■スポンサードリンク


Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数201

全201件 101~120 6/11ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
 閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
No.101:
(8pt)

パンデミックを前に政治家たちが狂宴する

とにかく冷静に読めない小説だ。なぜならあまりにリアルすぎるからだ。

老化が一気に進む恐るべき奇病のパンデミック(世界的大流行)を扱った本書。
前書きでも言及されている鳥インフルエンザから進化した新型インフルエンザのパンデミックが恐れられている昨今、正にタイムリーな小説だった。とはいえ、本作が書かれたのはなんと16年前の2002年。この頃、既に現在の新型インフルエンザの発症は実は予見されていることに驚いてしまった。

本作ではフィクションの形を取っていながらも実はかなり真実に近い内容だという。地球温暖化で北極・南極の氷が溶け出し、その厚い氷に眠っているのは古代に流行した未知の病原体であったというのが発想の素になっているが、実際にこういう事実は発見されているのだという。
本書の中には前書きにも言及されている、クジラやアザラシなどの海洋動物ではありえなかったインフルエンザの発症、世界最新の湖、バイカル湖に眠る紀元前数万年前の汚泥に潜むウィルスなど、世界的な異変の実体についても物語に盛り込まれており、これが絵空事とは思えない迫真性をもたらしている。

そしてこの時点でこんな小説が書かれているのにも関わらず、パリ協定から離脱宣言をしたアメリカはなんとバカな国だろうと義憤に燃えずにいられなかった。無論、フリーマントルはその事も念頭に置き、地球温暖化を否定したアメリカが、それが原因としか思えない未知の病原体の発症を認めるという一流の皮肉を使っている。これを物語の発端にすることこそ、フリーマントルが実施したアメリカへの痛烈な罵倒であろう。
しかしこの作家が凄いのはそのアメリカのシンクタンクの連中ならばこういうストーリーで温暖化を認め、逆にそれを糧にして更に世界のリーダーシップをアピールするに違いないときちんとシミュレーションし、淀みなく物語に溶け込ませているところだろう。本書を読んだアメリカ人のなんとも云い難い顔が目に浮かぶようだ。

裏を返せばフリーマントルがアメリカにパリ協定の同意をさせるにはどうしたらよいかを示した一つの指針であるとも云える。
あの国の巨大産業と政治との癒着が根源と成っている愚行を正すにはこういう人類を滅ぼすぐらいの奇病が発生し、それが地球温暖化が原因である事を認めさせるくらいでないと、あの国は決してその重い腰を上げないし、固い頭を柔らかくしないだろうと声高に叫んでいるように読めた。もし同様のことが起きた場合に、こうすればあの国も協定に同意するだろうというプロセスを、詳らかに記した一例とも云える。

そしてこういうパニック小説を書きながらもフリーマントルは内外の政治的駆け引きを盛り込む事を忘れない。調査の主導権を握ったアメリカではこの機会を利用して成り上がろうと野心を燃やすアマンダとポールのせめぎ合い、協力国の1つ、イギリスではクーデターに失敗した科学相ピーター・レネルが再度首相の支持者を略奪すべく、画策する。
はたまたそれらの国々が病原体撲滅が成功した暁に、世界中からの賞賛を得、国際的信用と影響力を獲得するために、また逆に病原体が世界中に蔓延し、戒厳令がもはや意味を成さなくなった時の事態に備え、責任逃れをすべく、政治的交渉・策略に頭脳の全てを傾ける。
未知の病原体の正体の解明、そしてそれを自身の地位向上に利用しようと画策する政治家たちの陰謀、これらが50:50の割合で絶妙にブレンドされて物語が進行していく。

意外だったのは今までのフリーマントルの諸作では最も人非人として描かれていたロシア人が、最も人道的な考えを持っていることだ。
曰く、哀しい事に、こういった各国の協調姿勢が医学的観点から観て世界保健機関WHOに警告を与える事は絶対に必要だという議論が一切無く、彼ら全てが真っ先に個人への反発もしくは政治的反動を最小限に抑えることに専心している。

逆に云えば、この小説が出るまで、なぜ今までのパニック小説にはこういった政治的駆け引きの一切が考慮されていなかったのだろうかと疑問を持ってしまう。それらはあえて添え物でしかなく、常に物語の核心は敵であるパニックの正体に注がれていた。
翻せばこれこそフリーマントルでしか書けないパニック小説という事なのかもしれない。

しかし畏れ入るのは、およそ門外漢である遺伝子学、ウィルス学、病理科学の分野に関して、かなり詳細な考察を述べていることだ。同じくこれら専門知識に関して無知である一般読者に理解させるために、それぞれの調査・検査のプロセスを事細かに、秩序立って述べる様は一朝一夕で仕入れた付け焼刃的な知識では到底書けない域にまで達している。
しかもこの未知の病原体の正体を数々の症例、世界中から寄せられた感染の情報を手掛かりにして、一流の頭脳集団がディスカッションを重ねて解き明かす様は、謎を解き明かすミステリになっているのだから脱帽である。この作家の取材力とそれを噛み砕く理解力の凄さを改めて思い知らされた。

そして本作ではこういうパニック小説にありがちなハッピーエンドが用意されていない。これはこのフリーマントルという作家が時折見せる非情などんでん返しである。正に衝撃のラストである。これは手遅れになる前に行動を!と叫ぶフリーマントルが投げかけた冷徹なる警告であろう。
しかし本書を読むには今が最適の時期だと改めて思う。今、正に新たなる未知の病原体の恐怖という危機に直面しているからこそ、多くの人に読んでもらいたい作品だ。

シャングリラ病原体〈上〉 (新潮文庫)
No.100:
(8pt)

レナード最盛期はさすがに面白い!

クーンツが得意とする“巻き込まれ型サスペンス”小説だが、レナードが書くと斯くの如き面白い読み物になるのかと感嘆した。
クーンツが、いきなりジェットコースターのように主人公もしくはその仲間を危機、また危機の只中に放り込み、ただただ逃げ惑う設定が多いのに対し、レナードは全く関係のないところから、偶然的に出逢う事になった敵同士を絡ませ、軽妙な会話と挿話を間に挟み、追う者と追われる者が運命の悪戯にて導かれるかのように必然性を伴いながら引き合わされるのが面白い。時間の流れ方が両者では全く違うのだ。

そして今回面白いのは成行きで組む事になった2人の敵役がお互いを心の底から信用していなく、一触即発の中で手を組み合っているところだろう。だから今までのレナード作品に出てきた悪漢達よりも増して、二人の間の関係に緊張感が走り、どんな展開になるか、さらに解らなくなってきている。

ベテランの殺し屋でインディアンのオジブウェイ族とフランス系カナダ人との合いの子であるブラックバードことアーマンド・デガスはその血筋から、インディアンのシャーマニズム・スピリチュアリズムを信じて疑わない男。そして彼は現場に指紋を一切残さず、万全を期した計画を立てないと行動に移らない。
片や悪行で名を馳せたい男リッチー・ニックスは34歳ながらもギラギラした目を持ち、人から指図される事、諭される事を何よりも嫌う、自らの本能と直感を信じ、衝動的に人を殺す、いわゆるアブナイ男である。

この2人の関係は、出会った当初は一日の長があるアーマンドがボス的立場でリッチーを飼い馴らすような上下関係であるのだが、リッチーが狂気にも似た感情を沸々と滾らせるようになってからは、御しれなくなり、次第に逆転していく。
通常ならばこういう2人の場合、私はアーマンドのような老成した男の方に肩入れするのだが、本作ではチンピラのリッチーの方に魅力を感じた。というのも短絡的思考型のこの男が、女の性格を読むことに関しては非常に長けているからだ。

同棲している年上の女性ドナの操り方から始まり、なんと敵のカーメンの母親まで手玉に取る。特に初めて逢って「この女は一番良かれと思ってそいつの人生をメチャメチャにしてしまう女だ」と毒づくシーンは、読書中もやもやしていた事を雲散霧消するほど的確な一言だった。
そして特筆すべきはウェインとカーメンのコールスン夫妻の描写だ。年下のカーメンはウェインに一目惚れして結婚し、結婚生活20年になってもまだウェインにぞっこんなのだが、これが事件に巻き込まれ、非日常生活に苛まれるにつれ、彼女の心理が徐々に変わっていく。
タフで優しく、仕事一筋ながらも妻への愛を忘れないと見えた夫が実は自制心が弱く、何にでも文句をいい、自分のことを語るのが大好きで、妻のことは好きなのだが、女心が一切わからない肉体バカだと気づいていく。この辺の心理描写がものすごく上手く、女性が男を観る視点でカーメンの内的描写がされているのに舌を巻く。特に結婚生活20年も経った夫婦の不満を表す、的確な台詞を云うのだから、レナードの耳は実に明敏だ。
さらにバイキャラクターとしてカーメンの母親レノーアが都度登場するのだが、これが実にウザい、更年期障害持ちのおばさんで、こういう人いるわと笑いながら読んだ。

そしてやはりレナードの筆は冴え渡る。ここでこれしかないという台詞をバシバシ決めてくれるのだから心地よい。
証人安全プログラムの説明を受けた後、憤懣やる方ないウェインがその思いをたった一言で云い表すところなんか、快哉を挙げてしまうほどだった。「帰りも車で送ってもらえるのかな」なんて、私の引き出しにはないし、もうこれ以上最高な台詞もないだろう。

またウェインが高層ビルの鉄骨の上であれこれと思案するシーンなんか最高である。ここでもレナードの台詞が効いている。延々11ページに渡って繰り広げられるウェインの、2人組に対する仕返しの方法で行き着いた彼の決め台詞「待っていたぜ」が、ダブルミーニングをきちんと備えているところが傑作だ。
現場監督や主任らが心配する中で、人を食ったようにするすると鉄骨を降りていくところは笑いが止まらなかった。こういうアクセントが非常に上手い。
鉄骨工ウェインのキャラクターが単なる紙上の設定ではなく、一人の血が通う人間のように錯覚するほどストーリーに溶け込み、物語世界の中で一流の鉄骨工として生活している匂いまで感じるようだ。これがレナードの特筆すべきところで単に特異なキャラクター設定のために取材した知識を披瀝するだけに留まらず、実際の鉄骨工がどう振る舞い、どう仕事をするのかがリアルに伝わってくる。彼らがすべき行動、使うべき言葉を生のままぶつけてくるのだ。

本作の最たる特徴として挙げられるのは主人公2人の夫婦が「証人安全プログラム」の保護を受けること。レナードはこのシステムがいかに杜撰かを容赦なく作中でこき下ろす。
証人を守るためのシステムなのに、監察官がポロッと無駄話のネタとして本名を教えたり、裁判の場所に直行便で訪れ、保護されている証人の居場所がそれにより解ってしまったり、また末端の監察官には情報保護のため、詳しい情報を与えられていないために、保護者が犯罪者であると見なし、蔑みの念を持っていること、等々、どこまでが実話でどこからが創作か解らないほど、説得力のある欠陥を書き連ねていく。これは取材しないと解らない実態だと思うのだが、証人安全プログラムの庇護下にいる人たちをどうやって取材するんだろう?

とまあ、本作にはレナードの筆致がページをはみ出さんばかりに躍動しているのだが、クライマックスがやや冗長すぎた。
折角ここまで引っ張った緊張感をすっきりさせるにはちょっと物足りなかったかなとも感じた。
しかし本作発表の89年頃はレナードの筆がノリにノッている時期であろうことは間違いない。なにしろこんなに面白いんだから!



▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
キルショット (小学館文庫)
エルモア・レナードキルショット についてのレビュー
No.99: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

ドルリー・レーンという男

その題名が指し示すように、ドルリイ・レーン最後の事件である本作は今までとは趣向が違い、ウィリアム・シェイクスピアの稀覯本の行方及びその本に隠された謎と、それに絡んで失踪した人物の行方を追う物語で、これはシェイクスピア劇俳優の第一人者であったレーンの掉尾を飾るためにクイーンが用意した謎なのだろう。
とにかく本作では謎の覆面の男と青い帽子を被った顎鬚を生やした男という、変装した正体不明の人物が物語に入替り立ち替わり介入してき、また本の行方や最重要容疑者であるハムネット・セドラーとエイルズ博士が同一人物か否かという謎がなかなか判明せず、ずるずると物語を引っ張っていくうちに、エイルズ博士の館が爆破されたりと、本格ミステリというよりもサスペンスに近いテイストで、しばしば謎の焦点がぼやけてくるのに苦労した。

本作では前3作で登場していたブルーノ地方検事が退場し、一切出てこなくなり、代わって前作『Zの悲劇』でお目見えしたサム元警視の娘で明敏なる推理力を発揮するペイシェンスがサムの相棒を務めている。とはいえ、前作のように語り手としての役柄ではなく、レーンも探偵として積極的に介入し、叙述も一人称から三人称に戻っており、前作のような違和感は全くない。そして結末に至って、やはりこのペイシェンスという人物が必要だった事が解るのである。
そのことは後に語るとして、で、本作で散りばめられた様々な謎については、事件の展開が目まぐるしく変わる作風のため、私自身の推理もその都度焼き直しを強いられ、試行錯誤の繰り返しだった。

例えば冒頭に出てくる博物館から盗まれたジャガード本が送り返された意図に関する推理は私の中で確立するものの、その謎は次の章で早々に解明されてしまったし、バスの乗客の人数の謎も17人だったのが18人だったことを発端にしており、これを現地で調査すると実は19人だったと謎が謎として深まっていく。つまり小さな謎がどんどん提出されては、解き明かされ、また次の謎が展開するという構成であり、今までの悲劇3作ではレーン氏は自らの推理に確証がないと自身の推理に自信があっても決して開陳しなかった、云わばクイーンの国名シリーズと同様の最後の最後で犯人と犯行方法・動機を解き明かす趣向とは明らかに違うものだ。そう、本作は失踪人捜しと稀覯本探しという、ロスマクなどの私立探偵小説に似たテイストなのだ。
で、これらの謎については私自身解き明かすことが出来た。上にも述べた返却された稀覯本の謎しかり、セドラー氏の正体もしかり。特にサムに預けられた封筒の手紙に書かれていた「3HS wM」の謎は的中し、これには快哉を挙げてしまった。そして最後の犯人もまた当ってしまった。しかしこれはこの作品の最大の特徴が巷間に流布しているので、それが頭の片隅にあったことに因るところが大きかったのだろう。

さて前作ではどちらかといえば、目障りな存在だと思われたペイシェンスだが、この悲劇四部作の最後においてどうしてももう1人の探偵の存在が必要だった事が解る。
クイーン愛好家の中では、やはり『Zの悲劇』を異端視し、このペイシェンスの存在を軽視している方々もおられるようだが、私としてはやはりこのシリーズの幕の降り方はクイーンがシリーズ当初から考えていたものであると認識する。

この悲劇四部作、全て読み終わった今、全体と通してみるとやはり巷の評判どおり『Yの悲劇』が抜きん出てその次に『Xの悲劇』、そして本作、最後に『Zの悲劇』という評価になる。
しかし、愛好家の中で云われている『Yの悲劇』が明らかに異色でこれはクイーンが国名シリーズで元々使おうとした話だった、『Zの悲劇』は不要だった云々などという話は単なる書好家の興味の対象として読むにとどめ、やはり悲劇四部作は悲劇三部作ではなく、悲劇四部作であったと思う。

また振り返ってみるとたった4作のシリーズなのにそのヴァリエーションのなんと豊かなことだったか。衆人環視の連続殺人、館での連続殺人、女性探偵物という趣向に、最後は失踪人探しとビブリオミステリを絡めた探偵自身の犯罪。たった2年で書かれた正に流星の如く駆け抜けたシリーズだった。
最後の本作でレーンという男の謎がいっそう深まったような気がする。たった4作のみの探偵レーン。しかしその名は今なおさんざんと煌めき、そして今後もずっと残っていくに違いない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
レーン最後の事件 (角川文庫)
エラリー・クイーンレーン最後の事件 についてのレビュー
No.98: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

ほんのりエロいバラバラ殺人短編集

なぜ死体はバラバラにされたかという様々な謎をロジックで解き明かす書解体事件を扱った短編集で、現在、奇抜な設定下の中でのロジックを得意とする異彩の本格ミステリ作家、西澤保彦のデビュー作である。

まず「解体迅速」は後の西澤作品で探偵役を務める匠千暁が早くもお目見えする。
この作品、状況説明の段階で早や犯人は解ったものの、バラバラにした動機が不明だった。その説明は、まあ納得の行くといった程度だったが、真犯人が第1被害者を殺す理由に思わず唸ってしまった。話の前後から交通事故が絡むと思ったが、いやなかなかに鋭い。
こういうさりげない伏線が西澤作品の特徴のようで、それは今後の作品でも同種の趣向が見られる。

続く「解体信条」は後にフルネームと匠千暁の学生時代の先輩である事が判明する高校教師の辺見祐輔が主人公を務める。
これも真相解明前に犯人とどういう風に被害者が毒を飲んだのかまで解ったが、やはりバラバラにした理由までは解らなかった。死体をバラバラにする理由となると、どうも持ち運びの利便性に囚われがちである。まあこれこそ作者が期待するミスリードなのだけれども。

収録作品中、最も魅力的な謎であるのがこの「解体昇降」だろう。
マンションの8階から1階に降りるわずか16秒の間に乗った女性が全裸のバラバラ死体で発見されるという魔術的な殺人事件が起こったエレベーターはどの階にも停止することなく、まっすぐ1階に降り、しかも8階では住民が入れ違いに被害者がエレベーターに乗り込む様子を見ている。死体は首と左手足が切断されていた。あまりにも不可解な事件に捜査陣は値を上げた。堪らず平塚刑事は入院中の上司中越警部に救いを求めるのだった。
次の「解体譲渡」では再び辺見祐輔が登場する。
辺見祐輔はその日お見合いの席にいた。相手の藤岡佳子は垢抜けた美女であったが、どこかであった記憶がある。しかしそれがどこなのか思いつかなかった。傍らでは付添いの中年男性が先週の土曜日に起きたバラバラ死体遺棄事件について語っている。藤岡佳子はおもむろに口を開くと意外なことを行った。彼女は祐輔が毎週土曜日にエロ本を立ち読みしに通っている本屋でいつも見かけていた名も知らぬ美人だったのだ。愕然とし、自己嫌悪に陥る祐輔だったが、彼女の口から意外な話を聞かされる。それは先週土曜日にある妙齢の婦人がそこの本屋で101冊ものエロ本を買い占めていったというのだった。その婦人の目的が何なのか気になってしょうがないという。祐輔と佳子は見合いそっちのけでこの奇妙な出来事について推理を巡らす。
奇しくも(?)2作とも男の煩悩、エロ関係が関与する話となった。前者はこの短編集中、随一の不可能状況で読者の知的好奇心を誘う謎でありながら、最も下らない解決が示される、駄作だかなんだか判らない奇妙な1編。
後者は101冊ものエロ本を買う婦人の謎とこれまた『五十円玉二十枚の謎』を髣髴とさせる面白い謎だが、これもかなり無理がある推理である。この2作は奇抜な謎のために辻褄を合わせるような回答を持ってきたという不自然さが目立ち、好きではない。

「解体守護」では匠千暁のパートナーであるタカチが登場する。
この作品が本短編中ではベスト。事件の真相の約6割くらいは見えていたが、あのおこわが絶妙なアクセントになっている。
今までの短編から作者の手法という物を解っていただけに、この小道具の意味が解らなかったことが悔しいが、清々しい悔しさだ。もう一方の挿話に関しては念頭に置いていたのだが、私の予想を上回る使い方で、これも気持ちのいい敗北感。泡坂氏独特の論理に通じる真相でもある。なんとも云い様の無い奇妙な事件の発端から最後に心温まる家族の話に落ち着くのが私の好み。

「解体出途」では匠千暁は叔母の沢田直子に呼び出されて、娘の結婚を妨害してくれと頼まれる。
今までの短編でそれぞれ探偵役をしていた匠千暁と中越警部が邂逅する作品。だが本作での探偵役は事件に巻き込まれた匠千暁が務め、中越は最初の現場捜査のみの登場で、専ら匠の相手は部下の平塚刑事となっている。
さて物語はなんとも苦笑したくなる性的欲求不満熟女の話で昼のメロドラマのような展開にちょっと引けたが、事件は今までの中で一番難しかった。犯人までは特定できた物の、これにも二重の犯行が成されており、なかなか簡単にはいかない内容だ。こういう三文ポルノ風な話が作者の趣味なのかも。

「解体肖像」では「解体信条」で祐輔に謎を提示した小菅亜紀子・麻紀子の双子の姉妹が今度は匠千暁に謎を提供する。
収録作品中、この短編の謎が最も簡単だろう。私もこの作品の謎はすぐに解った。シンプルな謎で、恐らくおおよその読者も真相は見破れるだろう。
しかし本作で訴えたかったのは傍観者も共犯者であるという重いテーマだ。ある事がきっかけで死者が出てしまったことを知りつつも何もアクションを起こさない貴方達も同罪なんだという作者の熱いメッセージが込められている。

本書の約4割を占める中編「解体照応」は推理劇のシナリオという形式を取っており、180ページという中編ながらも読者にブレイクタイムを促すような軽い読み物になっている。
「解体昇降」で出てきた中越警部と平塚刑事と思われる二人にベテランで狂言回し的な存在のチョウさんという仇名の部長刑事が全般を通しての登場人物。
“読者への挑戦状”が挟まれた唯一の作品。しかしこれは解らなかった。首が切られている上に、髪が全て短く切られているというのは、それぞれの名前についてアナグラム的なパズル趣向があるのかと別の方面での推理をしていたが、全然違った。
明かされる犯人とその動機は、突拍子もないものと思われるが、推理劇という趣向がこの突拍子のなさを逆にフィクションであるが故の、ミステリゲームという意味合いを持たせており、個人的には許容できる内容だ。

以上、7編の短編と1編の戯曲の体裁をした中編だが、
さてこの感想の冒頭で述べたように各短編は「解体」という二文字をキーワードにして、何かを切り取られた事件を扱っているが、非常にヴァラエティに富んだ内容で緩急を持たせ、同類事件の話の繰り返しにならないよう、作者が入念に配慮しているのが解る。
文字通りバラバラ殺人事件から、ぬいぐるみの腕切断や街頭ポスターの首切抜きといった小事まで扱っており、殺人事件から日常の謎までと作者の器用さが十分に出ている短編集だ。

そしてそれらは昔TVで放映されていた「私だけが知っている」という推理ドラマ趣向のクイズ番組のように、「解体照応」以外は“読者への挑戦状”が付されていないものの、作品に提示された情報で読者が真相を解き明かす事が出来る、非常にフェアな作りになっている。かくいう私も、1つ1つの短編について作者が提示する謎に挑戦し、全ては解き明かせないにしろ、犯人やトリックを断片的に解き明かす事が出来、ミステリを読む愉悦に浸る事ができた。
さて本作で登場したタックこと匠千暁、中越警部に辺見祐輔らの探偵役のイントロダクションとしては格好の作品だと思う。彼らが今後どのような活躍をするのか、非常に楽しみになった。

しかし匠千暁の初登場シーンは笑ってしまった。彼の部屋には膨大な書籍で占められているとのこと。これは明智小五郎を筆頭とする日本の推理小説の探偵役の系譜である。乱歩没後数十年経っても、名探偵の特徴は変わらないのだなぁと苦笑した次第である。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
解体諸因 (講談社文庫)
西澤保彦解体諸因 についてのレビュー
No.97:
(8pt)

いい男ぢゃないか!

古くは『ストーカー』、『邪教集団トワイライトの襲撃』、『ウィスパーズ』、『ウォッチャーズ』、そして最近では『ハズバンド』、『チックタック』といった一連の逃亡物、クーンツ独特のノンストップアクションだ。
そして上にも挙げたように、これらの作品においてクーンツは傑作が多く、逆に最近の同じ系譜の作品が最後に悪い意味で裏切られる傾向にあったのだが、本作でとうとうそれらの忸怩たる思いが一気に解消された。
とにかく本作ではクーンツの悪い特徴である勿体ぶったところが全くなく、いきなり物語の核心から始まるところが非常によい。往年のノンストップアクションスリラーが帰ってきたかのように、物語はどんどん加速度をつけて進んでいく。

主人公のティム・キャリアーは朝起きては仕事場でレンガ工として働き、仕事が終わると行きつけのバーで旧友と他愛もない会話を楽しみ、家に帰って寝ては、また翌日から仕事に向かうという単調で安定した生活を送る独身男性だ。
最初は殺し屋と間違われたことで、それら安定した生活が終わりを告げる。赤の他人の命をそのまま殺し屋に委ねて、自らの安寧を固持してもよかったのだが、自らの心に問うてみるとやはりそれは出来なかった。そして彼には彼女を守る“力”があった。

このティムの秘密は、物語の進行で折に触れ、小出しに触れられるが、最後の最後でようやく全貌が明らかになる。それは色々なアクション映画や同種の小説を読んできた者にしてみれば、特段意外な正体という物でもなく、十分予想が付く物だが、今回はそれで語られる周辺のエピソードが非常に心地よい。これについては後で話そう。

翻って不幸にも標的となった女性リンダ・パケット。TVも持たず、キッチンと車庫の間の壁を取っ払い、台所に自身お気に入りの39年式のフォードを停めている作家だ。彼女はペンネームで何冊かの小説を上梓しているが、それはいずれも己の内なる憤怒をぶちまけた物である。何ゆえ彼女がそれほどまでに世間に対し、人間に対し怒りを持っているのか、それは後半で明らかになる。
このリンダが幼い頃に味わった不幸、家族が経営している保育園が、モンスターペアレントの心無い悪評で、幼児虐待施設となり、両親ともども幼児嗜好の高い性的倒錯者だと周囲に刷り込まれ、実刑判決が下り、共に刑務所で服役中に死亡するという救いのない話は、『ドラゴン・ティアーズ』から続くクーンツの裏テーマ“狂気の90年代”に他ならない。

そして彼らを執拗に追うクライト。クーンツ諸作に出てくる絶望的なまでに狂気を湛えた殺人鬼同様、彼もまた異常な価値観と自己陶酔の気を持った自信家であり、また狂気に満ち溢れた人物として描かれている。
自らを世界の皇帝と称し、世界は全て自身の都合のいいように便宜を図り、失敗する事など微塵も信じない男。その精神の安定性は一種独特の狂気がなせる業なのだが、とにかく変わった人物だ。常にR・Kのイニシャルを持った偽名を使い、自分の家を持たず、他人の家を自分の家として留守の間に勝手にシャワーを使い、料理を食べ、ベッドで寝る、普通の神経では考えられない男だ。よくもまあ、クーンツはこんな特異な人物を次から次へと考え付くものである。

物語の主題はこの2人と1人の逃亡・追跡にあるのだが、もう1つ“何故リンダは命を狙われるようになったのか?”という謎がある。昨今のクーンツ作品と本作が違うのはこれについてもきちんと答えを用意していることだ。しかもクライトとの決着がついた後に30ページ弱を費やしてこの辺について語り、更に決着までつけている。しかもそれが読書の余韻を静かに誘う。
真相は陳腐といえば陳腐。
こういう風に書いていくと、本作がなぜこれほどまでに私の中で評価が高いのかが一向に理解できないと思われるだろうが、この作品にはクーンツ一連の単なるジェットコースター型ノンストップアクション小説とは一線を画す味付けが最後に施されていたからだ。

最近になって再び刊行が顕著になってきたクーンツ。
とはいえ『ハズバンド』、『対決の刻』、『チックタック』と続いた一連の作品は消化不足感が拭えず、フラストレーションが溜るばかりだったが、ここに来てようやく快作が出た。傑作とまでは云わないまでも、クーンツ作品の中でも私の中では上位に入る作品となったことを付記しておこう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
善良な男 (ハヤカワ文庫NV)
ディーン・R・クーンツ善良な男 についてのレビュー
No.96:
(8pt)

狂信者たちの戦争

ジョン・コーリーシリーズ4作目に当たる本作は正に狂信者達の戦争とも云うべき皮膚泡立つ恐ろしい物語だ。

21世紀という現代において先進国が自国内で何千人単位という犠牲者を出したテロは2018年現在でも2001年に起きた9・11同時多発テロ以外起きていない。それは“世界の警察”を自認するアメリカにとって屈辱的なことであり、なおかつ国民レベルで世界に対する、いや正義に対する見方・考え方が変わった瞬間であった。
多くの人が直接的・間接的を問わずトラウマを患った未曾有の危機によって本書に書かれている権力者達が精神不安定の状況下でこのような世迷言のような、独善的な計画を発案し、実行に移そうとしていても何ら不思議ではないかもしれない。つまりビンラディンは人道的にやってはいけないレベルのテロ行為をやってしまったのだ。

本作のタイトルとなっている「ワイルドファイア」とはレーガン政権時代に考案された対テロ報復作戦である。「全てを焼き尽くす燎原の火」という名のこの作戦はアメリカがテロを受けた際、自動的に核ミサイルが発動してイスラム諸国の主要都市―油田及び主要港湾都市を除いた―を襲撃するという物だ。
そして本作で掲げられている<プロジェクト・グリーン>とは9・11同時多発テロを受け、アメリカが次のテロを受ける前に自身の手で核を自国のどこかで爆発させ、大義名分を得た上でイスラム諸国を襲撃するという、権力者達の狂った作戦なのだ。

そしてこの<プロジェクト・グリーン>の首謀者が石油会社を経営するベイン・マドックス。自身かつて合衆国陸軍に属し、戦争も体験し、中佐まで上りつめた男だ。
殺人を主にした犯罪を良心を痛めることなく出来、その自らの行為に関して警察やFBIに勘ぐられようが眉一つ動かさず、汗一粒も垂らさない、大木のような図太い神経を持った男だ。いや、その辺の善悪に関する感覚が麻痺しているといった方が正しいかもしれない。そしてこの男にコーリーはだんだんと惹かれていったりもする。同じ穴の狢としての匂いを感じるのだ。

さて作者は冒頭のはしがきでこの「ワイルドファイア」は作者の創造による作戦である事を述べているが、同時に類似の作戦は作られるべきだとも述べている。このコメントにはかなり幻滅した。結局デミルもアメリカ至上主義者の1人に過ぎないと解ったからだ。
本作で滔々と述べられる<プロジェクト・グリーン>が及ぼす影響は、アメリカにとって有益な事を並べ連ね、他国の事は全く頓着していないことが非常に特徴的だ。核を使うことを是とする作戦は作ってはならないと私は強く主張したい。核使用後の波及効果はシミュレーションだけでは計り知れないものがあると思うからだ。そういう類いの作戦立案を支持するデミルの姿勢は、ここに出てくるカスターヒル・クラブの歴々となんら差がないのではないか?そしてこれについてはコーリーも心中で述懐するように、一瞬この作戦を止めるのを躊躇する。もしかしたらこの小説はデミルによる、イスラムへの反逆に対する国際的指示を得るであろう開戦プランの提言なのかも、とまで思ってしまう。

思えば『王者のゲーム』で現れたジョン・コーリーの敵アサド・ハリールが中東諸国から来たテロリストであることは今となってみれば非常に暗示的だった。
そしてその作品が本国アメリカで出版されたのがなんと2000年。9・11のわずか1年前である。
テロ発生後、デミルはこの偶然性に天啓を受けたに違いない。このテロこそ自分が次に書くべき題材だと。そしてこれこそ我が残りの生涯を通じて語るべき物語なのだと。そこでデミルは『王者のゲーム』の後、『アップ・カントリー』を上梓し、自身も参戦したベトナム戦争の心の傷痕を清算している。

そしてその後は、今までどちらかと云えばシリーズキャラクターを立てず、単発物を書いていたデミルにしては珍しくジョン・コーリー物ばかりを書いており、創作姿勢が変化している。このことからもデミルはこの先ジョン・コーリーシリーズしか書かなく、ジョン・コーリーを通じてこの一連のATTFシリーズを自らのライフワークとして定めたのではないだろうかという推測が成り立つ。

穿った見方をすれば、情報通のデミルのこと、もしかしたらこれは偶然ではなかったのかもしれない。『王者のゲーム』を著す際の取材でオサマ・ビンラディンを筆頭とするムスリム系テロリストの存在は知っていたのは必然だろうし、逆にそれを題材にして『王者のゲーム』を著したのかもしれない。そして当初はアメリカへの警鐘の意味合いを込めた作品だったはずだ。しかしそれが警鐘を超え、現実の物となってしまった。

さてデミルの創作意識への推測はここまでにして本作の内容に移ろう。
今まで『王者のゲーム』、『ナイトフォール』で私が散々不満を漏らしていたデミルの創作作法については今回も変わらない。物語の序盤でATTFの捜査官ハリー・ミューラーが<カスターヒル・クラブ>の潜入捜査に失敗して拉致されるあたりで、本作の物語の肝である<プロジェクト・グリーン>と「ワイルドファイア」の内容について早々に詳らかにする。
しかしこれは後々のジョンとケイトのベインとの対決シーンの緊張感を高めるのに、この長々としたベインの講演を読まされるよりもよかったように感じた。今回の物語の展開としてはこの手法は有益に働いていた。

そして何よりも今回はカタルシスがきちんと得られた。敵役のベインとはきちんとケリがつくし、何よりもシリーズを通してのジョンの天敵テッド・ナッシュとの決着も着くからだ。前2作で感じた、どうにも宙に浮いたような結末に比べるとやはり数段にいい。
そして主人公のジョン・コーリーは相変わらずのスタンドプレイぶり。とにかく全ての上司の命令に背く。つまり上司の命令と反対の事をすれば、真相に行き着くと云わんばかりだ―まあ、実際そうなのだが―。
そして減らず口も健在。というよりも更に輪を掛けて饒舌になっている。よくもまあ、ケイトはこんな男と付き合えるものである。物語の主人公としては痛快極まりないが、同じ仕事の同僚、部下としてはお金を払ってでも遠慮ねがいたい人物だ。
しかしデミルのジョンを描く時の筆の冴えは健在だ。もうノリノリである。随所に盛り込まれたジョークにまたも声を出して笑ってしまった―特に「カタツムリだけは入れてくれるな、アンリ」は傑作!―。

相棒のケイトもこれほど辛抱強く、またジョンに同調していとも簡単に規則を破っていたかしらという風に変わってきている。作中でも9・11以後、ケイトはセラピーを受け、変わったと述べているが、二人のコンビ振りが更に躍動感を増したように思う。

余談だが、アメリカ国内における核もしくはテロリストの脅威がテーマであることで、なんだかドラマ『24』を観ているような錯覚に陥った。とはいえ、ジョンはキーファー・サザーランド演ずるジャック・バウアーとはイメージが異なる。しかもあのドラマと違い、こちらは1泊1200ドルもする高級コテージで寛ぐ余裕すらある。

さて前にも書いたように、本作では9・11同時多発テロが色濃く繁栄されているが、興味深いのはあのテロの後、アメリカ人の心境・生活に何をもたらしたかが随所に織り込まれていることだ。
頭上を飛ぶ飛行機の機影に敏感になる、空港のみならずホテルや高層ビルでは金属探知機が常設されている、毎日どこかの葬式に出席していた、等々。これらはデミルが書かなければならなかった事実なのだろう。そしてそれはアメリカ国民にとっても読むべき話なのだろう。明日に向かうために。

また2006年に発表された本書ではイラクに大量破壊兵器があるなどと信じていないという記述があり、ニヤリとさせられる。
しかし同時に石油価格がこの<プロジェクト・グリーン>発動後、1バーレル当り100ドルまで急騰するだろうと述べられているが、実際はその予想を遥かに上回る130ドルという価格まで跳ね上がった(2008年当時)。
もちろん現実社会では核攻撃など起きてはいない、そういった状況での原油高騰であり、これはさすがのデミルも予想外だったに違いない。

とまあ、上下巻合わせて1,080ページ強のこの物語には、こんな風に書いていけばいくらでも書きたいことが出てくる。それほど本作には色んな内容が盛り込まれており、読者を飽きさせない。
私は本作を読んだ時に、ジョン・コーリーシリーズはこれで終わりではないだろうかと思った。
しかし、そうではないことに気付いた。なぜならジョンの最大の敵役アサド・ハリールがまだ残っているからだ。次にこのハリールが復活してジョンを脅かすのかどうか、楽しみにして待っていよう。

ワイルドファイア 上  (講談社文庫 て 11-9)
ネルソン・デミルワイルドファイア についてのレビュー
No.95: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

Tの悲劇?

国名シリーズ5作目でシリーズ中最高傑作と名高い本書。その導入部はエラリーが父親の出張旅行に同行している最中に出くわす猟奇的な殺人事件というショッキングな幕開けだ。
しかも今回クイーンは云わば「動のクイーン」と称せるほど、クイーンが動く。物語の舞台が変る。最後の犯人の追跡行はアメリカ東部の主要都市を車、飛行機を駆使して不眠不休の如く、続けられる。
また今までのシリーズのように、事件をしっかり調査して、並べられた証拠・事実をじっくり吟味する趣向と違い、犯人と目される人物の名前は出ており、それが起こす殺人を如何に未然に防ぎ、犯人を捕らえるかという、特殊な設定になっている。

今回のテーマは「見立て殺人」ということになるだろうか。T型の十字架に磔にされた首のないT型の死体。しかも場所はT字路もしくは頭文字“T”のトーテムポール。おまけに殺害現場にはどちらとも大きく「T」の殴り書きが。
云わば『Tの悲劇』とも副題がつきそうな内容だが、物語半ばで明かされるTの真相は意外にも呆気ない。その真相が得られるまでエラリーはT十字架、ギリシア正教で使われていたギリシア十字架の前に存在していたタウ十字架、すなわちそれは昔エジプト十字架と呼ばれていたという知識を披露し、事件の裏に宗教的な匂いを感じる。
これはヤードリー教授に勘違いを指摘されてしまうのだが、これがちょうど物語の半分辺りの2章の終わりで覆されるのが個人的には惜しいと思った。
しかしこの“T”の意匠については解決編で別の解答が得られるが、よくありがちな真相、つまり私が想像していたものであったのが残念。

さて今回の読者への挑戦状はかなり後の方に出てくる。残り50ページ足らずのところで挿入される。しかし前述の通り、今回は犯人が解っているため、今回は読者への挑戦状はないかと思っていたので、正直びっくりした。
実は私は2章が終わった段階である人物を犯人と目していた。その直感的な指摘は、その時点で物語を読み返すと確かに事件の時期とその人物の行動・そして身体的特徴が一致したこともあり、かなりの自信があったのだが、挑戦状を待たずして、その人物が犯人でない事が解ったことも、今回は挑戦状はないのでは?と思った次第だ。

で、結果はというと今回も敗北。これは素直に認めざるを得ない。なにしろあれだけ明確にあの人物が犯人であるという証拠を見せつけられたからには、ぐうの音も出ない。
天晴れ、クイーン!である。

が、しかしそれでも私は解決編を読んでも残る疑問はあると苦言を呈したい。
まず第一になぜトマス・ブラッドは犯人とチェッカーをやるために、家族のみならず、執事ら使用人らも含めて人払いしたのか?
もう1つはスティヴン・メガラの殺害について、桟橋にあったボートを盗んで犯行に及んだ事までは解っているが、どうやってその桟橋まで犯人は侵入できたのか?まだ警察はブラッドウッド界隈を見張っており、メガラが犯人をおびき寄せるべく、警察に警護を解くようにいった事実は、この犯人は知りようがないではないか。つまりこの犯人はそれまでブラッドウッドのどこに潜んでいたのかが全然解らない。
今回の犯人は犯行現場からかなり遠方にいたはずである。どうやってメガラ周囲の動向が知りえたのか、全く不明だ。中にスパイがいた、もしくは定期的に連絡を取っていたという記述は一切なかった。
他にも何か据わりの悪さを感じるところがあるが、主に上の2点が非常に気になった。

今回の国名シリーズは今までの国名シリーズと違い、非常に表題に挙げられた国を意識した作品になっている。今までは舞台となった場所にその国名が関せられただけで、国名シリーズといいながら、その国ならではの特徴があったとは決して云いがたい。
しかし今回はエジプトに関する叙述が横溢している。発端のエジプト十字架に関する考察から、古代エジプトの文化・風習など、それらが物語に一種オカルト風の味付けをしていることが本書の最大の特徴だといえるだろう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
エジプト十字架の謎【新訳版】 (創元推理文庫)
エラリー・クイーンエジプト十字架の謎 についてのレビュー
No.94: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

クイーンのチャラ男ぶりが見れる本格ミステリ

シリーズ4作目での趣向はトライアル&エラー、つまり複数の推理による事件の解決である。つまり今回、エラリーは一度誤った推理を犯し、二度目は父親である警視の推理に出し抜かれ、三度目にしてようやく真相に辿り着く。
この趣向を行うために作者は時代を遡り、エラリー最初の事件としている。そしてその趣向のため自然ページ数も最大となってきている。つまりそれほどこの作品には自信があるということだ。

で、その自信作はというと、いやあ、確かに素晴らしい出来映え。またもやものの見事に騙された。今回は真に完敗である
正直に云えば、犯人が明かされたとき、驚きよりも懐疑が勝っていた。この真相はちょっと狙いすぎだろうと。しかし40ページに渡って繰り広げられるエラリーの推理を読んで、その心境は喝采に変わった。実に素晴らしいどんでん返しだと。正にこれはクイーンがこれだけのページを費やすに値する自信作だ。

本書における真犯人は第4の犯人であるが、読者への挑戦は第3の犯人が提示される前に挿入されている。この第3の犯人を立証する論理が非常に穴だらけで、何だ、これは?とこぼしてしまったが、それを洗い流すだけのカタルシスが最後に得られた。

しかし、本書において1つだけ腑に落ちない論理がある。それは第1段階の推理で判明する被害者の従弟が色盲であるという事実を証明するシーンだ。
その従弟は緑が赤に見え、赤が緑に見えるという。これがちょっとおかしい。本書ではこの色盲を部分的色盲と述べているが、例えば赤が緑に見えるのは解るにしてもその逆が成り立つかどうか甚だ疑問である。
そしてこの推理にはもう1つの解釈が出来る。このギリシアから呼ばれた従弟は白痴であり、それゆえに単語を覚える段階で「赤」を「緑」と覚え、「緑」を「赤」と間違って覚えたという解釈だ。こっちの方が理論的にすっきりすると思うのだが。

あと事件の発端ともいうべき、紛失した遺言書をいかに盗んだかについて何ら解明されていない事だ。誰かが盗んだのは出てくるにしても、執事がうたた寝しながらも金庫の前に鎮座していたという状況下でどのように盗んだのか興味があったのだが、結局それについては流されてしまった。事件の捜査が進むに連れ、この無くなった遺言書についてはそれほど重要視されなくなったのも気になった。
あとタイプライターについての推理は、読者、特に日本の読者には推理しようにも出来ない代物だ。どこのタイプライターか、特定する材料として£(英国ポンド)のキーがある珍しいタイプという述懐があるが、解明の糸口となる電報の件でもポンドはカタカナ表記だし、これは正に騙し打ちの感がある。まあこれは海外ミステリの抱える一種の業のようなものだから仕方ないか。

また、この時代を遡るという設定は今までの作品と違って、エラリーの理解者である父親のクイーン警視や地方検事のサンプトンらが、エラリーの存在を疎ましく思っている効果を生み出し、それが面白い。とはいえ、他の名探偵物に比べるとやはり警視の息子ということで特別扱いをされている感は否めない。
明らかに捜査の邪魔となるエラリーの気紛れな所作は、激昂の上、退場を命ぜられてもおかしくないものばかりだし、また大学出たてのくせに周囲の大人にタメ口をきく無礼さ―まあ、これは翻訳の綾かもしれないが―も寛容に受け止められている風がある。

それ以外に、時代性を感じさせる表現があったので、ここに書きとめておこう。
書中でおやっと思ったのは事件のキー・パーソンとなっているハルキス氏の秘書ジョアン・ブレット女史が自分の年齢が22で、結婚年齢が過ぎたと述べていること。これは早すぎではないか?というより、この1930年代とはそういう風潮だったのか?今の日本の結婚適齢期を考えると、ものすごい隔世の感がある。
そしてエラリーは明らかにこのジョアン女史に色目を使っている。ちゃらちゃらしてますね、彼。そして初対面時のくどき文句がすごい。
「僕が、あなたについて、たとえ予備知識をもっていなかったとしても、僕の循環組織が、それを教えてくれるとは、お考えになりませんか」
つまり、要約すると、「貴女の事について、何も知らなかったとしても、いきなり胸がドキドキしたってこと、解ります?」ってことなんだろう。これをわざわざ回りくどい表現を使うクイーン。まあ、大学ぽっと出の、頭でっかちな時にしか浮かばないセリフだな。

今回は密室状況下での殺人とかダイイング・メッセージとか、衆人環視での殺人、人物消失などといった不可能趣味というよりも色々出てくる事実に辻褄が合う1つのストーリーはこれだ!といった類いのミステリだったので、決定的な証拠があるわけでもなく、読者への挑戦まで堅牢な自分の推理というのが持てなかったのが、悔しい。が、やはりこれほどまでにロジックに彩られたミステリはやはり面白いものだ。
そして最後の中島河太郎氏によって明かされる本書に隠された趣向もまた素晴らしい!いやあ、やるねぇ、クイーン!


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
ギリシャ棺の謎【新訳版】 (創元推理文庫)
エラリー・クイーンギリシア棺の謎 についてのレビュー
No.93:
(8pt)

文明機器と超常現象の見事な融合

説明不要のベストセラーホラー。貞子は独立したキャラクターとしてお笑い番組など各種メディアに登場するほどにもなった。

このビデオを観た者は1週間後に死ぬ。
古来からある不幸の手紙の現代版である。これを皮切りに「着信アリ」ほか色んな都市伝説ホラーが生まれたといっても過言ではない。
とにかくこの作品は当時それほどインパクトがあった。

で、私といえば、なんと映画も観たことがなく、この小説が全くの初見。
とはいえ、あれだけTVでCM、さらにTV放映、ドラマ化もされているので、なんらかの先入観は禁じえない。貞子も知っていたし。だから出てくる登場人物に出演俳優がダブってしまうのは避けられなかった。

で、肝心の作品の中身はといえば、やはり面白い。物語の読ませ方も上手い。そして確かに怖い。
書いていることに特別おどろおどろしさはなく、言葉も怖さを助長させるようなオーヴァーな表現は使われていないのだが、なんだか人を不安にさせる空気がこの中にはある。これは確かに映画化されるのもむべなるかな。

まずビデオの映像に描かれたモチーフを、これらがどんな意味を持っているのか、探り当てる。そしてその過程で現れる山村貞子という名の女性の存在。彼女の一族に纏わる因縁は坂東作品のホラーを思わせる(というよりもこちらの方が先か)。
そして山村貞子の存在の忌まわしさ。彼女の類い稀なる美貌にそぐわない報われない生い立ちとその一生、そして彼女に隠された驚愕の事実などなど、作者鈴木光司氏はクーンツのようにこれでもかこれでもかと超心理学、陰陽道、ウィルスなどあらゆる分野から人間の歴史の暗部に纏わる逸話を投入し、読者のページを繰る手を休ませない。

そして呪いを解くオマジナイが成就したと思われた瞬間に訪れる、山村貞子の本当の呪いの正体。この衝撃は今なお戦慄を伴うほど新鮮だ。
冷静になって考えてみれば、これはもう最初から眼の前に出されていたのである。全く以ってこの鈴木光司という名のマジシャンにまんまと騙されてしまった。

本書が発表されたのは1991年とある。まさに本作こそ、日本にモダンホラーの黎明を高らかに宣言する画期的な作品だったに違いない。
ビデオテープという文明の機器。怪異な映像。呪い。超能力。そしてウィルス。これら一見結びつきようのないキーワードを巧みに混ぜ合わせ、これだけのホラーを作り上げたこの作者の力量は、素直に素晴らしいと褒め称えたい。

リング (角川ホラー文庫)
鈴木光司リング についてのレビュー
No.92:
(8pt)

老いてなお若き、レナードの筆致!

この前に読んだ『キューバ・リブレ』の時は歴史小説だったせいか、なんだか盛り上がりに欠け、正直期待外れだったが、今回は違う。
レナード節が冴え渡るレナードしか書けない男たちの物語、しかも自身の原点であるウェスタン小説である。
そして今回は早速レナード作品の最たる特徴であるレナード・サーガのリンクが冒頭から出てくる。『キューバ・リブレ』で登場したヴァージル・ウェブスターが、主人公の1人カール・ウェブスターの父親となって登場するのだ。

本作で彼は既に47歳に石油長者となって隠遁生活を送る身になっている。その余裕は死線を潜り抜けた男が見せる余裕だ。『キューバ・リブレ』では戦艦爆破に巻き込まれ、運命に翻弄されるがままだったウェブスターがこんなキャラクターになってお目見えするとはなんとも感慨深い物がある。
そしてそのヴァージルが神経の図太いヤツだと一目置くのが息子カーロスことカール・ウェブスターなのである。

このカール、レナードの作品では今までにないヒーローである。恐怖心という物が抜け落ちたかのように、どんな状況においても常に磐石な自信を湛え、冷静沈着に振舞える男だ。
そして悪党を前にして述べる言葉は
「おれが銃を抜くことになったら、必ず撃ち殺す」
さらに今回特徴的なのは実は彼が真っ当な正義漢ではなく、実は根っからのガンマンなのだという事。
作中でもそれは他者の言葉を借りて表現されている。曰く、
「あなたはなぜ執行官になって銃を携帯する道を選んだのか。人を撃つのが好きだからよ。人を撃つのが楽しいからなんだわ」
そしてカール自身、今度の犯人を撃てば、彼の戦果に加わる事を密かに愉しんでいることを認める。

ただ、ここで留意したいのは彼は血を好む殺人者ではないという事だ。まず先に立つのは正義感。犯罪者を彼は人とは思っていない。そして彼はそれを仕留めるのが自分の使命だと固く信じている。
そしてもう1つ。彼はあくまで他者と純粋に勝負し、勝つ事が好きな男だということ。で、彼が選んだその勝負の方法というのが銃撃戦だということだ。
撃つか撃たれるか、死と隣り合わせの命のやり取りであるが、カールはむしろそれをスポーツの対決のように感じている。それは彼が一種変わった精神構造を持っているからだろう。

上の台詞が出てくる場面のすぐ後で、彼は銃撃戦が終わったときに体の震えているのに気付いたと述べる。ここで注目したいのは、体が“震えた”と書いているのではなく、“気付いた”と書いてあることだ。
つまり何事に対しても、精神と身体を切り離して観ること、行動できる客観的な男なのだ。そうカールこそは根っからの勝負師であり、負ける事を考えない真のタフガイなのだ。

一方ジャック・ベルモントは小さい頃に実の妹を溺死寸前までさせ、脳に障害をもたらしたエピソードを軸に、親の手の付けられない悪童がそのまま大人になった男で、根っからのワルである。
しかし、ワルはワルでもこの男、どこか抜けており、また自覚的でないため、常に自分を大物に見せようと人を小馬鹿にしながら、その実、相手から見下されているという三文悪党として描かれている。

石油王として莫大な富を稼ぐ父親を何とか懲らしめてやりたいと、愛人の誘拐まで行うが、計画の甘さから失敗し、刑務所入りを余儀なくされる。
相棒として雇ったと思われた男からは、実は小物だと思わわれていたことを知り、銃撃戦に紛れて射殺するなど、嫉妬と虚栄心の塊だ。
いわゆる典型的な“俺リスペクト型”で、自分はもっと周囲から恐れられ、名前が売れていいはずだと思っている男、ジャック。

実はこの展開は意外だった。これは今までのレナード作品に出てきた、根っからのワルなんだけど、どこか抜けている悪党と何ら変わらないからだ。
主人公のカールのライバルにしてはどうしても見劣りする。実際作中、何度かジャックとカールは邂逅し、そしてあるときはカールに捕らえられ、刑務所に送られるように、カールはジャックを歯牙にもかけていない。むしろカールは自分に相応しい敵となるべく、その時を待っているかのようだ。

そしてようやく迎える二人の対決シーン。実はこれが意外だった。自分への協力者を容赦なく殺す事で、精神的にもタフとなり、カールのレベルまで登りつつあったジャック。しかし最後の最後まで彼は三文チンピラのままだった。
う~ん、結構難しい。安直に語れない深みがある。これについてはしばらく考えてみよう。

さて物語はこのジャックとカールを中心に語られるが、彼らに纏わる登場人物も今回は出色である。
まずカールとジャックの時代を描写する上で、実際的にはその姿を見せず、あくまで他者の言葉を通じて語られる実在の銀行強盗チャーリー“プリティ・ボーイ”フロイド。
そしてそのチャーリーの追っかけであり、チャーリー・ギャング・グループの仲間を射殺した逸話を持つルーリー・ブラウン。
元FBIで独善的な正義を振り回し、自ら連邦捜査局員を名乗り、KKK団を率いて、黒人やイタリア系移民を狩るネスター・ロット。
学校の教師で30年間に出来た恋人は2人。そしてその2人目の恋人が銀行強盗だった女性ヴニシア・マンソン。
レナードはこれらをトニー・アントネッリという駆け出しの記者がカールないし事件の関係者にインタビューする形で話を紡ぐ。
これがもう独立した短編のように面白い。

特にこのトニー・アントネッリという作中話者を設定したのは今回の大きな効果だと思う。
彼がカールの伝説を作り、無法者ども達の逸話の語り部となり、物語に厚みを持たせている。
そういえば、この前の『キューバ・リブレ』でもニーリー・タッカーなるルポライターが出ていたが、今回はその時よりもさらに発展させ、活用している(面白いのはニーリーとトニーともにハーディング・デイヴィスなる新聞記者の文体に心酔していることだ。実在の人物か知らないが、もしレナードの創作ならば、彼の登場する物語も読んでみたい)。

権力ある者が法律を作り、常にどこかで生き死にのやり取りが繰り広げられる無法の時代に生きるタフで、アブナイ奴らが縦横無尽に動き回るこの作品こそ、私が読みたかったレナードの小説だ。
2005年発表とあるから、当時御年なんと81歳!こんなトンでる老人、日本にはいないだろう!
ゴーストライターがいるかもしれないが、そんな下種な勘ぐりは抜きにして、レナードの若さに乾杯!


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
ホット・キッド (小学館文庫)
エルモア・レナードホット・キッド についてのレビュー
No.91: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

私、犯人解っちゃいました!

初エラリー・クイーンである。30も半ばを越えて(当時)ようやく着手である。当初古めかしく感じた訳も思いの外、クイクイ読めた。
実は最初は非常に不安だった。この齢までなるとかなりの本も読んできたすれっからしの読者であるから、世評高いクイーンの諸作を純粋な気持ちで楽しめるのか、心配していたのだ。ホームズシリーズやルパンシリーズで感じた失望、最適な時に読むべき本を逃した喪失感、そんな感慨をまた抱くのではないかと。
しかし、杞憂とは正にこのこと!十分愉しめた。大人が読むに耐える小説になっている。

そして私、犯人解っちゃいました!Ⅱ-11章で天啓の如く、閃きました。正にこれしかない!といった感じでした。

・犯人はなぜシルクハットを持ち去らなければならなかったのか?
・シルクハットはどこに隠されたのか?
・シルクハットを持ち去っても不審がられない人物とは一体誰なのか?

この3つの疑問について完璧に解答できた。う~ん、気持ちがいい!このカタルシスこそ正に本格推理小説の醍醐味だ。

そして犯人が判ってから読むとクイーンの作品は非常にフェアプレイである事が判る。最後の謎解きの辺りでは、センター試験の答え合せをする時のようにドキドキした。なるほど、極上の知的ゲームである。
しかし、惜しむらくは作中でも書かれているように事件の真相が推理のみであり、物的証拠が得られず、しかも最後は犯人に罠を掛けないと逮捕できなかった点だ。世紀の名探偵エラリー・クイーンのデビュー作は磐石の推理と証拠の提示による解決ではなかったとは意外だった。

しかし、それを於いても久々に毎日本を読むのが楽しみだという気持ちになれた。推理小説に夢中だった小さい頃の想いが甦るようだ。推理小説とはこんなにも楽しいものだったのかとこの年になってさえ思わせてくれる。クイーンの作品は本当に素晴らしい。未来永劫読み継がれてほしい作家だ。
一般的には佳作の部類に入るであろう本作だが、本格ミステリの愉悦を再燃させてくれたことから8ツ星評価としたい。
後に着手する更なる傑作に思いを馳せつつ、この感想を閉じたい。

ローマ帽子の謎【新訳版】 (創元推理文庫)
エラリー・クイーンローマ帽子の謎 についてのレビュー
No.90:
(8pt)

ミステリよりも男の卑小なプライドに共感

ダニーロフ&カウリーシリーズ第1作目。
アメリカの政治原理とロシアの政治原理が交錯するやり取りは正にフリーマントルの真骨頂なのだが、今回はそれだけでなく、全編に事件解決の手掛かりが周到に散りばめられている、一種本格ミステリの要素も含まれているのだ。ここにフリーマントルのこのシリーズに賭ける意気込み、並々ならぬ創作意欲の迸りをびしびし感じた。まさに記念すべき新シリーズの幕開けだと云える1作だ。

図らずも第2作『英雄』から本シリーズに入ってしまった私。その時の感想に、『英雄』には前作の犯人と真相が明からさまに書かれていると述べてあるのだが、本書ではその人物がどのような者かは朧気ながら覚えていたものの、誰かまではすっかり忘れていた。
しかし、この前知識が今回の真犯人を当てる一助になった事は間違いないだろう。しかし、それでも巻末で繰り広げられるカウリーの謎解きに謳われたある文中の違和感には気付いたのだから、よしとしよう。

まあ、そんなことはさておき、今回、作者フリーマントルがロシア民警の警官とFBIエージェントを組ませて捜査を行うこの設定を思いついたのは単純に犬猿の仲とも云える相反する両国のミスマッチの妙と、水と油の関係の二国のそれぞれに属する者同士が国の利害を超え、結ばれる友情を描きたかった、それだけではないだろう。
90年代後半に起きたソ連の民主化政策、グラスノスチとペレストロイカという二大ムーヴメントによってもたらされた欧米的生活様式と価値観。それはまた同時に犯罪の欧米化を促す事でもあったのだ。従って、今まで官吏が独裁的に行う犯罪捜査では解決しえない類いの犯罪も頻発する可能性があり、それを解決すべく東側もアメリカ式の犯罪捜査システムの導入が必要になる。こういった洞察からこの二国間のそれぞれの腕利きが協力し合うという構想が具体化していったに違いない。これこそ、フリーマントルの素晴らしき慧眼だといえる。

そして本書を彩るのが登場人物たちの複雑な人間関係だ。
かつての同僚であり、友人の妻と不倫関係にあるダニーロフ。同じくかつての同僚で親友に妻を奪われ、そしてモスクワの地でその2人に再開することになったカウリー。
ダニーロフは不倫相手の夫婦の家に招待され、危うく不倫がばれそうになるし、カウリーは再びパートナーとなった元妻の略奪者と仕事に私情を挟まないよう、終始注意を払う。そして同じくパートナーの夫婦に食事に招待され、元妻への思いが再燃する。

そしてこの2人の色恋の挿話に対して、特に印象に残った箇所がある。
まずダニーロフは妻に不倫を疑われ、不倫相手のラリサに別れを告げるシーン。彼は最初はほんの遊びのつもりだったのが、なぜこれほどまでに深入りしてしまったのかと自問する。そして得た答えというのが、それが安心の裏づけだというもの。その気になればまだ美しい女を物に出来るという自尊心の裏づけなのだという述懐だ。
ここで私ははたと立ち止まる。男はいつでも自分を若いと思い、そして若く見せようと努力する。
かくゆう私もそう。それは老け込みたくないという気持ちから来るものなのだが、潜在的にはこのダニーロフが云うようにいつまでも女性の目を惹きたい、いつでも俺は現役なのだという自負心を抱きたいからだ。そして不倫はそれを裏づける何よりも証拠、男としての現役の証明なのだ。不倫は文化だ、などと触れ回る男もいたが、そんな軽薄な言葉よりもこちらの方がもっと真実味がある。
そしてカウリーはパートナーのバリー夫妻に自宅に招待され、夕食をご馳走になった後、一人考え込むシーン。元妻ポーリーンに「あなたは奥さんがいなくちゃならないタイプだもの」と云われたことを振り返り、激しく動揺するシーンだ。彼はその言葉で1人で生きていく事は大したことではないと思っていた矢先に常に孤独を感じていたことに気付かされる。しかし、結婚はその孤独を癒すためにする物とは違うとも解っている。では何なのかという自問に対する答えをカウリーは得ていない。
そこで私は考える。それは単純に失望なのだと。カウリーは元妻にまた一緒になりたいという言葉をかけてほしかったのだが、返ってきた言葉が、再婚していないのが意外だという意味の言葉だったからだ。まだ続いていると思っていたお互いの想いが他方では既に決着が着いていたのだと知らされた言葉に激しく動揺したのだ。その事に気付かず―敢えて目を向けず?―、自分が孤独を感じていることに向き合ってしまったのは、カウリーの未練を表している。これは振られたことのある男にしか解らない気持ちなのかもしれませんね。

さらにダニーロフはかつてある地区の署長をやっていた際に得た密売組織との“密接な関係”によって得た特権を異動によって破棄し、家庭の電化製品はもとより、その日着ていくスーツやYシャツにも困るような逼迫した生活を強いられている。皺の寄れた衣服が、スクラップ寸前のくたびれた電化製品の数々がダニーロフの眼に妻をも使用済みのように映らせている、この辺のフリーマントルの筆致の上手さにも唸らされた。
『英雄』を読んだ時に思ったのは、カウリーよりもダニーロフに関する叙述が多かった事だが、今回モスクワを舞台にした本書でもその比重は変らないように思う。確かにカウリーはアメリカ人であり、異国の地で勝手違う捜査を強いられる存在ながらも、ロシア語も堪能で、FBIロシア課の課長という役柄、ロシアにも精通しており、そのギャップが少ないように感じた。むしろロシアという特異な文化の中でのダニーロフの生活や性格が興味深く語られ、作者自身、取材の成果を存分に揮って楽しんで書いているように思えた。やっぱりダニーロフの方が好きなのだろう。

しかし今回のこのタイトル、フリーマントルの作品とは思えないセンセーショナルな題である。一瞬大沢在昌の『新宿鮫』シリーズの1作かと思った。
訳者の松本剛史氏がこのシリーズのファンなのだろうか。それともこの後シリーズの邦題は『英雄』、『爆魔』と二文字で続くからディック・フランシスの諸作のファンなのかもしれない。まあ、どうでもいいことだが。

猟鬼―ダニーロフ&カウリーシリーズ (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル猟鬼 についてのレビュー
No.89: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

鬱屈した世を走る男たち

早川書房のチャンドラー改訳短編集の第2弾。本作も前作同様、未読の短編があったため、購入した次第。
で、その未読短編というのが冒頭の「シラノの拳銃」と最後の「翡翠」。「シラノの拳銃」に出てくるテッド・カーマディが収録作7編のうち、4編において主人公を務める。

「シラノの拳銃」はボクシングの八百長試合の約束を破ったボクサーへのマフィアの報復から話から、ある上院議員の隠し子のスキャンダルまで発展し、それが狂言だったという結構奥が深い話。題名の<シラノ>はカーマディが自分の所有するホテルで出会ったボクサーの女が勤めるナイトクラブの名前。
本作は何と云っても最後のシーンが忘れがたい。ナイトクラブの女ジーンが笑みを浮かべながら眠りに就くシーンにしみじみと心打たれた。

「犬が好きだった男」は失踪した娘の捜索を頼まれたカーマディが唯一の手掛かりとしてその娘が連れていた犬を追って、獣医、強盗犯、精神病院へと次々と場面展開していく。題名の素朴さとは裏腹にカーマディの行くところ、死屍が累々と残されていき、激しい銃撃戦が二度も出てくるハードな内容だ。
しかもカーマディが麻薬を打たれて病院に監禁されてしまうシーンは確か長編でもあったように記憶しているがどの作品だったのか思い出せない。ロスマクのアーチャー物でも同様のシーンがあったように思うのだが。

「カーテン」ではカーマディは逃亡幇助を頼まれた友人のラリーが結局自分一人で逃げた矢先に殺されてしまった事から、ラリーの関わった友人の捜索に乗り出す。
物語の展開から予想だにしない結末に至る本作。真相はかなり意外。金持ちの依頼人と蘭の温室で対面するシーンは確かに『大いなる眠り』にも見られたシーン。しかし、真相がこじつけのように思えた。よくよく考えると、なんかおかしい。

カーマディ物最後は表題作「トライ・ザ・ガール」だ。ギリシア人の床屋の主人の捜索でセントラル・アベニューを訪れたカーマディが、たまたま出くわした大男スティーブ・スカラに否応無く彼のかつて愛した女ビューラの捜索に巻き込まれる話。
そう、これこそ正に名作『さらば愛しき女よ』の原形。
ここで現れる一人の女を追い掛ける大男は大鹿マロイではなく、スティーブ・スカラ。最後の幕引きも同じようなものだったか?凶暴かつ乱暴で野獣のように思われた大男。自分の目的のためには人を殺す事も躊躇わない大男。だのに女にはこの上ない優しさを見せる。自分を撃った女に対して「放っておいてやれ。やつを愛していたんだろう」と慈悲を与える不思議な魅力を持った男だ。こういう男は多分に母親の愛情に飢えていたのだと思われる。
そしてこの話の裏テーマというのは8年ぶりに出所した男が直面した、馴染みの店と好きだった街の雰囲気、そしてかつて愛した女、それら全てが変ってしまったことに対する戸惑いと哀しみなのだ。彼は居心地の悪さと居場所の無さを感じていたに違いない。そしてそうした彼の唯一の拠り所がかつて愛した女ビューラだったのだ。あまりに切ない物語。

この4編を通じて主人公を務めるカーマディという男の魅力も捨てがたい物がある。議員だった父親の遺産で悠々自適に暮らしている元探偵というチャンドラー作品には珍しい設定ながらも金持ちが故に抱える彼独自の哀しみ。親が汚職で残した汚い金を拒む事も出来ずに自嘲気味にその日を暮らす毎日。
しかしカーマディは2作目以降、「シラノの拳銃」の印象とはだいぶん違ってくる。むしろマーロウに近い感じだ。なぜチャンドラーがカーマディを主人公に長編を著さなかったのかが不思議なくらいだ(この感想を書いた後、解説で木村二郎氏が「シラノの拳銃」のテッド・カーマディとその他3編のカーマディは別人で、後の3編のカーマディはマーロウの原形だったと述べている。正に私の抱いた感想は正しかったわけだ)。

さて残りの3編について。
「ヌーン街で拾ったもの」は麻薬潜入捜査官ピート・アングリッチが主人公。ヌーン街で見かけた金髪の女性の代わりに、一台の高級車から落とされた荷物を拾ったことからハリウッドスターとマフィアとのある企みに巻き込まれる話。
ハリウッドスターの売名行為で裏街のボスの手を借りるというのがちょっといただけない。あとで強請られるのが解っているのに、安直では?タイトルはダブル・ミーニングだろう。ヴィドリーが落とした包みではなく、金髪の女トークン・ウェアこそ「ヌーン街で拾ったもの」だろう。

「金魚」は我らがヒーロー、マーロウ登場の物語。元婦警の友人キャシー・ホーンから行方知れずになっているレアンダー真珠の在り処について有力な情報を教えるから探してほしいと頼まれるマーロウ。報酬は保険会社から支払われる2万5千ドル、これを情報提供者であるピーラー・マードと3人で分け合うという取り決めだった。マードの許を訪れたマーロウはそこで拷問に遭い、ショック死したピーラーの死体に出くわす。ピーラーの家を後にしたマーロウは保険会社を訪れ、正式な代理人として雇ってもらう。事務所に帰ったマーロウに知らない女から電話が掛かり、悪徳弁護士のラッシュ・マダーの許へ訪れるよう脅迫される。
レアンダー真珠を巡る丁々発止のやり取り。ハメットの『マルタの鷹』を換骨奪胎したかのような物語。
とにかく悪役の女性キャロルがいい!ストーリーの運びは定型なんだが、彼女の存在が物語に色彩を与えている。最後のサイプの妻がマーロウに仕掛けるフェイクなど、最後まで楽しめる作品。最後のシーンでビリー・ジョエルの”Honesty”の歌詞が浮かんだ。
“誠実、なんて寂しい言葉だろう”

最後の「翡翠」は「スマートアレック・キル」で主人公を務めたジョン・ダルマス再登場作品。社交界の名士リンドリー・ポールから彼の女友達が盗まれた希少な翡翠のネックレスを探し出すよう頼まれるという話。相変わらず入り組んだストーリー展開だが、霊能者が登場したりといささか意匠に懲りすぎた感も否めない。そのため、なんだかバタバタした展開になっている。

本作では「シラノの拳銃」、「犬が好きだった男」、「トライ・ザ・ガール」そして「金魚」の4編が秀逸。1つに絞るならばやはり「トライ・ザ・ガール」か。
今まで2冊の短編集を通じて感じるのは、20~30年代後半のアメリカを覆った荒廃感が物語の雰囲気を覆っていることだ。それは禁酒法統治下もしくはその余波が澱のように残る20~30年代のアメリカを覆う鬱屈感に他ならない。そんな世の中で誰もが心に病を抱えている。善人は不器用であり、暮らしは楽にならなく、器用な奴は相手を出し抜く事にその器用さを発揮し、誰もが悪人だ。
そしてチャンドラーが描く探偵マーロウ、カマーディらはそんなすさんだ街の中で減らず口を叩きながらも、どこか人を信じることを止めきれない、自分に正しくあろうと自嘲気味に生き抜く男たちだ。彼らは探偵という仕事を自らの糧を得るためのみならず、仕事に関わった自分を納得させるために損得抜きで夜を走っている。それはこの街に失われたと思われた何かがまだ残っている事を信じたいがために真実を追っているかのように思える。

そしてそれを表現するチャンドラーの描写力、文章力の凄さ、改めて痛感した。危険と隣り合わせの人間が配る視線や仕草をとっても、それら人物や状況を語る視点が違うのだ。少なくとも私にはこういった“眼”は無い。
そしてその文章に加えて、質が上がったストーリーとプロット。全てがそうだとは云えないまでも、入り組んだストーリーも単純に捏ね繰り回されているだけでなく、計算づくの上での展開だというのがよく解る。
毎度同じような展開だと思いながらも、なぜだか飽きずに読めるのが不思議だ。
未読短編だけを読むために買ったこのシリーズだが、チャンドラーの凄さを再認識するのに格好の機会になった。残る2冊も買うつもりだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
トライ・ザ・ガール (ハヤカワ・ミステリ文庫 チ 1-8 チャンドラー短篇全集 2)
No.88:
(8pt)

実はホラーも書ける!

タイトルが示すように、エスピオナージュ作家フリーマントルが紡いだ怪奇短編集。これが実にヴァラエティーに富んだ短編集となった。

冒頭の「森」はどちらか云えばオーソドックスな怪奇譚だろう。ルーマニアの小さな集落を舞台にした残虐な領主の圧政に苦しむ村人が復讐を遂げた後に訪れる怪事である。

次の「遊び友だち」もオーソドックスな部類の怪奇譚だ。名声高いブロードウェイの脚本家が買った古い屋敷で起こる怪奇現象。屋根裏の子供部屋に大人には見えない子供がいるという話。

「ウェディング・ゲーム」は英国屈指の名門の2つの財閥のある結婚式の時に訪れた悲劇を扱っている。嫉妬に駆られた花婿の弟の犯行、最後のオチなど、目新しさは無いものの、演出効果は抜群だろう。最後のシーンは映像が目に浮かぶよう。
そして本編で語られる花嫁の惨劇は江戸川乱歩の「お勢登場」を想起させる。死にゆく者の生への執着と死の恐怖を濃密に描いた乱歩に対し、事象を語りつつ、その後の展開に見事なオチをつけたフリーマントルという2人の特徴が出て面白い。

更に続く「村」は第二次大戦にドイツ軍に所属していた主人公が名を変えて身を潜めて余生を暮らした末に、公式記録上で自分が大量虐殺を行ったとされるチェコの村を訪れる物語。

投資家夫婦と降霊術という相反する物を結びつけたのが「インサイダー取引」だ。インサイダー取引で巧みに財を成してきた投資家夫婦のうち、妻の突然死で失意に暮れた夫が霊媒師の力を借りて、亡き妻との交流を果たし、妻の助言で、どんどん投資を成功させ、億万長者となっていくという話。
これと「ゴーストライター」が個人的にはベスト。こちらの方はコメディアン志望の男が死後コメディライターとして名声を成すという話。特にこの2編はタイトルが秀逸で、最後に抜群の切れ味を放つ。
そして株式をテーマにホラーを書くという発想も斬新だが、もっと驚いたのはフリーマントルが「お笑い」をテーマに短編、しかも幽霊譚を書いたこと。まさに脱帽だ。

それに加えてこんなのも書けるのか、フリーマントル!と唸ったのが「ゾンビ」と「洞窟」。前者はカトリック宣教師が布教のために派遣された神父を奪還するためにゾンビを生み出す呪術が支配するカメルーンの奥地の村に乗り込むといった話。
後者はフランスにある世界最大の洞窟でガイドする一族の話。自らの子供と妻が洞窟に入ったまま行方知れずになった男が友人の子供の捜索に乗り出す。
この2編で驚かされるのが宗教や呪術、そして洞窟ガイドという職業の特徴を詳述しているところだろう。この作家の懐はどこまで深いのかと驚嘆した作品だ。

一風変った幽霊譚なのが「魂を探せ」。何しろベルリンでの任務中に暗殺されたCIAとKGBの工作員2人の幽霊が、死後のユートピア<あの世>に行くために自らの魂を探すという物語。しかしこのオチはブラック・ジョーク以外何物でもないな。

「愛情深い妻」、「デッド・エンド」はそれぞれ殺人事件を扱った恐怖譚。前者は病院の院長が不倫相手と再婚すべく妻を不治の病と見せかけて毒殺するが・・・といった話。
後者は場末の宿で発見された女性の刺殺死体の犯人を捜す物語。現場に残された指紋、遺物などから状況的に夫の犯罪と思われたのだが、当の夫は自信満々に自分の犯罪ではないといいきり、逆に警察に犯人のヒントを与え・・・という話。
どちらも幽霊を扱っているのが共通。特に前者は妻の幽霊に苛まれる主人公の苦悶がちょっと理解できなかった。元妻は愛人との交際を認めているのに、なぜ主人公は愛人と愛を交わせないのか?私なら・・・とここで止めておこう。

最後12編目「死体泥棒」はいつの間にか人殺しに加担していた善なる医師の話。生真面目すぎるが故に陥った狂気の領域を皮肉とユーモアを交えて語っている。

ざっと概要を上に書いてみたが、冒頭述べたように題材が実にヴァリエーション豊かである事が解ると思う。自分の得意分野だけで勝負していないところなんかはフリーマントルのストーリーメーカーとしての矜持を感じさせる。もしフリーマントルにお題を提供してホラーを書けと頼むと、何でも書けるのではないだろうか。
そしてこのようなホラー・ストーリーはもはや出尽くした感があり、確かにここに語られる恐怖譚の中には目新しさは無い物もある。では何が読者の興趣を誘うかというとやはりそれは作者の語り口にあるだろう。

そしてフリーマントルが筆巧者であり、その定型化した恐怖譚をコクのある料理に変身させる腕前を備えていることを再認識させられた。
正直云ってこれほどの短編集を絶版のまま埋もれさせるのは勿体無い。どうにか復刊ならないだろうか。

フリーマントルの恐怖劇場 (新潮文庫)
No.87: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)
【ネタバレかも!?】 (1件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

愚行は今も変わらず

2作目のジンクスという言葉がある。
本作は真保氏にとって江戸川乱歩賞受賞後の第1作、つまり第2作となるのだが、そのジンクスを跳ね返すべく、彼が並々ならぬ精力を本作に注いだのが冒頭から滲み出ている。

まず本作のメインであるマニラでのODA大規模プロジェクトの内偵に主人公伊田が関わる経緯からして非常にミステリアスであり、読ませる。100ページ以上費やして語られる導入部はぐいぐいと興味を引っ張り、ページを繰る手が止められない面白さだ。
そこから展開するマニラでの日本建設業界への潜入捜査、マニラを含め、フィリピン各所で繰り広げられる追跡行を読むに当たって、よくもまあ、これほど詳細に書けるものだと感心することしきりだ。真保氏の取材力の緻密さには定評があるが、確かにこれはすごい!

まず、空港を降り立ってホテルにチェックインするまでの流れは私が今まで何度も経験したその動きをそのまま投影しているかのようだ。しかも建設業界の内幕の様子もさることながら、フィリピンでのビジネスについても作者は熟知しており、終始ニヤリとするとともに、感嘆を禁じえなかった。
そして主人公やその他登場人物が縦横無尽に行動するフィリピンのマニラの街並みの描写も詳細を極めているが、スールーとかバギオなどの通常日本人が行かないようなところにまで踏み込んで舞台にしているところが、単純に小説に使うという名目で作者がフィリピンへ観光旅行したのではなく、明らかに明確な意図を持って入念に取材した事が窺え、この作者の作品に向かう誠実さを感じさせられた。
これがまだ2作めだというのだから恐ろしい。

そしてこの本を読むタイミングというのもまた良かった。建設業界の談合話に加え、小説の舞台がマニラ。これは今現在フィリピンに滞在する私に対し、今読め!と云っているようなものである。
しかし、それでも本作は星10を手放しで与えようとするとどうしても抵抗があるのだ。
それはテーマと中で扱われている内容にどうしようもない乖離を感じたからだ。

私は冒頭のプロローグから第一部の展開までの物語の流れを読んで、愚直なまでに自らの仕事に対して正直な男の復活劇だと期待した。それは一度閑職に追いやられた男が公正取引委員会という仕事が世に蔓延る不正を正し、悪の芽を詰む物だということを自らの信条とする伊田和彦なる男が密命を帯びてフィリピンで行われているODAの大型プロジェクトの不正を暴く、そういう物語だと思っていたからだ。
しかし、蓋を開けてみれば、それは単なる物語の意匠に過ぎなくて、この物語の核心はフィリピンで起きた誘拐事件の探索行、そしてその事件の真相を巡る物語だったのだ。

確かにフィリピンという国を縦横無尽に駆け巡る誘拐事件の解決劇は面白い。2つ起きる誘拐事件のうち、核となる第1の事件は660ページ強の本書の中で300ページ弱と、半分を費やして語られ、それ自体1編の長編に相応しい内容になっている。しかし、そこから私が期待した展開は、そこから伊田の当初の目的である談合の証拠を掴む調査の話だった。しかし、上にも述べたように実はそうでなく、この誘拐事件に隠された真相を巡る物語が展開する。
これがどうしても私には納得が行かなかった。それは本作の主人公伊田と調査の対象となる相手の1人に彼の高校時代の友人遠山順司という人物が設定されていることも一因だ。

この遠山順司というサブキャラクターが非常に魅力的に描かれている。この好男児に対し、伊田が自分の使命と友情の維持という葛藤に対し、どのような決断を下して乗越えるのかに私は非常に興味があった。多くのページを費やして繰り広げられる追跡行も、伊田と遠山の結びつきを強めるガジェットとして受け取っていたのだ。
しかし作者の思惑と読者である私との思惑が一致しなかった。これは非常に残念だと思った。

しかし、これは単純に作者が悪いというわけではない。私が勝手に展開を予想した事による齟齬なのだ。もし私が何の先入観もこしらえずに白紙状態で向き合っていたら、読書の悦楽にどっぷり浸かることができただろう。
真保氏の小役人シリーズはまだ2作しか読んでいない物の、非常に好きなシリーズである。だから私は良い読者でありたい。彼は小役人を主人公にする事でミステリを描く作家だという事を念頭に変な先入観を持たず、次から読む事にしよう。

1992年発表の本書で語られる建設会社の談合事件が26年後の今なお続いているのを見ると、この世の中というのは何も変っていなく、日本という国が根っからの土木国家という事をまざまざと知らされる。
それは本書で述べられるフィリピンもまた同様だ。100ペソ札(現在のレートで220円前後)1枚で賄賂が成り立つ貧困状況、幼児売買、臓器売買が成されている現状(しかも臓器売買は合法化されているとまで云われている)など全く変っていない(本書で述べられる気分の悪くなるような事実に対して、何ら驚かない、既に麻痺した自分がいることにも気付かされた)。故にこの作品が未だに古びれない輝きを放っているのだから実に皮肉なものである。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
取引 (講談社文庫)
真保裕一取引 についてのレビュー
No.86: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

それぞれのフィリップ、あるいはマーロウ

フィリップ・マーロウを主役に当代気鋭のミステリ作家が物語を描いたトリビュート短編集。正に粒揃いの名品ばかりだ。長くなるが、それぞれの作品についてあらすじを述べていこう。

まず冒頭を飾る「完全犯罪」は昨年逝去したマックス・アラン・コリンズの手によるものでマーロウがハリウッド女優ボディガードを引き受ける話だ。
ベンジャミン・M・シュッツの「黒い瞳のブロンド」とジョイス・ハリントンの「グレースを探せ」は共に人探しをテーマにしており、それがそれぞれ家族を連れ戻す物語である。前者は夫が逃亡した妻と子を、後者は妻が失踪した夫と子を、正に表裏一体の設定。しかも明かされる真相もほとんど似通っていたのがちょっと残念。

マーロウがプロレスラーのザ・クラッシャーという大男からボクシングのプロモーターのトマス・ローマにお金を届けるよう否応無く頼まれる所から始まるのがジョナサン・ヴェイリンの「マリブのタッグチーム」。
似たような題名の「悲しげな眼のブロンド」はディック・ロクティによるもので、マーロウが<ラサの頭蓋骨>という宝石を埋め込んだ頭蓋骨を手に入れるよう旧知の女性から依頼されるという一風変った設定。

4Fの旗手サラ・パレツキーは「ディーラーの選択」という作品で参加。マーロウが女性の依頼で、兄の借金の形にした母親の指輪を取り戻すのに借金した相手との交渉を頼まれるというもの。
そして田舎出の娘のような歌手イーヴリン・メリルがしている指輪がマイラ・ヒートレーという未亡人が盗まれた物だというシーンで始まるのがジュリー・スミスの「レッド・ロック」。物語の展開は当然この指輪を巡って繰り広げられる。

パコ・イグナシオ・タイボ二世の手による「国境の南」はマーロウと弁護士に警護を頼まれたアレックス2人のメキシコを放浪する物語で、異色の短編だ。
ロジャー・L・サイモンは赤狩りを背景に物語を展開する掌編「街はジャングル」で参加。

この後のジョン・ラッツの「スター・ブライト」はハリウッドの女優の卵エラ・ルーを巡る物語。
次のロバート・J・ランデージという初耳の作家による「ロッカー246」はマーロウが悪友の残した荷物を受け取りにニューヨークへ行く話。

そしてスチュアート・M・カミンスキーの「苦いレモン」は同じビルに住むウォーレンの妹探しの話。
次はなんとエドワード・D・ホックである!不可能犯罪短編の雄がチャンドラーのトリビュートとして捧げた「東洋の精」は酒場の歌姫からマーロウが銀行強盗と殺人の罪に問われた弟を助けて欲しいと依頼される話。ちなみに彼の作品の特徴である不可能状況、トリックは出てこない。

ジェレマイア・ヒーリイの手になる「職務遂行中に」は保険会社から現金輸送車を襲った事件で殉職した顧客の警備員が実はこの一件を仕組んでないかと調査を依頼される話でなかなか読ませる。
「悪魔の遊び場」はある荒野に建つコーヒーショップで起こった悪人たちの篭城事件を描いたジェイムズ・グレイディという作家の作品。

そして最後は御大チャンドラーの作品「マーロウ最後の事件」。マーロウの事務所を訪れたイッキー・ロッセンという男の依頼は、自分の逃亡を助けて欲しいというものだった。ラスヴェガスのあるマフィアの組織から足を洗った彼は大金を手にして逃亡中であるが、どこに逃げても追っ手の尾行が付きまとい、しかも自分を殺しに殺し屋が今日ロスを訪れるのだという。かなり危険な依頼に難色を示したマーロウだったが、妙に女に優しいこの変ったチンピラを気に入り、依頼を受ける事に。マーロウは、友人の女性アン・リアーダンに手伝いを頼み、無事イッキーを逃がす事に成功するのだが・・・。
“The Pencil”という原題に対し、なぜこのような邦題を付けたのか、訳者の真意はわからないものの、これがチャンドラーのマーロウだ!と云わんばかりの作品だ。
マーロウは常に損をする。それは彼がこだわりを捨てずに自分を納得させるまで仕事を止めないからだ。
この作品では読者になぜそこまでするのか?と思わせながら、最後の最後においてもやはりこのマーロウという人間が十分に理解できないまま終わる(少なくとも私はそう)。しかし、これこそがマーロウなのだなと思う。

チャンドラーの作品を別格として、私の個人的なベスト5はコリンズの「完全犯罪」、カミンスキーの「苦いレモン」、ヴェイリンの「マリブのタッグチーム」、ヒーリイの「職務遂行中に」、ロクティの「悲しげな目のブロンド」か。

コリンズはチャンドラーを正統に受け継ぐかのごとく、マーロウを復活させた。彼の強さ、皮肉っぽさは無論ながら、彼の優しさ、弱さもおしなべて。特に「ぼくはいつもひとりで寝るんだ・・・・・・良心を抱いてね」の台詞には参りました。
カミンスキーは実に正統なチャンドラーの後継者たらんとしているのが解る。特に作品に漂う頽廃的な雰囲気はアメリカ西海岸の光と闇を映し出し、行間から埃の匂いを立ち昇らせるかのよう。出てくる登場人物が全て大なり小なり過去に栄光を得ながら、落ちぶれた生活を送っている。美少年コンテストで優勝したハゲの小男。戦争に行って、怪我を負い、人のために我慢することを諦めた男。警察署長まで登り詰めながら、ある事件で人生の歯車が狂ってしまった男と、その妻。彼らの間を駆けるマーロウは確かに騎士だ。最後の結末の皮肉さといい、全てがチャンドラー・テイストだった。

ヴェイリンの作品は『さらば愛しき女よ』のオマージュで、ザ・クラッシャーはまんま大鹿マロイである。1人の女に愛情を捧げたマロイに対して、本作ではタッグチーム相手のエルモとの友情に厚い人物としてザ・クラッシャーは描かれているが、彼がマロイ同様、愛情に厚いことも明かされる。
ヒーリイは実に堅実なプロットで物語を作り上げた。本作では逆に他の作家がやってきたプロットの逆を敢えて取る形で物語に決着をつけている。フィリップの捜査の流れ、それを牽引する手掛かりが容易に手に入り、淀み無いのが逆にフィリップ物語らしくない印象を与えることになっているのが皮肉だが。
ロクティは自身の作品で、自らがハードボイルドの熱心な研究者である事を証言した。まさかハメットの『マルタの鷹』をマーロウと絡めるとは思わなかった。ハメットをはじめ、フィッツジェラルドやヘミングウェイなど実在の文豪がマーロウの世界に溶け込み、ロクティがこのトリビュート作品に心の底から楽しんで取り組んでいたのが目に浮かぶようだ。

いやいや、みんなフィリップ・マーロウが好きなのだね。そしてチャンドラーの文体が。待っていましたと云わんばかりに精魂注いでそれぞれがマーロウ・ストーリーを存分に描いている。そしてその誰もがマーロウを卑しい街を行く騎士としてきちんと描いているのが嬉しいじゃないか!
そしてそれぞれの作者がチャンドラーのように物語を書きたかったという思いを隠すでもなく前面に押し出しているかのような書きっぷりだ。

例えばロクティとパレツキーの両者の作品に、虫や魚といった小動物を扱った描写が出てくるが、これもそうそう、チャンドラーはこういう描写を入れてマーロウの心中を語るのが上手かったのだと思い出した。ロクティの、事務所に迷い込んだ蝶といい、パレツキーの牧場の池の鯉といい、チャンドラー作品の特徴を上手く捉えている。
あと不思議なのは、破綻せず、きちりと割り切れる割り算のようにかっちりとした作品、またちょっと複雑なプロットの作品ほど、マーロウ物としては似つかわしいと思わされた。チャンドラーの短編で感じたように、マーロウの行動原理が十分には理解できずに終わる、何かモヤモヤした物を抱えたまま終わる物ほど、マーロウの物語として相応しいような気がした。

あと敢えてマーロウの舞台、卑しき街ロサンジェルスからマーロウを飛び出させた作品も印象に残った。タイボ二世の「国境の南」がメキシコ、ランデージの「ロッカー246」がニューヨーク、グレイディの「悪魔の遊び場」はロサンジェルスから遠く離れたサプリーという恐らく架空の街をそれぞれ舞台にしている。
特にタイボ二世は詩的ながらも南米メキシコの焦げるような暑さと、人々の汗ばんだ匂い、そして砂埃が行間から立ち昇るかの如きその文章で、どこかチャンドラーのそれとは違うと思わせながらも、チャンドラーに通ずるペシミズムが溢れている。この作品に出てくるアレックスがテリー・レノックスとだぶるのは、錯覚ではないだろう。

チャンドラー自身の作品も入れ、全16作収録の本書。そこに書かれたフィリップ・マーロウは時に「フィリップ」であり、「マーロウ」である。そのどれもがフィリップ・マーロウなのだが、フィリップとしか呼べないフィリップ・マーロウと、マーロウとしか呼べないフィリップ・マーロウがいるのに気付かされる。
その理由ははっきりとしないのだが、作中、走ったり、格闘を演じたりする若さや躍動感が漲っているのがフィリップ、車であちこち駆け回り、そこで出逢う人に馬鹿にされながら、そして自らを蔑みながらも最後の一線は守るストイックな騎士を行間から感じさせるのがマーロウといったところか。若きフィリップ、老成したマーロウという区別が自分の中で出来ているのかもしれない。

そして私もまたフィリップ・マーロウが読みたいのだと気付かされた。思えば社会人になりたての20代前半、それが私のチャンドラー作品との出逢いだった。あの頃、読んだときの感想は、今でも『長いお別れ』が私の生涯海外ミステリランキングの1位であることからも、かけがえの無い体験だったと思う。しかし、あの頃解らなかった“味”があるのも確か。あれから十数年経った今、マーロウの物語を再読してみると、きっとまた違った“味”を知るだろう。日本に帰ったら再び手に取ってみるのもいいかもしれない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
フィリップ・マーロウの事件 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.85:
(8pt)

チャーリー・マフィン版『ロミオとジュリエット』

英国情報部のロシア課に勤めていた経歴を買われ、ソ連側に寝返って英国へ情報を流している人物を探るよう要請されたサンプソン、片や英国情報部部長よりサンプソンと共に脱獄し、ソ連に潜入して、英国に情報を流しているソ連高官と接触し、亡命の案内役を務めるよう要請されたチャーリー。
この相反する任務を反目し合う2人のうち、どちらが先に目標に行き着くかという面白さ。それに加え、2人の共通の人物としてベレンコフが絡んでくるあたり、演出効果は抜群である。
特にベレンコフとチャーリーの再会シーンはシリーズ第1作目から読み続けた者にとってみれば、チャーリーらが作中で味わうワイン同様に芳醇な読書の愉悦に浸れる名シーンである。それぞれ敵国随一のスパイながら、お互いを認め合う存在が酌み交わす美酒にそのまま酔いしれる思いがした。

]そしてチャーリーに絡むのはチャーリーの尋問役として配されたKGBの局員ナターリヤ・フェドーワである。この2人の関係は正に恋愛小説の常道で、イギリス古典悲恋劇であるシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を真に踏襲する敵同士の恋愛劇なのだ。
ロシアに潜入したチャーリーをロシアに食い止める楔がナターリヤであり、英国情報部の復帰のために自国へ帰るか、はたまたソ連で得たスパイ学校の講師という役を生活の糧にしてソ連へ留まり、ナターリヤと暮らすか苦悶するチャーリー。

今回の作品の目玉はもう1つある。前にも触れたが、チャーリーがベレンコフの要請により、ソ連のスパイ学校の講師に抜擢され、講義を行うシーンである。
冒頭、刑務所のシーンから始まる本作でのチャーリーはかつて敏腕のスパイであった面影はどこへやら、刑務所連中に溶け込めずにいじける男に過ぎなく、後で入ってきたサンプソンの若さから年取って衰えた自分の肉体に自覚をやむなくされる不甲斐ない男として描かれてき、またソ連に逃亡してからも、英国のスパイ探索に重用されるサンプソンとは対照的に尋問を繰り返される毎日で、異臭のするアパートで陰鬱な毎日を過ごすだけの男だったのが、この講義では実に色めき立つのだ。
いやあ、チャーリー・マフィンという男の敏腕ぶりをフリーマントルはページ狭しとばかりに多種多様に描く。今となってみれば意外性を持たせるある種の常套手段を単に述べただけとも取れるかもしれないが、非常に楽しく読めた。またこのスパイ学校の講義がその後のストーリー展開に重要なファクターとして関わってくるのには、正直、舌を巻いた。

そして上司や権威主義者に対し、常に反抗的な態度を取るチャーリーはその故か、敵国の人物に好かれることになり、またチャーリー自身も自国の人間よりも他国の人物を好きになってしまう傾向がある。それはスパイという職業では通常得られない利害関係を超えた友情や愛情という純粋な部分で触れることになるだろう。
しかし、それが今回では仇になってしまう。これが今後のシリーズ展開にどのような影を落とすのか、非常に気になるところである。

この前の作品『追いつめられた男』でチャーリーはどうやらイタリアで捕まってしまうらしく、この物語はその事件の裁判から幕を開ける。しかし残念な事にその作品は既に絶版で、こっちにも無く、もはや読めることは適わない。
しかしそれでもこの物語が単独で愉しめるという事実に、今後のチャーリー・マフィンシリーズを断続的であっても愉しめる望みが出来たのは嬉しい。ただ、次回はいきなり10年以上もシリーズを飛び越してしまうので、果たして本当に愉しめるかどうか・・・。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
亡命者はモスクワをめざす (新潮文庫)
No.84:
(8pt)

チャーリー・マフィン縦横無尽!

チャーリー・マフィンシリーズ第4作目。いやあ、痛快、痛快。
『ディーケンの闘い』、『黄金をつくる男』など、ノン・シリーズにおけるフリーマントルもいいが、やはりこのシリーズでの筆致は一線を画すほどの躍動感がある。

チャーリー・マフィンの常に人を喰ったような策士ぶりは健在。いや、それどころか組織に属していない分、上司に縛られていないので、むしろ更に狡猾さが増した感がした。特にFBIのテリッリ捕縛作戦にロマノフ王朝切手コレクションがダシに使われることを摑んでからのFBIとのやり取りと、その作戦に一役噛んでいる上院議員コズグローブとのやり取りの面白い事、面白い事。
権力ある者に屈せず、むしろその権力を嵩に横暴を貪る者達を嘲笑するように振舞うチャーリーの姿には、上司-部下の上下関係に逆らえないサラリーマンの、こうでありたいという姿であり、溜飲が下がる気持ちがした。

そして今回、チャーリーの敵役のペンドルベリーも、いやはやなかなか面白い人物である。常によれよれのスーツを着、時には食べこぼしたケチャップの染みを付けて、上役の面前に登場したり、また必要以上に領収書を徴収して、必要経費を搾取する一見冴えないこの男は、FBI版チャーリー・マフィンであり、チャーリー自身も自分と同じ匂いを嗅ぎ取る。この男の水をも漏らさない計画に穴を開けるのが、このチャーリーというのがまた面白い。丁々発止の頭脳戦は似た者同士の騙し合い合戦そのものであり、これが今回の物語のメインディッシュとしてかなり美味しいものだった。

そして1,2作に登場し、大きな役割を果たしていたソ連のカレーニン将軍も大いにこの物語に寄与しているのも非常に楽しい。ソ連の旧王朝ロマノフ王朝の遺産であるから、ソ連が関与する事に違和感はなく、むしろこのKGBの上官が関係することで、クライマックスのテリッリ邸での銃撃戦へとなだれ込むのだから、フリーマントルのストーリーテリングの上手さには改めて感服した。
そして結局本作では活躍しなかった潜行工作員(スリーパー)のジョン・ウィリアムスン。ただのアメリカ人としか見えないこのKGB工作員のその後も大いに気になるところである。

ソ連のカレーニン、ベレンコフ、そしてかつての上司の息子であり友人であるルウパート・ウィロビーに加え、彼の妻クラリッサとこのウィリアムスン。どんどんシリーズの世界が広がっていく。今後のシリーズの行く末が非常に愉しみだ。


罠にかけられた男 (新潮文庫)
No.83:
(8pt)

24時間戦うビジネスマン

フリーマントルの手による経済小説である本書は、従来、彼の得意とするエスピオナージュの手法を存分に取り入れており、主人公である多国籍企業の会長を縦横無尽に世界中を駆け巡らせ、丁々発止の駆け引きをさせる。
主人公のジェイムズ・コリントンは孤児院の出で、生まれながらにして勘が鋭く、英国国鉄のポーター、陸軍を経て、南アフリカに金鉱山を複数持つ巨大企業の会長の座へと着いたという正に絵に描いたようなアメリカン・ドリーム男である。

金を主に扱う南ア社が、独自に金の取引を出来ないというのがまず面白い。各鉱山は金を産出するが、その販売権は国である南アフリカ政府によって一手に任せられている。したがって取引先の新規開拓というのははっきり云ってタブーである。しかし、サウジアラビアがドルによる取引で石油を売っており、その売り上げが不安定なドルレートによって非常に左右されることに目を付け、相場の安定している金でエネルギー不足に悩む南アフリカと取引させようというのが大きな粗筋である。
しかし、石油と金という巨額の富を生み出す資源の世界的な取引が単純に二国間だけの話で済まされるものではなく、また米ドル為替の安定を目指して国際的信用を高くしようと企むアメリカも南アフリカの動きを察知して、南ア社の鉱山を襲撃して株の暴落を図ろうとする。そしてもう1つの大国ソ連は名目上の生産量を下回る金を何とか確保して、アメリカからの穀物の安定供給を図るため、これまた南アフリカの金に手を延ばす、といった風に非常に各国・各要人入り乱れて、物語は錯綜する。

おまけに南ア社内部ではアフリカーナの取締役とイギリス人の取締役たちとの間で確執があり、どうにかイギリス人の会長であるコリントンを失墜させようとする。
これらを一気に打破するために若き“会長”コリントンは不眠不休で世界中を駆け巡り、情報を収集し、状況を好転させるのだ。

いやあ、すごいね、この会長は。西へ東へ、北へ南へとよく飛び回るものだ。こんなに働くものかね、多国籍企業の会長というものは。
正直、読んでいる最中、このコリントンのあまりのスーパーマンぶりに失笑を禁じえなかったが、その辺はフリーマントル、危ういところで読者との距離感を埋めている。仕事はすごいが、女性と家庭には不器用な男という肖像をきちんと描いており、なかなかである。

今までのエスピオナージュ物では、組織の大ボスとそれに振り回される男の様相を描いていたのだが、今回は組織の大ボス同士の、一歩間違えれば破滅寸前の駆け引きを描いており、これが非常に面白かった。フリーマントルの、ディベート能力の高さに舌を巻いた。
また世界経済の情勢を知る上でも―'80年初頭というかなり古い時代ではあるが―かなりの情報が詰め込まれており、非常に勉強になった。
久々に面白い物語以上の物を得て、清々しい思いがした。

題名の『黄金(きん)をつくる男』というのは単純にコリントンが金鉱山の会長であることを現しているのではなく、現代の錬金術である株価の上昇、そして更なる世界資源の取引の開拓という多様な意味合いが込められている。
恐らくはこんな男はいないとは思うが、たまにはこういう男の話を読むのも一ビジネスマンとしてカンフル剤となっていいものだと思った次第だ。

黄金(キン)をつくる男 (新潮文庫)
No.82: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)
【ネタバレかも!?】 (1件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

今をときめく人気作家の瑞々しいデビュー作

私立清華女子高等学校の数学教師を務める前島は以前から何者かに命を狙われていた。電車のホームから突き落とされそうになったり、プールのシャワーで感電しそうになったり、そして更には外を歩いていると鉢植えが落ちてきたりと、その度合いはますますエスカレートする一方だった。
そんなある日、放課後に顧問であるアーチェリー部の部活が終わった際に教師の更衣室に戻ったところ、内側から突っかえ棒がしてあり、中に入れない状況になっていた。しかしそこには同僚の数学教師、村橋の死体があった。密室の中で村橋は青酸カリ中毒で死んでいた。
刑事が介入し、事件の捜査が進められるが、なかなか犯人が突き止められなかった。そんな中、ついに第2の殺人が起こる。体育祭という衆人環視の中で起きたそれは明らかに前島の身代りで殺されたとしか思えない状況だった。

東野圭吾氏のデビュー作にして乱歩賞受賞作品。私にとっても東野作品初体験である。
第1作にはその作者の全てが盛り込まれているというが、この瑞々しさや感傷的な文体は単に女子高を舞台にしただけに留まらず、この作者の特色と云えるだろう。

一読しての印象は、非常にバランスの取れた作品だという事。実に無駄がなく、力みすぎず、落ち着いており、淡々としているのだが、色々なエピソードが散りばめられていて飽きさせない。
事前に知っている作者の経歴から、この前島の人物像は作者の人と成りが色濃く反映されているのは間違いない。この作品を読むだけで東野氏に作家としての何かがあるのは十分に感じられ、今の活躍も納得の出来映えだ。

物語は女子高を舞台に2つ(3つ?)の殺人事件が語られる。そのうち最初の1つは密室殺人で、しかも2つの真相を用意しているという凝りよう。2番目の殺人は体育祭という衆人環視の状況下での殺人。特にこの殺人シーンへの持って行き方は読み進むに連れて不安が沸々と募り、淡々とした文体が却って凄みを増す。
この文体はその後の事件解明シーンにも十分な効果をもたらしており、ページを繰る手を止まらせなかった。

そして主人公を取り巻く登場人物も非常に印象的だ。教師仲間の村橋や藤本、キーパーソンとなる麻生恭子、そして生徒の高原陽子やケイこと杉田恵子、剣道部主将の北条雅美などキャラクターの描き分けが非常に上手く、混同する事が無かった。前にも述べたが、彼らと主人公前島とのエピソードが非常に効果を上げている。
これらが学校という特殊な閉鎖空間で繰り広げられるその独特の雰囲気を実によく醸し出していると感心した。体育祭の準備風景、体育祭の生徒たちの躍動感、放課後の部活の雰囲気など、教師でない私がもはや二度と体験できない空気を十二分に堪能させてくれた。そして、主人公の口から語られる学生にとって憎悪の対象となるきっかけについての説明は、正に的を射ており、郷愁をそそられた。

とまあ、賞賛の言葉ばかりだが、やはり今の時代ではちょっと古めかしさを感じずにはいられない。これは仕方の無い事なのだが、殺人の動機となったエピソードを含め、それぞれの真相―詳しくはネタバレにて―は全てが多様化した今(正確には“乱れた”今)、珍しい物ではなく、衝撃の度合いは低くなっている。
この前に読んだクーンツの言葉を借りるならば、狂乱の90年代を経た現在では当たり前のようになっているのだ。これを減点の対象にするのはアンフェアかもしれないが、読後のカタルシスという点で見ればどうしても落ちてしまう。

あと、やはり主人公前島が妻に堕胎を促すシーン。かなりの時代錯誤感覚を覚えた。低収入が理由とは云え、教師がああいうことを云うだろうか?
これは最後に繋がる重要なエピソードなのだが、どうも腑に落ちない。ラストシーンは納得できる。しかしそこへ繋がるキーパーツに粗雑さを感じてしまった。

色々書いてきたが、本作が水準以上の作品であるのは間違いない。
2005年に直木賞を獲って以来、ますます勢いに乗る東野圭吾の作品をこれからどんどん読んでいくのが非常に楽しみだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
放課後 (講談社文庫)
東野圭吾放課後 についてのレビュー