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シンセミア



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シンセミアの評価: 3.38/5点 レビュー 68件。 Bランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.38pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全68件 61~68 4/4ページ
No.8:
(2pt)

やはり、失敗作というほか・・・

 さまざまな書評で絶賛されていたので、この大冊を読んでみる気になった。しかし、そのような評判にもかかわらず、失敗作だという印象はぬぐえない。 本書の前半を通して、「盗撮」「監視社会」「ヤクザ」「ロリコン」といった過激なキーワードを満載した急テンポな物語が、たたみかけるように炸裂する。そこまではなかなか読ませるし、興奮させる。 そのいっぽうで、膨大数の登場人物がつつがなく配置されていくこの物語は、込み入ったストーリー展開のみに主眼がおかれ、それらの登場人物にほとんど人間味が感じられなくなってしまっている。読者がそう感じ始めたとたん、スリリングであるはずの本作は、ただただ長く退屈な、そして予定調和的な物語と化してしまう。 阿部はフォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」にならって本作を構想したそうだが、フォークナーに比べて本作は、雄大なアメリカ南部と矮小な山形県神町(本作の舞台)がかけ離れているくらいに、似ても似つかぬものである。
シンセミア(上)Amazon書評・レビュー:シンセミア(上)より
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No.7:
(2pt)

やはり、失敗作というほか・・・

さまざまな書評で絶賛されていたので、この大冊を読んでみる気になった。しかし、そのような評判にもかかわらず、失敗作だという印象はぬぐえない。 本書の前半を通して、「盗撮」「監視社会」「ヤクザ」「ロリコン」といった過激なキーワードを満載した急テンポな物語が、たたみかけるように炸裂する。そこまではなかなか読ませるし、興奮させる。 そのいっぽうで、膨大数の登場人物がつつがなく配置されていくこの物語は、込み入ったストーリー展開のみに主眼がおかれ、それらの登場人物にほとんど人間味が感じられなくなってしまっている。読者がそう感じ始めたとたん、スリリングであるはずの本作は、ただただ長く退屈な、そして予定調和的な物語と化してしまう。 阿部はフォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」にならって本作を構想したそうだが、フォークナーに比べて本作は、雄大なアメリカ南部と矮小な山形県神町(本作の舞台)がかけ離れているくらいに、似ても似つかぬものである。
シンセミア(上) (講談社文庫)Amazon書評・レビュー:シンセミア(上) (講談社文庫)より
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No.6:
(2pt)

心の筆は折っちゃった?

作家の大ファンな私には残念な本でした。阿部和重の本は全部購入しておりますが、本作は作者の魅力である部分が削られて無くなっていました。かつての、意識が蒙昧と自己崩壊して、ギリギリのところで展開していくスリリングで内省的な話とはうってかわりただのエログロなストーリーテリングに終始していると思います。ガルシアマルケスの「百年の孤独」を思いださせる 呪われた一族・土地のお話です。それが どうにも阿部氏の筆に合っていないようで人間の重なり合いが生きておらず、薄っぺらく感じてしまいます。ただ、私は「インディヴィジュアル・プロジェクション」が彼の中で一番の作品と思っていたので、本当に感じ方は人それぞれなんですね。
シンセミア(上)Amazon書評・レビュー:シンセミア(上)より
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No.5:
(2pt)

心の筆は折っちゃった?

作家の大ファンな私には残念な本でした。
阿部和重の本は全部購入しておりますが、
本作は作者の魅力である部分が削られて無くなっていました。
かつての、意識が蒙昧と自己崩壊して、ギリギリのところで展開していく
スリリングで内省的な話とはうってかわり
ただのエログロなストーリーテリングに終始していると思います。ガルシアマルケスの「百年の孤独」を思いださせる 
呪われた一族・土地のお話です。
それが どうにも阿部氏の筆に合っていないようで
人間の重なり合いが生きておらず、薄っぺらく感じてしまいます。ただ、私は「インディヴィジュアル・プロジェクション」が彼の中で
一番の作品と思っていたので、本当に感じ方は人それぞれなんですね。
シンセミア(上) (講談社文庫)Amazon書評・レビュー:シンセミア(上) (講談社文庫)より
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No.4:
(5pt)

2000年山形県東根市神町 1870年ペテルブルグ近郊

 阿部和重氏の大作がいよいよ完成。戦後アメリカがパン食を給食にすることで大量の小麦粉を日本に流入させてきた実情を踏まえ、神町の進駐軍との関わりで、白い粉(小麦粉)による利権を獲得してきた「パンの田宮」と白い粉(マリファナ)による利権を獲得してきた「麻生興業」「笠谷建設」の初代・二代目が、のどかな田舎神町で暗躍してきたいきさつを冒頭に述べ、いきなり2000年夏の三つの事件・事故による死をもって始まる本作は、猥雑な高揚感に満ちている。三代目の青年たちの関わる盗撮、暴力、いじめ、そして次々に襲いかかる地震、洪水、停電……スリリングでスピード感溢れる展開は、息つく間も与えない。 この構造は、ドストエフスキーの「悪霊」を思わせる。片や1840年代の自由主義者が生み出した60年代の虚無的な青年たち。片や戦後のアメリカ支配により暗躍したヤクザたちが生み出した幼稚で暴力的で変質的な青年たち。ニコライ・スタヴローギンの崇高なヒーローぶりに比べて田宮博徳も中山正も松尾丈士も情けなさすぎる平成の男たちなのだが、2000年「神町」を旧約聖書のノアの方舟になぞらえる阿部氏の手腕は並々ならぬ才能に溢れており、彼が平成文学のヒーローであることは間違いない。
シンセミア(上)Amazon書評・レビュー:シンセミア(上)より
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No.3:
(5pt)

2000年山形県東根市神町 1870年ペテルブルグ近郊

阿部和重氏の大作がいよいよ完成。戦後アメリカがパン食を給食にすることで大量の小麦粉を日本に流入させてきた実情を踏まえ、神町の進駐軍との関わりで、白い粉(小麦粉)による利権を獲得してきた「パンの田宮」と白い粉(マリファナ)による利権を獲得してきた「麻生興業」「笠谷建設」の初代・二代目が、のどかな田舎神町で暗躍してきたいきさつを冒頭に述べ、いきなり2000年夏の三つの事件・事故による死をもって始まる本作は、猥雑な高揚感に満ちている。三代目の青年たちの関わる盗撮、暴力、いじめ、そして次々に襲いかかる地震、洪水、停電……スリリングでスピード感溢れる展開は、息つく間も与えない。 この構造は、ドストエフスキーの「悪霊」を思わせる。片や1840年代の自由主義者が生み出した60年代の虚無的な青年たち。片や戦後のアメリカ支配により暗躍したヤクザたちが生み出した幼稚で暴力的で変質的な青年たち。ニコライ・スタヴローギンの崇高なヒーローぶりに比べて田宮博徳も中山正も松尾丈士も情けなさすぎる平成の男たちなのだが、2000年「神町」を旧約聖書のノアの方舟になぞらえる阿部氏の手腕は並々ならぬ才能に溢れており、彼が平成文学のヒーローであることは間違いない。
シンセミア(上) (講談社文庫)Amazon書評・レビュー:シンセミア(上) (講談社文庫)より
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No.2:
(4pt)

小林秀雄→中上健次→阿部和重

 阿部和重が『シンセミア』で達成したのは、個人の生死を完璧に社会的諸関係の結果として描ききる力技であった。これは驚くべき達成である。〈個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである〉から。 この作品に先行するモデルとしてドストエフスキーの『悪霊』が上げられる。この傑作とまともに取り組んだのはその批評能力のピークにあった壮年期の小林秀雄であったが、「『悪霊』について」は、スタヴローギンの縊死の場面を提示したところで未完に終わっている。『罪と罰』におけるスヴィドリガイロフの自殺の場面と同様に、ドストエフスキーは何ら説明を述べていないのであるが、小林は説明しようとして放棄してしまったように見える。 ところで、中上健次の『地の果て 至上の時』で浜村龍造の縊死の場面を読んだ時、これは、あれだ、スタヴローギンの場面と同じだ、と直覚した。中上健次は、壮年期の小林が未完のまま放棄した到達点を引き受けて決着をつけてしまった。 小林が、ドストエフスキーに関するいくつもの力作を未完のまま放棄したのは、批評能力の欠如のためではない。社会に対する働きかけを断念し、批評作品の制作を自己目的化してしまうに至った姿勢がそのような事態を招いたのだ。 中上健次が決着をつけたのは、何らかの解決概念を提示した、ということではない。放置されたがゆえに謎としてとどまっていたシーンを、作品制作を通じて社会に働きかけるという姿勢を保ち続けることによって、次々と突破したのだ。宗教、すなわち死者に対する債務感情から開放されるには、他に方法はないであろう。 阿部和重の高度な達成は、今後、作家が社会とどのような関係を切り結ぶか、規定してしまうのではないだろうか。
シンセミア(上)Amazon書評・レビュー:シンセミア(上)より
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No.1:
(4pt)

小林秀雄→中上健次→阿部和重

阿部和重が『シンセミア』で達成したのは、個人の生死を完璧に社会的諸関
係の結果として描ききる力技であった。これは驚くべき達成である。〈個人は
、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の
所産なのである〉から。 この作品に先行するモデルとしてドストエフスキーの『悪霊』が上げられる。この傑作とまともに取り組んだのはその批評能力のピークにあった壮年期の小
林秀雄であったが、「『悪霊』について」は、スタヴローギンの縊死の場面を
提示したところで未完に終わっている。『罪と罰』におけるスヴィドリガイロ
フの自殺の場面と同様に、ドストエフスキーは何ら説明を述べていないのであるが、小林は説明しようとして放棄してしまったように見える。
 ところで、中上健次の『地の果て 至上の時』で浜村龍造の縊死の場面を読
んだ時、これは、あれだ、スタヴローギンの場面と同じだ、と直覚した。中上
健次は、壮年期の小林が未完のまま放棄した到達点を引き受けて決着をつけて
しまった。 小林が、ドストエフスキーに関するいくつもの力作を未完のまま放棄したの
は、批評能力の欠如のためではない。社会に対する働きかけを断念し、批評作
品の制作を自己目的化してしまうに至った姿勢がそのような事態を招いたの
だ。
 中上健次が決着をつけたのは、何らかの解決概念を提示した、ということではない。放置されたがゆえに謎としてとどまっていたシーンを、作品制作を通
じて社会に働きかけるという姿勢を保ち続けることによって、次々と突破した
のだ。宗教、すなわち死者に対する債務感情から開放されるには、他に方法は
ないであろう。 阿部和重の高度な達成は、今後、作家が社会とどのような関係を切り結ぶか、規定してしまうのではないだろうか。
シンセミア(上) (講談社文庫)Amazon書評・レビュー:シンセミア(上) (講談社文庫)より
4062775484

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