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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数889件
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実によどみの無いストーリー展開。まるでスパイ映画の大作を観ているかのように物事が流転する。それも際どいスリルを伴って。
緊張感溢れるソ連でのエージェントの任務失敗、それによってKGBに知られるCIAエージェント、<パンドラ>の存在。その正体を仄めかす文書が手違いから諜報活動の歴史的文書を研究している大学院生に渡り、たまたま同棲していたフランス人学生シルヴィーの手に渡る。 当然血眼になって文書を追うKGBのエージェントの襲撃に遭い、隠れ家を転々とし、危うく捕まりそうになったところに現れたのがジェームズ・ブラッドリーなる謎の男。彼こそCIAが遣わせたエージェントであったが、文書の文面を読んだシルヴィーへの抹殺指令が下され、それを拒否する。 そして行く先々で出くわすKGBエージェントの魔の手からCIAの上層部にもまたエージェントがいることを知る。CIAはジェームズの思わぬ造反から急遽パンドラを亡命させる事にする。そしてパンドラを巡ってCIAとKGBの攻防戦が始まる。 『エニグマ奇襲指令』は敵の只中に潜入して暗号機エニグマのありかを探るという物語だったが、今回は典型的な巻き込まれサスペンスだ。しかし『二度死んだ男』がかつて死んだとされた男の死に隠された謎を探る物語であったこと、更に『エニグマ~』では絶妙なコンゲームの果てに知らされる驚愕の真相と、エスピオナージュでありながらも本格ミステリ張りのサプライズを提供するバー=ゾウハー。今回もやってくれた。 そして真相が判明した後に今まで書かれていた内容の意味が全く別の側面を持っていた事が解る。上手い、実に上手い。 しかし本格ミステリをこよなく愛する読者ならば、本書の仕掛けに対し、抵抗感を示すかもしれない。 しかしこういう常人の考えを、想像を超える特殊な原理・思考というのは諜報活動には往々にしてある物だ。本作を読むにはある程度この手の作品に馴染んでおくのが良いのかもしれない。 しかし諜報活動とはインテリジェンスを駆使した騙し合いであり、いかに信用されるか、いかに疑問をもたれずにいるかに常に腐心する活動である。従って職業自体がミスリードの連続であるから、スパイ小説やエスピオナージュというのは本格ミステリに一脈通じるエッセンスがあると私は感じずにいられない。 故にフリーマントルも単なるドキドキハラハラのサスペンスに留まらず、最後に何がしかのどんでん返しを施す。 最初私はこれらスパイ小説作家の作品を読むのに抵抗があったのだが、今では読むのを非常に愉しみにしている。それは何度も述べたがこれらが非常に高度な知的ゲームであるからだ。確かに政治的思惑や外交的駆引きというのが織り込まれており、それらに興味のない人には敷居は高く感じるかもしれないが、彼らスパイ小説家が持っているのはミステリマインドなのだ。 しかもハリウッド映画が好んで作る娯楽作品とはこのジャンルの作品であり、それらに一級のエンタテインメントが数多くあるのは既知の事実だろう。 そして3作通じて読んでバー=ゾウハーという作家は更にも増してこのミステリマインドに溢れている作家だと強く認識した。 『二度死んだ男』では謎また謎の連続、『エニグマ~』では怪盗ルパンのパスティーシュとも云うべき暗号機エニグマを巡るコンゲーム、そして本作におけるスパイ<パンドラ>を巡る争奪戦と“動”のミステリを繰り出す。 この“動”のミステリというのがこの作家の仕掛けるサプライズに多大なる効果をもたらしていると私は思う。 3作読んで抱く感慨は実に“淀みない”進行だ。危機また危機、謎また謎の連続で中だるみさえも感じず、また主要登場人物に関しては行動原理、堅固な絆の契機となった過去も織り込ませておりながら、物語の舞台も1箇所に留まらず複数の国々に跨り、なおかつ対立する勢力それぞれの内情も書き込みながら300ページ前後に纏める手腕。この手際の良さが読者のページの繰る手を休めずに物語世界を疾走させるため、あれよあれよという間に次々とサプライズが展開していく。 これが昨今の作家だと過去を語るのに1章を費やしたり、本筋とは関係ないエピソードに50ページ以上割き、その結果読者に考える時間を与え結末に達するまでに真相が見えたりする。 しかしバー=ゾウハーではその絞り込まれた物語が彼の仕掛けを引き立てるのに非常に貢献している。読者は考える暇も与えられず、本から伸びた手に引っ張られるかの如く、ぐいぐい読み進まされていく。 しかしもっとこの作家の作品が読みたいものだ。絶版になった作品はもとより、果たして90年以降の作品というのは皆無なのだろうか。 この極上のエンタテインメント作品を提供してくれる作家の作品を訳さずに放置するのはなんとも勿体無いと思って仕方がないのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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映画オリジナル脚本を小説にリライトした「消えた死体」、「ペントハウスの謎」の2編を収録した中編集。
「消えた死体」は推理作家志望のニッキー・ポーターなる女性が登場するが、後期クイーンでパートナーを務めることになる同姓同名の人物とは別人である。 この「消えた死体」は長編『ニッポン樫鳥の謎』の原形だろう。同一のアイデアで別の話を作っただけで、物語の構成は全く一緒だ。もう少しアレンジが欲しいところだ。 ただなぜ犯人が死体を隠すのかという理由はさすがに秀逸。 物語のスピード感といい、適度な長さといい、『ニッポン樫鳥の謎』が無ければ、クイーンの作品としても上位の部類に入っただろう。 もう1つの中編「ペントハウスの謎」は「消えた死体」同様、ニッキー・ポーターの友人が絡む。 中国の抵抗組織の資金繰りのためにアメリカ人の腹話術師が資金援助のための宝石を密輸する手助けをするが、その情報を嗅ぎ付けた日本のスパイや詐欺師たちとの攻防が発端となり、殺人事件に発展したという、クイーンの作品にしては異色とも云える派手な事件である。 腹話術師と同じ船に乗り合わせた身元詐称の人物たち、消えた宝石の謎など色々エッセンスを放り込んでいるが、逆に謎の焦点が曖昧になり、最後の切れ味に欠ける。特に犯人を限定する決め手となったあるしるしの正体は全く解らないだろう。 容疑者一同を集めて謎解きという、古典的な手法に則った解決シーンだが、カタルシスは得られなかった。 本編で登場するニッキー・ポーターは前のパートナーであったポーラ・パリスとは違い、実に行動派のお転婆娘として描かれている。推理作家を目指し、日夜創作に励むが、かつて熱中したエラリー・クイーンの諸作の影響から抜け切れず、四苦八苦している。彼女が書く作品の題名も『ペルシアじゅうたんの謎』とか『羽飾り帽子の謎』と、どこかで聞いた風なのが面白い。 自作がクイーンの諸作に酷似していることを編集者に云われ、エラリーを逆恨みしているというシチュエーション。いがみ合っていた相手に次第に惹かれるというのはラヴ・ストーリー物の定番だが、ポーラの場合はエラリーの一目惚れから始まり、ポーラの外出恐怖症を熱心にかき口説くことで克服させて付き合いが始まる。 つまりエラリーは能動態であったわけだが、ニッキーの場合はかつての1ファンであり、謂れのない恨みを買っている側から次第に好かれていくという受動態に変わっているところがミソか。 そういえばエラリーは結婚願望はないものの、常に美人に対しては弱かったので、この展開は新しいのかもしれない。 特に2編ともロマンスの誕生を思わせながら、ジョークで閉じられる結末からもクイーンが明らかに惚れられるエラリーの立場を愉しんでいるのが解る。 そしてニッキーの存在は今まで単なるパズル小説に終始していたエラリー・クイーンの諸作にファルスを持ち込む要素になっている。 例えばニッキーが容疑者になってエラリーに匿われた際、新しく雇った家政婦としてした事もない料理に孤軍奮闘するシーンなどはアメリカのホームコメディドラマの1シーンを観ているかのような面白みがある。ニッキーの役割はコメディエンヌで物語に彩りを与えているのだ。 これは親しかったカーの影響があるのかもしれない。カーも過剰とも云えるHM卿のドタバタシーンを導入して笑いを自作に取り込んでいた。 2人は交流があったからお互いのミステリにあり、自分のミステリにはない物を積極的に取り入れようとしていたのだろう。 ところで今回は今までの訳者井上勇氏ではなく青木勝氏であるせいか、エラリーの口調が今までよりもぞんざいである事が気になった。 リチャード・クイーン警視を「お父さん」と呼ばず、「おやじさん」と呼び、時には「あんた」とも呼ぶ。話し方も粗野でぶっきらぼうである。なんだか別人を見ているようだ。逆に叙述トリックなのかとも思うくらいの変わりようだ。 青木氏にどんな意図があったのか知らないが、個性を出しすぎて逆にイメージを損なっているように感じた。 ここまでクイーンの短編集を3冊読んできて思ったのは、短編が長編の原形のように同じアイデアを用いられていることだ。これはチャンドラーやカーでもあったことなので、クイーンに限ったことではないのだが、あまりに多すぎると感じた。 当時はペンで生計を立てるためにとにかく作品を数多く書くことが主流だったのだろう。従って短編を無理矢理引き伸ばして長編に仕立てることも常識だったのかもしれない。それが故にかえってこれらの短編が今では作者の創作の足跡を追うような資料となっている感じがする。 資料的価値として意義はあるかもしれないが、一読者として独立した作品として楽しめないことに一抹の寂しさを感じる。 この後も色々な短編集があるが、同様の失望を感じるのならば、なんだか哀しくなってしまう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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その題名からいわゆる“嵐の山荘”物を連想するが、確かに本書はそのジャンルに類いする物である。
が、しかし館の関係者が外部に出られない状況というのが突然の強盗の襲撃と篭城という非常に特異なシチュエーションであるのが、この作家を他のミステリ作家と一線を画する存在にしている。そんな緊張状態の中での殺人劇という、実にアクロバティックな手法を繰り出す。 強盗襲撃という心的疲労に加え、殺人事件の勃発とさらに関係者の心労は募る。従って次第に人格者であった彼ら・彼女らの精神状態も脆くなり、泥沼のやり取りが繰り広げられる。 まさしく「仮面」を被った者たちの饗宴だ。 しかしそれらは典型的な密室劇のフォーマットに則った展開とも云える。 しかし東野氏はさらに読者の想像の上を行く。最後10ページ弱の中で明かされる大どんでん返しに読者はしばし呆然とするに違いない。 最初私は、“嵐の山荘物”といい、題名といい、あまりに本格ミステリど真ん中の内容にちょっと面食らった。 というのもこの前に発表した『宿命』から人の心の謎に焦点を当てた第2期東野ミステリの幕開けを確信しており、それ故、今回も人間関係の綾と心の謎がメインのミステリになると思ったからだ。 しかし最後の真相に至り、やはり東野氏の興味はそこにあるのだということを再度確信した。 正に「嵐の山荘物東野風変奏曲」とも云えるこの作品。ここは素直に作者の入念な企みに拍手を贈ろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズで知られる篠田真由美氏による、ヴラド・ツェペシュの生涯を語った歴史小説。
『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとして有名な東ヨーロッパのハンガリーの国境に位置するワラキアの公王ヴラド・ツェペシュ。彼の血塗られた人生はしばしば小説やマンガのモチーフとなり、それらは全て忌むべき怪物や残虐王という風に描かれていた。つまりは悪の象徴である。 本書はそのヴラド・ツェペシュがオスマン・トルコの捕虜であった青年期からワラキア国奪還を果たし、王に返り咲き、勇名を馳せるに至る道筋を描いた物語だ。 しかし本書で描かれるヴラドはこの手の歴史小説にありがちな、後世に伝えられている人物像を覆すというものではない。やはり彼に纏わる数々の忌まわしい伝説は事実として述べられる。 祭りを愉しむ人々をいきなり攫って奴隷にし、鞭打って城を建てさせる、生木の杭による串刺し刑、建物に何百人もの人間を閉じ込め、生きたまま建物ごと焼き尽くしたり、云う事を聞かないジプシーの長を斬殺し、その肉を仲間への料理として提供し、食べさせる。またはかつての宿敵の息子を捜し出し、自らの墓穴を掘らせて殺す。トルコの使者が自身の前で脱帽しなかった無礼を咎め、釘で頭蓋に縫いつけ送り返す、等々。 本書では今まで単なる大量虐殺を好んだ狂人という側面で描かれていたヴラドがなぜこのような残虐行為を行ったのかというところを語っているところが他の関連書と一線を画する。 彼には従者だった老人を見せしめのために杭で串刺しにされた過去があったこと。捕虜として各地を転々とし、その都度クーデターや戦争に巻き込まれ、逃走を強いられたこと。そして民と家臣を統率するには恐怖を以ってするのが一番だということ。更に小国ワラキアを強くするためには兵を増やし、強化する必要があったこと。 これらの行動原理に基づき、彼は臣下の者も含め、絶対服従を求めた。 しかしそれでもやはりこれらの行為は過剰だったと思う。人の命を弄ぶかの如き残酷な仕打、処刑の数々をしてもなお、ヴラドが自分を見誤らず、正気を保ち、己の信条を貫けたのはシャムスという従者の存在だ。 アラビア語で太陽を意味する名を与えられた彼はオスマン・トルコの侵略で故郷を奪われ、逃げ延びた1人の青年。死に場所を求め、馴れない剣を振って、兵士になろうと志願したところをヴラドに拾われる。彼は女のような風貌と体格を持ち、戦闘で役に立つわけではないが、ヴラドと同じ心を持つ。つまりヴラドの考えを一番理解できるのが彼なのだ。ヴラドは己の心が暗黒面に落ちぬための楔として太陽たる彼を常に連れゆくのだ。 しかしやはり恐怖は嫌悪を生み、離反の種となる。たった3万に満たない戦力で20万のトルコ軍を追い払った歴史上名高い彼の功績は彼の絶頂期であったがために、それ以後は下るだけだった。盛者必衰の言葉の如く、龍の息子、悪魔の子として恐れられて小国の梟雄にも栄光の黄昏が訪れる。 彼の生涯はずっと強国オスマン・トルコへの復讐一筋だったと云える。 東ヨーロッパの小国ワラキア公の父と共にオスマン・トルコの捕虜となり、戦場に駆り出されて憤死した父と兄の無念。従者であり、眼の前で串刺し刑で殺された老爺。そして保身のために男娼としてトルコの司令官に取り入り、スルタンの側近となった弟ラドゥ。 そしてその道は正に死屍累々が連なる血道だった。その静かなる激情の凄さは織田信長を感じさせると、作者は述べる。両者とも栄光の半ばで命を落としたことは共通している。しかしその生き様は今なお語り継がれている。 ヴラド・ツェペシュがこのような悲劇の梟雄であったのか、はたまた現在流布している拷問と虐殺を好む血まみれの狂王だったのか、真実は定かではない。 作者あとがきによれば、ヴラドを讃えるのはルーマニアに伝わる昔話のみでドイツやロシアの文献ではやはり残虐な側面や裏切り者というレッテルを貼られて伝えられているようだ。これはいかにヴラドをモデルにしたブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のインパクトが強かったかを知らしめる証左でもある。それ故、吸血王とまで呼ばれ、今に伝わる彼に新たな側面から物語を紡いだ篠田氏の仕事の意義が高く思える。 この中世ヨーロッパのゴシック風の物語を当時の風俗と慣習を丹念に調べ上げ、しかもそれらを一切説明口調でなく物語に溶け込む形で読者に理解させる上手さは田中芳樹氏の作風と異なり、実に自然だ。 どっちが彼女の本道か解らないが、次は著作の多くを占めるミステリを読んでみる事にしよう。 |
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京極夏彦氏と同時期にデビューした、今や超人気作家となった森博嗣氏のデビュー作。
この犀川・西之園萌絵が登場する通称“S&M”シリーズが森の人気を不動の物にし、話題作を連発している講談社のメフィスト賞は本書を刊行するために創られたとまで云われている。 今までの本格ミステリ作家と森氏が決定的に違うのは、彼が理系の人間であり、現役の大学助教授であることだ(当時)。 さらにその専攻が建築学であることから、物語で語られる館については建築基準法に則した書き方がされ、奇抜でありながらも荒唐無稽ではない。特にガラスが1枚も無い真賀田研究所の避難経路に関する説明など、建築に精通した人間が配慮する書き方になっており、同じ建築の仕事に携わる身としては好感が持てた。 本書に登場する人物は恐らく森氏の知人、同僚、もしくは作者自身の断片が散りばめられているのだろう。研究所に住まう人間達は年相応に老けておらず、どこか子供の心を持った稚拙さがあるという描写があるが、これもやはり研究者という人間が社会の風に対して免疫が無い事から来る性癖なのだろうし、頷けるところがある。特に研究所の人間の個室にはレーシングカーの模型があったり、動物の模型があったり、はたまたアニメオタクにガンダムオタクがいたりと、何かに執着する性質があることが書かれている。 また主人公の犀川の研究室にはアクロバット機の写真が飾られているという描写があり、これも作者の航空機好きが反映されている。 さらに作中で出てくるヴァーチャルリアリティ空間内でカートに乗って一堂に会するシーンは森氏のカート好きとコンピューター好きが嵩じた当時の理想を描いた物だろう。21世紀の今の「セカンドライフ」を髣髴させて、なかなか興味深い。 そしてそれは主人公たちにとっても例外ではない。特に犀川教授は非常に合理主義的な人間である。とにかく委員会、会議といったものが嫌いで、人と係わり合いをもたずに研究に没頭する環境に憧れており、正にその環境が整った真賀田研究所を理想郷であると嘆息するのだ。 しかしこの教授が例えば生物学とか薬学、もしくは数学の研究者であればそれは構わないだろうが、建築学科の助教授がこのような個人主義、孤立主義的な環境を望むのはお門違いではないだろうか。建築とはいわば人間の居住空間であり、生活空間なのだ。人間との触れ合いを持たずして何が研究者だろうかと、私は憤慨する。 恐らくこれは同じく建築学科の助教授である作者の心境を代弁したものだろう。叶わぬ理想とは云え、なんとも大人気ない発言だと思う。しかしこういう普通では云えない事を云いたいがためにこういった小説内人物を通じて本音を吐露したのかもしれない。 そして最も鮮烈なイメージを残すのは真賀田四季という天才。数年後にその名も『四季』という作品が春夏秋冬の4部作として著されているほど、森氏のお気に入りのキャラクターのようだ。 情報工学の第一人者、真賀田左千朗博士と言語学の最高権威の1人だった真賀田美千代博士の娘で9歳でプリンストン大学のマスターを授与され、11歳でMITの博士号を取得し、12歳からMF社の主任エンジニアを務め、14歳の時に両親を殺害した罪を問われたが、心神喪失状態だったという事で無罪となり、以来、孤島にある真賀田研究所に15年間外出せずに地下2階の自室で天才プログラマーとして活躍しているという、マンガのような設定の人物。 しかし私はこの類い稀なる天才の描き方について私はどうも物足りなさを感じる。天才、天才と作中で謳われている割には目から鱗が取れるような思いもよらない発想とか考え方が開陳されるわけでもなく、そういう考え方もあるわなといったレベルの思考でしかなかったからだ。 具体的なことははぐらかされ、全てが曖昧のまま、思わせぶりに結論付けずに終わってしまう。天才の考える事は常人には解らない、そんな持ち味を出したかったのだろうが、それは成功しているとは思えず、先に書いたように、誰もがそういう風に考えてはいるが、人道的・道徳的に口に出すことを憚っている類いの合理主義的思想を述べられているに過ぎないように感じた。 例えば、西之園萌絵などはお嬢様育ちで世間、社会に馴れていないせいか、嫉妬すること、腹を立てていることの理由が解らず、第三者的な視線で自分がそうしていることを自覚する描写が時折挿入されるが、この辺は確かに理解できる。 が、彼女が天才である描写で3桁、4桁の暗算を素早くするというシーンが何回か織り込まれるが、これを以って彼女を天才だと演出するにはなんとも稚拙なのだ。しかも犀川はその天才西之園が初めて自分より頭のいい人がいると意識した人物と書かれているが、上に書いたような人とちょっと変わった考え方をする人物とでしか思えなかった。 この齢にもなると、小説におけるキャラクター設定に関して穿った見方をしてしまうので、おいそれと書かれている説明を記述どおりに鵜呑みに出来なくなってしまっている。従ってもう少し彼らが本当に天才であるなぁと感嘆するようなエピソードが欲しかった。 本書では1つの密室殺人と2つの殺人が盛り込まれている。特に1つ目の密室殺人の謎がメインと云えるだろう。365日24時間記録し続ける監視カメラが見張っている上に、コンピューター制御されたセキュリティシステムで管理された室内で起きた密室殺人。しかもカメラには誰も部屋を出入りした人物が映っていない。 この堅牢なる密室殺人の謎解きは完璧と思いがちなコンピューターの盲点を突く真相で、実に鮮やかだったが、犯行に関しては私が推理していた範疇だった。 本書はこれから続くこのシリーズの序章に過ぎないことが最後に解る。毀誉褒貶折混ぜて感想を書いたが、彼ら真賀田四季と犀川・西之園という天才たちの造形もこれからシリーズを重ねていくに連れて厚みを増していくのだろう。 とどのつまり、作品を好きになるか否かはキャラクターを気に入るかどうかによる。現時点ではまだこの3人は戯画化されてて、またその考え方も首肯し難いところがあるので、手放しで好きだとは云えないが、今後この3人の物語がどのように展開していくのかこれからシリーズを追って確認していく事にしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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自身、戦争の闘士であったイスラエル作家マイケル・バー=ゾウハー1975年の作品で本書が私にとって初めての彼の作品である。
実に淀みが無いエスピオナージュ作品。正味250ページ強という薄さながら、舞台はイタリア、イギリス、ハイチ、スペイン、フランス、ソ連、オーストリアと目まぐるしく移り変わる。 それに加え、次から次へ現れる謎に、それに呼応して判明する諜報工作の数々。しかしどこまでが本当でどこからが虚偽なのか判らない。 現代エスピオナージュ小説の巨匠ブライアン・フリーマントルと違うのはこのスピード感だろう。 フリーマントルの作風は数カ国間に跨る国際犯罪、または第二次戦時下の亡霊の如く湧き上がってくる死体などをモチーフにどの国が主導権を握り、優位性を保つかという政治戦略的駆引きと上昇志向の高いエリートたちの高度な騙し合いに筆が費やされる。そのためあらゆるケース・スタディがなされ、自然厚みは増してくる。 しかしバー=ゾウハーは次から次に解ってくる事実が謎を呼び、その謎の鍵を握る土地、人物へと向かう。そしてその先には主人公の命を狙う影が潜んでおり、主人公の行く手には屍が転がっていく。つまり非常にオーソドックスなエスピオナージュだと云える。 このように実に淀みなく物語が進むのは、この物語が書かれた1975年当時が米ソの冷戦下という国際的な緊張関係あった事がもっとも要因として高いだろう。つまりその頃は敵の存在は明らかであり、物語はその敵とどのように戦い、もしくは逃れるかを焦点にしていたからだ。本書でも物語の発端となる「二度殺された男」の犯人は早々にKGBであると明かされる。 しかしソ連崩壊後の現代ではこの敵が明確ではなくなった。従って世のエスピオナージュ作家は敵を作り出すのに尤もらしい理由を考えなければならなくなったのだ。また先進国と他国との差が縮まってきた事により、国家間の政治的交渉も単純なパワーゲームでは済まされなくなり、高度な駆引きが要求され、そのためにプロットは複雑化し、物語は増大していったのだろう。 と、ここまで書いて気付くのは、実際のところ、物語の長大化を招いているのはワープロ、パソコンの普及もあるだろう。原稿用紙に手書き、もしくはタイプライターで書いていた頃は修正するにも大変であり、加筆もまた困難であった。しかしこの技術革新の賜物はそれらを容易にし、書いている最中、執筆が終盤に至っても、また校正後も手軽に追記・修正が出来る。しかしこれではなんとも味気ない理由ではあるのだが。 閑話休題。 先に物語は淀みなく進み、最初の死体の犯人も早々と明かされると書いたが、事件の構造は実に複雑で重層的だ。 本作で多用されるこのような価値観の逆転というミスディレクションはほとんど本格ミステリその物である。つまりこの諜報員たちの騙し合いというのは虚実交えた情報操作の応酬であり、それらの情報の中から正しい物をいかに摘み取って判断するか、そしてその判断が間違えば、全く違う話になってしまうという高度な情報ゲームである。 これは正に本格ミステリの創作作法ではないか。表と思っていたことが裏で、裏だと思っていたことが表となって反転する。つまり彼らはミステリの世界に常に身を置いているのだと云える。従ってインテリジェンスの世界に身を置いた人物がミステリを書くことは必然だったのだろう。 現在新作の声が聞かれないマイケル・バー=ゾウハー。その著作も絶版が多く、今、書店で入手できるのはわずか3作しかない。冷戦下のスパイ小説は確かに21世紀の今、時代錯誤的な感触を持つかもしれないが、本書を読んだ限りでは全くそうではなく、本格ミステリに通じる味がある。 今回は海外の赴任先の本棚に埃まみれになっていた本書を見つけて読んだが、なにかの切っ掛けで彼の諸作が復刊されることを強く望む。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『エラリー・クイーンの冒険』に続く第2短編集。まずクイーンの傑作中編とされる「神の灯」から始まる。
これは確かに傑作。ワンアイデア物だがクイーンの特徴が実によく表れている。また120ページ強という長さの中編だったことも良かった。逆にこれが長編であればこのアイデアで延々引っ張るには冗長さを感じさせるものとなったろう。確かにこれは忘れえぬ作品だ。 「宝捜しの冒険」は元軍人バレット少将宅で起きた真珠の首飾り盗難事件をエラリーが捜査するもの。使用人を全て元部下で固め、さらに軍隊時代の風習を守っているというこの特異な状況を利用した隠し場所だ。 しかしこれはまさかこれではないだろうなと思っていた方法がほとんど当っていたのでびっくりした。 「がらんどう竜の冒険」は在米日本人宅で起きたドアストップ盗難事件をクイーンが捜査するもの。題名はこのドアストップが竜の形を模した物であることから由来する。 ドアストップが小さいものであるから片手で摘んでおくようなものを想像していたら、なんと死体を海に沈めるための重しの代用となるほど大きな物だというのが解り、これもびっくりした。確かに寸法と重さが書かれているが、日本人にはフィートとポンドは馴染みが薄く、なんとも想像しがたい。しかしこれは逆にドアストップという単語から連想する先入観をあえて利用したのかもしれない。 『ニッポン樫鳥の謎』でも披瀝したエラリーの日本人観が本作でも開陳される。どうもエラリーは日本人の考え方は自身のロジックには当て嵌め難いらしく、苦手意識があるように思える。あと作中に出てくるシントーなる日本人独特の道徳観というのは一体何を指すのだろうか? 「暗黒の家の冒険」は遊園地にある真っ暗な部屋、通称「暗黒の家」の中で起こった殺人事件を扱っている。 何も見えない暗闇で犯人はどうやって離れた場所から銃弾を撃ち込めたのか?典型的な推理クイズ的作品。複数の容疑者がいて、その中から犯人を搾り出す。これは容易に解った。 異空間のような貴族の屋敷のある島で繰り広げられるのが異色作「血をふく肖像画の冒険」だ。 なんとも評し難い作品。有閑貴族の邸宅で繰り広げられる気だるい雰囲気の中で起きる言い伝えを擬えたような事件。 しかし真相はなんとも珍妙。幻想的な謎を準備してそれに都合のいい事件と真相を当て嵌めた、そんな歪な感じを受けた。 「人間が犬をかむ」からはなんと『ハートの4』で知り合ったポーラ・パリスと付き合っているエラリーの事件簿だ。 衆人環視の中での殺人というのは『アメリカ銃の謎』でもあったが、作中の注釈にも書かれているようにいつかヤンキースタジアムを舞台に同趣向の作品を書きたいというのがクイーンにはあったようで、それを叶えた一編。観客席でサイン会の後での毒殺事件を扱っている。 一見至極トリックと犯人は簡単に解りそうだが、そこはクイーン、一筋縄ではいかない。特にエラリーから明かされる真相は蓋然性の面からしても、ホット・ドッグに仕込む方が高いので、疑問に思っていたが、最後の皮肉がそれを帳消ししている。 次の「大穴」ではタイトルどおり競馬場が舞台。 これも衆人環視での事件で、状況的にはあからさまに犯行は見えるが、一捻りがやはりある。これはマジックで使われるミスリードの一種だと考えればこの犯行方法はギリギリ許容範囲か。また結末が題名とマッチして洒落ている。 続いて「正気にかえる」ではボクシングのタイトルマッチが舞台。 この真相は見抜けなかった。 最後の「トロイヤの馬」はアメリカン・フットボールの大学対抗試合での事件だ。 盗品の隠し場所については解ってしまった。 まず本作の大きな特徴は2部構成になっていることだ。 前半の「~冒険」という名の付けられた一連の作品は第一短編集からの流れをそのまま受け継ぐ純粋本格推理物だが、後半の「人間が犬をかむ」からの4編はクイーン第2期のハリウッドシリーズに書かれた物でエラリーは『ハートの4』で知り合ったポーラ・パリスとコンビを組む。 まず第1部とも云うべき前半部は、傑作と名高い「神の灯」から始まり、これが正に本格ミステリど真ん中の奇想を扱った作品。それ以降も元軍人のみが住まう館を舞台にした「宝捜しの冒険」、「ニッポン樫鳥の謎」の流れを引き継ぐような在米日本人宅で起こる事件を扱った「がらんどう竜の冒険」など、国名シリーズの衣鉢を継いだようなロジックに特化した作品が続く。 しかし「人間が犬をかむ」以降の後半から物語の舞台も球場、競馬場、ボクシングヘビー級タイトルマッチの会場、フットボール競技場とエンタテインメント性が高い場所になり、しかも物語の彩りとしてそれら試合の模様も書かれ、更に当時の著名人、有名人なども続出し、印象は実に華やかだ。 つまり本作を読むことで、第1期クイーンと第2期クイーン作品のそれぞれの特色が目に見えて解るのだ。 謎の要素としては「神の灯」を除いて各編の難度はそれほど高くない。トリックは案外解りやすい。しかしそれを成す犯人を焙り出すまでのロジックはやはりさすがはクイーンといったところだ。特に最後の2編に至る犯人が上着を着なければならなかった理由と、宝石の隠し場所から導き出されるロジックはこちらの想像を超えた物があり、感心してしまった。 個人的には純粋本格推理小説に特化した前半の5編よりも、後半のハリウッドシリーズの延長線上にある4編の方が好みである。 例えば「人間が犬をかむ」では野球観戦に夢中になるというエラリーの人間くさい一面が見られるし、何よりも各編でパートナーを務めるポーラ・パリスの存在が物語に彩りを添えている。 今までクイーン作品に登場する女性たちは容姿は端麗でも、どうにもステレオタイプでクイーンの男性的主観が大いに入った頼りない女性像が描かれ、個性が全く感じられなかった。唯一主役を務めたペイシェンス・サムが、男性社会で孤軍奮闘する女性として描かれていたくらいだ。 このポーラも初登場の『ハートの4』ではエラリーがこの世の美しさとは思えないと一目惚れするほどの容姿を持っていたが、作中で「人混み恐怖症」と書かれた軽い群衆恐怖症を患っているキャラクターであった。そのため、浮世離れしたイメージがあり、現実味に乏しいキャラクターであったのだが、ここではクイーンの恋人としての地位で振る舞い、なんとも躍動感に満ちたキャラクターになっていたので驚いた。 この2人が織成すやり取りは物語にコミカルさと男女の化学反応を感じさせ、エラリーが今までの作品に比べてもかなり人間くさく感じて好感が持てる。単なる気取り屋、頭でっかちの素人探偵というイメージを覆して、なかなか新鮮である。長編では『ハートの4』の次作となる『ドラゴンの歯』で既にポーラの姿は無いことから、恐らく本書がポーラの見納めになるようだ。なんとも勿体無い話だ。 第1短編集では純粋なロジックの面白さを堪能させてくれたクイーンだが、この第2短編集はそれに加え、エラリーの新たな側面を見せてくれた。 よく考えると法月綸太郎の第1短編集『法月綸太郎の冒険』も全く同じ構成だ。あの短編集も前半はロジック一辺倒の作品で後半は沢田穂波とのコンビであるビブリオ・ミステリシリーズだった。ここにクイーンの意志を継ぐ者の源泉があったのか。ここでまた私は現代本格ミステリに繋がるミステリの系譜を発見したのかと思うと感慨深いものがある。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野氏の短編集はこれまでにも『浪花少年探偵団』、『犯行現場は雲の上』、『探偵倶楽部』などが発表されていたが、それらは全て連作短編集で意外にもノンシリーズの短編集はこれが初である。
そんな短編集の幕を明けるのが高校を舞台にした「小さな故意の物語」だ。 東野氏得意の学園ミステリ。事件はシンプルでたった50ページの短編ながら図解を加えたトリックを入れ、更にどんでん返しをも含ませているのはこの作者ならではのサービス精神だ。 人の心の謎まで踏み込んだ真相はなかなか読ませる。この動機も昔の日本人女性ならば思いも付かなかったことだろう。現代女性の独立心ゆえに抱く一瞬の魔。単なる駄洒落のように見える題名も二重の意味―片思いの笠井の悪戯心と佐伯洋子が一瞬抱いた悪意―を持たせ、題名に無頓着だと思っていた偏見を覆すような見事さだ。 続く「闇の中の二人」も中学生とその担任教師が物語の中心。 この真相は解った。お昼のメロドラマが好んで採用したがるような内容だ。 物語に散りばめられたさり気ない伏線は実に作者らしいが、ちょっと単純だったか。それでもなお戦慄を抱くような冷たい肌触りを感じるのは巧い。 「踊り子」もまた中学生が主人公の作品。 なんともほろ苦い真相。「闇の中の二人」同様、思春期の衝動が運命に悪戯をしたかのような皮肉である。 「エンドレス・ナイト」からは学生から一般人に主要人物はシフトする。 真相も普通で、1時間の刑事ドラマを思わせるほどのベタな内容。ま、中にはこういうのもあるのは仕方ないか。 「さよならコーチ」はデビュー作『放課後』で扱われたアーチェリー部が舞台。しかし『放課後』が高校の部活であったの対し、こちらは社会人クラブである。 凄いシンプルな導入部でどこに謎が潜んでいるのか解らないほど自然な流れで進むうちに、隠された真相が見えるという技巧の冴えを感じる一編。 直美というアーチェリー一筋に若い時間を捧げた女性の絶望と愛情は同じようにスポーツの第一線で活躍した女性らには身に沁みるものがあるだろう。哀しい物語だ。 最後の表題作は凝った叙述が特徴的だ。 事件当夜と隠蔽工作を貫こうとする今の2つの時間軸で構成される作品。一人称叙述が非常に効果的に活きた作品。 冒頭にも述べたように、統一キャラクターで繰り広げられる連作短編集はキャラクター偏重の趣きが強いが、本作ではそれらを排し、トリックよりもロジック、さらに理論よりも理屈では割り切れない感情、人間の心が生み出す動機について焦点を当てているように感じた。 「小さな故意の物語」では嫉妬心から来る悪戯心と与えられる愛情に対する疲労感を、「闇の中の二人」では思春期にありがちな欲望と嫉妬心を、「踊り子」では淡い恋心を、「エンドレス・ナイト」はトラウマを、「白い凶器」は現実逃避から来る狂気を、「さよならコーチ」は人生を捧げたよすがを失った女性の絶望を描く。 唯一表題作が実にトリッキーな作品で動機も今までの東野ミステリにありがちな天才肌の犯罪者による、利己心だ。 ただ短編であるからか書込みが少なく、それ故それらの動機についてはちょっと踏み込みが足りないように感じた。「踊り子」、「エンドレス・ナイト」、「白い凶器」あたりは「小さな故意の物語」や「闇の中の二人」のような解決の後の真相をもたらすような二重構造が欲しかったところだ。 今回の作品集を読んで浮かんだ作家は連城三紀彦氏だ。特に表題作で明かされる真相には頭に描いていた既成概念を覆され、眩暈に似た感覚を覚えた。 以前にも書いたが、東野氏の最大の特徴は読みやすい文体にある。開巻して一行目からすっと違和感無く物語に入っていける透明感がある。従って読者はするりと物語の流れるままに身を委ね、登場人物と同化し、作中で起こる出来事をありのままに受け入れてしまい、気づいた時には思いもよらない展開の只中に晒されるような感覚を抱く。これはこの作家の最たる長所だろう。 個人的良作は「小さな故意の物語」と「さよならコーチ」。次点で表題作となるが、後日思い起こして話題に出るほどではない。技巧の冴えが目立つ故に軽く感じてしまう諸刃の剣のような短編集だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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瀬名秀明氏が『パラサイト・イヴ』で通称“理系ホラー”で鮮烈にデビューし、理科系作家によるミステリ・ホラーのブームの引鉄となったのが1995年。それに先駆けて1993年、既に梅原氏は本書を以って理系ホラーを世に出していた。
しかし版元が朝日ソノラマと認知度がさほど高くない会社であったためか、この作品は一部の読書通のみ知られる存在に留まり、彼の作家としての評価は次作『ソリトンの悪魔』が発表される瀬名氏デビュー同年の1995年まで待つ事になる。それも恐らく瀬名氏そして角川ホラー大賞が起こしたホラームーヴメントに牽引される形だったのではないだろうか。 ともかくも本書はなぜ発表当時に注目されなかったのかが不思議なくらい、よく出来た理系エンタテインメント作品である。 本書は端的に云えば、最新のバイオテクノロジーの知識をふんだんに盛り込んだ、仮面ライダーや秘密戦隊ゴレンジャーなどに繋がる、イントロンから生み出された生命体GOOと超人間UB、即ちアッパー・バイオニックで組織された部隊との戦いの物語だ。それを上下巻併せて1,000ページ以上の厚みで語りつくす。 作者梅原氏が考案した、人間を超人化するNCS機能、即ち<神経超伝導>という現象は壮大な嘘なのだが、それを裏付ける専門的科学知識が精緻に詳細に説明され、読者にさもありなんと思わせる。この一連の創作作法は瀬名氏の『パラサイト~』も同じ。本書はそれと相似形を成す作品だといえる。 瀬名氏はミトコンドリアを、梅原氏はイントロン配列と双方とも怪物の根源を元々人間が、生物の中に備わっていたある組織に着目しているところが全く同じだ。だが、梅原氏は瀬名氏よりもエンタテインメントに徹しており、とにかく次から次へ読者を愉しませるアイデアを放り込み、読者にページを繰る手を休ませようとはしない。 野心溢れる科学者の挫折から端を発したイントロンから生み出された怪物GOOとC機関という隠密部隊の闘い。そしてUBという超人の誕生から、更にはUBとGOOとのお互いの存続を賭けた世界規模での戦いへと物語はどんどんスケールアップする。 従って本書に挙げられる専門的知識は遺伝子工学、生命工学の分野に留まらず、軍事兵器・銃火器にも渡り、しかもそれぞれが詳細かつ緻密である。生半可な知識では到底書けない類いの物ばかりで、この梅原克文という作家の懐の深さ・資質をこの1作で存分に思い知る事ができる。 途轍もない大きな球体が転がり、触手を伸ばして次々に生物を捕まえては同化し、吸収していくという、この地獄絵図のような様子を読んで思い出したのは石ノ森正太郎の『幻魔大戦』だ。他にもまだ本作に繋がるモチーフは見つかるのかもしれない。 恐らくこの作品にはクトゥルー神話と『幻魔大戦』といった梅原氏の好きな作品がいっぱいモチーフとして詰め込まれているのだろう。 逆に本書から後世の複数のジャンルに渡って影響を与えたのではないかと思われる作品がいくつか連想される。 1つは発売されるたびに人気を博し、ハリウッドで映画化もされたTVゲーム『バイオハザード』だ。 本書でもこの単語は使われているが、この「生物災害」という意味のこの単語は本来ならば、感染性の強い開発中のウィルスによる災害を指し、本書でもこのGOOとの闘いはバイオハザードとは見なされていない。しかしゲームは本書で取り上げられた実験で生み出された未知の生命体によって起こされる災厄そのものを示している。本書の内容の近似性と両社に共通する「バイオハザード」という単語から類推するに、恐らくあの大ヒットゲームはこの小説に着想を得ているのかもしれない。 サイバースペースでの戦いは映画『マトリックス』を想起させる。特に超人間UBという、人間の限界を超越した存在は同映画の主人公たちがダブる。 そんな本書だが、一貫してモチーフとして作中にも登場するのがちらっと触れたがラヴクラフトのクトゥルー神話だ。生命体GOOはかつて“CTHULHU”の頭文字を取って“C”と名づけられており、深尾の前に何度も立ち塞がるGOOのコードネームはダゴン102。サイバーホラーに古典ホラーであるクトゥルー神話をハイブリッドした作品なのだ。 元々クトゥルー神話自体、その世界観を複数の作家で共有し、物語世界を広げていくシェア・ワールド構想が成された物であるから、この作品もまたクトゥルー神話大系の一作品となるのだろうし、恐らく作者の意図もそこにあるに違いない。 さてこの未曾有のエンタテインメント作品で梅原氏が採用した文体はなんと主人公深尾による一人称叙述。このようなパニックホラーを描くとすればこの選択は非常に珍しい。多面的構造を採用せず、主人公深尾を常に戦場の第一線に置くという設定だからこそ、この文体を採用したのだろう。 その判断は正しかったようで、主人公の逡巡、苦悩が直截に響き、また常に闘いの最前線に置かれる深尾と共に一寸先に潜む危険を探る臨場感に溢れている。 この深尾という男は、作中でも語られるようにいつか1人で会社を興し、成功者を夢見る野心に満ちた遺伝子科学者だったが、自ら引き起こした惨劇を苦に政府の機関である遺伝子操作監視委員会に所属するエージェントに身を窶している。そのようなエリートにありがちな自分の実力に絶大な自信を持つナルシスト的側面と周囲を見下す視線を持ち、一匹狼を気取り、上司に歯向かう姿勢を備えて、また過去の過ちに常に自責の念を抱き、自ら危険に踏み込む自殺的思考―本書ではアープ症候群と呼ばれている―の持ち主だ。一緒に仕事をするにはいわゆる「イヤな奴」なのだが、その性格に合わせたハードボイルド調の語り口がマッチしていて嫌味を感じずに物語を読むことが出来る。 この文体は大いにチャンドラーを意識した物と思われる。多用される比喩がそれを特に裏付けている。しかしチャンドラーのそれとは違い、深尾が元科学者という特徴を出すためか、使われる例えも例えば「出会っただけで超伝導マイスナー効果のように反撥する」とか「全身のシナプスがアセチルコリンの分泌を停止したみたいだった」といった理系的専門用語を意図的に多用しているようだ。 この辺は物書きとして第一歩を踏み出した作家にありがちな、肩に力の入りすぎた感じが否めないのだが、私個人としてはそれほど悪くは感じなかった。 逆によくもこれほどのパニックホラーを一人称叙述で書き切ったものだと感心した。破綻無く進むストーリーテリングは重ねて云うが、梅原氏が既に作家としての実力を備えていることを見事証明している。 最新(1993年当時に構想のみされていたものも含めた)のバイオテクノロジーからダーウィンの進化論、そして恐竜の絶滅から新約聖書、サイバースペースなどなど、多種多様なジャンルを盛り込み、壮大なスケールで描いたスペクタクルホラー。 一言で云おうとすると、修飾語が多く付きすぎて収拾が付かなくなるほど、盛り沢山のエンタテインメント作品。 先に述べたように、本書の影響を受けたと思われる作品が好評を博している今、少し早すぎた作品だったのかもしれない。勿体無い。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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絶賛を持って迎えられた短編集『20世紀の幽霊たち』の作者ジョー・ヒルの初の長編は幽霊の復讐譚を扱ったホラーだ。
主人公は54歳のロックスター、ジュード・コイン。彼は厳格なる父親からの反発からロックスターになり、そして成功を収めて、今では半隠居状態だ。それはバンドメンバー3人のうち、2人を事故と病気で亡くしたことが彼から音楽活動の火を絶やしてしまったようだ。そして娘ほど歳の離れたゴスロリ系のファンを捕まえては同棲生活を送るという生活を送っている。 そしてジュードが今付き合っている女性がジョージアことメアリベス・キンブル。ストリッパーの身からジュードに拾われ、同棲している。この2人に降りかかる災厄が、過去ジュードの付き合った女フロリダことアンナの姉から送られてきた霊能力者だった義父の幽霊が取り憑いたスーツから始まる。 家族を間接的に失った遺族の復讐が動機と思われた怪異はしかし意外なバック・ストーリーが後半明かされる。 ジュードとジョージアの幽霊との闘いという図式で展開する物語はその実、別れた元彼女フロリダことアンナ・マクダーモットの物語でもあることに気付かされる。 またもう1つ、この小説が内包しているのはロックスターという特異な職業を持ち、人とは違った半ば自堕落な生活を送った男の回想だ。 父親に反発する事で家を飛び出し、ロックスターとして名を馳せ、生活に困らない金を既に稼ぎ、4年も新曲を発表していないのに未だにコンサートやTV出演の依頼が来る、人間として成功したという現状に翳を指すのは、自分の前を去っていった、あるいは自分から去っていった人々に対する喪失感だ。 自分のコレクションの1つ、スナッフ・フィルムを観たことで離婚した元妻が持っていた、自分勝手な行動に不平不満を云うことなく常に許してくれていたその包容力。 アメリカ全土のほか、世界をライヴツアーで一緒に駆け巡った今は亡き元バンド仲間。 とっかえひっかえベッドに誘ったグルーピーたち。 その中で数ヶ月間一緒に生活を共にした過去の女たち。 ずっと質問ばかりし、別れた後、浴槽の中で手首を切って死んだフロリダ。 恐らくこれらはロックスターには付き物のゴシップの数々だろう。人の数倍もの早いスピードで文字通り人生を駆け抜けるが如く、生きるスター達の心情とはいかなるものか。 来る者拒まず、去る者追わず。 ジュードは今まで護るということを求められるとその結果を考えず、なんでも受け入れすぎてきたのではないかと述懐する。一般人には想像できないスターの心境に対するこの心理描写は1つの解答例のようだ。 『20世紀の幽霊たち』の感想にも書いたが、読んでいる間、クーンツ作品を読んでいる既視感を感じた。主人公の心情と信条をくどいまでに細かく叙述する語り口、登場人物が幼少の頃に親から受けた迫害というトラウマ、そして何よりも物語のキーを握る存在が犬という共通性。 父キングの作品は読んだ事が無いので一概に比べられないが、クーンツの影響がそこここに見られた。 特に幼児虐待、家庭内暴力、近親相姦、親の死に立ち会わない子供ら・・・。 本書に挙げられる現代社会が抱える家族問題の問題はクーンツが最近よく取り上げる題材だ。そしてどの登場人物に関係するのは父親という存在に対する畏怖。これもクーンツが昔からトラウマの如く語り続けてきたテーマだ。 特にヒルの父親がキングである事実から類推するとこの登場人物たちが抱く父親への思いに注目していたが、意外にもジュードが幼い頃に抱いた父という障壁を乗越える手段はなんとも直接的であり、肉体的であった。二度と帰らないと決めた実家に戻って対峙した父親という精神的な壁の克服という側面をあえて避けたのか、それとも物語の都合上、ああいう形になってしまったのか解らないが、期待していただけにあの決着のつけ方は残念だった。 そして主人公に脅威をもたらす幽霊クラドックはクーンツが生み出す、主人公に絶望的なまでの無力感を感じさせる悪魔のような怪物ほど怖くは無い。共通するのは異常なまでの執着心と蛇が蛙をいたぶるが如き醜悪さ。それでも悪役の造型にはやはりクーンツに一日の長がある。 まあ、デビュー仕立ての作家をホラーの大御所クーンツと比べる事自体が過大な要求なのだろうけれど。 また本書の献辞は父親に捧げられている。アメリカ現代文学を代表する作家となった父キングを『20世紀の幽霊たち』を著す事でその呪縛から逃れ、改めて父親に向き合い、初の長編作品を世に、父に届ける事が出来たという自負が窺える。 とはいえ、私の感想としてはいささか饒舌すぎ、あと一滴のエモーションが欲しかったところだ。 本書は娘の自殺の逆恨みから生じた幽霊の復讐譚と、ホラーとしてはオーソドックスな題材だったが、『20世紀の幽霊たち』で見せたようにこの作家の持ち味は物語のヴァリエーションが非常に豊かなところだ。 その最たる特徴を活かして今後この作家でしか書けない長編ホラーが現れることを強く期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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島田荘司氏、数年の沈黙を破っての大作。文庫版670ページ強を費やして語られる事件は御手洗シリーズの新作を待望していた読者の渇きを癒すのに十分な内容だ。
なんせ事件がすごい。 舞台はニューヨークのアパート、セントラルパーク・タワー。物語の導入部で語られる元女優が死の間際に話したたった15分のうちに34階の部屋から停電中に1階の住民を拳銃で殺して戻ってくる不可能状況から始まり、スーツを着た骸骨の顔を持った男が、ロックされたゲートを通り抜けて住民を射殺する事件。 さらに物語は53年前に遡り、そこで起こる不可解な連続殺人事件。3つの密室内で自殺したとしか思えない事件。さらに時計塔の大時計の長針の針を利用しての演出家の断頭殺人。そしてハリケーンの夜に突如起こったアパートのほとんどの窓が爆発した最中の建築家の転落死。貨物用エレヴェータに佇み、奇声を発する骸骨。それらの事件の陰に蠢くファントムという名の仮面を付けた怪紳士。 往年の島田氏のセンス・オブ・ワンダーが溢れんばかりに盛り込まれた奇想の応酬である。 そして本書に登場するのは若き日の御手洗潔。まだ石岡と出逢う前の、アメリカのコロンビア大学に留学していた頃の彼だ。 従ってここに出てくる彼は全知全能の神ではない。不可能状況・夢幻としか思えない奇妙な現象に惑わされ、思考する一個の探偵なのだ。石岡が主役を務める『龍臥亭事件』、『龍臥亭幻想』やレオナが主役を務める『ハリウッド・サーティフィケイト』などのスピンオフ作品に電話のみで登場して全てを解き明かしてヒントを与えるような超天才型探偵でまだないところがいい。 したがって非常に若々しい。『眩暈』までの作品でよく見られたフィールドワークに嬉々として没頭する彼の姿がここにはある。 なんとも嬉しいではないか。やはり御手洗はこうでないといけない。 さらに本書では舞台であるマンハッタンに纏わる様々な都市伝説が開陳される。マンハッタンの摩天楼が巨大な岩盤に作られていることは有名だが、その摩天楼が出来るに至った高層ビル競争の歴史、その地下には摩天楼に勝るとも劣らない巨大空間が広がっている都市伝説、そしてセントラルパークに纏わる逸話の数々。歴史の浅い国アメリカの中で最も急激に発展し、ロンドン、パリをも凌ぐ大都会となったマンハッタンという特殊な都市の秘密がストーリーに絡めて語られていく。 これこそ島田ミステリの真骨頂。本当に久々の本家御手洗シリーズを堪能した。 特にマンハッタンの地下王国についてはかなり信憑性が高いようで、マンハッタン界隈のホームレスの数が年々減っているようだ。しかもこれについては『モグラびと』なる本も出版されており、それに詳しく記載されている。 さて島田作品には従来からシャーロック・ホームズの影響が強く見られるのは知られているが、もう1つ特徴的に見られるのは乱歩の影。 今回は特に連続殺人事件の1つ、セントラルパーク・タワーの大時計の長針を利用した断頭殺人は乱歩作品でも幾度となく使われた殺人方法であった。 そして題名、連続殺人事件に現れては消える謎の存在ファントム、さらには物語の中心となるのが女優であることから容易に連想されるある有名な作品がある。そうガストン・ルルーのあの名作だ。これは島田流『オペラ座の怪人』なのだ。 ただあとがきにも述べられているが、本家が怪人と美女との悲恋の物語であるのに対し、本書はあくまでも不可能趣味、怪奇趣味を前面に押し出していること。従ってファントムが恋焦がれて止まないジョディ・サリナスなる女優がそれほど生涯を賭して守るほどの愛らしさ、崇高さを備えているとは思えなかったきらいはある。 とはいえ、さすが島田氏、最後に忘られぬ驚愕の真相を用意してくれる。 確かに摩天楼を形成するビルの頂上にはガーゴイル像など意匠を凝らした装飾が成されているのは映画でもよく見られたが、これを更に一歩押し進めたこの島田の奇想はなんともロマンティックだ。 そして物語全体に散りばめられた謎は今回も御手洗の閃きによって暴かれるが、果たしてこれを本格ミステリと呼んでいいものか疑問が残る。 確かに手掛かりとなる暗号もあれば、事件現場の見取り図も読者に提示されている。が、しかしそれでもこの真相を看破できる読者は皆無であろう。 また今回のメインの謎とされるたった15分間―その後物語が進むにつれてそれは10分間と更に短縮されるが―で1階から34階までいかに移動して殺人を成しえたかという謎の真相もまたある専門知識、いや薀蓄を知っていないと解けないものだ。唯一おぼろげながら真相が解ったアパートの窓が一斉に爆発した謎の真相もまた専門知識が必要であり、門外漢には全く解けないものだろう。 こうして振り返ってみると、もはや御手洗シリーズは読者との推理合戦の領域を超越し、作者の奇想の発表の場になってしまったのだなと一抹の寂しさを感じる。 しかしその作者の奇想が読者の予想をはるかに超え、実にファンタスティックである故に、私のような固定ファンがいつまでもいるのだ。この作風が許せる島田氏はやはり日本の本格シーンの中では唯一無二の別格的存在だといえよう。 久々の重厚長大の御手洗シリーズ。本作は往年の物と比べると勢いはやや劣る物の、その豪腕ぶり、斬新な奇想はまだまだ健在だと証明するに十分すぎる作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ロボットが人間の生活に入り込んだ、今より少し先の世界をテーマにした短編群に「WASTELAND」という、ロボットのみが生存する近未来の地球を描いた短編が間奏曲のように語られる。
表題作「ハル」は愛玩用ペットロボットの名前が題名になっており、これにヒューマノイドが絡んだちょっと不思議な手触りのする作品だ。 人間が作った人工物が理論を超えた進化を遂げるというのは瀬名氏の過去の作品でも取り上げられていたが、これもそのテーマに沿った一編。ここではロボットに魂は宿るかという命題に取り組んでいる。近い将来、ロボットが単なる玩具や客寄せパンダではなく、一大産業として社会に本格的に盛り込まれていくであろう未来への警告か。 「夏のロボット」は子供の頃にロボットと不思議な人物と出会った出来事が語られる。 ロビタという人工知能を備えた学習型ヒューマノイドと娘の菜都美とのコミュニケーションで次第にロビタが人間に近くなっていくことに気付いた恵が至る真理が「ハル」とは同じなのにその受取り方が逆なのは面白い。片や畏怖や嫌悪感を抱くのに対し、恵は新たなる知性の出現の萌芽に地球上の唯一の知的生命体である人間が孤独感から解放されると喜びを示す。この感覚は理解できる。 個人的に好きなのは「見護るものたち」と次の「亜希への扉」だ。 前者の舞台はタイ。災害救助ロボット、地雷探査ロボットなど前2編にもまして現実味を帯びている題材である。リーというタイの寒村に住む女の子と犬とロボットの交流という、泣かせる要素を全て盛り込んだ作品である。読んでいる途中でリーの行く末が解ってしまった。 しかしここで語られるのはその悲劇を超えて尚且つロボット開発に挑むのかという杵島の覚悟を確認する物語。主人公はあくまで杵島というロボット技術者の挫折と再生の物語なのだ。 彼は災害救助にロボット技術者として携わるたびに、自分の開発したロボットが想像していた以上に役に立たない事に直面し、挫折感と徒労感を味わう。果たして自分は社会に貢献しているのだろうか、人間の役に立っているのだろうかと。しかし最後にパートナー岡田がかける言葉に救われる。 ロボットというのは希望の装置なのだという。誰もがロボットに希望を抱く。それは未来の象徴だからだ。だからその分失敗すると挫折感も大きい。恐らくロボット開発というのはその繰り返しだろう。しかしそれでもなお貴方はロボット開発は止めないだろう。それこそが大事だ。その努力を続ける事こそ理想に近づけく唯一の道なのだ。 このメッセージは瀬名氏がロボット技術者全てに送る励ましの言葉と私は受取った。 余談だが、地雷探査犬の名前アインシュタインに思わずニヤリとしてしまった。クーンツファンである瀬名氏の茶目っ気だろう。 そして「亜希への扉」はなんとも甘いラヴストーリー。 物語の冒頭で断っているようにこの作品はメルヘンだ。といっても模型が生命を宿してしゃべったり、動物がしゃべったりするような類いのものではなく、出来すぎたラヴストーリーと云えるだろう。 しかしこういうベタな作品もまたいいのではないか。それよりもこの作品で述べられる、成長期にある子供がロボットと交流して育ち、やがてロボットのAIを凌駕して成長してしまったときに直面する魔法が解けたときのような喪失感、そして永久的に動き続けるロボットに死のプログラムが必要になるというある人物の考えなど、実に興味深い。そこまで瀬名氏は考えているのかと驚嘆した。 また題名だがこれはハインラインの傑作をもじった物。これも作者の茶目っ気か。 そして本書の主題ともいうべき作品が最後の「アトムの子」だ。 各短編、そして幕間で挿入される掌編「WASTELAND」、これらに共通する1つの軸とも云うべき存在がある。それは鉄腕アトムである。マンガの神様手塚治虫が創作した人型ロボットこそ、日本のロボットの研究の始まりであり、究極形であり、ロボット研究者が至る道だという風に瀬名氏は述べている。その思いが結実したのがこの最後の短編だろう。ここで語られるのは非常に哲学的な話だ。 果たしてロボットに正義を教える事が出来るのか? そしてまた正義とは一体何なのだろうか? 本書の登場人物の一人の口から語られるロボットが正義を信じる理由が実に哀しいながらも腑に落ちる。人間でも機械でもない継子である彼らがアイデンティティを失う代わりに彼らは正義をアイデンティティとして生きるのだというのは実に興味深い考察だ。 これらの短編群は直接的には関わりは持たないものの、全てが地続きであり、同一の世界で語られ、呼応している。ファンタジックな装いの幕間劇「WASTELAND」もまた最終編「アトムの子」で地続きとなる。 そして本書に挙げられているロボットは実に多彩。愛玩用ロボット、学習型ヒューマノイド、対話型AIを備えた受付ロボット、災害救助ロボットに地雷探査ロボットなどなど。 これらのロボットと人間が共存する世界、そしてロボットを介して築かれる人間同士の絆がまずテーマの1つと云えよう。ロボットがコミュニケーションツールとして、生活のサポーターとして、はたまたパートナーとして人間の生活の中に介入する世界が描かれている。そしてそれらロボットを通じて得られる人間同士の新しい絆もまたそうだ。人間が作ったロボットによって生かされる人間もまたあること。ロボットがいたからこそ知り合えた人々の物語がここには綴られている。 そしてもう1つは人造物がある日突然人間の理解を超えた行動をするだろうという予見だ。特にある日突然飛躍的に発達・進化するという発想はデビュー作の『パラサイト・イヴ』以来、瀬名氏が必ず作品のテーマに盛り込んできた内容だ。 本書では人口の産物ロボットが人間が持ちうる雰囲気、気配といったプログラムできない、抽象的な部分を次第に身に付けていくこと、そして自らの死に際を求め、いずこへと消えてしまうといった都市伝説的事象などが語られている。 ここが瀬名氏という作家の面白いところと云えよう。自身博士号を持つ科学者であるのに、彼の面白いところは論理や理屈では説明できない存在を受け入れている。理科系作家でありながら精霊などといった超常現象を導入するファンタジーを創作するところにこの人の特異性があると思う。 しかし瀬名氏は2002年時点でのロボット工学の最新技術を取材し、それから類推される人々の生活への影響、意識の変化などをしっかり足が地に着いた物語を紡ぎ、ロボットを扱った作品にありがちな人間がロボットに支配される社会を描くデストピア型の作品を書いていないところが素晴らしい。 しかしそれでもロボットが発展する上で直面するだろう云い様の無い畏怖を抱くこともきちんと描いている。 本書に収められたメッセージはそのまま瀬名氏からロボット研究者たちへのエールと云っていいだろう。ロボットが果たして未来に役立つのか、単なる道楽で終わってしまうのか、研究者たちは絶えずその悩みと直面しているに違いない。瀬名氏は現在のロボット技術の進捗とその未来を作品として著す事で彼らの後方支援をしているのだ。 本書の舞台は2001~2030年という近未来。2002年に発表された当時、瀬名氏はこの頃既にロボットは人間生活に入り込み、無くてはならない物と想像していたようだが、2018年の今、残念ながらその予兆はあるものの、この予見はまだ先のことになりそうだ。 果たしてここに語られるような未来は来るのか、まだ先は見えないが、こんな未来はまんざら悪くないなぁと思わせる、心温まる作品群だ。 |
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【ネタバレかも!?】
(16件の連絡あり)[?]
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第2期クイーンシリーズと云われているハリウッドシリーズの1冊である本作はきらびやかな映画産業を舞台にしているせいか、物語も華やかで今まで以上に登場人物たちの相関関係に筆が割かれ、読み応えがある。恐らくこれは作者クイーン自身が遭遇したハリウッドという特異な世界に触発されたものであろう。
『中途の家』や『ニッポン樫鳥の謎』でも登場人物間の愛憎が描かれていたが、そのぎこちない筆致は頭で想像して書いたようにしか思えず、居心地の悪さを感じてはいた。しかし本書の中心人物であるロイル親子とスチュアート親子の罵詈雑言の応酬とそれに相反する素直になりきれない愛情の断片が垣間見える仕種や台詞にはそれまでの不器用な人間描写から一転して瑞々しさを感じる。 今回はこの両家、とりわけそれぞれの息子、娘であるタイ・ロイルとボニー・スチュアートの、お互いに惹かれあっているのに素直になれない関係が事件に関係しているという、“恋愛”をテーマにした事件を更に掘り下げている。 そして登場人物の描き方も今までの作品に比べ、随分印象が違い、物語に躍動感がある。 ハリウッドの天才児ジャック・ブッチャー、放蕩脚本家リュー・バスコム、宣伝部長のサム・ヴィクスなど脇を固める映画産業にどっぷり浸かった、興行のためならばどんなアイデアも拵え、金に糸目をつけず実行する常識外れの持ち主から、ハリウッドのゴシップに精通している絶世の美女でありながら群衆恐怖症であるポーラ・パリスに、登場人物表にも名前が記載されていないながらも印象を残すジューニアス医師にグリュック警視。そんな中でも何よりも特徴的なのは本作で事件の渦中に置かれるジャックとタイのロイル親子とブライズ、ボニーのスチュアート親子だろう。 上に述べたように今回は“恋愛”が事件に大いに関わっている。お互い長い間、反目していた両家が突然起きた化学反応のように惹かれあい、結婚を決意する。そのために起きた殺人事件。そして双方の親を亡くした後、歴史が繰り返されるようにその子供らも長年の確執が反転して愛に変わり、結婚を決意するが故にまた命を狙われる。 憎しみというのは愛情と裏表の関係にあるのはもはや周知の事実だが、クイーンがこのような物語を、ページを多く費やして書くことが驚きであった。 この頃、実作者のクイーン自身、ハリウッドに招かれ、脚本家として働いていたが、そこで要求されるのは緻密なロジックよりも面白おかしい登場人物たちが織成す人間喜劇というドラマ性である。 結末もそれまでの作品で人が人を裁くことに対し、苦悩していたクイーンが独りごちてシリアスに終わる閉じられ方から一転している。 このシーンが象徴するように、ハリウッドの経験が作品に大いに影響を与えたのはまず間違いない。 既に述べたが、何しろ登場人物の性格描写、また主人公クイーンの人に対する思いの強さが今までと断然違う。人を犯罪というゲームの駒の一要素としてしか考えていないような節のあった従来の作品群と比べると雲泥の差だ。 台詞も古典からの引用が極端に減り、ウィットに富んでいるのも注目すべき点であろう。 演出という意味では今回犯罪予告として使われたトランプのカード。これこそ非常にエンタテインメント性が強い。江戸川乱歩の『魔術師』で使われたカウントダウンやルパンの犯罪予告状といった、推理小説というよりも通俗犯罪小説という趣きが強いのも本作の特徴であろう。 特に第2の犯行ではそれを逆手にとってクイーンが罠を仕掛け、その瞬間に犯人と、しかも飛行機の機内という映像的な舞台で対決する辺り、今までにない凝りようである。 個人的にはこういう趣向は好きである。しかしクイーン=緻密なロジックというフィルターが邪魔をして、本作の評価を辛くしている。 本作で見られるドラマ性高い演出と事件の意外性、驚愕のどんでん返しが一体となれば、更にその評価は増すに違いない。非常に贅沢な要求なんだろうけれど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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上手い。実に上手い。
相手に嵌められ、妻まで奪われて刑務所に入れられた男が出所を機に全てを取り戻すため、復讐を企む。今まで何度も使い古されたプロットであるが、そこはフリーマントル、普通の設定にしない。 なぜなら復讐者ジャック・メイスンこそ、元妻の安定した生活を脅かす悪の存在だからだ。彼はCIA勤務中はロシアに情報を流す売国奴であり、私生活では女を買うのは勿論の事、公然と浮気をし、妻に暴力を振るっていた最低の男なのだ。 この通常ならば主人公の宿敵となるべく恐怖の存在を逆に主人公として設定したところにフリーマントルの作家としての一日の長がある。 また逆を云えば、かつて自らの手で刑務所に送った男が出所し、主人公に復讐するという話もあるが、本書の特異な点は物語をこの同情すべからぬ復讐鬼側から描いたところにあると云えよう。 そしてこの復讐鬼ジャック・メイスンが通常設定されるようなサイコパス、性格異常者ではなく、元CIA諜報員であり、模範囚として減刑され、刑期を5年も縮めて仮出所した男であるという社会的常識を備え、かつ特殊な訓練を受けた男という点に注目したい。 元○○工作員、元グリーンベレーといった殺人能力に長けた復讐者という設定も往々にしてあるが、ほとんどの物語はその特殊性のみ取り沙汰され、復讐鬼=モンスターのような扱い方をされていたように思う。しかしフリーマントルはジャックをそう描かず、15年も刑期を勤めた出所者からスタートし、そこから社会への順応、徐々に復讐の計画を積み上げる過程、そして復讐を成すために積み上げる男として、元諜報員としての自信の回復、そして一方ではいざ実施となった段に逡巡する心理状態などを細かく描く。つまり復讐鬼が社会的不適合者という異常者というような定型を採らないところに本書の読みどころがある。 そして今回復讐を受ける側、ドミートリイ・ソーベリことダニエル・スレイターとアン、そして息子のデイヴィッド一家側の設定もまた巧みだ。 ジャックが出所する段になって、突然彼らに幸運が紛れ込む。ダニエルは自らが経営する警備会社に新規契約と大きな取引が次々と来るようになり、アンは自分たちの住む地方都市フレデリックで営む自らの画廊に有名な画家の個展を開く話が舞い込み、それを成功させたことでメディアの取材に引っ張りだこになり、街の名士となりつつあり、息子のデイヴィッドもバスケットの才能を買われ、大学からスカウトが来る。 こういった人もうらやむサクセスストーリーが、復讐を恐れ、証人保護プログラムの庇護を受ける彼らには災厄の種でしかならない。この大きな幸運がさらに大きな不運を呼び込むストーリー展開の妙と、証人保護プログラムの盲点を付くこのフリーマントルの着想に思わず唸った。 主題がはっきりしているだけに、物語の行き着く所は実に明確だ。即ち復讐は成されるか、成されないかだ。 こういう単純な構造の物語はそのゼロ時間に向かうまでのプロセスに読みどころがあると云えるだろう。同じ復讐譚を扱ったP.D.ジェイムズの傑作『罪なき血』が正に好例と云える。 フリーマントルの場合はと云えば、云わずもがなで、復讐する側とされる側の双方を丹念に描き、全く飽きさせず、“その瞬間”まで双方を振り回す。 またフリーマントルはアメリカの証人保護プログラムに警鐘を鳴らしている。この堅牢と思われたシステムが、実はいくつもの欠点があり、その成功実績は薄氷の上に立つ危うさ、いや逆に情報が隠されているだけに絶対安心という虚像でしかないかもしれないのだ。 エルモア・レナードもこのプログラムには『キルショット』でかなり辛辣な評価を作中で下しており、アメリカ国民(フリーマントルは英国人だが)の中でもその信頼性を疑われているのが解る。 しかし本書を読んでいるときはそんなことは考える必要はない。CIA、KGBは出てくるものの、従来のフリーマントル作品と違い、政治的駆け引きが一切なく、物語がジャックの復讐のプロセス1点に絞られて進むのが非常に読みやすい。 彼のスパイ物に横溢するディベートの応酬も醍醐味だが、こういうシンプルな構成であるが故に、彼のストーリーテリングの素晴らしさが引き立つ。ぐいぐい引き込まれる物語に委ねるだけでいいのだ。 一般的に国際謀略小説の重鎮と呼ばれ、その格調の高さから敬遠されがちなフリーマントルの作品だが(それでも毎年コンスタントに訳出されているのは売れているからだろうが)、本書は彼の本を初めて読む人にはそういった意味ではまさに“うってつけの”一冊ではないだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は単純な構成ではない。実は作者自身と思われる理科系作家が上野の国立博物館でフーコーの振り子に出会ったことから小学校の頃の不思議な体験を思い出しながら物語を綴るという入れ子構造的な作品となっている。その物語はその小説家が小学校6年生の夏休みに出会った不思議な博物館の思い出、そして実在の人物であるフランスの考古学者オーギュスト・マリエットを主人公とした歴史小説であり、この3つの話が交錯し、お互い共鳴し合うという凝った作りになっている。
また語り手である小説家はほとんど瀬名氏の分身であるようだ。従って、この作家の私の心情はそのまま瀬名氏の言葉といっていいだろう。自分の創作手法と編集者が求める物との齟齬、物語の創作と人を感動させる手法、そして小説論など小説家としての苦悩が色々書かれている。 そして作中の小説家が吐露しているように本書は瀬名氏が物語作家になることに挑戦した作品だと云える。 では瀬名氏の小説は物語ではなかったかというとそうではない。起承転結があり、登場人物もステレオタイプ的でありながらも善玉・悪玉がきちんと描き分けられていた。ただそれらは主題となる専門的な学術分野の内容をふんだんに盛り込んだプロットを軸にして、動かされていたような様があり、あくまで主眼は最新科学をベースにした自らのアイデアだったように思う。従って読者はその専門性の高さに半ば驚嘆し、半ば難解さに理解を放棄していたようだ。実際『BRAIN VALLEY』は途中で挫折した読者も多かったと聞く。 その事を作中の小説家の口を借りて、自身が目指していた感動とは一般の物語で得られるものではなく、論理への感動、技術への感動、概念への感動であったと述べている。つまりあるべき物があるべき姿で収まる事、その完璧な世界が映し出す美しさを瀬名氏は感動と捉え、それを自身の作風とした。 しかし本作ではその学術的内容は極力抑えられ、登場人物の心情描写や、行間から匂いや温度までが感じられそうな風景描写に筆が割かれている。その結果、本作は片やノスタルジー溢れるジュヴナイルでもあり、はたまた19世紀のパリの万国博覧会のシーンや発掘ラッシュの19世紀のエジプト、もしくは紀元前のエジプトを精緻に描いた歴史小説の貌をも持つ、多彩な作品となっている。 前後したが前に読んだ『虹の天象儀』は本書の刊行後に著された物であり、『虹の~』が一人称叙述で語られ、主人公の心情描写に多く筆を費やしていることからも、本書が瀬名氏にとって作風の転換期となった作品であると云っても過言ではないだろう。プロット・構成・人物配置など計算し尽くして創作された物語よりも、作者の制御を離れて作中人物が勝手に動き出す、熱を持った物語へシフトする事に挑戦したのだ。 とはいえ、やはりこの作家の持ち味であるテクノロジーに関する内容は従来の作品と比べれば少ないものの、きちんと織り込まれている。特に亨が遭遇する謎の博物館が持つ人口現実世界と名づけられたシステムは今で云う仮想空間世界を更に発展させた物であり、これが恐らく近い将来実現する物ではないかと思われる。そこに加えた瀬名氏の物語としての嘘、仮想空間を現実に近づけることで計算の域外で起こる「同調」という現象が本作の肝だ。この「同調」を利用して、悠久の歴史に埋もれた事実や遺産を復活させる事がこの博物館の主目的であり、それが物語のクライマックスへの呼び水となっている。 この科学を超越した現象は『BRAIN VALLEY』で取り上げた形態共鳴という不可解な現象が下敷きにあると思われる。単に知識として蓄えたままにせず、それを換骨奪胎して新たな超自然現象を想像するこの手腕はやはりこの作家の特質と云えるだろう。 一方で作中に織り込まれた小学6年生が初めて手にした創元推理文庫に対する思い、エラリー・クイーンやルパン三世、ドラえもんといった実在の固有名詞が郷愁を誘う。特に本作の舞台となる博物館は人工現実世界が現実世界の物と同調し、融合しているところなどはドラえもんのどこでもドアに代表されるひみつ道具の発想と非常に似通っており、非常に影響が強く感じた。実際、最後に藤子・F・不二雄へ献辞が書かれている。 野心的な作品であることは疑いないが、語りたい事、試したい事が多すぎたためにちょっと凝りすぎたか。誠に惜しい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2001年、祥伝社が400円文庫と銘打って、当時文壇で活躍していた作家達に200ページ弱の書下ろし作品を依頼するという企画があった。本書はその企画にて書き下ろされた瀬名氏のSF中編である。
瀬名氏といえばデビュー作が角川ホラー大賞を受賞した『パラサイト・イヴ』であることは有名だが、その後もSFサスペンス大作『BRAIN VALLEY』を上梓している。それらに共通するのは絶対的な専門的知識に基づいたフィクションの制作であり、どこか現代と地続きである事を感じさせていた(『BRAIN VALLEY』はあの結末が飛躍しすぎているきらいがあるが)。 しかし本書では現代科学では当面空想上の物と考えられているタイムスリップを扱い、大人のメルヘンともいうべき1編となっている。 しかし本書でのタイムスリップの扱い方はいささか趣が異なる。といいながらも斯くいう私も論じるほどタイムスリップ物を読んだ事がないのだが、その少ない知見に基づいて書くならば、通常タイムスリップというのは個人的な忌まわしい過去を清算する、もしくは過去の過ちを正すために奮闘するという流れでストーリーが運ぶと思うが、本作では主人公が好きな実在の作家織田作之助の夭折を防ぐこと、そして空襲で焼け落ちる毎日天文館からプラネタリウム投影機と日本の天文学界において貴重な資料である格子月進図を守るという、実在の歴史を改変することを目的にしている。 シミュレーション小説などでよくあるテーマかもしれないが、瀬名氏が書くタイムスリップ物と構えて手に取った私にしてはけっこう思い切った事をするなぁと思った。 勿論、これらの目的は達成されないのだが、代わりに主人公が得るものはある。それは五島プラネタリウムを勇退したその後の人生の目標だ。彼はそれを夢見て今後の人生を過ごす事が出来るのである。 そしてなぜこのような作品を瀬名氏が書いたのか。私が思うにそれはたびたび引用される織田作之助の末期の言葉、「思いが残る」というこの一言にインスパイアされたのではないだろうか? 「思い出が残る」ならば解るが「思いが残る」とはどういう意味だろう?そして織田作之助にとって残る「思い」とは一体何なんだろうか?そこからこの物語が紡ぎだされたのではないだろうか? しかしこの言葉に対する瀬名氏の思いが強すぎて、いささかくどいところがある。理系作家とされる瀬名氏だが、その作風はドライではなく非常に熱い。 たださすが博識の作家瀬名氏、未知の知識を今回も与えてくれた。カール・ツァイスⅣ型プラネタリウム投影機に関する詳細な内容はもとより、ムーンボウという月の明りで出来る夜の虹なども教えてくれた。 また戦中の東京についても精緻に描かれており、書下ろし中編といえども手を抜かない創作姿勢が嬉しい。 しかしなんとも云えない読後感が残る小説である。具体的に云えないが、なんだかこそばゆい限りだ。 作者として思い入れを強く入れすぎ、読んでいるこちらが気恥ずかしさを感じるところがある。それとも少年の心とか夢とか清い愛とかに私が恥ずかしさを感じるように変わったのか。まあ、ちょっとしばらく考えてみよう。 |
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フリーマントルが自身のノンフィクションルポルタージュ作品『ユーロマフィア』で述べていた、複数の国に君臨するそれぞれのマフィアによる犯罪ネットワークの構築、これが本書の主題である。一応本書では今回がまだその計画の端緒に過ぎないことが謳われている。
それはそうだろう。なぜなら私にはどうしても納得できない事があったからだ。 それはアジアと中南米の市場に関して何ら触れられていないからだ。 中国マフィアがアジアに、そしてアメリカに及ぼす影響力は無視できる物ではなく、特にアジアでの勢力は強大である。しかも人口が膨大であるから、莫大な利益を上げるには無視できないマーケットである。 また中南米も縦横無尽に張り巡らされた麻薬カルテルが多数存在し、定量的な麻薬の確保にこの地方のマフィアと協定を結ぶのは必要不可欠だろう。そこの詰めの甘さを上述のように、本作では取っ掛かりに過ぎないという表現で上手く逃げているように取れる。 これは西洋人の作家と日本人作家との違いもあるだろう。やはり西洋人であるフリーマントルはアジア圏内よりも欧米圏に精通しており、マフィアといえばロシア、イタリア、アメリカとすぐに浮かぶのだろう。 これが日本人作家ならば、例えば大沢在昌氏や馳星周氏ならばすぐさま中国系マフィア、韓国系マフィア、台湾系マフィアと近隣アジア諸国の勢力を題材に扱う事が多い。この辺が住む世界での違いだと感じた。 そしてこのマフィアの世界のなんとも恐ろしい事。敵・味方内部では裏切りの連続で腹の探りあいの毎日。そして誰もが一番上の地位を虎視眈々と狙っている。笑顔で右手で握手しながら左手は後ろに隠してナイフを持っている、そんないつも心を許さない日々を送る。今日の信頼が明日まで続くとは限らず、いつ自分も他の仲間と同様に報復の道を辿るかわからない。 かつて『ユーロマフィア』でフリーマントルは「犯罪はペイする」と述べたが、得られる富が莫大なだけにこのリスクと人間不信に満ちた世界から逃れられない輩が常にいるのだろう。私はこんな世界、御免だが。 我々が日々の暮らしの中で常に求めるのは何だろう?それは「安心」ではないだろうか。今の生活を続けられるよう、人は働き、糧を得る。それは「安心」を得るためだ。 しかし彼らマフィアはその「安心」が自らの地位向上、権力の拡大、更なる利益に特化しており、それが更に彼らの「不安」を助長し、どんどん排他的になっていく。「安心」を得るために続けた事が自らの「不安」を掻き立てるのだからなんとも皮肉な稼業である。 シリーズも4作目になって、今まで抜群のコンビネーションで二国間に跨る犯罪を解決してきたダニーロフとカウリーの2人にある変化が訪れる。 まずダニーロフは私怨からくる復讐を抱え、1人の警察官ではなく、己の正義のための死刑執行人として捜査に携わる。そしてこの復讐が本作のもう1つのテーマになっている。 なんと前々作でロシア・マフィアに爆死させられた愛人ラリサの仇が本作で出てくるのである。いつもは沈着冷静に行動するダニーロフが今回は右腕ともいえる部下のパヴィンや相棒のカウリーの忠告も聞かず、傲慢に捜査を進める。そのせいだろうか、ロシア独特の原理主義で巻き起こる上司との軋轢や彼らの“椅子取りゲーム”に翻弄されるダニーロフの微妙な立場に関していつも多く筆を裂かれているのに、本作では全くといっていいほど、ない。 そしてカウリーは、本作ではなんと下巻も100ページ辺りになってようやく自らが捜査に乗り出すのだ。なぜならば今回彼は作戦の統括管理官という立場になり、下院議長の甥である野心家ジェッド・パーカーが彼に代わって現場での指揮を執る事になるからだ。 これはチャーリー・マフィンシリーズでもナターリヤが同様の立場に任命され、作戦の成否の責任を一身に担う、云わばジョーカーを引かされた役を務めていたが、今度はカウリーがその役を負わされることになっている。従ってカウリーは自身の能力から来る失敗ではなく、部下の過信から来る失敗の責任をも負わされるのだ。つまりカウリーは今まで無縁だった中間管理職の危うい立場と長官の政治的駆け引きをも強いられることになっている。 これはチャーリーならばお手の物だが、カウリーは現場主義者なので、今まで上役との駆け引き、長官がホワイトハウスに向けて行う声明などには忖度する必要はなく、己が築き上げた地位を守るために自らの能力に頼み、事件に専心していた。この馴れない業務に対する彼の苦渋が今回はほとんどを占めているのが特徴的だろう。 従って彼は以前身を滅ぼすことになったアルコールに手を出す事になる。それの歯止めとして前回パートナーとなったパメラが生きてくるのだ。 彼の心の支えとなるのがパメラの役割だが、カウリーはまだパメラに全てを委ねてはいない。本当に愛しているのか、それとも単なる恋愛に終わるのか、まだはっきりしない。この2人の関係は今後も引き続き書かれることだろう。 そして今回の敵役のオルロフを忘れてはいけない。 ロシアの一介のマフィアから№1マフィアを葬る事でのし上がってきた男。しかし彼はコンプレックスの塊で誰も信用しない。自分がそうであったように、彼の取巻きが自分の地位を狙って、いつ寝首を掻かれるか、恐れている反面、拷問で人が苦しむ姿を見ることにエクスタシーを感じる男である。そしてそれが用心深さを生み、不安要素となる人間を容赦なく排除する。そして自分の犯罪ネットワークの構築にも周到な注意を払い、常にロシア民警、FBI、さらにドイツ警察の先回りをし、裏を欠き、更には爆弾を仕掛けて爆死させるという残忍さを披露する。 さて複数の国に跨る国際犯罪に対して関係諸国の諜報機関、警察機構が協力して合同特別捜査班を組むという趣向はこれまでチャーリー・マフィンシリーズでは何度も取り上げられたが、そのシリーズがイギリスの諜報機関に属するチャーリー側から描かれているのに対し、本作ではカウリーが属している関係上、FBI側から描かれているが、どちらもFBIが捜査の主導権を握りたがるというのは変っていないところが面白いではないか。 これは英国人フリーマントルの偏見なのか、それともやはり一般的なイメージどおり、アメリカとは常に世界のリーダーシップを取りたがる事に関する証左なのか解らないが。 しかしこれほど国際的な犯罪を扱ったシリーズ作品を手がけているのに、フリーマントルは自らの作品世界をリンクさせない。つまりチャーリー・マフィンシリーズにはカウリーやダニーロフは出ないし、逆もまた然り。 マイケル・コナリーやエルモア・レナードは積極的に行っているのに、なぜだろう?私はチャーリーとカウリー、ダニーロフ、更にはユーロポールのプロファイラーであるクローディーン・カーターが一同に会して捜査を行う小説を読みたいと思うのだが。 もしそれが実現すれば一個人読者としてはかなり胸踊る作品である。今年で御齢82歳のフリーマントルが存命中にどうかこの願いを叶えてくれる事を密かに願っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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京極夏彦氏鮮烈のデビュー作。綾辻以降の新本格から第2ステージに移行した本格ミステリシーンの時代の転換期の象徴とも云える妖怪シリーズ第1作だ。
とは云え、一読、実に真っ当な本格ミステリというのが率直な感想だ。 元々ミステリとは始祖ポーが、明らかに怪物の仕業である、または説明のつかない怪奇現象の類いであると思われた事象を実に明解な論理で解き明かすことを主眼にした文学形態である。つまり人々が恐れていた謎という闇の部分に論理という光を当て、人智の物とする行為。 この京極堂こと中禅寺秋彦の「憑物落とし」は正にこの行為そのものである。だからこの妖怪シリーズは妖怪というモチーフと物珍しさ、憑物落としという興趣くすぐる演出で新たな本格という風な捉えられ方をしたが、実は黄金期ミステリ時代への原点回帰的作品なのだ。 この現代社会にそぐわない憑物落としを違和感なく作品世界に落としこむために設定した舞台が昭和二十七年という時代設定である。戦後からようやく復興の兆しが見えてきたこの時代、闇夜はまだ怪異の居場所だった。そんな異界と斯界がまだ密接に隣り合っていると信じられていたこの時期こそ自身の作品を成り立たせるのがこの時代であったと後日作者自身が述べている。 そしてそれが時折挟まれる幻想味溢れる眩暈めいた文体も相まって、独特の作品世界を構築する。理詰めで構築される博覧強記の京極堂の薀蓄語りとどこか情緒不安定な“信頼できない”語り手である関口の妄想めいた語り口が程なくブレンドされており、デビュー作とは思えない独自の作品世界と文体を既に確立しているのが素晴らしい。 またこのシリーズがなぜ斯くも人気があるのかがこの1作で解る。 非常にキャラクターが立っているのだ。 古本屋京極堂を営む陰陽師安倍晴明の流れを汲む元神主で憑物落としを副業とする中禅寺秋彦。 三文作家でワトソン役を務める俗っぽい語り手である関口巽。 出版社に勤める活動的な女性で京極堂の妹敦子。 そして眉目秀麗、何をやらせても非凡な才能を持ち、更に人の記憶が見えるという特殊能力を持った薔薇十字探偵社を営む榎木津礼二郎。 関口と榎木津の戦友であり警視庁の刑事である木場修太郎。 第1作から斯くも個性的なキャラクターが総出演し、それを自在に物語に配置し、躍動させる京極氏の筆の冴え。 そして全編に繰り広げられる薀蓄、これまた薀蓄の波。 民俗学から端を発す妖怪、幽霊の存在についての考察から宗教論に錬金術、はたまた大脳生理学から量子力学まで、その内容は幅広く、しかも詳細だ。しかもこれらは単なるガジェットではなく最後の憑物落としに実に有機的に結実するのだから読み落としてはいけない。 なおこれも翻って考えれば、黄金期ミステリを代表するヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスに由来している事が解る。先にも述べたがこのシリーズは実に本格ミステリの王道に忠実なのだ。 そしてこれら博学な知識を動員して説かれる論理はなかなか心地よい物がある。幽霊を視認する事と脳の作用に関する考察、歴史上の人物と御伽噺の登場人物の存在として等価性とそれに対する現実と想像との判断基準に関する考察、知性や道徳性が生物の種の保存という本能に及ぼす歪んだ価値観、などなど興味は尽きない。 その中でも特に他人の記憶が視覚化するという榎木津の特殊能力に対する京極堂の論理的推論は非常に面白い物があった。 その榎木津もエキセントリックな風貌も相まって御手洗潔が初登場した時を思い出させる印象的なキャラクターだ。個人的には一番好きなキャラクターである。 そして話が進むにつれて、噂の久遠寺医院は伏魔殿の如き様相を呈してくる。 蛙のような赤ん坊、産まれてまもなくいなくなる嬰児、これら奇妙な噂と謎が実に間然なくロジックで解き明かされる心地よさ。 しかしその真相は実に複層する狂気が折り重なった戦慄の真相。 惑う人ほど弱く、そして自らの視野を狭め、最悪の選択をする。 このあまりに非人道的な行為が今回の失踪事件に繋がるロジックの妙はおぞましさはもとより耽美な美しささえ感じるほどだった。 この業が“姑獲鳥”なる妖怪を生み出してしまったのだ。 とまあ、実に私の好みと合った作品で、ここまで激賞の連続だが、メインの謎に関する真相はいささか期待はずれという感がないわけではない。 二十ヶ月間も妊娠している妊婦、密室から失踪した夫の行方と非常に不可解かつ魅力的な謎を提示しているが、その真相との落差が激しかった。 今まで述べたように、この妖怪シリーズは決して斬新な本格ミステリではなく、むしろ過去のあらゆる分野からモチーフを取り出し、それを咀嚼した上で完成した物語という一枚の絵であることは識者であれば一目瞭然だろう。 しかしそれは全くこの作品を貶める物ではない。逆に温故知新の素晴らしき実践例だと私は褒めたい。 本格ミステリに必須ともいえる謎という暗闇に日本古来より伝わる妖怪という怪異を施したこのシリーズと作者の着想。更には知識欲の充足をも与えてくれる博学な作者のデビュー作とは思えぬ練達の筆捌き。 次作を早く読みたい気分で今は胸がいっぱいだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本では邦題が示すように国名シリーズに数えられているが、原題は“The Door Between”と全く別。本国アメリカでも国名シリーズからは外されている、なんとも微妙な立ち位置にある本書。
因みに国名シリーズに数えるならば10作目と非常に据わりがいいため、これが故に日本ではシリーズの1作として考えられている節もある。しかし、私見を云わせていただければ、やはりこれは国名シリーズではなく、『中途の家』同様、第2期クイーンへの橋渡し的作品だと考える。 まず単純な理由を云えば、国名シリーズの専売特許とも云うべき「読者への挑戦状」がないからだ。しかしこれはほんの小さな違いといえよう。読み終わった今、この事件を読者が当てることはまず不可能だろうし、もし挑戦状が挿入されていたとしたら、アンフェアの謗りを受けることも考えられるからだ。 私が感じた大きな特徴は次である。 国名シリーズならびに悲劇四部作といったそれまでの長短編は発生した殺人事件に関わる複数の容疑者の中から犯人を搾り出す構成であったのに対し、『中途の家』と本作では事件の容疑者は1人に絞られ、その人物の冤罪を晴らすという構成に変わっている。これは『スペイン岬の秘密』で最後にエラリーが吐露した、自身が興味本位で行った犯人捜しが果たして傲慢さの現われではなかったか、知られない方がいい真実というのもあるのではないかという疑問に対する当時作者クイーンが考えた1つの解答であるのではないか。即ち部外者が犯行現場に乗り込んで事件の真実を探ること、犯人を捜し出すことの正当性を無実の罪に問われている人物への救済へ、この時期クイーンは見出したのではないだろうか。それは最後、真犯人に対してエラリーが行った行為に象徴されているように思う。 そしてもう1つ、敢えて『中途の家』との類似点を挙げると、それは恋愛の要素が物語に織り込まれていることだ。 しかしなんともぎこちない登場人物のやり取りは三文芝居を見せられているようで、上っ面を撫でただけのような感じがするのは否めない。ちょっと背伸びしているような気がする。 本書では犯罪のプロセスを証拠によって辿るというよりも、犯行に携わった人々の心理を重ね合わせて、状況証拠、物的証拠を繋ぎ合わせ、犯罪を再構築する、プロファイリングのような推理方法になっているのが興味深い。そしてその手法は事件が解かれた後にエラリーと真犯人の間で繰り広げられる第2の真相において顕著に見られる。 これは先に述べた物語に恋愛感情を絡めた事に代表されるように、作者クイーンは人間の心理への謎へウェイトを置くようになったのではないかと思う。 特に被害者カーレンの死の真相は、非常に観念的な要素を秘めているのがその最たる特徴だ。 そして文中の脚注でも述べられているが、そのカーレン・リースには実在のモデルがいるとのこと。そのモデルとなった女性エミリー・ディキンソンも女流詩人という文学者で厳格な父親の影響ゆえに、父の死後、自宅から一歩も外出することなく一生を過ごしたのだという。こういう奇異な生活をした人の心理こそエラリーは興味深い謎と思ったのではないだろうか。 これら第3者による事件の真相解明の意義、人間心理への興味については今後の作品を読むことでまた考察していきたい。 しかし10作以上も出しながら未だにクイーンの作品で描かれる警察の捜査には不可解なところがある。 流石にエラリーが殺人現場の持ち物を無造作に手袋もせずに触れる際に「指紋はすべて調べてある」というフォローが入るようにはなったが(それでも現場保存という観点からこの行為は問題ありだが)、今回はエラリーが屑箱からカーレンが死に至った凶器となる鋏の片割れが見つかり、しかもそれをクイーン警視が凶器と認識している箇所があるが、これはどう考えてもおかしいだろう。事件の凶器と見なされる物は重要証拠であり、これらは全て警察によって回収し、保存されなければならない。しかも拭われたとは云え、被害者の血液も付いており、ましてや冤罪に問われようとしているエヴァの指紋さえ付いている可能性もあるのだ。それを凶器と知りつつ、現場に放置しているとは全く別の世界の話だとしか思えない。 クイーン作品の、このような警察捜査に関する無頓着さが未だに解せない。 本書は前述したように「読者への挑戦状」は挿入されていないものの、一応読者が推理できるような作りにはなっている。いつもならば私は一応の犯人と犯行方法を推理するのだが、本書ではしなかった。 というのもある新本格作家の作品を読んだがために、真相を知っていたからである。 本書未読の方のためにその名を挙げておくとそれは麻耶雄嵩氏の『翼ある闇』である。私と同じ不幸に見舞われないための一助になれば幸いである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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