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薔薇の名前
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薔薇の名前の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.15pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全81件 1~20 1/5ページ
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ちょっと分かりにくいところもあるけど!良い本‼️ | ||||
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文庫を出して欲しい! 重い! ストーリーは少し難しいけど | ||||
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本書は中世からルネッサンスへと時代が移りつつある14世紀前半のヨーロッパが舞台となっている。 普遍的真理がイデアのように実在するという常識が揺らぎはじめ、普遍的真理/イデアと感じてきたものが実は「名前」のようなものであり、主観的概念に過ぎないという考え方(オッカムのウィリアムの唯名論)が広まりつつあった頃の「時代のゆらぎ」が描き出されている。 教皇庁は「真偽」や「善悪」が文脈によって変わりうることに多くの人が気づき始め、それが権力闘争に結びつくことを怖れる。そして、時代の流れに逆らって神の真理の一義性を守ろうとする。それが異端審問や魔女狩りの流行といった、時代に逆行する社会現象として顕在化する。 それに対して、主人公のバスカヴィルのウィリアムは、どの文脈が「真理」になるかをあらかじめ決めることはできず、事実に基づき仮説検証で決めるしかないという考え方を取る。この発想の転換が、後のヨーロッパの科学革命、産業革命へと繋がっていった。なぜヨーロッパで産業革命が起こったのか。その起源を覗き見ているような印象を受けた。 また、著者のウンベルト・エーコは記号論の学者でもある。記号に文脈が与えられた瞬間、自己と世界との関係が定まる。それが事実に裏づけられて安定するのか、幻影に終わるのか、あるいは笑いを生むのかは本人にも分からない。そんな記号と自己との関係が巧みに描き出されているようにも感じた。 | ||||
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『薔薇の名前』を読むには予備知識が必要だとよく言われるが、そんなことは無いと思う。この小説を本当の意味で楽しむために必要なのは実のところ哲学的な論理の感覚ではないか。あえてもう一つあげるならこの時代の人たちがいかに真剣に神の存在を追い求めていたかを知ることだろう。 上巻の327〜329ページに集約されている。 平信徒たちは教会の御用学者たちの真実より切実な真実(真の神へと至る道)を直観で見抜いている。では個々人の直観が唯一の善であるとき、どのようにして学問は普遍的な規則を再構成できる(真実を大衆に敷衍するものが学問であるゆえ)域にまで到達できるだろうか。とウィリアムは疑問を投げかける。 ウィリアムが薫陶を受けた哲学者ベーコンは科学によって人々は導かれなければならないと説いている。 ベーコンの命題はある種の薬草を用いると熱が下がる、ある種のレンズを用いると視力が上がる、といった種類の、いわば条件(事物)について語っており、一方ウィリアムは自分は事物を語っているのではなくて事物の命題について語っていると言う。 つまり、そのベーコンの命題そのものについて命題を立てようとしている(立てないわけにはいかない)ということだ。さらに言うと、ある種の薬草を用いると熱が下がる、ある種のレンズを用いると視力が上がる、という規則はなぜそのような形で存在しているのか? ということになる。それを命題として成立させるには、「いるのか?」という疑問形ではなく、規則は普遍的であると言い切ってしまわなければならない。しかし、規則を普遍的なものとするや、事物によって与えられた秩序に、神でさえ虜になってしまっていることをも含んでしまう。しかし、神は世界を別のものへ変えることもできるはずだ。と、ウィリアム。 我々に置き換えてざっくり言うと物理法則を承知して日常を送っているが(ペンを離すと落ちるなど)神がなぜそのような物理法則で世界を作ったのかはわからないということだ。 ウィリアムは当然神を信じその絶対的なことをも信じているので神であればペンを離すと上に飛んでいくような世界も創造できたはずだ、というところだろう。 弟子のアドソは「では、あなたは行動し、なぜ行動するかは知っているが、自分が行動することを知っているとなぜ知っているのかは知らないとおっしゃるのですね」とウィリアムに言う。 最初の「では、あなたは行動し、なぜ行動するかは知っているが」とはベーコンのいう命題をウィリアムが承知していることを意味し、「自分が行動することを知っているとなぜ知っているのかは知らない」はウィリアムが自身の命題を立てられていないことを示している。 規則がそうなってる(レンズで視力が上がる)ことを知っているからメガネを作ってもらうという行動をするけれど、なぜそうなってるかを、神がなぜそうしたかをウィリアムは知らないということだ。 科学を普遍的なものとして行動したり、平信徒に教え広めてはいくものの、ウィリアムはそれに不安を感じているのだ。なぜならそれは普遍的な規則ではなく神がいつでも変えられる規則のはずであるから。科学においても博識な宗教家のジレンマを抱えているのである。 科学の規則が普遍的なものだと説けば神の力が弱まる、逆に神を絶対とすれば科学的な普遍性を説けなくなる。 さて、謎多き人物ホルヘは、真実を伝える書物に滑稽な装飾を施すのはもってのほかだという考えを持っている。 一方ウィリアムは最も歪められた事物を介してのみ神は示されると言う。 神の真理へ辿り着くことにおいて笑いは邪魔なものだとするホルヘと、笑いもまた必要だとするウィリアム。 ホルヘは喜劇を扱ったアリストテレスの『詩学 第二部』の存在を否定する。存在を知っているのにもかかわらず否定する。 自分にとって都合良く神のイメージを変え、それを守るため「学問・真実を歪め、隠そうとするもの」と、ウィリアムのように神のイメージが、そのことによってたとえ揺らごうとも「学問・真実を追求、究明しようとするもの」。 この対立構造がミクロからマクロまで物語全体を形作っている。 | ||||
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「記号論学者ウンベルト・エーコ」による歴史ミステリー。本書では、“教皇ヨハネス22世とフランチェスコ修道会の「清貧論争」をめぐる対立”という歴史小説に、「迷宮構造をもつ文書館を備えた、中世(後期)北イタリアの僧院で「ヨハネ黙示録」に従った連続殺人が」――というミステリーが組み込まれている。 教皇とフランチェスコ修道会の対立を仲裁しようと、ベネディクト修道会に属する僧院の院長アッボーネは、教皇庁の僧侶たちとフランチェスコ修道会を代表する修道士たちとの話し合いの場として、自らの僧院を使うことを提案した。しかし、客人たちが到着する前に、僧院で不審死をとげた若い修道士の遺体が発見される。困惑した院長は、いち早く到着したフランチェスコ修道会の修道士ウィリアムの怜悧な才に期待して、事件の調査を依頼するのだが――というストーリー。物語の舞台が山上に城塞のようにそびえ立つ僧院であるため、具体的なセリフを語る登場人物はキリスト教の僧侶だけという特殊な設定なのだが、“様々な思想や政治的な背景を持つ僧侶たちが一堂に会する”というフィクションのストーリーを展開することによって、中世後期のキリスト教会の精神的な荒廃と苦悩が鮮明に描き出されている。 本書でテーマの一つとなっている「清貧論争」は、教皇ヨハネス22世(在位1316~1334)が、フランチェスコ会(1209年にアッシジのフランチェスコによって設立されたカトリックの修道会。清貧と(民衆に対して積極的に語りかける)説教を中核とする)に敵対的な態度で臨んだ一連の出来事のことである。フランチェスコ会の中でも先鋭的な「厳格主義派」は、富裕になじんだ修道会の現状に批判的であり、聖フランチェスコの(清貧の)精神に帰るべきである、と説いた。それに対して、フランチェスコ会のコンベントゥアル派は、僧侶は(修道院の持つ広大な領地からの収入や信者たちの寄進(特に“商人の天国行きは難しい”と言われていたため、自らの死後に教会に多額の寄進をするように遺言する都市のブルジョワたちが多かった)などの)物を“所有”しているのではなく“使用”しているだけなのであるから修道院の財産までは問題視しなくてもよい、という教皇庁の見解に妥協的な態度をとった。ヨハネス22世は、当初はコンベントゥアル派を支持し、「厳格主義派」を「異端」として断罪したが、次第にコンベントゥアル派にも敵対的になった。と、いうのも(教皇の権力増進を苦々しく思っていた)ドイツ皇帝や貴族などの世俗の権力や一部のインテリが、“フランチェスコ会の「清貧」をめぐる議論は、教皇の権力と財力を抑制するために使える”と見なしたからである。このように、教皇とフランチェスコ会の反目が、世俗権力を巻き込んで紛糾していたさなかである1327年が、本書の舞台である。翌年の1328年には、フランチェスコ会の総長ミケーレ(本書に登場する)と教皇の話し合いは決裂し、教皇はフランチェスコ会に認めていた数々の特権を剥奪する。総長ミケーレは皇帝ルートヴィヒ4世のもとに亡命するが、フランチェスコ会自体はカトリック教会の中に残るのである。このような、教会内部や王侯貴族との争いは、教皇ヨハネス22世以前からあり、民衆にもその争いが飛び火するのは中世では珍しいことではない。本書の事件に尾を引く「ドルチーノ派」は、フランチェスコ会の「厳格主義派」の主張を巧みに取り入れたドルチーノという「とても頭の切れる若者」が説教で民衆(主に都市や農村の貧しい人々)の支持を得てイタリアで結成した団体であり、最終的には暴徒(近隣の領主の土地を襲ったりした)と化した「異端」として、教皇クレメンス5世(在位1305~1314)が呼びかけた「十字軍(異教徒との戦い、だけでなく「異端」の討伐にもこの語はたびたび使用された)」によって滅ぼされるのである。 本書の探偵役はフランチェスコ会の修道士であるバスカヴィルのウィリアムと、この事件の語り手でありウィリアムを「師」と仰ぐ「見習修道士」のアドソである。初老のウィリアムは以前は異端審問官(中世後期には、教皇の直属機関であり、宗教裁判の全般(取り調べから判決まで)を取り仕切る。宗教裁判は、容疑者の自白が採用され拷問が行われることも多々あったため、恐れられた)をしていた(「冷徹さにおいて高名を馳せていたが大いなる慈悲心に欠けた例がなかった」という評判だった)が、とうに辞めて「自然」研究や「機械類」に関心を示している人物である。青年のアドソは、年頃らしく多感で好奇心旺盛であり、気持ちではまだ僧侶になりきれていない。事件を追及するウィリアムと行動する過程で、修道僧たちの腐敗ぶりを知り、農村の「娘」に恋心を抱いてしまい、異端審問の理不尽さを目撃し、そのたびにアドソは精神的に動揺する。しかし、ウィリアムは“目指すべき聖職者のあり方”については指針を示してやることはできない(人間味あふれる大人の対応や忠告はしてくれるのだが)。異端審問官という教皇庁の組織を辞めフランチェスコ修道会の組織からも身を引いた態度をとる(フランチェスコ会の修道士としての義務は果たしているが)ウィリアムは、近代科学に通じる合理主義的な考え方をする人間であり、キリスト教に関しては“良心を担保するもの”という以上の態度はとれなくなっているのである。 ウィリアムとアドソが訪れた修道院は、そこの聖堂に彫刻された悪徳である「淫乱(色欲)」「大食(暴食)」「傲慢(尊大)」「貪欲」がはびこり腐敗しており、もう一方の教皇庁は(教皇と皇帝とフランチェスコ会との)権力闘争の場と化している。ウィリアムが闘うのは、修道院の連続殺人(自殺に追い込むことも含む)の裏で糸を引いている犯人と、今回の会合を台無しにし、ついでにフランチェスコ会にとっての不利な証拠(でっち上げであったとしても、それらしく見えるものならよい)を手に入れるという教皇からの密命を帯びた異端審問官ベルナール・ギー(ドミニコ会の修道士)の二人である。 とはいえ、ウィリアムとアドソに出来るのは、悪を打ち破ることではなく、犯人とベルナール・ギーの手口を明らかにし、“修道院の中での心理的な争点(知識(文書館)へのアクセスの特権化)”や“教皇庁での社会的な争点(異端審問を利用した権力闘争)”を浮かび上がらせることしかできないのである。しかし、そうではあっても本書の「最後の紙片」でその後の経緯(教皇ヨハネス22世の勝利と、皇帝ルートヴィヒ4世とフランチェスコ会総長ミケーレの敗北)を読むと、それぞれに己の信念を生きることができたウィリアムとアドソは、良心的な聖職者にとっては難しい時代にありながら見事な生涯を送ったのだと思える。 と、いうように、本書はあらすじをなぞるだけでも面白く読めるが、一方で言及される出来事・人名・語句だけでも中世の社会・宗教・文化などの百科のような本でもある。このようなエーコの仕組んだ中世の迷宮をさまよいながら読むのも、この本の楽しみであるだろう。そういう点で、『エーコ 『薔薇の名前』 迷宮をめぐる<はてしない物語>』という本も興味深かった。他にも解説本があるようなので、ぜひ読んでみたいと思う。 | ||||
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この有名な小説をやっと読むに至りましたが今で良かったです。もっと前なら今よりもっとちんぷんかんぷんだったろう。中世を舞台にした修道院での殺人事件の究明、という形ではありますが、世界史の本で暗黒時代、異端裁判、魔女裁判、ローマ教皇(この時期はアヴィニヨン)、と言った言葉だけで習ったことが、今自分も真にその中にいるかのように詳しく描写されて、本当に大変なすごい時代で、ここまでの価値観からよく、現在の人権とかそういう価値観にまでイタリア、変化できたなー、と思うほどの下層民が生きていくの大変な時代です。 また、原作者エーコ氏は記号論、言葉ということの権威という事ですが、書物についての色々なことが出てきます。14世紀はもうすでにアラビアでもヨーロッパでもたくさん思想的あるいは自然科学的書物が書かれており、そもそも紀元前からギリシャで今でも通用するような高尚な思考が論じられ書物になっていたわけですから(思えばそういうのがよく今でも読まれる形であるものだなー、と改めて感心してしまうわけですが)、それらを貴重な叡智として蔵書とするために延々と写本していたわけですよね! 今、ネットですぐ例えばアリストテレスの著作を誰でも購入することができると思うと、なんとなんと恵まれた時代なのでしょう!と感謝せずにはいられません・・・ とにかく中世ヨーロッパに知的興味を持つものには大変興味深い世界が展開されており、主人公たちの好感の持てるキャラクターのせいで、暗黒時代ではありますが何かしらの希望をもって読み進むことができます。 この本には様々な知的引用が取り入れられているらしくて、もっともっとヨーロッパやイタリアに詳しい人の参考書も読んで、深く勉強したくなる本です。エーコ氏が当時文壇的に?モラヴィアやパゾリーニと反する立場のようであったことなども、興味深くさらに勉強したいところです。イタリアという歴史深く知的な国の知的な歴史とその思想的変遷を、日本にいては積極的に勉強しなければ全然わかりえないと思うので、知的意欲をそそられる本だと思います。 | ||||
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とうとう読み終えた「薔薇の名前」。これまでも何度か読む機会はあったのだが。 最初は1983年ごろだろうか、職場の休息室で、週刊誌「Time」をひろげていて、そのbook reviewで、この作品の名前と概略を初めて知る。でも買わなかった。 次は、1987年ロンドンに住んでいた時に、chelseaで映画を見たとき。映画では英語がよくわからなかったのだが、なんとか概略だけはつかめたので、さっそく原著を購入。表紙のページには1987年3月と記されている。hatchardsで買ったような記憶がある。 ただ、頻発するラテン語や最初の部分の込み入った仕掛けのせいだろうか、読み始めて、すぐ自分の手におえる作品ではないと確認。当時は、last resortとしての翻訳もまだなかった記憶がある。その後は本棚での長い長い冬眠となる。時折取り出して、トイレでの時間つぶしに目を通してみるのだが、とてもじゃないが、読もうという気にはならなかった。 今回、英訳を主にして読んだのだが、日本語で読んでも問題なし。日本語の翻訳自体が大変な労作であることには疑いがない。さらには、もともとの本作品の由来自体が、ラテン語で書かれた作品がフランス語に訳され、それをエコ自身が口語のイタリア語に直したという二重三重のふるいをかけた設定になっているわけで、このどの訳を読もうが、それ自体にあまり意味はない仕掛けになっているのだ。 また、全編、引用並びに借用で成り立っている作品。引用・借用元を探し始めると、ページは進まない。この永遠の循環運動に入り込むこと自体には、それなりの面白さはあるのだろうが、終わりが来ないのだ。どの程度、この知的暇つぶしに付き合うのかは、読者しだいということになる。 ミステリーとして読むと失望する読者もいるだろう。いわゆるミステリーの紳士協定というかルールは徹底的に無視されて、ホームズ役のウィリアムの役回りも、断片としての謎の解読にとどまっており、全体を通してみるとピエロの役回りなのだ。ただ、断片としての謎の解読も、弟子アドソの何気ない直観に依拠することが多く、密室や迷路さらには暗号の謎の解読もいちおう説明はされているのだが、どうもわかり難い。僕にとっては、ウイリアムは名探偵というより、近代の啓蒙主義の直前で、立ち尽くす最後の中世人の姿。その当人の足場は中世と近代の双方に引き裂かれ始めている。 「ヨハネの黙示録」や「正統・異端論争」「異端審問」「教権と俗権」などの本書のモチーフだが、どれも事件そのものの解明には直接の関係はない。あくまでも、場の雰囲気を盛り上げるため、さらにはページを稼ぐための小道具なのだ。この小道具にどの程度共感というか感情移入が出来るかがカギとなる。 とはいえ雰囲気に接近するために、ネットでサーチをかけ始めると、泥沼に入り込んでしまう。どこかで割り切らないと。というわけで、読者を選ぶ作品であることは間違いない。ただこの日本語訳、いまだに文庫化されていないのだ。 | ||||
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"写字室の中は冷えきっていて、親指が痛む。この手記を残そうとはしているが、誰のためになるのかわからないし、何をめぐって書いているのかも、私にはもうわからない〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ〉。"1980年発表の本書はイタリアの記号論大家による映画化もされた世界的ベストセラーにして、7日間の重層的な擬似枠物語。 個人的には主宰する読書会の課題図書として、分厚さと情報量の多さから積読したままになっていた本書をようやく手にとりました。 さて、そんな本書は老僧アドソが【見習い修道士であったころの見聞を回想している】という形式を外枠に、イタリアのボッカチオ、10日物語『デカメロン』に代表される枠物語として内部には名うてのシャーロキアンでもあった著者によって、ネーミングから完全にホームズとワトソンを連想させられるバスカヴィルのウィリアム修道士と見習い修道士にして語り部役のアドソが修道院の連続殺人事件の謎を追いかける【7日間のミステリー小説】が収められているわけですが。 まず、とは言え"中世時代のミステリーでしょ?"と気軽な気持ちで読み始めて圧倒されてしまうのは、直接的な殺人事件の謎解きというよりは背景となる【ローマ・アヴィニョン軸の教皇とドイツ・神聖ローマ帝国による世俗的な権力を巡る争い】が作中の様々な立場を持つ登場人物たちの宗教、歴史、哲学など【膨大な情報量に溢れた会話としてあらわれている】部分で、正直に言うと上巻の時点で勉強不足な私は早くも挫折しそうになりました(下巻からスピードアップ?するので、何とか読み終えることはできましたが) 一方で、では難解な本か?と言われると(未鑑賞なのですが)映画ではウィリアムとアドソをそれぞれ、ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターが演じた姿を頭に浮かべながら、宗教論争をすっ飛ばして【閉じられた舞台(僧院)での本格ミステリー】としても十分にエンタメ作として感情移入して楽しめるわけで。 個人的には、それぞれに細密画家や古典翻訳、薬草やガラス係といった担当を持ち、僧院自体が文化サロン的役割を担っている所は京都在住の私は【天龍寺の五山文学界隈みたいなイメージを連想し】またウィリアム含め本を追い求める姿にはルネサンス黎明(れいめい)期のイタリアで写本を見つけ出し、それを正確に筆写するブックハンターの姿を描いた【『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(スティーヴン・グリーンブラット著)を直接的に思い出して】勝手に補完しながら楽しませていただきました。 重層的なレイヤーが込められた作品なので、読み手の眺め方によって、また年齢によっても感じ方が変わる本なので。何度か読み直すことになりそうな一冊。ミステリー好きはもちろん、中世や宗教論争といった文化や歴史に興味ある方にもオススメです。 | ||||
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"写字室の中は冷えきっていて、親指が痛む。この手記を残そうとはしているが、誰のためになるのかわからないし、何をめぐって書いているのかも、私にはもうわからない〈過ギニシ薔薇ハタダ名前ノミ、虚シキソノ名ガ今ニ残レリ〉。"1980年発表の本書はイタリアの記号論大家による映画化もされた世界的ベストセラーにして、7日間の重層的な擬似枠物語。 個人的には主宰する読書会の課題図書として、分厚さと情報量の多さから積読したままになっていた本書をようやく手にとりました。 さて、そんな本書は老僧アドソが【見習い修道士であったころの見聞を回想している】という形式を外枠に、イタリアのボッカチオ、10日物語『デカメロン』に代表される枠物語として内部には名うてのシャーロキアンでもあった著者によって、ネーミングから完全にホームズとワトソンを連想させられるバスカヴィルのウィリアム修道士と見習い修道士にして語り部役のアドソが修道院の連続殺人事件の謎を追いかける【7日間のミステリー小説】が収められているわけですが。 まず、とは言え"中世時代のミステリーでしょ?"と気軽な気持ちで読み始めて圧倒されてしまうのは、直接的な殺人事件の謎解きというよりは背景となる【ローマ・アヴィニョン軸の教皇とドイツ・神聖ローマ帝国による世俗的な権力を巡る争い】が作中の様々な立場を持つ登場人物たちの宗教、歴史、哲学など【膨大な情報量に溢れた会話としてあらわれている】部分で、正直に言うと上巻の時点で勉強不足な私は早くも挫折しそうになりました(下巻からスピードアップ?するので、何とか読み終えることはできましたが) 一方で、では難解な本か?と言われると(未鑑賞なのですが)映画ではウィリアムとアドソをそれぞれ、ショーン・コネリーとクリスチャン・スレーターが演じた姿を頭に浮かべながら、宗教論争をすっ飛ばして【閉じられた舞台(僧院)での本格ミステリー】としても十分にエンタメ作として感情移入して楽しめるわけで。 個人的には、それぞれに細密画家や古典翻訳、薬草やガラス係といった担当を持ち、僧院自体が文化サロン的役割を担っている所は京都在住の私は【天龍寺の五山文学界隈みたいなイメージを連想し】またウィリアム含め本を追い求める姿にはルネサンス黎明(れいめい)期のイタリアで写本を見つけ出し、それを正確に筆写するブックハンターの姿を描いた【『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(スティーヴン・グリーンブラット著)を直接的に思い出して】勝手に補完しながら楽しませていただきました。 重層的なレイヤーが込められた作品なので、読み手の眺め方によって、また年齢によっても感じ方が変わる本なので。何度か読み直すことになりそうな一冊。ミステリー好きはもちろん、中世や宗教論争といった文化や歴史に興味ある方にもオススメです。 | ||||
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知的な刺激に満ちた至福の時を味わった。 | ||||
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良い | ||||
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良い | ||||
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ウンベルト・エーコ当人曰く彼の小説の中で最低の出来だそうだが、どうしてどうして楽しめます。 映画化、ドラマ化もされているが、話の面白さ、わくわくする謎解き、残酷&過激な描写においてそれらは原作の1/10にも及ばない。翻訳もとても良いので是非小説で味わうことをおすすめします。 西洋史やキリスト教史に詳しい方は難なく読めるでしょうが、私のような無学な者は自前にせめて教皇ヨハネス22世やその時代背景についてとアリストテレスの詩学についてくらいをWikipediaででもざっと調べておくと楽しさが更に広がると思います。(が、ざっとで大丈夫です。それらの詳細は本の中でエーコが詳しく説明しています。) そして如何に名訳でも異型の建物の形状について、3階の図書館部分の部屋の頭文字で謎解きをするための間取りなどは、想像力だけでは補えないので、下巻108ページにある見取り図を参照にしてみてください。 そして時々立ち止まって地図や年表を、又○○の☓☓城に似た外観とあればその画像を調べる等、攻める読書をすると知的好奇心が満たされます。 とても良い小説で、あちらこちらに哲学者らしい事物の真理が散りばめられています。 実はイタリア語の原書を先に読んだのですが、難航してこちらの和訳版を改めてもとめました。素晴らしい翻訳だと思います。 作者も訳者も共にお亡くなりになってしまいましたが、イタリアでは2020年に何度目かの再販があったそうです。 | ||||
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上下巻および「バラの名前 覚書」を読んでの感想です。 この本を読むことに途中で挫折した人は、どのようなことが原因だったでしょうか。 私の場合は、まずは冒頭の手記。「こんなの要る?」という違和感があり、出鼻をくじかれました。 つづいて「プロローグ」にある14世紀の歴史的背景。馴染みがなかっのでこれは少しだけ調べました。 次の「第一日」の章では、主人公ウイリアムの鋭い推理が披露されて、やっと話の調子が出てきたかと思いきや、同章内の「六時課」で語られる聖堂の扉上部の装飾の長々とした描写でうんざりして、ここで読むのを中断 でもその後、意を決して続きを読み進めると、下巻の後半の怒涛の展開にすっかり魅了されました。 通読して思ったことは、この本は気持ち良く読める部分と、そうでない部分が混在する変な本だなということで、これが作者の意図したものなのか気になり「バラの名前 覚書」を読んでみたら、どうやら読みにくい部分は中世のペースを受け入れられるか否か、読者をふるいにかけているみたいです。 買ったまま放置している方は是非がんばって読んでみてください。今生きている時代の古典作品として、読んで損はないと思います。 | ||||
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素晴らしい内容の本です。 | ||||
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興味深い内容で良かったです! | ||||
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何回読み直しても、解釈が色々できる作品です。文を読み言葉が表象している物は一つではなく、一方目の前にある物がそこに存在するときは、一つの物に過ぎない。見るものによって記憶される時には多様な解釈がなされ、時間とともに(解釈している人間の人生にもより)変化する | ||||
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本書『薔薇の名前』は、刊行当時に読んで、とても楽しめた作品でした。 今回このレビューを書くことになったのは、『薔薇の名前』のなかで言及される、アリストテレスの『詩学』を(『薔薇の名前』を読んでから、約30年を経て)読み、そちらのレビューを書こうと思ったのがきっかけでした。 その下準備として、こちらの「Guraddosuton ha-Hatol」氏の懇切なレビュー(「必要な予備知識の概略です」)を再読したところ、『薔薇の名前』とキリスト教に関する予備知識の関係について、すこし解説しておいたほうが良いように思ったのです。 『薔薇の名前』を読んだ当時、私にはキリスト教についての知識は皆無でした。当時の私は、一介のミステリファンであり、その文脈で『薔薇の名前』を読んだのです。ですから、キリスト教に関する専門知識的な部分は、いわば「雰囲気」だけで読んだのですが、それでも十分楽しめました。 レビュアー「風よ雲よ」氏も書かれていますが、『薔薇の名前』を中世ヨーロッパ版『黒死館殺人事件』だと思えば、キリスト教に関する専門知識の部分が正確には理解できなくても、かえって想像を膨らませる要素(『黒死館殺人事件』の名探偵・法水驎太郎のペダントリと同様の要素)として十分に機能していたからだと思います。(ちなみに、P・K・ディックの「ヴァリス」三部作も、同様の楽しみ方をしました) その後、もともと「宗教=宗教心」というものの不思議に興味があって、独学でキリスト教を研究するようになり、それなりに知識を蓄積してきて、今回「Guraddosuton ha-Hatol」氏のご文章を再読させていただきましたところ、たいへんわかりやすくて便利な解説だと思った反面、氏の解説文自体、キリスト教の歴史について、ある程度の知識が無くては、なにがなにやら分からないのではないか、という危惧も抱きました。それくらい、日本においては、キリスト教に興味のある人と、そうでない人の溝は大きいということなのだと思います。 そうした意味では、東京創元社の翻訳版『薔薇の名前』に、そうした点での詳しい註釈が付けられていなかったというのは、あるいは賢明な選択だったかも知れません。 なぜなら、そうした詳しい註釈が付いていようが付いていまいが、そうした部分については、分かる人は分かるし、分からない人は分からないであろうからですし、逆にほとんどわからない難解な註がたくさん付いていたら、それに怖れをなして『薔薇の名前』という一級のエンターティンメント小説を敬遠した読者も、少なからず出たかも知れないからです。 ですから、『薔薇の名前』は、二度楽しめる作品だと思います。 キリスト教の知識が無くても、ミステリ小説として楽しめますし、知識があればあったで、エーコの仕掛けたキリスト教そのものに対する問題提起といった側面を楽しむことが出来るからです。 ただし、本書は、ミステリファンなら誰でも楽しめる、とまでは言えないでしょう。 と言うのも、前記の小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』は極めて特異なミステリ作品ですから、これを読了できないミステリファンというのも結構いるからです。 読みにくさという点では、『薔薇の名前』は『黒死館殺人事件』ほどではないので、その点は安心してもらってかまわないのですが、『黒死館殺人事件』はもとより中井英夫の『虚無への供物』や夢野久作の『ドグラ・マグラ』、竹本健治の『匣の中の失楽』といった作品の面白さが分からないというタイプの読者には、『薔薇の名前』も楽しめない公算が高いように思います。 映画版『薔薇の名前』のパンフレットに中井英夫が寄稿していましたが、『薔薇の名前』という作品と、『黒死館殺人事件』『虚無への供物』『ドグラ・マグラ』『匣の中の失楽』といった日本の特異なミステリ作品との間には、たしかに、ある種の類縁性が認められると思います。 私の見るところ、それは「知と超越性幻想」と言っても良いかと思います。 「ミステリ=推理小説」というのは「科学的合理主義に基づく知」によって「謎(ミステリー)=理解(知解)できない状態」を解き明かす(解体する)小説だと言えますが、一方『黒死館殺人事件』『虚無への供物』『ドグラ・マグラ』『匣の中の失楽』といった作品は、「科学的合理主義」を超えた部分での「謎」へ踏み込んでいく作品だとも言えます(だからこそ、これらの推理小説は「アンチミステリ」と呼ばれたりもします)。そして、そうした性格は「キリスト教信仰と近代的知の相剋」を描く『薔薇の名前』も同じなのです。 つまり、これらの作品には「近代的知とそれを超えた部分の相剋」が描かれています。 ですから、そうした「哲学的問い」に興味がある読者には、無類に楽しい作品ということになる反面、哲学的なものを「面倒くさいだけ」と感じる読者には、これらの作品が楽しめないということにもなる。したがって、これらの作品は「読者を選ぶ」作品にならざるを得ないんですね。 このようなわけで、『薔薇の名前』という作品を読む上で、私たちが注目すべきな「人間は矛盾に満ちた存在である」ということでしょう。 ある面では、科学的合理的に物事を見、判断して生きているのに、その反面、宗教的な感情を捨てきれないで、それに依存してもいます。そして、こうした「矛盾」が『薔薇の名前』では「連続殺人」というかたちで顕在化してしまう。 「理性的なものと非理性的なもの」が、上手く共存できればそれに越したことはないのだけれども、真面目に考えれば考えるほど、それらは矛盾葛藤を生むものとならざるを得ません。そこを無視することもまた、非理性的な態度だからです。 こうした難問を、私たちの誰もが抱えています。 そして、こうした「矛盾葛藤」を描いたのが『薔薇の名前』という作品だと言えるでしょう。 映画版を観た人は、思い出していただきたいのですが、本編の主人公であるバスカヴィルのウイリアムは「修道士にして名探偵」という、「二律背反」を最も先鋭化した存在です。だから、彼がこの修道院連続殺人事件の謎を解いた後の表情は、決して晴れやかなものではあり得ません。 なぜなら、彼のそんな合理的知性は、いやでも自身の信仰の合理性を問い、やがて解体せずにはおかないものであることを、彼自身が自覚しているからです。 言い変えれば、修道院連続殺人事件の謎を、合理的に解こうとはせず、それもこれも「神の意志(思し召し)」ということで済ませられれば、彼の信仰は揺らぐことはありませんでした。しかし、彼には、そんなことは出来なかった。彼の近代的知性が、それを許さなかったのです。彼のモデルである、オッカムのウィリアムがそうであったように。 したがって『薔薇の名前』という小説は、単にキリスト教のお話でも、単なる推理小説でもありません。この「二律背反」する性格のものの接触面で、激しく暗い火花を散らす、極めて普遍的で人間的な問題を提起した作品だと言えるのです。 だから、誰にでも読めるし、読みたくない人には読めない作品になっている、とも言えるのではないでしょうか。 | ||||
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本書『薔薇の名前』は、刊行当時に読んで、とても楽しめた作品でした。 今回このレビューを書くことになったのは、『薔薇の名前』のなかで言及される、アリストテレスの『詩学』を(『薔薇の名前』を読んでから、約30年を経て)読み、そちらのレビューを書こうと思ったのがきっかけでした。 その下準備として、こちらの「Guraddosuton ha-Hatol」氏の懇切なレビュー(「必要な予備知識の概略です」)を再読したところ、『薔薇の名前』とキリスト教に関する予備知識の関係について、すこし解説しておいたほうが良いように思ったのです。 『薔薇の名前』を読んだ当時、私にはキリスト教についての知識は皆無でした。当時の私は、一介のミステリファンであり、その文脈で『薔薇の名前』を読んだのです。ですから、キリスト教に関する専門知識的な部分は、いわば「雰囲気」だけで読んだのですが、それでも十分楽しめました。 レビュアー「風よ雲よ」氏も書かれていますが、『薔薇の名前』を中世ヨーロッパ版『黒死館殺人事件』だと思えば、キリスト教に関する専門知識の部分が正確には理解できなくても、かえって想像を膨らませる要素(『黒死館殺人事件』の名探偵・法水驎太郎のペダントリと同様の要素)として十分に機能していたからだと思います。(ちなみに、P・K・ディックの「ヴァリス」三部作も、同様の楽しみ方をしました) その後、もともと「宗教=宗教心」というものの不思議に興味があって、独学でキリスト教を研究するようになり、それなりに知識を蓄積してきて、今回「Guraddosuton ha-Hatol」氏のご文章を再読させていただきましたところ、たいへんわかりやすくて便利な解説だと思った反面、氏の解説文自体、キリスト教の歴史について、ある程度の知識が無くては、なにがなにやら分からないのではないか、という危惧も抱きました。それくらい、日本においては、キリスト教に興味のある人と、そうでない人の溝は大きいということなのだと思います。 そうした意味では、東京創元社の翻訳版『薔薇の名前』に、そうした点での詳しい註釈が付けられていなかったというのは、あるいは賢明な選択だったかも知れません。 なぜなら、そうした詳しい註釈が付いていようが付いていまいが、そうした部分については、分かる人は分かるし、分からない人は分からないであろうからですし、逆にほとんどわからない難解な註がたくさん付いていたら、それに怖れをなして『薔薇の名前』という一級のエンターティンメント小説を敬遠した読者も、少なからず出たかも知れないからです。 ですから、『薔薇の名前』は、二度楽しめる作品だと思います。 キリスト教の知識が無くても、ミステリ小説として楽しめますし、知識があればあったで、エーコの仕掛けたキリスト教そのものに対する問題提起といった側面を楽しむことが出来るからです。 ただし、本書は、ミステリファンなら誰でも楽しめる、とまでは言えないでしょう。 と言うのも、前記の小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』は極めて特異なミステリ作品ですから、これを読了できないミステリファンというのも結構いるからです。 読みにくさという点では、『薔薇の名前』は『黒死館殺人事件』ほどではないので、その点は安心してもらってかまわないのですが、『黒死館殺人事件』はもとより中井英夫の『虚無への供物』や夢野久作の『ドグラ・マグラ』、竹本健治の『匣の中の失楽』といった作品の面白さが分からないというタイプの読者には、『薔薇の名前』も楽しめない公算が高いように思います。 映画版『薔薇の名前』のパンフレットに中井英夫が寄稿していましたが、『薔薇の名前』という作品と、『黒死館殺人事件』『虚無への供物』『ドグラ・マグラ』『匣の中の失楽』といった日本の特異なミステリ作品との間には、たしかに、ある種の類縁性が認められると思います。 私の見るところ、それは「知と超越性幻想」と言っても良いかと思います。 「ミステリ=推理小説」というのは「科学的合理主義に基づく知」によって「謎(ミステリー)=理解(知解)できない状態」を解き明かす(解体する)小説だと言えますが、一方『黒死館殺人事件』『虚無への供物』『ドグラ・マグラ』『匣の中の失楽』といった作品は、「科学的合理主義」を超えた部分での「謎」へ踏み込んでいく作品だとも言えます(だからこそ、これらの推理小説は「アンチミステリ」と呼ばれたりもします)。そして、そうした性格は「キリスト教信仰と近代的知の相剋」を描く『薔薇の名前』も同じなのです。 つまり、これらの作品には「近代的知とそれを超えた部分の相剋」が描かれています。 ですから、そうした「哲学的問い」に興味がある読者には、無類に楽しい作品ということになる反面、哲学的なものを「面倒くさいだけ」と感じる読者には、これらの作品が楽しめないということにもなる。したがって、これらの作品は「読者を選ぶ」作品にならざるを得ないんですね。 このようなわけで、『薔薇の名前』という作品を読む上で、私たちが注目すべきな「人間は矛盾に満ちた存在である」ということでしょう。 ある面では、科学的合理的に物事を見、判断して生きているのに、その反面、宗教的な感情を捨てきれないで、それに依存してもいます。そして、こうした「矛盾」が『薔薇の名前』では「連続殺人」というかたちで顕在化してしまう。 「理性的なものと非理性的なもの」が、上手く共存できればそれに越したことはないのだけれども、真面目に考えれば考えるほど、それらは矛盾葛藤を生むものとならざるを得ません。そこを無視することもまた、非理性的な態度だからです。 こうした難問を、私たちの誰もが抱えています。 そして、こうした「矛盾葛藤」を描いたのが『薔薇の名前』という作品だと言えるでしょう。 映画版を観た人は、思い出していただきたいのですが、本編の主人公であるバスカヴィルのウイリアムは「修道士にして名探偵」という、「二律背反」を最も先鋭化した存在です。だから、彼がこの修道院連続殺人事件の謎を解いた後の表情は、決して晴れやかなものではあり得ません。 なぜなら、彼のそんな合理的知性は、いやでも自身の信仰の合理性を問い、やがて解体せずにはおかないものであることを、彼自身が自覚しているからです。 言い変えれば、修道院連続殺人事件の謎を、合理的に解こうとはせず、それもこれも「神の意志(思し召し)」ということで済ませられれば、彼の信仰は揺らぐことはありませんでした。しかし、彼には、そんなことは出来なかった。彼の近代的知性が、それを許さなかったのです。彼のモデルである、オッカムのウィリアムがそうであったように。 したがって『薔薇の名前』という小説は、単にキリスト教のお話でも、単なる推理小説でもありません。この「二律背反」する性格のものの接触面で、激しく暗い火花を散らす、極めて普遍的で人間的な問題を提起した作品だと言えるのです。 だから、誰にでも読めるし、読みたくない人には読めない作品になっている、とも言えるのではないでしょうか。 | ||||
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下巻に突入すると事件は連続殺人の様相を呈し始め、風雲急を告げる修道院、 100ページ付近からいよいよお待ちかねの悪役ベルナール・ギーが登場し物語りはがぜん活劇調を帯びてゆく(この娯楽性があったから映画化されたわけだ)、 異端信仰を隠し修道院に身を寄せていたサルヴァトーレの運命やいかに? ウィリアムとギーの宿命の対決に論理的決着はつくのか? 再三映画を鑑賞してしまっているので、さて、脚色と原作にどのような差があったのかばかりに注目して読み進んでしまう(読書としてはあまり健康的な読み方ではない)、 まだ途中だが小説に映画版のようなカタルシスあるクライマックスが訪れるのか楽しみでしょうがない(べつになくても何の問題もないのだが)、 冒頭の8ページに”使用人たちは十字を切って、魔よけの呪文を唱えた。”とある、 十字を切るとはキリストへの信仰だが、すると魔よけの呪文とは聖書にある言葉のはずだがそれは記されていない、 十字を切っただけでも魔よけになるはずだが、さて、魔よけの呪文はキリスト教の外、キリスト教浸透以前の古い呪術の名残か?などと考え始めるとすこしもページをめくれなくなってしまうまことに不健全で文字数は膨大だが実は中途半端な叙述ばかりにも読めてしまう、 上記のたった二十文字ほどを劇化するなら、どんな言葉を何語に発声するか決定する必要があるのである(ここで、おれは脚本家か?っと自分で突っ込んでおく)、 長い物語の大分を占める教義問答を読むと、英語の文脈で主義・主義者 -ism / -istと多用される淵源が教会にあったのだろうと想像できる、 日本の仏教でも宗派間の問答はそれなりに実施されてきたし、事実論敵を論難・論破した記録も残っているが、それが一般市民の思考なり会話なりにまで英語圏ほどには影響していない、 同じ阿弥陀如来を崇めながらも浄土宗と浄土真宗の一般の信徒・門徒達が他力と絶対他力についてあいてを強く非難するような日常をわれわれはもっていない(せいぜい、門徒物知らずと見下す程度のはなしだ)、 この稿未了、 | ||||
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