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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数902

全902件 461~480 24/46ページ

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No.442:
(7pt)

一皮むけたシェッツィング

『深海のYrr』でミステリ界の話題を攫ったフランク・シェッツィングは第1作は歴史サスペンス、2作目はコージー・ミステリと作風をガラリと変えてきたが、邦訳最新作で実質3作目となる本書は女探偵を主人公にした正々堂々たるミステリ。湾岸戦争の怨念の正体を追う探偵物にして、本格ミステリ風のサプライズまで備えた作品となっている。

ケルンで起きた拷問の末の殺人事件が91年に起きた湾岸戦争で仲間に置き去りにされたスナイパーの復讐劇の始まりのように思わされる導入部。これに纏わって当初は謎めいた捜索願が女探偵の許へ依頼されるという形を取っている。
しかしこの謎は上巻の220ページ弱のあたりで早々に明かされる。

しかし冒頭のプロローグから連想されるプロットに反して、ヴェーラの捜査が進むに連れて、登場人物はどんどん増えていく。お宝に関わった3人以外にも外人部隊、それもZEROと呼ばれる精鋭たちで構成された部隊に所属していた戦争の亡霊たちが次々と事件に関わっていく。

そして復讐者と思われたマーマンも実は湾岸戦争時代の類い稀なる残忍さと拷問の技量を備えたイェンス・ルーボルトの標的である事が解り、物語は混迷を極める。

その混迷は下巻の242ページでようやくすっと霧が晴れるように消失する。

そして本書ではプロットのみではなく、登場人物の描写力も格段に良くなっている。今までは平板でプロトタイプ的な登場人物ばかりで、物語が上滑りしているように感じられたのがシェッツィングの欠点であったが、本書では登場人物の過去が因果となる性格形成をプロファイリングで説明するという手法を取っているからだろうか、なかなか厚みがあった。

ヴェーラの依頼人バトゲはヴェーラのガードを解きほぐす魅力を備えており、また謎めいた物腰がなかなか興味をそそる。

そして災厄の根源ルーボルトも怪物として描かれているが、単純に人智の及ばない怪人物として描かず、彼がなぜ怪物となったのかを生い立ちから語ることで、創造上の人物からどこか現実的にいる人物に感じられるようになっている。

その中でもやはり最も印象に残る人物は主人公である女探偵ヴェーラ・ジェミニだろう。最初はコンピュータに精通した、活きのいい気の強い女性と典型的な女探偵像で語られ、実に画一的な印象を受けたが、下巻、依頼人のバトゲにとうとう身体を許すようになって回想される彼女の結婚生活の失敗のエピソードで彼女の人物像に厚みが出てくる。
かつて同じ警察の鑑識員として働いていた元夫カールと離婚に至るまでに受けた彼女の肉体的、精神的苦痛と残る傷痕。そこで吐露されるヴェーラの男性観がなかなかに鋭く、身につまされる点もあった。カールの、男が社会で気を張って頑張らざるを得ないがために陥った自我の崩壊が理解できるだけに痛い。このエピソードでヴェーラの貌がようやく見えた。

さらに個人的にはほんの少ししか登場しなかったが軍隊時代のルーボルトの上官であったシュテファン・ハルムが印象に残った。こういう端役の人物に深みを感じるようなことは今まで彼の作品を読んで、初めてのことだ。

しかしそれに反して警察の面々は戯画化されたように書かれている。この凄惨な事件を任されたメネメンチやその部下クランツのやり取りは、残忍な事件を語る物語に挟まれる笑劇のようである。特にメネメンチは独身である事を実に悔やんでおり、前回読んだキュッパーもまた長く付き合っていた恋人との別れに愚痴を連ねていた。
シェッツィングはどうも警察官を女々しい人物と描く傾向があるようだ。それは権威的存在である警察官を読者のレベルまで引き下げる事で親しみを持ったキャラクターにしているのかもしれないし、黄金期の作家たちがよくやっていたように、権威を貶める事で読者の溜飲を下げているのかもしれない。

そうそうキュッパーと云えば、本作でカメオ出演しており、プロファイリングを披露する。『グルメ警部キュッパー』を読んだ時はそんなことしたかいな?と首を傾げるような感じではあるのだが、ケルンを舞台にして作品を著す著者にしてみればやはり警察に所属するこの2人が面識がないというのもおかしな物だと思ったのかもしれない。

本書の登場人物に共通するのは自らの存在意義への問い掛けだ。
自分が自分であることはどうやって証明できるのか?
また自分はどこから来て、どこへ行くのか?
誰かに見ていられることで自分は存在するのではないか?
そういう問い掛けを登場人物は行う。夫の暴力を克服して獲得した自分という物は果たして誰かに必要とされるのかと疑問視し、人に愛される事で自らが存在する事を解りながら、過去の結婚の過ちがトラウマとなり、一歩踏み出せない主人公ヴェーラを筆頭に、厳格な父親に育てられる事で、自分が幼少の頃にされた仕打ちを部下に強いる事で父親の翳を克服しようとするルーボルト、名前を変え、異国に隠れてルーボルトという驚異に怯えて暮し、あえて自らの存在を殺そうと務めるマーマン。現実世界に愛想を尽かし、仮想空間に真実を求めるマーマンの妹ニコラ、などなど。
最後にルーボルトが演説する、メディアに見られてこそ、事件は事件となり、存在は存在として認識されるという言葉は、名前ではなく、エンジニア、運転手、スナイパーと役職だけで語られるプロローグの匿名性を示唆しているようで興味深い。

匿名性と存在に対する他者の認識、そして人ならば必ず抱える自らの存在意義など、本書の主題とこれらのテーマが結び付いて、前作、前々作よりも明らかに出来映えが増している。

本書の後に1作挟んで発表されたのが『深海のYrr』である。ますます期待感が高まる。

しかしやはりこの邦題はどうにかならないだろうか?宣伝効果を煽るために「ゲシュペンスト」なる聞き慣れないドイツ語(「亡霊」という意味らしい)を冠するのはなんともダサい。
逆にドイツ語を知る人はそれほどいないのだから、自由に邦題を付けられるのだから、それを利点にしてもっとしびれるような邦題をつけてほしいものだ。


▼以下、ネタバレ感想
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砂漠のゲシュペンスト〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)
No.441: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

高校生が読む初めてのミステリとして最適

晴れて浪速大学に合格し、念願のミステリ研に入った吉野桜子とミス研の面々、黒田、清水、若尾ら3先輩が遭遇する日常の謎系ミステリ短編集。

「消えた指輪(ミッシング・リング)」は浪速大学ミス研の面々が合宿先のセミナーハウスにて入浴中に密室状態の脱衣所で起こった財布と指輪の盗難事件の謎を解くという物。
正に軽いジャブのような作品。事件はあまりに単純で犯人も容易に解る。工夫がなされているのは指輪の隠し場所と犯人の動機だろうか。日常の謎系ミステリを作るために少しばかり無理を感じさせる謎である。

表題作はこの短編集を貫く1本の軸のような物語。桜子の大叔父の暗号で書かれた遺言状をミス研の面々が解き明かそうとチャレンジする。しかしこれは発端に過ぎなく、この遺言状の謎を巡って桜子はある決意をする。

インタールード的な作品となろうか、その間に挟まれる2編は実に軽いミステリ。
まずその1編「『無理』な事件」は関西ミステリ連盟交流会、略して関ミス連のイベントでミステリ作家大槻忍先生を招いてのトークショーで起きた、睡眠薬入り緑茶事件を浪速大学ミス研の諸氏が推理する話。
もう1編「忘レナイデ・・・・・・」は小学校の時に転校で別れ別れになった男の子から届いた十年以上も前の暑中見舞い。しかし相手はつい最近交通事故で亡くなっていたという謎を扱う。
1枚の葉書きから男女の三角関係に潜む複雑な心情を推理する本編はどこかケメルマンの「九マイルには遠すぎる」を髣髴させる。
そして物語は再び表題作によって閉じられる。

光原百合氏が創元推理文庫で出版した文庫オリジナルの連作短編集。
彼女の実質的なデビューは東京創元社から単行本の版型で出版された『時計を忘れて森へ行こう』だった。しかしその前に彼女は光文社が主催する鮎川哲也が審査員を務める『本格推理』シリーズに投稿をしており、実際に作品が掲載された。本書にはそのシリーズに掲載された作品(「消えた指輪」)も挟まれている。そして投稿時のペンネームが本書で主人公ならびに語り手を務める吉野桜子でもあった。

浪速大学ミステリ研究会に所属する吉野桜子が出くわすちょっとした謎をミステリ研究会の面々が解決するというスタイルで語られているが、そのメンバーの個性が類型的過ぎて、なんとも少女マンガ的だなぁと苦笑してしまった。

よく似ているなぁと思ったのは田中芳樹氏の『創竜伝』シリーズの主役、竜堂4兄弟である。
例えば黒田はやんちゃな終であり、清水はおっとり型の余、そして若尾は毒舌家の続と家長の始以外、非常に似通ったキャラクター設定である。

ミステリとしての出来映えは中の下ぐらいか。どれもが見え見えの内容で、解けない謎でも真相は想像の範疇、つまり読み手が予想していた選択肢の中に納まっている物である。

しかしこの連作短編集はミステリそのものとして読むよりも語り手の吉野桜子のある成長物語と読むのが正しいだろう。日常の謎系ミステリの先駆者である北村薫氏が描く主人公「私」も確かに物語を重ねるにつれ、純粋な文学少女から大人の女性への階段を上っていく味わいがあるが、それは彼女が出くわす事件を通じて、大人の世界を知っていくといったもので、これといった主軸があるわけではない。
しかし本書では大学受験に合格し、憧れのミステリ研究会へ入会した吉野桜子が本書の表題作に登場するミステリ好きの大叔父との「遠い約束」、大人になったら大叔父と2人でコンビを組んでミステリ作家になる約束のため、いつか作家となる夢に向かう姿が描かれている。自分の身の回りの小さな宇宙を通じて作家になることへの覚悟を固めていく姿が背景になっている。

この吉野桜子が前にも述べたようにかつての光原氏のペンネームであったことから解るように、作者自身を投影した人物であるのは想像に難くない。従ってその文章からは自身がようやく憧れのミステリ作家になれた歓びが満ち溢れているのだが、いささかはしゃぎすぎて苦笑を禁じえないのも確か。
一人称叙述で語られる地の文はライトノベル好きの文学少女が書きがちな、ユーモアと皮肉に溢れており、悪く云えば悪ふざけが過ぎるように感じる。高校生の時に読めば、この手のミステリ愛好者をくすぐるような、ところどころに挟まれる古典ミステリへのオマージュや固有名詞にはニヤリとさせられるのだが、やはり40代の身には、白けて映ってしまう。

しかしそれらはやはりこの光原百合という作家が抱くミステリへの愛の深さゆえの発露であることがひしひしと伝わってくる。読み手から書き手へと脱皮したい衝動を主人公吉野桜子に存分に投影しているし、とりわけラストの大叔父の手紙ではミステリを愛する者が必ず抱く思いが綴られていて、胸を打つ。

こういうのにやっぱり弱いんだな、私は。
斜に構えて評価しようとも思ったが、それはやはりこの作家に対して失礼だと感じた。ミステリを愛する人、特に高校生に読んで欲しい作品だ。


▼以下、ネタバレ感想
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遠い約束 (創元推理文庫)
光原百合遠い約束 についてのレビュー
No.440: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

最初から結末が見えているのに読ませる

切ない。なんとも切ない物語だ。

脳を移植された男が次第に移植された脳に支配され、性格を変貌させていく。

プロットを説明するとたったこの一行で済んでしまうシンプルさだ。しかしこのシンプルさが実に読ませる。
この魅力的なワンアイデアの勝利もあるだろうが、やはり名手東野氏のストーリーテラーの巧さあっての面白さであろう。

実はこの作品にはかつて別の形で接していた。
それはこの作品の漫画化作品で確かヤングサンデーで『HEADS』という題名で連載されていた。作者は『イキガミ』でも名を馳せている間瀬元朗氏。
当時私は東野作品を読むことは全く考えていなかったのですぐに読んだが、脳移植手術を施された主人公が徐々に自分らしさを失っていく当惑と恐怖が次回への牽引力となっていたのをよく覚えている。そしてその作品がきっかけで間瀬氏の作品を読むようにもなった。

しかし幸いにして当時の私はどんな理由だったか解らないが、その漫画を最後まで読むことはなかった。従って結末は知らないままなので、初読のように読めた。また各登場人物のイメージが『HEADS』で描かれた人物像だったのは云うまでも無い。

人の臓器を移植された時点で人はもうその人そのものでなくなってしまう、そんな感慨を抱く人もいるようだ。
そして本書は臓器の中でも人格を形成する脳を移植されるわけだから、アイデンティティに揺るぎが出てくるのは必然だろう。

21世紀になって18年経つ現在、本書に書かれているような脳移植手術は実現していない。現在から遡る事28年前に発表された本書は、脳移植がアンタッチャブルな領域である事をひしひしと感じさせ、その恐ろしさをじわりじわりと感じさせる。
しかし作者は別に警鐘を鳴らしているのではない。本作の前に書かれた『宿命』では脳を対象にした人体実験が物語の隠し味として扱われていたが、本書ではそれを前面に押し出して実験体となった男の行く末を一人称で語っていく。
つまり脳、そしてそれによって形成される自分という物の正体を脳移植というモチーフを使って探求しているようだ。

確かに科学的根拠としてこんな事が起きるのかという疑問はあるだろう。出来すぎな漫画のようなプロットだと思うかもしれない。
しかしそんな猜疑心を持たずに本書に当って欲しい。

90年代に自分探しというのがちょっとしたブームとなった。
自分は一体何者でどこから来たのかというルーツを探る、一人旅をして裸の自分と向き合う、そんな風潮が小説はもとより映画やあらゆるメディアで用いられた。この作品はそんな自分探し作品の変奏曲だ。
失われつつある自分を必死に引きとめようとすることで他者を意識し、自分という存在を意識する。脳移植をモチーフに変身していく男の苦悩と恐怖を描く事で凡百の自分探し作品に落ち着かない作品を描く東野氏。さすがである。

自己のアイデンティティへの問い掛けから最後は人生について考えさせられる本書。
物語の閉じられ方がそれまでの過程に比べ、拙速すぎた感が否めないが、ワンアイデアをここまで胸を打つ物語に結実させる東野の物語巧者ぶりに改めて畏れ入った。


▼以下、ネタバレ感想
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変身 (講談社文庫)
東野圭吾変身 についてのレビュー
No.439:
(7pt)

急転直下のどんでん返しに戸惑い中

久々のチャーリー・マフィンシリーズ。前作『城壁に手をかけた男』でナターリヤとの結婚生活に終止符を打ったチャーリーがまたまたロシアを舞台に暗躍する。

騙し騙され、嵌め嵌められ。全く諜報活動の世界とは何が真実で何が虚構なのか全く予断を許さない。
最後まで読んだ今はそんな思いでいっぱいだ。

今までと一味違うと思ったのはチャーリーが嵌められて、いいようにあしらわれることだ。大使館内のスパイ潜入疑惑の捜査の一環としてチャーリーそのものが嘘発見器にかけられ、危うくナターリヤとの生活がばれてしまうのではないかと恐れを抱く。

また記者会見を開く直前にロシア民警捜査官で、チャーリーの協力者であるパヴロフの部屋に招かれた際の一部始終をVTRに撮られ、全国ニュースにその内容がロシア側に同情を誘うように編集され、世界中の笑い者になるなど、今までのチャーリーに比べるといささか精細さを欠く。
文中で時折挟まれる自身の技能の衰えの有無に関する独白から推定すると、本作では現場を離れた超一流スパイのブランクを描く事が1つの目的であったのではないだろうか。

例えば『待たれていた男』や『城壁に手をかけた男』などは身元不明の死体の正体捜しや暗殺の模様が映された映像の分析や容疑者の尋問など、謎の核心にチャーリーが関係する諸外国の機関との軋轢を乗り越えながら迫っていくものだったが、本作では身元不明の片腕の男の死体があるにもかかわらず、その身元を探るところから始まるのではなく、この死体が英国大使館内で殺されたか否かにまず腐心する。
まあ、大使館内で死体が発見されるというシチュエーションだからこの手続きは定石なのだろうが、どうにか探りを入れて事件に介入しようとするロシア側と事なかれ主義を貫こうとする大使館の面々からの妨害や横やりへ対処することばかりが語られ、一向に被害者の正体探し、犯人探しへ進まない。

まあ、これらはいわゆる役所仕事と揶揄されるずさんな仕事ぶりや1つのことにいろんな部署が介在してたらい回しにされるところも想起させられるのが面白いところではあるのだが、それでも謎解きの牽引力よりも状況の打開策に苦心する姿と、再会したナターリヤとの関係修復に苦悶する姿の繰り返しなのはちょっと引き延ばしているのでは?と上巻を読んでいるときは感じてしまった。

今回の話は物語の冒頭に引用されている2006年に起きた元KGBのアレクサンドル・リトヴィネンコをロンドンで暗殺した容疑者アンドレイ・ルゴヴォイ引渡しを当時のロシア大統領プーチンが拒否した事件をモチーフにしている。グラスノスチ以後、ペレストロイカで資本主義社会にシフトしていったロシアが今なお社会主義的秘密主義に覆われている事を世界に知らしめた事件だ。
フリーマントルはここにエスピオナージュの鉱床を見つけ、更にロシアの暗部と畏怖を掘り下げようとしている。その好敵手として選んだのがロシアで長年海千山千の強者どもを出し抜き、危機を脱して生き残ってきたチャーリー・マフィンだ。

しかしこの引用ですら、実はフリーマントルによるミスディレクションだった事に最後になって気付かされるのである。これについてはネタバレで述べよう。

しかし本当にこのシリーズは一流のエスピオナージュ小説でありながら世のサラリーマンの共感を得る、中間管理職の苦労を痛感させられる作りになっているのが面白い。
例えばチャーリーが派遣されるロシアの英国大使館の警備責任者を含む面々は、歴代の駐在員たちから見れば、信じられないほど楽天的で牧歌的な雰囲気を纏った人物ばかりだ。かつてのロシア駐在員たちはいつ謂れのない理由で民警に逮捕され、監禁されて拷問を受ける恐怖が常に付き纏っていたのに、彼らは壊れた監視カメラの修理でロシア人を何の疑問もなく大使館内に入れ、おまけに再び壊れた監視カメラを直さずに何日も放置しているという体たらくだ。しかもその行為に誰も疑問や危機感を感じない鈍感さも伴っている。しかもチャーリーは派閥争いで劣勢に立っている現部長の地位堅守のため、どうしてもこの事件を解決しなければならないのだ。

これをサラリーマンに照らし合わせると、万年赤字を抱えている地方支店に配属され、そのあまりにひどい現状に幻滅する姿が目に浮かぶではないか。派閥争いに巻き込まれるあたりはもうサラリーマンの苦悩そのままである。

そしてそんなチャーリーが最後の最後に誰もが信じて疑わなかった真実から開眼し、事件の裏に隠された真実を突き止める。

訳者あとがきによれば本作は新たな3部作の第1作目であるとのこと。恐らくチャーリーとナターリヤの関係もこの3部作で結着が着くことだろう。即ちようやくフリーマントルは長きに渡ったチャーリー・マフィンシリーズに終止符を打とうとしているのだ。
本書の評価は上に書いたとおり、個人的には全面的に受け入れ難いため、7ツ星評価に落ち着いたが、三部作の最後を読んだ後ではまた変わるかもしれない。
とにかくフリーマントルのライフワークとも云えるこのシリーズの恐らく掉尾を飾る三部作の最終作を愉しみにしよう。


▼以下、ネタバレ感想
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片腕をなくした男〈上〉 (新潮文庫)
No.438:
(7pt)

取材経費削減対策?

海外を舞台にすることが多かった薬師寺涼子シリーズだが、本書では前作に引き続き日本の避暑地軽井沢が舞台となっている。不況による取材費の引き締めか。
いや下衆の勘ぐりはよそう。

今までのシリーズ同様、ドラ避けお涼こと薬師寺涼子の自由奔放、傍若無人ぶりは健在で今回も権力の壁を乗越えて、カツカツとハイヒールの音高らかに闊歩する。

今回の敵はアメリカの食品業界を牛耳るUFAのオーナーである女性大富豪マイラ・ロートリッジ。不老不死を夢見るこの女帝は実の娘を若返り用クローンとして育てているというのが今回の趣向。
この自らの延命のためにクローンを育てる金持ちというテーマは21世紀になって数多書かれた物で、内容的には驚きはもたらさない。このシリーズはアイデアの斬新さを求めるのではなく、色んな敵に薬師寺涼子がいかに勝利するか、そのプロセスを愉しむべきだろう。

しかしこのシリーズに放り込むオタク度、マニア度の高いカテゴリーの豊富な事。コスプレ、メイド、女装趣味と現代日本の歪んだ多様性、いわゆる萌え要素があらゆる限り反映されている。
そしてそれらに没入する社会的地位の人間が警察や官僚の高官だったり、医者だったり、実業家だったりとかなり高い地位の人々であるのが皮肉か。ストレス社会と云われる日本の現在を田中氏なりに毒を込めて盛り込んでいるのだろうか。

で、今回いつもにも増して気付かされるのが薬師寺涼子の部下泉田警部補に対する愛情だ。
今までは単純に独善的に泉田を引っ張りまわし引き連れていた感があるが、今回は泉田と共有する時間を敢えて取ったり―冒頭の軽井沢へ向かう列車にわざわざ乗り合わせる―、泉田に女性としての自分を売ったりー交通事故に遭った泉田に食事を手ずから食べさせる―する。
シリーズも7作目になってようやく単なる師従の関係から進展してきた感がある。まあこれは鈍感な私が今までの作品でそれに気付かなかったところもあるかもしれないが。
しかし無敵の美貌を誇る薬師寺涼子はある意味究極のツンデレだ(これももはや死語か)。

とはいえ、やはり読みやすいが故に1ヵ月後には忘れてしまいそうなお話ではある。まあ、嫌いではないので次巻が出たら買うだろうけど。



▼以下、ネタバレ感想
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霧の訪問者 薬師寺涼子の怪奇事件簿 (講談社文庫)
No.437: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

ある有名な古典作品を想起させる佳作

いまや本家北村薫と双璧を成す日常の謎系ミステリ作家の地位を確立した加納朋子の鮎川哲也短編賞受賞作を含むデビュー短編集。
本書は児童書「ななつのこ」を読んだ主人公入江駒子が作者にファンレターを送った事をきっかけに、同書に収録されているお話に準えて彼女が出逢ったちょっと不思議な体験について作者の佐伯綾乃に手紙を書き、その返事によって謎が解かれるという体裁を取っている。

まず「スイカジュースの涙」は駒子がある早朝に短大へ通っている時に遭遇した点々と続く血痕の謎について語った物。
散りばめられた事実は雄弁すぎるほどに血痕に隠された事件について語っているため、謎の難度は比較的軽い。作者の世界観と物語の構成に関して紹介を行った軽いジャブといった作品だ。

続く「モヤイの鼠」は渋谷を舞台にしたある奇妙な出来事の話。
題名にあるモヤイ像に群がる鼠たちは果てしてこの物語に何をもたらしているのだろう?
しかし渋谷駅は通勤の乗換駅なのでよく行くため、書かれている情景がすぐに解った。こういうのを読むとやっぱりミステリ含め、小説というのは東京ありきなのだなと思う。

「一枚の写真」はある日長年空白だったアルバムの、駒子が3歳前後だった頃の写真が19歳の今頃になって友人から返される理由を推理する。
本格ミステリの賞だということを勘案すればもっといい短編になっていたに違いない。

「バス・ストップで」の謎は自動車教習所に通いだした駒子が遭遇した老婦人と少女の奇妙な行動について。
しかし本作はそんな謎よりも駒子のロマンス相手となりそうなバス停で出逢った男性の出逢いに集約される。バス停でバスを待っている間という場面に加え、突然雨が降り出して傘が必要だと思い、相手に傘を差し出すシチュエーションなど、状況的にかなりベタなのが惜しいところだ。70~80年代の出逢いのシーンといいたいくらい古めかしい。

「一万二千年後のヴェガ」では再びバス停で出逢った青年と駒子が再会する。
「バス・ストップで」で出逢った瀬尾と再会するという、本短編集にロマンス風味が加わってきた作品。従ってメインの謎であるブロントサウルスの移動よりもやはり瀬尾と駒子との触れ合いが物語の主旋律となっている。

本書の中でもとりわけ文学色が強いのが「白いタンポポ」。
謎としては少女がなぜタンポポを白く塗るのかということになるが、それが前面に押し出されているかと云われればそうではなく、やはり主題は真雪と駒子の交流だろう。自分にも同年代の子供がいるせいか解らないが、こういうホッコリするような話が最近特に印象に残る。

そして本書の締めとなるのが表題作「ななつのこ」だ。
連作作品を締めくくるだけあって、それまでの関係者が一同に会し、そしてまた全体の謎が解かれる。
謎は歯医者で治療中の時は2鉢だったペチュニアが、1階の喫茶店から見上げると4鉢に増えているという物と、プラネタリウムの最中に少女真雪が失踪してしまうことだろう。どれも謎の妙味としては実に希薄だが、物語性は逆に濃い。また題名に示されているように「7」に拘ったモチーフがそここにあしらわれている。プレアデス星団、通称昴の第7の星に関するエピソードや7歳の真雪。七話目というのも隠れた7だろう。

北村薫に端を発する日常の謎系ミステリの新たな書き手の誕生と騒がれた加納氏だが、本書に収められた作品は読み進めるにつれて謎のスケールが小さく萎んでいっているように感じた。いや正しく表現するならば、日常の謎よりも駒子を取巻く人物達の物語を描く事に力点がシフトしていったように感じた。

その転換点となるのが、キーパーソンである瀬尾が登場する「バス・ストップで」からだろう。この瀬尾という存在が短大の友人達とで構成されていた駒子の世界が外側へと広がり、他者との関係性が深化していく。

オリジナリティ感じる点はやはり作中作である児童書「ななつのこ」のお話に擬えた駒子が体験する日常の不思議という設定だろう。どちらがニワトリでどちらがヒヨコか解らないが、よくだれずに最後まで貫き通したものだ。

ミステリという視点から論じれば各短編での謎よりもやはり作品全てに共通する児童書「ななつのこ」の作者佐伯綾乃の謎こそがこの短編集で語りたかった謎だ。

先に述べたように鮎川哲也賞受賞作として捉えるならば、首を傾げざるを得ないほどミステリ色は希薄だが、ここはいまどき珍しい純粋かつ甘酸っぱい物語と行間から感じ取れる作者が本作に込めた想いに素直に賞賛を贈って、8ツ星としよう。


▼以下、ネタバレ感想
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ななつのこ (創元推理文庫)
加納朋子ななつのこ についてのレビュー
No.436:
(7pt)

1作目の反動?

今回オッドが対峙する敵はダチュラという名のテレフォンセックス業者。彼女は超常現象マニアでとりわけ幽霊を見る事を切望している。それも連続殺人鬼が殺した犠牲者だったり、性倒錯者の霊だったりと、筋金入りの変態だ。
そして彼女はテレフォンセックス相手でオッドの友人ダニーから幽霊を見ることが出来るオッドの話を聞いてオッドを捕まえ、その能力を取り込もうとダニーを誘拐したのだ。

オッドを殺し、その血肉を得ることで自ら霊視能力者になるという妄想を抱いたダチュラは、なんだかコミック物の悪役そのものである。どうやらクーンツは初のシリーズでアメコミ物に挑戦しているように思える。

そもそも女性の悪役という事自体、クーンツ作品では珍しい。パッと今思いつくのは『対決の刻』に出てくるシンセミーリャ&プレストン・マドック夫妻ぐらいだ。しかもそちらは夫妻であるから共犯だ。

オッドが捜している人や物に引き寄せられるように目的へ達するシックス・センスを持っているのも大きな特徴だが、今回はその能力を逆手に取ってスリリングを増しているのが素晴らしい。

即ちダチュラもまた軽い霊感を備えており、従ってこの能力ゆえにお互いのシックス・センス(ダチュラ曰く、「霊的磁力」)が惹かれ合って、好むと好まざるとに関わらず、出遭ってしまう。つまりオッドは犯罪者の追跡の手から逃れようと思っても、自然に出遭ってしまうのだ。この辺は実に上手い。

また今回オッドは前作で起きたショッピングモール内でのテロ事件を防いだ英雄としてピコ・ムンドではその名を知られるようになっていることが前作と違うところだろう。
従って彼の平穏な生活はいささか破られ、ピコ・ムンド・グリルでの仕事もままならない状態だ。またオッド自身は逆にあの惨劇で救えなかった人々に対して自責の念を抱き、更に失った恋人ストーミーの思い出に引きづられてもいる。

そんな中で起きるのが親友ダニーの誘拐事件。養父のジェサップ医師の幽霊がオッドの許へ現れることを皮切りにオッドは否応なくダニーの捜索に関わっていく。
しかもオッドはモールのテロ事件の傷心を癒すために手記を残している時期にダニーが1年前に癌で亡くした母親への哀しみを癒す手助けが出来なかったことが今回の事件を招いたのだとまで自戒する。

とにかく全編自虐的なまでのオッドの自戒の念に覆われている。

それ故、最後に至ったオッドの選択はなかなかに興味深い。

第2作目となる本作は1作目、いや通常のクーンツ作品と違って冒頭のスペクタクルというのがない。
いや知り合いのジェサップ医師の殺害事件というのがあったが、この話はダニー誘拐事件のきっかけとなる事件だったから純粋に1つの事件のみを語った作品だ。そういう意味ではやはり1作目と比べると落ちるか。

まあ、1作目の瀬名氏の解説によれば、シリーズの中でもこの2作目はそれほど評価が高い作品ではないとのこと。
ならば次作への期待はいつになく高まるものだ。一刻も早く訳出される事を期待しよう。


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オッド・トーマスの受難 (ハヤカワ文庫 NV )
No.435: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

野心的な作者の新たな小説形式への意欲を買う

本来であれば本書は中編集というべきだろう。表題作の誘拐事件を扱った「帝都衛星軌道」と亡くなった詐欺師との回想に浸るホームレスの男の独白ような「ジャングルの虫たち」という2つの作品が収録されているからだ。

しかし通常の中編集と違うのは、前者の表題作が前後編に別れ、しかも前編と後編の間にもう1つの中編「ジャングルの虫たち」が挿入されるという、極めて特異な特徴を持っていることだ。

ノンシリーズである本書には島田氏のシリーズキャラクターは出ないものの、警察の実捜査を噛み砕いた内容や、詐欺師のありとあらゆる詐欺の手口を会話調で説明する語り口は非常に読みやすく、相変わらずのリーダビリティを誇る。登場人物の仕草や台詞や地の文に織り込まれる心情など、その登場人物の生活レベルに根ざした言葉が選ばれているようで、血が通っているように感じる。
年齢を重ねるごとにその筆致は練達の域に達しているようだ。特に飾り気のある文章ではないが、その人と成りがすっと頭に入っていく自然さを持っている。

そして表題作の後編で立ち昇るのは島田氏のライフワークとも云うべき、冤罪事件と日本の都市論だ。

そして東京の地下鉄はかつて戦時中などに作られた無数の地下経路を結んで作られているという事実。だから東京の地下鉄路線は歪な形をしているのだと島田氏は述べる。私も東京に来て通勤に地下鉄を利用することになり、路線図を眺めて思ったのはなんともおかしなルートをしているなぁということだった。この素朴な疑問に1つの回答が得られた思いがした。

ただ途切れないトランシーヴァーの真相はあまり驚愕を抱かない。
山手線に乗る美砂子との通信が途切れない謎の真相はなるほどとは思った。

しかし2番目の被害者の紺野貞三のマンションへの連絡方法に関する真相はいささか残念な思いがした。
21世紀に生み出された島田作品にはこういうある特殊な知識を持っていないと解けない謎が多いように気がする。この是非については既に述べているのでここでは語らないが、とにかく読者との知的ゲームという観点での本格ミステリであればアンフェアであると認めざると得ない。ただ新たな知識を得るという観点での本格ミステリであれば、肯定も出来るだろう。

また中間に挟まれる中編「ジャングルの虫たち」はミステリではなく、一種のファンタジーともいえるだろう。
表題作の後編を読むとこの中編が後編を補完するような役割を果たしているのが解る。しかし非常にそれとなく書かれているので上のようにある関係性を持っているとも書けるし、全く独立した2編でなぜ表題作の前後編の間に挟んでいたのかが解らない読者もいることだろう。

私は本書を1つの新しい中編、いや長編の形の試みと評価する。成功しているか否かは別にしてやはりこの意欲は買いたい。
御年60を超える島田氏のアイデアを物にするストーリーとプロットを思いつく知性はまだ新しい本格の型を模索する貪欲さがあり、後続の本格ミステリ作家にはまだ負けないという気概さえ感じる。もっと後輩作家、特に新本格作家連中は島田氏を見習ってほしいものだ。


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帝都衛星軌道 (講談社文庫)
島田荘司帝都衛星軌道 についてのレビュー
No.434:
(7pt)

思春期「あるある」満載

現在、ジャンルを問わず、日本のミステリ・エンタテインメントシーンで毎年精力的に作品を発表し、女流作家としての地位を確立した恩田陸氏。その最初期の作品が本書で、私にとって初恩田体験となった。

一読して上手いと思うのは、誰もが経験した庶民的な風景を映像的に、また世間話のような親しみやすさで語る、その文体にある。
本書の舞台となる谷津は、地方に住む人間なら誰もが持っている故郷の風景、つまりどこかで見たことのある田舎の街並みなのだ。このノスタルジックな高校生の時の心象風景を切り取ったような作品世界は、非常に取っ付きやすかった。

更に扱うテーマも非常に親近感を覚えるもので、いわゆる都市伝説的な学生間に広まる妙な噂やおまじないだ。
本題である5月17日にエンドウという生徒がUFOに攫われるといった噂から、金平糖をばら撒いて好きな人がそれを踏むと両思いとなって結ばれる、木の穴に願い事を録音したテープを入れておくとそれが正しいと見なされたら願いが叶うなどといった物。これらは誰もが学生時代に一度や二度経験した、信憑性もない言い伝えだ。
これらも含め、作品の舞台に横溢する風景や高校生の思春期に感じる想いなどは俗に云う読者の「あるある」感を引き出し、読者の共感を誘う。実際私もそう感じることがしばしばだった。

やがて物語はそういった地方都市のありがちな風景と高校生のありがちな生活から超常的な内容へとシフトしていく。その因子となるのがある能力を持った4人の高校生たちだ。その中の1人、地歴研のメンバーでもある一ノ瀬裕美は霊感の強い高校生として描かれているが、彼女には他の人が見えない物が見え、異質な物を「臭い」で感じる能力を持つ。そしてそれらが日常生活で見えないように自分に「わっか」を被せている。

そしてさらに他の丹野静、潮見忠彦・孝彦兄弟、そして藤田晋という能力者が出てくる。これらのキャラクターはその後恩田氏が書く常野物語という能力者の物語の原点なのだろう。いや、もしかしたら既にこのデビュー間もない本作で一連の構想があり、常野物語でも彼らの家族について触れられているのかもしれない。
とにかくこの頃から既に恩田氏は自身の作品世界を作ることを想定していたように思う。つまり本書には彼女の作家になりたい野心が込められていると云えるだろう。

そして彼ら彼女らが共有しているある世界、「あそこ」がある。そこは暗くて殺伐とした風景が広がっているだけのところなのに、何故か妙に落ち着く場所だ。
それは誰もが思春期の頃に抱く逃亡願望、つまり「ここではない何処か」なのだ。

現在膨大な著書がある恩田氏の作品群に本書の系譜に連なる作品が既にあるのか、寡聞にして知らないが、ここに出てきた谷津の人々、とりわけ主人公でもあるみのりのその後をまた見たいと思わせる、実に瑞々しい作品だ。


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球形の季節 (新潮文庫)
恩田陸球形の季節 についてのレビュー
No.433:
(7pt)

知識がリニューアルされる

今回は考古学の世界によくある事件(捏造)をテーマにした構成になっている。これは作中でも語られている実際の事件―ピルトダウン人事件―がモチーフになっているのだろう。

毎回新たな知識を提供してくれるこのシリーズだが、本書でもビックリするような話が続出する。その中でも最たるものはネアンデルタール人が90年代のDNA鑑定によって今の人類の祖先ではなかったということだろう。
私が高校生の時はクロマニョン人から一連の進化のプロセスに盛り込まれていた既成事実が最近の科学では全くひっくり返されてきている。特に恐竜に関しては私たちが子供の頃図鑑で見たそれと現代のそれらは全く趣きが異なっている。つまり考古学は今なお発展途上にあるということだ。
そして我々も子供の頃の知識のままでいるといつの間にか狂言回しのように見られてしまう。知識はやはりこのような書物を読むことでリニューアルされていかなければならないのだ。

さらにギデオンがこの講演会で開陳する知識とは人が二足歩行をするという進化のために出た弊害というもの。四足歩行よりも心臓の位置が高くなったため、静脈瘤が起きやすくなった、十分に足が進化しないうちに二足歩行に移った為、扁平足が生まれた、云々。
中でも最も蒙が啓かれる思いがしたのは直立する事で骨盤が狭まり、逆に頭蓋が発達した事で出産が困難になったということだ。21世紀になってもまだこのような人間の進化に歴史を探る事で新たな知見が得られる。確かに考古学は刺激的だ。

また旅行ガイド的な側面もこのシリーズの特徴で、例えばジブラルタルの空港の滑走路は町の幹線道路と交差しており、時たま車がエンストして飛行機が降りられなくなるなんていう珍事も本書を読まなければ知りえぬエピソードであっただろう。

しかし他方で本来ミステリとして添え物であるべきこれらの情報がシリーズを重ねる事で際立ち、逆に主題である殺人事件の発生が遅くなっているのもこのシリーズの悪い特徴であると云われ、それは間違いではない。
本書ではギデオンの殺人未遂的な事件は早めに起きるものの、殺人事件は174ページでようやく起きる。404ページに物語の最後が書かれているから、おおよそ約半分のあたりである。これはやはり遅すぎるといわざるを得ないだろう。

しかし今回は薄れつつあったミステリ的趣向が改めて見直されるような緻密な伏線に満ちた構成になっている。
前回の『密林の骨』でもアマゾン河という特異な場所を活かしたあるトリックが使われていたが、これはクイズの類いに過ぎず、児戯に等しい物であったから、本書における物語に散りばめられた風景描写と観光ガイド的土地情報が最後のある1つの単語に収斂していくことを考えると実に味わい深いものがある。

今回は実は事件自体が曖昧でミステリ興味が湧かなかったが、最後になってみると、この何かはっきりとはしないが確実に事件は起きている空気の中で見事もやもやとしていた雰囲気が一気に晴れていく妙味はセイヤーズの作品に通じる物があると感じた。

しかし今回はレギュラーメンバーのFBI捜査官ジョン・ロウが出なかったのが物語としての面白みを半減させていると思う。声を出して笑ってしまうほどのウィットがなかったし、ジョンの存在こそがエルキンズのウィットを最大限に引き出すファクターだから、やはり彼の欠場は痛い。
2009年の9月に本国で発表された次作にはジョンが出ていることを大いに期待したい。


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原始の骨(ハヤカワ・ミステリ文庫)
アーロン・エルキンズ原始の骨 についてのレビュー
No.432:
(7pt)

犬坊里美ってこんな娘だったっけ?

題名が表すように本書は『龍臥亭事件』で登場した美少女犬坊里美を主人公にしたスピンアウト作品だ。
当時一登場人物に過ぎなかった彼女がこのような1つの物語の主人公を任されるとは誰が想像しただろうか?

しかしこの物語の意図は明確だ。2009年から始まった裁判員制度について、一般の人に馴染みの薄い裁判という仕組みを解り易く噛み砕いて紹介する事だ。
そのために犬坊里美というキャラクターを弁護士の卵とし、その他司法に関わる法律家の卵たちを配して、裁判官、検察官、そして弁護士それぞれの立場と役割を述べていく。
このまだ詳細に知られていない裁判員制度はミステリ作家諸氏にとって新たな鉱脈であるようで、昨今では続々と同類のミステリ作品が発表されている。

しかし私は逆にこういう犯罪に関わる新たな制度を知らしめる事こそ、ミステリ作家の役割であると強く思っているから、このような働きは手放しで奨励したい。
また島田氏はLAに住んでいることもあり、アメリカの陪審員制度にも馴染んでいた事もあって、裁判員制度には早くから着目していた。確かエッセイで日本でも陪審員制度を導入すべきだとも述べていた。
また自ら冤罪事件にも積極的に関わっていたから、日本で犯罪が起き、容疑者が逮捕され、起訴され、法廷で争う一連のシステムには詳しかったはずだ。もしかしたら島田氏はいつかはこのような法廷ミステリを書きたかったのかもしれない。それが裁判員制度導入に伴って当初発表の2006年こそがその時だと決意したのではないだろうか。
2008年から2009年にかけて続々と同種の作品が刊行されたことを思えば、島田氏の先見性は瞠目に値する。

そして裁判に関わる事の意味が色々包含されてもいる。
例えば一度被疑者となった人が冤罪だったとしても、常日頃の素行が悪ければ無実を勝ち取っても社会生活の復帰は難しい故に、敢えて刑務所行きを選ぶ者。世間体を気にするが故に、嘘の証言をする者たち。法廷で犯行の詳細を理路整然と証明するために検察側が嘘でも無理のないストーリーを考え出す事。

それら歪んだ社会の構造、そして日本の弁護士が刑を軽減したいがためにこの手の司法取引に応じる事が逆に真犯人を世にのさばらされているのだと島田氏は登場人物の口を借りて糾弾する。これこそが本書で最も語りたかったテーマだろう。

ただ法曹関係者が本書を読んだ時にどう思うだろうか?メッセージは立派だが、修習生である里美が法廷で弁論を行ったり、最後のシーンの大団円など、夢物語のように思え、失笑を買うのではないだろうか。逆に云えば里美というキャラクター性からこのようなテイストを持ち込んだのかもしれないが、個人的にはいっぱしの法廷ミステリを期待していただけに何か物足りなさを感じる。

しかし本書における死体消失のトリックは前半にエピソードとしてさり気なく書かれた事が実は大いに関わってきて、なかなか面白かった。
やはり島田氏は普通の本格ミステリが合うのだ。

またよく云われる事なのだが、島田氏の描く女性キャラクターは女性から見ると男性が心に描く女性像であり、全く腑に落ちないらしい。
本作における犬坊里美の年齢は27歳であるが、これがとても年相応とは思えないほど落ち着きがなく、涙脆い。とにかく自分の無能さに絶望し、将来を悲観し、何かにつけて泣くのだ。これでは二十歳前後の女性だし、せめて24までというのが正直な思いだ。
また石岡との恋も20代後半の女性とは思えぬほどの純粋さである。横浜という大都市に住んでいてしかも美貌とスタイルの良さを持つ里美に云い寄って来た男は数知れずいるだろうに、この純粋さは高校生の恋愛物を読んでいるようで、なんともむず痒い。

少し気になったのは作中で島田氏は何かと固有名詞を出し、露骨なまでに糾弾していることだ。文科省は落ちこぼれ官僚が行くところだの、倉敷の水島にはコンビナートがあるから腐敗がらみの訴訟の宝庫だのと歯に衣を着せない。

更に検事の法廷取引や事件のあらましを創作するなど、けっこうキツイ内容も含んでいる。これが現代日本の行政・司法の実態だと云わんばかりだ。

しかし内容的にはこれほどのページを費やすべきだったかはやはり疑問。里美という素人から見た起訴から裁判までの流れを描くという趣向はよかったが、里美の泣き虫キャラが悪戯に物語を長く引き伸ばしている感も否めない。
この作品に次があるのかは解らないが、もしあればもっと引き締まった内容の作品を期待する。

犬坊里美の冒険 (光文社文庫)
島田荘司犬坊里美の冒険 についてのレビュー
No.431:
(7pt)

浪漫風少女漫画的ミステリ

前作『琥珀の城の殺人』の時代背景が1775年のオーストリアで、今回は1670年のイタリア。またも中世ヨーロッパを舞台にしたミステリである。
そして舞台は前作が古の塔を抱いた山奥に聳え立つ古城であったの対し、本作では僻地の村に存在する豪奢な庭園。
登場人物は伝説の美女とまで謳われたエレオノーラの美貌を受け継ぐ美少女エルミオーネと、その婚約者である美丈夫アントーニオ。そして亡きエレオノーラに誘惑され、その妖艶かつ魔女めいた美貌に魅了されながらも、拒絶し続けた現侯爵ジューリオ。その養女で、自分の平凡な容姿と内気な性格に嫌悪を感じる、劣等感の固まりようなチェチーリア。語り手はチェチーリアの侍女で対照的に明るく奔放な娘オルテンシアが務め、探偵役はその家庭教師でありながら、一張羅の擦り切れた黒外衣と踝まであるマントを着込んだ一見風采の上がらぬ青書生グエルチーノと、なんともまあ、細い線で描かれた美麗な絵が目に浮かぶ少女マンガを読んでいるような舞台設定、登場人物設定だ。
そして探偵役のグエルチーノは上に書いた人物描写からすぐに連想したのは横溝正史の金田一耕助。ルネッサンス文化のゴシック調の舞台設定に典型的な探偵像とこれまた本格ミステリのコードに忠実に則った作品である。

本書で起きる殺人事件は4つとこれまた非常に多い。そのうち3つが毒殺である。その3つの毒殺で使われるのは作中アコニトゥムと呼ばれるトリカブトである。
しかし本作では毒殺トリックで主眼になる誰がどのようにどの時に毒を盛ったのかという謎解きについてはあまり言及されない。

本格ミステリでは殺人事件が起きたときに警察が介入しない条件としていわゆる「嵐の山荘物」と呼ばれる設定がある。つまり自然現象もしくは人為的妨害行為、もしくは関係者達の拠所なき事情によって外部との交通手段、通信手段が絶たれ、閉鎖空間で次々と事件が起き、当事者自身で犯人と殺害方法の謎を解かねばならない設定だ。
しかし篠田氏は時代設定をまだ警察捜査が成熟していない中世、さらに警察の介入の手を容易に無視できる高貴な階級社会を舞台にしているところが他の本格ミステリと一線を画している。

しかし逆に云えばこれは警察が行う犯罪捜査のセオリーを完全に無視できるということ。即ち現場の保存や死体の検死、鑑識による指紋やその他証拠の捜索といった一連の作業を取っ払い、当事者達は平気で事故現場を忌まわしいと云って清掃し、死体も片付けてしまう。しかしこれは作者自身が警察捜査に精通していないことを逆説的に露呈してしまっているようで、なんとも素人気分が抜けないように感じられないでもない。

また本書では『琥珀の城の殺人』でも採られた叙述方法が用いられている。前作ではジョルジュという登場人物の手記を交えて物語が語られたが、本書でも養女の侍女オルテンシアの手記が挿入され、彼女が素人探偵役として事件の整理を行う。

しかしこの少女マンガ的本格ミステリも2回目であったせいか、読み難さは相変わらずあるにせよ、慣れもあり、以前よりも浸れた。
最後に明かされる祝福の庭に隠されたメッセージは殺人事件以上の謎解き妙味に満ち、作者が書きたかったテーマがこちらにある事が容易に解る。そしてそれらメッセージの数々は欧州文化の豊かさと欧州人の洒脱さの蓄積であり、こういう薀蓄が好きな私にとっては逆にこの謎解きがあることで救われた思いがした。

物語全編に陰として存在するエレオノーラが生涯通じて真に愛した相手とはジューリオだったのだが、彼がそんなに愛情を注がれるほど魅力的な人物として描かれていないので、最後に立ち昇るエレオノーラの献身的愛情にいささか違和感を持たざるを得ないのが勿体ない。
とはいえ、最後にドミノ倒し的に解明される庭園に秘められた彼女のメッセージには胸を打つものがあった。少女マンガ趣味といえばそれまでかもしれないが、私は敢えてこれは欧州人的愛情表現だと理解しよう。

前作の作者あとがきでもあったが、この特異な舞台設定は単純に作者がこの時代のヨーロッパに造詣が深く、また慣れ親しんだ世界であったからとのこと。
しかしそれは云い換えれば自分が好きな物を書き散らかしているだけとも云える。
続く建築探偵シリーズが篠田氏が読者を意識し、寄添った作品群とすれば上に並べた不満は今後解消されていると期待したい。もうしばらくはこの作者の作品を追っていくことにしよう。


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祝福の園の殺人 (講談社文庫)
篠田真由美祝福の園の殺人 についてのレビュー
No.430: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

これもまた歴史

地下1階にあるカウンターのみのバー『スリーバレー』に通う常連3名。某私立大学教授の三谷氏にその美人助手、早乙女静香。そして雑誌のライターで在野の研究家宮田。
この3人が一同に会する時、宮田が常識を覆す珍説が開陳し、喧々諤々の歴史談義が花を咲かす。

本書は発表当時『このミス』でも8位にランクインするなど、予想外の好評を以って迎えられた連作歴史ミステリ短編集。

5W1Hで語られる歴史の謎6編―正確に云えば4編目の“WHAT”は動機を尋ねているから“WHY”と同じなのだが―。歴史は覆されるとは別な意味で使われるが本書は正にこの言葉がぴったりの逸品。

今までそういう風に教わっていた事は実はよくよく考えてみるとおかしな部分がある、というのは良くある事で、本作は誰もが常識、通念として捉えていた歴史的事実に潜む矛盾に論理の一突きを食らわす知的興味溢れる歴史ミステリだ。

歴史学者や考古学者、古典文学研究家など、古代史に携わる人々によって確立されてきた歴史的事実。しかし実はこれらが口承や伝聞でしかないことも確かで、それが恰も既成事実として語られ、いつの間にか我々の常識になっている。それはやはりその道の権威ほど通説、定説に目を眩まされてしまうからだ。
象徴的なのは表題作と3編目の「聖徳太子はだれですか?」だ。

日本史の研究者達は昔から伝わる書物を解明の手掛かりに歴史の謎を探る。つまりそこに書かれている意味を見出す事で歴史の空白を埋めていく作業を行うわけで、つまり歴史書の類いを鵜呑みにしがちである。
しかしこの2編では邪馬台国について書かれている「魏志倭人伝」を、聖徳太子の事が書かれている「日本書紀」の記述を疑う事でそれぞれの真相に迫っていく。これら2つの書物は学校の教科書にも出ている有名な物で、これを疑うという行為自体、かなりの冒険的なのだが、本書の面白さはそういった権威を疑い、覆す事にある。

また面白いのは日本語の意味の解釈の仕方によって事実の捉え方が変わることだろう。なるほど、日本語の意味が時代と共に変わっていっているのは知られているが、現代の意味で紀元前や1000年以上前の記述をそのまま訳すとまったく違った解釈になる。これが本作での肝である。

仏陀が王族の息子と捉えられていた事実は、学校に通っているという事実から王家の者ならば自宅に先生を呼びつけるはずだという常識的観点から矛盾するし、卑弥呼が占いによって人心を惑わせていたという記述は「惑わせる」という言葉は昔は「摑む」、つまり信頼を得ていたという意味だったということで卑弥呼の統治に対する印象がガラリと変わる。

これら珍説を肯定するために書かれたたった50ページ前後の短編に注ぎ込まれた知識の膨大さ、調査内容の豊富さを考えると作者鯨氏が費やした時間と労力に賞賛を贈らざるを得ない。本書で検証されていくプロセスは世に知られる歴史書の数々に記載された記述はもとより、在野の研究者や作家たちの検証結果にも及び、単に読者へ驚きをもたらすためだけでは済まされない物がある。なんとも誠意溢れる仕事だ。
恐らく作者の本懐はそういう裏方仕事を想像せずにただ愉しんでもらえればそれでいい、それだけかもしれないが、私はこれを面白かった!だけで済ますことが出来ない。
巻末に記された各短編における参考文献の数は最低でも5冊を数える。短編1作を著すにしては異例の数だろう。

しかし作者の本質がここにあるのならば、この調査自体は生みの苦しみではなく、自らの知的好奇心の探求と自説の啓蒙というカタルシスを得るがために行った、実に楽しい頭脳労働だったのではないかという気がする。
在野の一研究者であった鯨氏が満を持して放った論説集。正直云えば最後の方の作品には息切れを見え、完成度は落ちると感じたが、私は十分に愉んだ。


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邪馬台国はどこですか? (創元推理文庫)
鯨統一郎邪馬台国はどこですか? についてのレビュー
No.429:
(7pt)

スパイ小説はいわば本格ミステリである

実によどみの無いストーリー展開。まるでスパイ映画の大作を観ているかのように物事が流転する。それも際どいスリルを伴って。

緊張感溢れるソ連でのエージェントの任務失敗、それによってKGBに知られるCIAエージェント、<パンドラ>の存在。その正体を仄めかす文書が手違いから諜報活動の歴史的文書を研究している大学院生に渡り、たまたま同棲していたフランス人学生シルヴィーの手に渡る。
当然血眼になって文書を追うKGBのエージェントの襲撃に遭い、隠れ家を転々とし、危うく捕まりそうになったところに現れたのがジェームズ・ブラッドリーなる謎の男。彼こそCIAが遣わせたエージェントであったが、文書の文面を読んだシルヴィーへの抹殺指令が下され、それを拒否する。
そして行く先々で出くわすKGBエージェントの魔の手からCIAの上層部にもまたエージェントがいることを知る。CIAはジェームズの思わぬ造反から急遽パンドラを亡命させる事にする。そしてパンドラを巡ってCIAとKGBの攻防戦が始まる。

『エニグマ奇襲指令』は敵の只中に潜入して暗号機エニグマのありかを探るという物語だったが、今回は典型的な巻き込まれサスペンスだ。しかし『二度死んだ男』がかつて死んだとされた男の死に隠された謎を探る物語であったこと、更に『エニグマ~』では絶妙なコンゲームの果てに知らされる驚愕の真相と、エスピオナージュでありながらも本格ミステリ張りのサプライズを提供するバー=ゾウハー。今回もやってくれた。
そして真相が判明した後に今まで書かれていた内容の意味が全く別の側面を持っていた事が解る。上手い、実に上手い。

しかし本格ミステリをこよなく愛する読者ならば、本書の仕掛けに対し、抵抗感を示すかもしれない。
しかしこういう常人の考えを、想像を超える特殊な原理・思考というのは諜報活動には往々にしてある物だ。本作を読むにはある程度この手の作品に馴染んでおくのが良いのかもしれない。

しかし諜報活動とはインテリジェンスを駆使した騙し合いであり、いかに信用されるか、いかに疑問をもたれずにいるかに常に腐心する活動である。従って職業自体がミスリードの連続であるから、スパイ小説やエスピオナージュというのは本格ミステリに一脈通じるエッセンスがあると私は感じずにいられない。
故にフリーマントルも単なるドキドキハラハラのサスペンスに留まらず、最後に何がしかのどんでん返しを施す。
最初私はこれらスパイ小説作家の作品を読むのに抵抗があったのだが、今では読むのを非常に愉しみにしている。それは何度も述べたがこれらが非常に高度な知的ゲームであるからだ。確かに政治的思惑や外交的駆引きというのが織り込まれており、それらに興味のない人には敷居は高く感じるかもしれないが、彼らスパイ小説家が持っているのはミステリマインドなのだ。
しかもハリウッド映画が好んで作る娯楽作品とはこのジャンルの作品であり、それらに一級のエンタテインメントが数多くあるのは既知の事実だろう。

そして3作通じて読んでバー=ゾウハーという作家は更にも増してこのミステリマインドに溢れている作家だと強く認識した。

『二度死んだ男』では謎また謎の連続、『エニグマ~』では怪盗ルパンのパスティーシュとも云うべき暗号機エニグマを巡るコンゲーム、そして本作におけるスパイ<パンドラ>を巡る争奪戦と“動”のミステリを繰り出す。

この“動”のミステリというのがこの作家の仕掛けるサプライズに多大なる効果をもたらしていると私は思う。
3作読んで抱く感慨は実に“淀みない”進行だ。危機また危機、謎また謎の連続で中だるみさえも感じず、また主要登場人物に関しては行動原理、堅固な絆の契機となった過去も織り込ませておりながら、物語の舞台も1箇所に留まらず複数の国々に跨り、なおかつ対立する勢力それぞれの内情も書き込みながら300ページ前後に纏める手腕。この手際の良さが読者のページの繰る手を休めずに物語世界を疾走させるため、あれよあれよという間に次々とサプライズが展開していく。
これが昨今の作家だと過去を語るのに1章を費やしたり、本筋とは関係ないエピソードに50ページ以上割き、その結果読者に考える時間を与え結末に達するまでに真相が見えたりする。
しかしバー=ゾウハーではその絞り込まれた物語が彼の仕掛けを引き立てるのに非常に貢献している。読者は考える暇も与えられず、本から伸びた手に引っ張られるかの如く、ぐいぐい読み進まされていく。

しかしもっとこの作家の作品が読みたいものだ。絶版になった作品はもとより、果たして90年以降の作品というのは皆無なのだろうか。
この極上のエンタテインメント作品を提供してくれる作家の作品を訳さずに放置するのはなんとも勿体無いと思って仕方がないのだが。


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パンドラ抹殺文書 (ハヤカワ文庫NV)
No.428:
(7pt)

クイーンの長編の素

映画オリジナル脚本を小説にリライトした「消えた死体」、「ペントハウスの謎」の2編を収録した中編集。

「消えた死体」は推理作家志望のニッキー・ポーターなる女性が登場するが、後期クイーンでパートナーを務めることになる同姓同名の人物とは別人である。
この「消えた死体」は長編『ニッポン樫鳥の謎』の原形だろう。同一のアイデアで別の話を作っただけで、物語の構成は全く一緒だ。もう少しアレンジが欲しいところだ。
ただなぜ犯人が死体を隠すのかという理由はさすがに秀逸。
物語のスピード感といい、適度な長さといい、『ニッポン樫鳥の謎』が無ければ、クイーンの作品としても上位の部類に入っただろう。

もう1つの中編「ペントハウスの謎」は「消えた死体」同様、ニッキー・ポーターの友人が絡む。
中国の抵抗組織の資金繰りのためにアメリカ人の腹話術師が資金援助のための宝石を密輸する手助けをするが、その情報を嗅ぎ付けた日本のスパイや詐欺師たちとの攻防が発端となり、殺人事件に発展したという、クイーンの作品にしては異色とも云える派手な事件である。
腹話術師と同じ船に乗り合わせた身元詐称の人物たち、消えた宝石の謎など色々エッセンスを放り込んでいるが、逆に謎の焦点が曖昧になり、最後の切れ味に欠ける。特に犯人を限定する決め手となったあるしるしの正体は全く解らないだろう。
容疑者一同を集めて謎解きという、古典的な手法に則った解決シーンだが、カタルシスは得られなかった。

本編で登場するニッキー・ポーターは前のパートナーであったポーラ・パリスとは違い、実に行動派のお転婆娘として描かれている。推理作家を目指し、日夜創作に励むが、かつて熱中したエラリー・クイーンの諸作の影響から抜け切れず、四苦八苦している。彼女が書く作品の題名も『ペルシアじゅうたんの謎』とか『羽飾り帽子の謎』と、どこかで聞いた風なのが面白い。

自作がクイーンの諸作に酷似していることを編集者に云われ、エラリーを逆恨みしているというシチュエーション。いがみ合っていた相手に次第に惹かれるというのはラヴ・ストーリー物の定番だが、ポーラの場合はエラリーの一目惚れから始まり、ポーラの外出恐怖症を熱心にかき口説くことで克服させて付き合いが始まる。
つまりエラリーは能動態であったわけだが、ニッキーの場合はかつての1ファンであり、謂れのない恨みを買っている側から次第に好かれていくという受動態に変わっているところがミソか。
そういえばエラリーは結婚願望はないものの、常に美人に対しては弱かったので、この展開は新しいのかもしれない。

特に2編ともロマンスの誕生を思わせながら、ジョークで閉じられる結末からもクイーンが明らかに惚れられるエラリーの立場を愉しんでいるのが解る。

そしてニッキーの存在は今まで単なるパズル小説に終始していたエラリー・クイーンの諸作にファルスを持ち込む要素になっている。
例えばニッキーが容疑者になってエラリーに匿われた際、新しく雇った家政婦としてした事もない料理に孤軍奮闘するシーンなどはアメリカのホームコメディドラマの1シーンを観ているかのような面白みがある。ニッキーの役割はコメディエンヌで物語に彩りを与えているのだ。
これは親しかったカーの影響があるのかもしれない。カーも過剰とも云えるHM卿のドタバタシーンを導入して笑いを自作に取り込んでいた。
2人は交流があったからお互いのミステリにあり、自分のミステリにはない物を積極的に取り入れようとしていたのだろう。

ところで今回は今までの訳者井上勇氏ではなく青木勝氏であるせいか、エラリーの口調が今までよりもぞんざいである事が気になった。
リチャード・クイーン警視を「お父さん」と呼ばず、「おやじさん」と呼び、時には「あんた」とも呼ぶ。話し方も粗野でぶっきらぼうである。なんだか別人を見ているようだ。逆に叙述トリックなのかとも思うくらいの変わりようだ。
青木氏にどんな意図があったのか知らないが、個性を出しすぎて逆にイメージを損なっているように感じた。

ここまでクイーンの短編集を3冊読んできて思ったのは、短編が長編の原形のように同じアイデアを用いられていることだ。これはチャンドラーやカーでもあったことなので、クイーンに限ったことではないのだが、あまりに多すぎると感じた。
当時はペンで生計を立てるためにとにかく作品を数多く書くことが主流だったのだろう。従って短編を無理矢理引き伸ばして長編に仕立てることも常識だったのかもしれない。それが故にかえってこれらの短編が今では作者の創作の足跡を追うような資料となっている感じがする。
資料的価値として意義はあるかもしれないが、一読者として独立した作品として楽しめないことに一抹の寂しさを感じる。
この後も色々な短編集があるが、同様の失望を感じるのならば、なんだか哀しくなってしまう。



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エラリー・クイーンの事件簿 1 (創元推理文庫 104-22)
No.427: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

仮面の在処は最後に

その題名からいわゆる“嵐の山荘”物を連想するが、確かに本書はそのジャンルに類いする物である。
が、しかし館の関係者が外部に出られない状況というのが突然の強盗の襲撃と篭城という非常に特異なシチュエーションであるのが、この作家を他のミステリ作家と一線を画する存在にしている。そんな緊張状態の中での殺人劇という、実にアクロバティックな手法を繰り出す。

強盗襲撃という心的疲労に加え、殺人事件の勃発とさらに関係者の心労は募る。従って次第に人格者であった彼ら・彼女らの精神状態も脆くなり、泥沼のやり取りが繰り広げられる。
まさしく「仮面」を被った者たちの饗宴だ。

しかしそれらは典型的な密室劇のフォーマットに則った展開とも云える。
しかし東野氏はさらに読者の想像の上を行く。最後10ページ弱の中で明かされる大どんでん返しに読者はしばし呆然とするに違いない。

最初私は、“嵐の山荘物”といい、題名といい、あまりに本格ミステリど真ん中の内容にちょっと面食らった。
というのもこの前に発表した『宿命』から人の心の謎に焦点を当てた第2期東野ミステリの幕開けを確信しており、それ故、今回も人間関係の綾と心の謎がメインのミステリになると思ったからだ。
しかし最後の真相に至り、やはり東野氏の興味はそこにあるのだということを再度確信した。

正に「嵐の山荘物東野風変奏曲」とも云えるこの作品。ここは素直に作者の入念な企みに拍手を贈ろう。


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仮面山荘殺人事件 新装版 (講談社文庫)
東野圭吾仮面山荘殺人事件 についてのレビュー
No.426:
(7pt)

ドラキュラ譚の新たな側面

建築探偵桜井京介シリーズで知られる篠田真由美氏による、ヴラド・ツェペシュの生涯を語った歴史小説。

『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとして有名な東ヨーロッパのハンガリーの国境に位置するワラキアの公王ヴラド・ツェペシュ。彼の血塗られた人生はしばしば小説やマンガのモチーフとなり、それらは全て忌むべき怪物や残虐王という風に描かれていた。つまりは悪の象徴である。

本書はそのヴラド・ツェペシュがオスマン・トルコの捕虜であった青年期からワラキア国奪還を果たし、王に返り咲き、勇名を馳せるに至る道筋を描いた物語だ。

しかし本書で描かれるヴラドはこの手の歴史小説にありがちな、後世に伝えられている人物像を覆すというものではない。やはり彼に纏わる数々の忌まわしい伝説は事実として述べられる。

祭りを愉しむ人々をいきなり攫って奴隷にし、鞭打って城を建てさせる、生木の杭による串刺し刑、建物に何百人もの人間を閉じ込め、生きたまま建物ごと焼き尽くしたり、云う事を聞かないジプシーの長を斬殺し、その肉を仲間への料理として提供し、食べさせる。またはかつての宿敵の息子を捜し出し、自らの墓穴を掘らせて殺す。トルコの使者が自身の前で脱帽しなかった無礼を咎め、釘で頭蓋に縫いつけ送り返す、等々。

本書では今まで単なる大量虐殺を好んだ狂人という側面で描かれていたヴラドがなぜこのような残虐行為を行ったのかというところを語っているところが他の関連書と一線を画する。

彼には従者だった老人を見せしめのために杭で串刺しにされた過去があったこと。捕虜として各地を転々とし、その都度クーデターや戦争に巻き込まれ、逃走を強いられたこと。そして民と家臣を統率するには恐怖を以ってするのが一番だということ。更に小国ワラキアを強くするためには兵を増やし、強化する必要があったこと。
これらの行動原理に基づき、彼は臣下の者も含め、絶対服従を求めた。

しかしそれでもやはりこれらの行為は過剰だったと思う。人の命を弄ぶかの如き残酷な仕打、処刑の数々をしてもなお、ヴラドが自分を見誤らず、正気を保ち、己の信条を貫けたのはシャムスという従者の存在だ。
アラビア語で太陽を意味する名を与えられた彼はオスマン・トルコの侵略で故郷を奪われ、逃げ延びた1人の青年。死に場所を求め、馴れない剣を振って、兵士になろうと志願したところをヴラドに拾われる。彼は女のような風貌と体格を持ち、戦闘で役に立つわけではないが、ヴラドと同じ心を持つ。つまりヴラドの考えを一番理解できるのが彼なのだ。ヴラドは己の心が暗黒面に落ちぬための楔として太陽たる彼を常に連れゆくのだ。

しかしやはり恐怖は嫌悪を生み、離反の種となる。たった3万に満たない戦力で20万のトルコ軍を追い払った歴史上名高い彼の功績は彼の絶頂期であったがために、それ以後は下るだけだった。盛者必衰の言葉の如く、龍の息子、悪魔の子として恐れられて小国の梟雄にも栄光の黄昏が訪れる。

彼の生涯はずっと強国オスマン・トルコへの復讐一筋だったと云える。
東ヨーロッパの小国ワラキア公の父と共にオスマン・トルコの捕虜となり、戦場に駆り出されて憤死した父と兄の無念。従者であり、眼の前で串刺し刑で殺された老爺。そして保身のために男娼としてトルコの司令官に取り入り、スルタンの側近となった弟ラドゥ。
そしてその道は正に死屍累々が連なる血道だった。その静かなる激情の凄さは織田信長を感じさせると、作者は述べる。両者とも栄光の半ばで命を落としたことは共通している。しかしその生き様は今なお語り継がれている。

ヴラド・ツェペシュがこのような悲劇の梟雄であったのか、はたまた現在流布している拷問と虐殺を好む血まみれの狂王だったのか、真実は定かではない。
作者あとがきによれば、ヴラドを讃えるのはルーマニアに伝わる昔話のみでドイツやロシアの文献ではやはり残虐な側面や裏切り者というレッテルを貼られて伝えられているようだ。これはいかにヴラドをモデルにしたブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のインパクトが強かったかを知らしめる証左でもある。それ故、吸血王とまで呼ばれ、今に伝わる彼に新たな側面から物語を紡いだ篠田氏の仕事の意義が高く思える。

この中世ヨーロッパのゴシック風の物語を当時の風俗と慣習を丹念に調べ上げ、しかもそれらを一切説明口調でなく物語に溶け込む形で読者に理解させる上手さは田中芳樹氏の作風と異なり、実に自然だ。
どっちが彼女の本道か解らないが、次は著作の多くを占めるミステリを読んでみる事にしよう。

ドラキュラ公―ヴラド・ツェペシュの肖像 (講談社文庫)
No.425: 7人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

今だからこそ云える、壮大なシリーズの幕開けだと。

京極夏彦氏と同時期にデビューした、今や超人気作家となった森博嗣氏のデビュー作。
この犀川・西之園萌絵が登場する通称“S&M”シリーズが森の人気を不動の物にし、話題作を連発している講談社のメフィスト賞は本書を刊行するために創られたとまで云われている。

今までの本格ミステリ作家と森氏が決定的に違うのは、彼が理系の人間であり、現役の大学助教授であることだ(当時)。
さらにその専攻が建築学であることから、物語で語られる館については建築基準法に則した書き方がされ、奇抜でありながらも荒唐無稽ではない。特にガラスが1枚も無い真賀田研究所の避難経路に関する説明など、建築に精通した人間が配慮する書き方になっており、同じ建築の仕事に携わる身としては好感が持てた。

本書に登場する人物は恐らく森氏の知人、同僚、もしくは作者自身の断片が散りばめられているのだろう。研究所に住まう人間達は年相応に老けておらず、どこか子供の心を持った稚拙さがあるという描写があるが、これもやはり研究者という人間が社会の風に対して免疫が無い事から来る性癖なのだろうし、頷けるところがある。特に研究所の人間の個室にはレーシングカーの模型があったり、動物の模型があったり、はたまたアニメオタクにガンダムオタクがいたりと、何かに執着する性質があることが書かれている。
また主人公の犀川の研究室にはアクロバット機の写真が飾られているという描写があり、これも作者の航空機好きが反映されている。

さらに作中で出てくるヴァーチャルリアリティ空間内でカートに乗って一堂に会するシーンは森氏のカート好きとコンピューター好きが嵩じた当時の理想を描いた物だろう。21世紀の今の「セカンドライフ」を髣髴させて、なかなか興味深い。

そしてそれは主人公たちにとっても例外ではない。特に犀川教授は非常に合理主義的な人間である。とにかく委員会、会議といったものが嫌いで、人と係わり合いをもたずに研究に没頭する環境に憧れており、正にその環境が整った真賀田研究所を理想郷であると嘆息するのだ。
しかしこの教授が例えば生物学とか薬学、もしくは数学の研究者であればそれは構わないだろうが、建築学科の助教授がこのような個人主義、孤立主義的な環境を望むのはお門違いではないだろうか。建築とはいわば人間の居住空間であり、生活空間なのだ。人間との触れ合いを持たずして何が研究者だろうかと、私は憤慨する。
恐らくこれは同じく建築学科の助教授である作者の心境を代弁したものだろう。叶わぬ理想とは云え、なんとも大人気ない発言だと思う。しかしこういう普通では云えない事を云いたいがためにこういった小説内人物を通じて本音を吐露したのかもしれない。

そして最も鮮烈なイメージを残すのは真賀田四季という天才。数年後にその名も『四季』という作品が春夏秋冬の4部作として著されているほど、森氏のお気に入りのキャラクターのようだ。
情報工学の第一人者、真賀田左千朗博士と言語学の最高権威の1人だった真賀田美千代博士の娘で9歳でプリンストン大学のマスターを授与され、11歳でMITの博士号を取得し、12歳からMF社の主任エンジニアを務め、14歳の時に両親を殺害した罪を問われたが、心神喪失状態だったという事で無罪となり、以来、孤島にある真賀田研究所に15年間外出せずに地下2階の自室で天才プログラマーとして活躍しているという、マンガのような設定の人物。
しかし私はこの類い稀なる天才の描き方について私はどうも物足りなさを感じる。天才、天才と作中で謳われている割には目から鱗が取れるような思いもよらない発想とか考え方が開陳されるわけでもなく、そういう考え方もあるわなといったレベルの思考でしかなかったからだ。
具体的なことははぐらかされ、全てが曖昧のまま、思わせぶりに結論付けずに終わってしまう。天才の考える事は常人には解らない、そんな持ち味を出したかったのだろうが、それは成功しているとは思えず、先に書いたように、誰もがそういう風に考えてはいるが、人道的・道徳的に口に出すことを憚っている類いの合理主義的思想を述べられているに過ぎないように感じた。

例えば、西之園萌絵などはお嬢様育ちで世間、社会に馴れていないせいか、嫉妬すること、腹を立てていることの理由が解らず、第三者的な視線で自分がそうしていることを自覚する描写が時折挿入されるが、この辺は確かに理解できる。
が、彼女が天才である描写で3桁、4桁の暗算を素早くするというシーンが何回か織り込まれるが、これを以って彼女を天才だと演出するにはなんとも稚拙なのだ。しかも犀川はその天才西之園が初めて自分より頭のいい人がいると意識した人物と書かれているが、上に書いたような人とちょっと変わった考え方をする人物とでしか思えなかった。
この齢にもなると、小説におけるキャラクター設定に関して穿った見方をしてしまうので、おいそれと書かれている説明を記述どおりに鵜呑みに出来なくなってしまっている。従ってもう少し彼らが本当に天才であるなぁと感嘆するようなエピソードが欲しかった。

本書では1つの密室殺人と2つの殺人が盛り込まれている。特に1つ目の密室殺人の謎がメインと云えるだろう。365日24時間記録し続ける監視カメラが見張っている上に、コンピューター制御されたセキュリティシステムで管理された室内で起きた密室殺人。しかもカメラには誰も部屋を出入りした人物が映っていない。
この堅牢なる密室殺人の謎解きは完璧と思いがちなコンピューターの盲点を突く真相で、実に鮮やかだったが、犯行に関しては私が推理していた範疇だった。

本書はこれから続くこのシリーズの序章に過ぎないことが最後に解る。毀誉褒貶折混ぜて感想を書いたが、彼ら真賀田四季と犀川・西之園という天才たちの造形もこれからシリーズを重ねていくに連れて厚みを増していくのだろう。
とどのつまり、作品を好きになるか否かはキャラクターを気に入るかどうかによる。現時点ではまだこの3人は戯画化されてて、またその考え方も首肯し難いところがあるので、手放しで好きだとは云えないが、今後この3人の物語がどのように展開していくのかこれからシリーズを追って確認していく事にしよう。


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すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER (講談社文庫)
森博嗣すべてがFになる についてのレビュー
No.424:
(7pt)
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スピーディなスパイ小説

自身、戦争の闘士であったイスラエル作家マイケル・バー=ゾウハー1975年の作品で本書が私にとって初めての彼の作品である。

実に淀みが無いエスピオナージュ作品。正味250ページ強という薄さながら、舞台はイタリア、イギリス、ハイチ、スペイン、フランス、ソ連、オーストリアと目まぐるしく移り変わる。
それに加え、次から次へ現れる謎に、それに呼応して判明する諜報工作の数々。しかしどこまでが本当でどこからが虚偽なのか判らない。

現代エスピオナージュ小説の巨匠ブライアン・フリーマントルと違うのはこのスピード感だろう。
フリーマントルの作風は数カ国間に跨る国際犯罪、または第二次戦時下の亡霊の如く湧き上がってくる死体などをモチーフにどの国が主導権を握り、優位性を保つかという政治戦略的駆引きと上昇志向の高いエリートたちの高度な騙し合いに筆が費やされる。そのためあらゆるケース・スタディがなされ、自然厚みは増してくる。

しかしバー=ゾウハーは次から次に解ってくる事実が謎を呼び、その謎の鍵を握る土地、人物へと向かう。そしてその先には主人公の命を狙う影が潜んでおり、主人公の行く手には屍が転がっていく。つまり非常にオーソドックスなエスピオナージュだと云える。

このように実に淀みなく物語が進むのは、この物語が書かれた1975年当時が米ソの冷戦下という国際的な緊張関係あった事がもっとも要因として高いだろう。つまりその頃は敵の存在は明らかであり、物語はその敵とどのように戦い、もしくは逃れるかを焦点にしていたからだ。本書でも物語の発端となる「二度殺された男」の犯人は早々にKGBであると明かされる。

しかしソ連崩壊後の現代ではこの敵が明確ではなくなった。従って世のエスピオナージュ作家は敵を作り出すのに尤もらしい理由を考えなければならなくなったのだ。また先進国と他国との差が縮まってきた事により、国家間の政治的交渉も単純なパワーゲームでは済まされなくなり、高度な駆引きが要求され、そのためにプロットは複雑化し、物語は増大していったのだろう。

と、ここまで書いて気付くのは、実際のところ、物語の長大化を招いているのはワープロ、パソコンの普及もあるだろう。原稿用紙に手書き、もしくはタイプライターで書いていた頃は修正するにも大変であり、加筆もまた困難であった。しかしこの技術革新の賜物はそれらを容易にし、書いている最中、執筆が終盤に至っても、また校正後も手軽に追記・修正が出来る。しかしこれではなんとも味気ない理由ではあるのだが。

閑話休題。

先に物語は淀みなく進み、最初の死体の犯人も早々と明かされると書いたが、事件の構造は実に複雑で重層的だ。
本作で多用されるこのような価値観の逆転というミスディレクションはほとんど本格ミステリその物である。つまりこの諜報員たちの騙し合いというのは虚実交えた情報操作の応酬であり、それらの情報の中から正しい物をいかに摘み取って判断するか、そしてその判断が間違えば、全く違う話になってしまうという高度な情報ゲームである。
これは正に本格ミステリの創作作法ではないか。表と思っていたことが裏で、裏だと思っていたことが表となって反転する。つまり彼らはミステリの世界に常に身を置いているのだと云える。従ってインテリジェンスの世界に身を置いた人物がミステリを書くことは必然だったのだろう。

現在新作の声が聞かれないマイケル・バー=ゾウハー。その著作も絶版が多く、今、書店で入手できるのはわずか3作しかない。冷戦下のスパイ小説は確かに21世紀の今、時代錯誤的な感触を持つかもしれないが、本書を読んだ限りでは全くそうではなく、本格ミステリに通じる味がある。
今回は海外の赴任先の本棚に埃まみれになっていた本書を見つけて読んだが、なにかの切っ掛けで彼の諸作が復刊されることを強く望む。


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二度死んだ男 (1978年) (ハヤカワ文庫―NV)
マイケル・バー=ゾウハー二度死んだ男 についてのレビュー
No.423: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

事件はポーラ・ハリスとのデート中に起きる!?

『エラリー・クイーンの冒険』に続く第2短編集。まずクイーンの傑作中編とされる「神の灯」から始まる。
これは確かに傑作。ワンアイデア物だがクイーンの特徴が実によく表れている。また120ページ強という長さの中編だったことも良かった。逆にこれが長編であればこのアイデアで延々引っ張るには冗長さを感じさせるものとなったろう。確かにこれは忘れえぬ作品だ。

「宝捜しの冒険」は元軍人バレット少将宅で起きた真珠の首飾り盗難事件をエラリーが捜査するもの。使用人を全て元部下で固め、さらに軍隊時代の風習を守っているというこの特異な状況を利用した隠し場所だ。
しかしこれはまさかこれではないだろうなと思っていた方法がほとんど当っていたのでびっくりした。

「がらんどう竜の冒険」は在米日本人宅で起きたドアストップ盗難事件をクイーンが捜査するもの。題名はこのドアストップが竜の形を模した物であることから由来する。
ドアストップが小さいものであるから片手で摘んでおくようなものを想像していたら、なんと死体を海に沈めるための重しの代用となるほど大きな物だというのが解り、これもびっくりした。確かに寸法と重さが書かれているが、日本人にはフィートとポンドは馴染みが薄く、なんとも想像しがたい。しかしこれは逆にドアストップという単語から連想する先入観をあえて利用したのかもしれない。
『ニッポン樫鳥の謎』でも披瀝したエラリーの日本人観が本作でも開陳される。どうもエラリーは日本人の考え方は自身のロジックには当て嵌め難いらしく、苦手意識があるように思える。あと作中に出てくるシントーなる日本人独特の道徳観というのは一体何を指すのだろうか?

「暗黒の家の冒険」は遊園地にある真っ暗な部屋、通称「暗黒の家」の中で起こった殺人事件を扱っている。
何も見えない暗闇で犯人はどうやって離れた場所から銃弾を撃ち込めたのか?典型的な推理クイズ的作品。複数の容疑者がいて、その中から犯人を搾り出す。これは容易に解った。

異空間のような貴族の屋敷のある島で繰り広げられるのが異色作「血をふく肖像画の冒険」だ。
なんとも評し難い作品。有閑貴族の邸宅で繰り広げられる気だるい雰囲気の中で起きる言い伝えを擬えたような事件。
しかし真相はなんとも珍妙。幻想的な謎を準備してそれに都合のいい事件と真相を当て嵌めた、そんな歪な感じを受けた。

「人間が犬をかむ」からはなんと『ハートの4』で知り合ったポーラ・パリスと付き合っているエラリーの事件簿だ。
衆人環視の中での殺人というのは『アメリカ銃の謎』でもあったが、作中の注釈にも書かれているようにいつかヤンキースタジアムを舞台に同趣向の作品を書きたいというのがクイーンにはあったようで、それを叶えた一編。観客席でサイン会の後での毒殺事件を扱っている。
一見至極トリックと犯人は簡単に解りそうだが、そこはクイーン、一筋縄ではいかない。特にエラリーから明かされる真相は蓋然性の面からしても、ホット・ドッグに仕込む方が高いので、疑問に思っていたが、最後の皮肉がそれを帳消ししている。

次の「大穴」ではタイトルどおり競馬場が舞台。
これも衆人環視での事件で、状況的にはあからさまに犯行は見えるが、一捻りがやはりある。これはマジックで使われるミスリードの一種だと考えればこの犯行方法はギリギリ許容範囲か。また結末が題名とマッチして洒落ている。

続いて「正気にかえる」ではボクシングのタイトルマッチが舞台。
この真相は見抜けなかった。

最後の「トロイヤの馬」はアメリカン・フットボールの大学対抗試合での事件だ。
盗品の隠し場所については解ってしまった。

まず本作の大きな特徴は2部構成になっていることだ。
前半の「~冒険」という名の付けられた一連の作品は第一短編集からの流れをそのまま受け継ぐ純粋本格推理物だが、後半の「人間が犬をかむ」からの4編はクイーン第2期のハリウッドシリーズに書かれた物でエラリーは『ハートの4』で知り合ったポーラ・パリスとコンビを組む。

まず第1部とも云うべき前半部は、傑作と名高い「神の灯」から始まり、これが正に本格ミステリど真ん中の奇想を扱った作品。それ以降も元軍人のみが住まう館を舞台にした「宝捜しの冒険」、「ニッポン樫鳥の謎」の流れを引き継ぐような在米日本人宅で起こる事件を扱った「がらんどう竜の冒険」など、国名シリーズの衣鉢を継いだようなロジックに特化した作品が続く。

しかし「人間が犬をかむ」以降の後半から物語の舞台も球場、競馬場、ボクシングヘビー級タイトルマッチの会場、フットボール競技場とエンタテインメント性が高い場所になり、しかも物語の彩りとしてそれら試合の模様も書かれ、更に当時の著名人、有名人なども続出し、印象は実に華やかだ。

つまり本作を読むことで、第1期クイーンと第2期クイーン作品のそれぞれの特色が目に見えて解るのだ。

謎の要素としては「神の灯」を除いて各編の難度はそれほど高くない。トリックは案外解りやすい。しかしそれを成す犯人を焙り出すまでのロジックはやはりさすがはクイーンといったところだ。特に最後の2編に至る犯人が上着を着なければならなかった理由と、宝石の隠し場所から導き出されるロジックはこちらの想像を超えた物があり、感心してしまった。

個人的には純粋本格推理小説に特化した前半の5編よりも、後半のハリウッドシリーズの延長線上にある4編の方が好みである。
例えば「人間が犬をかむ」では野球観戦に夢中になるというエラリーの人間くさい一面が見られるし、何よりも各編でパートナーを務めるポーラ・パリスの存在が物語に彩りを添えている。

今までクイーン作品に登場する女性たちは容姿は端麗でも、どうにもステレオタイプでクイーンの男性的主観が大いに入った頼りない女性像が描かれ、個性が全く感じられなかった。唯一主役を務めたペイシェンス・サムが、男性社会で孤軍奮闘する女性として描かれていたくらいだ。
このポーラも初登場の『ハートの4』ではエラリーがこの世の美しさとは思えないと一目惚れするほどの容姿を持っていたが、作中で「人混み恐怖症」と書かれた軽い群衆恐怖症を患っているキャラクターであった。そのため、浮世離れしたイメージがあり、現実味に乏しいキャラクターであったのだが、ここではクイーンの恋人としての地位で振る舞い、なんとも躍動感に満ちたキャラクターになっていたので驚いた。
この2人が織成すやり取りは物語にコミカルさと男女の化学反応を感じさせ、エラリーが今までの作品に比べてもかなり人間くさく感じて好感が持てる。単なる気取り屋、頭でっかちの素人探偵というイメージを覆して、なかなか新鮮である。長編では『ハートの4』の次作となる『ドラゴンの歯』で既にポーラの姿は無いことから、恐らく本書がポーラの見納めになるようだ。なんとも勿体無い話だ。

第1短編集では純粋なロジックの面白さを堪能させてくれたクイーンだが、この第2短編集はそれに加え、エラリーの新たな側面を見せてくれた。
よく考えると法月綸太郎の第1短編集『法月綸太郎の冒険』も全く同じ構成だ。あの短編集も前半はロジック一辺倒の作品で後半は沢田穂波とのコンビであるビブリオ・ミステリシリーズだった。ここにクイーンの意志を継ぐ者の源泉があったのか。ここでまた私は現代本格ミステリに繋がるミステリの系譜を発見したのかと思うと感慨深いものがある。


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エラリー・クイーンの新冒険【新訳版】 (創元推理文庫)