■スポンサードリンク


Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数85

全85件 21~40 2/5ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
 閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
No.65: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

お仕事小説とミステリの美事なコラボレーション

東野圭吾作家生活25周年記念として3冊の作品が2011年に発表された。

1つは加賀恭一郎シリーズ『麒麟の翼』、もう1つは探偵ガリレオシリーズ『真夏の方程式』、そして最後が本書だ。
そして本書は東野作品2大シリーズと並んで新シリーズと謳われている。

このシリーズ第1作は昨今流行りのお仕事小説にこれまた昨今ブームとなっている警察小説を見事にジャンルミックスした非常にお得感のある小説となっているのが特徴だ。

まず導入部で一流ホテルウーマン山岸尚美の有能ぶりを小さなエピソードで読者に紹介し、一方で新田浩介の粗削りながらも一刑事としての有能さをまたもや小さなエピソードで読者に浸透させる。
人を笑顔で迎え、常に感謝の気持ちを忘れないと心がけるホテルウーマンと常に人を疑ってあらゆる可能性を考える刑事という職業のミスマッチの妙を実に上手く物語にブレンドしている。東野氏が書くと実にたやすく感じるが、実はこのような真逆の分野を無理なく溶け込まして物語を進行させる技量の高さを感じさせないところが東野圭吾氏の凄さだろう。いやはや東野圭吾氏の着眼点の鋭さには恐れ入る。

また本筋の殺人事件の捜査とは別に本書ではホテルを舞台にしていることでヴァラエティに富んだ珍客が登場するのがいいアクセントとなっている。

妙齢の老婦人はなぜ目が見えないふりをして、不可解なクレームをつけるのか?

写真の男を決して近づけないようにホテル従業員に強要する女性。

新田を名指しして不可解なクレームをつける年齢不詳の小男、などなど。

これらの謎が解き明かされた時にまた1人1人の客が様々な思いを抱えてホテルという非日常空間に来ていると知らされる。

これらはいわば日常の謎である。
こんなエピソードをちりばめながら水と油の存在だった山岸尚美と新田浩介の関係を近づけていく。そして後々にこれらのエピソードもメインとなる事件に有機的に関わってくるのだからまさに抜け目のない出来栄えだ。

山岸尚美と新田浩介。
この相反する2人がそれぞれのプロ意識をお互いに認めながら次第に打ち解けあうのはこのようなミスマッチコンビ物語の常ではあるが、東野圭吾氏はそこに組織の問題をうまく挟んでそう易々と名コンビを誕生させない。

さて今回山岸尚美と新田浩介という二大主人公のキャラが立っているのが本書の面白みの1つであるが、彼らを支えるバイキャラクターの存在も忘れてはならない。

まず1人目はコルテシア東京の総支配人藤木。
山岸をホテルウーマンになろうと決心させた上司で彼女を一流のホテルウーマンに育て上げた人物でもある。常にお客の安全と満足を考え、今回の捜査で何かが起これば辞職も辞さない決意を持った生粋のホテルマン。

もう1人は能勢という所轄の刑事だ。
最初に起きた品川の事件の捜査で新田と組むようになった中年太りの髪の薄い、一見うだつの上がらなさそうな風体の刑事だが、刑事コロンボのように相手を油断させておいて常に鋭い目で人間を見つめている有能さを備えている。特に若くして捜査一課の刑事の抜擢された新田の本質を見抜き、ヴェテラン刑事が素質ある有望な若手を育てようとする温かみが感じられる好キャラクターだ。

これらのバイキャラクターの存在が山岸と新田の人物像に厚みを持たせ、物語に深みをもたらしている。

さてこのようにまさに面白い小説の良いお手本のような本書であり、まさに完璧だと思われるのだが、1点だけどうしても気になるところがある。

それは監視カメラについて警察があまり言及がなされないことだ。
例えば犯人が毒入り(と思われる)ワインを送った際、警察は購入先を捜査し、コンビニで買ったことを突き止めるが、対応した従業員による聞き込みしかせずに防犯カメラの映像を確認すらしない。そこに違和感を覚えるのである。
他にも監視カメラや防犯カメラを使えばいつどこに誰がいるか、もしくはいたかが解るにも関わらずである。
クライマックスシーンの山岸尚美の行き先についてもそうだ。候補として挙げられた部屋番号が判明しているのだから、当該階にあるホテルの廊下に設置されている防犯カメラを調べればいいのである。
昨今のTVドラマでは防犯カメラの映像が実に効果的に使用されており、また他の警察小説でも同様の手法を取り入れているのに、なぜか東野作品における防犯カメラを警察が活用する頻度が実に低いのである。
特に本書の場合、携帯電話を使った電話番号差し替えのトリックや闇サイトにおける重層的な交換殺人と実に現代的な犯行計画が用いられているのに、捜査側のアナログ感が非常にアンバランスだと感じた。これは作品にとっては瑕疵にすぎないかもしれないが、他の作品でも同様に感じたことでなかなか改善がなされないので今回も敢えて挙げさせてもらった。

さて上にも書いたように本書は新シリーズ1作目ということですでに2作目の本書の前日譚である『マスカレード・イヴ』が発表され、それは本書の事件以前の山岸尚美と新田浩介の物語とのこと。しかしそうそう刑事がホテルと関わり合いを持つことはないだろうから、3作目『マスカレイド・ナイト』がどんな形になるのか気になるところだ。
個人的には名バイキャラクター能勢と新田のコンビの復活を願いたいところだ。まあ男2人の、しかも一方は小太りで髪の薄い中年オヤジだから絵としては実に栄えないのだが。

しかし25周年記念作品で『麒麟の翼』、『真夏の方程式』、そして本書といずれもクオリティが高いのがすごいところだ。一体どこまで行くのだ、この作家は。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
マスカレード・ホテル
東野圭吾マスカレード・ホテル についてのレビュー
No.64: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

シリーズ1作目だからこその大トリック!

森博嗣の新シリーズVシリーズ、堂々の開幕である。
先行する短編集『地球儀のスライス』所収の「気さくなお人形、19歳」で既に小鳥遊練無と香具山紫子は既に登場済みだったのですんなりと物語世界に入れた。しかしその短編ではてっきり小鳥遊練無は女子大生と思っていたのだが、なんと女装の男子大学生だったとは!

そして小鳥遊の理解者で関西弁の姉御肌の長身美人香具山紫子に自称探偵兼便利屋の保呂草潤平。彼の憧れの的でバツイチお嬢様の没落貴族の趣がある瀬在丸紅子とシリーズはこの4人を中心に進むそうだ。そしてこの4人が実に個性的で私には好感を持って読むことが出来た。

S&MシリーズよりもこのVシリーズの方が私の好みに合うのはメインの登場人物たちが個性的であるのもそうだが、何よりも西之園萌絵の不在が大きい。あの世間知らずの身勝手なお嬢様がいないだけでこれほど楽しく読めるとは思わなかった。
確かに瀬在丸紅子もお嬢様だが、30歳という年齢もあってか、どこか大人の落ち着きが見られ、不快感を覚えなかった。

さらに保呂草は瀬在丸紅子に惚れているが、紅子は保呂草には全く好意を示しておらず、一方で香具山紫子は保呂草に惚れているが、彼は全くそれに気付いていない。そして紅子は小鳥遊練無を可愛がっている。
この4人の奇妙な関係も物語に彩りを添えている。

さてシリーズ1作目の事件は連続殺人事件。しかも1年に一回起きる殺人事件でどれも共通してゾロ目の日にゾロ目の年齢の女性が殺害されている。
3年前は7月7日に11歳の小学生の女の子が、2年前は同じく7月7日に22歳の女子大生が、そして1年前には6月6日に33歳のOLが絞殺され、そして今年は6月6日に44歳の誕生日を迎えた小田原静江が殺害される。そして凶器はインシュロック、電気工事や最近ではDIYで使われることで有名になったナイロン製の結束バンドだ。

これら無差別殺人だと思われた一連の殺人事件にはあるミッシングリンクがあることが判明する。

そしてそれを見破った瀬在丸紅子もまた天才の1人だった。

まさかまさかの真犯人。しかしこれこそ読者に前知識がない、シリーズ第1作目だから出来る意外な犯人像。タブーすれすれの型破りな真相を素直に褒めたい。

しかしそんな驚愕の真相の割には殺人事件のトリックは意外と呆気ない。

本書は1999年の作品だがこんなチープなトリックを本格ミステリ全盛の当時で用いるとは思わなかった。

さてタイトルの隠された意味は理系の学生ならば皆知っていると書かれているが、私は知らなかった…。

天才同士の戦い、数学的興味に満ちた殺人動機とS&Mシリーズ第1作『すべてはFになる』を髣髴とさせる設定であるのは作者として意識的だったのだろうか。
S&Mシリーズと表裏一体の構成はこれからのシリーズ展開を示唆しているのだろうか。

ともあれ保呂草潤平、小鳥遊練無、香具山紫子、瀬在丸紅子らの織り成す居心地の良い新シリーズはまさに波乱に満ちたシリーズの幕明けとなった。
正直S&Mシリーズは世評高い1作目を読んでもそれほど食指が動かなかったが―多分に西之園萌絵のキャラクターがその原因であったのだが―今度のVシリーズは今後の展開が非常に愉しみだ。

ところで何故Vシリーズって呼ぶの?


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
黒猫の三角―Delta in the Darkness (講談社文庫)
森博嗣黒猫の三角 についてのレビュー
No.63: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

もはや理系作家とは呼ばせない!

森氏がシリーズの節目に刊行する短編集。本書はS&Mシリーズ完結の節目に編まれた第2短編集だ。

最初の「小鳥の恩返し」は昔話のモチーフから物語が転じる様子が鮮やかだ。
いきなり心揺さぶられる短編である。
現代の童話とも云うべき小鳥の恩返しと云うテーマから陰惨な殺人事件の驚愕の真相が立ち上ってくる。寓話的な主題が事件の哀しい結末と結びつく、珠玉の1編だ。

「片方のピアス」もまた幻想的かつ切ない印象を残す作品だ。
双子の兄弟の一方と付き合っていながらも他方に魅かれるというあだち充氏の『タッチ』などに代表されるラヴコメの定番のような設定をこれほどまでに叙情的かつ幻想的な1編に仕上げる森氏の技巧の冴えに感服する。
兄に隠れて逢瀬を重ねる2人。決して叶わない恋の行く末に絶望を抱きながらも好きにならずにいられない2人。そしてサトルが選択した究極の決断。

「素敵な日記」は不思議な話だ。
手記で繰り広げられるその内容は被害者がそれぞれ綴った日記だ。
それはある時は詩であり、それはある時は事件の一部始終を語ったものだ。
山荘でひっそりと亡くなった若い男の密室死。それを発見した恐らくはヒモの男もまた付き合っていた女性によって殺害され、その女性もまた殺害される。そしてその捜査を担当する刑事の手記と日記を発明した最初に亡くなった若い男性の父親の手記を経て日記の正体が明かされる。
人から人へ渡り、その所有者が次々と亡くなる呪われた日記というモチーフがこんなにSF的な意外性を持った結末を迎えるとは。こんな発想はまさに森氏ならではだ。

「僕に似た人」はマンションの隣人同士の交流を語った物語。

終了したS&Mシリーズが短編と云う形で帰ってくる。本書には2編収録されており、まず1つ目の「石塔の屋根飾り」は犀川が西之園萌絵とその叔母佐々木睦子と叔父捷輔、そして国枝桃子と喜多に問いかけるのは萌絵の父恭輔がインドで出逢った巨石を掘り込んで作られた石塔の屋根飾りがなぜか塔の屋根ではなくその隣に建てられていたかを生前の恭輔が解き明かした説を推察する話。
所謂日常の謎系のミステリだが、それを陰の存在である執事の諏訪野が解き明かすのが本編の妙味か。

もう1編「マン島の蒸気鉄道」は観光小説とも云える作品。喜多と大御坊と犀川は偶然イギリスへの出張で一緒になり、それをきっかけにマン島にある西之園家の別荘で佐々木睦子を交えてのディナーに招待される。
逆回転の三本脚の真相は実にしょうもないもの。
それよりも作中で大御坊が出した機関車のクイズの答えの方が気になる~!

さて幻想小説が続く。

「有限要素魔法」は不可解な物語だ。
この2つの事件が並行して語られるが、この関係のない事件がどこか次元のずれた世界で起きているように語られ、物語は唐突に終わる。この平衡世界が繋がりそうで繋がらないむずかゆさだけが残される。

次の「河童」はまだ解りやすい作品だ。
多感な高校生の娘亜依子を巡って翻弄される2人の男。突然消えた親友は果たして手首を切って池に飛び込んだのか?
未だに死体が見つからない彼が消えたとされる池に最後に浮かんでくる頭が真相を示している。森氏にしてはオーソドックスなホラーだ。

そして最後の2編は「思い出」の物語だ。

「気さくなお人形、19歳」は19歳の女子大生小鳥遊練無が出くわす奇妙なバイトの話。
森氏にしては実にオーソドックスな物語だ。典型的な人生の皮肉の物語。
しかし本書の主眼はそこにはなく、やはり小鳥遊練無という少林寺を嗜むボーイッシュで男勝りで恐らくルックスもいい女子大生のキャラクターを愉しむことにある。
彼女の一人称で語られる非常にライトな語り口は過剰なまでにふざけているように感じて最初は抵抗感があったが、物語が進むにつれて彼女の優しさが垣間見えて、最後には実に魅力的な小鳥遊練無像が浮かび上がってくるのだから不思議だ。
そして彼女と彼女が住むアパートの隣人香具山紫子と保呂草は次のVシリーズの登場人物であるそうだ。つまり本編は次シリーズのイントロダクション的作品と云えよう。

最後の「僕は秋子に借りがある」は実に切ない物語だ。
この作品には語りたいことがたくさんある。読後、心が秋子で満たされる。それほどこの秋子という女性が魅力的なのだ。後ほど存分に語る事にしよう。


森氏は短編になると情緒が際立つ文系色が出てくると自身でも述べているようで、『まどろみ消去』でもその特徴は顕著に表れていたが、第2集の本書ではそれがさらに洗練さを増している。

とにかく冒頭の3編が素晴らしい。
「小鳥の恩返し」の湛える大事な物を喪った切なさ、「片方のピアス」の禁断の恋に溺れるカップルが迎える悲劇、全編手記で展開する「素敵な日記」の読めない展開が最後に一気に想像を遙かに超えた、そして全てが腑に落ちる驚愕の真相と立て続けに打ちのめされる。

その後には完結したS&Mシリーズが短編で2編収録されているのはファンとしては嬉しいサーヴィスであろう。特にその2編では今まで前作に登場しながらも萌絵の影となり支えてきた執事の諏訪野にスポットを当てているのが興味深い。しかもそれらは日常の謎系のミステリでほのぼのとした雰囲気が心地よい。萌絵の非常識ぶりも抑えられていて、これなら普通に読むことができる。

そして次は幻想小説が続く。

森氏はS&Mシリーズでも感じていたが、どこか幻想小説を好む指向性がある。ミステリでありながら動機にあまり執着せず、トリックと犯人に固執する。シリーズ最終作では殺人事件の犯人や動機よりも真賀田四季の居所が最大の謎だったことからも明白だ。

そんな彼の幻想趣味が短編では存分に発揮されている。「僕に似た人」、「有限要素魔法」、「河童」の3編。幻想強度としては「河童」<「僕に似た人」<「有限要素魔法」の順になろうか。特に「有限要素魔法」は有限要素法とは関係がないように思えるのだが。

そして最後はオーソドックスでありながらもやはり心に強く残る、想い出の物語。
「気さくな人形、19歳」は老人が自分の亡くなった娘にそっくりな女子大生に共に過ごすだけのバイトを頼む。偶々テレビで見かけた自分の娘そっくりな女性を発見したことで適わぬ想い出づくりをしたかったのだろう。そしてその役目を務めた小鳥遊練無の魅力的な事。イントロダクションに相応しい快作だ。

そして最後の「僕は秋子に借りがある」は実に美しい物語だ。
突然現れたいわゆる不思議っ娘、秋子。彼女の話はとりとめがなく、思いつくままに行動し、主人公木元を翻弄する。木元が姉を事故で亡くしたと云えば彼女も兄を工場の爆発事故で亡くしたと云い、家に置くと捨てられるからと大量のファッション雑誌やインテリア雑誌を紐の切れた紙袋に入れて持ち歩く。
面白い所に連れていくと云って亡くなった兄のイラストレーターの友人の家に連れて行き、ただ過ごすだけ。
ある朝突然電話かけてきて近くのミスドに来いと云う。行ってみると木元に逢いたくて30キロもの道のりを徹夜して歩いてきたのだという。

それは木元にとっては迷惑に感じながらもその実とても魅力的でファンタスティックな出来事であったこと。

物語が閉じると同時に木元が感じた思い、つまりそれは題名「僕は秋子に借りがある」と思わされる。
この物語は作者の想い出に似た宝石のようなものがこぼれ落ちて生まれたようなものなのだろう。当然ながらこれが個人的ベストだ。

そして次点はやはり最初の3編「小鳥の恩返し」、「片方のピアス」、「素敵な日記」となる。「僕は秋子に借りがある」がなければ甲乙つけがたく3作同点ベストとなっていただろう。

しかし小鳥遊練無といい、秋子といい、森氏の描く女性は難と魅力的なことか。
西之園萌絵には最初から最後まで辟易し、この短編でも好感度が増すことがなかったので、正直森氏の女性像には失望していたのだが、本書ではその考えを180度変えざるを得なくなった。
いやあ次のVシリーズが愉しみになってきたぞ!


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
地球儀のスライス (講談社文庫)
森博嗣地球儀のスライス についてのレビュー
No.62: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

おかしくもやがて哀しき文壇の面々

東野圭吾氏のユーモア小説集『~笑小説』シリーズ第4弾。
前作『黒笑小説』の冒頭で4作の連作短編となっていた出版業界を舞台にしたブラックユーモアの短編が1冊丸々全編に亘って「歪んだ笑い」を繰り広げる。いわゆる出版業界「あるある」のオンパレードだ。

初っ端の「伝説の男」は数々のベストセラーを生み出した伝説の編集者、獅子取の話。
伝説の編集者獅子取の過剰なまでのサービス精神が全くフィクションに思えないのが怖い。とにかく売れる玉を得るためならば編集部もここに書かれていることくらいやるだろうと思ってしまう。そう、獅子取が決して書かないと毛嫌いしているベストセラー作家に対して取ったプロポーズ作戦もまた、あり得そう!

「夢の映像化」は作家なら一度は夢見る自作の映像化。
自作の映像化を喜ぶ新人作家の浮かれた気持ちと自作を大事にしたいという思いの狭間でジレンマに迷う作家の物語…とまでならないのが熱海圭介という男の底の浅さだ。前作では作家デビューしたことで勘違いし、会社を辞めてしまうし、ドラマ化されたことでベストセラー作家への仲間入りと勘違いして夢想に耽る。
この物語を今や発表すれば映像化の東野氏が書いたことに意義がある。熱海の浮かれようは永らく不遇の時代を過ごした彼の当時のそれだったのかもしれない。

「序ノ口」は新人作家唐傘ザンゲの文壇ゴルフデビューの物語。
これは少しいい話。私はゴルフをしないが、会社と云う組織に属さない自営業の作家が他の作家たちと一堂に会してゴルフをする。その初めての時とはこんなものなのだろう。いろいろ出てくる作家の名前が実在の作家の姿とダブる。
最後の大御所作家の話が実にいい。

「罪な女」は男なら一度は陥る間違いでは?
男はバカな者で若くて綺麗な女性の前ではついつい警戒を緩めてしまう。しかもその女性が自分の作品に好意を持っているなら尚更だ。
しかし今回ばかりは熱海を笑うことが出来ない男性が多いのではないか。ほとんどの男性は恐らく熱海の姿に自分を重ねることだろう。

作家を目指す者には臨場感を一層感じるだろう。「最終候補」は閑職に追いやられリストラ寸前のサラリーマンが浮いた時間を利用して創作し、新人賞に応募し、最終候補に残る話である。
主人公の石橋堅一の境遇はどこかの会社にいるであろうサラリーマンの姿であろう。
会社ではたった一人の部署に追いやられ、周りの同僚たちにも蔑まされ、家庭では給料が上がらないのかとため息をつかれる。早く会社を辞めて専業作家になろうと努力する。

今回の作品群の中でもっとも業界のタブーに触れたのが「小説誌」ではないか?
定期刊行物の小説誌がどの出版社も売れていないのは実は周知の事実で、出版社は赤字を承知で小説誌を刊行している。それはそこに掲載している連載の長編や短編を後に単行本化して売るためであり、さらに作家との繋がりを続けるためでもある。
しかし商品として考えた場合、この小説誌というのは一体どうなのか?と東野氏は本作の中でどんどん切れ込んでいく。
曰く、連載物を読んでいる読者はいるのか?
連載から手直しして単行本化するならばそれは出来の悪い下書きではないか?
そんな不良品を消費者に提供していいのか?
作家を大切にして読者を大切にしてないのではないか?とその舌鋒は限りなく鋭い。
これは誰もが思っていても大人であるからこそ云えない質問の数々を会社見学に来た中学生の口からどんどん触れてはいけないと思っていたタブーに切れ込んでいく。その正論がいちいち納得できるのだから面白い。

「天敵」では再び唐傘ゾンゲ登場。
ここで語られる作家の奥さんのパターンが面白い。
作品には無関心だが売れ行きには関心のある無関心タイプ、夫の捜索活動に触発されて自らも芸術的活動に着手する目立ちたがりタイプ、夫の作風に心酔し、最も身近なファンとして作品に細かく指示を出すプロデューサータイプ。

「文学賞創設」は灸英社が新たな賞を創る話。
本書では大衆文学の最高賞直木賞、その前哨戦とも云える吉川英治文学賞や山本周五郎賞を想起させる賞の名前が出てくる。この2巨頭に対抗する賞を創ると云うのは他の出版社にとっては彼岸なのだと云う事が解る。
今では数々の賞があり、乱立といっても過言ではないが、なぜそれほどまでに出版社が賞を創設したがるのかが少し解った気がする。そしてどんな賞でも受賞すれば作家は嬉しいものだとほんのり心が温かくなる話だ。

「ミステリ特集」は小説誌で短編ミステリ特集を組むことになったが参加作家の1人が原稿を落として、代役を立てなければならなくなる話だ。その白羽の矢が立ったのは例の熱海圭介。この勘違いハードボイルド作家への依頼は本格ミステリだった。
本書に登場する長良川ナガラ、糸辻竹人といった実在のモデルを髣髴とさせる創作秘話のコメントが実に「らしく」て面白い。

「引退発表」では『黒笑小説』の第1作目「もうひとりの助走」で登場した作家寒川心五郎が登場する。
本書を読んで即思い出したのは海老名美どりの女優引退会見だった。何事かと思って集められた記者たちの前で当時女優だった海老名美どりが打ち明けたのは女優を引退してミステリ作家になるということだった。正直微妙な空気が会見場に流れたのを今でも覚えているが、本書も寒川も決して名の売れた作家ではなく、正直引退会見を開くほどの大物ではない。しかし担当していた編集者たちにとって作家に最後の花道を授けることは編集者冥利に尽きるようで、案外真摯に受け止め、どうにかしてやりたいと思っていることが興味深かった。

売れない作家を売る方法教えます、とでも副題がつきそうなのが次の「戦略」だ。
イメージ戦略、サイン会のサクラ投入と金を掛けずにベストセラーを生み出そうと四苦八苦する獅子取の作戦は果たして功を奏しないのだが、結末はどこか晴れ晴れとしている。

最後は「天敵」で登場した須和元子と唐傘ザンゲこと只野六郎の結婚話がテーマの「職業、小説家」だ。
作家稼業が必ずしも安定した生活基盤を築くかと云えば決して、いやほとんどゼロに近いだろう。
今までの作品の中でコアなファンを持つ、灸英社が期待する新人唐傘ザンゲも、出版業界ではそこそこの売れ筋になるだろうが、実際の収入は20代のサラリーマンのそれよりも劣るくらいだということを詳細に本書では語る。そんな相手に大事な娘を与えることが果たして娘の幸せに繋がるかというのは娘を持つ親ならば誰もが思うことだろう。そんな恐らく同じような境遇の娘を持つ男親の気持ちを実にリアルに語っている。
そして結婚を許す後押しとなるのは作家ならばやはり自分の作品で語るしかないのだ。金ではなく、応援したいという気持ちをいかに持たせるか。厳しい作家たちの結婚問題が本作では垣間見える。


おかしくもやがて哀しき文壇の面々を描いたユーモア連作短編集。前作『黒笑小説』の「もうひとりの助走」から「選考会」までの4作品の世界を引き継いでいる。

売れない若手作家で勘違い野郎の熱海圭介。いきなりデビュー作が売れて話題になった唐傘ザンゲ、出版社灸英社サイドは前作ではちょい役だった小堺がレギュラーで登場し、神田も随所で顔を出し、さらに第1作の「伝説の男」でベストセラーを連発する伝説の編集者獅子取が新たに加わる。

出版業界に携わる者たちの本音とタブーを絶妙に織り交ぜながら今回も黒く歪んだ笑いを滲ませる。その内容は前作よりも明らかにパワーアップしているから驚きだ。何度声を挙げて笑ったことか。
特にモデルとなった実在の作家を知っていれば知っているほど、この笑いの度合いは比例して大きくなる。

この実に際どい内容を売れない作家が書けば、単なるグチと皮肉の、負け犬の遠吠えに過ぎないだろう。
しかしこれを長年売れずに燻っていたベストセラー作家の東野氏が書くからこそ意義がある。彼は売れた今でも売れなかった頃の思いを決して忘れなかったのだ。だからこそここに書かれた黒い話がリアルに響いてくる。
そして本書を刊行した集英社の英断にも感心する。特に本書は東野氏がベストセラー作家になってからの刊行で、しかもそれまで単行本で出していたのを文庫オリジナルで出したのである。
つまり最も安価で手に取りやすい判型でこんな際どい業界内幕話を出すことが凄いのである。

そしてここに挙げられているのは単なる笑い話ではなく、現在出版業界を取り巻いている厳しい現実だ。

様々な新人賞が乱立する今、国民総作家時代と云われるほど、毎年3桁ほどの新人作家がデビューしては消えていく。

内容が素晴らしいからといって売れる本とは限らない。

作品が映像化されたからといって売れ行きがよくなるとは決してない。

作家も個人経営だけれども編集者や他の作家との人脈は今後の作家活動にとっていい影響をもたらす。

常に赤字の小説誌が抱える矛盾とジレンマ。

デビュー作がヒットした作家が陥る読者を意識し過ぎた創作活動という罠。

年に2冊新刊を出し、小説誌の連載を抱える、ごく一般な作家の年収のモデルケースは350万程度だ。

そんな教訓と出版業界のリアルが笑いの中に見事に溶け込んでいる。
本書は笑いをもたらしながらも、これから作家を目指す人々にやんわりと厳しく釘を差しているのだ。

さらに最後の「職業、小説家」で登場人物の1人が話す、買わずに図書館で借りたり、正規の書店ではなく、売れ残った本が流れて行く大型新古書店で購入する読者の対して主人公の光男が怒りに駆られるシーンは東野氏の心情が思わず吐露したシーンだろう。
1冊の本にかける作家の思いと労力を思えば1,500円や2,000円の値段は決して高くはないのだ。そんな苦労も知らずに手軽に愉しむ読者がいる。そんな歪んだ仕組みに対して警鐘を鳴らしているのだ。

東野氏のユーモア小説集『~笑小説』シリーズの一ジャンルに過ぎなかった出版業界笑い話は本書で見事1つの大きな柱と昇格した。
そしてそれらは実に面白く、そして作家を目指そうとする者たちにとって非常に教訓となった。
願わくば次の作品群を期待したい。これは長年辛酸を舐めてきた東野氏しか書けない話ばかりなのだから。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
歪笑小説 (集英社文庫)
東野圭吾歪笑小説 についてのレビュー
No.61:
(9pt)

起こった後、我々は何をすべきか

マット・スカダーシリーズが今日のような人気と高評価を持って迎えられるようになったのはシリーズの転機となった『八百万の死にざま』と本書から始まるいわゆる“倒錯三部作”と呼ばれる、陰惨な事件に立ち向かう“動”のマットが描かれる諸作があったからだというのは的外れな意見ではないだろう。

本書が今までのシリーズと違うのはマットの前に明確な“敵”が現れたことだ。
彼の昔からの友人である高級娼婦エレイン・マーデルをかつて苦しめたジェイムズ・レオ・モットリー。錬鉄のような鋼の肉体を持ち、人のツボを強力な指の力で抑えることで動けなくする、相手の心をすくませる蛇のような目を持ち、何よりも女性を貶め、降伏させ、そして死に至らしめることを至上の歓びとするシリアル・キラー。刑務所で鋼の肉体にさらに磨きをかけ、スカダー達の前に現れる。

これほどまでにキャラ立ちした敵の存在は今までのシリーズにはなかった。
確かにシリアル・キラーをテーマにした作品はあった。『暗闇にひと突き』に登場するルイス・ピネルがそうだ。しかしこの作品ではそれは過去の事件を調べるモチーフでしかなかった。

しかし本書ではリアルタイムにマットを、エレインをモットリーがじわりじわりと追い詰めていく。つまりそれは自身の過去に溺れ、ペシミスティックに人の過去をあてどもなく便宜を図るために探る後ろ向きのマットではなく、今の困難に対峙する前向きなマットの姿なのだ。

それはやはり酒との訣別が大きな要素となっているのだろう。
過去の過ちを悔い、それを酒を飲むことで癒し、いや逃げ場としていたマットから、酒と訣別してAAの集会に出て新たな人脈を築いていく姿へ変わったマットがここにはいる。警察時代には敵の1人であった殺し屋ミック・バルーも今や心を通わす友人の1人だ。

平穏と云う水面に石を投げ込んでさざ波を、波紋を起こすのが物語の常であり、その役割はマットが果たしていた。事件に関わった人物たちがどうにか忌まわしい過去を隠蔽して平穏な日々を過ごしているところに彼に人捜しや死の真相を探る人が現れ、彼ら彼女らに便宜を図るためにマットが眠っていた傷を掘り起こすのがそれまでのシリーズの常だった。
しかし本書ではさざ波を起こすのがモットリーと云う敵であり、平穏を、忌まわしい過去を掘り起こされるのがマットであるという逆転の構図を見せる。マットは自分に関わった女性を全て殺害するというモットリーの毒牙から関係者を守るために否応なく過去と対峙せざるを得なくなる。

じわりじわりとマットに少しでも関わった女性たちを惨たらしい方法で殺害していくモットリー。AAの集会で何度か顔を合わせることで馴染みになり、たった一晩仲間たちと一緒に食事に行ったトニ・クリアリーもその毒牙に掛かり、さらには単純にスカダーと云う苗字だけで殺された女性さえも出てくる。
そしてマット自身もまたモットリーに完膚なきまでに叩きのめされる。さらには法的に人的被害を訴えることでスカダーを孤立無援にさせる邪悪的なまでな狡猾さまで備えている。
そんなスリル溢れる物語なのにもかかわらず、シリーズの持ち味である叙情性が損なわれないのだから畏れ入る。

特に過去に関わった女性に対して思いを馳せるに至り、マットは自分には常に自分の事を想う女性がいたと思っていたが、実はそんな存在は一人もいなかったのではないか、ずっと自分は孤独だったのではないかと自身の孤独を再認識させられる件には唸らされた。実に上手い。

そして追い詰められたスカダーはとうとうアルコールを購入してしまう。自ら望むがままに。
果たしてマットは再びアルコールに手を出すのか?
この緊張感こそがシリーズの白眉だと云っても過言ではないだろう。
そしてこのアルコールこそがまた彼の決意を左右するトリガーの役割を果たす。酒を飲めば元の負け犬のような生活に戻ってしまう。しかしそれを振り切れば、正義を揮う一人の男が目覚めるのだ。この辺の小道具の使い方がブロックは非常に上手い。

話は変わるが本書ではそれまでの作品に登場した人物たちが物語に関わってくる。
まずはシリーズ1作目から登場していたエレインの久々の登場に『聖なる酒場の挽歌』からマットにとってもはや相棒のような存在とも云えるバー・グローガンのオーナー、ミック・バルー、『八百万の死にざま』に登場した情報屋ダニー・ボーイ・ベル、名前は出ないがチャンスもまたカメオ出演を果たし、さらにはマットの警官時代の旧友ジョー・ダーキン、AAの集会で助言者となったジム・フェイバーなどなど。
それはようやく8作目にしてシリーズの基盤となるキャラクターが揃い、マットを取り巻く世界に厚みが生まれたように思う。

また象徴的なのは『聖なる酒場の挽歌』で店仕舞いしたとされていたスカダーの行きつけだったアームストロングの店が場所を変えて新たに開業していることだ。これこそ恐らく一度はシリーズを終えようとしたブロックがリセットして新たなスカダーの物語を紡ぐことを決意した表れのように私は感じてしまった。

本書にはある一つの言葉が呪文のように繰り返される。それはAAの集会で知り合ったマットの助言者であるジム・フェイバーによって勧められたマルクス・アウレリウスの『自省録』という書物の一節、「どんなことも起こるべくして起こるのだ」という一文だ。

これが本書のテーマと云っていいだろう。
どんなに用心していようがいまいが起こるべきことは起こるのだ。

しかしその後にはこう続くことだろう。
起こってしまったことは仕方がない。問題はそのことに対してどう振舞い、対処していくことかだ、と。

マットが住む世界ほどではないが、我々を取り巻く世界とはいかに危険が満ちていることか。地震や津波であっという間にそれまでの生活が一変する事を我々は知ってしまった。
しかしそこで頭を垂れては何も進まない。そこから何をするかがその後の明暗を分けるのだ。
本書で描かれた事件はそんな天変地異や大災害のようなものではないが、書かれていることはいつになっても不変のことだ。

困難に立ち向かい、己の信念と正義を貫いたマット。今後彼にどんな事件が悲劇が起こっていくのだろうか。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
墓場への切符―マット・スカダー・シリーズ (二見文庫―ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック墓場への切符 についてのレビュー
No.60:
(9pt)

本書を読めば世界が色づく

待ってました!
現代の数寄者、佛々堂先生が一風変わった風流を求めて全国を巡り、それに関わった人々のちょっといい話が並ぶ極上の短編集第2弾。いよいよとばかりにページをめくった。

本書では春夏秋冬の四季をテーマに4編収められている。まず始まりはやはり春。「縁起 春 門外不出」は奈良が舞台。
東大寺のお水取り、伊豆の韮山の氷割れの竹、利休竹など初っ端から風流が横溢する世界が繰り広げられ、佛々堂ワールドに一気に引き込まれる。

「縁起 夏 極楽行き」では佛々堂先生は全国を駆け巡る。
田辺に秘密の花園を見せるために仕組んだ佛々堂先生の物々交換の旅は宇都宮のサービスエリアで移動養蜂家かられんげの種を手に入れ、それを基にれんげ米コシヒカリなるれんげを鋤き込んだ米をつくる魚沼の農家からワラを仕入れ、さらにそのワラを金沢の畳床の職人と魚籠に交換し、それを福井の山中で石屋を訪れ、石と交換し、その石を松江のいま如泥と呼ばれる名工に渡して、伝説の盃と交換するという、実に愉しい行脚の旅を佛々堂先生と愉しめる贅沢な作品となっている。
そして田辺の亡き妻が夫に見せたかった場所とは白蓮が咲き誇るとある沼だった。花開く音は田辺のみが聞いた生命の力強さの象徴だったのかもしれない。

「縁起 秋 黄金波」は箱根の山中で植物と戯れる。
箱根の雄大な自然は実は人の手が悠久の時を経て作った風景であり、自然が創り上げたものではないことがまず驚きだ。
特に薄の話は実に興味深い。なるほど昔の移動手段であった馬が道中で活力を得るための餌として人為的に植えられたものだったとは。
箱根に生育する植物を愛でるあまり、外来種を毛嫌い、在来種の保存に精を出す友樹の母知加子はその熱意が高じて人の敷地に入っては手入れのされていない草木を失敬していた。彼女の夢である自然をありのままに再現した広大な原野が欲しいという望みとその持ち主である樺島浪美子の息子の願望を一気に解決するこれしかないという案は佛々堂しか成し得ないことだっただろう。

さて最後の短編「縁起 冬 初夢」では骨董界1年の締めくくりである納会が絡んでくる。
いやはや世の中にはまだまだ知らぬことがあるものだと感じ入った。鳩に図画の認識能力があるとは。視覚の優れた鳩は訓練で一流の鑑定士となるのである。粋人風見龍平が娘に託した鳩は利休の真筆を長年見させて真筆と右筆の違いを見分けることを可能にした鳩だった。
しかし利休の書状に右筆、つまり代筆が多数存在するというのも知らなかった。350通以上にも上る書状が市場に出てくるたびにその真贋が話題になっていることも。
さらには大福帳についての薀蓄も面白い。元々は商人の帳簿で取引記録を残す物だが、それゆえに揉め事が起きた時の貴重な証拠となり、大福帳は至極大事に保管されていた。それがために生半可な用紙で破れたり記録が水で読めなくなってはいけないため、長く消えずに残る墨で気球の材料にも使われた西ノ内和紙で書かれていた。そんな日本人古来の知恵と技を自己流で学んで遺した風見龍平という人物もまた一流の職人だといえよう。


“平成の魯山人”、佛々堂先生は今日も古びたワンボックス・カーで全国各地を駆け巡り、東に困っている人いればアドバイスを与え、西に悩んでいる人がいれば、粋な仕掛けを施していく。しかも自分も愉しみ、また消えゆく逸品を後世に遺すために。
そんな本書は四季折々の風流を織り込んだ日本の美意識を感じさせる短編集。

それぞれの短編が昔話をモチーフにされているのが面白い。
「門外不出」は『かぐや姫』こと『竹取物語』を、「極楽行き」では『わらしべ長者』が、「初夢」はなんとノアの方舟で有名な『創世記』である。

2作目ながらも全くその興趣溢れる彩り豊かな和の世界は衰えず、まさに文字で読む眼福といったところ。

東大寺の春の一大法要、お水取りに始まり、夏は蓮の開花、秋は箱根の山中、そして一年の締めくくり冬は骨董商の納会に除夜の鐘。
そんな四季折々の風景や祭事に織り込まれるのは正倉院で写経に使われていた円面硯、利休竹にれんげ米、如泥の盃、利休の書状、鏑木清方作の羽子板、西ノ内和紙などなど、ここには書ききれないほどの日本の技と美の結晶が隅々まで紹介され、物語を彩る。
特に本書は利休に始まり、利休に終わる。それはやはり風流人である利休の功績ゆえだろうか。

また前作にも負けず衰えず興味深い薀蓄が散りばめられているのが本書の素晴らしい所。
例えば東大寺のお水取りの松明にはそのための松明山が伊賀にあること、山椒は花山椒、実山椒、青山椒、割山椒に粉山椒と花から実まで1年を通じて味覚を楽しませてくれること、水底の土中に埋まっている種子は埋土種子といい、数十年経っても日の目を見れば発芽すること、寺の鐘には黄鐘(おうしき)、双調(そうじょう)、平調(ひょうじょう)、壱越(いちこつ)、盤渉(ばんしき)と5つの音色があること、などなど。
我々が何気なく使っている日用品や観ている景色、草木や花1つとっても実に深い世界が古来より備わっている。前述したように薄1本でさえ、歴史に裏付けされたその時代を生きた日本人の事情と知恵が由来している。そんな忘れ去られそうになる知識をトリビア、つまり役に立たない知識に風化させないためにも服部氏は佛々堂を生み出したのかもしれない。

しかし衣服に書架、食に植物、骨董だけでなく、色んな事物に詳しく理と真を知る佛々堂の博識ぶりには毎度頭が下がる。いやこれは作者服部氏の博識ぶりでもあるわけだが、今回もまた知らない世界を見せてくれた。
そしてこのような知識を得ることで今まで我々がいかに物を知らずに生きてきたかを痛感させられる。知識があるのと無いのとではこれほどまでに物が違って見えるのか。知らず知らず我々は無知ゆえに失礼な事や取り返しのつかないことをしているのかもしれないと思うと、恥ずかしくなる。
そしてそんな理を知る人が確かにいるのである。そんな世界を知らなかったことがなんとも悔しいではないか。

また本書では4編中3編に人の恋沙汰が隠し味となっている。「門外不出」では会社の上司の秘められた恋心が一連の課題に、「極楽行き」は亡くなった妻の隠された恋の話と、亡き妻が夫に託した思いが、「黄金波」ではプロポーズされた未亡人のある秘密とそれぞれの抱えた秘密や事情を佛々堂が意外な方向からアプローチし、解決する。
そしてまた風流人たる佛佛堂もそれに乗っかって自分の欲しいものを手に入れるのである。そして表題に掲げられた縁起とはすなわち仏教用語でいう因果論を指しつつも、あることが起こる兆しと云う意味を指す。つまり佛々堂こそが縁起“者”なのである。

さて本書では前作『清談 佛々堂先生』の1話目で登場した雑誌編集者の木島直子が登場するのだが、これは物語として輪が閉じることを暗示しているのだろうか?
1ファンとしては筆の続く限り、このシリーズを書き継いでほしいものである。

そして一人でも多くの読者が本書を読んでくれることを願いたい。読んだ後、身の回りの風景が1つ変わって見える事、保証しましょう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
極楽行き 《清談 佛々堂先生》 (講談社文庫)
服部真澄極楽行き: 清談 佛々堂先生 についてのレビュー
No.59:
(9pt)

短編とはこういうことを云うのだ

今なお珠玉の短編集として名高い本書。その評価は読んでみるとだてではなかったことが解る。

第1編目「食いついた魚」は湖で釣りをする男が出逢った見知らぬ男を描く。
背筋が寒くなってくる1編。鍛えられた体格の大男。釣った魚を食糧にして旅して暮らしている男が唐突に話したある時の殺人の話。それは実は大男にとって人の道を踏み外す禁断の扉を開ける行為だった。

「成功報酬」は短編のみ登場するシリーズキャラクター、悪徳弁護士エイレングラフ物の1編。
この男、どこまで本当なのか?と読者の興味をそそる非常に魅力的な悪徳弁護士エイレングラフ。
一気にこの1編でエイレングラフという弁護士が頭に刻み込まれてしまった。

その題名はある有名な作品をモチーフにしている。「ハンドボール・コートの他人」は原題を“Strangers On A Handball Court”という。そう“Strangers On The Train”、パトリシア・ハイスミスの作品であり、ヒッチコック映画の傑作でもある『見知らぬ乗客』だ。
上に書いたように本編はパトリシア・ハイスミスの作品をモチーフにした交換殺人物。ただしそこはブロック、一捻りした皮肉な結末が用意されている。

「道端の野良犬のように」は国際テロリストを扱った話。
ただこのオチは正直なんでもよかったのではないか?

ブロック作品での泥棒と云えばバーニイ・ローデンバーが殊の外有名だが、この短編に登場する泥棒は彼ではない。「泥棒の不運な夜」では忍び込んだ家で主に見つかり、逆に命を狙われてしまう。
なおこの作品はブロックの前書きによれば本編は『泥棒は選べない』より前に書かれた物でバーニイの原型かもしれないとのこと。泥棒の最中に他の犯行に巻き込まれるシチュエーションからすれば確かにそうかもしれない。

「我々は強盗である」はアメリカ映画でよく見る砂漠の中にポツンとあるガソリンスタンドとドライヴインを舞台にした1編だ。
これは前書きによればブロック自身が実際に出くわした悪質なガソリン・スタンドでのぼったくりに着想を得た作品とのこと。つまり作者はこの作品を著すことで溜飲を下げたわけだが、本作には色々な教訓が込められている。
まずはぼったくるのもほどほどにすべきであり、度が過ぎると痛い目に遭ってしまうという教訓。もう1つは人間腹が据わればどんなことでも出来るという教訓だ。
しかしブロック、ただでは起きない。

「一語一千ドル」は作家の多くが思っていることだろう。
窮鼠猫を噛む。どんなに気の弱い人も追い詰められれば何をするか解らない。

「動物収容所にて」はある意味、共感を覚えると云ったら驚かれるだろうか?
目には目を、歯には歯を。この思い。完全に否定できない自分がいる。

再び悪徳弁護士エイレングラフ登場。「詩人と弁護士」では無一文の詩人を救うために一肌脱ぐ。
「成功報酬」では高額の報酬の為には犯罪も厭わないとばかりの悪徳弁護士ぶりを見せつけたエイレングラフだが、なんと本編では無報酬で無名の詩人の釈放に一役買う。
何か裏があるのだろうと思っていると、実に意外なことに気付かされる。
いやはやこのエイレングラフと云う男、実に奥深いではないか。この男のシリーズ物が読みたくなった。

「あいつが死んだら」は奇妙な味の短編だ。
神が降りてきたかのような1編。
突然見知らぬ者から送られてくる手紙。そこに書かれているのは見知らぬ男の名前で彼が死ねば金をくれるという物。しかし主人公が手を下さずとも標的の男たちは病死し、金が転がり込む。しかも男にとってその報酬は自分の年収の数分の一もの金額。さらに手紙が来るたびに報酬が上がっていく。そんな手紙が来れば人間はどうなるのか?
よくもこんなことが思いつくものだ。

本格ミステリのおける連続殺人事件をブロックが書くとこうも素晴らしいものになる見本のような作品が次の「アッカーマン狩り」だ。
ニューヨークでアッカーマンと云う名の人物が次々と殺される。犯人の動機は皆目見当がつかない。
物語は犯人の独白で終わるわけだが、ゲームの内容が公表された犯人は次の新たなゲームを考え出す。その時のさりげない台詞のなんと恐ろしいことよ!
実に上手い!

語り手が珍妙な兄弟2人の顛末を語る異色の1編、「保険殺人の相談」はスラップスティックコメディの傑作だ。
作者と思しき語り手が実に軽妙な語り口でこの間抜けで愛らしき兄弟たちの顛末を語るストーリー運びはチャップリンの喜劇を観ているような錯覚を覚えて実に面白い。
歯車がちぐはぐに絡み合うかの如く、常に兄弟のやることは裏目に裏目に出て、とにかく上手く行かない。しかしなぜか2人には高額な保険金が掛けられている。終わり方は実にこの間抜けな兄弟らしい玉砕で、作者が云うように収まるところに収まり、一件落着!

表題作はたった10ページの物語ながら無駄を削ぎ落としたような切れ味を持つ。
う~ん、まさに都市伝説。世の中には色々疑問に思っていることがあるが、恐らくアメリカでは誰もが一度は思っているのだろう、古着のジーンズはどうやって仕入れるのか?という疑問をモチーフにブロックが紡いだのは実にブラックな解答だった。
しかし物語でははっきりとその答えが書かれていない。しかしもう雰囲気と行間、そしてある決定的なある単語で読者に恐ろしい想像を掻き立てるのだ。
これは秀逸かつ切れ味抜群の上手さを誇る1編だ。

そしてとうとうバーニイ登場。「夜の泥棒のように」は三人称で語られる泥棒探偵バーニイの短編だ。
ロマンティックな男と女の奇妙な出逢いを描きながら、最後に意外な真相を持ってくる実に贅沢な逸品。再登場してほしいものだ、このアンドレアという女性は。

「無意味なことでも」は友人の子供が誘拐されるお話。
かつて一人の女性を取合った男達。今では友人同士で何でも相談し合える仲。そんな相棒の娘が誘拐される。
ディーヴァー作品のようなどんでん返しがある作品なのだが犯人の一人称で物語が展開されるゆえにアンフェアなところがあるのが気になる。
ちょっと技巧に走り過ぎたか。

「クレイジー・ビジネス」とは殺し屋稼業の事。新進気鋭の殺し屋が伝説の殺し屋に彼の逸話を聴きに行くというお話。
これは先が読めてしまった。

「死への帰還」はハートウォーミングな話。
子供は大きくなり、実業家として会社を運営し、一応の成功を収めた男。しかし実情は妻との関係は冷え切り、愛人がおり、しかも会社の資産は減りつつあった。そんな矢先に訪れた災難。その犯人捜しをするため、男は妻、共同経営者、愛人、子供たちと逢っていく。
正直この物語の犯人が誰であろうが、そこに主眼はないだろう。

最後はマット・スカダーが登場する「窓から外へ」はお馴染みアームストロングの店のウェイトレスに纏わる話だ。
ポーラと云うウェイトレスは本編で出てきたのか、記憶は定かではないが、マットにとって彼の人生に関わった知り合いが死に、そしてその死の真相を突き止めたい依頼者が現れたならば彼の腰も挙げざるを得ない。
50ページほどの分量だが、その内容はシリーズ1編の読み応えがある。
死に携わる人間に対する眼差しは相変わらず厳しい。


今や短編集ではジェフリー・ディーヴァーが挙げられるが、それまではブロックのこの短編集が非常に完成度の高い短編集として挙げられており、今なお本書を読むべき作品として挙げる作家もいるほどだ。

ジェフリー・ディーヴァーの短編集がどんでん返しに重きを置いているものとすれば、ローレンス・ブロックのそれはどんでん返しにホラーにサイコ、クライム、悪徳弁護士、対話物、連続殺人鬼、ファンタジー、ネオ・ハードボイルドと実にヴァラエティに富んでいるのが特徴的だ。特に「食いついた魚」や「成功報酬」、表題作などは想像を掻き立て、その何とも云えない余韻が印象的。

またどんでん返しを加えながらも心温まる、思わず微笑みを浮かべてしまう余韻を残す「夜の泥棒のように」や「死への帰還」もこの作家ならではだろう。

個人的ベストは「あいつが死んだら」、「アッカーマン狩り」、「保険殺人の相談」、表題作、「夜の泥棒のように」。
「あいつは死んだら」はその着想の妙を買う。
「アッカーマン狩り」は最後3行目の台詞に、そして表題作は古着のジーンズ卸し会社の本当の社名が秀逸。それらが暗示する恐ろしさといったら…。
「夜の泥棒のように」はバーニイが登場する作品だが、他人の目から見たバーニイが新鮮で、しかもストーリーもきちんとオチが付いているという絶妙な作品。

とにかく精選された単語、言葉遣いを短いセンテンスで入れるため、一言に凝縮されたその意味が実に濃厚。表題作の会社名、「アッカーマン狩り」の犯人がふと漏らす一言など実に効果的。しばらくこれらは私の脳裏から離れられないだろう。

短編と云うのはこういうことを云うのだと云わんばかりの名品揃い。ブロックと云う作家の全ての要素を出し切った作品集と云えよう。
特に作家たちはこの本をお手本にすべきだろう。ストーリーの語り口に運び方、言葉選びなど多く学ぶべきエッセンスに満ちている。

しかしどうして本書も絶版なのだろう。本書こそプロ、アマチュア全てに読まれるべき作品であるのに。実に勿体ない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
おかしなことを聞くね ローレンス・ブロック傑作集1 ローレンス・ブロック傑作選
No.58:
(9pt)

マット・スカダーという男の無様さが滲みる

本書こそローレンス・ブロックという作家の名を世に知らしめ、そしてマット・スカダーシリーズを一躍人気シリーズにした作品だ。私立探偵小説大賞受賞作。

ブロック作品では常に印象的な登場人物が出てくるが、本書ではコールガールのヒモ、チャンスの造形が実に素晴らしい。
娼婦のヒモから想像するのは口から先に生まれてきたようなチンピラ風情だったり、暴力で女を支配するような男や自分は稼がず、女にヤクをさせて廃人になるまで働かせるような人非人、または酒に溺れた自堕落な男を想像するのが相場だが、ブロックはチャンスを黒人実業家のような洗練された男として登場させる。そして感情を波立たせることを滅多にせず、常に冷静に物事を考える男として描く―この性格を自動車の運転の描写だけで読者の頭に浸透させるブロックの筆の素晴らしさ!―。

またマットはAA(アルコール中毒者自主治療協会)の会合に出席するようになっていた。
前作まではアル中であることを認めなかった彼は事件を通じて知り合ったジャン・キーンと苦い思いで別れたことが堪えたのかもしれない。ただマットは皆の話を聞くだけで自分のことは何も語ろうとはしない。キムが死んだその夜も集会に出て、色々な思いが去来し、誰かに話したい衝動に駆られるが、出てきた言葉はいつもの通り、「今日は聞くだけにします」だった。

しかしマットの禁酒はキムの死を知ることで途絶える。そこからはアル中独特の“都合のいい解釈”で歯止めが効かなくなり、ついには意識不明の状態で病院に運ばれてしまう。
これまでの作品でマットは酒を浴びるように飲みこそすれ、入院するまで酷い事態には陥らなかった。記憶を失くすことはあっても、翌日二日酔いで頭痛と酩酊感に苛まれながらも、生活は出来ていた。
しかし本書では前後不覚の状態に陥り、しかも全身痙攣しながら病院に運ばれ、ドクターストップまでかけられるという所までになる。エレインの友人キムの死がマットに与えたショックの重さゆえか。たった数日間の付き合いだったマットは前述のジャンとの別れの辛さを引き摺り、人恋しかったのかもしれない。そこに現れたキムが、やり直しの相手と映ったのかもしれない。
そして自分を取り巻く人から記憶喪失の際の自分の言動を知らされ、マットは戦慄する。今までアル中ではなく、単なる酒好きの酒飲みだと思っていたマットは初めて自分が重度のアル中であると自覚せざるを得なくなる。
そう、チャンスの依頼を受けることは自身の再生へのきっかけ、決意表明なのだ。この隙のない物語構成の妙。こういう所に唸らされる。なんて上手いんだ、ブロックは!

作中、市井の事件がマットが毎朝読む新聞の記事から挙げられる。それはどれもが奇妙な諍いの記事。どこかで誰かが誰かを傷つけ、また争っており、そこに死が刻まれている。
キムの事件を担当する刑事ジョー・ダーキンと酒場でお互いが見聞きしたそれらの事件を挙げ合う。そして最後にジョーは昔あったTV番組を挙げる。“裸の町には八百万の物語があります。これはそのひとつにすぎないのです”それは警官たちにとっては八百万の死にざまがあるだけなのだという言葉で締め括られる。

その後マットはその言葉を意識し出す。新聞を読むたびに出くわす不条理とも云える死にざま。単なる比喩としか思えない八百万もの死にざまは、マットの中で本当にそれだけの死にざまがあるのではないかと思えてくる。
そんな八百万の死にざまのうち、マットが扱うのはキムの死は1つにしか過ぎない。八百万のうちの1つにしか過ぎないのだが、その1つは自分にとって途轍もなく大きな意味を持っているのだ。

また本書では今までのシリーズと違うことが2つある。

1つは今までの事件は過去に起きた事件を掘り起こすことがマットの依頼だったのに対し、今回の事件は進行形で起きることだ。依頼人だったキムの死から始まり、彼女のヒモ、チャンスが抱える街娼の1人サニー・ヘンドリックスの死、そしてクッキーと云う名のオカマの街娼の死と続く。
連続殺人鬼を扱いながら過去の事件を題材にしたのが前作『暗闇にひと突き』なら、本書では連続殺人事件そのものをマットが扱う。前作が静ならば本作は動の物語であると云えよう。

もう1つは上にも書いたが本書では前作『暗闇にひと突き』で登場したジャン・キーンが登場することだ。今までのシリーズでは警官のエディ・コーラーを除く全ての登場人物がスカダーにとって行きずりの人々だったが、このジャンは初めてスカダーの心に巣食う忘れえぬ人物として刻まれている。
そしてスカダーは本書で初めて禁酒を行うが、ある時暴漢に襲われ、過剰な暴力で撃退し、酒にまた救いを求めようとする。しかし以前酒に飲まれた彼はそれを心の底から怖れるのだ。そして彼が見出した唯一の救いの光がジャンになる。

このシリーズに広がりが生まれた瞬間だ。

最後の一行に至り、これは実はマットの自分との闘いの物語だというのが解る。

上に書いたようにマットは今回毎日の如くAAの集会に参加する。しかしそこでマットは参加者の話を聴きこそすれ、自分の話は決してしない。いつもパスしてばかりだ。酒を飲んで入院し、一命を取り留めた後では自分がいつまた酒に手を出して、今度こそ助からなくなるのではないかと恐れている。事件の捜査はマットが酒に手を出す時間をなくすための手段にすぎないのだ。

つまり本書はニューヨークという大都会に溢れる八百万の死にざまと1人の男の無様な生き様を描いた作品だったのだ。

今までこのシリーズ1冊に費やされたページ数は270ページほどだったが、本書は480ページ以上にもなる。つまりマットが自分の弱さに向き合うのにそれだけの物語が必要だったのだ。

正直私はこの最後の一行がなければ評価は他の作品同様7ツ星のままだった。
しかしこの最後の一行で物語の真の姿とマットが抱えた苦悩の深さが全て腑に落ちてきたことで2つ上のランクに上がってしまった。

幾度となく物語に挟まれるAAの集会のエピソードが最後これほど胸を打つ小道具になろうとは思わなかったが、そんな小説技法云々よりもやはりここはマットが今までのシリーズよりもさらに人間臭いキャラクターへと昇華したことが本書をより高みへ挙げたことになるだろう。

さて本書で鮮烈な印象を残したヒモのチャンスは子飼いのコールガールを次々と失う。ある者は自殺し、ある者は仕事から足を洗うために旅発ち、ある者は夢を実現するためにチャンスから離れる。チャンスは廃業し、美術鑑定家として新たな道を歩き始めようとする。恐らく彼は今後のシリーズでマットの前に再び姿を現すのではないだろうか。

自分の弱さを認めたマットは無関心都市ニューヨークの片隅で起きる事件に今後どのように関わっていくのか。今まで人生の諦観で自分を頼る人たちに便宜を図っていた彼が自分の弱さと向き合いながら事件とどのように向き合うのか。
さらに評価が高まっていくこのシリーズを読むのが楽しみで仕方がない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
八百万の死にざま (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ローレンス・ブロック八百万の死にざま についてのレビュー
No.57: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

法は我々を護るのか?それとも我々が法を守るのか?

人を殺すと云う事についてその意味を問う問題作だ。

ここでは二種類の殺人が描かれる。
1つは未成年の男性2人による、遊び半分で女性を襲い、クスリを打って強姦したはずみでの殺人。
もう1つは大事な愛娘を殺害された恨みを晴らすための殺人。
どちらも人を殺すことでは同じながらもその動機は全く以て異なる。

今まで数々のミステリが書かれる中で、数多く書かれた復讐のための殺人について、改めて実に遣る瀬無い理由によって殺人を犯そうとすることの意味を問う。

物語は長峰が菅野快児を探す物語と長峰を追う警察の捜査の模様、そして菅野にいいなりになって犯罪に加担した中井誠の3つの視点で語られる。

長峰のパートでアクセントとなって加わるのが丹沢和佳子という女性だ。長峰が菅野捜索の過程で滞在するペンションの経営者の娘だ。しかし彼女には最愛の息子を目を離した隙に公園の滑り台から転落させて亡くしたという位過去を持ち、その事故が原因で離婚をし、いまだに哀しみから抜け切れない日々を送っている。その彼女が長峰の協力者となり、一緒に菅野快児を探す手伝いをする。

この彼女の心情が実に上手い。同じ子供を亡くした親同士という共通点があり、片や事故で亡くしながら、その割り切れなさで蟠りを抱えて生きている。そこに娘を非人道的な所業によって殺害された男が犯人に復讐するという目的を持って現れる。それは彼女にとって長年抱えていた蟠りを別の形で晴らすことに繋がると見出したのだろう。
しかし殺人はよくないという理屈と感情のせめぎ合いの中で半ば衝動的に手を貸す、心の移り変わりが、決して明確な理屈で語られるわけではないのだが、行間から立ち上ってくるのだ。

尤も、彼女が長峰に協力しようと思ったのは実の息子を幼くして亡くしただけではない。彼女は長峰の娘が犯人に凌辱されるVTRを目の当たりにしたからこそ、ただ同情するだけではなく、何が正しいのか見つけるために行動したのだ。
そのことを父親へ告げる408ページの台詞を私はすっと読み流すことが出来ずにしばらく何度も噛みしめてしまった。

毎日報道される数々の事件。それらをただのニュースの一つとして捉えて、我々は時に関心を持ち、職場や家族で話題にしながらも数分後には次の話題に移っている。
それは無関心というわけでなく、事件そのものを深く知らないからゆえに他ならない。新聞でたった数行で語られる事件、TVのワイドショーで数分取り上げられる事件の中枢を知らないからこそ、毎日を平穏に過ごせるのかもしれない。

事件の本質を知らされると世間がどうなるのか?
本書では長峰の手紙が公開されて、世論は長峰擁護に傾くようになる。長峰の邪魔をするなと警察に多くの抗議の電話が鳴り響くようになる。

法治国家だからどんな理由であれ、殺人はよくない、こんなことを許せば秩序が無くなる。確かにそうだろう。
しかし犯人が我が子になした悪魔のような行為を見ると果たして誰もがそんな言葉を口にするのを躊躇うことだろう。

作中、長峰がこう述べる。「法律は人間の弱さを理解していない」と。秩序を守るために論を以て判断し、判定を下すのだ。人の命を奪うのではなく、罪を憎んで人を憎まず、更生させてその人の人生を変えるのだと。
しかし長峰が云うように残された遺族はそこまで大人になれない。人間が感情で生きる動物だからこそ、そんなに簡単に割り切れないのだ。

1+1は確かに2だろう。しかしその1はそれぞれ過ごした時間と関わった人によって込められた背景がある。だから人間関係とは1+1は2ではなく、3にでも5にでも、10でも100や1000にもなり得るのだ。

長峰は復讐を成就できるのか。
それとも菅野が先に警察に保護されるのか。

ただこんな二者択一のような単純な構図の物語においても東野圭吾氏はサプライズを忘れない。

長峰事件の後、辞職願を出して退職した久塚は最後にこう述べる。我々警察は市民を守っているのではなく、不完全な法律を守っているのだ、と。

これはまさに東野圭吾氏が持っている考えそのものではないだろうか。

それは殺人という行為についてこの頃の東野氏は色んなアプローチで語っていることからも推察される。

『手紙』では殺人を犯した兄が被る弟の人生について語り、『殺人の門』では折に触れ人生を狂わされる男がその張本人に殺意を抱き、その最後の境界線を越えるまでを描いた。そして本作では2種類の殺人が描かれる。

1つは家庭も持ち、仕事もありながら、周囲に迷惑をかけることを解りつつも亡き娘の為に敢えて殺人を犯そうとする男。

もう1つは自らの快楽の為に心が壊れるまで蹂躙し、寧ろ死ぬことで自らの犯罪が露見しないことを悦ぶ獣たち。

殺人と云う非人道的な行為を通じてこの2者が社会に下す裁きは全く異なる。前者は成人男性の為、刑法が適用され、後者は未成年ゆえにが少年法という保護下に置かれるからだ。

法によってその残虐な行為が軽減され、護られる者。法によって満足な裁きが成されず、最愛の者を亡くした哀しみを一生抱えなければならない者。そして法によって裁かれることで自身の復讐を重い刑罰で継ぐわなければならない者。

人は法の下では平等であるというが、何とも虚しい響きだと感じてしまう。このような胸に残る割り切れなさを表したのが久塚の言葉であり、東野氏の言葉のように思えるのだ。

最愛の娘を亡くした恨みを晴らすために犯人を追う。この私怨を晴らす物語はハリウッド映画などで山ほど書かれた物語だ。
しかし東野圭吾氏にかかるとこれが非常に考えさせられる物語に変わる。それは通常アクション映画のような活劇ではなく、復讐を誓う一介のサラリーマンとそれを取り巻く警察、犯人、協力者たちが我々市井のレベルでじっくり描かれるからだろう。
つまりアクション映画のようにどこか別の世界で起こっている物語ではなく、いつか我々の狭い世間でも起こり得る事件として描かれているから臨場感があるのだ。

自らの正義を成就すべきか、それとも復讐のための殺人は決して許される物ではないという世の道徳を採るべきか。物語の舵を取った時からどちらに落ち着いてもやりきれなさが残ると想像される物語の行く末を敢えて選び、そしてそれを見事に結末に繋げるという作家東野圭吾氏の技量は改めて並々ならぬ物ではないと痛感した。
このような「貴方ならどうしますか?」と問われ、ベストの答が決して出ない、論議を巻き起こす命題について敢えて挑むその姿勢は単にベストセラー作家であるという地位に甘んじていないからこそ、読者もついていくのだろう。

さて次はどのような問題を我々に突付け、彼ならではの答を見せてくれるのか。とにかく興味は尽きない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
さまよう刃 (角川文庫)
東野圭吾さまよう刃 についてのレビュー
No.56:
(9pt)

切れ味鋭い短編ばかり

名アンソロジスト、クイーンの選出眼が光る名短編集第2弾。

まずその口火を切るのはバーバラ・オウエンズの「軒の下の雲」だ。
アリス・ホワイトウッドという女性の日記形式で語られるのは彼女が32歳にして職を得て、一人暮らしを始める顛末だ。しかしその細切れの文体はとても32歳の女性の物とは思えず、次第に彼女は自分が間借りする家の軒下に雲が発生しているのを目にする。そしてその雲は非常に心地よく、次第に彼女に何か煩わしいことが起きると雲が包み込んで紛らわせてくれるようになった。やがて新鮮な面持ちで始まった新生活も次第に暗雲が垂れ込めてくる。
恐らくは精神異常者による手記という形の本作。父親殺しを犯した娘が精神疾患で罪を免れ、リハビリによって社会復帰したところ、彼女は全治していなく、やがて周囲と不協和音を奏でていく。当時としては斬新なミステリだったのだろう。

トマス・ウォルシュによる「いけにえの山羊」は冤罪を仕掛ける男女の物語。
匿名の男女の犯罪計画から一転してホテルに勤め出した貧しい青年に物語はシフトし、やがて彼がなぜか周囲に疎まれ、犯罪者としての汚名を着せられる。その犯罪を計画した犯人が最後の一行で確定するという実にクイーン好みの結末だ。
謎めいた男女の逢瀬というシチュエーションやホテルを舞台にした物語と云い、どこかウールリッチを思わせる作風。

ジョイス・ポーターのドーヴァー警部シリーズと云えばその昔は名シリーズとされていたが、今ではもう絶版の憂き目に遭って見る影もない。そんなドーヴァー警部が登場するのが「ドーヴァー、カレッジへ行く」だ。
今読んでも十分に笑えるユーモア・ミステリ。本格ミステリに徹しているかと云われれば首を傾げざるを得ない真相だが、逆に笑いに徹しているミステリだと解釈すれば実に面白い。本当にシリーズ全てが絶版なのが悔やまれる。

寡作家とされるキャスリーン・ゴットリーブの「夢の家」は短いながらも一種味わい深い作品だ。
小さな町でお巡りをやっているおれの一人称で語られる20ページ足らずの作品だが、小さな町で小さな幸せを見つけようとした男女の哀しい結末が淡々と語られる。その何とも云えない味わいがいいのだ。
クイーンの紹介分によれば寡作家である彼女の作品は待つだけの価値があるとのことだが、確かにその言葉も頷ける出来栄えだ。

ブライアン・ガーフィールドの「貝殻ゲーム」はスパイ対殺し屋の手に汗握る攻防を描いた作品。
スパイと殺し屋の一騎打ちの攻防ながらそのテイストはどことなくユーモラスであり、ドキドキハラハラではなく、スラップスティックのような味わいをもたらす。ガーフィールドのこの作風もまた今に通ずる面白さがある。
この頃の作家は本当に上手い人が多い。なお題名はメキシコに伝わる3つの貝殻のうち、1つだけに豆が入っており、それを選んで当てるゲームに由来している。

E・X・フェラーズの「忘れられた殺人」もまた奇妙な味わいの作品だ。
本作ほどクイーンがこのアンソロジーで提唱する情況証拠というテーマを色濃く打ち出した作品はないだろう。
過去の事件の成り行きを語る人物が現れるが、彼は仄めかすだけで実際にそうだったとは決して云わない。しかしその語り口は明らかにそれが証拠だと云わんばかりの内容。そして最後に明かされる意外な事実。結末を読んで読者はさらに物語の靄の中に放り出されるのだ。
これもなかなか余韻が残る作品だ。

スティーヴン・ワズリックの「クロウテン・コーナーズ連続殺人」は本格ミステリを揶揄したような面白い作品だ。
次々と起こる殺人事件に被害者ならびに関係者の妙に凝った名前となぜか現場に散乱する品物の数々、そして脱力物の真相と本格ミステリをパロディにしたユーモア・ミステリ。
最後の結末もとどのつまり本格ミステリとは変人たちが集まったところで起きた化学反応みたいなものだという作者なりの皮肉なのだろう。

ハロルド・Q・マスアも聞き慣れない作家だが、「思いがけぬ結末」は展開の速いサスペンスフルな作品だ。
召喚状を貰わなければ即ち裁判にも行かなくてもいいわけで、数人の弁護士が召喚状を届けようとして失敗した相手に機転を利かせてまんまと手渡すことに成功する導入部から面白い。そして家庭の不和から始まった事件が次第に大きくなって複数の被害者を出すに至るという展開も上手い。
日本では全く知られていない作家だが、こういう作品を読むと海外作家の裾野の広さを思い知らされる。

収録作唯一のショートショートがアン・マッケンジーの「さよならをいわなくちゃ」だ。
たった6ページの作品だが中身は実に濃く、恐ろしい。
今でいうとアンファンテリブル物になろうか。予知能力のある少女がさよならを告げるとその相手が死んでしまう。彼女が悪いわけではないが、忌み子として周囲は少女を避けるようになるし、彼女を預かっている兄嫁はそれを辞めさせようとする。そして最後の衝撃的な結末。
秀作。

EQMMの常連作家エドワード・D・ホックは秘密伝達局のエージェント、ジェフリー・ランドが主人公を務める「スパイとローマの猫」が収録された。
短編の名手というだけあって、実にそつがなく、手堅い物語を提供してくれる。起承転結全てがしっかりしており申し分ない。たった約30ページの作品なのにサスペンスフルなスパイ小説を読ませてくれる。

アーネスト・サヴェージの「巻きぞえはごめん」は釣りの解禁日に訪れた地で事件に巻き込まれた私立探偵の話。
休暇中の探偵が巻き込まれる殺人事件。休暇中だから厄介事はごめんとばかりに無視しようとするが根っからの詮索好きと探偵の魂ともいうべき職業根性がどうしても事件を忘れようとしてくれない。そしてその後に起こる厄介事も解りながらも容疑者を助けてしまうお人好しさ。自分の馬鹿さ加減に嫌になるといった男の話だ。

リリアン・デ・ラ・トーレの「重婚夫人」は実際にあった事件に題を取った作品だ。
1776年4月にキングストン公爵夫人が重婚罪で裁判にかけられたことは史実のようで、本作はそれから材を得た物。
裁判の様子は現代のそれに比べれば非常に安直な気もするが、18世紀では法律も制度も未成熟だったのだからこんなものだろう。
本書は圧倒的不利と思われた裁判を覆す妙手も面白いが最後に判明するその妙手を授けた相手の正体が実に興味深い。結末はそういう意味では粋だ。

パトリシア・マガーによる「壁に書かれた数字」は『~コレクション1』にも収録された女性スパイ、シリーナ・ミード物。ただ本作は10ページと非常に短い。それもそのはず、暗号解読に特化した作品だからだ。
暗号自体は特段珍しい物ではなく、数字に当てはまる乱数表なり解読のキーとなる物があれば解読できることは容易に想像が付くだろう。これはアイデアの勝利ともいうべき作品。

今では英国女流ミステリの女王として君臨するルース・レンデルも本書刊行時の1970年代後半では新進気鋭の作家だった。しかし既にクイーンの眼鏡には適っていたようで「運命の皮肉」が本書に選出された。
レンデルの長編はとにかく救いがないので有名だが、短編ではその救いのなさを切れ味鋭いどんでん返しとして扱い、読者を驚嘆させるのが非常に上手い。
本作では名作『ロウフィールド館の惨劇』と同じく最初の一行で主人公が一人の女性を殺したことを告白し、彼が殺人に至るまでの経緯とその犯罪計画の一部始終を語っているが、それがまた被害者の女性の性格を読者に浸透させ、また加害者の男性の心理を読者に悟らせることに成功し、またそれらが最後のどんでん返しの伏線となっている見事な技巧を見せてくれる。特に被害者の女性ブレンダの造形は人間観察に長けたレンデルならではのキャラクターでこんな女性が我々の生活圏にもおり、またそんな人ならするであろう行動が上手く物語に溶け込んでいる。
結末はまさに題名どおり運命の皮肉。原題は“Born Victim”、つまり「生まれながらの犠牲者」という意味でこれが虚飾の世界に生きるブレンダの本質を見事に示した物でこちらも素晴らしいがやはり読後感で云えば訳者の仕事を褒めるべきだろう。

最近その短編集が年末ランキングにランクインし、話題となったロバート・トゥーイだが、彼の「支払い期日が過ぎて」は非常に不思議な読み応えがあった。
奇妙な味というよりもよくもまあこのような発想が生まれるものだと感心してしまった。
とにかく借金の取立ての電話のやり取りから読者は変な感覚に放り込まれる。主人公のモアマンという男の想像力というか人をからかって煙に巻く遊び心は本作のように傍で見ている分には楽しいが当事者ならば憤慨してしまうだろう。そしてやたらと怪しい行動を取り、さも妻を殺害したように振舞い、それをだしに不法逮捕、名誉毀損で訴え、賠償金をせしめようという意図が最後に見えて納得する。
しかしその後の行動も非常におかしく、よくもまあこのような男と一緒に暮らせる女性がいるものだと首を傾げざるを得ない。とにかくモアマン氏はネジの外れた狂人か、もしくは周囲の理解を超えた天才詐欺師か?
そしてこんな話を思いつくトゥーイの頭はどうなっているのか?色んなクエスションが浮かぶ作品だ。

ジャック・リッチーもまた最近評価が高まっている短編作家でミステリマガジンでも特集が組まれた。彼の作品「白銅貨ぐらいの大きさ」はいわば明探偵の名推理を皮肉った作品だ。
現場の遺留品とそれらの状況からヘンリーとラルフの殺人課刑事コンビが次々と推論を立てて事件の真相と犯人へと迫っていく。しかしそれはある意味刑事2人がそれらをつなぎ合わせて実にもっともらしい解答を案出しているに過ぎないのだと作者は揶揄する。
しかし作中で繰り広げられる推理問答は実に明白で淀みがなく、あれよあれよという間に事件の核心へと迫っていくようだ。
2つの事件の真相からつまりは事件は解決できても人の思惑までは明らかにならない物だという作者ならではの皮肉ではないだろうか?割り算のように答えが出れば全てOKと割り切れるものではない、そんな風に作者がメッセージを送っているように思えた。

さてサスペンスの女王パトリシア・ハイスミスは前巻では「池」という幻想的なホラー小説が収録されたが、本書収録の「ローマにて」のテーマは狂言誘拐だ。
なんとも救われない話。社交界というものがこんなにもつまらないものかと不満を募らせ、しかも容姿端麗の夫は妻がいる前で平然と他の女性と親しくし、またどこかへ消えてしまう。そんな彼女が一計を案じたのが夫の狂言誘拐。しかしお嬢様育ちの彼女は痴漢たちに出し抜かれ、自らも誘拐されてしまい、ひどい扱いを受ける。
作者はとことん主人公を突き落とす。

ジョン・ラッツの「もうひとりの走者」はよくあるサスペンスなのだが、作者の手によって味わい深い作品になっている。
人里離れた別荘地で知り合うようになった夫婦がどうも仲がよろしくなく、夫は何かに悩みを抱えているような苦悶の表情でジョギングをしている。そんな最中に起こる夫の死。もちろん犯人は今の生活に不満を持つ妻だったが、ジョン・ラッツが上手いのは主人公も同じ目に遭わせてちょっとしたトラウマを抱かせること。特に最後の一行の上手さ。この余韻は絶妙だ。

多作でエンタテインメントの雄であるドナルド・E・ウェストレイクの作品も収録された。「これが死だ」はなんと幽霊が主人公の物語。
幽霊が自分の自殺が発覚した捜査とそれを発見した妻の振る舞いの一部始終を観察するという実に奇妙な一編。何とも云えない余韻が残る作品だ。

デイヴィッド・イーリイもまた最近評価が高まっている短編の名手だが、その実力を「昔にかえれ」で発揮した。
前世紀の不便ながらも生き甲斐に満ちた生活を始めた彼ら。最初は精神的充足を求めての行為だったが、次第に周囲の目が向くことで彼らの自意識が過剰になっていく。しかしそれにも増して世間は彼らを見世物パンダのように興味津々に見物しだし、彼らの生活圏を侵していく。そして行く着く結末はなんとも皮肉だ。
人間の集団心理が生み出す残酷さを実にドライに描いている。

ビル・プロンジーニの「現行犯」もなかなか面白い作品だ。
この短編における、男が盗んだものはある意味リアルすぎて怖い。
単なるワンアイデア物の短編に終わらない考えさせられる内容を孕んだ作品だ。

さて最後はEQMMの常連で別のアンソロジー『黄金の13』にも選ばれたスタンリイ・エリンの「不可解な理由」だ。
当時ならばこの内容は非常に斬新だったのだろうが、企業小説が華々しい現代ではもはや珍しい物ではなくなった。実際の会社はこの小説よりももっとえげつないやり方で肩叩きを行う。とはいえ結末は衝撃的。
さすがはエリンといった作品だ。


前回のコレクションに続くパート2という位置づけだが、原題は『~コレクション1』が“Ellery Queen’s Veils Of Mystery”、つまりミステリと云うベールを剥がす作品を集めた物であるのに対し、本書は“Ellery Queen’s Circumstantial Evidence”つまり情況証拠をテーマにしたアンソロジーなのだ。

そのテーマ通り、収録作品は情況でどのようなことが起きているのか、もしくはどんなことが起きたのかを推察する作品ばかりだ。
そしてその情況証拠のために登場人物は恣意的な解釈を行い、ある者は強迫観念に囚われて狂気に走り、ある者は不必要な心配を重ねて自滅の道を辿り、またある者はその後の人生にトラウマを抱え込む。ことに情況証拠とはなんとも厄介な物であることが各作家の手腕でヴァリエーション豊かに語られる。

しかしこれは今この感想を書くに当たり、原点に振り返ったから思うのであって、収録作品は我々が読むミステリとは特別変わりはない。つまりミステリというものは情況証拠によって成り立つ物がほとんどだということだ。

さてそんな2巻両方に収録されている作家はパトリシア・マガー、パトリシア・ハイスミスの2人。ビル・プロンジーニも1ではマルツバーグとの共著で選ばれている。他にスタンリー・エリンは『黄金の13』に選出されている。
一概に云えないがこれらの作家の作風は選者クイーンとは真逆の物ばかりということだ。彼ら彼女らの作風はもしかしたらクイーンが書きたかったミステリなのかもしれない。

さて本書の個人的ベストは「夢の家」。この小さな町のお巡りの一人称叙述で語られる叙情溢れる物語は短編映画を観たような味わいを残す。
さらに題名である「夢の家」の本当の意味が最後に立ち上ってくる余韻はなんともほろ苦い味わいを放つ。

またこんなの読んだことないと思わせられたのはロバート・トゥーイの「支払い期日が過ぎて」。とにかく主人公の狂人とも思える会話の応対は読者を幻惑の世界へ誘い込む。シチュエーションはローンの取り立てとその債務者の会話というごく普通なのにこれほど酩酊させられる気分を味わうとは。とにかく予想のはるか斜め上を行く作品とだけ称しておこう。

とはいえ、本書収録作品の出来はレベルが高く、読後も引き摺る余韻を残す作品が多い。
フェラーズの「忘れられた殺人」やレンデルの「運命の皮肉」、リッチーの「白銅貨ぐらいの大きさ」にハイスミスの「ローマにて」、ラッツの「もうひとりの走者」とウェストレイクの「これが死だ」にイーリイの「昔にかえれ」と最後のエリン「不可解な理由」などは割り切れない結末であり、非常に後を引く。

1巻と比べると評価はどちらも高いが、2冊が抱く感想は違う。
1巻は最初はそれほどの作品とは思わなかったのが読み進むにつれてしり上がりによくなっていたことに対する評価であり、本作ではクオリティが全て水準以上であり外れなしといった趣である。しかし残念ながらミステリ史を代表する抜群の作品がなかったことが☆9つに留まる理由である。

しかし今現在この短編に収められている作品が読める機会があるだろうか?
収録された作家はかつては日本でも訳出がさかんにされ、書店の本棚には1冊は収まっていた作家が多いが、平成の今その作品のほとんどが絶版状態で入手すること自体が困難な作家ばかりである。

そんな作家たちの、クイーンの眼鏡を通じて選ばれた作品を読める貴重な短編集である本書はその時代のミステリシーンを写す鏡でもある。再評価高まるクイーンの諸作品が新訳で訳出されている昨今、この時流に乗って彼の編んだアンソロジーもまた再評価が高まると嬉しいのだが。



▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
クイーンズ・コレクション〈2〉 (1984年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.55: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

厳しいまでに心に響く警告の書

ひたすら切ない物語。
いったいどうしてこんなことになったのか?犯罪者の周囲を取り巻く人々、とりわけその家族の姿を描いた作品。

中心となるのは2人。兄弟2人で貧しいながらも暮らす武島剛志とその弟直貴。
人生の歯車が狂ったことで殺人するに至った武島剛志は状況の犠牲者であり、必ずしも悪人ではない。ただ生活が苦しかっただけなのだ。
そして人一倍の弟想いで弟の大学進学のために、輝ける明日のためにお金が欲しかっただけなのだ。

そんな兄の想いが犯罪という結果になり、それゆえに弟を苦しめることになるという運命の皮肉。この身のよじれるようなどうしようもなさが読んでいて非常に辛い。

その弟直貴はいつか大学を出て一流のメーカーに就職し、自分の知識を活かして世の中の役に立つ物を創ることを夢見ていたが、実際は毎日リサイクル会社で毎日資源ゴミにまみれている。
どうしてこんなことになったのか?こんなはずではなかったのに。

折に触れ殺人者の弟というレッテルが付きまとう。
担任の先生に紹介された居酒屋のバイトではどんな雑用も嫌がらず一生懸命に働き、店長にも気に入られるようになりながらも、その事実が判明すると辞めざるを得なくなったこと。
思いもかけない歌の才能を友人に見出され、メジャーデビューを目前にしながらもスキャンダルを恐れ、メンバーから外されたこと。
良家の御嬢さんの彼女が出来ながらも兄の手紙で全てが明るみになったこと。
就職しながらも兄の事が判明すると望まない配置転換をさせられたこと。
結婚し子供も出来、ようやく人並みの幸せを掴んだと思った矢先にまた周囲から遠ざけられるようになったこと。そしてその累がわが子までに及ぶようになったこと。

それらの節目節目で現れるのが兄剛志からの手紙。

家族からの手紙。本来ならば暖かい物なのに、直貴にとっては殺人者の兄剛志からの手紙は明るい未来を絶つ赤紙に他ならない。兄からの手紙が直貴の、人並みの生活をしたいという希望を挫くのだ。
この切なさはなんだろう?

しかしまた手紙によって直貴は救われる。ある事件をきっかけに就職した会社で配置転換を命ぜられ、意気消沈していた直貴を奮起させたのもまたある人物からの手紙だった。

そして直貴が自分の手紙が服役中の兄の心を救うことに気付かされる。そして直貴が家族を守るためにある決断を下すのも手紙であり、また兄の真意に気付くのも手紙だ。

手紙と云う小道具で人の心を動かし、淀みなく物語に溶け込ませる。
本当に東野氏はこういうやるせない物語を紡ぐのが上手い。

本書ではこの犯罪者の弟というレッテルを背負って生きてきた直貴の人生に対して答えが与えられるわけではない。
読者はこの直貴の境遇に胸を傷め、いつか本当の幸せが訪れるよう、願いながらも読むが東野圭吾氏はそんなお伽噺などは存在しないとまでに現代社会に生きる我々一般人の狭い心、安心を得て何も起きない日常を望む我々が持つ犯罪への関わり合いへの拒否を繰り返し繰り返し語る。

では本書で語りたかった事とは何なのだろうか?
私は次のように考える。これはメッセージなのだ、と。
家族に突然犯罪者が生まれる。これは誰にも起こり得る事態だ。そんな加害者の家族に訪れる厳しい現実の数々を描くことで対岸の火事と思っている我々に色んな障害を突き付ける。そしてそれらの障害を作り出すのが他でもない我々なのだということを作者は静かに訴えているのだ。

また一時の気の迷いで犯した罪が自分だけでなく、残された家族にどれだけの負債を抱えさせるのかをも克明に教えてくれる。
世間は事件を忘れても、その関係者が身の回りに近づけばおのずと思いだし、距離を置こうとする。それは一生付き纏う呪いのようなものだ。本書はそんな警句の物語。

直貴が下した兄剛志との絶縁は恐らく読者の多くが望まなかった決断だろう。でもそうせざるを得ない状況が今の社会には歴然と存在する。
誰もが理解し合い、笑ってお互い助け合う社会、本書にも出てくるジョン・レノンの“Imagine”の歌詞のような世界はまだほど遠い理想郷でしかないことを作者は遠慮なく語る。
毎日ニュースや新聞で色んな犯罪が報道されている。殺人事件もまたしかり。そんなたった5行や数十秒で語られる事件の背景には直貴と同じ境遇の人間が生み出されているに違いない。

私は本書を読んで感動しなかった。とにかくずっと身がよじれる様な思いをさせられた。「そして幸せに暮らしましたとさ」なんていうエンディングが現実社会ではないことを思い知った。
本書にはカタルシスはない。しかし錘のようにずっしり残る何かはある。
決して赦されない罪があるということを知り、それを肝に銘じなければならない。
そして私はわが子が中学生になったら本書を読ませようと思う。まだ見ぬ社会の厳しさをまだ純粋な心が残っているうちに教えるために。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
手紙 (文春文庫)
東野圭吾手紙 についてのレビュー
No.54: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

既に90年代のミステリ史にその名を残す古典的名作

第13回メフィスト賞受賞作の本書は当時破格の好評を以て世の本格ミステリファンに迎えられた。
シリアルキラー“ハサミ男”が自分の次の獲物が全く同じ犯行で何者かに殺されたことからもう一人のハサミ男を探す物語。
90年に流行り、半ば使い古された題材だったシリアルキラー、サイコパス物に新機軸を打ち立てた作品だ。

既に2名の犠牲者を出した連続殺人魔、通称“ハサミ男”が次なるターゲットを自らの犯行に見立てて殺した第2のハサミ男を探す。その一方で3番目の犠牲者を出した警察は躍起になってハサミ男を逮捕せんと全力で捜査に当たり、やがてその手はハサミ男自身にも及んでくるという、ハサミ男の正体を巡る警察と、模倣犯を探すハサミ男自身の捜査が同時並行的に語られる。そしてハサミ男が犯人を捜していくうちに第3のターゲットだった樽宮由紀子の隠された秘密が暴かれていくという、実に面白い展開。
とにかく中盤以降のリーダビリティは先が気になってもどかしく思ったほどだ。

物語の中心となるハサミ男は教育関係の出版物から通信教育業を手掛ける氷室河出版でアルバイトをしながら生計を立て、同社の顧客データから成績優秀な女子学生を選んで殺しの対象にするというシリアルキラー。しかし自殺願望があり、自ら有害とされるクレゾール石鹸液や殺鼠剤を買って服用して死のうとするが意識昏倒するだけで決して死までには至らないという情緒不安定な人物だ。

しかし冷静な頭の持ち主で警察の捜査をまんまと出し抜き、また自らの行動を客観視して自分の行動が他者に及ぼす影響や心に落とす印象を分析しながら行動する。

ハサミ男の正体が明かされる402ページは『十角館の殺人』を髣髴させるほどのサプライズだったことは証言しておこう。

そしてその後の展開はまさに目くるめくと云ったところ。

実にミステリの定型を裏切った物語だ。実に企みに満ちた作品だ。これが殊能作品の特徴なのか。
確かにこれは話題になるし、どこか麻耶雄嵩氏を髣髴とさせ、殊能氏が通常の新人とは一線を画す存在感を持つというのも頷ける。

さてそんな作者の殊能氏はどうやら洋楽ファンらしく、ところどころに挿入される洋楽アーティスト名とその楽曲が私にとっては非常に懐かしく、そんな小ネタに好感を持てた。

しかし昨今は2008年の短編以来発表が途絶えており、Wikipediaでも事実上引退と書かれていたが、その後2013年2月11日に亡くなっていたことが解った。
つまり私が本書を読んだ時には既にこの世にはいなかったのだ。

その存在は本格ミステリ史に確かな足跡を残したのではないか。本書はその功績に足る特異性を持った傑作と読後の今、強く思う。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
ハサミ男 (講談社文庫)
殊能将之ハサミ男 についてのレビュー
No.53:
(9pt)

マレルの短編は極上だ

アクション冒険小説の雄デイヴィッド・マレルの手による短編集。
意外や意外。内容は奇妙な味の短編集だ。

冒頭を飾る「まだ見ぬ秘密」はクーデターによって国を追われた某国の指導者のために腹心の部下が木箱を命令のまま運ぶという話。
マレルによる解説では本作は実話らしい。まさに現実は小説よりも奇なりである。

続く「何も心配しなくていいから」はホラーテイストの話。
娘を亡くした父親の狂気とも云える執念を描いた作品なのだが、それに加えて娘の霊が抱く恐怖の謎を上手く絡めている。この霊が存在することを前提にしているのが本書のミソだろう。この辺の仕掛けは実に上手い。
さらに娘を助けるために特別高圧電流の流れる鉄塔に登って娘を救おうとする父親の狂気の姿を描いた最後まで全く気が抜けない作品。上手いなぁ。

全編会話文で構成されているという特殊な作品が「エルヴィス45」。エルヴィスマニアの教授がエルヴィスの講義を開講したが次第に狂っていくという物語。
正直これはマニアックすぎてよく解らない作品だ。会話が次第に狂気を帯びていくことは解るのだが。

「ゴーストライター」はハリウッドの歪みを描いた作品だ。
冒頭のマレルの説明にモートと同じ境遇の脚本家がいたことが告白される。恐らくはその脚本家がモートのモデルなのだろうが、マレルの姓名を逆転させてもじったような名前なのが興味深い。

次は感動の一作「復活の日」。
マレル自身がライナーノーツで書いているように彼自身初めて書いたSF小説。放射能事故で現代医療では治す手立てのない父親を冷凍保存してその方法が確立する未来まで延命させるというのは使い古されたテーマだが、本書が特別なのは父親の維持費を払う遺された家族の苦難を詳細に、そしてドラマチックに描いた点にある。
本作に書かれたように残されたまだ女盛りの過ぎていない母親にとっていつ訪れるかもしれない“その日”のために一人息子を育て、孤独を凌ぐのは並大抵の苦労ではない。しかも法律上はその間でさえ夫婦であり、再婚さえできないのだ。
加えてその維持費。当初は事故を起こした研究所の負担だったが、世論が冷凍保存技術に疑問を投げかけるや、研究所はもはや可能性は無いとして維持費の支払いを拒否する。しかし父親の復活を信じるアンソニーは大学生ながら働いてその維持費を工面し、そして自ら父親の治療法まで編み出すのだ。
物語の設定はシンプルなほど素晴らしい物になるというが本書はまさにそのお手本のような作品だ。
プロットは別段珍しいものでもなく、恐らく誰もが思いつくような内容だが、シンプルさゆえに感動を誘う。これが個人的ベストだ。

次の「ハビタット」は低予算TVドラマ用にマレルが書いた脚本のようだ。とにかく主人公の女性の「約束が違う!」という狂気の繰り言と挟まれるブザー音とサイレンとが行間から実際に鼓膜に響き渡るようで神経的にもささくれ立ってくる作品だ。

世紀末の1990年代に“Millennium”という1900年代から10年代、20年代、と特定の年代を舞台に世界の終末を描くというテーマのアンソロジーのため、ダグラス・E・ウィンターという作家が様々な作家に依頼したそうだが、マレルがそのために1910年代をテーマに書いたのがこの「目覚める前に死んだら」だ。
最近新型インフルエンザで話題にもなったスペイン風邪の猛威をモチーフに作られた作品。次から次へ急速に広がっていく殺人風邪の恐ろしさをマレルは一医者を主人公に克明に描く。
パンデミック物はその見えない脅威という意味で鉄板の怖さを見せるが本書もまたその例外に漏れず、実に恐ろしい作品だ。
実際当時は死ぬか生きるかの瀬戸際で生き残った人々の意識に選民思想が浮かぶのもおかしくないほどのすごい病気だったことが解る。ここに書かれていることは決して誇張ではない。
そして一医者のスペイン風邪との苦闘の日々として描くことで実に読み応えがあった。そしてその医者も極限状態に曝され、狂気の淵に立たされてしまうのはマレルの持ち味か。

最後は表題作。
原題は“Rio Grande Gothic”。毎夜靴が道路に落ちている日常の奇妙な謎が恐ろしい殺人鬼兄弟の巣窟へと辿り着く。
読み終われば原題が的確に内容を要約していると感じるが、何が起こるか解らない発端を抑えた邦題もまた興味を誘う。しかし邦題は実にシンプルすぎてインパクトに欠けるか。
毎夜落ちている靴に関心を持った一警官が周りの理解を得ずに孤立していく様、そして家族が離れ、孤独の中、自分を信じて真実を追いかける様、危難に陥り、命を奪われようとする様など典型と云えば典型だが、読ませる。特に敵役の農場兄弟よりもヒーロー然としておらず、どこかどん臭く、不器用な主人公のロメロの方が狂気を感じさせるのが特徴的。


マレルといえば数々のアクション、スパイ物が有名で、その派手派手しい演出はあざといまでに映像化を狙ったような作品が多いが、短編では趣を変えた奇妙な味と云える不思議な味わいを持った作品ばかりだ。

とはいえ長編に比べると刊行されている短編集はわずかに2作。しかも1作目『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』は文庫化されておらず、単行本も既に絶版状態。従って彼の短編を読むには本書を読むことで渇望を癒すことになる(しかし本書も既に絶版状態なのが哀しい)。

さて収録された物語は歴史物、ホラーにSFとヴァラエティに富んでいるが、共通するのは自失と狂気の物語だろうか。しかもライナーノーツのように全編の冒頭にマレル自身による作品に関する説明が施されており、そのどれもが実際に彼の身の回りで見聞きし、経験したことがその作品のアイデアに繋がっているという中身となっている。

そして著者あとがきで語られるマレルの母親のエピソードが実に興味深い。決して幸せではなかった彼女の人生を目の当たりにしてきたマレルが幼少時代の彼の心に落としたのは何かを盲信しないと人は生きていけないという翳ではなかったか。
不幸な生い立ちを辿った母親に育てられ、成人して作家として成功しながらも最愛の息子を亡くすという大きな不幸に見舞われたマレル。そんな彼だからこそ一風変わった余韻を残す物語がこれほど生まれたのではないか。

特に息子を亡くしてからのマレルの作風はガラリと変わったと聞く。彼が襲われた最大の不幸のために彼の中に一種狂気に似た感情が宿ったに違いない。
ここに書かれた作品に登場する不屈の精神を持つ主人公たちはその執着心の強さゆえにどこか壊れた印象を受ける。

アクション物の長編では短い章立てでテンポよく物語を展開する作品であるが、短編ではじっくり書き込んで読み応えを促す真逆の作風であるのが特徴的だ。
そして長編のイメージを持っていた私はマレルがこれほどヴァラエティに富んだアイデアを持ち、濃密な話を書けるとは思えなかった。恐らく誰もが思うようにマレルは長編よりも短編の方が面白い。

こうなると『このミス』ランクインした前述の『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』の復刊が望まれる。どこかの出版社で文庫化してくれないだろうか。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
真夜中に捨てられる靴 (ランダムハウス講談社文庫)
No.52: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

いつも心に暗黒を

東野圭吾氏の傑作の誉れ高い本書。ドラマ化され映画化もされたことでその評価の高さが窺える。
そして読後これは確かにそうされるべき題材だと感じた。

とにかく丹念に東野氏は描く。1973年から始まる動乱の時代とその時代の街並みを、その時代に生きた人々を。

東野氏は直接的に年代を書かないものの、その年に流行った、もしくは話題となった社会問題や芸能ネタを織り込んで時代を特定させる。

その時代を生きた2人の男女。物語はその2人を中心に語られる。

1人は桐原亮司。殺された質屋の息子。彼は学校では目立たない存在だが、プライヴェートではサイドビジネスをして、金を稼いでいる。最初は高校生の売春斡旋業、次にパソコンゲームの通信販売、そして何かトラブルが発生すると適切に処理をする。

もう1人は唐沢雪穂。母子家庭で育てられたが母親がガス事故で死に、その後親戚の養子となって引き取られる。生まれは大阪の下町ながらどこか気品があり、茶道に華道に英会話と女性としての自分を磨く。そして誰もが気になる美貌の持ち主でもある。

物語はこの2人の生い立ちを、小学校、中学校、高校とそれぞれの点描を語りながら進む。そしてお互いの人生に間接的にそれぞれの翳を滲ませながら。

それらの進行は実に訥々としている。その時2人の周囲に起こった大なり小なりの事件は決して解決されることはない。しかし断片的に語られる事件には過去に起きた事件に対するある手がかりがさりげなく溶け込まされている。このあたりの配し方が東野氏は実に上手い。
特に252ページの雪穂の章の最後の一行には鳥肌が立ったほどだ。そんなさりげない文章で東野氏は桐原亮司と唐沢雪穂という二人の男女の暗黒と恐ろしさを淡々と描いていく。

そしてこの2人には鋼の絆ともいうべき結束力がある。お互い人生の成功を夢見て、その道に立ちはだかる者を協力して排除していく。しかし二人が作中で出くわすことはない。
この物語運びに東野氏の技巧を感じる。

さらにすごいのは中心となる桐原亮司と唐沢雪穂の心の内面を全く描かずにその人となりを浮き上がらせていることだ。描かれる内面は2人に関わる人物たちばかりで、2人の描写は表情と行動、しぐさだけしかない。それだけで2人の抱える心の闇や野望の深さを読者は知らされるのだ。

そして2人に関わる人間は何故か彼らの過去に触れていく。偶然にも助けられ、彼ら2人の幼き頃の悲劇の真相へと入り込んでいく。
そしてその道行きの半ばにそれは不意に断ち切られる。亮司と雪穂はお互いの人生に立ちはだかる困難を協力して排除していった。そのために人の命を奪うことなど全く厭わなかった。

なぜそこまでにこの2人は助け合うのか?
刑事笹垣の執念が彼らの秘密を、そして73年に起きた事件の真相を解き明かす。
その真相は何とも哀しいものだった。
それが2人の運命を決定づける。

母子家庭の貧民街からのし上がっていく唐沢雪穂の物語は一面を捉えれば、『マイ・フェア・レディ』ばりのサクセス・ストーリー、立身出世物語だろう。
一見輝かしい人生には心を失くしたゆえの冷酷さが隠れ、彼女をいいようのしれない恐ろしい何かに変貌させた。

一方の桐原は雪穂の成功を支える日陰の存在として生きていく。コンピューターに精通しながらその使い道を犯罪にしか向けなかった彼は、雪穂がのし上がっていくために邪魔者となる存在を排除する役割を務める。
前半はお互いに助け合っていたのが、後半、成人してからは桐原の存在は影の部分が濃くなっていく。それは彼にとって雪穂への償いだったのだろう。

そして考えさせられるのが我々は亮司と雪穂のように懸命に生きているだろうかということだ。確かに2人がやった行為は自分の利益や優位、幸せを追求するためには他人を不幸にすることも辞さないという決して誉められたものではない。
しかしそこまで我々は自分の人生を一生懸命に生きているだろうか?

白夜行。
なんと悲痛なタイトルか。
明るくてもそれは日の光ではない。かといって安らかに眠るにはなんとも明るすぎる、中途半端な黄昏。決して無垢な光ではなく闇を孕んだ光の下で生きてきた桐原と雪穂の人生をまさに象徴している。

唐突に閉じられた結末ゆえに気持ちに整理の付かない自分がいる。
しかしこの作品は東野氏が追求してきた人の心こそミステリの一つの到達点だろう。そしてその後の東野氏の活躍を知る人々にとってこれがまだ通過点に過ぎなかったというのが驚きだ。
恐るべし、東野氏。
次はどんなミステリを見せてくれるのだろうか?


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
白夜行 (集英社文庫)
東野圭吾白夜行 についてのレビュー
No.51:
(9pt)

事実はやはり小説より奇だった

作者エラリー・クイーンが収集した事件について紹介した作品集。1編あたりが10ページ未満ということもあってショートミステリ的な作風になっている。

まず第一部はクイーンが世界中を周遊して聞いた話について書かれた「国際事件簿」。

まさに奇妙な事件ばかりだ。南スペインでは美女を彫らせるといつも同じ顔になる入墨師の話が、日本ではあの有名な帝銀事件が、フランスのノルマンディーではパリ警視庁でその人ありと謳われたフォス警部が突然引退するに至った事件が語られ、アルゼンチンでは知られざる名探偵ディエゴ・ゴメス捜査部長の活躍に、ルーマニアではある詐欺事件の一部始終が、そしてアルジェリアでは新婚初夜の夫婦に降りかかった密室での新妻殺人事件の顛末が語られる。
さらにメキシコでは富豪の未亡人の殺人事件、インドでは呪いによって殺された青年の話、ユーゴスラヴィアではヴェリカ・キキンダという町で起こった連続盗難事件、エクアドルでは浮気妻が浮気相手と2人きりの時に部屋で射殺された事件、パリでは愛のため両目を失った青年の話が、フィリピンではフィリピンで闇取引の大物になった元アメリカ軍人の殺人事件に西オーストラリアでは砂漠で白骨死体で発見された白人の話、チェコスロバキアの浮気娘がかかった奇病の正体の話、モンテカルロではカジノのクルーピエ(ルーレット係)が起こした神がかった犯罪、と続く。

そしてモロッコで起きたフランス軍人とベルベル人の美女との悲恋のお話に、トルコでハーレムの一人になったアメリカ人女性の不審死、中国は上海にあるフランス租界で起きた心中事件の意外な真相が語られ、スペインのマドリードで起きた無政府主義者の女性闘士が起こした狂気の殺人、エルサレムでは今なお謎とされる発見された男女の死体の真相で閉じられる。

第二部はアメリカで起きた奇妙な事件について語られた「私の好きな犯罪実話」だ。

まず「テイラー事件」は数奇な人生を経て名監督となり、女優たちとの浮名を轟かせたウィリアム・デズモンド・テイラー殺人事件を扱った物。まだグレタ・ガルボも登場していないサイレント時代のハリウッドで起きた映画監督殺人事件。しかし何よりもこのテイラーという人物の人生もドラマティックなのだ。才能さえあれば富と栄光が得られるハリウッドが持つ狂気の魔手。これはまさにそれに絡め捕られ人生を狂わされた人々の物語だ。

次の「あるドン・ファンの死」は実に興味深い。何しろ作者クイーンがエラリー・クイーンシリーズを書くきっかけになった事件だというのだから。この社交界の雄ジョゼフ・ボウン・エルウェルが自宅で殺された事件はなんとS・S・ヴァン・ダインのデビュー作『ベンスン殺人事件』のモデルになった作品であり、『ベンスン殺人事件』を読んだある2人が後の作家エラリー・クイーンとなったというのだ。
また社交界で浮名を沸かせたエルウェルが死体で発見された時にはカツラを脱ぎ、入歯も外し、引き締まった体に見せるためにはめていたコルセットを外した単なるハゲで歯のないデブのオッサンだったらしい。これは後にあるクイーン作品に繋がっていて興味深い。

第二部はこの2作までで最終の第三部は女性の犯罪を扱った物。女性が犯罪者だったり、被害者だった事件が紹介されている。題して「事件の中の女」だ。

いつの世もいざとなれば女性の方が度胸が据わっているもの。この第三部に挙げられた女性の犯罪者の悪女ぶりは女性の本当の怖さが滲み出ている。

結婚詐欺師を逆に手足のように使い、2件の殺人をさせた女。
6度の結婚を繰り返し、自身の殺人を実の息子に擦り付けた母親。
自分たちの世界を守るため障害となる母親を殺した2人の少女。
愛する赤ん坊におもちゃを買うために連続強盗、警官殺しを引き起こした鬼子母神のような女。
その美しさゆえに恋敵を殺させてしまった女。
陰と陽の境遇と性格を備えた2人のルームメイト。
夢で殺人事件を知った女性。
自分の死を“見た”女。
連続殺人鬼の餌食になった女性たち。
妻殺しの加害者でありながらその夫に殺された女。
別の殺人のあおりを食らって毒入りウィスキーを飲んでしまった不運な女性。
夫殺しの容疑者でありながら裁判で無罪を勝ち得た挙句に天罰が下ったとしか思えない死に方をした美女。
男のあしらい方を間違えたがために命を失った“国民の恋人”と称された絶世の美女。
自分に逆らう嫁が憎いため息子たちに殺させた姑。
恋多き人生を送っていたが一転して一人の男に尽くし、嫉妬のあまり殺してしまった女。
次々と夫、子供を毒殺していく女。
これらのうち、ある者は理解でき、またある者は理解を超え、そしてある者は不幸としか思えない末路を辿っている。

これら3部で構成された本書で語られているのはおそらく実話だろう。そしてそのどれもが意外な真相なのだ。
最後の一行で読者に知らされる“最後の一撃”はまさに「事実は小説より奇なり」であることを思い知らされる。

本書に挙げられているのは19世紀の終わりから20世紀の半ばにかけての犯罪記録である。こういった記録は実際貴重である。
日本でも牧逸馬氏が同趣向の世界怪奇実話集を編んでいたが長らく絶版となっていた。それを島田荘司氏が精選して復刻させた。本書は今なお本屋で手に入るのだからまだ幸運だ。東京創元社の志の高さに感謝したい。

世界で起こったフィクションを凌駕する奇妙な事件の数々を集めた本書はその内容ゆえに読後感が決して良いわけではないが、歴史に残る犯罪記録として実に貴重な作品だ。
さらに本書が書かれた“その後”について触れられた解説は本書の事件の驚きをさらに補完してもう一度驚かせてくれる(特に母親を殺した2人の少女のその後は強烈だ!)。その存在の意義と価値、そしてここに収められた話の奇抜さと作者の簡潔にして冷静な叙述ぶりを高く評価しよう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
エラリー・クイーンの国際事件簿 (創元推理文庫)
No.50:
(9pt)

思わず美酒を片手に読みたくなる

人生の酸いも甘いも経験した大人たちを書かせたら一級品の作者による初の短編集。

開巻の1本目は「アメリカン・ルーレット」。
元相場師で今作家というおよそ作者自身を投影したような主人公。ここに書かれているバブル時代に合った高額金を賭け合う秘密の麻雀クラブは作者自身が経験したことだろう(しかし時効になっているのかな?)。
相変わらず気障な台詞回しが気になるが読み心地は悪くない。

「イヴの贈り物」は大手商事会社の部長である主人公戸辺と若い娘との交流の話だ。
亡き娘の代わりとばかりに可愛がる女性と大手企業で働く男の交流を描いた作品と思わせて、後半はガンに侵され余命幾許もない男の復讐の話へと展開する意外な物語運びが印象に残る。
戸辺と恵子の交流は男にとって理想的な関係であるのだが、結局借金で高利貸しから風俗で働くことを余儀なくされた恵子の境遇を知らずに父親代わりにと振舞っていた男のエゴに過ぎないことが解るところが、男の身には抓まされる思いがする。末期のガンが発覚し、退職してまで恵子をレイプし、死に至らしめた男に立ち向かう姿も、女性の目から見れば単なる自己満足の世界に過ぎないのかもしれないがこういう話は結構好きだ。
クリスマス・ストーリーにまた名作が誕生した。

続く表題作はこれまた泣ける1作だ。
時折挿入されるナミカジキら三人のエピソードが眩しい。まだ無限の可能性を秘め、何をやるのも無敵感を感じていた若いエネルギーが溢れてくる。
白川氏の筆致は決して起伏に富んだものではなく、むしろあふれ出るエネルギーを抑制するかのように淡々と語るのだが、それでもなお彼ら彼女らの青春は太陽のごとき眩しさを備えている。
その眩しさがあるからこそ並木、その妹理絵、そして梶らの「今」が痛切に響いてくる。

「浜のリリー」も切ない。
法月のリリーと過ごした日々の回想が良くて、とても読んでいて心地よい。愛媛に住んでいた私にとって舞台が松山だったのもその一因かもしれない。都落ちの気分で東京から愛媛へ異動になった当時の主人公の心情も今月で東京から異動になった私の境遇と似たものがあり、さらに仕事は建築関係とのことでますます親近感が湧く。
そんな彼がフラッと入った高級クラブで出会った一人の女性がリリー。横浜のクラブで歌姫として鳴らしていた彼女の歌をここで聴いた者は誰もいない。必然の如く法月とリリーは付き合うようになっていく。
15年後突然のリリーの夫から呼び出しに抱える法月の不安。そしてやはり訪れる哀しみ。とても切ない。そして都落ちした法月のように私もこの地でリリーが見つかるのだろうか。そんな気持ちにさせられる一編だ。

最後の「星が降る」も切ない物語だ。
これも愛する者を死に追いやった者への復讐の物語。復讐の相手がノミ屋で復讐の方法が巨額の賭け金による多額の損失というのがいかにも白川氏らしい。
ただなぜかこの手のギャンブルや株といった自分のフィールドの話になると結末をぼやかした終わり方をしてしまうのだろうか?闇麻雀の世界を扱った「アメリカン・ルーレット」もそうだったが、株やギャンブルの世界の結果を書くといかにも作り物っぽいと思う作者の照れなのかもしれない。
実際にその世界に身を置いた人にはこんなドラマチックなことはそうそう起こることはない、と嘯いているのかも。


全5編。とにかく胸を打つ短編集だ。主人公や登場人物たちはどれも40代以上。そう、もはや限られた未来しか残されていない人々だ。

人生も半ばまで来た男と女たちの何かを諦めた思いが行間から伝わるのが非常に心に染み渡る。全てが丸く収まることはなく、良しとなるにはお互いが何かしらの痛みを伴わなければならない。理想に描いていた未来とは違った人生だがそれでも一生懸命に明日を生きる。夢とか理想とかそんなものではなく、生きていくために現状に甘んじ、しがみつく。
そんな人間たちの物語が本書には収められている。

若い頃に読んでいたならばこの作品の味はこれほどまでに深く心に染み込まなかっただろう。私も齢四十を過ぎた今だからこそ、そうこの物語の登場人物たちの年齢に近づいたからこそ胸に響く音ははるかに大きくなっている。

それは過去との対峙がどの作品にもあるからだ。前述したように今を生きることに体と心が馴れてしまった4、50代の男女に訪れる報せ。それは若かりし頃に付き合い、愛を交わした、もしくはバカをやって楽しく暮らしていた記憶を思い起こさせる。そのどれもが美しいからこそ胸にこみ上げてくる物がある。
そのこみ上げてくる物とはやはり喪失感だろう。

若い頃はこんな楽しく、またお互いを愛しむ日々が永遠に続くと思っていた。が、しかし今ではそう思っていた彼らとは疎遠になってしまい、日々の生活を送るだけになってしまっている。そして4、50代にもなると訪れるのが体への変調。死につながる病だったり、一生抱えていかねばならない病だったりする。そんな現実があるからこそ喪失感もまた否が応にも増すのだ。

そして人生を重ねたからこそ気付かされる人と人との思いもここにはある。特に良かれと思ってしたことが逆に相手にとって重荷になってしまう、愛しているからこそ、思い切り生きさせてやりたい、そのためなら自分とは違う相手と愛を重ねても構わない、などという若い頃には想像もできないような人と人との交わり方が白川氏の豊かな人生経験に裏打ちされた感情論が登場人物たちの口から繰り出される。
思わず頷いたことが何度あっただろう。

闇麻雀の話の「アメリカン・ルーレット」が巻頭を飾り、ノミ屋の競輪を扱った「星が降る」で幕を閉じるのは、切った張ったの世界で生きてきた白川氏の矜持かもしれないが、ギャンブルだけの話ではなく、先に書いた人生の折り返し地点に差し掛かった人々の人情譚の物語だ。
私が特に好きなのは「浜のリリー」だ。こんな話が私は読みたかった。

昭和の香りがするといえばそれまでだが、読み終わった後、暗い部屋でアルコールを片手にじっと浸りたくなる、大人の小説集。その味は一級であることを保証しよう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
カットグラス (文春文庫)
白川道カットグラス についてのレビュー
No.49: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

既に蜂に刺されたことを忘れつつある今、再読を!

映像化作品が多い東野作品の作品の中でも抜群のサスペンスを誇る作品だが、なかなか映像化されなかった本書。
その理由が本書を読んで判ったような気がした。この作品は3.11以前に読むのと以後とでは全く読後感は違ったものになっただろう。

リモートコントロールされた無人ヘリコプターが原子炉上空に滞空し、テロの武器となる。この着想の妙には発表当時、これはすごいなと思ったものだ。

今や国民的ミステリ作家となった東野圭吾が1995年に発表した本書はそんなサスペンス巨編。今回のテロリスト「天空の蜂」が要求する条件とは
・稼働中、点検中の日本全国の原発を全て使用不能にすること
・建設中の原発の工事中止
3.11で原発への不安が叫ばれている昨今、なんともタイムリーすぎて背筋に寒気を覚えた(ちなみに私は渋谷で原発反対のデモ行進を目の当たりにした)。
この内容は現在デリケートすぎて確かになかなか映像化できなかったことだろう。原発反対派に強硬手段の一つのヒントを与えるようなものだ。
逆に発表後約四半世紀経った今でも絶版にならないことが不思議だと云える。

作中で原発周辺に住む人間達の心持が描かれる。原発があるということが生活に馴染みすぎていて異常時の脅威をなかなか現実的に捉えられないとある作中人物が吐露するのだが、これこそまさに3.11以前と以後の日本人の意識であろう。

さらに原発に危機が訪れていることを知り、コンビニに買出しに行く主婦たちの描写があるが、これも3.11で経験した我々の日常だ。

また原発産業に関っている会社が社員に反対運動に署名することに圧力を掛けたことや都会に住む人間の電気供給のためにゆかりも無い田舎の地で原発が築かれ、またその自治体も電源三法交付金という甘い蜜を吸い、と地域活性を促進させたいがために原発の誘致もする現状。
そして実際に原発が停止した際に訪れる様々な場所での影響―工場の操業の停止、百貨店内や都市を走る電車のエアコン停止などの節電対応など、本書に書かれているエピソードの1つ1つが今年我々の身に起きた東日本大地震による原発停止による節電生活を筆頭にした社会問題をそのまま表しており、フィクションとして読めなくなってくる。とても16年前の作品とは思えないリアルさだ。東野氏の取材力と想像力の凄さに恐れ入る。

そしてとにかく原発側の安全神話の妄信振りがこれでもかとばかり書かれる。
阪神大震災並みの地震が来た時、本当に壊れないのか?
航空機が落ちても本当に大丈夫なのか?
これらに関して原発側は終始一貫して「壊れることは無い」、「システムが稼動しないことは無い」の一点張り。技術に絶対はないという定義に一切目を向けないほどの頑固さを発揮する。

この「航空機が墜落しても放射能漏洩事故は起きない」という安全神話がただの張子の虎であったことを知らされた。

即ち原発上空には飛行機やヘリコプターなど飛ぶことは禁じられており、周辺にも飛行場などは建設してはいけないことになっているから、飛行機などが落ちるはずが無いというなんとも薄弱な根拠でシミュレーションさえもなされていないのだ。

この考えが昨年まで浸透していたのかどうかわからないが、2001年にニューヨークで起きた9.11同時多発テロを見ればそれが机上の空論に過ぎないことが解るというものだ。

さらに原発職員と警察、消防の関係者との打合せの場でも制御棒が落ちて稼動停止することが当たり前であり、その装置が何らかの不具合で作動しないなどはありえないと妄信する原発側の発言なども出てくる。

しかしよくもこれほど企業体質や立場などを露骨に書いたものだ、東野氏は。

原発ジャックを起こした主犯の三島幸一は、ヘリコプターを開発した会社錦重工業の社員であり、会社の原子力機器設計部門に勤務している。ヘリコプターの設計に携わった湯原の同僚でもあり、新入社員の頃から人とは違った着眼点と鋭い洞察力を持ち、同期の中でも一目置かれていた存在だ。

その彼がどうして原発に対してテロ活動を起こそうとしたのか。それは作中でも最後の方に出てくる。

ところで私は真っ先に子供を救出した後なら自衛隊の戦闘機で空爆するという手があると思った。現に作中でもそれについて話しているが、うまく粉々になってくれればいいが、単に墜落を早めるだけの確率の方が高いと切り捨てられている。
しかし私は爆弾を搭載したヘリならば空爆するだけで内部の爆弾と反応して粉々になる確率の方が高いと思う。従ってこの部分に関してはお茶を濁した程度で終わっているような感じがして、ここが本書の設定の弱点だったように思えてならない。

3.11の東日本大震災から連日メディアで喧しく報道されている放射能物質拡散の脅威と反原発運動、そして放射能汚染の恐怖。この原子力発電は現代の社会に咲いた仇花なのだ。
もう無関心でいる時期は終わった。
1995年に著された作品だが、現在起こっていることが既に本書には予想として挙げられている。これらの事態と原発に関する知識をさらに深く得るためにも、そしてその存在意義を考えるためにも今この書を読むことをお勧めする。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
天空の蜂 (講談社文庫)
東野圭吾天空の蜂 についてのレビュー
No.48:
(9pt)

“世界を知る”人が紡ぐ人間ドラマ

処女作『流星たちの宴』は相場師の世界を扱った作品、云わば作者のフィールドを活かした実体験に基づく内容だった。
本書は所謂ハードボイルド作品。また警察小説とも読める濃厚な人間ドラマだ。

主人公は伊勢孝昭。暴力団佐々木組がバックに着く伊勢商事の社長。しかしその会社は表向きは都内で高級クラブやレストランを経営する会社で、伊勢自身も暴力団関係の仕事には携わっていない。そして彼には人を殺した過去があり、その時芳賀哲郎という名前も捨てていた。

彼の生き別れの妹が若き天才ヴァイオリニストである馬渕薫。

また伊勢の孤児院時代の友人が小料理屋を営む三宅慎二と銀座でホステスをしている藤城千佳子。千佳子は服飾デザイナーになるため上京したが夢破れホステス業に身をやつし、心身共に削れるような毎日を送っている。

そして千佳子の恋人でフリー記者の岡堀。彼はたまたま銀座で千佳子が出会った伊勢のことが気になり、身辺を洗い出す。

さらに伊勢の昔の恋人今日子はかつて伊勢が働いていた工場主の娘だった。

今の伊勢の周りにいるのは焼津時代に同じ釜の飯を3年食った布田と彼らを拾い、東京に連れて行った佐々木組の組長佐々木邦弘。

そして2つの殺害事件の捜査に携わり、徐々に伊勢、薫、慎二、千佳子たちの過去に迫る刑事佐古。

これら物語を彩るキャラクターのなんと濃密なことか。どこかで読んだような、借りてきたような人物ではなく、生活から人生の道程までしっかりと顔の皺まで浮かびそうなくらい書き込まれている。
処女作でも感じたがやはりこの人は“世界を知る人”なのだろう。この人でないと書けない雰囲気が行間から立ち上ってくる。

夢破れその日その日を無意味に生きる者。

運命に流され、それなりの生活を掴みながらも過去に縛られ過去を捨てようと努力する者。

夢に向かって邁進し、それを適えた者。

それぞれが今を生き、現状を保とうとつつましく毎日を営み、もしくは変えようともがいている。

そんな危ういバランスは抱え込んだ暗い過去が生んだ怨念によって変わってしまう。

作中主人公の伊勢が幾度か呟く。

生にはこれから生きることがはじまる生と、これから死ぬことがはじまる生とがある

この言葉が象徴するようにこれは死に様を探し続けた者が生き方を見つけようとした者を救うための物語なのだ。

つつましく生きたいのになぜか人生の節目で裏切られ、真っ当な人生を進むことを否定される人々を書く物語は志水辰夫の作風をどこか思わせた。

そしてさらに繰言のように呟かれるのは

夢を見ることと祈ること、この二つを持ちつづけるかぎり、人間として生きていける。

なんとも気障な云い回しだが、人生の敗北者としてどこか諦観を持っていき続けてきた伊勢の最後の拠り所が夢と祈り。彼の夢とはかつて継父が船医として行っていた彼の地ペルーに渡ること、そこで第2の人生を送ることだ。

十年前に捨てた拳銃。つぎはぎだらけの地球儀。前者は運命を変えてしまう仇花であり、後者は死に様を見つけようとした男が唯一残した夢の名残。
こういった小道具が物語に深みと味わいを持たせる。

前作を読んだ時は作者独特のニヒリズムに惑わされ、その気障な云い回しと作者の理想像のような主人公梨田の造形に辟易したものだが、本書ではガラリと変わり、上に書いたように志水辰夫氏を思わせる叙情性と大人の小説という風格まで感じさせる。既に2作目にして化けてしまった感があるのだ。小説としてのコクを感じさせる。
登場人物といい、結末まで向かう構成の上手さとその必然性を作る小道具の周到さ。

特に上手いと思ったのは伊勢孝昭として他人の名を借りて生きてきた芳賀哲郎が本名に戻った後だ。それまでは伊勢孝昭としかイメージできなかった人物が、ある事件をきっかけに本名の芳賀哲郎としての空気を纏い、もうそれ以降は芳賀哲郎とでしか読めないのだ。同じ人物でありながら主人公が2人いるような感覚。
それは前半が会社の経営者の伊勢の物語から、施設時代に弟・妹のように可愛がっていた慎二と千佳子を守る兄、そして友人の無念を晴らす戦士である哲郎の物語へとシフトするのにこの名前の変更は実に有効的に働いているのだ。これはなかなか考えられた実に上手い構成だ。

そして最後に読んで立ち上る題名『海は涸いていた』の意味。

作者白川氏には是非ともこの路線で行ってもらいたい。今後未読の作品がどんなものか解らぬが本書のような濃厚な人間ドラマを期待してもいいだろう。

全く興味のない麻雀小説がなければもっとのめり込める作家だっただろうに。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
海は涸いていた (新潮文庫)
白川道海は涸いていた についてのレビュー
No.47: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

これも献身の物語

殺人事件が起きずにこれほどハラハラさせられるミステリは最近読んだことがない。そう、“ラブストーリー”と題名に附されながら、これは極上のミステリなのだ。

本書での謎というのは実に上手い語り口で徐々に紐解かれる。
物語はまず2つの平行世界で繰り広げられる。共通するのはバーチャル・リアリティ(作中ではバーチャル・リアリティをさらに発展させた次期型リアリティという設定)をそれぞれの分野で外資系総合コンピューターメイカー、バイテック社のMAC技科専門学校で研究している敦賀崇史と三輪智彦と津野真由子の三人。

一方の世界では崇史と智彦は入社して2年目の社員で、智彦に新恋人が出来、崇史に紹介する。しかしそれは彼が学生時代に彼が乗っていた山手線に並行して走る京浜東北線に乗っていた憧れの君、津野麻由子だった。崇史は親友の幸せを祝いながらも、激しい嫉妬に襲われ、真由子を手に入れたいという恋情に駆られる。

もう一方の世界ではMAC技科専門学校での研修を終え、入社3年目の崇史は麻由子と同棲していた。しかし智彦が麻由子の恋人だったという夢を頻繁に見るようになり、深層心理で智彦に対して罪悪感を抱くようになる。そして当の智彦はバイテック社の本社、ロサンゼルスに赴任していたというもの。

この2つの世界の設定が交互に語られ、まずはどちらが現実でどちらがバーチャル・リアリティなのか、読者は混乱に注意しながら読み進めることになる。

やがて読み進むにつれてそれら2つの異なる時間軸で語られる話が1つのある謎に収束していく。

それは即ち、「記憶は改編できるか?」という謎だ。

『宿命』以後の東野作品を中期とすると、この頃のテーマに頻発するのが「記憶」ということになろう。『宿命』然り、『変身』然り、『分身』然り。そして本書然り。

これらの作品に共通するのは近い未来に成立し得るであろう医療技術が物語の発端になっていることだ。前掲の3作品については未読の方の読書の興を殺ぐといけないので敢えて触れないが、本書では現実と見紛うほどの非現実体験、即ちバーチャル・リアリティの研究から発展した記憶改編が技術として挙げられている。

記憶というのは果たしてなんだろうか?東野氏は『変身』で主人公成瀬にこんな台詞を云わせている。

「脳はやっぱり特別なんだ。あんたに想像できるかい?今日の自分が、昨日の自分と違うんだ。(中略)長い時間をかけて育ててきたものが、ことごとく無に帰す。(後略)」
「それは死ぬってことなんだよ。(中略)かつて自分が残してきた足跡を見ても、それが自分のものだとはとても思えない。二十年以上生きてきたはずの成瀬純一は、もうどこにもいないんだ」

自分が自分である為の証拠。それこそが記憶だと成瀬は激白している。
その記憶を改編することとは自分の足跡を消し、新たな自分を生み出すことではないか?
そんな記憶は果たして自分の存在意義を示すのか?

特にこの記憶改編の仕組みを東野氏はぼやかさずに実に合理的に説明している。詳細は本書に当たられたいが、その方法論は実現可能ではないかと思わせるほど論理的だ。
本書では不良に2人囲まれてどうにか逃げ出したという事実を5人に囲まれてどうにか撃退したという風に大袈裟に誇張して語る行為を例に挙げている。
人は年を取るにつれ、現実と理想が乖離していくのを痛感し、理想が適わぬ夢であることを知り、諦めてしまう。だから人は少しでも理想に近づけたくてついつい嘘をついてしまうのだ。

年を取るにつれ、本書の登場人物が抱えるこの想いは痛切に心に響く。そしてそれ以外にも本書には私のツボとも云える設定が盛り込まれている。

まず冒頭の一行目からグッと物語に引き込まれた。山手線と京浜東北線というある区間では双子のように並走するこの路線をパラレルワールドに擬えるところが秀逸。
そしてそれぞれの電車に乗る人々はそれぞれの空間だけで完結し、同じ方向に進むのに何の関係性も生まれないという主人公敦賀崇史の独白がさらにツボだった。

そして毎週火曜日に路線を跨いで同じ車両の同じ位置に立つ女性に恋心を抱くという設定もツボだし、さらに親友の彼女がその女性だったなんてベタにもほどがあるが、好きなんだなぁ、こういうの。
多分これからあの区間を山手線、京浜東北線に乗るたびにこの物語を思い出しそうな気がする。

このような「運命の相手」が目の前に立ち、しかもそれが親友の恋人だったら?実に憎らしい設定ではないか?
主人公敦賀崇史が直面したのはこのような狂おしいまでのシチュエーションだ。親友との友情を取るか、それとも自分の恋情に従い、親友の恋人を獲るか?このなんとも先行きが気になる設定に加え、その本願が成就された1年後の崇史の姿が並行して語られ、そこでは次第に気付かされていく自らの記憶の誤差について崇史が独自に調べていくというミステリが繰り広げられる。

しかし何よりも本書はある一人の人物に尽きる。それは敦賀崇史の親友、三輪智彦だ。幼い頃の病気で右足を引きずるというハンデを背負った彼は明晰な頭脳を持ちながら、不遇な人生を歩んできた。そんな彼に訪れた大きな幸せ。それが恋人津野麻由子だった。

冒頭に私は本書はラブストーリーだと銘打ちながら実は極上のミステリだと書いたが、最後にいたってこれはなんとも切ない自己犠牲愛に満ちたラブストーリーなのだと訂正する。

こんなに心に残る話は無条件で星10を献上したいところだが、『魔球』同様、犠牲を被る相手に不満が残ってしまう。
特に今回は社会的弱者の立場の人間が自ら犠牲になるというのがどうしてもしこりとして残ってしまう。上にも書いたが、不遇な境遇を強いられた彼がようやく手に入れた唯一無二の幸せ。それさえも身障者という理由で諦めなければならないのだろうか?

誰もが幸せになるために選んだ道は実は誰もが不幸になる道であった。
謎は解かれなければならないのがミステリだが、本書においては知らなくてもいいことがあり、それを知ってしまうことが不幸の始まりであった。
『変身』では記憶を自らの存在意義の証と訴えた東野は本書では記憶のまた別の意味を提示してくれた。次は何を彼は問いかけるのだろうか?


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
パラレルワールド・ラブストーリー (講談社文庫)
No.46:
(9pt)

“孤独の高み”を乗り越えた先にあるものは…

ニール・ケアリーシリーズ3作目の舞台はなんと地元アメリカ。西部の山奥でカウボーイたちの暮すオースティンのさらに奥、通称“孤独の高み”と呼ばれる集落だ。

物語は中国の山奥で早朝に伏虎拳の修行に励むニールの姿で幕を開ける。う~ん、なんとも映像的ではないか。映画『ミッション:インポッシブル』を髣髴とさせるようなシーンだ。
このような演出からも私立探偵物というよりも冒険活劇を前提にした諜報物を意識した作りであるのが解る。あざといと思いながらも語り口が絶妙だからこの導入部から既に期待に胸膨らむ自分がいた。

今回の任務はハリウッド映画プロデューサーの前夫に攫われた一人息子の奪還。
そして通常私立探偵物と云えば主人公の事務所に依頼人が訪れるというのが定番だが、このシリーズはニールの父親代わりのグレアムが依頼を告げ、事件を終えたニールの回想を思わせる独白で幕が開く。それは全て後悔の念であるのが特徴的。つまりグレアムはニールにとってかけがえのない父親でありながら災厄の天使でもある。そのとおり、この実にたやすいと思われた任務が、結果的にはニールのみならずグレアム、レヴァインをも巻き込んで絶体絶命の窮地にまで陥れる。

毎回このシリーズにはニールの行き先で出会う人との交流が物語の絶妙なスパイスとなるのだが、今回のゲストは“孤独の高み(ハイ・ロンリー)”の牧場主スティーヴ・ミルズとその一家だ。彼が農業に見切りをつけ、妻と2人で辿り着いた安息の地“孤独の高み(ハイ・ロンリー)”で如何に今のような牧場を経営するまでに至ったかが語られるのだが、西部開拓者精神を象徴するそのエピソードにグッと来る。2人の夫婦が掴んだささやかな成功と、一人娘の成長を見守るささやかな幸せ。
今はその至上主義が諸国の反感を買うアメリカだが、その国でもこんな時代があったのだと気付かされる。もしかしたらウィンズロウは今こそこういう精神が必要なのだと自国の読者に訴えたかったのかもしれない。

そして忘れてはならないのはヒロインの登場だ。いつもニールはターゲットの女性に一目惚れし、任務に逆らって我が道を行くのだが、今回の相手はターゲットでないところがミソ。オースティンで小学校教師をしているカレン・ホーリーがその相手で彼女は脚が長くて背が高く、幼い頃から山野を歩くため出ているところは出て、引き締まっているところは引き締まっているという抜群のプロポーションの持ち主。しかも笑顔で何人もの山の男たちをとろけさせるほどの魅力的な美人だ。まさに掃き溜めの中の鶴といった存在である。
よく考えるとこうも毎回美女が登場するというのもボンドガールのようで、しつこいようだがやっぱりこのシリーズはスパイ物だなぁと思ってしまう。

今回のテーマは西部劇だ。西部の山奥に行ったニールが乗馬を習い、大草原を駆け抜ける。クライマックスは現金輸送車強奪から白人至上主義集団の追っ手から逃れる一連の群馬活劇シーンは実に映像的。スリリングかつ躍動的で手に汗握るとはまさにこのこと。
ホント、ウィンズロウはなんでも書けるなぁ。

そして今回の展開は痛い。実に心が痛む物語だ。毎度毎度の潜入捜査ながら、マンネリに陥らず、物語に深みが増している。1作目に「潜入捜査の終わりは裏切りだと常に決まっている」と書かれていたが、今回はまさにそう。

白人至上主義で反ユダヤ人派の新興宗教グループの一員となった男に攫われた男の子を救出する為にあえてその身をそのグループに属させようとするニール。読者はニールが強盗団のリーダーとして力を発揮していく過程を頭で割り切れても心で割り切れない感情で読まされる。
しかしそれは命の恩人である気のいいカウボーイ夫婦と熱烈な愛情を注いでくれるカウガールを裏切る行為でしかない。減らず口と持ち前の世渡り巧さでどうにかそれを悟られずに済まそうとするニールだったが、狭いコミュニティの中でのこと、その二重スパイ行為が発覚するのは時間の問題だった。そしてその事実が発覚する瞬間。これが本書の白眉とも云うべきシーンだろう。
そして恩人のカウボーイ、ミルズの出自がユダヤ人であるところが実に巧い。自分の主義・真意を偽り、任務を全うしようとするニールの心引き裂かれんばかりの葛藤。
いやあ、3作目にしてこの濃密さ。ウィンズロウ、実に巧い!思わず目蓋に熱を感じてしまった。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
高く孤独な道を行け (創元推理文庫)
ドン・ウィンズロウ高く孤独な道を行け についてのレビュー