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ブラッド・メリディアン
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ブラッド・メリディアンの評価:
| 書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.67pt | ||||||||
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全24件 1~20 1/2ページ
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| 実写化するとR18指定必至の血生臭い世界を描いているのですが、著者の特徴的な文体により、まるで神話や叙事詩のように描かれており凄惨さや残酷さは感じない。以前ハードカバーを図書館で借りて読了したが手元に欲しいと思ったため文庫版を購入。読み進めると心地よく世界に浸れるため机上に常に置いて、ゾーンに入りたい時に読んだりしています。 | ||||
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| 作品自体の評価は五つ星ですが、翻訳は誤訳、あるいはマッカーシーの哲学/思想を理解していないと思われる単なる直訳、明らかな文法上の誤りなどが散見され、その都度原文に当たって確認したりする手間と時間がかかりますのでその分評価を減点せざるを得ません。第三者が翻訳したものを読むに当たっては、誤りを発見して正しい訳文を考えることが、自身の勉強となり作品をより深く理解することになると言い聞かせてポジティブに捉えるしかありません。 作品自体は、マッカーシー独特の即物的・現実的な細部描写が延々と続く中で、突如として詩的イメージが立ち上がり、暴力や死を「世界」や「存在」そのものの構造と結びつけるような凝縮された表現に出会った瞬間、まさに至福ともいえる啓示となります。 例えば、電子書籍版の178ページにある以下のように、 「銃声がいくつもはじけ小さな金属の核が物質の遠い環のほうへ飛びその物質の環は男たちの頭上を音もなく西のほうへ動いていく。」 原文をただ直訳しただけのこの訳文では意味不明なのですが、 “The gunshots popped in the void and the small metal cores flew toward the far annulus of matter and that annulus moved soundlessly westward above the heads of the men.” (原文) AIに翻訳してもらうとこのテキストの真意が浮かんできます。 「銃声は虚無に乾いた破裂音を響かせ、微細な金属の芯は遥か彼方の《物質の環》へと飛翔した。そしてその環は、人々の頭上を音もなく西へと流れていった。」 簡潔にまとめればこの文は、 「銃撃によって放たれた弾丸が、物理的には敵に向かっているが、象徴的には存在の彼方にある「物質の環」(宇宙的構造・運命・死)へと向かい、その環は音もなく男たちの頭上を「西」へ(=死の方角へ)進行していく」という、深く詩的かつ形而上的な描写です。 AIによる翻訳の方がよほどマッカーシーの哲学を正確に伝えていると思いませんか? この一文が心に響いた方には「ブラッド・メリディアン」お薦めします。 あと、アレハンドロ・イニャリトゥ監督の映画『レヴェナント』やNetflixのドラマ《American Primeval》が好きな方は、時代設定と暴力や自然描写がそっくりですので、きっとハマる筈です。 | ||||
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| 今まで何故彼の作品を読まなかったのか!!!! 読書が趣味といいながら彼の作品を未読だった自分を恥じます。 | ||||
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| 会話に引用符をつけない作家・作品は、多数派ではもちろんないものの、他に読んでいないわけではありませんでした。が、初体験となるこの作家ほど効果を上げている例を私は知りません。 登場人物の感情を一切含めず一文に動作や場面の流れが含まれる文章に、時折現れる箴言ともいうべき表現--それを発しているのはあるいは姿のない語り部なのか--そこに引用符なしに人物の会話が織り込まれると、この会話も語り部が聞いたものをそのまま伝承しているかのようで、小説世界全体が壮大な叙事詩として迫ってくるのです。 つまり文章構成だけで既に名作なのですが、内容もすごい。 残虐非道はヨーロッパや中国の作品でも読んでいますが、それらのサディスティックな陰湿さとは異なり、この作品では残虐行為への嗜好や感傷といった人間的感情すら感じない、乾いた暴力が描かれます。 この狂気はどこから来るのだろう? コーマック・マッカーシーは明らかにしませんが、折に触れて登場する神への言及、その解釈に鍵があるように思われます。そもそもアメリカ白人はヨーロッパから逃亡、もしくは追放された人たちの子孫で、旧世界のような血縁・地縁・階級など社会の一切のしがらみを白紙にしたところからスタートしているので、「神」という存在を自分勝手に解釈してしまえば、自分の行動への重石となるものは何もなくなる…その何にも押さえつけられていない人々が、ここでは描き出されているのだろう、と。 文庫解説では、本書より馴染みやすい作品から翻訳紹介されたことでこの作家が日本でも人気を博したように考察されていましたが、私は初マッカーシーがこの作品でよかった。馴染みやすく面白いアメリカ小説はたくさんあるけれど、この作品のような小説にはなかなか出会えません。 | ||||
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| 読了までに時間がかかった。 難解というのでもないけれど、読点のない修飾と比喩を散りばめた長い一文が一字たりとも読み飛ばすなよと言っているようで。カッコのない会話がひと言たりとも聞き逃すなよと言っているようで。 ガルシア=マルケスの『族長の秋』を思い出したりもしたが、豊饒や豊潤といった感じは全くといってなく、砂と埃と照りと渇きがあるばかり。 登場人物の直接的心理描写もなく、暴力描写も言われているほど多くなく、砂漠での移動がほとんどを占めている。 アメリカとは何か、が書かれているのかな、とふと思う。 先住民を駆逐する、頭の皮1枚いくらという契約で。野牛を狩り尽くす、ただ皮を得るためだけに。 他所からやってきて自分たちが一番とばかりに。 この国を成立させた暴力性を感情移入せずに書こうとすると、こんな小説になるのだろう。 疲れたけど、面白かったよ。 | ||||
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| コークマッカシーはザロードと血と暴力の国を読んで好きになりましたが、この小説は非常に読みにくい。 けど面白い。普通に分かりやすい軽い小説とかに飽き飽きした人におすすめかな。 | ||||
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| ”人間の霊はその達成の頂点で燃え尽きる。人間の頂点(メリディアン)は同時に読みでもあるのだ” 作中の世界を構成する三大元素は「荒野」「暴力」「死体」。戦争状態を人間の本性に基づいた心理として受け入れ、文明化された平和とは縁遠い狂気で厳かな世界を描ききってあります。神に見放されたことが、かえって重々しい神々しさを放ちます。 文体は超長ったらしく、いかにも万人向けではありません。簡単にページをめくらせないストッピングパワーがぷんぷんして読み進めるうちに体力を消耗しているような気がします。娯楽では無い、なにか文体と取っ組み合いしながら読み進めていたような読後感を感じました。 | ||||
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| オールタイムベスト級。 会話文に引用符が使用されず、読点がほとんどない独特の切れ目ない文章によって、人間の会話や行動が詩的な情景描写と溶け合い等質化するかのような効果がもたらされている。これに情念の徹底的な排除が加わり、物語上の全ての残虐行為すらも世界の大いなる営みの下で相対化されるような一種超越的な視線が感じられた。行間から血と泥の匂いが漂ってきそうな生々しい殺戮に塗れた物語でありながらも神々しさすら兼ね備えている作品。圧倒されるしかない、あまりにも大きな何か、という意味で真に「崇高」な作品だと思った。 訳者もあとがきで述べているようにところどころで『白鯨』を想起させられた。モービーディックが擬人化されたかのような強烈な存在感を放つ判事はもちろん、思い出したように前景に現れる(が物語の最初と最後以外には存在感を発揮しない)主人公も。判事の元ネタが『闇の奥』のクルツだということで、『地獄の黙示録』のマーロン・ブランドを思い浮かべながら読んだ。決して読みやすい小説ではないが、これほどの作品にはそうそうお目にかかれないと思う。 | ||||
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| この本を2回読みましたが、2回目の方がずっと面白く感じました。 作者のマッカーシーは、この物語で全編に吹き荒れる暴力を通して人間の本性を浮かび上がらせています。 精緻な文章は読者に映像を与え、体感させます。 私はそこに暴力の嫌悪と同時に、誤解を恐れずに言えばもっと暴力を欲していることに気づきます。(架空の世界においてですが) 登場人物の、超人のような判事ホールデンが読者に語りかけます。 「戦争がなくならないのは若者も年寄りもみんなそれが好きだからだ。戦った者も戦わなかった者も。」第17章,P316抜粋 このことは、この本の物語を楽しむ自分がまさに証明しているのです。 体感させ、証明させます。 この作品は、個人的には人間が作り上げた最上の芸術作品の中に入るだろうと思います。 | ||||
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| 句読点のほとんどない、一文がやたら長い異形の文体はかなり好き嫌い分かれると思う 個人的には読みにくくて読みにくくて、残念ながら途中で挫折 乾いた文章で描かれる差別と暴力に満ちた頭がクラクラするような世界観は気に入ったんだけど・・・ | ||||
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| これはとても読みにくい小説です 一文が長い上に、句読点が殆どない文体で、内容はひたすら情景描写 その情景描写というのが、まるで第三者がスクリーンに写っている映像をただ淡々と、時々唐突な哲学的直喩を用いて説明するだけ 登場人物の心理描写はおろか、行動の意図さえ説明せず、ただただ行動だけが描写されます では退屈かというと全くそんなことはない 戦争・虐殺・血と暴力、とにかく凄惨なアクションが延々と続きます あまりにも非道で酷たらしい行動が、さも何でもないかのようにあっさり説明されるだけなので、つい笑ってしまうようなユーモラスさえ感じられます 理由のない殺戮が何の説明もなく始まったりするのですが、読者はそうするに至った頭皮狩り隊の異常な狂気の熱気を肌で感じるため、特に疑問にさえ思いません また本筋と関係ない話しや描写がやたら多いのですが(というか主人公の少年が見た全てが本筋かもしれませんが)、その全てが緻密に描き込まれていて惹き込まれます 寄り道こそ面白い小説の1つと言えるでしょう | ||||
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| 19世紀のアメリカである少年が家出をしインディアン討伐隊に参加するが・・・というお話。 ここで描かれるアメリカの原風景は著者の創造力もありますが、実質的には実際にあったということで、そのグロテスクさに驚かされます。討伐したネイティヴやメキシコ人の頭皮を剥いだり耳を切り落として飾りにしたりと暴虐の限りを尽くすアメリカ人にかつての姿には慄然たるものを感じさせます。 この小説で描かれている米墨戦争は実際にあったそうですが、日本の学校ではあまり習わない戦争なので、一種の戦争小説としても読めると思いますが、本書を読むと何時の時代でも戦争は専制と隷従圧迫と偏狭を生むあってはならないことだということが伝わってきます。 何でも解説を読むとこの著者の書く西部劇は修正主義西部劇と呼ばれるということで、確かにハリウッド等では映画にしないタイプの残虐な西部劇になっており、欧米の鬼畜系のホラー作家が本書を聖書の様に拝読しているという事実も頷ける作品に思えました。 このマッカーシーという作家は何冊か読んでおりますが、読んだ中では本書が一番読み応えのある作品に思えました。最近作の方の翻訳が多い様ですが、是非初期の作品の翻訳も望みたいです。会話を地の分の様に描く手法はエルモア・レナードなんかにも影響を与えている様にも思えます。 孤高の作家の傑作。是非ご一読を。 | ||||
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| 1840年代のテキサス・カリフォルニア・メキシコを舞台に、私設インディアン討伐隊の蛮行と破滅を描いた傑作。 私設ということはつまり非合法ということで、隊員はならず者ばかり。見境ない虐殺を繰り返し、殺したインディアンの頭皮を剥いで一枚(人)数ドルでクライアント(州政府や市)に売り渡す。当然、隊員の側も皮を剥がされて残虐無惨に殺される。まるで〈自己破壊の衝動〉にとり憑かれた動物の群れだ(解説によると実在モデルがあるとのこと、驚いた)。 マッカーシーは価値判断と心理描写を完全停止して、クールかつリアルに殺戮に次ぐ殺戮、血まみれの狂気とカオスを描写していく。ペキンパーやタランティーノも裸足で逃げ出す、史上最悪にして最高の残酷描写だ。女性は登場せずセックスシーンも皆無。ただ暴力だけが延々と描かれる。気に入った。 しかしこの小説は美しい。 討伐隊は獲物を求めて砂漠、荒野、大森林、雪渓の大西部を漂流するようにさまようが、殺戮と殺戮の間に挟み込まれる大自然の描写が限りなく美しい。これまで読んだ叙景文では最高の文章だ。そして独特の文体が叙景で特に効果を発揮している(原文の文体を移すことに成功している)。 残虐な殺戮と美しい自然描写を交互に配して、この小説は古代の長大な叙事詩に近づいていく。しかし、ついに英雄叙事詩とはならない。 英雄は現れず、代わりに、真っ白で巨大で無毛の白人が登場する。抜群に知的で深い教養とユーモアがあり、哲学的な言辞を弄して人を煙に巻くこの魁偉な「判事」は、しかし平気で殺戮を主導し、裏切り、あっさりと子供を殺す。 判事は討伐隊の参謀だが、隊は判事に導かれるように破滅していく。 判事は破壊の魔王であり、その通り名のごとく審判者=神だ。誰が死んでも判事は生き残る。 ほんの少年の頃にこの隊に参加し生き残った物語の語り手は、隊が全滅してから十数年後、往時とまったく変わらぬ姿の判事と偶然再会する。そして・・・ 物語が絶たれる。 最後の短いエピローグは、暗く陰鬱で不可解な情景を描いて印象的だ。 著者は「人間の本質は暴力であり、それは永遠に変わらない」と言っているように思われる。 | ||||
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| 読後間もない火照った頭のまま本作の印象を一言で要約するとしたら、スプラッターとゴシック趣味にニーチェ的な力への意志の思想が加味された異常に血なまぐさい修正主義的西部劇といったところでしょうか。 年輩のシネフィルが神棚に祭り上げるような往年の西部劇のジョンウェイン的な英雄像に素直に共振できない自分のようなひねくれた人間にとって、ようやく自分の現実感に近い西部開拓前線の風景に邂逅できたという感じだった。 ここでは、現代だったら銃乱射事件や押し込み強盗を犯しそうなサイコパスたちの振る舞いが子供の遊戯みたいに軽々しく能天気に描かれることがないし、騎兵隊も賞金稼ぎもインディアンも等しく地上に宿命の影を落とした瞬間から全きものの企図に縛られている呪われた存在であることが仄めかされている。 米アマゾンでサム・ペキンパーの凄惨さが加わったフォ−クナーと形容しているレヴュアーがいたが、確かに臆面もない暴力陶酔と過激な生の思想は、現代の平和呆けした倫理観と相容れないもので、銃規制が叫ばれたり性や人種に関して修正主義的な態度がもてはやさたりする時勢にあって時代錯誤的に見える危険があるかもしれない。 隠喩や象徴が散りばめられた技巧的な文体でくどいくらいに丹念に投影される南西部の荒涼とした原野の風景と放浪の日々の赤裸々な身体感覚は、旧約時代のオリエントを思わせる非時間的なもので、黙示録的なイメージを意識的に喚起しようとしているところからも、作者の世界観は徹頭徹尾はっきりしている。 虫けらも砂礫も髑髏も旋風も自らの血の海に溺れる人も馬も十把一絡げにして不吉な日輪の刻印のもとにワンセンテンスに押し込めようとする特異な審美観は、人によっては好き嫌いが分かれるだろうし、読者の側にそれなりの忍耐と自己投資を要求するものなので、決して楽な読み物ではない。 実際、自分は最初の100頁を読んだきり数年間ほったらかしにしていたし、今回思い直して再挑戦してからも、インディアンの足跡を追ってひたすら荒原を彷徨い続ける中盤あたりでは何度睡魔に襲われて挫折しそうになったかわからない。 (睡眠不足に苦しむ読者にとって即効の治療薬になる可能性はあるが、黎明の時間まで悪夢にうなされるのは間違いないでしょう) それでもラストのけじめのつけ方はまったく腑に落ちるもので、これまで400頁近くに渡って悶々と抱え込んでいた疑念が一気に晴らされる爽快なカタルシスがあった。 カリスマ的な教祖とも鬼神の顕現ともつかない判事は、とどのつまり『ノーカントリー』の殺し屋アントン・シガーと同様、社会の規範から超越した立ち位置にいる生成の論理の体現者で、無自覚なまま自分の身に余る凶事に関わってしまった主人公の行く末が、ベトナム帰還兵ルウェリン・モスやその恋人と同じ運命であることは、まったくもって理に適ったことだと思われたのです。 | ||||
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| 後の作品に繋がる要素は頻出するが、ここに火はあっても、まだそれを意識して運ぶ者はいない。 | ||||
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| そういう言葉が飛び交う世界をそのまま描いた作品。小説と言うには余りにも異質だろう。 マッカーシー作品の特徴として、句点が極端に少なく、鉤括弧がない。そのため、 かなり読みづらいが、本作はそのマッカーシー作品の中でも特に読みづらい。それは会話文 が少なく、文章のテンポより世界の描写に重きを置いているからだろう。さらに、起承転結 といった物語の起伏を楽しむ、という読み方を完全に否定しているため、読んでいて 段々しんどくなってくるのも事実。 だが、その描写には凄まじいものがある。とにかく、『区別』しない(でも差別的表現はある)。 先に述べたように、鉤括弧を使わず、地の文と会話を一緒くたにする。 心理描写を徹底的に排除し三人称視点で描写することで、人間と世界の垣根を取り除く。 普通、小説には誰か視点人物を据えるものだが、それはこの小説には出てこない。一応『少年』 という名無しの主人公はいるものの、ほとんど一般の匿名端役と同じ役割でしかない。ただただ ぶっ殺す というセリフと血飛沫が飛び交う不毛の大地を延々とさまよう名もなき犠牲者であり加害者の一人にすぎない。 混乱と秩序。悲惨と美しさ。差別と平等。道徳と破戒。神と悪魔。 世界の姿を、そのまま描写して読者の前に投げ出す。 日本の文学では味わえない圧倒的なスケールと力を、この小説は持っている。 | ||||
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| しんどいなぁと思いながら読み進めていった. 暴力シーンの描写は具体的で,善悪の感情は込められていない. 詰め込まれた文章の中に, 19世紀半ばのアメリカ西部の気温や湿度, いろいろな国の言葉,骨を砕く音, ほこりっぽい空気の臭い,肉の腐る臭いが充満している. 「人間はなんのために生まれてくるのか」という哲学など 気にもしない虐殺に次ぐ虐殺 殺される者がかわいそうだとか, 名もなき少年の運命はどうなるのかなどの 通俗的な読み方を否定する虐殺また虐殺 片手間に読めるライトノベルの対極にあり 極端な状況下における人間を描き切った マッカーシーの筆力を楽しむための小説だと思う. | ||||
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| 明確な起承転結がある訳でもない。心情描写も排除され、そう言えば一応主人公となる少年には名前も与えられていない。執拗に描かれているのは、ある一行が放浪する大地で繰り返される日の出日の入りの様子や雨を伴わない雷、荒涼とした風景、そして道行の途中から目的意識も希薄になった無差別大量殺人。1ページの中で暗示に満ちた夜明けがあるかと思えば、多義的な夜の描写もある。それがいつ終わるともなく延々と続く。読み続けていると不思議な浮遊感を覚えた。かなりグロテスクな殺害場面、ショッキングな死体の散乱(本書ではいったいどれだけの人たちが殺され、破壊された村や大地にどれほど屍が横たわっていたことだろう。小説でこれほど多くの死と向き合ったことはない)を目の当たりにしていると、いつしかえぐみも薄れ枯れ草のように無味乾燥としたものとなり漫然とそれらを受け入れていることに気がつく。だがそのことに対して驚きもなく感情の揺らぎもないのだ。これが虚無なのか。暴力だとか流された血だとか倫理とかを超越したまっさらな真空状態にこころが包み込まれているような感じだ。エンドレスなリフレイン効果。活字による洗脳。訳者もあとがきで記しているが同書は本当に「とてつもない」小説だ。本の帯には「映画化決定」と謳われていたが、下手に間違えると成人指定のスプラッター映画になるかも知れない。慎重な映像化が望まれる。追記。作中、異彩を放ち続ける「判事」の言動に出くわすたび、海外ドラマ「LOST」に登場するジョン・ロックが脳裏を去来していた。 | ||||
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| 本書は、現代アメリカ文学の巨匠コーマック・マッカーシーの邦訳書としては最新刊だが、順番でいくと、有名な<国境三部作>『すべての美しい馬』(’92年)、『越境』(’94年)、『平原の町』(’98年)や、アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した映画≪ノーカントリー≫の原作『血と暴力の国』(’05年)、ピュリッツァー賞を受賞し間もなく映画が上映される『ザ・ロード』(’06年)よりもかなり前に書かれた(’85年)作品である。 時は19世紀半ばのアメリカ開拓時代、物乞いや盗みで生計を立てていた14歳の少年は、「判事」と呼ばれる大男の誘いで、“頭皮狩り隊”とも言うべきインディアン討伐隊に加わる。本書では、彼らを虐殺し頭皮を剥いで売る悪逆非道の日々が延々と描かれる。 まさに他にあまり例を見ない衝撃的な凄まじい暴力の連続であり、残酷の極みであるが、この小説はアメリカの暗部を告発するというよりは、それら残虐行為と戦争を肯定し、賛美しているかのような印象を受ける。それは“悪の権化”である「判事」の存在感が圧倒的だからであろう。つまり、「こんな残酷なことは人間のすることか?」ではなく、「上っ面の正義や平和がなんだ。これこそが人間なのだ」というマッカーシーの訴えである。 本書でも、台詞に引用符をつけない、コンマを極力省く、心理描写や感情表現をいっさい排するといったマッカーシー独特の超絶技巧的文体で綴られる。自然も人間も動物も、そして人間の行う残虐な行為も、皆同等のレベルで、あるがままに平板で克明なリアリズム描写をしてみせている。 本書は、近未来を舞台にした『ザ・ロード』を、かなり時間をさかのぼらせた、一概に人間やアメリカの悪を弾劾するとは言い切れない、重層的な物語である。 | ||||
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| 物語は19世紀半ばのアメリカ西部。1人の少年がインディアンの討伐隊に加わることで過酷な運命に巻き込まれていきます。 血と暴力、人間の暗部を描き出す残虐性が詩的なまでに美しい風景描写と共に描かれています。 決して読みやすい物語ではないですが、ストーリーの苛烈さに惹かれて一気に読んでしまいました。 日本では「血と暴力の国」「ザ・ロード」の後に翻訳されていますが、本国での刊行は1985年ということで、〈国境三部作〉よりも前の作品となります。 そういう視点で見ると、この作品は作者のその後の作品の要素を垣間見ることができます。 〈国境三部作〉で描かれる少年の(暴力や血を流しながらの)成長や馬とのモチーフ、「血と暴力の国」での乾いた砂漠の風景や銃の乾いた暴力性、 「ザ・ロード」の蛮族の残虐さや火のイメージ。全ての作品に通ずる悪の存在と人間の運命。 刊行順が逆だったら作者の集大成とでも言いたくなる内容です。 見方を変えると現代を描いた「血と暴力の国」を境に、近未来の「ザ・ロード」を過去へ反転させた世界とも思えます。 最後にこの作品の鍵となるホールデン判事の存在感はやはり圧倒的です。世界の悪や不条理を体現させる存在として主人公の運命を左右します。 (読んでいない人のために書けませんが)ラストシーンは本当に鳥肌ものです。 作者はこの作品の前にも何冊かの作品を刊行しています。 作者の起源を知る上でも、日本での翻訳が待たれます。 | ||||
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