北朝鮮が幾度と無くミサイル実験を行いicbmの配置や様々な世界情勢と経済格差が広がった日本。まるでこの本の後追いをしてるかの様だ。グローバル企業群が強大な権力を持つという設定もtppが発行されていればズバリだった。当然だが何より小説として面白い。今の時代にこそ読むべき本。 | ||||
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主人公のとうじの生き方に憧れます。ほんと魅力的です。村上先生のファンになりました。 | ||||
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私が村上龍ファンになったきっかけになった本です。 村上春樹を受け付けない人は是非読んでみてください。 あなたの求めているものが得られると思います。 | ||||
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なかなか面白かった。力作ではあるし、読むかいもあると思うが、わたしは氏の他の作品のほうが好きだ。氏はファシズムにさえ絶望していると言いたいのだろうが、何を今更、と普通に思う。そこが作品として弱い。狩猟社会とファシズムを結びつけるのもあまり成功した感じがしない。狩猟社会では弱者は置いていかれると繰り返されるが、本当だろうか?果たしてそこまで厳しいものだったのか? 巨大なる祈りという大フェステイバルをクライマックスに持ってくる事で、69という氏の作品との類似性が生まれる。だが69では痛快だったあのフェスティバルが、ここでは陳腐なものそして苦々しくものに見えてくる。 力の無い高校生がやると痛快な反逆だったことでも、権力をにぎった連中に強引にやられると、あほか、という感じになる。 ファシズムを讃えているともとれるこの作品は、確かに先見の明があるのかもしれない。だがなればこそ、氏はこの作品をいまは封印すべきときではないかと思う。 悪く言えば、ファシズムと対峙したわけではなく、軽く戯れた作品ともとれる。 | ||||
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随分昔に読んだものを再読しました。 若かりしころ読んだときとはまた違った味わいがあり、 今読んでこそ村上龍氏の偉大さがよりわかります。 若い人にこそ是非読んでもらいたい名作です。 | ||||
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初めて読んだのは二十歳そこそこだった。すごい小説だと思うと同時に、長過ぎる/出てくるのは平気で人殺しする奴ばかり/難しい用語や概念が多すぎ、そんな感じでついていけなかったのが正直なところだった。『コインロッカー・ベイビーズ』の方が全然面白い、と。 しかし四半世紀を経て、こちらも政治や経済を多少は理解できるようになった上で読み直してみたところ、あまりに面白すぎて寝る間も惜しんで一気に読んでしまった。もちろん、設定が古くなっている部分は多いが、二大強大国連携による経済支配(米ソを米中に置き換えれば、、)や格差社会の進行、弱肉強食も容認する自己責任論、一般人の感情的で偏った右(左)翼化などなど、、、あまりに多くで21世紀社会を予言していることに驚かされる(雑誌連載の準備期間を加味すれば構想は80年代初頭!)。また、狩猟社は残酷で傲慢な人間ばかりだが、人間が生き抜く上で必要な資質を強く備えていることも否定はできない。 『コインロッカー・ベイビーズ』での男2人女1人の関係性は、本作でさらに象徴的なものになる。トウジとゼロの対称的補完性(+フルーツという触媒)は危ういバランスを保ちながら維持されていくのだが、そこには、おそらく絶対父性社会的なトウジが認めようとしない“強い”ということの別の側面—おそらく母性社会的な愛との距離感(*)を示唆しているようにも思える。下巻ではその結末も語られる。 *本書には女性の重要な登場人物が極めて少ないことと関係していると思う | ||||
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初めて読んだのは二十歳そこそこだった。すごい小説だと思うと同時に、長過ぎる/出てくるのは平気で人殺しする奴ばかり/難しい用語や概念が多すぎ、そんな感じでついていけなかったのが正直なところだった。『コインロッカー・ベイビーズ』の方が全然面白い、と。 しかし四半世紀を経て、こちらも政治や経済を多少は理解できるようになった上で読み直してみたところ、あまりに面白すぎて寝る間も惜しんで一気に読んでしまった。もちろん、設定が古くなっている部分は多いが、二大強大国連携による経済支配(米ソを米中に置き換えれば、、)や格差社会の進行、弱肉強食も容認する自己責任論、一般人の感情的で偏った右(左)翼化などなど、、、あまりに多くで21世紀社会を予言していることに驚かされる(雑誌連載の準備期間を加味すれば構想は80年代初頭!)。また、狩猟社は残酷で傲慢な人間ばかりだが、人間が生き抜く上で必要な資質を強く備えていることも否定はできない。 当時は今ひとつしっくりこなかったこの下巻における結末も、今ではスンナリ腑に落ちる。エンディングでの日本の状況とは裏腹に、トウジとゼロの対称的補完性(+フルーツという触媒)の崩壊という一種の悲劇(*)が呈示されていると思う。それは、おそらく絶対父性社会的なトウジの認めない“強い”ということの別の側面—おそらく母性社会的な愛に絡んでいるとも推測でき、なかなか深い余韻を残すのだ。 とにかく非常にスリリングな攻撃的ファンタジーであると同時に極めて優れた教養小説だ。 *悲劇—それはエルクに同化できたのはトウジでなくゼロだったからなのか、あるいはトウジが理念ゆえにゼロの肩を抱くことができなかったからなのか、、もし国民→狩猟社→トウジの食物連鎖的ピラミッド(父性的社会)に裏からゼロが加われば円環構造(母性的社会)に変換されて代謝が保たれるのだろうか。しかし、それが叶わなかったので、トウジはエルクを見失ったまま指導者になるのだろうか。 | ||||
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「何のために生きるかって、そんな下らないことは考えなかった、自分は不幸だなんて思うヒマもなかった。今の俺達の、快楽と苦痛は、大昔のその単純な暮らしに発している。快楽とは生き延びるのに必要なことをやった場合に与えられる」 一人称で語られる本書の鈴原冬二の考えはシンプルだが力強い。 我々はいつしか奴隷として生きていることに慣れてしまっている。 自分で判断しなくていい奴隷は楽だ。他人がこうやれと言うことをやればいいだけだから、これほど楽なことはない。 そんな楽をしてきた奴らが大威張りで発言する。他人に従う快楽しかしらない奴隷が威張る時代が今の民主主義だ。 俺は、あいつらを叩きつぶそうと思う、君たちはどうだ? そう語りかける鈴原冬二のもと政治結社「狩猟社」が誕生する。 強烈な存在感をみせる鈴原冬二のもとには優秀なブレーンが集まり、彼らのつくる狩猟社の政治綱領は「あらゆる階層の人間に幸福な幻想を与える」ものとなり、党員は爆発的に増えていく。 まさに閉塞した現代社会においてカリスマ的存在が求められるのは必須であろう。 カリスマはまず不快の念を持って迎えられるが、その後に恐怖が訪れ、それが興奮と崇拝に変わる。 数十年ぶりに読み返した本書は、こんなにも強烈な毒をはらみつつ重厚で魅力的な作品は、村上龍以外に書けないだろうとあらためて思わされる、そんな作品です。 また、文学的技巧として、本書を、ゼロではなく冬二の一人称にした点も興味深い。 ゼロは、「だいじょうぶマイフレンド」の映画化で大こけした当時の村上龍自身を彷彿させる存在で、通常は作者の分身たる人間の語りになりそうなものですが、そこを冬二の一人称とすることで、ゼロを客観的にみるかたちとなり、より破壊力を持った作品になっているように感じられます。 | ||||
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